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〖千古不易の千古不変〗
咽び泣く鏡の額縁にそっと手を添えた。何もない。硬い身体で、鏡のように硬い。
ぐにゃりとも言わなかった。
ふと、足踏みが聞こえた。手をどけて振り返るとミチルが貧乏ゆすりをしている。痺れを切らしたように彼は言葉を乱暴に投げた。
「...なぁ、名前ぐらい教えたっていいだろ。ずっとついてきたんだから」 (ミチル)
その言葉に名前を教えていなかったことにはたと気づいた。
「ああ...僕?僕は...桐山。桐山、亮。うん...そうだな、一応刑事だよ」
名前を教えたというのに二人はやけに警戒している。何かを察したのかイトが先に口を開いた。
「えっと...僕は一条イトで、こっちが田村ミチルです...」 (イト)
「そうだね、その通りだ」
「...あの、なんで僕と、ミチル君の名前を知ってるんですか...?」 (イト)
「そりゃ君らが行方不明だからだけど...」
「行方不明?どういうことだよ!」 (ミチル)
黙っていたと思えば声を張り上げて割って入る少年。自分がおかれた境遇も分かっていなかったようだ。...そんなこと、あるだろうか。
この夢のような変な世界も、残業で疲れた自分の夢ではないかと思うほど都合がいい。目の前に探していた行方不明の子供が現れる?馬鹿げてる、そんなことあるはずがない。
仮にこれが夢なら、どうやったら目覚められる?...試しに拳銃で頭でも撃ってみるか。でも、それだと現実だった場合、くだらない考えで死んだことになる。そんなの御免だ。
やっぱり夢に過ぎない。それなのにずっと感じる違和感はなんだ?
「おい!答えろよ!」 (ミチル)
思考が止まる。小学六年生くらいの身長の少年が腰を少し過ぎた辺りで手をめいいっぱい伸ばし、胸ぐらを下に掴んでいる。何とも奇妙な姿だった。
怒った子供を宥めるように言葉を口から絞り出した。
「君らは...その、数ヵ月前から行方不明で......どこを探しても見つからないから、警察にも人探しのお役目が回って...それで、今は君ら以外の行方不明者も探しながらこうしてるわけだけど...ちょっと疲れたな」
「......死ぬのか?」 (ミチル)
歳相応の顔つきで怪訝な顔をしたミチルを見た。イトに限っては不審や警戒よりも不安を感じている。
「別にそういう《《疲れた》》じゃないから、大丈夫だよ。単にただ...奇妙な状況に困惑してる」
赤と白の入り雑じった破れたトランプをひょいと摘まんで、興味ありげにふんふんと鼻を鳴らす白兎が片手に近づいている。その白兎を撫でながら、ふと、あの連続殺人犯も見つかっていないなと本来の業務を思い出した。
それを思い出したところで、この状況から現実の薄暗い資料だらけのオフィスに戻れるわけではないが。
動き続ける思考の中、白兎のように軽い足音が奥から鳴り響いた。
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鏡の女王の城へ向かう道中の迷路のような庭園の中で、
「君ハ〖アリス〗カ?」
「キミは`【アリス】`か?」
まるでコピーしたように体格も、顔も、声も全てが瓜二つの男性が結衣を見つめていた。
一人は結衣の肩を強く掴み、一人はリリの腰を強く掴んでいた。
痩せこけた汚ならしい毛並みの猫が目を細め、二人の男性に向かって、ゴロゴロと喉を鳴らした。
それに合わせたように男性が笑い出し、互いに二人を離した。
結衣は肩に、リリは腰に手形の跡がくっきりと残っていた。
痩せて汚い猫は猫らしく鳴いた直後に伸びをするような低い声が|猫《ダイナ》の口から飛び出た。
「それが、〖アリス〗か`【アリス】`であるかは君達に関係ないだろう?
何せ、君達にできるのはただ待つだけじゃないか。それ以外に何ができる?」
「私ハ案内ガデキル」
「ワタシはアンナイができる」
「嘘をつかないでくれ。大方、あの割れた嘘っぱち鏡の話だろ?
お喋り鏡は口を閉めることを知らないんだよ。君達がそんな狼女王の話に耳を貸すと思わなかった」
「シカシ、君ハ君デ何ガデキル?大キナ身体デ、運ブコトモ、喰ラウコトモ、アマツサエ助ケルコトモデキナイ。
案内。案内シカデキナイデハナイカ?道ヲ指シ示スダケデハ駄目ダ。幼イ子供ハ何ガ正解カ絶対的ニ判断スルコトガデキナイ。シカシ、僕達、相対的ナ双子ハ`【アリス】`ノヨウニ二人デ一人、2ツデ1ツダ。コレホドマデニ、良イ例ハナイダロウ?」
「しかし、キミはキミでナニができる?オオきなカラダで、ハコぶことも、クらうことも、あまつさえタスけることもできない。
アンナイ。アンナイしかできないではないか?ミチをサしシメすだけではダメだ。オサナいコドモはナニがセイカイかゼッタイテキにハンダンすることができない。しかし、ボクタチ、ソウタイテキなフタゴは`【アリス】`のようにフタリでヒトリ、2つで1つだ。これほどまでに、ヨいレイはないだろう?」
高い声と低い声で同じことを繰り返す双子に苛立ったようにダイナが言葉を続けようとして、〖アリス〗に遮られた。
「...あの......双子、なんですか?」 (結衣)
「アア、僕達ハ相対的ナ双子ダ。全テガオナジデナケレバナラナイ。対照的デハナイ。対照的デ相対的ナ双子」
「ああ、ボクタチはソウタイテキなフタゴだ。スベてがおなじでなければならない。タイショウテキではない。タイショウテキでソウタイテキなフタゴ」
「対照的で相対的...?...ええと......少し違って...それが比較......で...?」 (結衣)
「......結局、違うってことですよね?」 (リリ)
「アア、ソノ通リ。誰ダッテ、全ク同ジ人間ハイナイ。皆、ドコカハ必ズ違ウノダヨ。例エ、双子デモ例外ハナイ。ソウダロウ?〖アリス〗
君ハ、イツダッテ片割レガイルガ、共通シテイルトコロ以外ハ違ウジャナイカ」
「ああ、そのトオり。ダレだって、マッタくオナじニンゲンはいない。ミンナ、どこかはカナラずチガうのだよ。
タトえ、フタゴでもレイガイはない。そうだろう?〖アリス〗
キミはいつだってカタワれがいるが、キョウツウしているところイガイはチガうじゃないか」
そう結衣に投げ掛けた。それにリリがそっと反応した。
「...無視...?」 (リリ)
「彼等は2つで1つに拘るんだよ。1つに興味がない。しょうがないさ」
珍しいダイナのフォローを聞きながら、投げられた結衣は口を開いた。
「...確かに、そうかもしれません。皆、違って...皆、良いという言葉もあります。
でもそれなら...貴方たちは、全く同じ人間ではないんじゃないですか...?」 (結衣)
その〖アリス〗の言葉に再び、双子は笑い出し、互いに「僕は二人で一人だ。それは絶対的に変わらない」と答える。
その声は高くも低くもなく、まるで三人目のようなもう一人のような感覚だった。
やがて、双子のうちの一人は片方の肩に手をおいた。もう片方はその片方の腰に手を回し、二人の身体がゆっくりと液状に融け合い、高くも低くもない声が響く。
そうして完全に融けて二人が一人になった時、うまく噛み合わない手足を動かしてダイナの後ろの白兎を見た。
それを視認すると、近くにあった木の枝を拾って白兎の頭へ貫通させる。白砂だけが流れた先に鏡の破片だけが落ちていた。
「さて...今度、二人で一人になるのは君の番だ、〖アリス〗」
ひどく膨れ上がって、手足や耳、瞳が各4つある双子が一つに一緒になった異形がそう破片を差し出した。
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「やぁ、庭園の中だってのに...こんなに煙がたつものなんてあるのかね?」
迷路のような庭園を抜けようとふくよかな体型で毛並みの美しい猫が愚痴を漏らした。
庭園内には薄気味の悪い紫の煙が立ち込めている。凪も光流も何かを急ぐようにしてそこを抜けようとしていた。
やがて、庭園内のやけに広い薔薇の花畑へ出る。煙は何らかの匂いを増して、強く深く立ち込めていた。その霧のような煙を払いながら、薔薇の花畑を踏みつけて進むと煙を焚いている、吸っている芋虫がパイプタバコをふかしながら、こちらを見た。近くで白兎が薔薇の花畑に顔を埋めて、棘を噛み砕きながら遊び回っていた。
「あぁ...なんだ、腹の広い猫か。てっきり、喧しい王様が来たのかと思ったよ」
「へぇ、あの鏡磨きの男の方が良かったかい?」
「いいや...良くないね。あの男ときたら、花に煙を与えるだけでも悪影響だとか喧しくてね。
花に水を与えるなら、煙だって人でいう水と一緒さ。その煙という水をこんなにも醜く咲いた花に与えてるんだ、こんなに光栄なことをあの王様は理解しようともしない」
その言葉を皮切りに芋虫は口から煙を吐いて、近くにいた蜂のような虫へ吹き掛けた。
虫は驚いたのか自分についた攻撃手段を芋虫へぶつけて飛び去り、ふよふよとした羽ばたきをしていった。
刺された芋虫は手を抑えて、パイプを手放し|猫《チャシャ猫》の後ろで立ち尽くす〖アリス〗こと、凪を呼んだ。
「ああ、痛い、痛い。腹の底から痛みが込み上げるようだ。
君は腹の底から誰かが込み上げたことはないのか?煙のようにすぐに消えてしまうものなら、良いけれど何年も何年も居座って、己の中身を食い尽くして成り代わり、一見しただけでは変わらない。
まるで、そうであることを演じるように、そうであったことを演じるように、そこに自然と姿を現す。
何者でもない。皆、そこにある薔薇が今、赤く美しいものから青く青く、醜くなっても一つだけが変わっても気づくことはない。
しかし、それが群ならば?群ならば、皆が気づくだろうね。しかし、〖アリス〗。君、君達は少数で、常々変わるではないか?
いつの間にか女王は白兎を取り込んで、猫すらも嗤って元の姿で玉座で割れる時を待つ。しかしね、女王が割れても誰も分からないのだ、そこの猫と、白兎以外は。
その寂しさから女王は君達という二人の群を招いて異様なまでに、執拗なまでに、`【アリス】`そのものを創る。初めはとても単純だった。愛しく愛らしいアリスはとにかく愛されたかった。
大きな承認欲求の一つだ、人の欲とも言う。`【アリス】`は二人で一人で、2つで1つだ。
心も身体も別れたそれは大きな受け皿になる。そうしてできた焼き物は、`【アリス】`を受け取るにふさわしいだろう。
だが、そうしてできたものには、焼き物には、ひび割れという古くなるのがつきものだ。
割れた陶器を交換するように、`【アリス】`も〖アリス〗も交換される。
使い物にならなくなった〖アリス〗はどこへ行ったのだろう?君達はもう、その心配はないだろうね、そこの猫はやっと、学びを得たのだから。
して、何の話だったか。ああ、そうだ...君は本当に君なのか?いつの間にか、別のものに置き換えられていたりしないか?はて、僕は僕か?僕は僕で、君は君で、僕は君で、君は僕、僕は変わらない。それがありのままだ。
鏡は真実だけを対比して映す。夢か否かは逢わせれば自ずと答えは出る...そうだったね?
だが、この己の中から膨れ上がるような感覚はとても、とても、そうだな、いつかの古い記憶の中のできもしない戦争に勝利を糧にして在る目標に向かって喰い破る_」
長々しい話が終わりを告げるように芋虫の下半身より少し上の辺りに何かが膨らみ、刺された刃物が顔を出すかのように身体を成長した虫が出て、糸の切れた人形のようにくたりとした芋虫にできた出口を更に広げて緑の液体や様々な色の混じった皮膚に柔らかい歯をあてがった。
そうして孵化した虫は液体に染まった羽を羽ばたかせ、足元で遊ぶ白兎に生まれて用いた攻撃手段である針を練習と言わんばかりに向けて白兎の形が崩れるまで刺し続け、針に白砂がついたまま飛び去った。残された形のある者が口々に言葉を出すまで時間はかからなかった。
「はっ、自業自得だ。こんなところで妙なものなんて吸ってれば、そりゃあ変な虫も寄ってくるさ」
「寄生蜂ってところ?おぞましいね」 (光流)
「......そう、ですね...ただ、話はとても...」 (凪)
「深かった?...僕、よく聞いてなかったよ。学校や職場の偉い人みたいだったからさ」 (光流)
「...そうですか」
凪が鏡の破片を拾ったのを確認した後に、チャシャ猫が笑って迷路の攻略を促した。
白い砂と緑の色をした体液に塗られ、踏み潰された薔薇だけがそこに残った。