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目次
Death to you
寝ている、ように見える彼に構わずカーテンを開いた。実際は彼は寝てなんていなくて、ただ目を閉じているだけだと思うけれど。
どちらだって関係ないのだ。
しゃあっと軽い音を立てて開いたカーテンから、朝の優しさを纏った眩しい光が差し込んでくる。その光をもろに浴びた彼は、美しい眉をひそめた。ほら、やっぱり起きていた。
「おはようございます」
「…おはようございます」
私の挨拶に嫌そうに返す声はガラス玉のような透き通り。しっとりと乳白色の艶を帯びた黒髪が揺れて、さらさら音を立てる。
全身が細工されているような、美しい彼。
私は今日も、この人を殺す隙を窺っている。
一
⚠️嘔吐表現あり
涼しげな顔でコーヒーを飲む彼の首元を、穴が空くほど見つめている。人を魅了するためにつくられたのではないかと思うほど完璧に整った喉の、緩やかな曲線を見つめ続けている。
彼は毎朝、私の淹れたコーヒーを飲む。
彼はおよそ自分の身体にものを入れる行為に執着しない。食べること、飲むことを彼が自ら欲したのを私は見たことがない。いつも私が勝手に食事を用意し、手に入れたものを飲ませている。彼の要望なんて聞かないし、聞く必要もきっとない。だって彼は何も望まないからだ。
そして彼がコーヒーを飲むことに対して、彼自身に関心がなくても、私には関心がある。
今日はコーヒーに毒を混ぜたのだ。
彼は食事に対して何も言わない。たとえ毒が混ぜられていても。
私は彼を見つめて、じっと待っている。
彼が机にカップを置いた。
そして、おもむろに指を口に近づけて。
パンも満足に入らなそうな小さな口に突っ込んだ。
私は彼がコーヒーを吐き戻すのを黙って見届けた。特別驚くようなことでもなかった。
そして、私が驚かない程度のことは、彼も驚いたりしない。
コーヒーを戻した彼は、平然と口元を拭い、色のない目で私を一瞥した。
その顔に、仕草に、堪らなくぞくぞくした。
私はゆっくりと彼に近づいた。胃液で艶めいた彼の手をそっと取り、骨ばっていて青白い彼の手に、自分の唇を近づける。ぬるぬると濡れた感触が唇に触れる。
その日のキスは、苦い苦い胃液の味がした。
二
この感情を愛恋だと名付けられたら、それは誤解である。
ならば何なのかと問われれば、私にも分からない。ただ、私は彼と暮らすようになってからずっと彼を殺したくて、でもそれは決して憎悪から来るものでなくて、他の感情なんか混ざっていないのだ。
好きだからとか、嫌いだからとか、そういう感情を含まない純粋な殺意のみ。お腹が空いたとか、外で遊びたいとか、そういう透明な欲望。ただ殺したいだけ。それだけ。
言っておくけれど、私に快楽殺人の趣味がある訳じゃない。猟奇的なものは人並みに耐性があるだけで、あまりグロテスクなものは受け付けないし、これまでだって人を殺したことはおろか、殺したいと思ったことだってない。でも彼だけが例外で、その理由は分からない。
私に言わせれば、これはもうある種の運命だと思う。他人同士が恋に落ちてどろどろに溶け合っていく運命があるならば、どうしようもなく他人を殺したくなる運命だってあるはずだ。それも私の運命は、こんなに美しい彼。
実際彼は、私の贔屓目でなく美しい。高貴とか類稀とか、そんな言葉も忘れてしまうくらいに。恐れすら抱くくらいに。私が彼に抱く殺意のように、他の要素なんか混じらないひたすらの美しさ。
宝石よりも花よりも蝶よりも、何より美しい彼が私には特別で堪らない。だけど彼を殺したいのと彼が美しいのとは関係がない。
毎日を神がかりのように、精神的に何の汚点も残さず生きている彼には、この感情を理解するのは難しいかもしれない。人間らしい感情をより持っているというのが、私が彼より優っている唯一のポテンシャルだった。
三
私と彼の家には物が少ない。
つくりは西洋風で、灰色が混ざった白の壁、床、天井、大理石のバスルーム、それに木の縁の大きな窓。ところどころ染みがあったり爪で引っ掻いたような痕があったりするのは、私が彼を殺しそこなった証。その他には週に一度、私が買い足す食料と水分、そしてわずかな本、それだけ。本は彼のもので、彼はずっと同じ本たちを繰り返し読んでいる。なのに本はどれも少しだって擦りきれないし、買ったばかりのようにぴっしりと整っている。まるで彼が、魔法で時を止めているみたいに。
幼稚なことを考えたけれど、実際彼なら魔法も使えてしまいそうと思う節がある。度を超えた美しさというのは、人の脳みそをいくらか狂わせ、馬鹿なことを思わせる効果まであるらしい。
この家で私たちは同居し、寝泊まりしている。私は彼を殺そうと日々あれこれの手段を試し、彼はその全てを羽虫でも払うようにかいくぐる。でも決して避けようとはしない。今朝のコーヒーのように。
こうした私たちの家は殺風景で、ただ一生における呼吸回数を増やしていくためだけに存在しているような場所だ。でもそれで充分で、机椅子なんかの生活必需品はそろっているし、少なくとも私は、彼が殺せるならば自分が身を置くのはどこだっていい。だから彼が他に移りたいと言い出さない限りは、ずっとここに住み続けるつもりでいる。
しかし彼は、この家に対して不満を持っていたりするのだろうか。
私は彼が文句を言うのをひとつも見ない。彼は何も望まないような顔をしている。そして不平も希望も言わず、日がな一日浮世離れした、優雅な孤独を嗜んでいる。私はその暮らしの様々な機会を狙って、彼の息の根を止めようと右往左往する。
何と幸せな暮らしで、何と恵まれた二人であろうか。
彼の豊満な財産のおかげで、このままごと遊びのような生活は成り立っている。本当は人間はこんな地に足のつかない暮らしをするべきではないのだけれど、彼が変えないなら私に変えようという意思は起きない。私はきわめて主体的な態度で彼を殺しにかかっているけれど、生活の方針についてはどこまでも彼に倣うつもりでいるのだ。
そんな私の手本である彼は、今日も今日とて本を読んでいる。私は本のページに毒を塗っておこうかと考える。頭の中でシミュレーションをしてみて、やめる。彼に持たれるだけの価値がある美しいハードカバーの本に、私の殺意を塗るのは宜しくないと思ったのだ。私は彼を殺したいけれど、美への崇拝もきちんと持っている。私がこの美徳を持っていたからこそ、彼は私と同居する気になったのだろう。
本がだめならどうするかと、読書をする彼の横で、私は案を練りはじめた。