夏の残照
編集者:kisuke
「ああ、かわいそうに」
その言葉と共に現れる男には、願いを叶える力があった。
通り魔に刺された少女、親友と仲直りできないまま終わった少年、夢に向かって奔走する少女。
三人が出会った時、物語の歯車は一気に動き出す。
与えられた力を使って一生懸命生きる、少年少女たちの物語。
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目次
命を換えよう
1
「ぁ、かはっ」
ナイフが腹に生えている。
血が赤いしみとなって広がり、新調した白いワンピースを汚す。
一歩、二歩と後ずさり、地面に仰向けに倒れた。
服が吸収しきれなかった血が地面にあふれ、血溜まりを作る。
犯人は通行人を突き飛ばしながら逃げ、自分はその様子を恨めしく見ることしかできない。
薄れゆく意識の中、この世への未練を心の限り叫ぶ。
ようやく行きたい高校を見つけた。
好きな作家の本は、来月発売だった。
この夏一番面白いアニメの最新話は、明日放送される。
今から友達と遊ぶ予定だった。
まだ、人生これからなのに。
夏見香織が伸ばした手は、こぼれる命を救えなかった。
2
「――ああ、かわいそうに」
「誰?」
香織は胡乱な目で目の前を見つめ、後ずさった。
「俺? 俺のことは気にしなくていいさ。ただ、君の願いを叶える存在だと思ってくれればいい」
「願い?」
「そう、願いだ。なんでも一つ、叶えよう」
香織は、聞こえた言葉を繰り返しただけのようだった。返事が来たことに驚いたようで、目をしきりに|瞬《しばたた》かせている。
しかし、次に口を開く時には前のめりになっていた。
「なんでも?」
心なしか、声も弾んでいる。
「そうだ。今なら、時間の巻き戻しもオマケに付けてあげよう」
「時間の、巻き戻し……」
その言葉が、香織の胸にすとんと落ちる。
あの瞬間を、死の瞬間をやり直せたら。
もっと生きたい。あのクソ野郎に、自分がやったことの報いを受けさせたい。
香織と全く同じように死んでみたら、あいつの行動も変わるのだろうか。
「命を交換する力」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
遅れて、その意味をじわじわ理解する。
命の交換。命の残り時間の交換だ。
あの瞬間の自分の命とクソ野郎の命を交換すれば、死ぬのはあいつで生きているのは香織。
「それは……ふふ、良いだろう」
その声を聞いた瞬間、またしても香織の意識が薄れ始める。
世界からの乖離。死と似た感覚に、香織は思わず「待て」を叫んでいた。
「待って!」
しかし、意識が薄らぐのは止まらない。
「最後に一つ、教えよう。もしその力を手放したかったら、もう一度願うといい。さすれば道は、開かれる」
「は!?」
突然言われた詩的な言葉に、香織はすっとんきょうな声を出すだけで応えられない。
そのまま|邂逅《かいこう》の場は崩れ、彼女をやり直しの地点まで送り届けた。
「っ、はあっ!」
香織は大きく息をする。続いて、腹に手を当ててナイフが刺さっていないか確認した。
「良かった、私、生きてる」
胸に手を当て、生を実感する。
自分を避ける通行人には目もくれず、香織は生き返った喜びのまま顔を上げた。
「ぇっ」
あいつだ。香織の命を奪った殺人鬼。
黒いパーカーに身を包んだ男が、百メートル先にいた。
男は、ポケットに手を突っ込んでいる。中でナイフでもいじっているのだろうか。
「逃げ――」
男に背中を向けようとするが、咄嗟に堪えた。
今、自分が逃げてどうする。この先起こる惨劇を知っているのは香織だけ。
その香織が逃げ出したら、他の人が犠牲になる。
香織は唾を飲み込み、震える足で一歩を踏み出した。
「大丈夫」
口の中で、何度も呟く。
夢か現実か分からないが、もらった力がある。
あれが夢ならば、あの男が未来の殺人鬼であるというのも、香織の妄想で済む。
だから、今はとにかく進むしかない。未来へ。
あの男が対面からやってくる。後十メートルほど。
香織の方へ寄ってきた。男はうつむいて地面を見つめている。
一メートル。どちらかが一歩進むだけで、互いの腕が届くようになる距離。男の手はポケットの中のままで、何かしてくる様子はない。
やはり、香織の勘違い、妄想だったのだ。男は何もしてこない。
このまま、無事にすれ違える。
香織がほっと息を吐いたのと同時に、彼女の腹を熱が襲った。
恐る恐る、目だけで腹部の状態を確認する。
――ナイフが突き立っていた。
男は何事もないふりをして逃げ出そうとしている。
この二つの事実を認識した瞬間、香織は男の腕を掴んでいた。
「逃がさない」
一度殺され、もう一度殺されかけた恨みを込めて。
自分と同じ目に遭えと。
『命を交換する力』を発動する。
――やり方は知っていた。
自分の命と男の命を対象に選択し、確定する。それだけ。
男が地面に崩れ落ちる。
香織はさしたる変化も感じられないまま、地面に横たわった。
(あれ……これ、私、このまま死なないよね……?)
何かがおかしいと感じた時には、もう後の祭り。
香織の意識は、死と同じような感覚に呑み込まれた。
3
起きて最初に目に入ったのは、知らない天井だった。
死後の世界や、邂逅の場ではない。
「良かった、生きてる……」
香織がそう声を発した横で、何かを取り落とす音が聞こえた。
「香織!」
「おかあ、さん」
目覚めたばかりで声が掠れている。
それでも香織の母は、目に涙を浮かべて香織の手を握った。
「良かった……ほんとに良かった」
「犯人は?」
自分の状態より、犯人のことの方が気になった。
「死んだわよ。原因は不明だそうだけれど」
母は暗い顔で言った。
「そっか。よ――」
良かった、と言おうとして、香織は口を閉じた。
人が死んだことを喜ぶなんて、不謹慎すぎる。
話しているうちに、病院の人が集まってきた。
先ほどの母の声が聞こえていたらしい。
香織の周りで繰り広げられる大騒ぎを見ながら、香織は医師に身を委ねた。
4
入院中のことだ。
立って歩けるようになった香織は、病院内の自販機まで飲み物を買いに行っていた。
前から、尋常でない様子の少女が歩いてくる。
香織は立ち止まって、その少女をまじまじと見つめた。
少女は、大きな熊のぬいぐるみを抱いている。テディベアというやつだ。
目に大きな涙を浮かべて、ずっと何か呟いている。
足取りはおぼつかず、左右にふらふら揺れていた。
これが生きている人間なのかと疑いたくなる。
香織が耳を澄ますと、少女が何を言っているか聞き取れた。
「指、もう治らないんだって。ピアノ、もうちゃんと弾けないや」
そんなことをずっと、何度も何度も、時には同じことを、腕に抱えたテディベアに言い続けている。
「わたし、これからどうすればいいんだろうね」
少女の目に昏い光が宿る。
そうしてうつむいたかと思えば、香織の方に顔だけ向けた。
「ねえ、お姉ちゃんはどう思う? わたしは、これからどうすればいいのかな」
体も香織に向け、ふらふら歩いてくる。
香織は答えられなかった。
香織までたどり着くと、少女の涙が溢れた。声に出して泣いてはいないが、鼻をすする音がする。
香織は服が汚れるのも気にせず、少女を抱き締めた。
(分かんないよ、私にも)
何か答えなければならない。答えなければ、この少女は最悪の道を選んでしまう。
けれど、この答えで良いはずはない。初対面とはいえ、少女は自分の気持ちをさらけ出してくれた。その思いを裏切るわけにはいかない。
まるで自分に彼女の全てがかかっているかのようなプレッシャーの中、香織は口を開いた。
「現実は変えられない。だから、自分が変わるしかない。人生は一つだけじゃない。選ばなかったもの、目を向けなかったことが色々ある。元通りにならなくても、同じぐらい良い選択はできるんじゃないかな」
それは、入院してから香織がずっと考えていたこと。自分は運良く未来を変える力を得たが、そうでなければどうだったかと。もしあれが自分の人生の終わりだったとしたら、素直に受け入れられたかと。
やり直す前、死の瞬間に浮かんだのはこの世への未練だった。
どうせ死ぬなら、満足して逝きたい。
それに、人生がよくなるように行動すれば、いつか会えるかもしれない。会って、現状を覆す力を手に入れられるかもしれない。
今死んだら――人生を諦めたら、きっとその時後悔する。
己の目から溢れる涙には気にも留めず、少女は目を見開いて香織を見ていた。
「……と、話しすぎちゃった。だいぶ時間経っちゃったし、さっさと飲み物買って部屋に戻らなくちゃ」
香織は手で髪を撫でながら言った。
「うん。今日はありがと」
少女が、小さな声で精一杯お礼を言う。
「ふふっ、じゃあね」
じゃあねー、と手を振って別れた。
5
後日。
どこから聞こえるのかも分からないし、誰から伝わるのかも分からないうわさ話。
香織はいつもそれを右から左へ聞き流すのだけれど、今日のはなぜか頭に入ってきた。
「――号室のえ――さんって分かる?」
話しているのは最低でも二人。香織には聞こえなかったが、相手の相づちで話が進む。
「そう、あのテディベアの子。かわいそうにねぇ、狙って小学生に突っ込むようなやつに轢かれて再起不能って」
香織は持っていたペンを落とした。
開いていた問題集に跡がつくが、そんなの今はどうでもいい。
今、なんて。
テディベアの子――この前会った子だ。ピアノを以前のように弾けなくなって、絶望していた。
彼女がそうなってしまった原因は、そんな阿呆にあったのか。
香織の時もそうだったが、なぜ人は他人の命を、夢を、希望を奪おうとする?
この世に絶望したのなら、他人に迷惑がかからないようにけりをつけろ――いや、それだと命がもったいない。
香織やあの子のように、理不尽に未来を奪われた、奪われかけた人がいる。生きたいと願っても、生きられない人がいる。
そんな人と、阿呆の命を交換する。
香織にはその力がある。
気がつけば、香織は自分の手を強く握りしめていた。
6
一ヶ月後。
ようやく医師からの退院許可が出て、香織は家に戻っていた。
とっくに学校は終わり、夏休みに突入している。
「んーっ!」
慣れ親しんだ家の中で、香織は思いきり伸びをする。
明日は遅めの三者懇談会だ。
正直、成績にはそこまで自信がない。さすがに2はないが、オール4に3がいくつか交じる程度。
きっと、成績を上げろと言われるだろう。
香織は軽くため息をついた。憂鬱だが、これから自分がやるべきことを知るためだ。行くしかない。
「あー、退院したばっかりで言いたくないんだけどね?」
うん? と香織が母に顔を向ける。
「宿題、やりなさいよ」
うへぇ、と変な声が出た。
そうだ。香織は中学三年生。受験生だ。
通常の提出物に加えて、総復習の問題集も課題として出される。レポート系の課題は出されないが、提出物にかかる時間としてはトントンになるだろう。
学校側はよかれと思って出しているのだろうが、香織にとってはいい迷惑だ。
香織の夏休みは、残り二週間と少し。
対して、問題集・プリント集合わせた、課題の残りページ数は二百ページ以上。
受験勉強の時間も確保しなければならないから、十五日で終わらせるとすると、一日十五ページやればいい計算になる。
一日十五ページならどうにかなるかと、香織はほっと一息ついた。
「後、受験勉強もね!」
この夏は、人間としての限界に挑むことになりそうだ。
まったく、どれだけ勉強させれば気が済むのやら。
「分かってるって」
口だけではないことを示すため、香織は適当な問題集を開いた。夏休みの課題一覧を取り出し、提出範囲を確認する。
「あ……」
習った時はできていたはずなのに。香織の手は、そんな問題でよく止まる。
これはいきなり問題を解いても駄目だと、教科書を開いた。先に内容を思い出してから問題を解く作戦だ。
そうして、香織の退院一日目は勉強に費やされた。
7
その日の夜。
香織は、日課のネットサーフィンを行っていた。
基本、香織は夕食後は勉強しない主義である。その代わり、日中はしっかり勉強する。そうして、勉強と自由時間のバランスを保ってきた。
死にたいと呟く人たちのコミュニティを、ぼーっと眺める。
見ていたところで、特に思うことはない。
せっかく健康な体を授かったのだから、そんな悩みぐらいなんとかして楽しく生きろ。――そう思わないこともないが、健康な人には健康な人なりの悩みがあるのだと納得している。
人間、どんな立場でも悩みはある。そのことで死にたいと思っている人たちに何か言う権利は、他人にはないと香織は考えていた。
けれど、命が浪費されるのは気になる。
だから、いらない人と欲しい人。両者の命を入れ替え、両者の望みを叶えるのだ。
そういえば、いた気がする。余命が短く、しかし生きることを諦めていない人が。
その人と、
「そうだな、この人」
今日実行すると呟いていた人を対象に指定する。能力が使えるようになった手応えを感じた。
顔も名前も所在地も知らない相手だが、無事に対象に指定できたようだ。
息を何度か吸って吐き、唾を飲み込む。心臓の動く音が、耳の中にうるさく響いていた。
(これから私は、人の命の行方を決める)
ここでうだうだやっていても何も変わらない。
やるならやる、やらないならやらないでどちらかに決めなければ。
もう一度深く息を吸い、実行した。
「――――っはぁ!」
息を荒く吐き出す。
あれほどうるさかった心臓は静まり、今は部屋の静けさが耳を刺していた。
額の汗を拭う。冷房が効いているとはいえ、やはり暑かっただろうか。
「……もう寝ようかな」
いつもより早いが、このままスマホをいじっていてもつまらない。たぶん、何をしても集中できないだろう。
いっそこれを機に朝型の生活にするか、と香織は呟いた。
歯磨きをしに部屋を出ると、テレビがつけっぱなしになっていた。机の上にはお茶がある。
香織は母がトイレに行ったのだと考え、歯を磨きに洗面所へ行こうとした。が、その動きが止まる。
自殺者数が過去最高になったというニュースだった。テレビでは、ゲストたちが自殺の原因について論じている。
その大体の結論は「職場や学校での人間関係のトラブルで心を病むから」というものだった。確かに、最近はいじめを苦にした自殺がニュースで取り沙汰されている。
テレビでは、頼りになる相談者を生むための取り組みだとか、人工知能の利用についてだとか、自殺を防ぐためにどうすればいいかを話していた。悩みを相談できる環境を作ろう、人工知能に自殺を推奨するような回答をさせないようにしよう、ということらしい。
当然ながら、一つのことを変えれば解決する問題ではない。長い時間をかけて、原因となる事柄を変えていかなければならない問題だ。
個人の努力も必要になる。
「……はぁ」
考えていると、どんどん暗い気持ちになってくる。
結局、職場や学校以外の居場所を作ることが大切なんじゃないかな、と思考を締めくくり、香織は洗面所へ向かった。
8
香織が今の生活に慣れてきた頃だった。夏休みもあと数日で終わる。
「おはよー」
朝起きてリビングに出てきた香織は、テレビのニュースを見て足を止めかけた。足が止まる前に再起動し、リビングの椅子に座る。
「テレビこれしかないの?」
チャンネルを変えてほしいと言外に匂わせる。
「おはよう。どこにしてもこれなのよ」
香織はため息をつき、テレビを見た。朝のニュース番組がついている。
テロップには、『原因不明の死、再び』と出ていた。十中八九、香織の力によるものだろう。
原因不明の死なんていくらでも起きているだろうに、わざわざニュースで取り上げるとは。殺人未遂の犯人と同じ死に方だからだろうか。
『…………脳の働きがおかしくなったわけでも、心臓が急に止まったわけでもない。体には何の異常もなく亡くなっており――』
コメンテーターの話を聞き流す。
力の細かい理屈には興味があるが、推測には興味がない。
「気味が悪いわねぇ」
テレビを見ながら母が言い、朝食を作り始めた。
『――速報です』
テレビにテロップが出るのとほぼ同時に、キャスターが新しい原稿を読み上げ始める。
テロップを見て、香織が目を見張った。
どこの国かは知らない。ただ、ネットやニュースで独裁者として有名な人だった。
彼が、ついに演説中に襲撃を受けたそうだ。だが、彼の周りを固めるボディーガードが体を張って彼を守った。彼は無事だが、そのボディーガードは瀕死の重傷。
その国でこっそりインターネットにつなげていた人が撮ったとされる動画が、ニュースで紹介されていた。
独裁者が何か喚き立てている。
ボディーガードがさっと彼を囲み、安全な場所への避難を開始した。
血の海に沈むボディーガードには一切の関心が向けられず、周りは独裁者の命を最優先に動いている。
香織の頭は真っ白になり、ほぼ無意識のうちに能力を行使した。してしまった。
対象をボディーガードと――に指定。実行。
『――っ!? 追加の情報です』
独裁者が倒れた。その情報を耳にして、香織は正気を取り戻した。
手が震え、周りの音が遠くなる。
今、ほとんど無意識のうちに、何をした?
香織がやっていいことは、命がいらない人といる人の命を交換することだけ。それと、奪われそうな人と奪いかけた人の命を交換すること。
そのどちらにも当てはまらない現状は、ただ命を弄んだだけ。
ルール違反だ。
香織は口元を押さえ、トイレに駆け込んだ。
9
それから一ヶ月後。
何年にも渡って独裁的な政治を敷いていた某国は、崩壊した。
国内をまとめようとする勢力は現れたようだが、いずれも国内全てをまとめるには至っていない。
崩壊後の某国にはいくつもの政府が分立し、国内の平定を求めて争い始めた。難民が世界中にあふれている。
香織たちの生活にも影響が出た。
某国に輸入の多くを頼っていた鉱産資源は、価格が高騰。それを使う分野にも価格高騰の影響が広がり、全体的に物価が上がった。
――香織は、一つ思うことがある。
(命に軽い重いはないっていうのは、やっぱりただの綺麗事だったんだ)
ボディーガードが背負うのは自分とその周りの極少数の命だが、国家元首が背負うのは国全体の命。
あの時、香織はとっさにボディーガードと国の指導者の命を入れ替えた。
もし、あの時入れ替えなかったら、悲しむのはボディーガードに近しい人たちだけだったかもしれない。
こんなにも大勢の人間の人生を狂わせずに、済んだかもしれない。
安定した暮らし。幸せな家庭。命に代えても守りたい、大切な人。
それらはあの男が死んでから崩れ去った。一部の人間を除いて、あの国での生活は危険と隣り合わせのものに変貌した。
それでも、香織は能力を使う。
スマホでネットの掲示板を開き、新しいスレッドを立ち上げた。
『人生に疲れた人たちが憩う場所』
『生きたい人たち集まれ』
相反するテーマのスレッド。
より効率的に命の交換をするために行き着いた方法だ。
対象を指定する。
さあ、命を交換しよう。
あなたを探して ── look for you ──
1
「なんで殺したんだよ! 俺が連れて帰って飼おうと思ってたのに」
「|悪《わ》りぃ」
|海堂《かいどう》|渉《わたる》は、軽く笑って頭を掻く親友――|遠《えん》|田《だ》|遥《はる》|己《き》を睨みつけた。
「俺のカマキリが腹空かせてそうだったからさ」
悪気は全くないようで、遥己は屈託なく笑った。
渉が語気を強める。それは、遥己がやったことへの怒りではなく。
「遥己、どうしちゃったのさ。前はこんなやつじゃなかったでしょ」
前はむしろ逆の立場だった。
渉が生き物を何も考えずに弄び、遥己がそれを止める。そうするうちに渉も生き物を弄ぶことをやめ、一緒に昆虫採集を楽しむ仲だった。なのに、
「俺だって変わるさ」
斜めになった日が、遥己の顔に影を落とした。
何があったのかと渉の思考が止まり、その隙に遥己が歩き出す。
追いかけようとした渉は、その背中にどうしようもない拒絶を感じて立ち尽くした。
「どうしてさ!」
聞こえなくても構わない。そんな思いで放った一言は。
「……」
渉に背を向けて歩き続ける遥己には、届かない。
――五年来の親友の友情は、今を以て打ち砕かれた。
2
一週間後。
渉は教室の机に突っ伏した頭を上げ、斜め後ろの席を見た。
誰もいない。一時間目が始まる前だというのに、遥己はまだ来ていなかった。
「今日も休み……」
渉が弱々しい声で呟いた。
これで、遥己が休み始めてから一週間が経つ。
明日学校に行けば、夏休みだ。それまでに渉は遥己と仲直りしておきたかった。
今でさえきっと会うと気まずくなるだろうに、夏休みが明けたらどうなることか。
(明日学校が終わったら、謝りに行こうかな)
そう思って、また寝ようとした時だった。横を通る奴の話が聞こえたのは。
「遠田、引っ越すんだってよ」
「らしいな。手紙でも書いて、明日渡そうか」
「海堂は寂しがるだろうな」
本人が横にいるというのに、隠す気のない大声だった。渉が静かにしていて、あちらは気が大きくなっていることも関係しているのだろうが。
(嘘だろ? 遥己は俺に何も言わなかった)
動揺のあまり、バランスの悪い机を音を立てて揺らしてしまう。
渉の存在に気がついた三人組は、ばつが悪そうに早足で遠ざかった。
(|親友《俺》には何もなしかよ。クソッ)
あんまりじゃないか。たった一度、言い争ったぐらいで。
(別れの言葉ぐらい、言わせろよ)
それに、遥己に謝らなければならない。言い過ぎたと。
渉には謝罪を先延ばしにすることもできた。けれど、引っ越すと言ってその選択肢を潰すのだから、遥己はずるい。
チャイムが鳴り、教室中が慌てて席につく。その三秒後、教科担任が教室の扉を開いた。
「姿勢! 礼!」
「「お願いします」」
学級委員の号令に合わせ、四分休符を挟むのろのろとした礼をした。
座ると同時に、渉は教科書も開かず机に伏せる。
(あいつらは、明日遥己に会いに行くのか。仕方ない。俺は今日行こう)
そのまま、渉は心地良いとは言えない夢の世界へ旅立った。
3
「マジっすか。遥己が家にいないなんて」
放課後。渉は紙袋を持って遥己の家を訪ねたが、遥己の母に「いない」と告げられた。
「あの子に用があるのかしら? 言ってくれれば伝えるわよ」
その申し出に、渉の目が揺れた。視線が、遥己の母の目と紙袋を行ったり来たりする。
(任せたら楽だろうな)
気まずいのを我慢して、直接遥己と顔を合わせないで済むのだから。
「……いえ。自分で伝えたいので」
渉は、自分の中の甘い|囁《ささや》きを振り切った。
謝罪は、相手の目の前でやらないと意味がない。
「そう。じゃあ、私から一つ」
帰ろうと踵を返した渉の背に、遥己の母から言葉が投げかけられた。
「いつも遥己と仲良くしてくれてありがとうね。おかげで遥己、毎日楽しそうだった」
渉の心臓が跳ねた。
(とんでもない。お礼を言うなら俺だって)
しかし、それを口に出すことは|憚《はばか》られた。
それを言うのは今じゃない。
渉は返事の代わりに手を挙げ、歩きだした。
角を一つ曲がり、遥己の家が見えなくなったことを確認する。渉は紙袋の中身も気にせず、そこからわっと走り出した。
緑色に点滅する信号を駆け抜ける。右折してきた車が、ブレーキをかける音がした。
遅めに下校する下級生の列を横切る。紙袋が顔に当たってしまいそうだった。
交差点に飛び出す。なんとなく、車はいないという確信があった。
川沿いに出て、土手を駆け下りる。草に足を取られて、顔面からこけそうになった。
河川敷に座り込み、紙袋の中身をそっと取り出した。虫かごだ。中には赤い蜻蛉が一匹きりでいる。
遥己は、強くてかっこいい虫が好きだった。カマキリとか、蜻蛉とか、カブトムシとか。
カマキリはもう持っているだろうから、赤くて綺麗な蜻蛉を、仲直りの印に。
――そう思っていたのだが。
「まさかいないとはなぁ」
そう、川に向かって独りごちる。
家にいないなら、ここにいると思った。ここはこの辺りでいちばん、虫の種類が多いから。
ここじゃないなら、どこにいるだろうか。
渉は数分間考え込み――その後、力なく首を横に振った。
(ダメだ。分からない)
渉が遥己と遊ぶ場所と言ったら、ここしかなかった。遥己がいそうな場所は、ここ以外心当たりがない。
虫かごを紙袋に入れ、立ち上がる。
取り敢えず、ここにいてもどうにもならないことは分かった。
川岸に近づき、ため息と共に平たい石を一つ拾う。
「やってられないよ」
そのまま腕を大きく振りかぶり、石を川に向かって放り投げた。
石は勢いよく水面に着地し、跳ねることなく沈む。
渉は、石が消えていった水面をしばらく見つめていた。
ふと、空を見上げる。
「雨、降るかも」
帰らなきゃ。
渉はのろのろと河川敷を後にした。
「……ん、雨だ」
頭に冷たい雫が落ちた気がして、渉は手を出した。
今度は手に落ちた雫を見て、雨が降り始めたことを知る。
空を見上げれば、辺り一帯を黒雲が覆い尽くしていた。
「やっべ、帰らないと」
大雨が降る気がする。
渉は紙袋の中身に細心の注意を払い、走り始めた。
「だー! もう、なんで赤になるんだよ」
目の前で信号が赤になった時は、そう言って地団駄を踏んだ。
既に雨は相当強くなっている。道行く人は、みな傘を差しているか渉と同じように走っているかのどちらかだった。
渉はその場で足踏みをする。その甲斐あってかは分からないが、信号は渉が思っていたより早く青になった。
足元の水たまりを気にせず、渉は道路を駆け抜ける。
商店街のアーケードに差し掛かった時、走るのをやめた。今さら無駄だと思うが、紙袋を胸に抱える。
濡れてぐちゃぐちゃになったものを、遥己に渡すわけにはいかない。
雨がますます強くなる。
足を地面に着ける度に、濡れた髪の先から水が飛び散った。
服やスニーカーは、水を吸ってびしょびしょだ。
目を開けたら目に雨水が入る気がして、渉は目を半分だけ閉じた。
悪くなった視界に、我が家の影を捉える。
更に速度を上げ、家の軒先に駆け込んだ。
チャイムに手を伸ばす。鍵は持たされていなかった。
ピンポーン。少し間の抜けた音が響く。
何秒か待って、渉は再びチャイムを押した。
ピンポーン。出ない。
渉はしびれを切らして、チャイムを連打しようと人差し指に力を込めた。
その瞬間、
「おかえり。びしょびしょでしょ。ほら、早く上がって」
渉の母がタオルを持って出迎えてくれた。
渉は急いで家に入り、扉を閉めた。
靴を脱ぐより先に、抱えていた紙袋を玄関に置く。
「……渡せなかった」
その上、紙袋はぐちゃぐちゃ。
「そう。残念だったわね」
母は、深くは聞いてこなかった。「まだ明日もあるから」と言い、小さく笑う。
(なんで紙袋にしたんだっけ)
虫かごをそのまま持って行っても良かったはず。
数秒思案し、渉は理由を思い出した。
(お詫びと言えば紙袋だと思ったからか。なんであの時はそう思ったんだろ)
「さ、早く上がりなさい」
足元にはタオルが敷いてあった。
渉は足を拭き、靴下を脱いだ。濡れた靴下を履いたまま部屋の中に入ると、母に怒られるのだ。
「はい」
タオルをもう一つ手渡され、髪や体を拭く。
拭き終わった渉は、二つのタオルと靴下をまとめて、洗濯機に放り込んだ。
「ひどい雨だったね。体も冷えただろうから、先にお風呂にしておく?」
「……うん」
小さくうなずき、渉は濡れた服を脱ぎ始めた。
4
渉が遠田家を訪ねた直後。
家に戻った遥己の母は、机に座って呆ける遥己に声を掛けた。
「渉くん、来てたわよ」
「……うん」
「いい加減、仲直りしたら?」
「……うん」
母親の言葉に、遥己は生返事を返す。
母親は立ったまま話すのをやめて、遥己の対面の椅子を引いた。
「明日しか、渉くんに会えるチャンスはないわ。会うにしろ、会わないにしろ、後悔しない選択をしなさい」
「ッ……」
遥己が息を呑むのを見て、母親は立ち上がった。
遥己がティッシュに手を伸ばすのを見て、黙って立ち去る。
一人になった遥己は、ティッシュを静かに目に押し当てて、天井を仰いだ。
口から、僅かに息が漏れる。
ティッシュが吸収しきれなかった分が、頬を伝った。
「どう……どうすれば、いいんだよ」
遥己がどれだけ考えても、答えは出なかった。
5
「……おはよう」
渉は、喉の違和感に顔をしかめて起き上がった。
「あら、おはよう」
ちょうど渉を起こそうとしていたのか、母親が目の前にいた。
「うん? なんか顔色が」
そう言って、母親が手を渉の額に当てる。
「熱い。熱があるかもしれないね。昨日、びしょ濡れで帰ってきてたから体が冷えたのかな」
母親が取ってきた体温計を、渉の脇に挟む。
渉は伏せられた体温計を、緊張した面持ちで見つめた。
(今日しかないんだ。遥己に謝るには、今日しか)
体温計が鳴り、渉の脇から離れる。
母親が結果を確認し、言った。
「三八度ある。残念だけど、今日は家にいなさい」
渉は唇を噛んだ。
「薬出しとくから。飲みなさいよ」
渉はこくりとうなずいた。
「私はスーパーに行くけど、外に出たりしないでね。絶対よ」
そこまで言うのなら、逆にこっそり遥己に会いに行こうか、と渉は思った。
母親が玄関の扉の前で言う。
「じゃあ、行ってきます。……あら、何か郵便受けに入ってるわ」
ガサゴソと郵便受けを探る音がした後、母親が声を張り上げた。
「渉宛よ! 差出人は……変ねぇ、書いてないわ。でも、机の上に置いとくからね!」
「分かったから、早く行きなよ」
なかなか家を出ようとしない母親に、渉がしびれを切らして声を掛けた。
喉が痛くてあまり大きな声にはならなかったが、母親が扉を開いて鍵を掛ける音がしたので、一安心する。
机の上に置いてある錠剤を水で流し込み、手紙に目を向けた。
ごく普通の茶色い封筒だ。表には渉の名前や住所が書いてあるが、差出人については何も書かれていない。ひっくり返して裏も見るが、やはり差出人については書かれていなかった。
意を決して、渉は封筒の上をはさみで切って開ける。
中には、折り畳まれた白い便箋が一枚だけ入っていた。
便箋は大部分が真っ白で、書かれていたのはたった一言だけ。
『ごめん』
それを見た瞬間、渉の頭の中を色々なことが駆け巡り、許容量を超えた目頭から涙が溢れ出た。
何がごめんなんだとか、どうしてあんなことをしたんだとか、なんで引っ越しのことを言ってくれなかったんだとか、言いたいことはたくさんあった。けれど、遥己の言葉を目にした瞬間、そんなことは全部頭から吹き飛んだ。
(俺だって、謝りたい)
手紙。手紙なら、渉の代わりに遥己にその思いの丈を伝えられるかもしれない。
それに。
「『ごめん』で別れるのって、|嫌《や》だろ……」
渉は封筒と便箋を探して、家中を漁った。
そうして見つけた、たった一枚の便箋と封筒。ハガキの山から渉が引っ張り出したものだ。
書き損じたら終わり。
まず、伝えたいことを他の紙に書き出そう。
学校の適当なノートのページを破って、渉は鉛筆を持った。
絶対に伝えなければならないこと。
あの時、言い過ぎてごめん。今までありがとう。引っ越し先でも元気で。
たぶん、この三つ。
それと、聞きたいこと。
なんで引っ越しのことを言ってくれなかったのか。
(知ってたら、もっと色々できたのにな)
サプライズとか。
自分の納得できる形になるまで、渉は文章をこねくり回す。
そうしてうんうん唸っている間に、母親が帰ってきた。
「ただいまー」
渉が布団に入らずに机に向かっているのを見て、母親は目をひん剥いた。しかし、手元の紙を見てふっと微笑む。
「書けたらちょうだい。遥己くん|家《ち》に届けに行くから」
「うん」
今から郵便で手紙を出しても、学校が終わると同時に旅立つ遥己には届かない。直接届ける以外、遥己に手紙を渡す手段はなかった。
時計をちらりと見る。大丈夫、まだ午前だ。
あの時、言い過ぎてごめん。遥己があんなことやるなんて、信じられなかったんだ。それで、驚いて……言い過ぎた。
一週間も謝らなくてごめん。
だけど、遥己が嫌いになったわけじゃないんだ。
だから、引っ越すってこと、もっと早く知りたかった。
最後に、今までありがとう。これからも元気で。
結局、手紙が書き上がったのは、それから四十分もしてからだった。
「母さん、これ」
渉が母親に手紙を手渡す。
渉が心配そうに見てくるのを受けて、母親は渉の額に手を当てた。
「熱、少しは下がってそうね。マスクはしてもらうけど、一緒に行く?」
渉はこくりとうなずいた。
行くと決まれば後は準備するだけだ。
着替えて、軽く髪を整える。手紙を小さなカバンに入れて、渉は玄関の扉を開いた。
外は曇っているが、それでも蒸し暑い。
流れる汗をハンカチで拭いながら、渉たちは歩いた。
蝉の声がする。街路樹に止まっているのだろうが、うるさい。
(遥己も、蝉があんまり好きじゃなかったな)
蝉はうるさいし、そこまでかっこよくない。そう言っていた遥己を思い出す。
「あっ」
ミミズが干からびている。近くに土があるから、そこから出てきたのだろう。
足で軽く擦ってみた感じ、アスファルトに貼りついているようだ。
渉はまた遥己のことを思い出した。
遥己の中では、ミミズもかっこよくない虫に入っていた。そもそも、ミミズは昆虫ですらない。
けれど、干からびているのを見ると必ず土に戻してやっていた。
渉も土に戻そうとして、やめた。
土に戻す場合、ミミズをアスファルトから剥がさなければならない。こういう場合、大抵ミミズの胴体がちぎれ、前後で泣き別れになる。
そっちの方がもっとかわいそうだ。
そうこうしているうちに、遥己の家の前に着いた。
引っ越し当日だというのに、いやに静かだった。
渉は体調が悪いのにもかかわらず、全力で腕を振って駆け出す。嫌な予感がした。
「はあ、はあ……」
肩で大きく息をして、遥己の家を見る。
人の気配がしない。
扉の方へもう一度走って、チャイムを連打した。
――何度押しても、誰も出ない。
「そんな……」
渉は足元から崩れ落ちた。
後から母親が早足で来て、渉をさすった。
「大丈夫、大丈夫」
「なにが大丈夫なんだよ……!」
母親の「大丈夫」が無責任な言葉に聞こえた。
「諦めなければ、どうにかなる」
その言葉に、渉ははっとした。
そうだ。渉は遥己の次の住所を教えてもらえなかった。
でも、誰か知っている人がいるかもしれない。
一旦家に帰ることにして、渉たちはその場を去った。
6
(遥己に会いたい。俺にできることは、なんだろう?)
布団の中で天井を眺めながら、渉は考えた。
渉と遥己の共通の友人を思い浮かべてみる。
|樹《いつき》、|海《かい》|斗《と》、|拓《たく》|哉《や》……。
ダメだ、と渉は|頭《かぶり》を振った。
彼らは全員、浅く広く関わりを持つタイプだ。遥己が住所を教えるほど親しかったとは思えない。
(それでも、ダメ元で聞いてみるか)
後は何だ……?
と、そんなことを考えているうちに、渉を睡魔が襲ってきた。
(考えなきゃ……だけど。一旦寝て、明日早く起きよう)
渉の意識は、睡魔によって奥底へ引きずり込まれた。
「ああ、かわいそうに」
「ここはどこ? 俺は渉」
突然夢に現れた男に驚いた渉は、定番のセリフをもじって自分を落ち着ける。加えて、一度深呼吸し、声の方へ向いた。
「何でもいいから、願いを言え」
ボケをスルーされた渉は、真剣な顔になって口を開く。
「遥己に会いたい」
これしかない、と渉は思った。
探せばいくらでも方法はあるだろう。しかし、探している間に渉のこの想いは風化してしまう。それでは駄目なのだ。
「願いはそれだけか?」
「それだけ……って」
渉は黙り込んだ。遥己に会って謝る。それが叶えられれば、他にもう願いはない。そう思っていた。
けれど、渉の頭に浮かぶのは――遥己とやりたいこと。また一緒に遊びたいし、昆虫採集もしたい。
「……遥己とまた遊びたい。できれば、毎日」
悩んだ末に、渉はそれを口にすることにした。どうせ夢だ。どれだけ欲深かったっていいじゃないか。
「分かった。願いを叶えよう」
「え、ちょ、待っ」
渉が焦るが、もう遅い。
「俺が与えるのは『望んだ場所に行く力』だ」
渉の意識が浮上し始める。世界が白く薄らいで、全ての存在が遠ざかっていく。
「グッドラック」
それが、渉が聞いた最後の言葉だった。
「――あっ!?」
息を強く吸い込むのと、口から出たよく分からない言葉が重なって出た、変な声。
渉は深呼吸して、荒い息を整えた。
(風邪は?)
喉に意識を集中させる。痛みが嘘のように引き、違和感すらもなかった。
咳も、鼻水も、頭痛もない。
昨日の出来事が全て夢だったかのように、風邪を引いていた痕跡が消えていた。
(今、何時だろう)
壁の時計を見るが、暗くて時間が読めない。
「あ」
カーテンの隙間から光が漏れている。
もう日が昇っているのか。ということは、五時は過ぎているはず。でも、家族の誰かが動いている気配はないから、まだ朝の早い時間なのだろう。
二度寝しようと渉は目を閉じた。
「ん……」
先ほどの、妙にリアルな夢。自分の驚きようは鮮明に思い出せるし、あの時考えたことは全て忘れていない。
不思議な体験だった。もしかしたら、あの夢は本物だったのかもしれない。
だからといって、夢の中の出来事が全て現実だとは言わない。『望んだ場所に行く力』だなんて、非現実的にも程がある。
「でも、本当だったら」
けれど、それが現実である可能性もゼロじゃない。
ゼロじゃないなら、試さなくてはならない。
渉の腹の中に、僅かな熱が宿った。
すぐに試してみたいという気持ちがある。
時間が早すぎると止める冷静な自分がいる。
どうしようもなくもどかしくなって、渉は寝て時間を忘れようとした。
が、
「……寝れない」
今の思考で、頭がすっかり冴えてしまった。今から寝ようとしても寝られまい。
いっそ、もう起きてしまおうか。
渉は思い切って、カーテンを全開にした。
「うっ……」
朝日が眩しい。渉は反射的に目を閉じて、その後ゆっくり開いた。
明るさに目が慣れると、窓の外の光景がよく見える。日中は暑いからだろうか、早朝ランニングする人が何人もいた。車は変わらずたくさん走っているが、道行く人は少ない。
部屋の中も朝日で照らされ、物がはっきり見えるようになっていた。
机の上に置かれたままの夏休みのワークに、渉の目が留まる。
渉は机に近づいて、ワークをパラパラめくってみた。いつもなら絶対にやらない行動だ。早朝の清々しい雰囲気に|中《あ》てられてしまったのかもしれない。
「……やるか」
引っ越し先で新しい生活を始める遥己に会うのに、渉だけが前と変わらないというのも申し訳ない。
遥己に会いに行ける時間になるまで、少しだけ夏休みの宿題を進めてみようか。
7
深く、息を吸った。最近は深呼吸ばかりしている気がする。
もう一度、渉は夢の中の出来事を思い出す。渉に与えられたらしいのは『望んだ場所に行く力』。
力の使い方は分からない。が、何も教えなかったのだから、複雑な手順を踏むようなものではないだろう。そうあってくれ。
行きたいのは、遥己の引っ越し先。
そう強く念じた瞬間、渉の目の前が暗くなった。血がざわめく感じがする。立ち眩みだ。
だんだん、視界が元に戻っていく。
「……わあ」
完全に視界が元に戻った時の渉の第一声は、そんな感嘆の声だった。
立ち眩みの前とは辺りの風景ががらりと変わり、広い道路が広がっている。朝の通勤ラッシュは過ぎたはずだが、それでもたくさんの車が行き交っていた。
そんな大通りに面したところに、遥己の新しい家はあった。
渉はごくりと唾を飲み込んで、新しい家のチャイムを押す。
一瞬の無音の後、前の家のものより響きのある音が鳴った。
「はーい。どちら様ですか?」
遥己の母の声がスピーカー越しに聞こえる。
渉はしばらく声にならない息を漏らしていたが、意を決して、
「……遥己、いますか」
「あら、渉くん? 来てくれたのねぇ。残念だけど遥己は公園に出かけたわ。家の裏にあるところ」
「分かりました、ありがとうございます」
小さな声で、渉は言った。遥己が出かけている可能性も想定済み。まだ大丈夫だ。
「家の裏か……」
まさか、すぐに昆虫採集ができる場所に引っ越すとは。
渉は小走りで公園へ向かう。
どうせ遥己は昆虫採集をしているだろうと思っていたが――。
「……え?」
金属が擦れて、耳障りな甲高い音が聞こえる。
遥己は虫かごを脇に置いて、ブランコを漕いでいた。
遥己が顔を上げる。
「渉?」
信じられないものを見る目だった。
遥己の口が小さく動く。渉の位置からでは声は聞き取れなかったが、どうして、と言ったようだった。
「ごめん!」
何が、とも言わず、渉は遥己に駆け寄った。
「ごめん、ごめん、ごめん」
「ちょ、待てって」
遥己の慌てた声が耳に入るが、渉の口は止まらない。
今までの感情を全部吐き出すように、謝り続ける。
疲れてきて渉の声が小さくなってきた頃、遥己の大声が渉の謝罪をかき消した。
「俺だって!」
渉は謝るのをやめて、遥己の目を見た。
「あの時は、ごめん」
ぽつりと呟かれた言葉。手紙の続きを聞ける気がして、渉は遥己をじっと見つめた。
「変だったんだ。母さんに引っ越しのこと言われて。自分がよく分からなくなって……渉にもひどいこと言ったよな」
「俺だって」
ごめん、と遥己が言う前に、渉が口を開いた。
「あの時はびっくりしてたとはいえ、言い過ぎた。遥己を傷つけた。本当に、ごめん」
遥己は黙って渉を見ていた。
「だから、これからもよろしく。友達でいてくれ」
渉が笑うと、遥己も笑った。
「それで、一つ聞きたいことがあるんだけど」
「おい、俺まだ謝ってねえぞ」
「あ……どうぞ」
「ごめんなさい。……なんか俺だけ軽いな」
軽くなった場の雰囲気に、二人で笑った。
「なんで俺に引っ越し先教えてくれなかったのさ」
「あー……それか」
遥己の声が掠れる。聞かれたくないことだったようだ。
「あ、嫌だったら別にいいんだけど」
「いや、大丈夫だ」
渉が引こうとするが、遥己は大丈夫だと言って話し始めた。
「嫌だったんだ、|渉《親友》との思い出が泣いて終わるのが」
たったそれだけ言うと、遥己は口を閉じた。
渉は思わず遥己に聞き返す。
「……それだけ?」
「おう、それだけだ。ていうか、渉はなんでだと思ってたんだ」
「怒らない?」
渉が上目遣いでそう聞くと、遥己は大きくうなずいた。
「てっきり、俺のことはどうでもいいというか、嫌いになっちゃって、二度と会いたくないからかなーって」
「お前な」
口では怒っている風に装っているが、そうではないことを渉は知っている。
いつものノリが戻ってきたことに、渉の笑みが深まった。
「じゃあ、そろそろ俺帰るわ」
「せっかく来たのに、もうちょっといれば?」
遥己の申し出はありがたいし、願ってもないものだ。
だが、
「悪い。親に無断で来ちゃった」
そう言って頭を掻くと、遥己は仕方なさそうに言った。
「ったく。また明日、同じぐらいの時間にここで会おうぜ」
「分かった」
どちらからともなく、拳を突き出して合わせる。
「じゃあ、また明日」
「おう、また明日」
渉は大きく手を振りながら公園を出た。
人通りのない路地に駆け込み、自分の家を思い浮かべる。
渉の姿は、その場から消え去った。
8
「ただいまー、っと」
自室に降り立った渉は、靴を脱いで新聞紙の上に置いた。
母親には勉強するから部屋に籠もると言ってある。疑り深い渉の母は渉が勉強する様子を確認しに来るだろうが、一度確認したらそうそう二回目の確認はしに来ない。
母親がこっそり覗いているのを見つけた後、トイレに行くふりをして靴を取りに行った。
開きっぱなしのワークを閉じ、真っ白の一行日記を取り出す。
まだ日記を書くには早い時間だが、これだけは絶対に書いておかなければならない。
『久しぶりに遥己に会った。仲直りできた。明日も遊ぶ』
それから、またワークを開いた。宿題の心配をせず、遥己と思いっきり遊びたい。
親友と一緒にいられるのは、普通のことじゃない。今回のように、引っ越しで離ればなれになってしまうこともある。
渉は、遥己と過ごす一瞬一瞬の時間を大切にしたいのだ。
すっかり昇りきった太陽の眩しさに目を細め、渉は勉強を始めた。
「そういえばあの人、悲しそうだったな」
遥己と再会するための力をくれた男に、思いを|馳《は》せながら。
負けるということ
1
「「せーの」」
二人で声を合わせる。
「四七三!」
「四七二!」
最終得点を告げる。
四教科返ってきた時点での途中経過では、三点差の接戦だった。
「よっしゃ勝った!」
|恵理《えり》が拳を握り締め、ガッツポーズをする。
今まで全戦全勝だった|智《ち》|里《さと》は、負けたというのに笑顔だった。
「え、マジ? 高井負けたの?」
扉付近の同級生が智里に聞いてくる。
「うん、負けた!」
悔しさを一つも滲ませず、智里が元気よく答えた。
「先生!」
智里が大声で担任を呼び、何事かと顔を向けた担任に勝負の結果を報告する。
「恵理が勝った!」
自分の負けを嬉しげに話す智里に、担任も少し困惑気味だった。
智里は改めて恵理に向き直り、恵理にだけ聞こえるように囁く。
「次は勝つから。もっと勉強してきてね」
恵理が勢いよく顔を上げたが、智里はその目を見ないように努めた。
もう、智里を追いかけるばかりの恵理じゃない。
これからはライバルだ。
2
誰もいない家に帰った智里は、電気もつけないまま、カバンを置いてその場にしゃがみ込んだ。
目から溢れ出た液体が、制服の袖を濡らす。
「あれ? なんでかなぁ……」
恵理が追いつくのを待っていた。
ようやく追いついてくれて、嬉しかったはずなのに。
「なんでこんな、悔しいんだろう」
負けず嫌いな性格は、小学校と一緒に卒業したと思っていたのに。
これじゃあ、智里が負けず嫌いのままに見えるじゃないか。
智里は床に体を投げ出した。袖で吸収できなかった分の涙が、頬を伝う。
なんでこんなに悔しいのか。
なんでこんなに涙が流れているのか。
まだ今の智里には、その理由が分からない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
「次は勝つ。完膚なきまでに叩きのめしてやる」
それは、この想いだ。
智里が達成しなければならないのは、志望校への合格。
大丈夫、ライバルに勝つのは寄り道じゃない。
合格までの道に、必ず恵理は立っている。
いつからやる? どうやる?
足取りを鈍らせる問いに、智里はたった一つの答えを返す。
「今から」
智里は一瞬で着替えを済ませ、カバンから勉強道具と手帳を取り出した。
手帳の空きページに、一日のスケジュールをざっと書き出す。
朝六時、起床。七時半に家を出て、家に帰るのは五時。七時頃から風呂や夕食、遅い日でも九時には自由になる。就寝は十時過ぎ。
そんな中で、日々の勉強時間は二時間弱。
一日のスクリーンタイムは一時間半強あり、そのうちネットサーフィンに費やした時間は一時間以上。
そこまで書き出したところで、智里はため息をついた。
無駄な時間が多い。スクリーンタイムを必要最低限にすれば、最低でも勉強時間は一時間増える。
睡眠時間は八時間。一時期十一時に寝ていたが、その時の睡眠時間でも日中の活動に影響はなかった。一時間ぐらい削っても問題あるまい。
手帳の隣のページに、大きな丸を描く。
丸の一番上を零時とし、新しい一日のスケジュールを組み始めた。
入試やテストは、日中に行われる。そうなると、勉強は夜より朝に行って、朝型の生活にした方が良いだろう。
起床は目標五時。遅くても五時半とし、起きたら勉強を始める。
学校に着いたら、隙間時間に暗記を行う。
家に帰ったらすぐに勉強を始め、一週間ごとに計画を見直す。
寝る時は思いきり寝て、前日の疲れを翌日に持ち越さないように気をつける。持ち越すのは記憶だけだ。
一日のスケジュールを書いて、智里の手がはたと止まった。
(実現できるかな、これ)
どんなに綿密な計画でも、実行できなければ意味がない。
智里は、今までのテストでそれを嫌と言うほど実感していた。
ペンの色を変える。青だ。
先ほど黒で書いたところの一部に青い線を入れた。
朝の一部の時間帯と、夕食後の三十分。
「最悪、ここは勉強できなくても」
どうしても続けられそうにない時にのみ組み込める自由時間だ。
智里は迷いなくペンを動かし、一日の行動スケジュールが完成した。
「よし。次は――」
スケジュールページを開く。
たぶん、次の勝負の舞台は夏休み明けの実力テストになるだろう。
ページに書き込んであった「実力テスト」の文字を、赤ペンで囲んで目立たせた。
次回のテストまで、およそ二ヶ月。
その間、実力テストの対策ばかりしておくわけにはいかない。受験勉強も進めなければ。
過去問は買った。五年分の入試問題が載っている。
実力テストの問題は入試問題に似せて作ってあるというから、過去問をやるのは一石二鳥だろう。
四月に実力テストを受けて分かった。理科と国語は入試レベルに達していない。それに加え、社会の暗記事項が弱いことも。
これから夏休みに入るまでは、二年生までの理科と社会の復習、国語の読解問題に時間を費やす。
学校の授業の予習・復習は極力やらない。授業内だけで理解を完結させる。
今後のプランを固め、智里は肩の力を抜いた。
凝り固まった肩を揉んでほぐす。
「やるぞ」
3
一日目。
スマホのアラームの音が耳元で鳴って、智里は飛び起きた。
それからスマホの光をじっと見つめる。
二度寝したい気持ちはなかった。それに備えて、前日は一時間早く寝たから。
ブルーライトを浴びているうちに、寝起きのぼんやりした意識が覚醒を果たす。
数学の教科書とノートを取り出し、机に向かった。
適当なページを開き、そこに書いてある問題を書き写す。朝のウォーミングアップは、簡単な計算問題からだ。
それが終わると、地理の教科書を本棚の奥から引っ張り出す。
地理は二年生で全て終わった。だから、教科書に載っていることは一度習っている。
智里はシャーペンを持った。一度読んで、忘れていたところに線を引くつもりだ。そうしたら、次は線を引いたところを読むだけで済む。
ほぼ全ての行に線が引かれた教科書を見て、智里はため息をついた。
(そりゃあ、社会の基礎知識に穴があるわけだ)
ちらりと時計を見る。六時を回ったところだ。
「きりが良いところでやめるかな」
智里が教科書を閉じたのは、六時半過ぎだった。
帰宅後、智里は机に出しておいた地理のワークとノートを開く。今朝読んだ内容の復習だ。
「あ……全然覚えてないや」
それでも、用語問題は大半が合っていた。
教科書を開き、合っていたところの線を消す。
もう一度教科書を開いて、線が引いてあるところを読み直す。読み直したら間違えた問題を解き直す。
そうするだけで、智里の一日目は終わった。
4
ベッドの中にて。
智里は今日の学習内容の振り返りと、翌日の勉強計画の作成を行おうとしていた。
(今日は、時差のところまで終わって……それ以外は何もしてないから……)
眠気が、智里の意識を|霞《かすみ》のように覆う。
(ん……寝よう)
ここで眠気に抗い続ければ、三十分ぐらい眠れなくなる。そうなれば、確実に明日に響く。
智里は意識を手放した。
「――ああ、かわいそうに」
「かわいそうってなに? 自分の感情を押しつけないでくれる?」
聞こえた声に、智里は反射的に言い返す。
言ってからしまった、と思ったが、言ってしまった言葉は口の中に戻せない。
それに、夢の中なのだから多少自由にしたって良いだろう。
「それは失礼した。次からは気をつけよう」
初対面で失礼なことを言ったのに、感情を昂らせないどころか、柔和に謝罪さえしてみせる。
どれだけ自分に都合が良い夢を見ているのかと、智里はぼんやり思った。
「本題に入らせてもらおうか」
本題? と智里は口の中で呟いた。
「願いを聞こう。何でも一つ、叶えられる」
「いらない」
間髪入れず、智里はその誘いをぶった切った。
両者の間に、しばし停滞が生まれる。
「なぜ? 叶えたいことがあるから、ここに呼ばれたんじゃないのか」
「あなたが誰かは知らない。けれど、私は自分だけの力で叶えたいから」
相手が押し黙る隙に、智里は勢いづいて言葉をさらに重ねる。
「夢ってそういうものじゃないの? あなたの力で叶えてもらったら、それは裏口入学と何が違うの?」
裏口入学。智里がその言葉を発した時、彼女の言葉を遮る勢いで笑い声が漏れ出た。
「遮って悪かった。続けて」
智里は一瞬むっとした顔を向けるも、すぐに話し始めた。
ひょっとすると、これは自分に都合の良い夢ではないのかもしれないという疑念を胸に抱きつつ。
「あなたの力はいらない。自分だけの力で|勝利と合格《ゆめ》を勝ち取る」
智里は深呼吸して、啖呵を切る。
「私があなたに願うのは、私が夢を叶えるのを見守ることよ!」
静寂が辺りを支配する。
その静寂を、またしても笑い声が切り裂いた。今度は、さっきよりも大きく。
「ふ、くくく……あっははは!」
「何がそんなに面白いの?」
自分の本気の想いを笑われて、智里の声が低くなる。
場合によっては、一発入れることも辞さない構えだ。
「ふ、く……いや、本当にすまない」
これで三回目。仏の顔も三度まで、いくら怒るのを堪えている智里であっても、我慢の限界に達する可能性は否定できない。
靴の音が響く。
「初めて見た。こんなに与えられるのを拒否する人間は」
顔を掴まれ、智里は嫌悪感をあらわにする。
「やってみろ」
その言葉に対し、智里は強く睨みつけるだけだった。
「良い顔だ。精々頑張れ」
その言葉に滲むのは、自力で困難を達成しようとする人間への侮蔑。
効率より感情を優先する人間を見下す気持ち。
「もし必要になったら、また来い」
最後まで失礼な態度を取り、空間の崩壊が始まった。
それに伴い、智里の意識に入眠時と同じような霞がかかる。
思考がおぼつかない中、それでも智里は叫んだ。
「来るわけないでしょ!」
耳元で、最大音量に設定されたアラームが鳴っている。
そのうるささに顔をしかめ、智里は起き上がった。
「ん……」
何か、夢を見ていた気がする。とても大切な。
けれど、その夢の内容は思い出せない。
砂漠で追う蜃気楼のように、追いつけそうなところで追いつけない。
その気持ち悪い感覚を飲み込み、智里は今日の分の勉強を始めた。
5
「よし、前よりできるようになってる」
前日に間違えた問題を解くと、解けるようになっている問題があった。寝る前に教科書を読んだおかげだろうか。
しかし、それでもなお、解けない問題がある。
例えば、何度覚え直しても一文字間違える用語。
例えば、「耕」の字の横棒を二本にしてしまうようなミス。
例えば、問題文の数字を読み間違えて計算するような空目。
例えば、上下の用語が合体して見えることで生まれる、新珍語。
だんだん自分のミスの傾向を掴んで、気をつけることができるようになってきた。
「その調子だ、私。頑張れ」
そう小さく呟いて、自分を鼓舞する。
「学校で何か勉強したいな」
休憩時間や、給食後の時間など、暇な時間はいくらでもある。
演習をするようなまとまった時間は確保できないだろうから、暗記や一問一答をするのが良いだろう。
「んと……あったあった」
智里が本棚の奥から引っ張り出したのは、買ってから一度も使っていない単語帳。
入試では英作文も出るというし、単語力を付けていて損することはないはずだ。
単語帳の埃を払い、カバンに入れた。
「待って、めっちゃしんどい」
三日目。勝負の三日目だ。ここで続けられるかどうかで、三日坊主になるか否かが決まる。
一日目はやるぞと決めた時のやる気で頑張れる。
二日目はモチベーションが続いていて乗り切れる。
三日目からはガス欠になってくる。
智里は今すぐペンを置いて、ベッドに逆戻りしたい衝動に駆られた。
「折れるな」
ここで自分の気持ちに負けて、どうする。
以前と同じ状態に戻りたくなるのは、人間として当然の本能だ。
災害が起こりそうな時になかなか避難を始められないのと同じ。
人間は「いつも」を維持しようとする生き物。
大丈夫、今日を越えれば楽になる。朝六時に起きて勉強する生活を始めた時も、四日目から楽になったのだから。
「負けるな」
自分を励ます言葉を口にして、必死に耐える。
折れるな。三日坊主なんてダサいだろ。
負けるな。恵理との勝負以前に、自分に負けてどうする。
まだ頑張れる。取り敢えず今日だけは頑張ろう。
智里は唾を飲み込み、教科書に前のめりになった。
「私はまだ頑張れる」
目が覚めてスマホで時間を確認すると、四時五七分だった。
五時前に、自力で目覚めた。
小さな進歩に、智里は小さくガッツポーズをする。
アラームに起こされるのではなく、自然に起きたおかげか、いつもより眠気が少ない気がした。
アラームの画面を開き、予定されていたアラームを止める。
そのまま脈絡もなく起き上がると、頭がくらっとした。
壁に手をついてやり過ごす。
前日までのしんどさはどこへやら、智里は自然と教科書を開いていた。
6
智里が今の生活を始めて、三週間と少しが経った頃。
家に帰った智里は、いつも通りノートとワークを開いた。
――この三週間で、変わったことが一つだけある。やっている教科だ。地理から歴史へ。
今日は、その記念すべき一日目である。
智里が気合を入れてペンを持った瞬間だった。
「――?」
背後。僅かに空気が揺らいで、温度が上がった気がした。
智里は芯を出したシャーペンを持ったまま、素早く後ろを振り向く。
「えう!? ご、ごめんなさい!」
聞き覚えのない声だった。
見たところ、小学生だろうか。何も持たず、両手を動かしてあたふたしている。
「説得力はないかもしれないけど、俺は不法侵入しようとしてたわけじゃないんです! どこに飛ぶか分からないのに飛んだのは俺が悪いけど! 悪気があったわけじゃありません」
悪気がなかったと主張する少年。その主張の中に交じる自分の非を認める言葉が、少年の純粋さを表していた。
「要するに、わざとじゃないってことね」
智里は持っていたシャーペンを机に置き、
「で、どうやって入ったの?」
恐らく、この場で最も重要になるであろう質問を投げかけた。
「それに答えるためには、お姉さんに俺の質問に答えてもらう必要があります」
「分かった。それと、私のことは智里で良いし、敬語じゃなくて良い」
少年の真剣さを帯びた目に、智里も本気になる。
ひとまず攻撃の手を頭から消し、椅子を一八〇度動かして少年に向き直った。
「『かわいそうに』と言って現れる男。その男は、どんな願いでも叶えてくれる」
かわいそうに。その言葉を聞いた瞬間、智里の胸がどうとは言えないほどにざわついた。どうしようもない嫌悪感に、おかしくなりそうになる。
「その男を知ってる? ――って、聞くまでもないよね」
そうだ。思い出した。
今まで忘れていた理由が分からないほどの、鮮烈な記憶。
夢という名のフォルダのごみ箱に入れられていた、大切なもの。
智里の決意を笑った男への、反骨精神。
智里の様子を見て、少年が察した。
智里が首を縦に振ってそれを肯定すれば、少年も首を振って了解を示す。
「分かった。俺のことも話すよ」
――少年が口にした話は、荒唐無稽なものだった。何でも願いを叶えてくれる男というのも荒唐無稽なものだが、それ以上に。
「俺はその男に、ある力をもらった。一瞬で移動する力さ。距離も何も関係ない。俺が条件を指定すれば発動する」
少年が語った嘘みたいな話は、彼がここにいることで真実だと証明されている。
もしあの時、智里が啖呵を切らなかったら――あのような、根底から|覆《うつがえ》す力を得られていたのだろうか。
智里はそんな自分の考えに、首を横に振る。
智里が力をもらう道はない。何度やり直しても、絶対にあの返答を選ぶ。
ありえないことへの思考はよせ。時間の無駄だ。
「俺はあいつを追ってる。協力してくれないか」
少年の目を見て、智里は言葉を発しかけた。今言おうとした言葉が、どんな言葉かは分からない。けれど、すぐに結論を出すのは危険だ。
協力するな、と言う自分がいる。
少年とは、どこにも関係や繋がりがない。
協力する義理がない。
協力するメリットは見当たらず、デメリットばかりが目につく。
自分のことだけで精いっぱいで、他人に構っている余裕はない。
協力しろ、と言う自分がいる。
あの男が気に食わないから、もう一度会ってしっかり言ってやれと。
あれだけ真っすぐで純粋な少年に協力しない選択肢はない。
理性は前者で、感情は後者。
智里はまだ答えが出せず、それでも場を持たせるために口を開く。
「……名前。名前は」
少年がきょとんとした顔をした。
「ああ、確かに順番が逆だ」
そこで少年は一つ咳払いをし、
「俺の名前は|海堂《かいどう》|渉《わたる》。いつかあいつに向き合うのさ」
その見事な口上に、智里の揺れていた気持ちが一つに定まる。
その選択が本当に智里にとって良いものなのかは分からない、だが、
「私は高井智里。よろしくね」
そう言って、智里は手を差し出したのだった。
「今から、時間ある?」
「七時までに帰れるならね」
渉の質問に、智里はそう答えた。
こっそり外出して、戻ってくる。渉の力があれば容易だ。
それに、デートに誘っているわけでもないだろう。母親にバレさえしなければ、断る理由がない。
「もちろん」
時刻は五時を回ったところ。よほど長い用事でなければ、七時に間に合う。
「行くよ。掴まって」
渉が差し出してきた手を、智里は反射的に取った。
渉は智里の手を強く握りしめる。
「待って、靴……!」
智里の焦りの声は、
「大丈夫さ」
そんな声に遮られ、彼らは空間を越えた。
7
「ようこそ――と言っていいのかな?」
渉の言葉で我に返った智里は、渉に食って掛かる。
「ちょっといきなり過ぎない? 心臓が止まっちゃってたかもしれないよ」
「あー……ごめん?」
疑問形で放たれた謝罪の言葉が、智里の言葉を更に激しくさせる。
そうして口論している二人に、一つの影が歩み寄った。
「はいストップ!」
そう高らかに告げた声に、二人の意識は釘付けになる。
少女だ。背はそこまで高くなく、せいぜい一五〇センチ後半程度。中学生ぐらいの見た目だ。
一人は喜び。もう一人は困惑。
それぞれ異なる感情が自分に向けられたことを確認した少女は、顔に軽く笑みを浮かべて言った。
「まずは中に入ってからにしましょ」
その言葉を聞いて、智里は自分が周囲の確認すらしていなかったことを思い出す。
慌てて周囲を見回すが、先を行く渉に引っ張られてままならない。かと言って振りほどくわけにもいかないが――
「地下?」
その必要はなかった。
辺りに広がるのは灰色のコンクリート。壁も、天井も、床も全てが灰色。
天井には蛍光灯が取り付けられており、地下室や地下駐車場を|彷彿《ほうふつ》とさせた。
それに加えて、どこにも出入り口がない。
目の前の少女が向かう先以外、進む場所も。
「ここに来るための手段、俺の転移ぐらいしかないからさ」
目の前を歩く渉によって、智里が逃げられないことを告げられる。
もっと覚悟してから来れば良かったと、智里は何の利益にもならない後悔をした。
「さて、到着」
先頭を進む少女がそう言うと、殺風景な散歩は終わりを告げる。
特に風景が変わった気はしないが、調度品があるのだからそうなのだと、無理やり納得した。
「座って」
隅に立てかけられているパイプ椅子を人数分取ってきて、少女が言った。
渉がパイプ椅子に座るのを見て、困惑している智里も遠慮がちに座る。
「自己紹介、してなかったね」
少女が智里に向き直る。
「私は|夏《なつ》|見《み》|香《か》|織《おり》。香織って呼んで。どうぞよろしく」
そう言って差し出された手を取りながら、
「私は高井智里です。呼び方は何でも。よ、よろしく?」
疑問混じりの、締まらない自己紹介を行った。
「敬語はいらないわ。今の私はあなたと同年代だもの」
少し引っかかる物言いだったが、智里は口に出すことはせず、
「分かった、香織」
香織の要望に応えた。
「えーと、色々聞きたいことがあるだろうから、一つずつ説明させて」
智里が無言でうなずき同意を示すと、香織は静かに話し始めた。
「まず私たちの目的は、あの男に会うこと。あの男に会ってから全体として何をするかは決まっていないけれど」
あの男――とは、渉との会話に出てきた男か。
その言動の何から何まで、智里の気に障る男だった。
「ちなみに俺はあいつと話したい! なんか悲しそうっていうか、寂しそう? とにかくそんな感じに見えたから」
香織の声に割り込む形で渉が口を開いた。
悲しそう、か。智里には、あの男が面白がっているようにしか見えなかったが。
人によっては、そんな感情を感じ取れるのかもしれない。
「私は一発ぶん殴ってやりたいわね」
「俺が話した後にしてくれよ?」
香織の願い事は、渉とは真逆と言えるものだった。
「智里ねーちゃんは?」
渉が目を輝かせて聞いてくる。
特に何も考えていなかった智里は、言葉に詰まった。
あの男は嫌いだ。
具体的に何がどう嫌いとかじゃなく、根本的に相容れない。
しっかり、ぴしゃりと言ってやる。――初めて会った時にしたのと、何が違う。
かと言って、殴るなどの直接的な行為に出るのも違う気がする。
「まだ分かんない。けど、あいつを否定してやりたい」
その言葉を聞いた渉は目を|瞬《しばたた》かせて、
「否定……がつんと一発、言ってやるってことか?」
「うーん、それとは少し違うかも。はっきりした証拠――根拠をもって、自分の思うことを言うって感じかな」
「おー、いいじゃん!」
はっきりした輪郭を持っていなかった自分の感情を、渉が形にしてくれた。
渉には、言葉で言い表せないもやもやした何かを感じ取る力があるのかもしれない。
「良いわね。じゃあ、本題に戻る――と言っても、私と渉の紹介の続きになるかしら」
香織が軽い賛同を示し、話を進める。
「お、香織姉、あの話するの?」
渉が期待に満ちた眼差しで香織を見る。
香織は、うっとうしげに手を振った。
「そうだけど、落ち着きなさい」
「ん」
渉が引っ込み、香織が気を取り直して口を開く。
「今だと、歴史の教科書にも載ってるかしら? 国の最高指導者の不審死による、国の崩壊。その犯人は、私よ」
「……」
香織の言わんとすることは理解できた。それが、どの出来事を指しているのかも。
その出来事は、歴史の教科書の現代のところに二文程度で載っている。または巻末の年表の端っこに。
「あれ? もっと驚くと思ったんだけど」
反応を見せない智里に、香織が意外そうに言う。
違う、驚いていないわけじゃないんだ。
その逆。驚きすぎて、声が出ないだけ。
そう言いたいのに、脳はその感情を不要なものとしてスルーする。
もっと他に、考えなければならないことがあるから。
「何歳なんですか?」
あれは、何年も――それこそ、十年以上前の出来事だ。
香織が見た目通りの年齢だとしたら、辻褄が合わなくなる。
「そっちかあ。ざっと二十ちょっと」
「二十『ちょっと』ですか……」
その「ちょっと」に何年含まれているのやら。
「でも、そっちが本題じゃないのよ。伝えたいのは私の力の話。それと、敬語はやめてもらえるとなあって」
「あっ、はい……うん」
変な方向に飛びかけていた智里の意識が引き戻される。
「簡単に言うと、私が持ってる力は――『命を入れ替える力』」
「――!?」
智里の驚愕の声に気づいてか気づかずか、香織はそのまま話を続ける。
「噛み砕くと、私は人と人の寿命をそっくりそのまま移動させることができる。その時、離れた年齢の人と入れ替えたら、生を経験した年数分の姿を自由に取ることができるようになる。まあ、こんな感じの説明かしらね」
香織が若い姿のままな理由は分かった。
しかし、この姿を取れるということは――
「使ったんだ、自分に」
「まあ、やむにやまれぬ事情があったとはいえ、そうなるわね」
香織は、そのことをあっさり認めた。
ということは、罪悪感を覚えるような使い方ではなかったのだ。自分が死にかけたとか、相手が十割悪いとか。
「次は俺だね」
渉が名乗りを上げる。
「俺の力は、知ってるとは思うけど『移動する力』だ。あいつにもらった時はもっと別の言われ方だった気がするんだけど……覚えてねぇ」
智里はうなずく。渉の力はここに来るために使ったから、知っている。
「俺の方は見た目と実年齢が違うなんてことはないから安心して――って、|痛《い》てっ!?」
香織が渉の頭をぐりぐりしていた。
女性に年齢の話は禁句なのだ。
「渉も、出会った時とは比べ物にならないぐらいクソガキになったわね」
「クソガキ!? 俺は比較的人畜無害に生きてるぞ! 少なくとも、香織姉よりはな」
香織が吐いた毒に、渉がぎゃんぎゃん喚き散らす。
渉が触れてはいけないところに触れやしないかと智里は内心ひやひやしたが、香織の様子を見る限り大丈夫そうだ。
「次は私の番、かな?」
智里が聞くと、二人は大きくうなずいた。
なんとなく、空気が重く感じる。二人はすごい力を持っていて、智里は持っていないから。
でも、話すことは単純明快。
「私は、どんな力ももらっていない――受け取り拒否したって方が分かりやすいかな」
しんとした静寂が辺りを支配する。
「え、マジ?」
渉の声が、驚いて固まる口から紡ぎ出された。
「っ、ははは! 良いね!」
かと思えば、香織の口からは笑いと共に称賛の声が紡がれる。
「だって、あいつ明らかに私たちを下に見てるじゃない。そんなやつの施しを受けるのって――」
智里は言葉を重ねるが、それが彼らに届いている様子はない。
渉は固まり、香織は笑い転げているのだから。
「ん……」
それに気づいて、智里は語るのをやめた。
語っても誰も聞いていないんじゃあ、意味がない。
「ふふ、くく……。ああ、ごめん。続きを聞こうか」
笑っていた香織が復帰したことで、智里はようやくまた口を開く。
「続きってほどじゃないけど……私はあいつに言ってやった。見てろ、ってね」
「それは……」
香織が目を丸くする。
「傑作だ」
笑みを深めて、香織はそう言った。
「なあ、そろそろ試していいか?」
硬直から復帰した渉が、ひょっこり首を出してくる。
「試す?」
「まあ、見てなよ」
智里の疑問に、渉は見ていろと言って答えない。
そのまま目を閉じて集中し始めた渉を、智里は黙って見つめた。
「んー、ダメ……だけど今まででいちばん近い」
「そう。ご苦労さま」
渉の報告の後、香織が渉の頭を撫でる。
「渉の力については話したわね。彼が言うには、その力を使ってあの男の元へ行けるらしいの。それで、毎日一回ずつ、行けるかどうか確認してもらっているのよ」
へぇ、と智里が納得したように呟いた。
「やっぱり、直近であの男に会った人が近くにいると近づくんじゃないかな」
渉が口を挟む。
「となると、渉の定期確認は智里の近くでやった方が良いわね」
「ん、そうだね」
渉と香織の間でトントン拍子に話が進む。
当事者であるはずの智里は置いてけぼりだ。
「そういうことで、智里ねーちゃん、これからよろしく」
智里が、自分だけの力でここに来ることはできない。渉が智里の元に来ること以外、接触の手段はない。
つまり、明日から毎日一回渉が家に来るということで――。
「うん」
智里を襲った衝撃が顔に出ないよう、努めて平静を装った。
8
「うーん、やっぱり届かない。前より遠くなってるみたい」
日を追うごとに、あの男との距離は遠ざかるばかりだった。
「でも、智里ねーちゃんがいないともっと遠いから。智里ねーちゃんのおかげだよ、こんなに近いのは」
かわいいことを言ってくれるではないか。
智里は渉の頭に手を置いて、撫で回した。
「ちょ、やめろって」
口ではそう言いつつも、まんざらではない様子。
「何か対策しないといけないね。まあ、でも――」
渉の頭を撫でる手を止めた後、智里はカレンダーに目を遣った。
カレンダーには実力テストの日に大きく丸がつけられ、今日までの日付にはバツが連なっている。
ついに、バツが実力テストがある週に並んだ。
「もうすぐ、もうすぐで再戦できる」
そして、その結果にあいつは興味を示すはずだ。
現在の状況をひっくり返して望む結果を得られる力、それを手にする機会を蹴った智里がどういう結末を迎えるのか。
戦いの舞台は今週の金曜日。
結果発表は今月末。
結果発表の日――その日が、あの男に会うチャンスとなる。
9
そして、八月末。
実力テストの結果が返却される。
智里は緊張して、答案と総合結果を受け取る列に並んだ。
本番でどんな戦いがあったのか、それは智里の胸の内にのみ存在する。
激戦だった。あれだけ重ねてきた努力がちっぽけなものに感じられるほど。
問題用紙は事前に返却され、手元にある。
先生の手から、答案を挟んだ総合結果を震える手で受け取った。
席に戻り、総合結果をそっと開く。
取り敢えず、苦手な国語含め、全教科九十点台に乗った。
総合は四八〇点超え。やはり国語が足を引っ張ったのか、三教科の合計は二九〇に届かなかったけれど。
前から回ってくる模範解答・解説のプリントが、智里の机に乱雑に積み重なっていく。
周りは互いの点数を比べて笑い合っていた。
恵理は隣のクラスだ。勝負の結果が分かるのは、早くても授業後。
それまで逸る心を現実に留めるため、智里は結果の紙を机の中に滑らせた。
全員の結果返却が終わり、前に立つ担任が何か話している。
話している内容は、今回の結果に一喜一憂せず、これからも勉強していきましょう、とかそんなありきたりなものだ。
担任の話を右から左へ聞き流し、チャイムが鳴るのを今か今かと待ちわびる。
チャイムが鳴った。それと同時に飛び出しそうになる体を理性で押さえつけ、退屈な号令を済ませる。
「ありがとうございました」
誰に対するものかも曖昧になった感謝。最後の「た」を言い切った瞬間、智里は教室の扉を開けて廊下へと躍り出る。
「――ぁ」
それは果たして、どちらの声だったか。
目の前には、同じように出てきた恵理がいた。
――何点だった? なんて聞かずとも、互いが同時に口を開く。
「四八五」
「四七八」
前者が智里で、後者が恵理。
「か、った?」
七と八。数字の大小は分かるのに、勝ったことを脳が理解するのはずいぶん遅かった。
「だー! 負けた!」
智里の目の前で、恵理が悔しそうに手を握っている。
それを見て、ようやく実感が湧いてきた。
「――――っしゃあ!」
廊下を通る人たちの目を一切気にすることなく、智里と恵理は互いの結果に喜び、悲しむ。
それは、掃除の始まりを知らせる音楽が流れるまで続いた。
10
家に帰ると、部屋に渉と香織がいた。
「待ってたよ。ほら、早く」
そう急かす渉を横目に、智里はカバンを下ろしてネクタイを外す。
「何してるの、渉。着替えるから出て」
渉もそこまで頭の回らないガキではない。
「俺にだけ厳しくない?」
「ほら、ちゃっちゃとして。あ、香織はそのままで良いから」
渉と一緒に外に出ようとした香織を、智里がそう呼び止める。
「別にいいわよ。私も、他人の着替えをまじまじと見る趣味はないもの」
「そう? なら」
確かに言われてみれば、智里の着替えを見せつけられる香織は良い気分にはならないだろう。
そう考えて、智里はあっさり引き下がった。
「じゃあ、なるべく急ぐから」
そう言って扉を閉めると、
「早くねー!」
扉の外から、そんな渉の声が聞こえた。
そのまま渉と香織が話しているのか、ずっと外からくぐもった声が聞こえる。
「智里ねーちゃんがあの男と会ったって、どうやって確認するの?」
「転移できるか渉がずっと確認すればいいんじゃない?」
「俺!? あれ、結構集中力要るんだけど」
「適材適所ってやつよ。あの男の元へ行くには、渉の力を使うしかないんだから」
「しょうがないなあ。分かった、香織姉」
どうやら、智里が眠りに落ちた後、どうやってあの男の元へ転移するか話しているようだ。
「ちなみに、途中で俺がダウンしたら……」
「そうならないように頑張って」
次善策はない。
この策のみの一発勝負。
あの男との距離を近づける役割を持つ智里も、自然と身が引き締まる。
決意を固めるのとほぼ同時に、智里の着替えが終わった。
勢いよく扉を開け、外にいる二人を呼び込む。
「じゃあ、改めて作戦を確認するわね」
香織の声を、黙って聞く。
「初めに、智里が寝る。眠りに就いたのを確認したら、私と渉が転移。智里、渉、私の順番にやりたいことをやる」
智里の役割は『寝る』、ただそれだけ。
それだけだが、いちばん重要な役目だ。あの男との距離が近づかなければ、渉の力も発動しないのだから。
「渉、オーケー?」
「うん」
小さい声ながら、渉の声には芯があった。
「智里は?」
やれるだろうか。
自慢じゃないが、智里は緊張しやすい。人見知りでもある。
本番で失敗する心配も、十分にあった。
「智里?」
大丈夫、きっとやれるさ。
意識のブレーカーを落とすように、ゆっくり眠りに落ちていけば良い。
そうしているうちにいつか夢を見始めることを、智里は知っていた。
だから、慣れない環境でも、きっと大丈夫――。
「智里!」
はっと我に返ると、香織の顔が目の前にあった。
「大丈夫?」
「……うん」
香織からの問いに、少し間をおいて答えた。
「大丈夫じゃないなら、降りていい。機会はまたきっと来る」
静かに語る香織の顔にこの機会の損失を惜しむ色がよぎるのを、智里は見逃さなかった。
頼れるリーダーのように振る舞ってくれていても、長い世界の歴史と比べると香織はまだ若造だ。未知の存在に挑む不安は、どれほどのものか。
「いいや、大丈夫。大丈夫だから」
するりと、そんな言葉が口をついて出た。
「無理しなくていいから」
なおも香織は智里を心配して、やめられると声を掛ける。
「大丈夫」
智里の役割は、寝ることだけ。
疲れた頭を休めるだけ。
そう自分に必死に言い聞かせる。
そうすれば、緊張せずに自分の役割を果たせると思ったから。
「……智里がそう言うなら」
何度言っても意見を変えない智里に、香織が折れた。
予定通り作戦に臨むということで、寝床の準備が整えられる。
ベッドに潜り込んだ智里へ、香織が最後の声を掛けた。
「大丈夫?」
「うん」
力強く、うなずいて。
智里の意識は、深い闇に呑み込まれた。
「――久しいな」
深い意識の底で、智里は二度目の邂逅を果たす。
「来ると思っていた」
「来るつもりはなかった」
相反する言葉をぶつけ、正面から睨み合う。
「私、あなたの力を借りなくても勝てたから」
そう口火を切って。
「そうだな。だが、次はどうする? その次は?」
どちらが正しいかを決める、論争が始まった。
夏の終わり
1
「撤退!」
灰色の世界に、ゆっくりと色が戻ってゆく。
水の泡の向こうにあった世界が近づいてくる。
銃を抱えて、ひたすら前進。出会った相手は敵。撃ち殺せ。
銃は遠距離攻撃用の武器だろう。それを抱えて遮るものもない平原を進むなんて、馬鹿じゃないのか。
そう言った仲間は、上官に殴られた。
隣にいた仲間の肩から、血が溢れる。敵の攻撃を食らったようだった。
だが、怪我を負った仲間を誰も相手にしない。
誰もが、自分が生き延びようと必死だった。
かく言う俺も、その一人である。
発砲音が聞こえた。味方のものか、敵のものか。分からない。
味方のものであれば良し。敵のものであれば当たらぬことを祈れ。
乱射されたら、避けることも防ぐことも|能《あた》わない俺たちには祈ることしかできない。
目の前を走る男の姿が消えた。
つまずいたのか、撃たれたのか。分からないし、そのどちらでも良い。
今いちばん大切なのは、敵がいて、俺たちを追ってきているということだ。
走る。死にたくない。
後ろから発砲音が聞こえる。
当たるな、外れろと祈りながら。
ひたすら走る。
周りを走る味方の数も減ってきた。
ああ、どうしよう。俺の代わりになる人間が、どんどんいなくなる。
怖い。逃げなければ死ぬ。背中を見せれば敵の動きが分からなくなる。
「――ぁ」
最悪だ。前からも敵が来た。
――挟み撃ち。前からも後ろからも銃弾が飛んでくる。単純に考えて、死の可能性は二倍。
走って、走り続けた。銃を抱えたまま、ずっと。
「はっ、はっ……」
息が上がる。いや、息が上がるなんてものじゃない。
絶えず空気が肺を出入りして、その中継を行う喉はからからだ。
いつ倒れてもおかしくない。
だが、今倒れてはいけない。その一心で、足を動かし続けた。
「――――? ぁ」
何か、衝撃が体を貫いて。
次の瞬間、俺の体は宙を舞っていた。
「ぐ、がばごふっ」
灼熱だ。灼熱が体の中にある。
熱の出どころを探して、胸を掻きむしる。
赤く、ねっとりしたものが手にまとわりついた。
味。鉄の味がする。
思い出したように、口から血の泡が溢れた。
心臓か、肺か。分からないが、胸を撃たれたことだけは確か。
視界が霞んでくる。
「しに、たく……」
ない。
死にたくないと、必死に空に手を伸ばして。
――ああ、どうしてそんなに平等なんだ。
恐ろしい敵も無様な俺たちも等しく照らす太陽に、呪いの言葉を吐いた。
寒い。
胸から温かいものがこぼれ落ちていくのを感じる。
その喪失感は一秒ごとに強くなっていき――。
「かはっ」
最後に血を吐いて、俺の人生は幕を閉じた。
はずだった。
2
意識がゆるやかに浮上する。
目を開いて、ぼやけた焦点が合う。
「うっ……」
そう言って思わず目を閉じたのは、仕方ないと言って見逃してほしい。まあ、見ている人間なんてどこにもいないだろうが。
白。真っ白だ。
暴力的なまでの白が、俺の目を灼く。
「っ、生きてる……」
胸に手を当てて、俺は呟いた。
敵の攻撃を受けたはずだが、傷一つない。
「銃は!?」
あれだけ大事に抱えていたはずの銃が、ない。
落とした。その可能性が頭をよぎる。
バレたらまずい。早く、探さなければ。
「ここは、どこだ?」
しかし、探す前にここがどこだか分からない。
真っ白な部屋。出入り口は見当たらない。
敵軍に、ここまでの施設を作れるような技術力があるだろうか。
「解放された?」
ここは、戦地ではない。
辺りに自分以外の人間もいない。
もう自分の命を失う不安に震えることもなく、誰かの命を奪って恨まれる恐怖に怯えることもない。
誰かに害されることもなければ、誰かを害することもない天国。
それが、俺のこの場所への――邂逅の場への最初の評価だった。
「何だ、これ」
俺は目をこすって、目の前のモノの実在を確かめる。
先ほどまでは確かに存在しなかったはずの――空間の中央に|鎮《ちん》|座《ざ》する、黒い玉。
真っ黒な球体が黒い|靄《もや》をまとって、白い空間に存在している。
その正体を知るため、俺は迷わず球体の元へ歩み――触れた。
今考えれば、馬鹿な行動だ。
それが自分にどんな影響を与えるか分からない状況で、不用意に近づくとは。
それとも、敢えて近づいただろうか。
拾った命、望まぬ二度目の生。どうなっても良いと、半ば自暴自棄に。
俺の指が触れた瞬間、黒い玉が弾けた。
弾けて、欠片が空間全体に広がる――なんてことはなく、全てが一箇所――俺の指先へ集まり、吸い込まれていく。
それは、俺が慌てて距離を取っても変わらなかった。
「っ……」
頭痛。頭の中から存在を主張する痛み。
それと同時に、知らない知識が頭の中に増えていくのを感じた。
世界、願い、叶える、感情、虚無、管理人、不死、願い、役目、願い、叶える、叶える、叶える――。
「っ、はあっ!」
理解した。理解させられた。
ここは強い願いを持つ人間を招き、願いを聞いて、この黒い玉の力を使って叶える場所。
俺はそこの管理人。外界からの干渉は基本的に受けつけず、こちらも干渉できないが、観測はできる。
そして、決して死ぬことはない。
いつの間にか息を止めていたのだろうが、息をする度に体が喜び、心臓が脈動する。
深呼吸して呼吸を落ち着けると、心臓の鼓動も次第に落ち着いていった。
「む、ここは……」
知らない声。俺は舌打ちしたい衝動に襲われた。
ようやくこの場所について理解できたところで、感情の整理なんてついていないのに。
世界は俺に対して厳しすぎやしないか。
「おお、私以外にも人間がいたか」
来訪者がぱっと顔を明るくし、俺へ早足で寄ってくる。
「して、ここはどこか分かるか?」
「ここは願いを叶える場所。俺はここの管理人。お前の願いを聞こう」
来訪者の問いかけに対し、答えをまくし立てる。
一刻も早くお帰りいただき、この状況を整理して飲み込む必要があった。
「むむ、急ぎすぎはよくないぞ。それと服装。そんな格好では、みんな怖がる」
そう言われて、俺は自分を見下ろした。
死ぬ時まで着ていた軍服。胸のところにはべっとりと赤い血が付いている。
なるほど、これでは初対面の相手に警戒されてしまう。さっさと役目を終えるためにも、改善できるところは改善しなければ。
目の前の男をじっと見つめる。
男は、西洋風のゆったりした服を身にまとっていた。
遠目から見るだけでもその服の生地はさらさらで、相当高価なものなのだと思う。
俺はその男の服を細部まで眺めた。
「いきなりじろじろ見るな。恥ずかしいぞ」
と、そんな男の抗議も意に介さず、じっくりと。
どうせ、この男は俺が願いを叶えてやるまでここにいるし、願いを叶えたらすぐにいなくなる。
俺にとって都合の良い相手だった。何をしても気を悪くされるだけで、俺に直接の被害はないし、主導権を握っているのはこちらだから。
「こう、か?」
細部までじっくり観察した服を、俺の姿に反映させる。
「むむむ! 私と同じ服装!」
男が何やら声を上げるが、無視。
「どうだ?」
服装への感想を求める。男の服装をそのまま使ったのだから、反対意見など出るはずもないが。
「私と全く同じ服装というのに違和感はあるが、特段悪いところはあるまい」
予想通りの反応だった。
「さあ、願いを聞こうか」
気を取り直して、男の願いを聞く。男には、もうここにいてもらう必要はない。
「む、願いか。ありがたいが、私は私の願いを自分で叶えたい。心遣いだけは受け取っておこう」
まさか、一発目から願いを叶えられることを拒む相手がいるとは。
「ちなみに、願いは?」
「それはもちろん、私の会社を日本一大きくすることだが……」
願いを知ってどうする気だ? と男の顔に書いてあった。
別にどうもしないさ、と肩をすくめる。
「本当に良いのか? 機を見逃さない力や客を呼び込む力、競合他社の弱みを握る力まで、どんな力でもやれるが」
男は自分の手で願いを叶えることにこだわるが、別に手助けがあっても良いだろう。
「む……どれだけ言われても、私は自力で叶えたいのだ」
「じゃあ、こういうのはどうだ?」
尚も拒む男に対し、俺は言葉を重ねる。
「持っておく分には構わないだろう? お前は保険として力を持っておけば良い」
俺の言葉に、男の心が揺れているようだった。
顎に手を当て、しばし熟考。
「むむむむむ……確かに、そうしておくのも良い、か?」
「返したければもう一度来れば良いさ」
できるかどうか分からないが、そう言っておく。
今のところ、男にここから出て行ってもらうための方法としては、願いを叶えること以外に思いつかない。だから、多少嘘をついてでも願いを叶えたかった。
「分かった。それでは、『人が集まる力』をくれぬか? もちろん、力は任意で使えるように」
「承知した」
そう短く返し、俺の中にあるエネルギーに働きかける。
あの男に、『人が集まる力』を。
「ぬ? お?」
男の姿が光り輝き、薄らいでいく。
「よく分からぬが、ありがとう!」
男の姿が消える寸前に発せられた声が、俺の耳にしばらく残った。
「……見てみるか」
ここでただ過ごしているだけでは、暇すぎて心が死にそうだ。
干渉は禁じられていても、観測は禁じられていない。
先ほどの男を強く思い起こすと、目の中に男と男がいる部屋が映し出された。
どうやら、寝ているらしい。
男の中では、先ほどの出来事が夢の中のことだったということになるのだろうか。
何も面白いものはない。寝ているのだから当然だが。
視界の接続を切って、目の前を見る。
殺風景な空間が、俺に迫ってくるように感じられた。
これを見るよりかは、男の周りを見ていた方がマシだ。しかし、こちらを全く見ないというのは避けたい。
理想は、半分ずつに分けることか。片方の目で現実を見て、もう片方の目で男を見る。
しばらくは、何の動きもなかった。
3
近くの女と相談している。
これからの会社の経営方針と、仕入れる商品の種類と数。
近くに開店した大企業傘下の店に、客を取られているらしい。
取り扱う商品の種類も、店の規模も、サービスの質も同程度、もしくは上回られている。
何か対策をしよう、ということで始まった話し合いだった。
話し合いの内容には理解が及ばない。
しかし、雰囲気から分かることがある。
――議論が紛糾しているということだ。
女が大声で何か言い、男が静かに反論する。
建設的な対話が進んでいるようには見えなかった。
終いには、女が大股で部屋を出て行って、扉を勢いよく閉めてしまう。
部屋に一人で閉じ込められた男は、自分の机に座って頭を抱えた。
「客を増やす……客寄せ……人、集める……」
ぶつぶつ呟き、
「人を集める!」
何かが噛み合ったのか、そう言って立ち上がった。
勢いに負けて椅子が転倒したが、お構いなしだ。
「この力があった」
そう喜色満面に語る姿に、陰が差す。
「いや、私は彼と約束した……この力は使わないと」
そうして、一時間ほど葛藤したところで、
「いや、使おう」
そうして力の行使を決意した瞬間、俺は覗くのをやめた。
――つまらない。
4
「――ああ、かわいそうに」
「誰?」
いつもの台詞と共に現れた俺を、香織は胡乱げに見つめ、後ずさった。
「俺? 俺のことは気にしなくていいさ。ただ、君の願いを叶える存在だと思ってくれればいい」
「願い?」
「そう、願いだ。なんでも一つ、叶えよう」
香織の独り言に答えると、香織は目をしきりに|瞬《しばたた》かせた。
さて、これからどう出るか。
今までの経験上、死んだ後に俺に会った人間の行動パターンはいくつかに分かれる。
一、蘇生を望む。
二、復讐を望む。
三、転生を望む。
大抵はこれらのどれかか、その複合だ。
前のめりになった香織を、冷静に見つめる。
「なんでも?」
「そうだ。今なら、時間の巻き戻しもオマケに付けてあげよう」
「時間の、巻き戻し……」
香織が上の空といった様子で呟く。
よし、効いてきた。
「命を交換する力」
それを言った瞬間、香織が「しまった」という顔をする。
自分さえも気づいていない本音、それを引き出せた証だ。
「それは……ふふ、良いだろう」
自分に正直な人間は嫌いじゃない。
「待って!」
願いは叶えられた。香織が元の場所へ戻るのは止められない。
もう一つ、サービスするのも悪くない。死から逃れようとしている人間の姿は、嫌いじゃない。
「最後に一つ、教えよう。もしその力を手放したかったら、もう一度願うといい。さすれば道は、開かれる」
「は!?」
俺の言葉に、香織は余裕のない叫びを返してきた。
相手は全く未知の状況に|狼狽《うろた》える人間、多少は多目に見てやっても良い。
そうして消えていく香織を眺め、やがて邂逅の場が静かになった。
「ああ、かわいそうに」
「ここはどこ? 俺は渉」
面白い人間だが、少々うざったい。
「何でもいいから、願いを言え」
だから、少し冷たい口調になってしまったのも仕方がないことだ。
「遥己に会いたい」
家族か、友人か。親しい間柄の人間との再会を望む願いは、自身の欲望を叶える願いの次に多い。
ありきたりな願いに、俺は渉への興味を失った。
「願いはそれだけか?」
この手合いは、往々にして他の願いを抱えているものだ。
できれば一度で済ませて、何度も邂逅の場に来られるのは避けたい。
「それだけ……って」
渉は黙り込んだ。
考えている。つまり、心当たりがあるということ。
やはりそうだったか、と不思議な納得感を得た。
「……遥己とまた遊びたい。できれば、毎日」
「分かった。願いを叶えよう」
「え、ちょ、待っ」
渉は焦るが、もう遅い。
こういうのは、さっさと終わらせた方が楽だ。
「俺が与えるのは『望んだ場所に行く力』だ」
なるべく早く退去してもらうため、必要としている力を推測して渡す。
「グッドラック」
激励と軽い煽りを兼ねて、親指を立てた。
「――ああ、かわいそうに」
「かわいそうってなに? 自分の感情を押しつけないでくれる?」
初対面なのに初めから俺に噛みついてくるのは、これで百人と少し。
大抵の場合は自分に絶対の自信を持った阿呆だが、彼女はどうやら。
「それは失礼した。次からは気をつけよう」
できるだけ下手に出ておく。
「本題に入らせてもらおうか。願いを聞こう。何でも一つ、叶えられる」
「いらない」
智里の答えが出されるまでに、一秒もなかったか。
こうして願いを断ったのは、これで四十人弱。
そして、力を使わずに願いを叶えたのはゼロ人。
「なぜ? 叶えたいことがあるから、ここに呼ばれたんじゃないのか」
願いを断られた時にいつもしている質問を投げかける。
「あなたが誰かは知らない。けれど、私は自分だけの力で叶えたいから」
そう言って自分だけの力で叶えた人間は、どこにもいない。少なくとも、今は。
「夢ってそういうものじゃないの? あなたの力で叶えてもらったら、それは裏口入学と何が違うの?」
裏口入学。智里がその言葉を発した時、彼女の言葉を遮る勢いで笑い声が漏れ出た。
俺が与える力を、そんな不正と同一視するとは。俺が与える力はそれが本人に宿る以上、立派なその人だけの力であり、武器だ。
「遮って悪かった。続けて」
智里は一瞬むっとした顔を向けるも、すぐに話し始めた。
できるだけ怒らせないよう、下手に出ているのだが。
「あなたの力はいらない。自分だけの力で|勝利と合格《ゆめ》を勝ち取る。私があなたに願うのは、私が夢を叶えるのを見守ることよ!」
願いをそれにするのは問題ない。来訪者の願いが叶いさえすれば、来訪者はここから出られるのだから。
それでも、力の受け取りをここまで固辞する人間は初めて見た。どんな相手でも、最終的には力を受け取ってくれていたのだが。
希少な相手に初めての状況。俺の意図に反して、笑い声が漏れ出る。それは次第に大きくなり、
「ふ、くくく……あっははは!」
「何がそんなに面白いの?」
智里が低い声で怒りを表明するが、俺の笑いは止まらない。
「ふ、く……いや、本当にすまない」
これで三回目。仏の顔も三度まで、いくら怒るのを堪えている智里であっても、我慢の限界に達する可能性は否定できない。
靴の音を響かせて、智里に歩み寄る。
「初めて見た。こんなに与えられるのを拒否する人間は」
できるだけその顔を記憶しておくために、近寄って見る。
「やってみろ」
その言葉に対し、智里は強く睨みつけるだけだった。
目標に向かって全力な人間の顔。嫌いじゃない。
「良い顔だ。精々頑張れ」
智里が反発してよりやれるように。
敢えて、そういう顔と声で言う。
「もし必要になったら、また来い」
「来るわけないでしょ!」
最後まで反発してくる智里に、笑みを浮かべた。
智里には見えていないだろうが。
5
「――久しいな」
覗き見をやめて、目の前の智里を見る。
「来ると思っていた」
「来るつもりはなかった」
相反する言葉をぶつけ、正面から睨み合う。
「私、あなたの力を借りなくても勝てたから」
「そうだな。だが、次はどうする? その次は?」
智里の可能性を探る、問答が始まった。
「死にものぐるいで努力して、乗り越えるのか? それをずっと? 目の前に、より確実で楽な道があるのに?」
「そうよ。人生、ずっと成功してばっかりじゃつまらないじゃない」
「負け惜しみだ」
または、特別な力を持たないということへの誇り。しょうもないプライド。
使えるものは全部使ってこそだろうに。
「負け惜しみじゃないよ。たぶん、あなたには一生理解できない」
そうだろうな。俺は、自分が生き延びるために他人が犠牲になっても構わないと思っていたから。
それは口に出さない。それを口に出せば最後、俺と智里の関係は修復不能なレベルまで悪化するだろう。
「勝負する時は、相手と同じ条件でやらなきゃ。そうじゃないと、勝った時素直に喜べない」
「人はいつだって、それこそ生まれた瞬間から不平等だ」
生まれた瞬間から、家が金持ちか否かでその先の未来に差が生まれる。金持ちは金で経験を買える。幼少期の経験の差は、大人になっても響く。
だから、真に平等な条件など存在しない。
「自分と相手、それぞれが平等だって合意してたら良いんじゃない?」
「合意していても――」
と、俺が答えようとした瞬間。
「智里ねーちゃん!」
「智里」
渉と香織が入ってきた。
「渉か」
願いを持って入ってきたわけではない来訪者。正規の相手ではないから、追い出すこともできる。
「今は智里と話しているんだ。邪魔するな」
そう言って、二人を追い出そうとした。
だが、
「なぜ――?」
追い出せなかった。この空間が、二人を正規の来訪者と認識している。
願いがあるのか。ならば、さっさと叶えてご退去願おう。
「俺の願い。これで二回目か。二つも叶えてもらうなんて贅沢なんだけどさ、あんたと話がしたいんだ」
「話?」
「あんたはたぶん何でもできる。だけどさ」
――なんで幸せそうじゃないんだ?
まだ外でやりたいことがあった。
家族の無事を確認したかったし、おいしいものを腹いっぱい食べたかった。
「俺はここから出られない。何十年もここにいる。もう、こんな生活は終わりにしたい」
たぶん、ずっと見て見ぬふりしてきた、俺の本音。
ここから出たいのは変わらず、この不死の体も捨てたい。
「あなたは終わりたいの? ここから出たいの?」
香織が俺と渉の会話に割り込んできた。
普通なら無視するところだが、今は違う。
終わる――香織に与えた力か。あの力で俺の命を有限にしてもらえれば、俺はいつか終われる。その代わりに、誰かが無限の命の苦しみを背負うが。
ここから出る――渉に与えた力か。今なら、現世との距離も近い。この力を使えば、出るのも不可能ではないだろう。
しかし、どちらの場合でも不安要素は残る。俺という管理人を失ったここが、どうなるかだ。
役目を終えて消え去るならそれで良い。しかし、もし無人の状態で残ったとしたら。運悪くここに呼び寄せられて、一生出られなくなる人間がいるかもしれない。
熟考の末に、俺は口を開いた。
「両方だ。ここから出て普通の生活をしてみたいし、他の人間と同じように年老いて死にたい」
「どっちも……欲張りね」
「どちらかと言えば、ここから出ることの方が優先だ」
死ぬ方法については、無限にある時間の中で探せば良い。
「両方とも、叶えてあげても良いわよ」
「っ――!」
こぼれた吐息に込められた感情は、果たしてどちらだったか。
両方とも、という都合の良い話を純粋に喜ぶ気持ちと、どんな対価を要求されるのかと警戒する気持ち。
「まあ、片方は渉に頼るけ――」
「頼む」
香織が「ど」まで言い切る前に、俺は答えを出した。
香織が面食らった顔で、俺をまじまじと見る。
「本当に? 私まだ、あなたに何を要求するか言っていないのに」
「無限に願いを叶えろ、とか理不尽なもの以外だったら何でも叶える。だから」
「解放してほしい、と」
香織が渉と智里の目を見て、
「二人とも、こいつに何かやっておきたいことあるでしょ?」
「うん」
「俺はもう済んだ。こいつのことが終わったら帰るよ」
智里はうなずき、渉は手を横に振る。
「そういうことだから。智里と私の願い、聞いてくれる?」
「分かった」
即答した。この二人なら、理不尽な願いを告げることもあるまい。実績がある。
「じゃあ、私から。さっきの話の続き」
「さっき……どんな話だったか」
覚えていない、とは続かなかった。
智里の目の力に、言うのを許されなかった。
「人は生まれながらに不平等だって話」
「ああ、それか」
智里に軽く睨まれる。掠れるような小さな声でも、智里は聞き逃さなかったらしい。
「生まれた時のハンデを克服して、逆境を乗り越えて大成功した人っているじゃない? 努力だけが唯一、その不平等を覆せるものだと思うの」
「まあ、そうだな。必ず実るとは限らないが」
努力には正しい方向がある。
空を飛べない人間が空を飛ぼうとどれだけ羽ばたいても飛べるようにはならないが、空を飛ぶ乗り物を発明することはできる。
「だけど、初めからそう思ってたら何もできない」
「結論は?」
そろそろ邂逅の場での平均滞在時間を過ぎる。もう少しは大丈夫だろうが、長時間滞在すると現世との距離が開き、いずれは戻れなくなってしまう。
「私が全部ひっくり返す。ひっくり返して、あなたのその考えを否定する」
「できるものなら――」
「できるよ。現に、私は勝った」
それは元々勝てるだけの力を持つ素養があったからではないのか。そう言おうとしたが、やめた。
それを判断する絶対的な基準はなく、判断するのは個人の主観だ。俺や智里の考えも、同じ事実を違うように解釈したに過ぎない。
それを指摘すれば論理が瓦解し、この議論そのものが破綻しかねない。
「話はそれだけか?」
「うん。みんなの用事が終わったら帰る」
苦し紛れに話題を変えたように見えただろうか。
「じゃあ、最後は私ね。――一発、殴らせてくれる?」
そう言うや否や、香織は拳を握って踏み込んできた。
「良いとは言っていないが!」
反射的に避けようとした体をその場に押し止め、無防備な状態になる。
香織の拳が迫ってくるが、何もしない。それが願いと言うなら、受けるだけだ。
「……ぐっ」
口の中に広がる鉄の味に、歯を食いしばる。久しく感じていなかった痛みだ。
香織は反対の拳を振りかぶり、二発目を入れようとしている。
「一発だ」
その拳を受け止め、願いを確認する。
香織は苦々しげな顔をしながらも、素直に引き下がった。
「私の力を使う。それで良いかしら?」
「それで良いも何も、それしかないだろう」
「うん、分かった」
俺は意識を集中し、体にかかっている安全措置を外していく。これがあっては、香織の力を弾いてしまうからだ。
同質の力の無効化――解除。
攻撃を受けた時に相手の力を奪うカウンター――解除。
状態の不変化――一部解除。
香織が俺を力の対象にしたのが分かった。
ここまでは順調だ。
「おかしいわね。一瞬で完了しない……?」
「俺の体が抵抗している。これ以上抵抗値を下げるのは無理だから、その状態で頑張ってくれ」
「はあ!? 聞いてないんだけど!」
「言っていないからな」
香織で遊びながら、力の発動の完了を待つ。
九割方完了した頃だっただろうか。
「良かったのか?」
「何がよ」
やりすぎてしまったのか、香織の返事は少しぶっきらぼうだ。
「無限に生き続ける苦しみを、俺の代わりに背負うことはない」
「私が何を願ったのか忘れたの?」
香織が白い目で見てくる。
「生きることと復讐することだろう。忘れていないさ」
「それが分かるならもう分かるでしょう」
香織の願いは二つ。
生きることと復讐すること。そのうち一つは既に叶えられた。香織を殺した人間は死んでいる。
「生きる」という願いを「ここで終わりにしない」と解釈すれば、香織の願いは全て叶ったことになる。しかし、「生き続ける」と解釈すれば、香織の願いはまだ叶っていないことになる。
香織はそのことを言っているのだろう。
「だが、本当に」
良いのか、と続けようとした俺の言葉を、香織が遮った。
「くどい。何度も言わせないで」
そうしているうちに、寿命の交換が終わろうとしていた。
「ぐっ……」
喪失感に|呻《うめ》く。
この先無限に続くはずだった未来を断たれたことによる喪失感。
横目で香織を見る。彼女も、俺とは真逆の原因による同じような痛みを味わっていることだろう。
寿命による|枷《かせ》は外れた。俺は終わることができる。
しかし、まだ管理人としての役目からは解放されていない。俺がここの管理人である限り、ここからは出られない。
――俺一人の力では。
「俺の出番?」
「ええ」
香織から渉へ交代。
「これから転移するけど、どこに飛ぶかは分からないから。海の上でも何も言わないでよ」
ここが現世のどことつながるか分からない。
どことも知れない場所へ飛ばされても、渉の力で知った場所に飛べる。
最悪なのは、海の上や火山など、そこにいるだけで命が危ない場所に飛ぶことだ。
「ちょっと来い」
「――?」
疑問に思いながらも、渉がこちらへ寄ってくる。
俺は渉の手に触れ、転移先を確認した。
「大丈夫だ。|人《ひと》|気《け》もない」
「分かるの?」
「俺が与えた力だからな。それぐらいはできる」
へぇ、と渉は小さく呟いた。
「そろそろ行く?」
「頼む」
俺が短く頼むと、渉はうなずき、香織と智里を呼び寄せた。
「掴まって」
俺たち三人が渉の手や腕に掴まると、渉の力が発動した。
俺の存在か、それともこの空間の特性か、発動しきるまでに時間がかかっている。
それでも、少しずつこの空間と現世がつながっていった。
道の構築が終わり、渉たちの体が道へ吸い込まれていく。
「……やはり、駄目か」
俺だけは、吸い込まれなかった。
俺とこの空間のつながりは強固だ。
これまでに俺を連れ出そうとした人間がいなかったわけではない。しかし、その全てがこの強固なつながりに阻まれ、失敗した。
つながりを弱めようと俺なりに頑張ったが、どうにもならないまま、今日に至る。
「私の願い、聞いてくれる?」
俺がはっと顔を上げると、智里が必死な目で俺を見ていた。
「『断ち切る力』を|頂《ちょう》|戴《だい》!」
「ああ、分かった!」
俺は、来訪者の本当の願いに関係なく、願いを叶えるのに必要だと思った力を与えることができる。
その制度を悪用し、智里に断ち切る力を与えた。
「切れ……ろ!」
智里の力が、俺と邂逅の場とのつながりに干渉した。
解除したはずの安全措置が勝手に設定されていき、俺をここに留めようとする。
強大な力同士がぶつかり合い、その余波で空間が揺れる。その中心である俺や智里には、更に大きな反動が襲いかかった。
俺は歯を食いしばって、安全措置を解除していく。
時間がない。後数秒もすれば、渉たちの転移が完了してしまう。
「うぅ、ぅぅううぅ!」
智里が唸り声を漏らしながら、力の制御に全力を注ぐ。
それに合わせて抵抗も強まり、漏れ出た力で空間に綻びが生まれた。
抵抗に回されていた力が空間の修復に回され、抵抗が弱まる。
智里の力がつながりを断ち、俺の体も転移に巻き込まれ始めた。
視界が白くなっていき――
6
靴が草を踏みしめる音が聞こえた。
空を見上げれば、茜色の空に昇る月が見える。
「あ……もうこんな時間か。みんなを送らなきゃね」
そう言って渉は、智里の手を取って転移した。
香織と二人きりで取り残され、無言で目を合わせる。
「しんどくなったら、そこら辺の悪人にでも押し付けろ」
「私がそんなことするわけないでしょ。自分で背負ったんだから」
「そうか。だがまあ、選択肢として持っておけ。心変わりするかもしれないだろう」
「ん……まあ、そうしようかしら」
ヒグラシの鳴き声と共に、時間がゆっくりと流れる。
「でも、私のやるべきことを終えてからね」
「やるべきこと?」
何かあっただろうか。
香織の生活を覗き見した限りでは、特別な使命を帯びている様子もなかったが。
「奪った命の分、人を助けなきゃ」
「律儀だな」
「普通じゃない?」
普通ではない。
俺も、あの戦争の中で何人もの敵兵の命を奪った。しかし、何の償いもしていないし、死ぬ時はみっともなく生きることを願った。
「いいや、全く」
「そうかしら? あ、そろそろ渉が戻って来るわね」
渉が今何をしているかは知らない。
しかし、話が弾んでいたとしても、そろそろ戻って来るだろう。
「じゃあ、私はお|暇《いとま》するわ」
「渉に送ってもらわないのか?」
「いいえ。私はこれから、新しい自分としての生活を始めるんだもの。場所も変えて、ね」
死なない、老いないとなれば、不審に思う人間も出てくる。
前の人間関係を破棄して、新しく人間関係を構築するのも悪くない。
「そうか。じゃあな」
「ええ。またいつか、会う日があれば」
手も振らず、目も合わせず。
俺に背を向けて、香織は遠くへ歩き出した。
「ただいま。次は香織姉を……」
帰ってきた渉が、周囲をきょろきょろと見回す。
「あれ? 香織姉は?」
「行ったさ」
俺は遠くを見遣って答える。
「別のところで、ゼロからやり直したいんだと」
「そっか。じゃあ、お兄さんは? どこか行きたいところある?」
「な――」
ない、と答えかけて。ふと、頭の中に家族の顔がよぎった。
「じゃあ、――県――市の――町」
何をするの? と渉の目が尋ねてきた。
「挨拶」
今はもう、死んでしまった家族へ。
「行くよ?」
「ああ」
そう答えた瞬間、俺と渉の姿はこの場からかき消えていた。
様々な願いを持った少年少女の物語、ついに完結。
遅れてごめんなさい。執筆が間に合わなかった。
今回の集中投稿で得た学びが一つ。最初に見積もった文字数は、当てにならない。大抵は超えます。以後気をつけたい。
ファンレターをくださった方へ。ありがとうございます!
ファンレターが届いた瞬間にわくわく、読んで悶々、思い出してによによしています。
今年は受験があるのであまり積極的に活動できませんが、登録記念日(12月19日)にはまた小説を投稿しようと考えているので、お楽しみに。