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目次
1
「——ねぇ、あの日、私に傘を差し出したのって……あなた、だったよね?」
---
梅雨の終わりが近づいていた。
灰色の空に、雲が重たく垂れ込めていて、どこまでも湿っぽい。
向日葵 柚子月(ひまわり ゆずき)は、駅のホームの端っこに立って、何本目かの電車をやり過ごしていた。
自分でも、何をしているのか分かっていた。いや、分かっているのに「しない」のだ。
——電車に乗るふりをして、彼に会う時間を稼いでいる。
彼とは話したことがない。ただ、毎日、同じ時間に同じホームに現れる大学生らしき人。
黒髪を短く整えたその人は、いつも白シャツで、文庫本を手にしていた。ページをめくる指が静かで、整っていて、何より「余計な音を立てない」人だった。
(あの人、本当に……静かだよね)
それが、初めて目にしたときの印象。
でもそれ以上に、柚子月には忘れられない出来事があった。
——3週間前。
突然の豪雨。傘を忘れた柚子月は、バス停の屋根の下で立ち尽くしていた。
通り過ぎていく人々の中で、ひとりだけ立ち止まった人がいた。
それが、彼だった。
「使ってください。」
そう言って、一本のビニール傘を差し出してくれた。
彼自身は、肩まで濡れていたのに、柚子月にだけ傘を残して去っていった。
名前も、学校も、何も知らない。
けれど、柚子月の中で、あの一瞬が焼きついて離れなかった。
(……今日こそ、話しかけられるかな)
電車が到着する音が遠くで聞こえる。
そして、彼がいた。
白シャツの肩にうっすら水滴を浮かべ、ホームの端で文庫本を開いている。
柚子月は、小さく深呼吸した。傘を握りしめる。あの日返せなかった、あの傘。今日、ようやく返せる——そう思っていた。
でも、足が動かない。
(やっぱり、無理だ……)
彼がページをめくるその手に見とれて、視線が交差した——その一瞬。
「……あ。」
彼が、目を細めて笑った。
それは、微笑みでもなければ、社交的な挨拶でもなかった。
まるで、「久しぶり」とでも言うような、やさしい記憶のような笑顔だった。
柚子月の胸が、一気に熱くなる。
(あの人、覚えてる……?)
その瞬間、電車が滑り込む音が大きくなり、乗り込む人々に押されて、彼の姿が見えなくなった。
けれど、柚子月の手の中には、あの日もらったビニール傘が握られている。
「——次は、ちゃんと話そう。」
その決意だけを胸に、彼の背中を目で追った。
紫陽花の咲くころ。
少しずつ晴れていく空の下で、恋がゆっくりと、始まりかけていた。
向日葵柚子月さんすいません!主人公の名前にしちゃいました!
だいぶ前に送ってくださったリクエストを使い回してるんですけど、
送り主が向日葵柚子月さんだったので、!
嫌だったら言って下さい!1話で止まっとくんで!
2
**傘と、名前と、あの日のこと**
次の日も、雨が降っていた。
霧のように細かくて、触れたらすぐに消えてしまいそうな雨。
まるで、心の中にある「話しかけたいけど、話しかけられない」その気持ちに似ていた。
柚子月は、昨日と同じ場所に立っていた。傘を、ぎゅっと握って。
(今日こそ……)
だけど、ホームの向こう。彼の姿がなかった。
電車が何本か来ては去り、人が通り過ぎても、彼は現れない。
(もしかして……昨日、微笑んだのは“もう関わりません”って意味だったのかな)
不安が胸を占めていく。
けれどそのとき。
向かいのホーム、階段の上に、白いシャツの人影が見えた。
彼だった。
少し息を切らしながらも、落ち着いた足取りでホームへと歩いてくる。
そして、昨日と同じ位置に立ち、文庫本を開いた。
その瞬間、彼が顔を上げて、こちらを見た。
目が合う。
(今なら、行ける——!)
勢いに任せて、柚子月は階段を駆け下り、彼がいるホームへと移動した。
心臓が、暴れている。緊張で手汗がにじむ。でも、傘を返す。それだけなんだから。
彼の前に立った瞬間、彼がゆっくりと本を閉じた。
「……こんにちは。」
先に声をかけたのは、彼だった。
その静かな声に、柚子月の鼓動が一段と跳ね上がる。
「え、あ、えっと……こんにちは……!」
挨拶だけで顔が真っ赤になる。
でも、それでも伝えなきゃと思った。
「この……傘、あのとき……ありがとうございました。あの日、すごく助かって……」
震える手でビニール傘を差し出す。
彼はその傘を見て、少し驚いたように目を細めた。
「覚えててくれたんですね。嬉しいです。」
「もちろんです……! あのとき、誰も止まってくれなくて……でも、あなたが……」
言葉が詰まる。
彼は優しく笑って、傘を受け取った。
「ありがとうございます。名前、聞いてもいいですか?」
「……あっ、はい! 向日葵 柚子月です。ひまわりって書いて、“ゆずき”って読みます。」
「向日葵さん……いい名前ですね。」
「え、あっ……ありがとうございます……っ」
もう顔が溶けそうだった。
「僕は……椿谷 蓮(つばきや れん)って言います。」
——椿谷 蓮。
やっと知れた、彼の名前。
だけどその名前を聞いた瞬間、どこか懐かしさのような、妙なざわめきが胸の奥で広がった。
(椿谷……蓮……?)
何かを、思い出しかけたような——そんな感覚。
「じゃあ、また。……向日葵さん。」
蓮は電車に乗り込んで、静かにドアの向こうへ消えていった。
残された柚子月は、息も忘れたようにその名前を何度も心の中で繰り返した。
---
——椿谷 蓮。
どこかで、聞いたことがある気がする。
もしかして——“初恋”の、あの人?
向日葵柚子月さん、有難うございます!使わせていただきますっ!
---
次回:
「初恋の記憶、止まったままの時計」
——彼との過去に繋がる、意外な“再会の真実”が少しずつ明らかに。
3
**止まったままの時計**
その名前は、
私の中で、ずっと“時間”を止めたままになっていた。
——椿谷 蓮。
電車のドアが閉まったあと、向日葵 柚子月は、しばらくその場から動けなかった。
胸の奥がずっとざわざわしていて、鼓動が不規則に跳ねていた。
(椿谷って……)
そんなに多い苗字じゃない。
けれど、確かに知ってる。もっと幼い頃に——。
放課後、自室に戻った柚子月は、押し入れの中から古い段ボールを引っ張り出した。
「子ども時代の宝箱」みたいな箱。
アルバム、手紙、絵、ビーズのネックレス、折り紙……その奥に、やけに古びた一冊のノートがあった。
——「ひまわり日記」。
小学校2年のときに書いていた、秘密の日記。
ページをめくると、ぎこちないひらがなでこんな言葉があった。
---
『きょう、れんくんとあめのなかで、あじさいをみた。』
---
『わたしはかぜをひいたけど、れんくんがずっとそばにいてくれた。』
---
『れんくんと、またあいたい。おとなになっても、ぜったいに。』
---
(……蓮くん?)
日記の挿絵には、小さな紫陽花と、男の子と女の子の落書きが描かれていた。
(まさか……)
胸の中にある「懐かしさ」の正体に、柚子月は気づいた。
それは、彼が「初恋の人」だったという可能性——。
小学校2年生のとき、ほんの数ヶ月だけ隣の家に引っ越してきた男の子。
転校生で、口数は少なく、雨が好きで、紫陽花を見に行くのが好きだった男の子。
---
「ぼくね、あめ、きらいじゃないんだよ。みんながかささすから、ひとりじゃなくてすむから。」
---
「ゆずきちゃんは、ひまわりみたいにあかるいから、すき。」
---
言われたことがある。ちゃんと覚えている。
でも、いつの間にか彼はいなくなった。
急な引っ越しだった。連絡先も聞けず、そのまま何年も時が流れた。
(あのときの“蓮くん”が……今の“椿谷 蓮さん”?)
信じられなかった。でも、ありえる。
紫陽花。傘。静かな声。そしてあの笑顔。
柚子月は携帯を手に取り、「椿谷 蓮 大学」と検索をかけてみた。
——ヒットした。
隣町にある“青蘭(せいらん)大学”文学部。講義の推薦レビューに、彼の写真が小さく載っていた。
名前も、顔も、間違いない。
---
——私の“初恋の人”は、本当に、目の前に現れてたんだ。
---
次の日、柚子月は駅で彼を待っていた。
傘はもう返した。でも、まだ伝えたい言葉があった。
——私、あなたのこと、覚えてるよ。
あの日の雨、紫陽花、名前、手のぬくもり。
時間が止まったままだった“あの瞬間”を、今こそ動かしたい。
蓮がホームに現れた。
文庫本を開こうとした手が止まり、柚子月に気づいて、小さく笑う。
(今日こそ——言う)
だけどそのとき、彼の隣に、ひとりの女性が歩み寄った。
「蓮、遅いよ〜。今日のカフェ、予約入れてたのに!」
彼女は親しげに蓮の腕を掴んだ。
柚子月の視界が、一瞬、ぐらりと揺れた。
蓮は戸惑ったように柚子月と目を合わせて、口を開きかけた。
けれど、柚子月はなぜか、ただ会釈だけして、その場を離れてしまった。
(どうして、逃げたの? 私……)
自分でもわからなかった。
でも胸の奥に、小さなひびが走る音がした。
次回:第4話
「好きだったのに、知らない顔」
——蓮の隣にいた女性の正体。そして、柚子月の想いは揺れ始める。
4
好きだったのに、知らない顔」
「蓮、遅いよ〜。もう注文しちゃうからね!」
ホームに現れた女性は、明るい声で彼の名前を呼び、自然に彼の腕を掴んだ。
まるで、何年もそうしてきたように。
柚子月の胸に、知らない痛みが走った。
彼女は美人というより、華やかで、都会的な空気をまとう女性だった。髪は巻かれ、ネイルは完璧、笑顔には迷いがない。
柚子月は思わず、会釈だけしてその場を離れてしまった。
(違う、これはただの友達かもしれない……いや、でも)
蓮の顔は、確かに少し戸惑っていた。
けれど、否定もしなかった。彼女の手を振り払うこともなかった。
(私、何を期待してたんだろう)
胸の奥に、小さな後悔と、自分でも説明のつかない「喪失感」が残った。
数日後。
彼には会っていない。駅にも、行っていない。
柚子月は避けていた。自分の気持ちがわからなくなっていた。
「ねえ、最近、元気ないね?」
そう声をかけてきたのは、親友の凛音(りんね)だった。
「え……うん、ちょっとね」
「ふーん……まさか、恋とか?」
「えっ!? ち、ちが……!」
「当たりじゃん」
笑う凛音の明るさに、少しだけ救われた。
「私さ、思うんだけど……」
「好きって気持ちってさ、“確かめる”より、“信じる”ほうが、強いよ。」
それは、柚子月の胸に静かに響いた。
数日後。
またあの駅のホームに立った柚子月。
雨は止んでいたけれど、空はまだ灰色だった。
そして——彼は、いた。
「こんにちは、向日葵さん。」
変わらない笑顔。だけどどこか、気まずさが混ざっているように感じた。
柚子月は勇気を出して、言った。
「この前……一緒にいた人、彼女さん……ですか?」
蓮は、少し黙ったあとで、ゆっくり首を横に振った。
「……違います。大学の同期で、いま、出版関係のインターンやってて。たまに打ち合わせするくらいです。」
「……そっか」
それだけなのに、息がしやすくなった気がした。
「でも……向日葵さんが、あのときあんな風に帰っちゃったから、ちょっと寂しかったです。」
「えっ……」
蓮は、少しだけ笑った。その目は、どこか子どもみたいに寂しげで。
「僕、あなたにまた会いたくて、ずっとここに立ってたんですよ。」
その言葉に、柚子月の胸が一気に熱くなる。
(どうしてそんな風に言うの……)
けれど、返事ができなかった。
紫陽花は、まだ咲いていた。
でも、少しずつ色を褪せていく季節。
柚子月の心にも、少しずつ「確かめたい想い」が芽を出し始めていた。
📘第5話予告:
「初恋じゃ、終われない」
——向き合いはじめた“今”の気持ち。柚子月、少しずつ蓮の過去へ近づく。
5
**初恋じゃ、終われない**
蓮が言った。
「僕、あなたにまた会いたくて、ずっとここに立ってたんですよ。」
たったそれだけで、胸の奥が苦しくなるほど嬉しかった。
でも、それと同時に怖くなった。
`——“初恋”だけで、片付けられたくない。`
それが、柚子月の本音だった。
翌日、雨は止んで、空が高かった。
放課後、柚子月は小さなカフェでひとりアイスティーを飲んでいた。
スマホの通知を何度も確認する。蓮から連絡が来るわけでもないのに。
(また、あのホームで会えるかな……)
ふと、店内のテレビから、文学賞のニュースが流れた。
「青蘭大学の学生、椿谷蓮さんの掌編が最終選考に——」
柚子月の手が止まった。
(……え? 掌編? そんな話、してなかった)
テレビの画面には、短いインタビュー動画が映った。
そこには、いつもの彼とは違う、少し緊張したような表情の蓮がいた。
「文章にすることでしか、伝えられないことがあると思うんです。」
(……私、この人のこと、全然知らないかもしれない)
蓮の隣にいた女性のことじゃない。
彼自身のことを、何も知らないという事実が、突然リアルに迫ってきた。
夕方、再びホームで蓮に会った。
「テレビ、見ました。すごいですね……あの賞。」
「あ、見ちゃいましたか。……恥ずかしいですね。」
蓮は少しだけ照れたように笑ったけど、その目はどこか遠くを見ていた。
「ねぇ、蓮さん。……文章にすることでしか、伝えられないことって、たとえばどんなこと?」
彼は黙った。
それから、そっと視線を下ろしながら呟くように言った。
「……誰かに言葉を残しておきたかったんです。ちゃんと、思っていたことを。」
「“誰か”って……昔の、誰かですか?」
蓮はしばらく黙って、それから小さくうなずいた。
---
「雨の日に、傘を差し出した女の子がいて——
それから、その子のことが忘れられなくなったんです。」
---
心臓が、跳ねた。
でも彼は、あくまで静かに、まるで物語を話すみたいに続けた。
「でもね、その子は、僕のことを忘れてしまったんです。きっと当然です。あれは子どものころの、ほんの数日の記憶だから。」
「……忘れてませんよ。」
柚子月は、小さな声でそう言った。
蓮の目が、動いた。
「え?」
「私……覚えてます。紫陽花の坂道。風邪ひいた私のそばにずっといてくれたこと。
あなたが言った言葉。……“僕は雨がきらいじゃない”って。」
蓮の目が、大きく見開かれた。
「……向日葵さんが、あのときの——?」
柚子月はうなずいた。目が熱くなった。
「だから……“初恋”で終わらせたくないって思ったんです。」
彼は、驚きと、それからゆっくりとした安堵のような笑みを浮かべた。
「……こんな偶然、あるんだな。」
駅のホームに、ゆっくりと電車が滑り込んでくる。
人々の喧騒の中、二人だけが、静かに見つめ合っていた。
紫陽花の季節は、まだ終わらない。
そして——“再会”から、“何か”が始まろうとしていた。
📘第6話「距離、縮まる午後」
——初めてのふたりきりの時間。柚子月と蓮、ささやかな“約束”へ。
6
**距離、縮まる午後**
再会から数日後の放課後。
蓮が「よかったら一緒にどうですか」と誘ってくれたのは、小さな喫茶店だった。
静かでクラシックが流れる、ちょっと古めの空間。
二人きりで座るテーブル。
メニューを開いても、目に入らない。鼓動がうるさい。
「……本当に、私でよかったんですか?」
思わずこぼれたその言葉に、蓮はカップを口に運びながら答えた。
「“向日葵 柚子月”って名前、ずっと覚えてました。ひまわりって名前、あの時も不思議だなって思って。」
柚子月は驚いた。
「私……あのとき、自分の名前言ったっけ……?」
「日記に書いてありました。」
「……え?」
「置き忘れてたんですよ、あのベンチの上に。勝手に開いたら、名前が書いてあって。」
柚子月の顔が一気に熱くなる。
「うそっ……全部、読んだんですか?」
「読みました。ぜんぶ。……何年経っても、僕にとって、向日葵さんは“初恋”です。」
それは、ささやかな告白だった。
でも柚子月にとっては、人生で一番やさしく心に落ちる言葉だった。
7
誰にも言えないこと」
翌週。
柚子月は、学校で密かに悩んでいた。
教室でふと耳にした噂——
「青蘭大学の蓮先輩、前に同じ大学の子と付き合ってたんだって。」
(……元カノ?)
それが誰かはわからなかった。
でも、やっぱりあの女の人じゃないかと、思ってしまう自分がいた。
(私は、何も知らないまま“好き”になろうとしてるんだ)
蓮と過ごす時間は優しい。
でも、そこにまだ“彼の影”がある気がして、怖かった。
その夜、柚子月は思いきって蓮にLINEを送った。
---
れんさんって、前に誰かと付き合ってた……?
---
すぐに既読がついた。でも、返事はなかった。
8
**本当のことだけで、恋はできない**
次に会ったのは、土曜日の図書館。
たまたま同じ場所にいた。声をかけようか迷っていると、蓮の方から歩み寄ってきた。
「……LINE、読んだよ。」
柚子月は小さくうなずいた。
「……ごめん、嫌だった?」
蓮はしばらく黙ったあと、ゆっくり答えた。
「……本当は、言わないつもりだった。恋愛で誰かをがっかりさせたこと、あるから。」
「……がっかり?」
「……付き合ってた子がいて。大学入ってすぐ。でも……僕、ちゃんと向き合えなくて。文章にばっか逃げてた。」
彼の声は、少しだけ震えていた。
「それで……その子、泣かせたんですか?」
「うん。」
沈黙が流れる。
だけど柚子月は、心の中でひとつだけ決めた。
(過去は過去。
それでも私は——“今の彼”を見ていたい)
9
**ひとりきりで咲く花じゃない**
月曜の帰り道。
柚子月と蓮は、初めて並んで歩いた。
駅から続く紫陽花の坂道。昔、二人が雨の中で歩いた道。
「この道、まだ覚えてたんですね。」
「忘れませんよ。……私の、初恋ですから。」
蓮は少しだけ顔を赤くして笑った。
「この坂、紫陽花が咲くころだけ、綺麗になるんです。……でも、咲いてるあいだは、みんな“雨の日”なんですよね。」
「……それでも咲くんだね。」
「そう。……ひとりじゃ、咲けない花だから。」
柚子月はその言葉を聞いた瞬間、ふと涙がこぼれそうになった。
“ひとりじゃ、咲けない”。
あのとき、あの傘の下で見上げた花も、
今こうして隣にいる蓮も、ずっと心の中に咲いてた。
10
**好きが重なった日**
金曜日の夕暮れ。
蓮から、ぽつりと一言だけLINEが届いた。
---
「会って、話したいことがあります」
---
駅で会ったとき、蓮は少し緊張したような顔をしていた。
「……向日葵さん。僕……もう一度、ちゃんと言いたくて。」
柚子月は、息を飲んだ。
「昔の思い出だけじゃなくて、“今”の君が好きです。……もしよかったら、僕とちゃんと向き合ってくれませんか。」
——返事は、決まっていた。
「うん。……私も、あなたが好きです。」
その瞬間、電車が通り過ぎて風が吹いた。
それはまるで、紫陽花の花びらを優しく揺らすような——
“はじまり”の風だった。
第1章完結(1話〜10話)
——ふたりの再会と、気持ちが重なりはじめた“はじまりの章”。
11~20
**手をつないだ日**
交際が始まって、最初の週末。
柚子月と蓮は、静かな公園を歩いていた。
喫茶店で少しおしゃべりして、帰り道に“手をつなぐか”迷っていたとき——
「……いいですか?」
先に手を伸ばしたのは、蓮の方だった。
柚子月はそっとその手を握った。
あたたかかった。
やさしくて、少し不器用で、でもしっかりと力があった。
(ああ、ちゃんと“今”を歩いてるんだ……私たち)
その日は、紫陽花が静かに見守ってくれていた。
**元カノの名前**
付き合い始めて、初めての違和感。
駅前で蓮と待ち合わせていたとき。
背の高い女性が、蓮に向かって話しかけてきた。
「あれ? 久しぶりじゃん。元気だった?」
「……七瀬さん」
(七瀬?)
彼の声のトーンが明らかに下がった。
その女性は軽く笑って、「相変わらず地味な服ね」と言い残し、去っていった。
「……あの人が、元カノ?」
蓮は小さくうなずいた。
「向こうから告白されて、僕は流されて……。でも、途中から気づいてた。
ちゃんと“好き”じゃなかったって。」
それは、彼の後悔だった。
でも、柚子月の胸の奥には、見えない小さな棘が刺さった。
**あなたの知らない私**
柚子月にも、“誰にも言っていない秘密”があった。
——高校時代、演劇部で脚本を書いていたこと。
人前では目立たず、おとなしいと見られていたけれど、
その実、誰よりも“物語”に恋していた。
「私ね、ずっと誰にも話せなかったけど、脚本書いてたの」
「え、それ……すごい。読んでみたいな」
「だめ、恥ずかしいから」
そう言って笑い合えることが、心の距離を縮めてくれた。
「今度、一緒に“物語”書いてみませんか?」
蓮が、真顔でそう言った。
(この人となら、何かを“生み出す”恋ができるかもしれない)
**写真の中の彼女**
柚子月は、蓮のインスタをふと開いた。
最近はほとんど更新されていないアカウント。
過去の写真を遡っていくと、ある一枚に目が止まった。
それは、蓮と七瀬のツーショット。
笑顔。親しげな距離感。
キャプションには《たぶん、一生の友達。》の文字。
(……一生?)
胸がざわついた。
(私、まだ“過去”に勝ててない)
けれど——その夜、蓮が何の前触れもなく送ってきた写真。
紫陽花の坂道。傘を差して歩く、ふたりの影。
《今のほうがずっと綺麗だって思うよ。》
それだけで、柚子月の心はそっとほどけた。
**誕生日の嘘**
6月末。柚子月の誕生日。
だけど彼女は、なぜか蓮にその日を伝えていなかった。
(祝われるの、怖い。期待してがっかりしたくない)
でも——蓮は覚えていた。
学校帰りの坂道で、さりげなく紙袋を差し出してきた。
「……もしかして今日じゃなかったらごめん。でも……“6月27日”、ってあの“日記”に書いてあった」
中には、彼が手作りした詩集と、文庫本サイズの柚子月のための短編が一冊。
「……私、ちゃんと祝われたの、人生で初めてかもしれない」
嬉しくて、泣いた。
手が震えた。
言葉にならない気持ちが、全部その短編に詰まっていた。
**夏が近づく音**
夏が迫る。
蝉の声。湿った空気。
紫陽花がゆっくりと枯れていく季節。
だけど、柚子月の心はますます色づいていた。
「夏祭り、一緒に行きませんか?」
誘ったのは、柚子月からだった。
「浴衣……似合うかな」
「似合わないわけがない」
すぐに返ってきたその言葉に、胸がきゅっとなった。
**手を離したくなかった**
夏祭り当日。
柚子月は、薄紅色の浴衣にそっと身を包んだ。
蓮が目を見開いて、静かに言った。
「……綺麗です。ほんとに」
花火が打ち上がる夜。
人混みの中、二人はずっと手をつないでいた。
(手を離したくない)
その気持ちが、どんどん強くなる。
そして帰り道。
蓮が、ふいに言った。
「……キス、してもいいですか?」
柚子月は、黙ってうなずいた。
柔らかい音と、熱と、花火の残り香だけが、夜に残った。
**初めての喧嘩**
週明け。
「蓮、あの七瀬って人……まだ連絡取ってるの?」
「……取ってないよ。ただ、出版社の関係で顔を合わせることはあるかもしれない」
「そう……」
些細なことで不安になって、口調がきつくなってしまった。
蓮も苛立った声で返してきた。
「信じてくれてると思ってたから、何も言わなかった」
重たい空気。
帰り道、会話がなくなる。
初めての、すれ違い。
**それでも好きだった**
喧嘩から2日後。連絡はなし。
蓮のことを考えるだけで、胸が痛い。
(私、信じるって言ったのに。結局、不安をぶつけただけ)
そう思ったとき。
スマホに届いたひとつの写真。
紫陽花の坂道に咲いた、最後の一輪。
《あの花、もうすぐ散るよ。でも、僕はまだ、君を待ってる。》
走った。
あの日と同じように、全力で。
坂の途中に、彼はいた。
「……ごめん。全部、私が悪かった」
「……違うよ。僕も、ちゃんと話せてなかった。信じさせてあげられなかった」
そしてふたりは、何も言わず、抱きしめ合った。
**これが“恋”なんだね**
夜のベンチ。
蓮の肩にもたれながら、柚子月はぽつりとつぶやいた。
「これが“恋”なんだね」
「うん。……傷ついても、離れたくないって思えること」
紫陽花はもう咲いていなかった。
でも、二人の心の中にはまだ、ちゃんとあの色が咲いていた。
---
🌸第2章完結(11話〜20話)
——“好き”のその先へ。すれ違いながらも、二人は強く結ばれていく。
21
**影の訪問者**
梅雨明けを目前にした、重たく湿った夕暮れだった。
教室の窓から空を見ていた柚子月のスマホが、不意に震えた。
表示されたのは、登録のない番号。躊躇しながらも通話ボタンを押すと、静かで冷ややかな声が耳に届いた。
「向日葵柚子月さんですか? 私、椿谷蓮の元カノの七瀬です。」
一瞬、思考が止まった。
誰かのイタズラかと思った。しかし、その名前を柚子月は知っていた。
蓮の“過去”の人。蓮が一度だけ、声を濁して語った女性。
まさか、直接連絡をしてくるなんて——。
「突然ごめんなさい。あなたと蓮くん、付き合ってるのよね?」
柚子月は返答に詰まった。なぜ知っているのかも聞けないまま、彼女は続けた。
「あなたに、直接会って話したいことがあるの。……彼の本当のことを。」
心臓が脈打つ音がうるさく響く。
信じたい気持ちと、知りたくない気持ちが綱引きしていた。
七瀬の声は落ち着いていたが、どこか挑むような響きを帯びていた。
「明日の放課後、駅前の喫茶店で待ってるわ。」
通話は、それだけで一方的に終わった。
柚子月はしばらくスマホを握りしめたまま、動けなかった。
その時、彼女はまだ知らなかった。
この再会が、蓮の「秘密」の扉を静かに開きかけていたことを——。
22
**七瀬の真実**
翌日の放課後、柚子月はひとり、駅前の古びた喫茶店のドアを押した。
中は薄暗く、レトロなシャンデリアがゆっくりと回っている。
窓際の席に、整った黒髪の女性が座っていた。
スーツ姿で、彼女はまっすぐに柚子月を見た。
「……来てくれてありがとう。」
彼女——七瀬は、思っていたよりも大人びて見えた。表情も言葉も、どこか距離を保っている。
柚子月が向かいに座ると、すぐに本題に入った。
「……私ね、まだ蓮のことを好きだって思ってるわけじゃない。でも、放っておけないの。彼はね、優しいけど……すぐ、誰かの期待に応えようとする。だから、時々自分を見失うの。」
柚子月は静かに聞いていた。
蓮のことを、確かにそういう人だと、自分も感じていた。
「私たち、あのとき別れたのは、お互いのせいだった。蓮は、いつもどこか遠くを見ていて……その中心に私はいなかった。」
七瀬は、コーヒーに口をつけながら、続ける。
「ねえ、あなたは、彼の“今”しか見ていないように思える。過去の彼を、受け入れられる?」
柚子月の胸が、きゅっと締めつけられる。
「彼は、“嘘”が書けない人なの。だから、物語には全部、本当のことが出る。私とのことも……あなたのことも。ねえ、それを全部読める? 受け止められる?」
質問の答えは、すぐには出せなかった。
彼女の言葉の奥にある、未練とも忠告ともつかない感情が、静かに刺さってくる。
「私が何を言いたいかっていうとね、彼はあなたの理想でい続けることはできないよってこと。」
——蓮の“本当の姿”。
それを柚子月は、まだほんの一部しか知らないのかもしれない。
ただの恋では終われないと願ったあの日から、心は確かに進んできた。
でも今、その歩みが問われている気がした。
---
次回:第23話「揺れる心」
この言葉を受けて揺らぐ柚子月の内面と、蓮との対話。
23
**揺れる心**
七瀬と別れたあと、柚子月はしばらく駅前のベンチに腰を下ろした。
人の波が行き交う中で、自分だけが取り残されたような気がして、息を吸うことさえ難しかった。
(私……何を信じればいいの?)
七瀬の言葉は、冷静で理路整然としていた。
感情的な嫉妬ではなかったからこそ、余計に深く胸に刺さる。
蓮が誰かの期待に応えすぎること。
物語に“本当”が出てしまうこと。
それらは、柚子月が彼と過ごす中でうっすら感じていた部分でもあった。
帰り道、スマホを握ったまま、何度も蓮にメッセージを書こうとしては消した。
(私、弱いな……)
家に着く頃には、空はすっかり暮れていた。
部屋に入ると、机の上には以前蓮がくれた短編の冊子が置いてある。
文庫本サイズの、白地に淡い紫陽花が描かれた表紙。
ページをめくる。
物語の中の主人公は、“柚月”という名前の少女。
その彼女は、不器用な青年と出会い、季節を越えて、恋をする。
読み進めるほどに、そこに書かれているのは`“現実の二人”`だった。
ぎこちなくて、優しくて、でもどこか臆病な恋の描写。
何より、ページの片隅に小さく記された一行が、心を突いた。
---
「過去に縛られるのは怖いけど、未来に賭けるのは、もっと勇気がいる。」
---
まるで、自分への問いかけのようだった。
(蓮くん……)
スマホを開いて、ようやくひとつだけ、メッセージを送った。
---
「明日、会って話せる?」
---
返事は、すぐに届いた。
---
「もちろん。僕も話したいことがある。」
---
胸の中に残っていた不安は、すぐには消えない。
けれど今は、彼と向き合うことを選びたいと思った。
それは怖さではなく、信じたい気持ちに変わり始めていた。
---
次回「告白の夜」
柚子月と蓮が静かな夜の中で、お互いの気持ちを本音で語り合う。
24
**告白の夜**
その日の夜は、まるで梅雨が一瞬だけ休んだような静かな空気だった。
空気は少し湿っていたが、雨は降らず、風も穏やかで。
柚子月は、小さな鞄を握りしめながら、待ち合わせの坂道をゆっくりと上がっていた。
紫陽花の花はもうほとんど枯れていたが、わずかに残る淡い青が、ぽつぽつと歩道に咲いている。
ふと、見慣れた姿が木陰に立っていた。
「柚子月さん。」
蓮だった。
いつもよりも静かな笑みを浮かべている。
柚子月の胸が、どくん、と鳴る。
「……来てくれてありがとう。」
「ううん、私のほうこそ……話したいって思ってた。」
そう言って、ふたりは並んで歩き出した。言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「七瀬さんに、会ったの。」
その名前を出すと、蓮は一瞬だけ歩みを止めた。
けれどすぐに、隠さずにうなずいた。
「……知ってる。彼女から連絡があったんだ。……たぶん、迷惑だったよね。」
「ううん。びっくりしただけ。でも、少しわかった気がした。
……蓮くんは、自分のことより、誰かの気持ちを優先しちゃう人なんだって。」
彼は苦笑する。
「それ、欠点でしょ?」
「……でも、私が好きになったの、そういうところなんだよ。」
風が吹いた。
紫陽花が、かすかに揺れた。
「七瀬さんに言われたの。“彼の全部を受け入れられる?”って。」
「……それで、怖くなった?」
柚子月は首を振った。強く、ゆっくりと。
「怖くなったけど、それでも……私は、
あなたが今まで背負ってきたものも、傷ついてきた部分も、
全部を“物語”として、愛せる気がする。」
それは、決意に近い言葉だった。
柚子月の声は少し震えていたが、目はまっすぐ蓮を見ていた。
蓮は、言葉を探すように少しだけ沈黙して、ぽつりと言った。
「……本当に、君が僕の“物語の結末”でいいのかな。」
「うん。私は、蓮くんの“続き”になりたい。」
そしてその瞬間、ふたりの心が再び重なった。
ゆっくりと、自然に、彼の手が柚子月の手を包む。
——紫陽花が、もう一度咲いた気がした。
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次回「七瀬との対峙」
蓮が過去に本当の“終止符”を打ちにいく。
過去と未来、どちらに背を向けるのか。
25
**七瀬との対峙**
翌週の金曜日。午後4時。
蓮は、約束のカフェに静かに姿を現した。
そこは、かつて七瀬と何度も来た場所だった。
ガラス越しに見えたのは、変わらぬ黒髪とアイスコーヒー。
七瀬は、蓮の姿を確認してもすぐには表情を変えなかった。
けれど、彼が席につくと、小さく息を吐いた。
「やっぱり、来てくれたのね。」
「話がしたいって言われたから、来たよ。」
蓮は真正面から七瀬の目を見る。
そこには、もう昔のような遠慮も、迷いもなかった。
「もう、未練はないよ。でも……
ずっとちゃんと終わらせられてなかったのは事実だと思ってる。」
「……ふうん。」
七瀬は、ほんの一瞬だけ、さびしそうに笑った。
「それって、“君のことは好きだったけど、今は違う”っていうやつ?」
「違う。……最初から、ちゃんと“好き”だったかどうか、
今でも答えは出せない。君が僕に好意を向けてくれて、
僕はその期待に応えようとしてただけだった。」
「……最低。」
「うん、そう思う。でも、嘘を重ねる方がもっと最低だから。
……だから、君にも、僕自身にも終わらせたかった。」
七瀬は目を伏せ、指先でストローを回す。
「彼女、素直そうだった。……怖くならない?
ああいう子、真っ直ぐなぶん、簡単に傷つくよ。」
「うん、わかってる。だから、絶対に、
彼女の心を迷わせたりしないって決めた。」
七瀬は目を細めた。まるで遠くを見るように。
「へえ……そんな顔するようになったんだ、蓮。」
そして立ち上がった。
「……もう、二度と呼ばないから。じゃあね。」
出口のドアに手をかけたとき、蓮はひとことだけ言った。
「ありがとう、七瀬。」
その背中はもう振り返らなかった。
でもきっと、心のどこかで、彼女も区切りをつけられたはずだった。
カップの中の氷が音を立てて、溶けていく。
蓮はその音を聞きながら、ようやく深く息を吐いた。
そして、スマホを取り出す。
画面に浮かぶ「柚子月」の名前が、ほんの少し滲んで見えた。
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次回「未来への約束」
蓮がついに、柚子月に“自分の未来”を打ち明ける。
そして、彼女の夢も——二人の人生が重なりはじめる。
26
**未来への約束**
日曜日の午後。
いつもの紫陽花坂は、もう色を失い、ただ静かに葉だけが揺れていた。
柚子月はその坂を登りながら、小さな胸の高鳴りを感じていた。
“蓮くんに会う”というそれだけで、こんなにも心が騒ぐなんて、
昔の自分では想像できなかった。
公園のベンチに座っていた蓮は、彼女に気づくと、立ち上がって笑った。
その笑顔が、どこか晴れやかで、昨日までと少し違って見えた。
「……話、聞いてくれる?」
「うん。」
ふたりは並んで座り、蓮がゆっくりと口を開いた。
「昨日、七瀬さんに会った。」
柚子月は、少しだけ息を詰めたが、黙って続きを待った。
「ちゃんと話せた。……ようやく、終わらせられた。」
蓮の声には迷いがなかった。それだけで、
柚子月の胸にあった不安の影がすっと晴れていくのを感じた。
「それでね……その上で、ちゃんと話したいことがある。」
蓮は、鞄から一冊のノートを取り出した。
表紙には、「Project:未来」と手書きで書かれていた。
「……これ、僕が書き始めてた新しい企画。
初めて、自分の“これから”を物語にしようと思って。」
柚子月はそのノートを受け取り、ページをめくる。
そこには、蓮の手で書かれた短いシーンの断片や
プロットのメモがびっしりと書かれていた。
「大学に入ったら、本格的に小説家を目指す。
きっと遠回りになるけど、書くってことを、人生にしたいんだ。」
蓮の目が、まっすぐ柚子月を見ていた。
「そして、もしも……君がそばにいてくれるなら。君の物語も、一緒に綴っていきたい。」
胸が、ぎゅっとなった。
言葉がすぐには出てこなかった。
けれど、柚子月は深くうなずいた。
「私も……書いてみたいの。私の“今”も、“これから”も。誰かの心に届くような、言葉を。」
蓮の目が少し潤んだ気がした。
ふたりの“未来”は、まだ輪郭も曖昧で、形も定まっていない。
けれどその不確かさこそが、かけがえのない希望だった。
紫陽花のない坂道で、ふたりの心には新しい色が咲いていた。
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次回「小さなすれ違い」
夢に向かって歩き出したふたり。
しかし、目指すものがはっきりするほど、
心の距離がすこしずつずれていく──。
27
**小さなすれ違い**
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「また、今日も執筆してるの?」
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スマホの画面には、既読がついているのに、蓮からの返事は来なかった。
柚子月はベッドの上でスマホを胸に置き、天井を見上げる。
最近の蓮は、夢に向かって本格的に動き出していた。
執筆依頼のコンテスト、大学のオープンキャンパス、編集者とのやり取り。
そのどれもが彼の“本気”を証明していて、応援したい気持ちは山ほどあった。
——でも。
「少しくらい、“私”に使ってくれてもいいのに。」
口に出すと、なんだか自分が幼く感じられて、余計に胸が重くなる。
彼にとって、今いちばん大事なのは“夢”であって、自分ではないのかもしれない――
そんな不安が、じわじわと心に染み込んでくる。
その夜、蓮からようやく返信が来た。
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「ごめん、今日もずっとプロット考えてて。明日、少しだけ会えるかも。」
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“少しだけ”。
その言葉に、引っかかりを覚えたのは自分が我儘だから?
(違う、違わない。……でも、寂しいって言ったら、重いかな。)
一方、蓮もまた、机に向かいながら溜息をついていた。
柚子月の既読だけのメッセージに気づいていたけれど、どう返していいかわからなかったのだ。
(今、これだけ集中しないと、きっと間に合わない。でも、彼女を不安にさせてるかもしれないって、思ってしまうと……手が止まる。)
不器用な優しさ。
それが、言葉を曖昧にし、表情を見えなくさせてしまっていた。
翌日の放課後、公園のベンチで短い時間会ったふたりは、ほとんど会話を交わせなかった。
柚子月は「頑張ってね」とだけ言い、蓮は「ありがとう」とだけ返した。
本当はもっと話したかったのに。
もっと、“あなたが好き”って言いたかったのに。
言葉は、いつの間にかふたりの間で迷子になっていた。
紫陽花の花が枯れても、土の中では新しい芽が育っているはずなのに。
今のふたりには、その気配が見えなくなりかけていた。
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次回「伝えられなかった言葉」
蓮の背中を見送ることが増えた柚子月。
でもその日、彼女の言葉が――「届かなくなる」瞬間がやってくる。
28
**伝えられなかった言葉**
金曜日の放課後。
教室にひとり残っていた柚子月は、机の上に肘をついて、空っぽの心をぼんやり抱えていた。
今週、蓮とまともに会話したのは10分にも満たない。
LINEは返ってくる。でも、どれも簡単な挨拶と進捗の話だけ。
そこに「私」という存在が、本当にいるのかどうかも、わからなくなってきた。
“蓮くん、最近ちょっと変わったよね。”
そう言ったのは、クラスメイトのことりだった。
にこやかな顔をしながら、悪意のない好奇心で続けた。
“向日葵さんのこと、ちょっと後回しにしてる感じしない? ……ごめん、気に障ったら。”
(気に障ったよ。でも、当たってるって思っちゃった。)
柚子月は鞄からスマホを取り出して、メッセージの画面を開く。
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「明日、少しでもいいから会えないかな?」
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そう打って、送信。
けれど、1時間経っても既読はつかず、胸の中がどんどん冷えていく。
夜。
雨が降り出した。
窓の外で雨粒がガラスを叩く音が、やけにうるさく聞こえる。
ピロン。ようやく届いた通知。
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「ごめん、明日は朝から打ち合わせ。来週までバタバタしそう。」
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その瞬間、柚子月はスマホを机にそっと伏せた。
指が震えていた。
会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。
なのに、それを口に出すことすら“面倒な彼女”になってしまいそうで、怖かった。
――でも、どうして?
こんなに好きで、こんなに想ってるのに、
なんで私はいつも、あなたの“後ろ姿”ばかり見てるの?
ついに涙が溢れた。
音もなく、ぽろぽろと頬をつたう。
蓮は悪くない。
夢を叶えるために、今を懸命に走ってる。
でも、置いていかれるみたいに感じる自分が、どうしようもなく惨めだった。
“ねえ、蓮くん。私、今でもちゃんと“特別”でいられてるの?”
その言葉は、喉の奥で何度もこぼれそうになったけれど、最後まで飲み込まれてしまった。
そしてその夜、柚子月ははじめて、“会わない選択”を自分からした。
スマホの画面に、蓮からの短い「おやすみ」の文字が届く。
でも、彼女は返信しなかった。
静かに、夜が明けていった。
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次回「雨上がりの約束」
すれ違いのまま迎えたある雨の日、ふたりはもう一度、紫陽花の坂道で向かい合う。
伝えられなかった言葉が、やっと、溢れ出すーー
29
**雨上がりの約束**
その日は、朝から静かに雨が降っていた。
窓の外を濡らす雨粒の音は、まるで誰かの涙みたいで、柚子月の胸をずっと締めつけていた。
学校が終わったあとも、どこにも寄らず、ただ歩いた。
気づけば、紫陽花坂に来ていた。
もう花は枯れきっていたけれど、この場所だけは彼との大切な時間が確かに残っている気がした。
傘を持たずにいた柚子月の髪は、すっかり雨に濡れていた。
頬を流れる雨と涙の境目は、自分でもわからなかった。
「……なんで、こんなに好きなのに、寂しくなるんだろう……」
小さくつぶやいたその瞬間、後ろから足音が聞こえた。
「柚子月!」
その声に振り返ると、蓮が駆けてきていた。
肩で息をしながら、彼女をまっすぐに見つめている。
「連絡……ずっとなかったから、心配して……!」
柚子月は俯いたまま、小さく震えた声で言った。
「連絡……したよ。何度も。でも、全部“忙しい”って返されて……。
私のこと、もう……遠くなっていってるんじゃないかって……」
蓮は目を見開き、すぐに彼女の手を握った。
その手は、雨に濡れて冷たかった。
「違う。違うよ、柚子月。僕はただ、自分の夢に集中してた。
でも、それが君を“置いていくこと”になってたなんて……気づかなかった。」
彼の目に、悔しさと後悔が浮かんでいた。
「僕は、君が“そばにいてくれるだけ”で支えられてた。
……でも、それに甘えすぎてた。君の心の声を、ちゃんと聴いてなかった。」
柚子月の瞳から、涙がぽろりとこぼれた。
「私、夢を応援したかったの。
でも……私のことも、少しだけでいいから、見ていてほしかった。」
蓮は、彼女の肩をそっと抱きしめた。
静かな雨の中、ふたりはしばらく何も言わずに立っていた。
「ごめん。本当に、ごめん。……これからは、君をひとりにしない。
夢の途中でも、ちゃんと君と手をつないでいたい。」
「……約束だよ?」
「うん。絶対に。」
ふたりは、雨の中で手を重ねた。
それは、“付き合い始めた日”よりも、もっと強い約束だった。
紫陽花が咲いていた記憶の場所で、
枯れた花の代わりに、ふたりの心にやっと本当の“再会”が咲いた。
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いよいよ最終話――
第30話「あなたと生きていく」
30
**あなたと生きていく**
季節が一巡りし、ふたりは高校生活最後の春を迎えた。
桜が咲きはじめた校門前で、柚子月は制服のリボンを結びながら、深呼吸をした。
心の中には、かつて感じていた不安や焦りではなく、静かな強さがあった。
「柚子月ー!」
振り返ると、少し寝癖のついた髪を直しながら蓮が走ってきた。
変わらない笑顔。でも、ほんの少し大人びた横顔。
「ほら、卒業式だよ。泣かないでね?」
「泣かないよ。……たぶんね。」
並んで歩くその足取りは、迷いのない、確かな歩幅だった。
式が終わると、校舎の裏庭に、ふたりはそっと抜け出した。
あの日、紫陽花の下で始まった恋の、静かな場所。
今は、まだ若い緑と、春の風だけがそこにあった。
「柚子月。」
蓮は制服の内ポケットから、一枚の便せんを差し出した。
「これ、新しい物語。まだほんのプロローグだけど……読んでほしくて。」
柚子月はそっと受け取り、文字をなぞるように読み始める。
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“人生という小説のなかで、君に出会えたことが、僕の一番の奇跡だった。”
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手が震えた。
蓮の紡いだ言葉が、自分の心の奥にまっすぐ届いた。
「……これ、私たちのこと?」
「うん。でもね、これからの部分は、まだ何も書いてない。」
蓮は少し照れくさそうに笑って続けた。
「これからのストーリーは、一緒に作っていけたらいいなって思ってる。……ずっと隣で。」
柚子月は、涙をこらえきれずに笑った。
うれしくて、ほっとして、まぶしくて。
言葉にならない気持ちが、全部あふれていた。
「書いていこう。いっぱい、未来を。嬉しいことも、悩むことも、ちゃんと一緒に。」
風が、ふたりの間をそっと吹き抜ける。
桜の花びらが、ふわりと舞った。
この瞬間を、忘れたくない。
この人と生きていくことが、私の物語の意味になる。
「蓮くん。」
「ん?」
「大好き。これからも、ずっと。」
彼の手が、やさしく柚子月の手を握った。
「俺も。……君がいてくれるから、未来が書けるんだ。」
桜が舞うその下で、ふたりは未来を歩き出した。
まだ見ぬページは、白紙のまま。
けれど、筆はもう、しっかりとふたりの手の中に握られていた。
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|終わり《はじまり》
ここまで読んで頂き有難うございました。