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『まだ伝えられる』
夜の空気は少し冷えている。
そんな中を、私はゆっくりと歩いていた。
足アスファルトは街灯の光を受けて、淡く光っている。
昔はこのくらいの距離、なんでもなかった。
仕事帰りでも、平気で歩けたものだ。けれど今は違う。
一歩一歩が少しだけ重い。足も、腰も、昔のようには動かない。
「……歳をとったな」
思わず独り言が漏れる。こんな時間に外を歩くのは久しぶりだった。
眠れなかったのだ。家の中は静かすぎる。
テレビをつけても、余計に寂しくなるだけだった。
――妻が亡くなってから、三年になる。
それでもまだ、ふとした瞬間に思い出す。
台所の音や、洗濯物を畳む姿や、何でもない会話。あの人はよく笑う人だった。
「あなた、そんな顔してると損よ? 笑っていたほうが素敵だわ。」
そう言って、彼女はよく私の顔をからかったものだ。
元来、私はあまり笑う方ではなかった。
仕事ばかりしていたし、家ではいつも疲れていた。
あの人は、そんな私の代わりに笑ってくれていたのかもしれない。
「……すまんかったな」
ぽつりと呟く。言えなかった言葉がいくつもある。ありがとう、とか。
もっと一緒に出かければよかった、とか。
でも、もう遅い。そのとき、道の端に光が見えた。自動販売機だった。
赤と白のネオンが、夜の中で静かに光っている。
久々の運動で、少し喉が渇いていた。
私はポケットから小銭を取り出す。指先は少し震えていた。
コインを入れる音が、静かな夜に響く。
目についたブラックコーヒーのボタンを押す。
ガコン
硬質な音を立て、それは取り出し口に落ちた。そっと手を入れる。
すると、冷たい缶ではなく、小さな紙が指先に触れた。
「……?」
かさり、と音を立てながら広げてみる。
そこには、一行だけ書かれていた。
『まだ伝えられる』
私はその文字をじっと見つめた。
「……伝えられる?」
誰にだろう。頭の中に、あの人の顔が浮かぶ。
妻の写真は、家の仏壇に置いてある。毎朝、手を合わせている。
でも、言葉はほとんどかけていない。なんとなく、照れくさくて。
「……はは」
思わず笑ってしまう。こんな歳になって、照れるとは。
私は紙をもう一度読む。
『まだ伝えられる』
「そうかもしれんな」
ゆっくりとつぶやく。私は紙を丁寧に折り、ポケットに入れた。
缶コーヒーは結局出てこなかったが、不思議とそれでよかった。
さっきより少しだけ足取りが軽い気がする。
家に帰ったら、仏壇の前に座ろう。そして、ちゃんと話そう。
ありがとうも。今まで言えなかったことも。
夜の道は静かだった。
遠くの街灯が、ぽつぽつと並んでいる。
私はゆっくりと家へ向かって歩いた。
長い人生の中で、言えなかった言葉はたくさんある。
けれど、今からでも遅くないのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
ポケットの中で、紙が小さく触れる。
私はそれを確かめるように、そっと手を当てる。
まるで、誰かに背中を押されているような気がした。