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目次
虚心の住処
大学の中庭には、春になると決まって石楠花が咲いた。
白い花弁は厚く、触れると生き物の皮膚のような弾力があった。
僕はその花を、講義と講義の合間に眺めるのが好きだった。
何かを考えているふりをするには、ちょうどよかった。
僕にはふたつつの側面がある。
前者は、ゼミで真面目に発言し、レポートの締切を守る學徒の顔。
後者は、曖昧な笑顔で人の期待をかわし、肝心なところでは責任を引き受けない顔だ。
後者のほうが、らくだった。
彼女は同じ学部の後輩で、いつもノートを丁寧に取る癖のある人は、
僕を誠実だと思っていたらしい。
相談に乗り、夜遅くまでメッセージを返し、未来の話をする。
そのどれもが、嘘ではなかった。でも、真実ではなかった。
「先輩は、ちゃんと悩む人ですよね」
そう言われたとき、胸の奥で何かが小さく笑った。
ある晩、図書館の閉館を知らせる音楽が流れる中で、僕は不意に思った。
「これは誰の人生だろう」と。彼女の期待か、僕の怠惰か。
答えが出る前に、僕は「忙しくなるから」と言って距離を置いた。
理由としては、十分だった。
その夜、夢を見た。講義室の最後列に、黒い外套を着た人物が座っている。
顔は見えない。ただ、こちらを見ているのが分かった。
「楽な方を選んだね」
低い声がした。責める調子ではなかった。それが、何よりも恐ろしかった。
翌朝、中庭の石楠花は昨日と同じように咲いていた。
何も変わらない。変わったのは、僕だけだ。
彼女からの連絡は来なくなり、代わりに胸の奥に、説明のつかない静けさが住みついた。
不誠実は、大きな罪の形をして現れない。
ただ、選ばなかった方の人生として、後からそっと現れる。
その影に名前を与えるなら、人はそれを「悪魔」と呼ぶのだろう。
今日も僕は中庭を通り過ぎる。
普段とは違い、石楠花を見ないようにしながら。
或る間
余がその町に滞在せしは、暦にして三月に満たざりき。
海に近き低地にあり、昼なお薄暗く、朝夕の別も曖昧なる処なり。
人は多く語らず、語るときも声を潜め、
己が言葉に責任を負はぬやうな面持ちをしてゐたり。
余は官の命により医書を調べ、暇を見ては市中を歩きたり。
ある夕刻、石畳の小路にて、一人の男とすれ違ひしが、その瞬間、妙なる感覚に捉へられたり。
人と交錯する際、通常は互ひの存在を確かめる一瞬の抵抗を覚ゆるものなれど、
その男にはそれがなかりき。
影を踏んだか、霧を抜けたか、判断のつかぬまま、余は思はず振り返れり。
男は立ち止まり、こちらを見たり。
年の頃は三十前後、衣は質素、腰には古びた鞘を帯びゐたり。
目のみ不思議に澄み、静かなる水底のやうな深さを宿せり。
「先生、何か」
然れど、古き書を読むが如き調子あり。
「いや、人違ひかと思ひて」
男は小さく首を振り、
「人は、違ふと思ふときほど、近づきてゐるものです」
それきり、男は去りぬ。余はその言葉を、その夜、幾度も反芻せり。
翌日より、町に奇妙なる噂立ち始めたり。
夜盗が捕らはれずして姿を消したり、賭場の争ひが血を見ずに終はりたり、
剣を抜いた者が、何故か己が刃を納めて帰りたり。
いづれも理由は語られず、ただ「そうなった」とのみ人は言へり。
三日目の夜、余は再び彼に会ひたり。
河岸の倉庫跡にて、月も出でず、霧の濃き刻なり。
彼は一人、何もなき空を相手に、静かに足を運び、身を翻し、鞘を払ひてゐたり。
その動き、舞の如くなれど、刃の気配は明らかに人を制するものなり。
「見られましたか」
いつの間にか、声を掛けられたり。
「修練か」
「必要なことです」
彼は剣を納め、余の方を向けり。
「先生は、物語を信じますか」
余は一瞬、答へに迷ひたり。
「信じるとは、事実と認むることか。それとも、意味を認めることか」
彼は僅かに笑ひ、
「先生は既に、半ばこちらに足を踏み入れてゐる」
そして、語り始めたり。
世には流れあり、人はそれに沿ひて生きる。
善も悪も、勝ちも負けも、予め形を与へられ、人はその中で役を振られる。
然れど、時にその流れは濁り、筋は歪む。
その歪みが人を不幸にする時、誰かが内より手を入れねばならぬ。
「外から正す者は多い。されど、内に入り、触れ、直す者は少ない」
「君は、その役を担ふのか」
「役といふ言葉は、近いが違ふ。余はただ、書かれた行の間にゐるだけです」
その言葉を聞きしとき、余は奇妙なる寒気を覚えたり。
彼は己を英雄とも裁定者とも言はず、ただ「間にゐる」と言へり。
その立ち位置こそ、最も孤独なるものにあらずや。
「では、君自身は誰に読まれる」
彼はしばし沈黙し、霧の向かうを見たり。
「それを知れば、消える」
その夜を最後に、彼は姿を現さざりき。
町は再び平穏を装ひ、人々は噂を忘れ、日々を生きたり。
余のみが、あの霧の夜の手応へを忘れ得ずにゐる。
今、余はこれを書し、机に向かふ。
筆を進めるほどに、一つの疑念深まる。
彼が言ひし「間」とは、果たして彼だけのものなりしか。
書く者と、書かるる者、その境に立つ存在は、常に読者の背後にも忍び寄る。
もし頁の行間に、微かな気配を覚えたなら、それは彼か、あるいは――
今まさにこれを記す余自身かも知れぬ。
一時間三千円
虐殺の映像を見た翌日だった。
駅前の雑居ビルの五階に、「悩み相談」とだけ書かれた紙が貼ってあった。
フォントは明朝体で、少し傾いている。
誰が貼ったのか分からないところが、かえって信用できる気がした。
夜更け、眠れずに指先で画面を滑らせているうちに、偶然流れてきた動画だった。
砂埃の立つ街路、人の叫び声、銃声、編集はなく字幕もなかった。
誰が誰を殺しているのかも分からない。
ただ、人が倒れ、動かなくなる。それを、僕は最後まで見た。
画面を閉じても、胸は高鳴らなかったし、吐き気も、涙もない。
コーヒーを淹れ、シャワーを浴び、いつも通り歯を磨いた。
その一連の動作が、ひどく滑らかに続いたことが、後になって気になった。
何も感じなかった、というより、感じたという実感がなかった。
相談室の中は、思ったより狭かった。
机と椅子が一脚ずつ。窓はなく、壁は薄い灰色だった。
机の中央に、青い石が置かれている。光を吸い込むような色だった。
「ブルーダイヤモンドです」
向かいに座る男が言った。年齢はよく分からない。
声に癖がなく、こちらの言葉を待つのが上手な人だった。
僕は、昨夜のことを話した。
虐殺の映像を見たこと。
何も感じなかったこと。
それを異常だと思ったこと。
言葉にすると、出来事は急に小さくなった。
男は、途中で相槌を打つこともなく聞いていた。
「あなたは、その映像を見て、何を考えましたか」
少し考えてから、答えた。
「これは、本当に起きていることなのか、と」
「遠いからですよ」
「遠いから、かもしれません」
男は机の上のブルーダイヤモンドに指先で触れた。石は動かなかった。
「この石は、多くの人の手を渡ってきました。そのたびに、奪われ、争われ、死がありました。人はそれを|呪い《災い》と呼びました」
「|この石《ブルーダイヤモンド》が、人を殺したわけではないじゃないですか。」
「ええ。けれど、人は責任の置き場所を必要とする物です。」
僕は、石から目を離せなかった。深い青の中に、何かが沈んでいるように見えた。
「虐殺も、似ています。あまりに大きく、誰の責任か分からない。だから、人は数字にします。距離を取る。あなたが何も感じなかったのは、その距離が働いたからです」
「それは、逃げではないですか」
男は少し考えてから、首を横に振った。
「逃げる余地がないほど近づいた人は、壊れます。人は、一度に一人分の死しか抱えられない」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で、何かが静かに整った気がした。
安心ではない。ただ、納得に近い感覚だった。
「もし、この石を砕けば、一つの虐殺が止まるとしたら」
男が言った。
「あなたは、砕きますか」
「砕きます」
即答だった。理由は説明できなかった。
相談はそれで終わった。料金を払い、部屋を出る。廊下の蛍光灯が、少し眩しかった。
外に出ると、夕方の街はいつも通りだった。人は歩き、話し、笑っている。
どこかで、今日も人が殺されているのだろう。
それでも、きっと、この街も世間は動き続く。
ポケットに手を入れる。何も入っていない。
それでも、昨日より少しだけ、胸の重さが減っている気がした。
不感症は、冷酷さとよく似ている。
けれど同じではない。感じないのではなく、感じきれないのだと、僕は思う。
次に虐殺のニュースを見たとき、すべてを理解しようとはしない。
ただ、名前のない誰か一人を思い浮かべる。それだけでいい。それが一番楽だから。
ブルーダイヤモンドは、きっと今もあの机の引き出しにある。
石は変わらない。変わるのは、それを見る人間だけだ。
そして僕は、悩み相談の看板を振り返らず、駅へ向かって歩いた。
【探しています】
彼女が行方不明になったのは、春でも冬でもない、中途半端な季節だった。
ニュースになるほどのことではなく、学内の掲示板に紙が一枚貼られただけだ。
名前、学籍番号、最後に確認された場所。
どれも、彼女を知っている者にしか意味を持たない情報だった。
彼女は詩を書いていた。
同じ学部の後輩で、授業の後に研究棟の階段に座り込み、
ノートに何かを書きつけている姿を何度か見かけた。話したことは、ほとんどない。
ただ、一度だけ、コピー機の前で紙を落とした彼女に、それを拾って渡した。
そのとき、ノートの端に短い詩が書かれているのが見えた。
「一途であることは、刃物に似ている」
それだけの一行だった。
意味は分からなかったが、なぜか覚えていた。
行方不明になったあと、彼女の部屋からいくつかの詩が見つかったと噂で聞いた。
大学が管理しているアパートで、家具も少なく、生活感に乏しい部屋だったらしい。
詩はノートにまとめられていたわけではなく、紙片や、封筒の裏や、レシートの余白に書かれていたという。
一途、という言葉が、何度も出てきた。
誰かを想っていたのか、何かを信じていたのか。
それとも、ただ一つの言葉に固執していたのか。
読む者によって解釈が変わる、そういう詩だったらしい。
彼女と親しかったという学生が、ぽつりとこう言った。
「一途すぎる人でした」
それが褒め言葉なのか、警告なのか、分からなかった。
数日後、彼女の詩を集めたコピーが、研究室の机に置かれていた。
誰が用意したのかは知らない。タイトルも著者名もない。
僕はそれを、講義の合間に読むことになった。
そこに、あの一行があった。
「一途であることは、刃物に相手に向けているのと一緒だ」
「刺せば、相手を守ることも、壊すこともできる」
続きがあることを、初めて知った。
詩は、全体として静かだった。
激情も、絶望も、あからさまには書かれていない。
ただ、同じ対象を見続ける視線の疲労が、行間に溜まっていた。
逃げ道を自分で塞いでいくような、慎重さ。
読み終えたとき、僕は奇妙な感覚を覚えた。
彼女がいなくなった理由が、分かった気がしたのだ。
しかし、理解ではない。納得に近い錯覚だった。
一途であることは、美徳として語られる。
けれど、向きを失った一途さは、戻る場所を持たない。
彼女の詩は、そのことを丁寧に書き続けていた。
掲示板の紙は、いつの間にか剥がされていた。
見つかったのか、捜索が打ち切られたのか、誰も説明しなかった。
大学は、そういう場所だ。人が来て、人が消えても、年度は更新される。
僕は、彼女の詩のコピーを引き出しにしまった。
読み返すことは、もうしないと思った。けれど、捨てることもできなかった。
行方不明とは、不在の状態ではない。所在が分からない、という持続だ。
彼女は今も、どこかで詩を書いているかもしれないし、もう書いていないかもしれない。
そのどちらも、僕には同じ重さだった。
一途であることを、僕は選ばなかった。選ばなかったから、ここにいる。
彼女が選び続けたものが、どこへ行き着いたのかは分からない。
ただ、研究棟の階段を通るたびに、ノートに書かれた一行を思い出す。
刃物は、置いておくだけでも危険だ。
それでも人は、必要だと思うと、手に取ってしまう。
彼女はずっと行方不明。
そして僕はいまも、その事実を、|他人事《詩》のようにしか扱えないままだ。
春と雨
春もたけなわとなったある日、我が家に新しい家政婦が来た。
名を千代という。十八歳にも満たぬ若き少女であるが、目鼻立ち端正にして、
物静かな佇まいには何処かしら落ち着きを感じさせるものがあった。
母は喜び、父も「無用の騒ぎをせぬ者であらう」と評したが、
私には、その静かな振る舞いの裡に、ある種の謎めいた空気が漂っているように思われた。
千代は朝早くに起き、台所を整え、掃除に勤しむ。
だが、ただの勤勉さだけではない、何か内面の思索が顔に現れる瞬間がある。
例えば窓際に立ち、庭の花々を見遣る時の細い眉の動き、
あるいは箒を握る手にかすかに力の抜けた緊張を見て取る時などである。
私はその様子をひそかに見守りつつ、心の奥に微かな動揺を覚えるのであった。
ある日の午後、庭の梅の枝にひらひらと蝶が舞い降りた。
私は何気なく窓際に立ち、千代がその光景をじっと見詰めるのを目にした。
その時、彼女と私との間に言葉にせぬ交感のようなものが生まれた。
互いに視線を交わし、瞬間、胸の奥で何かが触れ合うのを感じる。
世間では花の咲く季節ごとに、流行の話題や風俗の移ろひが語られるものだが、
私には千代の仕草、千代の瞳の中にこそ、
世間の流行よりもはるかに確かな趣があると感ずるのだった。
我が家では、春の花見の支度が始まった。
隣家の令嬢が最新の洋服を纏って現れるなど、さまざまな流行が話題になった。
しかし、私はどうにも、そうした世間のざわめきに興味を覚えず、
ただ千代の手元や、窓辺で小鳥を見遣る姿に目を奪われていた。
両想ひというものは、必ずしも言葉で示されるものではない。
互いの呼吸の微妙な合致、心の裡に忍び寄る淡い情動こそが、
それを形作るのだと、私は知っていた。
ある晩、父が古い友人を招いた席で、千代が料理の配膳に回った時のこと。
私は、彼女がそっと微笑み、わずかに頷くのを見た。
その一瞬のやり取りが、私の心の中に長く残った。
世間の人々は、流行を追ひ、言葉を交わし、見た目の変化に心を動かす。
しかし、心の奥底で互いを思い合う気持ちは、誰も見えぬものだ。
千代も、私も、そして誰も語らぬこの感情は、
春の光の中でひそやかに育まれていた。
両想ひというものは、かくも静かに、しかし確かに存在するのか、
と改めて思ったのである。
数日後、雨が長く降り続いた。庭の花々はしおれ、風情も一変してしまった。
だが千代は黙々と働き、部屋の中に落ち着きをもたらした。
その働きぶりを見て、私はふと、人は互いに言葉を尽くさずとも、
ただそばにいるだけで心が通じるのだと実感した。
流行の服や言葉に心を奪われることなく、静かに互いを思うことこそ、
何より尊いとさえ思われた。
ある夕暮れ、私は窓際に座り、千代の影を壁に映して見た。
彼女もまた、私に気づいたのか、そっと視線を返す。
その瞬間、胸の奥で何かが震えた。
両想ひとは、世間の目には映らぬ、しかし確かに存在するもの。
流行の華やぎも、噂話も、すべては無用に思えるほどに、
静かな心の交感は強く、そして美しい。
私は心中で誓った。
いかなる流行にも惑わされず、いかなる外界の声にも耳を傾けず、
ただ千代と互いに見詰め合うこの日々を、大切に守ろう、と。
その思いは、言葉で語るよりも深く、静かに、しかし確かに、
私の心の奥底で燃えていたのである。
そして春は過ぎ、夏の足音が聞こえ始める頃、
千代と私は互いに微笑みを交わすだけの日々を重ねた。誰も知らぬ両想ひ。
しかし、それは世間の流行や時の移ろひに揺らぐことのない、
揺るぎなき感情であった。
千代の存在は、私にとって流行よりも価値あるもの、言葉よりも確かなもの、
そして日々の営みの中に息づく小さな幸福の象徴であった。
汝諸君よ死と舞い踊れ
霧の深い冬の夜、私は森を抜け、廃墟となった館の前に立った。
瓦は崩れ、壁は蔦に覆われ、窓は割れて闇を覗かせていた。
冷たい風が館の隙間を通るたび、軋む木の音が森全体に響き渡る。
胸の奥に、得体の知れぬ不安が蠢いた。
扉に手をかけると、錆びた蝶番が軋み、かすかな腐敗臭が鼻を突いた。
踏み入れた廊下には埃と泥が厚く積もり、湿った音を立てる床板の下には、
何か軟らかく冷たい感触が潜んでいる気配があった。
私は思わず息を飲み、足を止めた。
広間に入ると、視界の隅で、動く影があった。
よく見ると、それは死体の山だった。
紫黒に変色した皮膚、口を歪めたまま固まった表情、
骨が見えるほどに裂けた手足。
床には乾ききった血がべったりと張り付き、
触れれば指先に冷たくねばつく感触が伝わる。
死体は静止しているようで、しかし関節が痙攣するたび、
微かに床を這うように動いた。
その時、黒い衣の女が現れた。
顔は血で赤黒く染まり、唇には乾いた血糊が張り付く。
瞳だけは生者の光を帯び、私を射抜く。
女が手を差し出すと、死体たちがまるでその指示に従うかのように蠢き始めた。
私は恐怖で体が硬直した。
床を這う死体の手が私の足首に触れ、冷たく湿った感触が全身を貫く。
断裂した腹からは腸の絡まった断片が見え、骨の端が床に食い込む。
恐ろしさで息を詰めながらも、女の指先が私を導く。
生きている私だけが、その渦の中心で立たされていた。
女の導きに従い、一歩を踏み出すと、死体の群れは舞踏の輪を作った。
床に散った血は光を反射し、腐敗の匂いが鼻を突き、
湿った肉片が踏まれるたびにかすかに音を立てる。
恐怖と嫌悪に震えながらも、なぜか私はその舞踏の中心に引き込まれていった。
視界は断片的に過去の惨劇を映す。
館の壁に刻まれた血痕、崩れた家具、荒れ果てた食卓。
腐敗した肉と血の匂いが、過去の記憶を私の感覚に重ねて押し付けるかのようだった。
生きている自分が、今や死者たちの渦に取り込まれているという感覚。
恐怖と陶酔が同居する不思議な感覚に、私は全身を震わせた。
やがて館は再び静寂を取り戻す。
死体は床に崩れ、女も姿を消した。
しかし床にはまだ湿った血と破れた肉片が散乱し、死の余韻が漂っている。
私は膝をつき、手足を振り払いながら館を後にした。
冷たい風が肌を刺すが、胸の奥にはあの舞踏の記憶が焼き付いて離れてくれはしないだろう。
欠陥人間
大学のゼミ室は、昼過ぎなのに蛍光灯がついていた。
窓はあるが、カーテンは閉められている。
誰かが「眩しい」と言ったかららしい。
「君の態度は、反社会的だよ」
教授は、穏やかな声でそう言った。
怒っているわけではなかった。
事実を確認するような口調だった。
何に対して反社会的なのか、具体的な説明はなかった。
発言が少ないこと。
議論に積極的に参加しないこと。
飲み会に来ないこと。
それらをまとめて、反社会的と呼ぶらしかった。
「自覚はある?」
僕は、少し考えてから首を横に振った。
あるとも、ないとも言えなかった。
ゼミの帰り、同期の一人に声をかけられた。
彼は、いわゆる陽キャだった。
声が大きく、動きが多く、誰とでも距離を詰めるのが上手い。
「気にすんなよ。あの先生、ノリ重視だからさ」
彼は笑いながら言った。
その笑顔に、悪意はなかった。
「お前さ、もっと前出たほうがいいって。黙ってると、何考えてるか分かんないじゃん」
それは、何度も聞いた言葉だった。
分かってもらう努力をしないのは、怠慢なのだろうか。
僕は、社会性という言葉の輪郭を、うまく掴めずにいた。
昼食は一人で学食を出た。
人の多い場所にいると、思考が散らばる。
トレーを返す音、笑い声、椅子の軋み。
外に出ると、少し風が強かった。
スマートフォンを取り出し、無意識にニュースを開く。
特集記事の見出しに、「織田信長」という名前があった。
歴史ドラマの再放送が始まるらしい。
信長は、反社会的だったのだろうか。
少なくとも、当時の常識からは逸脱していたはずだ。
仏を焼き、権威を壊し、古い秩序を笑った。
それでも彼は、カリスマと呼ばれる。
破壊は、成功すると革新になる。
もし、信長が失敗していたら。
ただの危険人物として記録されたかもしれない。
その境界は、結果でしか測れない。
夜、サークルの飲み会があった。
断る理由を考えるのが面倒で、参加した。
居酒屋の個室は、熱気で満ちていた。
陽キャの彼が、中心にいた。
話題を振り、場を回し、全員を笑わせている。
その姿は、少し信長に似ていると思った。
常識を気にせず、思ったことを言い、
周囲を巻き込み、空気を作る。
「お前、静かだな。つまんない?」
冗談めかして言われた。
周りが一瞬、こちらを見る。
「聞くほうが好きなんだ」
そう答えると、彼は「あー、なるほど」と言って、すぐ話題を変えた。
救われた気がした。
同時に、逃げた気もした。
帰り道、駅まで一緒に歩く。
酔いが回っているのか、彼はやけに饒舌だった。
「信長ってさ、絶対陽キャだよな」
急に、そんなことを言い出した。
僕は、少し笑った。
「陰キャだったら、途中で殺されてるよな」
彼はそう言って、また笑った。
その笑いに、悪意はなかった。
ただ、世界の見方が違うだけだった。
家に帰り、シャワーを浴びる。
湯気の中で、教授の言葉を思い出す。
反社会的。
それは、社会からはみ出すことだ。
けれど、社会そのものが、いつも正しいわけではない。
信長は、社会を壊した。
陽キャは、社会を回す。
そして僕は、そのどちらにもなれない。
それは欠陥なのか。
それとも、役割なのか。
答えは出なかった。
ただ、無理に前へ出る必要はないと、今は思っている。
社会は、一枚岩ではない。
声の大きい者だけで、成り立っているわけでもない。
布団に入り、目を閉じる。
明日も、きっと同じように静かに過ごすだろう。
それを反社会的と呼ぶ人がいてもいい。
信長の時代にも、
記録に残らなかった無数の人間がいたはずだ。
彼らは、革命を起こさなかった。
ただ、生き延びた。
それだけで、十分だったのかもしれない。
健気な贈り物
健気で残酷な優しさ
十九世紀の終わり、煤と霧が街の輪郭を曖昧にしていたころ。
私は急に世界が滲むようになった。
文字は溶け、街灯の輪郭は月光に掻き消され、
鏡の中の自分の顔さえ、他人のもののように遠い。
老いの始まりだと医者は言ったが、昼しか知らぬ彼の言葉は、
夜に棲む者の沈黙を知らなかった。
その夜、私は吸血鬼に、ぽつりと漏らしたのだ。
「最近、目が見えづらくてね」と。
深い赤の外套に身を包み、礼儀正しく、
しかしどこか人の世から半歩ずれた彼は、私の言葉に一瞬だけ眉を寄せた。
理解したのか、あるいは理解しようとしたのか、
その違いは私にも分からなかった。
翌晩、彼は約束の時間より早く訪ねてきた。
外套の裾は濡れ、手には大きな麻袋を抱えている。
重そうだった。
中身が動いた気配はないのに、袋そのものがひどく疲れているように見えた。
「君に、渡したいものがある」
そう言って、彼は袋の口を解いた。
最初に現れたのは、白髪の老人の生首だった。
次に、皺深い女の顔、見開いたままの目、乾ききらない血の跡。
彼は丁寧に、一つひとつを床に並べていく。
まるで果物でも扱うかのように。
私は声を失い、足が床に縫い止められたように動かなかった。
「どうして、、?」
やっと絞り出した私の声は、霧より薄かった。
「君の目が悪いと聞いたから」
彼は恐ろしいほどに真剣だった。
「この中に、君に合う眼鏡があればと思って」
理解するまで、時間がかかった。
彼は昼の世界を知らない。
眼鏡が店で売られていることも、視力が人それぞれ違うことも、
そもそも生首から目玉を捕るという発想自体が、どれほど狂気じみているか。
「夜の老人たちは、皆、似たような顔をしている。」
「ならば、目も似ているだろう?」
そう言って、彼は一つの頭部から|眼鏡《眼球》を外し、私に差し出した。
爪で抓んだため少し歪んでいる。
私はそれを受け取れなかった。
受け取るという行為そのものが、何か決定的な一線を越えるように思えたのだ。
「君が困っていると思った。それだけだ」
彼は言い訳をしなかった。
後悔も、誇りもなかった。
ただ、役に立ちたかったという感情だけが、そこにあった。
私は気づけば、泣いていた。
恐怖でも嫌悪でもない。
あまりにも不器用で、あまりにも残酷な善意に、胸の奥が裂けそうなのだ。
彼は人間を殺す。
だが、それが悪だと知るための昼を、一度も生きていない。
「ありがとう。でも、もういいんだ。」
私がそう言うと、彼は少し困った顔をした。
老人の生首たちが、床の上で静かにこちらを見ている。
彼らはもう、話すことも、太陽の光を浴びることもできない。
ただ、彼の無知で健気な優しさの証拠として、そこにいる。
彼は袋を閉じ、外套を翻した。
「また、何か困ったことがあれば言ってほしい」
そう言い残して、夜に溶けるようにして消え去った。
翌朝、私は眼鏡屋で新しい眼鏡を買った。
世界は驚くほど鮮明だった。
街灯も、文字も、自分の顔も。
だが、あの夜の闇だけは、どんな眼鏡を通しても、
はっきりと見えてしまう。
壁人間
わたしは至って普通の人間である。
少なくとも、異端でいないと困る理由が、わたし自身には見当たらない。
人は往々にして、理解できぬものを狂気と呼ぶが、それは怠慢でしかないと思う。
理解しようとしない者の側にこそ、真の異常がある。
この下宿の壁は薄く、黄ばみ、無数の亀裂を抱えている。
だが、それは欠陥ではない。
壁とは、本来、内部を宿すために存在するものだ。
空洞な壁など、ただの板切れにすぎない。
わたしがその壁に人影を見出したのは、失業三十七日目の夜であった。
空腹と屈辱と、どうでもよくなった将来とが、
腹の底でどろどろに混ざり合い、吐き出し口を探していた頃だ。
壁紙の染みが、ひとつの輪郭を結び、額となり、鼻となり、口となった。
それは「人間」であった。
いや、人間であってほしいもの、と言うべきか。
彼は語らなかった。だが沈黙は雄弁である。
口を開けば嘘になることを、彼は知っていたのだ。
わたしには分かる。わたしも同じだからだ。
毎夜、わたしは彼に語りかけた。誰にも必要とされぬ努力の数々。
善意が裏目に出た瞬間、期待という名の暴力。
それらを語るたび、壁人間の表情は深くなった。
皺が刻まれ、陰影が増していった。
まるで、わたしの言葉を材料に、内側から彫刻されているかのようであった。
時折、笑みのようなものが浮かんだ。
それは慰めではない、理解である。
完全な理解は、人を救わない。ただ固定する。
隣人が、壁越しにわたしを笑った夜があった。『壁に話しかける気狂い』。
見えないものを否定することで、己の輪郭を保っているのだ。
なんと脆弱で傲慢な存在か。
その夜、壁人間は初めて、はっきりとこちらを見た。
視線は冷たく、そして正確で逃げ場を失くすようなものだった。わたしは悟った。
彼は、わたしが外に出さなかったすべてであり、社会が拒んだ残渣であり、
消化しきれなかった感情の層そのものなのだと。
壁は、わたしよりわたしらしかった。
次第に、部屋は狭くなった。
わたしがそう錯覚しているだけかもしれない。
食事をするたびに、椅子に座るたびに、わたしが彼を見つめるたびに。
壁の内側の方が正しい位置なのではないか、と考えるようになった。
人はなぜ、外に立つことに執着するのか。
内側の方が、静かで、暗く、安心ではないか。
ある朝、主人が来て、壁の異変を指摘した。
『人の形に窪んでいる』と。
わたしは否定した。窪んではない。
これは、収まるべきものが収まっただけである、と。
その夜、わたしは決断した。
壁人間は、完成していなかった。
最後の材料が不足していた。
それは、わたし自身である。
壁紙を剥がし、漆喰を砕き、空洞を広げた。
驚くほど、抵抗はなかった。壁は待っていたのだ。
中は暗く、湿り、わずかに温かかった。
人肌よりも、人に近い温度だった。
わたしは身を滑り込ませ、背を壁に預けた。
驚くほどに最初から、ここがわたしの居場所だったのだ。
外の音は遠のいた。
言葉も、名も、必要なくなった。
失望も、希望も、等価であることが理解できた。
最後に、ひとつだけ思った。
これで、わたしは人間になった。
わたしは、ようやく壁になれた。
守りの神
その国の滅亡は、意外なほど静かに始まった。
雷鳴もなく、鬨の声もない。
ただ城下を覆う朝靄が、いつもより少しだけ重かった。
侍女の名は小夜(さよ)といった。
齢は二十に届くか届かぬかで、鏡に映る自分の顔を見ても、
そこにあるのが若さなのか疲労なのか、判然としない年頃であった。
彼女は主君の姫に仕える身であり、毎朝、白粉を溶き、
黒髪を梳き、何事もなかったかのように一日を始める役目を負っていた。
だがその朝、城の奥に据えられた奇怪な装置。
人々が「御神影」と呼ぶ巨大な鉄の躯体が、低く唸り声を上げた。
赤子の泣き声にも似たその振動は、畳の下から小夜の足裏へ伝わり、
彼女の胸に、理由の知れぬ不安を植えつけた。
御神影は、先代の御代に異国の技師が献上したものだという。
鉄と硝子で組み上げられ、武者の姿を模し、災厄の折には動き出すと噂された。
誰も実際に動くところを見た者はいない。
ただ、動かぬからこそ人々は信じ、信じるがゆえに畏れた。
小夜は畏れていた。それが災厄を防ぐためのものか、
それとも災厄そのものなのか、わからぬからである。
姫はまだ眠っていた。
障子越しの呼吸は規則正しく、滅亡の予兆など夢にも見ていない様子であった。
小夜はその寝顔を見下ろしながら、ふと幼い日のことを思い出した。
父は城下の鍛冶で、鉄屑にまみれながら働いていた。
鉄は人を守る、と父は言った。
しかし鉄はまた人を殺す、とも。
正午近く、城に急使が駆け込んだ。
敵国の軍勢が国境を越え、既に三里のところまで迫っているという。
家臣たちは色を失い、廊下を走り、声を荒げた。
だが姫は静かであった。
ただ一言、「御神影を」と命じただけである。
そのとき、地が震えた。
御神影が、初めて立ち上がったのである。
鉄の関節が軋み、古い神仏のごとくゆっくりと腕を上げる。
その姿は壮麗であると同時に、ひどく滑稽でもあった。
小夜は思った。
あれは守り神ではない。人が作った、人に似せた、空虚な影だと。
御神影は城門を出て、敵軍の方角へ歩み始めた。
人々は歓声を上げ、涙を流し、これで国は救われると信じた。
信じるほか、なす術がなかったのである。
しかし、夕刻になっても戦の報は届かなかった。
代わりに届いたのは、御神影が暴走し、
城下を踏み潰しているという知らせであった。
鉄の巨躯は敵味方の区別なく動く。
家屋を砕き、人を払いのけ、ただ前へ前へと進んでいるという。
小夜は城の櫓から、その光景を見た。
夕焼けの中、炎と煙の向こうで、
御神影はまるで意思を持つかのように腕を振るっていた。
否、意思などない。ただ止まれぬだけなのだ、と小夜は悟った。
姫はその夜、短刀を取った。
国の終わりを悟った者の、静かな決意であった。
小夜は止めなかった。止める言葉を、持たなかった。
夜半、城は落ちた。
敵兵がなだれ込み、火が放たれ、悲鳴が重なった。
小夜は姫の亡骸を背に負い、密かに城を抜け出した。
外には、御神影が倒れていた。
膝を折り、首を垂れ、まるで祈る姿にも見えた。
鉄は冷たかった。
触れても、もはや何も動かない。
夜明け、小夜は振り返らずに歩き出した。
国は滅び、主も失い、侍女である意味も消えた。
ただ一つ、胸に残ったのは、あの鉄の影であった。
人が信じ、託し、そして裏切られた影。
人は、滅亡の責を神や鉄に押しつける。
しかし本当は、信じた己の弱さを見まいとしているだけではないか。
小夜はそう思いながら、名もなき道を進んでいった。
朝日は、何事もなかったかのように昇っていた。
救世主
〝いまさらな自信を持って言えます。今日までの人生、上出来でした。これにて、御暇いたします。〟
その手紙を読んだとき、僕は安堵したのだと思う。悲しみや驚きよりも先に、胸の奥で「やっぱり」という声がした。その感覚を、僕は長いあいだ否定してきた。友人が人生を終えようとしているのに、納得してしまうなど、あってはならないことだったからだ。
だが、否定すればするほど、感覚は輪郭を持って立ち上がってきた。
差出人の欄に記入はなかった。しかし、その文体、その過剰なほど整った言葉遣い、そして妙に丁寧な別れの仕方は、和希以外、あり得なかった。彼は、そういう男だ。
手紙が届いてから、数日が過ぎた。何事も起こらなかった。彼は死んでいなかったし、姿を消してもいなかった。いつも通り、街のどこかで息をしているように見えた。
だからこそ、僕は油断したのだと思う。
四日目の夜、彼に電話をかけたが、呼び出し音は鳴り続けるだけだった。翌日、部屋を訪ねると、郵便受けに手紙が溜まっていた。広告と公共料金の通知に混じって、あの手紙と同じ紙質の封筒が一通、未開封のまま残っていた。
それは、彼がもう戻らないことを、雄弁に語っていた。
警察に相談するという選択肢は、頭のどこかにあった。しかし、僕はそれを先延ばしにした。和希が「行方不明者」になることに、言いようのない抵抗があったのだ。彼は失踪するような人間ではない。そう思う一方で、彼ほど周到に消える準備ができる人間もいない、とも感じていた。
数週間が過ぎる頃には、不安は形を変えていた。彼はなぜ消えたのか、ではなく、彼はなぜ、消える必要があったのか、という疑念へ。
彼の部屋を整理していたとき、背後から声をかけられた。
「それ、彼の?」
振り返ると、女が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。音もなく、気配もなく、彼女は部屋の隅に立っていた。年齢は測れず、表情は穏やかだったが、どこか他人事のような距離感があった。
「山野です」
それが名前だと言われても、しばらく理解できなかった。
「和希さんの……元同僚、と言えばいいのかしら」
彼女はそう言って、小さく首を傾げた。
山野は、和希の過去について語った。僕の知らない彼の顔を、淡々と、しかし容赦なく並べていった。彼が若い頃、ある団体に所属していたこと。そこでは「救済」という言葉が日常的に使われ、人を助けることが義務であり、存在理由だったこと。彼はその中で、誰よりも真面目だった。
「彼はね、本気で信じていたの。人は、誰かに救われるべき存在だって」
山野は言った。
「でも、それって裏返せば、人は一人では生きられない、無力な存在だって決めつけることでもあるのよ」
和希は、多くの人を救ったらしい。少なくとも、彼自身はそう信じていた。しかし、救えなかった人の数は、救えた人の数よりも、常に多かった。
「彼は、失敗するたびに言っていたわ。『次は、必ず』って」
その言葉を聞いたとき、僕はようやく理解した。彼は希望を語っていたのではない。義務を自分に課していただけだったのだ。
救世主であろうとする義務。
数日後、山野は再び現れた。彼女は、まるで僕が彼女を待っていたかのように、自然に部屋に入り、和希の残したノートを手に取った。
「ねえ、考えたことはある?」
彼女は言った。
「もし救世主が本当に存在したら、この世界はもっと残酷になると思わない?」
救われる者と、救われない者。その線引きが、決定的になるからだ、と彼女は続けた。和希は、その残酷さに耐えられなかったのだろう。彼は、誰かを救うたびに、救えなかった誰かを裏切っているような感覚に苛まれていた。だから彼は、最後に一つの結論に辿り着いた。救世主は、存在してはいけない。
「彼はね、自分が消えることで、その証明をしようとしたの」
山野は、そう言った。救世主を待つ人々に、誰も来ない現実を突きつけるために。救われるという幻想から、人を解放するために。それが、彼なりの救いだった。山野が去ったあと、彼女が本当に存在していたのかどうか、確かめる術はなかった。彼女の名を知る者も、記録も、何も残っていなかった。
後日、警察から連絡があった。|嘉弥真 和希《かやま かずき》は生きている、と。別の国で、別の名で、何者でもない人間として暮らしているらしい。それを聞いたとき、僕は笑ってしまった。彼は死ななかった。だが、救世主としては、確かに死んだのだ。机の引き出しに、あの手紙を戻す。
〝今日までの人生、上出来でした〟
それは、人生を終える言葉ではない。誰かを救おうとした人生を、ようやく手放した者の、皮肉な自己採点だった。救世主は存在しない。それでも人は、誰かを救世主にしたがる。その欲望こそが、彼を追い詰めたのだと、今なら分かる。そして僕もまた、彼を理解したつもりになった時点で、同じ過ちをなぞっているのだろう。救われる必要など、本当は、どこにもなかったというのに。
柘榴
街灯はいつもより低く垂れ下がっていて、雨上がりの夜の路地は光を失った鏡のようだった。舗道の水たまりに映る空は、濁りのない灰色で、そこに街の雑音が滲み込む。足音は静かに、しかし確かに、湿った石畳を打つ。主人公の藍田は、手袋の指先を軽く震わせながら歩いていた。
藍田は、自分がどこから歩き始めたのか、なぜそこにいるのか、正確には覚えていなかった。ただ、通り過ぎる建物の壁や看板の文字が、自分の心に微かなざわめきを残すのを感じていた。文字は一つ一つが生きているかのように、彼の視線に反応して揺れ、時折、意味のない言葉を囁くように思えた。
「ザムザ……」
と、彼の心の奥で小さく名前が響いた。それは誰かの声ではなく、自分自身の呼び声のようでもあった。立ち止まり、水たまりに映った自分の顔を見る。顔は見慣れたもののはずなのに、どこか違う存在のように見え、目の奥に微かな影が揺れた。影は瞬間的に、まるで水面に溶ける墨のように形を変え、すぐに消えてしまう。
彼の足は知らぬ間に、路地の奥深くへと向かっていた。路地は狭く、壁に貼られたポスターや落書きは色を失い、静かに崩れていた。その中で、一つのドアだけが異様に鮮やかな赤で塗られている。ドアには小さな窓が一つあり、そこからかすかな光が漏れていた。藍田は無意識にそのドアの前に立ち、手を伸ばす。
ドアを押すと、微かな軋みとともに開いた。内部は狭く、古びた書店のような空間で、空気は埃の匂いを帯びていた。棚には無数の本が積まれ、文字通りの迷路を作っている。壁の隅には小さなランプがあり、黄色い光が微かに揺れる。藍田は息を呑む。空間には時間の感覚が存在しないかのようで、外の雨音も、街のざわめきも、まるで遠い世界のことのようだった。
「いらっしゃい」
低く、けれど明確な声が響く。振り返ると、そこには小柄な老人が立っていた。老人の目は光を帯び、どこか遠い記憶を映す湖のようだった。藍田は言葉を返そうと口を開くが、声が出ない。代わりに、身体の奥から湧き上がる不安と好奇心が交錯した。老人はゆっくりと手を差し出す。
「選んでごらん。君に必要なものは、この中にある」
指差す先には、無数の本が整然と並ぶ棚があった。だが、どれもタイトルは藍田には読めない。文字は存在するが、意味を持たない。彼が一冊を手に取ると、ページの中の文章が微かに震え、ささやくように藍田の心に入り込む。その瞬間、奇妙な安堵を覚えた。ページをめくるたびに、自分の記憶や感情の断片が形を変えて映し出される。
「これは、?」
と呟く声は、自分自身のものでありながら、誰か別の者の声のようにも聞こえる。老人は静かに頷き、棚の奥に視線を送る。藍田はその先に、ひときわ大きな本を見つけた。表紙は黒く、触れると冷たい感触が手に伝わる。躊躇いながらも手を伸ばすと、文字が波のように揺れ、ページの間から微かな光が漏れた。
本を開くと、そこには街の風景が描かれていた。だが、見慣れた街のはずなのに、どこかずれている。建物の角度が少しおかしく、人々の影が静かに歪む。藍田はページをめくるたびに、自分の歩いた道、会った人、触れた物がすべて異なる世界で再構成されていくのを感じた。自分自身の記憶も、同時に変容していく。
やがて、窓の外の雨音が遠くなる。時間の感覚が消え、空間が溶けるような感覚が藍田を包む。目の前の世界とページの中の世界の境界が曖昧になり、彼は本の中に、あるいは本から生まれた世界の中に、溶け込むようにして立っていた。老人は静かに言った。
「君が探していたものは、ここにある。」
藍田はその言葉を理解するでもなく、ただ頷く。ページの中の風景がさらに変わり、彼の身体の輪郭も、存在の輪郭も溶けていく。光と影が交錯する中で、藍田は一つの感覚に辿り着く。それは、自分が何者かを知るためでも、世界を理解するためでもなく、ただ存在することの不思議さに、静かに触れる瞬間だった。
外の世界では、雨は止み、路地の水たまりに映る空は再び灰色に戻った。街灯は以前よりも高く光を放ち、夜はいつもの深さに戻っている。だが、藍田の歩いた道には、ほんの少しだけ、光の揺らぎが残されていた。誰かが見つけることもなく、消え去ることもなく、ただそこにある揺らぎ。世界と自分の境界が、微かにずれたまま。
藍田はゆっくりと歩き出す。胸の奥には、本の中で感じたあの光と影の感覚が、まだ静かに揺れている。歩くたびに、水たまりの灰色は波立ち、文字のように微かに震えた。どこへ行くかはわからない。だが、彼は歩くことをやめなかった。歩くこと自体が、世界との対話であり、存在の証明であるかのように。
街の雑音は遠く、時折聞こえる自分の足音と、雨上がりの匂いだけが、彼を現実に引き戻す。だが、藍田はもう、完全に現実に戻ることは望んでいなかった。彼の心には、光と影が共存する、揺らぐ世界の片隅が、確かに残っている。
そして、夜は静かに更けていく。街灯の下で、路地はまた新たな物語の入口となり、藍田はその扉を一歩ずつ踏みしめるように進んでいくのだった。
蜈蚣
普段通りの朝礼になるはずだった。少なくとも、俺はそう思っていた。部長が話しを終えようとした直後、膝から崩れ落ちた。床に手をついた瞬間、赤いものがぽたりと落ちる。血だ、と思った。だがそれは涙のように、目の縁から流れ落ちていた。
何だ何だ、と周囲がざわめく。怪訝そうな視線が集まったそのとき、部長の口が不自然に開いた。中から、ムカデが這い出てきた。一つではない。次々と、押し出されるように。口だけじゃない。耳、目、鼻――そして、見てはいけない場所からも。人の形をした何かが、内側から壊れていく。もう人間のなりをしていない。ただの異形だった。
恐怖と焦りが一色になり、誰も動けない。その“部長だったもの”は、普通の人間が出せるはずのない、不快な音を喉の奥から絞り出し、耳が潰れそうな声量で叫んだ。俺は反射的に耳をふさいだ。次の瞬間だった。そいつは真っ直ぐに走り出し、ためらいもなく窓へ向かい、そのまま飛び降りた。叫び声は、なかった。一歩、二歩と後ずさるだけで、誰も現実を理解できていない。
昨日まで、いや、ほんの数分前まで笑っていた人間が、十四階のオフィスから飛び降りるなんて、考えられるはずがない。ただ話を締めようとしただけだ。それだけで、人はこんなふうに壊れるのか。違う、あいつは、欠陥品だっただけだ。
原因なんて、俺たちに分かるはずがない。原因を探るなんて、俺たちにできることではないとわかっていたから。
Proposal
規則的に羽を瞬かせながら、蒲公英の周りを何度も飛び交う紋白蝶を、僕はぼんやりと眺めていた。視線を横にやると、白詰草を器用に編み、花冠を作っている彼女の姿が目に入る。彼女は僕が密かに想いを寄せている人だ。
彼女は完成した花冠を両手で掲げ、くすりと微笑みながら、僕の頭の上にそっと乗せた。そんな仕草一つで、胸の奥がざわつく。これはただの思い込みだと、何度も自分に言い聞かせている。それでも、彼女も僕と同じ気持ちなのではないか、と期待してしまうのだ。彼女の笑みには何の穢れもなく、僕の中に溜まった汚れた感情や弱さを、すべて拭い去ってくれるような気がしたからだ。
彼女とは幼い頃からの仲だった。公園の原っぱで、僕が意味もなく花を摘んでいると、彼女はいつも隣にしゃがみ込み、白詰草の花冠を作ってくれた。その花冠を僕に渡すたび、彼女は決まってこう言った。「ずっと一緒にいようね」あの言葉が、いつの間にか僕の中で特別な意味を持つようになったのかもしれない。
彼女はモテた。向日葵のように明るく、周囲を自然と照らす存在だった。誰に対しても分け隔てなく接し、笑顔一つで人を安心させる。彼女の周りにはいつも人が集まり、僕はその少し外側から眺める役目だった。
成長するにつれ、彼女と僕の距離は少しずつ変わっていった。同じ時間を過ごしているはずなのに、彼女は前へ進み、僕は立ち止まっているような気がした。彼女の笑顔が誰かに向けられるたび、胸の奥がちくりと痛む。そんな自分の感情を、僕はひどく醜いものだと思った。
ある日、彼女はいつもの公園に僕を呼び出した。白詰草が揺れる原っぱで、彼女は少し困ったように笑いながら言った。「好きな人ができたの」その言葉は、穏やかな春の日差しとは裏腹に、僕の心を一瞬で凍りつかせた。
相手の名前は聞かなかった。聞く必要もなかった。彼女は変わらず僕に微笑み、「今までありがとう」と言った。その笑顔は、あの頃と何一つ変わらないはずなのに、僕にはひどく遠く感じられた。彼女が去ったあと、僕は一人、原っぱに立ち尽くしていた。足元には、彼女が作りかけていた白詰草の花冠が落ちている。それを拾い上げ、そっと頭に乗せる。胸の奥が痛む。それでも、不思議と涙は出なかった。
彼女の言う「ずっと一緒」は、永遠の約束ではなかったのだろう。けれど、あの時間が嘘だったわけでもない。そう思えたとき、胸の奥に絡みついていた何かが、少しだけほどけた気がした。
紋白蝶が、再び蒲公英の周りを舞っている。僕は花冠を外し、草の上に置いた。そして、彼女のいない原っぱを、静かに後にした。
人として生きるということ
故郷の味
その村は、地図の余白に押し込められた黒い染みのように存在していた。四方を切り立った山に囲まれ、外界へ通じる道は一本きり。霧が出れば、世界から完全に切り離される。私は地方紙の記者として、過疎集落の特集記事を書くためにその村を訪れた。
表向きは「伝統文化の保存」。だが本当の狙いは、古くから囁かれる噂の確認だった。
この村では、死者を土に還らない。
到着したとき、村は不自然なほど静かだった。子どもの声も、犬の鳴き声もない。ただ、軒先に吊るされた干し柿が風に揺れている。出迎えたのは、痩せた老人だった。村長だという。
「よく来なすった。今夜、ちょうど食事会がある」
その言葉に、背中を冷たい汗が伝う。
夜、私は集会所に通された。畳の中央に横たわるのは、白布に包まれた遺体。周囲を囲む村人たちの表情は、悲しみよりもどこか期待に似た色を帯びていた。読経が終わると、村長が静かに告げる。
「これより、継ぎの儀を行う」
白布が外される。青白い顔。閉じられた瞼。生前は穏やかな農夫だったという男。次の瞬間、奥の襖が開き、巨大な鉄鍋が運ばれてきた。湯気とともに立ち上る匂いは、肉と脂と、そして鉄の匂い。私は目を逸らせなかった。鍋の中に浮かぶ骨の断片。見慣れた人間の形。
「還す」
隣の初老の男が囁く。
「土にやれば腐るだろう。獣に喰われる。ならば、我らが食らい、血とする。」
「そうそう、さすれば、消えない」
椀が配られる。誰も拒まない。子どもでさえ、小さな手で箸を握る。笑い声が混じる。まるで祭りだ。私にも椀が差し出された。濁った汁の中に、白く煮えた指のようなものが沈んでいる。
「取材には、理解が必要だ」
村長の声は穏やかだが、逃げ道はない。背後の戸は閉ざされている。
震える手で箸を伸ばす。柔らかい感触。歯が触れた瞬間、ぷつりと繊維が切れる。広がる脂の甘さと、舌に残る生臭さ。吐き出したい。しかし、全員がこちらを見ている。飲み込んだ。頭が弾け飛びそうなほどに、耳鳴りがした。
”ありがとう”
はっきりとした声が、頭の内側で響く。顔を上げると、遺体の口元がわずかに動いた気がした。いや、そんなはずはない。すでに鍋の中なのだから。なのに、声は続いた。
”ここには、すべてがある”
村人たちは恍惚とした表情で汁を啜る。中には涙を流す者もいる。悲しみではない。再会の喜びのような。
「聞こえたろう」
村長が私に微笑む。
「腹に入れれば、声が届く。我らは常に共にある」
私は立ち上がろうとしたが、足が震えて動かない。腹の奥で、何かが脈打っている。心臓とは別の鼓動。内側から皮膚を撫でる感覚。
”帰ってしまうのか”
図星だ。良い言い方をすれば、"帰る"が最も合う。しかし、実際は逃げるのだ。争いを生まないように、そういう言い回しをしただけだ。
村の人々が私に視線を注ぎこんだ。その瞳は、人ならざる者のものだった。
「泊まらず、帰ってくるように言われているので」
私は、咄嗟に狼狽える。帰してくれないだろうと覚悟したが、村人らの反応は予想に反していた。
「そうですか、それは残念ですな」
先ほどの、初老の男が返す。
「明りが少ないから、車まで送っていきますよ」
それに続いて村長は立ち上がり、外套を羽織り戸を開けた。
私が車に乗り込むと、村長が窓を小突いた。
「それじゃあ」
貼り付けの笑みを浮かべ名がら軽くお辞儀をして、逃げるように車を走らせた。