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目次
〖第一話〗誰も知らない、部屋の静けさ
六月の終わり、梅雨の湿気が街に纏わりついていた。夜の帳が落ちて、漸く気温が少しばかり下がった頃合い。東京都練馬区の閑静な住宅街、その一角にある古い木造二階建ての家。
その二階の一室に、小さな明かりが灯っていた。
部屋の中央には、重厚なオーク材のテーブル。その上には、ページの途中で開かれた一冊の詩集と、琥珀色の紅茶の入ったティーカップ。カーテン越しに射し込む街灯の光が、カップの表面に微かなゆらめきを描き出していた。
その部屋で一人、詩集を静かに読み耽っていたのは、|望月《もちづき》|紗季《さき》。――三十歳を迎えたばかりのフリーライターだった。
彼女の表情は穏やかで、唇の端にはごくわずかに笑みが浮かんでいる。しかしその眼差しには、どこか言い知れぬ翳りがあった。ふと、ページを捲る手が止まる。まるで、紙の質感すら記憶に刻もうとするように。
「……"硝子の詩を聴くとき、心は死者の声を思い出す"……」
呟くように読み上げたのは、詩集『水曜日の亡霊達』の一節だった。著者は、五年前に謎の自死を遂げた詩人、|芹沢《せりざわ》|律《りつ》。その死にはいくつもの謎が残されていたが、いまや話題にする者も少ない。
けれど、望月紗季は違った。
彼女はその死の真相を、ずっと心のどこかで追い続けていた。芹沢律とは、大学時代の文芸サークルで出会った仲間。恋愛関係では無かったが、彼の詩に、そして存在そのものに、何か抗いがたい引力を感じていた。
時計の針が午後九時を回ったとき、部屋のチャイムが突然鳴った。
「……こんな時間に?」
首を傾げながら玄関へ向かう。ドアを開けると、そこに立っていたのは、見覚えの無い男だった。三十代半ば。スーツの上からでも分かるがっしりとした体格に、無駄の無い仕草。彼は名刺を差し出した。
「警視庁捜査一課の|倉敷《くらしき》です。望月紗季さんですね?」
その名前を聞いた途端、胸の奥が冷たくなる。
「ええ……私です。何か、ありましたか?」
刑事は一瞬だけ視線を落とし、そして静かに告げた。
「芹沢律さんの事件に関して、新たな証言がありました。あなたにお話を伺いたいことがあるんです。」
まるで凍った時間が、五年の眠りから呼び起こされたような感覚だった。ある日、芹沢律が最後に残した詩。その言葉を、彼はまるで遺言のように残していた。
「"嘘は硝子の様だ。割れるときだけ、真実が鳴る"」
その詩の意味を、彼女は今でも理解していない。
けれど今夜、何かが始まる。それは、彼の死の謎だけではない。望月紗季自身が、ずっと閉じ込めてきた"ある記憶"に、向き合わねばならない予感がしていた。
〖第二話〗 静かなる訪問者
玄関先の空気は重く、まるで時の流れが止まってしまったかのようだった。望月紗季は名刺を指先で受け取ると、その文字を見つめた。
**"|倉敷《くらしき》|隼人《はやと》**
**警視庁刑事部 捜査第一課 強行犯係"**
文字そのものには何の異変もない。ただ、それが示す意味が、彼女の中で幾重にも重なり合い、静かに波紋を広げていく。
"芹沢律の事件に、新たな証言"――その言葉が意味することは、単なる調査ではない。彼の死が"事件"として、再び現実の土に引き戻されようとしているのだ。
「中で、お話を伺っても?」
倉敷刑事は静かな声で言った。威圧はなかった。だがその声には、何かしらの"覚悟"が潜んでいるように感じられた。
「……はい、どうぞ」
わずかに遅れて返事をし、紗季は彼をリビングへと案内した。客人を迎えることなど滅多に無い空間に、男の存在が少し異質に映る。彼は一度周りを見渡すと、テーブルの上の詩集に視線を留めた。
「芹沢律さんの詩、読んでたんですね」
「……ええ、最近また、読み返していたところでした」
彼は黙って頷くと、ソファに腰を下ろし、内ポケットから革張りの小さな手帳を取り出した。
ペンを取り出す所作に無駄はなく、訓練された動きがそこにはあった。
「まず、率直にお聞きします。あなたは――五年前の芹沢律さんの死について、自殺だとお考えですか?」
突然すぎる問いだった。けれど紗季の心の奥では、それはずっと問われ続けてきた問いでもあった。
「……あの日、彼は確かに自殺という形で亡くなりました。警察もそう結論づけた。遺書のような詩も、確かに残されていた。でも、私にはずっと、どこか引っ掛かるものがあって……言葉では説明しづらいんですけど……」
紗季は唇を噛んだ。記憶の奥底に沈んだ、あの"違和感"は、いまも形にならないまま彼女の中で渦を巻いている。
倉敷は頷き、手帳に短く何かを書きつけた。
「新たに出てきた証言、というのは――ある匿名の通報でした。その通報者は、事件当夜、芹沢律さんのアパートの前で"誰かが部屋に入ってくのを見た"と言っています。死亡推定時刻の直前、午後十一時頃の話です」
「……それって……」
「はい。もしそれが事実なら、誰かが彼の死に関与していた可能性が出てくる」
部屋の中に、長い沈黙が落ちた。時計の針の音がやけに大きく聞こえる。まるで、詩の一節にあるように――"硝子のような嘘が、今まさに音を立てて割れようとしている"、そんな感覚。
「その"誰か"が、芹沢くんを殺したと……?」
「現段階では、"殺した"とは言い切れません。ですが、通報内容が事実ならば、"少なくとも彼の死を目撃した人間"がいたことになります」
紗季の中に、一つの映像がよぎった。
――事件の数日前、久しぶりに芹沢律と交わした電話。
夜遅く、彼の方からかけてきた電話だった。内容は断片的で、妙に抽象的だった。
「俺の詩が、誰かを傷つけたかもしれない」
「硝子って、割れるときにしか本当の姿を見せないんだってさ」
「……でも、もうすぐ全部、終わるよ」
当時は、詩人特有の比喩だと思った。だが、今思えば――あれは確かに、"予告"だった。
「倉敷さん……その通報、今になってどうして?」
「それは……通報者が、最近になって"後悔"を口にし始めたからだそうです。"自分の沈黙が、真実を閉ざしたかもしれない"と」
紗季はその言葉に、妙な既視感を覚えた。それは彼女自身が、この五年間、心のどこかで抱えていたものとあまりにも似ていたからだ。
――沈黙が、真実を閉ざす。
「望月さん、最後に。あなたが芹沢律さんと最後に会ったのは、いつですか?」
「……五年前の六月二十三日。事件の三日前、彼の部屋に行きました」
「そのとき、何か、変わった様子は?」
彼女は目を伏せた。あのときの彼の瞳を、いまだに忘れていない。どこか怯えたような、けれど達観しているような、不思議な目だぅた。
「ひとつだけ……彼が、机の引き出しに詩をしまうとき、鍵を二重にかけたのが、気になりました。まるで、誰かがそれを盗みに来るのを恐れているみたいで……」
倉敷は手帳に書き留ながら、頷いた。そして静かに言った。
「その"詩"こそが、今回の再調査の鍵になるかもしれません」
部屋の空気が、確実に変わっていた。これまで閉じていた時間が、音を立てて動き出す。
それはまるで――
"死者が、言葉を通して語りかけてくる"、そんな夜の始まりだった。