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目次
名前を知らない香り
**〜あの香りにだけ、名前がなかった〜**
中学二年の春、星と同じクラスになった。
最初の印象は、正直あまり覚えていない。
背が高かったとか、成績が良かったとか、そういう分かりやすい特徴は、特になかった。
ただ、隣の席に座った瞬間、胸の奥がふっとざわついた。
――香りだった。
香水でも柔軟剤でもない。
洗いたてのシャツのような、ほんのりと温もりを含んだ匂い。
反射的に、「好きだ」と感じた。
それが"恋"だと気づくまでには、すこし時間がかかった。
星は、よく笑うやつで、特別優しいわけでも、冷たいわけでもない。
それでも、近くにいるだけで心が落ち着いて、離れるとどこか物足りなかった。
授業中、窓から風が入るたび、あの香りがして、意味もなく息を止めた。
触れたいとは思わなかった。
ただ、隣にいたかった。
___________________
高校で進路が分かれ、連絡先は交換したものの、やり取りは数回で自然と途切れた。
忙しさや環境の変化。
――理由はいくらでも並べられたけれど、本当は違う。
あの頃の気持ちに、名前をつけるのが怖かっただけだ。
スマホを変えるタイミングで、俺は星の連絡先を消した。
連絡が取れなくなったわけじゃない。
取らなくて済むようにしたんだ。
それから数年――
社会人になり、仕事に追われる日々。昼休みに入ったカフェで、向かいに座る同僚の女性が首をかしげる。
「ひかるくん、香水変えた?」
「え?つけてないけど」
「じゃあ、気のせいかな」
その一言で、なぜか星のことが頭をよぎった。胸がきゅっと縮む。
――考えるのはやめよう。
コーヒーを一口飲んだ、その時だった。
隣の席に、カップルが座る。椅子が引かれ、空気が動いた瞬間――
呼吸が止まった。
この香り。
何年経っても、間違えるわけがない。記憶の奥に焼きついた匂い。
視線を向けると、そこに――星がいた。
大人びた表情、少し変わった髪型。
でも、笑ったときの目の形は、あの頃のままだ。
彼はまだ、こちらに気づいていない。
胸はうるさいのに、不思議と落ち着いていた。
ああ、そうか。
忘れられなかったんじゃない。
ずっと、ここに残っていただけだ。
運命なんて大げさな言葉は似合わない。
それでも、心の中でそっとつぶやく。
――やっぱり、君だった。
ふと星がこちらを見て、目が合う。
一瞬の沈黙のあと、彼が小さく目を見開いた。
「……ひかる?」
名前を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
――香りは、何も変わっていなかった。
「……久しぶり」
それが精一杯だった。
星はきょとんとしてから、少し困ったように笑う。
「ほんとだな。何年ぶりだっけ」
「中学以来だから……七年?」
「そんなに経つか」
顎に手を当てて考える仕草すら、懐かしい。
隣にいた女性が席を立ち、「先に外で待ってるね」と言った。
星は軽く手を振り、こちらに向き直る。
「今、ここで働いてるの?」
「昼休み。星は?」
「近くの会社。たまに来るんだ、このカフェ」
会話は当たり障りないのに、頭の中は忙しい。
視線が近い。声が低くなった。
そして、やっぱりあの香り。
中学の教室で、窓から風が入った時と同じだ。
「さっきさ」
星がふと思い出したように言った。
「俺、彼女に『香水変えた?』って聞かれて」
心臓が跳ねる。
「俺、つけてないんだけどな」
「……昔から、だよね」
思わず口をついて出た。
星が目を瞬かせる。
「え?」
「その香り。中学の頃から」
一瞬、沈黙が落ちる。
言い過ぎたかもしれない、とすこし遅れて後悔した。
でも星は、驚いた顔のまま、ゆっくりと笑った。
「……覚えてたんだ」
「…《《忘れなかっただけ》》」
言ってから、しまったと思う。
逃げ道を探す前に、星が小さく息を吐いた。
「俺さ」
少しだけ、声が低くなる。
「高校で離れたあと、ひかるのこと、何回も思い出した」
真っ直ぐな視線。
「でも、連絡する勇気なくて。今さら何言うんだって思って」
胸の奥が、静かに熱くなる。
「…俺も」
それだけで、十分だった。
時計を見ると、昼休みの終わりが近い。
立ち上がると、星も同じように席を立つ。
「……また、会える?」
その言葉に、迷いはなかった。
「今度は、ちゃんと時間作る」
星はそう言って、スマホを取り出す。
連絡先を交換する指先が、少しだけ震えていた。
カフェを出る前、すれ違いざまに、あの香りがもう一度した。
胸いっぱいに息を吸う。
これは始まりだ。
中学の教室で言葉にできなかった感情の、続き。
名前をつけるのは、もう少し先でいい。
でも――
運命の香りだけは、今ここで香った。
――END――
華恋_karen
名前を知らない香り After Stor
**〜気づき始めた香りの名前〜**
星と会う約束をしたのは、それから一週間後のことだった。
休日の昼下がり、駅前で待ち合わせるだけなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう―
そして、ふと気がつく。
中学の頃も、高校の頃も、こんなふうに「二人きりで会う」ことは、
一度もなかったからだ、と。
「お待たせ」
声がして振り向くと、そこに星がいた。
シンプルな服装なのに、目を引く。
理由はわかってる。近づくにつれて、あの香りがしてくるからだ。
「全然、今来たところ」
それは嘘だ。
十分は早く着いていたけれど、今はそんなことどうでもいい。
「じゃ、行こうか」
何を話すでもなく、歩きだす。
川沿いの道を並んで歩く。会話はゆっくりで、間が多かったけれど、その沈黙が嫌じゃなかった。
「そういえばさ」
少し躊躇したように、星が口を開いた。
「この前、一緒にいた人……もう別れた」
その言葉に、足が止まりそうになったけれど、必死に抑え込んだ。
「……そっか」
それ以上、何も言えなかった。
聞きたいことは山ほどあったけれど、どれも踏み込んでいい気がしなかった。
星は川の流れを見つめながら、続けた。
「最初から、ちゃんと好きだったと思う。優しかったし、大事にしたかった」
言葉を一度切って、少し息を吸う。
「でもさ……」
指先が無意識にズボンの縫い目をなぞる。
「ひかると再会して、気づいたんだ」
胸が、静かに痛んだ。
「俺、ずっと勘違いしてたんだなって」
風が吹いて、星の香りが強くなる。
懐かしくて――苦しくて。
「ひかるとは、付き合えないと思ってた」
その言葉は、思った以上に真っ直ぐだった。
「中学のときから、好きだったけど。どう考えても無理だろって。
だから……諦めるために、女の子と付き合った」
心臓が大きく鳴る。
――同じだ。
俺も、同じ理由で何も言えなかった。
「再会してさ」
星が、こちらを見つめた。
「香りで気づいたって言われた時、嬉しかった。…怖いくらいに」
苦笑しながら、星は続ける。
「俺だけじゃなかったんだって、そう思えたから」
言葉が、喉で詰まる。だけど、どうしても伝えなきゃいけない気がした。
「俺も」
声は小さいけれど、逃げなかった。
「――星のこと、ずっと好きだったっ」
星が、目を見開く。
次の瞬間、ゆっくりと息を吐いた。
「……だよな」
そう言って、少しだけ笑う。
「だったら、余計遠回りしたな…」
二人で並んでベンチに腰掛ける。 肩は触れないけど、距離は近い。
「今すぐどうこう、って話じゃなくていい」
星が言う。
「ただ……こうして会えるのが、嬉しい」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「…俺も」
短く答えると、星は小さく頷いた。
夕方になって、帰り道で別れるとき。改札の前で、星が立ち止まる。
「ひかる」
「なに?」
「……また、会ってくれる?」
その問いに、迷う理由なんてなかった。
「もちろん」
星は安心したように笑って、軽く手を振った。
すれ違いざま、またあの香りがした。
―まだ名前はつけない。
けれど、この香りには、もう意味がある。
これは、諦めるための再会じゃない。
――やっと、始まっただけだ。
――END――
華恋_karen