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目次
懐かしき落胆
8/16日の日替わりお題。
ドキドキ・子ども・体温計
実際にやったことはない。「ドキドキ」要素が薄くなったような。
昔から運動は得意ではなかった。長く走れば胃がキリキリと痛み、足が次第にもつれていく。球技はどんくさいせいか、球が顔に当たることもしばしばだった。ダンスもリズム感がないので、てんでダメだった。自分でも分かりきってはいたけれど。
「こうなるくらいなら、あんたに体操でも習わせておけばよかった」
これが、私に運動をさせるときの母親の口癖である。耳にタコができるくらい聞いたその言葉を受け流し、今日までずっと生きてきた。
電子音が鳴ったので、脇から年季が入った体温計を取り出す。36.4度。平熱。
熱でも出ていないかなあという淡い期待は砕けたり、今日の運動会に行くということがほぼ確定した。一年のうちでもっとも嫌な行事だ。
出ても褒められることはなく、クラスメイトからは気まずい目で見られるばかり。母からはお小言が飛んでくる。
だったら、こっちで浴びた方がマシだ。
私は体温計を手に取って、ホットミルクに近づいた。毎朝飲んでいる熱々のそれから、湯気がもくもくと空中に昇っている。
えい、と。水面ギリギリまで体温計を近づけて、温めてみる。元々壊れかけている体温計にトドメを刺すことになるかもしれないが、しょうがない。私の心を守るためなのだ。
つまりは、仮病。悪知恵。
しばらく近づけて、拾い上げた体温計は心なしか、じんわり温まっている気がした。
その熱を逃さないように、手で体温計の先を囲んで、祈りを捧げる。母には見られていない。お弁当の準備で忙しいからだ。
計り終えた体温計の画面を、恐る恐る覗く。
36.8度。絶妙な温度だ。少し上がったとはいえ、平熱の域を出ることはないだろう。
はあ、と大きくため息をついた。もう一度脇に挟んで測ってみても、36.9度。それにさらに私は落胆する。アレに意味なんてなかったのだろうか。湯気がなくとも、私がドキドキしたから36.9度が出ただけだ、とか。
その時、母のよく通る声が響き渡り、私はおとなしく声がする方向であるキッチンへと向かった。
体温計は生贄となることはできなかった。私は冷ややかな視線に晒されることを覚悟して、玄関のドアを開く。
まだ5月だというのに、蒸し暑い空気が私を出迎えた。
次に使おうとした時は、本当に熱が出た時だった。体温計は額に近づけて体温を計る非接触方式に買い替えられていたのを初めて知ったのも、この日だった。旧体温計では体温を計るのに
それ以来、なんだか無性にあの体温計が懐かしくなるのだ。