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目次
ハーデンベルギア
朝の静かな個室。だがそれは温かい雰囲気ではなく、殺風景な病室だった。僕は数ヶ月前、事故にあったらしい。らしい、というのは僕が全くその事故について覚えていないからだ。所謂、記憶喪失だ。
コンコン
「…はい」
看護師さんと、奥に薄桃色のブラウスに黒いズボンを履いている女性がいるのが見える。
「灯さんにお客さんですよ」
そう言うと看護師さんは去っていった。忙しいのだろう。
「えっと……初めまして…?」
目の前の女性には、やはり見覚えがなかった。
「…初めまして。|灯《ともる》さん」
その女性は凛という名前らしい。凛は、タオルや病院から許可されたというお菓子などを持って来ていた。
「灯さん、聞いても良いですか?……その日記は?」
凛が僕のベット脇の日記を目線で指す。
「僕の記憶は1日しか持たないから。今日より前の日のことは、前の僕が書いた日記で確認してるんです」
僕が言うと、そうなんですね…と返された。
この日から凛は毎日来た。少なくとも日記ではそう書いている。
「今日も来てくれた…んですか?…凛さん」
日記という記憶を頼りに、入って来た女性に聞く。
「…はい。今日も来ちゃいました」
凛は切ないような、嬉しい様な、そんな顔をしていた。僕は正直、少し嫌だった。毎日来ている人でも、僕からは毎回『初めて会った人』なんだから。
ある日、凛が来てから日記では1ヶ月が経ったときに、ついに僕は我慢できなくなってしまった。
「…もう、もう来ないでくれよ!僕からしたら君は初めて会った人なんだよ!毎回毎回もう分かんないよ…」
そう怒鳴り、ベット脇の日記を手に取る。僕が今から何をするのかに気づいた凛が慌てて止める。が、その制止は虚しく、僕は日記をライターで燃やした。
…あ………という凛の呟きが聞こえたが、聞こえないふりをして言った。
「…もう、帰ってくれ…」
凛は必死に口をパクパクさせて、何か話す言葉を考えているようだったが俯きながら部屋から出ていった。
「…初めまして…ですよね?」
病室に入って来た女性は、ポニーテールに黒いブラウス、白のロングスカートを履いていた。
「…はい。初めまして、灯さん」
女性は凛という名前らしい。僕は椅子に座ってください、と言い、凛は座ろうとすると凛が持っていた紙袋が落ちてしまった。僕は紙袋を拾って凛に渡したが、その時に凛のつけている髪飾りが見えた。
「……その髪飾り…どこかで…」
凛は驚いたように、ばっとこちらを見つめた。
僕はその時、無いはずの記憶が頭に流れて来ていた。
---
『灯!ごめん、ちょっと待った?』
黒いブラウス、白のロングスカートを履いた凛がこちらに向かってくる。
『ううん、今来たところ』
ふふっそっか、と凛が微笑み、俺はすごく幸せを感じる。
『今日はどうしたの?ここに来て欲しいって言ってたけど…』
『うん、そのことなんだけどさ。凛、誕生日おめでとう!はい、これプレゼント』
『わ、いいの!?嬉しい!今開けるね!』
僕が渡した紙袋には髪飾りが入っていた。凛はすごく喜んでくれ、今つける!と言ってつけてくれた。
『やっぱり似合ってる。本当はレストランとかで渡す予定だったんだけど…早く渡したくて今渡しちゃった』
そう言うとまた笑ってくれる凛が、愛おしかった。
『あ、じゃあ今からこのレストラン行きたいな!どう?』
『いいね!そこに行こうか』
凛は僕の手を繋いで意気揚々と早歩きで歩いていく。だが。
『凛!危ない!』
信号無視で歩道に突っ込んでくる自動車が視界の端に見えた瞬間、僕はそう叫びながら凛の手を引いた。キャーッという叫び声が聞こえ、気づいたときにはもう僕の視界は空を向いていた。凛が覗き込んで何かを必死に叫んでいるのがぼんやりと分かる。
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僕の記憶はそこで終わっていた。
「…灯?」
凛が心配そうな目で顔を覗き込んでくる。全部、思い出した。あの日、彼女の凛と待ち合わせをしていて、それで…。
「凛は、怪我しなかった?…大丈夫?」
「大丈夫…灯に守ってもらったから。…思い出した‥の?」
コクコクと頷いてからちょっと傾げた凛は、思い出した記憶の中で何度も見たものだった。
「うん。思い出した…あの日、怒鳴っちゃってごめん」
「無理もないよ…私こそごめんね」
そんなことない、と凛に伝え、僕はまたベットに、凛が椅子に腰掛けたところで、ふと思い出した。
「看護師さん呼ばなきゃな…」
思い出して凛と話しているうちに忘れてしまっていた。横にいる凛を見ると僕と同じく今思い出したみたいだった。そこからはあっという間だった。凛が僕の病室に通うようになっていた頃には、リハビリはもう終わっていて、そしていよいよ明日退院。
今日は凛が仕事で来てくれるのが遅くなる日。僕はこのタイミングを狙って先生の許可を取り、花屋に向かった。目当ての花で花束を作ってもらい、病室に持ち帰る。看護師さんと協力して、取り出しやすい場所に花束が入った紙袋を隠す。
「灯〜?入ってもいい?」
ちょうどいいタイミングで凛が来たみたいだ。いいよ〜っと返事をしてから、何事もないように僕はベットに座った。数分、他愛もない話をして笑っていたところで、僕はあの紙袋を取り出す。
「凛、これ。…受け取ってくれる?」
僕が渡した花束には、色とりどりのハーデンベルギアを基調に、五本の赤いバラが点在している。凛は驚いてから、少し涙ぐみながらも、微笑んだような表情になった。
「ふふっ…灯っぽいね。考えることが」
「どう?気に入ってくれた?」
うん、嬉しい。ありがとう、と満面の笑みで答えてくれ、僕はいつの日かのような愛おしい気持ちになる。
「それなら良かったよ」
花屋に買いに行った価値があった。凛が満面の笑みになってくれるのなら。この日を迎えるまでがすごく長かったけれども。
「凛、遅くなったけど…ただいま。思い出せて良かった」
「…!おかえり、灯。思い出してくれてよかった」
はにかむ凛は可愛くて守りたいと強く思わせる笑顔だった。
次の君に贈る花は薄桃色の胡蝶蘭にしようかな。
ハーデンベルギアの花言葉の中の1つに,「出会えて良かった」というものがあるみたいです.
薄桃色の胡蝶蘭には「あなたを愛しています」というものがあるらしいです.
余談
いつも「.」や「,」を使うのでちょっと間違えそうになりましたね…