折ふしの事
編集者:花火
タイトル 読み方 をりふしの事
意味 季節の移ろいや、その時々のちょっとした出来事
一行あらすじ
短気で強気な些事ですぐに怒る朱里が折ふしの事を聞いていく
あらすじ
街にある薬屋は、薬屋の意味を成しておらず、街の人たちの隠れ場のような交流場所。そこの薬屋の娘朱里といつも、薬屋の端の椅子に座っている寡黙の男蒼真が、街の人たちの相談とも言えない、ちょっとした不思議な出来事の折りふしの事を聞きながら、謎を解明する。
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目次
プロローグ 明光堂の沈黙と黄金の一滴
「こんにちは」
カラカラと引き戸を開けて入ってきたのは、|お太鼓《おたいこ》をきれいに結った女性だった。
着物の上には、レースの縁取りがついた薄手のチリ除けコートを羽織っている。首元からのぞく|半襟《はんえり》の白が、彼女の丁寧な暮らしぶりを物語っていた。買い物籠を腕にかけ、草履の音を控えめに響かせてカウンターへ進む姿には、どこか凛とした落ち着きがある。
「鈴木さん、こんにちは」
「あらぁ、|朱里《あかり》ちゃんじゃない。高校は?」
「今日は土曜なので、午前授業だったんですよ」
「そうだったわねぇ。うふふ」
店を一歩外に出れば、そこには|喧騒《けんそう》とは無縁の静寂な邸宅街が広がっている。政治家や企業の経営者が居を構える高級住宅街と、ありふれた庶民的な街。その境界線に、薬屋『|明光堂《めいこうどう》』は|佇《たたず》んでいた。
明光堂は、街の人々の心が休まる休憩場所のような存在だ。それは、薬屋という特殊な空間が織りなす魔法なのかもしれない。生薬特有の少し苦いような匂い。文字が|霞《かす》みかけた古い薬看板。それらが、どこか親しみやすく客を迎え入れるのだと朱里は思う。
「そういえば、|鈴音《すずね》ちゃんは?」
「姉さんなら奥に」
朱里が応じると、カウンターの奥で在庫管理をしていた姉の鈴音が姿を現した。鈴木さんの顔を見るなり、鈴音の唇に穏やかな微笑みが浮かぶ。
「こんにちは、鈴木さん」
「こんにちは。鈴音ちゃん、薬大の調子はどう?」
「順調ですよ。父のような薬剤師になるため、日々頑張っています」
鈴音が通う大学には薬学科があり、彼女は将来、父の跡を継ごうと考えていた。
家業は長男が継ぐものという風潮が強かったため、女性の跡取りはあまり良い顔をされないこともあった。
しかし、鈴音の真剣な振る舞いに触れ、最近では応援してくれる人も増えていた。
「でも、姉さんはいいところのお嫁さんにでも行けるでしょ」
朱里が少し茶化すように言うと、鈴音は困ったように「そうかしら」と首を傾けた。
「そうよ、鈴音ちゃんは|別嬪《べっぴん》別嬪さんなんだから」
鈴木さんの言葉に嘘はなかった。鈴音の容姿は街の誰もが認める美女で、背は同年代の女性と比べても頭一つ分ほど高い。|高嶺《たかね》の花のような凛とした美しさと、春の陽だまりのような温かさ。そんな相反する魅力を、彼女は併せ持っていた。
今日の服装は洋服で、柔らかなボウタイブラウスの襟元と、たっぷりとしたフレアスカートが、鈴音の穏やかな表情を引き立てている。彼女が歩くたびにスカートは優雅な弧を描く。
「鈴木さん、お茶を出しますよ。ほうじ茶、淹れたてなんです」
「あら、いいのよ。買い物帰りにちょっと寄っただけなのよ」
「そうだったんですね。重そう……、表まで送っていきますよ」
「大丈夫よぉ。……実は最近、父の容態が少し思わしくなくて、介護につきっきりなの」
鈴木さんの父親の体調が悪いことは、処方されている薬の種類から朱里も薄々感じていた。だが、介護が必要なほど悪化していたとは初耳だった。
「それは……大丈夫ですか。鈴木さんも無理をしすぎないようにしてくださいね」
鈴音はおっとりと心配そうに眉を下げ、手で頬を支えながら顔を傾けた。こうした|所作《しょさ》の一つひとつに、姉の性格が出ていると朱里は思う。相手を気遣う絶妙な距離感。意図的ではなく、無意識にやってのける。それは、朱里が自分には欠けていると自覚しているものだった。
鈴木さんは「ありがとうね」と手を軽く振りながら、明光堂を後にした。
朱里は、鈴木さんが残していった余韻――わずかな線香の匂いと、買い物籠から覗いていた不自然なほど大量の『氷砂糖』の袋――を、少し苛立ち混じりの視線で見送っていた。
鈴木さんが店を後にしたあと、鈴音はカウンターの奥から妹の様子を覗き込んだ。
「朱里、何か嫌なことでもあった?」
「……姉さんには関係ない!」
「関係あるわよぉ。お姉さんの大切な朱里ですもの」
「姉さんが原因だから言ってるのよ!」
朱里が苛立っているのは、ほんの些細なことだ。今日の鈴音の服装――すらりとした長身を強調するフレアスカート――は、隣に立つ朱里の小柄さを残酷なほど際立たせていた。朱里は同年代の女性と比べても背が低く、それを深刻なコンプレックスに感じていたのだ。
「私、カウンター雑巾で拭くから、どいて!」
朱里はまるでゼンマイ仕掛けの精巧な人形のように、せわしなく立ち働き始めた。小柄な体躯をさらに小さく丸めて、カウンターの隅々まで執念深く磨き上げる。
一見すると愛らしい少女だが、その眉間には常に、険のある小さな皺が寄っている。父の予備の白衣を借りて着れば、その裾はどうしても膝の下まで届いてしまう。
(姉さんなら、きっと誂えたみたいにちょうどいい長さなんでしょうね!)
朱里は心の中で毒づきながら、白衣の袖を肘まで乱暴に捲り上げた。カツカツと小気味よい音を立てて板の間を歩く姿は、まるで戦場へ向かう小動物のような勇ましさがある。
ぱっちりとした瞳は、誰かの不始末や埃一つも見逃さないと言わんばかりに、鋭く光を放っていた。
「ごめんなさいね、朱里」
「別にっ!」
(天性で持っているものを謝られても、余計に腹が立つだけよ!)
朱里が心の中で叫んでいると、鈴音が申し訳なさそうに手を合わせた。
「お姉さん、これから大学の研修があるの。しばらく受付をお願いしてもいいかしら?」
「……わかったから、早く行ってきて!」
「はーい、行ってきます!」
鈴音はうふふと、春の陽だまりのような笑みをこぼした。それは、朱里の怒りもいつかは収まるだろうと、深い包容力で見守っているようでもあった。
◆◆◆◆◆◆
姉の背中を見送ったあと、朱里は苛立ちを鎮めるように茶筒を手に取った。
誰にともなく「ったく、手が焼けるんだから」と毒づきながら、彼女はほうじ茶を淹れる準備を始める。指先が刻む正確なリズムと、店内に広がり始めた芳醇な香ばしさが、彼女の尖った心を少しずつ解きほぐしていくようだった。
「やっぱり! お客さんの対応は疲れるわ!」
吐き捨てるように独りごちながら、朱里は手早く、入荷したばかりの薬箱を棚に並べていく。日頃から店を手伝っている彼女にとって、たとえ感情が昂っていようとも、この程度の作業は朝飯前だった。
しかし、背後から投げかけられた低い声に、その手が一瞬で凍りついた。
「やはり、疲れるものなんだな」
「っえ? あ、あの……?」
慌てて振り返ると、そこには見知らぬ青年が立っていた。いつの間に店に入ってきたのか、足音一つしなかったことに朱里は戦慄する。それと同時に、今までの怒りが一気に引いていくのを感じた。
「もしかして、さっきの独りごと……聞こえていました?」
「あぁ」
肯定の言葉が脳裏で繰り返される。恥ずかしさと、それを平然と指摘されたことへの反発。次の瞬間、朱里の怒りメーターが再び跳ね上がった。
「だったら! 何か言うことはないんですか普通!」
「……? お疲れ様」
「なんで疑問形なんですか! 全然心がこもってない!」
街の人々は、明光堂には「鈴音と朱里」がセットで居るものだと思い込んでいる。だから朱里がどれだけ「話しかけるな」というオーラを出していても、構わず話しかけてくるのだ。
先ほどの鈴木さんは良い人なのだが、生憎と今は一人になりたかった。苛立ちをぶつけるように朱里がカウンターを叩くと、積み上げられた薬箱が崩れ、角が乾いた音を立てて床に落ちた。
「机を叩くな。薬が傷つく」
「会話を……放棄するような人には、言われたくないです!」
「……」
「何か言ってくださいよ!」
(本当にもう、気遣いの欠片もないんだから!)
それから朱里がどれだけ捲し立てても、青年は無表情のままだった。単なる無愛想とは違う。それは、相手がどれだけ騒いでも決して眉を動かさないよう訓練された、鉄壁の自制心のようにも見えた。
やがて、散々に怒鳴り散らして少し冷静になった朱里は、猛烈な後ろめたさに襲われた。
(初対面の人に、私ったらなんてことを……)
「……あの、すみません。姉と違って、可愛げがなくて」
「……? 姉とは何だ」
「知らないんですか? 鈴音ですよ。街で一番の別嬪さんの」
改めて男の装いに目をやると、淡い水色のシャツは繊細なオックスフォード地で、襟のボタンを留める糸一本に至るまで、丁寧な手仕事が感じられた。
(多分、あっち側の人なんだろうな……)
装い自体は素朴だが、選ばれている生地がまるで違う。となると、この界隈で有名な姉のことを知らなくても無理はないかと、朱里は一人で納得した。
「あの、今さらですがお名前は?」
「……はぁ。教えないといけないか」
「はぁ!? なんですか! 名前くらい教えてくれたっていいじゃないですか!」
(本当に、いい家の人なんですかね!? 礼儀とかマナーとか、そういうのはどこに置いてきたんですか、この人は!)
そんな朱里の怒りを汲み取ったのか、男はようやく重い口を開いた。
「|蒼真《そうま》だ」
「……そう、ですか」
「……どうした?」
「いえ、あまりにもあっさりだったので」
蒼真という男は、朱里が思っているよりも案外、素直な|性質《たち》なのかもしれない。
(今まで忘れていたけれど、一応この人、お客さんよね……)
鈴音なら、相手の好みに合わせた茶葉を選び、最適な温度と早さでお茶を出していただろう。
(姉さんみたいに、頑張るのよ、朱里……)
たとえ、こんな礼儀知らずな相手であっても。そう心の中で付け加えながら、朱里は茶筒を手に取った。
「お茶、出します」
「どうして、そんなに嫌そうな顔なんだ」
「はいっ? これでも精一杯、頑張っているんですけど!」
普段は短気で苛立ってばかりの彼女だが、お茶を淹れる準備を始めると、その指先は薬剤師の娘らしい正確な動きを見せる。鉄瓶の湯を湯呑みに注ぎ、器を温める。その一連の動作だけは、鈴音のそれにも引けを取らない美しさがあった。
(意外だなぁ……)
名前を尋ねれば素直に答え、お茶を出すと言えば大人しく待つ。その拍子抜けするような蒼真の反応に毒気を抜かれながらも、朱里は「わかりました」と短く応じた。
「ったく、手が焼けるんだから」
誰にともなく毒づきながら、朱里は使い込まれた水屋(食器棚)から茶筒を取り出した。彼女が選んだのは、上質な茎茶を贅沢に|焙《ほう》じた、香りの強いほうじ茶だ。
朱里は小柄な体に見合わないほどキビキビとした動作で、まずは鉄瓶の湯を湯呑みに注ぎ、器を温め始めた。これは彼女が幼い頃から叩き込まれた、客をもてなすための、あるいは自分自身を落ち着かせるための儀式でもある。
「……よし」
小さく呟くと、彼女は茶筒から茶葉をひとつかみ掬い取った。焙じられた茶葉は、秋の落ち葉のように乾いた音を立てて急須に収まる。
朱里の細い指先が、茶葉の量を秒単位で測る薬剤師のように、迷いなくその分量を決めていく。一度湯呑みに移して適温――およそ九十度まで冷ましたお湯を、急須へと静かに注ぎ入れた。
直後、熱を帯びた茶葉から、香ばしくもどこか甘い、特有の香りが立ち昇った。生薬の匂いが染み付いた店内の空気が、一瞬で温かな夕暮れの色に塗り替えられていく。
「三十秒……二十九、二十八……」
朱里は眉間に寄った皺をそのままに、心の中で正確に時間を刻みながら、急須の蓋をじっと見つめていた。
その横顔には、普段の刺々しさは消え、処方箋と向き合う時のような真剣さと、無意識の慈愛が混じり合っている。
やがて彼女は、最後の一滴――「黄金の一滴」と呼ばれる最も濃厚な部分までを、リズムよく左右の湯呑みに注ぎ分けた。
「はい、お待たせ。熱いうちに飲みなさいよ」
ぶっきらぼうに差し出された湯呑みからは、彼女の苛立ちを優しく包み隠すような、深く、芳醇な湯気がゆらゆらと立ち昇っていた。
「おいしいな」
「……まぁ、私が淹れましたからね」
不意を突かれた称賛に、朱里はぶっきらぼうに返した。すると、蒼真が不思議そうに首を傾げる。
「なぜ、口元がむずむずしているんだ?」
「えっ?」
朱里が短く呟くと、蒼真は近くにあった鏡を指差した。鏡の前で自分の顔を確認すると、確かにそこには、今にも笑みがこぼれそうな、嬉しさを隠しきれない自分が映っていた。
(あぁ……私、褒められて嬉しいんだ)
不覚にも自覚してしまい、朱里は照れ隠しを込めて、にこっと蒼真と視線を合わせた。
「あっ、すみません。ずっと立たせたままにしていましたね」
朱里はカウンターの裏から折り畳み式のパイプ椅子を取り出し、手際よく広げた。その椅子は小柄な朱里にちょうど良いサイズ感で、背の高い蒼真が座るには、少し窮屈そうに見えた。
「すみません、小さいですよね」
「いや、問題ない」
椅子に座る際、蒼真は決して背もたれに体を預けなかった。膝を揃え、指先を軽く重ねるその姿は、周囲の騒がしい街の雑踏から彼だけを切り離し、どこか古い邸宅の応接間にいるかのような錯覚を抱かせる。
それから、淹れたてのほうじ茶がなくなるまで、二人は他愛もない言葉を交わした。
「それじゃあ、行く」
「何か予定でもあったんですか?」
「長居をするのは、悪いからな」
(変なところで礼儀正しいんですね、この人は……)
朱里が少し見直しかけた、その時だった。
「俺のことを、表まで送らないのか」
「はぁっ!? はい? それ、自分で言いますか、普通!」
前言撤回。やっぱり、この人は無礼すぎる。朱里の眉間に、本日何度目かわからない鋭い皺が刻まれた。
◆◆◆◆◆◆
鼻歌まじりに「ふふん」と機嫌よく、朱里は明光堂の掃除を続けていた。やがて、カチンと小気味よい音を立てて扉が開いた。
「姉さん、おかえりなさい!」
「ただいま。あら朱里、何かいいことでもあった?」
店に入るなり、鈴音は妹の隠しきれない上機嫌さを敏感に察知して、小首をかしげた。
「別に。……お茶、何がいい?」
「ありがとう。そうね、ほうじ茶がいいわ」
「また?」
不意に漏れた独り言のような朱里の言葉を、鈴音は聞き逃さなかった。
「あらまぁ」と、鈴音は妹に春が巡ってきたのかしらと、楽しそうに目を細めて微笑んだ。
(さっきまであんなに機嫌が悪かったのに、お茶を二人分淹れた形跡があるわ……)
鈴音の視線は、カウンターに残された二つの湯呑みの跡を捉えていた。朱里はそんな姉の視線に気づくこともなく、再び「黄金の一滴」を落とすべく、正確な手つきで茶筒に手を伸ばした。
長いのに最後まで、読んでいただきありがとうございます。
幕間 ハワイの切符と美しき猛獣
朱里が淹れたほうじ茶は、九十度の適温。完璧な「黄金の一滴」が落ちた湯呑みからは、香ばしい湯気が立ち昇っている。
鈴音は「ありがとう」と微笑み、その湯呑みを大切そうに両手で包み込んだ。
「ふふ、やっぱり朱里のお茶は美味しいわね。ところで朱里、さっきから鼻歌が漏れているわよ。何かいいことでもあったのかしら?」
「別に! お店がピカピカになって、お茶が美味しく淹れられた。ただの自己満足よ、自己満足!」
朱里はぷいと顔を背け、自分の湯呑みを一気に煽った。熱い液体が喉を通ると、心の中のトゲが丸く溶けていくような気がする。……いや、単に掃除の達成感かもしれないけれど。
「それより朱里。来週の『町内親睦大運動会』のことだけど」
「ああ、今年もその季節ね。小学校の校庭で、大の大人が血眼になってパンを追いかける、あの一大行事のこと?」
鈴音がおっとりと小首をかしげた。この町において、春の運動会は新年度の勢力図を決める死活問題だ。
「そうよ! 今年も私、町内対抗リレーの選手に選ばれちゃったんだから。姉さんだって、去年みたいに『パン食い競争』でパンの揺れを観察してちゃダメよ。あれは狩りなの! 猛獣になるのよ!」
「うふふ、そうだったわね。でも私、走るとブラウスがシワになっちゃうし、応援に回る方が向いていると思うのだけれど」
「ダメに決まってるでしょ! 鈴音お姉ちゃんがトラックに立つだけで、街の男たちの平均血圧が十は上がるんだから。明光堂の広告塔として、しっかり『美しき猛獣』を演じなさいよ!」
朱里は、自分より頭一つ分高い姉の、優雅なボウタイブラウスを指差して力説した。鈴音は「猛獣だなんて、大袈裟ねぇ」と笑いながら、窓の外の桜並木に目を向けた。
「でも、今年は町を挙げてのお祭り騒ぎになりそうね。商店街の方々も、例年以上に気合が入っているみたいだし」
鈴音が窓の外、アーケードの入り口に掲げられた『第28回 町内親睦大運動会』の横断幕を見やりながら言った。朱里(あかり)は鼻を鳴らし、湯呑みをカウンターに置いた。
「そりゃそうよ! 去年の『町内対抗バケツリレー』、最後の一杯で魚屋の源さんに抜かれたのが、商店街一同、血の涙が出るほど悔しかったんだから! あの日以来、魚屋の前を通るたびに源さんが『おーい、薬屋の娘。足腰が足りねぇから、もっと煮干し食えよ!』って、頼んでもいないのにニヤニヤしながら小魚を勧めてくるのよ。もう、屈辱以外の何物でもないわ!」
朱里は小柄な拳をぎゅっと握りしめ、まるで宿敵の名を呼ぶように「煮干しの恨み……」と呟いた。
「お父さんが薬箱の補充で旅に出ている間に、優勝トロフィーをこの明光堂に奪還しなきゃ、店のメンツが丸潰れよ。お父さんが帰ってきたとき、『留守中の明光堂、運動会で魚屋に完敗したらしいな』なんて噂されてたらどうするの? それこそ死活問題よ!」
朱里の鼻息は荒い。彼女にとって、この運動会は単なる親睦会ではなく、街の序列を正すための聖戦なのだ。
「いい、姉さん。今年の商店街連合チームは、打倒・お屋敷街チームに燃えてるのよ。八百屋のサブちゃんなんて、納品のたびにキャベツの箱を持ってスクワットしてるし、クリーニング屋の奥さんは、バケツを回す手首を鍛えるために特大のアイロンで素振りをしてるんだから。もう、街中が殺気立ってるわ」
「あらあら……いつの間にそんなに熱心に。でも朱里、そんなに気合を入れて、空回りして転ばないように気をつけてね?」
「空回りじゃないわよ、情熱よ! 私は明日から、店が開く前に坂道ダッシュをするつもりなんだから」
「それに、今回の優勝の景品。今年は『ハワイ旅行』っていう噂よ?」
「はぁ!? ハワイ!? ちょっと、それマジなの? 去年の『洗剤詰め合わせ』から格上げしすぎじゃない!?」
朱里の目が、一瞬で獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
「いい、姉さん。去年のバケツリレーで負けた屈辱を晴らすのは今よ。お父さんがいない間に優勝トロフィーを奪還して、ハワイへの切符も掴み取るわ。あー、忙しくなってきたわね!」
「あらあら、やる気満々ね。でも朱里、ハワイの前にまずは明日のラジオ体操よ?」
「わかってるわよ! 姉さんこそ、寝坊したら容赦なくハッカ油を鼻の下に塗ってあげるから。覚悟しなさいよ!」
朱里の宣言に、鈴音は「頼もしいわね」と穏やかに笑った。
外では春の風が桜の残骸を巻き上げ、土埃舞う決戦の日を予感させている。明光堂の午後は、お茶の香りと、ほんの少しの野望に包まれて過ぎていった。
幕間 無害な分家の装い方
まとめてシリーズで読んでいる方は次の話を読んでからこの話を読んでください。
掃除を終え、ピカピカになった店内でほうじ茶を啜りながら、朱里は意を決したように立ち上がった。
「問題は明日よ。本家を迎えるのに、まさかその格好で出るつもりじゃないわよね?」
鈴音は自分の柔らかなブラウスを見下ろし、「あら、これじゃ失礼かしら」と小首をかしげた。朱里は鼻を鳴らし、奥の部屋から衣装を抱えて戻ってきた。
「当たり前でしょ! 本家は、私たちのこと『毒にも薬にもならない無害な分家』だと思ってるのよ。舐められたらおしまいだわ。見なさい、私の勝負服!」
朱里が広げたのは、襟元に控えめな刺繍が入った白の丸襟ブラウスに、落ち着いた紺のジャンパースカート。
「これなら『育ちの良い、慎ましい分家の娘』に見えるはずよ。丈も膝が隠れるくらいに直したんだから。背が低くたって、品格で勝負よ!」
キリッと背筋を伸ばす朱里を見て、鈴音は「あらあら、可愛いお人形さんみたいね」と拍手をした。
「じゃあ、私は……これにしようかしら」
鈴音が奥から持ってきたのは、光沢のあるサテンのボウタイブラウスに、深いモスグリーンのロングタイトスカートだった。
「……姉さん。それ、これから銀座の画廊にでも行くつもり?」
「うふふ、少し気合を入れすぎたかしら? でも、あちら側の方は目が肥えていらっしゃるから、これくらい質の良い布を纏(まと)っていないと、それこそ『無害』だと思われてしまいそうで」
鈴音がブラウスを体に当てて鏡の前に立つと、店内の漢方の匂いが一瞬で高級なサロンの香りに変わるような錯覚に陥った。背の高い彼女がその格好で微笑めば、本家の人間とて気圧されるに違いない。
「ダメよ、それじゃ戦いに行ってるみたいじゃない! 相手は『調査』に来るのよ? 警戒されたら元も子もないわ。……そうね、姉さんはその淡い藤色のカーディガンに、プリーツスカートがいいわ。髪もハーフアップにして、優しさを前面に出すの!」
朱里は姉の周りをぐるぐると回りながら、演出家のように指図した。
「いい、姉さん。私たちは『おっとりして何も知らないけれど、家柄にふさわしい品位だけはある分家』を演じ切るの」
「そんなに構えなくても……」
「甘いわよ、姉さんは! 本家の人間はみんな、笑顔の裏に隠し薬を持ってるような人たちなんだから。……よし、衣装は決まりね。明日の早朝、本家を迎え撃つわよ!」
朱里の宣言に、鈴音は「迎え撃つだなんて、大袈裟ねぇ」とおっとり笑った。
早速、店内の隅、大きな木枠の姿見の前で、二人は着替えたばかりの「戦闘服」を改めて確認していた。
「……どう? 姉さん。完璧に『慎ましくも賢明な分家の娘』に見えないかしら」
朱里は、紺のジャンパースカートの裾をピシッと整えながら、鏡の中の自分を鋭く睨みつけた。背の低さを補うように背筋を限界まで伸ばしているが、丸襟のブラウスのせいで、どうしても幼い愛らしさが勝ってしまう。
鈴音は、パチンと耳元にパールのイヤリングを留めると、うっとりと妹を見つめた。
「あら、とっても可愛いわ、朱里。なんだか、どこかの女学校の模範生みたい。その格好で『いらっしゃいませ』なんて言われたら、本家の方も思わず顔をほころばせてしまうんじゃないかしら」
「可愛いとか、ほころばせるとか、そういうのは求めてないのよ! あくまで『侮れない、隙のない清楚さ』が狙いなんだから。それより、姉さんの方は……」
朱里は、隣に立つ姉をじろりと見上げた。
淡い藤色のカーディガンに、柔らかなプリーツスカート。朱里の指定通りの「おっとりスタイル」のはずなのに、鈴音が纏うとどうしてか、避暑地の別荘に佇む令嬢のような、圧倒的な「格」が溢れ出してしまう。
「……やっぱり、姉さんはずるいわ。そんなに質素な組み合わせなのに、どうしてそんなに豪華に見えるのよ。背が高いから? それとも、その無駄に長い睫毛(まつげ)のせい?」
「うふふ、朱里ったら。豪華だなんて、これはお母様のお下がりの、古いウールよ。でも、なんだか背筋が伸びるわね。お家の顔として、ちゃんとしていなきゃっていう気持ちになるわ」
鈴音がしなやかな指先でプリーツの乱れを直すと、鏡の中の姉妹は、まるで古い写真から抜け出してきたような、正統派の美しさを放っていた。
「いい、姉さん。明日は絶対に、ボロを出さないでね。今のその『完璧な令嬢』のままでいること」
「ふふ、大丈夫よ。朱里がそんなに一生懸命選んでくれた服だもの。私、自信を持って本家の方をお迎えできるわ」
鈴音の包容力に満ちた笑顔に、朱里は「……ま、私が選んだんだから、当然ね」と、照れ隠しにふいと顔を背けた。
鏡に映る対照的な二人の姿。それは、薬屋という「市井」の場にありながら、確かに「浅倉の血」が流れていることを、静かに、しかし力強く証明していた。
浅倉家の血筋
「鈴音、朱里。ただいま」
「おかえりなさい、お母さん」
つい先ほどまで、簡易的な折り畳み式のパイプ椅子を出し、カウンター越しにほうじ茶を飲んでいた鈴音と朱里は、突然の母の帰宅に驚きながらも、背筋を伸ばして挨拶を済ませた。
「お母さん、今日はどちらへお出かけだったの?」
「あら、そういえば今朝はバタバタしていたから、まだ話せていなかったわね」
今朝の母の装いは、いつもの実用性しか考えていない洋服とは、明らかに一線を画していた。
纏っているのは、地紋の入った最高級の色無地。色は「灰桜」や「柳鼠」といった、落ち着いた中間色だ。一見すると地味にも見えるが、光の当たる角度によって絹特有の柔らかな光沢が浮き上がり、母の肌をいっそう白く美しく見せている。
それだけではない。帯や小物に至るまで、細部へのこだわりが徹底されていた。
帯は、控えめな金糸を使った贅沢な綴織。派手な吉祥文様ではなく、季節の花が一点、職人の手で繊細に描かれたものを選んでいる。帯揚げや帯締めは着物と同系色でまとめられ、アクセントとして添えられた小ぶりな白珊瑚と真珠の帯留めが、慎ましくも確かな気品を放っていた。
近所のママ会へ行くような格好とは、明らかに違う。それは、対等な友人との交流ではなく、もっと「改まった、あるいは緊張感を伴う場所」へ、家の顔として赴くための装いだった。
「お父さんの血筋が、かつて高貴な家柄だったことは知っているわよね」
お茶を一口すすった母が、世間話でもするように切り出した。朱里はあからさまに肩をすくめて応じる。
「当たり前でしょ。耳にタコどころか、薬草が生えるくらい聞かされてるわよ」
父の生家・浅倉家は、戦後直後まで爵位を持っていた元貴族だ。曾祖父は男爵で宮中行事の常連だったというが、今の朱里にとっては、奥の蔵でホコリを被っている家紋入りの銀食器や、得体の知れない皇室からの下賜品くらいしかその証拠がない。
華族制度が廃止されて久しいが、父の丁寧すぎる言葉遣いや無駄に良い姿勢には、選ばれた人間としての「面倒なプライド」がべったりと染み付いていた。
「それでね、お父さんは次男坊だったから、本家は伯父様が継いだの。お父さんが私と結婚して家を飛び出すとき、本家から土地と資金をむしり取って……あ、失礼。分けてもらって構えたのが、この明光堂なのよ」
「今、さらっと本音が出たわね。で、それがどうかしたの?」
母は、鈴音によく似た「うふふ」という笑みを浮かべ、朱里を少し茶化すように首を傾げた。この、相手を煙に巻く空気を作るのが、母は実に上手いのだ。
「まぁ、いわゆる私たちは『分家』なわけだけれど。本家の方々が最近の市井……つまり下界の様子を調査したいらしくてね」
「下界って。私たち、雲の上の神様でも迎えるわけ?」
要するに、本家の高貴な方々が街を見たいが、正面切って歩くのはプライドが許さない。そこで『分家との交流会』という、いかにももっともらしい建前を用意したというわけだ。
(その建前(隠れみの)に、私たちが選ばれたのね……)
本来なら、こういう本家との折衝は父の役目だ。だが、あいにく父は半年がかりの薬箱補充に出たきり。半年前に出かけて、帰ってくるのは次の半年の三日前。ほぼ「回遊魚」のような生活だ。
「でも、分家なんて他にもあるじゃない。どうしてうちなのよ」
養子を出した家もあれば、名字だけもらった別家もある。朱里が疑問をぶつけると、母はとんでもないことをさらりと言った。
「本家が事前に書類検査をしたらしいわ。恨みを持っていないか、命を狙う危険がないか……。その結果、毒にも薬にもならない、とっても安全な私たちになったんですって。光栄ね」
(それ、絶対にバカにされてるわよね!?)
朱里が心の中でツッコミを入れたが、母はどこ吹く風。
「それで、いつ来るのよ。まさか来月とか言わないわよね?」
「明日の早朝よ」
「……は? 早すぎない?」
「ほら、お隣ですもの。塀を乗り越えたらすぐよ」
母は事もなげに言った。邸宅街と庶民の街の境界線。あえてこの場所に店を構えた父の計算を恨みたい。
「高貴な血筋って、つくづく不自由で面倒くさいわね」
「あら、私たちは自由な分家よ。掃除という自由な労働が待っているわ」
「……はいはい。わかったわよ、やればいいんでしょ!」
◆◆◆◆◆◆
早朝。カラカラと引き戸を引いたのは、梨花ではなかった。
家系に仕える実直な使用人らしき、四十代の男性だ。引き締まった体躯からは、鍛錬の跡と、長年主人に仕えてきた者特有の、静かで品の良い威厳が漂っている。
その男が道を作るように控えた戸口から、梨花は現れた。
まるでもとから境界などなかったかのように、春の光を背負って、少女は静かに店先へと降り立つ。
瞬間、店内の空気が一変した。
生薬の苦い匂いは春風にかき消され、代わりに、早朝の森で摘んできたばかりの白百合のような、冷たくて甘い香りが満ちた――そんな錯覚を抱くほどの衝撃だった。
そこにいたのは、朱里が「本家の対策」として必死に作り込んだよそ行きなど、一瞬で塵にしてしまうほどの、本物の「令嬢」だ。
纏っているのは、雪解け水のように透き通った水色のサマードレス。繊細なレースが施された襟元は、彼女の細い首筋をいっそう白く際立たせている。風に舞い込んだ桜の花びらさえ、梨花を飾り立てる装置の一部であるかのように、その肩や柔らかな黒髪に吸い寄せられていった。
梨花が静かに伏せていた睫毛を上げると、そこには街の誰も持っていない、磨き抜かれた宝石のような瞳があった。
可憐。
その一言で片付けるには、あまりにも完成されすぎた造作だった。
彼女が歩くたびに、上質な布地が「さらり」と贅沢な音を立てる。それは、市井の喧騒の中で必死に背伸びをして生きる朱里たちに、抗いようのない「血の隔たり」を突きつける、静かな宣告のようでもあった。
「ごきげんよう」
その声が聞こえた瞬間、朱里の肩から不自然な力みが抜けた。
鈴を転がすような綺麗さだけれど、決して冷たくはない。まるで、熱を出した時に額に乗せられた、濡れたタオルのような心地よさ。
おっとりと、少しのんびりとしたその響きには、本家という名前が持つ刺々しさは微塵もなく、ただただ、こちらを無防備にさせてしまうような不思議な包容力が宿っていた。
「……本家の人って、もっと怖いかと思ってたのに。なんだか拍子抜けしちゃうわ」
「朱里……っ、それは、ちょっと失礼よ」
慌てる鈴音をよそに、梨花はふんわりと目尻を下げた。春の日差しに目を細めるような、相手を優しく包み込む笑い方だ。
(令嬢らしくない、笑い方だなぁ……)
朱里が想像していた「令嬢の笑い」といえば、高飛車な高笑いか、鼻で笑い飛ばすような傲慢なものだったのだ。
「あら、怖いイメージを持っていらっしゃいましたか?」
「……まあ、正直に言うとそうですね」
本来、分家として本家を立てるべき場面で、こんな発言は言語道断だ。けれど、この令嬢の所作からは不思議と毒気を抜かれてしまう。
「ふふ、正直な方で何よりです」
「あ、すみません……」
「いいえ、良いのですよ。人の上に立つ者ゆえに、振る舞いや所作が当たり前にできて当然――それだけのことですから」
(本家の印象、変わったな……)
朱里の脳内では、本家といえば「人の悪いところを煮詰めたような性格の集まりで、極悪非道を繰り返す集団」だと思っていた。
しかし、目の前の本物の令嬢は、人の警戒を解くのが恐ろしく上手い。その隙に懐へと潜り込み、本家の価値を認めさせる。なるほど、計算し尽くされ、それを「普通」にやってのけるさりげなさは、一朝一夕で身につくものではない。
(でも、本当に素でこれなのかしら……)
朱里は、梨花の淀みのない振る舞いを観察しながら自問した。
「こちらの薬局も、素晴らしい雰囲気ですね」
「ありがとうございます」
「あら、これは……新事業の薬ですわね」
浅倉家は現在、明治時代に漢方と西洋医学を融合させた薬を開発し、大手製薬会社や高級化粧品ブランドへ原料を供給する「浅倉製薬」としての顔を持っている。
その反響は凄まじく、病院や薬局に行けば必ず『浅倉』のロゴが入った薬瓶や箱を目にするほどだ。
今回、本家の人間が「調査」に来たのは、分家との交流という建前もあるが、自分たちが作った薬が市井でどう使われているかという、独占的な市場調査の役割も一部担っていた。
「こちらの薬の処方率は、どれくらいでしょうか?」
「……すみません。私共ではそこまでは存じ上げず」
「そうですわよね。急に立ち入ったことを聞いてしまって、ごめんなさい」
梨花は困ったように眉を下げ、申し訳なさそうに微笑んだ。その庇護欲を
そそる姿は、つい手を貸したくなってしまうような危うさがある。
「でも、梨花様のようなお立場でも、市場調査などなさるのですね」
「いえ、そういうわけでもないのですよ」
「えっ、そうなんですか?」
鈴音の問いに、梨花はふふと笑いながらも、芯の通った真っ直ぐな眼差しで言葉を紡いだ。
「私は、市場へも行かず、薬学についても学ばずに、ただお嫁へ行き、家の顔を立てるだけの存在でいることもできますわ。……ただ、」
梨花はそこで、言葉を付け足した。
「私は知りたいのです。どういった過程で薬が作られ、なぜその効果が出るのか。そして、どのように使われているのか。ただただ、私は知りたいだけなんですの」
「好奇心旺盛でいらっしゃるのですね。薬屋の娘である私ですら、そこまで深く知りたいとは思いませんのに」
(姉さんは、本当に本家を立てるのが上手いわね……)
鈴音は実際、薬のすべてを知りたいと考え、周囲の反対を押し切って父の仕事を継ごうと大学へ進学している。それなのに、自分を下げて相手を立てる。朱里には到底真似できない、しなやかな「分家」としての振る舞いだった。
「とんでもありません! でも、実際に薬屋での経験を積まれている方にそう言っていただけると、嬉しいですわ!」
梨花は本当に嬉しそうな色を声に乗せ、淑女として許される範囲で軽やかに跳ねてみせた。
(お世辞だって、わかっているのかしら……)
梨花という人物がどれほど善人であっても、朱里にとって、姉と共に過ごした時間に比例する信頼や尊敬には届かない。朱里の中での「特別」は、どうあがいても鈴音なのだ。
「ふふ。それでは雑談はこのくらいにして、見学させていただいてもよろしいかしら?」
「ええ。商店街振興会の理事長にも話は通してあります。ご案内いたしますね」
来週行われるこの街名物の『町内親睦大運動会』。その予行練習に、浅倉本家の令嬢が「市場文化調査」という名目で観覧する――。
(これは、本家が考えた策略……?)
梨花個人を見ていると、本家に対する不気味な印象は薄らぐ。だが、それこそが本家の狙いなのだろうか。建前や表向きばかりを気にする本家の中で、彼女だけが純粋に街の人と交流したがっているのでは……。
(……いや、考えすぎね)
朱里は思考を打ち切り、一行と共に街の小学校の校庭へと向かった。
次は、予行運動会回です!
春の陽光、鈴木さんの影
「ほら、そこ! 足元がふらついてるわよ! それじゃ魚屋の源さんに笑われるわ!」
朱里は、首に巻いた|手拭《てぬぐ》いをキリリと締め直し、自分より大きな男子生徒たちに|激《げき》を飛ばしていた。小柄な彼女が仁王立ちで叫ぶ姿は、まさに『猛獣使いの幼子』といった風情である。
一方、本部テントの中では、鈴音が応援に徹していた。
「がんばってー!」
鈴音は、いつものおっとりした声を張り上げ、両手を口の脇に添えて遠くへ響かせる。そんな彼女の姿に疑問を持ったのか、梨花が不思議そうに小首を傾げた。
「鈴音さん。それは……いったい何をしてらっしゃるの?」
「あら、すみません。ご不快に思われましたか?」
「いえ、ただ……あのような所作は、見たことがなかったもので」
浅倉本家の令嬢、いわゆる「箱入り娘」である梨花。彼女が通う私立の一貫校は、政治家や実業家の子息が集う紳士淑女の学び舎だ。
(体育祭はあっても、あんなふうに声を張り上げる応援はしないのかもしれないわね)
市井の運動会では、泥まみれになり、汗を流して一生懸命に走る。そんな姿に親も教師も一丸となって声を枯らす。梨花には、そんな「一生残る熱い思い出」が存在しないのかもしれない。
(……少し、可哀想かも)
「これは、選手を応援しているのですよ」
「……? 応援とは、拍手でするものではないのですか?」
「ふふ、市井ではこうして声を届けるのも応援なんです」
「そうなのですか」と、梨花は初めて見る文化に触れたかのように、感嘆の声を漏らした。
「梨花様に教えましょうか?」
「本当ですか! ぜひお願い、いたし……」
「お嬢様」
梨花の後ろに控えていた使用人の男が、冷や水を浴びせるような声をかけた。
(やはり、本家的には『はしたない』と映るわよね)
せっかくなら、梨花に普段できない体験をさせてあげたかった。そんな鈴音の優しさが、使用人の一言で無残に遮られてしまう。
「倉野」
梨花が、先ほどまでの柔和な表情からは想像もつかないほど冷徹な声を発した。
「せっかくの機会ですのよ。ここで学ばずして、いつ学ぶというのです?」
丁寧だが、絶対的な服従を強いる「|主《あるじ》」としての響き。だが、使用人の倉野はその圧をものともせず、|慇懃《いんぎん》な無礼さで深く頭を下げた。
「お嬢様は、正当なる浅倉の血筋。分家の方々とは、お立場が違うのです」
(あらまぁ。これが『水面下の戦い』というわけね)
鈴音は確信した。この倉野という男は、梨花個人の側用人ではない。おそらくは本家当主、浅倉誠一が放った「監視役」なのだ。当主の影を背負っているからこそ、梨花の威圧に屈することなく、分家を露骨に|貶《おとし》めるような発言ができる。
(梨花様専属の者であれば、ここで黙秘する術も心得ていたでしょうけれど……)
しかし、目の前の現実は残酷だ。倉野は、梨花の意思を尊重する味方などでは決してなかった。
「すみません、鈴音さん」
「……」
(……なんと、お声をかければいいのかしら)
薬に対しても、それ以外の物事に対しても、知らないことを知りたいと願う。そんな旺盛な知的好奇心を抱えた梨花は、今、まさに本家の重圧に苦しんでいる。
(可哀想……)
生まれ育った環境が違うだけで、ささやかな願いさえ叶わない。周囲からは|羨望《せんぼう》や|妬《ねた》みの対象になることも多いだろう。それでも、本人が心から望むことは何一つできないのだ。
可哀想——その言葉をどれほど費やしても、彼女が抱える闇は底知れない。
だからこそ、鈴音はその言葉を口には出さない。安易な同情は、梨花がこれまで懸命に積み上げてきた矜持を否定することに他ならないからだ。
「気にしないでくださいね」
梨花は、先ほどまでの冷徹な響きとは打って変わり、幾分か明るいトーンでそう告げた。この話題はここで終わり——そう、静かに幕を引いたのだ。
(私には、何もしてあげられない……)
分家である鈴音は、本家の決定に口を挟む権利を持たない。そしてたとえ本家の人間であっても、背負った歴史が梨花の自由を阻むだろう。
(頭の中が、ぐるぐると回るわ)
この孤独な令嬢を、誰か救い出してくれる人はいないのだろうか。
◆◆◆◆◆◆
「……ねえ、朱里さん。あそこにいる若者たち、さっきから練習が全く進んでいないようなのだけれど」
梨花が不思議そうに小首をかしげた。
無理もない。藤色のカーディガンを|纏《まと》った『街のマドンナ』鈴音と、水色のサマードレスを春風にそよがせる『本家のご令嬢』梨花。奇跡が二つ並んで座っているのだ。
トラックを走る若者たちは、ゴールテープではなく彼女たちの横顔に釘付けになり、足をもつれさせては次々と砂に突っ込んでいた。
「もう! あんたたち、シャキッとしなさいよ! 鼻の下を伸ばしてる暇があったら、アキレス腱を伸ばしなさい!」
(確かに綺麗だけど、それがなんなのよ!)
朱里の怒声が飛ぶが、若者たちの耳には届かない。「おい、あのお方はどこのお姫様だ」「天女の競演じゃないか」と、もはや予行練習どころではない騒ぎである。
(ほんと、馬鹿ね!)
そんな|喧騒《けんそう》の端っこで、朱里はふと足を止めた。
視線の先には、町内会対抗の『大玉転がし』に参加している鈴木さんの姿があった。いつもの丁寧な着物姿ではなく、動きやすそうなもんぺ姿で必死に大玉を押している。
(……あれ? おかしいわね)
朱里は周囲を見回した。
鈴木さんは、薬屋で「父の介護につきっきり」と言っていた。けれど、今日のような行事には、普通なら動けるお年寄りは皆、見学に来るものだ。特に鈴木さんの父親は、かつて商店街の役員を務めたほどのお祭り好き。予行練習から最前列に陣取るのが恒例だったはずだ。
だが、本部の来賓席にも、敬老席のテントの下にも、あの頑固そうな老人の姿はどこにもなかった。
(あのお祭り好きが、家でじっとしていられるはずがないわ……)
大玉の交代のタイミングを見計らい、朱里は駆け寄って声をかけた。
「鈴木さん、お疲れ様です! 今日、お父様は?」
「ああ、朱里ちゃん。父はね……ほら、今日は日差しが強いから。家で寝ている方がいいって言ったのよ」
鈴木さんはそう言って、朱里と目を合わせないまま、逃げるように次の競技へと向かっていった。
その言葉を聞いて、朱里の眉間に鋭い皺が寄った。今日は雲ひとつない快晴だが、風は冷たく、日差しも穏やかだ。「日差しが強いから」という理由は、外を歩く者が、家の中にいる者を思い浮かべて作った、安っぽい「嘘」のように聞こえた。
(なんなのかしら、この違和感……)
砂埃が舞い、若者たちが浮き足立つこの明るい校庭で、鈴木さんの周辺だけが、まるで音を吸い込む深い井戸のように見えた。
◆◆◆◆◆◆
校庭のスピーカーから、音割れした行進曲が鳴り響く。
「次は『パン食い競争』の予行です! 選手は招集所に集まってください!」
その放送を聞いた瞬間、朱里は隣のパイプ椅子を叩いた。
「ほら、お姉ちゃん! 出番よ、猛獣になりなさい!」
「あらあら、もうそんな時間?」
鈴音がおっとりと立ち上がると、梨花も楽しそうに目を輝かせた。
「パンを、空中で……? 私も近くで拝見してもよろしいかしら」
「お嬢様……」
「もちろんですよ、梨花様! さあ、こっちへ!」
監視役である倉野の制止は、朱里の威勢のいい声にかき消された。朱里は、彼がいかにも嫌そうに睨み付けてくる視線をどこ吹く風と受け流す。倉野はやがて「見るだけなら」と諦めたように、梨花の肩から手をおろした。
朱里が二人を連れてトラックの脇へ移動すると、そこには|阿鼻叫喚《あびきょうかん》の図が広がっていた。
吊るされたあんパンを目がけて飛びつく商店街の面々。だが、彼らの視線はパンではなく、観戦エリアに現れた梨花と鈴音に釘付けだ。
「うわっ!」
「あがっ!」
八百屋のサブちゃんは梨花に見とれてパンを無視し、吊るされた紐に顔面を強打。魚屋の源さんに至っては、パンを咥える瞬間に鈴音と目が合い、顎を外しそうになって悶絶している。
「ちょっと! あんたたち、真面目に食らいつきなさいよ!」
(ほんと、男って馬鹿ね!)
朱里が怒鳴り散らしていると、ふと、隣のレーンで順番を待つ鈴木さんの姿が目に入った。彼女の手には、場違いな「小さなタッパー」が握られている。
パン食い競争は、その場でパンを咥え、そのままゴールまで走り抜けるのがルールだ。だが鈴木さんは、自分の番が来ると、揺れるパンを必死に手で押さえ(立派な反則である)、口で受け止めるのではなく、まるで宝物でも扱うように素早くタッパーの中へパンを押し込んだのだ。
(えっ……今、食べなかった……?)
そのままゴールへ走り去る鈴木さんの背中を、朱里は凝視した。
運動会において、景品のパンはその場で食べるか、家族で分かち合う「戦利品」だ。けれど、今の鈴木さんの手つきは、まるでもっと切実な、別の目的があるように見えた。
さらに不審な点は続く。町内対抗『ムカデ競争』の予行が始まると、最後尾に加わった鈴木さんの足取りが明らかに不安定だった。
「鈴木さん、足が逆! 右からですよ!」
「ごめんなさい、朱里ちゃん。なんだか……最近、夜中に何度も起こされるせいか、頭がぼうっとしてしまって」
力なく漏らされたその言葉に、朱里は足を止めた。
(夜中に何度も起こされる……? お父さんの介護で?)
それなら、なおさら「日差しが強いから家で寝ている」という説明と辻褄が合わない。体調が悪いなら夜中に動き回るはずがないのだ。
校庭に響く万雷の拍手と、梨花に向けられた若者たちの歓声。その華やかな騒ぎの影で、朱里は鈴木さんのタッパーに隠された「あんパン」と、先日彼女が大量に買い込んでいた「氷砂糖」を、頭の中で必死に繋ぎ合わせようとしていた。