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目次
1話:アンビバレントなメッセージノート
|雨宮璃音《あめみや りおん》にとって読書は処世術だ。
昔から人と関わることが得意ではなかったから、読書に集中することで誰も話し掛けてくるなと無言で周囲に訴えかける、これで相手に邪魔しちゃ悪いと思わせることが出来たなら璃音の勝ち。
人間関係に気疲れすることなく学校生活を円滑に進めることに繋がるのだから。
朝の教室はいつも通り賑やかだった、教室のあちこちから昨日のテレビの話題や今日の授業への不満で盛り上がる声がする。しかし、活字を追うことに集中すれば、喧騒は自然と遠のいていき物語の世界へ没入できる。
だから璃音は今日も窓際の自分の席に座るなり、カバンからライトノベルを取りだし、栞の挟まった読みかけのページを開いた。
黙々とページを捲る璃音の視線が、美麗な挿絵に釘付けになった時だった、隣の席がガタッと揺れた。|竜胆日向《りんどう ひなた》だ。
日向は、毎朝、昇降口で友達と賑やかに話し、教室に入ってきても誰かにちょっかいを出し、教室の空気を一瞬で自分の色に染めていく。
璃音とは正反対の、一言で言い表すなら太陽のような女の子、そして璃音が最も苦手とするタイプの人間だった。
日向は自分の机を開けた、その瞬間「……あれ? なんだろう、これ?」日向にしては珍しい、小さな呟きが璃音の耳に届いた。璃音は無意識に本のページから視線を外し隣の席へ向けた。
日向の手には水色とピンクのストライプの表紙に猫のイラストが描かれた小さなノートが握られている、日向はどこか困惑したような表情を浮かべていた。
「わたし、こんなの持ってたっけ?」
璃音が記憶している範囲では、日向がそのノートを使っている所を見た覚えはない。
日向はノートを開く。
そこには丁寧な、少し丸みのある文字で、『ひなたちゃんへ』と書かれていた。
その下には短いメッセージ。『お気に入りの音楽、教えてくれてありがとう。すごく元気が出ました』。
差出人の名前はない。
「誰からだろう?」
日向はノートを閉じたり開いたり、光に透かしてみたりしながら、きょとんとした表情で首を傾げた。
隣人の奇妙な行動を璃音は横目に見ていた。すると日向と目があった。
しまった、と璃音は思った、視線を戻すが時すでに遅し。
「ねぇ、これ書いたの璃音ちゃん?」
日向は自身の席から身を乗り出し、璃音に水色のノートのメッセージが書かれているページを見せた。
彼女の目は、璃音からのメッセージだったら良いな、という期待に輝いているように見えた、璃音は目の前に差し出されたノートに目を通す。
ノートに記されたお気に入りの音楽とは先週の音楽の授業で、各自が好きな音楽を紹介した時のことだろう。
「……違う」と短く返し「……私なら竜胆さんへ、と書くと……思う」と、付け加えその根拠を示す。
「そっか! そっちの方が璃音ちゃんっぽい!」
日向は納得したらしい、席を立ち他のクラスメイトにノートのことを聞いて回るが、結局、差出人は見付からなかった。
璃音はライトノベルに視線を戻し、静かにページを捲る。
謎のメッセージの差出人はすぐに判明するだろうと璃音は思っていた。
しかし、差出人は何日経っても見付からず、日向の机には二冊目のノートが入れられていた。
---
放課後、文芸部の部室。周囲の喧騒から隔絶された璃音のお気に入りの場所。
どこか埃っぽいけれど静かなこの場所は璃音にとって避難所だ。
しかし、今日は賑やかになりそうだった。廊下に響く軽快な足音、部室の扉が勢いよく開き、喧騒そのものといった少女が飛び込んできた。竜胆日向だ。
一年生の頃はバレーボール部に所属していた日向だが、菫女学院のバレーボール部は県大会の常連であり全国大会への出場経験もある強豪だ、日向は厳しい練習に耐えられなくなり部活を辞めた。そして、今はいろいろな部活を手伝いながら、文芸部に入り浸っている。
日向はライトブラウンのポニーテールを揺らし、璃音の机に駆け寄った。そして、新しいメッセージノートを璃音の前にポンと置いた。
「ね、見てよ、璃音! また別のノートが入ってたんだ!」
知ってる、今朝は小さなノートを机に並べ、首を傾げていたから。
日向の机に入っていたのは、前回と同じく、可愛らしいストライプと猫のイラストが描かれた、シリーズもののノートだった。ただ、今回は水色とピンクの組み合わせではなく、黄色と緑だった。
「今度はね、『ひなたちゃんの笑顔、すごく元気もらえるよ』だって! これ、やっぱり私宛てだよね? 誰なんだろう、もう気になっちゃって仕方ないんだ!」
日向は前のめりになって、瞳をキラキラさせている。その真っ直ぐな好奇心に、璃音の心もわずかに揺れた。
璃音も少なからずこの奇妙な出来事に興味に抱いていた、日向を一瞥し、璃音は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……少し考えてみる」
璃音はノートを手に取り、無言でページを開いた。書かれている字の癖は、前回と同じだ。丁寧で、少し丸みがある。差出人は前回と同一人物だろう。
では、なぜ差出人は日向の机の中にノートを入れたのだろう、差出人──仮にA子とする──はノートを日向に直接渡すことも出来たはずだ、そもそもノートなんて用意しなくても口頭で伝えれば良かったのではないか。
なのにそれをしなかった、考えられる理由としてはA子には日向に直接メッセージを伝える勇気が無かった、人と話すことが苦手なのかも知れない。
つまり引っ込み思案、璃音にはその時のA子の心情が自分の事のように分かる。きっと自分もA子と同じようにしていただろうから。
しかし、その推測が正しいとしても不可解な点はある、メッセージがノートに記されていることだ、一行程度のメッセージを伝えるのにどうしてわざわざノートを使ったのだろう、手紙やコピー用紙でも良かったのではないか、仮にその時、A子の手元にノートしか紙がなかったとしても、一冊丸ごと入れる必要はないように思う、一ページだけ破けば良い。
A子にはノートでなければならない理由があったのだろうか。
「……気付いて欲しかったのかも」
璃音は直感した。
A子はメッセージに返事は求めていないように思える。きっとそれも正解、でもそれだけじゃない、差出人のアンビバレントな感情がノートから伝わってくるような気がする。知られたくない、だけど日向に気付いて欲しい。
だとしたら、ノートのデザインにも意味がある。
ありふれたデザインではあるけれど、このシリーズの文房具に見覚えがあった。
水色とピンクのストライプに猫のイラスト、ノートと同じデザインのペンケースの持ち主を璃音は知っている。
──三浦さん。
璃音は、三浦という名前を頭の中で反芻した。三浦晴海は、クラスではいつも明るく振る舞っている。休み時間には友達と楽しそうに笑い、授業中も積極的に発言する。
引っ込み思案とは正反対の人物、けれど、璃音は、三浦さんが時折見せる、一瞬の表情の陰りを、なぜか覚えていた。
──本当は、少し違う。
璃音は、小さく息を吐いた。頭の中で、パズルのピースが少しずつはまっていく感覚があった。
三浦さんは明るいキャラを演じているのではないか、これは仮説だがそう考えると納得のいくことがいくつかある。
三浦さんが人前で発表する時、声のトーンや話すスピードが普段友達と話している時と違うことに気付いていた、きっと緊張していたのだろう。
それに、三浦さんは毎朝、携帯音楽プレイヤーで音楽を聞いている、これは璃音と同じ理由なのかも知れない。
初日のメッセージの内容『お気に入りの音楽、教えてくれてありがとう。すごく元気が出ました』音楽好きな三浦さんらしいメッセージだ。
璃音は事の発端である先週の音楽の授業のことを思い出していた。
生徒の大半が流行りの曲や有名な曲を紹介する中、日向の紹介した音楽はクラスのほとんどの生徒が知らないような、少しニッチな洋楽だった。明るく、リズミカルな曲で、日向らしい選曲だった。
身振り手振りを交えた──ほとんど踊っているような発表に、みんな盛り上がっていた。
そんな中、璃音ともう一人、三浦晴海だけは真剣に聞いていた。
『すごく元気が出ました』。最初のメッセージの、この言葉。
もしかしたら、三浦さんは、あの時、何か辛いことがあって、日向が紹介した音楽に救われたのかもしれない。
『ひなたちゃんの笑顔、すごく元気もらえるよ』。二つ目のメッセージ。
これもまた、三浦さんが日向の明るさに救われていることを示唆している。
これらの点と点が、璃音の頭の中で一本の線になった。
匿名のメッセージノートは、日向の明るさや、彼女の紹介した音楽に救われた、引っ込み思案なクラスメイトからの、感謝の気持ちの表れ。そして、その人物は、三浦さん。
璃音は、ノートを閉じた。
──さて、どうやって日向に伝えようか。
言葉で伝えるより、証拠を見せる方が早い、そう思った璃音はカバンを持ち席を立った。
一方、日向は戸棚からお菓子のカゴを取り出して物色している、文芸部に入り浸る理由の一つはこれだ。文芸部のお金で買ったものだからあまり食べてほしくないのだけど。
「ん、どうしたの璃音?」
「……これ、返しに行くよ」
「え、分かったの!? ねぇ誰の? 誰の誰の誰の?」
璃音がノートを指差しその一言を口にした瞬間、日向の瞳が眩しいほどにキラキラ輝いた。好奇心が抑えきれていないようだ。
「教えてよ~」と大型犬のように纏わりついてくる日向を無視して、璃音は教室に向かった。
---
放課後の二年生の教室は無人だった。
璃音は何も言わず、ゆっくりと三浦さんの席を指し示す。
「三浦さんなの……?」
日向が疑問の声を漏らすと、璃音は指先を、今度は三浦さんの机の中、外からも見えるように置いてあるペンケースへ、やはり無言で向けた。
日向は、そのペンケースの柄に目を凝らした。
薄いピンクと水色のストライプに、小さな猫のイラスト。それは、日向が机の中で見つけた、最初のメッセージノートと同じシリーズの柄だった。
「あっ……!」
日向の目が、大きく見開かれた。驚きと、そして納得の表情。
「そっか! 三浦さん、いつもあの柄の文房具持ってるもんね! でも、なんで三浦さんが、私に……?」
日向は、まだ理解しきれていないみたいだった。
「説明いる?」璃音が訊ねると日向は「うん!」と大きく頷いた。
二人は三浦さんの席の前から移動して、隣同士の自分達の席に着いた。璃音は眼鏡のブリッジを押し上げると、この結論に至るまでの過程を掻い摘んで説明した。
メッセージを伝えるのにノートを使った理由。
三浦さんが明るいキャラを演じているかも知れないこと。
音楽の授業での三浦さんの様子。
一つ推理を口にするたび、日向の口から感嘆の声が漏れる。
言葉数は少なく言い淀みながらの辿々しい説明だったけど、伝えるべきことは残さず伝えた。璃音は頑張った自分にご褒美をあげたいと思った。
彼女の頭の中で、点が線に繋がった音を、璃音は確かに聞いた気がした。
「璃音ってすごいね、最初から何もかも分かってたみたい! わたし三浦さんにノート渡してくる!」
日向の声が、興奮で少し上擦る。
日向は、メッセージノートを両手にぎゅっと握りしめ。教室を飛び出してどこかへ走り去って行った、璃音は彼女の行動力の方がよっぽどすごいと思った。
翌朝、日向は三浦さんと友達になれたこと、璃音の推理がほとんど正解だったことを嬉しそうに報告してくれた。
太陽のような日向の笑顔、この笑顔は自分の推理が作り上げたもの、そう思うとなんだか自分も嬉しくなってくる。
三浦さんからは例のシリーズの白紙のノートを貰った、どうやら三冊目も準備していたらしい、だけど不要になったから、本当の気持ちに気付いてくれた璃音にお礼と口止めを兼ねてプレゼントするとのことだ。
手元にある白紙のノート、せっかくだから今回の出来事を書いてみよう、もしかすると文芸部のみんなに発表出来るかも知れないし。