無能と呼ばれた少年
編集者:kisuke
──自らの異能について知るために、少年は学園に通う。
当たり前のように異能が存在する世界。
異能を人々に役立てようと少年少女が学ぶ学園に、少々特異な異能を持つ少年が入学する。
その少年は、自己紹介のときにこう言ってのけた。
「僕の異能は、詳細不明で使用不可です」
人並み外れた異能についての知識があるわけでもなければ、秀でた才能があるわけでもない。
そんな少年は、いつしか『無能』と呼ばれ始める。
「何でもやってやる。僕の、この異能について知るためなら」
これは、そんな少年が学び、力をつける中で、世界の真実に迫る──かもしれない物語である。
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目次
Prologue「入学式」
鏡の前に立って髪を整える。
この黒い髪も、随分見慣れてきた。
今日は入学式。
この異能学園へ通い、僕の異能の謎を解くための第一歩だ。
「いってきます」
とは言えど。
入学式で校長先生の長ーい話を聞く真面目な学生など、どこにいるというのか。
少なくとも、僕はそうではない。
いや、始めのうちはきちんと聞いていたが。
でも、入学説明会のときに配られたパンフレットに書かれていたことと同じような内容を繰り返すのだ。途中から聞き流すようになってしまった。
どうせ周りの人たちもほとんどがそうだろう――と周りを見渡すと。
意外にも、校長先生の目を見てしっかり話を聞いているような人がほとんどだった。
ただ一人――闇のように深い黒髪の少年だけが、退屈そうに目を閉じていた。
「それでは諸君! この学園で仲間と切磋琢磨し、自身の異能を磨きたまえ!」
ようやく終わったらしい。
座りっぱなしで肩がこりそうだ。
今すぐ席を立ちたいが、入学式でそれをするわけにもいかない。
「それでは、諸連絡に移ります」
聞き逃すと後で自分が困る――聞く相手がいないからだ――ため、忘れないように頭の中のメモ帳にメモした。
諸連絡によると、これから各クラスに移動して学級開き、その後に学年開きを行うらしい。
確か僕のクラスは、A組だったはず。
人の流れに乗るようにして、自分のクラスへ移動した。
「私がこのクラスの担任の|成《なる》|瀬《せ》|朝《あさ》|陽《ひ》だ。これから一年、君たちと一緒にこのクラスで過ごしていく。よろしくな」
茶色に近い色の髪の先生――成瀬先生がA組の担任らしい。
「「「よろしくお願いしまーす」」」
一応僕もクラスのみんなに混ざって言っておいた。
「それでは、学級開きということで、出席番号順に自分の名前と異能を言っていってくれ」
このクラスは四十人。
僕の出席番号は十九番だから、ちょうど半分くらいのところだ。
「|伊《い》|集《じゅう》|院《いん》|隆《りゅう》|二《じ》です。異能は『覇道』、よろしくお願いします」
名字といい名前といい、お金持ちの名家の人っぽい。
なんて、どうでもいいことを考えながら、僕の順番が回ってくるのを待つ。
前の席の明るい髪色の女の子が座るのを見て、僕は立つ。
「|九十九《つくも》|一《はじめ》です。僕の異能は、詳細不明で使用不可です。九十九……99+1で|百《もも》と呼ばれることもあります。これからよろしくお願いします」
あだ名の『百』。
小学生の頃に付けられたものだ。
教室がざわめく。
『詳細不明で使用不可の異能』。
僕だって、小学六年生の初めて知ったときは驚いた。
鑑定した人によると、『|――《Error》』と表示されていたそうだ。
エラー……恐らく何か問題があって使えないし名前も表示されないのだろう。
その『問題』の《《内容》》に一切心当たりがないが。
まあ、それを知るために普通の中学校ではなく、この異能学園に進学したのだ。
教室の様子に気がつかないふりをして着席する。
間髪を入れずに次の人が立った。
「|十《とう》|五《ご》|彰《あきら》だ。異能は『|終焉の黒《Black of the end》』。あー、よく聞かれるが|十《じゅう》|五《ご》と書いて|十《とう》|五《ご》と読む。よろしく」
入学式のときに目を閉じていた人だった。
面倒なので省略するが、これで四十人の自己紹介が終わった。
それにしても……憂鬱だ。
異能を使えない僕がこの学園に入学できたのは、何か特別な能力があってのことだろうと思われているだろうから。
実際は、そんなもの一切ない。
入学試験で測られるのは、異能を扱うためのエネルギーの量とこの学園にふさわしい学力があるかだけだ。
学力試験は簡単だったので普通に突破したし、僕は異能を使えないくせに、なぜだか内包するエネルギーだけはやたらと多いので、普通に入学試験を突破し入学した。
これから僕に向けられるであろう侮蔑の視線を想像すると、つい数週間前までの小学校時代を思い出して足が竦む……が、それでも自分を奮い立たせる。
六歳のころの記憶が蘇る。
ちょうど、異能が目覚めるといわれる時期。
あの日、僕は公園で遊んでいた。
いつもと違ったことはしていなかったはずだ。
だというのに、突然、脳内に声が響いた。
《――Error――Error――Error
――対象の器を確認
――Error――Error
――規定値に達していません
――Error
――機能の一部封印を試行
――Error
――再試行
――Error――Error
――一時的完全封印を試行
――続いて、『鍵』の作成に移行
――Key『|――《??》』
――対象に埋め込みます
――完了しました
――あなたの行く末に、幸あらんことを》
「誰!?」
そう叫んでみたものの、周囲には母以外の人間はいなくて。
結局、心配した母に抱かれてそのまま眠ってしまった。
この出来事は、疲れた僕が夢と現実を混同してしまっただけということにして、僕と母の胸の中にだけある。
何か、触れてはいけないものに触れてしまいそうだったから。
でも、僕の異能『|――《Error》』と何か関係がありそうで、だから僕はここに入学して手がかりがないか探している。
異能についての知識も、力もない。
けれど、『知りたい』という気持ちは人一倍強い。
僕は僕の異能について手がかりが得られるなら、どんな死地にだって赴くさ。
そのための努力なら、惜しまない。
主人公 九十九一
異能『|――《Error》』
お読み頂きありがとうございます。
初回から気になる要素を入れてみました。
この作品は、【最低週一回更新】をモットーに不定期更新する予定です。
暇なときにでも、見つけて読んで下されば幸いです。
それでは、また次の更新でお会いしましょう。
1-1「初授業」
教室で騒ぐ生徒たち。
僕はその輪には加わらず、時計を見つめぼーっとする。
ガラガラ……と戸を引く音がし、僕たちの教材をカゴに入れて持ってきた成瀬先生が入ってきた。
先生の姿を認めた生徒たちが慌てて時計を確認し、授業開始時刻二分前だと知るとバタバタと椅子を引き着席する。
「よーし、全員揃ったな。授業が始まる前に教材を配布するぞ」
そう言って先生が教材の入ったカゴを教卓に『ドン!』と音を立てて置く。
列ごとにまとめて配布され、みんなのところに回っていく度に顔を曇らせる生徒が増えていった。
ああ、今その理由が分かった。
回ってきた教材を受け取り、後ろへ回す。
片手で持つのは物理的に不可能だったので、両手で持って回した。
配布されたソレを見つめる。
サイズはA4、辞書並の分厚さを誇るその教科書の表紙には、『異能概論〈実践編〉』との題が。
ページ数は2049。
ぱらぱらとめくってみる。
見た感じ、〈理論編〉と対応しているみたいだ。
みんなに行き渡ったのを確認したのか、成瀬先生がまた別の教材を配り始める。
回ってきた教材から一冊取り、後ろに回す。
今度はサイズこそ同じだったが、辞書並の太さがあるというわけではなかった。
ページ数は135。
表紙に、『異能概論〈理論編〉』とある。
「今、二冊の教科書を配布した。薄いものと太いものだ。薄い方は毎回『異能概論』の授業に持参してもらうが、太い方は家で保管してもらって構わない。自由に学習に活用してくれ」
筆箱から名前ペンを取り出し、記名する。
「それと、次回の授業からノートを持ってきてくれ。特に指定はしないが、B5やA4サイズがちょうど良いと思う」
ノートが必要、と。
名前ペンを収める前に、左の手の甲に『異能概論、ノート必要』と書いた。
「さて、配るものも配ったし、伝えることも伝えたな。それでは、これから一年間、異能概論の授業でどんなことを学ぶのか、それと授業の進め方を話そう」
いわゆるオリエンテーション。
授業の進め方や評価材料、年間のカリキュラムについて話す。
「資料を配布する」
配られたのは、A4サイズの一枚のプリント。
表と裏の両面印刷で、表には年間カリキュラム、裏には授業の進め方について書いてある。
「まずは表……年間カリキュラムの方を見てくれ」
なるほど?
『異能の成り立ち』や『異能を扱うエネルギーを増やす方法』など、どの異能でも役立つ基本的なことを学ぶのか。
「基本的には、このカリキュラム通りに授業が進む。まあ、『こんな内容を勉強するんだ』と思ってくれたら良い」
僕たちはこんな内容を勉強するのか。
異能について知ることができそうでわくわくする。
「次に、授業の進め方についてだが」
と、そこで言葉を切った成瀬先生は、なぜか僕と目を合わせた。
「ふむ、九十九。異能とはなんだ?」
突然当てられた僕は、周りから向けられる視線に慌て、答えを求める先生の視線に焦った。
一般常識程度で良いのであれば、一応答えられる。
ただ、それが先生の求めたものであるかは分からない。
「一人に一つ宿る唯一無二の力で、六歳から七歳の頃に目覚めます」
僕の解答に満足したのか、先生は頷き、
「そうだ。今はそれで良い。その答えをより深く、広くするために今から学ぶのだからな」
ああ、普通の新入生の解答として満足したということか。
「と、こんな感じに指名しまくる。君たちが授業に積極的に参加できるようにだな」
それはちょっと……
とモヤモヤするのは僕だけではないようで、微妙そうな表情をしている人が何人かいた。
人前で話すのが苦手なのか、少しうつむいている人もいる。
「もちろん、手を挙げて答えてもらうのも大歓迎だ」
分からない問題で不用意に当てられないよう、分かる問題は手を挙げるようにしよう。そうしよう。
先生は時計をちらりと見ると、
「説明するべきことも終わったし、時間もちょうど良い。少し早いが、授業を終わろうか」
先生がそう言った瞬間にチャイムが鳴り、授業が終わった。
本当に少しだった。
そんな感じで、僕の初授業は終了。
異能概論、国語、英語の授業があったが、どの教科も成瀬先生が担当し、教材の配布とオリエンテーションがあった。
聞くところによると、異能概論や国語、英語など共通の授業は担任の先生が担当し、近距離戦闘術や遠距離戦闘術、経営術など専門的な選択科目は専門の先生が担当するのだとか。
自分のかばんに今日配られた全ての教材を詰め、学園を出る。
他の生徒にとってはこれが今日の終わり、だが僕にとってはここからが始まりだ。
なるべく短く信号による影響を受けない道を選び、走って家まで帰る。
「ただいま」
靴を揃え、奥の自室に荷物を置く。
素早く手を洗ってうがいもして、家着に着替えた。
かばんから教材を全て出し、本棚へ。
異能概論の理論編とノートを一冊、そして筆箱を取り出し、机へ向かう。
時刻は午後四時二十二分。
時間はたっぷりある。
1-2「ここからが本番だ」
「ご飯よー」
母の声で集中が解け、時計を見ると短針は七、長針は六の数字を指していた。
筆箱から細い付箋を取り出し、教科書とノートに一枚ずつ貼る。
右側四分の一が線で区切られたノートには字がびっしり書かれていた。
「今行く」
シャーペンや消しゴム、付箋など諸々を筆箱の中に戻し、教科書とノートを互いが互いを挟むようにして閉じる。
どうせ夕食後にも勉強するのだから、と教科書、ノート、筆箱を机の左側に寄せ、消しカスをごみ箱に捨てた。
部屋を出ると、母が椅子に座って待っていた。
うん、この香りは僕の大好きな餃子だな。
「いただきます」
味噌汁を一口飲んでほっと一息。
やっぱり、できたてあつあつの状態が一番おいしい。
続いて、餃子を頬張る。
まずは、タレをつけずに餃子そのものの味を味わう。
肉汁を逃さないよう、一口で。
パリパリの皮の中から溢れる肉汁。
左手のお茶碗からご飯をかきこむ。
続いて、タレをつけていただく。
タレと肉汁が共存する境界を見極め、ダイナミックにタレをつけ――ぱくりと一口。
タレの酸味に肉汁の旨味。
それらが口の中で共鳴し、ハーモニーを奏でる。
手が勝手に動き、口にご飯を運ぶ。
あっという間にご飯の量が残り半分になってしまった。
ふう、と息をつき、味噌汁を一口。
そのタイミングを見計らってか、母が口を開く。
「学園はどう?」
まだ初日だから、どうも何もないとは思うけれど。
でも、僕には母が何を思ってこの質問をしたか分かる。
「大丈夫だよ。まだ初日だから友達はできてないけどね」
「そう……良かった」
母が安心したのが分かった。
僕が小学生のときのようにいじめられないか心配だったのだろう。
小学生のとき、僕はいじめられていた。
原因は、髪の色。
この黒髪は染めたもので、本来の色は白。
異能の関係で、髪や瞳の色が白や青など普通ならありえない色になる人がいる。
そんな人たちは、強い異能に優れた頭脳や運動能力などを持つ。天は二物を与えずとはいうが、天に二物も三物も与えられた人たちだ。
けれど、僕はそのいずれも持っていない。
使えない異能、平凡な頭脳、平凡な運動能力。
『特別』なのに、特別じゃない。
『特別』な人たちは一学年に一人いるかいないかくらいの人数いた。
みんなは『特別』な人たちの特別を目にする度に、憧れ、尊敬し、羨み、妬んだ。
そんな人たちにとって、僕は絶好の標的だったのだろう。
無視、悪口、暴行、持ち物を隠される……典型的ないじめが行われた。
状況を変えようと必死に努力した。
家に帰ってからはほぼずっと勉強していたし、朝は五時に起きてランニング、少し時間が空いたら筋トレ。
けれど。
どれだけやっても。
僕は、特別にはなれなかった。
代わりに、いじめはなくなった。
小学六年生の後期開始時に行った異能判定で『異能が使えない』ことが判明するまでは。
と、まあ、この話はこれでおしまい。
シャキシャキのきゅうりを口に入れると、皿が空になった。
残りのお茶を一気に飲み、両手を合わせ、そして一言。
「ごちそうさまでした。おいしかったよ」
立ち上がり、皿を台所へ。
そのまま自分の部屋に戻り、教科書とノートを広げる。
が、集中できない。
一回夕食で中断したのが悪かったのかな。
仕方ない。
理論編を閉じ、実践編を取り出す。
ずっと机に向かっていても暇だ、たまには違うこともしよう。
床にあぐらをかいて座り、実践編を開く。
実践編一。
『異能の力を体感してみよう』。
ため息をつく。
使えたら苦労はしないし、この学園に入ってこの教科書を開くこともなかっただろう。
気を取り直して、次のページ。
実践編二。
『異能を扱うエネルギーを感じてみよう』。
これはできそうだ。
足の上に広げた教科書を食い入るように見つめる。
ふっ、と集中が切れる。
ちょうど実践編二の内容が終わったところだ。
ああ、そうだ。
今、何時だろう。
時計を見ると、針は九時の十分前を指していた。
まずい、まだ風呂に入っていない。
その日は風呂に入って、かばんに教科書とA4ノートを三冊、十九行の国語ノートを一冊入れて寝た。
1-3「一週間の軌跡」
入学式の日を一日目として数える。
二日目。
六時間授業だったが、午後の二時間は学校案内で授業は実質四時間だった。
学校を案内されても、教室の位置をすぐ覚えられるわけでもなく。
しばらくは校内マップ片手に動くことになりそうだ。
家では、音楽の時間に配布されたリコーダーの記名、帰りのSHR後に配布された体操服の洗濯を行った。
もちろん、授業の予習や復習、課題の取り組みも忘れていない。
国語の漢字は既に提出四回分――一週間に一回だからおよそ一ヶ月分だ――を済ませてあるし、理科は一つ目の単元の三分の一は予習をしている。
さあ、お待ちかね、異能概論理論編・実践編の予習の時間だ。
実を言うところ、理論編一ページに対して実践編が十ページほどあるのだ。
昨日だけでは実践編の内容をやりきれなかったので、今日はその続きである。
三日目。
特筆すべきことはなし。
強いて言うのなら、水曜日で帰りのSHRも掃除も部活もなかったことぐらいか。
まだ部活見学もやっていないので、部活がなくてどうというわけでもないのだが。
四日目。
身体測定を行った。
記録をする先生の手元を覗いてみると、僕の身長は百五十五センチちょっと、体重は四十七キロぐらいだった。
まあ普通だろう。
視力検査もした。
全部見えたので答えるときにミスをしていなければAだ。
五日目。
宿泊研修についてのプリントが配られた。
日時は四月二十日・木曜日と二十一日・金曜日。
学園所有の山に泊まり、そこでクラスメイトたちと仲を深めるためのイベントらしい。
今回配られたのは、持ち物について。
参加同意書は入学説明会で配られたプリントの中に入っていたので、入学式の日に提出済みだ。
山道なのでキャリーケースは禁止。
スマホは持ち込み可でカードゲームなどの持ち込みも可。
かなり自由度が高い。
土日に母と買い出しに行こう。
六日目。
買い出しは明日にし、今日は必要なもののリストアップと足りないもののあぶり出しをすることになった。
かばんは小学生のときの旅行などで使ったものがあったのでそれを採用。
着替えは学校の体操服をそのまま使っても良いらしいが、やっぱり私服が良い。
去年のものはサイズが合わなくなっていたので、買わなくてはならない。
タオルやら歯ブラシやらの日用品は買わなくても大丈夫そうだ。
七日目。
母と大型商業施設に買い出しに行った。
良い感じの服があって良かった。
ついでに本屋に寄ってもらえたので、参考書や問題集を買うことができた。
ラッキーだ。
一週間の成果。
五教科の一つ目の単元の予習が終わった。
理論編の予習は二回分、実践編もそれに対応するところまでは学習した。
その結果、異能を扱うためのエネルギーの流れを感じ、ある程度動かすことができるようになった。
来週はもう少し異能について学習する時間を増やしたい。
と、そこまで日記に書いたところで、僕は短く息を吐き、日記帳を閉じる。
時刻は既に十時半。
これ以上起きていれば明日に響くため、さっさとベッドに入って寝よう。
1-4「いざ、宿泊研修へ」
宿泊研修までの三日間はあっという間に過ぎた。
しおり作成、座席決め、部屋割り……やるべきこと、決めるべきことをやっていたらすぐに宿泊研修当日だ。
というわけで。
今、僕はバスに乗っている。
隣には、まばゆい麦色の髪の少女が座っていた。
大きな二重の目に、すっと通った鼻筋。
控えめに言って美少女である彼女の名前は、|天《あま》|津《つ》|蘭《らん》。
「んー? どうしたの?」
無意識のうちに見つめてしまっていたのか、天津さんが顔をずいっと寄せてくる。
いきなり目の前に端正な顔が現れ、顔が赤くなるのが分かる。
「な、なんでもない、です」
目を通路側に逸らして、天津さんの顔が目に入らないようにした。
「ふぅん? なにかあったら言ってね」
「う、うん」
それから、背を座席に預け、目を閉じた。
この状況で寝ることなどできないが、今はそれで良かった。
そうしてバスに揺られること四時間。
途中、サービスエリアでの休憩も挟みながら、ついにバスは山の中腹に到達した。
そこでバスのエンジンが止まる。
そこから荷物を持って階段を上り、学園専用の宿泊施設へ。
一旦部屋に荷物を置き、宿泊施設の前に戻るように言われた。
「さて、A組は全員集まったかな? 班別異能レクリエーションの説明だ」
班別に並んだ僕たちの前に立つのは、成瀬先生だ。
「まあ、簡単に言ってしまえば、班ごとにくじを五回引き、そこに書いてある課題をクリアするゲームだな。内容は班の構成を見て、どの班でもクリアできるようなものにしてあるから安心しろ」
なるほど。
力を合わせてクリアしろと。
「くじは各班、代表者――班長に引いてもらう」
そう言って、手に持ったくじ入りの箱をしゃかしゃか振る。
僕の班の課題は、次の通りだ。
一つ目、山に隠された水晶玉を持ってくること。
二つ目、成瀬先生のもとへ先生作の短歌を一首暗唱しに行くこと。
三つ目、演劇の台本を読んで成瀬先生を満足させること。
四つ目、成瀬先生とかくれんぼをして、一分間見つからないこと。
五つ目、他の班から課題の内容を聞き出すこと。
三つ目と五つ目の課題に突っ込みたい。
三つ目はほぼ完全に先生がしてほしいだけのことだろうし、五つ目は課題として成立していない気がする。
四つ目の課題は、一人でも条件を達成していたらクリアらしい。
「班のメンバーだけで課題を達成してほしいから、他の班に課題の内容を話すのは禁止だ」
これで、五つ目の課題が課題として成立した、のか?
まあ良いや。
班別『異能』レクリエーションというのだから、基本どうやって達成しても良いのだろう。
そう考えると、どうやって達成するか考えるのが楽しくなってくる。
ああ、その前にこの班のメンバーを紹介しておこう。
班長、天津蘭。異能は、『意思伝達』。
田中太郎。異能は、『隠密』。
森川|夢《ゆめ》|香《か》。異能は、『印象操作』。
山田|啓明《ひろあき》。異能は、『森羅万象』。
そして、僕。
以上、この五名が八班のメンバーとなる。
「それでは、今から二時間で全ての課題を達成できるよう頑張ってくれ。班別異能レクリエーション、開始だ」
先生の合図により、班別異能レクリエーションがスタートした。
始まると、すぐに動き始める班、まずは作戦会議をする班と二つに分かれ、僕たちは後者だった。
「作戦会議したいから、みんな集まってー!」
天津さんの元気な声が響く。
僕たちは既に近くにいるのでそんなに大きな声を出さなくても良いんだけどな。
「分かりましたから、少し声を落としてくれませんか、天津さん」
そう言ったのは、山田だ。
「あ、ごめん」
あ、普通に謝った。
というのはおいておいて。
「一つ目のやつは、山田くんが場所を探ってそれを誰かが取りに行くのが良いと思うんだけど、どう?」
「良いと思います」
山田も自分がその役割をやることに異論はないらしい。
それじゃあ、誰がその水晶玉を回収するかだけど。
「じゃあ、水晶玉は僕が回収しに行って良い?」
「うん! お願いするね」
一つ目の課題、作戦概要。
山田が水晶玉を見つけ出し、僕が回収する。
「えっと、二つ目だけど」
先生作の短歌なんてあったか?
「先生作の短歌は月曜日の国語の授業でありましたね。覚えているので僕がやりましょう」
うーん、山田が頼もしい。
二つ目の課題、作戦概要。
山田が言いに行く。
「三つ目は、私がやっても良い?」
初めて口を開いたのは、森川さんだ。
「こう見えて、演技は得意なの」
「じゃ、お願いするね」
三つ目の課題、作戦概要。
森川さんが頑張る。
「四つ目のやつ、どうしよう?」
確かに、四つ目の課題の達成には困る。
あれだけ僕たちに有利な条件なのだ。
きっと先生が得意とする分野なのだろう。
「あのー」
挑戦は一回きりとは言われていないし、ここは数撃ちゃ当たる戦法で――
「あの!」
そうやって考えていると、またもや初めて聞く声を聞いた。
「どうしたの?」
「僕、影が薄いので……一分くらいなら見つからないと思います」
確かに。
声をかけられるまで気がつかなかった。
「そう? じゃあ、お願いしても良い?」
四つ目の課題、作戦概要。
田中が気配を消す。
「じゃあ、五つ目の課題だけど……私、人と仲良くするの得意だから、任せてほしいな」
「良いよ」
「もちろん」
「異論はありません」
「うん」
五つ目の課題、作戦概要。
天津さんが聞き出す。
「じゃあ、作戦も決まったし、一つ目の課題からやっていこっか」
天津さんの言葉により、僕たちは動き出した。
作者の次回更新までの課題は、『先生作の短歌を考えてくる』ことです。
さすがにカットはできませんからね。
頑張って考えてきます。
1-5「班別異能レクリエーション」
やって来たのは山の中。
水晶玉の捜索を山田に丸投げし、僕たちは道沿いに歩く山田についていくだけだ。
時折、見つかりませんね……とか、本当にこちらで合っていたのでしょうか、とか呟いているが、聞こえなかったことにする。
本当に任せて良かったのか不安になってきた。
だが、山田に任せた方が見つかる可能性が高いのは事実。
不安を抱えながらも山田の後ろを歩き――
山田が足を止めた。
「ここですね」
そこにあったのは、いかにもそれらしい感じの|祠《ほこら》。
中を開けてみると、真新しい水晶玉が入っていた。
「出した瞬間に怨霊が……みたいなことにはならないよね?」
天津さんの心配をよそに、山田が無造作に水晶玉を取り出す。
怨霊のたぐいは出てこなかった。
その後、なぜか持っていた|気泡緩衝材《プチプチ》で水晶玉を覆い、成瀬先生のもとへ向かう。
成瀬先生の周りには、何人も生徒がいて、それぞれが成瀬先生に何かを見せたり何かを披露したりしていた。
成瀬先生に見せたりする系の課題がそれなりに多く入っていたみたいだ。
成瀬先生が話し終わるのを見計らって、全員で水晶玉を持っていった。
「先生、これ、見つけました」
受け取った成瀬先生は、ルーペを取り出して細かいところまで観察したり、日の光に透かしたりして検分した後。
「確かにこちらで用意した水晶玉に間違いないな」
成瀬先生の確認も取れたし、これで一つ目の課題はクリアだ。
「ふむ、他に何かあるか?」
そう聞くのは、まとめて課題を達成した班があるからだろうか。
「ああ、それなら、短歌の暗唱をしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
山田がすぅっと短く息を吸い、口を開く。
「ひらひらと、桜舞い散る、この空に、響く泣き声、|来《きた》る青春」
「合格だ。他には?」
二つ目の課題、クリア。
「台本」
森川さんが言った。
それを聞いた成瀬先生は、傍らのリュックをごそごそあさりだす。
まさか、レクリエーションで使うのに出していなかったのか。
いや、出していたら他の班に課題の内容がバレてしまう可能性があるから出していなかったのか。
そうだと信じよう。
ようやく台本を見つけ出した成瀬先生が森川さんに台本を渡す。
それを受け取った森川さんは、はじめのページからじっくりと読み始める。
五分、十分、十五分……と時間が過ぎていき、ようやく森川さんが顔を上げた。
「やります」
その言葉が、スタートの合図だった。
僕らは思わず息を呑む。
まるで別人のようだ。
確かに森川さんの声なのに。
別人の魂が乗り移ったかのように、全ての登場人物を生き生きと演じている。
主人公が怒りに声を荒らげ。
ライバルと何度もぶつかり。
その度に自分に足りていないものに気づかされ。
最後は、全力を賭して自分の夢を叶えた。
その物語の一瞬一瞬に込められた悔しさを、怒りを、喜びを見事に表現している。
物語が終わった瞬間、静寂が僕らを支配した。
森川さんの演技の余韻に浸り。
そして巻き起こるは、万雷の拍手。
森川さんはその様子を見て、少し照れた様子だ。
それでも、『やりきったぞ』という感情をその瞳に浮かべる。
「見事だ。実は、私は演劇部の顧問を務めていてな。森川の演技は圧巻の一言だった。興味があれば、部活見学の時に寄ってみてほしい」
成瀬先生からも大絶賛だった。
これにて、三つ目の課題、クリアだ。
「そうですね。寄ってみます」
「先生! かくれんぼしませんか?」
森川さんと成瀬先生の会話が終わったのを見計らって、天津さんが次の課題についての話を始める。
「良いぞ」
先生は、リュックの中からタイマーを取り出す。
「十数えるから、その間に隠れてくれ。範囲はここから半径百メートル以内だ」
タイマーの数字が十秒にセットされ、数字を減らしていく。
成瀬先生は目を閉じている。
僕はどこに隠れようかと周囲を見回し。
決めた。
音を立てないよう、細心の注意を払って。
屋根の上に、上る。
タイマーが鳴った。
成瀬先生が素早くリセットし、一分にセットし直す。
目が合った気がした。
「見つけたぞ、九十九」
屋根の下から、成瀬先生が僕に言った。
開始五秒足らず。
僕は、成瀬先生に見つかってしまった。
「天津、見つけた」
木の裏に隠れていた天津さんを見つけ。
「山田もだ」
木に上っていた山田も見つけた。
「森川……よく考えたな」
僕が屋根に上った建物の裏側に隠れていた森川さんも見つかった。
時間は、残り十五秒。
四人見つかってしまったが、まだ本命が残っている。
僕たちには、彼がどこに隠れているのか分かっていた。
というか、外から丸見えだった。
けれど、成瀬先生は気づかない。
そんな場所。
成瀬先生は、耳を澄ませ、僅かな物音も聞き逃さないようにする。
そうして歩いても、あと一人どうしても見つからない。
そうこうしているうちに、残り七秒。
先生は、まだ十分に探していない場所をざっと探す。
が、それでも見つからない。
そして、あと三秒。
せめて、スタート地点の周りだけでもと。
成瀬先生がスタート地点の近くに戻る。
残り、一秒。
彼は、すぐそこだ。
タイマーが鳴った。
同時に、僕らの四つ目の課題のクリアも確定する。
「はぁ……降参だ。どこにいる? 田中」
成瀬先生がそういって両手を挙げると。
「ここですよ」
成瀬先生の足元のベンチから声がした。
田中は、このベンチの下に隠れていたのだ。
「普通なら、間違いなく気配が漏れて開始前に気づくだろうに。お前の影の薄さのおかげというわけか。うむ、見事にしてやられた」
「影の薄さって……はは……」
田中は、悲しそうな笑みを浮かべた。
その影の薄さで、何かあったのだろうか。
「先生、ありがとうございました。今のところはこれで終わりです」
天津さんの声で、僕らと成瀬先生の会話が終わる。
「さ、後は私に任せて。三十分もあれば終わるからさ」
その言葉に、僕らは顔を見合わせた。
話が一段落したら、メインの方の執筆を行うために一、二週間休載するかもしれません。
1-6「異変」
天津さんはぐるりと辺りを見回し、一人の男子生徒に狙いを定めた。
「やっほー! 十五くん!」
既に彼女は持ち前の人懐っこさを使い、クラスのメンバーとの仲を深めている。
故に警戒されることなく声を掛けることができた。
「すっごい暇そうだけど、どうしたの?」
確かに、水の入ったペットボトルを持ち、木に背を預けて座っているその姿は暇そうに見える。
「ん? ああ、レクリエーション終わったんだよ。次どうしろって指示もないから、こうして暇してるところ」
「へぇ、ならおしゃべりしない? 多少は暇つぶしになると思うよ」
「天津が良いなら」
二人の話は天気の話から始まり、趣味や特技、果てには自分が持つ異能についての話に至るまで、とにかく多岐に渡る話題を経て、ついに天津さんが僕らにとっての本題を切り出す。
「そーいやーさ、十五くんはレクリエーションでどんなことしたの?」
これまでの雑談で口が緩んだ十五は気がつかない。
一応、これが先生により禁止されたことだということに。
「うーん、そうだな……」
十五が考え込む。
話を盛り上げる内容のものを選んでいるのか。
「俺のところでは、早口言葉三番勝負なんてのがあったな」
「早口言葉?」
「ああ。『生麦生米生卵』みたいな早口言葉を三回連続、互いに言い合うんだ。それで、どちらが速く正確に言えたかを競う。三回やって、多く勝った方が最終的に勝ち」
「へー、そんなのがあったんだ」
天津さんが適当に相槌を打ちながら話を進めていく。
「結局、どっちが勝ったの?」
「ん、俺だ」
「すごいね」
もう聞きたいことは聞けたからか、天津さんはだんだん話を終わらせる方向に持っていき始める。
と、ここで天津さんと目が合った。
そろそろ話を切り上げたいと目で訴えかけてくる。
それじゃあ、少々強引だがこの方法で。
今天津さんを見つけたようによそおい。
「天津さーん! ちょっと班で話したいことがあるから来てくれるー?」
大声で天津さんを呼ぶ。
「うん! 分かった! ……それじゃあ、十五くん、またね」
「おう。ありがとな、暇つぶしに付き合ってくれて」
「こっちこそありがとね」
手を振りながら十五と別れる天津さん。
「……と、待たせてごめんね。それと、ありがと、九十九くん」
「全然待ってないから大丈夫だよ。先生に言いに行こう?」
班長の森川さんに先導される形で成瀬先生のもとへ向かい、そして。
「うむ、それは確かに十五の所属する六班の課題の内容だ。おめでとう。君たち八班は班別異能レクリエーションをクリアした」
成瀬先生に確認してもらい、見事クリア。
三十分後。
「さて、全員揃っているな? 今から宿泊施設に戻り、荷物の整理や必要なものを取ってきてもらったりするぞ」
整列した僕たちの前に立つ成瀬先生の指示により、僕たちは建物の中に入る。
急いで置いたからだろうか。
部屋には、メンバーのかばんが散乱していた。
取り敢えず端に寄せて、とある男子生徒が一言。
「なあ、ベッドどうするよ?」
そう、ここのベッドは二段ベッドだったのだ!
僕らは拳を握りしめ。
「最初はグー、じゃんけん」
「「「ポイ」」」
グー、グー、グー、チョキ、パー、パー……あいこだ。
「あいこで」
「「「しょ」」」
パー、パー、チョキ、グー……またあいこ。
そんなことが十回は続いた後。
誰かが呟いた。
「これって、適当に二人でじゃんけんして勝った方が上、負けた方が下を取れば収まるんじゃあ……」
僕たちの行動は素早かった。
見知らぬ男子と向き合い、拳を握る。
「じゃーんけーん――」
僕の手はパー。
相手の手はチョキ。
僕の負けだ。
だが。
むしろ、下の方が動きやすいのではないか。
もし上だったなら、下の人のことを気にしながらベッドを使わなければならない。
見れば、他のところもベッドが決まったようで。
「あ、やっべぇ、シーツ取ってくるの忘れてた」
と、まあ、こんな感じでトラブルもあったが。
「ふぅ……」
無事にシーツも敷き終わり、ほっと一息。
ふと時計を見ると、後二十分で風呂だった。
かばんから風呂セットを取り出し、自分のベッドの上に置いておく。
こうすることで、時間が近づいて慌てて準備することがなくなる。
しばらく布団の上でぼーっとして。
風呂の時間の十分前になったことを確認すると、道具を持って大浴場に歩き始めた。
「あー、さっぱりしたー」
今は、髪を乾かしながらまったりしているところだ。
あ、夕食まで後四十分だ。
あまりのんびりはしていられないな。
今日の夕食の様子については何も語らないが、一つだけ言わせてもらおう。
量、多くない?
夕食後、たくさん時間があるからトランプでも……とはならなかった。
「今日の班別異能レクリエーションでも異能を使ったと思うが、これを強化する方法があると言ったらどうなる?」
僕たちが集められた大広間にて、成瀬先生はそう言った。
クラスがざわつく。
「静かに。話の続きだが、そう難しいことじゃない。今、異能概論で学んでいる『エネルギー』を圧縮して使うんだ。異能の発動回数や継続時間は短くなるが、一回一回の威力は高まる」
圧縮……ねぇ。
試しに指先に集めてぎゅっと押してみる。
指先に集まったエネルギーの濃度が少し高くなった気がした。
「ほんとだ。探知範囲も広がってるし」
誰かがそう呟いたのを耳にする。
探知系の異能なら探知範囲も広がるのか。
「ここは広いし、今なら軽く異能を使ってもらってもかまわない」
部屋中で異能が発動される。
さすがに炎や水などの異能の所持者は指の先に出すなどかなり控えめだったが。
炎の異能で出した炎は青い炎になっているし、ありえないレベルの身体能力で動き回っている人もいる。
……これ、異能なしで対等な関係、築けるかなぁ……
「あれ、九十九くんは異能使わないの?」
天津さんが声をかけてくれた。
「うん。自己紹介の通り、使えないんだ」
宿泊研修を通して、いつの間にか僕の敬語は崩れていた。
これが終わったら後は寝るだけだ。
「やはり、本当に使えないのか」
誰かの呟きは、喧騒に遮られ聞こえなかった。
その夜。
がさり、と音を立てて。
影を固めた狼のようなモノが、現れた。
1-7「決着」
鳴り響く警報。
それはスピーカーから流れていて、音量が大きすぎるのか時折音が割れている。
驚き飛び起きた僕は、ルームメイトも同じように慌てふためいているのを見て、逆に冷静になった。
『皆起きているな!? 直ちに大広間に集まれ!』
警報の音が切れたかと思えば、初めて聞く成瀬先生の焦った声。
僕たちは何かに追われるように我先にと部屋から飛び出し、何も持たないまま部屋を飛び出した。
大広間には既にたくさんの生徒が集まっていた。
僕を含め誰もが不安そうな顔をし、周囲の人と何ごとかと話している。
「全員集まったな」
マイクを使ってはいるが、この喧騒の中良く通る声だった。
「何者かの襲撃を受けた。外は包囲されている。先生たちが戦うから、生徒の皆はここに避難しておいてくれ。以上」
端的な状況説明。
それが余裕のないことを示していて、余計不安に駆られる。
二人の先生を残して、先生たちは全員外へ出てしまった。
『ぐっ……』
『……かはっ!』
『おおぉぉおおぉ!!』
外から漏れ聞こえる声から、先生たちが苦戦していることが読み取れた。
部屋に残った先生もいつでも戦えるように構えている。
僕も最低限の自衛はできるように、最近覚えた『エネルギー』を循環させることによる身体強化を行った。
ぬるり、と。
足元の影からしみ出すようにして現れたのは、影を固めた狼のようなモノ。
それに反応できたのは、ほとんど偶然のようなものだった。
全力で後ろに跳ぶ。
同時に、狼の爪が先ほどまで僕がいた場所を穿った。
もし動くのが後数秒遅かったら、と考えるとゾッとする。
さっきまで僕たちが怯えながら守られていた大広間では、その原因となった狼との戦闘が行われていた。
何の偶然か、狼は一人に一匹ずつ。
先生たちは、僕たちが戦っている狼より一回りは強い個体と戦っているようで、助けは期待できない。
影の狼と相対する。
ごくり、と唾を飲んだ。
全身の強化に回すエネルギーを少し減らし、視力を強化する。
狼が動き出す。
速さでは到底及ばないため、相手の動きを予測して動かなければならない。
狼の攻撃手段といえば、噛みつき、爪での引っかきといったところだろうか。
僕まで後二メートルというところで、狼の口が動いた。
噛みつきだ。
と、認識するよりも早く、右手が狼の頭を殴るために動き出す。
手を握って、クリーンヒット。
狼が左に吹き飛ばされていく。
視界の端で雷が瞬いた。
どうやら、雷系統の異能保持者が狼と戦っているようだ。
部屋中を雷光が移動し始めたが、より危ない人から助けているだろうから、僕のところに来るまでもう少し時間がかかる。
狼は体勢を立て直し、壁を蹴って再び接近してくる。
口を開く予兆は、なし。
鋭く尖った爪が光を受けて瞬いた。
半身になって躱し、そのまま左足を軸足にして蹴りをお見舞いする。
手応えは――あり。
狼は二回、三回とバウンドし。
そのまま、すぅっと空気に溶けるように消えた。
念のため、警戒を解かずに辺りを見回してみるが、あの狼が襲いかかってくることはなかった。
はぁ、と大きく息を吐く。
耐久力はそこまで高くなかったようで良かったが、なら一体誰が何の目的でけしかけてきたのか。
地面に倒れこんで天井を眺める。
なぜか狼は自分と戦っている相手しか攻撃しないので、今こうしている僕が襲われる可能性はない。
数回息を吸って吐くうちに、疲労からか、眠くなってきた。
気がつけば、僕は眠りに落ちていた。
1-9「後日談」
今は語られぬ黒幕の独白を経て。
事態は、収束へと向かう。
知らない天井だ。
なんて、物語の中で言われることを言ってみただけで。
たくさんのベッド。
辺りに漂う薬品のにおい。
大方、使われていなかった大部屋の一つを保健室に改造したというところだろう。
はぁ、と息を吐いた。
腕を天井に伸ばす。
鈍い痛みが走った。
「っ、……ぅ……」
微睡んでいた意識が完全に覚醒を果たす。
足を動かそうとしても同様の痛みが走ったが、声は上げなかった。
この痛み、覚えがある。
筋肉痛だ。
体を鍛え始めた時、散々味わったからよく分かる。
これは筋肉が成長する痛みだから、回復系の異能で治してしまうわけにもいかない。
痛みを我慢し、体を起こす。
幸い、筋肉痛以外の痛みはないようだった。
そのまま立ち上がる。
部屋の出入り口にいた人に声をかけ、部屋を出た。
どうやら、あのままぐっすり寝てしまっていたらしく、外は日が昇って明るくなっていて、あたたかい日の光が僕を照らしている。
部屋に戻ると、みんながいた。
聞けば、あんなことがあったため宿泊研修は中止、今は部屋で待機の指示が出ているらしい。
大抵の人は友達と話していたが、僕はそんな気分にはなれなかった。
今回の騒動の原因は何なのかとか。
犯人は誰なのかとか。
そんな疑問が頭に浮かんだが、何にせよ今の僕が知り得ない情報だ。
学園側から発表されるまで待とう。
その日は、一日中外を眺めてぼーっと過ごした。
◆
一週間の休校の後。
学園から、今回の宿泊研修での騒動について説明があった。
曰く、外部から警備を掻い潜って侵入した人間が起こしたものらしい。
目的は不明。
単独犯か複数犯かも不明。
侵入者の正体すら分かっていない。
これを機に学園の警備を強化したらしいが、次の侵入を防げるのか|甚《はなは》だ疑問だ。
――そもそも、この発表は本当に正しい内容なのだろうか。
学園側が僕たち生徒の混乱を避けるために作った嘘の情報かもしれない。
そうならば、犯人は内部の者だということになるが。
と、そこまで考えたところで僕は思考を停止した。
これ以上考え出すと思考が同じところを回りだす気がしたからだ。
学園の内部に敵がいるかもしれないから人との関わりには気をつけるべし。
ひとまずは、これにだけ気をつけて生活しよう。
伏線もいくつか張ったので、ファンレターにて考察募集中。「これどういうこと?」等質問も受付中です。
前に予告していた通り、二週間の休載を挟みます。
2-1「日常」
事態は収束し。
戻った仮初の日常で、少年は何を思い、何をするのか。
はぁ、と短くため息をついた。
今日の授業でのことだ。
異能関連の授業はさわりの部分を終え、異能を本格的に用いた実践的なものになっている。
僕は異能が使えないから、異能の発動訓練では見学するしかない。
そんなことでは授業についていけず、僕は落ちこぼれとなっていた。
これで、本当に僕の異能について分かるのかな。
と、珍しく弱気になりながら家に帰る。
そんな調子で、自宅での学習が上手くいくわけがなく。
ここ一週間ぐらいずっと挑戦している『エネルギー』を目視する技能。
だが、一向に習得する気配がなく、それが僕の不安を加速させる。
いや、この努力が間違っているもので無駄であるというわけじゃないだろう。
異能の発動訓練中、教室に満ちるエネルギーの気配を感じながらずっと練習していた。
なにも、ぼーっと見学していたわけではないのだ。
そうやって自分を励ますが、不安、焦りは加速するばかりだ。
あー、駄目だ。
いつものように集中することができず、考えるのは最近の自分のことだけ。
この調子では何年かけても習得など望むべくもない。
今日はさっさと寝て、気持ちをリセットしよう。
◆
学校に行きたくない。
こんな気持ちになるのはいつぶりだろうか。
とはいえ、行かないわけにはいかない。
なんのために、親に無理を言ってこの学園に進学したと思っているんだ。
ずるずると這うようにしてベッドから落ちる。
「……っ、つぅ……」
ごとんと頭を打つ音が響いた。
その痛みで、ぼんやりとしていた頭が完全に覚醒を果たす。
なんか最近痛みで目を覚ますことが多いな、と苦笑した。
まあ良い。
苦笑とはいえ、笑ったことで元気が戻ったかな。
取り敢えず、学校に行こう。
制服のブレザーに袖を通し、肩から通学カバンを掛ける。
「いってきます」
◆
朝の教室は、なぜだかいつもより騒がしかった。
「朝のお知らせだ。今日と明日、そしてゴールデンウィーク明けの一週間の間に部活見学が行われる。ぜひ、見学していってから部活を決めてくれ」
なるほど、部活見学か。
みんな、朝のうちに誰とどの部活に行くか決めていたのだろう。
成瀬先生は、最後に「別に部活に所属することは強制じゃないが」と付け加えて話を終えた。
なんだ。
強制じゃないのか。
じゃあ、見学せずにそのまま帰ろう。
そう、思っていたのだが。
「九十九さん」
僕に声をかけたのは、山田だった。
「良ければ、僕と一緒に部活見学に行きませんか?」
誘われては大した理由もなしに断るわけにはいかない。
しょうがない。
行くか。
僕と山田が回った部活は、文化部ばかりだった。
演劇部では、台本を基に演技をしたり。
吹奏楽部では、楽器を弾いてみたり。
放送部では、実際の放送原稿を読んでみたり。
部活見学というか、部活体験のようだった。
結構楽しかったな。
もし明日も誘われれば、行っても良いかもしれない。
そう思うくらいには、僕は部活見学を楽しんでいた。
帰る頃には、朝の憂鬱な気持ちは吹き飛び、明日のことについて考えている。
――これなら。
帰ってすぐに分厚い〈実践編〉を開き、気合を入れて床に座った。
エネルギーを圧縮したものが見えるかどうか。
圧縮した方が濃度が上がって見やすくなるので、最初はそっちの方が良いらしい。
右の人差し指の先にエネルギーがたくさん集まっているのは感覚で分かる。
後はこれをどう視覚に反映するか。
多分、ここまでできたら後はきっかけ一つでできるはずだ。
一瞬だけ目を閉じる。
これにより、視覚の切り替えができないかな、と思いながら。
ゆっくりと目を開ける。
世界が、白黒になっていた。
僕の右の人差し指の先は黒く、僕の体は灰色で、周りの空間は少しだけ灰に濁った白。
ああ、エネルギーの濃度によって色が違うのか。
そう、感覚で理解する。
これだと見づらいなぁ、と。
視界を元に戻すことを願いながら、再び目を閉じて開く。
いつもの風景が映った。
もう一度。
できるようになったことを確認するように。
目を閉じて、開く。
白黒の風景。
エネルギーを圧縮したり、霧散させたり。
そうする度に、黒が集まったり、散って灰色になったり。
しばらくそうした後、また視界を切り替えた。
ふと気がついて時計を見てみると、ちょうど短針と長針が重なって頂点を指しているところだった。
まずい。
これ以上遅くなると授業中に寝てしまう。
僕は、慌てて布団に潜り込んだのだった。
2-2「進展」
「ん……」
眠りからの緩やかな目覚め。
それに従い目を開くと、眠りへ再び|誘《いざな》おうとする意識をかき消すようなまばゆい光が飛び込んできた。
――おかしい。
いつもと目覚めの感覚が違う。
いつもは、誤差二分程度というなかなかの精度で決まった時間に起きるのだが。
その時の目覚めは、朝起きられない全ての人が羨むほどの爽やかな目覚めなのに。
この目覚めは。
休日の朝のような、目覚める時間を定めていない時の目覚めの感覚と同じ。
嫌な予感がして、ばっと時計を見る。
時計は――
――八時、ちょうどを指していた。
寝坊した。
◆
「|ふっごふごーふ《いってきまーす》!」
焼かないままの食パンを口にくわえた僕は、母に見送られながら道を全力疾走していた。
時刻は八時五分。
信号に引っかからずに行けたのなら、まだぎりぎり間に合う時間だ。
なんで起こしてくれなかったんだ、と思っても仕方のないことを思いながら、走る、走る。
母のことだから何度も起こしてくれていたのだろう。
それでも起きなかったのだ。
完全に夜ふかしした僕が悪い。
――ああ、走りづらい。
当然だ、口に食パンをくわえているのだから。
手を動かす。
右手で食パンを掴み、首を振って食パンを噛みちぎった。
もそもそと食パンを口の中に収めながら、前を向く。
まずい。
信号が点滅するのを見ながら、走る速度を上げる。
間に合うようにと願いながら、横断歩道を駆け抜けた。
◆
「はぁ、はぁ……」
既に息は荒く、口の中も乾ききっている。
しかし、それでも足取りだけはしっかりしていた。
最後の一口を口に放り込む。
遠目に学校が見えた。
やたらねっとりしている口の中のものを飲み込むと、速度を一段階上げる。
そのまま、最後の力を振り絞って駆けた。
◆
間に合った……。
教室に滑り込み、かばんをひっくり返して中身を全て机の上に出した後、僕は上半身を机に投げ出していた。
後ろから「あいつ朝から何やってんだ?」なんて声が聞こえてくるが、そんなのはお構いなしだ。
おかげで成瀬先生にも「こいつ何やってんだ?」というような目で見られたが、気にしないことにする。
まあ、この朝のドタバタのせいで眠気は完全に吹き飛んだから、悪いことばかりというわけではない。
今この状況に陥っている原因の全てが今朝の寝坊、ひいては昨日の夜ふかしに集約されるのだから、結局プラスマイナスで言ったらマイナスじゃないか、というのは置いておいて。
今日は、一時間目から異能に関する授業がある。
昨日、未来の僕の苦労を無視してまで得た成果が発揮できるというわけだ。
久方ぶりに感じる胸の高鳴り。
鏡なんて見なくても、今の僕の目が輝いていることぐらいは分かる。
そうして始まった授業。
行われる場所が教室である以上、そこまで大々的な異能の行使はできないわけだが。
それでも、教える内容が内容であるため、やはり授業内で異能を扱う時間が設けられた。
異能を扱えない僕は見学を余儀なくされるが、文字通り「見て学ぶ」ことはできる。
一度瞬きをし、視界を切り替えた。
色が失われた世界で、みんなの動きを注視する。
確認するのは、異能を使う時のエネルギーの動き。
これを消費して異能を発動するのだから、これの動きと異能の発動の因果関係が皆無ということはないはず。
果たしてその予想は――
当たっていた。
例えば炎を出す異能を行使した時。
手から炎を出すのであれば、まず手にエネルギーが集中する。
その集中したエネルギーは一旦手から放出された後、「発火」という現象に変換されていた。
一つ、気になる異能が。
保有者は、|千《ち》|羽《ば》|海《かい》。
この異能のエネルギーの動き方が、身体強化をした時のエネルギーの動き方と酷似しているのだ。
他の異能はどこか発動する起点――一点にエネルギーが集まるのに対して、この異能はエネルギーが全身を高速で巡っている。身体強化もこれと大体同じで、部位によって差はあれどエネルギーを全身に巡らせて行っているのだが。
千羽海の異能――指を傷つけて異能を行使している点から見て、恐らく治癒系か自傷を前提とする強化系――と身体強化では得られる効果が異なる。
ということは。
――エネルギーを現象に変換する出力の段階に何か秘密がある。
まあ、その「秘密」が分かっていれば苦労しないのだが。
取り敢えずやってみるか。
試してみないと何も進まない。
いつもと同じように体にエネルギーを巡らせた。
身体強化の出力を下げて、回復能力を上げる。
それを意識し、出力を調整した。
筆箱のはさみを取り出し、刃を指先に這わせる。
鋭い痛みが走り、赤い血が出た。
さて、実験が成功なら――
血が止まるのはいつもより若干早かった気がする。
だが、劇的な早さかと言われれば違う。
やっぱり、僕が気づいていないだけでなにか条件があるのだろう。
さすがにそこまで上手くいくことはないか。
少しだけ落胆の気持ちもあるが、異能の発動のプロセスが少しだけでも分かったのは大きな進展だ。
明日からゴールデンウィーク。
たくさんの時間がある。
焦らずじっくり考察と実験を繰り返していこう。
◆
――そう、思っていたのだが。
「ここ、どこ……?」
次の朝、起きたら謎の白い空間にいました。
どうしてこうなった。
作中の説明が分かりづらかった方へ。
簡単に言えば、「見えている部分の式は全く同じなのに、答えは全然違うから見えていないところになにかあるよね」ということです。
2-3「合流」
まず情報を整理しよう。
寝て起きたら、ここにいた。以上。
……全く何も分からない。
周囲を見渡してみる。
どこまでも続く白、白、白。少なくとも見える範囲にはその他の色がない。
凄い圧迫感。ずっとここに一人でいたら気が狂ってしまいそうだ。
取り敢えず、動かなければ何も始まらないか。
「おーい、誰かいますかー?」
口に手を当てて、なるべく遠くへ声が届くようにする。
「……こだ。ここだ!」
一度目の呼びかけで答えが返ってくるとは。運が良い。
僕は、声が聞こえた方向へ逸る気持ちを抑えつつ足を進める。
コツ、コツ……と響く足音。それが孤独感を助長し、僕の足をより早める。
早歩きは次第に小走りへと、そして今は全力疾走へ形を変えて、僕の体を彼の元へ運んだ。
「良かった、俺だけじゃなかった……!」
僕も同じ気持ちだ。
そう言いたいが、疾走による息切れで今は我慢するしかない。
「はあ、はぁ……」
ようやく落ち着いてきた。
「君は……」
「俺? ああ、俺は十五彰だよ」
申し訳ないが、まだクラス全員の顔と名前が一致しているわけではない。
入学してから約三週間。一週間の休校を挟んだから、実質二週間。
たったそれだけの時間しかなかったから、まだ関わりのある人の名前しか覚えられていない。
宿泊研修の時に天津さんが十五と話しているのを遠目に見ただけで、顔は見ていなかった。その後、クラスでは中心的人物になっていたから、名前と顔はうろ覚えだがギリギリ一致する。
「ここには、どうやって……?」
具体的な答えが返ってくる望みは薄いだろうな、と思いながら問う。
「悪い。寝てたらいつの間にかここにいて」
「僕と同じだ」
と、そこまで話したところで。
微かに、誰かが走ってくる音が聞こえる。
この空間を構成している物質は、音をよく響かせるのだ。
「おーい!」
手を振って現れたのは、天津さん。
彼女もここに飛ばされていたのか。
「九十九くんと十五くん、だよね?」
「うん」
「良かったー! 目が覚めたらここにいて、もしかしたら一人ぼっちじゃないかと不安だったんだよ!」
それは同感だ。
「ね、どうしたらここから出られると思う?」
どうしたら、ねぇ……。
辺りをぐるりと見回してみる。壁と部屋。まるで迷路みたいだ。まあ、迷路だとしたらスタートとゴールがないので解けないのだが。
「取り敢えず、何か脱出の手がかりになるものを探そう」
そう提案したのは十五だ。
しかし、脱出か。この空間に僕たちを閉じ込めた存在は、僕たちを外に出すつもりがあるのだろうか。せっかく中に閉じ込めた人間を外に出してしまうのはもったいない気がする。
「いいね! 賛成!」
――もしかしたら、二度と外に出られないのではないか。
浮かんだ最悪の未来を、頭を振ることで強引に追い出す。
「分かった」
「よーし、出発!」
提案したのは十五なのに、なぜか出発の号令は天津さんという謎の状況。でも、それが彼女の平常運転。
こんな状況下にあってもいつも通りであれる彼女を見て、張り詰めた緊張の糸が少しだけほぐれるのを感じる。
さあ、行こう。
少しでも、脱出の手がかりを得るために。
2-4「試練」
――キィ、と音を立ててドアが開く。
迷路のような造りになっている空間内を歩き回り、ほどなくして見つけたものだ。
白い空間にぽつりとある黒いドア。
それを見つけた時は、開けるべきかどうか激しい議論になった。結局、何か変化を起こさないと永遠に状況は変わらないという天津さんの意見に押されたわけだが。
その意見を言った本人、天津さんの手でノブが握られ、ゆっくり音を立ててドアが開いた。
僕たちは警戒しながら中に足を踏み入れる。
『お前達が私に挑むに足る存在か、確かめさせてもらおう。試練を始める』
その声が響いた瞬間、僕の意識が白く塗りつぶされた――
◆
空白は一瞬。すぐに意識が戻った僕は、バランスを崩しかけていた体を立て直す。
すぐに、辺りを見回して状況を把握しようとした。
そして見えた光景に。
「――――は?」
僕は驚きを隠せなかった。
見渡す限りの草原。
雲一つない青空。
その間を吹き抜ける風。
絵に描いたような美しい光景。しかし、この場においてはこの上なく不自然な光景。
どういうことだ、と一歩足を踏み出した瞬間。
「ヴゥゥゥ……グルルルル…………」
獣、おそらくは犬や狼に属するモノの唸り声。それを認識すると同時に、爪が空気を切り裂く音が聞こえた。
即座に身体強化を発動、後ろに飛び退いて避ける。
今一瞬だけ見えた爪の色は黒。つい先日の襲撃の時の狼と同じ色だ。
距離を取った僕は、敵と向かい合う。
明るい草原には不釣り合いな影の狼。
その大きさも、唸り声も、質感も、全てがあの日相対した狼と同じだった。
狼の脚が静かに地面を蹴る。爪か、牙か。どちらか分からないまま、僕は体を四分の一捻って躱す。
そして、その隙だらけの胴体に右と左で一発ずつ、計二発の打撃をぶち込んだ。
狼の体が吹き飛ぶ。
地面に着地し、体勢を立て直そうとするが。
「させ、ない!」
吹き飛ぶ狼に合わせて走った僕は、体勢を立て直す間に生まれる空白に攻撃をねじ込む。走った勢いで脳天に蹴り一発。
「ぐ……」
狼は、一瞬呻いた後静かになった。
「ふぅ」
短く息を吐き、呼吸を整える。
このまま立っているのも疲れるだろうから、他に仲間がいないのを確認し、草むらの中に座り込んだ。
今は謎が多すぎる。
あの声の主は?
試練とは?
そもそもここはどこだ?
「でも、今はみんなと合流し、て……」
立ち上がった僕と目が合ったのは、さっき戦ったのと同じ狼。
「グルルルル……」
どこから湧いてきた。そんな疑問が頭をよぎるが、今は疑問の解消より目の前の敵を倒すことの方が先決だ。
半ば反射的に体が動く。一歩踏み込み、前へ。一歩を刻めば刻むほど、僕の体はより速く進んだ。
狼の姿が眼前に迫る。これまでの勢いを全て力に変換し、思い切り殴りつけた。
軽く吹き飛ぶ狼を更に追いかけ、脚をしならせて胴体を蹴り飛ばす。
そのまま、狼は地面に頭から落下し、動かなくなった。
辛勝した影の狼と二連戦し、そのどちらにも勝ってみせた僕に、自分自身で驚きの気持ちがある。それは僕が強くなったというのもあるだろうが、敵があの日戦った影の狼より弱いというのもあるのだろう。
「――ふぅ」
今度こそ近くに《《誰も》》いないことを確認し、ほっと一息つく。
そう。誰もいないのだ。同じように部屋に入ったはずの、天津さんや十五も。
遠くに飛ばされたのだろう。早く合流し、脱出しなければ。
こうしてはいられない。
僕は、今太陽が昇っている方向に向かって歩き出した。
2-5「独り」
――分からない。
僕は、何体目か分からぬ影の狼を地面に沈めながら考えていた。
いくら進んでも誰にも会わない。太陽が動かない。これは僕たちをこの空間に転移させた何者かの意思で行われていること、つまり仕様だとして。
相手の目的が分からない。もっと身も蓋もなく言えば、何をすれば解放されるのか、それとも永遠に目覚めることはないのか、それが分からない。
解放条件に関しては今分かる情報では一切分からず、殺すのだとすればもっと分からない。なぜあの時よりも弱い影の狼を何度も差し向けるのか。
相手の爪を顔を軽く動かして避ける。そのまま、隙だらけの胴体へ一発。
狼の体は大きく吹き飛ばされ、地面という鈍器に殴られる。
その後生命活動を停止し、日に溶かされるように消えた。……いや、生命なのかは分からないが。
足を止めた。思えば、半日以上歩き続けていた気がする。
誰にも会わない。状況に変化がない。それなら、体力を温存するために歩くのをやめるのが合理的だろう。
その場に留まり――気配。
素早く後ろを振り向き、勢いをのせた回し蹴り。地面に叩きつけられ起き上がったところに、無数の拳をお見舞いする。
そのうち、動かなくなった。
そういえば、はじめより狼の相手がうまくなったような気がする。
何度も相手をしてきたことによる最適化。それは動きへの対応でもあるし、身体強化の使い方でもある。平時は出力を低く、戦闘時はより出力を高く。出力の切り替えを無意識下で行えるようになった。
僕はその場で構え、一定時間ごとに襲いかかってくる影の狼の対処に専念した。
◆
天津は果てのない草原をさまよっていた。
水も食べ物もないが、なぜかそれらには影響されずに活動できている。
『こんにちは』
狼が現れるも、『意思伝達』により会話を試みて足止め。これまで話しかけられたことがなかったのか、それとも話しかけられることが想定されていなかったのか。プログラムがうまく実行されずにエラーを起こした機械のように、狼が混乱している。
「ごめんね」
異能の効果を切って言った独り言。自分以外の耳には届かない謝罪の気持ち。
人の命を狙うのならば自分の命を失うリスクを背負って然るべきだ――天津の割とシビアな価値観により、狼は日に溶ける。
ここに辿り着いてからどれだけ経ったか。一時間は確実に経過している。恐らく、三、四時間程度だろう。
人の手による影響を一切感じない、いっそ不自然なほどの美しい自然。周囲の草を見れば自分以外の人間が通った痕跡はなく。
『久しぶり』
掛ける言葉はその時の気分による。
『――――っ!?』
基本的にどんな言葉であっても、過剰すぎるだろうという反応を返してくれるのはおもしろい。
――身体強化。
九十九が使っていた技術を見様見真似で再現したものだ。
精神エネルギーとでも言うべきものが体内を駆け巡る。天津は足を一歩踏み出し、拳を振り抜いた。
狼が吹っ飛ばされ、事切れる。
いつになれば終わるのか。嫌になりながらも、天津は襲ってくる狼を迎え撃つ。
◆
十五は、影の狼に軽く手で触れた。それだけで、影の狼が軽く消失する。
『|終焉の黒《Black of the end》』なんて大層な名前がついているが、本質は存在の消滅だ。今は触れたものしか消滅させられないが、いずれもっと射程距離が伸びるだろう。
――うっとうしい。
そう思いながら、影の狼に一瞬で肉薄。静かに手を触れ、異能の発動を意識する。
この空間に入ってから、体感で一日と半分ほど。
自分以外誰もいない草原で、十五は静かにため息をついた。
――他の人たちはどうしているだろうか。
十五がいるこの草原には、他に誰もいないことは確認済みだ。
これからどうするか、それだけを考えながら行動する。
影の狼が現れても鎧袖一触、戦闘に緊張感が欠片もない。
十五は意識の九割を思考に、一割を戦闘に向けながら思考に集中するために歩き出した。
2-6「敗北」
「はあ、はあ……」
ある程度弱体化しているとはいえ、際限なく襲いかかってくる影の狼の相手をしていると、当然息も上がってくる。
「っ、がぁ……」
動きは乱れ、時たま影の狼の攻撃を受けることもあった。もちろん、即座に殴り返しているのだが。
爪の攻撃が掠った。殴り返す。
次々と僕の体には赤い跡が増えていき、消耗が加速する。
「た、おした」
ようやく倒した影の狼。はじめの頃はまだ戦いやすい相手だと思ったが、疲弊した今はあの時の影の狼と遜色ない強さを持っているように感じる。
草原に大の字になって倒れ込む。草の感触が、日にあたためられた地面が、今は心地よかった。
「グルルルルル……」
だが、そうして休んでいられる時間は短い。すぐに次の個体が現れる。
「……っ」
今すぐ倒れ込んで意識を手放してしまいそうなほど疲弊した体に鞭を打ち、立ち上がる。そのまま、よろよろと構えた。
「……来い」
疲弊したお前では今の自分の相手なぞできるわけがない、と狼の眼に嘲るような色が浮かぶ。それは「負け」の二文字が見え始めた今の自分が見る被害妄想か。
だが、少なくとも今負けてやるつもりはない。
体力は今がこの空間に入ってからの最低値を更新し続けているとしても、狼の相手をする技量は今も最高値を更新し続けている。故に、残り少ない……本来の体力から見ればドットで表されるような体力でも、影の狼に太刀打ちできているのだ。
今にも崩れ落ちそうな体で影の狼の攻撃を掻い潜る。すれ違いざまに一発。背後に回って一発。取り敢えず一発。合計三発。
狼の体がよろめく。その隙を見逃さず一発。なんとなくもう一発。
影の狼が日に溶けていく。幸いこの個体はなんとか退けることができたが、次はどうなるか分からない。
「グルルルルル……」
耳元で、狼の唸り声が聞こえた。
「――――っ」
回避。間に合わない。どこかかじられる。どこか、まだマシなところを――
「……っ、ぐ」
左の肩から背中にかけて血が滲む。頭や首でなかっただけマシだろうが、腕、手を使いづらくなるのは痛い。利き腕が残っているのは不幸中の幸いか。
右腕で狼の頭を叩き落とした。
反撃を、と考えて身体強化の出力を少し上げる。心なしか傷の痛みが少し和らいだ気がした。それでも失った血は戻らないのか、体がふらつく。
これまでの状況であらかた分かった。少々状況に不可解な点はあるが、僕たちをここに閉じ込めた犯人は僕たちを始末したいのだろう。
だが、大人しく殺されてやるつもりはない。
最後まで抗うことを、ここから生きて出ることを諦めない。
改めて気合を入れ直し、狼に向き直る。
狼が滑らかに地面を駆け、僕に飛びかかろうとする。僕も同時に動き、絶妙なところで狼の攻撃を回避、すれ違いざまに攻撃を入れた。
狼は地面に叩きつけられる寸前で体を反転させ、勢いを殺し、もう一度飛びかかってくる。
――速い。
疲労の蓄積によって僕の動きが鈍っているのか、それとも純粋に少し速い個体だったのか、一つ前の個体より動きが速く感じる。
前足を掴んで動きを止め、胴体を殴ろうとする――が、《《すり抜けた》》。
今までの影の狼との戦闘経験から、おおよそここに来るだろうというあたりを付けているのだが――それが仇となった。速さも体格も全てがほぼ統一されていたため、速い相手の対応ができないのだ。
「っ、つぅ……」
利き手は遠く、逆の手は痛みで使えそうにない。対処不能。無防備になった体に爪での攻撃を食らう。
鋭い痛み、狼の勢いで体勢を崩す。
「ま、ず……っ!」
一度体勢を崩してしまえば後は相手の攻撃を受けるのみとなる。防御することも許されず、狼の爪が迫り――
僕の視界は暗転した。
2-7「開始」
「っ、は――――っ!」
大きく息を吸い込む。死んでいない。生きている。
肩の怪我は? 影の狼にやられた傷があるはずだ。
左の肩から背中を手で抑える。痛くない。血が滲まない。
誰かが治してくれた? 違う、この中の誰も治癒系の異能を持っていない。
まるで夢だったかのように、影の狼との戦闘の痕跡が消え去っていた。もしかしたら、あれは実際にあったことではなく、何者かに見せられていた幻覚だったのかもしれない。
体を起こす。部屋に入ってすぐのところで、僕、天津さん、十五は倒れていた。
「――ん、う、ぁ……」
「……ん」
起こそうか悩んだが、もうすぐ起きそうなので起こす必要はなさそうだ。
「九十九?」
先に目覚めたのは十五だった。
「起きたんだ。おはよう。そうだよ」
「天津は?」
と、十五が言ったのとちょうど同じタイミングだった。
「ふわぁ……あ、おはよう」
天津さんも目覚め、会話に入ってくる。
「ねぇ――」
寝ている間に見た夢について話そうとした、その時。
『試練の過程は全て見させてもらった。やはり、私が見込んだ通り、中々優秀な者たちだ』
扉を開けた直後に聞いたものと同じ声。あの時も試練について言っていた。
『ここにはいない残り二人も、中々優秀な者達だ。次の――最後の試練は、お前達が合流し次第開始する』
僕たち以外にここに拉致された人たちが二人もいたのか。しかし、この広い空間から二人を探し出すのは骨が折れる。どうしたものか、と考えていると。
視界の端で、雷が瞬いた。
もう一度、目の前で瞬く。一瞬の間に背後に回り込まれ、首に手が添えられていた。何かあったら電流を流すつもりなのだろう。
「あなたは、誰? 所属は? 目的は?」
質問が多い。が、順番に答えていこう。
「九十九一。所属――と言えるか分からないけれど、異能学園に通ってる。今の目的は、ここから脱出すること」
「そう。私は、|渡辺《わたなべ》|来《らい》|花《か》。あなたと同じ学園で、同じクラス。目的も同じ。だから――」
そこで、彼女――渡辺さんは目配せし、
「協力しよう」
願ってもないことを申し出てくれた。
「もちろん」
「良かった。協力してくれなければ、協力してくれるまでずっと同じ話をするところだった」
首に添えた手に少し力が入っているが、まさか実力行使して強引に言うことを聞かせようとしていたわけではないだろう。そう信じたい。
「千羽。そういうことだから」
「分かった」
渡辺さんと同じように十五の後ろに回り込んでいた千羽が、十五から手を離す。もう危害を加える気はないとアピールするためか、両手を挙げていた。
『協力体制は整ったかな? それでは、試練を開始する』
わざわざ僕たちの話がまとまるまで待っていたのか、話が終わってすぐに声が響いた。
自己紹介等々するための時間はくれないあたり、声の主の性格の悪さが垣間見える。
建物が崩れる。
白い床が剥がれ落ちる。
剥がれ落ちた断片は、空を漂い、やがてどこかへ吸い込まれるように消えた。
剥がれ落ちた床の隙間から、どこに繋がっているかも分からない真っ黒な空間が覗く。
崩壊は止まらず、それは僕たちの足元にも及び――
僕たちの体が暗闇に呑まれるのと同時に、意識もブツリと途切れた。
2-8「侵食」
前も後ろも右も左も、上と下さえもない。そんなあやふやな空間を、僕たちは動いているのか静止しているのかすら定かでない状態で漂っていた。
やがて、僕たちの足元に地面が生まれた。
先ほど空間が崩れたのを逆再生するように、地面が、空が、草が、森が、生き物が生まれる。
変化はそこで終わらず、ファンタジーの領域へ踏み込む。
風も何も吹いていないのに、木が揺れた。
地面から湧き上がるように、白い光の玉が生まれた。
空を飛ぶドラゴンのような生物が現れた。
「……すごい」
天津さんが思わずといった様子で呟いた。
同感だ。
僕も、天津さんが先に言っていなかったら言っていたかもしれない。
「動く」
渡辺さんが、足を上げたり下ろしたり、体をひねったりしながら言った。
確かに、さっきまではとても体を動かせるような状態ではなかった。そう考えれば、当たり前のことだが感動するのも当然だろう。
「綺麗だ」
ひとしきり感動するのを終えたところで、改めて周りの風景を見渡すと、やはり「綺麗」の一言に尽きる。
「気をつけろ。何か……変だ」
「ん、確かに」
千羽の忠告に、辺りの様子を入念に見てみる。
この中で唯一、渡辺さんだけは分かっているようだが、僕は全く分からない。
「《《黒く》》なってってる」
黒く……?
今、僕の目の前を横切った兎は確かに黒かったが、それに何の関係が?
空を黒いドラゴンが飛んでいる。
黒い花が咲いた。
黒く輝く蛇がこちらの様子を窺っている。
真っ黒な熊が僕たちを見て逃げ出した。
黒い鳥の群れが慌ただしく空の彼方へ消えていく。
小さな黒いトカゲが蛇に食われた。
辺りの風景がどんどん黒くなっていく。
偶然、これらの生物が黒かったのかもしれない。だが、それでもこんなに偶然が重なることがあるだろうか。
黒く侵食されていく森。変わらず幻想的な白い光の玉が辺りを漂う。
それが不気味に感じられてくるのは、僕だけだろうか。
青い鳥がいた。
その鳥は不思議そうに白い光の玉を見つめ、|嘴《くちばし》でつつく。
白い光の玉は消え、代わりに|嘴《くちばし》が黒く染まった。
その「黒」は|嘴《くちばし》から頭へ、胴体へ、羽へ、足へ広がっていく。
瞬きをした後には、その鳥は周囲に増えつつある黒い生き物の一員となり、飛び去っていった。
「全員、光の玉に触れないで」
目に入った光の玉は全て避けようとするが、なにぶん数が多い。
体をどう動かしても、必ずどこかしらの光の玉に当たる。
避けきれない。
「触れないでって言われても……これじゃあ無理だよ、どれかに当たっちゃう」
天津さんの言葉の通りだ。
「なあ」
光の玉を避けようと悪戦苦闘する僕たちに、十五が言った。
「この光はここに来た時からあった。俺たちはそれに触れている。なら、そこまで慌てる必要はないんじゃないか?」
「うーん、確かに」
一番慌てふためいていた天津さんが納得する。
「言われてみれば」
もちろん、僕も納得した。
「確かに。なら、ここから出る方法を探す」
渡辺さんがそう宣言した直後、何かが僕たちに突っ込んできた。
「ブモオオオ!」
そう吠えたのは、猪のような黒い獣だった。
|蹄《ひづめ》で地を蹴り、僕たちに突進してくる。
全員で避けたが、黒猪は方向転換し、千羽の方へ突っ込んだ。
千羽は軽やかに動き、黒猪の体に一撃を入れる。人体から鳴って良い音ではない音が鳴ったが、本人が平気そうな顔をしているあたり大丈夫なのだろう。拳は誰のものか分からない血に濡れているが。
「鬱陶しい」
渡辺さんが煩わしそうにそう呟いた後、雷が閃いた。
目にも留まらぬ速度で黒猪に肉薄し、黒猪にそっと手を触れる。
「この程度で十分」
渡辺さんの掌から雷が迸り、黒猪を焼き焦がす。
黒猪だったものはぷすぷすと黒い煙を上げ、どさりと倒れ込んだ。
明らかにオーバーキルなその光景を目にした僕は、顔が引きつっているのを自覚した。
「これ、食べられるかな」
煙を上げる黒猪に近づいてしゃがみ込んだ天津さんは、そんなことを口にした。
「やめておくべき。この黒く変貌する現象にどんな性質があるのか分からない以上、体内に入れるのは危険」
渡辺さんは全く動じず、天津さんの疑問に答えた。
「そっかー。殺しちゃったから、せめて私たちの糧にしてあげたいと思ってたんだけど」
食べるため以外に殺すって自然の摂理に反してるから、と天津さんは言った。
「確かにそうだが、野生動物だって自分の命が危なければ襲ってきた相手を返り討ちにすることもあるさ」
「そうだね。ならいっか」
ちなみに、こうしている間も黒く変貌した生物が僕たちに襲いかかっている。それらは、渡辺さんと千羽が対処していた。
「ちっ、数が多いぞ、渡辺!」
「知ってる。でも、私は七割倒している。千羽はもっと本気で戦うべき」
「何を言って……!?」
「千羽はもっと強い。異能を使えば」
二人がそんな会話の応酬を繰り広げている間に、状況は動いた。
「シャアアアアァ……」
黒い蛇が鎌首をもたげる。
この状況下だ、その意識は僕たちに向けられているのだと思ってしまうが、実際は違う。
蛇の目は僕たちではなく――森の中を飛んで僕たちへ襲いかかる黒い鳥に向けられていた。
ある一羽の鳥が仲間から少し離れたところを飛んでいる。
蛇は、その鳥が通りそうなところで鳥を待ち伏せた。
枝に尾を巻きつけ、タイミングを見計らう。
そして、その鳥が蛇のいる枝の真下を通った瞬間――蛇の口が大きく開き、鳥を丸呑みにした。
自然界でよく見る弱肉強食の一幕。
しかし、その後起きた出来事は「よく見る」とは言えないものだった。
真っ黒な蛇の全身がうごめく。
背中の部分が盛り上がり、蛇にはないはずの器官を作り上げていく。
十秒ほど経った頃には蛇の変化は完了し、その背中の翼をはためかせていた。
「キシャアァァッ!」
対峙するは、変異した蛇と僕たち五人。
戦いの火蓋が切られた。
2-9「戦慄」
緊張した空気を漂わせ、対峙する僕たちと蛇。
その空気に割って入る声が一つ。
「――!」
|隼《はやぶさ》をモチーフにしたような黒い鳥が上空から落ちてくる。
「シャアァアアアァ!」
蛇がそれに気づき威嚇するが、隼はお構いなしに蛇に接近する。というか落ちてくる。
「ピェ!」
隼が足を開き、蛇を蹴る。
硬くしなやかな鱗に覆われた蛇を殺すことは流石に不可能だったようだが、蛇は失神したようで体から力が抜けていた。
失神した蛇を隼が空中でキャッチ、口元に運びながら空高く舞い上がる。
あの隼もさっきの蛇と同じなら、何か変化が起きているはずだ。
だが、ここからでは遠すぎて見えない。
「ピェピェピェ!」
と、黒い隼がもう一羽現れた。
さっきの隼より一回り大きい。
隼の鳴き声が耳をつんざく。狩りの時より高く鋭く、大きく多い。
空に浮かぶのは二羽の隼。
互いに睨み合い、相手が何かしようとしたらすぐさま攻撃できるよう構えている。
「「ピェピェピェピェピェ……」」
二羽が同時に鳴き声を上げた。威嚇の声なのか、空気は更に緊迫していく。
一分ほど経った頃だろうか。
見つめ合い、牽制し合っていた二羽が動いた。
大きい方の隼が体格差を活かして襲いかかる。
小さい方がそれを避けようとするが、隼が速いのは落下時であり、先ほどまで普通に空中を飛んでいたその隼ではそこまでの速度は出せない。
黒い羽がパッ、パッと散る。
攻撃を続ければ続けるほど、攻撃が続けば続くほど小さい方の隼が消耗していく。
この場において消耗とは死と同義であり、そして。
――最後まで戦い続けた隼の最後の羽が散った。
空を飛べる存在と、空を飛べない存在による空中戦。
そうなってしまえばどちらが有利かは自明であり、小さい方の隼は大きい方の脚に掴まれ最後の抵抗をしていた。
が、その抵抗が実を結ぶことはなく。
大きい方が体から黒い影のようなものを伸ばし、小さい方を吸収する。
変化は劇的だった。
脚の付け根がうごめき、一対の脚が生えた。
翼の付け根がうごめき、一対の翼が生えた。
合計二対の脚に二対の翼。
体は二回りほど大きくなり、爪や嘴はより鋭くなっていた。
「ピェェェ!」
合体した隼は、僕たちに狙いを定める……が。
空を泳ぐイルカが現れ、隼を食らっていった。
「イルカの……群れ」
五頭ぐらいのイルカがまとまって泳いでいる。
一頭、遅れて泳いでいた。
ひれに傷を負い、前を泳ぐ五頭にどんどん距離を離されている。
――それを狙う鳥が一群。
大きな二対の翼。
翼の大きさに反して小さな体。
その一対の脚も体の大きさにふさわしい大きさであり、しかし左右に一つずつ異常に大きな爪が付いていた。
十羽以上の鳥がイルカを囲む。
このままでは狩られることを理解しているのか、イルカは泳ぐ速さを上げるが、鳥との距離は縮むばかりだ。
ついに鳥がイルカに追いついた。
大きな翼で更に加速し、その大きな爪をイルカに突き立てる。
その攻撃が十羽分続き、十羽目の攻撃が終わる頃にはまた一羽目の攻撃の準備が整っていた。
そんな波状攻撃をイルカも黙って受けるつもりはないらしい。
身をよじって、ひれで鳥を叩き、鳥の撃退を試みる。
が、鳥は小回りの利く体でその抵抗を避け、攻撃を再開した。
――抵抗を続けていたイルカの尾びれがだらりと下がる。
まずい。墜落する。
そんな僕の心配はどうやら杞憂だったようで。
群れの鳥全てから影が広がり、イルカが一瞬で消え失せる。
鳥は先ほどまでとは違い、大きく羽ばたくことなく空の彼方へ飛び去った。
悠々と鳥を狩っていたイルカが鳥の群れにあっさり狩られたという事実。
あるいは自然界の厳しさに、僕は戦慄する。
何かに対して自らが優位に立ったと思った次の瞬間、その対象が群れを成して襲ってくることがあるのだから。
なお、この間およそ一分。
2-10「方針」
「……なるほど」
渡辺さんがそう呟いた。
「何か分かったの?」
天津さんの問いに、渡辺さんの口がマシンガンの如く回りだす。
「この空間から出る方法は主に二つだと予想される。一つ、私たち全員が戦闘不能になること。二つ、これは予想でしかないけれど何らかの条件を達成する」
「確かに、一つ前の『試練』とやらでは戦闘不能になると元の場所に戻されたな」
千羽が賛成する。
確かに、言われてみればそうだ。
後者の達成は難しそうだが、前者の達成は容易だろう。
適当に突っ立っているだけで黒い生物に襲われるのだから。
が、本当に戦闘不能になって解放されるのかは怪しいところ。
黒幕の気が急に変わって、戦闘不能になるとそのまま死亡するようになる確率も零ではないのだから。
できれば、後者の方の条件を達成したいところだが。
「それで、その『条件』っていうのは?」
「分からない。一応、推測はしてみたけれど」
「推測で構わない。聞かせてくれ」
と、そこまで空気に徹していた十五が会話に混ざってきた。
「パッと思いつく可能性は二つ。この空間内で一番強い個体を倒すこと。それか、一定時間生存すること」
「なるほど。渡辺さんはどっちの可能性が高いと思う?」
「……どっちもありえる。けれど、生存に特化しすぎると前者の条件だった場合達成できない可能性が高くなる」
「死なないようにしながら、強そうなのを手当たり次第に倒していけば良いってことだろ?」
予想された二つの達成条件。
それらを両立するための意見が千羽から出された。
「そっか。生存することと戦わないことはイコールじゃないから……千羽くん頭いいね」
「渡辺とあとの二人も、それで良いか?」
「良い」
「大丈夫」
千羽と渡辺さんのアイコンタクト、十五と僕の承認により方針が決定する。
「おっけー! じゃあ、これから私たちは、出会った敵には積極的に戦いを仕掛けていくスタイルでいくぞー!」
「天津。それだと少し違う。雑魚に構う暇はないから、強いやつだけ」
「確かに。まあ、細かいことは置いといて、やるぞー!」
拳を突き出す天津さん。
◆
そうして出会った端から強そうな敵に戦いを仕掛けていき、現在。
虎の体に凄まじい脚力を持ち全身が鎧の如く硬い生物を、僕たちは攻めあぐねていた。
千羽の拳は毛皮に阻まれ、大したダメージにはならない。
渡辺さんの雷撃は何故だか効き目が薄い。
同時に小動物の群れが現れ、十五はそちらの対処に回されていた。
天津さんは彼女の異能を使い、敵の撹乱を行っていた。
「……通らなかった」
虎もどきに接近し、雷を流し込んでいた渡辺さんが後ろへ飛び退く。
「さっきは通ったのにね。残念!」
天津さんが渡辺さんを励ます。
「……でも、何が違うんだろうね」
天津さんの言う通り、渡辺さんの雷撃が通る時と通らない時がある。
虎もどきの動きは変わらないし、近くの小動物の群れも特に変化は感じられない。
後退した渡辺さんの代わりに、千羽が前に出た。
身体強化をした腕で虎の前脚や尻尾の攻撃を受け流していく。
が、いかんせん数が多い。
僕は千羽が受け流せなくなったのを見て、千羽に加勢した。
左上、右、右下――上。
全てを避け、虎もどきの攻撃が天津さんや渡辺さんに向かないようにする。
攻撃が速い。
間がない。
そんな中で千羽はどうしているのか――と見てみると、僕とは違い積極的に前に出ていた。
前脚の攻撃をかいくぐり、腹に打撃を加える。
当然虎もどきの硬い皮膚に阻まれ、攻撃は効かない。
が、攻撃する分虎もどきの労力は防御に割かれる。
虎もどきの攻撃が他の三人に向かないようにするのに有効な策だった。
「攻撃は最大の防御」とは本当らしい。
僕も防御一辺倒の戦いから、適度に攻撃しつつ適度に受けに回るような戦いに変えてみた。
「渡辺が攻撃するぞ、離れろ!」
千羽の言葉を受け、僕はその場から離脱する。
代わりに、雷を纏った渡辺さんが前に出た。
「いい加減、効いて」
その言葉が通じたのかは分からないが、バチッと音を立てて虎もどきの体に雷が流れた。
その様子を見て、僕たちは歓喜する。
攻撃が効いた。今の状況は? 何が攻撃の可否を決めている?
刻々と変化し続ける状況をできるだけ記憶に留めるため、辺りを必死に見回す。
虎もどきの様子。四肢を地面につけ、僕たちを威嚇している。
虎もどきの周囲。辺りをうろついている小動物はいない。一匹たりとも。
小動物の様子。ここからではよく分からないが、数えるのも億劫になるほどの数がいる状態でずっと変わらない。
「あ、わかった」
何かに気がついたらしい天津さんが渡辺さんに耳打ちする。
「なるほど。実験してみる。……みんな、離れて」
渡辺さんの言葉に従い、虎もどきから離れる。
代わりに渡辺さんが虎もどきの前に進み出た。
先ほどと同じように虎もどきに触れ、雷が流し込まれる。
が、先ほどと違い虎もどきに効果があるようには見えない。
「……やっぱり。千羽」
「分かった」
千羽が虎もどきに近づき、傍らの地面を踏み抜く。
すると、虎もどきが苦しみ出した。渡辺さんの雷が効いているようだ。
「これ」
渡辺さんが地面を指し示す。
小さな黒いロボットのようなものが欠片になって散らばっていた。
「これが、雷が効かなかった理由」
なるほど?
渡辺さんの雷をこのロボットが吸収していたと。
「原因が分かれば、対処は簡単。壊せば良い」
――それからの僕たちの行動は速かった。
小さなロボットが現れるたびに千羽が壊し、それから渡辺さんが虎もどきに雷を流し込む。
天津さんは敵の撹乱を続け、僕は虎もどきの気を引いた。
それを十回ほど繰り返すと、虎もどきは動かなくなった。
「……勝った?」
「ああ」
「うん」
「やったね!」
「なら、俺も抜けて良いな」
虎もどきへの勝利を喜ぶ僕らと、小動物の足止めの役割から抜け出す十五。
そんな時だった。
――グオォォォオ!
低い唸り声を上げ、ドラゴンが降り立つ。
虎もどきの死体をむさぼり食い、大きく吼えた。
2-11「激突」
「ガアァァァア!」
――こちらを見ている。
見られている、そんな感じがする。
僕たちは思わず動きを止めた。
冷や汗が止まらない。
「…………」
その場で息を殺す。
張り詰めた空気。
ドラゴンが僕たちから目をそらす。
実際にそうだとはっきり分かったわけではない。
だが、感覚的にそうだと分かる。
空気が弛緩した。
ほっと一息つく。
――ドラゴンの体がうごめいた。
なぜ今、なんて考える暇はなく。
体が一回り小さくなり、翼がなくなった。
全身に鋭い棘が生えた。
爪が倍の長さになった。
空を悠々と飛ぶ最強の生物から、より戦うことに重きをおいた凶悪な生物へと。
変化が完了する。
「ん!」
初めに渡辺さんが動いた。
雷が一瞬瞬き、渡辺さんの姿がドラゴンの元へ移動する。
恐らく僕が今まで見た中で最高の速度だ。
渡辺さんは得物を持っていない。
素手では全身の棘に阻まれ、ドラゴンまで攻撃が届かない。
渡辺さんは自らの速度に任せ、ドラゴンの棘をへし折った。
渡辺さんの背丈と同じくらいの長さの棘を、器用に棘を避けるようにして投擲。
ドラゴンの巨体では回避することは叶わず、渡辺さんが投擲した棘は見事に命中した。
「……っ」
だが、ドラゴンには何の痛痒も与えず、棘は轟音を立てて地面に落ちる。
気が付けば、周囲からはドラゴンを除く全ての黒い生物がいなくなっていた。
ドラゴンが僕たちの前に現れる前に全て吸収されたのか。
真相は分からないが、ドラゴンとの戦いに集中できるのはありがたい。
渡辺さんは地面に着地し、またドラゴンへ向かっていった。
「天津、撹乱できるか?」
千羽の問いかけに対し、
「うん」
天津さんが意識を集中し始める。
その間も千羽は指示を出し続け、ドラゴンに対する僕たちの戦い方を固めていった。
今までは、ただ漠然と、
天津さんが敵を撹乱。
渡辺さんがとどめをさし、
そこまでのアシストを十五と千羽と僕で担う。
そんな役割分担だった。
それが千羽の指示によって明確な形を持っていく。
「十五、お前の異能でドラゴンを消すことはできないのか」
「無理だ。直接触れる必要があるし、この巨体に対して効果範囲が小さすぎる」
「分かった。効果がないわけじゃないんだな? それなら、渡辺が攻撃しやすいよう足元を崩してくれ」
「了解した」
ドラゴンの元へ駆けていく十五の姿を目で追うと、地面に落ちた数え切れないほどのドラゴンの棘が目に入った。
渡辺さんがやったのだろう。
びっしりと棘に覆われていたドラゴンだったが、今は渡辺さんがいるところだけ肌が露出している。
渡辺さんはすかさずそこに飛び込み、雷を流し込む。
ドラゴンの体が一瞬だけ硬直した。
その隙を見逃さず、十五がドラゴンの足に触れる。
ドラゴンに生えた数多くの棘が邪魔だったが、それらは十五の手のひらが触れた瞬間に消滅した。
まるで元々そこには何もなかったかのように、ドラゴンの左前脚が消える。
一瞬遅れて仕事を始めた重力が、ドラゴンの体勢を崩した。
好機。
渡辺さんの攻撃が苛烈さを増す。
僕も追撃するべきだろう。
「九十九。お前は、俺と一緒にドラゴンへの牽制及び他の三人のサポートを行え」
「分かった」
意識を集中させ、エネルギーをより深く鮮明に感じ取る。
身体強化、出力最大。
後先考えず、ここで全てを出し切る。
走り出そうとしたその時だった。
『ごめん、ちょっといいかな』
『意思伝達』によって天津さんの声が聞こえた。
「どうした?」
『作戦は失敗したよ。それより、大切なことが分かったの』
今すぐに飛び出そうとしていた千羽の動きが止まり、天津さんの話に集中する気配がした。
『ドラゴンの知能が想定より高い。|人間《私たち》の言葉も理解してるみたい』
「分かった。天津は俺のところまで来てくれ」
千羽の言葉に従い、天津さんが千羽の方に走っていく。
千羽の隣まで来た天津さんに、千羽が何か囁く。
天津さんはこくりと小さくうなずき、異能を使用した。
『九十九くん。作戦変更だって。千羽くんはここで指示出し、私はそれをみんなに伝えるから、戦いの直接的なサポートは九十九くんだけになるよ』
「了解」
通常より遥かに高まった身体能力で一気にドラゴンまで接近し、左前脚の断面を攻撃する。
さすがに体内から棘を生やすようなことはしないのか、僕には一切ダメージが入ることなくドラゴンをよろめかせることに成功する。
だが、既にドラゴンは三本の脚での戦いに慣れたのか、転倒させるまではいかなかった。
この間に左後ろ脚にたどり着いた十五が、再び異能を使う。
二本の脚で支えるべき体重を一本で支えていた脚が消えた。
ドラゴンは派手にバランスを崩し、転倒する。
ドラゴンは大きい。
体重も相応のものだろう。
起き上がるまで、まだ猶予があるはず。
なんなら、脚が右側にしか残っていないのだからもう立ち上がれないかもしれない。
とにかく、今はチャンスだ。
――そんな僕の考えを嘲笑うかのように、ドラゴンが動いた。
体中の棘が溶け、代わりに前脚の付け根の少し上が盛り上がる。
こぶのようにも見えたそれは、次第に影を大きくしていき、立派な翼になった。
翼。飛ぶ。逃げられる。
止めなければ。
地面を強く蹴って飛び出す。
蹴った足はすでに空中へ。
足が地面に着くのを待つのすらもどかしい。
動きが――時間の進みが遅い。
今までで一番早く、一番自由に動けているはずなのに、今までで一番不自由な気がする。
ドラゴンの体が持ち上がる。
翼は動いていない。羽ばたくという動作を必要としないのか。
手を必死に伸ばす。
間に合うか――?
バチ、と音が鳴る。
「――させない」
帯電した渡辺さんが、その腕で抱えた棘と速度に任せ、ドラゴンの両翼を根元から断ち切った。
2-12「無能」
「させない」
僕が一秒かけて動いた距離を、渡辺さんは一瞬で走破する。
翼をもぎ取り、ドラゴンに逃走できなくなる以上の大ダメージを与えた。
ドラゴンの翼を抱えた渡辺さんは、現れた時と同じかそれ以上の速度で十五の方に去っていく。
「お願い」
渡辺さんがドラゴンの翼を放り投げ、十五がキャッチする。
その瞬間、ドラゴンの翼は消えた。
十五が異能を使い、欠片も残さず破壊したのだ。
渡辺さんはそのまま千羽の方へぐるっと回ってこちらへ戻ってきた。
「ごめん。そろそろ、限界」
異能か。体力か。それともその両方か。
主語がないため詳しいところは分からないが、渡辺さんには戦う力がほとんど残っていないことだけは伝わった。
「うん。分かった」
もう渡辺さんに頼り切ることはできない。
今戦えるのは、僕と十五だけ。
十五は僕より前から戦い、異能を使い続けてきたから、消耗もかなりのもののはずだ。顔に一切出ていないから見た目では分からないが。
異能の行使は、頼めて後一回か二回か。
「了解。やってみる」
天津さんの異能を介し、千羽が十五に指示を出したようだ。
十五がドラゴンの頭まで移動し、異能を発動する。
頭が消えた……が、体は動きを止めず、十五の息の根を止めようと襲いかかる。
幸い、十五の位置を視覚では認識していないようで、十五が後ろに下がるとすぐ見失った。
『十五くんは再度指示が出るまでこちらで待機、万が一のため渡辺さんは護衛。戦闘は九十九くんと……千羽くんが出るよ』
天津さんの異能により、指示が出る。
この場での指揮官と言うべき存在は千羽だ。
その千羽が戦いに出るということは――
戦力がない。
そして、この指示が最後だ。
天津さんが伝え終わった瞬間、僕と同じように身体強化した千羽が前線に出た。
「九十九、少しだけ耳を貸せ」
千羽に言われるまま、顔を寄せる。
「俺の異能は回復系だ。回復できるのは体力と肉体の損傷」
回復系。直接的な戦闘力は皆無に等しいが、戦闘系の異能の保持者を回復させることで、戦線の崩壊を防ぐ役割を持つ異能。
千羽は身体強化して前に出たから、自分で自分を回復しながら戦うタイプだろう。
「|ドラゴン《こいつ》は頭を潰しても死なない。体の部分はダミーだ。体のどこかに、核がある。それを潰すぞ」
「分かった」
「九十九、聞いておきたいことがある。異能は?」
思考が止まった。
ここに来て以来、ずっと見せられてきた周りとの差。
「ないよ」
「個人の異能は、個人情報だというのは分かっている。それを承知した上で聞く。九十九、お前の本当の異能は?」
僕の「異能は使えない」という発言を信じていないようだ。
当然か。この手の発言は、自身の異能を隠したい人のものが九割以上を占めるのだから。
「頼む。それが勝敗を分けるかもしれないんだ」
「ごめん。ない」
千羽の言葉には切実な思いが宿っていた。
僕の異能を確認し、それを戦術に組み込めば、ドラゴンの討伐の成功率が上がる。
一手間違えるだけで命に関わるような状況下では、それが勝敗を分けるかもしれない。
だが、ないものはないのだ。
「そうか」
二度否定したところで千羽からの追及の手が止んだ。
既に戦闘中だ。これ以上話を続けるのは難しい。
ドラゴンが右脚だけで器用に立ち上がった。
強化した拳で思い切り殴る。
ドラゴンは再び倒れた。
やはり、片側二本の脚で立ち、しかも踏ん張ってみせようというのは無理があったらしい。
絶好の攻撃チャンスだ。
核はどこだ。
頭じゃないなら、心臓か。
ドラゴンという現実に存在しない生物、心臓がどこにあるか以前にそもそもあるのか疑わしい……が、心臓がなくてもそれに代わる臓器はあるはず。知恵を触る振り絞り、いずれは倒してみせる。
ドラゴンの前脚と後ろ脚の間、前脚寄りの部分を殴りながらそんなことを考えていた。
ドラゴンが立ち上がろうとするが、それは無理だ。立ち上がろうとした瞬間に攻撃を食らい、バランスを崩している。
僕の隣では、千羽が僕と同じように強化した拳でドラゴンを殴っていた。
ドラゴンの黒い肉体が弾け飛ぶ。
攻撃の規模は僕と同じかそれ以上。
一度拳を振るうごとに、聞いたことのないような音を響かせドラゴンを削っていた。
やはり、回復する手段があると攻撃の威力が違う。躊躇いがなくなるのだ。
――グオォォォ……!
立ち上がろうとしたドラゴンが再び地面に倒れ伏した時の鳴き声だ。
これで、もう立て直しは不可能。完璧と言って差し支えないレベルでドラゴンをハメることができた。
「……」
「…………」
ドラゴンを殴りながら、僕と千羽は(多分)同じことを考えていた。
――これ、ずっと続くな?
僕と千羽には決定打がないのだ。
渡辺さんのような高火力。
十五のような反則級の異能。
それらがなければ、このドラゴンを削り切ることはできない。
僕は、少しだけ悔しかった。異能を使えないことが。
自分にできないことは、それができる他人に任せれば良い。それは分かっている。分かっているのだが。
戦闘力は戦いに有用な異能を得た者に追いすがれた。そんな僕が異能を持てば、|動けない敵を放置する《こんな状況》にならなかったんじゃないか。
所詮はないものねだり。ただのわがまま。
でも、たった一瞬だけ。たった一回きり。
それくらいなら、使わせてくれても良いんじゃないかなぁ、と思ったんだ。
《一度きりの異能の使用許可申請…………》
《承認、ただし条件があります》
それは、あの時の声の再来。
承認されたことに驚きつつも、「条件」という言葉に眉をひそめる。
「……なんだ、それくらいなら」
僕に対して何の不利益ももたらさない条件を快諾する。
「渡辺さん、ちょっと借りるね」
説明は要らなかった。
これは、元より僕の力。
手の中で、パチリと雷が瞬く。
彼女から借りた――正確にはコピーした|異能《ちから》だ。
辺りを駆け回る。
まさに疾風迅雷。誰も追い付けないほど|迅《はや》い。
僕が駆けた空間の中心にいるドラゴンを見据える。
今、ここを駆けたのはただの助走。
拳にエネルギーを貯める。
加速したことで得たエネルギーを上乗せして、ドラゴンに拳をぶち込んだ。
――ドラゴンの体が崩壊していく。
やはり核はあったのだ。
核を潰され、体を維持できなくなったドラゴン。
ドラゴンの死と共に、僕の中にあった力も失われる。
体の中を駆け巡っていた爆発するような力の奔流。失われる――というのは少し表現が違うか。活性化していたものが非活性状態になるとでも言うべきか。
まあ、表現はどうでも良いのだ。
大切なのは、僕が『異能』という力を一瞬だけとはいえ得たこと。
感覚は覚えた。理解した。
後は、再現するだけ。
ここから生還した後のことを考え、顔がほころぶ。
『おめでとう。私が開発した群体生物をよく倒した』
群体生物。なるほど、道理で。
納得を得た。
感染していくように広がる黒い生物。実際は、一体一体は小さな黒い何かが辺りの動物を乗っ取ることでそう見えていたのだ。
『試練はこれで終わりだ』
終わり。その言葉を耳の中で転がす。
それは、ここから解放されるという理解で合っているだろうか。
それとも、全員処分だ! という流れか?
『お前たちを解放しよう』
その言葉と同時に、パリンと何かが砕ける音が耳に入ってきた。
決して大きな音ではないが、なんとなく耳に残る音。
遠く、遠く、ギリギリ見えるか分からない視界の端。
立派な広葉樹が突然ふっと消失した。
地面が塵になって消えていく。
消失の速度は非常に遅いが、それでも確実に進んでいる。
終わった、という解放感。
五分ほどそれに浸れば、後はどうしようかという思いだけが残る。
消失まではまだ猶予がある。
みんなと目を合わせれば、その間何をしようかという思いが透けて見えた。
なんだ、みんな考えていることは同じか、と安堵する。
元々ここから脱出するためだけに協力していたメンバーだ。目的が果たされた以上、これより関係を深める必要もない、のだが。
「みんな、今日はありがとね」
天津さんがみんなに向けてお礼の言葉を言った。
それを皮切りに、みんなが次々に話し始める。
「無事に脱出できたのは、みんなが協力してくれたから。ありがとう」
渡辺さんが。
「俺だけじゃ、脱出はできなかったと思う。……ありがとう」
十五が。
「ありがとう」
千羽が。
「みんな凄かった。僕一人だけじゃ、できないことばかりだ。一緒に戦ってくれてありがとう」
そして、僕が。
各々が感謝の言葉を伝えた後、僕たちは空を眺めたり草原の草で遊んだりして時間が過ぎるのを待つ。
――その時がやってきた。
地面の消失が足元に迫る。
ちらりと見えたこの空間の外側は、何もない真っ黒な暗闇だった。
足元の地面が塵になる。
僕は重力に引かれて空間の外側へ放り出される。
それと同時に、意識がぷつんと途切れた。
◆
「ぅ、ん……」
セットしておいたアラームの音で目が覚める。
手を空中に彷徨わせ、アラームを止めた。
「はっ!」
意識を失う直前のことを思い出した。
白い空間。試練。天津さんたち。地面が崩壊した後、何をどうした?
そうだ、時間。
スマホを起動し、時間を確認する。
――五月三日、水曜日。
ゴールデンウィーク初日だ。
あの中で一日以上過ごしたのは確実だから、時間の計算が合わない。
もしかしたら、あれは夢だったのかもしれない。
布団からもそりと這い出しながら、あの空間での出来事を思い返す。
一番印象深かったのは、異能だ。
あの時、一度だけ使った異能。その感覚はまだ覚えている。
目にも留まらぬ速度で動いた時の高揚感。あれは、夢で得られるものではない。
だから、あれはきっと現実の出来事だったのだ。
時間はたっぷりある。
自力で異能を使えるようになりたい。
あの時の感覚が色褪せない内に、再現したい。
僕が異能を使えるのは、あの声が言っていた通り「一度だけ」だったのかもしれない。それでも、二度と異能が使えないのだとしても、異能を諦めることはできない。異能に似た力を、異能なしで再現してみせる。
僕は、習慣となった異能の研究を始めた。
異能を持たずして異能のような力を揮う少年。「異能無し」、異を無に置き換え、無能。それは蔑称に非ず。
――――2章、了。