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盲点
魅檻レイ
雨の匂いが、煙草より先に部屋へ入ってきた。火を消しかけたまま、探偵の男は窓の外を見た。午前二時、雑居ビルの三階にある事務所の窓には濡れたネオンが滲んでいる。三日前から、妙な依頼を受けていた。
「私、誰かに見られてるんです」
二十代半ばの女性、会社員である依頼人はそう言った。
帰宅経路、郵便受け、玄関前。誰かの気配がする、と。
最初は、ありふれた依頼だった。
机の上に並んだ写真を、男はもう一度見た。
依頼人、駅、マンション前。
そしてそのすべての写真の端に、同じ男が映っていた。
黒髪。整った前髪。白いカーディガン。
笑っていないのに、優しそうに見えるたれ目。
「……気味悪ぃ」
そう呟いた瞬間、事務所のドアベルが鳴った。
鍵は、確かに閉めたはずだった。
振り返ると、そこにその男が立っていた。
白い傘を閉じ、床に雫を落としながら、男は困ったように笑った。
「こんばんは」
探偵は無言で机の引き出しに手を伸ばす。護身用のスタンガン。
「そんなに警戒しないでください」
「……誰だ」
「依頼人の件で来ました」
「お前がストーカーだろ」
男は、少し首を傾げた。
「違います」
「写真に映ってる」
「映るようにしていたので」
男は濡れた髪を払って、静かに言った。
「……あなたに、気づいてほしかったから」
「意味がわからねぇ」
「あなたに近づくために、依頼を作りました」
「依頼人は無関係です」
探偵が眉をひそめた、その時だった。
男はふいに探偵の後ろへ視線を向けた。
「もう帰っていいですよ」
とても、穏やかな声だった。
探偵が振り返ると、いつの間にか事務所の隅で硬直していた依頼人の女がいた。
青ざめた顔で、探偵と男を交互に見ている。
男は微笑みながら、小さく手を振った。
「ご協力、ありがとうございました」
依頼人は何か言いたげに口を開いたが、結局何も言えず小さく頭を下げて事務所を出ていった。
鍵の閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
探偵は、ゆっくり男を見た。
「……何した」
「少し謝礼を渡して、相談役をお願いしただけです」
男は、首を傾げる。
「あなた、他人の不幸を放っておけないでしょう」
探偵の顔から、表情が消えた。
「……お前」
男は、まるで世間話でもするみたいに続けた。
「一年と四ヶ月と十二日前。高架下で猫を助けましたよね」
「煙草は、一日平均七本。でも最近増えました」
「甘いもの嫌いなのに、駅前のドーナツ屋のクリーム入りだけは食べる」
「寝る時、電気はつけっぱなし」
「三年前、路地で刺されたから左肩が雨の日に痛む」
探偵の手が止まった、背筋がゆっくり冷えていく。
「全部、知っています」
「……気持ち悪いんだよ」
そう言ってスタンガンを向けたが、男は怯まなかった。
むしろ、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「やっと、ちゃんと見てくれた」
探偵は、舌打ちをした。男は、静かに笑った。
「警察呼ぶぞ」
「呼べばいいです」
「でも、その前に一つだけ」
「どうして、あなたは誰も愛さないんですか」
探偵の呼吸が止まる、その一瞬だった。
男が距離を詰めて、壁に押しつけられる。
探偵の手からスタンガンが落ちて、乾いた音が響いた。耳元で、熱のない声が落ちる。
「あなたが誰も見ないなら」
白い指が、煙草の匂いが染みついたシャツを掴む。
「僕だけを見てください」
だんだん、雨音が強くなる。
逃げるべきなのに、突き飛ばすべきなのに。
探偵は、目の前の真っ黒な瞳から目を逸らせなかった。
まるで、深い穴みたいだった。落ちたら終わると、分かっているのに。
「……名前」
掠れた声で探偵が言う。
男は少しだけ目を見開いて、それから笑った。
「知りたいんですか?嬉しい」
「……うるせぇ」
男は探偵の手を取り、自分の首元へ導いた。
脈も、温度もあった。ちゃんと、人間だった。
「——はじめまして」
「ずっと、あなたのことを見ていました」
窓の外で、朝が来かけていた。男が名前を告げる、探偵は覚える気もないと思った。なのに、一度で覚えてしまった。
たぶん、こういうのを最悪って言うんだろう。
探偵 × ストーカー