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目次
星を売る店
あの店は、夜にしか現れない。
閉店間際のコンビニの隣、使われなくなった写真館のシャッターの前に、いつの間にかぽつんと現れている。木製の引戸と小さな看板。その看板には、こう書かれている。
――"星、売ります。"
最初に気づいたのは、深夜の帰り道でふらふらしていた僕だった。
残業を終え、終電を逃し、仕方なく歩いて帰る途中のことだった。
「星、売ります……?」
酔っているわけでもない。寝不足ではあるが、白昼夢を見るような時間ではない。
店の前に立って、引戸を見つめていると、まるで吸い込まれるように、ドアがすっと開いた。
中には、背の高い男が一人立っていた。白髪混じりの黒髪に、白いシャツ。目元には眼鏡。年齢は――四十代か、五十代か。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声音だった。
「お探しの星はございますか?」
「……星って、本当に、あの空の?」
「ええ。空に輝く、あの星々です」
男は微笑んだまま、背後の棚を示した。書庫のように天井まで届く棚に、大小様々なガラス瓶がずらりと並んでいる。全ての瓶の中には、小さな光の粒が揺らめいていた。
「なんだこれは……」
僕はその場に立ち尽くした。疲れていたはずの目が冴えていくのを感じた。
「……本当に、売っているんですか?星を」
「もちろん。けれど、代金はお金ではありません」
男はそう言って、僕を奥の小部屋へと誘った。
そこには古びた木のカウンターと、深紅の絨毯。そして古いレコードプレーヤーからは、どこか懐かしいジャズの音色が流れていた。
「代金は、"あなたの記憶"です」
男は静かに言った。
「星ひとつと引き換えに、ひとつの記憶を頂きます。あなたにとって、意味がある記憶であることが条件です」
「意味がある記憶……」
「あなたにとって大切だった思い出、大きな後悔、あるいは忘れたいのに忘れられないこと。記憶の重さと星の輝きが釣り合えば、交換できます」
「そんな……」
まるで夢のような話だ。
だけど、僕の胸は高鳴っていた。
仕事に終われていた日々。成果の出ない努力。裏切った恋人。親とすれ違った最後の会話。
もし、そういうものを、星と交換できるなら――
「どうなりますか?記憶を渡したら」
「その記憶は、あなたの中から失われます。完全に。ただし、代わりに、その星はあなたのものになる。あなただけに輝く星です。部屋に飾るも良し、願いをかけるも良し」
男は笑った。
「どうなさいます?」
僕は――答えた。
「……ください。その星を」
---
僕が選んだ星は、小さなガラス瓶の中に、ひときわ青く光る星だった。名前はない。ただ、直感でそれを選んだ。
差し出した記憶は、"彼女との別れの夜"だった。
僕を捨てて去っていった恋人。一言の説明もなく背を向けた彼女の姿。何度も夢に見た。何度も思い出しては苦しくなった。
それが、ぽつりと抜け落ちた。
帰り道、涙が止まらなかった。
悲しいのか、嬉しいのか、自分でも分からなかった。
それからというもの、僕は度々あの店に通った。
職場で味わった理不尽な仕打ちを手放した。祖母が亡くなった日の、あの胸の痛みも。高校時代の、友人との確執も。
一つずつ手放して、星を手に入れていった。
部屋の棚には、いつの間にか瓶詰めの星がいくつも並ぶようになっていた。
眺めていると、心が穏やかになる。過去の痛みが少しずつ、風化していくようだった。。
けれど――
「……なんだっけ、あのときのこと……?」
ふとした瞬間に、空白が生まれるようになった。
誰と行ったのか思い出せない旅行の写真。名前の浮かばない連絡先。語れなくなった自分史。
心に余裕はできたけれど、なにか大切なものが抜け落ちていく気がしていた。
そんなある夜、僕はふと思い立って、店を訪れた。
「もう、売る記憶が――ないような気がして」
店主は、穏やかなまま微笑んでいた。
「では、今度は買いにいらしたのですね」
「え?」
「あなたの記憶は、瓶の中に、星となって残っています。誰にも渡さなければ、保存されたまま、ここにあるのです」
「……それを、買い戻せるんですか?」
「ええ。ですが、代金が要ります。星を買い戻すには、新しい"何か"を差し出さなければならない」
「何か、とは?」
男はカウンターの奥から一冊の古いノートを取り出した。
「"未来の約束"です」
「未来の……」
「まだ起こっていない"希望"や"夢"を差し出せば、記憶を買い戻すことができます。例えば、"いつか誰かを幸せにする"という願い。"小説を書き上げる"という意志。"親に会いに行く"という決意。そういった、未来の可能性です」
僕はノートを見つめた。
ページの一部には、名前も書かれていた。誰かの夢と、誰かの希望。そして失われた記憶のリスト。
「……その約束を破ったら?」
「星は消えます。記憶も戻りません。ただ、希望だけがなくなる」
男の声音は静かだった。
僕は、ゆっくりとペンを取った。
考え、考え、そして書いた。
"また誰かを好きになる"
もう一度、人を信じる。人を大切に思う。そんな未来が来ると、信じてみたくなったのだ。
男は優しく頷いた。
棚の奥から、小さな瓶を取り出した。淡く揺らめく、あの青い光。
僕が手放した、最初の記憶だった。
「おかえりなさいませ」と、男は言った。
---
帰り道、空を見上げた。
都会の夜空に、星はほとんど見えない。けれど、心のどこかで、確かにひとつの星が灯っていた。
忘れてしまった過去も、消えてしまった思い出も。
全てを抱えて、前に進むしかない。
それでも、人は、生きていける。
「また来ますか?」
そう店主に聞かれたとき、僕は笑ってこう答えた。
「できれば、次は"誰か"と来たいですね」
そのときは、きっと――
もう一度、未来を信じられる自分になっているはずだから。