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第5話:また会える約束
宴の喧騒が遠のき、油屋に深い夜が訪れる。
神々がそれぞれの客室へ引き上げ、あるいは千鳥足で帰路につく中、私は片付けの手を止めて、赤い欄干に身を乗り出していた。
「……帰らはるんかな」
胸の鼓動がまだ鎮まらない。渾身の舞を見せた後、彼――猿田彦様は、満足げに杯を干すと、悠然とお座敷を後にした。
追いかけたい。でも、看板娘が客を追いかけるなんて、湯婆婆に見つかったら何を言われるか。
「……あかん。……やっぱり、一目だけでも」
私は雑巾を放り出し、裸足のまま回廊を駆けた。
朱色の髪が夜風になびく。八百万の気配が渦巻く油屋の中で、彼の放つ圧倒的な神気だけが、私にとっての道標だった。
玄関先。大きな暖簾をくぐり、赤い橋に足を踏み出そうとする後ろ姿を見つけた。
「……あのっ、猿田彦様!」
思わず叫んでいた。
彼は足を止め、ゆっくりと振り返る。月明かりに照らされたその風貌は、昼間よりもずっと神秘的で、近寄りがたいほどの威厳に満ちていた。
「……賑やかな娘。……まだ起きていたのか」
「あ、……はい。……あの、お見送りを、と思いまして……っ」
嘘だ。ただ、もう一度その黄金色の瞳に見つめられたかっただけだ。
私は必死に、いつもの看板娘の余裕を取り戻そうと、顔を上げた。
「……うちの舞、どないでした? ……お口に合いましたか?」
「……フッ。お前は食べ物か」
不意に、彼が低く笑った。
その瞬間、私の心臓が跳ね上がる。
彼は一歩、私の方へ歩み寄った。天井を突くような巨躯が目の前に迫り、私はその影にすっぽりと包み込まれる。
「……見事だった。……久々に、魂が震える舞を見た」
大きな、岩のような掌が、私の頭にぽんと置かれた。
乱暴ではなく、まるで壊れ物を扱うような、あまりにも優しい手つき。
「……ひ、……ひぇっ」
「……お前の瞳は、油屋の提灯よりずっと明るいな」
「……っっっ!!」
顔から火が出る。熱い。耳まで沸騰しそうだ。
言葉を失い、金魚のように口を動かすだけの私を見て、彼は満足げに目を細めた。
「……また来る。……次は、もっと近くで見せてくれ」
「……ま、また……?」
「……ああ。……約束だ、ミコト」
私の偽名を、その低い声でなぞるように呼ばれ、私は崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
彼はそのまま、一度も振り返ることなく、赤い橋を渡って闇の中へと消えていった。
「…………また来る、って。……約束、って言うた……」
私は自分の頭を両手で押さえ、その場にへなへなと座り込んだ。
彼の手の熱が、まだ髪に残っている。
「……なんだよ、もう。……反則やろ、そんなん……っ!」
夜風が火照った頬を撫でる。
数秒前までそこにいた彼の気配が、私の胸の奥に消えない火を灯していた。
「……リン。……千。……うち、やっぱりあのお方の嫁に行くしかないかもしれへん……」
遠くでススワタリが「キィ?」と鳴いた。
ミコトの、長く、そして甘い「恋煩い」が、本当の意味で幕を開けた夜だった。
🔚