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目次
1話
心臓の音がしないというのは、こんなにも静かなことだったんだ。
あたり一面、見渡す限りの灰色。空は分厚い雲に覆われたような鈍色で、地面は硬いコンクリートの感触しかしない。風も吹かず、温度もない。ここには「終わり」だけが、砂嵐のように積み重なっていた。
私は、自分が通っていた中学校の、誰もいない校庭の隅に座り込んでいた。 生前、あんなに怖かったはずの「死」は、いざ迎えてみれば拍子抜けするほど退屈で、ただただ、ひどく寒かった。
「……もう、いいかな」
言葉にすると、自分の輪郭が少しだけ透けた気がした。 このまま誰にも見つからず、音もなく、霧みたいに消えてしまいたい。膝を抱えて目を閉じようとした、その時だった。
「ひっどい顔。まるで世界が滅びたあとの生き残りみたいじゃん」
鼓膜を叩いたのは、この場所に似つかわしくない、陽だまりのような声。 驚いて顔を上げると、目の前に一人の男の子が立っていた。 私と同じ制服。でも、彼だけは違った。灰色の世界の中で、彼が着ているシャツの白さだけが、妙に眩しく見える。
「……だれ、」 「君と同じ。迷子の幽霊。俺はレン。ねえ、君、名前は?」
答えようとしたけれど、震える唇はうまく動いてくれなかった。 男の子――レンは、困ったように眉を下げて笑うと、「まあ、いいや」と言って、遠慮もなく私の右手を握りしめた。
「ひゃっ……!」
氷のように冷え切っていた私の指先に、ドクン、と熱が走る。 その瞬間、信じられないことが起きた。
彼と繋いだ手の先から、じわじわと「色」が溢れ出したのだ。 彼が踏みしめている足元の土が茶色く染まり、そこから目の覚めるような緑色の芝生が、波紋のように広がっていく。
「ほら、見て。君、今すごくびっくりしてるでしょ」
レンが空を指さす。 見上げると、淀んでいた灰色の空が、私の動揺に合わせるように鮮やかな菫(すみれ)色に塗り替えられていた。
「すごい……なに、これ」 「わかんない。でも、俺たち二人が触れてる間だけ、この世界は『本物』に戻るみたいなんだ」
レンは私の手を離さないまま、いたずらっ子のように歯を見せて笑った。 私の世界に、初めて音が戻ってきた。彼が笑う、風が吹くような音だ。
「さあ、行こうぜ、名前も知らないお嬢さん。どうせ死んだ後なんだ。二人でやりたい放題やろうよ」
2話
レンに連れられて校舎の中に入ると、そこには異様な光景が広がっていた。
廊下を、数十人の生徒たちが歩いている。 けれど、そこには喧騒なんてひとかけらもなかった。話し声も、笑い声も、上履きが床をこする音さえもしない。 彼らはみんな、一様にうつむき、吸い込まれるように教室へと入っていく。その顔には、目も鼻も口も、ぼんやりと霧がかかったように曖昧だった。
「ねえ、あの子たちは……?」 「あれは、ただの『記録』だよ」
レンが、すれ違う生徒の肩に手を伸ばした。けれど、彼の指は抵抗もなく、その生徒の体を通り抜けた。
「彼らは、自分が死んだことも、生きていた時の名前も忘れちゃったんだ。ただ、生きていた時の習慣だけをなぞってる。色もなければ、意志もない。この灰色の世界に溶けちゃったんだよ」
私は、通り過ぎていく「影」の一人を見つめた。 もしレンが声をかけてくれなかったら、私も今頃、あの中の一人として、感情のない行進に加わっていたのかもしれない。そう思うと、背筋に冷たいものが走る。
「でも、俺たちは違う」
レンが、繋いだ手にぐっと力を込めた。 彼の熱が伝わった場所から、また小さな火花のような色が散る。
「俺たちはまだ、何かを願ってる。やり残したことがある。だからこうして、お互いの形が見えるし、話もできるんだ。……まあ、それが幸せなことなのかどうかは、分かんないけどね」
レンの横顔に、一瞬だけ寂しそうな色が混じった。 彼は私を振り返り、わざとらしく明るい声で言った。
「ほら、あいつらの教室、ちょっと覗いてみようぜ。二人で真っ赤な落書きでもしてやれば、一人くらい驚いて顔を上げるかもしれないし!」
3話
レンに手を引かれ、私たちは屋上へと続く階段を駆け上がった。 彼と繋がっている右手から、熱い脈動が伝わってくる。その熱が階段の手すりを伝い、踊り場の窓を叩き、無機質なコンクリートを鮮やかなコーラルピンクに染め上げていった。
「見てよ、ハル! 空、あんなに綺麗になった!」
屋上の扉を蹴り開けると、そこには私が今まで一度も見たことがないような、燃えるようなオレンジ色の夕焼けが広がっていた。私たちの感情が混ざり合って、死後の世界の空を塗り替えているのだ。
「……本当。学校の屋上が、こんなに綺麗なんて知らなかった」
私は、フェンスに身を乗り出して笑うレンの横顔を盗み見た。 彼はいつだって明るい。死んだことさえ「運命」だと笑い飛ばして、絶望していた私をここまで連れ出してくれた。彼がいれば、死後の世界も悪くないと思える。
けれど、ふと気づいてしまった。 レンがフェンスを握る手の先――。彼が触れている場所だけ、色が「冷たい青」に沈んでいることに。
「ねえ、レン」 「んー?」 「レンは……寂しくないの? もう、誰にも会えないんだよ?」
レンの肩が一瞬、跳ねた。 彼はゆっくりと私を振り返り、いつも通りの眩しい笑顔を見せた。
「寂しいわけないじゃん! だって、こうしてハルと会えたし。生前は毎日窮屈だったからさ、今は最高に自由で楽しいよ」
その瞬間、私たちの頭上の空に、一筋の鋭い紫色の光が走った。 私の感情(オーロラ)ではない。それは、レンの心の奥底から溢れ出した、悲鳴のような色だった。
「……嘘。レン、今、すごく悲しい色してるよ」 「えっ」 「私には分かるよ。だって、二人だけの世界だもん。隠しても無駄だよ」
レンの笑顔が、パリン、と音を立てて割れた気がした。 彼は力なく笑うのをやめ、フェンスに額を押し付けた。
「……あーあ。バレちゃったか。かっこ悪いな」
彼の声は、今にも消えてしまいそうなくらい震えていた。 灰色の世界で唯一、太陽のように振る舞っていた男の子。彼が抱えていたのは、誰にも「助けて」と言えずに最期まで笑い続けた、深い、深い孤独だった。
「一度でいいからさ……死ぬ前に一度だけでいいから、『怖いよ』って、誰かに泣きつきたかったな」
レンの足元から、ボタボタと大粒の「色」が落ちる。それは地面に触れるたび、青い花となって咲き乱れていった。
4話
空を埋め尽くした光の余韻が、ゆっくりと雪のように降り注いでいた。 私たちの体はもう、指先から透き通って、境界線が曖昧になっている。
「……ねえ、レン。最後に、私の話も聞いてくれる?」
私は、繋いだ手に残るわずかな熱を確かめるように、少しだけ力を込めた。
「私、生きてる時は、ずっと自分のことが嫌いだった。言いたいことを飲み込んで、周りの顔色ばかり見て……私の世界はずっと、レンに出会う前のこの場所みたいに、灰色だったんだよ」
レンは何も言わず、ただ穏やかな瞳で私を見つめている。
「死んじゃった時も、これでやっと楽になれるって思った。でも、違った。レンが私の手を握って、一緒に色を塗ってくれた時、初めて気づいたの。私、誰かと一緒に笑いたかったんだって。……レンが居てくれたから、私は死んだあとに、やっと自分の人生を好きになれたんだよ」
「ハル……」
「ありがとう、レン。私を見つけてくれて」
レンの瞳に、今度は本物の、幸せな涙がたまった。 彼は私の手を引き寄せ、最後にもう一度、いたずらっぽく笑った。
「俺の方こそ。ハルが俺の本音に気づいてくれなかったら、俺、一生あそこで笑ったまま、石になってたと思う。……ハルが居てくれたから、俺はちゃんと『レン』として終われたんだ」
視界が真っ白な光に包まれていく。 もう、冷たさも、寂しさも、どこにもなかった。 最後に聞こえたのは、「またね」という、明るい約束の声。
エピローグ
数十年後の、ある春の日。 中学校の校庭は、満開の桜色に染まっていた。
新入生の喧騒の中、一人の女の子が、校庭の隅でぼんやりと空を見上げていた。 彼女は少し内気そうで、友達の輪に入るのをためらっているようだった。
「――ねえ、君! そんなところで固まってたら、もったいないよ?」
聞き覚えのある、陽だまりのような声。 女の子が驚いて振り向くと、そこにはシャツの袖をまくった、明るい笑顔の男の子が立っていた。
「あ……」
二人の視線がぶつかった瞬間、なぜだか分からないけれど、モノクロだった風景が、一気に鮮やかな色を取り戻したような気がした。
「俺はレン。君の名前は?」
女の子は、少しだけ戸惑ったあと、自分でも驚くほど自然に、花が咲くような笑顔で答えた。
「私は、ハル。……ずっと、あなたを待っていた気がするの」
二人の手が触れ合う。 そこから始まる物語は、もう灰色なんかじゃない。 光と色に満ちた、新しい「青春」の始まりだった。
空が笑った日
レンがいなくなって、一ヶ月が経った。 あいつの席は、今も花瓶が置かれたまま、ぽっかりと穴が空いたみたいに静まり返っている。 「……お前、本当に勝手だよな」 放課後の部室。俺は一人で、レンと共有していたロッカーの前に立っていた。 あいつはいつだって明るくて、悩みなんてなさそうで、俺が落ち込んでいる時は「まあ、なんとかなるって!」と強引に笑わせてくれた。 なのに。 自分は一人で、あんなに静かに消えちまうなんて。
本当は、あいつが一番苦しかったんじゃないか。 親友なんて名乗っていながら、俺はあいつの「本当の顔」を一度も見せてもらえなかったんじゃないか。 その後悔が、毎日俺の胸を灰色に塗り潰していく。
その時だった。 ふと窓の外を見ると、夕暮れ時のはずなのに、空が変な色をしていた。 最初は火事かと思った。でも、違う。 「なんだよ、あれ……」 俺は吸い寄せられるように屋上へと駆け上がった。 空一面が、見たこともないような極彩色に染まっていた。 燃えるようなオレンジ、深い菫色、そして透き通るような黄金色。 まるで、誰かが空をキャンバスにして、思いっきり絵の具をぶちまけたみたいな光景だ。 そして、風に乗って、ふっと声が聞こえた気がした。 『――ありがとう。でも、本当はもっと、生きたかった』 それは、間違いなくレンの声だった。 いつもみたいに無理して作った元気な声じゃない。震えていて、泣きそうで、でも、最高に「本当」の声。 「……バカヤロウ。だったら、そう言えよ」 俺の目から、堰を切ったように涙が溢れた。 空を見ると、光が文字のように揺れている。 あいつは一人じゃなかった。光の横には、もう一つの柔らかな輝きが寄り添っているように見えた。 レン、お前、誰かと一緒にいるのか。 一人じゃなく、誰かにちゃんと「本音」を言えたのか。 そう思った瞬間、肩の荷がふっと軽くなった気がした。 空を埋め尽くした光は、最後にひときわ眩しく輝いて、星屑みたいに夜の街へ溶けていった。 あとに残ったのは、ただの静かな夜空だったけれど、俺の心の中の灰色は、いつの間にか消えていた。 「……じゃあな、レン。またいつか、あっちで会おうぜ」 俺は、あいつに届くように、夜空に向かって思い切り手を振った。