親から虐待を受けた過去を持ち、極力人と関わることを避けて生きる少年、城崎 優(しろさき ゆう)。学校からの帰り道、ふと立ち寄った遊歩道の桜の木の下で、自分は幽霊であると名乗る半透明の少女、下柳 麗(しもやなぎ れい)と出会う。色々あって、多くの未練を残して死んでしまったため成仏できずにいるという彼女の願望をかなえる手伝いをさせられることになった優だが、彼女に関わるにつれて多くのことを知っていく。
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目次
さよなら、幽霊さん(第一章)2
第一章 『窓に映る憂鬱』
過ぎ去ったはずの冬の寒さを思い出した。ここ数日の暖かな日差しは気怠く流れる鈍色の雲の群れに隠れてしまっている。四月の淀みない青く澄んだ空は何処へやら、いつもは気持ちよく突っ伏して寝ていた教室の机も完全に冷えてしまって、僕は椅子に座って窓の外を眺めることしかすることがなくなっていた。灰色一色の背景の窓に映る自分の顔を見るのが嫌で、僕以外に誰もいない冬休み明けの埃臭い教室を出て、何の目的もなく廊下を歩いた。換気のため開けられた窓の隙間から、冷たい風が吹き込んだ。凶器のように鋭くささるそれを顔の左で受けながら、今上を歩いているリノリウムの温度を想像し、少し身震いする。考えなしに下駄箱の付近まで来てしまって誰かいたらと身構えたが、そんな心配とは裏腹に辺りは静寂に包まれていた。
「まだ誰もいない、か」
思わず溜息が出た。そもそも、長期休暇明けに朝早くから登校している人間の方が珍しいかと独り言ちながら教室に戻る。別に、人と接することが極端に苦手だというわけではないのだが、どうしても関りを求めたくない。だからいつも誰よりも早く登校して、机で寝ておく。寝たふりをする。そうして、一日の始まりから他人が自ら僕に関わらないようにしておく。けれど今日はそれができない。
「……冷たいのは嫌いだ……」
---
仕方なく、朝礼が始まるまで図書室で借りていた本を読むことにした。
僕以外の生徒がちらほら姿を見せ始めたのは、僕が登校してから一時間余りが経った頃だった。皆、それぞれ冬休みの思い出話に花を咲かせる者、まだ寝足りないような寝ぼけ眼の者など様々だった。次第に静かだった教室が賑やかになっていった。入り口で固まって話す女子のグループに、机に腰掛けて駄弁る男子たち。先程まで冷たかった教室も、僕の周囲以外は|仄《ほの》かに温かみを帯び始めている。
|悴《かじか》む手で本のページを捲る。大して面白いわけでもないありふれた内容の小説を、読むふりをする。誰も、僕には近づかない。それでいい、いや、それがいい。しかし、そんな僕の願いを打ち砕くものが現れた。
そいつは静かに僕の隣の席に腰かけ、慣れた様子で僕に話しかけてきた。
「城崎、それ何の本読んでるの?」
そう聞いてきたのは、|本居 泰正《もとおり たいせい》。分け隔てなく明るく人に接する、皆の人気者。深く人と関わることを好むから、他人からの信頼も厚い。僕が一番苦手なタイプの人間だ。
「小説」
「へぇ、なんて小説?」
「『さよなら、幽霊さん』」
「ふーん、聞いたことないや。面白いの?それ」
「別に」
冷たく突き放しても、なかなか僕の傍から離れようとしない本居の質問にぶっきらぼうに答えていると、彼の友達がそれを見かねて彼を引っ張っていった。
「…おい泰正…あいつ話しかけないでオーラ全開なんだからほっとけばいいじゃねぇか……なんだってあんなのに構うんだよ」
そう本居に耳打ちする声が聞こえてきた。別にそれを聞いたからと言って何も思わない。当然だ。自分から進んで人を拒絶しているのだから、その言葉はすべて正しい。正しいと理解しているからこそ、自分の性根の腐り具合を嫌というほど突きつけられる。少しだけ溜息を吐いた瞬間、古びたスピーカーから響いた歪んだチャイムが憂鬱な一日の始まりを告げた。
さよなら、幽霊さん(序章)1
序章 『あれは、そう』
四月の初めにしては少し肌寒いような、そんな日に。何処までも続く青空の下によく映える一本の桜の木が植えられた遊歩道で僕は一人泣いていた。気が付いた時にはそこにいて、ただ風に吹かれていた。直前のことは何一つとして記憶にない。ただ、得体のしれない喪失感が胸を締め付けている。身体に穴でも開いた気分だ。何一つ理解が追い付かないが、何処か僕の知らないところで、大切な何かが失われたことだけは感じた。爽やかな春草の香りが微かに頬を撫でた。それと同時に、生温いものが溢れ出す。
「……どうして……」
この涙は何なのか。何に対して、僕は泣いているのだろう。痛いのか、辛いのか、悲しいのか何もわからないままに、ただ頬を伝う涙の温度を感じていた。苦しい、息が詰まる。呼吸の仕方を忘れ、日差しの海に呑まれ沈んでいくような錯覚に陥る。あまりの苦しさにその場にしゃがみこんだその時───
『……わた……れて……に……きて』
───どこかから声がした。頭の中に直接響く不思議な、けれどもどこか懐かしく感じるその声が確かに聞こえた。濡れそぼった頬を拭い、辺りを見渡す。誰もいない遊歩道。しかしとある場所に、身体が吸い寄せられていく。たった一本だけ植えられた桜の木の下に零れた日溜まりに足が向かう。《《君》》が好きだった桜の───
「……《《君》》……?」
ふと、頭に浮かんだ存在があった。一瞬で消えてしまったが、記憶の中に確かな輪郭があることを感じ取った。暖かな記憶の奥底に、誰かの笑う声が微かに響いた。それに呼応するように、忘れてはいけない何かが、僕の身体を操るように桜の下に動かす。
『……のこと……れて…』
『……になったら……を…見に…よ…』
『……のこと……しくね……』
朧げな記憶の断片が、頭に雪崩れ込む。知らないはずの声が、姿が、仕草が、微かに熱を帯びながら胸を締め付ける。耐え難いその苦痛に、堪らず瞼を閉じたその瞬間。
『私のことは忘れて、幸せに生きてね』
聞こえた。鮮明に、聞こえた。大好きな声が。もう、二度と聞くことは叶わないその声が、はっきりと聞こえた。
「……っ!!」
全て思いだした。目を開けると、眩い光の中で、彼女が泣いていた。彼女を包む光の束が次第にその姿を溶かしていく。嗚咽が静かに響く。手を伸ばし、叫んでも、僕の声は彼女に届かない。彼女はやがて、光の粒になって、春風に舞いながら消えていった。全て、何もかもが遅すぎた灰色の春の結末に唇を嚙み締め、|蹲《うずくま》って泣いた。
『ねぇ』
ふと、呼ばれた気がして顔を上げた。満開の桜の花の間隙から零れた淡い光が僕を照らしている。
あぁ、そういえば、君と初めて会ったのも、こんな日だったな。
あれは、そう。
さよなら、幽霊さん(第一章)4
第一章『窓に映る憂鬱』
余りに長く退屈な授業がようやく終わり、放課後になった。近くのゲームセンターに遊びに行こうと騒ぐ集団を横目に真っ直ぐに帰路に就く。空を見ると、朝と違い雲の隙間から青空が少しだけ顔を覗かせていた。しかし、相変わらず日の光が照らされずに薄暗い道を歩く。いつになれば晴れるのだろうか。早く、晴れないだろうか。そう願いながら、川沿いの曲がりくねった道を足早に歩き続ける。無意識に爪先で小石を転がしながら分かれ道に差し掛かった時、僕の頭上が晴れた。暗く冷たいアスファルトを日の光が照らし、俯く僕の影を落とした。カーブミラーに光が射しこみ、眼前の視界が一気に暖かな色味を帯びた。左右に分かれる道のその真ん中だけが、他の場所と切り離された空間になった。
「……綺麗……」
思わずそう呟いたその時、光の束が少しづつ動いていることに気づいた。風で雲が次第に右に流れていく。先程まで輝いていた場所が、少しづつ影に侵されていく。左から押し迫る暗雲から逃げるように、僕はその光を追っていた。本来は左側の道を進んで家に帰るはずなのに、どうしてか僕の足はあの光を追いかけていた。まるで、それに呼ばれているような気さえした。普段から、家と学校の往復くらいしか外を歩くことがないから、右側の道の奥がどんな場所につながるのかは知らなかった。古い瓦屋根の連なる坂道を下り、青々と茂る雑木林の中の遊歩道を歩む。林間から微かに零れる光を浴びながら進むと、目の前にあったのは一本の桜の木だった。少し開けた場所に静かに佇む一木が一身に陽光を浴びて輝いている。僕がその景色に見惚れていると、薄桃色の花弁が風を受けて静かに舞い散った。草木の青い香りが不意に風に吹かれ、僕の鼻を|擽《くすぐ》った。自然と僕の足は、目前の桜の木の下に向かっていた。木陰に零れた、暖かな日溜まり。この光は、僕をここに呼びたかったのだろうか。近くにこんな場所があったなんて知らなかった。
「……誰……?」
息をするのも忘れて桜に見入っていると、誰かに声をかけられた。驚いて、辺りを見渡すが、近くに人がいるような気配は無い。
「あっ…そっか…私こんなのだから見えにくいか……っていうか見えないか……。全く、この《《霊体》》ってのも便利なんだか不便なんだか……」
どうやらどこかに先客がいるようで、その人物は鈴のように透き通った声で何やら訳のわからない独り言を呟いている。しかし、相手の方は僕のことを視認しているようだが、僕の方は相手の姿を認識できないでいる。僕が困惑していると、その人物はまた僕に語りかける。
「あっ……ごめんごめん、つい癖で独り言が増えちゃって……久しぶりに生きてる人に会えて嬉しくなっちゃった!」
先程から聞こえてくるその無邪気な声に、何か違和感を感じる。言っていることの意味も頓珍漢だが、声が直接脳内に聞こえているような感覚がするのだ。先程から吹き付ける風の音で濁されない、あまりに澄んだ、その声。
「ここだよ。桜の木の、日溜まりのとこ」
その声が導く視線の先。穏やかに暖かな日の光が射すその場所に。
「こんにちは、《《生きてる人》》」
その優しい光に溶けてしまいそうな、半透明の少女がいた。
さよなら、幽霊さん(第一章)3
第一章 『窓に映る憂鬱』
午前中の授業が終わってからというもの、教室は昼休み特有の|喧騒《けんそう》で溢れかえっている。SNSでの友人関係のことだの、恋人と上手くいかないだのとそういう話が自然に耳に入ってくる空間が僕は嫌いだ。人間関係を嫌う僕にとって、ここは居てはいけない場所だ。購買で購入したクリームパンを三口で食べきり、静かな場所を求めて廊下に出た。教室ほどではないが、ここも少々|喧《やかま》しい。人の隙間を通り抜けながら、階段を下って、二階の図書室に入った。唯一学校の中で落ち着ける場所と言えばここくらいしかない。人が少なく、仮に居たとしても誰もお互いに意識しあうことなく読書している。唯一発生するコミュニケーションなんて、図書室司書の先生に本の貸し借りに必要な生徒情報を伝えることくらいだ。そんなこの場所は僕にとっては天国そのものだった───
「よっ、城崎」
───本棚の影から本居さえ現れなければ。
---
「よっ、城崎」
目の前にいる男を心底憎む。何故この場所にいるのか聞くための言葉をぐっと飲みこみ、本居の質問を無視して席に座って本を読むふりをする。そんな僕の態度などお構いなしに彼は本の表紙を覗き見て言う。
「あれ?朝の本じゃないの?タイトル違うね」
「違ったら何なんだ」
朝の時と同様に僕が突き放すようにそう言うが、本居は依然僕に構ってくる。
「いや、朝の時はまだ九十六ページを読んでただろ?本の厚さを見た感じ、まだ全体の四割ぐらいしか読んでなさそうだったからてっきり続きでも読んでるのかと」
「……別の本を読んでたら悪いか?」
「いや、そういうわけでもないけど……ただ、城崎に『その本面白いか』って聞いても『別に』って感じでほぼ無反応だし、なんならお前の目見てたら全く視線動いてないからまともに文章読んでなさそうだったし。なんで本読んでるふりしてるのかなぁーって、気になってさ」
「………」
あれ、図星?と言って笑う隣の男を一瞥し、また本に視線を戻す。驚いた。まさか朝の時点で気づいていたとは思わなかった。この男は心底苦手だが、その印象がさらに強まった。
「ちなみに俺は『はたらく肺胞』借りに来たんだ。唯一学校で借りられる漫画ってこれくらいしかねぇしな」
聞いてもいない事情をぺらぺらと話し出した辺りから、僕の辛抱たまらない様子を察したのか、本居はおどけたように言う。
「……まぁ、それは建前で本当はお前が来るのを待ってただけなんだけどさ」
「……何がしたいんだ」
僕ができる限り敵意を含んだ声音でそう問うと───
「友達になりたい」
───即答だった。何の|衒《てら》いもなく、あまりに真っ直ぐすぎるその物言いに、思わず困惑した。終始本居のペースだが、冷静さを取り戻して彼を突き放す。
「……友達なら、君に相応しい奴らが大勢いるじゃないか」
「どんな友達が何人いたっていいだろ?」
「君が良くても、周りが良く思わないだろ。こんな不愛想な輩に割く時間を、もっとほかの奴らとの有意義な時間に使えばいい」
「別に俺は全員が全員と仲良くなれだなんて言いはしないさ。たまたま俺と気の合う奴らが近くにいて、それがくっついてを繰り返して、そうしてその枝が一本の幹から拡がってるだけだよ。その幹から新しい枝が生えてこようとなにも不思議じゃないだろ?」
そう言うと、本居は少し溜息を吐くと、少し間をおいて静かに呟いた。
「俺も城崎の気持ち、解るからさ」
その言葉が聞こえた瞬間、全身の血が沸騰したような感覚が体中を駆け巡った。
「……ッ!!」
こちらのことは一切知りもしないで発せられたその薄っぺらい同情の言葉に、思わず拳を握り締め、彼に手を上げかけたが、何とか平静を保つ。自分の息が荒くなるのを感じながら、これ以上ここにいるわけにはいかないと急いで席を立つ。
「告白の返事はしてくれないのか?」
早足で図書室の出入り口に向かう僕に背後から本居がそう言う。
「……チープな青春小説は嫌いなんだ」
そう吐き捨て、僕はその場を後にした。いつの間にか昼休みは終わりの時間を迎えていたようで、僕の足音だけが誰もいない廊下に響いた。
さよなら、幽霊さん(第一章)5
第一章 『窓に映る憂鬱』
「こんにちは。生きてる人」
目の前のその存在は、はにかみながら僕に向かってそう言った。半透明の少女だなんて、夢でも見ているのかと目を擦っても、頬を|抓《つね》っても、少女の身体は透けたままだ。見た感じは小学四年生ぐらいだろうか。白いワンピースに包まれた|華奢《きゃしゃ》な|体躯《たいく》で精一杯背伸びしながら必死に僕の顔を見上げている。緑の景色と陽の光に溶けてしまいそうなその姿を見つめていると、少女は不思議そうな顔で僕を見つめ始めた。
「へぇ、驚かないんだ」
そう言うと少女は|徐《おもむろ》に、僕の胸に|掌《てのひら》を当てた。しかしその手は僕の身体に入り込んでしまった。僕の身体が液体であるかのようにずぶりと入れた前腕で上半身の奥深くを弄られているが、痛みや不快感はない。胸の中に何か隙間ができて風が通り抜けていくような不思議な感覚が刹那身体中を駆け巡った。
「う~ん、やっぱり姿は視えても触るのは無理かぁ……」
それを見て少女は落胆した声でそう呟いた。僕は勝手に肩を落としている彼女になんと声をかけていいかわからずにその場に立ち尽くしていると、少女は心なしか先程までより数段覇気のない声で僕に話しかけてきた。
「……君、私が怖くないの?さっきからずっとぼ~っとしちゃってさ。逃げるなり叫ぶなり、もうちょっとこう何かあるでしょ。いきなり触れられて無反応なのは君が初めてだよ」
「……別に……」
目の前の存在が怪奇であることは否定しない。未知の存在である以上、その存在に不可解な接触を試みられたこの状況だけ見れば怖いのだが、如何せん容姿が年端もいかない少女である以上恐怖心を抱こうにも抱けない。そんな自分に対しての反応が薄い僕を見かねて、少女は大きく溜息を吐いた。
「『別に』……って君、私がとんでもない悪霊だったらどうするのよ。もしかしたらさっき触ったときに君の心臓を握り潰してたかもしれないんだよ?」
「……だって、その見た目でそんな残虐なことをするようには見えないし」
僕がそう言うと、少女はさらに大きな溜息を吐いてこちらを睨みつける。
「あのねぇ……不審者が自ら『不審者です‼』って感じの見た目をすると思う?無害なふりして急に本性表して襲ってくるのが普通……って‼誰が不審者よ‼」
自分で自分の発言に突っ込む彼女を無視してその場を立ち去ろうとすると、少女が慌てて僕を引き留めた。
「ちょ……ちょっと待って!!」
「……何?」
「も……もう行くの……?」
「うん。これ以上家に帰るのが遅くなったら怒られるから」
元々、つい衝動的に光を追いかけてここに来ただけだったのだから長居するつもりはない。僕がそう言うと、少女はあわあわと僕の進行方向に立ち塞がって言った。
「君にお願いがあるの!だからもう少しだけ私に付き合って!!」
少女の言う『お願い』が何かは知らないが、これ以上付き合う道理はない。
「……《《無害なふりして僕を殺す|悪霊《ふしんしゃ》》》じゃなかったのか?得体のしれない奴にこれ以上関わらないように、僕はこれで失礼するよ」
「……いじわる……」
そう言って少女は涙ぐんだ眼をこちらに向けるが、それを見捨てずにわざわざ面倒事に首を突っ込むほど僕はお人好しじゃない。背を向けてその場を後にしようとしたその時だった。
『まってよ、ゆうくん』
知っている声が背後から聞こえた。
さよなら、幽霊さん(第一章)6
第一章 『窓に映る憂鬱』
『まってよ、ゆうくん』
背後から響いたその声を聴いた瞬間、突然身体が動かなくなった。声を上げようとしたが、|刹那《せつな》、喉の奥に何かを詰め込まれたような不快感と喉を押し潰されるような痛みが身体中に|伝播《でんぱ》した。見えない誰かの手で喉を締め上げられているかのような苦しさに、死ぬ、と脳が危険信号を出している。手で見えない何かを振り払おうにも、手は小刻みに震えるばかりでこちらも思うように動かせない。
「………ぁ……ゕ……」
微かに喉から漏れる自分の声と心臓が大きく脈打つ音以外が辺りから消えたように感じた。そして、地面に這いつくばる僕の後ろに、あの少女が次第に近づいてくるのが分かった。少女はペタペタと音を立てながら小さな歩幅で僕の横まで迫り───
「……なにをしてるの……?」
───そう言って、僕の肩に触れた。その直後、一気に身体を縛り付けていた何かが解け、僕は息の仕方を思い出した。
「…っ!!はぁぁッ……がっ…はッ……」
「ね、ねぇ……大丈夫なの…?」
そう心配そうに見つめてくる少女を精一杯睨もうとしたが、次第に視界が暗くなり、必死に僕の身体を揺らす少女の顔がぼやけていく。あぁ、やっぱり他人と関わると碌なことにならない。そんな思考を最後に、僕の意識は深い闇の底に溶け込んでいった。
---
「あ、起きた」
不意に冷たい風を感じて、嫌々閉じていた瞼を開けると、目の前には僕の顔を覗き込む|悪霊《しょうじょ》の顔があった。
「………生きてるのか?……僕……」
「死にそうだったのは間違いないわね」
そう呟く少女の膝で寝ていた身体を起こして辺りを見回すと、日が完全に没して空はすっかり暗くなっていた。暗闇に吞み込まれた木の葉が風に揺れる音が不気味に耳を撫でる。それがまるで、誰かが|頻《しき》りに何かを耳元で囁いているようで気持ちが悪い。まだずきずきと痛む頭を押さえながら僕の隣に座り込んでいる少女の方に視線を向けると、彼女は立ち上がってこちらを静かに見つめ返した。僕と少女の間に無限にも思える数秒の間が流れた。
「……君が………君が、僕を殺そうとしたのか……?」
重い沈黙を破って、僕は彼女にそう問うた。僕の身体に異変が起きたあの時、確かに少女の方から声が響いた。振り返る間もなく身体が動かなくなってしまったが、今考えるとあの声の正体はこの少女なのだろうか。少し声が違うような気もしたが、あの場には僕と彼女しかいなかったのだから、他の存在がいたとは考えられない。
僕の率直な問いに対し、目の前の少女は少し頬を膨らませてから口を開いた。
「失礼ね!私が呼び止めようとしたら、あんたが勝手に首を押さえて苦しみだしたんじゃない!!」
そんな怪奇現象があってたまるか。いや、そもそも───
「……目の前の奴がすでに怪奇現象だった……」
───半透明の少女が目の前に現れたこと自体がそうだった。やはり訳の分からない存在に無闇に関わるべきじゃなかったと今更ながら後悔したが、目の前の少女は頭を抱える僕のことなど気にも留めずににやにやとこちらを見て笑っていた。
「ふふん。私がいなかったらあんたの命は危なかったんだよ?」
そう言って得意げに胸を張る少女。
「そんな恩着せがましい言い方をされても、ただ君の膝に僕を寝かせただけじゃないか」
僕がそう言うと、少女は再度頬を膨らませたと思えば、今度は大きく溜息を吐き呆れ果てた表情で僕を見ている。
「……はぁ……あんたが気絶した後、身体から魂が離れていこうとしたから、必死にあんたの中に戻したのよ?」
「そんなスピリチュアルな話を誰が信じるんだ……とにかく、これ以上僕に関わらないでくれ」
そう言ってその場を立ち去ろうとした時だった。足が動かない。あの時と同じように、意思に反して動くことをしない。いや、あの時と同じではない。あの時は、何かに束縛されているような感覚だが、今の状態は、まるで身体の力がすべて抜けてしまったようだった。まるで身体中の骨を全て抜きとられたような、そんな感覚だ。唯一動かせる首を回して少女の方を向くと、彼女の前に光る球体のようなものがあった。バレーボールほどの大きさのそれを少女は僕の目の前に持ってくると、不敵な笑みを浮かべて言った。
「言い忘れてたけど、あんたの魂の扱い方はもう覚えたから、生きるも死ぬもあんたの態度次第よ」
そう言いながら、僕の魂を手の上で器用に弾ませて遊んでいる。
「で?私の《《お願い》》聞いてくれるわよね?」
「……やっぱり悪霊じゃないか」
不気味な笑顔で分かり切った答えを待つ少女に、僕はそう吐き捨てた。