閲覧設定
名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
序章
ソナタは途方に暮れていた。自室への戻り方がまったくわからなくなってしまったからだ。
きょろきょろとあたりを見回しても、眼前に広がるのはクリーム色の無機質な廊下ばかり。掲示も案内も何もなく、永遠に続くかと思われる通路の消失点は、ただの黒ずんだ丸でしかない。
きゅうっと、下腹の奥が引き絞られるような心地がした。手にじっとりと嫌な汗が滲んでいる。ソナタは唇を引き結び、きっと廊下のさきを見据えた。
とにかく、この廊下を抜けないことにはどうしようもない。抜けたさきが階段でも倉庫でもなんでもいい。とにかくここから出なければ。
四方の壁がじりじりと近づいてくるような錯覚に襲われつつ、ソナタは歩きだした。
ここ、コロニーでは、全員が基本的に個人主義である。
一日中ぶっ続けに眠っていても、揚げ物だけを苦しくなるほど食べても、誰もなにも言わない。たとえコロニー内で迷子になっている者がいても、誰も助けない。そもそもコロニーは果てしなく広く、誰もソナタがいないことに気づきすらしないのかもしれない。
コロニーはその中央階に広大なサッカースタジアムを備えた建築物で、その他の施設も不必要なまでの面積を持っている。しかし、外から見るとそれがどれだけの大きさなのか、それはソナタには分からない。もう久しくコロニーの外には出ていなかった。
ソナタがコロニーに『転移』されたのは一か月前のことだった。あれは彼の今までの25年間の常識では、まるで不可解な現象だった。
ソナタは『転移』される直前に、彼女を抱きしめていた。ベッドによりかかり、手のひらサイズの小さな観葉植物を両手で包んで愛でる彼女を、しっかりと抱いていた。夕食を終えて、テレビではバラエティ番組が放送されていた。なにもかも平和で、平凡で、幸せな週末だった。そのはずだった。
ソナタはふいに、ふっと、かるく浮きあがるような感覚に包まれた。
あれ、なんだろう、気のせいかな。
そう思うのとほとんど同時に、強烈な光が目を刺した。
それは眩しさを通り越して鋭い痛みをソナタにもたらし、ソナタは思わずきつく目を閉じた。そして、瞼のベール越しにも痛みを届ける光がようやく止み、ふたたび目を開けたときには、彼女はもう隣にはいなかった。
「ソラちゃん?」
ソナタは思わず彼女を呼んだ。そして、自室ではありえないほどに反響する自分の声に驚き、あたりを見渡した。そこでようやく、混乱が彼の頭をがつんと殴った。
そこたはとても広いスタジアムだった。足元には人工芝が敷かれ、両端にゴールがある。白く聳えたった、巨大なサッカーゴールだった。頭上はコンクリートが剥き出しになった天井で、強い光を放つ照明がいくつも取り付けられていた。
スタジアムの中には、ソナタの他に大勢の男がいた。全員が男で、女は1人もいなかった。といってもそれはこの直後に知らされたことで、そのときにはまだ、驚きと混乱に満ちた周りの顔を見渡したソナタに、やたらと男ばかりだな、という印象を与えただけだったのだが。
ソナタは首を回して周囲を確認しながら、不思議と冷静な自分を薄々感知しはじめていた。混乱は一度彼を襲ってから、奇妙な静けさをもたらして通りすぎていったようだった。
他の男たちもそれは同じだったようで、遅かれ早かれ、全員が少しずつ、ゆっくりと落ち着いていった。ざわざわと響いていた戸惑いの波が引き、最後にはくっきりと沈黙が落ちた。
スタジアムが静まりかえると、待ち構えていたように天井の一部に四角い穴が開き、そこから巨大なパネルが降下してきた。なにもかも巨大だ、とソナタは静まった頭でぼんやりと思った。
黒一色のパネルは降下しきるとがちりとロック音を立てて静止し、男たちが見上げる中、白いゴシック体の文字を表示した。それでソナタは次のことを知った。
ここはコロニーという建物であること。今いる場所は中央階のサッカースタジアムで、自分たちはこれからここで毎日サッカーをするのだということ。
ここにいるのは、日本国内のすべての都道府県から集められた男性たちであるということ。審査に次ぐ審査の末、自分たちが選ばれたこと。
ここにいる限り、衣食住の心配はいらないこと。
コロニーの外に出てはいけないこと。
これらのことを説明すると、文字は消え、パネルはゆっくりと上昇していった。
壁の穴にパネルが消えて、その穴もふたたび元のようになくなったのを見届けると、スタジアム内に次々と溜息が湧き上がった。
ソナタを含め、その場にいる全員がふぅっと息を吐いていた。彼らの頭にあるのは奇妙な納得感だった。
そうか。選ばれたのなら、仕方がないな。
ソナタは最早混乱のかけらもない澄みきった頭で、もう一度周りの顔ぶれを眺めた。
あかるい色の髪をみじかく刈りこんだ、目つきの悪い男がいた。
深い紺の上着を羽織った、理知的な顔立ちの男がいた。
肩まで伸びた髪を垂らし、ひかえめに周りをうかがう男がいた。
子犬のような丸い目をした、ジャージ姿の男がいた。
白に近い金に髪を染めた、顔も身体つきも端正な男がいた。
ロングコートを着込んだ男が、唇にピアスを開けた男が、ボクサーのような屈強な男が、様々な男がいた。年寄りも、中年も、青年も、少年もいた。彼らは皆一様に、気の抜けた表情でお互いを眺めあっていた。
窓がなくてもブラインドを吊る
ざっとこのようなことが、ソナタの身には起きていた。明らかに異常事態だという自覚はあったのだが、ソナタは不思議と警戒心を抱かなかった。それよりも、今この廊下から抜け出すことの方に、よっぽど気を取られていた。
歩きながら、ソナタはまた思い出していた。コロニーに『転移』され、パネルから無音で文字のみの説明を受けた、そのあとのことを。
混乱の静まっている彼らは、誰からともなく、近くにいる五、六人で固まり、自己紹介をはじめた。
目つきの悪い短髪の男がゴジグと名乗った。二十八歳だと言った。
紺の上着を着た理知的な男がスゼルと名乗った。二十六歳だと言った。
肩までの髪を下ろしたおとなしそうな男がミドリと名乗った。二十歳だと言った。
まるい目をしたジャージの男がユオと名乗った。二十三歳だと言った。
金髪で端正なルックスの男がメリンと名乗った。二十五歳だと言った。
最後に、跳ねた黒髪でトレーナー姿のソナタが名乗った。自分も二十五歳だと伝えた。
六人は自然と打ち解け、しかしそこには確かに他人の距離があった。その距離からソナタたちは、他人同士の心地良い無関心さとあたたかな安らぎを感じた。
自己紹介を終えた者たちが連れだってスタジアムを出ていきはじめた。すぐにソナタたちもその気になった。部屋に行かなければならないと無性に思った。
このに来たのは初めてであるはずの彼らの足は、見えないなにかに導かれるように廊下を歩き、階段をのぼり、突き当たりを曲がった。他の誰もがそうだった。ソナタたちの部屋は少し奥まった場所にあったが、そこまで行き着くと、ひとりでに足は止まった。
壁と同じクリーム色のドアに、名前を記したカードが挟まっていた。正面からむかって右がスゼルとユオ、その奥がゴジグとミドリ、その正面にメリンとソナタの部屋があった。
彼らは顔を見合わせるとへらりと笑い、かるく手を振って自分たちの部屋に入っていった。
中はありふれたホテルのようなつくりで、白いシーツのかかったベッドがふたつ、褪せたようなピンクベージュのソファ、テレビ、テレビ、ローテーブルがあった。ブラインドが吊ってあったので外を覗いてみたが奥に窓はなく、壁が見えただけだった。
その後、食事は食堂で摂った。バスルームは部屋に備えつけてあった。毎晩メリンとじゃんけんをして勝った方が先に入った。
図書室もあった。喫煙室もあった。ソナタたちは労働もせずに暮らせた。一日の決まった時間にサッカーをすればいいだけで、その時間というのもそれほど長くはなく、他はまったく自由だった。ソナタは暫く彼女と会えないことに寂しさを感じていたが、じきにそれも感じなくなった。
ただし、いるはずの職員の姿は一度も見かけず、コロニーに集められた理由以外の説明はされなかった。
ソナタたちはすぐにこの生活に慣れていった。なにか道理にあわないと思うことはあるのだが、それ以上深く考える気は起こらなかった。
宗教画ではヌードを描くことが許される
果てしなく続くと思われた廊下の、終着点にソナタはいた。廊下の終わりには踊り場があり、昇り階段と下り階段に枝分かれしていた。少し迷って、ソナタは階段を下りはじめた。
こんこんかんかんと固い靴音が響く。靴は部屋に置いてあったものだった。服も同様で、サッカーのときは白黒のユニフォームを、そうでないときはシャツにスラックスを着ていた。
ソナタは小さく段数を呟きながら降りた。が、途中で分からなくなった。分からなくなった頃に階段は終わった。
手前に1つ部屋があった。ドアが開いていた。中を覗きこむと室内の電気はついておらず、代わりに粒状のLEDライトがいくつも青い光を青い光を放っていた。照らし出されているものがある。目を凝らして見ると水槽だった。
ソナタはそろりと部屋に足を踏み入れた。室内には大量に水槽があった。赤い魚、青い魚、腹が透けた魚、まだらの模様を持った魚、でっぷりと太っただらしのない魚、背鰭の異様に大きい魚、平べったい身体の魚、魚、魚、魚。彼らはライトで青く光る水の中を泳ぎまわり、ときどき小さな目玉でソナタを見た。
ソナタは1匹ずつ彼らを眺めてまわった。かがやく背鰭を見た。うごめく目玉を見た。精巧なようで大雑把な模様を見た。時おり思い出したように吐き出される泡の粒を見た。ひらひらと泳ぎ続けるさまを見続けた。
最後の魚を身終えると、ソナタは知らず知らず夢中になっていた自分に気づいた。そしてかすかに「部屋に戻らないと」と呟いた。誰に言うともない呟きだった。墨を刷いたような薄暗い部屋の中では、自分にさえ言うのではないように響いた。
部屋を出ると、開いたドアに文字が印刷されているのを見た。「水族室」。また来ようとソナタは思った。
水族室の外の廊下は、さきほどより無機質ではなかった。天井は高く、嵌め殺しの大きな窓から日の光が射しこんでいた。外は小さな裏庭のようになっており、その奥にはここと同じような廊下があって、要するにこの裏庭のぶんだけ四角く切り取られたような立地になっているのだった。
ソナタはさらに歩いた。
美術室と書かれた大きな部屋があった。中には長椅子が6つ置かれ、壁じゅうに絵画が飾られていた。ソナタはまた1つずつ見ていった。どうも部屋に戻るという目的が曖昧になるようだった。
絵画はすべてが宗教画と思しく、天使や裸身の女神が描かれていた。ほとんどが柔らかそうな金髪で、近くに寄るほど淡くぼやけて見えた。
豊満な肉体を持つ女性がベッドに横たわり、透けるような薄布にくるまれていた。天使が隅に複数固まって、羽をひらめかせながらしきりと何か相談をしていた。
詫びしげな部屋の中で一心に祈る青年の背後に、光輪を戴いた女神が立っていた。青年は気づかない。
少女がいた。農夫がいた。王様のような男が、豪華な衣装の女が、座り、立ち、踊り、歌い、悲しみ、泣き、怒り、存在していた。世界は単純で、あかるく緻密に、ある種の愛情を持って描きこまれていた。すべて身終えると満足の溜息を吐き、ソナタは外に出た。
生温い空調の風がどこからともなく髪を微細に揺らす廊下を歩いていると、奥に人影が見えた。
「メリン!」
「…、ソナタか」
そこにいたのはソナタの同室のメリンで、ここにいるうちに半端に伸びてきた髪を一つにまとめ、読書をしていたらしかった。分厚い本がガラス製の丸テーブルに置かれ、薄く血管の浮いたメリンの指がそこに重なっている。側には大きな木製の本棚があり、枚数の少ない雑誌から辞書のように厚いハードカバーの本までがぎっしりと詰め込まれていた。ソナタは手近な雑誌を手に取り、安っぽい紙の手触りと匂いを感じながらぺらぺらとめくった。偶々手を止めたページには「メキシコの料理特集」と大きな白抜き文字が載せられており、そういえばそろそろ昼時なのではないか、と思うのと同時に腹が間抜けな音を上げた。
隣でメリンがくすりと笑みを溢す。長い足を寛げて座った彼は、何かの被写体のように様になっていた。
「散歩でもしていたか?サッカーのときにはいたのに、その後まったく姿が見えないから心配したぞ」
「悪い、ちょっと迷ってて」
「そうか。ここは広いから仕方ないな。ーーまあ心配したというのは嘘なんだが」
「おい」
ソナタは最初こそ、メリンの切れ長の瞳と変わらない表情からとっつきにくい印象を受けていたのだが、蓋を開けてみれば彼は案外ユニークで、時々はこうして軽口も叩くのだった。
「こっちの気も知らずに…俺は迷子になりかけて焦ってたっていうのに」
ソナタが態つっけんどんな言い方でそう訴えると、メリンはにやりと笑った。緋色を帯びた黒瞳が柔らかく歪み、一瞬、火花のように瞳の奥に華が散る。
「ここはやたらと広いからな…俺も腹が減った。そろそろ昼時だろうし、食堂に行こう」
「ここから食堂への行き方、分かるのか?」
ソナタが目を丸くして尋ねると、メリンは涼しげに頷いた。
「ああ。以前ここを見つけてから、何回か通っているからな」
「見つけたって…どうやって?」
「少し、予期しない散歩をしていたんだ」
「お前も迷ってんじゃねぇか」
腕を小突きあってくすくす笑う。身体が触れ合って、同じシャンプーの香りが漂った。