名も無き神殺し
編集者:kisuke
神を殺した主人公が、自分の好きなままに世界をぶっ壊す!
「絶対に、一発殴ってやる」
長きにわたる封印から解き放たれ、自由になった俺。俺は広い世界を楽しむために行動を開始する。
その先に、世界の根幹に関わるものがあるとは知らずに。
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目次
序 封印からの解放、解放のための縛り
3周年記念。明日から毎日朝と夜の7時に投稿予定。
「『|焼き尽くせ《フラウロス》』!」
「――消えろ」
俺の言葉に従って炎が現れ、目の前の相手――邪神を包み込む。が、それはすぐに霧散した。現象になる前の状態――『邪気』と呼ばれるエネルギーに還る。
「『|奪え《シャックス》』」
邪神に邪気を取り込まれる前に奪い返す。
「チッ」
舌打ちし、邪神を睨みつけた。
ずっと前からこれの繰り返しだ。俺が邪術を発動し、邪神が分解して、俺が奪い返す。
邪術の発動に使った邪気のほとんどは回収できるが、奪い返す時に消費する。そのため、時間が経てば経つほど俺が不利になっていく。
邪気を固めて仮初の剣を作り、大きく踏み込んだ。地面が砕け、瓦礫が舞う。
邪神は動かず、剣を一瞥するだけ。邪神に刃が迫る。
なぜ抵抗しないのかは分からないが、ようやくまともに一撃入れられそうだ。
そう思ったのも束の間、次の瞬間には俺の手から剣の重さが消えていた。
邪神が拳を振りかぶる。俺は剣を振ろうとした体勢のまま。加えてこの至近距離。
防げない。避けられない。
「『|奪《シャッ》――」
せめて剣に使った邪気は取り戻そうと、邪術の名前を唱えた。その途中で拳が腹部にクリーンヒット。
「――がっ」
息が漏れ、体が吹っ飛ぶ。
ここは荒野。俺の体を受け止めてくれるものなどない。
落ち着け。体勢を立て直せ。
なんとか頭を上に、足を下にして着地できた。
勢いを殺し切れず、体が後ろに引きずられた。
「くそっ」
最初の距離に戻された。遠距離じゃ勝ち目がないってのに。
逃げるという選択肢はない。逃げたところで、どうせすぐ見つかる。隠れる場所などないからだ。
とにかく前に出ろ。
「『|癒やせ《マルバス》』」
踏み込み、邪術で傷を治す。これでダメージはなくなった。さっきと同じように戦える。
邪神が近づいて見える。このまま拳を突き出せば、勢いがそのまま攻撃力になるだろう。
俺は左の拳を振りかぶり、邪神は防御のために腕を交差させた。
俺の口角が上がる。まんまと引っかかった。
――右手を左腰の辺りに伸ばし、剣を引き抜いた。
後半歩もない至近距離。邪神はとっさに後ろに引こうとするが、もう遅い。
確かな手応えと共に、邪神の腕が宙を舞った。血飛沫が飛び散り、地面を赤く汚す。
交錯。
俺は剣を振って血を払い、邪神を振り返った。
「答えろ」
掠れた声だった。
俺は追撃せず、黙って続きを促す。
「なぜ、俺の力を欲す?」
「決まってるだろ?」
小さく息を吐き、続きを口にした。
俺が地獄の住人を皆殺しにした理由を。
生まれた時からの夢を。
「外を見たいからだ!」
吠える。
邪神が一瞬で距離を詰め、俺に殴りかかってきた。手にした剣で防ぐが、とっさのことでうまく力が入らない。
歯を食いしばって、邪神の力を受け止めた。足が地面にめり込み、体が後ろに下がる。
初めての邪神からのまともな攻撃に、冷や汗が流れた。
このままじゃ押し切られる。受け流せ。
邪神の拳が地面を穿ったのと、俺の剣が半ばから折れたのは、ほとんど同時だった。
「一つ、約束してくれ」
邪神が俺の耳元でささやく。
「俺の力を受け継ぐということは、俺の役目も受け継ぐということ。最低限で良い。世界の維持管理を行ってほしい」
「分かった」
俺は、間髪入れずに答えた。そんなこと、お前を倒すと決めた時から覚悟していたさ。
「それと、これは約束に関係ない個人的な頼みだが……聞いてくれなくても構わない」
「聞こう」
俺をここから解放してくれる恩人の頼みだ。聞くのが筋だろう。
「主神を――俺の弟を頼む」
邪神は俺の返事を聞かず、俺を突き飛ばした。
もう一度拳を握りしめ、俺に向かってくる。ゆっくりと、わざとらしく。全然本気じゃない。
俺も折れた剣を邪神に向け、踏み込む。
邪神の拳を半身になって躱し、剣を邪神の胸元へ突き刺した。
邪神から血が溢れるが、それには目もやらずに邪術を発動した。
「『|奪え《シャックス》』」
邪神から、世界へ接続する権利を奪う。
俺以外、誰もいない地獄の空を見上げた。
赤い月が、俺の影を作っている。
この月を見るのも、これで最後か。
無垢なる者が住まう人間界。
魔に魅入られた者、魔の力を御す者が住まう魔界。
そして、邪に属する者が封じられた地獄。
遥か昔に起きた、邪神と主神が争った大戦。その大戦で邪神についた者たちを、創造神が地獄に封じた。
それから、どれだけの時間が経ったか。
「開け『|世界支配《キマリス》』」
邪神の力と、地獄の住人を倒して集めた力。それらを併用し、神を殺した俺は外に出た。
息を吸って、吐く。地獄の空気と違い、空気が軽くて動きやすい。今考えてみると、地獄には邪気が満ちていて、四六時中動きが阻害されていたのかもしれない。
数回深呼吸した俺は、邪術を使おうとした。
「『|飛行《アンドレアルフス》』……ん?」
が、発動しない。これは、邪術の発動が阻害されているというより――。
「……最悪だ」
邪気そのものが抑えられている。十中八九、主神の仕業だ。
「決めた」
俺の自由な生活を邪魔してくれるとは。こちとら、何百年、何千年と自由を望み続けたんだ。
それに、邪神との約束も果たしたい。
「絶対に、一発殴ってやる」
主神を殴ることを、心に決めた。
邪神の頼み事とは真逆のことだが、殺すわけでもない。一発ぐらい、別に良いだろう。
1-1 銀髪の少女
邪神と約束し、あんな物騒な宣言をしたわけだが、当分主神のもとに行く気はない。
せっかく解放されたんだ、今を楽しまなきゃ損だろう。
「ん?」
目に入る場所に、人間の街があった。何か、楽しそうな気配がする。祭りでもやっているのだろうか。
「行くか」
俺が人間界で初めて訪れる場所は、あの街にしよう。
足を一歩踏み出す。枯れて乾いた木の枝が、音を立てて折れた。
俺が出たところは、色の悪い雑草が茂る草原だ。草原の中で見つけた木の枝。なかなか珍しいものだな。
踏みつけてもすぐ元に戻る雑草にイライラしながら、俺は人間の街を目指した。
道の半分まで来たところで、街の場所をもう一度確認しておく。大きい建造物だから大丈夫だろうが、念の為。
「はー」
街の立派な外壁に、感嘆の声が漏れる。外壁の高さは俺の身長の六、七倍はあった。賊の侵入を防ぐためにしては、過剰な高さにも見える。
結構な数の人間が、街の入り口らしきところに並んでいた。どうやら、かなりにぎわっているらしい。
がぜん楽しみになってきた。
俺は足を早め、街へ急ぐ。歩いている間も、一つの疑問が頭の中に渦巻いていた。
――地獄の入り口のすぐそばに、なんで街なんか作ったんだろうな。
と、大変なことに気がついた。
街の入り口では、街に入る者の身分を衛兵が確認している。
俺は身分証を持っていない。
俺の身分を証明してくれる人もいない。
身分の保証をしてもらうために払う金もない。
「詰んだ」
かくなる上は、不法侵入――!
壁を登る。目立つため不採用。
商人の荷物に紛れる。荷物は厳しく確認されていて厳しそうだ。条件次第で採用。
誰かが騒ぎを起こしてくれれば、その混乱に乗じて中に入れるのに。まあ、都合よく騒ぎを起こすやつなんて、そうそういない――
「止まれ!」
いた。
いかにも悪人のような顔を歪ませて、男が衛兵に突っかかっている。おおかた、入れてもらえなくて逆上したというところか。
まあ良い。突然怒鳴り始めた男に、周囲は軽くパニックになっている。衛兵がこの騒動を収める隙に、俺は中に入らせてもらうとしようか。
気配を殺せ。俺は空気だ。空気は意思を持たない。呼吸もしない。音も出さない。
壁に沿って、じりじりと街の中へ足を進める。
いける。誰も俺を見ていない。
後、もう少し――。
「あら?」
侵入に成功する寸前、街の中から俺に声をかけた人間がいた。鈴を転がすような透き通った声。たぶん美人だ。
油の切れかけた機械のようなぎこちない動きで、俺は声のした方を向く。残念ながら、フード付きの白いローブのせいで顔は見えなかった。
「初めまして、よね?」
まずい。侵入がばれた。顔も見られている。始末するか?
俺の沈黙を肯定と捉えたか、彼女は話を続けた。
「あなたの名前、良ければ教えてくれない?」
名前? あー、名前。しっかし、名前ね。
困った。俺には名乗る名前がない。
俺の頭が高速で回転する。『|名付け《フォルネウス》』を使いたいところだが、今は使えない。
たっぷり五秒。体感時間で十分考えた俺は、口を開いた。
「ノル」
「ノル!」
彼女は目を輝かせる。
「そう言うおま……あー、あなたは?」
初対面の相手にお前と言うのは失礼かと、途中で言い直す。
俺が彼女に名前を聞くと、彼女は一瞬だけ言葉に困った。
「……ティナって呼んで」
「分かった。ところで、今日は祭りでもあるのか? 街がにぎやかな気がするが」
ティナは「祭り?」と首を傾げ、数秒考え込み、ポンと手を打った。
「リアムの帰還ね。今回は街道沿いの魔獣を一掃したんだって」
「待て、魔獣?」
それがあの高い外壁の理由か。魔獣の侵入を防ぐためだとしたら納得がいく。
地獄では、人間界は安全な場所だと聞いていたが、数百年経てば変わることもあるだろう。
「うん。あなた、それも知らないでここに来たの?」
会話がうまくできるようになってきたからか、ティナの声が大きくなってきた。目立つのは嫌だな。
「ああ。通りかかったから入ってみただけさ」
「嘘」
「ほんとだよ。……なあ、場所を変えないか?」
正直言って、ティナの格好と声は目立つ。辺りを通る人からちらちらと好奇の視線が向けられているのが、気になってしょうがない。
ティナも辺りを見回し、俺たちが目立っていることに気づいたようだった。
「そうしましょう」
ティナが俺を連れて行ったのは、古い喫茶店だった。
店主が俺たちに会釈する。俺もなんとなく会釈を返し、空いていたテーブルに座った。客は俺たちしかいないから、席は選び放題なんだが。
「話の続きね」
注文した紅茶を飲みながら、ティナが言った。残念ながら、俺の紅茶はなしだ。金がない。
「十年ぐらい前に魔獣が現れたのは知ってるわよね? さすがに」
知らない、と言いたかったが、それでは話が進まない。俺は黙ったまま先を促した。
「ここは対魔獣の最前線、クライス。魔獣が湧き出てくる森を監視する役目があるの」
ティナは紅茶で口の中を湿らせ、話を続けた。
「当然、この街には腕自慢がたくさん集まってくる。その中でも、リアムは飛び抜けて強いの」
なるほどね。だから、リアムが帰ってくるというだけでこの熱狂。
「ん?」
――何か、妙な気配。人間以外の存在のもの――魔獣か? でも、小さな違和感がある。
「っ、なんで……」
ティナが勢いよく立ち上がり、紅茶を一気に飲み干す。
「用事ができたわ。残念ながら、私はここまで」
店主に向けて、硬貨を弾く。
「最後に一つだけ。逃げた方が良いわよ」
そう言い残して、ティナは走り去った。
フードが取れ、ティナの顔があらわになる。美しい銀髪だった。碧眼は焦りで揺れている。
実は、俺は地獄で何度か魔獣と戦ったことがある。負けることはなかったが、苦戦はした。ただの人間が魔獣に敵うとは思えない。
「くそっ」
俺もティナの後を追って立ち上がり、店を飛び出した。扉が音を立てて閉まり、出入りを知らせるベルが虚しく鳴る。
1-2 世界の不具合
――店の外には、悪夢のような光景が広がっていた。
好き勝手に暴れ回る魔獣。
逃げ惑う人々。
天高く吹き飛ばされる鎧。
魔獣の数が多すぎる。最悪、世界が滅ぶほどに。
そもそも、魔獣とは何なのか。俺は、世界の不具合が具現化したものだと理解している。魔獣が多ければ多いほど世界の綻びは大きいし、倒せば倒すほど世界の修復は進む。
とにかく、少しでも魔獣の数を減らさなければならない。
魔獣と対峙し、腰を抜かす人間を見た。横から突っ込み、速度を殺さず殴り飛ばす。
――妙だ。魔獣にしては、手応えが軽い。
魔獣は、邪術も使っていない今の俺が簡単に殺せる相手ではなかったはず。
魔獣を掴み、他の個体の元へ放り投げる。魔獣同士は、ぶつかって行動不能に陥った。
――弱い。
家の屋根に上り、助走をつける。助走の勢いを保ち、大きく跳躍した。鳥型の魔獣を地面に叩き落とす。
――弱い。
目の前の魔獣を殴りつけた。簡単に風穴が開く。
――弱すぎる。
本当に、これが魔獣なのか? 今まで俺が戦ったどの存在よりも、この魔獣たちは弱い。
『権限』。
もしこれが本物の魔獣なら、浄化後世界のエネルギーとして使われるはず。
邪神の権限を起動し、死後の扱いについて調べた。
「はぁ……」
結果を見て、俺はため息をつく。
――魔獣ではなかった。
何者かが人工的に作り出した存在。魔獣に似せて作られ、生まれた時から破綻している|怪物《モンスター》。それが、今回襲ってきた存在の正体だ。
「醜い」
だってそうだろう。殺傷力に特化した体で生まれ、誰かを傷つけるよう強制される。俺なら断固願い下げだね。
「消えろ」
俺は、醜いものをずっと視界に収めていたくはないんだ。
足を伸ばし、体重を前にかける。反対の足も同様に。
腕を上げ、軽く肘を曲げて、肩の後ろに回し、反対の手で引っ張る。
よし、準備運動はばっちりだ。
邪神の権限で消し去ることもできるが、生身の戦闘能力も確認しておきたい。ここは空気の重さが違うからな。
手頃な場所にあった頭を鷲掴みにし、俺は走り出した。走りながら、首をねじ切る。胴体とは永遠にお別れだ。
残った頭を手の中でもてあそび、上に向かって投げた。上空のモンスターに命中し、頭とモンスター両方が落ちてくる。不要な頭を蹴り飛ばし、落ちてきたモンスターの翼を掴む。
「一緒に空の旅行としゃれ込もうぜ?」
断ったらどうなるか分かるよな? と圧をかけると、モンスターはすぐに飛び立ってくれた。
「ははは! こりゃ楽だ!」
今まで飛行は移動手段の一つと割り切っていたが、いやはや。わざわざ地面を蹴って飛び上がらなくても空を取れるのは、魅力的だ。生物が空に進出した理由がよく分かるね。
「墜ちろ!」
モンスターの翼を掴んだまま、体を前後に揺らす。合わせて翼を掴まれているモンスターも揺れるが、耐えろ。
足先が、近くを飛ぶモンスターに当たる。進路をそちらに変更させながら、俺は一際大きく体を揺らした。
足をモンスターの体に引っ掛け、力を込める。モンスターの首がへし折れた。
死骸は下に落下し、真下にいたモンスターを下敷きにする。
「飽きた」
モンスターの上に飛び乗る。空を飛んでいるという感じはあまりしないが、やはりこれが一番楽だ。
俺を攻撃しようと近寄ってきた魔獣を蹴り落とす。
「お、当たった」
モンスター同士が頭から衝突する。首が折れ、二体とも死んだ。
鳥型のモンスターの上を移動しながら、辺りのモンスターを殺していく。
次第に、鳥型のモンスターが俺から距離を取るようになった。が、その程度で俺から逃げられると思うな。この距離なら――まだジャンプで届く。
鳥型のモンスターが逃げるのを追って、俺は街の上空を駆けた。
――徐々に人間の数が増えていく。避難民だろうか。
モンスターは人間がいる方に引き寄せられる性質があるようで、避難民に殺到していた。
避難民の周りをまた別の人間が取り囲む。ある者は剣を持ち、またある者は盾を持ち、手を組んで神に祈る者もいた。
その中で、一つだけ知った顔を見つける。ティナだ。
白いローブを脱ぎ、黒いワンピースに身を包んでいる。目を閉じ、手を組んで、必死に何かに祈っているようだった。
モンスターはティナの前で右往左往している。試しにその辺のモンスターを投げつけると、モンスターは弾き飛ばされると同時に黒く焦げた。
それに加え、この不快な感覚。嫌いなヤツの気配を全身で感じる。主神の力に間違いない。
相手の体内に作用するタイプの術かな。俺が近づけば、継続的にダメージを受けるだろう。
取り敢えず、ティナには祈りをやめてもらいたい。そのためには、モンスターを消せば良いだろう。
対象はモンスター。範囲は……この街全域で良いか。
「消えろ」
俺がその言葉を唱えた瞬間、空を飛んでいたものも、ティナの前で右往左往していたものも、剣士を殺そうとしていたものも、等しく消え去った。モンスターの体が分解され、エネルギーに還る。
だが、やはり――。
「残るか」
俺が使う邪気や、世界を構成するエネルギー。それらとは違うエネルギーであるため、モンスターのエネルギーはこの場に留まった。
後で浄化しなければならない。
まあ、今はティナと話そう。
「よう!」
俺が声をかけると、ティナは目を開けて俺を見た。祈りのために組まれた手は変わらない。
「魔獣から逃げてきた方でしょうか。それならこちらに」
どうやら、俺だと気づいていないようだ。
「いいや、その必要はないね」
見ろ、と俺は辺りを指し示した。
「え? 嘘……」
驚きのあまり、ティナは祈りを中断して呆然と座り込む。
これ幸いと、俺はティナに近寄った。
「クリス! 魔獣が……」
避難民を魔獣から守っていた剣士の一人が、ティナに駆け寄る。ティナの近くにいる俺を訝しげな目で見た。
「こちらは?」
「ノルさんです」
ティナに名前のみの簡素な紹介をしてもらい、手を差し出す。
「ノルだ、よろしく」
剣士は一瞬だけ逡巡した後、俺に向かって手を差し出した。
「リアムだ。こちらこそよろしく」
リアム。ティナの話によれば、最近帰還した街の英雄。街がにぎやかになった理由でもある。
「ところで、ノルは……あー、いきなり呼び捨てにして済まない、俺のことはリアムで良いから」
「構わないさ。分かった、リアム」
「ノルは、どうやってここに? さっきまで魔獣がうじゃうじゃいて、避難民が近寄れるようなところじゃなかったが」
俺の背筋に冷や汗が伝う。どうしよう。何も考えずにモンスターを追って来てしまった。
「俺も剣士だからさ」
邪神の権限発動! 生まれろ、剣!
俺は懐から取り出したように見せかけて、手の中に短剣を生成した。到底実戦で使えるようなものではないが、ごまかすだけなら十分なはず。
「あいにく、メインの方は折れちまった」
軽く左手で頭をかく。
「……すごいな。言っちゃあ悪いが、その程度の武器でここまで無傷で来られるとは」
「まあ、運動には自信があるもんでね」
セーフ、か? 「戦闘の途中でメインの剣を失い、サブの短剣を使って必死に魔獣から逃げ延びた身体能力の高い剣士」という設定で通せたか?
「それで、一つ聞きたいことがある」
リアムが話題を変える。俺は少し身構えた。
「さっき、戦っていた魔獣が急に消えた。何か心当たりはないか?」
何を隠そう俺の仕業だ。が、それをそのまま言えば、せっかく押し通した設定がなかったことになってしまう。
ここは知らないフリを――無関係の第三者のフリをさせてもらおう。
「そう! 俺もそれを聞きたかったんだ! 実はさっきの話には続きがあってな、さすがの俺でも逃げ切るのは難しく、魔獣にやられかけたんだ。もう駄目かと思ったその時――ってやつさ」
口がよく回る。一から十まで全てが出任せだが、設定に合わせたストーリーを作ることのなんと楽しいことか。
特に、これが命に関わらない駆け引きだというのが良い。地獄にいた頃は、誰かとの会話全てが駆け引きの一部だった。失敗すれば即死の。
「まあ、お前がそれを聞いてくるっていうなら、知らないんだろうな」
わざとらしく肩を落としてみせる。
「悪いな。しかし、魔獣が一斉に消えたということは、魔獣より遥かに強い存在がこの街にいるということ……ノルも気をつけろよ?」
「ああ、分かった」
俺だけどな。
さて、リアムはすっかり俺を信用してくれたようだ。俺がほっと胸を撫で下ろしていると、
「あれー? モドキが全部消えてる」
この場の惨状にそぐわぬ、少女の明るい声が響いた。
こげ茶色の上下に、また同じ色の帽子。所々に金色の糸で刺繍がしてある。
皆がぼろぼろの中、少女だけがほつれすらない服を着ている。少女は、ひどく浮いていた。
「モドキ、か」
モンスターが魔獣に似ていることから付けたのだろうが、良い呼び名だ。俺はモンスターの方が気に入っているが。
「うーん、いらないやつも残ってるなあ……」
少女が顎に手を当て、悩む仕草をした。
おもむろに口を開く。
「死んじゃえ」
その言葉と同時に、辺りを鮮血が彩った。乾き始めた血の上に、明るい色の血が広がる。
鈍い音を立てて、避難民が地に倒れ伏した。それから、ある程度腕に覚えがある連中も。
「……魔法」
俺たち三人と少女しかいない中、ティナが掠れた声で呟いた。
「だぁいせいかい!」
少女が顔に喜色を浮かべて叫ぶ。
「目的は何だ!?」
リアムが俺とティナの前に出て、剣を抜いた。
魔法を使うのは魔界のやつらだけだ。わざわざ人間界に来ている以上、目的は――
「侵略、ってやつだね」
少女は、あっさり答えた。
「くっ! 俺がお前を止める!」
「私も協力しましょう」
リアムが脚に力を込め、ティナが祈りの手を組む。
「あはは、自分の世界を守ろうとするのは結構。だけど、本当にみんな守る必要がある人たちかな? 例えば後ろの彼とか、ね」
少女がリアムとティナの心を揺さぶりにかかる。
俺は動かない。どちらにつくべきか、考えあぐねていた。
ティナたちと一緒に人間界を守る。
少女の側に付き、人間界を侵略する手伝いをする。
どちらの味方もせず、全てを敵に回す。
どうなっても俺に不利益は発生しない。
「そういえば、つい最近地獄の封印が解けたらしいね?」
「まさか……」
ティナが息を呑む。
そうか。俺は地獄から出てきた。つまり、邪神の勢力。だから、主神の敵、つまり主神に祈るティナの敵なのか。
「まあいいや。全員来てもらうよ」
少女が薄く笑みを浮かべ、
「眠って」
俺たちは意識を失った。抵抗すらできずに。
1-3 クリスとティナ
意識がゆるやかに浮上する。休息を取っている体に覚醒を命じ、俺は体を起こした。
こつ、と靴が床を打つ音が響く。
――目覚めて最初に目に入ったのは、白い壁だった。ずっと見ていれば頭が痛くなってきそうな白。
視線を動かすと、天井や床も白いのが分かった。
「んぅ……」
俺の横で寝ていたティナを起こす。
ティナは目をゴシゴシ擦った。
「おはようございます……」
ぱちぱちと瞬きし、目を開く。その瞬間、ティナの纏う空気が一気に変わった。
俺の顔を見て、即座にリアムを起こしにかかる。
「起きてください」
ティナの声で、リアムは飛び起きた。ティナを抱えて後ろに下がる。
「君は……」
リアムが話そうとしたところに、
『おっはよーございまーす!』
少女の声が割って入った。何らかの機材、または魔法を用いているようで、姿は見えない。
『いやぁ、さすが邪神を倒した存在! 私も魔法には自信があるんだけどな……すぐ目が覚めてしまったようで!』
邪神を倒した、という言葉に、リアムとティナが目を丸くする。
『そして英雄サマと聖女サマ、これからよろしく!』
英雄……リアムが英雄と呼ばれるのには納得がいく。街全体がにぎわっていたしな。
聖女。ティナが聖女か。確かに、あの主神への祈りは堂に入っていた。
「で、用件は?」
いつもなら無駄話に付き合っているところだが、今は違う。少女の使う魔法に、俺はまんまとやられた。|抵抗《レジスト》できなかったのだ。ふざけていると取り返しが付かなくなる。
それに、なんとなくコイツの声を聞いているといらつく。
『もっとゆっくりしても良いんだよ? まあ、話が早いのはこっちとしても嬉しいけどさ』
少女がぶつぶつと文句を垂れる。
『さて、人間界を襲っていたモドキ……キミたちの言うところの魔獣は、私たちがけしかけていたというのはみんな知ってるよね?』
リアムとティナが険しい顔でうなずく。俺は知らなかったが、それっぽい顔をしてうなずいておいた。
『キミたち人間は、その理由を人間界の侵略のためだと考えてるみたいだけど……違うよ』
少女が断定する。
『全ては、こうして「適合者」を探すためさ』
適合者といっても、そんなに特別な存在じゃないんだけどね、と少女が付け加える。
『ここは魔界だ。キミたちは、ここにいるだけで魔力を取り込む。抗うことはできない』
ティナが顔面蒼白になる。
『何日か経ったら、私たちの仲間の出来上がりさ。私たちの目的とか、そういうものについては、仲間になった後に話そうか』
ふむ。魔界の戦力の増強が目的か。一体何と戦うつもりなのやら。
『何か質問ある?』
質問を求める少女に対し、リアムが吼える。
「ふざけるな! 俺は絶対に屈しない!」
『あっそ。どこまでそれが続くか、見ものだね』
少女は冷たい声で言った。
『さ、キミたちはここから出られないこと以外は自由。何か欲しいものがあれば、適当に言ってね。用意するから』
それまで弾丸のように話していた少女の声がしなくなった。
静寂が耳を刺す。
重たい沈黙の中、ティナがおずおずと口を開いた。
「地獄の封印が解けて……邪神を倒した? 説明、お願いしても良いですか?」
「説明も何も……そのままだよ。それと、ここには俺とリアム、そして敵しかいない。『聖女』を演じるのをやめても良いんじゃないか?」
ティナの碧眼が揺れる。ちょうど、喫茶店を飛び出した時のように。
「っ、何を言って……」
初対面の俺相手の時と、民衆や親しいリアムが相手の時。それぞれで言葉遣いや雰囲気が異なっていた。普通は、初対面の人間や不特定多数の人間を相手にする時に敬語になるものなんだけどな。
「……それは俺も気になっていたことだ。論点をずらすのはやめてもらおうか」
ありゃ。論点ずらしと認識されたか。
「地獄に封印されていた奴は全員俺が喰った。外に出るためにな。邪神だって例外じゃない」
リアムとティナが息を呑む。俺に圧倒されたように。
「っ、クリス、こいつは危険だ」
リアムがティナに声をかける。
「なあ、ずっと思ってたけど、『クリス』って、どういうことだ?」
これは純粋な疑問。クリスもティナも愛称なんだろうが、なぜ使い分ける必要がある?
「初対面の時から、あなたが信用できなかったからよ」
信用ねぇ……。それにしては、モンスターの襲撃を察知して知らせてくれたりと、優しいところもあったみたいだが。
俺は思ったことを口に出さずに飲み込んだ。これ以上場を乱すべきではない。
「邪神の使徒ノル。あなたを、主神の使徒――聖女の名の下に滅ぼします」
ティナが瞳を燃え上がらせる。リアムが剣を抜いた。没収されていなかったのか。
いずれこうなることは予想していたが、早すぎる。
リアムとティナを転がすのは簡単だ。戦闘開始と同時に踏み込んで、手刀を叩き込めば良い。
『あ、一つ言い忘れてた』
少女の声が、張り詰めた空気に割り込む。
『よっぽど派手にやらなければ、けんかはご自由にどーぞ』
けんか。そう言われると、今から起ころうとしているものが幼稚なものに見えてくる。
『あだっ!』
少女が声を上げる。
『うちのダイナが失礼した。研究所内で暴れるのはやめてくれ』
ダイナと呼ばれた少女の代わりに、落ち着いた声の男が俺たちに声を届ける。
「やるか?」
先ほどの言葉をまるっと無視し、ティナに問いかける。
『あ!? 本ッ当にやめてください! 君が全力を出せばここはすぐ崩壊してしまう!』
男が必死に訴える。
今話したいのは、お前じゃない。というか、俺がそう簡単に全力を出せないと知っているから、ここにティナたちと一緒にぶち込んだんだろうが。
俺は男の声を努めて意識から排除し、ティナの目を見据えた。
ティナはしばらく悩み――やがて、口を開いた。
「今はやめておきます。あなたが本気を出せば、私如き一撃でしょうから」
「賢明だ」
リアムは俺たちの会話に入ってこなかった。
リアムを横目で見る。リアムは口を開こうとしては閉じていた。会話に入るタイミングが掴めないのだろう。
ただ力があるだけのガキに何か言われるのも嫌だ。
「今は協力しましょう。……リアム? どうしましたか?」
ティナが会話に入ってこないリアムに声をかける。リアムは体を震わせた。
「あ、ああ……正直気に食わないが、戦うのはここから脱出してからでも良いだろう」
リアムが返事を絞り出す。
「聖女クリスティーナの名にかけて、ここに存在する魔法使い及び魔獣を滅ぼします」
クリスティーナ。クリス。ティナ。なるほどね。
主神の勢力はずいぶんと魔法に関する存在を敵視しているようだ。自分が創った世界の存在だろうに。
「まずは」
ティナが跪き、主神に祈りを捧げる。
待て――俺も対象に入っているならまずい!
「ぐっ!」
主神の力が俺を侵す。邪気が俺には扱えない純粋なエネルギーになっていく。存在が消えていく感覚。
「魔界の魔力から身を守る加護を――大丈夫ですか!?」
苦しんでのたうち回る俺を見て、ティナが駆け寄る。
「それを、解いて、くれ……うっ!」
「加護ですか?」
ティナが祈るのをやめると、俺に流れ込んでくる主神の力は収まった。
「ごめんなさい。あなたが邪神に類する者なら、こうなることも考えておかなければなりませんでした」
ティナが俺に頭を下げ、リアムのみに加護を授けた。
「どうする?」
リアムが言った。何について言っているのか分からないが、会話の流れからして脱出方法についてだろう。
「壊そう」
邪術が使えれば一発だ。まだ解析が完了していない魔界由来の物質でできているため、邪神の権限は使えない。
「今は無理だが」
今の俺が邪術を使うための条件がある。夜になることだ。月さえ出ていれば、たとえ室内だろうとどうとでもなる。
月が昇るまで後少し。具体的に言えば二時間。なんとなくそんな気がする。
「よし、部屋の調査を済ませてしまおうか」
リアムがそう言い、部屋の中を歩き始めた。靴が床を叩く音が、規則的に響く。
真っ白なベッド、何を置くか分からない白いシェルフ、天井全体に設置された照明。病的なほど「白」で埋め尽くされた白い部屋。
だが、いくら探しても出入り口は見当たらなかった。
出入り口が魔法で隠されているのか、それとも出入りは魔法で行うのか。魔法を使えない俺たちがここから出るには、やはり部屋を破壊するしかないようだ。
「さ、出るまでゆっくりしよう」
月が昇るまでほんの少し。仮眠を取ってから、脱出といこうじゃないか。
1-4 魔法というもの
月が昇った。
俺は仮眠を取り、頭はすっきり明瞭な状態だ。
気分が良い。
「始めようか」
何を、と言わなくてもティナたちには伝わった。
――邪神の権限を起動。
――地獄とのパスを確立。
――接続開始。
人間界や魔界では、俺は邪術を使えない。主神がそういう法則を創ったからだ。
だが、ここで邪術を使う方法がたった一つだけある。
法則に遮られるなら、こちらも法則で対抗すれば良い。
――接続完了。
即ち、地獄の召喚。
地獄自体は俺が破った時に崩壊したから、存在の中核を成すものだが。
――魔界の月との同期を開始。
俺と地獄の月のパスを繋ぎ、地獄の月を魔界の月に落とし込む。
「目が……赤い」
ティナが呟く。
地獄の月を顕現させたのは初めてだ。今の俺は、目が赤くなっているらしい。
外見で気づかれたら嫌だ。
今後の運用に向けて覚えておこう。
――と、そうしている内に同期が終わった。
主神によって発露を制限されていた邪気が漏れ出る。
せいぜい一日か二日前のことだろうに、懐かしい感じがした。
「さっさと終わらせよう。――『|滅びろ《アイム》』」
唱えて一秒、俺の視界の端に黒い炎がちらつく。
壁際にいたリアムが、足早に部屋の中央まで避けた。
炎はまばたきする間に部屋全体に広がり、壁を灰に変えていく。
部屋は静かに崩壊した。
「急ぐぞ」
派手にやった。あの部屋には、俺たちの行動を監視する機能もあったはず。俺たちの脱走に気が付くのも、時間の問題だ。
「うん」
ティナが真面目な顔でうなずいた。
「どう進めば良いんだ?」
リアムが疑問を述べる。
部屋の外には、鉄やら石やらで出来た殺風景な通路ばかり。無計画に作られたのか、ここから行ける通路だけでも五本はあった。
「しらみつぶし?」
「いや、もっと簡単な方法がある」
ティナの方法は現実的だが、今の俺には非現実を現実にする力がある。
「『|探せ《ウァサゴ》』」
出口はどっちだ?
「こっちだ」
邪術が示す方へ進む。
角を曲がった瞬間、前からやってくる足音とぶつかった。
「誰だ⁉」
追手がここまで早く来るわけもないし、巡回中の兵士だろう。
「お前は――! 例の者が脱走した。応援求む!」
俺の顔を見るなり魔法で連絡し、剣を抜いた。剣身が淡く光る。
「なるほど。剣の耐久性強化、攻撃力上昇……そんなところか?」
魔力や魔法についての解析も八割方完了した。未だ扱うことはできないが、見て推測するぐらいなら簡単だ。
兵士の目が揺れる。図星か。
「世界に干渉するための式――魔法式と呼ぼうか、それを構成し、魔力を流して世界を欺く」
俺が見た限りでは、魔法はそんな力だ。
兵士は俺の言葉に応えず、問答無用で切りかかってきた。
俺は難なく避け、兵士の腹部に拳をめり込ませた。兵士が血を吐き、地に転がる。
「こんなもんか」
両手をはたき、服を整えた。
魔法使いといっても、魔法を使われる前に対処すれば問題ない。それに、後の先を取ればどんな相手にも対処できる。
魔法使用時の魔力の動きは見た。後は俺が扱えるようになるだけ。魔法に触れるのが手っ取り早いか。
長い廊下を抜け、大きな部屋の前に来た瞬間。
「待ってたよ!」
茶色い制服を来た少女――ダイナが、たくさんの兵士を引き連れて立ちふさがった。
「構え!」
ダイナの号令で、兵士が弓を構える。角度がみんな少しずつ異なっており、全てが俺を狙っていた。
矢が淡く発光する。魔法が使われた証だ。
「撃てー!」
矢が俺に殺到する。滅ぼすのは簡単だが、これは魔法を解析するチャンスじゃないか?
俺は軽く後ろに跳んで直撃を避け、矢を一本掴み取る。
「『|転移《バティン》』」
それ以外の矢は、ダイナたちにお返し。
「へぇ……世界に表出した法則に干渉しているのか。だから複雑な手順が必要、と」
正直、何の制限もないのなら、邪術の方が便利だ。
「魔力は……世界を構成するエネルギーから精製しているのか。ん? 邪気も使えそうだな」
概念的な話になるが、邪気は魔力より重い。邪術は世界の理に干渉し、魔法は理を誤作動させて現象を起こす。世界に干渉する深さが違うため、元となるエネルギーの重さも違うのだ。もちろん、世界を構成するエネルギーは理そのものを形作るため、他のどのエネルギーより重い。
重いエネルギーからは、それより軽いエネルギーが精製できる。はずだ。
『|理を知る《バエル》』発動。魔力は何によって形作られている?
続いて、邪気の一部を抽出。重さにより世界に深く潜る要素を排除。
「っ!?」
要素を取り除いた瞬間、邪気の体積が膨れ上がった。体積といっても、俺がなんとなく感じているものを言語化しただけだ。本当に触れられるものではない。
深く潜るために、エネルギーを圧縮していたのだろう。そして、その要素を取り除いた瞬間、一気に体積が膨れ上がった。
まあ、仮説とも呼べないただの妄想だが。
体積が大きくなったことで、世界への干渉力が良い感じに分散された。これはそのままにしておこう。
万能性は保持。これがなければ魔法にならない。
その他、雑多な諸々を取り除く。
「――できた」
俺が思う『魔力』が、左手に集まっていた。
それと同時に『魔法』というものの本質を理解した。魔法の価値は、その手軽さにある。決められた手順で世界に接続する必要こそあるが、少し干渉するだけで望む結果を引き出せる。汎用性は問答無用で理に干渉できる邪術の方が上だが、手軽さは魔法の方が上だろう。
「な、何……? あの魔力量。しかも、まだここに来たばっかだよ? おかしい」
ダイナが一歩後ずさる。が、すぐに我に返って指揮をとり始めた。
「足止めお願い。私は大魔法の準備をする」
そう言い残し、ダイナは後ろに下がってしまった。後ろの兵士が一斉に構える。
「先頭、構え! 撃てぇ!」
集団の中から声が響き、先頭に並ぶ兵士が弓を構えた。号令に合わせ、一斉に矢が飛んでくる。
「ははっ! あっははは!」
笑いが止まらない。魔法を理解した瞬間、世界が鮮やかになった気がする。全てが分かるかのような全能感。
浅い。浅い。理解度が浅い。あれだけの魔力を注げば、もっと強固な魔法になるはずなのに。無駄が多い。
初めて魔法を使う俺だって、もっとうまく扱えるだろう。
「ああ、そうだ。今回は魔法だけで勝負してやろう」
接続解除。再び邪気は封印され、俺は邪術を使えなくなった。
だが、これで良い。接続には大量の邪気が必要。使わない時は切っておくべきだ。
さあ、これで俺は魔法で勝負するしかなくなった。自分を追い込んだ方が成長につながる。俺の経験則だ。
矢に付与された魔法を視る。
速度、攻撃力上昇。多少の操作性付与。
俺の魔力に指向性を与え、魔法に込められた魔力に混ぜ込む。矢の軌道を演算する理に干渉し、矢を逸らした。
「案外、簡単だな」
魔力の扱い方は、奴らを見て学べた。魔法の使い方は、邪術を参考にした。
「放てぇ!」
炎が生まれ、風が渦巻く。風によって常に新しい空気が補充され、火勢が強まっていく。
空気中の水の状態を司る理に干渉。水蒸気から水にし、鎮火を試みる。
火と水が接触し、水が一気に気化した。熱い空気が爆発的に広がる。
リアムやティナが腕で顔を押さえるが、俺は兵士から視線を外さなかった。軽く火傷したが、体の修復機能を高速化することで癒やす。
火がちろちろと燃える中、隊列が割れた。割れた隊列の中を、ダイナが堂々と歩く。先ほどの動揺が嘘のようだ。
「大魔法の使用許可申請は緊急時のため省略。管理番号十二番いっくよー!」
兵士がダイナから距離を取ろうとするが、もう遅い。
鍵となる部分が欠けていた魔法式に、式が書き足される。水蒸気が一気に冷やされ、極小の氷の粒となって空気中を舞った。
だが、これは余波にすぎない。
「ま、待てっ!」
「ぁあ……」
俺たちの体温が下がり、末端から凍っていく。
「ちっ……」
魔法式の解体。無理だ。解体防止のためだろうが、何重にもプロテクトがかけられている。俺が魔法式を解くより、全身が動かなくなってしまう方が早い。
「くそっ」
仕方ない。もう一度地獄と接続し、干渉された理ごと書き換える。
――接続かい――⁉
緊急中断。今、接続し切ったらまずい。地獄で紙一重の戦いを続けてきた俺の勘が、警鐘を鳴らしていた。
何かが近づいてくる。
極低温の空間が、砕け散る音が聞こえた、気がした。
「間に合ったみたいだ」
金髪の男が俺とダイナの間に割り込み、ダイナに剣の切っ先を向けていた。
1-5 白銀の光
「間に合ったみたいだ」
金髪の男が俺とダイナの間に割り込み、ダイナに剣の切っ先を向けていた。
鎧も何も身に着けず、普段着のまま。だというのに、俺やダイナを圧倒するほどの威圧感。
「ルーカス副団長⁉」
俺の後ろでずっと息を殺していたティナが、驚きのあまり声を上げた。
なるほど、副団長ね。ティナの関係者っぽいから、主神の勢力の人間だろう。
「今日は休日だったが、奴らの気配を感じ馳せ参じた」
ルーカスが一歩踏み込む。ただの人間が動いたものとは思えないほどの轟音と共に、兵士の首が宙を舞った。
何が起きたか分かっていない呆けた顔を、遅れて噴き出した血が塗りつぶす。どさりと音を立てて、頭を失った胴体が地面に倒れ伏した。
兵士の間に恐怖が広がる。目の前の脅威から逃れようと、我先にと駆け出した。
ルーカスは、その隙を見逃さない。
追加で、十の頭が宙を舞った。
一瞬で研究所が処刑場に変わる。|正義の味方《ルーカス》による、|悪の手先《魔法使い》の断罪。
ルーカスが五回剣を振るった後には、もうこの場に残る魔法使いはダイナだけになっていた。
「アンタがどんなに強くても関係ない。私には切り札があるんだから」
はったりだ。そんな切り札があるなら、初めから俺に使っていたはず。
今頃、ダイナは必死に考えているだろう。どうやってこの場を切り抜けるか。どうやって逃げ切り、再び活動するか。
「そうか」
ルーカスは淡白に返した。
剣の刃が翻る。
「本来なら貴方も始末しなければならない決まりだが、どうやら被害者のようだ」
ルーカスは瞬間移動じみた速さで移動し、俺の首元に剣を当てた。
「どうだろうか。僕と一緒に騎士団に来るというのは。騎士団では、その忌々しい力を消し去るための研究もしているし、貴方の手助けができると考えているが」
はいかイエス以外の答えがない問い。もしノーと答えれば、その瞬間に俺の頭と胴体は泣き別れになるだろう。
俺はルーカスの目を見て小さくうなずいた。ルーカスは俺の首元から剣を離し、虚空に向かって振り上げる。
――そんなルーカスに、横から黒い影が突っ込んだ。咄嗟のことで、ルーカスは対応し切れない。そのまま、ルーカスは吹き飛び、壁にぶつかって止まった。
砂の粒が舞い散る。僅かに視界が悪くなったが、ルーカスと彼に突っ込んできた存在は問題なく視認できた。
ルーカスに突っ込んできたのはモンスターだ。短く太い胴に、これまた短い足が付いている。口には、体の半分ほどの長さの牙が生えていた。
モンスターが雄叫びを上げる。
それにつられるように、他のモンスターがわらわらと出てきた。
ルーカスが立ち上がり、剣を構える。
モンスターは一斉にルーカスに襲いかかり、肉の細切れに変わった。
ルーカスは涼しい顔で残心する。
「敵がまだ残っているみたいだ。危ないから、下がっていて」
通路の奥からモンスターが現れる。ルーカスはぎりぎりまで引き付けてから、剣を振るった。
初めてモンスターを見た時より、魔力についての理解が深まったから分かる。モンスターは魔力でできた生物だ。モンスターが死ぬと魔力は辺りにぶちまけられ、使わない限り消えることはない。
「それと、そこの君! 魔力を減らしてくれないかい?」
魔力を減らせ――散らばった魔力を消費しろということか。確かに、空気中の魔力を用いて魔法を発動させられそうだ。
施設内に他の魔法使いが残っているかもしれない。そうした場合に備えて、敵の攻撃手段を奪うことは有効だ。
使う魔法は、状況にさほど変化を与えないものが良いだろう。下手に攻撃性のある魔法を使えば、ルーカスに当たるかもしれない。ルーカスに与えるダメージは小さいだろうが、戦闘に与える影響は小さいに越したことはない。
水を適当にいじるのが無難か。
魔法式を構築。空気中に薄く広がった魔力を集めて、式にエネルギーを供給する。
辺りに薄く霧が広がり、すぐに煌めく氷の粒に変わって、また水蒸気に戻る。そんな変化は、空気中の魔力が薄くなるまで続いた。
ルーカスがモンスターを殺す度に使える魔力が増えるから、ルーカスが戦い終わるまでずっと。
「ありがとう。この先の戦いが楽になりそうだ」
ルーカスが口を閉じた瞬間、一人の魔法使いが現れた。
「やはり、貴方もいたのか。――アシュトン」
「模擬魔獣の……ダイナのように言えば、モドキのサンプルデータ回収を頼まれましてね」
モドキのサンプルデータ。モドキ――モンスターを生み出したのは、アシュトンやダイナら魔法使いだったのだ。
「しかし、私は幸運ですね。あなたがいる。データ収集に付き合っていただきますよ」
アシュトンのその言葉と共に、モンスターが姿を見せた。一目では正確な数を把握できない。一体どこに隠れていたのか。
だが、
「無駄だ」
ルーカスが全て蹴散らす。モンスターの肉片や体液が宙を舞う中でも、アシュトンは表情を変えない。
ルーカスが俺を見る。空気中の魔力を減らせ、ということだろう。俺は小さくうなずき、魔法を行使した。
ただし、水の状態操作ではない。戦闘中に、何の役にも立たない魔法を使っているわけにはいかないからだ。
アシュトンが俺を物珍しそうに見た。アシュトンからすれば、俺はただの人間。魔法を使えることが不思議なのだろう。
その隙に、ルーカスがアシュトンに切りかかった。アシュトンは余裕をもって回避する。
アシュトンが蹴りを放ち、ルーカスは身を低くして躱した。アシュトンは、水を固めて作った氷を剣の形にする。
ルーカスとアシュトンが鍔迫り合った。
アシュトンの氷の剣が砕けるが、それと同時に再生成することでこの状態を無理やり保つ。
ルーカスは動けない。アシュトンも動けない。この状況で動けるのは、俺と、リアムと、ティナと……モンスターだ。
「一人で、三人を。私を相手に。守り切れるつもりですか?」
「僕だけじゃないさ。彼らだって戦える」
アシュトンは返事の代わりに、小さく魔力を動かしてモンスターを呼んだ。
モンスターは、ルーカスの後ろに立つ俺たちを目掛けてやってくる。が、一定のところまで近づくと、突如体から血を噴き出して倒れた。
先ほど使った魔法の効果だ。
「なるほど、これは……」
アシュトンが口の中で言葉を転がす。
俺は、倒れたモンスターをじっと見た。
やはり、魔力は自然には浄化されない。
環境を汚す害獣を作り出し、魔力を消費する手段を持たない人間界に解き放つ。これは、世界の運営を滞らせる行為ではないだろうか。
俺は、邪神から力と共に役割も奪った。世界の運営を行う役割を。
決めた。これからの行動の指針を。ルーカスの陣営に付こう。主神の味方をするのは癪だが、|害獣《モンスター》を生み出すやつらは滅ぼさなければならない。最低でも、モンスターを使うことはやめさせるべきだ。
モンスターから解放された魔力を掌握する。空気の形を定め、近寄ってこない残りのモンスターに空気の刃を向けた。
接近戦でちまちま倒すより、こっちの方が効率が良い。
モンスターが三枚におろされるのを見て、ルーカスとアシュトンはどちらも笑みを浮かべる。
「奴らはあっちに任せて大丈夫みたいだ」
「良いデータが取れそうですね」
全く異なる思考。だが、結論は同じだった。
鍔迫り合っていた二人は後ろに下がり、体勢を立て直す。
アシュトンは氷の剣を手元から消し、両手を空けた。
――魔力が動いている。
ルーカスに気づかれないよう、ゆっくり慎重に。
ルーカスの周辺の水蒸気を凝華させ、動きを阻害しにかかれば、裏で動いている魔力に気づく余裕などなくなる。
「魔法主体に変えたのかい? 前はそんな戦い方じゃなかっただろう」
ルーカスが一息で距離を詰め、アシュトンに切りかかる。
――その足が、魔力を忍ばせたところを踏んだ。
「なるほど、っ!」
ルーカスは踏み込みの勢いのまま跳び、アシュトンの頭上を追い越した。剣は空を切る。
魔力は消えた。消費され、世界に還ったのだ。だが、何も起きてはいない。
「|反現象《アンチスペル》か」
アシュトンが静かに呟く。
「そんな大層な名前を付けられるほどのものでもないけれどね」
「今の一瞬で組み上げるとは、また腕を上げましたね」
「それほどでもないよ。君こそ、戦術の幅がまた広がった」
戦いの中で、互いを褒め合う二人。口ぶりからして、今まで何度も戦ったことがあるようだ。
褒め合いながらも、互いに視線を相手から外さない。アシュトンが小さく魔力を発し、モンスターに命令を出した。
モンスターは統率された動きで、リアムやティナに飛びかかる。俺の方には一体も来なかった。
「ティナ!」
リアムが叫ぶ。ティナは手を組んで跪いた。
リアムの動きが目に見えて良くなり、代わりにモンスターの動きが鈍くなる。
俺もこっそり手助けしよう。モンスターを対象に、体にかかる重力を大きくする。
リアムへの補正はなしだ。補正すると、急に動きが変わり、戦闘のテンポが乱れてしまう。
「なかなかやりますね。特にあそこの彼。ぜひ仲間に加えたい。名前を教えていただいても?」
「それは無理な相談だ。彼は僕が正しく導く」
剣と魔法がぶつかり合う中、ルーカスとアシュトンは何でもないように話していた。
「それと、僕は彼の名前を知らない」
「そうですか、残念です」
祈りのために動けないティナを、リアムが縦横無尽に動き回って守る。その代わり、ティナはリアムのサポートを行っていた。
デメリットを打ち消し合う、良い連携だ。
「だいぶデータも集まりましたし、私はこのあたりでお暇しようかと」
「僕が逃がすとでも?」
ルーカスが強く踏み込み、アシュトンの首を狙って剣を振るう。
「彼らがいては、無理な話ですね」
ルーカスはそれを素手で掴み取った。よく見れば、剣身をつまんでいる。
「あなたは本気の一割も出していない。そんなので、私に傷を与えられるわけがありません」
アシュトンがルーカスに顔を寄せる。
「今度お会いする時は、一対一で。本気で戦いましょう」
アシュトンが後ろに引き、魔法式を組み上げる。部屋全体にわたる大きな式だ。
アシュトンの姿が消えた。
俺が一瞬で解読できず、しかも残滓も残っていない。アシュトンが、魔法において相当な高みにある証だ。
アシュトンが去ってから数秒後、ようやくルーカスが構えを解いた。
「大丈夫かい?」
振り返って、俺やリアム、ティナに尋ねる。
「大丈夫だ」
俺はほとんど何もやっていないからな。ルーカスに手の内を見せたくなかった。
「ティナと、茶髪の彼は――⁉」
ルーカスの声が乱れる。ルーカスに応える声はなかった。
「アシュトンに連れて行かれたか! 今から追跡――いや、痕跡はほとんど残っていない、無理か。それより彼を送り届ける方が――」
ルーカスが整えられた金髪を崩し、一人でぶつぶつ呟いている。
ルーカスとしては俺を置いたままにする選択肢はないだろうし、選択肢は一つな気がするが。
「とりあえず、君を本部に送り届けよう。僕につかまって」
俺は、ルーカスが差し出した手を取った。
「離さないで」
主神由来の力が高まる。本能的に嫌な感じがする力だが、我慢できないほどではない。
そっと世界を注視する。ルーカスがどんな術を使おうとしているか、知りたかった。
なるほど。力の質こそ正反対だが、使い方は邪気と全く同じだ。今使おうとしているのは、邪術で言うと『|転移《バティン》』に当たるもの。
そんなことを考えている間に、転移は完了したようだ。俺は再び人間界に降り立っていた。
太陽は姿を隠し、人間はみな寝静まる時間帯。
俺は空を見上げ、感嘆のため息をつく。
「綺麗だ」
白銀の光。地獄では決して見られないものだ。
「だろう?」
ルーカスがうなずく。悔しいが、彼と同じ感想だ。
「今日はもう遅い。本部の一室を貸すから、そこで寝てくれ」
「分かった」
寝床を探す手間が省けるから、素直に嬉しい。
「こっちだ」
ルーカスは広い建物の中を、一切迷う素振りも見せずに進む。
やがて目的の部屋に辿り着き、扉を開けてくれた。
「今日は大変だったね。ゆっくり体を休めてくれ。おやすみ」
「ああ。おやすみ」
ルーカスが扉を閉めるのを見届けて、俺はベッドに寝転がった。
天井を眺める。特に何かあるわけでもないが、思考を整理するにはこれが一番だ。目を閉じると、寝てしまうこともあるからな。
今日一日、色々なことがあった。
人間の街に侵入し、賑やかな雰囲気を楽しもうとしたら、魔界のやつらに連れ去られた。
リアムとティナに、俺の力について知られた。
主神側の人間であるルーカスに助けられ、リアムとティナはアシュトンの元へ。
そうだ、アシュトン……あいつと、あいつの仲間は許さない。
世界の運営を滞らせる害獣を作り、各地にばらまいた。邪神がいたら、きっと罰していただろう。邪神はもういない。その役目は、俺が負わなければならないものだ。
「俺が必ず排除する」
腕を天井に向かって伸ばし、手を握る。
俺は目を閉じ、腕を下ろした。
眠気が俺を夢に引きずり込もうと、意識の底から存在を主張する。
俺は、いつの間にか眠りに落ちていた。
幕間一「見つけた」
扉を閉め、ルーカスは深く息を吐いた。
今回の襲撃事件での、唯一の生存者の保護が完了した。アシュトンにさらわれたリアムとティナは、生死不明という扱いである。
「さて」
建物の外に出て、ルーカスは一言呟いた。
あの時、ルーカスにはノルを残してアシュトンを追いかける選択はできなかった。だが、リアムとティナの奪還を諦めたわけではない。
「本当は兄さんにも付いてきてもらいたかったんだが、どこにいるのか分からないからね」
残念そうに言い、小さく息を吐いた。
力を高め、人間界から魔界への道を作る。一瞬の後、ルーカスの姿はここから消え去った。
こつ、と靴が床を叩く音が響く。
ルーカスは、アシュトンと対峙した場所に戻ってきていた。
力――神力を全力で練り上げる。アシュトンが残した痕跡を見つけるためだ。
ルーカスは目を閉じ、耳も塞いで、神力の反応に集中する。
「見つけた」
アシュトンの魔力の残滓。魔法式に注いだものの、使われなかったもの。
それと、理が改変された形跡。今はほとんど元に戻っているが、少しだけあの時の状態を残している。
「うん?」
ルーカスは、疑問の声を上げた。
不純物――神力とは真逆の力の痕跡が数多く残っていたからだ。この残り方からして、力を使った者は痕跡を全く隠そうとしていない。
しかも、この力――邪神の信奉者が『遺物』だと崇めていたものから感じた力にそっくりだ。
どす黒く、激しく燃え上がる感情が胸を焦がす。
「――っ」
ルーカスは強く歯を食いしばって、湧き上がる感情を必死に抑えた。
「しっかりしろ。僕はアシュトンの追跡に来たんだ」
そう自分に言い聞かせて、ルーカスは感情が落ち着くのを待つ。でないと、アシュトンの追跡を放りだして、ここの本格的な調査を始めそうだったから。
時間が経つほど、痕跡はなくなっていく。ここの調査とアシュトンの追跡、どちらを取るかと言われれば、取りたいのは前者であっても、取るべきなのは後者だ。
「また来れば良い。また来れば良いんだ」
そう自分を納得させて、ルーカスはアシュトンの追跡を始めた。
理に残された改変の痕跡を増幅。アシュトンの残存魔力から読み取れた情報を追加。それでも足りない情報を推測で埋め、ルーカスはアシュトンの行き先を割り出した。
一切の躊躇いもなく、ルーカスは術を発動する。
その姿はかき消え、遠く離れた場所へ。
ルーカスの足が地面に着いた瞬間、抜剣し、襲いかかってきたモノを斬った。
残心し、周囲に敵が残っていないか確かめる。
安全を確認したルーカスは軽く息を吐き、床に落ちたものを拾った。
「これは」
魔獣に似て、しかし非なるモノ。ノルが『モンスター』と呼ぶ存在。
アシュトンが置いていったものだろう。
アシュトンが残した痕跡を辿ってここに来たが、アシュトンはそれも織り込み済みだったわけだ。
ルーカスは表情を硬くして、置かれているものの調査を始めた。
部屋の中――アシュトンが転移したのは室内だった――から見つけたものを並べる。
モンスターの死骸と、宛名のない置き手紙。これだけだ。
モンスターの死骸は、ルーカスがやった。アシュトンは「データ収集」と言っていたが、これもその一環なのだろう。雑魚ばかりだったが、やたらと種類が豊富だった。
置き手紙を開く。少し急いで書いたのだろう、手紙の文字が走っていた。
『フィンレーに伝えてください。「見つけた」と、それだけで伝わるでしょう』
「兄さんに? なぜ」
ルーカスは伝言の内容について考えるが、さっぱり分からない。「見つけた」だけで理解しろというのが無理な話だが。
ルーカスは手紙を丁寧に折り畳み、懐にしまう。
「今度二人になる時にでも話そうかな」
ルーカスは本部へ転移した。
2-1 ギュウドン
「おはよう」
窓から入ってきた日光で俺が自然に目を覚ますのと、ルーカスが俺に声を掛けたのはほぼ同時だった。
ベッドから体を起こし、ルーカスを見る。
「おはよう」
「よく眠れたかい?」
「ああ」
寝起きで思考がまだ鈍いが、体は軽い。眠気もすっきり取れた。
「それは良かった。お腹も減っていることだろうし、食堂に案内しよう」
「頼む」
俺は、ルーカスの後について食堂へ向かう。
金髪の男が前から歩いてきて、ルーカスに向かって手を挙げた。心なしか顔が似ている気がする。
「お! ルーカスじゃねぇか。それと……そっちは?」
「先日保護した人間だ」
ルーカスの言葉に合わせ、にこりと微笑みかける。
「そうか! 俺はフィンレーってんだ。よろしくな」
「ノルだ。こちらこそよろしく」
お互いに手を差し出し、がっちりと握手をした。
「僕の方からも、改めてよろしく」
ルーカスも手を差し出し、俺と握手した。
「おっと、時間がやべぇ」
フィンレーが時計を見て言った。
「じゃあな」
軽く手を挙げ立ち去っていったフィンレーの背中に、俺も手を振っておく。
「じゃあな」
「またね」
ルーカスも手こそ振らなかったが、代わりにフィンレーの背中に言葉を投げた。
フィンレーの姿が見えなくなると、ルーカスが俺を見て言った。
「食堂はこちらだ」
ルーカスが指差す方を見る。そこには、百人が同時に座れそうな机と椅子が置いてあった。
食堂の入り口に立って、ルーカスが看板の文字を確認している。俺がそれを後ろからのぞき込むと、ルーカスは横に避けて見せてくれた。
「本日のおすすめメニュー?」
書いてある内容をそのまま口に出す。文字の読み書きは地獄で学んだ。
おすすめのメニューが毎日替わるのか。
「そうだよ。今日は牛丼だね」
「ギュウドン?」
ルーカスの言葉をそのまま口に出す。地獄では料理と呼べないようなものを食べてきた俺にとって、全ての料理は全く未知のものだ。
「うん。米と呼ばれる穀物を炊いて、上に甘辛く味付けした牛肉を載せる料理――って、実際に食べてみた方が分かりやすいね」
理解できない俺を見て、ルーカスが苦笑した。
「そうだな。俺はその『ギュウドン』ってやつにする」
「僕もそうしようかな」
幸い、食堂は空いていた。ルーカスが料理人の方へ行き、一言二言話して、代金を置き、二つの牛丼をお盆に載せて戻ってくる。
具を揺らさないよう細心の注意を払って、牛丼を俺の前に置いた。
「いただきます」
俺の糧となる牛肉に向かって言い、軽く手を合わせた。
「それは……」
ルーカスが目を丸くする。
「俺を支えてくれる命に感謝しなきゃな」
「そうだね」
ルーカスも手を合わせ、「いただきます」と言った。
俺はスプーンを取り、まずは米をすくう。白い艶のある米が、天井の照明からの光を反射していた。
一口、口に含む。ゆっくり噛んでいくと、今まで味わったことのない独特の甘みが口の中全体に広がった。
美味しい。
続けて、牛肉と米を一緒にすくう。食欲をそそるタレの香りを堪能しつつ、口の中に入れた。
瞬間、口の中に広がる美味しさ。米の優しい甘み。甘辛いタレ。脂が乗った牛肉。
全てが調和し、一つとなって、俺の舌を蹂躙する。
何だこれは。こんなに美味しい料理、初めて食べたぞ。
地獄では、生臭い肉やよく分からない草を食べていた。それと比べると雲泥の差、いや比べるのが失礼なほどだ。
俺は二口目をスプーン山盛りにすくい、一口目の倍の速さで食べて、あっという間に皿を空にした。
いつの間にか食べ終わっていたルーカスが、俺を笑顔で見ている。
「気に入ってもらえたようで良かった」
ルーカスが真剣な目つきになり、居住まいを正す。俺も背筋を伸ばし、ルーカスの話を聞く姿勢になった。
「ノルの今後についての話だ」
俺の今後。そうだ、この組織は本来魔法使いと敵対しているはず。そんな中、魔法が使える俺が、有無を言わさずスカウトされた。
ルーカスは、俺を使って何をするつもりなのだろうか。
「昨日言った通り、君には魔法使いや魔獣との戦いを手伝ってもらいたい。ああ、別に直接戦ってほしいってわけじゃない。援護とか、大気魔力を減らすとか……ノルにしかできないことは山ほどある」
ルーカスに協力するしかない。俺はルーカスたちに協力することを条件に生かされたのだから。
ルーカスに協力すれば、魔法使いに出会う機会も増えるだろう。
「だから――」
返事がない俺に、ルーカスが更に言葉を重ねる。
「良いぜ」
それを、遮った。
「ありがとう」
ルーカスが口元を緩めて言った。
「早速だが、今朝起こった戦闘の魔力処理を頼む」
「分かった」
ルーカスが立ち上がり、俺の分の皿をお盆に載せる。
そのまま皿を返しに行こうとしたのを、俺は止めた。
「持ってきてくれたんだし、俺が返してくるよ」
「そうかい? じゃあ、お願いするよ」
立ち上がり、椅子を納めて、お盆を持った。
返却台まで行き、お盆と皿を分けて返す。
「うまかったよ」
キッチンの中にいる、料理人に向かって言った。料理をする時の音で聞こえていないかもしれないが。
「さあ、行こうか」
そう言うルーカスについていき、建物の外へ出た。
「掴まって」
ルーカスの手を取り、転移に置いていかれないようにする。
光が俺の視界を真っ白に染め上げた。
2-2 黒雲と雷鳴、感謝の印
土を踏みしめる音がした。
目を開いて真っ先に視界に入ったのは、空を覆い尽くす黒雲。続いて、くすんだ色の植物。
――敵の気配。音がした方に振り向けば、ルーカスがモンスターを切り捨てたところだった。
「まだ敵が残っているみたいだ。少し待っていて」
ルーカスがモンスターを見据える。数は――一、二、三、四、五――五か。
ルーカスが一気に踏み込み、剣を閃かせる。
呼吸を一回する間に、全てのモンスターの体がバラバラになった。
ルーカスが残心をとり、剣を納める。
「もう大丈夫だ」
「ああ。ありがとう」
気を取り直して、周囲の様子を観察する。
モンスターの血で汚れた草原。くすんだ色に鮮血の赤が映え、非現実的な感じがした。
深く息を吸い、吐く。魔界の他の場所よりも、空気が重たい気がした。
それに、暑くてジメジメしている。来て五分も経っていないのに、もう汗が出てきた。
空気中の魔力に手を伸ばす。
とりあえず、この暑さを何とかしなきゃな。
気温に干渉。十度近く下げる。
霧が現れ、俺たちの体にまとわりついた。
湿度に干渉。ほどよく乾燥した空気にする。
空気中に気体としてあった水が、雨となって降り注ぐ。
これだけで、随分過ごしやすくなった。
体が雨で濡れるが、体温を奪ってくれてむしろ涼しい。
空気も軽くなった。
後は――この黒雲を晴らせば、綺麗な景色になるだろう。
空気中に残った魔力をかき集めて、雲に干渉。雷鳴が轟き、雨が激しくなる。視界が一面真っ白になり、自分の腕の先すら見えない。
全身びしょ濡れだ。ここまでくると寒い。
服が水を吸って、体が重い。だが、空気はいつになく軽かった。
隣を見れば、ルーカスも同じようにびしょ濡れになっていた。
元々、濡れるつもりはなかった。帰ってからのことを考えれば気が重い。
だというのに、俺の口角は自然と上がっていた。
ルーカスと目が合い、お互い同じタイミングでふっと息を吐く。
気がつけば雨は弱まり、草原にはいくつも水たまりができていた。
黒雲は消え、空には白い雲がぽつぽつ浮かんでいる。
ルーカスが俺の肩を叩き、空の一点を指差した。その指の先を目で追ってみる。
虹だ。こちらから向こうにかけて、空の端と端を結んでいる。
俺にはそれが、世界からの感謝の印に見えた。
ルーカスが濡れた髪をかき上げる。
「ありがとう」
こちらに近寄ってくる。転移で帰ろうとしているのだろう。
俺もそうしようと思っていたのだが――ふと、足元が気になった。
「紙?」
小さく折りたたまれた紙だ。しゃがみ込み、それを拾う。
俺が紙を開き、ルーカスがそれをのぞき込んだ。
『フィンレーには話してくれましたか?』
たった一文。俺には何のことかさっぱり分からないが、ルーカスは分かるだろうか。横目でルーカスを見て、その顔をうかがう。
「っ……」
険しい顔だ。そのまま誰かを殺しそうな目で、紙を睨みつけている。
「……分かった」
ルーカスは紙を上に投げ、剣を抜く。剣を縦横無尽に走らせて、紙を細切れにした。
「行こうか」
先ほどの険しい顔から一転、今度はにこやかな笑顔。
俺は、差し出されたルーカスの手を掴む。
紙を処分して良かったのかと聞く勇気は、俺にはなかった。
「今日はこれで終わりだ。これからは自由にしてもらって構わない。ああ、建物内も入っちゃいけないところはないからね」
転移した直後に、ルーカスが穏やかな声で言った。
「僕は用事を思い出したから。困ったら、近くの人に聞いて」
そう言ってすぐ、ルーカスは長い脚を素早く動かして去ってしまった。
さっき見つけた紙関連のことだろうな。気になるが、今の俺が行ってどうにかなることでもない。
それよりも、期せずして生まれたこの自由な時間をどう活用するか考える方が大切だろう。
さっきもそうだが、モンスターがいた現場に行く時、まだモンスターが残っていることがある。
戦えないことにしておくのでは不便だ。体術の訓練をしたことにしておけば、これから取れる行動の幅も広がるだろう。
訓練場、あったかな。
幕間二「散らかった書類」
コンコンコン、と三回ノックの音が響く。
執務作業をしていたフィンレーはペンを置き、来訪者に入室許可を出した。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきた人物を見て、フィンレーは眉を軽く上げた。
「ルーカスじゃねぇか」
「本日は、フィンレー団長にお伝えしたいことがあって参りました」
ルーカスはフィンレーの言葉を一切気にせず、あらかじめ用意していたかのように淡々と言った。
「そんなにかしこまって、どうしたんだ?」
「昨日のことです」
ルーカスが真剣な表情で話し始めた。
それまでの軽い空気が一変し、居る者の居住まいを正させる重厚なものになる。
「アシュトンと交戦後、僕が調査に入ると、アシュトンからの書き置きを見つけました」
「書き置きには何と?」
「『見つけた』と伝えてほしいと」
「そうか、分かった」
フィンレーが立ち上がり、壁に掛けられていた剣を取る。
「そうだ。確か、ルーカスが保護したガキがいたな。明日、ちょっと俺に貸してくれねぇか?」
「ノルですか? 問題ありませんが……何故」
ルーカスは疑問を口にしようとして、飲み込んだ。
「わりぃな。それは言えねぇ」
フィンレーは一瞬だけ申し訳なさそうに目を伏せ、それからまたすぐにルーカスを見た。
「用事を思い出した。ルーカスは下がれ」
「失礼しました」
ルーカスが部屋を出るのを見届けると、フィンレーは剣を帯びて、|外套《がいとう》を羽織った。
窓を開け、窓枠に立つ。外から風が吹き込み、窓枠が揺れ出した。
フィンレーはそれを意に介さず、一気に飛び降りる。
後に残ったのは、書類がめちゃくちゃに散乱した執務室だけだった。
2-3 やり過ぎ
「そこまで! 勝者、ノル!」
監督官の声が試合の終わりを告げる。
俺は首筋を伝う汗をぬぐい、わざとらしく息を乱した。
野次馬の歓声が訓練場の空気を揺らす。
対戦相手は、ぐったりと地面に倒れ伏したまま動かない。
「すごいな、ノルってやつ。武器なしの模擬戦闘なら、あいつが最強だったのに」
俺たちを囲んで交わされる会話が、嫌でも耳に入る。
俺は、ただ一つの感情に支配されていた。――ああ、やってしまったな、と。
ルーカスと別れた後、俺は近くの人間に道を聞き、訓練場に向かった。
「おお、すごい」
訓練場の天井は、俺が全力で跳んでも届かないほどに高かった。
高さだけではなく、大勢の人間を一度に収容できる広さも有している。
それだけの広さの建物に、人が集まって武術の訓練をしている様子は、圧巻の一言だった。
ひとまず、隅の邪魔にならなさそうなところで体をほぐす。これなしで戦って戦えないことはないが、やはり体の可動域が段違いだ。
それから、型の確認。
俺は邪術や魔法を使って戦うため、純粋に体術だけで戦うことは少ない。邪術などを併用すると、今やっている型とは少し違う動きになる。それでも、基本というものを大切にしたかった。
体が良い感じに温まってきた。
次は、壁を利用した立体的な動きの練習を――というところで、後ろから声を掛けられる。
「良ければ、俺と手合わせしてくれないか?」
汗で額を濡らした男が、俺に朗らかに笑いかけた。
なぜ俺に声をかけたのかは分からない。
手合わせしたいなら、俺の他にもっと強そうな人間がいるだろう。
まだ訓練を始めてすらいない俺は、暇そうに見えたのだろうか。
手合わせ――予定になかったことだが、ここの人間の力を測れるという点で、むしろ俺にとって好都合か。
「良いぜ」
俺が返事をすると、男は近くの人間に声を掛けた。
俺と男が向き合い、声を掛けられた人間がちょうど中間の地点に立つ。審判まで用意するとは、随分本格的だ。
「準備はできましたか?」
審判に問われ、俺と男は揃って頷く。
「では――始め!」
その声と共に、俺は思い切り踏み込んだ。もちろん床が抜けない程度に。
素早く相手の懐に潜り込むと、相手の足を踏みつけ、身動きが取れないようにした。
その状態で胴体に拳を叩き込み、離れる。
しまった、少しやり過ぎたか? ルーカスを想定してやってしまった。
俺が相手の攻撃を待っていると――、
「終了!」
審判が声を上げ、男に駆け寄る。男は気絶しているようだった。
俺、そこまで強くやったかなあ。
その場に腰を下ろし、視線を上げる。偶然こちらを見ていた人間と目が合い、なんとなく気まずくなって目を逸らした。
逸らした先でも、また別の人間と目が合う。何だかおかしいと思って辺りを確認すると、衝撃の事実が明らかになった。
みんなが、俺を見ているのだ。訓練の手を止めて、じっと。
「俺も、手合わせ良いか?」
妙な沈黙の中、その沈黙を作っていた人間が声を上げる。
「ああ」
断る理由はない。
「――始め!」
先ほどと同じ人間が審判を務め、手合わせが始まった。
今回は様子見に徹する。下手に手を出して手合わせが終わってしまうのを防ぐためだ。
俺が待ちの姿勢を見せると、相手はこちらに向かってきた。
拳――左、右、左、左か。
体を軽く動かし、紙一重で避ける。
反撃に移らず、攻撃の続きを待った。
相手の腕がこちらに伸びてくる。このまま腕を絡め、体勢を崩す気か。
だが、俺もそう簡単にしてやられるつもりはない。
体勢を崩されないよう、両足でしっかり踏ん張る。
相手は俺の体が動かないことに困惑し、気が逸れた。
すかさず相手を掴み、投げ飛ばす。
鈍い音が響き、相手は立ち上がれない。
「終了!」
わぁ、と歓声が上がった。
近くの人間が駆け寄り、男を助け起こす。意識はあるようだった。
「強いな……名前は?」
「ノルだ」
俺と男の会話が続いたのは一瞬だった。
「次は俺と」
「いや俺だ!」
「僕もお願いします!」
次々と対戦希望の人間が現れ、会話どころではなくなったのだ。
こうして俺との手合わせの流れが構成され、審判が監督官を名乗る男に代わり、今に至る。
俺がここに来たのは、体術もある程度できるという事実を作るためだった。腕に覚えがある人間をなぎ倒すためじゃない。
やり過ぎた。事実の整合性が取れなくなる。
俺がこれだけやれるのなら、アシュトンと対峙した時にもっと戦えた。モンスターにだって、もっと違う対応の仕方があった。
ああ、どうしよう。ここにいる全員の記憶を改ざんするか? 邪術には対応するものがないが、魔法を使えばできる。この人数を相手に一気に行うのは難しいが、数人ずつに分ければいける。いや、記憶の改ざんは同時にやらなければ意味がない。改ざん途中に抵抗される可能性がある。
もっと別の方法――そうだ、ここにいる全員を説得して黙っていてもらうのは? これなら邪術で問題なくできる。
もう月は昇り始めているはずだ。すぐ終わる作業をやるのに、十分な条件。
よし――接続開始。
地獄の月と繋いだパスを辿る。
地獄の月の力を引き出し、この世界の月に顕現させていく。
魔界でやった時より引き出せた力は弱いが、月がまだ昇り切っていないのだから仕方ない。
目を閉じて、邪術を発動する。
「『|治れ《ブエル》』」
今の手合わせで人間が負った傷を癒やす。
「『|感情支配《ガープ》』」
小さく呟き、要求を述べる準備を整えた。もっと強いのもあるが、それだと分かりやすい痕跡が残る。
「俺は訳あってここに来た。今はまだ、俺の力についてバレるわけにはいかない。だから――今回のことについて、黙っていてくれないか」
訓練場全体に聞こえるよう、精一杯声を張った。
『|感情支配《ガープ》』で俺への感情を最大限プラスに補正した。だから、俺の頼みを聞いてくれるはず。
「おう!」
「ああ」
「良いぞ!」
訓練場の中から上がる声は、承諾のものばかり。俺の目論見は成功したようだ。
俺はほっと胸を撫で下ろし、
「ありがとう!」
訓練場全体に聞こえる声で叫んだ。
――接続解除。
ここの月と地獄の月とのつながりが完全に切れたことを確認し、目を開く。
そのまま、何食わぬ顔で訓練場を出た。
「……ルーカス」
嘘だろう、こんなところにいるなんて。中のやり取りが聞こえていなかっただろうか。
心臓が血液を送り出す音が耳の奥で響いているのを感じる。
ルーカスがこちらを振り向いた。声に出てしまっていたのか。
ああ、歩いてくる。
「ノルじゃないか」
動揺が顔に出ないように気をつけ、ルーカスの接近を待つ。
「ちょうど良かった。伝えたいことがあるんだ」
「ああ。どうしたんだ?」
「明日のことなんだけど。諸事情あって、明日ノルには団長と一緒に行動してもらうことになった」
このタイミングで?
先ほどの行動が原因ではないだろう。早すぎる。
俺の監視か、俺に釘を刺すためか――いずれにせよ、良い気はしない。
「分かった」
「うん。よろしく」
ルーカスは進もうとしていた方向に体を向け、歩き出した。
これを伝えるためだけに来たらしい。
ルーカスが角を曲がって見えなくなり、俺はようやく一息つく。
良かった、今のことがバレたわけじゃない。
この後、俺は自分の部屋に戻って静かに過ごした。これ以上何もやらかさないように。
2-4 玉
「よう」
「……は?」
朝目を覚まして部屋から出ると、目の前に整った顔があった。ルーカスと同じ金髪だが、あちらはどこか作り物めいているのに対して、こちらは人間らしい顔だ。
そんなことを考えていると、意識が徐々にショックから復帰してきた。
今俺の目の前にいる男は、昨日一瞬だけ見たフィンレーだ。……顔を離してくれた。
「ルーカスに聞いてると思うが、今日は俺と行動してくれ」
「ああ……ん?」
ルーカスが言っていたのは「団長と一緒に行動する」こと。フィンレーがその相手として出てくるということは、
「団長って」
「ん? ああ、俺だ」
あまりにもあっさりと明かされた事実。まさか、昨日のうちにここのトップ二人に会っていたとは。
「そんなことはどうでも良いんだ。早く準備してくれ。俺は外で待ってるから」
「わ、分かった」
若干気圧され気味にそう返すと、フィンレーは俺に背を向けて歩き出した。
その後ろ姿を見ながら、ようやく息がつけるのを実感する。
もう姿が見えなくなった。
「早かったな」
俺が朝食をとり外に出ると、フィンレーが腕組みして待っていた。
あの後、ずっとここにいたのだろうか。
「行くぞ」
主神と似た気配の力が高まる。たぶん、転移しようとしているのだろう。
ルーカスは転移に体の一部の接触を求めた。だが、フィンレーはそれがない。
置いていかれ――はしなさそうだ。
俺の体の方でもその力を感じる。
一瞬の後、俺とフィンレーの体はこの場から消え失せた。
魔力を感じる。濃密な。
はじめに感じたのはそれだった。少し遅れて、周りのものが目に入ってくる。
真っ白な部屋。そこに繋がる殺風景な通路。
俺が一昨日いたところだった。
「ノルはここにいたし、まあ、何か覚えてることがあったら言ってくれ」
フィンレーが呟く声が、やけに大きく聞こえた。
「ああ」
軽くうなずき、フィンレーの後ろをついて歩く。
天井の明かりが点滅し、目がちかちかした。
「ああ、別に俺の前じゃ隠さねぇで良いぞ」
「何を?」
小石を蹴り飛ばす音が、やけにはっきり聞こえた。
大丈夫。バレてるはずがない。
「お前の力」
空気がねっとりしてきた気がする。
実際はそんなことないのだろうが。
「俺の力? 魔法のことか?」
フィンレーが口を開いて何かを言おうとしたが、結局言葉を飲み込んだ。
「何も隠してるつもりはない」
畳み掛けた。
「まあ、隠すなら隠すで良いんだけどな」
俺がしらを切ると、フィンレーはあっさり引き下がった。
かと思えば、
「俺はここでノルの何を見ても言わねぇ」
なんて付け加えるから、フィンレーが考えていることがよく分からなくなった。
「分かったよ」
本当に、本当の本当に危なくなったら、遠慮なく邪術を使うことにしよう。フィンレーがいるから大丈夫だとは思うし、そもそも時間の問題もあるが。
俺の返事を聞いて、フィンレーがふっと息を吐いたのが聞こえた。
空気が少しだけ軽くなった気がする。
「さて、本題に入ろうじゃねぇか」
今のは本題じゃなかったのか。あれだけでも、だいぶ体力が削られたのに。
「俺がノルをここに連れてきた理由は話したが、なぜ今さらここに来たのかは話してなかったな」
頭上から降ってきた小石を掴み取って投げ捨てる。
「ここはルーカスが探索した。正直、俺の探索能力はルーカスに劣る。だから、目的はそれじゃねぇ」
目の前に光が差す。天井に大穴が空き、それが上までずっと続いていた。
「会いに行くぞ」
誰にとは言われずとも、心の火がちろちろと燃え始めるのが分かった。
フィンレーが集中を始める。転移先を割り出すためだ。
俺にもできるだろうか。とりあえずやってみよう。
空間に残された記録を――痕跡を読む。一見しただけでは、特に不自然なところは見当たらない。
あれからかなり時間が経っているから、当然か。
もっと深いところだ。
あ、ここ……何か、よく分からないけれど何かが違う。
もっと深く、辿って――違和感の正体をつかめ。
あった。ここだ。空間について書き換えられた痕跡がある。
「うーん、だいぶ消えてるなあ……こことかほとんど残ってねぇ。たぶんこうだろ。で? 後埋めなきゃいけねぇ要素は五十個?」
フィンレーが一人でぶつぶつ呟いている。
内容はよく理解できなかったが、俺と同じように苦戦していることは分かった。
ここ――さっき見つけたものよりはっきりした痕跡がある。
その痕跡をさっきの痕跡と結びつけようとして、気づいた。合わない。微妙に形が違ってはまらないパズルのピースのように。
アシュトンの他に、ここで転移を使った人間が――ああ、ルーカスか。
二種類の痕跡に、ほとんど違いはない。見分けるのは困難だ。
「んー、これで良いか」
フィンレーが小さく呟いたのを聞いて、集中を切った。時間切れだ。
「行くぞ」
フィンレーの力が空間に満ちる。転移先の座標と、この空間の座標が重なった。
俺たちの体がここから消え失せる寸前――何かが転移に割り込んできた。
フィンレーが即座に空間を切り離したが、それは自身の体をねじ込むことで、空間の接続を保つ。
どうにもならないと判断した俺とフィンレーは、飛び退いて距離を取った。
つないだ空間の向こう側から、敵が転がり出てくる。
「玉?」
両手で持つのにちょうど良い大きさの、光沢のある黒い玉。
玉はどんどん光沢を失い、くすんでいく。それと同時に表面が溶け出した。
濃密な魔力が辺りに広がる。
嫌な予感がする。これが、何かとんでもないもののような。
「っ! これは……!」
フィンレーが何かに気づき、声を上げる。
「ノル! 隠すな、力を使え。死ぬぞ」
直後、玉が完全に崩壊した。
2-5 『魔神』
「ノル! 隠すな、力を使え。死ぬぞ」
直後、玉が完全に崩壊した。
モンスターが視界いっぱいに広がる。
何も見えない。今俺に向かってきているのは、モンスターの何だ? 分からなければ防ぎようもない。
「隠すなって言ったって」
使わないんじゃなくて、使えないというのに。
今使える手札を整理しよう。体術と魔法。そして、俺はそれらに熟達しているのを知られたくない。
この状況をひっくり返す一手。迂闊に触れてダメージを負いたくないから、魔法一択。
モンスターの攻撃を逸らす……いや、止める……!
空気中のものを凍らせろ。水じゃ足りない。もっと、全てのものを。もっと、低く。
「――は」
吐いた息が凍てつき、空気に白い筋を作った。変化はそれだけに留まらず、空気すらも状態変化して、液体になる。
急激な温度変化に驚いたのか、モンスターが一気に後ろに下がった。
凍りついた世界を、フィンレーの剣が斬り裂く。
フィンレーと競り合えたモンスターはおらず、全てが一撃で地を舐めさせられた。
明らかに剣の間合いではない相手も地面に倒れ、モンスターの死骸の山ができていく。
フィンレーの攻撃範囲外に、モンスターが逃げてきた。しかしそれができるのも極少数で、大抵は逃げようと背中を向けた瞬間に殺されていた。
俺は念の為持ってきていた剣を抜き、モンスターと切り合う。フィンレーのように一撃必殺ともいかないし、敵の攻撃を一つも受けないというのは無理だ。だが、自分の消耗を抑えながら敵を消耗させることはできる。
邪術を使えればもっと楽なのにな。
まあ、今は邪術の代わりに魔法がある。邪術より消耗が少なく、世界への影響も残りづらい力が。
モンスターの爪を避け、剣で前脚を軽く切り裂く。薄く血が流れたが、モンスターはそれをものともせず噛みついてきた。
――凍れ。
狙うはモンスターの足元。
軸足が滑り、モンスターが体勢を崩す。
そこをすかさず叩き、モンスターの命を絶った。
「危ねぇな」
いつの間にか背後にいたモンスターを仕留めてくれたらしい、フィンレーの呟きが耳に残った。
目の前だけでも対処しなければならない相手が多すぎる。それに背後からの相手も加わるとなれば、一つ一つへの対処がおざなりになってしまう。
背後の対処はフィンレーを当てにしていたが、どうやらうまく働いたようだ。
無駄に力を見せずに済む。
「――上っ」
視界に影が落ちる。大きく踏み込んで周りのモンスターを|薙《な》ぎ払った後、頭上を見た。
鋭い牙と爪を持った、体の半分ほどが骨の不格好なモンスター。四枚ある鳥の羽を動かし、空中で俺を睨みつけている。
ここからでは、俺の剣は届かない。使えるとすれば魔法か。
横目でフィンレーを見遣る。
危なげなく立ち回り、モンスターの攻撃を食らう様子もない。しかし、襲いかかるモンスターの数が異常だ。
四方八方、時には上からもモンスターが襲いかかってきている。
俺も援護に行きたいが、今はこの鳥もどきを落とすのが先だ。
――魔法を発動。
モンスターにかかる重力を操作する。
通常の百倍。
操作を確定した瞬間、モンスターの体が落下を始めた。翼を動かして姿勢制御を試みているようだが、状況は一向に改善しない。
そのまま――フィンレーが剣を振るう、真上に落下した。
他の雑魚と同じように斬撃に巻き込まれ、肉片の一つとなる。
「おわっ」
足元の何かを踏みつけて、体勢を崩しかけた。生ぬるい。
下を見ないように目を上に向けながら、モンスターが密集する地点へ行く。きっと、足元にはこの世のものとは思えない光景が広がっているだろうから。
心なしか、モンスターの勢いが弱まってきているように感じた。そろそろ打ち止めだろうか。
あの小さな玉から、これ以上の数が出てきたら俺は世界を疑う。
目の前にいたモンスターの首をへし折る。
遠くから飛びかかってこようとしていたモンスターに、頭を投げつけた。
後ろから襲いかかってきたモンスターの首を落とす。
一撃加えるごとに、モンスターの数が減っているのが実感できた。終わりが近い。
「終わったな」
フィンレーがそう呟いた瞬間だった。
背中に悪寒が走る。この上ない死の予感。
反射的に剣を抜きかけ、しかしこの後の光景を見てやめた。
空間を縦横無尽に走る剣閃。密度も範囲も、先ほどまでの比ではない。
――あれで、まだ、抑えていたというのか。
剣という近接武器を使いながらも、到底届かないような遠距離に攻撃を届かせる。それすらも、本気ではない。
空を飛ぶモンスターも、遠くへ逃げ出すモンスターも、フィンレーの剣の前に等しく切り伏せられ、肉片と化す。
血の雨を何やら不思議な力で吹き飛ばし、フィンレーはこちらを振り返った。
「今、お前の前には二つの選択肢がある」
フィンレーが指を一本立てる。
「一つ、ここから帰ること。たぶんこの先もこれぐらいの密度の攻撃が続く。俺は余裕だが、ノルはどうなんだ? と心配してる」
俺が口を開く前に、フィンレーは指をもう一本立てた。
「二つ、このまま先に進むこと。命の危険がねぇとは言い切れねぇ。が、俺が全力で守る」
正直に言うと、このレベルの襲撃が続くのなら、俺は厳しい。邪術が使えないからだ。魔法と体術だけでモンスターの群れに勝てるとは思えない。
「俺がノルを連れてきたのは、見せたいものがあるからだ。まあ、俺が転移で呼べば良い話だがな」
どうする? とフィンレーが目で問いかけてきた。
「このまま一緒に行くさ」
邪術は使えないが、権能は使える。分解と生成、情報の閲覧くらいしかできないが、ものは使いよう。仮に戦闘になって魔法ではどうにもならなくなっても、なんとかしてみせる。
「俺だって、戦えないわけじゃない」
時間さえ稼げば、最悪の場合邪術を使うことだってできる。
「本当にやばくなったら俺が転移させる」
「なら、心配いらないな」
フィンレーには俺が知らない力がある。俺がどうにもできなくなっても、フィンレーならどうにかできる状況がある。
それに、転移だけなら邪術でできる。時間稼ぎが必要だが。
「行くぜ?」
「ああ」
俺は、フィンレーと共に転移した。
転移先は、真っ暗な場所だった。足元から伝わる感触からして、地面は硬いようだ。
「水?」
足元に薄く水が張っている。
「――⁉」
魔法が発動する。書き換えられていくのは、水の温度と量。
このまま温度が上がると、水が気体になる。
一気にその変化が起きれば、俺たちがダメージを負うことは必至。
「うお、マジか」
フィンレーにも予想がつかなかったのか、驚きの声と共に一瞬だけ動きが止まった。しかしすぐに再起動を果たし、魔法の発動阻止に動く。
書き換えられていくのはどこも完全に同時。
普通、遠隔発動や遅延発動には、発動の起点となる場所が必要なのだが。
書き換えられていく速度はそこまで速くなく、どちらかといえば遅い。
故に、止めるのは簡単だ。
そう思って、罠の可能性を見落としていたらしい。
――外部からの干渉を確認。対抗機構を起動。
「またか」
水を跳ねさせて現れたのは、モンスター。先ほどと同じような個体が多い。
つまらない。もっと他の攻め方も考えてほしいものだ。
「さっきのとほとんど同じか」
フィンレーも同じことを思ったらしい。
「さっきはノルに相手してもらったが、今はノルにやってもらう理由もねぇしなあ」
フィンレーは剣も抜かず、素手で構える。
「|悪《わり》ぃが、さっさと終わらせるぞ」
そう言い切った瞬間。俺たちに敵意を向けていたモンスターが、一歩後ずさった。
俺は特に何も感じていない。
「何だ、見る目あるじゃねぇか。まあ、殺すが」
フィンレーが言い終わった時には、立っているモンスターは一匹もいなかった。
頭か、首か、心臓か、腹か。生命の活動維持に必要などこかの部位が潰れている。
「んじゃ、先に進もうぜ」
モンスターの死体は魔力への分解を始め、惨殺の現場の存在感が希薄になっていく。
魔力が濃くなったことで、空気の粘つきというか重さが、一段と増した。
「そういえば、魔力が増えたけど良いのか? 使わなくて」
俺はそのためにルーカスに誘われたはずだが。
「あー、ここは魔界だからな。やらんでも俺たちに影響はない。面倒だろ」
「そうか。俺としても、負担が減るのなら大歓迎だ」
他に影響が出ないように魔法を使って、魔力を消費するのは難しいのだ。しょぼい魔法だと魔力はなかなか減らないし、魔力が大きく減るような魔法には危険なものが多い。
「あ?」
フィンレーが短く声を上げて立ち止まる。
――既定値以上の魔力を確認。魔法を発動。
剣を素早く抜き、何の変哲もない床を斬って、納めた。
「やっぱり、二重三重に罠を張ってやがったか。これ以上付き合うのも面倒だし。ノルの経験も増やしたかったが、さすがにこれはなあ」
言われてようやく気づいた。魔法の遠隔・遅延発動の中心はないと思っていたが、実際は巧妙に隠されていたということに。
ここに満ちる魔力に紛れて、分からなかった。
いや、想像すらしていなかった。邪術は使用した時の影響が大きく、こっそり使うことはできなかったからだ。
「ノルはまだ魔法の経験が|浅《あせ》ぇからな。これからどんどん積んでってもらう」
「……ああ」
|鈍《なま》ったかな。数日間、命を削る戦いからは遠ざかっていたことだし。
いくら邪術が使えず、魔法の使用経験が浅いとはいえ、この体たらく。
帰ったら感覚を戻すために、一人でどこかへ修行に行こう。このままではまずい。
「暗いし、明かりいるよな」
フィンレーが指を立てると、指先に明かりが灯された。
空間の全貌が、俺の目に映る。
薄暗い岩窟だった。
ごつごつした岩場がむき出しになっていて足場は悪いが、天井は高い。
天井から水が滴り落ちて、足元の水と交わる。
フィンレーがしゃがみ込んで、何かを拾う仕草をした。
何事もなかったようにすぐに立ち上がり、砂を払う。
払いながら、手の中の何かを握り潰した。
口が小さく動き、言葉を紡ぎ出す。
「ここまで来て、今さら何言うんだよ」
その時の声は、俺が今まで聞いたことのない、低く冷たい声だった。
「この先だ」
フィンレーは振り返って、俺の目を真っすぐ見る。
「この先に、俺たちの行動原理がある。覚悟は良いか?」
その言葉に、俺はすぐには答えられなかった。
この組織が何のために作られたのか、俺は何も知らない。
モンスターを一掃したい俺と、人間界の平和を守りたいルーカス。個々の思いは様々あれど、根っこの部分は同じなはず。
けれど、俺はその根っこの部分を知らない。
黙り込む俺を見て、フィンレーは、
「はは、いきなり覚悟とか言われても困るよな。今はただ、俺たちの目標を、敵を、知ってくれれば良い」
「……分かった」
じっくり考え込んだからなのか、俺の口は滑らかに言葉を転がしてはくれなかった。
「んじゃ、行こうか」
「ああ」
フィンレーの後ろについて、岩窟の奥へ進む。
「――っ」
なんだ、この異様な気配は。魔力とも邪気とも、|主神《あいつ》とも違う――この世界のものでないとすら思えてくる不気味さは。
進むごとに、その気配は強くなっていく。
不思議と、モンスターには一度も出会わなかった。
フィンレーも口数が少なくなり、口を堅く結んでいる。
俺は唾を飲み込んだ――いつの間にか口の中がからからに乾いていたようで、喉に痛みが走る。
しかし、それすらも気にならないほどの強烈な存在感。
全く未知のものがこの先にあるという予感をひしひしと感じる。
そんな中、いつもと変わらぬ一歩を刻んだ瞬間だった。
「――――は」
ずっと感じていた気配が深化する。
肌に触れる程度から、内蔵を素手で撫でられるような悍ましさへと。
考えずとも分かる。ここだ。ここに、フィンレーが見せたかったものがある。
「なんだ、これは」
それは、腕だった。心をぐちゃぐちゃに掻き回すような黒に染まり、何かを掴む寸前の。
否、黒ではない。よく見れば、赤や青、黄の色がある。それらが混ざり、お互いの色を|穢《けが》しているのだ。
「それは、俺たちが『魔神』と呼ぶモノの体の一部だ」
フィンレーが魔神の腕に手を伸ばす。
俺は止めようと身を乗り出した。そんなことをして、何の影響も出ないとは限らない。むしろ、絶対に影響が出る。
「大丈夫だ」
フィンレーは確信しているようだった。
一切ためらうことなく、魔神の腕に手を触れる。
その手は、魔神の腕をすり抜けた。
「――ぇ?」
間抜けな声が俺の口から漏れた。
目にも見えるし、気配も感じるのに、触れない。
俺はこんな現象を目にしたことがなかった。
気配はあるのだから、映像の照射という線は薄い。
その場にあるのに、その場にない。言葉遊びのようなことだが、空間をずらせば可能だ。
いや、果たしてその程度でできるのか。
空間をずらしても、ずらした先の空間はこの世界に存在する。存在するなら、触れる。
そんな俺の様子を見たフィンレーが、口を開いた。
「俺は理論的なことはあんま詳しくねぇから、これは詳しいやつの受け売りなんだがな」
その言葉に、俺は驚愕した。そんなことができるのかと思った。
「次元が違うんだと。文字通り」
次元。簡単に言えば、動くことのできる方向の数。
直線上しか動くことのできないのが一次元。
前後左右を動くことができ、その複合で斜めにも動ける――つまり、面の上を動けるのが二次元。
前後左右に加え、上下にも動けるようになり、立体的な動きが可能になった三次元。
魔力や邪気など、世界に干渉するのが四次元。
俺はこれに加え、時間を移動する五次元があると睨んでいる。今は自由自在な時間移動ができないため、五つ目に数えられていないが。
次元が違うと、不思議な現象が起きる。
三次元に存在する箱に、二次元の面を詰めていくとする。
縦と横の長さが十分にあれば、その面は箱の中に入る。ここまでは普通だ。
二次元には上下――厚みがない。
厚みがないのだから、箱がいっぱいになることは永遠にない。
魔神の腕には、これと同じように次元の違いによる現象が起きているらしい。
「……反則だろ、それは」
動き始めるまでは絶対に干渉できず、動き始めればその圧倒的な力で蹂躙される。
世界を弄ぶために生み出されたような存在。
「ああ。だから、俺たちは|魔神《こいつ》をどうにかする方法を探している」
魔神をどうにかする方法なんて、あるのか。
方法は大きく分けて二つ。目覚める前に無力化するか、目覚めてから倒すか。
どちらにせよ困難を極める。次元の隔たりを解消するか、力を力でねじ伏せるか、そのどちらかができなければならない。
不可能という言葉が頭に浮かんだ。
「改めて聞こう。ノル、こいつを滅ぼすために俺たちに協力してくれるか?」
悩む必要はなかった。
俺はモンスターを消したい。しかし、それ以上に果たさなければならない義務がある。
邪神の力を奪ったのなら、邪神の代わりに世界を守るべきだ。
俺の口は、初めから決まっていた答えをなぞる。
「もちろん」
「それじゃあ、改めて。ようこそ、俺たちの組織へ」
フィンレーが差し出した手を握る。
「ああ」
転移が発動し、俺たちは本部へ戻った。
2-6 彼らの動向
「おっと」
戻った先は、本部の入口ではなかった。
壁一面を埋め尽くす棚に、座り心地の良さそうな椅子、そして机の上に山積みになった書類。
フィンレーの執務室である。
「うわぁ、溜まってら」
山積みの書類に、フィンレーはうんざりしたようだった。
俺の目は、棚の一番上から床まで、忙しなく動く。何のために連れてこられたか分からず、居心地が悪かった。
「ああ、とりあえず座れ」
きょろきょろと若干挙動不審な俺を見て、フィンレーは笑った。
隅の方に寄せられていた椅子を出してもらい、座らせてもらう。
執務机を挟んで向かい合う形だ。フィンレーの顔を見なければならないのだろうが、視線が山積みの書類の方へ向きそうになる。
俺は何もやましいことをしていないはずだし、何か言うことがあるならさっきの場所で言っていたはず。
「あー、リラックスしろ。紅茶でも――って、置く場所ねぇわな」
机の上は、書類やそれを処理するのに必要な道具で埋め尽くされている。まるで仕事中にこっそり抜け出してきたかのようだ。
「ちょっと伝えてぇことがあるだけだ」
そう言われ、ようやく肩の力を抜いた。
良かった、俺の正体に気づかれたとかじゃなくて。
「リアムとクリス。覚えてるだろ?」
「ああ。忘れるわけがない」
俺が初めて行った街で出会った二人。その後、アシュトンにさらわれたが、今はどうしているのか。そもそも無事なのか。
「二人が、やつらと一緒にいるところが目撃された」
「――――!」
やはりか、という気持ちが大きかった。
やつらは仲間を探していた――「適合者」という存在を。
人間であれば誰でも良いというわけでもなさそうだ。魔力か何かの力に適合する存在を探しているのだろう。
俺も無関係ではいられない。邪気や魔力以外の新しい力があるのならば使えるようになりたいし、魔力ならば浄化しなければならない。元々そういう約束だ。
「まだ検証が済んでねぇが、魔法を使ったという話もある。気をつけろ」
「……分かった」
魔法が使えるのなら、人間界より過酷な環境の魔界でも生きていける可能性は高い。
俺はモンスターを滅ぼしたいし、フィンレーたちは魔神を倒したい。
厳しいことを言うが、リアムやティナは問題解決に必ずしも必要な人材というわけではない。
これは一朝一夕にどうにかできる問題ではなく、優先順位も低い。
しかし、ティナには、地獄を出て右も左も分からなかった俺を助けてくれた恩がある。一度受けた恩をそのままにしておくというのも寝覚めが悪い。
多少は気に留めておくとしようか。
「ノルならやんねぇと思うが、助けに行こうなんて考えんじゃねぇぞ。やつらの理念に共感して自分から協力している可能性もある。最初は無理やりでもな」
「もちろん」
物事は一面的に捉えてはいけない。俺は、それを地獄でよく学んだ。痛いほどに。
相手の邪術のタネを、視点を変えて見破る。それができなければ、生き残ることは不可能だった。
「よし、話はこんだけだ。最後に一つ」
今度は何だ、と少し余裕のある気持ちで耳を傾ける。
俺の正体について言及される心配はほとんどない。
「まだ組織内では発表していない。これからあの二人と関わるかもしれないから、ノルには特別に教えた。絶対に、他の人間に漏らすな」
その真剣な眼差しには、有無を言わさずうなずかせる力があった。
まあ、情報を漏らすつもりはないが。それ以前に、その相手がいない。
俺は黙ってうなずいた。
フィンレーが小さくうなずき返し、空気がふっと弛緩する。
「本当にこれで終わりだ。じゃあな、ノル。今日はしっかり休めよ」
「ああ。……俺からも、一つ良いか?」
「なんだ?」
「さっきの……あー、次元の話。今度、それに詳しいやつに会わせてほしい」
フィンレーは顎に手を当て、難しい顔をしている。
「うーん、確約はできねぇが……まあ、相談してみよう」
「分かった、ありがとう」
椅子から立ち上がり、扉の方へ進む。
「またな」
また会いたくはなかったが、フィンレーが俺に魔神の腕を見せた意図を考えて、仕方なく。
扉を閉めると、静寂が俺の耳を支配した。
今、フィンレーの執務室の前には人間がいない。
執務室は、他の部屋から離れたところにある。だから、人通りが少ないのは当然か。
息を深く吐いて、思考の整理を行う。今日は大きなことを知りすぎた。
世界の滅びに関わることや、さらわれた仲間に関すること。できれば心の準備をした上で聞きたかった。
まあ、今さら言っても過去は変わらない。
変わるのは未来だけ。少しでも良い未来を選び取れるよう、これから頑張ろう。
近日中には、どこかへ修行に行きたい。魔界が良いかな。
俺は部屋に戻り、ベッドの枕に顔をうずめた。
2-7 新理論
結局、昨日はあれから何もなかった。
「今日はしっかり休め」、その言葉があったからなのか、何も仕事が持ち込まれることがなかったのだ。
その代わり、今日は仕事がいくつかある。
朝、ルーカスから伝達があった。
『魔力の浄化を頼む。今日、僕は別の用事があるから、ノルについていくことができない。代わりにこの指輪を置いておく。転移に使ってくれ。何かあったら、指輪を壊すと良い。すぐに駆けつける』
そうして渡されたのは、金属でできた簡素な指輪だった。
外見には特別な要素はないが、魔力などを視る要領で見れば分かる。この指輪には、ルーカスの力がたっぷりと注ぎ込まれていた。
今の俺は、邪術が自由に使えない。魔法の練度はどちらかといえば低く、転移に足る実力がない。
目的地まで転移するには、この指輪の存在が不可欠だ。
しかし、ルーカスの力をまともに使おうとすれば、俺の体がダメージを受ける。俺たちと主神の仲の悪さが、力の相性にまで影響を与えていた。
ルーカスやフィンレーが直接俺を転移させるのは大丈夫だ。力は肌に触れる程度で、中に入ってはこない。
しかし、俺がそれを使う場合は、力を取り込まなければならない。
補助なしの話だが。
ルーカスのことだ。多少魔法を扱える程度の人間でも問題なく使えるようにしてあるに違いない。
指輪を嵌め、魔力で干渉する。
指輪に込められた力が放出され、転移のための術式が組み上げられていく。
ルーカスやフィンレーが直接やる時より精度が悪いが、転移は問題なく発動した。
――脚を動かすと、積み上がった石が崩れた。
風が運ぶのは、土のにおい。
目の前には、荒れ果てた住宅地が広がっていた。
魔力の濃度から考えて、ここは人間界だろう。
モンスターに襲われて人間は逃げ出し、建物は廃墟になったというところか。
風が耳元で唸る。瓦礫が崩れる音以外、他に音はしなかった。
生命の気配がしない場所だ。修行できそうな気がしない。さっさと終わらせるに限る。
「片づけ、手伝ってやるか」
瓦礫一つ一つを魔法の対象に指定。書き換えるのは、対象の位置。
辺りの魔力をかき集め、魔法を発動。
瞬きする間に、瓦礫の場所が変わる。
材質も大きさも違い、家があった場所に横たわっていた瓦礫が、材質や大きさごとに分けられていた。
いつか誰かがこの場所で何かを作る時、少しでも楽になるように。あるいは、欲するものを素早く見つけられるように。
空気中の魔力が観測できなくなったのを確認して、俺は次の場所へ転移した。
「ごほっ」
息を吸うとざらついた砂が喉に入ってきて、少しむせた。服の袖で顔を覆う。
頭上では太陽がぎらぎらと輝き、足元に暗い影を落としている。
風が砂を巻き上げ、視界を霞ませた。
砂漠の中で、どんな魔法を使うか考える。
「――ん?」
足元から視線を感じた。顔を下に向けると、砂色の猫と目が合う。
体は小さく、耳は大きい。砂漠での暮らしに適応した種類のようだった。
そうだとしても、おかしい。いくら砂漠の暑さに適応したといっても、こんな暑い昼間から活動を始めはしない。
さっきから一歩も動かず、立っているのもやっとといった様子。猫は酷く弱っていた。
たぶん、何らかの要因で巣穴に帰れなくなってしまったのだろう。そうしているうちに日が昇り、脱水症状に陥ってしまった。
その目を見て、俺は使う魔法を決めた。
水を集める魔法。いつも手軽に使っている魔法だ。
だが、この乾ききった砂漠になると話は別だ。
ここにある魔力を全て使って空気から水を集めても、集まるのはほんの僅かな水のみ。そんな水で、猫の延命が図れるはずもない。
それでもやらないわけにはいかず、魔法を発動する。
僅かな水を、猫はちびちびと大切に飲んでいた。
「俺が水のあるところまで連れてってやる」
猫を抱きかかえようとするが、猫は手足に加え口まで使って抵抗する。
困った。望まない相手を助けるのは、俺の信条に反する。
猫を抱きかかえるのは諦める。俺が立ち上がるのを見ると、猫は大人しくなった。
地面に四つの足を着け、尾をぴんと立てる。砂に小さな足跡を残して、歩き始めた。
もう動けるのか。なら、ここで俺が無理に助ける必要もない。猫のしたいようにすれば――と考え、猫と目が合った。
猫は立ち止まり、俺を見ている。
「離れてほしいのか?」
そう言うと、猫から感じる圧が強まった気がした。違うのか。
逆? 一歩踏み込んでみる。猫は尾を大きく振った。ついてこいということらしい。
猫は時折立ち止まって、俺がついてきているか確認していた。
俺が足を止めた時も同様で、足を止めた瞬間に気づいて振り向く。一体どうやって感知しているのか。
しかし、これだと立場が逆だ。当初は、俺が猫を連れて行こうと思っていたのに、今は猫に連れて行かれている。不思議なこともあるものだ。
「ん?」
砂漠の中に、緑色が見えた。さらに歩くと、水面が光を反射するのが見える。
猫は尾を振り、足を早めた。どうやらここが目的地らしい。
「――おぉ」
水面には魚の影が映し出され、風で木の葉がさわさわと揺れる。
砂漠の中にある緑地。オアシスだ。
猫はにゃあと一声鳴いて去っていった。
俺はそれを自由な探索の許可だと解釈する。違ったとしてもそう思わせた方が悪い。
見た感じ、農耕地はなさそうだ。人が住んでいないということで良いのか?
かと思えば草に踏み潰された跡があるし、何なら小屋だって建っている。人の痕跡はあるのに、誰かがいる気配はない。怪しい。
俺はしばらく考えた後、小屋にお邪魔することにした。何かの手がかりが得られる可能性がいちばん高そうな場所だからだ。
一応ノックしてみる。返事はない。
俺は扉を大きく開け放ち、小屋の中に踏み込んだ。
小屋の中はある程度の清潔さが保たれていた。少なくとも埃っぽいということや、木が腐っているなんてこともない。
ただし、整理整頓はされていなかった。
机と椅子が置かれている以外は、家具がない。寝具すらも。
そして、床には紙が散らばっていた。
一枚拾う。
「魔力量と魔力濃度を変えて魔法を使って――持続時間を計っているのか。待て、何のためにこんな実験を? ああ、これが一枚目じゃないのか」
幸い、その前後の紙は近くにあった。
拾い上げ、つなげて読む。
「おいおい、大発見ってレベルじゃないぞ、これ」
魔法は、使う魔力の濃度によって持続時間が変わる。つまり、世界への定着度が上がる。
俺が魔力を生み出した過程の逆を辿っているわけだ。興味深いのはその先。
「『仮説:魔力を圧縮すると別の力になる。その力は特性を持たない魔力の上位互換の力である』。待てこれ邪気と違う力か? 特性を持たないってことはつまり主神の力との相性の悪さもないってことだから」
それが意味することは。
「ここでも邪術のような力が使える!」
人間界や魔界でも邪術が使えれば。ずっと考えていて、でもできないという答え以外を見つけられなかった問い。
革命が起きた。世界を一変させる革命だ。
具体的な理論は?
濃度はどれぐらいに高めれば良い?
ロスは存在するのか?
邪気と魔力の変換効率と絡めて、どの程度の効率なのか?
様々な疑問や期待と共にページを捲り――俺は紙の束を取り落とした。次のページは存在しなかった。
紙の山をかき分けて内容ごとに分別しても、見つからなかった。
俺は震える手を押さえつけて、深呼吸する。
そりゃそうだ。こんな重要な仮説をこんな人里離れた場所に放置する阿呆でも、さすがに研究成果の秘匿くらいはする。
一人でこんな大研究をするのは難しいだろうから、あるいは所属している組織がそうさせたのかもしれない。
研究のコンセプトは見た。実験とその結果も見た。計算過程も見た。
結論と考察がそろっていないだけだ。
ゼロから完成させた人間は既にいる。その足跡が見えていて、完成させられないことはない。
まずは研究資料の読み込みを。魔力の昇華以外にも、ワクワクする新理論はたくさんある。
魔法実行時の変数指定とか。
変数指定の応用による情報鍵とその突破方法とか。
魔力から魔法への変換効率を上げる方法とか。
ふと、はめた指輪が目に入った。
今日回らなければならないのは、ここだけではない。後一か所ある。
ここに留まっているわけにはいかない。しかし、研究資料を持ち帰るのも難しい。量が多すぎる。
解決策はすぐに見つかった。この場所の座標を持ち帰れば良いのだ。ルーカスたちに伝えれば、大人数で持ち帰って研究を進められるに違いない。
小屋の外に出て、座標を確認した。
絶対に忘れるな、と自分に暗示をかけて、指輪に魔力で干渉する。
空間が歪み、接続して、座標が変わった。
木のにおいに包まれ、目を開く。微かな炭の香りが、風に運ばれて感じられた。
見渡す限り一面の緑。木々の葉の隙間から光が漏れ、あたたかい空間を作り上げている。
先ほどまでの砂漠とは違い、あちこちに生命の息遣いが感じられた。
視界に緑が暴力的に叩きつけられる。その眩しさに目を細めた。
「んー?」
今回の魔力は、ムラが大きい気がする。魔力が濃いところは濃いが、薄いところは薄い。
俺やアシュトンが魔法を使った時は、こうはならない。初めに空気中の魔力を集め、魔法を使う時にも余剰魔力が生まれないようにするからだ。そもそも、魔力の濃度や質が均一になるように運用する。
つまり、魔法を使ったのは初心者だ。
辺りをよく見れば、様々な魔法を使った痕跡がある。
焦げた枝。周りと色の違う土。やたらとぬかるんだ地面。やたらと生命力溢れる木。
推測するに、ここは魔法の初心者が魔法の練習を行った場所だ。魔界でやらない理由は分からない。たぶん、魔力が濃すぎるとかそういう理由じゃないだろうか。それを言うなら、ここは魔力が薄すぎると思うのだが。
「はぁー……」
俺がこれからするのは、初心者の尻拭いだ。それがどうにも憂鬱で、なんとなく気乗りしない。酷い落差だ。さっきまでは、魔法の最先端を目にしていたのに。
適当に魔力をかき集め、圧縮する。それを手の中でもてあそんでいると、懐かしさを感じた。
変だな。俺が今まで会ったことのある魔法使いは全員敵で、懐かしさなんて感じるはずはないのに。
でも、俺は何か手がかりを持っているはずだ。何か、何かを掴みかけている気がする。
結局、その答えは見つからなかった。
手の中にある魔力に意識を向ける。どうしようか。ただ魔力を使うのには飽きたから、新しい方法を編み出したい。
魔法の精度も上げたいしなあ。いつか主神と相対する時やモンスターと戦う時に困ってしまう。
魔力を均等にし、なるべく綺麗な球体を作った。
この狭い範囲の法則さえ支配できないのなら、戦闘の時はもっとレベルが落ちる。少しずつ完璧に制御できる範囲を増やし、いずれは戦闘にも耐えうるレベルまで引き上げる狙いだ。
何に干渉するのかイメージし、魔力を使った。
球体の中全体が燃え、鎮火し、中心に水がふよふよと浮かんで、風が渦巻く。
この程度なら簡単だ。
難しいのは並列処理。
二冊の本を読み、その内容を深く理解して説明することはできるか?
たぶん、多くの人は無理だと答えるだろう。俺も無理。
魔法を使うというのはそういうことなのだ。本を深く読むほどの集中力を要する。
しかし、並列処理が不可能なことだとも思わない。
何かコツがあるのか、練習すればいつかできるようになるのか、可能にするための新理論があるのか。
ひとまず、研究資料の解読を待とう。
魔力を作り出す。
砂漠でやり方は知った。理論は分かる。後はやるだけ。
ここの座標を読み、転移先――本部の座標も特定する。
二つの座標を重ね、一つとする。切り開いた立方体を組み立てる時に重なる点があるように、元々一つだったのだと世界に誤認させる。
そうして空間が繋がり――その繋ぎ目に、俺は迷いなく身を投げた。
俺の体が向こう側に現れた一秒後、繋ぎ目が静かに閉じた。
「危ねー……」
口の中で呟く。
俺がもう少し魔法が下手だったら、繋ぎ目をくぐるのが遅かったら、あれに巻き込まれていたかもしれない。
巻き込まれたら、一体どうなるのだろうか。
体が真っ二つになるのか?
よく分からない場所に飛ばされるのか?
もしかすると空間の狭間を永遠にさまよい続けることになるかもしれない。
気になるところだが、検証するのはやめておこう。下手すると死ぬ。好奇心のために生き物を殺すのは気がとがめるし、どこかに飛ばされる場合どこに飛ばされるのか分からない。
周りには人がいない。良かった。目の前に人が現れて腰を抜かす人が出ないよう、場所に気を遣った甲斐があった。
空を見る。まだ日が高い。
ルーカスに達成報告と指輪の返却をして、訓練場にでも行こう。ああ、砂漠の話もしなくては。
俺は、本部に足を向けた。
2-8 魔力を食らうもの
カーテンを開けると、銀色の月の輝きが俺を優しく照らした。
近くに人がいないか、耳をそばだてる。
大丈夫そうだと判断し、魔力を練った。主神のお膝元といえる人間界で、あまり邪術は使いたくない。
魔界――研究所へ空間を繋ぐ。座標を知っているのはここしかなかった。
研究所は、以前見た時と同様にボロボロだった。
天井の穴から、ちょうど月が覗いている。良い天気だ。
――接続。
今回は、月をゆっくりと見ることができた。
月が端から陰る。陰った場所は|赤《しゃく》|銅《どう》色の鈍い光を放ち、やがて全体が赤く染まった。
手近な金属板を拾い、魔法で磨く。鏡は月光を反射し、俺の瞳を映し出した。
瞳は夜空の月よりもなお赤く、|爛々《らんらん》とした光を放っている。
おー、ティナの言った通りだ。これだと、見られたときにごまかすのは難しそうだ。
「『|飛行《アンドレアルフス》』」
建物の外に出て、邪術を使う。空から見ると、広範囲を見渡せた。
眼下に明かりはなく、地表の一部は影になっていてよく見えない。しかしその中でも、研究所の周りに造られた防衛設備は分かった。
その全てに強引に突破された形跡があり、ルーカスが助けに入るときにやったのだと想像できる。
研究所の防衛に使うぐらいだ、魔界でも最新の技術や理論が使われているに違いない。
俺は防衛設備の近くへ降り立ち、調査を始めた。
大前提として、全ての防衛設備には情報解析防止用の情報鍵が設定されている。そして、それらはルーカスの攻撃によって破壊されていた。
防衛システムの残滓を集め、元の情報を読み取ろうと試みる。
「ん?」
風のざわめきに紛れて、何かが空気を揺らした。それなりに遠く――けれど、距離を詰めようと思えば一瞬で詰められる距離にいる。
放っておいても良いか。敵意もなさそうだし。
それよりも、防衛設備の解析だ。これを理解し身につければ、俺の魔法技術は一段階上がる。
防衛設備に意識を向けた瞬間、目の前から防衛設備の一部が消えた。
誰だ? 誰がやった? どこに行った?
辺りには瓦礫しか――いや、今何か動いたな。
怪しいと感じた部分を注視する。
瓦礫が崩れ落ちたように見えたが、瓦礫は地面に触れる前に止まり、ひとりでに動き出した。
よく見ると、周囲より少し濃い魔力を持っている。モンスターだろうか。
そのモンスターは、瓦礫を寄せ集めたような姿だった。瓦礫の山の中で寝ていても、存在に気づくことはまずない。
そして、魔力を食う。観察していると、防衛設備の断片を飲み込んだ。他の瓦礫は食わない。
俺の敵といえるような特徴を持っているが、殺すのはやめた。
魔力を食う――本部に連れ帰れば、使えないだろうか。
もちろん、今日は持ち帰れない。なぜ魔界に行ったのか追及されても、逃れる術がないからだ。
邪気を固めて檻を作り、モンスターをその中に入れる。周囲の瓦礫にごく少量の魔力を込めて、檻の中に投げた。
邪魔されたくないし、俺が目を離している間に死なれても困る。
こいつは瓦礫にそっくりの見た目をしているし、じっとしていればそんな心配もしなくて良いのだろうが。
邪術だけの戦いには慣れている。魔法にも、初めの頃と比べたら随分慣れた。
新境地――邪術と魔法を組み合わせた戦いができるようになる必要がある。
邪術の練度に比べて、魔法の練度はごみだ。練度は後から上げて、まずは組み合わせて戦う練習を。
そう考えて、ここに来たのだが。
俺が魔界で唯一座標を知っている場所には、魔法の高等技術が詰まっていた。
というわけで、予定変更。ここの技術を吸収して、魔法の練度を上げる。
「『|理を知る《バエル》』」
邪術で一気に解析する。ちまちま解析していたらいつまでかかるか分からないし、何のために月を出したんだという話にもなる。
「ほう……使われている式のうち、ほとんどが効果に関係がないもの――本来の効果を秘匿する役割があるものか。この式は複雑に見せかけて実は意味がない……ああ、少しでも解析にかかる時間を延ばそうと」
凄い。複雑な式は組み上げるのが難しいのに、この防衛設備はそれを多用するだけでは飽き足らず、たどっていくと別の式の一部にたどり着くようになっている。
ある人間を探している時に、その人にそっくりな別人の痕跡が紛れ込むような状況、と言ったら伝わるだろうか。
この式の全貌を解析し、効果を停止するのは短時間では不可能だ。将来的にどうかは分からないが。
そして、肝心の本命の式は。
「短っ。見つかったらすぐ解析され――あ、いや、そっくりな別の式が山ほどあるから見つかりにくいのか。それらに干渉しようにも、別の式が守ってるから難しいし。でも、そっくりな式ってどうなんだ? 変な動作を起こさないか?」
複雑に絡まりあった式を解きほぐし、一本の糸に分けていく。その過程で、本来の動作にも干渉防止にも直接は関与していない式の存在が明らかになった。
それらの式の共通点は二つ。本命に似た偽の式に絡んでいる点。そして、それら偽の式を無効化している点。
「ああ、分かってきたぞ。本命は短く、単純に――周りは長く、複雑に。誤作動を起こさず干渉を防ぐには、これが一番……」
もう一度、式の全体を見る。
干渉防止用の偽の式には、やたらと情報の伝達と蓄積に関わる記述が多い。これら一つ一つは意味をなさないが、全体を繋げると――
「もしかして」
情報の収集を担う式がある。情報を収集したところで、伝達するところや蓄積するところがなければ意味がない。
式をたどる。たどって、その先にあった式は。
「……!」
情報の伝達を担う式だった。
式をたどる。情報の伝達を担う別の式に行き着く。
また式をたどる。情報の伝達を担う式が別の式に繋がり、情報が中継される。
「干渉防止でありながら、それ単体でも働きを持つ。無駄なところが一切ない」
たぶん、美しい式はこういうもののことを言うのだろう。
一つ一つは普通に見るような式でも、それが組み合わさるとまた別の意味を持つ式になる。一つのものに二つや三つの意味を持たせる。
――俺が今回解析した防衛設備の主な効果は、侵入者の迎撃。干渉防止もつき、対峙した相手の情報を収集・解析する機能もある。外部への送信機能はなさそうだ。さすがにそこまではつけなかったらしい。
美しい式を見た。それを一から解析した。
あれと同じレベルのものを作るのは無理かもしれない。しかし、俺の魔法の練度は格段に上がっている。
石が落ちる音がした。たぶん、瓦礫からだ。
その音が俺を現実に引き戻す。
空を仰いだ。月は天球の頂点を過ぎ、沈み始めている。
月が沈む頃には、俺は戻らなければならない。
残りの時間で、後一つ何か解析できるか。ぎりぎりだが、できないこともなさそうだ。
または、得た力の実戦使用の練習をするか。練習相手を見つけるのに時間がかかりそうだ。
「んー」
俺は悩んだ末に、解析を続けることにした。
地面に落ちている玉のようなものと、その発射装置。玉はいくつも落ちていてそれなりに原型を留めているのに対して、発射装置は一つしかなくぼろぼろだった。
玉の解析の方は簡単そうだ。答えがかなり見えているし、試行錯誤のための数もある。
問題は発射装置の方。答えがほとんど見えない上に、一つしかなく、他との共通点を探すこともできない。
「ああ、なるほど」
玉に刻まれた式は単純だった。触れた対象の魔力を乱す。それ以外に効果はなく、干渉防止の式も組まれていない。
数がたくさんあるから、無効化されても問題ないと考えたのだろう。
発射装置の方は、解析に難航した。無事に残っている式が一つもない。故に予測して当てはめる必要があるのだが、とにかくその作業に時間がかかる。
「こことここを繋いで、この部分を当てはめて……ぁ、いや、するとここが矛盾するか」
穴開き箇所は無数にあり、それら全てがかちりと噛み合うように埋めるのは並大抵のことではない。そのうえ時間制限もあるのだから、どこかで妥協する必要がある。
「あー、これはどっちだ? 別にどっちでも作業は進むが、違う方を選んだら絶対にどこかで詰む」
しかも作業を進めた先の詰みだ。俺は悲しみのあまり建物の崩壊を進めてしまうかも――ああ、ならあれを使えば良いか。
「『|見せろ《アモン》」
今回見るのは未来。それぞれの選択に対して、その先の俺の行動を見る。
「こっちは建物が崩れ――こっちはまだマシなまま。なるほど、こっちか」
邪術を切る。やっぱり、迷った時は未来を見て決めれば良いな。
「完全な復元は無理……でも、大体の復元はなんとか」
穴の大きさには大小がある。小さい穴はその前後の式で内容が分かることが多く、必ず復元すべきというわけではない。
よって、今復元しているのは大きい穴だ。
「待て、ここを繋ぐと魔力が同じ部分を2回通る――いや、これで良いのか。誤作動の可能性はあるが、式の数が減って装置がコンパクトに済む」
防衛設備は、魔界の技術の結晶だった。誤作動を起こさないようにしつつ、式の数を減らして小型化を図る。そのギリギリのバランスが素晴らしい。
俺が顔を上げたのは、周囲が淡いオレンジ色に染まった時だった。
太陽が地平線の向こうから顔をのぞかせようとしている。月は、沈むか沈まないかといったところ。
そろそろか。『|見せろ《アモン》』が使えないなら作業効率は半分に落ちるし、俺が本部にいないことがバレたらまずい。
まず、地獄の月との接続を切った。帰還に邪術は使えない。空間に干渉する時に、その力が漏れるからだ。
来た時と同じように、魔法で転移する。
部屋に戻った後、ベッドと毛布の間に体を滑り込ませた。
一瞬の後、誰かが扉をノックする音が響く。
間に合ったことにほっと胸をなでおろし、扉を開いた。
次章予告。
扉の先の来訪者は、ノルに告げる。
「君は、邪神とどんな関わりがあるんだい?」
加熱する空気の中、そこにいるはずのない者の声が。
「その話、私も混ぜてもらえるかしら?」
久しぶり――と言うには少し短く。
しかし、嬉しい再会。
その先に、彼は一つの選択をする。
3-1 転換
「おはよう、ノル」
「ああ、ルーカス。おはよう」
互いに朝の挨拶を交わす。本来ならそこに雑談が続くのだろうが、
「早速だけど、本題に入る。ノル、僕と一緒に魔界に来てくれないか。昨日の魔法研究の資料の件で、調査したい場所がある」
研究内容以外で、何か分かったのか。早いな。研究者本人に結びつく情報が出てくれば良いが。
そんな内心をおくびにも出さず、俺はたった一言、
「分かった」
「すまない、こんな朝早くから」
「別に。今日は早くに目が覚めたんだ」
ルーカスが申し訳なさそうに眉を下げ、
「外で待ってるよ」
扉が閉められた。
空間が歪み、転移は問題なく発動する。
俺たちは、魔界の土を踏んだ。
「邪魔が入るといけないから、結界を張らせてもらうよ」
ルーカスは言葉を言い切ってすぐ、世界への干渉を始めた。
「待て、」
焦りが小さな声で言葉になり、外へ出る。ルーカスは止まらない。俺の声が聞こえていないかのように。
何かがおかしいと思っても、もう遅く。
結界が成立し、内と外が隔てられる。空間の固定は堅く、力づくでは破れそうにない。解析し、丁寧に解除していく必要がある。
俺はルーカスの真意を理解し、ひとまず距離を取った。
「それが君の……いや、何も聞かずに決めつけるのは良くないね」
ルーカスはまっすぐな目を俺に向けた。しかし、それは仲間に向けるものとは決定的に何かが違う。
「僕の話に付き合ってくれるかな?」
確認の形式ではあれど、ほぼ命令に近い問い。何も分からないまま行動するほど愚かなつもりはない。
俺は小さくうなずいた。それを見て取ったルーカスは、
「ありがとう。それじゃあ、ノルと初めて会った時の話から始めようか」
ルーカスの意識が会話に逸れたのを見計らって、俺は結界の解析を試みる。気づかれないように、少しずつ。ゆっくりと。
「あの後、僕は研究所に戻った。調査を進める中で、誰かが僕たちのものと似た力を使ったことに気づいたんだ。痕跡がたくさん残っていたからね。あの時は、アシュトンの追跡を優先したけれど」
ああ、痕跡が残っていたか。今まで、いかに速く、正確に、大規模に発動するかしか考えてこなかった。
痕跡の隠蔽――これができれば、活動の幅も広がるだろう。
結界の解除は難しそうだ。
俺に解除されないのはもちろん、ルーカスにすら解除できない。抜け道がないのだから、結界はその分強固になる。
「僕たちはなるべく痕跡を残さないようにするから……やったのは、ノルかアシュトンだと思ったんだ」
その時はまだ確信していなかったはずだ。しかし、今こうなっているということは、あれから別の証拠を見つけたということ。
詰めが甘かったか。
次はやらないように、ここで全ての原因を特定しなければ。次があるかはともかく。
結界に限らずどんなものでも、リソースには限りというものがある。全ての機能をまんべんなく高い水準で実現するというのは非現実的だ。
全てを一ずつ上げるより、何かを大きく削って他のところを上げることの方が簡単だ。
これだけ強固な結界を一瞬で組み上げるというのは、並大抵のことではない。速さのために、確実に何かを犠牲にしている。それがこの結界の弱点だ。
「訓練場で会った時のこと、覚えてるかな?」
俺は答えない。ルーカスも答えが返ってくることは期待していないのか、すぐにまた口を開いた。
「あの時、力を使っただろう? 変な感じがしたんだ。あの場は気づいていないふりをしたけれど……昨日、君が自由に動けるようにして確認したんだ。日中は何もしなかったようだけど、夜に動きをみせた」
そろそろルーカスの話が終わる。
結界の弱点を見つけなければ。
展開速度――高速。
結界強度――鉄壁。
干渉防止――複雑。
物理耐性――高め。
持続時間――不明。
エネルギー効率――非常に高い。
ところが、どれだけ調べても弱点らしきものは見つからない。
こうなったら、少しずつ結界の解析をして解除していくしかない。結界の解除ばかりにかまけていたら戦闘に支障が出るから、解除にかかる時間はさらに長くなる。
「あの月。赤かったね。普通じゃ見られない色だ。何をしたんだろう? でも、君は僕たちに隠れてやっていた。なら、良くないことだと思っているんだろうね」
柔らかい声で紡がれる言葉は、どこまでも冷たい。
結界の解除は――未だできず。
式の数が多い。式が複雑に絡み合い、始まりと終わりを隠す。解析するのにも一苦労だ。
「はっきり言おうか。君は、邪神とどんな関わりがあるんだい? 場合によっては、力づくでも聞き出す」
ルーカスが剣に手をかける。
目つきは鋭い。俺の一挙手一投足を見逃さないようにしているかのように。
対話による和解は不可能。もう、ルーカスのスイッチが入ってしまった。
事実を話すのは論外。俺の目的からして、ルーカスたちと敵対するのは目に見えている。
かといって嘘をつくと、嘘がバレた時にまたこうなる。そうなった場合も、戦闘に一直線だ。
どの選択をしても、戦闘になるのは避けられない。
俺は邪気を魔力に変換し、戦闘態勢を整えた。
ルーカスが目を丸くする。
「その魔力、どこに隠して――いや」
剣が引き抜かれた。
「全部、力づくで聞かせてもらおう」
次回予告。
本気のルーカスに、邪術を使えないノルはだんだん追い詰められていく。
そんな戦いの中で、ノルは新しい力に覚醒した。
3-2 力の名は
3-2 力の名は
結界の内部全体に魔力を走らせる。
これまでは不可能だった、大規模で繊細な魔法。効果の設定を少しでも間違えたら、とたんに効果を失ってしまう。
あの小屋の中の資料は、俺を一段階上に引き上げてくれた。
今まで感覚で使っていた魔法を、理論に落とし込む。
現れるは紅蓮の炎。形はあるが、姿はない。
燃やすのは物ではなく、世界に干渉する力そのもの。
その性質上、炎が消えるまでは魔法を使うことができない。その代わり、ルーカスも罠を張ることはできないし、罠を張っていたとしても燃え尽きる。
結界は――駄目か。固定が強すぎる。
ルーカスの足が止まりかけ、しかしすぐにまた強く踏み込む。
速い。もう炎の性質を理解したか。
炎の幕の向こうから、ルーカスが迫ってくる。
世界への干渉ができなくなることとハッタリを効かせること以外に、この炎にはもう一つ効果がある。
――見えない。が、どこにいるかは分かる。音と空気、そして気配。それは相手も同じだが、詳細な動きは分からない。
ルーカスは右手で剣を引き抜き、両手で握った。握る時の角度はこう。剣は振りかぶらず、最小限の動きで俺を制圧できるように動くはず。
――俺ならどうする? と自分に問いかけた。俺が相手なら真っ先に狙うところ。
相手は俺を殺したいとは思っていない、なら致命的な部位は除外できる。
思考が加速する。炎のゆらめきがゆっくりになって見える。
相手の無力化……動きを封じる……移動できなく――――ああ、分かった。
俺はルーカスの動きを予想し、手を置いた。
「――っ⁉」
ルーカスの体が一瞬傾く。しかしすぐに態勢を立て直し、ルーカスは俺から距離を取った。
素手かつ魔法なしでルーカスに傷を負わせるのは厳しい。邪神に完全勝利しろと言う方がまだ簡単だ。
「なるほど。やっぱり君は、まだ力を隠していたみたいだ」
炎が消え、視界が晴れる。ルーカスは土汚れ一つなく、綺麗なまま。俺も似たようなものだが、形勢の不利を悟った。
今ここで邪術を見せれば、ルーカスとの関係は完全に破綻する。俺は、一番の攻撃手段を縛ったまま戦わなければならない。
ルーカスが消えた。スピードを上げてきたか。
俺は魔力で自分の体に干渉する。
出力上限――解放。
反応速度――最適化。
ルーカスの剣をすんでのところで避け、大きく距離を取る。
足を大きく踏み鳴らし、土を跳ね上げた。
土塊が宙を舞う。視界を塞ぐ――ことだけが目的ではない。
――土だけではすぐに壊れるか。
権限――間髪入れずに二回使うことを意識する。
剣に使われているものと同じ金属――出現。
魔力を走らせ、今できる最高速度で軽く形を作る。太さは剣と同じぐらいで、長さは両手を広げた長さより少し長い。
余った材料を、抹消。
土は――大丈夫、まだ視界を塞いでいる。
手に握った棒の長さを整え、密度が均一になるようにした。
最後に土から作り出したふうに装い、完成。
ルーカスは視界が悪いことなど気にしない。
俺の位置が正確に分かっているように、剣を迷いなく突き出してくる。――「分かっているように」ではない。分かっているのだ。
世界の情報を見ているな。
視界を切り替える。世界の情報を読んで、相手の次の動きを予測する。
ああ、世界が鮮明に見える。
相手の一挙手一投足、意識を集中している場所に至るまで、手に取るように分かる。
揺らぎ。ルーカスが世界に干渉しようとしている。
何の気なしに、揺らぎに魔力をぶつけてみた。
「……へぇ」
揺らぎが消える。
ルーカスが俺を見た。気づかれたな。
だが問題ない。俺が取り得る行動――選択肢をルーカスに認識させ、行動に迷いを生じさせることができればそれで良い。
見せる手札と伏せる手札。さらに存在しない札が手元にあると見せかける。
駆け引きとはそういうものだ。
「……悪い癖だ。少し、遊びすぎてしまった」
ルーカスの声が耳に届いた瞬間、
――空気の圧力が、一段階深みを増した。
「――はっ?」
叩きつけられる選択肢。
剣。情報の改竄。足元の崩壊。拘束。
一つ一つの対処は容易でも、全てを同時に済ませるのは無理だ。魔力で打ち消されるのを警戒しているのか、今回は力をかなり使っている。
干渉力。研究――新しい力。魔力を圧縮して、一つ上の力に昇華する。
「あははっ!」
笑い声が漏れる。
ああ、そういうことか。知識が深化し、理解へ進化する。
俺が今まで使っていたのは、この力の劣化にすぎない。
世界の揺らぎ――全てに補填。安定な状態に戻す。
剣はどうとでもなる。適当に流した。
結界の解除――いや、良い。強度は十分。力の制御はするつもりだが、俺自身ですらも全貌が見えない力、制御を誤ることは十分あり得る。
世界を塗り潰す。再現するは命を殺すための邪術『|滅びろ《アイム》』。
炎の滴が一滴落ちる。狙い撃つはルーカス、ただ一人。
ルーカスは阻止しようと世界に干渉し、競り負けて、驚愕の表情のまま――
――空間が燃えた。
邪気の残量を確認する。残り半分を切っていた。魔力とは比べ物にならないほどの消費速度、燃費の悪さ。
どれだけ力を注いでも一つの抵抗もなく受け入れてくれる。術を発動するという点においては、間違いなく一番の使い勝手。
力を注ぐ先は、何もない空虚な空間。そう錯覚する。
名付けよう。この力の名は――
『虚無』だ。
勉強していました、すみません。
魔力を燃やす炎のアイデアはリクエスト箱からいただきました。随分前のことですが、ありがとうございます。
次回予告。
新たな力に覚醒したノルと、ルーカスの戦いは激化していく。
このままノルが押し切れると思われたが――本気を出していないのは、向こうだって同じだった。
「今度こそ、一撃で削り切る。殺しはしないさ。聞かなきゃならないことがあるからね」
次回、3-3 刹那の攻防
3-3 刹那の攻防
結界の解除に取り掛かる。
半端な防御は容赦なく蹂躙。
堅い防御はある程度の手順を踏んで解除していく。
やはり力だ。力があれば、精密な手順を踏まなくても良い。
完璧な解析と解除は必要ない。八割力技で、残りは理論で埋める。
結界の解除に必要な時間が大幅に短縮されそうだ。今日中には出られるだろう。出る頃には疲労困憊だろうが。
「許可申請……省略。限定顕現。後で怒られるなぁ」
この声は――殺し切ったと思ったのに。
なぜ、どうして、どうやって。
待て――限定顕現? 何を召喚した?
「『|守れ《ラファエル》』」
困惑する俺の思考をよそに、ルーカスの声は淡々と畳みかけてくる。
「今度こそ、一撃で削り切る。殺しはしないさ。聞かなきゃならないことがあるからね」
ルーカスが力を高める。
まずい。まずいまずいまずい。俺の力の残りは半分。『権限』ではエネルギーに干渉することができない。本気でやって対抗できるか――せめて逃げられるほどではありたい。
急いで結界の解除を! 早く、距離を取らなければ!
「くそ、なんでこんなに堅いんだ。力技は受け付けないって? 勘弁してくれよ」
俺が泣き言を言っている間にも、攻撃の瞬間は着々と近づいている。
結界の内側からの解除条件は時間経過のみ。外側に至っては観測すらできない。
時間経過を感知するセンサーは数が多く、その全てをごまかし切るのは厳しい。
全てのセンサーが感じる時間経過が寸分違わず同じでないと解除されないようになっている。
猶予は数秒。十秒もないかもしれない。
今から時間センサーの全てを騙すのは困難だ。
結界を一から解体していくことの方がもっと困難だが。
時間経過を一日後に設定――反応なし。
二日後。駄目か。
三日後。反応あり。
三日後――つまり、七十二時間後。
さすがに大雑把すぎる。結界は健在。
四三二〇分後。反応なし。
あ、待て。四三二一分後は違う。四三一九分後も違う。
合わせるのも難しくなってきた。それでも、これができなければ詰む。今死ななくても、全てを洗いざらい喋らされたら終わりだ。
二五九二〇〇秒後。違う、二六〇〇〇〇秒後じゃない。ああ、減らしすぎた。二五八四〇〇秒後でもない。
攻撃の到達まで、後七秒。
増やす……減らす……もっと細かく微調整して――全てがかちりと噛み合った感覚。
今は違うが、間違いなくさっきの一瞬は全てが二五九二〇〇秒後を指し示していた。
それでもなお、結界は解けない。
求められるのは、小数点以下の精密さ。
集中のギアを一段階上げる。俺ならできる。
攻撃の到達まで、後六秒。
小数点以下の領域で、数字が上下を繰り返す。許容範囲に入って、外れて。それを幾度も繰り返し、徐々に整えられていく。
近づく。あともう少し。許容範囲に踏み込んだ。これで後一つ。ああくそ、今ので気が緩んだ。後三つ。やり直しだ。
自分が何を考えているのか理解する前に答えをはじき出す。先へ進む。
攻撃の到達まで、後五秒。
集中を保ちながら、感情をゼロに寄せる。
後一つ――全てが合った。駄目か。結界は応えない。
攻撃の到達まで、後四秒。
駄目なら、その先を試すだけだ。
さらに精密に、数値を合わせろ。
俺の手の中で、数字が暴れ狂う。少し動かそうと思っただけなのに、大きく動いてしまうこともしばしば。
大きく? 一秒の領域では何も変わっていない。感覚がずれてきた。
攻撃の到達まで、後三秒。
集中。手の震えすら許されない、極限の精密作業。息を止めて熱中する。
その甲斐あってか、段々と俺の理想とする値に近づいてきた。
指先一つで数値が大きく変わる。近づいて、遠ざかって。多すぎる。足りない。
平均を取れば、目的とする値が取れるのだろうか。
しかし、俺が求めているのは平均ではない。全てが横並びで、俺が求める数値と寸分違わず同じ数値。
平均を取れば同じだが、その中身は大きく違う。
ああ、無駄な思考が増えてきたな。
攻撃の到達まで、後二秒。
体感時間が引き延ばされる。
もう無理か? どれだけ細かくして合わせようとしても、センサーはそれを許してくれない。
諦めて、身を守る準備を固めた方が良いのでは? 今からでも、本気でやれば間に合う。大ダメージを負うことは避けられないが、死ぬことはないだろう。相手にその気がないわけだし。
おい、「本気でやれば」? これも本気だろう。本気でやれば間に合うのなら、こっちをやりきれ。
駄目だ、本当に間に合わなくなる。
力は半分残っている。半分もあればほとんどなんでもできる。
結界の仕組みを真似る。持続時間が極端に短く燃費が悪い代わりに、強度は最高。誰にも解除できない。
結界の解除はできなかったが、仕組みはある程度理解できた。他の機能を犠牲にして一点特化型にすれば、十分使えるはず。
攻撃の到達まで、後一秒。
思考を形成する間もなく、無意識が結界を組み上げる。
展開速度――一秒。
結界強度――最硬。
干渉防止――最低限。
持続時間――三秒。
エネルギー効率――最悪。
それは、俺たちを取り囲む結界の劣化コピー。一瞬だけしか使えずエネルギー効率も悪い代わりに、その硬さだけは保証されている。
攻撃の到達まで、後――。
静寂が俺の耳を|穿《うが》つ。
解放感。俺たちを外の世界から隔てていた結界が、綺麗さっぱり消え去っていた。
一体誰が。どうやって。
「二人とも、待て、止まれ」
「なぜここに」
俺の口から、ほとんど反射的に漏れ出た疑問だった。
「……兄さん」
ルーカスが小さく呟く。
「まあ待てって。俺から話せることは全部話す。だからルークも経緯を全部説明しろ。良いか?」
ルーカスは肯定の返事こそ返さなかったが、否定もせず、ただフィンレーを見つめていた。
「んじゃまず、止めさせてもらうぜ」
フィンレーが上を指差す。その先を目で追うと、青い光を纏った太陽が頭上で輝いていた。
俺の直感が囁いている。アレは、俺の月と同じだと。
それなら、ルーカスの力が跳ね上がったのにも説明がつく。
「あー、どっから話すべきかな。とりあえず、俺はノルのことになんとなく気づいていた。確信は持ってなかったがな」
それは知っている。そうでもなければ、あんな言葉をかけるはずがない。
ルーカスの目は「なぜ?」と問いかけていた。
なぜ言わなかったのか。なぜ排除しなかったのか。
もしかしたら、俺の力が何なのかも問うているのかもしれない。
「ノルは俺たちの理念に賛成してくれた。だから――」
「だから、何もしなかったと?」
フィンレーの言葉を遮り、ルーカスが聞く。
「そうだ。現状、俺たちに敵対する気配はねぇ」
「兄さんはノルの力をちゃんと見てないからそう言えるんだ」
フィンレーが目で続きを促す。
「あれは僕たちとは真逆の力。あの時の空に浮かんでいたのは、話に聞く地獄と同じ月だった」
「それがなんだってんだよ。別に良いじゃねぇか。ノルは何もしてない」
「僕たちに隠れて魔界に行っていた」
「魔界に行くぐらい良いだろ。俺たちだって行ってる」
フィンレーとルーカスの口論が加熱していく。
もしこの口論の結末が、ルーカスの主張を通すものだったら? 俺の立場は相当危うくなる。
仮にフィンレーが勝ったとしても、組織内での俺は不安定な立場になるだろう。
どちらに転んでも、俺は不利になる。今のうちにそっと逃げ出そう。
「何をしているかが問題なんだ。僕たちはそれをちゃんと知らない。だから知る必要がある」
「そんなこと言ってたら俺だって話してねぇことがあるじゃねぇか」
「……なら話してくれるのか?」
「駄目だ」
ルーカスはため息をついた。
「結局そうなる。でも、兄さんは良いんだ。僕らのために行動してくれていると分かるから。ノルは違う。まだ一緒にいた時間が短い。どんな力を持っているかも、どんな目的を持っているかも知らない」
「直接聞けば良いだろ? わざわざ不意打ちみてぇな真似する必要はねぇよ」
「確実な状況で聞きたかった」
俺を擁護するフィンレーと、追い詰めるルーカス。分かりやすい構図だが、最悪なことにどちらが勝っても俺は不利になる。
フィンレーとルーカスは互いに集中している。俺への警戒は多少外れたか? いや、そう見せかけているだけかもしれない。迂闊に動くのは危険だ。
逃走経路の確認だけはしておこう。いつでも逃げられるように。
転移――無事に空間は繋げそうだ。どこに行くのかは未定。
離れる――辺りに遮るものはない。そのまま逃げたところですぐ捕捉されて終わりだ。
空――いずれ力尽きて落ちる。逃げる手段としては不適。
こんなところか。現状、最も逃げられる可能性が高いのは転移。後はどこに繋ぐか。
人間界。行って、どこに逃げるんだ? 地の利は相手にある。やめておくべきだ。
魔界。悪くない。アシュトンに遭遇する確率が上がる。戦力が整っていれば、積極的に戦いに行きたい。
「ノル。教えてくれねぇか? どんな力を持っているのか、何が目的なのか」
フィンレーが優しい声音で聞いてくる。
くそ。せっかく俺への意識が逸れたと思ったのに、また集まってしまった。
「大体ルーカスと同じだ。ちょっと制限がついてるけどな。目的……は変わらねぇよ。|魔神《アイツ》の対処法を見つける、あと魔獣を消滅させる」
嘘はついていない。大分はぐらかしたが、まあ察してくれるだろう。
「なんで、あんな禍々しい力を」
ルーカスの質問に俺は、
「答えられない」
なるべく敵意を感じさせないよう、穏やかな声で言った。
「そうか。僕はそれが知りたかったんだけどな。答えられないなら――」
ルーカスが世界と一体になる。情報を読んで、操って、俺を殺さない程度に痛めつける準備を整えていく。
俺も戦闘態勢を整える。今は世界に干渉できないから、腰を低く落として肉弾戦の構え。
緊張感が高まる。
お互いの一挙手一投足を見逃さないように、相手に集中。自分の唾を飲み込む音さえ、大きな雑音になった。
一触即発の俺たちに対してフィンレーは、
「ちょ、待て待て待て! さっき俺が何のために止めたと思ってんだ! やめろやめろ! 仲間内で争ってどうすんだ」
慌てた様子だった。フィンレーの言い分にまあそうかと納得し、緊張が緩和される。
「ルークも一旦止まれ」
フィンレーに言われ、ルーカスはしぶしぶ攻撃の準備をやめた。
「僕は許容できない。身内に得体の知れない力を持つ者を入れることが」
「俺は別に良いと思うけどな。敵対さえしなけりゃそれで良い。でも、俺たちだけでノルの処遇を決めるのも違うだろ? 本人に聞かねぇと」
「そうだな」
会話の流れが俺に巡ってきたのを感じた。
これは、またとない千載一遇のチャンス。俺の思う通りにできる最初で最後の機会。
フィンレーたちと一緒にいれば、主神に近づくチャンスがあるかもしれない。
アシュトンの仲間のふりをして、隙を見てモンスターを殺していくのも良い。
邪神との約束か、俺の目的か。邪神との約束を優先すべきなのは分かるが、今回の騒動で主神と接触する機会は絶たれたに等しい。
かと言って、組織を去るのも即断しづらい。なんだかんだ言って、フィンレーやルーカスは強いし、あそこも良いところだった。
「その話、私も混ぜてもらえるかしら?」
おぼろげな記憶の中の、聞き覚えのある声が耳を撫でた。
俺も、フィンレーも、ルーカスも動きを止める。その時だけは、世界の全てが停止しているようだった。
「……ティナ」
彼女の名を呼ぶ。
「久しぶり……と言うには、少し短いかな」
「詳しく話を聞こうか」
再起動を果たしたフィンレーが口を開いた。その目は身内に向けるものではなく、他人に向けるものだった。
「ノルを連れてくるようにアシュトンから頼まれたの。団長も、構わないでしょう?」
「俺の立場から、許すわけにはいかねぇな」
フィンレーは静かに敵意を高めていく。
「どうする? 戦うか?」
横で、ルーカスが剣に手をかけた。
「やめておくわ。勝ち目がないもの」
ティナが手を挙げて降参の意を示す。そのポーズのまま、俺の近くまで歩いてきた。ちょうど背中合わせになる位置だ。
ティナの周りに魔力が集中した。
フィンレーが攻撃の準備を整える。発動に要する時間はコンマ数秒。
「ごめんなさい。まだ私、魔力をうまく扱えないの」
だから、他の人の力を借りて転移する必要があって――と、ティナは申し訳なさそうに言った。
「それじゃあ、また会う日があれば」
ティナは手を振りながら、空間の穴に消えていった。
「……ありゃ駄目だな。完全にアシュトンの仲間になっちまってる」
「出会い次第捕縛、事情聴取へ対応方針を変えようか」
「ああルーク、それで頼む」
「了解した」
フィンレーとルーカスは状況を瞬時に受け止め、対処していく。俺は組織に残るか組織を離れるかで悩み、突っ立ったままだった。
「さて、ノル。どうするか決めたか?」
この世界は主神に有利になるようにできている。アシュトンたちとフィンレーたちで比べれば、フィンレーたちの方が有利。
フィンレーやルーカスと敵対するのと、アシュトンと敵対するのを比べれば、前者の方が避けたい。
だから、ひとまずは、
「このままここにいるよ」
「そうか。これからもよろしくな」
そう言って、フィンレーはニカッと笑った。
次回予告。
ルーカスとの対立があっても、世界はいつもどおりに回っていく。
今回の出来事をきっかけに、ノルは自分がやりたいことについて考え直していた。
そんな中で、怪しい呼び出しを受ける。
「私たちの目的はただ一つ。魔神を倒すこと。魔神はご存知ですか?」
次回、3-4 改編
3-4 改編
――事件が起きても、世界はいつも通り回る。たとえ組織の副団長と敵対しかけても。
すれ違う人は俺を気にしないか、顔見知りなら挨拶してくれる。どこにも非日常の気配は感じない。
夜、カーテンを閉じながら、俺はこれからの日々について考えた。
主神に会う。会って、一発殴る。その後、元気か聞く。邪神との約束はできる限り守りたい。
そうしたら、魔神に対処する。倒せなくても良い。永遠に解けない封印をかけるとか、起動条件を把握して絶対に起動しないようにするとか、他に方法はいくらでもある。
そうして、世界から脅威を取り除いて――俺は、何をしたいんだろう。
ふと、そんな疑問が頭をよぎった。
天井に手を伸ばす。いくら手を伸ばしても、天井は掴めなかった。
「――っ」
魔力が俺の周囲に展開される。空間がねじれ、つながるはずのない場所がつながった。
俺の体が自動で転送され始める。転移先は魔界。
今ならまだ、転移を止められる。書き換えられた座標を元に戻してやれば良い。
しかし、俺の魔力は動かなかった。
――楽しそうだな。
そう思ってしまったから。
何が起こるか分からない未知の場所。転移した先には、一体誰がいるのだろう。
ワクワクが止まらない。
今の状況で俺が姿を消すのは悪手だ。ルーカスの疑念を加速させてしまう。
それでも、たまには何も考えずに動きたい。
俺は、転移させようとする力に身を委ねた。
◆
「お久しぶりです。呼び出しに応じていただけて助かりました。フィンレーの元に行くのは自殺行為ですから」
「帰る」
「お待ち下さい!」
なんで何も考えたくないのにこうなるんだよ。俺は邪神との約束も俺の目的も全部忘れて、全く未知の状況を楽しみたかっただけなのに。なんでアシュトンがいるんだ。
周りには当然のようにモンスターがいる。
力は少しだけだが回復した。効率を考えて動けば、十分|殺《や》れるはず。
脱力。倒すのに最適な順番を考える。決めた。
最初の獲物に向けて一直線に地面を蹴る。
頭を吹き飛ばした。これで一体。
続けて、横並びになっている二体へ狙いを絞る。心臓を抜き取った。
四体目、首筋を狙う。首を掻っ切るのが狙いだ。
ところが俺の手が届く寸前、モンスターは消えた。
アシュトンは胸を撫で下ろしている。
「被害は三体……戦闘データと引き換えと考えれば、安いでしょうか」
冷静な判断ができる辺り、感情に振り回されているわけではなさそうだ。
「話は聞こう」
両手を挙げ、武器を持っていないことをアピール。
俺の前からモンスターを消したことに、俺と対話または交渉する意図を明確に感じた。話を聞くぐらいはしても良いだろう。
「ありがたい。さて、どこから話したものか……最初から……いやフィンレーがどう言うか。うん、彼はどうせ幹部候補だし良いでしょう」
アシュトンは小さくつぶやき、思考を整理する。何か引っかかる単語が聞こえた気がしたが、よく聞き取れなかった。
「前提から話しましょう」
アシュトンはたっぷり一呼吸おいて、
「私たちとフィンレーたちは裏でつながっています」
は? じゃあ、あのルーカスとの会話は? 全て茶番? アシュトンたちと敵対して、モンスターを倒したのも――全部?
裏でつながっている――何の目的で? 世界の支配なんていう目的なら、フィンレーとルーカスで達成できるはず。
一番可能性が高いのは、やはりフィンレーが見せた魔神だろう。あれは個人でどうにかできる代物ではない。
それなら、なぜ組織を分けた? 表立って一つの組織として活動した方が動きやすいのではないか。
前提が崩れ、世界は一変した。
その動揺と混沌を飲み込んで、俺はアシュトンの話の続きを待つ。
「私たちの目的はただ一つ。魔神を倒すこと。魔神はご存知ですか?」
「ああ。フィンレーに見せてもらった」
「あれを放置してはいけません。世界の滅びを招く――私たちの長とフィンレーはそう考え、それぞれの組織を設立しました。
私たちは魔界を、フィンレーは人間界をそれぞれ支配し、魔神を倒すための手立てを探っていくことになりました。それが現在です。ご理解いただけましたか?」
「ああ、しっかりな」
「それを踏まえて伺います。私たちに協力して下さいますか?」
フィンレーではなく、アシュトンの方につく。その意味……本質的には同じ組織なのだから、所属を変えても理念は変わらない。
それでも所属を変える意味――俺の自由度? フィンレーの元ではどうやっても自由に動けない。アシュトンの元でもそうだろうが、魔法も自由に使えるし、邪術だって隠す必要がない。もう見せているからだ。
アシュトンの勧誘の意味を理解し、答えを述べる。
「この先、モンスターを一切使わないなら」
自分の要求を包み隠さず伝えた。これで駄目ならそれまで、やる気があるなら考えても良い。
「…………それは、私の一存で決められることではありません」
「ならやめだ。この先、お前らの言う長が直接出てくるまで、俺はお前らの交渉には応じない」
「そこをどうか! すぐにとは言えませんが、あなたの望む通りになるよう努力します。ですから、考えていただけませんか」
「駄目だ。俺は譲歩した。本来なら迷わず敵対しているところだが、その目的に免じてな」
アシュトンは歯噛みして、
「数日……いや三日。三日以内に結果を出します。我々の組織に加入していただけませんか、『ノル』」
ノル。アシュトンのその言葉を聞いた瞬間、俺の心がざわついた。俺の深いところを無断で覗かれているような……本能的な不快感。
俺は即座に自分自身の情報へアクセスした。
――名前を媒介して、俺の中の『ノル』という領域に保存されている情報がいじられている。
俺の決定が書き換えられ、人間性が穢れていく。
まずい。書き直さなければ。
「ぐっ」
堅い。まるでこのために何年も時間をかけてきたかのような硬さだ。魔法じゃないな。となると、虚無か? あの資料を書いたのは、アシュトンの組織の者の可能性もある。
効果が現れるまでの時間も非常に短く、一瞬で解除するのは無理だ。
月が顔を出した。――緊急接続。
『俺』という存在が奪われないためには、『ノル』ごと消してしまうしかない。
俺が使う邪術は、全て他の誰かが使っていたものを簡単に扱えるようにしたものだ。切り取るところを変えれば、真逆の性質を現すこともある。
――邪術『|名付け《フォルネウス》』改編開始。
元の効果は、名前を付けることでそれまでとは隔絶された新たな領域を作ること。
名前で領域を縛ることはそのままに、作ることと消すことを反転させる。
「できた――後は」
己の手のひらに文字を刻みつける。
「タイムリミット……『|名はいらない《フォルネウス》』っ!」
消去するのは『ノル』に記録された全ての情報。そして、アシュトンからの干渉。
俺の記憶はティナと出会ったところまで巻き戻り、そして――
「干渉が断たれた……? 一体なぜ」
俺は手のひらに痛みを覚えて、そこに刻まれた文字を目にした。目の前に立つ初めましての相手に、警戒しながら声を掛ける。
「お前は誰だ?」
男は、戸惑った表情のままなかなか答えない。
答えを待つ間、俺は手のひらの言葉の真偽を確かめるため、邪神の権限を使って俺についての情報を閲覧した。
確かに、『俺』という領域には大きな情報が保管されていた痕跡がある。手のひらの文字が本当なら、もう一つ領域があったのだろう。
前半は嘘ではない。では後半は?
――『名前を消した。そいつは敵だ』
そう刻んだのは、本当に前の俺なのか?
次回予告。
ノルが『ノル』として定義される前、まだ名無しで、ティナと出会って『ノル』と名乗り始めた頃までの記憶を残して、『ノル』は消え失せた。
右も左も分からない中で、アシュトンとの会話は続く。
「私はアシュトンと申します。あなたを組織に勧誘するために参りました」
次回、3-5 それぞれの信念
3-5 それぞれの信念
「ノル……じゃないわね。あなたは誰?」
鈴を転がしたようなティナの声が静かに届く。
俺はその問いに答えあぐねた。俺の答えは、ティナが求めるものとは絶対に違う。
けれど、答えを返さないのはもっと駄目だ。俺たちの関係が壊れる気がする。初対面の相手に何を思っているのか、という話だが。
俺の記憶は、ティナが店を飛び出したところで途切れている。
「分からない。俺はティナが何者なのかも、俺が何をしてきたのかも、俺はなぜここにいるのかも知らない」
それを聞いて、ティナは目を伏せた。
反対に、男はようやく状況を掴んだのか口を開く素振りを見せた。
「私はアシュトンと申します。あなたを組織に勧誘するために参りました」
名前を聞かれることはなかった。
「組織?」
「世界を滅ぼす魔神を倒すことを目的にしています」
世界を滅ぼす魔神? 本当にそんなものがいるのか? いたとしても倒せるのか。
俺にはアシュトンが本当のことを言っているか判断をつけることができない。
「……俺は自分の目で見たものしか信じない。もし本当にそんなものがいるのなら、見せてみろ」
「……」
アシュトンは黙り込んだ。
たっぷり十秒後、再び口を開く。
「良いでしょう。どうせあなたは幹部候補だ」
俺が幹部候補? 前から俺のことを知っていたのか。
前の俺は一体何をしていたんだ。残してくれたヒントはたったの二文。これだけでは、到底追いかけることはできない。
「今から転移します。付いてこられますか?」
「当然」
アシュトンが組み上げた式を読み取り、『|転移《バティン》』に応用する。
この程度ならわけない。なぜか、地獄を出た時よりもこういう式についての理解が深まっていた。
転移すると、濃密な気配を感じた。悍ましいものが肌に直接触れているような感覚。
その気配は、岩窟のずっと奥から感じられる。アシュトンが奥へ歩を進めたのを見て、俺も覚悟を決めた。
「ぉっと」
入口付近で伏せていたモノにつまずきかけた。
体勢を整え、改めてそれを見る。
なんとなく嫌な感じがした。生物として見ると、歪みが目につく。
俺は反射的に首を切り落とそうとして、
「失礼。私の飼い犬です」アシュトンに止められた。
「悪い」俺は殺意を引っ込めて、先に進む。
二人分の足音が不規則に響く。ティナはいなかった。
俺は目の前の岩の柱を避けると、アシュトンに尋ねた。
「ティナは?」
「彼女は、まだその資格を持っていない。本来はまだ加入すらしていない相手に見せられるものでもありませんが……」
そこでアシュトンは言葉をまとめた。
「力というのは、それだけ重要だということですよ」
「確かに、力はどれだけあっても足りないように思える」
俺はその言葉を一旦肯定した上で、
「だが、力だけに縛られていると不自由だ」
地獄から出てきた時のことを思い出した。
俺は、ここではどうやっても全力を発揮できない。そればかり考えていると、絶対に人生を楽しめない。
だから、力が全てではない。そう考えなければならない。
「その考えに逃げてはならない時だってあります」
「何も考えずに力を盲信するのも同じくらい愚かだと思うが?」
力は目的ではなく、手段だ。にもかかわらず、力を求めることを目的としている連中は存外に多い。
手段と目的を取り違えないこと。そうすれば、うまくいかない確率はぐっと下がる。
「私たちは魔神に対して無力です。力以外の手段を模索できる域に達していない」
だからあなたが必要なんです、とアシュトンは言った。
アシュトンが足を止める。それに|倣《なら》い、俺も足を止めた。
「着きました」
進んでいくごとに、圧力が強くなる。
ずっと感じていた気配が深化した。
肌に触れる程度から、内蔵を素手で撫でられるような悍ましさへと。
ここに在る。そう直感した。
「こちらです」
そう言われる前から、知っていた。
それは、腕だった。様々なものが混じり合った黒に染まり、何かを掴もうとしている。
違う、黒ではない。よく見れば、赤や青、黄の色がある。それら一つ一つが互いを|穢《けが》しながら、その腕は存在していた。
「見ての通り」アシュトンは魔神の腕に触れてみせる。「魔神の腕には触れることができません」
だから、こちらから何かをすることもできない。その代わり、魔神の腕が今すぐ何かをしてくることもない。
「信じていただけましたか?」
俺は悩んだ。アシュトンが求める答えは、俺が奴の勧誘にうなずくこと。
しかし、俺は素直にうなずきたくない。別に嫌がらせってわけでもないが、俺はこのままアシュトンの組織に加入して良いものか迷っている。
この岩窟に入ったばかりの時、俺はそこにいたモノに間違いなく嫌悪感を抱いた。あれは世界にとって不自然なものだ。
「さっき……入口にいたな。あれを最低限俺の目の前では使わないというなら入っても良い」
「入口……ああ、模擬魔獣のことですね」
アシュトンは一瞬考え、「あれは戦力として重要な存在ですからね。あなたが同等以上の力を発揮するというなら、可能でしょう」
「アシュトンが使う力。それが使えるようになれば」
「良いでしょう。この先、あなたの前では模擬魔獣を使わないと約束します」
本音を言えば世界からいなくなってもらいたいが、それを言ってもどうにもならない。俺だって魔神をどうにかしたいし、組織に所属することの必要性は理解しているつもりだ。
「私たちの拠点にご案内しましょう。話はそれからです」
アシュトンに続いて、俺も転移した。
次回予告。
それは、運命なのか。ノルにはその記憶がなく、運命か否か論じることはできない。
しかし、そこで会ったのは、紛れもなく会ってみたいと思っていた人物だった。
「――素晴らしい。魔法の発動はスムーズで、魔力の流れも淀みなく、威力も十分。これなら今からでも実戦で使える。まあ、俺の研究に付き合ってもらうが」
次回、3-6 魔法の「初心者」
3-6 魔法の「初心者」
「小屋?」
俺たちが転移したのは、年季の入った小屋だった。少なくとも、拠点という感じはしない。
「ええ。とても拠点だとは思えないでしょう? だからですよ。他者の目を欺ける」
小屋の中には、小さな机と椅子があった。
「座ってください」
「ああ」
アシュトンが勧める通りに椅子に座った。小さく、木がきしむ音がする。
「まずは魔法を使えるようになっていただきたい。以前の……あなたは、人より早く魔法を使えるようになっていました。きっと、今回もすぐに使えるようになるはずです」
アシュトンが魔法を実演して見せる。
アシュトンの手の中で、水が気体から液体へ、液体から固体へ状態変化した。
魔法を使うにはそのためのエネルギーがいる。今ので、それがどんなものなのか大体分かった。魔界に満ちているものと同じだ。その辺にある力をうまく使えば、たぶん魔法が使える。
「こんなもんか?」
水蒸気を一気に凍らせ、きらきらとした氷の粉を降らせた。
魔法を使うための力――名付けて魔力か。
後は魔力を自分で作れるようになれば完璧だ。
たぶん、前の俺はそこまでやっていた。でもなければ、邪術が使えない状態で積極的に戦おうとしない。
俺は地獄の月との接続を切った。なぜかは分からないが、邪気の量がかなり減っている。魔法という戦うための手段も手に入れたし、邪気は温存しておきたい。
「――素晴らしい。魔法の発動はスムーズで、魔力の流れも淀みなく、威力も十分。これなら今からでも実戦で使える。まあ、俺の研究に付き合ってもらうが」
そう言って現れた男は、俺にずんずん近づいてきた。
俺がさっと距離を取ると、アシュトンが俺と男の間に入った。
「待ちなさい、ヒューゴ。まだ説明や顔合わせが済んでいませんよ」
「全員が同時に揃う日がいつある? 年に一度程度だろう。顔合わせで時間を無駄にするのは、俺が許さん」
ヒューゴと呼ばれた男は、冷たい声で反論した。
「説明が、」
「俺がする」
アシュトンの言葉を遮って、ヒューゴは自分の考えを言いきった。
アシュトンはため息をついて、重たい口を開く。
「……分かりました。ただし、条件があります」
ヒューゴは無言で続きを促した。時間が一秒、また一秒と過ぎる度に、その目つきが鋭くなっていく。
「彼の魔法技能を伸ばすこと。それがじょ――」
「分かった。行くぞ」
「ぇ」
アシュトンが言い切るのすら待たずに、ヒューゴは俺を巻き込んで転移した。
「っとと」
足元にある紙を踏まないように足を上げると、バランスを崩しかけた。
「足元は気にするな。全て単なる落書き、本当に重要なのは机の上にあるものだけだ」
ヒューゴが慣れた様子で歩き、机の上の資料に手を伸ばす。
それに伴って俺の視線が上に上がると、今いる場所の全容が見て取れた。先ほどと同じように、特別なところは何もない普通の小屋。中にあるのは寝床、机と椅子、床や机の上に紙。
「先ほどの魔法を見たところ、魔法を使うのに不慣れなようだな。あれだけのものを使えるのに奇妙なものだ」
口を動かしながら、ヒューゴはそれ以上に素早く机の上の資料を漁る。目的のものを見つけたのか、彼はお喋りをやめた。
「初心者用だ。魔法の使い方を簡潔にまとめている」
ヒューゴが俺に渡したのは、薄い紙の束だった。左上が軽く留められている。
パラパラとめくってみると、なるほど、確かに初心者用と言うだけあって図が多く、分かりやすそうだ。
「日が昇るまでに頭に入れろ。今日やるのはその先だ」
「分かった」
返事をするや否や、俺は資料に集中した。意識の一部を周囲に向け、それ以外を資料に向ける。
「ふむ。魔法とは、世界の一部を書き換える力……噛み砕くと、変えられるところを自由にいじれる力ってところか」
専門用語はほとんど使われておらず、読み進めるのは難しくなかった。ただ、それと理解できるのとは話が別で。
「魔力さえあれば世界が見える。世界の移り変わりによって刻々と変わっていく値、それを書き換えるのが魔法……俺、魔力とか分かんねぇ」
俺は周囲の魔力を取り込んで魔法を使う。故に、周囲に魔力がほとんどない場所に行けば、俺は魔法を使えない。
ここで魔法を発動させようと思っても、全く発動する気配はなかった。ここは魔力がない場所――人間界であるらしい。
端的に言えば、俺は魔力を持たない。だから、魔力が何かを分かっている相手にする説明をされても、理解できない。
基礎の基礎が抜け落ちている状態だ。
ヒューゴがここへ転移してきたので、良質な手本は見られたが。でも、一度だけでは心もとない。
資料を隅から隅まで眺めてみても、魔力の生み出し方に関する記述は出てこなかった。
魔力があることは前提だ。魔力がなければ魔法は使えないし、魔力を持たない者が外の魔力に干渉できることはない。俺という例外がある以上、基本はと付くが。
魔力も邪気も、世界を書き換えるという点では同じ力だ。違うのはその強度、持続力。
ならば、邪気から魔力を精製できるのではないか?
邪気をひとつまみ取り出す。必要なのは、世界を書き換える力を薄めたものだけ。それ以外は捨ててしまっても構わない。
世界を書き換える力。邪気には、それが高い密度で含まれている。この密度を下げれば、魔力のような力になる――というのが俺の予想だ。
圧縮解除。その瞬間、取りだした力が一気に広がった。見覚えのある力。成功だ。
「環境による魔法の成功率や消費魔力の変化……乾燥した場所で水を取り出す魔法を使っても、失敗しやすいし消費する魔力も多くなる。そして、取り出せる水の量も少ない、か」
まあ、当然のことだな。無から有を生み出すことはできない。俺の邪術で何かを生み出したように見えた時でも、それは一時的なものだ。本当にそれができるのは、神ぐらいだろう。
乾燥したところで湿気の多いところと同じ効果を出そうとすれば、より広い範囲から水を集める必要がある。
「魔力密度による魔法の持続時間の変化……魔力密度が大きかったら持続時間が長くなるってことか」
あれだけの数の資料があるのだ。かなり専門的な研究をしているはず。
初心者に分かりやすいよう、専門用語を避ける配慮をしてくれたのはありがたかった。
「模擬魔獣使役時の魔法行使について。ほう、模擬魔獣が死んだ後は体を構成していた魔力が散るのか。それをうまく利用すれば、人間界でも自分の魔力を消費せずに済む――ちっ、時間が経たないと散らないのか」
俺はアシュトンとの契約で、模擬魔獣を連れないことになっている。だからこの話は関係ない。覚えておく必要はないが、知識はあって困るものでもない。一応覚えておこう。
資料の大半は、魔法のことを何も知らない人間がすぐに魔法を使えるよう、あらかじめ組まれた魔法で埋められていた。この通りに魔力を動かして世界に干渉すれば、よほど下手でない限り魔法が使える。
資料を一読し、取りこぼした知識がないかもう一度読み返して確認する。
なさそうだ。
「終わったぞ」ヒューゴに報告する。
「ふむ。早かったな」
ヒューゴが窓の外を指差すと、ちょうど日が昇るところだった。
空が白み、夜の闇が光によって切り裂かれる。
「見ろ。ちょうど夜明けだ」
視線を下の方へ向ける。どうやら、ここは森や草原のようだ。木が少し生え、背の高い草が辺りを覆っている。
俺が外を見ている間、ヒューゴは机の上の資料を集めていた。
「読め。明後日までに、俺についてこられるところまで引き上げなくてはならない」
そうして渡された資料は、ずしりと重たかった。
「心してかかれ。一つたりとも取りこぼすな」
そんな無理難題が耳の奥に残った。
「魔力変換の法則により、魔力が目的の事象へ全て変換されることはない。変換されなかった魔力はどうなったのか不明……消えたのか、観測できなくなったのか。
また、変換効率を上げることも急務である。今のところ見つかっている方法は、魔力密度を大きくする、魔力を緻密にコントロールする、ね」
乾いた口を閉じ、唾で一旦湿らせた。
資料の内容を読み上げて、頭に叩き込む。途中で新しい情報を受け入れることを拒否し始めた頭に、新しい情報をねじ込むための苦肉の策。
ちらりと横目でヒューゴを見ると、彼は難しい顔をして静かに資料と睨み合っていた。
俺の声は結構うるさいと思うのだが、注意されたことは一度もない。それだけ集中しているのだろう。
魔力密度を大きくするのも、魔力操作の精度を高めるのも、必要な場所の魔力密度を高めるという点では同じだ。このアプローチさえ覚えていれば、新しい方法などいくらでも見つかる。
「やっぱり、観測できなくなった魔力を観測するのも大事だよな」
思考を言葉にして整理する。
邪術を使えば観測できるかもしれない。『|理を知る《バエル》』では少し力の方向性が違うか。『|世界支配《キマリス》』も合わせればいけるだろう。
思考がどんどん深まっていく。
まるで深い海に沈んでいくようだった。どれだけ考えても、底が見えない。それどころか、遠ざかっているような感じすらもある。
「逃げるぞ」
突然のヒューゴの言葉で、時間の感覚がなくなるほどに集中していた俺の意識は浮上した。
今までの集中の対価を払えとでも言うように、なんだか頭がぼんやりする。
ヒューゴは小屋中に散らばった資料を魔法で手元に集めた。その流れのまま、転移を発動する。有無を言わさず、俺も飲み込まれた。
「観測できなくなった魔力を観測する」
この言葉、覚えておいてください。この作品が第二部、第三部と続くことになった時、大切な要素として再登場する――かもしれません。
次回予告。
先走った結果、ノルとの関係を壊すことになった彼だって、何もしないわけじゃない。
ノルを探そうとする動きはある。
実際、彼は、ノルのすぐそばまで迫った。
次回、幕間三 「任せる」
幕間三 「任せる」
「ノルがいなくなった。さらわれたかもしれない」
起床時間になるや否や、ルーカスはフィンレーの執務室に駆け込んでそう言った。団長と副団長の関係も忘れ、兄と弟に戻ってしまうほどに、慌てていた。
ルーカスがノルにしたことは、許されることではない。
結局、そのことが原因で、ノルは組織を出る決断を固めたのかもしれない。それならそれで、そう言ってから出てほしかった。
フィンレーはルーカスとは違った意味で驚き、目を見開いた。
考えられる可能性は二つ。
ノルが逃亡したか、さらわれたか。
前者なら、連れ戻すのは難航することが予想される。
後者でも、あれだけの力を持っていれば何かしら抵抗するはず。
非常事態だ。
「建物の中や街は?」
フィンレーは内心の動揺を悟られぬよう、意識を|フィンレー《ルーカスの兄》から団長へ切り替える。
ルーカスは首を横に振った。そこは探した上で来たのだから。
「余剰人員を割こう」
余剰人員なんて、ありはしない。あるのは休んでいる者だが、その休みを奪うと後々に響く。だから、優先度の低い案件の進行を止めて、ノルの捜索に回すことにした。
ノルは組織に一人しかいない魔法使いだ。組織で唯一、世界に還らぬ魔力の処理を行える。
「指揮や配置はルークに任せる」
そうフィンレーが言ったのは、ルーカスへの信頼の表れ。だからこそ、ルーカスはより一層気合いを入れて、
「はい」
力強く、そう答えた。
「俺は別の方面から探る。ルークは全体の補助をしてくれ」
全体の補助。人間界や魔界全体を動き回る大義名分。
組織のトップ二人が揃って別行動だと体裁が悪い。しかし、自由に動く方が最終的な結果が出るのも事実。ルーカスはともかく、兄のフィンレーは表に出せないことも多数手がけている。
自分の思うように動けと、そう言う兄の声がルーカスに聞こえた気がした。もちろん、ただの気のせいなのだが。
「奴らの仕業の可能性もある。気をつけろ」
奴らと言われて、ルーカスの頭に一つの顔が思い浮かぶ。丁寧な物腰で接し、自分の信念に正直な男。
「承知しました」
ルーカスは一礼し、退室する。入ってきた時とは対照的に、余裕があって落ち着き払った態度だった。
廊下に出たルーカスは、どれだけの人員をどこに配置するか考える。
人員に限りがあるのに広範囲にばらまくのは、阿呆のすることだ。ノルがいそうな場所に集中しなくては。
そうなると、ノルが自分で逃げた場合とさらわれた場合とで配置の仕方が変わってくる。
自分で逃げるとなると、逃げ込むのは自分が知っている場所だろう。わざわざ見知らぬ場所に飛び込むなどということはしないはず。
さらわれた場合は、正直ルーカスにはお手上げだ。ノルがいる場所の候補が多すぎる。極論、誰かを隠しておける場所なら。
フィンレーが裏からの情報を持ってきてくれるはずだ。さらわれていた場合は、フィンレーの情報の力を借りることになる。
人間界でノルが足を踏み入れたことのある場所は、おもに二箇所。ダイナによる大量虐殺が行われた忌まわしき地と、本部のある王都。
それと、ルーカスが連れ回した魔力汚染地域。そちらの方は、範囲が狭いから少人数でカバーできるだろう。
魔界にいる可能性もある。魔界への配置には注意しなければならない。下手な人員ではあっという間に魔獣の餌だろうし、最悪彼らに敵対する意思ありと受け取られかねない。
魔界にはルーカスが行く。一人のほうが気軽に捜せるし、大人数を連れ回すより見つかるリスクも低い。
魔力汚染地域に割り振るのはそれぞれ五人ずつ。危険だから、五人一組で動くのを前提とする。
残った人員は、分かりやすく半分に分けた。通行人に聞くなり店の者に聞くなり、うまくやるだろう。
魔界に行くのはルーカス一人だ。あるいはフィンレーも行くかもしれないが、彼は計算に入っていない。
ルーカスはノルが失踪したこと、その捜索の手助けをしてほしいことを皆に伝えた。各員が自身の配置場所に向かうのを見送り、ルーカスも魔界に転移する。
しかし、ルーカスにはその前に行きたい場所があった。魔界と聞いて、思い出したのだ。――魔法についての高度な研究を行っていただろう小屋を。
ノルはルーカスに小屋の資料がどうなっているか尋ねた。結局、ルーカスはそれに答えていない。魔法の探究のため、ノルが小屋に行った可能性も僅かだが考えられる。
ルーカスは砂漠の中のオアシスへ転移した。
さらさらとした砂が靴の裏を滑る。
直接小屋の中に転移する勇気はなかった。もしノルに出くわしたら、何を言えば良いか分からないから。
ゆっくり時間をかけて地面を踏みしめる。
辺りの様子は、以前と変わりなかった。
小屋に辿り着き、扉を軽くノックする。きっちり三回。
誰も出てくる気配はしない。窓から中を覗くと、明かりは消えていた。どうやら、人はいないらしい。
慎重に、小屋の扉を開ける。中からどんな敵が飛び出してくるかも分からない。慎重に慎重を期しても、慎重になりすぎるということにはならない。
「――空か」
明かりは消え、紙の一枚もない。部屋はものの見事にもぬけの殻だった。
「猫?」
部屋の中にある、特徴的な存在は猫一匹。
猫はにゃあと一声鳴いて、尻尾をゆるりと振った。
椅子を引き、どっかりと座り込む。
ルーカスは、毛づくろいを始めた猫を見ながら、考え事を始めた。
ノルがいるのは魔界だろうか。
「僕はまだ、謝っていない。ノル、一体君はどこにいるんだい?」
唸りながら思考しようとして、ふと気づいた。椅子の座面が温かいことに。先ほどまで誰かが座っていた証拠だ。
砂漠にはルーカス以外の人間はいなかった。少なくとも、見えた範囲では。
ならば、転移で逃げたのだろう。過酷な砂漠を徒歩で横断したというよりも、信じられる話だ。
即座に、この空間への干渉履歴を参照する。最後に干渉したのはルーカスで、小屋の調査に赴いた時だ。
誰も、転移で出入りしていない。
不自然な現象にルーカスは頭を悩ませる。
ノルがここに来たなら、出入りは転移で行うはずだ。部屋には転移の痕跡があったのだから。
それは別として、小屋に誰かがいたのは確かなようだ。ほとんど物が置かれていない小屋の中には隠れられないから、いるとしたら外か。
ルーカスは立ち上がって、小屋の外へ出た。
次回予告。
唐突に幕を開ける潜伏生活。
逃げて、逃げて、その先に待つのは袋小路。
どこかで、状況を変える一手を打たなくてはならない。
今回刻むのは、その一歩。
「逃げるぞ」
次回、3-7 逃げるぞagain
3-7 逃げるぞagain
俺たちが転移したのは、殺風景な石造りの部屋だった。
俺達の到着と共に、研究資料が音を立てて地面に散らばる。
俺がそれを拾い集めようと屈んでも、ヒューゴは立ったままだ。俺がヒューゴの近くに来た時、ヒューゴが呟いているのが聞こえた。
「なぜあそこが分かった?」
俺は、あそこに訪ねてきたのが誰か知らない。だから、ヒューゴの呟きに何か返すことはできない。
「ヒューゴ?」
俺の呼びかけに、ヒューゴは、
「ん、あぁ、すまない」
声を発した後、少しだけ魔法が使われる。たちまち研究資料は整頓され、大事なものとそうでないものに分けられた。
それから、ヒューゴはまた黙りこくる。深い思考に沈んでいる証だ。
俺はそれを静かに見守る。
やがて考えがまとまったのか、ヒューゴは口を開いた。
「手が離せない用事ができた」
その先を言葉にしないまま、無言で研究資料の選別を始める。
「読め。これからに役立つ」
そう言って渡された研究資料の表題は、『魔法構築速度について』、『攻撃魔法の進化』、『魔法を利用した実戦』など物騒なものが目立つ。
それからは俺に何も言わず、再び黙りこくって集中を始めた。
やることがないので、渡された資料に目を通す。これまでのことで理解したことだが、魔法は知識が物を言う。邪術は感覚で使えたから、そこが魔法との大きな違いだ。
魔法というものに関する知識、魔法によって発生させようとしている事柄に関する知識、世界そのものに対する造詣。
それらが多ければ多いほど、深ければ深いほど魔法はより効果を発揮する。
「そうだ。一つだけ言っておく」
「うん?」
ヒューゴが突然口を開き、俺は意味のない声を返す。
「魔法は使うな。魔力も解放するな」
「それって二つじゃ」
俺がいらぬ茶々を挟んでも、ヒューゴは口を開かなかった。彼の中では、これで話は終わりらしい。
まるで自分が世界の中心であるかのような行動。短い時間だが、ヒューゴがそんな行動を取ることは分かった。
アシュトンの仲間――さらに言えば、これから俺の仲間になる幹部は、全員こんな感じなのだろうか。我が道を行くといった態度で、常識が通じない。
行く末を案じて、俺は長いため息をついた。
「まだここには来ていない……徹底して痕跡を隠してきていて良かった。――こっちの用事は片付いたぞ」
何のことか全く分からないことを言った後、ヒューゴは声量を上げて俺に呼びかけた。
俺は視線を研究資料に落として顔を上げないまま、
「用事って、なんだったんだ?」
答えが返ってくることは期待していない。
ヒューゴは話したいこと、話さなければならないことを話し、やりたいこと、やらなければならないことをやる。
俺の感覚では、この問いに答えることがそれに含まれるとは思えなかった。
「足止め」
ヒューゴは短く、そう答えた。
「――。――⁉」
俺は思わず顔を上げて、ヒューゴを見た。
「――? そんなに見ずとも、俺の顔になにかついているか?」
ヒューゴが不思議そうに聞き返す。
「いいや、何も」
この先を口にすべきか迷い、
「……ただ、答えてくれるとは思わなかっただけで」
「俺を何だと思っている」
「いや、まあ」
至極当然のことだが、ヒューゴからその言葉が出てくるとは思わなかった。そう言えば相手の不興を買うだろうから、言わなかったが。
「重ねて頼もう。魔力と魔法は使うな。資料の内容を自分のものにしろ」
ヒューゴが排除ではなく足止めしかできなかった相手だ。簡単にはいかないだろう。
――俺がいたせいで対処の手が限られたということも、考えられるが。もしそうなら、これからの働きでそれを補って余りあるほどの成果を出したいところ。
故に、断るという選択肢は存在しない。
「分かっ――」
分かったと、そう言い切ろうとした時だった。
ヒューゴの顔つきが一瞬で険しくなる。何かあったのだと察して、俺は押し黙った。
沈黙が耳を刺す。
「逃げるぞ」
数秒後、口を開くなりそう言ったヒューゴに、
「どういうことだ?」少し声が上ずりながら聞いた。
「見られていた。もう排除したが、気づかれるのは時間の問題だ」
答えながら、ヒューゴは転移魔法を組み立てていた。ヒューゴが口を閉じるのと転移魔法が組み上がるのは同時。
まだ気持ちが状況に追いついていない俺は、ヒューゴによって強制的に転移させられた。
次章予告。
ずっと逃げていてばかりでは、状況は好転しない。
こちらから働きかける必要がある。
ノルたちは、行動を開始した。
その先に、かつての仲間との戦いが待っているのも織り込み済みで。
4-1 信念は捨てられない
「おっと」
細かい瓦礫でバランスを崩し、思わず声が出た。
風の音が聞こえる。細かい土ぼこりが空を舞い、視界は少し悪かった。
「――静かにしろ」
様々な疑問や文句が口をついて出そうだった俺を、ヒューゴが言葉で制した。ヒューゴの目つきは変わらず、鋭いまま。
ヒューゴの指示に従わなければ、状況がもっと悪くなる。そう思わせるほどに、鋭い目つきや言葉だった。
できるだけ音を立てないよう、ゆっくり静かに呼吸する。そんなことしなくても、誰も俺たちの存在に気づいていないのかもしれないが。
一分か二分か、あるいはそれ以上か。
たっぷり時間を取って、ヒューゴはようやく安堵のため息をついた。
「最初の賭けには勝ったようだ」
「最初の賭け? なんだよ、それ」
ヒューゴの様子を見て、もう声を出して良いのだと判断した俺は、すかさずヒューゴに問い返した。
「しっ、声を小さく」
ヒューゴが声を小さくするよう求める。
緊張からの解放で、少し声が大きくなってしまっていたらしい。俺は声を潜めた。
「それで、賭けって?」
「ここは前のお前が訪れた場所だ。当然、辺りは敵に押さえられているが……そんな危険地帯に、俺達がいるとは誰も思わないだろう?」
ヒューゴは愉快そうに声を震わせた。
「それでも、巡回に見つかったら終わりだった。だから賭けだ」
言い終わった後、彼は歯をむき出しにして笑った。成功した以上、失敗した場合のことは論ずるべきでないとでも言うように。
「もっと安全な方法はなかったのか」
まあ、なかったからこの賭けとも呼べる方法を選んだのだろう。
「安全だが不確実な方法と、危険だが確実な方法、どちらを選ぶ?」
ヒューゴからの脈絡のない問いに、俺は間髪入れずに答えた。
「危険だけど確実な方法」
「なら良い」
俺の質問に対する直接の答えは得られないまま、ヒューゴがこの話は終わりだという雰囲気を出す。
この言い方だと、ヒューゴは、数ある方法の中でもこれが最善の方法だと判断したという印象を受ける。
「さて、作戦を練るぞ」
ヒューゴが紙の白い面を上にして床に置く。ペンを取り出すと、彼はペンを紙に猛然と走らせた。
「お前ならどうする?」
紙に書いた文字を指差しながら、ヒューゴが聞いてきた。
紙に書いてある内容はたったの二つ。
『死を偽装する』
『偽物を追わせる』
俺ならどうするか?
俺は両方を指差して言った。
「両方だ」
「良いだろう」
ヒューゴは口の端を吊り上げた。紙に更にペンを走らせ、その内容を俺に見せる。
「手順を説明する。お前に似せた者を用意し、戦いの中で死んでもらう。お前は晴れて自由の身。まずは身代わりの調達からだ」
ヒューゴがちらりと俺に目をやる。俺が理解しているか確かめているのだろう。
俺の沈黙を、ヒューゴは肯定と受け取った。
静かに転移術式が組まれていく。
魔法が使われようとしていることをほとんど感じさせない見事な術式。だがそれも、何度か見ればいつ組まれているか、どのような術式なのかは想像がつく。
――俺は魔力を使って、転移術式を乱した。
「なんのつもりだ?」
ヒューゴの声には、不機嫌さがにじんでいた。
俺は静かな声で自分の推論をぶつける。
「今転移しようとしたってことは、身代わりに心当たりがあるってことだ。それが個人なのか、集団なのかは見当がつかないが……俺は、自分のために顔も知らない他人を使い捨てにはできない」
「たとえそれが、俺たちと敵対する相手だったとしても?」
「そうだ」
地獄では、みんな生き残るのに必死だった。
自分が生き残るために他人を殺す。そんな殺し殺されの関係では、自分が死ぬことに文句を言う人間はほとんどいなかった。
みんな、死ぬことへの覚悟を決めていたのだ。
だから、俺も殺すことにためらいはなかった。
けれど、ここは違う。死ぬ覚悟を決めている人間なんて、一握りにすぎない。
だが、俺を殺そうとしてきた相手は話が別だ。因果応報。さんざん利用された挙げ句、殺されても文句は言えない。
ヒューゴは舌打ちして、深く息を吐いた。
口を開きかけて、言葉を探すように舌先を迷わせる。
「顔を見れば、納得するのか?」
「さあ。少なくとも、顔を見なければ絶対に納得しない」
俺は自分の感情を操れない。だから、確約はできなかった。
「顔を見せてやる」
先ほど俺が邪魔した転移術式が淀みなく組み上げられ、俺とヒューゴの姿はこの場から消えた。
次回予告。
魔界を代表する組織だって、一つじゃない。
誰かの思想があれば、誰かの反対の思想がある。
思想と立場。多くは立場を選び取るところを――ノルは、はっきりと否と言った。
「思想ではなく、立場というものがあるだろう」
「たまには組織じゃなく、個人を見るのも大切だと思うけどな」
次回、4-2 思想と立場
4-2 思想と立場
「今さら、誰が来たって同じだよ。俺は何も話さねえ」
暗く冷たい地下牢。その一番奥に繋がれた男は、死んだ目で俺たちを見た。
「今回は少し違う」
「ああ?」
男が俺を見た。ヒューゴも含めた俺たちではなく明確に俺個人を。
「紹介しよう。新入りだ」
「見れば分かる」
男はヒューゴの言葉に適当に返し、俺を上から下まで舐め回すように眺めた。
「で、こいつに何させんだ? 俺に拷問は効かねえよ。別に死んでも良いんだかんな」
ヒューゴは男に返事することなく、俺に向き直った。
「あいつが何の罪を犯してここに捕まったか話しておこう。密偵だ」
密偵。敵対組織から送り込まれた、情報を抜き取るネズミ。組織として見れば、俺たちの――俺の敵だ。
「どこからのだ?」
「敵対組織から」
「違う」俺は分かりきった答えを返すヒューゴに、少し苛立っていた。
「思想は。理念は。何をした?」
ヒューゴは深くため息をついた。
「それならそうと聞け」
「嘘ついたら、俺が許さねえかんな。ぜってえ訂正してやる」
そう、スパイからの頼もしい言葉も受けた。
「魔獣の持つ可能性を再現するために、俺たちは模擬魔獣を作ることを選んだ。だが、模擬魔獣は死ぬと魔力に還元され、環境を汚染する。その結果、魔界には模擬魔獣賛成派と反対派が生まれた」
「で、俺が反対派」
その言葉を受けて、俺の心は決まった。
「――じゃあ、俺が敵対する理由はない」
ヒューゴの表情が苛立ちに彩られ、男の表情は驚愕に彩られた。
「いつもの奴とはちげえなって思って流してたが、模擬魔獣を連れてねえのってそういうことか」
合点がいった男はうんうん頷いている。
「本物に近い方が成功率が上がるというのに」
ヒューゴが説得を試みてくるが、俺の答えは変わらない。ヒューゴの意見に従った方が楽で、間違いがないと分かっていても。
「俺は模擬魔獣に反対。こいつも反対。なら俺たちは、同じ思想を共有してる」
「思想ではなく、立場というものがあるだろう」
「俺たちの組織は互いに敵対し合ってるって? たまには組織じゃなく、個人を見るのも大切だと思うけどな」
「甘いな。俺だって、別に何が何でもお前を守らなければならない義理はない」
何と言われようが、俺は俺の意思を曲げない。
現状、ヒューゴの方が力関係が上だから、ヒューゴに無理やり計画を進められたら従うしかないが。
ヒューゴはそんなことをしないと思っている。――信じる、とはまた別の感情で。
それに、ヒューゴなら別の角度で切り崩しにかかるはずだ。机上の空論を戦わせても意味がない。実感を伴わせれば、あるいは話を聞いてくれるかもしれないと、そう思って。
まあ、俺は意見を変えるつもりはないが。
打算だらけの俺の姿勢に、ヒューゴは見事に応えてくれた。
「代案を出せ。検討しよう。聞くだけならタダだからな」
俺は頭の中にある案の詳細を詰め、少しずつ言葉にした。
「人間を使うのではなく、人形を使う。人間そっくりのだ。俺なら人間そっくりに偽装できる」
「人間を使う? それって俺のことかよ」と戦慄する男の声は、意識から排除した。
「言っておくが、お前独自の力を使うことは――捕虜に聞かせる話ではないか。もう良いな。帰るぞ」
俺もそれには同意だ。大人しく、ヒューゴの転移術式に巻き込まれた。
「さて、話の続きだ。お前独自の力を使うことは禁ずる。少しでも奴らに勘づかれる可能性を減らしたい」
「ぐっ」
俺が使おうとしているのは邪術――『|姿を変えろ《ロノウェ》』だ。生物、無生物関係なく使え、この邪術を使うことにより完璧な変装が可能となる。
魔法で再現できるか? できる。
邪術と魔法は力の体系やアプローチこそ違うが、働きかける対象は同じだ。ならば、再現できない道理はない。
「……魔法で再現できる。さすがに魔法も使うなとは言わないだろ?」
ヒューゴは鼻を鳴らした。当たりだ。
「俺が積極的に手助けすることはない。が、どうしても俺の力がほしいなら相談しろ」
「それは……」
ヒューゴからかけられた言葉に、俺は目を見開いた。
却下されるものだと思っていたが。
「実行してやっても良い。期限は……そうだな、七日。それを過ぎても何の成果も得られない場合は、俺の計画でいかせてもらう。異論はないな」
「ない」
期限が少し短い気もするが、譲歩してもらっている身。これ以上の条件は望むべくもない。
「俺もつきっきりではいられない。頼みも、いつでも聞いてやれるわけではない」
ヒューゴは転移してどこかへ行こうとする。
「待て。一つ、頼みたいことがあるんだ」
俺はヒューゴを呼び止めた。
「それは『どうしても』なのか?」
「ああ」
静かな声で問うてくるヒューゴに、自信を持って答えた。
これを自力でやり遂げようとすれば、一週間では到底時間が足りない。
「どんな物質でも手に入る場所に、心当たりはないか?」
「――ある、と答えれば、どうする?」
そんなもの、答えは分かりきっているだろうに。
「場所を教えるか、連れて行くかしてほしい」
ヒューゴは片目を閉じて一瞬だけ考え、
「良いだろう。四日後で良いか」
「ありがとう」
返事を何段階かすっ飛ばして、俺は感謝を口にした。
その言葉を聞いて、ヒューゴは笑った。笑って、そのまま転移してどこかへ消えていった。
俺は辺りにばらまかれた研究資料に目を向ける。
ヒューゴがいなくなって、研究成果が書かれたものとただのメモ書きの区別がつかなくなってしまった。
まずは、俺が欲している資料――対象の見た目を|欺《あざむ》く魔法を作るための資料を見つけなければならない。
幸い、研究成果が書かれた資料は内容ごとにまとめられている。
俺は研究資料に一つ一つ目を通して、必要なものを選別した。
◆
見た目を変える魔法はなかなか複雑だ。
形を変えるのがいちばん難しい。が、今回は人形を作るのでやらなくて良い。
色を変えるのには難儀した。世界の中の色を管理する領域で、どの色がどのように表されているか、総当たりで特定した。
その全てを白い紙に書き写し、俺はふっと一息つく。
ここまでで一日。ヒューゴが示した日まで、あと三日。
見た目を変える魔法はこれでほぼ完成だが、まだ四分の一。
俺が作りたいのは、完璧な変装ができる魔法だ。
人間が出している情報は見た目だけに限らない。
心臓などの内臓の音や、人間が出す声。汗などの体臭。肌の柔らかさや温かさなどの質感。
そんな五感をあざむく魔法を作らなければならない。味覚に関わるものがないのは、必要ないと考えたからだ。さすがに敵を舐める者はいないだろう。
人間が五感から得る情報は、視覚からが最も多く、次に聴覚からが多い。
だから、次に|欺《あざむ》くなら聴覚だ。人間が出している音を再現する。
心臓の音、呼吸の音、骨が鳴る音、歯を噛み合わせる音、衣擦れの音。
全ての音を再現しなければならないわけではなく、人間を再現しようとすれば出る音もある。だから、再現する音としない音を決めるのが最初だ。
心臓の音――心臓は血液を送り出す器官。人形の体は魔法で操る予定なので、血液は必要ではない。だが、死んだときに血が流れないのは不自然だ。ならば、血液は必要で、それを全身に行き渡らせるための器官としての心臓も必要。よって、心臓の音は類似器官で再現する。
呼吸の音――人形の体は呼吸を必要としない。だが、至近距離でぶつかり合う時に呼吸音がしないのは不自然。風を操る魔法で音だけ再現するとしよう。
骨が鳴る音――内からでも外からでも、体を動かせば内部で鳴る。再現する必要はなし。
歯を噛み合わせる音――俺が戦闘中に意図してその音を出すことはない。不要。
衣擦れの音――動けば鳴る。
意図して再現する音は呼吸の音で、自然に再現される音は心臓の音、骨が鳴る音、衣擦れの音。
これから俺が着手するのは、疑似心臓を永久的に動かす魔法と、呼吸のような空気の流れを生む魔法だ。
一定の間隔で収縮と弛緩を繰り返す式――出力を微調整して、完成。
空気の流れを生む式、完成。
これで音の問題については解決。次はにおいか。
視覚以外の五感に関わる式は簡単に組める。さっさと終わらせて、消費魔力を少なく、効率化する改造を施す。
俺は邪気を変換して、魔力を大量に生み出すことができる。だから、魔力のことは気にしなくて良い――わけではない。
実際にやってみてどれだけ魔力を使うかは分からないし、戦いがどれだけ長引くかも分からない。突っ込んで自爆するだけだと怪しまれるから、戦いの中で上手く爆発する必要もある。
実際に人形ができるまでは、微調整に時間を費やしたい。
「時間になった」
次回予告。
最後の声の主は、ノルを転移で一瞬で連れ去る。
ここが大一番。
計画が成るかどうかの重要な作戦が始まり――しかし、その前に怪しげな人物に出会う。
次回、4-3 白と金
4-3 白と金
「時間になった」
ヒューゴが転移で四日ぶりに顔を見せたかと思えば、俺が侵入できる時間になったことだけを告げて、転移で俺を連れ去った。
この間、わずか一秒。ヒューゴが俺に声をかけなければ、敵が来たと勘違いしていたところだ。
一瞬で視界が切り替わり、俺は人間界に来た時以来感じていなかった喧騒に包まれていた。
街に出たのだ。
「あの塔。見えるか」ヒューゴが遠くにそびえ立つ大きな塔を指差す。
「人間が魔法とは違う方法で世界の真理に迫ろうとする、その過程で見つけた物質を保管している。お前の欲しい物もあるだろう」
俺が返事する前に、ヒューゴは更に言葉を重ねた。
「俺はここまでだ」
ヒューゴが転移魔法を構築したのが分かる。一瞬で俺を拾って、数秒で説明を済ませ、すぐに帰還する。どうやら、ヒューゴもヒューゴで余裕がないらしい。
「ぁ、ありがとう!」
去っていくヒューゴに届くようにと声を張り上げたが、果たして届いたか。言った後、声を張り上げる必要はなかったことに気がつく。
俺は人がいない通りに隠れ、魔法を行使した。
髪が白くなり、瞳が金になる。髪の長さも多少は変わり、服の色は黒くなった。
紙の色や瞳の色など、見た目を変える魔法だ。
夜になれば、この姿であの塔に必要なものを調達しに行く予定だ。戦わずに盗めれば良いが、戦いにならないとも限らない。いずれにせよ、俺は犯罪者として探される身になる。
人間にはこの存在しない俺を探してもらいたいが、目立とうとしていることに気づかれてもいけない。
だから、印象に残る白い髪に金の瞳、夜の闇に溶け込める黒い服だ。
影の長さから察するに、太陽は傾き、あと二時間程度で沈む。それに加えて、太陽が沈んで暗くなるまで三十分。計二時間三十分は街の中で潰さなければならない。
俺はフードの位置を整え、人混みの中へ足を踏み出した。
人の群れに流されるようにして、通りを進む。特にこれと決まった目的地はない。
街の人間の会話に耳をそばだてて、人間界の情勢を探る。
「失敗したか」
俺とすれ違う相手は、俺の容姿に気を引かれ、ほとんどその話か他愛もない雑談しかしない。
行き交う人々は、ほとんどが茶髪か黒髪、いても金髪や銀髪で、俺のような白髪の若い人間はいない。金色の瞳の者も同様だ。
目立つためにこの容姿を設定したが、ただ目立てば良いというものでもなかった。これは明らかなミスだ。
容姿を変えるなら、決行前にするべきだった。
ミスばかりが目につき、憂鬱な気分で歩いていた、その時だった。
「――っ」
視線を感じる。白髪に金の瞳の珍しい容姿の青年ではなく、「俺」を眺める人間の。
誰だ? 俺を知っている人間などいないはず――俺の記憶の限りでは。
俺が名前を捨てる前の『俺』を知っている人間だろうか。
視線を追う。顔の角度を少し変えて、目だけを右に向けた。
「切られた」
視線を切られたが、大体相手がどこにいるかは分かった。黒や茶の群れの中、ひときわ目立つ金がある。
距離があり、その表情を読み取ることはできない。しかし、その目鼻立ちが整っていることは確かだ。
金髪の男は少しうつむいて考え事をしているようだった。やがてなにか思いついたのか、にやりと人間らしい笑みを浮かべる。その笑みが作り物めいた美貌を崩して、人間にし、また違った顔を覗かせた。
彼は確かな足取りで人混みから逃れ、人混みに流される俺と逆の方向へ進む。どこへ向かおうとしているのか俺には皆目見当がつかなかったし、知りたいとも思わなかった。――ただ、胸騒ぎがした気がして。
空の色は未だ青く、しかし地面に落とす光は赤みを帯びている。
もう少し、もう少しで日が落ちて、作戦が成るかどうかの大勝負が始まる。
さすがに下見もなしというのは舐めすぎか。
俺は人混みの中、人をうまくかわして、塔の方向へ歩き出した。
◆
日が沈み、空が鮮やかな青に染まる時間さえ過ぎ去って、星々が輝き出した頃、俺は行動を開始した。
次回予告。
怪しげな人物との|邂逅《かいこう》があっても、作戦に支障はない。
ノルは、作戦を決行する。
その空に、月は輝いていないけれど。
人間界の一つの建物を制圧するぐらい、わけないことだ。
「動くな。薬品保管庫があるな? 案内しろ」
次回、4-4 作戦決行
4-4 作戦決行
日が沈み、空が鮮やかな青に染まる時間さえ過ぎ去って、星々が輝き出した頃、俺は行動を開始した。
フードを目深に被って、目を引く白い髪を覆い隠す。
周囲の確認はバッチリ、いざという時のための逃走経路は確保した。
通行人に紛れて塔に近づき、外壁に触れる。内部の様子は分からない。壁の厚さも分からない。
現在の座標から、転移先のおよその座標を計算する。そうして、当てずっぽうの転移を発動。
いつもの転移とはなんら違うところはなく、転移自体はスムーズに発動した。後は、壁に埋まったり、人に見つかったりしなければ良いが。
煉瓦を積んで作られた壁と、明るく照らし出された空間。直前とは視界ががらりと変わって、俺に転移が成功したことを確信させる。
視界も開けて、空気もしっかり吸える。壁に埋まったなんてことはない。一発で成功するとは、なんて運が良い。
他に目につくのは、突然現れた俺に驚いて腰を抜かす警備兵ぐら、い、で――。
「ぁ」
訂正する。俺は運が悪い。警備兵の目の前に転移するなんて。これでもう、誰にも知られずに盗み出すことはできなくなった。
警備兵が腰に手をやるよりも、声を出すよりも速く、俺は警備兵の首筋を打って昏倒させる。
とりあえず、連絡を取られることは防げた。しかし、警備兵を倒したことがバレるのは時間の問題だ。
俺は螺旋階段を二段飛ばしで駆け上がり、俺が目的とするものが保管されている場所を知っていそうな人間を探す。
――いた。白衣を身にまとい、研究資料らしき本を運ぶ姿は、到底戦闘要員には見えない。
俺は白衣の男の背後に忍び寄り、口を塞いで静かに声をかけた。
「動くな。薬品保管庫があるな? 案内しろ」
男が驚いて手に持っている本を落とす音が、塔の中で反響して大きく聞こえた。
男は抵抗する素振りを見せたが、口を押さえる手に少し力を込めると、すぐに大人しくなった。目に思案の色が過ぎり、両手を上げる。
男が地面を見て、俺になにか訴えかけてきた。
「……拾いたいのか?」
男はゆっくりうなずく。
「拾え。ただし、声は出すな」
俺が口から手を離すと、男はゆっくりしゃがんだ。
俺に背を向けて、荷物を拾っている。丁寧に整理しているのか、やけに長い。
俺は声をかけようとして、
「――――っ!」
何らかの筆記具だろう、先の尖った棒のようなものを男が握り、俺の目に向けて突き出した。
俺が男に近づいた瞬間を狙ったか。
俺は男の手首を強く打って筆記具を放させた後、首筋を打って男を気絶させた。
「ひぅっ」
か細い女の声を聞いて、階段の上に視線を向ける。
女はその場にぺたりと座り込んだ。
こいつに案内してもらおう。
女の口が小刻みに動いているな。
女に近づくにつれて、女の口から発せられる声が鮮明に聞こえるようになる。
「ぁぁ、ぁ、殺さないで……殺さないで、ください」
「殺さないさ。薬品の保管庫に案内してもらうまでは、絶対」
俺は彼女に歩み寄って、できるだけ優しい声で言った。
「ぅ、ぅう」
首を縦にぶんぶん振って、俺の意思に反することはないと主張する。声を上げられたら面倒だが、どうせ保管庫に行くには階段を上る必要がある。
「不要な声を出したら殺す」
少し殺気を込めて、強く念を押しておけば大丈夫だろう。
彼女はまた、涙目で首を縦にぶんぶん振った。
「こっち、です」
彼女が踏み出した方向は、俺が進もうとした方向と真逆だった。すなわち、下。
「大事なものを保管するなら上では?」
「薬品は温度や湿度の変化が大敵なの、で」
そういうものか。
俺が入ったのは地上からで、ほとんど階段を上っていないから、一番下に到達するのはすぐだろう。元の場所に戻るのはもっと早い。
「ふぇっ」
俺が制圧した警備兵でも見たか、彼女が小さく声を漏らして後ずさった。
危ないな。階段から転がり落ちでもしたら大惨事だ。
「しばらく起き上がらない」
そう言うと、彼女はもっと怯えた表情を見せた。
急に動き出すことはないと、そう伝えて安心させようとしたのだが。逆効果だったか。
「もうすぐ、です」
彼女は足を動かす速さを少しだけ上げ、階段を下りた。
よほど早く俺から解放されたいようだ。
厳重に閉ざされた扉を通り過ぎ、地下への階段を踏む。
地上へ繋がる扉のそばを通らなければ、そこが地下だとは分からないほど、階段は地上と地下を滑らかに繋いでいた。
光を取り入れることができないためか、地上より照明が多い気がする。
「ここ、です、よ」
彼女が木製の温かみのある扉を開け、俺を押し出して中に入れた。
保管庫なら扉はもっと大きいのではないか、保管庫を置くにしては予想される部屋の面積が小さすぎるのではないか、そういう疑問を全部飲み込んで、俺は扉の中を見る。
――人間がいた。ここの警備兵と同じ制服を着て、椅子に座ってくつろいで――まではいないが、体を休ませている人間が。
彼女の手によって、半開きだった扉が静かに閉められる。
「皆さん、後は頼みました!」
女のくぐもった声がした。扉の向こうからだ。
扉の向こうから――罠にかけられたか。
部屋の中の人間の目が、一斉に俺に向けられた。
剣に手をかけ、引き抜く音があちらこちらでする。
これで「盗む」と言うには無理があるか。目立ちたくないが、仕方ない。
――魔法を使って水を集め、床を濡らす。
濡らした床は滑りやすいが、これで滑るほど相手も間抜けではない。
俺の行動を戦闘開始の合図と見たか、警備兵が一斉に動き出した。
俺は一歩で距離を詰め、目の前にいた相手の足を払った。更に、床は滑りやすくなっている。警備兵が倒れる重い音に、他の警備兵が少しだけ気を取られた。
その隙に、他の警備兵の足も払う。少し音がばらけて、仲良く一緒に倒れた。
戦闘開始数秒で蹴散らされた仲間を見て、立っている半分ほどが怯えた顔を見せる。
「落ち着け! ドアは開いてない、まだ中にいる!」
警備兵の集団を立て直そうとする者もいるが、効果は薄い。
「は、はや――」
俺はもう一度踏み込み、警備兵の足を刈り取った。
これは狩りだ。恐慌する獲物を狩っていくだけの。
俺は風になって、室内の警備兵を全て無力化した。
これだけ固まっていたのだ。塔の中の警備兵はかなり減ったに違いない。
俺は部屋の外に出た。
「ぇ……」
先ほど、俺を警備兵のもとへ案内した女は、まだ扉の外にいたようで、腰を抜かして俺を見ている。だが、その目が逸らされることはなく、俺を睨みつけ、打開策を探しているようだった。
危険だな。このまま放置しておくと、肝心なところで背中を刺されかねない。
俺は女の意識を奪い、近くに人間がいないことを確認する。
壁にもたれて、世界を読んだ。
塔の中の情報が一気に流れ込んでくる。
どこに何があるのか。誰がいるのか。魔法が使われたのか。
あまりの情報量の多さに、意識が侵食されかけた。魔法を使うときとは勝手が違う。情報量が比べ物にならない。
「見つ、けた」
やたらと多くの種類の物質がある場所を発見。薬品の保管庫だと確信した。
場所は――ここから遠くないな。
情報が詰め込まれていて頭が重い。転移するのも億劫だと、俺は階段を一気に駆け上がった。
「……ここが」
部屋の中は暗く、外と比べれば一回り寒い。
必要な物質に限定して、転移魔法をかける。
「足りないな」
足りない分は、空気や地面から取り出すとしよう。邪術で作り出すには、まだ理解が足りていない。複製するだけなら容易だが。
術式を一つ一つ組み、一気に魔力を注ぐ。
魔力がごっそり抜ける感覚と共に、転移魔法は発動した。
俺もこのまま転移で帰る――としたいが、塔への侵入者が魔法――特に転移魔法が使えるということは隠しておきたい。侵入する時や警備兵を気絶させる時に使ったが、使う回数は少ないほど良い。
一度外に出て人気のない路地に移動した後、転移で帰ろう。
俺は階段から身を投げて地面に着地し、出入り口へ向かった。
塔の中のほとんどの人間が意識を失っているからできることだ。騒ぎになって警備を呼ばれると困る。
出入り口は分厚い金属の扉で隔てられ、鎖で開かないようになっていたが、そんなのは関係ない。
ぐっと力を込めると、扉は耳障りな金属音を立てて開いた。僅かな隙間を開け、俺はその隙間から身を躍らせる。
幸い、扉は人通りの少ない路地につながっていたようで、人の気配はしない。
そして扉を閉める――そうしようと振り返って、
「うわあっ!」
視界が塞がれるほどの大荷物を持った男とぶつかった。ぶつかった衝撃で荷物が地面に散らばる。
「ってぇ……」
尻餅をついた相手が立ち上がり、俺と目が合う。
金色の髪に青い瞳。日中、俺を見ていた男だ。
俺は内心の動揺を押し隠して、
「すまない」
一言謝って、金髪の男が落とした荷物を拾った。
「いや、こちらこそ。前見てねぇ俺も悪い」
拾い集めた荷物を男に渡し、立ち去ろうとする。
金髪の男は荷物を受け取って、俺の耳元で囁いた。
「ここの衛兵は優秀だからなあ。逃げるなら、早く遠くに逃げるのをおすすめするぜ」
「っ……」
一体何を見たのか。塔の中の俺の行動を見ていたとでも?
固まる俺に金髪の男は言葉を重ね、
「じゃあな。もっかい言うけど、すまねぇ」
右手を上げて、夜の街へ消えていった。
ぐっと力を込めて、扉を閉める。これで後は逃げるだけだ。
表の通りに出るのは……リスクが高いか。目撃者をいたずらに増やすことになる。
となると、そこまで詳しくもない街の裏路地を駆け抜けて現場から距離を取らなければならないわけだ。ある程度離れれば転移を使って帰れば良いから、同じところをぐるぐる回るヘマさえしなければ大丈夫だ。
屋根に飛び移る――のは目立ちすぎる。ちまちま路地裏を走ろうか。
俺は路地裏を走って十分な距離を取った後、転移を使って地下室へ戻った。
次回予告。
あの時、彼は何を考えていて、あの後裏で何をしたのか。
彼の超常的な能力の一端が、明かされる。
次回、幕間四 「勘だ」
幕間四「勘だ」
「俺は別の方面から探る。ルークは全体の補助をしてくれ」
ルーカスが動きやすいようにそう言って、フィンレーは誰を頼るか思案を始めた。
情報屋ハイドのところへ行くのは必須。後はそれぞれの街で一人ずつ人間を雇って、怪しい動きがないか監視させる。
「奴らの仕業の可能性もある。気をつけろ」
思案の傍ら、ルーカスに警告はしておく。ルーカスなら大丈夫だとは思うが、念のため。
「承知しました」
家族としての顔の代わりに、組織の厳正な上下関係が顔を覗かせる。この公私混同を避ける在り方は好ましいが、もっと弟として兄を頼ってほしい気持ちもあった。
扉が閉まると、フィンレーは椅子から立ち上がった。通常業務は溜まる一方だが、今すぐやらなければならないものは終わっている。
裏社会の人間と顔を合わせる日程を考えながら、窓の外へ飛び込んだ。もちろん、いないのがバレると面倒なので。
裏路地を右に左に何回も曲がったところに、ハイドはいた。
「よう。一つ良いか」
ハイドは怪しげな商品を広げ、フードを被って客を待つ露天商の格好をしていた。
「いらっしゃい。寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 何でもあるよ」
そうして手を広げたハイドに、フィンレーは低い声色で言った。
「邪神と関わりがある黒目黒髪の青年。名前はノル。情報はあるか」
その声にハイドは表情を変えて、
「なあ、毎度思うんだけどよ、なんで場所変えてもすぐに来んだ?」
情報屋としての顔で、純粋な疑問をぶつけた。
「勘だ。それより、情報を」
「そんなに急いでるってこたあ、よっぽどってわけだ。そういえば、この前ルーカスがノルとやり合ったって話を聞いたなあ。知ってたんで?」
ハイドがあえてフィンレーの神経を逆なでするように、本題と関係がありそうで関係があまりない話を口にする。
フィンレーはその話に乗ってきた。
「あんなことがあったし、ルークならやりかねねぇとは思ってたが」
「まあ、あれだけ邪神を憎んでいれば、そりゃあ突然攻撃することもあるか。むしろ、一度は仲間として迎え入れたってんで、手心を加えたっつーのが信じらんねえよ」
「あそこで殺せば情報が取れねぇと考えたか、ルークの優しさか。いずれにせよ、俺のルークの自制心はすげぇ」
「弟自慢はやめろ。つーか、あんなこと、ねぇ。あんたも当事者だろうに」
「個人の感情より、もっと優先すべきものがある。そんだけだ」
「ありふれた言葉のはずなのになあ。あんたが言うとそうは聞こえねぇ」
ハイドは軽く冗談めかして言った。
「んで、ノルの居場所か? つーこたあ、行方知れずなのか。ルーカスが不用意なことしたせいで、見切りつけられたんじゃ?」
ハイドはノルが行方不明になったことを知らなかったようだ。
有益な情報を得られるか怪しい。
フィンレーは期待するのをやめ、ハイドの言葉を待った。
「おまえさんのお仲間――ああ、|人間界《こっち》じゃねぇ、|魔界《あっち》だ――が、最近新しく幹部を迎えたって話だ。新入りなのに幹部だとよ」
「……」
フィンレーは無言で続きを促す。その圧力に耐えかねて、ハイドも真面目に話し始めた。
「見た目とかは分かんねぇけどよ、魔力量が多いっつーことだけは分かってる。馬鹿みたいな量してんだと。ノルみてえによ」
「他には?」
「俺が知ってんのはそんだけだ」
フィンレーは静かに目を瞑って一瞬だけ考え、
「ありがとよ。対価は?」
「いつも通り、おまえさんの勘を提供してくれ。……わりいな、大した情報じゃなくて」
「ないのとあるのとじゃ大違いだ。気にすんな」
フィンレーは、本当に落胆していなさそうな明るい声で言った。
「んじゃ、次に俺が行くべきなのは?」
「うーん、そうだな。西か南か。南西ってとこか」
「南西ね。分かった」
何の根拠もないフィンレーの言葉。しかし、ハイドは大切な命令でも記憶に刻み込むかのように、それを口の中で何度も反芻した。
「もう一つ、良いか?」フィンレーが指を一本立てた。
「なんだ?」ハイドが意外そうに聞き返す。
「お前の潜入調査員を何人か貸してほしい。ノルの捜索に使いたい。殺されるかもしれねぇが」
「ああ、そんなことか。もちろん良いさ」
フィンレーの頼みをハイドは快諾した。
「どこの街に放つか教えてくれ。近くの者を向かわせる」
「魔界の奴らの拠点がある場所全てだ」
ハイドの顔が険しくなった。
「何人かに収まりきらねえだろ」
「そんなに難しいことじゃねぇ。大半は俺が潰したからな」
常人には到底不可能なことをさらっとやったと言ってのけたフィンレーに、ハイドはあろうことか舌打ちした。
「ちっ、情報は掴んでたが、やっぱおまえさんか。つえぇし勘は鋭い。逆に何ができんのか、そもそもできねえことがあるのかすら疑わしい」
「できねぇこと、か。いっぱいあるぜ。今なら、ノルの失踪を防げなかったことだ」
「普通のやつは失踪を防ぐなんて大真面目に考えはしねえ。やっぱり、おまえさんはへ……おもしろいやっちゃ」
ハイドが「変な奴」と言いかけたのをフィンレーは聞き逃さなかったが、何度も問い詰めていれば会話が進まない。
「それで、できるのか? できねぇのか?」
フィンレーは脱線しかけた話を元に戻し、静かに問いかけた。
「ああ、ああ。分かった。やってやんよ」
「ありがとう」
ハイドがやけくそ気味に言うと、フィンレーは笑顔で感謝を告げた。
「それで、報酬だが……さっきと同じで良いのか?」
「いや、いらん」
フィンレーの申し出を、ハイドは断った。
フィンレーは静かにハイドの顔を見て、打算の類がないのを見て取ると、
「なぜ」
「さっきので十分だからだよ。十分な情報をやれんかったし、二つ合わせて一つ分だ」
ハイドはそこでふっと表情を緩めて、
「強いて言うなら――今後もご愛顧よろしく」
「ああ、もちろんだ」
「ところで、運試しはどうだ? やらねえか?」
「やろう」
フィンレーの返事を聞いたハイドは、店の隅に置いてあるルーレットに被せられた布を取り、
「赤か黒か」
「赤」
間髪入れず、フィンレーが答えた。ハイドは何も言わず、ルーレットに静かに玉を投入する。
フィンレーが予想した時点で、既に結果はほぼ分かっていた。二人とも、あまり期待せずに玉の行方を見つめる。
「黒だ。残念」
ハイドは平坦な声で言った。
「これで何回目だ?」
フィンレーにからかい半分で聞く。
「さあ。二十を超えたところから数えるのをやめた」
「ふっ。ここまで来ると、ある意味神がかった運の悪さだな」
「じゃあ、もう一回」
「あいよ。今度は運試しじゃねえんだよな?」
フィンレーはうなずきながら、玉をルーレットに放り込んだ。
少し考え、
「赤だ」
先ほどと同じ宣言をする。
玉は赤から黒へ動き、だんだんと速度を落とす。
やがて、黒で動きを止め――ず、残った力全てで赤に移った。玉は、もう動かない。
「当たりだ。百発百中、おまえさん、やっぱりその勘の代わりに運が悪くなってるよな?」
「否定はしねぇ」
「さて、お客さん、何か見ていくかい?」
「これをもらおうか」
フィンレーは硬貨を一枚弾き、古びた首飾りを手に取った。
「毎度あり」
次回予告。
計画の成就に向けて、最後のピースを手に入れたノルは、人形を使いこなす訓練を始める。
「敵を見つけた」
次回、4-5 模擬魔獣の排除
4-5 模擬魔獣の排除
材料さえあれば物質の複製は容易だ。たとえそれが、生物の体でも。
そんなわけで、塔から拝借してきた物質と、そこらへんにある物質から「俺」を複製し、今は開発した魔法を刻み込んでいた。
複製体を作った後で変装魔法を使う必要がないことに気がついたが、塔への侵入で役に立ったし気にするまい。何なら、あの時の俺の姿にした上でそれを見破らせ、騙す確率を上げようか。
心臓もどきの稼働は――順調だな。呼吸に似せた空気の流れも違和感ない。
体のあちこちに、俺の意思と連動する魔法を刻んだ。俺が右手を挙げたいと思えば右手を挙げ、走りたいと思えば走る。
俺は、この場から一歩も動かずに、この人形を動かして戦わせることができるわけだ。理論上は。
実際は、戦闘の動きをさせることは難しい。
俺の思考と動作の入力に、致命的なラグが生じるためだ。人形の体を動かすために、三つの思考が順番に行われている。
一つ目、動きを頭の中でイメージする。二つ目、その動きを実現させるためには体をどう動かせば良いか考える。三つ目、人形の手足に命令を出す。
これをどの動作に対しても行っているから、入力が間に合わなくなるのだ。
自分の体を動かす時は、一連の思考をほぼ無意識に行っているのだが。
現在は、人形の手足を自分のものと同じぐらいに動かせるよう、操作を練習している。
人形を起点に、広い範囲の世界の情報を読み取り、人形とその周囲の様子を把握する。
人形の視点で周囲を見られないことも、動かしづらさに繋がっているのかもしれない。が、残り少ない日数で術式を改善するのは厳しい。だから、このまま頑張る。
俺は、不要になった模擬魔獣の排除を任せられていた。
自分の都合で作り出しておいて、不要になったから排除するのはどうかと思う。まあ、俺は模擬魔獣全般を排除したいから、これは願ったり叶ったりだ。
爪の攻撃。後ろへ跳んで躱す。右足と左足に同じぐらい力を込めて、膝を曲げ、力を解放。
体が宙に投げ出されるから、膝を軽く曲げて着地。
足首を柔らかく使って、衝撃を吸収するのも忘れずに。
あー、疲れた。ちょっと体を動かすだけで頭を使う。一通り戦闘をこなそうものなら、脳疲労がひどいことになる。
躱しきれたところで戦闘は続く。攻撃の合間を縫って反撃に移らなければ、一生戦闘は終わらない。
爪を振り切った後――前足の付け根に隙ができた。
左脚を軸にして腰を捻り、右脚を叩き込む。バランスを崩さないように祈りながら、回し蹴りを実行。
どれだけ操作に難をきたすとしても俺の体の複製品、模擬魔獣は吹っ飛んだ。殺しきれてはいないだろう。だが、数は減った。
前方から、鞭のようにしなる尾が迫ってくる。
右足を踏み出し、左足を踏み出す。足の指まで使って、跳ねるように。スピードに乗って尾と接触する直前、腰を落とし、両脚を伸ばす。尾の下をくぐり抜けた後は、直前の動きを再開。
走って、滑り込み、また走る。
同士討ちでもしてろ。不運にも尾が直撃した模擬魔獣の悲鳴が途切れ、魔力の放出が始まったのを感じながら、俺はそう思った。
これで一体目。
よし、走るのには慣れてきた。
地面に干渉。土を固めて剣の形とし、右手でしっかり握る。
所詮は土の塊。当たったところで肉が裂けることも、血が噴き出ることもない。だが、使い捨ての武器としての役目は果たす。
足を開き、右足は後ろ、左足は前。重心は後ろに、右手を大きく振りかぶって、いざ解き放つ。
目指すは空の一点。自らの優位を確信している、鳥の模擬魔獣。
声を出す機能があれば出しているだろう渾身の投擲。それはまっすぐ模擬魔獣へ飛んでいき、体の芯を捉えた。
模擬魔獣は体の制御を失って、地面へ真っ逆さまに転落する。羽が飛び散った。血こそ出ていないが、中身は衝撃でズタズタになっているだろう。
俺は下に回り込んで、模擬魔獣に向かって手を差し出した。拳だが。
この位置なら、俺がなにもしなくても良いだろう。
模擬魔獣は俺の拳の真上に落ちてきて、体の芯を貫かれた。
血をもろに浴びないように避ける。
二体目。
地面が揺れる。人形も模擬魔獣も等しく、その揺れに足を取られた。
地面に潜るタイプの模擬魔獣か。敵味方関係なしとは、恐ろしい。
揺れは一向に収まる気配がなく、模擬魔獣は地面から出てくる気がないようだった。地上から位置を特定する方法は限られる。苦戦必至か――。普通なら。
俺には全て見えている。
頭は、俺の足元。細長い体を曲がりくねらせ、一生懸命地面を泳いでいるが、その速度は遅い。なら、地面に手を突っ込んで頭を掴むこともできるわけだ。
両膝を曲げてしゃがみ込み、右手を地面に向けて伸ばす。まだだ。もう少し、もう少しで模擬魔獣の頭が右手の真下に来る。
タイミングを間違えたらおじゃんだ。慎重にタイミングを測る。
――今だ、突っ込め。
右手に込める力を強くして、模擬魔獣の頭を締め上げる。体を取り出さなくてはならない。うっかり頭を握りつぶして殺してしまったら一大事だ。
重心を後ろから前に移動させ、それと連動させて膝を伸ばす。立ち上がった後、更に右手を上げ、模擬魔獣を地上に引っ張り出した。
魚の模擬魔獣だ。いや、魚と言うには大きすぎるか。頭だけで俺の拳と同じだけの大きさがある。
口元には五対のひげがあり、体の色は茶色に近い。地上に引き上げられて、地下に戻ろうと跳ねて移動しようとしていた。
地面に魔力を通し、元通りに修復する。大事な場面で陥没でもされたらたまらない。
そうなれば、この模擬魔獣は用済み――元々何の用もなかったが――だ。
右足を出して体重を支え、左足を出してその動作を引き継ぐ。そうして歩き、模擬魔獣の頭に右足を置いた。
そのまま体重をかけ、魚もどきの頭を踏み潰した。ぐしゃり、と。
三体目。
蹄が地面を叩く。ただの獣なら対処も容易い。そんなことは、アシュトンたちがよく知っていた。
人馬一体。元は騎手と馬が一つの体になったように、人間が馬を巧みに乗りこなすこと。
対して、これは文字通りの人馬一体。馬の下半身に、人間の上半身が乗っている。
馬の脚は四本。人間の腕は二本。馬の速さで戦場を駆け、人間の器用さで武器を振るう。片方だけでも厄介なのに、両方が合わさって、かなりの脅威だ。
人馬一体は戦場を駆け回り、弓で仲間の模擬魔獣の援護をしていた。
矢が人形の体に当たれば、修復を余儀なくされる。修復自体は一瞬で終わるが、魔法式が破壊された場合は復旧に時間を要する。避けないわけにはいかなかった。
人馬一体が接近してくる。何を考えたか分からないが、千載一遇の好機。馬の脚を叩き折り、走れないようにしてやる。
土を固めて棒を作り、構える。右手は上、左手は下。
体重を後ろから前に移動させ、棒を振り切る!
人馬一体が減速して動きを止め、棒が真ん中からへし折れた。
とどめを刺すため、右足と左足を交互に踏み出し、右足で踏み切って、上半身の胸のところを狙って拳を放った。が、拳が人馬一体の胸を捉えることはなく。
俺の目は、人馬一体に起こった異変を捉えていた。
人間の体が馬の体に変わる境界のところ。そこに隙間ができて、本来あるはずだったものが出てくる。人間の腕が馬の体を押さえつけ、自分が出てくる手助けとした。
人間の体の腰から下が出てくるにつれて、人間の体に外骨格が形成され、異形化を遂げる。
人馬一体は機動力を捨てる代わりに、硬さを得た。
変化が完了するとまずい。仕留めるのにかかる時間が段違いに長くなる。
まだ馬と繋がっている部分がある。しめた。馬は脚を折られて走れない。この隙に、人間の体を滅ぼす。
地面から大きな槌を作り出し、握る。初めて握る武器だ、使い方なんて知らない。けれど、握って振りかぶることはできる。
今まで、意識に課していた縛りを少しだけ解いた。脚に込める力を抑えるという縛りを。
人形と感覚を共有することはできない。だから、壊れるほどの力を込めても分からない。それだと困るから、確実に壊れない程度の力しか込めていなかった。
その縛りを、ほんの少しだけ解く。
一歩。姿勢を低くし、歩幅を大きくする。足の指先まで意識して、足が地面を離れる瞬間まで地面を蹴る。それだけで十分だ。
地面を巻き込みながら、人馬一体のところまで一気に接近、飛び上がる。
そのまま、大上段に構えた大槌を、振り下ろした。腕の力と大槌の自重、それらが合わさって大きな破壊力となり、人馬一体へ迫る。
大槌は、人間の体も外骨格も馬の体も関係なく、一切合切を打ち砕いた。
人馬一体の体は消え、後に残ったのは地面の陥没のみ。
四体目。
周囲に残る敵を確認する。二体。少ないな。
両方とも狼の姿をした模擬魔獣だ。しかし、尾を股の間に挟んで、怯えているように見える。
さっさと処理して、終わりにしようか。
この程度の相手なら、直接的な攻撃としての魔法の使用を縛っても、十分戦えることが分かった。
拳で心臓を貫く。狙いを定めて、走り出した。
「敵を見つけた。戻ってこい」
ヒューゴの気配が急に現れ、ヒューゴは俺の肩を叩いて言った。
何のことかさっぱりだが、まあ良い。
俺は二体の模擬魔獣を燃やし尽くして、転移で人形を帰らせた。
「で、どういうことなんだ?」
人形の損傷箇所を修復し、術式に不具合がないことも確認した後、俺はヒューゴに事の次第を聞いた。
「ウチには敵対組織が多い。今回もその一つだ。ああ、奴らは特に大義もなく魔界の支配を企む連中だ、気にせず殺して良い」
「話が見えない。わざわざ俺にやらせる理由は」
「目立て。そろそろ隠し通すことも難しくなってきた。作戦の決行は近い」
ヒューゴは淡々と語るが、俺にとってその言葉が持つ意味は大きい。それは、この平穏な準備期間が終わることを意味していた。
「分かった。やる。……なあ、俺も行って良いか?」
「なんのために?」
「いや、対話もせずに殺すのは嫌なんだよ。ヒューゴが言った通りの奴か確認してからやりたい」
「好きにしろ。だが、戦闘は人形にやらせろ。お前がやると話にならん」
「ああ」
俺はこれ以上言葉を重ねることはなく、素直に頷いて人形の準備を始めた。
「一昨日、人間の塔を襲った時の変装。あれを人形に施せ。きっと食いつく」
敵対組織が、なわけはないか。あの時の俺を探している人間は多くいるだろう。研究の最先端の場所に、無断で入られてものを盗まれたのだから。
「派手にやれ」
そんな、応援かも分からない言葉に送り出され、白髪金瞳の人形は魔界のどこかへ放たれた。
次回予告。
ノルは強い。
だから、人形で敵と戦うなんてことができる。
しかし、それでも驕らないのが彼だ。
敵を見て、戦いの中でも成長していく。
次回、4-6 人形の無双劇
4-6 人形の無双劇
渓谷か? 高くそびえ立つ壁が動ける範囲を大幅に制限している。下を見れば、川が白い水しぶきを上げて流れていた。
「なんだ、このガキ」
「……」
俺は無言で男に近づき、腕を取った。
「動くな。動けば折る」
男は無言で何度もうなずき、必死に了承の意を示した。
「動くなと言っている」
手に少し力を入れれば、男は息を震わせて動かなくなった。
「二つ聞く。一つ目だ。お前らはここで何をしている?」
「だ、誰が組織の作戦情報を漏らすと……ぐっ!」
「そうか、自分の立場が分かっていないようだな」
俺が手に更に力を込めると、男の腕はミシミシと音を立てた。
「分かった話す! ここに模擬魔獣の失敗作があるって情報が入ったもんで、回収しに来た! 戦力にするためにだ」
「二つ目。組織の目的は?」
「知らねえやつがいるもんだな。世界征服……いや、魔界の支配か。これでも、俺ら結構有名でよ」
俺は男の腕をギリギリと締め上げた。「聞かれたことだけに答えろ」
「へいへい」
俺が腕を折るつもりがないと思っているのか、男は軽く答えた。
これは、一度折っておいたほうが良いのではないか。腕はもう一本あるし、いざという時には足もある。
俺は手にぐっと力を込めて、男の腕を折った。
「があああああっっ! て、めぇ、答えただろうが!」
「態度が悪い。さあ、話の続きは? ないなら終わりだが」
「ねえよ」
そう言って、男は天を仰いだ。
つられて、俺も上を見る。
いくつかの影が落ちてきていた。
仲間か。
「ははは! これだけいれば、勝てるだろ」
笑って勝ち誇る男に、現実を見せてやる。
一歩で距離を刈り取り、意識も刈り取る。それを人数分。十人もいないから、一瞬で終わった。
なるほど、これならヒューゴの「俺がやると話にならない」という言葉にも納得できる。敵が弱すぎるのだ。
「もう一度聞こうか。話の続きは? なんのために魔界の支配を試みる?」
「は、はは……弱いやつは強いやつに支配されるべきだ。俺たちはこれに従っているに過ぎない」
つまり、大義はない。
処分しても良いな。同じ大義を持つ者であれば、協力してやっていこうと思っていたが。
「それに従って生きるなら、それに従って死ぬ、当然そうするよな」
疑問も、確認の形も取らない。
たとえ相手がそう認識していなくても、俺がそうさせる。考えを改めるまで、解放する気はない。
「へっ、覚悟はできてるよ。でも、無抵抗で死ぬのはいただけねぇな」
「最後に一つ。他に仲間はどれだけいる?」
「は、ははは! そんなもん、どれだけいたって同じだろう!」
まともな答えは期待するだけ無駄か。
こいつから聞き出すより、俺が調べた方が早い。
この場にいる、一定以上の武力を持つ人間を数える。一、二、三……十一か。
「じゃあな」
地面に血が広がり、男が地面に倒れたことで、戦いの火蓋が切られた。
空間を歪ませて、その中に身を投じる。
ヒューゴの拠点の一つに戻ると、すぐに人形と魔力を繋いだ。
空間が閉じる前に、人形を空間の歪みに突き落とす。
さあ、これからは本番を見据えた戦闘訓練の時間だ。
十一人は散らばっていた。一人一人が別の場所にいるというわけではないが、まとまっていても二、三人程度。全滅させるのに時間がかかるな。
初めの一人、比較的開けた場所で野営の準備をしていた男に狙いを定める。
転移――は、魔法を使う時に相手に気づかれるか。静かに後ろから忍び寄ろう。
人形の足元の土に魔力を通し、武器の形にする。その先端に氷を纏わせ、尖らせた。これで皮膚を貫けるはずだ。
俺はできるだけ相手に違和感を与えないよう、細心の注意を払って接近させた。足音はなく、相手の表情に変化もない。あくまでも、俺に分かる範囲の話だが。
男の真後ろに立つ。気づいていないようだったので、背中からぐさりと一刺し。得物を引き抜くと、血が溢れた。
大きく跳んで距離を取る。
男は自分の腹を見て、それから出来の悪い人形のようにぎこちなく後ろを振り返った。その目は、驚きに見開かれている。
男の魔力が動かされた。仲間に連絡を取られても困るので、掻き消しておく。
男は短く息を吐いて、声を震わせた後、その場に倒れた。
残り十人。
今回は移動距離が長いので、転移を使う。
近くに転移すると相手にバレる恐れがある。かといって遠くに転移すれば、接近する際に気づかれる可能性が高くなる。
というわけで、今回選択したのは一撃必殺。
転移先は相手の首元。つなぐ空間は小さく。
土と氷でできた得物を握って、いざ転移を発動。
相手に反応させる時間も、考えさせる時間もやらない。
得物を振るう。当たるかどうか不安だったが、手応えあり。空間が閉じる前に、腕を引き抜く。
残り九人。
ああ、やらかした。このやり方じゃ地味だ。「派手にやれ」と言われたのに。
命を弄ぶのは好まない。だが、目立つようにやるのは嫌いじゃなかった。自分の力を示すことになるから、地獄にいた頃は、むしろ好きだった。それは今も変わらない。
だから、これからはもう少し魔法も使って派手にやろう。
反省終了。
足首は、壊れても修復しやすいか。なら、全力で走らせても構わない。
右足を前に出し、前傾姿勢を取る。体重を右足の指先に集中させて、一気に大地を蹴った。
景色が流れ、俺が察知した八人目にみるみる近づいていく。
一気に速度を殺すと、いつの間にか目の前に見えていた女が振り向き、ナイフを振り抜いてきた。
女が口を動かす。あいにく俺には読唇術の心得はない。だから、女が何を言ったかは分からない。だが、その言わんとするところは分かる。
狙いは首。俺は見切って、上半身を少しだけ動かして回避した。
女は答えを返さない人形を見て、目を変え、両手にナイフを持ち、姿勢を低くして飛び込んできた。
俺には全て見えている。人形だから、回避や防御はぎりぎりになってしまうが。それでも、見えている以上躱せないことはない。
狙いは首――に見せかけて胴。武器が邪魔だ。手から離し、地面に還す。
続いて脇腹。空振り、刃を返して太もも。
段々と体の中枢から離れながらも、重要な血管がある場所は絶対に狙ってくる。殺意が溢れる、相当な手練れだ。
女は息一つ乱さず攻撃を繰り出し続け、俺も避け続けた。
そんな攻防を百以上続けても、女の攻撃に迷いは見えない。しかし、疲れからか精度が甘くなっているところがあった。
見える。そこか。
見えた隙に腕をねじ込み、武器を持った女の手首を押さえる。
女は強引にナイフを振り抜こうとしたが、動かない。女の目は状況を冷静に判断し、足を使って人形の体勢を崩そうとする。
俺は手刀で女の手首を強く打ち、ナイフを持つ力を弱めさせた。そのままナイフを奪い、顎の下から耳の下にかけて一気に切り裂く。
女は地面に倒れた。
残り八人。
来たか。女との戦いの最中、近寄ってくるのを感じていた気配。
その存在――女と同じぐらいの年の男は、憎悪のこもった目で人形を見た。走ってきた勢いそのままに、拳を握りしめて、人形に叩き込もうとしてくる。
人形はそれを難なくいなした。先ほどの女よりも、練度が低い。ある程度戦えるようになった素人程度。
体勢を崩す男に攻撃しようと一歩踏み込んだ瞬間、人形の足が滑った。地面がさらさらの砂になっていたのだ。
それをしたのは、俺以外の人間。すなわち、目の前で息を切らせている男。
なるほどな。男の脅威度を上方修正する。
彼は、素人に毛が生えた程度の相手ではない。肉弾戦に魔法を組み合わせて戦う、言うなれば魔法戦士のような者。
戦闘中にそれとは気づかせないように魔法を使うには、相応の努力が必要だったはずだ。
体の扱いが下手なのは、魔法の練習を優先していたからか。先ほどの女と合わせて戦うと強そうだ。
惜しいことをした。二人同時に相手取れば、今より苦戦したに違いない。人形の操作技術を上げるためには、そうした経験が要る。
なんとなく、人形の動きにキレがない。
空気を鋭く裂くように腕を動かしても、ねっとりとした空気が纏わりつくのみ。また何かされたか。
戦闘に支障はない。力でぶっ飛ばせる。
相手の魔法はあまりにも小規模なので、よほど注視していないと見逃してしまう。それを考えてああ使っているのか、それとも継戦能力的にああ使うしかないのか。
いずれにせよ、敵ながらあっぱれだ。魔法の使い方が、今までに会った人間の誰よりも上手い。
彼から魔法の使い方を盗めば、俺はもっと強くなれる。そう思うほどだった。
男が狙いを隠そうともしない突進で接近してくる。狙いは胸。分かりやすい急所狙いだ。
この程度なら、余裕を持ってさばける。
人形を動かし、ぎりぎりのところで相手の力を受け流せるよう、立ち位置を微妙に調整する。
俺の準備が整った瞬間、男の拳が当たる瞬間、風が吹いた。偶然かと思ったが、違う。一体どこの世界に、顔面限定で吹いてくる風があるのか。男がやったに違いない。
俺以外の全てのものが敵対して、世界中が反旗を翻したかのような。そんな理不尽を押し付けられる。
俺は世界の情報を見て人形を動かしているから、風で目潰しされても平気だ。だが、普通の人間では、そうはいかない。
風を受けても変わらない人形に、男は動揺した。しかし、それは一瞬のこと。すぐに攻撃を再開し、人形の足を払おうとする。
戦闘への魔法の巧みな利用と、躱されても動じない精神力。有用な人材だが、あの組織に所属したのが運の尽き。俺が逃がすことはありえない。
そろそろ終わらせようか。
人形に攻撃が通じないと見て取るや、男は後ろに跳んで距離を取った。人形は、強引にその空間を埋めていく。
男がどれだけ逃げようとも、決して。決して、距離を開けることを許さない。
一度ぐんと加速して、男に手が届く位置まで寄る。右腕に意識を集中させて、拳を振るった。
一撃。たったそれだけで、勝負は決まった。
残り七人。
そういえば、人間との戦いで多対一はまだ経験していなかったな。
この際だから、やってしまおう。
七人の所在は、全て掴めている。
俺は敵と人形がいる場所の空間をつなげた。
七人の敵が、人形のところへ転げ落ちてくる。全員、何がなんだか分からないという顔をしていた。
しかし、それでも魔界の支配を目指す組織の構成員。意識を一瞬で切り替えて、各々戦闘態勢をとる。
数は……魔法を主に使うのが五人、肉弾戦が主なのが二人。少々バランスが悪いが、まあこんなものだろう。
使われようとしている魔法に介入し、内容を書き換える。
風を起こそうとしているのが三人、あまり広いとは言えない渓谷では妥当だ。
霧を発生させようとしているのが一人、邪魔だから魔法を壊してしまおう。
そして、火を生み出そうとしているのが一人。こんなところで火なんて使えば、仲間ごと燃やしてしまうだろうに。馬鹿じゃないのか。
だが、都合が良いので利用させてもらう。
風は生まれる火に向かって吹く。それによって火は燃え盛り、また、風によって魔法を使った人間の方へ流れていく。
更に、俺の方で弱い風を送り込んで、新鮮な空気を補充し続けるのも忘れない。
悲鳴や、断末魔の叫び。それらは、やがて火に焼かれて消えていった。
残りゼロ人。
終了。
人形を俺のもとへ転移させる――前に、こちらを見ていた人間を始末する。
転移の術式を詳しく解析されたら、俺の居場所が知られかねない。
それは、まだ早い。心を含めて、最大限準備した状態で戦いに臨みたい。
人形を探る人間が近くにいないことを再び確認し、俺は今度こそ転移を使った。
次回予告。
いよいよ計画決行当日。
準備は万端。調子は過去最高。
出会った敵と対話しながら――ノルは、前の自分を知る。
「ノル。それが前の、俺か」
次回、4-7 前の『俺』
4-7 前の『俺』
何度か日が昇り、夜が明けた。
計画決行当日。
俺は、最後まで人形の調整に時間を費やす。敵を騙しきれるように。
今日の月は細い。だから、計画は日が昇っているうちから行われる。
人形、破損なし。
人形に刻んだ魔法、良し。
人形の操作、精度は過去最高。
「準備は」
ヒューゴが短い言葉で確認してくる。
「万端だ」
俺も、短い言葉で返した。少し、ヒューゴの話し方が移ったのかもしれない。
俺自身と人形に変装の魔法を使い、塔の時の姿になる。白髪に金の瞳、今回はそれらを覆い隠す服はない。
「俺は奴らを連れてくる。その後、厄介な方の対処に向かう。この先は手助けできない」
手助けできないと言っておきながら、敵の抑えをしてくれている。そう言いたくなったが、言わなかった。
ヒューゴいわく、これは当初の計画に含まれていたからだと。俺一人じゃ、どうやっても二人同時に相手できないからだと。
「抑えてくれるだけでもありがたいのに、それ以上の贅沢は言わないよ」
ヒューゴは鼻で笑った。
「相手の強さが分かっていないな。今のお前でも勝てるか分からん。その上、人形を使って不利な状態で戦うんだ、最初から本気でやることを強く勧める。でないと……」
「でないと?」
「死ぬぞ。人形ではなく、お前がな」
警告するなんて、ヒューゴにしては珍しい。いつも、言葉足らずな説明しかしないのに。
それだけ相手が強いのだと、改めて気を引き締めた。
「俺からは以上だ。いつでも行け。お前が行ったら、俺も出る」
「了解」
俺は、塔の頂上に転移した。
◆
風が強いな。俺は風になびく前髪を押さえながら、街を一望した。
人形は、まだ持ってきていない。
「へぇ、ここが街の中心なのか。なかなかきれいな街並みだな。……お」
通行人がこちらを指差している。よし、目立ってるな。
何人か、周りの人間と話し始めた。
白い髪に金の瞳、そして塔。俺が、塔に侵入して薬品を奪った犯人なのは明白だ。
さて、ヒューゴがいつ敵を連れてくるか。
話によると、人間界全体の安全維持をしているらしいが。
俺はこの姿で盗みを働き、魔界では魔法を使って何人も殺した。誰も飛んでこないのはありえない。
後は、ヒューゴが目的とする相手を連れてこられるか。まあ、これに関しては心配していない。ヒューゴなら、なんだかんだうまくやるだろう。
「来たな」
遠く、街ひとつ分離れたところにヒューゴの気配を感じた。厄介な方と戦っているのだろう。
「場所を移そう」
金髪碧眼に、見覚えのある端正な顔立ち。ただし、あまり人間らしさがない。
この街で出会った彼の兄弟だろうか。
世界が書き換えられる。転移だ。
俺はそれに身を任せた。
嗅いだことのある風の匂い、覚えのある空気の感触、そして人の気配のない街。
間違いない。ここは、俺とヒューゴが最初に逃げた拠点がある街だ。廃墟が並ぶ場所といったほうが正しいが。
やはり、場所が知られていたのか。
「いくつか質問しようか。一つ目だ。なぜ塔から盗みを働いた?」
「俺が素直に答えると思っているのか?」
俺の返答を聞いた瞬間、相手の瞳と声が震えた。
「っ……。その声、まさか。いや、でも。しかし」
彼は自分の考えを否定し、その否定を否定して、さらに否定し、否定と肯定の間を行ったり来たりした。
彼は数秒間そうした後、
「ノル、なのか?」
そう、自分の考えを口にした。
「誰だ、それは」
俺はいつでも戦闘態勢に移れるよう、邪気を魔力に変換していく。
知らない名前だ。俺に似た別人のことを言っているのか?
「まさか」
俺は記憶を消した。記憶を消す前の俺と、関わりがあったのではないか。
「ノル。それが前の、俺か」
確信していたわけではない。可能性の一つと、そう認識していただけ。たくさんある選択肢のうち、たった一つを試しただけ。
けれど、言葉を失った彼を見て、俺はその考えが正しかったことを知った。
「なぜ。なぜだ、ノル! 君なら、もっと他にやりようがあったはずだ。なんで、記憶を……」
人形のように整った顔から、人間らしく荒らげた声が出た。
俺は、返す言葉を見つけられなかった。
なぜ記憶を消したかなんて、俺が一番知りたい。
「…………」
「ルーカスだ」
ぎりっと歯を強く食いしばる音がした。
「君に謝りたくて探し続けた、僕の名前」
「俺の名前は――」
俺は、続きを言えなかった。
ノルと名乗るのは違う気がした。今さら俺がノルと名乗っても、それで俺の記憶が戻るわけではないから。
俺の名前なんて知らない。そんなものはない。
そもそも、名乗る必要はどこにある?
敵と名前を交換する。作戦決行前の俺に言えば鼻で笑われるような状況に、俺は心の中で苦笑した。
「まだ、ない」
思考があちこちに逸れて、結局俺が言えたのはそれだけ。
ルーカスは目を丸くして。
おかしそうに笑った。
「なら、新しい名前が決まるまで、ノルと呼んで良いかい?」
「好きにしろ」
たぶん、新しい名前を決めることはないだろうけど。
「改めてよろしく、ノル」
改めてと言われると、心がざわついた。今の俺の記憶には、そう言われる理由がないから。
「ここでなら、ゆっくり話ができるね」
俺もルーカスも、初めは話をするために来たわけではなかったが。
ルーカスの言葉を受けて、俺は辺り一帯をぐるりと見渡す。俺とルーカス以外、誰もいない。静かな廃墟の街。
ルーカスは剣を腰から外して、地面に置いた。
「僕には、君に謝らなければならないことがある」
「ああ、さっき言っていたことか。言わなければなかったことになるのに、また律儀な」 ルーカスが俺にしたことだろうと、俺の記憶にない以上、俺が責めることはない。それこそ、殺されかけるなどよっぽどのことがなければ。
「いくら邪神につながる情報を求めていたとはいえ、あれだけの威力の攻撃を続けたのはやり過ぎだった。下手をしたら、ノルが死んでいたかもしれない」
殺されかけるなど――。
「いや、兄さんが止めに入っていなければ、僕はノルを殺していた」
殺され――。
どうやら、俺は過去にルーカスに殺されかけたことがあるらしい。しかも、結構危うい戦いだったようだ。戦いが成立していただけマシか。
「許されようなんて思っていない。けれど、それでも謝らせてほしい。すまなかった」
ルーカスは腰を直角に曲げた。
許すか、許さないか。
被害者である俺には記憶がないし、加害者であるルーカスは深く反省している。これで俺が許さなかったら、この世界で許される者はいなくなるのでは?
「この償いは一生かけてする」
「良いよ別に。そんなこと言ったら、俺は謝らなきゃいけない相手が多すぎるし、きっと誰にも許してもらえない。まずは俺が許さなきゃ」
俺は手を立てて前後に振った。ルーカスが顔を上げる。
「頭を上げろ。俺を殺しかけたのはなかったことにはならない。俺が忘れていようと」
ルーカスは黙って、まっすぐ俺を見ている。
「けど、俺は許す。覚えてないことで謝られると居心地が悪いんだ」
ルーカスの戸惑いが伝わってくる。
甘いと言われるかもしれない。それでも、俺は許したい。
地獄では、殺し殺されが日常だったから、そもそも気にしていないというのもあるが。
「だから、さ。ルーカスが知っていることを全て教える。それで、終わらせよう」
ヒューゴはルーカスともう一人から逃げ回っていた。というか、俺と彼らが出会わないようにしていた。
俺はそれを、俺たちと彼らが敵対しているからだと思っていたが……違うのか?
それを確かめるために、俺は違う視点からの情報を求めた。
「僕としても、ノルには全部知った上で判断してもらいたい」
二人の意見は一致した。
「さて、何から話そうか。『魔神』は知っているかい?」
俺が静かに頷くと、
「じゃあ、僕たちの目的から話そうか。と言っても、団長は兄さんだから、兄さんの方が詳しく話せるだろうけどね」
ルーカスの兄――顔立ちからして、俺がこの街で会った人間だろうか。ヒューゴが面倒だと言っていた人間かもしれない。
「少し長くなるけど、僕たちについて、全部話すよ。嘘偽りなく」
次回予告。
ヒューゴはフィンレーを抑えるために、遠距離戦を演じているが――その旗色は悪い。
それでも、必死に食らいつき、なんとか戦いが成立していた。
「全く、人使いが荒いですね」
彼は、一人じゃない。
次回、4-8 時間稼ぎ
4-8 時間稼ぎ
ヒューゴはフィンレーと遠距離戦を演じていた。
空と大地全てに魔力を張り巡らせて、いつでも魔法を発動できるようにする。
「そこ、どけよ」
フィンレーが一気に距離を詰め、底冷えのする冷たい声で言った。
半分だ。お互いが点に見えるほどの距離の半分を、一瞬で詰められた。フィンレーはなおも止まらない。
更に加速し、ヒューゴの喉元に刃を届かせようとする。
ヒューゴも黙ってやられるわけではない。
空全体を真っ白な紙に見立てて、自分が思い描く世界を具現化させる。
今はただ、フィンレーの歩みを止めたい。
体が重いと動けないのではないか?
空気の抵抗が大きいと走りにくいのではないか?
それらの予想を確かめるため、現実を書き換える。
「ぐ」
フィンレーは苦悶の声を上げながら、更に速度を上げた。速く、疾く、迅く。速度は風を超え、雷に届く。
「あいつほどじゃねぇが、俺にだって扱える」
いつしか、その身に雷を纏って。
大気も、重力すらも振り払って、フィンレーはヒューゴに肉薄する。
その剣がヒューゴの喉を切り裂く寸前、ヒューゴの気配がかき消えた。そして、戦場の端に再出現する。
ヒューゴは胸に手を当てて、生きていることを実感した。
フィンレーの意識に空白が生まれたのは一瞬。すぐに、再出現したヒューゴに狙いを定め、走り出す。
彼を近づけてはならない。ヒューゴには格闘戦の心得はなかった。
近づかれる度に転移で逃げて仕切り直すのをずっと続けるのも、ジリ貧だ。いつか、フィンレーに喉笛を捉えられる。
ヒューゴにできるのは魔法を使うことのみ。そう、気合を入れ直して。
棒立ちになって、フィンレーを迎えた。
フィンレーは疑問を感じるが、止まらない。自らが定めた確殺の領域にヒューゴを入れて、剣を振るう。
その動作がみるみる遅くなり、ヒューゴは両手で剣を掴んで止めた。
「正気じゃ、ねぇ……」
「その言葉、真剣勝負だというのに手を抜いているお前にそっくりそのまま返すとしよう」
至近距離で、互いに悪態を交わす。
フィンレーには、通常の何十倍、何百倍の重力がかかっていた。いかに超人的な速度で動ける彼であろうと、それだけ重くなれば立っているだけでやっとだ。
逆に言えば、それだけの重さがあっても、フィンレーを潰すことすらできない。最初の重力圏では、フィンレーを捕らえるには力不足だった。
「てめぇの命懸けて、俺を止めようとしたんだろ?」
「はっ、戦いに命懸けも何もあるか」
フィンレーの言葉を、ヒューゴは鼻で笑った。
話している間も、ヒューゴは手を止めない。
大地に通した魔力を使って、初歩的な魔法を行使する。大量の物質の中から、目的とする物質を抽出する魔法を。ただし、その規模は規格外だったが。
フィンレーの雷が解け始める。
「電気は、空気より金属のほうが圧倒的に流れやすい。知らなかったか?」
フィンレーの雷が流れる先には、ヒューゴが地中から抽出した金属が。
フィンレーは転移でこの場を切り抜けようとするが、
「俺は塔の一件に関わりがある。何より、ノルの居場所を知っている。逃がすわけにいかないと思うが?」
ヒューゴが言葉を重ねて、フィンレーを引き留めようとしてくる。
フィンレーはそれが分かっていても、ヒューゴに付き合わざるを得なかった。人間界で魔法を使った事件が起きた時は、解決しなければならないから。その機会を手放すなど、決して許されないことだから。
「そうだな。なら、さっさと終わらせてあっちに行く」
フィンレーが魔法を打ち消した。
ヒューゴはもう一段階意識を引き上げて、魔力を練り上げる。
「やっと本気でやる気になったか」
「|悪《わり》ぃな。一瞬でケリつける」
「それは無理な話だ」
言葉を交わして、ヒューゴとフィンレーは同時に動き出した。
この超至近距離は、ヒューゴにとってあまりにも不利だ。
だから、まず距離を取る――しかし、フィンレーはそれを許しはしない。
限りなく痕跡を消した転移。フィンレーと最初に睨み合ったときと同じ程度の距離を取る。
魔力を限りなく節約して、込める密度を空や大地に込めた魔力の密度と同じにする。そうすれば、紛れて見つからない。
だというのに――
「逃がさん」
フィンレーによって、発動寸前だった転移魔法は打ち消された。
ヒューゴは一歩後ずさり、フィンレーから少しでも距離を取ろうとする。もう、打つ手はない。
「降伏しろ。その方が俺もお前も楽だろ」
そう、思わせた。
ヒューゴは空と大地に込めた魔力を霧散させた。
それにフィンレーが異変を感じ取って移動を開始するが、遅い。
引き金は既に引かれた。
「全く、人使いが荒いですね」
遠く、遠く、遠く。フィンレーの感知からも漏れるような超遠距離で、アシュトンが呟いた言葉すら置き去りして――、
ヒューゴはフィンレーの体をしっかり掴む。剣だけに高重力を働かせて、フィンレーが剣を抜くのを妨害した。
弾丸が到達する。
それは、フィンレーの胸を的確に捉え、その体内で動きを止めた。
「いくら団長様でも、それを治療しないと命に関わる。心配しなくても、俺は逃げない。ゆっくり治療してくれ」
「がはっ、ごふっ……時間は、取らせねぇよ」
フィンレーが治療しやすいよう、ヒューゴはフィンレーを離した。
フィンレーは深呼吸して、自身の右手を胸の前に持ち上げると、それを一気に体に突っ込む。
「ぐっ、ぁあ……変形してやがる」
やがて胸の中から目当てのものを探し当てると、手の中でしっかり握って、胸から出した。
胸からは大量の血が流れるが、まばたきを数度する間に傷口が塞がる。
フィンレーは取り出した弾丸に付いた血を拭って、日の光にかざしつつ、観察を始めた。
「なるほどなぁ。敢えて魔法的なアレコレは全部なしにして、発射する側に強化を施したのか。俺が気付けなかったのも納得だ。それに加えて、当たると変形するようになってやがる。貫通しないようにしたのか」
ヒューゴが切り札に施した工夫を、フィンレーはことごとく見抜く。そのことに冷や汗を流しながら、
「褒めていただいてありがたい。もう通用しないだろうが」
「ははははは! 魔法の感知をくぐり抜け、かつ致命的な傷を与え得る。十分以上に通用するだろう!」
ヒューゴの皮肉を、フィンレーは笑って受け流した。
「良いぜ、付き合ってやる。お前の時間稼ぎによ」
「なんのことだか分からないが……殺しにかかられないのはありがたい」
「何をしようとしてんのか知らんが、ルークは強いからな。俺がいなくてもやれる」
第一関門はクリアだ。ヒューゴはフィンレーに瞬殺されず、時間稼ぎに付き合ってもらえるという。
後はこれを続けてもらえるか。ヒューゴが少しでも隙を見せたらその時点で終わらせにかかるだろう。できるだけ、今の状況を続けなければ。
ヒューゴは魔力を再展開し、フィンレーとの戦いの再開に備えた。
次回予告。
ルーカスの話を聞いて、ノルは自分がどう動くべきかを改めて考える。
ヒューゴにつくべきか、ルーカスにつくべきか。
やがて、ノルは一つの結論に達し――爆弾を、放った。
次回、4-9 決別
4-9 決別
アシュトンめ。一番大切な情報を伏せていたな。ルーカスたちも『魔神』の打倒を目的としているということを。
「僕の話は終わりだけど、何か聞きたいことはあるかな?」
「一つだけ」
俺は指を一本立てて、
「ルーカスは、なぜそんなに邪神を敵視するんだ?」
この答えによって、今後の俺の動向が変わる。
単に邪神を敵視するだけなら、邪神を殺した俺は歓迎されるだろうし、邪神に関係する者は全て敵だというのなら、俺は当初の計画を実行する。
俺の質問に、ルーカスはさっと目を伏せて、
「妹――と言っても、義理の妹だけどね――が、邪神の信奉者に殺されたんだ。彼女は、強く、優しい女性だった」
ひどく沈痛な声だった。
「妹を殺した人間はすぐに皆殺しになったけれど、それで妹が戻ってくるわけじゃない。未だに、僕が死んでおけばって、そう思う時があるんだ。だから、ただの人間だったはずの存在にあんなことをさせた存在を、邪神を、絶対に許さない」
ルーカスは手のひらに爪が食い込むほど、強く拳を握り締めた。
これは、俺が地獄から出てきたことを言うと戦いになるな。互いに相手を殺すまで終われない戦いに。
世間一般では、地獄に閉じ込められているのは、邪神と邪神に|与《くみ》した大罪人ということになっている。俺にはそんなつもりはないが、ルーカスの目には俺も邪神の信奉者と同じに映るだろう。
ルーカスの元へ戻るのはなしだ。いつか地獄にいたことが明るみに出て、ルーカスに四六時中付け狙われる羽目になる。
となると、このままアシュトンやヒューゴのところへいるということだが――それも気乗りしない。彼らは、人間界に模擬魔獣を放って性能試験を行っていた。そんな彼らの組織に所属するということは、白い目で見られても文句を言えないということ。
犠牲者がどれだけ出ようが、全く気にしない。そんな組織とルーカスたちは、人間界と魔界ということもあって、敵対しているらしい。
ルーカスと、ヒューゴが面倒だと言っていた相手。それらが纏めて敵に回るのは避けたい。
「これで、質問の答えになったかな?」
「とても」
俺は深く頷いた。ルーカスたちの組織に所属してはいけない。そして敵対してもいけない。
俺が目指すべきなのは第三勢力。アシュトンやルーカスの追跡から逃れ、自分のわがままを通すだけの力が要る。
そのために、まずは俺を死んだと思わせる。ルーカスだけでなく、ヒューゴにも。
「ノル?」
ルーカスに、さて何と答えたものか。
起爆剤となる言葉が欲しい。ちょうど良い言葉が頭をよぎる。ああ、それにしよう。
「――俺は、地獄から出てきた」
爆弾を、放った。
「――。それは本気で言っているのかな?」
ルーカスは一瞬だけ思考を止めて、俺に確認してきた。
冗談の類を本気で受け止めて、無実の相手を殺したら目も当てられないからな。ある程度の理性はあるらしい。
「ずっと本気だよ」
「そうか」
それが、俺たちの会話の最後だった。
目にも留まらぬ速さで剣が抜かれる。俺の腕に向けて振るわれたそれを左手で受け止め、俺はルーカスを見た。
「その言葉、取り消すなら今のうちだ」
「取り消すも何も、真実だからなぁ」
剣を素手で握った俺の手から血が流れ、地面に赤い染みを作る。何滴目かも分からない|滴《しずく》が地面についた瞬間、俺とルーカスは同時に動き出した。
剣が引き戻される。そうさせまいと俺は剣身を強く握ったが、剣は指を切り落として引かれた。
地面に落ちた指を風で回収し、断面につけて魔法で回復を促進する。あれだけきれいに切り落とされていればすぐに治るだろう。
指のいくつかを同時に失っても顔色一つ変えない俺に、ルーカスは眉をひそめた。
「一体どんな環境で……いや、むしろ納得できる」
一体世間一般で、地獄はどんな場所だと思われているのやら。体の一部を失っても平気で戦闘続行できるのは一部の修羅で、俺はくっつく自信があったからだ。
この距離なら俺も肉弾戦で応じよう。
俺は剣なんて武器、持っていない。リーチの差があり、俺に不利だ。試しに、相手の武器を消してみるか。
『権能』――消去。
手応えなし。弾かれた。ルーカスも剣が大事なものだと理解しているのだろう、その保護には余念がない様子だ。
それなら、俺も武器を生み出すまで。『権能』――作成。ルーカスの剣をコピー!
聞き覚えのある音を立てて、俺は剣を握った。徒手空拳だと負ける確率が高くなりすぎるから、仕方ない。
「僕の剣。でも、ところどころ違うみたいだね」
一発で見抜いたか。俺は邪神の権能を完全には制御できていない。だから、今回のように、見た目は同じでも中身が違うことが起こり得る。
「よく分かったなあ!」
右足、強く踏み込んで勢いを加算する。ルーカスは剣を両手で持って受け止め、勢いすらも殺した。
その足元には、大きな足跡ができている。しっかり踏ん張った証だ。
「このままじゃ、君は僕に届かないよ」
ルーカスに、その長い脚による蹴りを叩き込まれた。
「悪手だろ」
「僕が考えなしの馬鹿だとでも?」
今、俺が欲しかったのは距離だ。それを、ルーカスは蹴りで吹き飛ばすことで、自ら提供してくれた。
「がっ!」
背中に強い衝撃が走る。建物だ。廃墟の壁にぶつかった、いやぶつけられた。
魔法で回復力を強化し、立ち上がる。距離はほとんど稼げていない。相手も、俺に距離を稼がせてはならないのは分かっていた。
時間だ。時間を稼げ。俺は月が昇る前から作戦を開始していた。後もう少し、ほんの少ししたら月が昇る。月が昇ればこっちのもの。
「最後になにか言い残すことは?」
俺の元へすぐに駆けつけたルーカスは、俺の首元に剣をあてがった。鋼の冷たさが、火照った体に気持ち良い。
「まだ終わりじゃない」
そう言って後ろへ意識を向け、魔力を高めた。
ルーカスもつられて後ろへの警戒を強める。実際には何もないというのに。
俺は姿勢を低くして、ルーカスの横を一気に駆け抜けた。とにかく距離を取る。
低い建物の上に跳び上がり、走る。手頃な高さの建物を見つけたら、そちらへ。そうしてどんどん上へと昇っていき、有利な場所を勝ち取る。
よし、ここらで一番高い建物に到達した。魔法で身体能力の上限を少しだけ突破し、体に無理をさせただけのことはある。
ルーカスは――まだ下か。
ん? さっきの位置から一歩も動いていない。
違和感を覚えたときには手遅れで。
「まほ――っ⁉」
俺と同じように、世界を書き換えて自分の望む結果を生み出す技。それが使われる気配を感じて、俺は身構えた。
魔力を使って妨害し、書き換えてしまおうと企むが――。
「っ、干渉できない!」
それは、魔力での干渉を一切受け付けなかった。この強度、魔法より邪術の方に近い。
ルーカスの術は発動寸前。威力は高く、範囲は狭く。そう設定されていた。
避けるだけならいけるか? 分からない。
ここに来た時と同じように、建物を順に下っていくには時間が足りない。
俺は腹をくくった。屋上の端に移動し、姿勢を低くして、助走をつける。そのまま――屋上の端を蹴って、体を空へ躍らせた。
俺の体が空中で静止したのはほんの一瞬。すぐに重力へ引かれ始め、地面がみるみるうちに近づいてきた。
体を金属と同じぐらい硬くして、衝撃に備える。
俺は見た。ルーカスの術を。
あれだけの規模のものを発動するのに、どれだけ練習したのか分からない。
あれをきちんと制御するのに、一体どれだけの努力を要したか分からない。
たった一つ、確かなのは――その威力だ。
空が一瞬だけ光って、爆音が耳をつんざく。
建物の中に残っていた可燃性のものが燃え、窓から赤い光が見えた。
俺が被害を受けなかったのは、本当に偶然。
もし、あのまま屋上にいたら。俺は建物と一緒に、その生を終えていただろう。
それだけ強力な現象で。だからこそ、扱いが難しい。
――雷というものは。
着地に失敗すれば大怪我は免れず、その結果として死がやってくる。そう思えば緊張するのも無理ないことか。
その瞬間のために、思考が研ぎ澄まされていく。いつもの何倍もの速度で頭が回転し、体も思い通りに動く。
地面。タイミングを慎重に測る。
伸ばした手の感覚が、その衝撃で一瞬だけなくなった。
接地したと同時に、一回転し、落下の衝撃を殺す。当然受け身も取った。
ルーカスは――見える範囲にはいない。
ただし、油断は禁物だ。彼は、一瞬で俺との距離をゼロにできるのだから。転移を使わずに、その足で。
雷に打たれた建物を見る。ひどい状態だ。
更に、かろうじて残っていたガラス窓を叩き割る音があちこちから聞こえる。ルーカスが俺を探しているのだ。
俺が脱出に成功したことに、ルーカスは気づいていない。この隙に、建物からそっと離れよう。
そうして、数歩歩いた時。俺は、足を止めた。
「やっぱり、ノルがあれで死ぬとは思えなかったんだ」
ルーカスがぞっとする声で、俺の耳元で|囁《ささや》いた。
俺の首筋を薄く切り裂く剣の感覚に、背中に汗が伝う。
これは、脅しではない。現に、俺は傷を治し続けているのに、血が止まる気配がない。ルーカスが俺の首筋にずっと剣を押し当てているのだ。
「地獄の様子、詳しく教えてくれないかな。今度、一気に攻め立てようと思っているんだ」
「話しても良いが……素直に言ったところで、信用してくれるか?」
「しない」
――俺が足を止めたのは、ルーカスの剣が原因ではない。歩く必要がなくなった、もっと言えば、逃げる必要がなくなったからだ。
やっとだ。ようやく、反撃に移れる。
俺は、天に手を伸ばして――その先にある、月を仰いだ。
――接続開始。
次回予告。
月は昇った。ノルは全力で、ルーカスに挑む。
「俺が勝つ」
次回、4-10 滅びろ
4-10 滅びろ
久しぶりの充実感。しかし、それをじっくり味わっている暇はない。
「『|荒れろ《フールフール》』」
突風で建物が震え、砂塵だけでなく、比較的大きな瓦礫も巻き上げられる。
巻き上げられた瓦礫は風に従って、俺とルーカスの元へ。ルーカスは身を守るため、俺の首から剣を離した。
「『|転移《バティン》』」
建物の陰に転移し、ルーカスの視界から外れた。遠く離れたところに転移し、追跡を振り切るのはなしだ。何のためにルーカスを挑発して、この盤面に持ち込んだのか。
突風は一瞬で過ぎ去り、巻き上げられた瓦礫も地面に散らばる。
俺が逃げ出したことに気がついたルーカスが、俺を探し始めた。
俺がこの状態でいられるのはごく短い間だけ。そろそろ決着をつけなければならない。
どれが良いかな。純粋な戦闘で使える邪術は少ない。極端なものが多く、扱いが難しいのだ。
「これかな」
「――見つけた」
俺の呟きとルーカスの声がぶつかり、ルーカスの剣と、俺の唇は同時に動き出した。
「ふっ!」
「『|焼き尽くせ《フラウロス》』」
炎がぼろぼろの廃墟の群れごとルーカスを焼き尽くそうとするが、ルーカスはそれを意に介さず、炎を突き破って突っ込んできた。
汎用性が高い攻撃用の邪術では、これが精一杯か。
俺はバックステップでルーカスの一振りを回避しながら、次の攻撃について考えた。
俺は場を作らなければならない。ルーカスが俺との戦いに集中し、他のものへの意識が逸れる場を。感情を刺激して、判断が乱れる場を。
ルーカスの剣を避ける。身体能力にはほとんど変わりないが、強力な手札が増えたことで精神的な余裕は大きい。
ルーカスの剣を避けて、後ろに下がる、下がる。
『|荒れろ《フールフール》』。今回発生するのは、風ではなく雷。
「やっぱり、雷ってのは良い。派手で、使い勝手も良いからなぁ。まぁ、そんな雷の使い手でも、死ぬ時は死ぬが」
ルーカスが雷に耐えた後に、あえて接近して聞こえやすいように言った。肉が焼け焦げるにおいがするが、すぐに収まる。
俺の予想だと、ルーカスは妹関連の話題に弱い。特に、妹を侮辱されれば、
「尋問が終われば一撃で屠るつもりだったけど、それは聞き捨てならないな。君だけは、どれだけ苦しんでも再生させて、とことん苦しませてからとどめを刺す」
感情的になるはずだ。こんなふうに。
言葉遣いは崩れていない。それでも、ルーカスがここまで言うのを聞いたのは初めてだ。
「楽に死ねるとは思わないことだ」
ルーカスの攻撃が勢いを増す。俺はそれに押されているふりをしながら、
「|焼き尽くせ《フラウロス》!」
俺が呼び出したのは全てを焼き尽くす炎――ではない。
別に、邪術の名前を口に出したら、その邪術を発動しなければならないなんて決まりもないし。
姿形は似ていても、その本質は全く異なる。
『|焼き尽くせ《フラウロス》』が全てを焼き尽くした後の荒野から再生が始まるなら、これはそうではない。一度滅びたものが再生を始めるのに、どれだけの時間がかかることか。
炎は俺とルーカスの間の空間を焦がし、火花は廃墟の街を灰に変えていく。
これ即ち、滅びの炎。――『|滅びろ《アイム》』。
ルーカスが普通に斬っただけでは、この炎を散らすことはできない。ルーカスもそれは理解している。
彼は一度後ろに飛び退いて、この炎への対処方法を考えるつもりのようだ。追撃はしない。彼の用意ができるのを待つ。
用意ができたらしい、ルーカスが剣に光を宿して、一瞬で距離を詰めた。
俺も見逃さずに捉えている。『|滅びろ《アイム》』に注ぐ邪気の量を増やした。
斬ることができないはずの『|滅びろ《アイム》』に、その光は迫る輝きを見せている。
相手の取って不足なし。滅びの炎と、それを斬り裂く希望の剣。
場は整った。後はお互いに、全力を出すだけ。俺が頑張れば頑張るほど相手は応えてくれる。
炎と光がぶつかって、バチバチと音を立てた。
衝撃波が生まれ、互いの髪を揺らす。肌を震わせる。足が後ろに下がろうとする。
少しでも気を抜いたら、炎が散逸してしまいそうだ。それは相手も同じはず。
しかし、それでも。俺は歯を食いしばって、一歩、ルーカスの方へ歩みを進めた。
「俺が勝つ」
「僕は負けない」
互いに気合十分。炎も光も、相反する性質を持つが、同じ強度の力によるもの。だからこそ、拮抗が成立している。
これらが掻き消えるのは、術者が術を維持できなくなった時のみ。言い換えると、精神が敗北した時だ。
一歩。互いに更に強く拒絶し合って、術者である俺たちにも影響が及ぶ。
剣の光に込められた『斬る』という概念、俺に対する怒りが、直接触れてもいないのに俺の肌を斬り裂く。
俺は邪術の制御に集中するため、通常の視界を切った。世界の全てを情報で認識する。
その情報の世界には、異常が起きていた。
情報が表すのは、たった二種類の内容のみ。
ルーカスの剣に斬られたか、俺の炎に焼かれ、滅ぼされたか。
世界が二つに塗りつぶされ、余波で廃墟の街が更地に還っていく。ルーカスの背後の建物が消え、俺の周りの建物が灰になって風に溶ける。
お互いにお互いを押し切ろうと、手元の制御に全身全霊を傾ける。
「おぉぉぉぉおぉ!」
「あぁぁぁぁあぁ!」
気づかないうちに、喉から雄叫びが飛び出していた。
ルーカスの意識が俺の攻撃に大きく傾いた瞬間――今しかない。
『権能』――人形をコピー!
俺が得た力の中で最も新しい力、完全な制御はできない。しかし、生み出す物質の種類と量ぐらいなら指定できる。
人形の材料が現れていく端から、人形の形に成形していく。
邪術に注ぐ力を少し減らした。制御に割く意識も分割する。
ぶつかり合う力が人形の存在を隠してくれる。だから、人形を隠そうと努力する必要はない。
人形が完成した! 後は俺と入れ替えるだけ!
俺が邪術の制御を緩めたため、ルーカスの光がほんの少し優勢になっている。
良い感じだ。このまま押し負けたふうに演出すれば、俺の死をすんなり信じてくれるだろう。
転移の準備! これだ。この、転移が一番の鬼門。決してルーカスに感づかれてはならない。
『|欺け《バラム》』発動! これは、世界の矛盾を成り立たせる。
何かをすればどこかに影響が出る。そして、それをルーカスは見逃さない。
この理屈には何も干渉せず、ただ世界に「何の変化もない」という結果だけを押し付ける。
どこに逃げるか? そんなのは知らない。人間界以外だ。
そろそろ押し負ける。俺の不利を確信したルーカスは、剣に更に力を込めた。
時間がない。『|転移《バティン》』発動! 行き先は魔界のどこかで。
俺は邪術の制御を完全に手放し、炎を塗りつぶした光に飲み込まれる寸前、魔界に転移した。
「は――、は――、は――っ、はっ、はっ」
俺は荒い息を何度も吐き、心臓は激しく鼓動している。
俺は地面に大の字になって倒れ込んで、心を落ち着ける時間を作った。
やった。やり遂げたぞ!
ルーカスを騙した。ヒューゴの裏をかいて、肝心要のところは自力で、俺の力で成し遂げた。
一体、ここは魔界のどこだろうか。いや、どこだって良い。
ルーカスやヒューゴの動向も、今だけは全てを忘れて、ただ達成感に浸っていたい。
次回予告。
ノルは、本当に彼らを騙し切れたのか?
人形がルーカスの光を受けた後の、彼らの動向を描く。
「頼む。生きてくれ。僕はまだ、君のことを知らないんだ」
次回、幕間五「きっと、良い友人に」
幕間五「きっと、良い友人に」
形勢が傾く。炎が少し弱まって、光がその分を塗りつぶさんとより強く輝く。
己の力だけで炎を塗りつぶせるか? 決して楽ではない。だが、できないわけではない。なら、太陽は呼ばない。
そう心に決めて、己の限界に挑んだ。
「おぉぉぉぉおぉ!」
自分の知らない、自分の声。こんなふうに声を出したのは、幼少以来。何年ぶりだろうか。
不思議なことに、力が湧き出てくる。限界だと思っていたものの奥から、自分も知らなかった力が溢れ出てきていた。
剣に込める力を更に増やして、ノルの炎に光を押し付ける。少しずつ、空をたゆたう雲のような速度で、徐々に光が広がっていく。
――押し切れる。
手応えが小さくなっていく。ノルの炎が弱まったからなのか、ルーカスの力が増大したからなのか。
全身全霊を剣に注ぐ。
溢れ出る力は失われ、代わりに剣に膨大な力が渦巻く。
ノルの炎が、完全に制御を失った。ルーカスの光が炎を飲み込み、二つに分けられていた世界が一つになる。
「は――、は――っ、はっ、は」
ルーカスは深く息を吐いて、自分が成し遂げたことへの興奮に浸った。
限界を超えた。世界の一部を塗り替えた。
フィンレーなら余裕だっただろうか。きっと彼ならそうだったに違いない。それでも、彼に一歩、たった一歩でも近づけたことを、誇りに思う。
「ノル」
ルーカスは慌てて、|人形《ノル》に駆け寄った。
死んではいないだろう。
ルーカスとあれだけ拮抗した力の持ち主だ。押し負ける寸前、防御に力を入れたのだろう。ひょっとしたら、それで手応えが軽かったのかも。
――もし、これすらもノルの作戦だったとしたら?
そんな考えが頭をよぎった自分に嫌悪感を覚えながら、ルーカスは足を止めた。
「ノル?」
ノルの全身はぼろぼろで、血が出ていないところなどない。おかしい。ルーカスの攻撃が到達する瞬間、自分の身を守っていたと思ったのに。
――それに、これだけ出血しているなら。
嫌な予感がして、ルーカスはノルの脈を確かめた。
「――っ」
脈がない。
死んでいた。
「なぜ。どうして」
少しでもルーカスの攻撃を防御しようとしていれば、ここまで傷つかなかったはず。
なぜわざわざ死にに行こうとしたのか、その理由を考えながら、ルーカスはノルの治療をする。
ルーカスの攻撃でぼろぼろになる前に、ノルの体を巻き戻す。
「――。原因は?」
思考が一瞬止まり、自分に問いを投げかけることで思考を再開させる。
「威力……いや、効果か? 初めて使った技だ。僕も知らない効果があってもおかしくない」
その場合、巻き戻す参照元がないため、ルーカスの治療が効果を発揮することはない。
「兄さんに伝えないと」
ルーカスの判断は速かった。
ルーカスの兄、フィンレーなら、ルーカスが修復できない情報も修復できる。
どうやっているのかとルーカスが聞いても、彼は「勘だ」と答えるばかりで、やり方を教えてくれなかった。教えてくれていれば、すぐにノルの蘇生に取りかかれたのに。
ルーカスは悔しさを感じながらも、冷静に転移術式を組み上げていく。
「後悔するのは後だ。今は、一秒でも速く兄さんのところへ」
後悔したところでルーカスが情報の修復の仕方を知れるわけではないし、ノルが生き返るわけでもない。
「頼む。生きてくれ。僕はまだ、君のことを知らないんだ。お互いのことをもっと知って、隠し事なんてなかったら、どうなっていたんだろうな」
この時のルーカスの心には、ノルが持っている情報への欲はなかったと断言できる。
心がぎゅっと締め付けられ、言葉の最後が少し掠れた。
決してありえない仮定にありえない可能性を積み重ねたただの妄想だが。
もし、ノルが人間界や魔界の生まれで。
ルーカスも、ノルと同じところで学び。
ルーカスの妹が、まだ生きていたら。
そんな薄氷の上に成り立つ可能性を、ルーカスは幻視した。
そうだったら、どんなに良いだろう。
互いに同じ立場で、同じ方向を向いて進む。
それができたなら、どんなに良かっただろう。
何か、何かが一つ違っていれば。
壁はもっと薄く、低くて。
多少の障害は乗り越えて。
きっと、ノルは良い友人になっただろう。
――だがそれも、もう叶わない。
ルーカスはノルを抱えて、フィンレーの元へ転移した。
次回予告。
|主人公《ノル》が知らない、幕間の出来事は続く。
ルーカスは、戦いを続ける兄の元へ向かう。
兄なら、きっとノルを助けられると信じて。
「これで蘇生して……それで良いのか? 俺の勘で埋めて、それで本当に――ノルだって言えるのか?」
次回、幕間六「組織の長として、兄として」
幕間六「組織の長として、兄として」
「お」
フィンレーは誰かが転移しようとしていることに勘づき、小さく声を漏らした。
それを隙と見たヒューゴが、一気に攻めへと転じる。
魔力をよく練り上げて、よどみなく動かし、世界へ干渉する――間違いなく成功、間違いなく美しい魔法の行使だった。だというのに、世界はヒューゴの干渉を拒む。
「遊ぶのは終わりだ。誰か来る」
フィンレーが真剣な声色で呟いて、駆ける。
先ほどまでと同じ速度、同じ技のキレ。
そうなら、おかしいではないか。
なぜ――なぜこんなにも、ヒューゴを子供扱いできる?
フィンレーの拳を避ける。避けて、後ろに下がる。
「ぐっ」
下がったところには、フィンレーの蹴りが置いてあった。
フィンレーが誘導しているわけではない。
ヒューゴにはいくつも選択肢があった。
後ろに下がらなくても反撃することもあっただろうし、動かずにさばくことだってあったはずだ。
だから、これはただの偶然。
偶然、フィンレーが攻撃を置いたところにヒューゴが飛び込んできて、自分から攻撃を受けに行く。それがずっと起きているだけ。
ヒューゴには何が何だか分からないだろう。
なぜ、自分が回避する先々に次の攻撃があるのか。誘導されていることもないのに。
「勘だ」フィンレーはその手の質問に、全てその答えを返してきた。
ヒューゴが、どうやって攻撃を避けるか、防ぐか。それらのヒューゴの行動を勘のみで当てて、フィンレーは攻撃を続ける。
ヒューゴが魔力で世界に干渉しようとしても、世界はヒューゴを拒み続ける。
「何を……した」
フィンレーの攻撃が当たる直前、ヒューゴが声を絞り出して、魔法が使えないカラクリを聞いた。
「教えねぇよ。教えたところでどうこうできるものでもねぇが……対策されたら困るからな」
フィンレーが自分の力について、敵に丁寧に教えることはない。
しかし、ヒューゴは、この現象がフィンレーによって引き起こされたこと、対策できるものであることを知った。
絶対に忘れてはならない、必ず情報を持ち帰ると心に深く刻み――、
「じゃあな」
フィンレーの本気の蹴りで吹き飛ばされ、意識を失った。
「ルークか」
つながれていく空間を見て、フィンレーは空間の向こうにいる相手はルーカスだと断定。
出てくるのを静かに待つ。
転移を行った相手を見て、フィンレーは軽く目を見開いた。しかし、それを口に出すことはない。|弟《ルーカス》なら、必ず事情を説明してくれるから。
ルーカスは、血まみれのノルを背負っていた。
ノルを地面に寝かせて、
「兄さん、頼む。ノルを……ノルを助けて」
状況の説明もなしに、そう懇願した。
「ああ、分かった」
フィンレーはこれが切実な状況だと理解し、すぐに治療の準備に移る。
(死んでんな)
ノルの体に刻まれた情報を見て、フィンレーは軽く|呻《うめ》いた。
(情報が消されて、死ぬ前の状態が分からねぇ! 断片的に残った情報から推測するしか――でも、それで蘇らせてもそれはノルと言えんのか? 俺の推測が混ざる以上、やっぱりノルと違うところが生まれるんじゃねぇか?)
ノルを蘇生すべきか、否か。
ノルが持つ力は唯一無二で、他の何ものにも代えがたい。だから、ここで蘇生すべきだ。
損得を考える頭は、組織の長としてのフィンレーの心は、そう言っている。
ルーカスはノルを気にかけていた。
ノルは邪神の使徒でルーカスの復讐対象。
それが|覆《くつがえ》ることはないが――いつか、ルーカスとノルがその壁を超えて。お互い、良い友人になるのではないか。そんな予感がする。
ルーカスを、復讐から、憎しみから、解き放ってやりたい。そんなノルを、不確かな情報で埋めて蘇生して良いものか。
兄として弟を想うフィンレーの心は、そう言っている。
二つの選択の間で揺れながらも、フィンレーはノルの蘇生の準備を進めていた。
ほとんどの情報が欠損し、生前の状態は残された断片から推測するか、記憶の中から補うしかない。
フィンレーは気負わず、全てを勘で埋めた。
ここまで来られたのも、生き残ってきたのも、全て勘のおかげ。だから、自分の勘には全幅の信頼を置いている。
後一欠片。そこまで蘇生の準備を進めたフィンレーは、ルーカスに尋ねた。
「これで蘇生して……それで良いのか? 俺の勘で埋めて、それで本当に――ノルだって言えるのか?」
「そんなことはもうとっくに分かってる。それでも、蘇生して。蘇生して、ほしい」
自己満足かもしれない。傲慢かもしれない。人として、それはありえないのかもしれない。
けれど、ルーカスはノルの蘇生を望んだ。
なら、兄として、実行するまでだ。
最後の一欠片を補完し、満を持して状態の巻き戻しを実行。
蘇生は問題なく発動し、ノルの体に温かさが戻――
――蘇生は発動せず、ノルの体は冷たいまま。
「はっ?」
「なんで」
フィンレーもルーカスも、この結果は予想していなかった。
驚きと、焦りと、疑問が頭を支配し、思考に長い空白が生まれる。
数分後、再起動を果たした二人は原因の調査を始めた。
「魔法。これだけ痕跡を消せるということは、先ほどの男の仕業だろうか」
「魔法か。さっきのやつと似た感じがするな」
二人の結論は一致した。
「けれど、魔法なら僕たちが上書きできるはずだ」
「魔力密度が高かった? いや」
「「別の力を使われた」」
二人の言葉が重なった。
「僕がノルと戦った時……初めて戦った時だ、ノルは魔法より僕たちの力に近い力を使っていた。邪神の力じゃない。もっと、世界になじみやすい何か」
「じゃあ、その力が使われたと仮定して、ノルがわざわざ自分に使うとは思えねぇから、誰か別のやつがやったんだ」
「なら、先ほどの男が有力だ。兄さんの足止めをしようとしていたようだし」
「……」
「兄さん?」
急に黙り込んだフィンレーを、不審に思ったルーカスが声を掛ける。
「俺もそう思うよ。――用事ができた。ルークはノルの体をその状態で固定しておけ」
「分かっ――」
ルーカスの返事を待たず、フィンレーは転移した。
次回予告。
ノルの死の原因に、フィンレーは心当たりがあった。
フィンレーは、同じ目標に向かって進む盟友のもとに向かう。
「なぜノルを襲わせた?」
次回、幕間七「あなたじゃない」
幕間七「あなたじゃない」
フィンレーは眩しさに目を細め、天井に手をかざした。
天井は高く、遠い。フィンレーの身長の、優に三倍はあるか。
人はおらず、フィンレーが息をする音だけが聞こえる。
床には赤い絨毯が敷かれており、フィンレーの足音を殺していた。
フィンレーは廊下の奥へ歩みを進め、やがて突き当たりにある部屋の扉の前に立つ。
大きな取っ手がついた重厚な扉が、その先への道を閉ざしていた。
フィンレーはその扉を、容赦なく開け放つ。
扉は音もなく開き、暗い室内へ光を招き入れた。
「……む。勝手に入るのはよくない」
「どういうつもりだ」
部屋の主の女の声を無視して、フィンレーは女に詰め寄った。
「座るといい」
しかし、女には全く効果がなく、椅子を勧められた。
女の手が椅子をぽふぽふと叩く。
「良いから俺の質問に答えろ」
「座らないと答えない」
フィンレーは舌打ちして、椅子にどっかり座った。
「なぜノルを襲わせた? さっきの一件で確信した、ノルは抜け出したんじゃねぇ、さらわれたんだ。挙げ句ルークにぶつけて殺させて。何が狙いだ、セージ」
「質問が多い。一つずつしてくれないと的確な回答ができないかも。それと、今のわたしはアルフィー」
どんどん感情が乗って激しくなっていくフィンレーの声に、セージは淡々と答えた。
フィンレーのことを何とも思っていない様子で、一向に話が進まない。
「どっちでも良い。一つ目の質問だ、なぜノルを襲わせた?」
「ルーがいるから、あなたのところよりわたしのところのほうがいいと思った。でも、強奪してなんて言っていない。あれはアッシュの独断。代わりに謝罪する」
言いながら、セージは執務机の紅茶に口をつけた。
「物扱いかよ。まあルークがいるからっつーのは納得できる。ってか、謝罪するならちゃんと謝れ。それは謝罪じゃねぇ」
「でも、結果的にノルの記憶は消えて、わたしたちの都合のいいように操作する機会を得た。そこまで悪いことじゃない」
「結果論だろうが」
そこでフィンレーは机に手を伸ばし、
「俺の分は?」
「ない」
セージは、また紅茶を一口含んだ。
「急に押しかけた俺が|悪《わり》ぃか……。でも、これみよがしに飲むのはやめてくれねぇ?」
「喉が渇いただけ」
セージは、フィンレーを見て口角を上げた。
「話を戻す。結果論が悪いとは思わないけど……質問はそれでぜんぶ?」
「……二つ目だ。なぜルークにぶつけた? 今のルークにノルを会わせると、ああなることは分かってたはずだ」
「その件について、わたしは一切関与していない。ただ椅子に座って『よきにはからえ』と言っていただけ」
「つまり、また下のやつの独断ってことか。つーか、今の話が事実だとしたらお前が許可を出したって思われてんじゃ」
「可能性は否定しない」
セージは口を湿らせて、
「早く本題に入ることを勧める」
紅茶のカップを置き、手元から遠ざけた。
「ノルがルークとやり合って死んだ。なぜこんなことを許した?」
「知らない。わたしは一切――」
セージの言葉に被せるように、フィンレーが言葉を続ける。
「下のやつが勝手にやったなんて言わせねぇ。お前が一切把握してねぇなんてこと、ありえねぇからな」
セージは自らの白に近い灰の髪をいじりながら数秒考え、
「ノルは、わたしたちが縛っていい存在じゃない。それはあなたもわかっているはず。だからなにもしなかった」
「それだと最初の答えと食い違うが?」
「その時々で最適な答えは変わる。あの時はそうで、今はこうだというだけ。心配しなくても、すべてはうまくいく」
フィンレーの追及をセージはひらりと避けた。
「それは分かってる。俺の勘もそう言ってんだから。――どこまで計算づくだ?」
フィンレーもそれは分かっていると、どこまでが手のひらの上だったのかと問うた。
「あなたはほんとうに不思議。その勘がなければ、優れたものは戦いだけ。それも、彼女には及ばない。でも、その勘だけでわたしに追いすがってくる」
「何が言いたい?」
フィンレーが声を低くして尋ねると、
「少し回りくどかった。その時がくれば、あなたの勘が教えてくれる。どう行動すればいいのか。だから、心配しなくていい」
「答えになってねぇ」
フィンレーが再度答えを求めるも、
「わたしがどこまで手を回しているかなんて、フィンには関係ないこと」
これ以上言葉を重ねるつもりはないようだった。
「質問はこれで終わり?」
「次で最後。何が目的だ?」
分かりきっているはずのことを、尋ねた。
「魔神の打倒。多少の犠牲はしかたない」
フィンレーも同じ考えだった。だから何も言い返せず、
「お前が言う『多少』って?」
と、具体的な数を聞くに留まる。
「国ひとつ分」
さらりと言われた言葉の大きさに、フィンレーは目を|剥《む》いた。
「馬鹿か⁉ 世界を守るためにそんなに殺したら、本末転倒だろうが!」
「声が大きい」セージは耳をふさいで、先ほどまでと変わらない調子で言った。
「犠牲は少ないほうがいい」
「だから俺も言ってんだ! 国一つ分なんて多すぎるだろう!」
「世界全体と比べれば、ごく少数。大国を滅ぼすとは言っていない。小国ひとつ分」
フィンレーは頭を抱えた。考え方がどこまでも合わない。
「フィンは犠牲を出さずに魔神を倒せると思ってるの?」
セージは諭すように語る。聞き分けのない幼子に接するように。
フィンレーは強く歯を噛み締めた。
分かっている。
自分には力がない。足りないのだ。
自分のわがままを貫く強さも、多くの人を惹きつける強さも。
それらを持っていたのは、ただ一人――。
「それができる可能性を持っていたのは、彼女だけ。あなたじゃない」
セージの瞳はどこまでも遠く、遠くを見つめている。
そこには様々な感情が渦巻き、それらの正体は彼女以外に悟らせない。
もしかしたら、彼女にもその正体はつかめていないのかもしれない。
気を抜けば溢れそうになる感情を、セージは覚悟の光でねじ伏せて、再びフィンレーを見つめた。
「分かってる。でも、最初から諦めるのはちげぇよ」
「わたしは諦めるとは言っていない。なるべく犠牲が少なくなるようにがんばるつもり」
セージは一瞬視線を迷わせて、
「あなたの助力なしでは不可能。死ぬ気で手伝ってくれるなら、もしかしたら」
彼女にしては珍しく、歯切れの悪い物言いだった。
フィンレーはまばたきして、
「絶対に最善を引き寄せてやる。死んでもな」
そう、力強く宣言した。
セージは紅茶を口に含んで、書類に目を落とす。
「予定がある。話はもう終わり?」
言外に「帰れ」と言われ、フィンレーは椅子から立ち上がった。
「お前、もっと素直になった方が絶対良いぞ」
あの日から同じ目標に向かって進み続ける盟友へ、本心からの忠告を。
そこに苛立ちや嫌悪の類は一切なく。
「検討する」
明日覚えているかすら怪しい投げやりな返事に見送られて、フィンレーはセージの――アシュトンやヒューゴら魔法使いの長の執務室を後にした。
執務室を出ると、重厚な扉の外で静かに待つ人間がいた。
誰もいないと思って、つい長話をしてしまった。
だが、セージは曲がりなりにも組織の長なのだ。書類仕事に追われたり、人と会ったり、部下の報告を受けたりと、忙しいはず。
「わりぃな」
待っていた相手も、どうでも良い下っ端ではないだろう。
そんな忙しい存在を待たせてしまったことに罪悪感を覚え、軽く謝った。
あまりしっかり謝ると、相手も戸惑うだろうし、それで更に時間を浪費してしまうから。
相手が会釈したのを確認して、早足で廊下を進み始める。
三回のノックの後、室内から返答の声が届く。
「入れ」
先ほどの淡々とした声とは違い、ぴりっとした低い声。
「低い」声といっても、セージの女性にしては低めの声というわけではない。腹の底に響くような――威圧感のある男性のような声だった。
「案外、ちゃんとやってんだな」
あまりにも失礼な物言いだが、それがフィンレーの素直な感想だった。
先ほどのやり取りで、ちゃんと組織の長としてやっていけているのか心配になったが、その必要はなかったらしい。
フィンレーは角を曲がって誰もいないことを確認した後、静かに転移した。
◆
「失礼します」
そう言って、扉を閉める。
相手は自分たちのトップだ、粗相があってはいけない。
故に、言葉遣いや態度には最大限気を配って――という配慮があったのは、扉を閉めるまで、つまり外界と隔てられるまでである。
「さっきの方、見覚えのない方ですね。お友達ですか? アルフィー様にお友達がいるなんて、思ってもみませんでしたが」
暗に「友人がいないと思っていた」と言う。
非常に無礼な発言であるが、アルフィーがそれを咎めることはない。
「報告か。早くしろ」
尊大な口調で告げる。
「わあ、全部スルー。……ごほん。ノル様ですが、やはり『適合者』のようですね」
「新たな命令を下す。ノルを連れてこい」
考える時間もなく、アルフィーが単なる会話の延長のように命令を下した。
「あれ? ノル様は亡くなられたのでは?」
「阿呆が。あの程度の攻撃で死ぬわけなかろう」
「私は死にますけどねー」
「貴様なら、死ぬ前に逃げ切ることなど簡単であろうが」
「……」
「……」
沈黙で話を区切り、
「ヘラセイナ」
アルフィーは、軽口を叩く女に向かって、その名で呼びかけた。
「なんです?」
「貴様は、非才の身でありながら、これだけの情報を持ち帰った。褒めて遣わす。これからも励むように」
ヘラセイナは目を丸くして、
「言いたいことは山ほどありますが――まずは、お褒めにあずかり、大変光栄、恐悦至極です」
自分が知っている言葉を並べ、その感謝を、その喜びを表した。
たとえ並べることで珍妙な字面になろうと、関係ない。
「でも、非才の身というのは納得いきませんね。これでも私、『天才』と呼ばれていたんですよ?」
「ふん。真に天才ならば、あのようなところで落ちぶれてはいまい」
ささやかな抗議は、アルフィーに正面から打ち砕かれた。
「まあ、アルフィー様と比べれば劣りますかね」
ヘラセイナは吐いた息を数秒残し、
――直後、その姿がふっとかき消えた。
「――なんのつもりだ?」
「えへっ、天才を超える超天才っていうのを、知ってみたいと思いまして」
ヘラセイナが懐から引き抜いたダガーナイフは、アルフィーの首に触れる寸前で静止し、アルフィーが魔法でヘラセイナを締め上げていた。
「ふん」
アルフィーは小さく不満を表して、ヘラセイナにかけている魔法を解いた。
「いいんですか? 謀反人を処刑しなくて」
「貴様が本気でやるならば、我の意識の外から奇襲するであろう。それとも、なんだ? 貴様は我に処刑されたいのか?」
ヘラセイナは笑いをこぼし、「いーえー」と首を横に振った。
「やっぱり、アルフィー様はお優しいです」
「意味がわからぬ」
「私はそんなアルフィー様が、大好きですよ」
「……ふん」
自らの言葉を無視して放たれた言葉に、アルフィーが満更でもなさそうだったのは、ヘラセイナの見間違いか。
「先の男についてだが」
アルフィーが話を切り出したので、ヘラセイナは自分の世界から戻ってきて、話を聞く態勢を整えた。
「貴様はここに来てから日が浅い。知らぬのも無理はないが……知っておくべきだと判断した」
「珍しいですね〜。アルフィー様が何かを教えてくれるなんて。初めてでは?」
「必要があるから話すだけだ。我らは世界の脅威に対処するために集まった。だが、我らだけで対処できると思うか?」
ヘラセイナはアルフィーが求めている答えを察し、
「いーえー」
「彼は協力者だ。人間界を統べる、な。友人ではない」
あくまでも、目的を達するための協力者、利害だけでつながる関係であると。
アルフィーは、フィンレーとの関係をそう断じた。
「んふふ、この際どっちでも良いです。アルフィー様と対等な関係の方がいるのなら」
近しい人間にしか伝えていないことを伝えても、なお。
ヘラセイナは、ふざけた態度をとるのをやめない。
「ところで、私からも一つ質問して良いです?」
「構わ――」
ぬ、とアルフィーが言い切ろうとしたところで、ヘラセイナは話し始めた。アルフィーの返事を待つ気などなかったに違いない。
「結局、『適合者』ってなんなんですか?」
その問いに、アルフィーはすぐに答えられなかった。
分かっていること、分かっていないこと。
伝えて良いこと、伝えてはならないこと。
それらを選別して、ようやく口を開く。
「魔力を……魔法を超えた力がある。その力は一握りの者にしか扱えない。扱える者のことを『適合者』と呼ぶ」
伝えても良いと判断した情報を、畳み掛けるように言った。
そして、アルフィーにはヘラセイナが次に何を言おうとしているか予想が付けられる。
「なるほど。じゃあ――」
「貴様は『適合者』たりえない。その資格がないからだ」
故に、ヘラセイナの言葉を遮って、二つ目の質問に先回りして答えた。
ヘラセイナは目を丸くする。それが、アルフィーの行動によるものか、その答えによるものか、彼女以外に分かる者はいない。
アルフィーは口を閉じたヘラセイナにこれ幸いと、
「下がれ。命令は理解しているな」
「ノル様の回収。忘れるわけありませんよ」
「最後に一つ」
そのまま大人しく下がろうとしたヘラセイナを、アルフィーが呼び止めた。
アルフィーが矛盾する言動を取るのは珍しい。
ヘラセイナは真面目に聞く態勢を整え――、
「我は気にせぬが、我以外に『様』を付けて呼ぶのはやめた方が良かろう。アシュトン辺りがうるさいのではないか?」
ヘラセイナの人間関係を心配しての助言だった。
ヘラセイナはその言葉の言わんとするところを正しく理解し、
「やめるつもりはありませんよ。皆さん、私より劣るところは数々ありますが、私より優れたものを持っています。アルフィー様は別ですが」
自分の信条を語る。もちろん、アルフィーへのフォローも忘れずに。
「我は好きにせよとしか言わぬ。だが、ヘラセイナ、貴様は大切な部下だ。いなくなられては困る」
ヘラセイナは顔をほころばせて、
「わあ、嬉しいです」
最後まで軽口を叩くのは変わらず、軽口に本音をほんの少しだけ混ぜて、ヘラセイナは執務室を後にした。
次回予告。
ノルの戦いは、ひとまず終わりを告げる。
これで何が変わったんだ、結局振り出しに戻っただけじゃないかと、言われるかもしれない。
けれど、ノルにとってはそうじゃない。
彼は、自分のこれからについて思いを馳せる。
次回、終 星の祝福
終 星の祝福
太陽は地平線の向こうに沈み、橙色の光が一片も残さず空気に溶けた。
空には未だ橙色が残るが、それもじきに黒く染まる。
夜の訪れに、俺はほっと胸を撫で下ろした。
ようやく、この怒涛の一日が終わったのだと感じられたから。
日が昇っている間は、戦いが終わったのだとは思えず、どこかからルーカスが来るのではないか、ヒューゴが迎えに来るのではないかと恐れていた。
その緊張感から解放されて、俺は地面に大の字に寝転がる。
空を薄い雲が覆い、天と地が分かたれていた。
空が近い。遠くを考えずに済むから、楽だ。
しばらく雲の動きを目で追っていると、悩みが空に溶けていくようだった。
しばらく頭を空にして、空を眺める。
悩み事も、果たさなければならない約束も、世界の危機も、全てを置き去りにして。
甘美な一時だった。ずっと、この時間に浸っていたいと感じるほどの。
忙しない日々には、こんな時間があった方が、いや、こんな時間をもたなければならないのだと思う。
心地良い。だから、だからこそ。
立ち上がらなくてはならない。
立ち止まっていてはならない。
進むことをやめてはならない。
一度立ち止まったら、もう立ち上がれなくなりそうだから。
立ち止まっているように見えても、それは前へ進むための準備だから。それが、たとえ言い訳であったとしても。
だから、進むのを諦めてはならない。
俺はゆっくりと起き上がり、服に付いた砂を払った。
今日は――そうだな、これからどう動くか考えようか。
安全に寝られる場所を探してさまよいながら、俺は自分が何をしたいか、何をすべきなのかを考える。
邪神と約束した。
世界を守ることを。
不本意ながら、主神が無事でいられるようにすることを。
その延長線上で、誓った。
模擬魔獣を一掃することを。
魔神を倒すことを。
その上で、俺のやりたいことは二つだけ。
主神をぶん殴り、その後は好きなように、楽しく生きる。
優先順位――そうだ、優先順位を付けなくては。
どれもやるのだから、その順番を決める。
魔神を倒すのは最後、集大成に持っていこう。
世界を守るのはその達成によってもたらされる。
魔神を倒せば、目的がなくなるため、模擬魔獣を使うこともなくなるはずだ。それでもなくならないのなら、俺があの組織を潰す。
魔神を倒すには、やはり主神の協力が必須だろうか。殴るのはその時に――いや、殴れば協力するどころじゃなくなるか。
要再考だが、主神に二度も会えるとは思えない。
一度に両方済ませる以外、道はない。
じゃあ、魔神を倒すための手段を積み上げて。道を作ってから。確実な状況を整えて――主神に会いに行こう。
風が吹いて、砂を巻き上げた。
俺はとっさに目を細めて、目に砂が入るのを防ぐ。
目を細めてから、しまった――と思った。
隙を作ってしまった。
相手はどこを攻撃してくるだろう。即座に防御に回らなければ。
そこまで考えてから、無意識の内に体に入っていた力を抜いた。
戦いは終わった。
敵地の真ん中で寝起きする生活は終わった。
だから、そこまで気を張る必要はない。
常在戦場の心構えは必要ない。完全に不要だ――というわけでもないけれど。
少なくとも、今は。
気を抜いていても良いのだ。
遠く、空の上。
地上からは点のように見える星が、自らを主張するようにまばゆく輝いていて――。
薄く広がった雲を貫いて、その光を地上へ、人間へ、俺へ届けていた。
その光は。
ようやく外に出てやりたいことを見つけ、格付けを終わらせた俺を、祝福しているように見えた。
それでは、あとがきという名の自語りを。
今回の作品は、過去の没作品(しかも書きかけで放りだした)を読み返していた時に、先が気になってしょうがないものを見つけ、それをリメイクしたものです。
その雰囲気がまだ残っていれば、皆さんの手が止まらない作品になったでしょうが――いかがでしたか?
この作品は、ここで一旦完結です。私の気が向けば、続編を書くこともあるでしょう。
その時は、またお読みいただけると幸いです。
追記。
ファンレターいただきました! 次回予告は投稿で一番時間をかけた部分なので(本文は先に書いていました)、そこを褒めていただけて嬉しいです。