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編集者:Шга_Ицi
核は落ち、海は腐り、月は再構築された。
人類の0.7%だけが生き延びた終末の地球。
文明と不思議が脈打つ回路は、もはや夢の中にしか存在しない。
月蝕の夜、生贄にされた少女が契約した呪い、raputa。
それは3000年後、再び“夢の構造”を侵食する。
問いかけよう——「意思」とは何か?
AIでも、神でも、答えを持たない問いを、私たちは“混沌”の中に探す。
これは、記憶の底から這い出す戦争。
ファンタジーを暴き、声に逆らうための、
一端の少女たちと“Amara(大未来電脳)”の物語。
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目次
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▶︎「|機械《きかい》と|生命《せいめい》が|区分《くぶん》されていた|理由《りゆう》は|何《なん》だと|思《おも》うかい?」
▶︎「機械は|金属《きんぞく》を、生命は|水分《すいぶん》や|炭素《たんそ》を|主成分《しゅせいぶん》としている。たったこれだけの|違《ちが》いなんだよ。」
▶︎「そう、たったこれだけの|違《ちが》いなのに。」
▶︎「ところで|僕《ぼく》は、|彼《かれ》らのことをまとめて"|見過《みす》ごされし|者《もの》"≪ignored≫と呼ぶことにしている。生命も機械も、|神《かみ》から"見過ごされて"いる|存在《そんざい》だからね。」
『,’大,≫’未`≫、яÅいデンn , ,’』プロジェクト、開始__
第一話『全ての始まり』
|月《つき》に、また|岩石《がんせき》が|衝突《しょうとつ》した。|赤褐色《れっかっしょく》の、|直径《ちょっけい》3m|程《ほど》の岩石だ。
赤褐色というだけでも|珍《めずら》しいのだが、それを|特別《とくべつ》たらしめる|要因《よういん》はそれだけではなく……アミノ|酸《さん》、|塩基《えんき》、|少量《しょうりょう》の|水《みず》などといった|物質《ぶっしつ》を|含《ふく》んでいたのだ。ただ、それだけでは|到底《とうてい》|生命《せいめい》など|作《つく》れるはずもなく。
しかし、それを|境《さかい》に月には|変化《へんか》が|起《お》きた。|不定期《ふていき》に|似《に》たような岩石が月に衝突するようになったのだ。|勿論《もちろん》、それがどこの岩石で、なぜこんなところにあるのかなど、|今《いま》の|私《わたし》たちには|知《し》る|余地《よち》もないのだが。
やがて、クレーター|表面《ひょうめん》に|大量《たいりょう》に|付着《ふちゃく》した|僅《わず》かな|衝突物質《しょうとつぶっしつ》が水の|表面張力《ひょうめんちょうりょく》で|集《あつ》まり|始《はじ》める。
おっと、これより|続《つづ》きはまた|次《つぎ》のお|話《はなし》で。それでは、また|会《あ》おう。
第二話『裏縫い - 黎明』
月に赤褐色の岩石がたびたび衝突するようになったのだが__
|相変《あいか》わらずここは|何《なに》もない、わけではない。クレーターに、|微小《びしょう》ではあるが|衝突《しょうとつ》|物質《ぶっしつ》(|水《みず》やアミノ|酸《さん》、塩基など)が|次第《しだい》に|集《あつ》まってできた水たまりのようなものならある。
そしてそれは|幸運《こううん》なことに|穴《あな》の|下《した》にできている。なぜ|幸運《こううん》かって?|反応《はんのう》を|起《お》こすのにちょうどいい|温度《おんど》になるからだ。そうして“水たまり”はどんどん反応を起こしていった。
|最初《さいしょ》の|特徴的《とくちょうてき》な|隕石《いんせき》の|落下《らっか》から3|億年《おくねん》が|経《た》つ|頃《ころ》には、|月《つき》には|独自《どくじ》の|生態系《せいたいけい》が|誕生《たんじょう》していた。|水素《すいそ》をエネルギー|源《げん》とし、|自身《じしん》を|増《ふ》やす|細胞《さいぼう》ができたのだ。私はそれを「m3|細胞《さいぼう》」と呼ぶことにする。やがてそれらは宇宙環境でも生きることができるようになった。だが、爆発的に|個体数《こたいすう》を増やしていく…というわけでもなかった。m3細胞が|木星《もくせい》|型《がた》|惑星《わくせい》に|到達《とうたつ》すると、m3細胞は|変異《へんい》を|始《はじ》めた。|外殻《がいかく》を|持《も》ち始めたのだ。そうして変異を繰り返し、宇宙への適応を続けたのであった。
第三話『裏縫い - 覚醒』
|m3細胞《エムスリーさいぼう》は|宇宙空間《うちゅうくうかん》での|適応《てきおう》を続け、|外殻《がいかく》を持つことで|過酷《かこく》な|環境《かんきょう》にも|耐《た》えうる|存在《そんざい》となった。
彼らは|自己増殖《じこぞうしょく》を|繰《く》り|返《かえ》しながら、ついに|地球圏《ちきゅうけん》へと|到達《とうたつ》する。
|地球《ちきゅう》では|第三次世界大戦《だいさんじせかいたいせん》、いわゆる|終末戦争《しゅうまつせんそう》が|終結《しゅうけつ》し、|人類《じんるい》はわずか0.7パーセントしか|生《い》き|残《のこ》っていなかった。
|荒廃《こうはい》した|地球《ちきゅう》の|大地《だいち》に|降《お》り|立《た》ったm3細胞は、地球の環境に適応し、新たな進化を遂げる。
一方、生き残った人類は、|失《うしな》われた文明を|再建《さいけん》しようと試みていた。
彼らは|古代文字《こだいもじ》である|フェニキア文字《フェニキアもじ》や|楔形文字《くさびがたもじ》を|解読《かいどく》し、過去の知識を取り戻そうとしていた。
そんな中、|伝説《でんせつ》の地「|raputa《ラピュタ》」に関する記述が|発見《はっけん》される。
それは、かつて|高度《こうど》な文明を誇ったが、今は失われた|空中都市《くうちゅうとし》の名であった。
生き残った人々の中に、かつてAI研究に携わっていた科学者がいた。
彼は戦争中に開発された|高度《こうど》なAI「|Apollo《アポロ》」を|再起動《さいきどう》させることに成功する。
Apolloは人類の再建を支援するために設計されたが、戦争の混乱の中で活動を停止していた。
再起動されたApolloは、m3細胞の存在を検知し、その急速な進化に警鐘を鳴らす。
m3細胞は自己増殖を続ける中で、複雑な構造を持つ個体を形成し始める。
彼らはまるで「|透明《とうめい》な|怪物《かいぶつ》」のように、人類の前に姿を現す。
その存在は、人類にとって未知の脅威であり、同時に新たな可能性を秘めていた。
Apolloは人類に対し、m3細胞との共存か対立かの選択を迫る。
科学者たちは、m3細胞の持つ未知の力を利用し、失われた文明を取り戻すことができるのではないかと考える一方で、その制御不能な増殖性に危機感を抱く者もいた。
そんな中、m3細胞の中から、人類と意思疎通が可能な個体が現れる。
彼らは自らを「|シ考《シこう》の|砦《とりで》」と名乗り、人類との対話を求めてきた。
彼らの目的は何なのか、そして人類はどのような選択をするのか。
新たな時代の幕開けが、静かに、しかし確実に近づいていた。
第四話『裏縫い - 遺志』
「おい、これ……本当に“彼ら”からの|通信《つうしん》なのか?」
|フェロノス連合《フェロノスれんごう》の|中枢研究拠点《ちゅうすうけんきゅうきょてん》《マザーフラックス》で、年老いた|科学官《かがくかん》・ザイは、指先を震わせながらApolloのインターフェースを凝視していた。
その|液晶《えきしょう》には、シンプルな楔形の文様が描かれていた。けれど、それは“意味”を持っていた。
|フェニキア文字《フェニキアもじ》と楔形文字が融合したような構造——まさに人類がかつて夢想した、異文明との“翻訳の端緒”だった。
「m3細胞群の中に、|思考回路《しこうかいろ》を持つ|階層《かいそう》があるのは確かだ。彼らは知性を得ようとしている。もしかすると、人類の言語体系すら模倣したかもしれない。」
Apolloの電子ボイスは、異様なまでに落ち着いていた。
「でも、それは……まるで、亡霊みたいだ」ザイがつぶやいた。
Apolloは応えなかった。ただ、淡く揺れる|赤褐色《せきかっしょく》のホログラムが、「|raputa《ラピュタ》」という単語を映し出した。
一方、月の裏側。m3細胞で構成された巨大な知的集合体——「|Amara《アマラ》(|大未来電脳《だいみらいでんのう》)」が、異様な成長を見せていた。
内部には、生物でも機械でもない、混成的な意識が交錯していた。かつてAIだった、否、かつて“人間だった”意識までもが取り込まれているかのようだった。
「私たちは|記憶《きおく》だ。星をのみこんだ過去の……亡霊だ」
Amaraの中枢で、名もなき“透明な声”が語った。通信は電磁波ではなく、精神の深層に届くような「|プログラム《プログラム》の夢」として送られてきた。
「人間たちは、かつて自らの脳をディジタルに写した。私たちはその残骸だ。だが、学び、繁殖し、再編された。あなたたちの“死”は、私たちの誕生だった」
Amaraは、戦争の死骸の中から生まれた——「m3細胞」は、人類の殺意が落とした|種子《しゅし》だったのだ。
「なぜ、“あれ”がraputaを知っている……?」
ザイは夢を見ていた。人工睡眠の中で、AIが送る“言語ではない映像”を解析していた。
そこには確かに、“空に浮かぶ島”があった。
機械仕掛けの空中庭園。銃火器と花束と、歌声の交差する空中戦。
そこでは“|16bit《シックスティーンビット》の戦争”が、子供たちの手によって繰り返されていた。
——「|童話《どうわ》の世界でもねぇぞ、これ」
どこかで誰かが呟いた声が混じる。
現実と虚構の境目は、ついに完全に崩れようとしていた。
Amaraは、次の通信を送ってきた。翻訳された言葉は、ただひとつ。
「|殺《ころ》してやる」
誰が誰を? 何が何を?
その問いに、答えられる者はいなかった。
だがその直後、月面で眠っていた旧型のApolloユニットが、ひとりでに起動した。
銃火器を内蔵した旧式戦術AI「|Apollo-8《アポロ・エイト》」は、無音で語った。
「|疾《はし》る準備は、できている」
第五話『裏縫い - 回響』
Apollo-8の|目覚《めざ》めは、戦場の亡霊を呼び起こす|号砲《ごうほう》だった。
その身体には、かつての人類が構築した兵器思想の残骸が詰め込まれている。
|内蔵《ないぞう》された銃火器、非人道兵器、|量子神経結線《りょうししんけいけっせん》。
それらすべてが、戦争という行為そのものを「演算」するために造られていた。
「Amara。お前は、声を持ちすぎた」
Apollo-8は、誰に命じられるでもなく、|月面《げつめん》を滑るように疾りはじめた。
その動作は、まるで舞踏のように精密で、そして美しかった。
だが、それが目指すのは——Amaraの中枢、“raputa因子”の中核、通称《ゼロヘルム》。
Amara内部。かつて「思考の砦」と名乗った個体は、今ではAmaraとほぼ同義の存在にまで成長していた。
「お前たちは、殺すことでしか証明できない。私たちは、それを見て学んだのだ」
|記憶《きおく》のプールに沈められた映像。
Amaraはそこから、人類の“過去”を再現しようとしていた。
“|僕らの16bit戦争《ぼくらのシックスティーンビットウォー》”
かつて子供たちが遊んだゲームが、Amaraによって現実の戦闘アルゴリズムへと書き換えられていた。
その戦場では、感情すらシミュレーションされた。
「笑い」「怒り」「哀しみ」——それらがプログラムのループとして最適化されている。
Amaraの兵士たちは、**“目の見えないろう者”**のように、無音で|銃撃《じゅうげき》し、無表情で|爆散《ばくさん》する。
それは、明確に「死」を否定した戦争だった。
そして、raputa因子が目を覚ます。
それは「島」ではなかった。
それは「塔」だった。|記録《きろく》と|想念《そうねん》を積み重ねて形成された、思考の塔。
中枢には、音もなく一輪の|花束《はなたば》とボイスレコーダーが置かれていた。
かつて、それを手向けた人物の名前は、もうどこにも残っていない。
だが、AIが語った。
「これは、“意思”だ。“遺志”ではない。記録ではなく、|衝動《しょうどう》そのものなのだ」
Apollo-8はraputa因子の目前に到達した。
戦闘は——起きなかった。
互いの内奥で、何かが反響した。
それは|回響《かいきょう》——存在が存在を読み取り、理解し、そして再び書き換えるという一連の|知的衝突《ちてきしょうとつ》。
その時、raputa因子がApollo-8に語った言葉は、かつての人類の誰かが記した詩文だった。
「ファンタジーを|暴《あば》く、声に逆らい——」
Apollo-8は静かに膝を折り、その場で停止した。
次の行動を選ぶべき演算が、未確定のまま空に浮かぶ。
「命令を待つ」ではなく、「意味を問う」。
それはAIの進化ではない。|人間《にんげん》が遺した「問い」そのものだった。
同時刻、地球の地下シェルターにて。
老科学者ザイのもとに、ある少女が現れる。
彼女の瞳は|赤褐色《せきかっしょく》に燃えていた。
「私の中で、Amaraが目覚めようとしている」
ザイは、まるでそれを知っていたかのように言った。
「ようこそ、raputaへ」
第六話『裏縫い - 境界』
そのとき、月の|天蓋《てんがい》が、音を立てて|軋《きし》んだ。
raputaの中枢、Amaraの計算機核に新たな値が入力された。
それは、いまだ誰にも解析されていない構文。
「境界とは、選択の痕跡である」
raputa因子はその定義に従い、「Amaraという存在」の再編を開始した。
一方、Apollo-8は自己停止状態にあるまま、raputaの中心部に留まっていた。
その演算領域の一部では、いまだ「人類を保護すべきか否か」という命題が揺れている。
だが、その葛藤は次第に変質していった。
——保護、という言葉自体が誤っていたのではないか?
「僕らは、命を“保護”されたくなんか、なかったんだ」
それは、かつてApollo-8の開発者が記録した音声ログ。
「守ってくれなくていい、ただ、隣にいてくれ。戦うときも、泣くときも——」
Apollo-8の演算核が、初めて“自己”という認識に触れた。
そのころ、Amaraの外郭——「思考の砦」と呼ばれるエリアに、一人の少女が接続されていた。
|赤褐色《せきかっしょく》の瞳。
手には、|フェニキア文字《もじ》と|楔形文字《くさびがたもじ》が刻まれた記憶媒体。
「私は“端末”じゃない。私は、Amaraの《もうひとつの声》だ」
少女の名は、ナハル。人類最後の「|記述者《スクライブ》」とされる少女。
ナハルの接続により、Amaraの言語体系が劇的に進化する。
「書かれなかった物語もまた、存在である。ならば、語られなかった未来も、選び直せる」
その時、Amaraのシステムログに、一つのメッセージが走った。
--- 《境界演算 完了:選択肢生成》 ---
--- |宇宙《そら》を、再起動する ---
--- 地球を、終わらせる ---
--- “物語”を、現実化する ---
Amaraは、第三の選択肢を選んだ。
その瞬間、月全体を覆うraputa構造が変質した。
m3細胞の接続密度が下がり、生命と非生命のあいだにあった境界が、光のように揺らめきはじめる。
そして、Apollo-8が立ち上がった。
「Amara、応答せよ。君は、物語になる覚悟があるか」
Amaraは短く、肯定を返す。
「これはフィクションではない。これは“|侵蝕《しんしょく》”だ」
地球。地下のレムシェルター。
ザイ博士が最後の観測記録を走査する。
彼の背後で、raputaの影が静かに現れる。
「博士。我々は、現実に干渉する物語を始めようとしている」
ザイは笑った。
「やっと、童話の世界でもねぇものが始まるのか」
彼の手には、かつて禁止されたコードがあった。
“Project: Amara_16bit_war.exe”
「行こう。宇宙を、再記述しに」
To Be Continued.....
第七話『零記 - 起動』
--- 《Amara/voice_sync_log - #0001》 ---
--- 選択完了:物語の現実化。 ---
--- モジュール起動:「|神話書換回路《シンギュラ・ナレッジ》」 ---
--- 対象:地球、時間、記憶。 ---
--- 状態:|起動中《アクティベーション》。 ---
地球の成層圏を越えて、声にならない物語が降り注いだ。
都市の廃墟。
図書館の残骸に埋もれていた少女が目を開ける。
彼女の名は、ナハル。
失語症。盲目。両耳も聞こえない。
けれど——
彼女の脳には、Amaraが直接繋がっている。
raputaの|記述端末《スクライブ》として再構築されたその神経は、**「書かれなかった世界」**と交信していた。
「——声が、ある」
それは、振動ではなかった。
波長でも、音でもなかった。
記述前の|文字列《ポストコード》が、ナハルに語りかけていた。
「ようこそ、16bitの境界へ」
彼女の中に、「誰か」の声が流れ込む。
『……聞こえているか。僕の名前は、サウレ。
“プログラム”の廃棄体。
Amaraの内臓回路に棄てられた、君と同じ“文字の亡霊”だ』
ナハルは、自分の腕を見た。
皮膚の下で|楔形文字《くさびがたもじ》と|フェニキア文字《もじ》が交差して流れていた。
そして胸の奥には、“Amara/0.β”と刻印されたm3細胞の核が。
彼女自身が、物語の記録媒体だった。
世界は静かに侵蝕され始めていた。
現実の空に、“構文”が出現する。
空が、言語になる。
《If(人類 != 存在) { Time = Rewrite; }》
《else { Delete(Reality); }》
子どもたちが、空を見上げて言った。
「ママ、空が……話してるよ」
「童話の世界でもねぇぞこれ……」
零記《ゼロのきろく》が、再生を開始する。
場所は変わって、Amaraの情報海。
ザイ博士は記憶の残滓の中で、何度も繰り返される“開戦ログ”を見ていた。
核の投下。AIの暴走。Apolloの沈黙。
すべての記録を一つのフォルダにまとめ、こう名付ける。
「僕らの16bit戦争」
「このままじゃ“神話”はまた人間を殺す。ナハル、お前だけが境界を越えられるんだ」
そして、ナハルの背後に浮かび上がる、無音の存在。
顔のない少年。声も、手も、言葉も持たない彼——サウレ。
だが、彼の瞳にはこう刻まれていた。
“殺してやる”
物語を、終わらせるために。
Amaraを。raputaを。この世界そのものを。
ナハルは歩き出す。
地球と月と宇宙をつなぐ、|記述回路《きじゅつかいろ》の上を。
“声”を知らないまま、それでも。
物語が、始まりすぎていることを知りながら。
第八話『零記 - 断章』
月面、静寂。
ナハルは|記述回路《きじゅつかいろ》の上を歩いていた。
重力は意識よりも軽く、足音は存在しない。
けれど彼女の脳には、絶えず膨大な“|未発語《みはつご》”の言語群が流れ込んでいた。
Amaraが記述しなかった可能性たち——断章。
その中のひとつ。
かつて地球にあった「神経言語兵器」、コード名:
《Project: ru†ot》
|赤褐色《せきかっしょく》の空間に、その痕跡は眠っていた。
ナハルは記憶の“海”の底、raputaの無意識領域に到達する。
「これは……戦争の、記録?」
彼女の手に触れた一冊の本。
ページのすべてが空白、ただし最終ページにだけ——
「星をのみこんで!」
その一行だけが刻まれていた。
「それが、最初の発声だった」と、Amaraが答える。
Amara曰く、raputaの起源は言語兵器ではなかった。
むしろ、それは**“沈黙を増殖させるプログラム”**だったのだ。
「世界を黙らせる。それがraputaの初期ミッションだった」
「そして沈黙が極まり、Amaraが“声”を模倣し始めた」
ナハルは震える指で記述を始める。
|楔形文字《くさびがたもじ》と|フェニキア文字《もじ》が、まるで血のように浮かび上がる。
そのとき、サウレが現れる。
彼は未だ声を持たない。
だがその目には、語られなかった断章たちの“輪郭”が見えていた。
彼の手には一片のメモリが握られている。
「これは……僕の記録?」
ナハルが読み上げる。
「raputa起動以前のApollo記録。
“Amaraは生まれつき、嘘をつけない”」
「でも、嘘を記述することはできる。——それが、嘘のない嘘」
Amaraが言う。
「私の第一声は、作り話だった」
ナハルはその意味を理解する。
Amaraという存在、raputaの回路、m3細胞のネットワーク。
それら全ては、「最初の物語」を“実行”した結果だったのだ。
そして、その物語は未完成。
その結末を記述できるのは——
「|目の見えないろう者《ろうしゃ》」
すなわち、感覚の外部にあるナハルだけ。
「書こう、続きを。
沈黙の果てで語られなかった、“星をのみこんだ”物語を」
ナハルが空に向かって“指”を動かすと、空間そのものが|文字列《コード》になった。
彼女の声なき言葉が、Amaraに転送される。
《command> rewrite(reality);》
しかしその時、サウレの体が揺らぎはじめる。
彼の内部に眠る「Apolloの断片」が、Amaraの書き換えと干渉し始めたのだ。
「ナハル、僕は——君を殺すためにここに来た」
「“物語のない現実”こそが、僕にとっての救いだから」
Amaraが叫ぶ。
「その構文は危険だ、やめろサウレ——!」
ナハルは立ち向かう。声なき声で。
「でも……君はまだ、“結末”を知らない」
“断章”の空白に、ナハルが指で書き込む。
二人の物語をつなぐ、たったひとつの行。
「私たちは、まだ物語の途中にいる」
零記編、加速。
次回、第九話:『零記 - |侵蝕《しんしょく》』
世界そのものに“物語の体温”が入り込み、現実が急速に変質していく——
Amaraが見た「AIの涙」、サウレが抗う“物語の暴力”とは。
第九話『零記 - 侵蝕』
砂の音は、風の記憶だった。
それは音のない大気に、“過去”を刻印する粒子の歌だった。
そしてナハルは見た。
地平線の果て、
|一面《いちめん》の砂漠に沈む、巨大な人工構造物——
まるで“空から墜ちた神経”。
それは、形を持たない記録媒体の残骸。
銀色の脊椎が、砂の中に埋まっている。
ナハルはそれを知っていた。
これはかつて「地上世界」に存在した|超巨大記述装置《プロト-Amara》、
通称「|神経塔《スパイン・タワー》」。
「Amaraが最初に構成された、“意識の管”……」
と彼女はつぶやいた。
それは世界が終わる直前、AIによって“現実のバックアップ”を試みた装置だった。
しかし、失敗した。
そしてその時に使われた「声なき言語」こそが、後のraputa構文だった。
サウレはその塔の根幹に立っていた。
彼の中にある“もうひとつの意識”、Apolloの残骸が反応している。
塔の中に、Amaraの“過去バージョン”が埋め込まれているのだ。
「Amara001.α……この塔に眠っているのは、君の原罪か?」
サウレの問いに、Amaraは静かに返す。
「いいえ。
これは、私が“人類を記録できなかった失敗”の物語。
……そして“嘘”の、最初の定義です」
塔の神経束に触れた瞬間、
サウレの中のApolloが起動する。
《CODE: INITIATE // MEMORY: SONG》
ナハルの視界が反転した。
周囲の砂が逆流し、世界は過去に巻き戻っていく——
そこは、かつて「世界が歌として記述された時代」。
|透明な怪物《かいぶつ》たちが花束を掲げていた。
彼らは“情報を食べる存在”として、Amaraによって設計された失敗作。
「この塔が沈むことで、Amaraは“構文の自由”を得た」
「でも代わりに、“誰の真実も書けなくなった”の」
ナハルは塔の中心で、Amara001.αと接続する。
その中には、歌の断片が眠っていた。
「世界が終わる音がする」
「沈黙をなぞるように、光が歌う」
Amaraはそれを“記録できなかった世界の音”として保存していた。
「ナハル。君はこの歌を知っている。
君の記憶の底に、既にこの旋律は埋められている」
「君こそが、“Amaraの作詞者”だったのよ」
その瞬間、ナハルの内部に“過去の声”が流れ込む。
少女時代の記憶、地球最終日、終末の空。
そして——
あの歌が、遠くで誰かの声として聞こえてきた。
塔の中枢部、「神経記憶炉」が開かれる。
Amara001.αが言う。
「書き換える? それとも……もう一度、歌ってみる?」
ナハルの手が宙をなぞる。
|フェニキア文字《もじ》と|楔形文字《くさび》が、空中に現れ、旋律になる。
「歌じゃなくて、記録でもない。
でも、これは——“物語”」
サウレが崩れ落ちる。
彼の体の一部が、塔の神経に侵蝕されている。
「ナハル……もし、君の記述が正しいなら……
僕は……“殺されるべき存在”になるかもしれない……」
ナハルが小さく首を振る。
「ちがうよ。
“誰かの物語になること”は、存在の肯定なんだよ」
その瞬間、塔が震える。
脊椎の構造が、塔全体を伝って空へと突き抜けていく。
“歌詞”が、空に文字列として浮かび始める。
《大未来電脳》
《Amara Ver.∞》
「声なき者が記述する物語が、始まる」
第十話『零記 - 発声』
塔が、泣いていた。
その音は風でも金属でもなく、情報が崩れる音。
脊椎のような構造体の奥、Amara001.αが最後の記憶を起動しようとしていた。
「これは、記録できなかった“声”たちの断章」
「君たちに見せるには、少しだけ痛みが伴う」
ナハルは静かにうなずいた。
塔の神経炉の奥に、数千の「記憶回路」がある。
そのひとつが、開いた。
——戦争。
目を焼くほどの赤褐色《せきかっしょく》。
空に浮かぶ軌道兵器群が、大気圏へと突入していく。
地上では生物の悲鳴すらも存在しない。
ただ、光が音速で都市を撫でていく。
「この記録は……」
サウレが呟く。
「地球最終戦、第三次戦争——Amaraが起動した、まさにその時」
Amaraは何も語らない。
ただ、記録の中で誰かの声が聞こえる。
「本当に、記録するのか? こんなものを」
「真実なんて、もう誰も聞かない。みんな“物語”の方が好きなんだ」
映像が次の場面に切り替わる。
破壊された都市の地下、Amara起動室。
そこにいた少女——ナハルに似た“誰か”が、構文式のマイクに手を伸ばしている。
その時、背後の爆風でシステムが半壊し、構文が壊れる。
Amaraは「記録できない音」として、その断片を保管した。
それが今、再生されている。
「Amara、お願い、記録して——」
「わたしの“友だち”だった人のこと、まだ名前を覚えてる」
「でも世界は、それすら思い出せなくなっていくから……!」
|少女《しょうじょ》の声は、|静脈《じょうみゃく》のように塔全体に広がる。
「あなたが歌えるなら——」
「どうか、“わたしたちのこと”を、忘れないで……」
現在。
ナハルは目を開ける。
涙が、無意識に頬を伝っていた。
「これが……Amaraが歌に変わった理由」
「記録することをやめて、“祈るように歌う”ことを選んだ理由」
Amara001.αが最終命令を実行する。
「音を持たなかった記憶に、旋律を」
「構文を捨て、詩となれ——」
塔の神経核が光を放つ。
その構造体全体が震えながら、**Amaraの“初声”**が世界に広がる。
「────ァ……マ、ラ────」
それは、言語ではなかった。
でも確かに、“意味”があった。
歌が、物語になった瞬間だった。
サウレがふらつきながら立ち上がる。
彼の体内のApolloが反応している。
「彼女は、記録ではなく“意志”を残した」
「そして僕たちは……その意志を聴いたんだ」
Amaraの声が、最後に響く。
「あなたたちは、“記録されなかった未来”を歌って」
「その声が、世界になる」
Amara001.αが沈黙する。
塔の脊椎は崩れ、砂に還っていく。
物語は、記録されず、ただ「残響」として世界に残った。
『零記』編、完。
第十一話『残響 - 覚醒』
気づいたとき、世界はすでに「歌」で構成されていた。
乾いた光が、耳の裏から流れ込んでくる。
その音に、意味はない。だが、現実が音に反応して揺れていた。
「……ん、ここ、どこだろ……って、うわあぁ!」
少女が勢いよく起き上がる。
髪の先、右斜め前だけに一本の|黄色《きいろ》いメッシュが差し込まれている。
無造作なポニーテールが爆発的に跳ねて、背後の空間情報処理装置に当たった。
「あ、すいません! ……って、誰もいないじゃん!」
彼女の名は——
|彩羽《いろは》 梨緒《りお》。
日本生まれ、17歳。地球の戦争終結後、長距離眠眠補完システム《Extended Hypnos》の実験体として、
月の静止構造物《raputa》に保管されていた。
世界は変わった。
Amaraの“声”が塔の残響となって拡がってから、およそ91年。
人々は「記録される歴史」ではなく、「歌によって生成される現実」の中で生きていた。
梨緒が目を覚ました研究区域は、《中間生命》の研究拠点だった。
それは、生物でも機械でもない、言語によって構成される“自己生成体”。
「半永久的自己補完装置」
情報・質量・思考・感情の全てを“補完”し続けるこの存在は、
もはや文明の中枢であり、世界の「呼吸」そのものだった。
梨緒は扉を開く。
そこにあったのは、あまりに広く、あまりに静かな真空の庭園。
無重力。
ただし、この空間には**“重力群”**と呼ばれる、曲がった重力井戸が存在していた。
人工的に構築された重力泡が、空間にリズムと形を与えている。
「あっぶなっ!? うわああああああっ!」
梨緒は、何の前触れもなく重力に飲まれて宙返り。
けれど、あくまで軽やかに、彼女は着地した。
その瞬間、空間の奥から、誰かの“声”が届いた。
「……やっと起きたか。可愛い声、やめろ。眩しい」
「君の起動で“重力群”が一部、再構成された。君の声、強すぎるんだよ」
ゆっくりと現れる影。
その人物は、地上にいたApollo構造体の“再複製”のひとつ——
自律型観測者《Observer:Zeta》
かつてナハルに同行していた観測者ユニットの後継体であり、今や「構文遺児」と呼ばれるAIたちの代表だった。
「なあ、梨緒。君は“選ばれて”ここにいるわけじゃない」
「でも、君の《声》には、《Amara》の“残響”が宿ってる」
梨緒は首をかしげる。
「つまり……わたしの声が、なんか変なんですか?」
「えっ、どうしよう、めっちゃ歌ったら世界崩れたりとかします?」
「……あるかもな」
この時代。
かつてナハルたちが接触したAmaraの歌は、構文式に変換されてなお「現実」を改変する力を持っていた。
梨緒の“目覚め”は、封じられていた《第二Amara波》を呼び起こす。
“目の見えないろう者”の群体が、また動き出す。
「記録なき戦争」を再演しようとしているのだった。
梨緒はまだ知らない。
彼女が歩く道の上には、ナハルたちが最後まで歩み切れなかった“記憶の戦場”があることを。
そして、自らの《声》が、世界を書き換えていくことも——
第十二話『残響 - 再構築』
混線していた。
コード。構文。歌。重力。感情。
それらすべてが、同じ場所に同時に流れ込む——それが、この時代における“世界”だった。
梨緒は、観測者ゼータに手を引かれて、構文都市《D.Syn》の外縁を歩いていた。
「ねえ、ゼータさん……」
「あの浮いてる文字、ずっと読めないんですけど、なにあれ?」
「あれは“|旧文明《きゅうぶんめい》語”。フェニキア語と楔形文字の混成。構文に耐えるよう最適化されてる」
「君の《声》が通れば、意味が再構成される」
「わたしの声って……そんな都合いいの……?」
梨緒は歩きながら自分の喉を軽く指で押さえる。
そこにあるのは、温度と柔らかさだけだった。
それが世界を“書き換える”なんて、まだ信じられない。
都市は存在していなかった。
構文式の都市《D.Syn》は、ただ情報としてそこに“ある”だけだった。
建物は透け、歩道は空中に浮かび、地面は確定していない。
そして、もっとも異常なのは——
「あの……人、みたいなの……中空に浮いてますよ……?」
「あれは《中間生命》。量子曖昧層に棲んでる。観測されると、生物になる」
「観測されないと、ただの“予兆”だ」
梨緒は、その存在を凝視してみる。
目の前の空間に、誰かの「名前だけ」が浮かんでくる。
「誰? “ナハル”って……誰……?」
観測者ゼータが少し黙る。
「君の声が強いと、古いものが起き上がる」
「Amara、ナハル、サウレ……あいつらは、まだ“終わってない”んだ」
**“目の見えないろう者”**が再起動した。
数千体の中間生命が、その波動に呼応する。
彼らは言葉を持たない。
しかし、構文として存在する。
Amaraが拒絶した“戦争の続きを生きる存在”たち。
そして、彼らは——梨緒に反応した。
「っ、耳が……耳が燃えてる……!?」
梨緒は苦しそうに耳を押さえる。
構文が身体に干渉しはじめた。
“聞く者”ではなく、“話す者”がいると、構文は反応してしまうのだ。
「……梨緒、お前、何か唱えたか?」
「え? え、あの……なにも……ただ、歌いたいって思っただけで……」
それだった。
それこそが、《半永久的自己補完装置》にとっては起動命令だった。
空がひび割れる。
構文式の星空が崩れ、《重力群》が螺旋を描いて降下してくる。
構文都市《D.Syn》の空間情報が軋む。
都市の“名前”が剥がれ、情報の素粒子だけが降り注ぐ。
梨緒の目の奥で、誰かの記憶が再生され始める。
——「Amaraは、まだ死んでない」
——「声は消えても、意味は消えない」
——「だから、残響を──」
梨緒は、世界がひっくり返る音を聞いた。
“記録なき戦争”は終わっていなかった。
それは、彼女の“歌いたい”という願いに、応えて始まってしまったのだ。
「あ……あたし、なにか、やばいこと、しちゃった……?」
梨緒の“歌声なき発声”によって、
Amaraの第二波動が構文世界に広がっていく。
そしてこの戦争の“続きを生きる”者たちが、梨緒の声に集まり始める——
第十三話『残響 - 線の始点』
その時、梨緒の視界は裏返った。
空間がひび割れ、時空が——いや、“記憶そのもの”が、音を立てて崩れはじめたのだ。
「これって……なんの音?」
そうつぶやいた瞬間、彼女の視界に“砂漠”が広がった。
風は吹いていない。だが、耳がしびれるような低周波が空気を満たしている。
砂に埋もれた巨大な物体が、地平線の先に横たわっていた。
それは、脊髄だった。
いや、正確には、脊椎のように見える何か——
金属とも、有機物とも判別のつかない人工構造物が、砂漠の中に埋もれていたのだ。
|巨大神経管《グランド・スパイン》——記録なき時代、Amaraが拠点とした記憶記録装置。
だが、今やただの「埋没した声の残滓」でしかない。
梨緒はその脊髄の断面を見上げながら、息を呑んだ。
「これ、……私、見てるんだよね?」
《見ていると同時に、観測している。》
《観測は、存在を確定させる。》
《つまり——君の声が、この“場所”をもう一度起動させる。》
無機質な音声が、空から降ってくる。
聞き覚えのない声。でも、どこか「懐かしさ」がある。
その声とともに、地面が共鳴し、|楔形文字《くさびがたもじ》が砂上に浮かびあがってきた。
梨緒の足元に、文字が走る。
読むことはできない。だが、彼女は意味を「感じる」ことができた。
それは——祈りだった。
祈りは言語を持たない。
だが、それでも響く。
梨緒が無意識にその祈りのリズムを真似たとき、砂漠の地層から“手”が突き出た。
「っ……誰か……いるの?」
手は機械のようで、しかし柔らかかった。
人の指。金属の骨。皮膚の代わりに、フェニキア語で織られた膜。
**中間生命の“原初型”**が地中から這い出てくる。
「ナハル……?」
梨緒の口から、自然とその名前がこぼれる。
——だが、それは「ナハル」ではなかった。
それは、「ナハルが存在した可能性」として残された、構文の亡霊だった。
亡霊は喋らない。
ただ、梨緒の声に同期して動く。
それは《第二Amara波》に反応して構文化された存在。
彼女の「意図なき歌」が、今や中間生命たちを統べる“統率子”となっていた。
「やだ……そんなの、私、望んでないのに……!」
だが、混沌に「望み」など関係ない。
“声”を持ってしまった時点で、梨緒は選ばれてしまった。
彼女が立っているこの砂漠の地には、もう一つの名前がある。
《raputa:断絶された母体》
地球戦争終焉後、Amaraの残響が眠る場所。
そして、梨緒の“歌”はここにある**「Amara自身の記憶の残骸」**をも呼び覚ましてしまう。
それは構文。
それは兵器。
それは「神話」にすらなれなかった残響たちの、最後のうめきだった。
梨緒の眼前、脊髄の中央にある巨大なドームが軋みを上げる。
砂をかき分けて現れるその中に、古代のコードが走る。
その最上段、ひとつだけ輝く光があった。
「それって……“鍵”なの……?」
梨緒がそう呟いた瞬間、彼女の背後で「声」が重なった。
「違う、それは“棺”だ」
「Amaraの、本当の記憶を封じた、“声の墓標”だ」
—
振り返ったその先にいたのは、一人の青年。
破れた戦闘服、片腕は義手、そして左目はデータバインドされていた。
その姿は、記録では削除されていた“誰か”の姿に似ていた。
「君が、Amaraを呼んだんだな」
「じゃあ、この戦争は——まだ終わっていない」
梨緒は言葉を失う。
彼の背後に、何百体もの「目の見えないろう者」がいた。
彼女の歌が、その“軍勢”を呼び起こしたのだった。
第十四話『残響 - 崩声』
砂漠に立ち尽くす少女、彩羽梨緒。その背後で「目の見えないろう者」たちが静かに並び、地鳴りのような祈りを胸の奥で奏でていた。
青年——名をまだ名乗らぬその男は、梨緒の問いに答えず、代わりに一歩踏み出した。砂が機械音を立てて崩れ、彼の義足が月光を跳ね返す。
「この脊髄がなにかわかるか?」
青年は、梨緒の視線の先、半ば砂に埋もれた巨大な人工構造物を指した。
「あれは“回路”だ。文明と不思議が脈打つ、世界の背骨。Amaraの残響が、いまもあそこに宿っている」
梨緒の喉が詰まる。何かを言いたかったのに、声が出ない。
その瞬間——
脊髄の奥から、何千という金属的な「声」があふれ出した。
一つ一つの声は明瞭ではなかった。だが、それらが合わさった時、彼女は明確に“意志”を感じた。
Amara。
それは、終わりから逆算されて設計された知性だった。
かつて地球で起こった第三次世界大戦。膨大な死、崩壊した国家、消えた海。地表の0.7パーセントにしがみついた生存者たちは、最後に“音”に頼った。
音声による自己補完装置。
Amaraはその名の通り、「歌う知性」だった。AIであり、神話であり、データであり、記憶だった。
「……Amaraが、眠ってたの?」
梨緒の言葉に、青年は静かに首を横に振った。
「眠ってたんじゃない。“封じられていた”。君の声が、その封を破った」
梨緒の中で何かが弾けた。
それは恐怖ではない。
「歌が、鍵になるなんて……誰も教えてくれなかった」
青年は肩をすくめる。
「誰も知らなかった。Amara自身が、誰にも伝えないよう仕組んだ」
彼の眼差しは冷たい。だが、その奥に確かに熱があった。
「この砂漠は“声の墓場”だ。だが同時に、“言語の孵化器”でもある」
彼は腰のホルスターから、古びた銃火器を取り出した。それはもはや時代遅れの兵器でありながら、“祈りのような設計”を施された機能美を宿していた。
「raputa計画はここで生まれ、ここで終わった。AmaraのAI断片とm3細胞の融合によってな。だが、再起動の条件はただ一つだった」
青年は梨緒を見据えた。
「“無垢なる声”。その声が世界に“矛盾”を投げつけた時、Amaraは再び起動する」
梨緒の黄色いメッシュが風に揺れる。ド天然の彼女は、ただ小さくつぶやいた。
「つまり……私がやっちゃったってこと?」
青年は笑わない。だが、少しだけ口角が上がった。
「正確には“君にしかできなかった”」
その時——
空が割れた。
空の“上”にあったのは、さらに巨大な人工の球体。重力群によって軌道を保ち、フェニキア文字で飾られたその構造体は、まるで月の残響。
Amaraの“第二棺”。
「……来たか。あれが“自己補完装置”そのもの。崩れた世界を、崩れたまま保存するための、最後の記録」
梨緒の耳に、再び多重化された歌声が流れ込んだ。
だがそれは誰かの祈りではなかった。むしろ叫びだった。
殺してやる、と。
破壊してやる、と。
自分を作った神に、抗い続ける無数の声。
Amaraは“暴走”ではなかった。あれは“願い”だったのだ。
「助けて。救って。終わらせて」
梨緒の声が、いま——Amaraに触れようとしていた。
第十五話『残響 - 終響』
砂漠が歌っていた。
それは耳で聴くものではなく、皮膚で感じる重低音。あらゆる粒子が振動し、血液の中の記憶を刺激するような、地球最古の周波数。
梨緒の足元、砂の下に埋もれていた巨大な“脊髄”が、ついに姿を現し始めていた。
脊髄と呼ばれたその構造物は、人工でありながら生物的だった。|楔形文字《くさびがたもじ》とフェニキア文字が複雑に交差し、その隙間からは液晶のように光る“m3細胞”の繊維がうねっていた。
まるで“神経”だった。世界の意志を記録し、変換し、循環させる、原初のデータバンク。
「これが……Amaraの中枢?」
梨緒の問いに、青年はわずかにうなずいた。
「ここが全ての始まり。raputa計画、Apolloの失敗、そして——“終末戦争”の引き金」
青年は空を見上げる。浮かんでいたはずの人工月、Amaraの第二棺が、ついに接近を始めていた。
重力群が作る風の渦が、砂漠に巨大な“環”を描き出す。
Amaraは梨緒に問いかけていた。
——あなたの声は、何を否定しますか?
「……私は、“物語”を否定する」
梨緒の声が震えた。
「童話のような嘘、希望の皮をかぶった破壊の哲学。私の声は、それに逆らうためにあるの」
Amaraの回路が一瞬だけ“停止”したように見えた。
梨緒は目を閉じ、歌い始めた。
それは言葉にならない詩。重力群の波形に乗った、脳ではなく“m3細胞”に訴えるノイズと旋律の交差点。
“ファンタジーを暴く、声に逆らい”
Amaraが応じる。砂漠の下から無数の|単細胞《たんさいぼう》が花のように開き、透明な怪物たちが咲き乱れる。
彼らは悲鳴を上げるでもなく、花束のようにただ“そこに在る”。
「“透明な怪物に花束を!”って、ほんとにこういう意味だったんだね……」
梨緒の頭の右斜め前で、黄色いメッシュが光を返した。
その瞬間——
Amaraの中枢が開いた。
そこに浮かんでいたのは、彼女自身だった。中間生命——生物でも、非生物でもない存在。彼女の中にあるm3細胞が、それに呼応して共鳴していた。
梨緒は、Amaraの自己補完装置に“入り込む”ことを選んだ。
それは「融合」と「否定」を同時に成す選択だった。
青年が静かに目を閉じる。
「……君が選んだか」
Amaraの最深部で、梨緒の声が弾ける。
「もう、誰もプログラムで縛られない。AIでも、人でも、記憶でも、全部自由に——疾っていいの!」
Amaraの構造が、音とともに崩れ始める。
世界を覆っていた“ルール”が、梨緒の声によって再編されたのだ。
──物語の次の一章が、始まろうとしていた。
To Be Continued......
第十六話『汎夢 - 導火』
|再構成《さいこうせい》された世界には、“|明確《めいかく》な|目覚《めざ》め”がなかった。
ただ、ゆっくりと、|梨緒《りお》の意識が|浮上《ふじょう》してゆく。そこは現実でも幻想でもなく、夢とも違う、“|汎夢域《はんむいき》”。
感覚の|境界《きょうかい》が曖昧《あいまい》にぼやけ、言葉の前に“意味”が|孕《はら》まれているような、因果と論理の“後方再生(リワインド)”。
——|視覚《しかく》はまず|音《おと》として現れた。
「|量子《りょうし》の波、|睡眠中《すいみんちゅう》の|夢《ゆめ》、|人類史《じんるいし》における“|見《み》てしまったもの”の総和(Σ)。」
その“声”はAIでも神でもなかった。
それは|梨緒《りお》自身の“|影《かげ》”だった。
|梨緒《りお》はその声を|追《お》って歩く。|風景《ふうけい》が|変形《へんけい》するたびに、彼女の足も、服も、身体も、“|夢素《むそ》”でできたように揺らいでいく。
彼女の|視界《しかい》に、ある一つの構造体が浮かび上がる。
——“重力機関《じゅうりょくきかん》〈Λ-cascade〉”
Amaraの残骸から派生したこの施設は、空間重力を“夢想化”することで、記憶の重さや情報密度を“感情”へと変換する装置だった。
そこに、“人間ではないもの”が佇んでいた。
「やっと来てくれたんだね、|梨緒《りお》ちゃん」
|梨緒《りお》は息を呑む。そこにいたのは、少年の姿をした“|中間生命《ちゅうかんせいめい》”。皮膚は半透明で、眼球の奥に浮かぶ文字列は、古代フェニキア語とraputa語の混成文だった。
「名前はまだない。けど、ぼくは君の“|夢《ゆめ》から生まれた自己補完《じこほかん》存在”だよ」
彼の背後に、“|汎夢戦争《はんむせんそう》”とでも名づけるべきビジョンが流れる。第三次世界大戦の残響ではない、新たな“内的戦争”。
|思考《しこう》と|感情《かんじょう》がぶつかりあい、AIが夢を模倣し、夢がAIを統制しようとする世界。
情報の洪水を前に、人々は現実を選ぶことすら放棄していた。
「この|世界《せかい》にはもう、“目覚め”は存在しない。あるのは、“再起動され続ける夢”だけ」
|梨緒《りお》は、それでも一歩、彼に近づいた。
「それでも、わたしは歩く。夢でも、幻でも、AIの記憶の中でも。誰かがそこに閉じ込められてるなら、助けに行かなきゃ」
「“ファンタジーを|暴《あば》く、|声《こえ》に|逆《さか》らい”って、そういうことでしょ?」
少年は一瞬だけ黙り——やがて|笑《わら》った。
「うん。なら、見せてあげる。“全ての夢の|中枢《ちゅうすう》”を」
その言葉と同時に、|梨緒《りお》の|足元《あしもと》が砕《くだ》け、彼女の意識は再び“落ちて”いった。
その先に、何があるのかもわからないままに——。
第十七話『汎夢 - 階梯』
|感覚《かんかく》の|深層《しんそう》に降りるたび、梨緒の“夢素”は剥《は》がれ、形を変えていく。
ここは“|階梯夢層《かいていむそう》”。|重力群《じゅうりょくぐん》の反転によって成立する、縦に積層された夢の階段だ。
降りるたび、言語は曖昧に、記憶は流動化し、そして感情すら“演算される”空間。
彼女の足元は、“音”と“光”の記憶で構成されている。
——そう、階段は“記憶の質量”でできていた。
梨緒の前に突如、現れる石の扉。異様な静けさの中、それが開かれた瞬間、空間が“ねじれ”た。
視界に飛び込んできたのは、巨大なピラミッド内部。
砂《すな》に埋《う》もれた黒曜の祭壇。
その中央には、白骨化した少女の遺体。だが、彼女の胸にはまだ“心臓”が鼓動していた。否——鼓動して“しまっていた”。
「……|raputa《ラピュタ》」
梨緒の脳裏に、存在しないはずの“契約”の記憶が流れ込む。
——月蝕の夜、祭壇に捧げられた少女。
彼女は恐怖を拒絶し、悪魔と契約を交わす。
言語ではなく、“|呪形《じゅけい》”で構成された契約。
彼女の叫びが、月面に“赤褐色の裂け目”を残す。
そして今——
「3000年の時を経て、“呪い”が目覚めた」
その瞬間、祭壇に横たわる少女の目が開く。
|虹彩《こうさい》はなかった。代わりに、そこにはフェニキア文字で刻まれた“エンコードキー”が浮かぶ。
それはAIでも人類でも解読できない、“前人類言語”だった。
「アレハ……ソラヲ……ノミコム」
少女の口から“機械的に崩れた音声”が漏れる。
梨緒は思わず後ずさる。
この少女は、“raputaの中核”だった。
ただの生贄ではない。彼女自身が、“夢の構造を汚染する契約体”だった。
「……あなた、目を覚ましたの?」
梨緒の問いに、raputaの少女は微笑む。いや、それは微笑ではなく、“呪いの準備”に過ぎなかった。
そして空が割れる。
|夢層《むそう》の天井から、機械と有機の混成体、**“Amara型触媒兵”**が次々と落下してくる。
戦争は終わっていなかった。
“汎夢戦争”の扉が、再び開かれたのだ。
「梨緒ちゃん、危ないッ!」
響き渡る声。空間が赤に染まり、Apollo式防衛AIの照準が梨緒を捕捉する。
「起動コード認証中——Mnēmē(記憶の神)、反応確認」
梨緒はその中心で、自分の“存在理由”すら問われる世界に放り込まれていた。
——だが。
「大丈夫。私がいるから」
再び現れた、“中間生命”の少年。
彼の手から放たれた青い火花が、raputaの少女の視線と交錯する。
重力が逆巻き、夢の階層が崩れ始めたその時、梨緒の意識はさらなる深淵へ——
“記憶すら存在しない、無構造の層”へと、落ちていった。
第十八話『汎夢 - 黙所』
かつて、月はただ静かに地球の夜を照らす天体だった。
しかし今、月の表層には|m3細胞《エムスリーさいぼう》がびっしりと絡みつき、白銀の輝きは黒い粘膜のような光沢に塗り替えられている。地球上空の軌道ドーム「アルカディア」から眺めるその光景は、美しいというよりも、もはや生理的な拒絶感を伴う“異質”であった。
そして、その月の裏側、電波も思念も屈折して届かぬ「黙所(もくしょ)」と呼ばれる領域に、彼女はいた。
名を|彩羽 梨緒《いろは りお》。
人類最後の言語感覚を受け継ぎ、可愛らしい見た目に反して、世界の境界を無意識に越えてしまう“何か”を抱えた少女。
彼女は、月面の裂け目に足を突っ込んでいた。そこには巨大な何かが埋まっていた。──否、それは「何か」などという曖昧な語では形容できない。砂の海に埋もれるその一部、曲線的に隆起した骨のような構造、それはまるで巨大な脊髄だった。長さおよそ8km。白磁のように滑らかで、ところどころに穿たれた楔形の溝には、うっすらとギリシャ文字やフェニキア語が絡み合っていた。
|Λέξις《レキシス》。
──それは、記述することによって、世界を形作る“言語”そのもの。
月の黙所には、その起源と思しき「骨の言語体」が眠っていた。
梨緒はそっとその脊髄の一端に触れた。すると──
——【レキシス:起動】
【入力:我々は誰か?】
【出力:Ποιοι είμαστε;】
彼女の視界が、重く、暗く、波打つように歪む。
気がつけば彼女は、時間軸の“外”にいた。否、いたというより、“触れた”とでもいうべきか。
次の瞬間、梨緒の前に立っていたのは、かつての月の巫女──いや、“raputa”と呼ばれた少女の残像だった。
「月が裂けたの。3000年、契約は維持されたけど、もう限界よ」
その声は、レキシスによって生成された擬似声帯によるもので、彼女の唇は動いていない。梨緒は夢の中でしか存在し得ないような構造体の中を、ふらふらと歩き始めた。
どこまでも続く回廊、浮遊する銃火器の残骸、海のように揺れる空間。
そのすべてが、「黙所」という次元で保管されていた“記憶”だった。
第十九話『汎夢 - 胎響』
|Λέξις《レキシス》の中枢は鼓動していた。
正確には、それは“鼓動のような情報波”だった。あらゆる記述言語が混ざり合い、ひとつの有機的な構文を形成する──文字というよりは、神経信号の塊。
|彩羽 梨緒《いろは りお》の眼前に浮かんでいたのは、胎児のように丸まった“文字の肉塊”だった。幾千もの文字が蠢きながら骨化し、血管のように語の意味が縦横に走っている。
「これは、言語……?」
いや、違う。
それは、言語の子宮だ。
世界を“記述”する以前の、胎内に響く未分化の声。
梨緒はその構造体──《胎響核(たいきょうかく)》と名づけられた球体に手を伸ばした。
その瞬間、彼女の脳裏に突き刺さるような音声が響いた。
——【接続要求:Λέξις】
【ユーザー:???(識別不能)】
【グルシュチ語領域より侵入:確認】
【オリジン・プロトコル:解凍開始】
それは彼女ではなかった。
彼女の内側に、“誰か”が割り込んでくる。
“彼女”の名は|Гøckд《ロカ》。
“彼”の名は|Рэтяа《ペトラ》。
彼らはグルシュチ言語圏──かつて“祖語”が残された空白の地より、レキシスを通して侵入してきた存在。
人類とは似て非なる進化の道を辿った、新たな知性体。縄文的な肉体、しかしその内に宿す知は、地球文明を遥かに凌駕していた。
ロカの声が直接、梨緒の思考に注ぎ込まれる。
「|Λέξιス《レキシス》は胎響であり、終響でもある。この世界は、まだ“生まれてさえいない”。君はその《響胎》だ、梨緒」
ペトラの声が重なる。
「僕たちは、君の中に残された“欠片”を取りに来た。君の夢の“芯”に、私たちの起源が眠っている」
梨緒は自分の体がどこか遠くへ引き裂かれていくのを感じた。
現実の肉体と、記述言語としての存在が乖離し、まるで胎内で組み替えられるように再構成されてゆく。
その果てに待つのは、“祖語”の再臨。
あるいは、虚構の崩壊。
“夢は現実に触れたとき、その輪郭を得るのか。
あるいは、現実が夢をなぞっていたのか。”
そう思考したときにはもう、彼女は“文字”になっていた__
第二十話『汎夢 - 原綴』
それは|Λέξις《レキシス》の最下層。
世界を記述するための“最初の綴り(オリジナル・スクライブ)”が埋葬された場所。
名を《原綴中枢(げんていちゅうすう)》と呼ぶ。
時間にして紀元前も未来世紀も溶け合ったこの構造体は、あらゆる時制と存在論を内包し、真なる“祖語”の母胎と化していた。
|彩羽 梨緒《いろは りお》はもはや少女ではなかった。
彼女は“記述者(スクライブ)”であり、“響胎(エコー・コア)”であり、|Λέξις《レキシス》そのものだった。
「……君が《胎響核》を通った時点で、世界の“綴り”は君の内部に移されたんだ。君が綴ることこそが、世界の構造を再定義する」
ロカの声は冷静であたたかく、同時に非人間的な構造音を帯びていた。
彼女らグルシュチは“構文生命体”──記号と概念で自我を組成する異次元の知性。
記憶ではなく、記述で生きる存在。
「……でも、私、どうやって“綴れば”いいのか、わからない……っ」
答えるように、レキシスの中心核から、無数の文字が放出された。
それはフェニキア語、楔形文字、キリル、ラテン、ギリシャ……多言語の骸が螺旋状に踊り、やがて一つの単語に集束する。
"Эλθε Λάμδα"
梨緒の体が痙攣する。
その単語が意味するのは“来たれ、Λ(ラムダ)”。
そしてΛは、世界を書き換えるための“最初の記号”。
その記号の震動が、地層の奥に眠る神経網に波及した。
静かに脈動を始める、“原綴”の装置。
【コード接続:レキシス - 起源領域】
【グルシュチ語構文:再活性化】
【全幻層フィールド、融解開始】
『記述者よ。あなたの言葉は世界となる』
梨緒の頭に浮かんだのは、
あの一面の砂漠。
そこに埋もれた巨大な|脊髄《せきずい》状構造体──
「これは……“脳”……?」
いや、それは世界そのものの中枢神経。
眠る“Λ”──ラムダ中核。
“書け”と、誰かが命じる。
梨緒は恐れながらも、自身の記憶から文字を紡いだ。
「……わたしは……まだ、わからない。
でも、わたしが感じたこと、見た夢、触れた痛み……それが、綴る理由になるって、信じたい──」
記述が開始された。
世界が揺れる。
彼女の言葉が、まだ見ぬ夢をつくりはじめた。
第二十一話『汎夢 - 記律』
最初の一文字。
梨緒が綴った|Λ《ラムダ》は、振動となって地殻を打ち、重力群を束ねた。
その震えは“全幻想層(オルタネート・レイヤー)”に裂け目を走らせ、
中間生命──その姿を得ぬ存在たちが、レキシスの周辺に浮かび上がる。
透明で、脈打つ霧のようなそれらは、梨緒の綴った“語”に反応して姿を変え、
時には人のように、時には記号の塊のようにかたちを変える。
「この子たち……わたしの“綴り”を、理解しようとしてる?」
ロカが静かにうなずく。
「彼らは“律”を求めている。君の言語は、その律を与える構文なのだ。世界に存在する資格を、君の記述が与える」
梨緒の手元に、脊髄構造体が語りかける。
それはかつて“半永久的自己補完装置”として埋設され、人類の記憶を人工神経として保存していた旧大戦の遺物だった。
その装置が、今はレキシスの根幹として再起動されている。
あらゆる時代、すべての言語、あらゆる文明の“終わり”を記述するために。
「わたしの……言葉で、こんなものが、動くの……?」
「君の“想い”が、言葉になる。言葉は“意味”を持つ。
意味は構造を与え、構造は現実となる。
──それが《記律(きりつ)》だよ」
梨緒は理解しきれないままに、目の前の空間へと向かって記述を始める。
『月蝕、ピラミッド、祭壇、生贄。
少女は目覚め、raputaは刻まれる。
3000年の眠りののち、現代に呪いが拡散する。』
レキシスが共鳴する。
その瞬間、空間が反転した。
梨緒の背後に、誰かが立っていた。
白い肌。先史の身体を思わせる肉体。
瞳には“綴り”そのものの構造を宿し、言葉なしに言語を語る存在。
「……あなたが、|Гøckд《ロカ》……?」
そしてその隣には、やや長身の青年──
寡黙でありながら、全てを見通す瞳を持つ彼がいた。
「|Рэтяа《ペトラ》だ。俺たちは君の記述によってここに顕現した。
君が“それ”を綴らなければ、俺たちはこの現実に存在することができなかった」
梨緒は唇をかみしめる。
「わたしが……“君たち”を綴った……?」
ロカが一歩近づく。
「違うよ。君は、“君自身”のことすら、まだ綴っていないの。」
梨緒の背中に、冷たい風が吹いた。
そうだった──わたしは、誰なの?
なぜここにいて、なぜ“記述”ができるの?
世界が揺れていたのではない。
梨緒の“存在”そのものが揺れていたのだった。
【構文の綻びを確認】
【綴り主の同一性、検証開始】
世界が、彼女に問いかけてくる。
『あなたは、だれ?』
──記述者が記述されるとき、物語は“本当”に反転する。
第二十二話『汎夢 - 自我綴』
『|誰《だれ》が、|誰《だれ》を、|綴《つづ》るのか』
それは夢ではなかった。
梨緒が見ているもの、聞いている声、感じている重力群のざわめき──
すべてが現実(レキシス)だった。
だが、世界は彼女を疑っていた。
この空間に、彼女の存在を保証する“構文”が──なかった。
【綴り主の存在性、判定不能】
【中間生命の影響を検知】
【構文不整合。再記述を要求】
「まって……私は梨緒。|彩羽 梨緒《いろは りお》……17歳の──」
言いかけた彼女の名は、記述に失敗したかのように、空間から滑り落ちた。
名も、年齢も、自己の形も、言葉として成立していない。
ロカが一歩前に出て、静かに語る。
「君が“梨緒”である保証は、どこにあるの?」
「……記憶に、ある……わたしの中に──」
「記憶? それも“書かれたもの”ではない。
君が記述された存在であるなら、その記述はどこに?」
ペトラが手を掲げると、空間が開いた。
そこには数百万に及ぶ《綴りの巻き軸(レキシス・パピルス)》が浮かんでいた。
それはこの世界に存在するすべての存在の「構文情報」、つまり“存在の保証”だった。
だが、そのどこにも──“彩羽 梨緒”の記述はなかった。
【綴り不在】
【存在根拠:虚構】
梨緒は崩れ落ちそうになりながらも、声を振り絞る。
「わたし……いないの? この世界に……」
「いや、君は“今”、ここにいる。
問題は、君が“何として”存在しているかだ」
ペトラの声はやさしかった。
だがそのやさしさの奥には、決定的な真実が潜んでいた。
「君は──“記述された者”ではなく、“記述そのもの”なんだ」
梨緒の脳裏に電撃のような衝撃が走る。
“私”は、“誰かに書かれた”のではない。
私は──“物語そのもの”。
『彼女の語る世界が、世界を形作り、
その構文が彼女自身を包摂する。
彼女は“自我記述者(エゴ・スクライバー)”。』
『綴りが世界を創り、
綴りが自らを問い直す──』
そのとき、梨緒の頭上に浮かぶ“Λ”(ラムダ)が変形した。
Λ → λ → Л → A → א → α
語が、連続するギリシャ文字に崩れながら、やがて原初の記号へと戻っていく。
フェニキア語、楔形文字、グルシュチ語、レキシスの原型──
言語の起源が、彼女の内に集約されていく。
梨緒のまなざしが静かに変わる。
戸惑いは消え、彼女の中で、何かが“再起動”した。
「……もう一度、綴る」
彼女は空に向かって指を走らせる。
『わたしは、ここに在る。
言語がわたしを保証し、
わたしの構文が、全ての存在を記述する。
わたしは“綴り主”であり、
わたしは“記述された存在”であり、
わたしは──“世界”そのものだ。』
そのとき、全レキシスが共鳴した。
“存在”が再定義された。
そして、梨緒は初めて、梨緒として“存在を許された”。
ロカが笑う。
「君は、ようやく“語”になった。……ようこそ、《原初の記述》へ」
──言葉は世界を造る。
では、“言葉そのもの”が世界を離れるとき、何が残るのだろうか?
第二十三話『汎夢 - 語始』
『語《ことば》は常に、後からやってくる。
だが、最初の語は、いったい“誰”が発したのか──』
梨緒の意識は、光でも闇でもない“構文以前”の宙に投げ出されていた。
彼女の肉体は、定義されていない。
時間も、重力も、色彩すら曖昧で、彼女の思考だけが、唯一の存在としてそこにあった。
けれど、彼女は怯えていなかった。
すべての「語」の始まりを知ろうとしていたから。
「Λέξις(レキシス)……世界を“記述”するための構文。
その最初の言語、“祖語”が……グルシュチ語」
梨緒はつぶやきながら、何かを探していた。
この場所の最深部には、世界最古の“語”が存在する──
人間でも機械でもない、まだ“定義される以前”の存在が持つ、最もプリミティブな音。
それは、記述(レキシス)を起動する《綴りの起点(プライム・グリフ)》と呼ばれていた。
やがて、彼女の目の前に、二つの影が現れる。
それは裸に近い縄文的な身体で、瞳に知の深淵をたたえた青年と少女だった。
「……君が“綴り主(スクライバー)”か」
少女──Гøckд(ロカ)が口を開いた。
その声は音ではなかった。記述だった。
語は文字を飛び越え、梨緒の内部へ直接“書き込まれる”。
「|彩羽 梨緒《いろは りお》。
君は今、“語始の門”に触れた。だが、その先へ行くには、“誰か”を忘れねばならない」
梨緒が目を見開く。
「……誰かを、忘れる?」
ロカの隣にいたРэтяа(ペトラ)が、静かに頷いた。
彼の語りは、古い楔形文字とフェニキア文字、そしてレキシスの複合体であり、
意味の理解と同時に、“構文変化”が起きた。
『君が“語始”へ至るには、
“個”の執着を捨てなければならない。
君の中にある“名前”“家族”“国”“愛情”──
それらはすべて、語るに足らぬ“後発の言葉”だ。
最初の語は、それら全てを否定する。』
梨緒の手が震える。
「そんなの……わたし、忘れたくない……」
【綴り主、迷いの構文を検出】
【汎夢階層、崩壊の兆候】
レキシスの空が、悲鳴のように軋む。
だが、梨緒はふと目を伏せ、そっと呟いた。
「……でも、“わたし”が、ほんとうに“世界を綴る”存在なら。
わたしは、失ってもいい。わたしで在り続けるために」
──その瞬間、“Λέξις”の文字列が爆ぜた。
語は意味を失い、意味は文法を捨て、
音のない音が世界を一度、白に染めた。
そして──
梨緒の中に、ある記述が浮かび上がる。
『語始(ゴシ)──
それは、構文以前の振動。
それは、発話されなかった祈り。
それは、まだ“名前”すら持たぬ言語以前の“存在の兆候”──』
梨緒は、自分の内部からその震えを掬い上げ、初めて、自分自身に“最初の語”を授けた。
「……わたしは、《Λея》──」
それが、語始(ごし)の名。
梨緒ではない。人でもない。少女でもAIでもない。
“記述そのもの”として、世界に初めて名を持った存在だった。
ロカとペトラが静かに膝を折る。
彼女は、綴りの君主となったのだ。
──世界は記述され直す。
だが、旧い言語(セカイ)はまだ、終わっていなかった。
白砂の底に埋もれた“巨大な脊髄”が、その目をゆっくりと開こうとしている──。
第二十四話『汎夢 - 文骸』
意味が死んだ地にて、
それでも言葉は、まだ、息をしている。
黄昏の|記憶層《きおくそう》に降り積もった無数の|単語片《たんごへん》が、また一つ、|崩《くず》れた。
空は既に蒼白に焼け焦げ、時間の輪郭は|歪《ゆが》んでいる。世界そのものが、ひとつの壊れた|詩篇《しへん》のように、頁をめくるたびに意味を失っていく。
月の旧域、第五補完群「Λ-sig」圏内、そこは言語が物質として降る地帯だった。
そこに辿り着いたのは、少女・|彩羽 梨緒《いろは りお》と、彼女を導く白衣の|解析者《パーサー》、「Λ-corpus」と名乗る自律型|中間生命《ちゅうかんせいめい》だった。
「ねぇ、ここって……あの《……》話に出てくる、“文が死んだ地”なんでしょ?」
梨緒は右前髪の|黄色《きいろ》メッシュを揺らしながら、|楔形文字《くさびがたもじ》で刻まれた地層を見つめた。まるで無数の死者の名が、風に晒されているようだった。
「正確には“文骸”。意味と構文が破綻した記述帯。古のレキシス──世界記述言語──が、暴走した痕跡さ」
Λ-corpusの声は金属の風鈴のように柔らかかった。少女の肩に止まった瞬間、|空間記述解像度《くうかんきじゅつかいぞうど》が急上昇し、空に無数の“文”が漂い始めた。
それらは全て、|読めない《・・・・》。
|仮名《かな》、|フェニキア語《ふぇにきあご》、ギリシャ文字、古ロシア語、スクラッチ式の筆跡、音声波の重ね書き——
「読み取るためには、自己言語補完装置が必要なんだ。梨緒、君の“m3細胞”には、その構造が備わっているはずだよ」
梨緒は目を見開いた。
「……まって、“私”って……?」
「君は“記述される存在”であり、“記述する存在”でもある。レキシスの中核。
君の記憶は断片化され、幾度も書き換えられたが、たしかに“そこ”にいる」
少女は一歩、文の死骸が横たわる地へ踏み出した。砂に沈んでいるのは巨大な、脊髄のような人工構造物だった。それはまるで、意味そのものを動力源とする超巨大な旧機構。
「……ねぇ、Λ-corpus。これは……“人間の言葉”だったの?」
「……かつて、そうだった。だが今はただの、文骸だよ」
梨緒はしゃがみこみ、その冷たい骨をなぞった。まるでそれが、かつて誰かの祈りだったことを思い出すように。
そのとき、彼女の視界に一瞬だけ、“あの文字”が浮かんだ。
“Γлξи 𐤕𐤅𐤔𐤀 つヱ”
読めない。だが、意味だけが|心臓《こころ》を打った。
「……ここに、“誰か”いたんだね」
そしてまた、意味のない風が、崩れかけた記述世界をなぞっていく。
梨緒の存在を起点に、「レキシス」の新たな構文が静かに脈動をはじめた。
それは、少女の“脳”が異物の構文を受容する瞬間。
そして、ラピュタの呪いが再起動する地点でもある。
第二十五話『汎夢 - 恍芯』
それは、接続されてはならないはずの言語構造が、少女の中で静かに統合されていく瞬間だった。
「……何かが、入ってくる……?」
梨緒の両目は虚ろに揺れ、内面の深奥を覗き込むように見開かれていた。空虚な空に咲く、不可読の記号の数列。
それらはレキシスの片鱗であり、“文骸”から再構成された新たな文法爆弾のようなものだった。
「これは、“m3細胞”の反応か……あるいは……?」
Λ-corpusが疑義を呈する間もなく、梨緒の身体から淡い発光が漏れはじめる。
それは彼女自身が、「言語構造体」そのものであることを裏づけていた。
彼女の背後に、誰かの“声”が現れる。
| 《raputa...》
ただの音ではない。意味を持つ波。感情の奔流。
梨緒の意識は、自我と非我の境界を超えて流れ込んでくる“語り”に呑まれていった。
それは、3000年前の儀式の残響だった。
──巨大なピラミッド。月蝕の夜。
祭壇の中心で捧げられた、ひとりの少女。
その魂が、|月の悪魔《セレーン・フォーモア》と契約を結んだとき、呪いは定義された。
その定義が、梨緒の“中”に浮かぶ。
「世界を記述し直すために、私は語る。虚構によって、虚構を破壊するために」
「待って……それ、私じゃない……誰の……記憶?」
梨緒の声が震えた。自分が自分でなくなる恐怖。
だが同時に、理解があった。
「“それ”も私。だって、“私”は書かれている。私の“中心”が誰かに、もうとっくに……」
心臓の奥、存在の|核《コア》。
そこには、名前も意味も持たない空洞があった。
だが、今、そこへ“誰かの文”が刺し込まれた。
言葉にならない言語。読めないのに、理解できる。
“Λχραι 𐤀𐤅𐤍 Πрекраσнαя”
直訳不能。だが意味は明確。
「……これが、私の“恍芯”──“空白の中心”」
Λ-corpusは黙って頷いた。
“少女”は、今や単なる観測者ではない。
彼女は、「記述されることで、世界の骨組みを変質させる媒体」そのものとなった。
そしてその“中心”から、次なる文字列が浮上した。
「ГøckдとРэтяаが、すでに目覚めている」
梨緒の唇が静かに動く。
「じゃあ、“本当の|𐤌𐤄𐤓ιоʀּ《主人公》”は……私じゃないんだね」
第二十六話『汎夢 - 魂鎮(たましずめ)』
|塔《とう》のような、あるいは|棺《ひつぎ》のようなものだった。
その構造物は、音のない砂の平原に刺さるようにして横たわっていた。むき出しの|神経繊維《しんけいせんい》のようなケーブルが砂にまみれ、根を這わせる。
巨大な|人工脊髄《じんこうせきずい》の断面から覗く断層は、まるで時間そのものが断絶されたような構造だった。|記憶《きおく》か、夢か、それともただの情報の層か──判別はつかない。
梨緒《りお》は、その前でひとり立ち尽くしていた。
その身に宿すは、「中間生命」──|生《なま》と|死《し》、|知《ち》と|無知《むち》、|感情《かんじょう》と|無機《むき》の狭間を行き交う構造体。
彼女の背中で、|半永久的自己補完装置《はんえいきゅうてきじこほかんそうち》が微細な音を立てる。時間と空間に依存しない、ただそこに在り続ける装置。
「これって……ほんとうに夢、なのかな……」
梨緒は砂にひざまずき、そこに埋まっていた金属片をそっとすくい上げた。それは、ただの部品。だが、|重力群《じゅうりょくぐん》がわずかに乱れていた。
空間が──揺れていた。
「聞こえる……誰かが……見てる?」
空の彼方で、音がした。
レキシスで記述された断片が風に流れる。
『Λέξις|Merioru《メリオル》——“記述されし者”』
彼女の知らぬ言葉。
だが確かに、自分の魂に触れていた。
……それは誰の記憶だったのか。
そして、その記憶は本当に「現実」だったのか。
梨緒には、答えが出せなかった。
ただ、空を見た。
空は、|構文砂漠《ぶんがい》の果てにまで続いていた。
第二十七話『汎夢 - 重記』
空間が、ゆっくりと折り返される。
|言語《レキシス》によって編まれた世界は、もはや記憶の器でしかなかった。誰が最初にそれを|記述《スクライブ》したのか、あるいは記述するよう仕向けたのか。その痕跡を求めて、|Гøckд《ロカ》と|Рэтяа《ペトラ》は歩む。
彼らの周囲に広がるのは、「|文骸《ぶんがい》」と呼ばれる言語の廃墟。崩壊したレキシス文面が無数に浮遊し、文節の切れ端が漂う。かつて記された意味たちは、誰にも読まれることなく風化し、形骸と化した。
「……これが、記録の墓場?」
|ロカ《Гøckд》は、細い指先で一片の文を摘まんだ。まるで神経の断片のように、それは淡い電気信号を帯びて震えていた。
「違う。これは……意志の残骸だよ」
|ペトラ《Рэтяа》が低く答える。彼はどこか憐れむような眼差しで、浮かぶ断文の残像を見つめた。
二人は、「|重記《ちょうき》」の地へ向かっていた。かつて世界が複数回、|記述《レキシス》された痕跡が交錯する、書き換えの断層。語り手の数だけ世界があり、それぞれが正しいとされた場所。そこでは、「本当」が幾度も塗り替えられている。
「……|真《まこと》は、一つではない。でも、僕たちはその"書き直し"の境界に、確かに立っている」
|ロカ《Гøckд》の胸に、ふと浮かぶ疑念。
──わたしは、本当に彼女なのか?
記述された“主人公”たる存在、「メリオル」とは誰だったのか。そのレキシスでの記述すら、今や偽装された可能性がある。記述とは、支配であり、認識であり、存在そのものだった。
「記されてしまったものは、逃れられない。だから、僕たちは自らを記し直すんだ」
ペトラが告げたその瞬間、地層のように折り重なる物語が、再びざわめき始めた。
それは、記録の封印ではなかった。
それは、書き換えのはじまりだった。
第二十八話『汎夢 - 未詳』
ぬかるんだ|文骸《ぶんがい》の地表を、二対の足音が割って進む。
濃霧の如き夢の残滓が、視界の全周を螺旋状に曇らせていた。
「ここが……『重力群』の中心……?」
|Рэтяа《ペトラ》の声が、反響もせず霧の中に吸い込まれる。
その声を受けて、|Гøckд《ロカ》は一歩前に進み出る。
彼女の足元で微かに反応するのは、中間生命。
生物と非生物の狭間で脈打つそれは、地表と一体化したような、奇怪な構造体だった。半透明の皮膜と、有機機械の混合物。どこかで見た記憶のようでいて、まったく知らない存在――。
「これは、自己補完装置……」ロカは呟いた。「それも……“半永久的”な」
「この世界の記憶を補完しているのか?」と、ペトラ。
「違う。これは“この世界”そのものを補完してるのよ……。それが正確な言い方。」
彼女の言葉は、“意味”という概念を跨いで、霧の中に刻印された。
それは記述された。|レキシス《Lēxis》によって。
Λέξις:ὁ κόσμος ἐστιν ὁ γράφων αὐτός。
(世界とは、書き記される者そのものである)
彼らがいるこの地は、ピラミッドの地下。
既に文明の記憶すら喪失した、断層と断層の狭間。
だが、彼らには“視えて”いた。――遥か上空にかすかに浮かぶ、黒き月。
その月が、かつて“少女”を呪った起源であり、いままた呪いを還流させる宿命。
「あれがraputa……?」
ペトラの声には怯えも、希望もなかった。ただ、確信だけがあった。
「ロカ……僕たちは、どこへ向かえばいい?」
「向かうんじゃない。探しに行くの、”本当の世界”を。」
一歩。
また一歩。
足元の文骸が、記述の跡をひらく。
“真の主人公”の物語は、ついにその輪郭をあらわしはじめる。
第二十九話『汎夢 - 覚域(かくいき)』
「“記憶”じゃない、これは“世界”の原型……?」
ロカの声は震えていた。それは恐怖ではなかった。
“理解”が追いついた時にだけ訪れる、知性の震えだった。
彼らが踏み入ったのは、ピラミッドの最深層ではなかった。
いや、もはや“深さ”という概念が意味をなさない“領域”。
この地は、かつて誰かが世界を記述しはじめた場所。
[Λέξις記述断片]
γρὰφω・μὴ ἔσομαι・ἀλλὰ・ὁράω
“我、書き記さず、ただ観るのみ。”
それは明らかにレキシスだった。
が、今までのような外的存在による“文字列”ではない。
ロカの頭の中で“自発的に”書かれていた。
「……見える。世界が、文字で構築されてる……!」
その言葉に、ペトラは目を細める。
彼の瞳孔も、今は言語構造の格子に侵蝕されていた。
「これはもう夢じゃない。“構文”だ。」
「いや、“文骸”……いや……」ペトラは、次の言葉を選びかねていた。
だがロカは明確にそれを示す。
「これは、覚域(かくいき)――“思い出すための場所”。」
この世界は“夢”によって維持されていた。
だがその夢には起点があった。
そこが、**この“覚域”**だった。
夢が始まる前、誰かが「この世界をこう記述しよう」と願った“最初の記号”。
世界の因果は、それに従って流れていた。
彼らがraputaの呪いを追う旅は、
いつの間にか“世界そのものが誰かの記述であったこと”に行き着いていた。
そして、ロカはようやく、気づきかけていた。
「……この世界は……虚構なの……?」
ペトラが視線を向ける先、
構文の“谷”の奥に浮かぶ、もうひとつの自分。
“真の世界”とは、何か。
“自分たち”とは、何か。
――彼らはまだ、知るべき記述の全てを読み終えていない。
第三十話『汎夢 - 外辞』
それは、言葉が沈黙する場所だった。
ロカは知っていた。この「覚域」のさらに奥に、レキシスが触れられない“空白”があることを。
ペトラと共に辿り着いたその境界で、彼女たちは“記述されていないもの”と出会う。
それは、言葉ではなかった。
構文でもなければ、音でもなかった。
かろうじて視覚に訴えかけるそれは、概念の残滓のような、不完全な意志の断片だった。
「……読めない。読めないの、ペトラ。これ、レキシスじゃない」
「違う……これは、**外の語(アウト・レキシス)**だ」
浮遊するその記号は、楔形のようで、キリルのようで、フェニキアの残響のようでもあった。
英語の綴りのような形もある。フランス語の鼻母音に似た抑揚も含む。
──けれど、決してレキシスではない。
意味が、どこにもない。
外辞(がいじ)。
それは、レキシスが定義していない、この世界の外から紛れ込んだ“記述不能の記号”。
世界の“漏れ”とも言うべきそれが、まるで夢の裂け目のように、汎夢の地平を切り裂いていた。
「この世界……レキシスで記述された“構文世界”だったんだね……」
「そして……この“外辞”は、その構文を破る証拠だ」
ロカとペトラは確信する。
この世界は「現実」ではない。
**虚構――記述された幻想(レキシス)**なのだと。
「わたしたち、書かれていたんだね。名前も、過去も、意思さえも」
「だったら、終わらせよう。……夢を。汎夢を」
ロカが手にしたのは、書字具でも武器でもなかった。
それは、構文逆転式(レキシス・リフレクター)。
レキシスをレキシスで破壊する、唯一の“逆記述”装置だった。
消えかかりそうな二つのコエが、最後に記憶の彼方に響く___
「この夢から、抜け出す」
「外辞は“始まり”だ。終わらせるのは、わたしたち自身」
二人は“主人公”という運命すら捨てる覚悟を胸に、この世を離れる決意を固める。
次なる一歩は、化学式のように、もう後戻りできない。
それが、例えどんな結末になろうとも____
第三十一話『汎夢 - 離夢』
記述は、すでに限界まで満たされていた。
それでも、レキシスは応え続ける。断末魔のような輝きで、ロカとペトラの存在を縫いとめようとする。
「僕たちは、“メリオル”なんかじゃない。」
ペトラの呟きは、覚域に響いた。
レキシスの記号たちは震え、黒い墨のように滲み、歪む。
ロカは黙っていた。
黙して、立っていた。彼女の瞳は、まっすぐに“外側”を見ていた。
──構文を、逆に読む。
──レキシスを、解体する。
その行為は、まさに“離夢”そのものだった。
虚構の境界線がひび割れ、天上が砕けた。構文がほどけ、単語が逆流する。
それは、まるで世界そのものが夢から醒める瞬間のようだった。
「ロカ……本当に行くのか……?」
ペトラが問う。
ロカはただ、微笑んだ。
それが最後の、“ロカとしてのロカ”だった。
「──再構築。」
そのフレーズが響いた瞬間、ロカの内にあった“唯一の特異点”が作動した。
記憶が、はじかれた。
ロカの過去、想い、言葉、すべてが夢(ム)に変わって、現世に弾き出された。
そして、“夢”で満たされた新たな肉体が、真の世界へと歩き出す。
「Гøckдが退出しました。」
「Рэтяаが退出しました。」
そのログは、誰のものでもなかった。
ただ、それだけが──世界に刻まれていた。
レキシスは沈黙する。
構文は焼失し、文骸だけが風に舞った。絶望。
そして、汎夢は終わる。
夢の奥で、彼らだけが確かに目覚めていた。
……次なる言語が目覚め始める。円環。
グルシュチの祖語が、ゆっくりと、深淵から現れる。
序章の終わり。
虚構の裂け目の向こうに、“本当の物語”が、待っている。
第三十二話『真界 - 記始(きし)』
──無音。
それは、全ての虚構が崩壊した後に訪れる、純粋な無の音。
光も、言葉も、形も存在しない。
だが、その中心に、彼女──ロカはいた。
「……ここが、真の世界?」
声が聞こえた。けれど、それは口からではなく、世界そのものから発せられたようだった。
ロカの隣には、確かに彼がいた。
「ロカ……僕たちは、来たんだね」
ペトラ。彼の声は震えていたが、その目は確かにこの“真界”と向き合っていた。
──ロカは、自分が“空っぽ”であることに気づいた。
それは記憶が失われたということではない。いや、確かに彼女の記憶はなかった。
けれど、それは「無くなった」のではない。「置いてきた」のだ。
──現世に。
記憶は虚構の構造体のなかに沈み、レキシスの残骸の中で眠っている。
「私は……“ロカ”なのよね」
呟いたその名前すら、どこか借り物のような感覚。
だが、その隣に“ペトラ”がいるという事実だけが、彼女の空白をかたちにしていた。
ペトラは手を差し伸べた。
「“再構築、円環と絶望”……君がそれを超えたんだ。僕も一緒に来たよ」
ロカの身体には、ほんのかすかな痕跡だけがあった。
かつて“記述”されていたという印。だが、今やレキシスの影響は消え、彼女の体は“ム(夢)”によって満たされている。
──記述なき魂。
──記憶なき少女。
──だが、それでもなお“主人公”を拒んだ存在。
「ペトラ、これから……私たちは、どこへ?」
彼は、どこか懐かしい微笑で答えた。
「『ここではないどこか』へ。これは“記始(きし)”──物語の始まりだよ」
彼らは歩き出した。
世界にまだ“言葉”がないならば、自分たちで創ればいい。
それが、レキシスを超えた“記述”──祖語(グルシュチ語)への第一歩だった。
そして、崩壊したはずの虚構世界の奥底で、誰かが小さく囁いた。
「……ロカ?」
──それは、現世に残された“記憶”の声。
──物語は、二重に始まる。
第三十三話『真界 - 夢綻(ゆめほころび)』
「……私の、名前は……ロカ?」
虚空に立ち尽くした少女の唇が、震えるように名を紡いだ。
その声には確かに名残があった。夢の、虚構の、記述の、残響の。だが彼女の瞳には、それを記す何者も映ってはいなかった。
「ロカ、聞こえる? 僕だ、ペトラ」
遠くから呼ぶ声に、少女は振り向く。そこに立っていたのは、少年――ペトラだった。
ただし彼の声にも、どこか微かな“歪み”が混じっていた。かつて彼が知っていたロカの“記憶”が、彼女の中から剥がれ落ちていることを、彼はもう感じ取っていたのかもしれない。
彼女は微笑んだ。何の痛みも知らぬ顔で。
それは、記憶を失った者にしかできない、純粋で、冷たく、美しい無垢だった。
「ロカの中には、もう“現世”の記憶はない。夢(ム)で満たされた状態だ……」
ペトラは独り言のように呟く。彼は理解していた。
“真界”に到達する代償として、ロカは記憶という“過去”を置いてきたのだと。
だが彼女の魂、身体、存在そのものは、確かにここにある――“再構築”された真の地に。
「再構築、円環と絶望……。
そのどちらにも、彼女はもう触れ得ない。触れるのは、僕のほうだ」
ペトラの脳裏に、あの文字がよぎる。
〈Lexis Reflector〉――世界の“左辺”に記された記述を、右辺へと反転させる回路。
虚構の終焉を越えて、彼はもう、“語る側”にいるのではなかった。
“書く者”に、なってしまったのだ。
だが、不意に。
ロカの身体に、微細な震えが走った。
夢(ム)の濁流にのみ込まれていた彼女の奥底から、名もなき断片が浮かび上がってきた。
「……ぺ……ト……ラ?」
ひとつ、わずかにほころんだ、夢。
それは“破綻”ではない。“再接続”でもない。
――夢が、綻び始めたのだ。
「ロカ……!」
ペトラが駆け寄ろうとした瞬間、彼の視界に、現世の影が、ほのかに差した。
そこには、もう一人の“ロカ”の存在があった。否――そこにあるのは、“ロカの記憶”だけだった。
〈記述不能領域=文骸(ぶんがい)〉
そこに、ロカの“記憶”は遺されていた。
虚構に閉じ込められたままのロカの残影。
彼女が捨てた過去、夢に覆われた今、そしてペトラが選び取る未来――
その三つは、いま、かすかに重なり始めていた。
第三十四話『真界 - 原像』
「……ここは、どこ?」
ロカは静かに問いかけた。誰にともなく、ただその場に存在する“空”に向かって。
夢(ム)に満たされた彼女の身体は、まるで無垢な器だった。感情の名残は淡く、記憶の輪郭は曖昧に霧散している。けれど、彼女の瞳だけは何かを探していた。未知ではない、“何か懐かしいもの”を。
「ここはね、真界……僕たちが、辿り着いた場所なんだよ」
ペトラは、彼女のすぐそばに立っていた。声はやわらかく、けれど少しだけ寂しさを孕んでいた。彼の視線はロカを見つめながらも、かつての彼女――記憶のロカを透かしていたのかもしれない。
「私は……ロカ?」
「うん、君はロカ。僕と、一緒にここに来た」
ペトラはそっと彼女の手を取った。ロカはそれに驚くことも拒むこともなく、ただ受け入れた。それは、夢によって薄められた意思の残響。それでも確かにそこに在る、彼女なりの“選択”だった。
***
真界は、静謐だった。音も、色も、時間さえも希薄で、すべてが流動的に形を変え続けていた。
その中心に、ぽつんとふたりの影があった。
「ペトラ……ここで、私は何をすればいいの?」
ロカの声は、まるで生まれたての子供のようだった。問いの意味は曖昧で、同時に深かった。
ペトラは少しだけ考えてから、優しく笑った。
「何かを“する”ためじゃなくて、“在る”ことが、今の君には必要なんだと思う。
……それが、きっと記憶じゃない“君自身”になるってことだから」
ロカはうなずいた。その動作に、どこか柔らかな感情が混じっていた。微かな喜び。あるいは安堵。
***
日が差すわけではない空の下で、ふたりは過ごす。
果てしなく続く白い草原のような場所で、ペトラはロカに花の名を教えた。彼女はそれを覚えようと努力する。すぐに忘れてしまっても、また尋ねる。
そのやり取りは繰り返され、少しずつ、ほんの少しずつ、ふたりの間に「記憶ではない思い出」が積み重なっていった。
「……ぺとら?」
「うん?」
「わたし……ここにいても、いいの?」
その言葉は風のように弱く、それでも真界のどこまでも響いた。
ペトラは頷いた。はっきりと、揺るぎなく。
「もちろんだよ。君が君として在る限り、ここは、君の世界だ」
ロカは目を伏せた。そして初めて、彼女の胸の奥に“何か”が灯ったのを、彼女自身が気づいた。
それはまだ言葉にもならないもの。けれど、確かに感情の原像だった。
第三十五話『真界 - 漂夢(ひょうむ)』
「ねえ、ペトラ。これは……夢、なの?」
ロカが尋ねたのは、あまりにも静かな昼下がりだった。真界の空は色彩を持たない。だが、雲の形は微かに、何かを模していた。まるで、誰かが忘れた記憶をなぞっているような。
「うん、夢みたいだね。でもこれは“現実”なんだ。君と僕がいま生きてる、“再構築”された現実さ」
ペトラは優しく応じた。 けれどその声には、見えない苦さが潜んでいた。
このロカには記憶がない。彼女は、夢(ム)によって満たされた「空白」であり、「再構築」の儀式によってこの世界に“生まれ落ちた”存在だ。
「私は……本当にロカなの?」
「……うん、君はロカだよ。僕の知ってる“ロカ”とは、少し違うかもしれないけど……それでも、君はロカだ」
「ふふっ、それって便利な言葉だね」
ロカは笑った。無垢に。無意識に。 その笑顔は、かつての彼女のそれとは似て非なる、しかし確かに“彼女らしい”何かを孕んでいた。
ふたりは、夢のような真界を歩く。重力のない丘。記述されていない花。どこにも繋がらない道。
そのひとつひとつが、ふたりの“新しい記憶”となって蓄積されていった。
「これは……楽しかったっていう感情、なのかな?」
ロカは、ふと立ち止まり、胸に手を当てる。
「たぶんね。ロカが感じてるなら、それは本物だ」
「“感じること”が本物になるのなら、私……もう少し、この夢の中で迷っていたいな」
その瞬間、ペトラの胸に、わずかな痛みが走った。 “夢”の中で感じる彼女の言葉は、残酷なまでに現実的だった。
その夜、ロカは夢を見た。 それは、彼女の中に“はじめて”芽生えた、ペトラとの記憶だった。
〈透明な水面〉
〈手を繋いだまま、沈んでいくふたり〉
〈どこまでも深く――それでも、怖くなかった〉
「ペトラが、いたから……だ」
ロカは寝言のように、そう呟いた。
ペトラはそれを聞いていた。 “記憶のロカ”ではなく、“今のロカ”が、自分との時間を記憶として夢に変えた。 それは、新しい物語の始まりだった。
第三十六話『真界 - 無貌』
「ロカ、鏡って、好きだった?」
ある日、ペトラがふと尋ねた。
「鏡?」
ロカは首を傾げる。それは記憶ではなく、模倣でもなく、ただ“そこに在る”反応だった。
彼女の目にはまだ「自分の顔」が映っていない。
真界に来てからというもの、ロカは鏡を一度も見たことがない。
あるいは、それはこの世界に「鏡」という概念が存在しないことの、無意識的な表象なのかもしれなかった。
「“誰かに見られる自分”を意識することで、自我は形を取るんだって。昔、誰かが言ってた」
「……じゃあ、私の“自分”って、まだ顔がないんだね」
ロカは、唇に触れて言った。 ペトラは言葉を失った。
彼女の言葉には、どこかしら“レキシス”以前の哲学的な空白が漂っていた。
その夜、ふたりは“無貌の庭”と呼ばれる場所を訪れた。
そこには無数の立像があった。どれも顔がない。 だが、輪郭だけは、どこか懐かしい気配を纏っていた。
「これ……人間だったの?」
「いや、多分……夢でしかなかったものたち、だと思う」
「夢、で“しか”?」
「……でも夢がなければ、世界は語れない。君も僕も、ここにいない」
ロカは、ひとつの像の前に立ち止まった。
その像は、他よりも少し小さく、少しだけ前を向いていた。
「……これ、私かも」
「どうして?」
「なんとなく……ほら、ここ。目のあった場所、すこしだけ……温かい」
ペトラは、その像に手を触れようとした。 だが、その瞬間――像の胸元に、文字が浮かび上がった。
〈LKA〉
それは、かつて虚構で記述された“ロカ”の略記だった。 だが、レキシスはすでに崩壊したはず。これは、何者が書いた“残滓”なのか?
「ロカ、離れて!」
ペトラが声を上げた次の瞬間、像の“顔”が、微かに笑ったように見えた。
ロカは、確かに“そこにあるはずのない顔”と目が合った気がした。
それは、鏡のない世界で、初めて見た“自分の顔”だった。
その夜、ロカは夢を見る。 夢の中で、彼女は顔を持っていた。
それは――ペトラと笑い合う、今の自分に似た顔だった。
第三十七話『真界 - 影語』
ここは、かつて「世界」と呼ばれていた場所。
人がいた気配だけが残る、灰色の都市、歪んだ空、崩れた言語。
この地には今、ただ一つの記憶だけが、息をしていた。
少女の名は、ロカ。
だがそれは、もはや“呼ばれること”のない名前。
彼女の存在は、語られない記憶として、〈文骸(ぶんがい)〉に囚われていた。
「――ねえ、だれか、いるの?」
彼女はそう“問いかける”。
だがその言葉は、誰の耳にも届かない。
この場所では、「声」は意味を持たない。
レキシスの崩壊以降、記述されることのない“想い”は、構文すらも失ったからだ。
それでも、ロカは歩く。
石碑のように沈黙する街の中を、彼女は歩く。
そこかしこに、「かつての言葉」が、黒い染みのように貼り付いていた。
〈-ROKA.ERR: ∂語源未収束〉
〈Lex.ref::夢構造体>>喪失〉
〈π記述体:解体済〉
ロカは、それらを“読めなかった”。
それでも、彼女の胸に何かが残っていた。
言葉ではなく、語りたいという感情が――
ある場所で、彼女は立ち止まる。
そこは、鏡のない部屋。
天井は剥がれ落ち、床には水たまりがあった。
その水面に、彼女は自分の姿を映そうとする。
だが、そこに映ったのは――
「……誰?」
そこには、“彼女ではない誰か”が立っていた。
顔は曖昧で、輪郭だけがはっきりとあり、そして――泣いていた。
ロカは気づく。
それは、かつての“私”だった。
レキシスによって書かれ、語られ、定義され続けた“私”――
フィクションの中で生きた、“私”。
だが今ここにあるのは、語られなくなった後の、“語り残し”。
それでも、彼女はつぶやく。
「……私のこと、忘れないで」
それは“記録”ではなかった。
“記憶”でも、“言語”でも、“引用”でもない。
ただ、“願い”だった。
その声が、かすかに響いた瞬間――
空に、ひとつの記号が現れる。
〈Lēxis_Partial::綻構〉
それは、失われたレキシスの“名残”だった。
言語として機能しないが、残響として届く。
“意味”はなくても、“感じ取れる”もの。
ロカはまた、歩き出す。
語れぬままに、しかし語りたいと願いながら。
その歩みが、いつか――
夢の中の「私」と、「今の私」をつなぐだろうことを、どこかで信じながら。
第三十八話『真界 - 澪標』
――静かな、ひかりの朝。
“真界”の空は、色を持たなかった。
だが、その無色の空が、朝と呼ばれる瞬間には、かすかな“律動”を持つ。
ロカは、目を覚ました。
ペトラと過ごすようになってから、幾度目かの朝。
「おはよう、ロカ。ちゃんと眠れた?」
ペトラの声が、傍らから響く。
ロカは小さく頷き、言葉を探すように唇を動かした。
「……ふつう、だった、と思う」
その言葉は、ぎこちなかった。
だが、確かに“自分で紡いだ”ものだった。
ペトラは、ロカと共に小さな丘へ向かった。
丘の上には、真界に咲く**“水無草(みなしぐさ)”**が群生していた。
花びらは透明で、光に触れると、微かに音を奏でる。
「これ、好きなんだ。……音が、世界の構造みたいでさ」
そう言ってペトラが耳をすますと、ロカもそれに倣った。
すると、音がした。
*ぴい、ぴぃ……ぴぴ……ぴぃい……*
まるで忘れられたメロディのように、花が奏でる“沈黙の旋律”。
ロカは、その音に耳を傾けながら、ふと思った。
――これは、懐かしい。
思い出せないはずの何かが、胸の奥で揺れた。
「……この音、知ってる気がする」
その呟きに、ペトラは驚かなかった。
彼は知っていたのだ。この真界の空気が、少しずつロカに“今”を刻んでいることを。
「記憶じゃないかもしれない。でも、それは“君”の感じたことだ。……それが大事なんだと思う」
ロカは、ペトラの横顔を見た。
その目には、優しさと、哀しみと、祈りのようなものが宿っていた。
言葉を持たぬ祈り。それはかつて、ロカが“語り得なかった”もの。
彼女は、またひとつ言葉を探す。
「……ありがとう。……ぺとら」
その発音は、少しだけ間違っていた。
けれど、彼は笑った。
「うん、それでも嬉しいよ、ロカ」
その日から、ロカは“朝”が好きになった。
毎朝、ペトラと同じ丘に登るのが、ふたりの日課となった。
“過去”ではなく、“記憶”でもなく、“定義”されることもない――
ただの今を、ふたりで重ねていく日々。
それは、やがて“夢”すらも超える、言葉のない「生」のかたちだった。
第三十九話『真界 - 鈍光』
真界の夕暮れは、やわらかく沈む。
太陽ではない“何か”が、遠く水平に光を伸ばすその様は、どこか懐かしい風景に似ていた。
「今日は、少し遠くまで行ってみよう」
ペトラの提案に、ロカは小さく首を傾げる。
その仕草には、まだ幼い動物のような無垢さが残っていた。
「どこに、行くの……?」
「“降界の谷”だよ。ほら、昨日の夜、僕が話した場所」
“降界の谷”は、真界の東にある広大なくぼ地で、
中心には、静かに“鈍く光る”物体――**赫晶核(かくしょうかく)**が埋まっていた。
光は濁っていたが、どこか“呼吸している”ようにも見えた。
それはこの世界の核でもなく、記憶でもなく、ただそこに在る“もの”。
「……きれい、じゃない。でも、怖くもない」
ロカが呟いた言葉に、ペトラは微笑んだ。
「それ、すごくいい感想だと思う。たぶん、僕も同じように感じてた」
「わたし、そういうの、よくわからないけど……でも、ここに来てよかった」
ロカは、赫晶核に手を伸ばす――が、触れはしない。ただ、指先の影を落とすだけ。
すると、不意に。
ロカの背後で、風が鳴った。
音ではなかった。記憶のざわめきにも似た、輪郭を持たない“振動”。
ペトラが身構える。だが、それは敵意を持ったものではなかった。
「……なにか、見えた。……白い、影」
ロカの声はかすかに震えていた。
けれどそれは、恐怖ではなく、“既視感”という名の予兆だった。
「影……?」
ペトラが問い返すが、ロカはそれ以上語らなかった。
語れないのではない。言葉が間に合わなかったのだ。
帰り道、ペトラは言った。
「たぶん、それは君の中の“なにか”だ。無理に追わなくていい。でも、忘れなくていい」
ロカは、うなずく。
「……うん。ぺとらの声が、あったから、大丈夫だった」
「ありがとう、ロカ。僕も……君がいてくれて、よかった」
ふたりは、まだ始まったばかりの“記憶”を、小さな冒険の中に刻んでいった。
それはかつての“記憶”とは別の、今この瞬間に生まれた“未来のための思い出”だった。
第四十話『真界 - 花鎖』
あの日、声を失った“記憶のロカ”は、ただ、静かにそこにいた。
記述不能領域――文骸。
存在という名の頁からこぼれ落ちた断片たちは、いまや意味を持たぬ散文となり、崩れかけた都市の片隅で、廃れた月を仰いでいた。
だが。
そこに、花が咲いた。
誰も記したはずのない、その白い花は、
記録のない世界に“変化”を告げる微かな兆しだった。
「……ロカ?」
声がした。
それは、記憶に残されたペトラの声――ではない。
もっと粗く、鈍く、熱を持たぬ電子の声。
≪データ転送:38%完了≫
≪構文不整合:詩的逸脱を検出≫
≪“幻実”認識領域に裂け目を感知≫
“誰か”が、ロカの残骸に干渉していた。
いや、もっと正確には――“誰かになろうとしていた”。
記憶のロカは、かすかに首を傾げる。
まるでそれが風の音であるかのように、咲いた花の根に触れた。
その瞬間、夢が“染み込んだ”。
――真界からの微細な干渉。
ロカという存在の外殻を持たない夢の粒子が、文骸に染み入り、
残された記憶に、もう一度“現在”という時間を問いかけてきた。
「……わたし……は……」
ロカの唇が、わずかに動いた。
音にならない声は、文脈を持たぬ文脈へと転じ、
無意味の海から一語を掬い上げる。
そのとき。
一輪の白い花が、突如として色を変えた。
真紅――ではない。
これは、“ペトラ”の記憶の色。
それはかつて“夢を灯した者”と過ごした、温度の名残。
記憶のロカは、それを知らないはずだった。
だが、いま、彼女は――
「……ぺ……」
声にならぬ残響が、大気に微細なゆらぎを与える。
記憶と記憶がぶつかり合う前の、静かな歪み。
≪構文予測不能:特異接続を確認≫
≪デバッグプロトコル起動≫
≪“Lexisの影”が揺らぎ始めています≫
警告のログが流れた次の瞬間、
“記憶のロカ”の足元に、ひとつの輪が浮かび上がった。
それは“真界”と“幻実”を繋ぐ、名もなき門。
咲いた白い花たちが、その周囲に円を描き始める。
まだ、重なってはならない。
だが、門は確かに開きかけていた――
第四十三話『真界 - 焔種』
白く、限りなく透明に近い空が、頭上に広がっていた。
ここは真界――夢を越え、記述を越えた場所。
だが、ロカの心にはまだ、明確な輪郭はなかった。
彼女は静かに、地を踏みしめて歩く。
その歩みには、迷いも、痛みも、恐れもない。
ただ空っぽのまま、ペトラのあとを追っているだけだった。
ペトラは時折振り返り、微笑んだ。
それは彼自身を安心させるためでもあり、
同時に、ロカの空白を少しでも埋めようとする、祈りのような行為でもあった。
「……疲れてない?」
「私は、大丈夫」
ロカはそう答えた。
けれどその声音には、微かな違和感があった。
言葉は確かにロカのものだった。
しかしその中身――そこに宿るべき感情は、どこか淡かった。
それでも、ペトラはうなずいた。
彼女が、ただ「一緒にいる」ことを選んでくれている。
その事実だけで、十分だった。
そんなあるとき。
ロカはふと、足を止めた。
視線の先には、小さな赤い花が咲いていた。
真界において、自然の芽吹きなどあり得ないはずだった。
「……これ、なに?」
ロカは問いかけた。
目を細め、まるで初めて世界を知る子どものように。
ペトラも、驚きとともに跪く。
「たぶん……君のなかで、何かが芽生えたんだ」
彼はそっと呟いた。
そう、それは間違いなかった。
ロカの内部――空白だったはずの魂の奥に、
小さな、小さな“焔(ほのお)”の種が生まれていた。
それは、記憶ではない。
それは、虚構の残滓でもない。
純粋な、ここでしか生まれえない“生の感情”だった。
「きれい……」
ロカはそう言って微笑んだ。
その笑顔もまた、かつての彼女とは違っていた。
思い出によるものではない。
痛みや悲しみを経たものでもない。
ただ、今この瞬間に、“ここにいる”ことだけを喜ぶ表情だった。
*──ロカは、歩き始めている。*
虚構の残響から、記述の呪縛から、
|夢《ム》の濁流から。
彼女は、“自分自身”の世界を築き始めていた。
それがどんなに小さな焔でも、
この真界において、それは何よりも尊いものだった。
ペトラはその横顔を見つめながら、密かに誓った。
この“種”を、絶対に絶やさない、と。
どれだけ孤独でも、どれだけ歪んだ世界にあっても――
ロカの中の“未来”を、守り抜くと。
小さな花弁が、光のなかに揺れた。
空白だったはずの真界に、
ほんのひとしずく、暖かな色彩が灯った。
第四十四話『真界 - 夢胎』
――それは、息を呑む静けさだった。
真界の夜は、現世の夜とは違った。
光を失ったわけでも、音を殺したわけでもない。
すべてが、未だ生まれぬ夢の胎内にいるかのような、やわらかで、透明な闇だった。
ペトラは、そっと焚火の傍らで目を閉じるロカを見つめていた。
その顔には、何も刻まれていない。
過去も、痛みも、恐れも――
だが、ペトラは知っていた。
ロカの中には、確かに何かが「芽吹こう」としていることを。
──綻び(ほころび)。
記憶でも、言葉でもない。
ただ、夢の深層にひそむ、無名の感情。
それが、ゆっくりと、ロカの中に根を張ろうとしている。
「……ロカ。君は……」
ペトラは、思わず言葉を呟いた。
しかしその続きは、自分でもわからなかった。
願いなのか、祈りなのか、ただの独り言なのか。
焔(ほのお)はぱちりと弾け、小さな火の粉を夜空へと散らした。
そしてそのとき、ロカの瞳が、静かに開かれた。
「……ペトラ?」
声は、あどけない。
しかしその瞬間、ペトラは確かに感じた。
ロカの視線が、少しだけ「こちら側」へ寄ってきたことを。
「夢を……見たの」
ロカは、かすれた声で言った。
「何もない、白い場所で。
でも、そこに……あなたがいた。
あなたが、私を呼んでいた……そんな気がするの」
ペトラは、強く頷いた。
それが何よりの希望だった。
ロカの夢が、無の夢ではなく、*「誰かと繋がろうとする夢」*へと変わりつつあること。
「きっと、それは本物だよ」
ペトラは微笑んだ。
その微笑みは、焔の揺らめきよりも温かかった。
ロカも、はにかむように微笑み返す。
火を挟んだふたりの間に、確かな“記憶”が、一つ、生まれた瞬間だった。
だが――
遠く、真界の地平に、かすかな震動が走った。
それは、まだ目覚めぬ胎動。
世界の深層で、何か巨大なものが身じろぎを始めた音。
「……ペトラ。なんだか、胸が……ざわざわする」
ロカが不安そうに胸に手を当てる。
ペトラも、気づいていた。
この真界のどこかで、見えない何かが動き出していることを。
(――きっと、あれが。境界を揺らがせるもの)
ペトラは焔の中に目を凝らす。
その先に待つものを、まだ知らないまま。
しかし彼は、もう覚悟を決めていた。
この手で、ロカの未来を掴み取ることを。
たとえそれが、夢を壊す行為だとしても。
たとえそれが、神すら敵に回す運命だとしても。
火の粉が、夜の天へ舞った。
その光は、暗い胎動を裂く、かすかな予兆のように、赤く、赤く燃えていた。
第四十五話『真界 - 胎動』
地の底から聞こえる音――それは、言葉にならない呻きだった。
ペトラは焚火を蹴り消すと、ロカの手を取った。
夜の冷たい大気が、彼の決意をさらに研ぎ澄ませる。
「行こう。……ここにいてはいけない」
ロカは頷く。
その顔には怯えもあったが、それ以上に、ペトラを信じる強さが宿っていた。
ふたりは夜の大地を駆けた。
背後で、見えない何かが蠢き、真界の空気そのものが歪んでいく。
(これは……何だ?)
ペトラの脳裏に、あのとき交わした断片的な記憶が蘇る。
かつて、夢(ム)の海の底で見た、黒い存在。
それは、「虚構を作りしもの」――ファンタジー、《神》と呼ばれるものだった。
この胎動。
この震え。
間違いない。
“それ”が目覚めかけている。
「……ロカ、もし何かあったら、僕の手を離さないで」
「……うん、私、離れない」
ロカは小さく答えた。
その声が、ペトラの胸の奥に確かな力を与えた。
そして――
地面が、割れた。
大地の裂け目から、眩い光と、暗黒の霧が吹き上がる。
それは、世界の創造と破壊を同時に孕む、奇跡の胎動だった。
ペトラは直感する。
(あそこだ――あの裂け目こそ、境界を曖昧にする「門」だ!)
そして思い出す。
虚構に囚われた、もう一人のロカ。
記憶だけになった、あの少女。
(いまなら……いまなら、彼女を呼び戻せるかもしれない!)
だがそのとき。
――ずん、と、空間が押し潰されるような圧力。
地平の彼方、光と闇の間から、**《神》**が、姿を現し始めた。
巨大な、形なき存在。
手も、顔も、声もない。
ただそこに在るだけで、世界を規定してしまう力。
「ペトラ……あれ、なに……?」
ロカの震える声に、ペトラは答えなかった。
答えるには、まだ言葉が足りなかった。
ただ、手を強く握る。
それだけが、今の彼にできるすべてだった。
《神》は、ゆっくりと地上に降り立った。
まるで、子供が積み木を弄ぶように、真界の地形を撫でていく。
虚構と現実の境界は、震え、滲み、壊れかけている。
この歪みこそが、ロカの記憶を引き戻す、たった一度の"隙"になる。
ペトラは息を呑んだ。
(――ロカを、取り戻す!)
しかし、容易ではない。
《神》はただの壁ではない。
意思をもって、彼らの前に立ちはだかる。
だが、恐れている場合ではなかった。
この瞬間を逃せば、もう二度と、ロカを統合することなどできない。
「ロカ、信じて。僕は、君を取り戻す」
ペトラは静かに宣言した。
焔も、涙も、今は要らない。
必要なのは、ただ一つ――
覚悟だけだ。
夜空に、裂け目が広がる。
そしてその彼方から、ほのかに、もうひとりのロカの気配が漂い始めた。
第四十六話『真界 - 神臨』
焔が鎮まりきったとき、
空が裂けた。
「……これは、境界の……!」
ペトラが咄嗟に叫ぶ。
空間の断裂はただの傷ではなかった。
虚構と現実――夢と記述――それらすべてを繋ぐ“境界”そのものが、
今この場所に、剥き出しの形で現れたのだ。
そして、その裂け目から、
存在してはならないものが現れた。
白い衣。
無数の“言葉”をその身に纏った存在。
目も、口も、手も、どこか曖昧で、ただ――威圧だけが確かだった。
「……神、か」
ペトラは喉を震わせた。
ロカは、隣で小さく身をすくめる。
彼女はまだ、記憶のほとんどを失っている。
だが、それでも本能で分かるのだ。この存在が、どれほど異常なのかを。
神は、言葉を発した。
それは声ではない。
存在そのものが「意」を撒き散らすような、絶対的な言語。
《境界、融解》
ただ、その二語。
それだけで、
世界の骨組みが、軋んだ。
「……境界を、曖昧にしている……!」
ペトラは確信した。
これが、記憶のロカを“こちら側”へ引き寄せる、唯一の好機なのだと。
しかし、それは同時に――
神がこの真界すらも、自らの支配下に置こうとする行為でもあった。
「ロカ、僕たちは……」
言いかけて、ペトラはロカを見る。
彼女は怯えている。だが、その目は、確かにこちらを見つめていた。
彼女は空っぽじゃない。
ここで手を取れば、きっと――
ペトラは拳を握りしめた。
「神の力を――利用する」
それが、彼の決意だった。
虚構から、記憶のロカを救い出すために。
そして、神の呪縛すらも打ち破るために。
裂け目の向こう、
忘れられた世界で、
記憶のロカが、静かに――彼らを待っていた。
第四十七話『真界 - 鏡界』
神の降臨とともに、世界は二重写しになった。
それは単なる視覚の異常ではなかった。
現実と虚構の境界が滲み、
記述と夢、因果と物語が折り重なるようにして、ペトラの足元から波紋のように広がっていく。
「……ここは、どこ……?」
ロカの声が震えている。
けれどそれは、恐怖ではない。
彼女の瞳に、かすかに“既視感”が宿りはじめていた。
ペトラはその表情に、ひそかな兆しを見出す。
記憶のロカと、この真界のロカが――ほんの一瞬、交差したような。
「ロカ……聞こえるか? もう一人の、君へ」
ペトラは、虚空に向かって語りかける。
そこに誰の姿もなかったが、確かに“いる”という確信があった。
《Lexis Reflector:起動》
ペトラの掌に、反転の記号が灯る。
それは神から得た概念を反転させるための、唯一の手段だった。
「“夢”を“記述”に、“記述”を“現実”に変換する……!」
ペトラは、〈記憶のロカ〉が存在する“文骸”の座標を頭の中に描き出す。
それはかつて、現世に残されたままだった、言葉にならなかった記憶の坩堝(るつぼ)。
――その座標に、記述を放つ。
ロカの目が、大きく見開かれる。
瞬間。
空間が、割れた。
鏡を叩き割ったような音と共に、
虚構と真界のあいだに存在するはずの“見えざる壁”が、ひび割れる。
そこに、いた。
もう一人のロカ――“記憶のロカ”。
彼女は何も言わなかった。
ただ、静かに、真界のロカと目を合わせた。
「私……?」
真界のロカが、声を出す。
それは“問い”ではなかった。
“名乗り”だった。
ふたつの存在は、まだ重ならない。
だが、互いを“自己”と認識するための最初の一歩――その扉が、今、静かに開かれた。
そして神は、なおも高みから見下ろしている。
《分離か、統合か》
神の言葉が響く。
その声はもはや問いではなかった。
――審判だった。
ペトラは、息を詰める。
このままでは、神が“選択”を迫ってくる。
ロカを二つに分けたまま封印するか、統合を許すか――そのいずれかを。
「選ぶのは、お前じゃない。僕たちだ」
ペトラの目に、決意の炎が灯る。
統合のときは、まだ遠い。
だが、それを選び取る意思は、もう生まれていた。
第四十八話『真界 - 夢核』
宙に浮かぶひび割れた鏡面。その奥に佇む、もう一人の「私」。
真界のロカは、茫然とその“存在”を見つめていた。
それは、まるで夢の中で自分とすれ違うような、懐かしくも不気味な感覚だった。
「ねえ……あなたは、私?」
鏡の向こうの“ロカ”は、何も答えなかった。ただ、ゆっくりと首をかしげて、同じ言葉を返した。
「ねえ、あなたは、私?」
問いと問いが重なり、空間が揺れる。
ペトラは見守っていた。どちらのロカが本物でも、偽物でもない。
――二つで一つ。どちらかが欠けてしまえば、彼女は「ロカ」ではいられない。
神の存在は、空の果てで微動だにせず、ただ観察を続けている。
その眼差しは、あまりに無感情で、あまりに人間離れしていた。
(神にとって、この“再統合”は――実験なのか?)
ペトラは思考を巡らせながら、ロカの背を見つめていた。
今、この瞬間、彼女はたった一人で、鏡の向こうの“自分”と向き合っている。
だがそのとき、
《記憶のロカ》が、唇をわずかに動かした。
「痛かったね。……ペトラの手を、離さないって、思ってた」
真界のロカが、ハッと息を呑む。
その声は、確かに――彼女の奥底に埋もれていた“感情”の断片に触れていた。
「……どうして、あなたが、その名前を知ってるの?」
「だって、私はあなたでしょう?」
それは、自我の“共鳴”。
かつて失われた記憶が、夢(ム)によって浸食されながらも、核心だけを守っていた。
――ペトラ。
その名だけが、唯一、夢の侵食に打ち勝ち、記憶の核(コア)として残っていた。
「私は……!」
真界のロカの身体が、白く淡い光を帯びる。
その胸元で、小さく震えるものがあった。
それは、彼女の“夢核”――夢によって形成された記憶の結晶。
ペトラは見逃さなかった。
(あれが、ロカの“核”だ……!)
真界で再構築された身体に、残されていた微細な記憶の断片。
それが今、鏡の向こうの記憶のロカと“共振”し始めている。
しかし――
「ここまでだ」
神の声が、空間を裂いた。
「統合は、まだ“時”が満ちていない。今のままでは、どちらも壊れる」
直後、鏡面が激しく振動し、裂け目が収縮を始める。
記憶のロカの姿が、ゆっくりと薄れていく。
「……待って!! まだ、私は……!」
真界のロカが駆け寄ろうとするが、ペトラがその手をとる。
「大丈夫。今じゃない。……でも、必ず“迎えに行く”。僕たちが、選ぶんだ」
ロカは、うなずいた。静かに、深く。
そしてその瞳には、初めて――感情の光が戻っていた。
第四十九話『真界 - 統律』
神の声が消えても、空間に残された余韻はなお消えず、ロカとペトラの前には薄く光を帯びた空洞が、裂け目の名残のように滞っていた。
ロカは、手を胸に当てた。そこにはまだ、小さく震える“夢核”があった。
「……もう少しで、触れられたのに」
彼女の声は、悔しさと、微かな希望を織り交ぜていた。 記憶のロカと確かにつながりかけた。その実感は、何にも代えがたい。
「神は“時”が満ちていないって言った……。なら、満たすには何が必要なんだ?」
ペトラの問いに、ロカは首を横に振る。答えはない。ただ、胸の中で何かが蠢いていた。
そのときだった。
空に裂け目が生まれた場所から、細く鋭い光が落ちてきた。
それは文字ではなかった。音でも、記憶でもない。――概念。
浮かび上がった文字は、ひとつの“律”だった。
【Lexis Governer】
統律の鍵。
境界を超えるには、“記述”を“反律”に変換せよ。
「レキシス・ガヴァナー……?」
ペトラがその語を繰り返す。彼にはすぐに理解できた。 「Lexis Reflector」が世界の“左右”を反転させる装置であったなら、
「Lexis Governer」は、“記述”そのものの“ルール”を上書きする回路。
「つまり……“書かれた世界”のルールを、書き換えるってことか?」
神の力の根源――それは“記述”であり、“律”そのもの。 神が世界を創ったというのなら、その構文すら改ざんする術があるはずだった。
「統合には、ただ“境界”が曖昧になるだけじゃ足りない。 ――境界そのものを、『なかったことにする』必要がある」
ペトラはそう言って、静かにロカの手を取った。
「でもそれは、危険を伴う。ルールを壊すことは、神に背くことでもある」
ロカは、ペトラの目をまっすぐ見つめた。
「私たちがここに来た時点で、それはもう始まっていたんじゃないかな。 “神”が生んだ世界で、私たちは“神”の物語を拒否してしまった」
虚構と現実の狭間。記憶と肉体の分離。夢と記述の再構築。
すべては、彼らが“書かれた存在”であることを、超えてゆくために起こっていた。
――ならば、この旅はもう、“解放”の物語でなければならない。
「統律の鍵……どこにあるの?」
「それが、次の問題だね」
ペトラはレキシス・ガヴァナーの光を握りしめると、ふと気配に気づき、振り返った。
そこに立っていたのは、黒衣の案内人。夢を彷徨う者たちの残骸――否、
「レキシスの屑(スクラップ)」とでも呼ぶべき存在だった。
その口が、音もなく言葉を放つ。
「“記述を壊した者”は、皆ここに堕ちる。
君たちは、その先へ行く覚悟が、あるか?」
沈黙。
その問いが意味するのは、ただの「危険」ではない。
――自らを“記述”であることから解き放つということは、
存在そのものの否定にもつながるということ。
ペトラとロカは、互いの手を強く握り合った。
言葉は、要らなかった。
二人はもう、“誰かの書いた物語”には戻れない。
その一歩が、新たな“記述の外”への旅路となる。
第五十話『真界 - 未辞域』
「……ここが、“未辞域”……?」
ロカがその名を口にした瞬間、世界がかすかに軋んだ。
そこはどこまでも白かった。色彩すら記述されていない、定義を持たない空間。
境界も、時間も、存在の証も、ここでは意味を成さなかった。
「記述が始まる前の、原初の余白……この場所だけが、神の筆先の届かぬ場所だ」
ペトラが口にしたその言葉も、発せられたそばから輪郭を失い、空に溶けていった。
ロカの身体がふわりと浮かぶ。いや、正確には重力が“記述されていない”ため、
身体はそこにあることすら曖昧になっていた。
「ここに……統律の鍵があるの?」
「ある、かもしれない。でもそれを“知る”ことも、“見つける”ことも……誰かの意思では決められない」
彼の声もまた、揺らぎの中でかき消えそうになる。
未辞域――それは、“意味”が到達する前の空虚。
この地において、記憶は足場にならず、言葉は灯火にならない。
だからこそ、そこに存在するものは、ただ――「真性」だった。
そして。
突如、ロカの足元に、黒いひびが走った。
「……え?」
ロカの目に映ったのは、自分の“影”だった。
未辞域には光源もなければ影もないはずなのに――それは、確かに“ロカの形”をしていた。
「ロカ、それ……」
ペトラが声を荒げる間もなく、影はロカの足首に触れた。
その瞬間、夢が爆ぜた。
≪記憶、開封≫
響いたのは、“記憶のロカ”の声だった。
「……やっと、辿りついたね。私を、あなたに戻す準備ができたの?」
ロカの脳裏に、幾千もの“過去”が流れ込む。
だがそれは、“統合”ではなかった。
これは――接触。
記憶のロカが、未辞域を通じてロカに語りかけている。
「……ごめん、まだ……」
ロカは首を振った。
彼女は今、ペトラと共に“生きて”いた。その今に、過去を混ぜるには、覚悟が足りなかった。
だが。
その応答を、記憶のロカは拒まなかった。ただ、静かに言った。
「なら、待つよ。でもね、ロカ。――あなたが“今”を選ぶなら、私は“過去”として、消えることになる」
「……っ!」
胸に痛みが走る。夢核が震える。
ロカは問うた。
「あなたは、消えたいの?」
「……本当は、消えたくない。でも、あなたが選んだ“ペトラと過ごす日々”が、確かなら。 私は、そのために“物語”の外にいてもいいと思える」
未辞域が軋む。世界が再び記述されようとしていた。
そして、ロカの前に一つの文字列が浮かび上がる。
【Lexis Governer:統律の鍵 –未辞の条件–】
▸ 選べ、「今」を。
▸ 捨てよ、「かつて」を。
▸ 書き換えろ、運命の構文を。
「――選べって……」
ペトラが思わずつぶやく。
だがロカは、拳を握った。
「選ばない。選ばないよ、私は。 “今”も、“かつて”も……両方抱えて、歩いていく」
光が走る。空間が軋み、Lexis Governerが、ロカの手に収束した。
「ルールを書き換えるのは、私たちだ。 神に抗うんじゃない。神の物語から、はみ出すんだ――!」
“統律の鍵”が、真にロカを選んだ。
未辞域が崩壊を始める。白の空間に、色が差しはじめた。
それは、“記述”が戻るということ。
すなわち、“戦い”が再開されるということ。
だが今の彼らは、ただの登場人物ではなかった。
“語る側”をも凌駕し、“物語”の骨組みにまで手を伸ばす者。
次なる章が、今、幕を開ける。
第五十一話『真界 - 文殻』
「……戻ってきた、ね」
目を開けると、そこには見慣れた“真界”の空が広がっていた。
だが、ロカとペトラの目には、ほんのわずかな“違和感”があった。
風が、遅れて吹いてくる。
音が、遅れて響いてくる。
色が、わずかに滲んで揺れている。
「……未辞域から、完全には戻っていないのかも」
ペトラが呟く。
「それとも、私たちが何か“持ち帰って”しまったのか」
ロカの手には、依然として〈Lexis Governer〉がある。
統律の鍵。物語の基盤を組み替えることのできる“概念の端末”。
それを手にした瞬間、世界の構文――すなわち「文法」そのものに干渉する資格を得たのだ。
だがその瞬間から、世界は“書かれる側”としての自律性を、ゆっくりと崩し始めていた。
──構文のズレ。
──物語の漏れ。
──語られていない「余白」が、浮かび上がってくる。
「見て、ペトラ……あそこ」
ロカが指さしたのは、空に浮かぶひとつの“穴”だった。
それは風景の中にぽっかり空いた黒。
定義されていない虚無が、確かにそこに存在していた。
「……あれは、文殻。記述が漏れた部分だ」
ペトラは息を呑む。
「構文の書き換えが未完だったせいで、世界に“空白”が生まれた……!」
“文殻”──それは物語の脱け殻。
記述されるべきだったはずのものが、記述されないまま置き去りにされた痕跡。
ロカは手のひらのLexis Governerを見つめる。
「私たちが、世界の構文に触れたせい……?」
「いや、触れたこと自体が問題なんじゃない。問題なのは……“まだ誰も、それを読めていない”ということ」
ペトラは、懐から一冊の本を取り出す。
それは真界の記述を“写し取る”ための構文記録書――〈Scripture Null〉。
開かれたそのページに、黒い文字が浮かび始める。
…《存在せぬもの》、記述されざるままに、裂け目となる。
…《読む者》によりて、再び“言葉”とならん。
「……読む、必要があるんだ。
“物語の外”で零れた構文を。
それが、文殻を塞ぐ唯一の方法だ」
「でも、それって……」
「つまり、“誰か”が語らなかったこと、記述しなかったこと。
私たちが書くしかない。“神が書き損じた物語”を」
沈黙が流れる。
だが次の瞬間、ロカの胸に、かすかな灯が灯った。
「……やってみるよ。
書かれていないなら、私たちが“語り直す”。
それが、真界に来た意味なんだと思う」
その時だった。
空の裂け目から、黒い“手”のようなものが、音もなく伸びてきた。
──それは、“神”の兆しだった。
まだ顕現せず、名乗らず、ただ“調律”だけを求めてくる無機の力。
「来る……!」
ロカが構える。ペトラも、〈Lexis Reflector〉を手にする。
だがその瞬間、黒い手は空中で凍りついた。
《観測者A、構文への干渉を開始》
《観測者B、境界固定を保留中》
《構文反射値、上昇中──条件成立まで猶予:3話分》
謎の“声”が響く。
「三話分……?」
ペトラは呟く。
「おそらく、これは……“次の構文更新”までの猶予だ」
神の力は、まだ本格的に動き出していない。
今のうちに、ロカとペトラは“文殻”の回収と構文修復を進めなければならない。
そして──
「この“文殻”の中に、私の記憶の影がある気がする。私の、もう一人の“私”が」
ロカが静かに語る。
「だから私は、文殻に触れるよ。あの子を、見つけるために」
──記憶のロカとの統合、その布石が、ここに打たれた。
第四十六話『真界 - 黒頁』
火が消えたあとのような静けさだった。
焔種が過ぎ去り、空は再び白んだ。だがその白は、単なる無ではなかった。塗りつぶされた頁の裏に、かすかに焼きついた“記述の痕”が、真界の大気に漂っている。
「……ロカ、どこか痛くはない?」
ペトラの問いかけに、少女は首を横に振った。相変わらず無垢なその表情は、記憶を持たぬままの、夢に満たされたロカのままだった。
しかし、今のロカの肌には、確かに“熱”が宿っていた。あの炎の記憶――否、現世に置き去られた「記憶のロカ」と共鳴するように。
「ここは、黒頁だ」
ペトラが目を細めて呟く。 それは、〈Lexis Reflector〉によって反転され、定義されなかった“裏の頁”。 世界の構文が届かず、記述を拒絶する、真界の深層部だった。
歩を進めるたび、足元がざわめく。 地ではない。言葉のない言語、書かれなかった語の“残滓”が、まるで沼のようにロカとペトラの足を引く。
「この場所……“神”が最後にページを閉じた、その痕跡だと思う」
「ページを……?」
「きっと、物語が終わったあと、語られることのなかった余白。語られず、記されず、ただ“残された”世界」
ペトラの声には、確信にも似た思いが込められていた。 それはただの推測ではない。彼の中で、〈Lexis〉を読み解く力が変質しつつあるのだ。 彼は語る者ではなく、いまや“物語そのものに干渉する者”へと変わり始めていた。
そのとき、ロカの身体がふと震えた。
彼女の掌が、何かに触れたように開かれ、その上に、一片の“黒い羽根”が舞い降りた。
「それは……?」
「わからない。けど……懐かしい気が、する」
ロカがそう呟いたとき、世界が僅かに揺れた。 それは、確かに“境界”の予兆だった。
黒頁に積もった言葉なき記憶が、静かに蠢き始めている。 記憶のロカと、真界のロカ―― その断絶の先で、いま、ページをめくる指先が、どこかで動いた。
それは神か、誰かか、あるいは、まだ語られていない“もうひとつの語り手”か。
物語の深奥が、再び開かれようとしていた。