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嵐のち平熱
体温計が鳴るのを私は待っていた。
座り込んでいた。差し込む日光に背を向けて、座り込んで、ぼうっとその時を待っていた。
昨日のうちに冬休みの数学の課題も終わらせてしまった。朝ごはんはまだ用意されていないらしい。スマートフォンだって、今は一階にある。本当に、やることは一つだけ。体温計の冷たい金属が体温に馴染んできた頃、ようやく軽やかな電子音が苦痛な待ち時間に終止符を打つ。
脇から体温計を引っ張り出して、数字を確かめてみる。思考回路はクリアなのに、3つの数字は左から3、7、5。37.5。「熱がある」に、ギリギリカウントされそうな数値だった。気持ちは平熱なのに、不思議だ。かつ、不愉快なことでもあった。
もう一度、それが何かのエラーであることを願いつつ、すっかりぬるくなった金属部分を挟む。待つ。しばらくして、待ち時間が無駄だったことを知る。
間違いない。熱がまだあった。
抗議、という意味を持たせて、ぼすっと音を立ててベッドに倒れ込む。先ほどまで感じていた柔らかな感触が背中を包み込む。
これじゃあ、スケートには行けそうにない。
当初の予定では、本当なら、風邪を引かなかったのなら。今日、友人たちとスケートに行く予定だったのだ。どうせなら冬休みに何かしよう!と提案して友人が乗ってくれたのはいいものの、当の企画者本人がどこで貰ってきたのかも分からない風邪でダウンだ。そのまま、スケートに行くのだろう。私を除いた面子で。
「朝ごはん、出来たわよ」
自室の外から、声がかけられる。扉の向こう側で、トレイを置く硬い音が鳴る。
「ちなみにこれからお母さんたち、出かけるからね。昼ごはんも買っておいたから、適当に食べてて」
「どこ行くの?」
「遊園地行って、グッズ買ってもらう!」
向こう側に妹がいることにも気づかなかったし、初耳だった。私がスケートに行く間に、家族は家族で遊びに行く予定を立てていたのだろう。
「そっか。とりあえず、私のスマートフォン持ってきて欲しいんだけど」
不機嫌を表に出さないよう努力はしたが、どうしてもトーンが低くなってしまう。
「何よ、一日中家にいるからってスマホばっかりするつもり?代わりに国語と理科の課題持ってきたからね」
「そういうことじゃなくて」
「今日中に全部やっておいた方が楽よ、絶対に!」
「ちょっと待って!」
続きは2人が階段を降りる音にかき消された。私も2人を追いかけて居間に乱入することもできない。
そっとドアノブに手をかけて外を覗く。物は言いよう、朝食と称されたそれはただのトーストだった。塩すら振られていない。傍らには水筒と、恐らくは昼に食べるサンドイッチ。コンビニで買ったようで、半額値引シールが貼られたままだった。食べるものではないが、国語と理科の課題。
味気ないし、適当に用意されたことが丸わかりだ。だからといってこれ以外の食事が出てくるわけでもないので、大人しく頬張ることにする。
トースト一枚にいつもの2倍の時間をかけて、ようやく食べ終わる。のろのろと立ち上がって、部屋の外にある洗面台までやってきて、歯ブラシを乱暴に掴む。その勢いで、置いてあったコップが大きな音を立てて床に落ちた。コップに汲まれた水が、こぼれたのも同時だった。
きゃっきゃと無邪気にはしゃぐ声が聞こえてきて、余計に苛立つ。私だって、今頃は遊びに行けていたはずなのに。タオルを持ってきてせっせと床を拭く。気分はシンデレラだ。変身する前の。
床をようやく拭き終わって、外からエンジン音が聞こえてきた。呆気なく、遠ざかっていった。
風船に針が突き立てられるように、歯磨きをしようという意思に急速に穴が開いてしぼんでいく。それを感じた私は、歯ブラシとコップを元の位置に置いて、部屋に戻った。
戻ったとて、何もすることはない。
あるにはある。ちょこんと置かれてあった冬休みの課題。やろう、と決意してノートを部屋に引きずり込んだはいいものの。シャーペンを持つ手は全く動く気がしないし、体の熱が頭にも回ってきたのか、今まで平熱だと錯覚していた意識にフィルターがかかる。
そうだ、スマートフォン。こっそりと居間から持ってきたとしても気づかれないだろう。家族が帰ってくる前に元の位置に戻せばいいのだ。
誰もいないと分かっているが、物音を立てないように動いてしまう体。居間にたどり着いて、スマートフォンがいつも置かれている場所に手を伸ばす。
何もない。何も、ない?そこには空気しかない。もしかしたら、別の場所に隠されているのかもしれない。藁にもすがるような思いで他を当たってみるも、私を嘲笑うかのように、ことごとく駄目だった。
成果も何もなく、すごすごと階段を登る。
誰もいない。何も手にはない。娯楽もない。ただ、体に熱が溜まっているだけ。
「ふざけるな」
体に熱が、現在進行形で溜まっていくだけだ。
「ふざけるな!」
溜まっていくだけだったはずのものが噴き出した。声のボリュームを最大にして、咳が出る喉を酷使して、片手に枕を携えて。ベッドを、机を、床を、壁を、着替えを、時計を、国語と理科の課題を、今まで誰にも話していなかったモヤモヤを、数十分前にあった嫌なことを思い切り殴りつけた。嵐が通ったかのように、物が乱れて、秩序がなくなる様を見つめていれば、少しずつ嵐が収まっていくような気がした。
部屋から飛び出して、目に映った全てのものをひっくり返す。蹴る。狂ったように大声をあげる。そのくせして家族が戻ってくるかもしれない不安で、一階には降りられなかった。戻ってくるわけないと分かってはいた。
ひとしきり物の配置をぐちゃぐちゃにしてから帰還する。マットレスに飛び込む。
嵐の後は大雨、だった。
突然、どこからともなく湧き出してくるものに、どう対応すればいいのか分からなかった。
今更口の中に塩気を入れようとしたって無駄だ。もうトーストは、胃の中なのだから。それを考えた途端、また怒りとは別種のものが噴き出してくる。
止めることもできず、止めようともせず、しばらくマットレスに寝転がる。寝転がれば、能天気なお天道様の光に照らされて、緩やかに緩やかに、無意識の世界へと誘われる。
そこから、記憶がない。
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何の前触れもなく、目覚めた。
天から降り注ぎ、半開きになった窓を通る光線はほんの少しだけ橙色を帯びている。
床に落としたデジタル時計を拾い上げるまでもなく、夕方なのだと察した。早く物たちを元の位置に戻さなければ。いつ家族が帰ってくるか分からない。
全部、熱のせいに出来るだろうか。
氷のように冷たいフローリングの床に足をつけて、体温計を脇に挟む。また金属部分に体温をなじませる。
様変わりした部屋。ひどい地震、それか強盗にやられたみたいに、秩序のかけらもなく転がっている物体。
不思議と、自分が作り出した負の産物を見ても心は凪いでいた。霞かけていた頭も、朝起きた時よりもすっきり晴れ渡っている。
嵐のち、大雨ののち、快晴。つまりはそういうことなのだろう。
誰もいないうちにストレスを発散するのも、悪くはないか。ただ、こんなに物を散らかすのは良くないけれど。
また体温計が人肌に馴染んでから計測が終わる。
持ち上げて、オレンジ色がかった数字を見つめる。
「今更こうなったって、遅いんだよ」
嵐の後のそれは、少しだけ特別な気がした。
3、6、5。36.5。
「まあ、いいか」
間違いなく、平熱だった。
平熱、ではなく熱のような気もしますが平熱です。たぶん。
久々の短編です。読んでいただきありがとうございました!
追記
愛楽音様主催・平熱【小説コンテスト】で最優秀賞をいただきました。ありがたや!