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べに藤のわか菜
「ひぃとめ ふぅため みやこし よめごぉ」
口から唄を飛び出させたその息は、同時に薄桃の花弁をくるりと舞わせた。
ぽん、ぽんと控えめながらに弾む其れは、陽光によって様々の色を柔らかく反射させる。
「いつやの むぅさし ななやの やぁつし ここのや──」
手の内へ納まった一瞬を逃さずに、指先で確りと宙へ放った。
其の反動で、ひらりと視界の端を薄紫の衣が舞う。
「──とおや!」
光を遮った鞠が丸い影を作りつつ膝上へ落ちてくる。
私はそれを受け止めると、鞠の表面をするりと撫でた。
指先を糸のすべらかな感触が包む。
私の小さな両手では、未だ此の鞠はやっと掌に納まる宝物と同じだ。
「かーおるこ!」
あ、あの子がやってきたのだな。
其の、私よりももっと幼い声を聞くと、とくりとくりと胸が暖かくなってくる。
まるで今の麗らかなお天気のようだ。
「晶子」
ちょっとばかり後ろを見ると、おかっぱに黒髪を切り揃えた童女が立っていた。
開け放っていた襖絵の奥から顔を覗かせている。
ちょいちょいと私の座る縁側へ手招きをすると、畳を打つ控えめな音と共に走り寄って来た。
「おや、あんた鞠遊びしてるのかい?」
「ふふ、綺麗でしょ?」
「いいなぁ、妾もやりたい」
小さく唇を尖らせながら晶子が言う。
和菓子屋の手伝いをしている彼女は、私の家の茶室に和菓子を納めた後の少しの間しか私と遊べない。
小学校へ行って、帰ったら家の手伝い。
たまの日曜日のお昼前のひと時が、私と晶子の遊び時だった。
鞠を顔の方に寄せて、其れに描かれた白い藤を眺める。
「あなたが鞠遊びをしてたら、鞠に甘い匂いが移りそうね」
私のからは抹茶のすっきりとした香りが漂ってくる。
けれど、晶子が持っていたら甘くて優しい香りを纏っていそうだ。
小豆、蒸した米、香ばしい小麦の生地、そして少しの土と墨。
そんな香りがするだろう、と一人思う。
「えぇ、なんだい其れ。褒めてるのかい?」
「んー、事実?」
「えぇー?」
眉を真ん中にぎゅうっと寄せながら晶子がけたけたと笑った。
小さな目白のような、可愛らしい笑みを見ながら私は言った。
「ねえ、学校って楽しい?」
晶子はそう尋ねられると、暫くきょとんとしていたが、やがてうーんと唸って答えた。
「最近は竹槍だとかそんな変なことばっかりさ。妾ゃ図画だとか、生物とかをしたいけどねェ」
私は他の人よりも少しだけ体に問題があるそうなのだ。
お父様からは詳しく教えられたことは無いけれど、世話をする人が時たま変えられていくから何かしらあるのだろう、と察している。
けれども矢張り知らない世界というのは興味深いものだ。
確かに、晶子には竹で出来た武器よりも、鉛筆を握って帳面に向かっている方が似合って見える。若しくは干菓子を包む色紙の向こう。或いは今川焼きを乗せた鉄板の前。
「ね、ね、新しい本はないかい?」
「えぇーそうねぇー。……じゃーん。お父様に頂いたわ」
「おぉー!」
ふふん、と帯留のひかる胸を張って、腰元に置いていた紙束を取り出す。
それは沢山の紙を糸で綴じただけの粗雑な本だったが、黒々とした墨で五色の物語が綴られていた。
お父様からのものだ。
様々なことに精通しているお父様は、如何やら今度は仏語の本を翻訳したのだと言う。
知らない人には見せちゃ駄目だと言われたけれど、晶子には良いと許可を貰った。
晶子が紫水晶の瞳をキラキラとさせながら頁をめくる。
桜色の爪がなぞった部分から、その黒い曲線は生き生きと動き出しているように見えてくるものだから、不思議だ。
其の爪先の魔法に見惚れて暫くした時、晶子の眉が怪訝そうに顰められていることに気づいた。
「晶子? どうしたの?」
「いやァ……この蝶、酷くないかい」
「あら、そう?」
ほら、と開かれた問題の頁を覗き見る。
この物語は蝶と花の小さな恋の物語だ。
移り気に色々な花に止まりつつも、一輪の花を最も愛し、自分のみ留まりたいと願う蝶の姿は、文句を言いつつも一途に想い続ける花に比べて我儘に見えるかもしれない、確かに。
晶子が中でも引っかかったのは、或る蝶の台詞のようだった。
『『君は足が欲しい翅が欲しいと云ふけれど、君にはゆらめく花弁と、皆をまどはす香がある。』蝶は角を垂らしながらぱたりと鱗粉を散らせた。』
「自己中心にも程があるくないかい?」
「ううーん……」
同意を求めるように傾げられた小首を前に、私は唸った。
移り気な蝶の姿こそ魅力だと思うのだけれど。
私が返しに困っていることを察したのか、晶子はふいっと本に目線を戻した。
一房降りてきた横髪を耳に掛けながら、甘い右手が頁を摘む。
「……でもこんなんじゃア、花が可哀想だろ」
不注意で溢れてしまったような言葉が耳に届いた。
其の小さな声に、胸がきゅうんと暖かくなる。
「もうっ晶子は優しいなぁ!」
「おわっ!? 一寸、何なンだい?」
思わず其のおかっぱをわしゃわしゃと撫で回す。
だって私の友達がこんなに可愛くて優しいのだから仕方あるまい。
全く、と顰められた歳上の私よりも大人びた紫水晶に笑いかける。
桜のタフタがひとひら、ひらりと舞い込んで、縁側に薄い影を造った。
白藤の鞠に描かれた紅藤の蝶が、翅をはたはたと揺らめかせたように見えた。
---
ワァシツクツク、ワァシツクツク、シーゥ……
茜の更紗が少しずつ藍色に染め直されていく下で、置いていかれまいと法師蝉が声を張り上げていた。
蒸し暑くまとわりつく空気を吹き飛ばすように、縁側から吹き込んだ風が頬を撫でる。
少しずつ燻銀が施され始めた空から、手元の書物へ目を移した。
戸棚の奥から、懐かしい童話を見つけたのだ。
懐かしい、といってもたったの一年程前なのだが。
父が仏語から翻訳したのだと云う話は、今読み返すと中々大人な恋物語だった。
あの頃読んだ時には、只管、蝶が花に対して理不尽なように思えたものだが、其れこそが蝶の甘えで愛情表現なのだろう。
何とも複雑でビターな話だ。
此れを弱冠十二歳の少女に与えるとは、先を見過ぎではないだろうか。
そんなことを考えつつ、ぱたりと本を閉じる。
表紙に切り貼りされた勿忘草の蝶を見て、花が可哀想だと言った晶子を思い出した。
彼の子にはもう当分会っていない。
如何してかは知らないが、いつからか練り切りを手にやってくるのは彼女の母や店員の誰かに変わっていた。
畳の二人分の軋みに、湯気の立つ二つの湯呑み。
もう暫く感じていない。
(元気かなぁ)
小学校の話を聞いたのも、共にこの本を開いたのも。
もうずっと昔の出来事のように感じる。
近頃の空気は重く生微温い。
何かが闇の中からにじり寄ってくるのを、なけなしの勇気で待ち構えているような。
そんな、後味が口の中で粘つく風を、私でさえもが感じ取っていた。
茶を習いにくる馴染みの小母様から。父の日に日に深く刻まれる眉間の皺から。
人間離れした能力、異能力とやら云うものを政府が研究しているとか云う噂まで実しやかに語られている。世も末だ。
そう父に溢してみたら、優しく、けれど有無を言わせない声で、そんな事は滅多に云う事ではないと嗜められたっけ。
(あの時のお父様は怖かったなぁ)
そう思いながら童話を棚に戻し、代わりに日本史の書を手に取った時だった。
金属が擦れるようにざわざわとする喧騒が耳に届いた。
其の喧騒は少しずつ大きくなっている。
(如何したのかしら)
其の声に少し肌寒くなって縁側の障子を閉める。
そっと廊下への襖を開けて一歩踏み出すと、板張りの床がぎしりと音を立てた。
「お父様……」
何かあったのですか、と尋ねようと書斎を覗くが、静まり返った其の部屋は答えを返さなかった。
仄かに皮膚を風が掠める。
其の出所を探して玄関に目を向けると、急いで外へ出たかのように外履きが乱れ、玄関戸が僅かな隙間を開けていることに気づいた。
風と喧騒に誘われるように、靴を履いて隙間に手をかける。
其の指に力を込めなければ良かったのだ。
喧騒に恐れをなして、引き返せば良かったのだ。
けれども現実に起こったのは幻想の悉く逆のことだった。
紺色に塗り潰された視界に、薄らと飛び込んできたのは、まるで獣の様に人影に掴み掛かる誰かと、獣を止めようと今にも引きちぎれそうな鎖と化した近所の人達。
唯見つめている父。
そして、今にも掴み掛かられんとする人影。
私は、世闇に目が慣れてくる内に、獣が茶室によく訪れる小母様であることに。
人影の正体は晶子のお母上であることに気がついた。
「与謝野夫じ……」
ぽつりと漏れた独り言は獣の発する慨嘆の声に掻き消された。獣は鎖をも引きちぎり、与謝野夫人の肩を掴む。
獣の眼には黒い焔が宿り、そして涙とも涎とも似つかぬ液体に濡れた顔をこれ以上無いほどに歪めて叫んでいた。
「彼奴が! 私の息子を殺したの!! 返してよ!」
「遠藤さん、もう……」
獣は制止を耳に入れない。
小母様のご子息は確か、出征中だった筈だ、と朧げに思い出す。
「彼奴を呼び戻しなさいよ、治させなさいよ!! 戦地と同じ様に!」
「……」
与謝野夫人は何も言い返さない。
彼奴とは誰だろうか。
回らない頭の中、信じたくない紫水晶の陰から目を背けて思った。
「あの“異能”とか云う人殺しの凶器で!! 彼奴が悪い!! 彼奴が!!
与謝野晶子が!!!」
いやに其の声がよく響いた。
生微温い風がねっとりと頬を撫で、二日月の光さえもが薄雲の帳へ引っ込んだ。
摺鉢で殴られたようにぼうっとする頭の片隅で、声が響くのは法師蝉が寝静まったからだと、誰かが言った。
---
「香子」
闇の中から声がした。
真逆、有り得ない。
私の他には此の鳥籠に誰も居ない筈なのだから。
「かーおーりーこっ」
けれども尚耳に響く女の声に、私は重い瞼を無理矢理開けた。
目に飛び込んできたのは、冷たい石の天井と壁、そして一人の長い黒髪の女の顔だった。
「……は」
ぽかん、と開けた口から空気の塊がこぼれ落ちる。不可抗力だ。
何しろ、其の女は薄らと透けていて、そして其の顔は私だったのだから。
沈黙の降りる部屋の小さな窓の外、どこか遠くで鴉の夜を破るひと鳴きが聞こえた。
私はゆっくりと冷たい敷布から体を起こしてもう一度見つめ直した。
ひりついた喉の奥から声を引き摺り出す。
「……あなたは?」
「あら、貴方が吾を造ったのでしょう?」
「……?」
はて、私には双子なぞ居たろうか。
否、居ない筈だ。
私は頭の中でそう結論づける。
わかりきったことを考える程度には、私も動揺しているのだろう。
此の女は如何やって此処にやって来たのだろう。
此の屋敷は無駄に警備が硬く、中でも此の一部屋は厳重だと言うのに。
抑も作り出した、と云うのは如何云う意味だろうか、と考えている私を見かねてか、女は視線を彷徨わせながら口を開いた。
「思い出せませんか? 彼れは、そう、貴方が最後に“異能力”を──」
だが、其の口からの言葉は紡ぐ途中でふっと雲散した。
他でも無い私が、自らの耳を塞いだ為だ。
見開いた視界の中で、擦り切れた藤納戸が宙を頼りなく振れた。
「其れ以上言うなら、私は今あなたを消す」
嗚呼、思い出した。
私の袖から茶の香りが無くなって久しいことと同じように、今は単純明快な事と解る。
数日前、私が最後に忌々しい“あの力”を使った時だった。
無様に肥えた厭らしい彼奴に言われるが儘、私は闇に紛れて|右手《めて》を人影に触れさした。
触れて念じた瞬間、ぼんやりと緑青に光った手も、暫くしてふつりと糸が切れるように倒れた人影も、全て思い出せる。
私は鳥籠の中の伝書鳩と同じだ。
唯々目的の為に育てられた獄中の生物。
拒否すれば生きられない。逃げても生きられない。
餌を得るには、私は標的へ飛び立たなければならないのだ。
けれどもあの日、敷布の上に沈み込むようにして眠りに入った標的を見て、背筋が粟立ったのだ。
此の姿は私にとっての恐怖。
では此れを行ったのは?
私だ──と。
私が此の人から、彼の人達から、輝きを奪い唯の磨り硝子にしている悪なのだと、頭を殴られたように強烈に感じたのだ。
そうして私は屹度、其れから逃れるために。
この鎖から、少しでも滑り出るために。
足指が不意に冷たく、じんとなった。
「私はあなた。あなたはもう一人の私。そう言う事でしょう?」
「……ええ、そうですね」
窓外の紅葉が揺れた。もう何度も見た光景だ。
いつから此処に居るのか、指折り数えるのも止めて久しい。
けれども初めて、微風による僅かな震えは、私の心臓にまで伝染して行った。
外ばかりが風に揺れ薫っていた中で、久しぶりに刻まれた振動は確かなものだった。
暖かさを伝えたそれを感じつつ、それに押し出されるように私の口からは言葉が飛び出ていた。
「……もう一人の私なら、夢を見られるの?」
「夢?」
「夢を人に叶えさせて“人”を奪う私に、“夢”を与えられるの?」
本当に小さな、囁きのような独り言。
あの日、私の日々は天と地が入れ替わった。
茶室から茶を立てる音と湯気は出なくなり、家は──否、あの通りは少しずつ寂れて、幽霊のように幽かなものになっていった。
その毎日の中だった。
私が初めて、あの緑青の輝きを見たのは。
単なる事故。されども其れは事実。
私は何に目を着けられたか解らぬものの、何処とも知らぬ者の鳥籠に収まる事となっていた。
そんな。鈴虫の音にも、枯れ芒の戦ぐ音にも劣るような、そんな壁打ちの言葉に彼女は頷いた。
「与えられる」
私は其処で初めて、彼女の瞳を見つめた。
私と同じような、くすんだ紫色の瞳。
その彼女のくすみが、曇りではなく思慮の色だと私には判った。
「貴方の夢を、“悲喜こもごも”にはしない。必ず」
『異能力 ゆかしき悲喜こもごも』
私のおぞおましい異能力の通りにはさせないと。その|薫衣草翡翠《ラベンダーヒスイ》は言った。
その、薫衣草翡翠の輝きから、私は目を逸らすことが出来なかった。
光に誘われる白蛾のように。蜜に誘引される黒蝶のように。
彼女は静かに柔らかく、唇を弓形にさせて開いた。
「吾に名前をつけてくれませんか?」
「名前……」
そのたった三文字の震えは、その矮小さとは裏腹に大きな意味を持つものだった。
もう一人の私の名前。
成ることの出来ない私の名前。
ふっと、頭の中に閃くものがあった。
もう遠い過去の記憶。
白、薄桃、薄紫、水晶──
柔らかい慈愛の陽光に満ちていたあの日々を閉じ込めて、もう一度見れるならば。
「蝶壺」
「……」
「蝶壺と。私は名乗りたい」
私が静かにそう言うと、蝶壺は尾花の綿が開くように、ふわりと笑った。
「では、改めて。吾は蝶壺。貴方の盾となり、そして夢への翅となりましょう」
女改め蝶壺が三つ指を突いて頭を下げた。
薄らと忍び擽る甘い藤の香りに、私は素知らぬふりをした。
窓の外から、金色の光の矢が差し込んで来ていた。
その金色が、蜘蛛の糸となるか、使徒の梯子となるかは、私にはもう解らなかった。
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はら、はら、キュッ、キュッ
寒さに悴んだ私の耳に、自らの雪を踏み締める音が届く。
傘を持った手は赤く染まり、手袋をしてくれば良かったと今更ながら後悔する。
吐いた息は今降る雪に劣らぬほど真っ白だった。
白絹に足跡を残しながら、ひとつの石の前に傘を傾ける。
石上にもかかった綿帽子を払うと、わずかに苔むした灰色の地が顔を出した。
刻まれた家の名前を見、備えられたものたちを見る。
見覚えのある湯呑みや蝋燭、花瓶。
その中で異質に映る小箱を私は手に取った。
震える指に叱咤をして開くと、其処には一つの春がいた。
白藤、紅藤の蝶──懐かしい陽だまりの結晶が、冷たい指を解かしていく。
其の熱は、指を伝い肩を伝い、胸の深奥へと渦巻いた。
もう、蝶を閉じ込めるものはいなくなってしまった。
けれども、もう必要は無い。
私はもうみ籠に閉じ込められたものではなく、そして未だ生きている。
屹度、この中で既に眠っているだろう父へ、一瞬の祈りを手向ける。
傾けた傘を私の上へ戻し、足跡の残った絹の道を戻る。
綿帽子の被った、深緑の松を見て、溢れでるように口が紡いだ。
「雪積もる 年にそへても 頼むかな」
冬に蝶は居ない。花は居ない。
「君を白木の 松にそへつつ」
どうか、また。
今度は事件の中ではなく、貴方と逢えるだろうか。
「……香子?」
不意に聞こえた、季節外れの目白の囀りに、私は振り返る。
先程まで居た石の向こうに、紫水晶煌めく蝶が留まっていた。
ふわりと、其処だけ陽光が芽吹いたように感じる。
私は凍って固まっていた喉から、その名前をふるわした。
「晶子!」
銀世界の中、逸れもの同士の蝶と花の逢瀬の周りで、ちらちらと白銀が舞っていた。
了
眠り姫です!
Xの喜劇をそっちのけで、スピンオフを書き上げました!
だって書きたかったんだもん。
香子と晶子の物語はどうでしたか?
事件最中は省いたので書いていませんが、結構長くなりました。
では、此処まで読んでくれた貴方に、心からの感謝と祝福の春を!