今は昔、祠と参道在りけり
編集者:Across
「ほら、神様って、
暇が取り柄みたいなものだからさ」
ビルとビルの間、風の通り道のように狭い薄暗い裏通り。そこに古びた祠が隠されている。
その小さな祠に、棄てられた日本人形の「ぼく」が巫女のように佇み、時々風の神様「彼」が暇つぶしに来てはぼくと無駄話をして去っていく。
ぼくは、いつもその忘れられた祠を参拝する彼に振り回されてばかりいるのだが、ある日、ぼくたちを邪魔する者が現れた。
すでに忘れてしまったはずなのに。自分勝手で傲慢な「人々」という魔の手が、ぼくたちの仲を引き裂こうと目論む!
※ 現在のあらすじです。
公開時には変わる可能性があります。
※ 主が書き終わり次第、順次連載が始まります。全文字数は約80,000文字となります。
2023.2.19 追記
上巻・下巻(一気読み版)を追加。
エピローグまで掲載終了
2023.3.6 追記
連載版 投稿完了
「本当のエピローグ」まで掲載完了
2023.3.23 追記
後日談兼設定集を追加
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目次
本シリーズの読み方について
※20230805追記
シリーズまとめ読み機能が追加されたため、一気読み版は非公開となりました。
(一気読み版はシリーズまとめ読み機能が追加される以前のものです)
拙作『今は昔、祠と参道在りけり』(以下『今は昔~』)は、長編小説となっております。
長編小説(約80,000文字)なので、掲載方法は二つ用意しています。
掲載方法
・一気読み版(上巻・下巻)
※20230805追記
現在一気読み版は非公開となります。
・分割連載版(~2023.3.8までに掲載完了予定)
掲載内容は同じです。違うのは掲載される文字数だけです。
例として、上巻・下巻掲載分は約44,000文字。
分割連載版の文字数は平均して2,500文字~3,000文字ほどとなります。
ストーリーは同じです。
どちらか一方で大丈夫ですので、お好みに合わせお読みください。
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なお、本ストーリーとは別に付録部分が用意されています。
付録部分
・本当のエピローグ(分割連載版掲載後すぐ)
・後日談(3月下旬)
現在(2023.3.4時点)一気読み版は「本当のエピローグ」が掲載されていませんが、連載版が追い付いた時点で、そちらにURLを貼り付ける予定でいます。
読みたい方と読みたくない方との選択的差別化を図っています。
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春頃にはこの小説『今は昔~』のプロットのようなものを公開したいと思っています。
小説書きたいけどどう書いたらいいか分からない、書けるけど途中でエタッてしまう
……みたいな方は、こっそり参考にしていただければいいかなと思います。
1 道
『今は昔、祠と参道在りけり』
の第1話です。
二つの駅ビルに挟まれるように存在する、一本の狭く暗い通り道がある。
駅に向かう狭い狭い通り道。薄汚れた路地裏を想像するといい。光が届かないくらやみ道。歩行者同士がなんとかすれ違えるけど自転車同士だと厳しい。一台分でも難しい。幅は一メートルほどしかない、窮屈感でいっぱいの、駅への抜け道として使われる道。
都会ほどでもないけれど、この駅の周辺……駅ビルは所せましに立ち並んでいる。この道を見下ろすように、ビル同士が喧嘩して土地の奪い合いでもしているように。
だから、新旧の建物――古くさいビルと新しくできた建物の隙間に、こんな細道ができてしまうのだ。
道は、南の交差点と北にある駅を結んでいる。横に並んだ駅ビルを縦に貫いて、朝の人間たちはこの一本道を南から北に突っ切っていく。駅を目指して気ぜわしく通り過ぎていく。周りなんて見る様子もない。
でも、そんな道でも。薄暗くて、黴臭くて、人気のない裏路地でも。
その途中にさらに暗い、建物と建物の間の真っ暗な空間がある。猫くらいしか入れない狭さで、大人はさすがに入れない。子供なら入れるかもしれないが……相当な勇気が試される。
小さな小石が敷かれた暗い隙間。勇気を出してその狭き道に足を踏み入れてみよう。身体を横にして、ずりずりと壁と服を擦らせて……。しばらく歩き進めると、澱んだ空気は徐々に薄くなって、ひっそりとしてきて、神秘的空気が生まれてきて――そこに。
長方形型に少しひらけた、廃れた公園の広場のような所に出ることができる。小さな祠が祀られている。
古色蒼然とした祠と、そこに通ずるための砂利道、そして狭い路地。入り口は狭く、無いに等しいが、もともとあの隙間は祠へと向かう参道だったのだ。
緑色に苔むした砂利道に隠れて飛び石のように点々と、白い石畳の一部が見え隠れしている。砂利道から植物の|蔓《つる》が延び、ビルの壁面に緑のひび割れを起こしながら這っている。
空間の奥。石でできた灯籠のない台の上、そこに木組みの祠がある。五十センチ四方の大きさで、木で組み立ててできた祠。神社の|社《やしろ》をそのまま小さくした立体模型のような。
小さくとも切妻屋根を備え、障子の戸はちょうど人の首元の高さにある。参拝客がぺこりと頭を下げた先にあるよう設計されている。
祠の前には小規模ながら、ちょっとした白い鳥居まである。
『ぼく』は、その祠の前、白い鳥居の下に立っている。薄暗いメイン通りに隠されたこの場所、この空間はとても好きだ。誰も来れない、音すらも来ないほどに静かで、ぼくしか知らない隠れ場のようで。そこから一歩も動くことなく、祠を背にして立って一望を収めたくなる。
その願いが神様に筒抜けだったのか、すでに叶えられてここにいる。この場所にうるさい人間たちは来れない。だから今も一人も人間はいない。
だから、『ぼく』は人間じゃない。現に自分の背は十センチくらいしかない。だから、小さい祠の前の『鳥居の下』に立つことができるのだ。
人間じゃなくて人形――誰かに棄てられ、意志を持つ。だから、ぼくはここにいる。
2 雨
『今は昔、~』の第2話です。
ぽつぽつと雨が降ってきた。
ぼくは、雨は嫌いだ。ほんのちょっと、だけど。
この場所には雨模様より晴れ模様のほうがとても『似合う』と思うから。
天井という天井はないはずなのに、光があまり当たらない。建物同士が迫って上部の空間が|窄《すぼ》まっているからか、差し込む光はすべて白い光の筋として下に降り注いでくる。
建物のほんの少しの隙間から、光が差し、祠や空間にちょっとした明るさをもたらす。棄てられた人形とさびれた祠、苔むした参道というわずかしかない空間的デザイン。人々に忘れ去られたここが、幻想的な庭のような気分にさせてくれる。
小さな|箒《ほうき》でも持っていれば、ぼくはさながら〝鳥居の前にいる巫女〟なのだろう。ちょうどぼくの〝人形としての性別〟も女なわけだし。
でも、今日は雨だ。光はまったく差し込まず、とても暗い。薄暗い空気がこもってせき止められている。
本来光が入る隙間からは、外で滞留している湿気が絶えず流入をおこしている。
ややもすると、雨の気配はするすると強くなってきて、本降りになってきた。
ぼくにかけられた日本様式の衣服にも湿り気が感じられるほか、小さな水滴がくっついていた。空気中の水蒸気が水滴になる温度だ。それほど、冷たい気配が垂れ込める。
雨に引き続き、風が流入してきた。俗にいう、すきま風という奴だ。
すきま風は建物の隙間をびょおっと音を立てて通って、ちょっとしかない空間のど真ん中、苔むした参道をあっという間に通り過ぎ、あちらの出口――といっても入り口同様とても狭いけど――に吸い込まれてしまう。
ぼくがいる祠は、その風の通り道を邪魔しない、参道のすぐ脇にあるから、いくら風が強くなってもぼくはなんとか倒れないですむ。風の力はがんがん感じるけれど。
……。
時間が経過すればするほど上は暗く、しめった空気の層は水蒸気から立ちのぼる湯気として可視化していく。
そうして色は白く、濃くなって霧の中にいるようになった。濃霧と言ってもいい位に、ここに籠っている。もちろん、その霧はとても冷たい。
でも、不思議な光景だ。風が鳴る音が絶えず聞こえてくるのに、その白い霧たちは流れていかず、ぼくの前にいる。魂でも宿っているかのように、参拝客のように。じっと、凄まじい風に流されていかず、祠の前に溜まっている。祠の前に『霧は』集っている。
≪……やあ≫
そんな霧のなかから、声が聞こえてきた。その霧に向かってぼくは同じく、「やあ」と返した。
≪――お。今回はちゃんと『言葉のキャッチボール』ができたじゃないか。褒めてあげようか?≫
「そんなの要らないよ」
≪そんなこと言わずにさ、最近俺が来れなくて、寂しかったでしょ? 待ちくたびれたでしょ?≫
「なわけ」
≪あはは。相変わらず、おまえは愛想のないやつだな≫
「そんなの、ぼくに話しかけたときから分かってるくせに」
≪だな≫
彼が≪やあ≫と言えば、ぼくは「やあ」と返す。
それがぼくらが会話を始める合図になる。
風鳴る霧のなか、|人形《ぼく》と|霧《かれ》はくだらない|会話《日常》を始めた。
3 風
『今は昔、~』の第3話です。
いつからこんな関係になったのだろう、霧のなかにいるとされる〝彼〟との会話は突然始まった。
その日はそう……、
……今と同じく雨が降り、しきりに、びょう、という風鳴が絶えない日のこと。
≪やあ≫
突然垂れ込めた霧のなかから、そんな声が聞こえてきた。普段は黙っているのに驚いて、
「……え?」
と素で言ってしまった。
≪「え?」じゃないよ、俺は≪やあ≫と言ってるんだから、そっちも「やあ」で返さないと≫
霧のなかから再びいってくるので、空耳ではなさそうだ。ぼくは訝しめな目をして「や、やあ」と返した。どこからともなく聞こえてきた声で、喜んでいる様子だった。
≪そうそう、それそれ。いいよ。初対面における、言葉のキャッチボールは大事だからね≫
何のつもりなんだろう……。ぼくは目の前にいるらしい霧の塊、そのなかにいるとされる見えない〝彼〟に目を凝らしてみる。
≪ああ、注意深く見ても意味ないよ。俺に実体なんてないからね≫
「……『実体』がない?」
≪そう。俺、透明人間みたいなもんだから。それより、君。いつまでもそこに留まっているつもりなら、暇つぶしに俺としゃべってくれよ≫
「それ、ぼくのことを言ってるの?」
ぼくは聞いた。なんせぼくはただの人形だからだ。満足に動くことができない。表情筋も木目に吸収され固着気味なのでポーカーフェイスだ。
だから、ぼくではないと思った。他にもいる、ネズミやらドブネズミやらゴキ○リなんかに問いかけたんだと思っていた。
けれど違った。霧のごとく読めない彼は呆れ声気味に返す。
≪君以外に誰がいるのやら。ほら、酒ひっかける感じでさ、一つ面白い話でもしてみなって≫
「ぼくはこの通り、ただの人形だよ。面白い話なんて呟けるわけがない」
≪『ただの人形』なら、何も語らないはずだろう。この時点で論破されてるぞ≫
「むぐぐ……。たしかに」
≪ね? だから、君はただの人形じゃない。この時点で〝面白い〟じゃないか。
どこかしら意志があるはずなんだろ? 本当は自分がしゃべれるって。それが本能的にわかってる。
その辺にいる人間たちより君は面白いと断言してあげるよ。「無言フォロー失礼します」っていうくらいの人間より、コミュ障なわけじゃなさそうだしさ≫
「何のことを言ってるか分からないけど、ぼくはそこまでの器じゃないよ」
≪そんなこと言わずに、話そうよ、テーマは何でもいいからさ≫
ずいぶんと性格が飄々としている。風なだけに。
「そっちが話したんだから、そっちが決めてくれないか」
≪うーん。それもそうだな。じゃあ、『君の前世は人間っぽそう』とかどうだい? 興味があるだろう?≫
「……人間?」
突拍子もない発言だった。「どうして?」
そう聞くと、姿が見えないはずなのに、その場であぐらでもかいているような面倒くさそうな声で返答してきた。
≪うーん、どうしてかぁ。そういわれると困っちゃうなぁ≫
「なんとなくってこと?」
≪そう、なんとなく。いち神様の直感ということで許してほしいかな≫
「……カミ? 君は神様なんだ」
≪ざっくりいうとそういうことになるね≫
「へぇ」
≪リアクション薄いな~。まあ、知ってたけど≫
「なんでここに来たの」
≪ほら、神様って暇が取り柄みたいなものだからさ≫
何が「ほら」なんだよ……
そうして紆余曲折しながら夜は過ぎ、なんやかんやで日付が変わる頃には別の話題になり、朝になった。すると、
≪あ、やべ。話過ぎた。雨やみそうじゃん≫
とか言って、そうそうに去っていった。彼が去ると途端に天気はよくなり、なんだか雨が止むまでしゃべっていたかっただけなのでは?――という疑問が生じた。
さっきの、彼との会話を寄せ集めてみた。
寄せ集めれば寄せ集めるほど、脱線ばかりはぐらかされるばかりと本当にくだらない中身だが、それでもまとめるとこうなるだろうか。
彼は神様の一種であり、風を司りし神様。風となって世界一周旅行でもするように吹いていて、早い話が自然の一部なのだそう。
ただ、吹いているだけなので、ふらりとこちらに立ち寄ってきては、祠の付近にあるこのすぼまりにとどまりたくなるのだといった。
これだけだ。ほんとうに内容が薄い……。
最初の顔合わせから三日ほどが経ち、彼は再び来た。やはり彼が来る前は絶対天気は雨になる。雨男ならぬ「雨風」なのだろうか。
風は一方方向にしか吹かないはずだ。世界一周するのが早すぎないか? と言ってみると、
≪俺は北半球担当だし、それも太平洋辺りを吹いてればいいし≫
と、なんだかよく分からないことを言った。俺は俗にいう『支店勤務』だから、とも付け加えられた。分からなさが増えた。
それでも彼は風なのだから、いろんな所を旅している。故にいろんなことを知っているはずだ。
ぼくは『ぼく自身』について聞いてみた。最初ほど脱線せずに、こんな情報をいただけた。
ぼくを形どっている人形は、いわゆる「日本人形」と呼ばれるものだ。ついでにこの地は日本だとも。
日本人形とは、人形でいえばオーソドックスな類のものだ。よくひな祭りなんかでお目にかかる、いろんな色が使われた着物と呼ばれる衣服をまとい、階段状になった台の上で、ショーウィンドウ越しに立ち姿を見せる。
人間たちの反応は様々だ。子供にとっては憧れのまなざしを向けるが、大人たちにはどうだろう? お金がかかるので〝この辺〟にいる人たちには到底買えないような値段だ、とも言ってのけた。
でも、今の自分を見ても、それとは似つかないものだった。たしかに着物は来ているけれど、晴れやかなものは着ておらず、泥沼に落ちたかのように黒っぽくて埃っぽい。
どう見ても真逆をいっている。ショーウィンドウに飾られるなんてとんでもない。だからぼくは棄てられたんだろうとやっぱり考え直す。
ただ、「ひな人形」や「日本」などといった単語を聞いて、どこか聞いたことがある馴染み深い単語だと思った。そういうと、ぼくの前世は人間、それも日本人ではないか、と彼は言った。
そして、ぼくが考え込む姿が面白かったようで、
≪じゃ、一週間後にまた来るから、その時まで考えといてね≫
と立ち去る寸前でそう言い残した。
それから一週間がたち、夕立のようなゲリラ豪雨が来られた。当然彼もこの通り、霧を辺りに撒き散らしながら来たわけだ。
4 神
『今は昔、~』の第4話です。
≪で、考えてくれた?≫
考えてくれた? とは、前に話した、「ぼくの前世」について聞いているのだろう。
「ああ、多分。ぼくは人間で間違いなさそうだね」
≪だろう?≫
霧の中にいるだろう彼は、誇らしげな声色になった。
「まったく、それだけのことを聞きに来るだけなのに、とんだ変人……、いや〝風変わり〟だよ、君は」
≪ありがとう。誉め言葉として受け取っておくよ≫
いや、褒めてないし……
≪でもね、今回はそれだけを聞きにこちらに来たわけじゃないんだ。ちゃんと話すテーマを持ってきてる≫
「へぇ」
≪相変わらずリアクションが薄いねぇ~。まあ知ってるけど≫
最初は彼が言った「ぼくの前世は何か?」。
次はぼくが聞きたかった「ぼく自身について」。
そして今回は彼が話したいこと、それが今回話すテーマになる。
「何を持ってきたの」
≪そりゃもちろん、くだらない話さ≫
言わなくたっていいよ、とは言わずに。
≪今日持ってきたのは二つ。くだらない話とさらにくだらない話の二本立てだよ。どっちがいい?≫
「んじゃ、後者から攻めていこうかな」
≪いいのか? 校長先生のようにつまらない話だけど≫
「だから先に消化するんだよ」
≪あら、そう。じゃあ話そうかな≫
そうして彼は結論を先にいった。≪俺は人間が嫌いでね≫、と。
「……え?」
≪ああ、勘違いしてほしくないんだけど、君のことが嫌いだと言ってるわけじゃないんだ。君のことは好きだよ。〝前世〟も含めてね≫
「……どういう意味?」
≪この世界には当然、生物がたくさん住んでいる。人間以外にも、虫や魚、蛙やゴ〇ブリに至るまで、それはそれは沢山の種類の動植物が存在する≫
〇キブリは絶対わざと言っただろうな、と思った。
≪当然、人間にも複数の種類、人種が存在する。そして時間軸――過去・現在・未来とかを含めるともっとだ。
俺はどちらかというとね、今より昔の方が、人間の印象がいいんだよ。最初に言った通り、俺は神様の一種さ。風を司る神様と、人間側には思われている。でも、正確に言えば俺は〝自然〟そのものなのさ。
かつての人間たちはその自然とともに生きていた。それは今より自然を愛していたから――というと歯がゆくなるなぁ。正確には自然を|畏怖《いふ》していただけなのだろう≫
「畏怖? 恐れていたってこと?」
そう、と彼は言った。
≪けれど今の人たちは自然を軽視し、逆に操ろう、利用しようとしているだろ。太陽光がうんたら、風力発電がどうたら。でも、それは口先だけなんだよね、化石燃料を拠り所にして生活しているんだから。
昔の人間たちは技術の進歩はそこまででもなかったが、頭は良かったよ。嗅覚が優れていると言ってもいいかな、危険察知がとてつもなく上手かった。
昔の人間たちは自分たちが無知であることを素直に受け入れて、俺たち自然を恐怖し、畏怖することで崇めていた。これが俗にいう自然信仰の始まりさ≫
「自然信仰として崇められて、どうしたの?」
彼は気のないふうに言っただけだ。
≪別に? どうもしないよ。今まで通りに接したさ。
地を揺らして建物を倒壊させたり、高波を発生させて湾岸地区を水没させたり。台風なんかもそうだなぁ、あれらも季節的にこのくらいに行こうぜ、と裏で画策しといて二・三個の台風一家連れて本州に沿って進むんだぜ。どうよこれ、新手のいじめだと思うよ。
昔はもっと酷かったけどね。二か月も雨が降らず干ばつにあえいで俺たちを力を頼り、一晩中祈られたりした。けど、その時でも本当にどうもしなかったね。
祈り? 無視だよ無視≫
「どうしてそんな非道なことを」
彼はそっけなく答えた。
≪だって、見返りを求めてやってるわけじゃないだろ? 昔の彼らが俺らを崇めた本来の目的は、『自然を畏怖したから』なんだ。
自然に恐怖したから崇めている。それを見て、ああ、君ら夜通し祈り続けたんだね。こんな行儀よく『同族の生け贄』を侍らせちゃって。よしよし、じゃあご褒美に……って力を弱めたら想像できるでしょ。パブロフの犬みたいになるわけよ。生け贄を出したら自然さまは許してくれるって間違ったことを学んでしまう。昔の人たちはそんな程度の低い人たちじゃない≫
ぼくは昔の人として反発したくなった。
「でもさ、現にそういう文化が根付いていたところもあったじゃん。なんだっけ、メソポタミアだったかアステカだったか。あれはどうなのさ。幼い子供の心臓を生きたままえぐり出して、天に掲げてなんとやらって」
≪それが程度の低い人間たちってことなのさ。ね、俺たちよりも|非道《・・》でしょ? 生きたままそれをやって、みたいなこと、やらないどころか思いつかないよ俺ら。しかも同じ身体をした『同族』相手に……ってのも。
あそこは自然信仰云々の話で完結しないからね。そこに宗教という人間にとってとても都合の良い、超どうでもいい作り話が出てくるから。自然と宗教をごっちゃにしないでいただきたいね、がんじがらめになって糸こんにゃく喰ってるようになる≫
「例えば?」
≪よく人間たちの世界で神様が出てくるわけだが、そこに〝悪神〟とか〝善神〟とかっていうだろう? 悪いことを企み悪いことをする神様と、慈悲にあふれて善い行いをする者たちを救済する神様……あれが出てくるんだよ。
はっきり言うよ、俺ら自然はね、神なんかじゃなくて平等なのさ。平等に人間を含む生物たちに恵みを与え、平等に災害を|被《こうむ》らせてあげる。それだけの話なんだ。だから、善い人間にだけこうしてあげるけど悪い人間たちは救ってあげないだなんて、回りくどいことやったことはない。それを人間たちがどう受け取ってるか、そのくらいなのさ。
俺たちにとって人間たちはどうでもいいんだよ。自然信仰だなんてしてくれていいんだけど、見返りを求めて崇めるのであればそれは違うよね。
『一夜中祈ったのだから雨を降らしてくれ』だとか筋違いなのさ。もしそれで雨が降ったら俺たちが〝善神〟で、雨が降らなかったら〝悪神〟なのか? そんな夢みたいな都合の良いストーリー、あるわけないでしょ。自然は自然のまま。今に至るまで何も変わってないんだよ。
本当に昔の人たちはそれが分かってて、危険察知という嗅覚が鋭かった。だから独自の文化が根付いて発展していったんだ。生け贄文化で踏みとどまったままのところは普通に滅んでるでしょ。生け贄を並べたって雨が降らない所は降らないんだよ。あそこは砂漠地帯みたいなものだからね、砂漠は砂漠のままだ。
今の人たちも、その見返りを求めてきてるっていうのが嫌いなんだよね≫
なんだか壮大な話になってきていて分かりづらい話になっていたが、ようやく今の人間たちにシフトしてきた。
要するにこういうことなのだろう、ぼくの前世は『昔の人間』由来だから好き。でも今の人たちは嫌い。
たぶん、それだけなんじゃないのかな。
≪俺としてはね、彼らには自然は無知であると同時に〝無力〟であることを知ってほしいのさ。自然に対して無知。自然に対して無力。無力だから自然を支配しようだなんてできっこないし、人間下に、勢力下に入れて、さも|人間《わたしたち》が頂点であると考えちゃうのは、度し難き|驕《おご》った考え方だと。
それにね、人間っていう生き物は都合の悪い記憶は忘れようとするものなんだよ。ごく簡単に、目に入らなくなった過去の事物は抹消しようとする。ほとんど、ね。
戦争真っ只中の時は、この悲惨な状況、後世に永劫伝えてみせる!――だなんて息巻いちゃったりするんだけど、途端に平和になると、
「過去の汚いことは一切合切水に流して、俺たちとともに未来に目を向けて歩き出そうじゃないか」
とか言って。忘れよう、忘れようとしてしまう。
そう、この祠のように、忘れ去られてしまうのさ……≫
霧の集合体は、薄暗い空を指さすように伸ばし、縦に長くなってくる。
祠がある空間にしみわたるように広がっていった。
5 祠
第5話です。
≪ところでこの祠って、何のために建てられたんだと思う?≫
ぼくは雲のように浮かび上がる霧に呆けていた。彼の質問は沈黙に投げかけられ、当然沈黙として返ってくる。彼は気にしなかった。
≪この祠はね、奈良時代あたりまで遡るのさ。それこそ聖武天皇が奈良に大仏を建て始めた時にまで。
なぜ大仏なんか建て始めたのかっていうと、やっぱり神頼みなわけ。日照りが続いて飢饉が世に広まり始めて栄養失調状態になり、今でいうウィルスがはびこり始めてって。それで善神とやらに頼ろうとしていたのさ。
当時のここも、それはそれは大飢饉に陥ってね。今とは似つかわしくもない田んぼだらけの田舎だったから、雨が降らなくなってあえいでいたのさ。同時に風害っていう奴も。家が倒壊したり、稲が倒れて水に浸かって黴が生えたり……まあ、これは俺が来ちゃったせいっていうのもあるんだけど。
まさにバッドエンドにバッドエンドがサンドイッチしてしまった感じだね。人間たちにとって、俺はまさしく〝悪神〟だったのさ≫
「つまり……この祠は、善神のために建てられた?」
≪そう。いわゆる土地神……この地の守り神を祀った祠だよ≫
その先は本当に昔話のようなものになっていく。
〝悪神〟であるさすらいの彼は、人々を救おうと奮闘する〝善神〟であるこの地の守り神と知り合った。
〝悪神〟と〝善神〟。
彼が寄れば土地は荒れ果て、家は倒壊する。しかし恵みの雨とともにやってくるからか、守り神は彼のことを気に入った。いいよ、好きなだけくつろいでくれ。壊れた家なんて気にしなくたっていい、また立て直せばいいのさと言って、むりやり言いくるめて、祠の前で夜通し語り合ったこともあったのだとか。
しかし――。時は過ぎ、街は発展していって田んぼ道に線路が敷かれ、電車が走るようになるとこの地の人々は都会暮らしを夢見始めた。人の出入りは出る方が優勢で、入る方は劣勢で。次第に過疎化し始め、自然信仰は薄れていき、土地だけが余っていく。すると今度はその余った土地を求めてニュータウン計画とやらが出てきた。人を集めるため、まずは駅周辺でも開拓しよう。そうなると――この古びた祠がとても邪魔だ。
人間たちはこの祠を取り壊そうとした。
≪この祠が建てられたきっかけは、守り神が雨を降らせたからだと言われている。日照りで田んぼの水が無くなって、今か今かという存亡の機だった矢先に、嵐とともに恵みの雨が降ってきた……どうみてもその嵐って俺のことなんだけど、人々はあいつほうに尻尾を向けて喜ぶのさ。手柄をあいつに横取りされた。それがちょっと癪に障ったんで、その後も風害とやらをしにこちらに来るのよ。で、雨が降るのよ。人々は喜んで、またしてもあいつに横取りされる。昔はその繰り返しだった。
まあ、とはいえ。俺が滞在できる時間はほんの一瞬だけだ。それ以外のこと、例えば作物の管理や土壌に関してはあいつの手柄だし。俺が良く来るようになるにつれて風に強い、耐風性の強い作物が生まれだしたのも、あいつのせいだろうな≫
しかし、時がたつと自然信仰に終止符を打たなくてはいけなかったらしい。
≪守り神は〝善神〟、人間側の味方だったからね、祠が取り壊されると知ると、すぐに諦めようとしたのさ。で、俺は〝悪神〟、人間たちの敵だから。祠を壊そうとするだなんて行為、とてもじゃないけど許せなかった。
無理にでも邪魔をしたんだ。人間っていうのは弱っこいからね。で、人間たちを追い払ったら、祠に手を付けず、苦慮した結果、こんな区画になった≫
この祠にたどり着くためには、メインの薄暗い道の途中にある、とても狭い道を通らなければならない。参拝客が来るための幅なんて設けられていないのは、その時点でもう祠としての役目が全く機能していなかったからだろう。
ここに残された空間は、あえて残した。いや、残さざるを得なかった。彼の策略により人間たちは『怨念が取り憑いている祠』として泣く泣く土地を手放し、取り壊されずに済んだ。それは、ぼくにとって感謝したいと思ってしまう。
けど、
「その後、守り神は」
≪しゃべらなくなったね≫
彼は気にしてなさそうに言った。「そう……」
ぼくは人形だというのに、すこし感情が沈んでしまった。
≪――んん? ああ、別に悲しまなくたっていいんだよ。どうせどっかに出かけてるだけだって≫
「出かけてる? 土地神って出かけることなんてあるの」
≪あるでしょ、そりゃ≫
彼はひょうきんに言った。
≪前世の君だって人間だったわけだろ。ション便のためにちょいと席を外すじゃん。それと同じさ。土地神っていう呼び名も人間たちが勝手につけた名だし。
あいつ、昔からちょくちょく出かけるんだよね。言っとくけど、俺が頻繁に来てるのもそれが原因だから。わざわざ来ても、居ないことの方が多いんだよ≫
「なんだ。守り神が消えちゃったわけじゃないんだね」
≪なわけ。それに、神様が消えても人間は特に困らないしな。必要なら〝新たな神〟を信仰すればいいわけだし≫
「それ、君はいいわけなの?」
≪なにが?≫
「ここの、守り神がいなくなっても」
≪……≫
ちょっとした沈黙。
≪もしかしてだけど、心配されてる?
言っとくけど俺、友達多い方だから。『君と違って』≫
★
じゃ、そろそろお|暇《いとま》するね、と霧は徐々に薄くなろうとしていた。
「あっと、ちょっと待ってよ」
騒音並みに成長したびょうっという風音が徐々に小さくなって離れていこうとするから、ぼくは念のため聞いておくことにした。
忘れていそうだから、念のため。
≪何? 俺、この後群馬行かなきゃいけないんだけど……あ、もしかして≫
「行かないよ。それじゃないって。
話す前に、言ったでしょ? 『くだらない話とさらにくだらない話の二本立て』って。もう一つは何なの?」
≪――ああ! そうだったね。君、サプライズされるの好きなタイプ?≫
質問したら逆質問された。きれいな逆質問。
で……、「サプライズ?」
≪そう、女の子ってサプライズが好きなんだろう?≫
「いや、ぼく……中身男だから」
≪あっそ、中身はつまんねーんだな≫
『つまんねーな』は言わなくてもよね。
『中身は』も余計なんだよね。
≪そんな目をするなよ。あー、はいはい。じゃあくだらない話――明日の天気を言ってあげよう。明日の天気は一日中雨になるでしょう。
そして、周辺は洪水になる予報だよー≫
「――は? 何、洪ず」
≪ということで、よろしくー≫
それを言うと風は止む。
翌日、その言葉は現実のものとなった。
6 水
第4話です。
……やばくないか、この量。
と思った回数は、ダントツで今日だと思う。
目の前の光景はありふれた天気だ。
空から雨、上から雨、滴り落ちる雨……。雨、雨、雨。
無数の雨粒が縦に引き延ばされて矢のように突き刺している。粒が地面に到達し、着弾するや、細長い針のような形は吸収されて水たまりに。波紋状に広がろうとするが、すぐさま別の雨粒が着弾し、波紋は次々と崩れ去って水たまりの奥に消失していった。
それが無数に続けられていって、水たまりは徐々に厚みのある水かさとなり、その量は着実に増えている。水かさは、単なる水たまりからチラホラとある湿原のなかの湖になり、それらの距離が短くなって短くなって……ひとつに統合されて。やがて。
厚い石畳を覆い隠すほどの雨量で、大体十センチといったところか。
けれども、このありふれた雨の具合が、そろそろ稀有な現象になるのは時間の問題なんだろう。
だって、見えないんだもん。石畳を覆い隠すほどの量……、この比喩は間違いじゃない。
ふつうここから見えるはずなんだよな、石畳って白いんだから。でも、見えない。ほんの数分前には見えていたはずなのに。かさは十五センチ、二十センチと増えていく。
ここに地終わり海始まる、という感じ。黒々とした汚らしい海が広がろうとしている……
いやだなぁ。
この水、めっちゃくちゃに黒いよ。すっげー濁ってるよ。
駅ビル同士の隙間って人が入らないからちゃんと清掃できないんだろう、だからこんなに汚い水になるのかな。
色合い的に泥水じゃないんだよね。『まっくろ』なんだよね。長年溜まった埃だったり、巻き上げられた排気ガスだったり、砂や泥だったり。それでこんなヘドロが地べたを這いずり回ってるんだ。
しかし今までにないタイプの雨。朝から夜にかけて、間断なく、本当に間断なく雨が降り続けている。
なのに、風は全くなく、すべて雨音だけで占めている。本当に『雨』の独壇場だ。
「ああ。雨、早く止まないかな」
こうやってぼくがつぶやいてみせても、何も返答は返ってこない。今は無風状態だから、彼はしゃべらないのだろう。ここから去ってとっくにいない。現に昨日、いっぱいしゃべってたし。群馬に行かなきゃとか言ってたし。
そう考えていると、黒々とした海面に変化があった。ぼくにとっては死活問題となる危険なものだ。
黒い泥水の量が上に上に……、一気に加速したのだ。これは雨量が増したのではない、どこかしら水の溜まったタンクに穴をあけたような、水道の蛇口をふたひねりしたような、加速器が付いて急発進でもしたかのような。そんな速さになった。
雨の滴る音の合間に、別の音が聞こえてくる。車かバスが出す走行音とかクラクションとか、そういうものじゃない。ロボットのようにカタコトの、女性の声。これは……避難勧告?
「川」「危険水位」「氾濫した可能性」……雨音で地表を打ち鳴らしているなか、機械の声はかすれ気味で反響してしまっている。けれども、何度もそれらの言葉を繰り返しているから、雨の日のリスニングテストに合格した。
そういえば、去り際にこんなことを言っていたな。『洪水』が起きるぞって。
ということは、だ。……おい。ちょっと待てよ。このままだとやばくないか?
どうすればいいのか分からず途方に暮れて、見上げたくなる。たぶん空は暗くなっていて、その色は曇り空なのか、もともとの薄汚れた建物の壁で遮られた景色なのか分からなくなっていることだろう。晴れていれば見上げなくてもわかるのに。
彼は自然の一部であり、神様……つまり、風の化身だと言っていた。
とすれば、この雨も、別の神様がいるのではないか。そんなことを思ってしまう。
「……」
気の迷いでちょっとつぶやいてしまう。「……やあ」
すると、≪やあ≫と返ってくる……だなんてことはなかった。反応なし。真剣に考えてみれば当たり前だ。当たり前だったのに、いやにショックが大きい。
「雨の神様だなんて、いないよなぁー」
神様って喋らないだろ普通。饒舌とかもっての外。
あいつが奇妙なだけなんだ、と結論づけた。
しかし、この雨は異常だ。近くの川が決壊するだなんてこと、そうそうあるものじゃない。
ぼくがいる場所すれすれの位置で、奇跡的に止まってくれているが、何かに憤慨したようにやんでくれない。『ヤンデレ』状態だ。
これ以上降るとなるとぼくはなすすべもなく流されてしまう。箱型である祠もまた、ぷかぷかと浮いて流されるだろう。祠が流されればぼくも流される。祠とは一蓮托生なのだが。
ああ、この水、顔に漬けたくねー。浮かびたくねー。そういえば、ぼくの身体って水に浮かぶのかなあ。
ぼくはひな人形なので、本体は|桐《きり》と呼ばれる木でできている……らしい。そう彼が言っていた。
木は水に浮かぶ印象を持つのだが、目の前は泥水だぞ? 果たしてこの身体にもそれが適用されるのだろうか。
……そうでなかったとしたら?
そう思うと、どうしようもない絶望感が背中にのしかかってきた。
万事休す、どうすればいいんだ。これ以上、黒い粒まみれの衣服がさらに汚れるのは勘弁願いたい。喪服着てるわけじゃないんだぞ、もとは華やかな着物だったんだから、たぶん!
あっ、そういえばぼくは祠の前にいるんだった。彼が言うには、守り神は只今品切れ中……じゃない。どこかに雲隠れしているわけだが、それでも神頼みをしたくなる。
それが、主の居ない祠でも……だ!
今のこの状況は、ねこの手でも借りたい気分なのだ。
早く止んで、早く止んで、早く止んで……
祠の前で、ぼくは一生懸命に祈った。
昔の人たちは、こうして自然と祈ったのだろう。自然の暴威に自然と。このどうしようもない恐怖を心に受け止めながら、自然に感謝し、神様にすがる。
雨の神様。恵みの雨、ありがとうございます。
でも、やりすぎはダメだから。
これ以上やると、ぼく君のこと一生嫌いって断言するから。今すぐ止んでくれたら、ぼくを助けてくれたら、君のこと大好きってことになるから。
だからね、お願い。お願いします。
あと言っておくけどごめんね。ぼく動かない身体だから。鳥居に背中を向けちゃって祈ってるけど、神様なんだから、その辺はそんなに気にしないよね。
最後の方は何を口にしているのか分からなくなってしまったが、ぼくの願いが通ったようだ。みるみるうちに雨の気配が消えていった。かさの増加傾向がなくなり、フラットになった。
上の隙間に見えていた雲が横に流されたようで、しばらくすると光の筋が入ってきた。祠の雰囲気を支配する明暗が、入れ代わり立ち代わりに交代する。
ふー、良かったー。
ぼくは安堵を胸になでおろした。そして思った。
これが〝サプライズ〟だなんて思ってる彼に、忠告の文句を言ってやろう。
彼が来るのは一か月後だと言っていた。一か月、いやに長いけど、まあいいか。
それまでぼくは目の前のヘドロを池に見立て、彼の文句をあげつらっては投げ込んでやったのだ。
7 光
第7話です。
あの洪水から二週間ほどが経った。
なんやかんやでヘドロの水位は徐々に下がりつつある。
元来、光が届かない根暗な性格であるので、一時はどうなるかと思った。例えば、水位がこのまま下がらず、〝黒の海〟に取り残されたままだとしよう。光も少ししか届かず、隙間もヘドロで塞がれて風も吹かない。風が来ないとしたら、彼も来ないわけだ。
唯一の――と言いたくないが――ぼくの話し相手が来ないとしたら、ここは完全に忘れ去られた世界になる。
そのなかで、人形として余生を潰せるわけがない。いくら自分が〝この祠の巫女〟だとしても、限度というものがある。
引っ越そうかな、泳ぎたくないんだけど。
と考えているうちに、だんだんと眼下のヘドロのぬめった感じから水分が抜けて、岩礁を波で削られつつある沖ノ鳥島から、陸の孤島と化した廃病院にて救助を待つサスペンスドラマに雰囲気は変わりつつある。
どちらも絶望に変わりないだって? そんなことはない、後者のほうが救いのある絶望だ。
あと一・二週間ほどの辛抱だ。時が来れば、再び彼がやってくる。
待ちに待ったぼくの前に、とてもうるさく登場するはずだ。救助ヘリみたいな風切り音を辺りに奏でながら、≪やあ、サプライズどうだった?≫と、何食わぬ顔で声を掛けてくるに違いない。
その時に、このどうしようもない乾いたヘドロたちを、あの風でふきとばしてやるよう伝えればいい。
それで、ここは洪水前に元通りだ。
なんだか予約した『おそうじや○舗』を待っているみたいだな、と思うと少しだけぼくは待ち遠しくなってきた。
……と思っていた。
あの〝光〟を見るまでは。
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それは丑三つ時と呼ばれる真夜中でのこと。
最初は気のせいかと思っていたが、多分違う。
何だろう、あの不気味な光は……というのがぼくの抱いた率直な感想。
あの洪水のせいで地面は白から黒へ、色が変わってしまい、夜になると一層暗く、おどろおどろしい雰囲気が漂うようになった。
月ひかりでぼんやりと光る白い石畳と苔むした緑の砂利道。それらが黒色のヘドロに塗れてしまったために、〝丑三つ時〟と呼ばれるにはうってつけの場所になりつつあるな、という感想を抱く。祠の前で佇むぼくの背中はうすら寒くなる。
そこに、あっちの方から光が灯った。岬に立つ灯台が、夜の海を照らすように、遠くの方からこちらに向かって陽光とは違う光の筋を投げかけてくる。
「光が灯った」というのもおかしな表現だ。光源は空におわす月のひかり位なものなのに。
でも、その光は横から、それも右往左往するように振られている。車のワイパーのように、光が生きているかのように。右へ左へ、上へ下へ。でたらめの軌道、無作為に揺られる光の筋。
……何だろう? というのがその時のぼくの感想。
そして、その光は上を下への大騒ぎをして、一気に光の直線がぼくを捉える。
「うっ」
ぼくは眩しくてそう言ってしまったのだが、その時に「うわっ」
と、その白い光が唸ったような声が聞こえた。それから、「あった、ありましたよ!」
と歓喜の小声が暗闇のヘドロに絡まった。
誰だ?――とぼくが思ったのを最後に、その話し声と意思の宿った不気味な光は遠ざかっていく。
その日の出来事は終わった。ぼくは首を傾げた。
二日後の朝。
どうやら、その〝光〟は操作されたものだと知った。光を操作していた者が、ぼくの前に姿を現してきたからだ。
数人の集団が、あの隙間も向こうから声が聞こえてくる。人間たちの声だ、とぼくは思った。それから、なぜ?――という疑問とともに、その声はこちら側に近づいて来るのだった。
8 影
第8話です。
数人の者たちがあの隙間を通ってきて、ぼくの前に躍り出てきた。誰もが奇怪な格好をしている。全身は水色の服装で統一しており、しかし一方、顔の下半分は白い布で隠していて口元は見えない。それらが口々に言いあっている。
「これですか? 〝じゃらくだにさま〟という人形は」
「ああ、だろうな……」
「なんて禍々しい。これが、その……〝じゃらくだにさま〟」
〝じゃらくだにさま〟?
ぼくには聞いたことのない言葉だ。
「泥でよごれた木目込み人形と、煤にまみれたかような着物姿……」
「ああ、|奴《・》が言った通りだ。こうして凝視しているとなんか、背筋がうすら寒くなるな」
「これが原因で、あの洪水が……」
謎の集団はぼくに向けて、なんだかよく分からないことを言っている。
ある者はぼくに背を向けて、ある者はぼくに勇んで近づき。あれか、それか、とぼくに対して指をさし、好奇なまなざしをむけている。
……何? 何なの、この人たち。
少し浮かんだのは、この祠に用がある者たちかな、という考えだ。
安い考えだけど、祈りに来たとか、何らかの供物を捧げに来たとか。あるいは、掃除をしに来たとか。
この祠はずいぶんと汚れている。先の洪水の件もあるし、それ以前に箱型の木材の色は、本来のケヤキの白く澄み切った色からはるかに濁った色あいをしている。茶色く変色して、見るからに木材は脆くて腐ってそうだなぁと近くで見ていてそう思う。
それを見かねて、ようやく掃除をしに来たのだろう、これは工事の人たちなのだ、というのがぼくの直感。
でも、この人たちは祠ではなく、どうやら「ぼく」の方に用があるように見えてきた。
考えてみればそれはそうか。彼はこう話していたじゃないか。この地はすでに祠としての機能はなくなって、人々の記憶から遠ざかって消されてしまったのだと。
忘れ去られた記憶っていうのはそうそう戻るものじゃない。となると、祠には用がないってことになるよな。……となると、ぼくなんだろうけど、勿論初対面だ。何が目的で来たんだろう。
極めつきは、〝じゃらくだにさま〟という呼称。
なんだよ、じゃらくだにさまって。最後の「〜さま」は「様」でいいんだろうけど、その前の〝じゃらくだに〟ってどういう意味?
〝じゃらくだに様〟
この呼び名、どう考えても昔の人が呼んでそうな響きだ。
もしかして、『守り神の名前』? 祠で祀られることになった、人々に利益をもたらした〝善神〟の?
とすると、ここに集まってくる理由はいくらか推測することができるが、そうなると〝じゃらくだに〟『という人形』の言い方が本当によく分からない。
〝じゃらくだに〟が守り神の名前だとすると、人形ってのはなんだ? 人形ってことはぼくのことを指しているんだろうけど。
ああ、もう。そんなじろじろと見ないでくれよ。
ぼくの今の気持ちは状況が把握しきれない違和感と、動物園にある安全な順路から物珍しそうに見られるあの嫌悪感の入り混じった目線を送られていて気分が悪い。誰だこいつら、という気持ちと、なぜいきなり大勢で? という不気味さ。そして顔の下半分が白い布で覆われている奇怪さ。顔にブリーフパンツでも履いてきてるのか?
なんだかこの地の神秘的な雰囲気に土足で踏みにじってきたかのようだ。ここはぼくの場所なんだ。人を寄せ付けない、ある意味では冷たい感じのする場所。それがいいのに――今は。
今は、ぞろぞろと列をなし、今になって何をしに来たんだろう。あの狭い隙間を通ってまで、こちらに来る理由が思いつかない。
今この瞬間だけ、祠としての機能がよみがえったかのようだ。理由は分からない。けれど、突拍子のない出現の仕方、人ごみの復活の仕方。それに言いようのない恐怖を感じさせる。
「しかし、いつからこんなものが……」
「まあそんなのいいだろ。早くカメラを設置しよう」
「はい」
そういって、人々は踵を返し、あの隙間の方へ引き返していく。何だったんだ? 今の……とぼくが思っていると、再び隙間からぞろぞろと人が返り、やがて往復するようになった。
小脇に抱えた小さな棒は、元の長さの三倍、四倍とするする伸びていって、三つの棒を床に突き立てるように広げた。
その上に、さっきの棒よりも小さな、四角く薄べったい物を縦にして、ぼくの方へ向ける。
「そっちはセッティングできたか?」
「できました。赤外線カメラも設置完了です」
「ようし!」
どうやら髭の生えている細長い男性が棟梁、集団のリーダー役のようだ。長いつばのある帽子を揺さぶるように首を動かして、
「いいか、この撮影は長期戦の撮影になる。本部も本腰を入れたとの噂もある。心してかかれ!」
「はい!」
そう言って、男は去っていき、半分仮面のような、白のブリーフパンツ変態たちは持ち場についた。
『カメラ』と呼ばれるものを操り、幾数人を残して隙間のほうに吸い込まれていく。去っていく。
――こいつらの目的とは何なんだろうか?
――そして〝じゃらくだに〟様とは?
ぼくの頭のなかは、よくわからない疑問で一杯になって、ポーカーフェイスの顔をしかめたくなる。
唯一分かるのは、多分この人たちは『ぼく』のことを誤解してるな、ということぐらいだった。
9 飆(つむじかぜ)
第9話です。
そのよく分からない籠城は、日が没した後も続いた。一定時間たつと、『カメラ』の前に陣取る人が入れ代わり立ち代わりと交代し、深夜にまで至り、そして朝に。始める前に『長期戦になる』と言っていたので、有言実行とばかりに数日間も居座っている。
時折、交代の時に、
「どうだ?」
「まだ変化なしです」
という、定例行事をするようになった。どれも落胆の声で「そうか……」と返す。
当たり前だよ……とぼくは突っ込みたくなる。
ほんと、何をしに来たんだ?
そして、なんでぼくを撮ってるんだ?――というのがぼくの率直な感想だった。というか、弁明したい。
ぼくは人形だ。たしかに汚れてる。
もとは黒くて、とてもきれいな着物を着ていたんだと思う。今はこんなにも汚れているけども。
でも、それだけなんだ。動くこともないし、ひとり言をつぶやいているこの会話も、人間たちには聞こえないはず。声も彼らには聞こえないはずだ。
テレパシー的なもので、彼とはしゃべることはできるけれど、いわゆる物を操れたり、浮かばせたり、勝手に音を鳴らしたりみたいな、怪奇現象みたいなこと。そんなこと、ぼくにはできるはずがない。
でも、でもなー。
おそらくぼくの予想だと、この人たちって〝そういうもの〟目当てで撮りに来たんだろうな、というのが分かってきてしまう。
つまり、何といえばいいのやら。〝呪いの人形〟というものを期待しているとでも言えばいいのやら。
あなたは見るからに〝呪いの人形〟だ。
だってドブにつけたような着物を着ているし、人相も悪いと見える。だから何かやってよ、手品みたいなこと。
悪かったな、顔が悪くてよ。
身体が汚くてよ、不潔でよ。
本当に悪かったと思ってるよ、でもできない。できないんだよ、ぼくにはそういうの。
〝呪いの人形〟のような見た目をしてるから、何かやってよ。そういうこと期待する気持ちわかるけどさぁ。その期待、高すぎてできないって。
ほんとうに何にも持っていないの。そういう奇怪な力も、種も仕掛けのない手品なんて。
だから、ね? 退散してくれないかな?
――と、心の中で説教じみた台詞を吐いて時間をつぶしていると、
カタン。
と、何か倒れる音がした。
「あっ……と」
とカメラ番をしている一人が取り乱した。もう一人が心配した声をかける。「何だ?」
「いや、三脚が」
今は深夜。日が暮れた今宵もまたこの地は闇にとらわれている。人間たちは暗闇のなかで動く音がし、倒れた棒――三脚というらしい――を起こした。
直後、こんな疑問を口にする。
「いや、でもおかしくないですか? 勝手に倒れるなんて」
「いや、風かなんかだろ」
「風なんか吹きましたか、今」
「吹いたんじゃねぇの」
すると、今度はあの隙間が鳴り出した。びょう、と風が鳴る、隙間風が。
「ほら、これだよ」
と一人はその隙間を指さして、模範解答を口にする。解説をきいて納得する若い人。
それを静かに見ているぼく。
……。
そういえば、今夜は『その日』だったか?
そう思うと、ぼくは心の中でうんうんと頷かざるを得ない。君たちのことは何も知らなかったが、ある種戦友に思えてくる。不運なことに、棟梁はいない。だから代わりに労いたくなる。
よかったな、君たち。夜遅くまで待ってて。今夜は『大スクープ』が待っているだろう。
ぼくも待っていたよ、なんせ、ぼく専属の『おそうじ屋〇舗』が来てくれたんだから。
「……なんか、風強くなってきましたね」
「ああ」
そうしていると、すきま風はびょう、と再び唸って、その間隔は狭くなっていく。
数秒続いたものが十秒、十五秒、三十秒、分単位に長くなって、風同士が統合した。
この辺り一帯に、強風が一面に|薫《かお》った。三脚はもはや立っていられなくなり、がしゃがしゃと音を立てて崩れてしまう。風音は身を切り裂かんとするほどに長くなり、とうとう断続的に続くようになる。
そうなると、次の段階は……
「え? 霧が……」
「霧……だと? なんで、今夜は晴れで、気温も」
「なんでもいいですよ! これ、ヤバイです! 早く逃げ――」
うん。若い方の男が言っていることは正しい。でも、それを言うのがあと一分遅かった。せめて霧が立ち籠る前だったら……
こうなるともう遅いんだ。〝彼〟はもうここに来ている。この霧が立ち籠めてきたのがその証拠だ。詳しく言えば、あの|隙間《参道》を通って、こちらに来ている最中なのだ。
だから、今更あの隙間に走っても、
「うわ、なんだこれは」
「もしかして塞がれている?」
「そんなわけが……! 木の板で塞がれているわけじゃないんだぞ!」
「で、でも。見えない壁のように、手が、入れられ……うわっ!」
「うわーーーー!」
開口一番の彼は、おなじみの ≪やあ≫ を言わなかった。のんびりあの狭い参道を歩きながらの、言葉。
≪あー、まったく。今日はなんだか〝風通し〟が悪いなぁ。どうしてこんなに遮蔽物が置いてあるんだい?≫
「ずいぶんと呑気な挨拶だね」
ぼくはとても呆れてしまう。目の前の光景は惨状と言っても差し支えないのに。地面にあったはずの『それ』は全く機能していなかった。
嵐が降臨している。唯一の避難場所はぼくのいるところだけだろう。
三脚、カメラ、電気機器。それら三つの要素が空中に投げ出されてしまって、ぐるぐると、円を描くようにして飛んでいる。小さなゴミたちは、たぶん砂ぼこりだろうか。ちょうど乾きつつあったヘドロが風に浮かされ、弄ばれてしまっている。さすがぼく専属の「おそうじや〇舗」。
そして、『彼ら』も浮かされている。『彼ら』もまた、この地ではヘドロ同様、ゴミとして認識されてしまった。
彼らというのはもちろん、『彼』の方ではない。
≪呑気?≫
ぼくは言った。「ほら、後ろだよ。後ろ」
≪後ろ?≫
彼の本体は透明……『実体』がないので、後ろと言われてしまっても分からないのかもしれない。
でも、ぼくから見れば「後ろ」と言いたくなる。霧で隠されていて見づらいが、三脚とともに風に弄ばれている者たちがいる。
≪あ、ごめん。いたんだ君ら。気づかなくってごめんよ≫
と言っただけで彼は何もしなかった。というより若干風の勢いが強まった?
彼はその者たちを放置して、
≪まあ。とりあえず、やあ≫
「やあ……と言いたいとこなんだけど、君に言いたいことがあるよ」
≪ん? なんだい?≫
「この状況、何なんだろうね」
まるで考え事でもするような静かに鳴り響く風の音の時間をとって、
≪んー、今来たばかりの俺に聞かれてもね。どうせ、君がまいた種でしょ?≫
「なわけ。君のせいでしょ?」
≪んー、覚えがないなー≫
多分霧の中で、顎に手を添えて考えているふりでもしていそうだ。
そんな彼に向けて、ぼくは現況を伝えた。
洪水の後、不気味な光の筋に照らされたこと。
その数日後、彼ががやってきたこと。
ぼくを見て、恐ろしがったこと。
そして〝じゃらくだに〟さま。
≪ふーん、〝じゃらくだに〟さま……ね≫
最後の語句を伝えた途端、にやりと風が笑った気がした。
10 形
第10話です。
関東地方のとある地域にこんな|奇譚《きたん》が伝わる。
大昔、天候を操る人形があったらしい――と。
その人形の名は「じゃらくだに」。
古典文献では「|邪羅苦蛇煮《じゃらくだに》」と書く。
「邪羅苦蛇煮」は当て字と見られており、「しゃらく谷」が訛ってこのような呼び名になったらしい。しゃらく谷に住む神様、ということで、しゃらく谷様。
「しゃらく」とは、その地方の方言で「恵み」を意味するのだが、今は使われておらず、歴史書にも地元の文献にも残されていない。ただ怪談話として、端書にてその単語が記されるのみである。
今は無き「しゃらく谷」があったとされる地方は戦国時代まで遡る。当時は「しゃらく谷」ではなく、単に「しゃらく」と呼ばれていたのだが。
その頃の日本は、戦国大名たちが一騎当千とばかりに火花を散らし、全国統一を目指さんとする者たちで命を削り合っていた。そのため、土地の奪い合いで地方や田舎は戦場となり、本来稲穂が実るはずの土地が血の海で飲まれることが多くあった。
しかも、天候が思うように行かず、負の相乗効果で田畑は干ばつにあって田んぼの水は枯れ、食料がなくなった。付近の大規模な戦いなどがあって、他の土地に移り住もうにもできない。農家にとっても戦国時代は逃げようにも逃げ場がなかったのだ。
ある村の長は、自分の広い居室内に全村人を集めた。村の備蓄食料が底をつこうとしている。このままでは冬は越せそうにない。口減らしをしなければならない、と沈痛な思いで言った。
口減らしとは子供の間引きのことをいう。村の中では年端もいかない子供たちもそれなりにいて、身ごもっていた女性は一人いた。村人たちの抗議の声により、女子供は免れたものの、みどり児――赤子はその対象とした。
女性は自分は産みたいと願ったものの、生まれてくる子供の未来を見据え、また、同居していた男性の説得もあり、その年は諦めることになった。その冬は連れ添っていた男性と二人で乗り越えた。
二年後、その女性は奇跡的に授かり、子供を儲けることとなった。だが、それから四年が経った真冬。
この冬もまた厳冬で、六年前よりも更に厳しい寒さになった。村長の命によりまたも口減らしを言い渡され、七つ以下の子供も対象だと、村人たちの抗議にも頑として認めなかった。
しかし、今度こそはという妻の意志もあり、この子だけは、と村長に隠れて育てることを決める。
備蓄食糧の調達はどうすべきか、そんなことを考えていたある日の晩。
夜中、その父親は部屋に響く奇妙な足音に目が覚めた。すると、狐面を頭に付けた、かわいらしい着物の子供が枕元に立っていた。背格好は自分の息子と瓜二つだが、その息子は隣で寝息を立てていた。座敷わらしか、父親は瞬時にそう考えた。
座敷わらしは「大事にしてね」と言って、壁の向こうを指さした。
翌朝、自分の妻も同様の夢を見て、彼女が言うには「これで開けて」と言って、古びた鍵を差しだしたのだという。
座敷わらしが指さした壁に穴をあけると、思いもよらないものがあった。中は空洞となっていて、そこに鎮座するように一つの古びた棚が隠されていた。隠し部屋だった。彼女の持つ鍵を差し入れると、中には美しい日本人形がいた。
片手には黄金の扇子が握られており、後ろにはつまみのような、ゼンマイのような。金属製の部品がついている。からくり人形らしい。
ゼンマイをカチカチと数回回すと人形は黄金の扇子を振り回して舞を踊る。すると、徐々に天気は曇り空になり、雨が降るようになった。
こうして、その地を潤すことになったその人形の噂は瞬く間に村中を駆け巡り、両親たちは、その人形を我が子でも育てるように大事にした。
両親が没し、その息子が老するまで、人形は村に恵みの雨を降らせることになる。そして、その村のご神体として崇められるまでになった。後ろのゼンマイを回すと黄金の扇子の舞を踊り、翌日に恵みの雨を呼ぶ――。
しかし、この話は物語の第一部に過ぎない。
この人形はいわば依代であり、この地方の呼び名「しゃらく」が「しゃらく谷」と呼ばれるようになるのはこれからだった。
それから百年後。舞台は泰平の江戸時代に移る。
その時の徳川将軍は三代、家光が治めていて、いわゆる寛永の大飢饉と呼ばれる災厄が日本中を襲っていたころだった。
この村も例外ではなく、田んぼの水は干上がり、人々の肌は荒れ、食料は底をつき、乾いた木の枝をしゃぶって飢えをしのいでいた。地獄の飢饉だった。
そんな間近に迫る地獄の村の、川を挟んで隣にあった村は対岸の火事ではないと考えていた。その寺の神主の息子である|諸相《しょそう》という坊主は、隣の村の状況を父親に話した。何とかして隣の村人を助けられないものかと思った。
しかし神主である父親の反応は渋い。天命を待つしかない、と切り捨てた。この村も蓄えがあるとはいえ、助けるほど豊かではないのだ、と。まるで見放すかのような背を向け去っていく。
隣の村とこの村は、そこまで離れておらず、一キロほどしか離れていない。山もなく、川を挟んだだけで平坦な地形だった。
にもかかわらず、この村は必ずひと月に一度か二度、まとまった雨が降る。それにより、いくばくかの木の実が実り、なんとか生きながらえることができる。
なぜこちら側に雨が降り、あちら側には雨が降らないのか。まるで、「雨雲がこちらの村を選んでいる」かのように……。
村と村との境界線である干からびた川を見ながら、諸相は疑問に思って、夜になると離れにこもる父親の様子をこっそり見ることにした。
夜、空気さえ寝静まった冷たい離れへ。離れには不用意に近づくな、と父親には厳重に注意されていたので、バレればとんでもなく𠮟られるだろうとドキドキした。無事離れにつき、少しだけ戸を開けると、父親はまさに箱に手を付けようとしていた。
その箱は諸相には知らない代物だった。その箱は何を納めているのか、中に何が入っているのか分からなかった。この寺のご神体が何であるかさえ知らなかった。
息子に覗かれていることを知らない様子で、慎重な手つきで観音扉を開け、中から何かを取り出した。手のひら大の人形だけがそこにあり、それ以外は何も入っていない。まさか、あの人形がご神体なのか?
父親は、その人形を持って箱から離れた。そして奥にある神棚の前に座り、人形の後ろを摘んでは回し、手前にある台の上に乗せる。人形がひとりでに動き始めると、父親は両手を合わせ、拝み続ける。
諸相にとって、よくわからない光景だった。
ご神体であれ、それは単なるからくり人形でしか映らなかった。それに対して、自分の父親が一所懸命に念仏を唱えている。その背は熱心で、人形に囚われているのではと錯覚するほど、不気味なものだった。
翌日、天気は雨になった。局地的な恵みの雨。一方、川を挟んだ隣村は、雲ひとつとしてない晴天だった。
11 騙
第11話です。
あれから――彼と別れてから、一か月が経過した。一か月というのはぼくの目測だけれども。
今のぼくは、暗く見えない牢屋の中にいる。目隠しでもされている感じで何も見えない。だが、この暗闇の牢屋は無期懲役のような無限のモノではなく、有限。
多分そろそろじゃないだろうかと思う。そろそろ、ぼくの『出番』なのではないか、と。ちょっとワクワクする。
先ほどから流れている音がある。
静かなBGMでできた|清冽《せいれつ》な川に文字が流れている。ある地方における、水害などの歴史の変遷を説明している。戦国時代、江戸時代と途端にタイムスリップして、「ぼくについて」を勝手に|捏造し《しゃべっ》てくれている。あまりにも長い。
そりゃ、|戦国時代《はじめ》の方はちゃんと聞いていたよ。だって暇だったから。
口減らしとかで子供をなくなく……うんうん、昔は貧しかったもんな、そりゃ子供だって育てられないよ。東北地方が舞台というのだから、極寒の冬を越すためにはそれくらいのことをしなければいけないのだろう。それでも救われてよかったね。とちょっとだけ心がじんとした。
でも|江戸時代《うしろ》の話はあまり聞いていない。右から左に聞き流してしまう。流しそうめんのように話の内容はするすると流れていってしまう。麺が箸の先に触れずに水の流れに沿って通り過ぎてしまう。
だって、長すぎるし。それに、ラストが読めてしまったから。
この地には洪水が多い。それはなぜなのか、それはですね……〝じゃらくだに〟さまが悪いんですよ。原因は何なのか。それはですね、人形の仕業なんですよ。人形というのは何者か、それはですね……〝じゃらくだに〟さまが憑依した呪いの人形なんですよ。
じゃあその〝じゃらくだに〟さまというのはいったい誰なんです? それはですね……というような、もはや三段論法のほうがふてくされて無理やり付き合わされているような、そんなこすりまくった構成の仕方だった。
〝じゃらくだに〟という架空の神を作りだし、「じゃらくだにがすべての元凶である」、そのことを言いたいだけの説明、拡大解釈、曲解解釈した言葉の羅列、妄言――のようにしか聞こえないのだが、彼らにとってみればそうではなさそうで、昔ならありそうな怪談話。それを新たに一つ、作り出すなんてことは容易いことなのだ。それだけ人間社会は死活問題だということか。
ちなみにこのような盛大な作り話に登場する〝じゃらくだに〟さま、つまりその化身とされている人形は、黄金の扇を持ったからくり人形とされている。もちろんその人形の正体はぼくにしたいようなのだが、まず言いたいのは|ぼくはからくり人形じゃない《・・・・・・・・・・・・・》こと。
うしろにネジが付いて、ねじってやれば舞を披露する……なんてこともなく、ぼくは動かない人形なのだ。
普通のやつなのに、どうやら動いている設定を盛り込みたかったらしい。からくり人形という要素は、人間たちの手によって創り出された設定だ。
だから黄金の扇も持ってない。たしかにぼくは片手に何か持ってるけど、これ、どう見ても木の棒なんですけど。色合い? 泥ですけど。泥のついた木の棒ですが。……何か問題でも?
所詮人間のつくった二次創作の|範疇《はんちゅう》なのである。
いや、二次創作でいいのか? この場合、一次創作はこのぼく自身ということになるんだよね。これでも人形、〝人の手で作られたモノ〟だから。それを基にしてこの|二次創作《ストーリー》が作られた。しっくりこないね。
そんなくだらないことで時間をつぶしていると、牢屋の外から聞こえていたナレーションが消えた。
人間たちが作った渾身の二次創作(?)品である昔話が終ろうとしている様子だった。
抑揚のないナレーションから壮大な音楽が一層奏でて、途端に消えた。人間の声にバトンタッチする。
「……はい。というわけで」
「恐ろしい、逸話……ですね。〝じゃらくだに〟さまというのは」
「まだ、信じられないんですが、こんなのが昔、本当にあったんでしょうか?」
「そうですね――」
コメンテーターらしき人間たちが自分勝手な意見を言い始めると、〝じゃらくだに〟さまがスタンバイ状態に入った。
〝じゃらくだに〟さまが格納された檻――つまり、ぼくのいる地面が揺れた。動いている。からから、と下から軽い音がする。暗い檻ごと動かされているのだ。
コメンテーターの声が徐々に大きくなり始めていた。
「――人形が実際に呪い殺したケースは多くはありませんが、事実存在します。呪術、黒魔術、呪いの人形、禁断の魔法……どれも、本当にこの世に存在するものです」
よく言うよ。
「ぼくが調べてきたもので耳にしたものが、五百年前の木の人形です。これはある湖のほとりの小島にて掘り起こされたもので、地下数十メートルの土中から発見されましたが、中は空洞でして。
使い方としては、そこに殺したい相手の髪の毛を入れて、三日三晩|呪詛《じゅそ》を唱え続ければ、たとえ遠隔地にいても呪い殺すことができるという代物です」
「それは本当なんですか?」
「ええ。歴史書にもその記載が。それに私も現物を見たことがありまして。一見したところ見た目は普通なんですがね、一目見てピンとしましたよ。これは〝実際に使われていた呪物〟だと……」
なわけ。
そんなことを平気で言えるなんて、親の顔が見てみたいわ。というか五百年前だろ? 五百年前というと十五世紀辺り。日本なら戦国時代に当たる。容赦なく人が死んだ時代だ。
そんな時代に遠隔操作で死んだって? なまじ頭がいいからか、よくこんなゲテモノ信じられるな。と、突っ込むのもメンドクサイ。
別のコメンテーターがその話に食いついた。
「件の人形がひな人形だというのも興味深いですね」
「ひな人形が、ですか?」
「毎年三月に行われる、子供の成長を祝うひな祭りですが、その祭典にて使われる|雛《ひな》は、元をたどればみどり子、産まれたばかりの赤子に見立てているのです。
口減らしのために間引かれた赤子はそのまま埋葬されず、川や海に流して処分されたといいます。
桃太郎という昔話がありますよね、どんぶらこと桃が流れてきて、桃を割ると赤子が生まれる。その男の子を桃太郎と名付け鬼を退治しに旅に出る……。なぜ川から桃が流れてくるという奇妙な発想になるのか、その原点はなにかと考えてみると、こうは考えられませんか。
桃は女性のお腹を指していて、臨月間近で亡くなってしまい泣く泣く川に流されてしまった。下流域に住む者が川で洗濯をしていると、流された女性が目に入った。家に持ち帰ってみるとその女性のお腹の中に赤子を見つけ、代わりにその子を育てることにした。
そうやって赤子が人形になり、人形が流し雛になり、流し雛がひな人形になって、現代に伝わるひな祭りの起源となったのです」
「……なるほど」
先ほどの人、結構話されたようだけど。MCの人の「なるほど」のひと言で片づけられてしまったようだ。
「興味深い話ですが、お時間が迫ってきております。では、なんと今回は、その元凶と言われる〝呪いの人形〟がこちらにあるそうで?」
「はい」
一同が、おー、と驚きと期待のこもった声を上げる。まもなく目の前に天変地異を起こしたとされる『本物』を見ることができると待ちかねている様子だった。
一方ぼくは気乗りしない。でも誰かがそれをやらなければいけない。
……キャスターの回るかすかな音が大きくなった。観念して吹っ切れることにした。
あー、はいはい。そうですそうです。自分がその〝呪いの人形〟ですよ。言っとくけどな、この番組すべて〝ヤラセ〟でできてるからな。大ぼら吹いてると恥かくぞ、ほんとに。
「こちらです。この箱に収められているようで」
キャスターが回るかすかな音が止まった。どうせ「?」のついたケースを取り払っていることだろう。その中には古びた箱が入っている。その中にぼくが入っている。
「これはこれは。なんとも物騒な文様の……開けても構いませんか?」
「ええ。こちらに鍵が」
じゃらり、とさび付いた金属の音した。
「これまたなんとも古めかしい鍵で。錆だらけの南京錠ですがこれも本物で?」
「……のようだと文献には」
厳かに鍵の開けられる音が近くで鳴った。隙間から照明器具の光が零れる。
「開けられました。こちらの鍵は五十年相当のものだそうですが、まだまだ健在ですね。では、御開帳のほうを。よろしいですかな」
そうしてぼくは檻の扉が開かれ、光に|迎合《げいごう》する。
扉がゆっくり開き、眩しいな、と感じながら、ああ何してんだろ、ぼく。――と思う。なんでぼくはここにいるんだろう。
ただいまこちらのスタジオでは、心霊番組を収録しております。
12 惑
第12話です。
番組収録がなされる一か月前、丑三つ時の、祠の前にて時は遡る。
≪ふーん、〝じゃらくだに〟さま……ね≫
〝じゃらくだに〟という言葉を耳にすると、彼はまたも一段階強さが増したような気がした。
彼はすべてを知っているはずだ。ここの成り立ちも、オンボロの祠がある理由も。数百年前、数千年前と、人々が死に、失くなりかけている歴史の一片でも、昨日のことのように思い起こすことができる。
実体のない風。だからこそ霧の集合体に〝化けて〟、彼は記憶し、紡ぎ出すことができる。
彼の表情は見えない。でも、どうやら口元をゆがめ、にやりとしている気がした。
≪君が〝じゃらくだに〟……ねぇ?≫
「教えてくれないか?」
昔を懐かしむようにつぶやく彼を見据え、聞いた。ぼくは何も知らないから、彼から聞くしかない。
「〝じゃらくだに〟について」
≪ククク……≫
彼は笑った。
≪――あはは≫
そして笑った。
……ぼくは戸惑った。
≪――あはははは!≫
出来の悪い三題噺よりも速い速度で高笑いを上げる。ぼくは当惑する。そしてヤバイ、と憂苦の感情を覚える。周囲の風の支配領域を拡大する。調節つまみを一気に回した感じと言った方がいいだろうか。
これ以上酷くなると、祠が吹っ飛びそうだ。
「お、おい! なんで笑ってんだよ!」
≪アハハ、そりゃ笑いたくもなるよ。なんだアイツラ、また新たな呼び名を作ったの?
じゃらくだに? アハハっ、何それ。誰のことを言ってんの? ほんとにさー、勘弁してくれって。前の呼び名を忘れたからってコロコロ変えちゃって。言葉遊びかよって。崇めて、捧げて、今度は言葉遊び? プフ……≫
ツボが一周回ったらしい。風の勢いも若干だが少し落ち着いた。ほんの少しだけだけど。
≪はー、面白かった。あ、何? じゃらくだにについて? いいよ、教えても≫
「オイ、今『誰のこと?』って言ってたじゃないか」
≪そう、『誰のこと?』状態だよ。俺も、知識としては今の君と同じくらいさ。
だから教えられる。〝いない〟んだよ、そんな奴≫
頭蓋骨から疑問の針が射出する勢いで噴出する。
どういうことなのか分からない。
≪なんのことか、分からなそうにしてるね≫
「当たり前だろ、なんなんだそれは。人間たちは存在しない神を崇めてるってことなのか?」
≪うん、まあ。大方そういうことになるね。まあ、正確に言えば、そういった神を求めているから、自らの空想上の神〝じゃらくだに〟とやらを作り出さなくてはならなくなった……のほうが近いかもね≫
「はあ?」
≪人間たちにも事情があるってことなんだよ。ああ、俺には手に取るように解るよ。数百キロの深海から有るわけない宝石を見つけるような手腕さ。あの手この手で、猫の手でも神の見えざる手でも使って空想上の神を創出するんだから。
……まあ、話がそれるし無駄話はこのくらいにしておこうかな。それよりも先に、君には伝えなければならないことがあるしね≫
「伝えなければ、ならないこと?」
≪ほら、神様って予言できるでしょ≫
いつかの「ほら」構文を使う。「たしかに、予言はするけどさ……」
≪近いうちに。俺の予想――予言だと、そう……今から二か月以内に、君は燃やされることになる≫
ぼくは素っ頓狂な声を上げた。
「燃やされる?」
≪そう≫
「誰が、誰に?」
≪形あるものいつか壊れる≫
彼は意味深なセリフをぼくに吐いた。
≪知ってる? この言葉。古来から伝わる諸行無常の原則だよ。茶碗を使い続ければ使い続けるほどに壊れやすくなるだろう。新品なら一回落としてもちょっと欠けるだけでびくともしないものなんだけど、使い込んだものを落とすと真っ二つに割れて使い物にならなくなるだろう。これはどうしてかっていうと、時間が経つにつれて形を保てなくなるからなんだよ。
この祠もそうさ。今はまあ、ぎりぎり形を保っているけど、木自体は多分空洞で、おそらくどうにか保っている状態なんだろうね。もう数年もすれば朽ちて、ひとりでに壊れてしまうだろう。だから、
「形あるものいつか壊れる」なんだ。
自覚はないだろうけど、〝君〟もそうだし、おそらく〝俺〟もそう。
だから〝人〟もそうだし〝神〟もそうだ。じきに動かなくなり、形は崩れて土に戻らなければならない。そのために、つまり、自らの身体を捨てるために火にくべる薪のようにされてしまう。茶碗も祠も、君もすべて炎を通って土に還る……。
いつか、その時を迎えなくてはならない。それは知ってるよね、多分、前世の君もそれを経験してきたんだから≫
「おそらく、ね」
正確にはその記憶はない。前世は人間だったらしいぼくの肉体は、燃やされた時点で脳死状態なのだから、痛覚も記憶も持っていない。
でも、前世が人間だと仮定するなら、それを経験して、この身体に転生してきたことになる。だからある種「そうなるだろう」という光景を再現することは今のぼくでもできる。
「でもなんでぼくが……」
≪そりゃしょうがないよ。「材料は揃っていた」としか。……なんとなく、先がわかると思うけど、続けてもいいかい?≫
ぎこちなく、ぼくは声をあげる。「続けて」
≪はいよ。人の世界での|弔《とむら》い――|荼毘《だび》にふすとは、つまり炎に|還《かえ》るということなんだ。君だってそのうちそうなるだろうね。人形だって人の手で作られたものだから、いつかは役目をはたして荼毘にふす。ただ、今回ばかりはそうした「荼毘にふす」といった通常の処理ではないだろうね≫
「人間たちはぼくを……〝呪いの人形〟として利用したいから」
この地に現れた人間たちは奇怪な服装をしていた。水色に包まれた統一性のある衣服に顔パンツ。どう見ても〝普通の神経ではない〟。顔パンツ姿で生活するだなんて考えられない。そして、持ち運んでいた三脚とぼくに向けられたカメラレンズ……
彼は≪そう≫と言って、話を続けた。
≪彼らの作った〝じゃらくだに〟さまは空想上であり、架空の神。この世には存在しない。だから、「作った人間以外」からすると、〝じゃらくだに〟などというものは、存在しないので信じられない、ということになるよね。だから信じさせるために|奸計《かんけい》をめぐらすのさ≫
「人間ってほんとにめんどくさいね」
≪未だに受け入れられないからね、自分たちが無知でありながら、無力であることを。だからこんな訳の分からない回りくどい理屈が出来上がるのさ≫
〝じゃらくだに〟は見えない産物、こうなって欲しいというべき人間たちが望んだ想像の元で生きられない虚構。見えない器、代物。
なので見えるように、具現化した器に移し替えないといけなくなった。彼らはそれを探していた。分かりやすい形であればなおのこといい。〝じゃらくだに〟が現世に降臨した姿、依代、化身……禍々しい存在としてふさわしい服装。いくつか言いようがあるだろうけど、つまり、ぼくが巻き込まれ、それに「選ばれて」しまったのは、ある種の悪運が強かったためなのだろう。
≪続けるよ。〝じゃらくだに〟として利用された後、君は処分されることになるだろうね。普通の人形ならば最終的に燃えるゴミとかになると思うんだけど、君が行くべきところはそうじゃない。何といえばいいんだろうね、『人形供養』と言われるんだろうね。
供養の火と呼ばれる神聖な炎で身を焼かれ、生涯を終える。でも、それだと悪霊として転生し、再び悪さをするかもしれない――と人間たちは勝手に思ってるだろう――から、その前には|綿密《むだ》な行事を挟むだろうね。儀式という奴だ。
ほら、人間だって身を焼かれる前に変な儀式をするだろう? 通夜だとか、告別式とかさ。今の人間たちの大半だって、なぜそのようなことをするのか分かってないはずだよ。昔からそのようなものをするという刷り込みが完成しつつあるからさ。
だからそのような、呪いを解くための儀式として長い時間かけて祈祷、聖水、お祓い云々をやることになる。それをすることで解呪して〝やった〟気分になるんだろうね。で、なぜかそれで終わりじゃないんだよね。最後には「屠らなければならない」と考える。
魚の小骨のような僻地に行って、どう見ても普通の炎なんだけど、それを神聖視している宗教的じみたところに行き、人々の期待に即した最期を迎えることになる。……そんなとこかな≫
「そんなの、嫌なんだけど」
≪その気持ち、わかる。大いにわかるよ。でも君は迎えなくてはいけない。それが君の〝本来〟の運命だから。人形としての宿命だと言ってもいい。そもそも人形とは文字通り「人の形」だからね。
今でこそひな人形として子供たちに好かれるための道具なんだけど、もともとは口減らしされた赤子が起源だよ。赤子を川に流すことで、村の邪気や穢れを持っていってほしいと|人身御供《ひとみごくう》的に願ったことが源流さ。
人に降りかかる者たちを救ってやるため、身代わりとしてつくられたのが起源なんだ。だからね、人々に「あなたは呪いの人形だ」と言われたら、そのようになるしかない。これはしょうがないことなんだよ≫
そんなことを言われて「ああ、そうですか。じゃあ諦めて焼かれます」と言える人形なんているだろうか。
そんな風にぼくは生きてきたわけじゃない。ここに来たのは誰かに棄てられたからだ。だったらその時点で燃やしてくれればよかっただろう。なのに、ここに来た時点で、ぼくは終わっていたというのか?
じゃあ何のために、彼と――
≪――というのが、善神としての助言方法になるんだろうね≫
「……え?」
ぼくは素でそう返した。そして、≪えい≫
という呼びかけとともに、ぼくの近くに空気のを感じた。ちょっとだけ痛い、矢を受けた感じ。
≪えーっと、こんなもんでいいんだったけな。忘れちゃったよ、久方ぶりすぎてかけ方なんて≫
「え、なに。なにをかけたの?」
≪ん-、なんていうんだったっけ。それすらも忘れちゃったよ。うーん、『風のいたずら』?≫
「おい」
≪あはは、まあ古くさい呼び名なんてこの際いいじゃないか。ねぇ、〝じゃらくだに〟さま≫
ぼくがキッと睨みつけてやるが、実体がない分どこにいるのか分からない。動かないので分からないし、彼の表情も。
でも……
≪しっかし面白い展開だねぇー。これじゃ『あの時』と一緒だよ。あはは≫
ぼくからすると、彼はどこか|愉《たの》しんでいるように映った。霧の粒がこすりあって、風とまじりあってざわざわと騒いている。
≪まえに俺の昔話、話したよね。『日照りで田んぼの水が無くなって、今か今かという存亡の機だった矢先に、嵐とともに恵みの雨が降ってきた』。それがこの祠が建てられるきっかけだったって。だけど、その嵐ってのは俺がやったことなのに、あいつは手柄を横取りした≫
「……それが?」
≪今回も同じなんだよ。君も「横取り」したんだ。
ククク、人間たちが、どういう風に繋げてくるのか、手に取るようにわかってくるよ。多分、先の洪水と繋げて、君の仕業だと彼らは本気で思ってるだろうね。で、利用しようとしている。あの洪水、やらかしたのは君じゃないのにさ。まったく……
ああ、癪に障るね。|ほんとうに《・・・・・》≫
「ほんとうに」と言った途端、辺り一帯の雰囲気が変わった。嵐から一気に暴風域となり、建物から悲鳴が湧き起こる。地面に落ちたヘドロはすべてそぎ落され、空中の、唯一の逃げ場所である月明かりの隙間からこぼれていく。
ついでに寝ずの番をしていた人間たちも、べしべしと壁に頭を打ちつけている。あれは……、うん。死んだだろうな。
違うところに目がいったぼくの|傍《かたわ》ら、彼は威厳よく言った。風の神のように、透き通るような|声音《こわね》で。
≪……ああ、そうさ。俺は〝悪神〟側なんだ。
なんだい、その「人の身代わりとして死ななくてはならない」なんて。人間たちの代わりに死ぬだなんて。洪水が起きて人々が死んじゃったんだから代わりに死んでって言ってるようなもんだよ。
それをしたって無駄なのに。『二年後に再び起きるというのに』。なすりつけるのってどうかしてるよ、その文化。今まで忘れ去られたんなら、そのまま忘れてくれよ。大昔のことを今、掘り返さないでいただきたいね。
だから、人間たちにお仕置きしてやりなよ。その〝力〟で、びっくりさせて、君も晴れて〝悪神〟側さ≫
|空谷《くうこく》の|跫音《きょうおん》とは、このことを言うのだろうか。
どうにか耐えている祠とともに、ぼくはその荒れ狂う狂|嵐《・》を眺めていることしかできなかった。
13 闇
第13話です。
――じゃ、俺これから寄るとこがあるから、ふふ……。まあ、社会科見学だと思って見てくればいいさ。人間の生きてる世界って、「|ヘドロの海《ここ》」よりもずいぶんと汚れてるってわかると思うし。
そう言い残して、彼は去ってしまった。……ぼくを残して。
ちなみに、『彼』の嵐によって弄ばれてしまっていた人間たちは無事だった。すげーな、と素直に感心した。何度もべしべし駅ビルの壁にぶつかっていたし、さすがに首の骨が折れて死んだだろ、と思っていただけに。もしかして彼らは顔パンツを外せば超人になるのかもしれない。
対してぼくは一ミリも動くことのできない人形だ。その日の朝、棟梁を含む外の人たちが戻ってくる。深刻な事態に気付き、当事者である、壁にべしべしされて気絶した人間たちを抱き起こした。
話しかける。大丈夫か、何があった?
二人はぼくに向けて指をさした。ああ、もう。死ねばいいのに。ミステリー小説でいうと真犯人の思うつぼだ。
そんなわけで、彼ら人間たちに連れてかれて、ここにいるということになる。あの二人のせいだ。あの二人、まじで死ねばいいのに。
彼は社会科見学気分だと言われていたが、たしかにぼくは〝無知〟なのだと知った。
連れていかれた先でぼくは色々な言葉を聞いた。APさん、ADさん、ディレクター、コメンテーター。どれも知らない言葉であふれていた。
それから美術スタッフたち。彼らの働きぶりには見習わなければならないところがたくさんある。
ぼくが中でスタンバっていたこの「おどろおどろしい箱」は、彼ら美術スタッフさんたちが一週間で作ってくれました。
数週間後に心霊番組の収録が迫っていて、それっぽい|人形《ぼく》を見つけてきたものの、メインとして登場するには、ぼく個人ではちょっと物足りなかったらしい。すでにバックストーリーはできている。小説のように取り下げて軌道修正の改稿はできない。インパクトというのか、いわくつき感が足りなかったようで。
なんやかんやで人間たちの構想はこうなった。
長持ちと呼ばれる古めかしい収納棚を縦にしたものをベースとして、外側には彫刻刀でなんだかよく分からない植物の枝房をあしらうことになった。
無論手彫りなわけがない。時間がないなか、薄い模様のついた木板を注文して――なんか「早くホームセンターに駆け込め!」とかなんとか言ってたけど――、両面テープで貼りつけている。その上から札をぺたぺたと貼り、ライターか何かで焦がして経年劣化による黒い札感を出している。
そして正面に観音開きのドアを設け、塩酸で溶かした古色蒼然とした南京錠を取りつける。その中にぼくが入って鍵を開けるとほら、呪いの人形がこの通り、という仕組みだ。
勿論、ぼくは元々そこにいたわけではないから、急造で作られている。祠も持っていってそれで代用すればいいのに。とぼくは思ったのだが、彼らはそうしなかった。多分ぼくを連れていくときに慌ててて、忘れちゃっただけだろう。だから急いで|箱《がわ》を作ったのだ。
勿論、その箱の〝材木〟は発泡スチロールでできている。中から見たらさ、白いんだよね。まっさらなのよ。
しいてなんか茶色く塗ってもよかったのに、彼ら「〆切が……」「納期が」「やばいぞやばいぞ」「どうする」とか口々に言ってて。
「まあいいだろ。ハリボテなんだから」というひと言で納得するのよ。
「カメラ越しなんだから、外側だけしか見ないか……」とか言ってさ。
で、「開ける時はカメラドアップ編集でもかければ気にしないでしょ」とか言って。
だから、ぼくはこの箱に入れられた。登場するのはこういうことなのか、ということを知ってしまって、ある種「制作陣の禁断の裏側」を覗いてしまった感がして奥深かった。
嘘つきは泥棒の始まりというけれど、こういう嘘つきは認められてもいいと思う。首が動かせるなら、うんうんと首を縦に振ってもいい。人間社会は「〆切、納期、ストレス」がすべてを悪くしているのだ。
スポットライトを浴びて、徐々に目が慣れてくると不意にスポットライトが消えた。照明器具、天井の明かり、光に関連するものはすべて。
「え?」
と当然のように、何も知らない|出演者《ゲスト》たちは疑問の声をあげる。同時に、ぼくのいるところを見た。
「もしかして、この人形が」
誰かがそんなことを言った。二十いくつもある人間の目が、一斉にとびかかる。女性の方は怯えた表情も付いてくる。
こうして冤罪というのができてしまうのだな。何もやってないぞ、ぼくは。しかし、同時にちょっとした嬉しさもある。「制作陣の禁断の裏側」を知ってしまったばかりに。
それでもおまえがやったのだろう、と言いたげに、ぼくに懐中電灯の光を浴びせられたりして時間をつぶしていると、ふっと明かりが灯り、闇は跡形もなく消し去られた。
「どうやらブレーカーが落ちてしまったようで……」
申し訳なさそうにADさんが言った。神妙な顔つきでMCはつぶやく。
「なるほど、〝じゃらくだに〟さまの力は本物のようですね」
まあ、この照明器具のトラブルって、ヤラセなんだけどね。MCも台本で知ってるはずだろ。
このあとも裏方の迅速な手配による、ヤラセは続いた。番組は終盤まで行き、もうすぐ収録が終わるか、といったところで、大変です!――という声が響いた。先に言うが、これもヤラセだ。
先ほどブレーカーの確認をして、番組ディレクターに報告してきたAD……もとい、「ヤラセの達人」がカメラの軍団をかき分けてこちらに入ってくる。
「どうした?」
すべてを知っているMCが八百長を超える八百長の顔をする。
「あの、ハイランドさんのスマホなんですが……」
「何、俺のスマホがどうしたんだ?」
ヤラセの達人によると、ゲストの一人であるスマホの様子がおかしくなったのだといった。先ほどADが廊下を歩いていた時にそのゲスト――ハイランドさんの楽屋から大音量の音楽が流れてきて、カバンを漁ってみたところ、このスマホがおかしくなったのだと。
今もその音楽は、大音量で流れ続けている。恐る恐るそれを見続けていると……
「わっ!」
「きゃっ!」
とゲストから悲鳴が湧きおこる。急いで異状を認めたスマホ画面をスタジオのモニターに繋げる。
「今、こんなのが……」と場に恐怖を共有する。
ぼくは見せてくれない画角だ。でも分かる。それ、ぼくが映ってるんでしょ? 数日前、ヤラセの達人たちがぼくのところに来て、「やはり電気を消しただけではインパクトが足りない」とか呟いて冷やかしに寄ってきたことがあった。
おどろおどろしい箱を作っている美術さんたちは、遠慮なくぼくの貸し出しをした。はいどうぞ、と。
まるで「用意していたケータリング、まだ余りまだあるので新鮮なうちにどうぞ」みたいな軽い調子で。
そのあと、彼は複数人の顔パンツ部隊を率いてちょっとした舞台を作った。赤い光に影絵のようなシルエットとしてぼくを採用。最後は赤い光をバックにぼくの顔にレンズを近づけて静止画加工にする。
ぼくの顔は泥まみれで汚いので、格好の初見殺しになるだろう。ヤラセの達人はそのショートムービーを撮って、それをゲストのスマホに仕込んで、あたかも廊下で歩いているときに偶然発見した、という風にしたのだ。
もちろんゲストが前日に来られてスマホをすって撮影したわけではなく、ヤラセの達人の所有するスマホからデータを移行している。今の時代、クラウドだそうだが、収録時であればいくらでもあったはずだ。無防備なゲストのスマホに、そのデータを仕込んだだけ。
まったく、姑息なことをしよる。なんでバレないんだろうね、なんでクビにされないんだろうね。
これが、暗黙の了解という奴か。
「映ってるこの人形……。あれ、ですよね」
「あの、ですか?」
「あの、すみません。この箱から〝じゃらくだに〟さまを取り出した方は……」
MCの方はスタッフ陣を見やる。誰もが口を閉ざしている。そりゃそうだわ。
「鍵はこの、南京錠で施錠されているので、無理だと思いますが……」
「じゃあ何ですか。この人形が何らかの形でこの密室から出て、あの楽屋まで誰の目にも触れずにスマホに映ったという……」
「そんなこと、物理的にあるわけが」
美術スタッフがそう証言し、MCはうまくまとめてみせる。番組は澱んだ空気のこもった雰囲気のまま、番組の締めくくりに入った。
……こうして、番組って作られていくんだね。なんだか感慨深げな印象を持った。
≪人間の生きてる世界は、「|ヘドロの海《ここ》」よりもずいぶんと汚れてる≫ だなんて彼は言ってたけど、案外楽しい所かもしれない。ちょっと拉致の仕方は強引だったけれど。
でも、この時のぼくは、「彼」の放った|予言《・・》が、この後どう絡んでくるのか、想像できなかっただけなのかもしれない。
――今から二か月以内に、君は燃やされることになる。
映画のクランクアップじみた楽しげな雰囲気を一気に消失させるような、出来事。風雲急を告げる出来事は、目前に迫っていたのに。
14 〇 (伏字表記)
第14話です。
「なあ、やめようぜ、こんなの」
事の兆しが見えたのは、収録終了間際。ヤラセを知らないゲストのひと言だった。
「何が〝じゃらくだに〟だよ。こんなのただの汚れた人形だろ。これのどこが恐ろしいっていうんだ?」
明かるげな声を上げるはずだったスタジオがみるみるうちに冷めた空気になっていく。つい先ほどまで立て板に水のように口を動かして「ぼくを知った気でいる」コメンテーターもかん黙してしまった。口撃は強くても暴力、特に筋力のある若者に抗議するには、年の波的に堪えるようだ。
これが生放送中であれば、今頃クレジットが流れていただろうに。流れきるまであと数秒の差だよ。生放送ではなく、これが収録中で、その後編集で切れるとはいえ、この人空気読めないんだろうな、というのがぼくの思ったことだった。
たしかに、そう言いたい気持ちもわかるにはわかる。苦言を漏らしたのは先ほどスマホを勝手にいじくられ、不気味な映像を流されたゲスト、ハイランドとかいうサングラスをかけた男だ。
容姿は結構整っている方ではある。細身ではあるが引き絞った体つき。クロムハーツのアクセサリーを全身に身につけ、袖を通していない右手の親指にはぎらりとした金の指輪をはめている。ちなみに定番のドクロだ。
この時の衣装はマントを肩からかけたような銀色の服で、襟元と肩には長い茶髪がかかっている。前髪の隙間から青系のインナーカラーが見え隠れしていて、ゲストの中ではひと際目立つ。若者なのにどっしりと構えていて大物ゲスト感が強い。
彼は狼のようなマントを揺らし、ひな壇を降りてスタッフからスマホをぶんどった。傷物にされてないか一応画面を確認してから、ケモノのように吠える。内容は主に、スタッフチームに向けての姑息な悪態。
「消灯騒ぎだけなら少しは我慢してやろうかと思ってた。でも、これは無理だ。楽屋泥棒みたいなものだろ、いけ好かない演出だ」
いけ好かないのはお前の方だろ。黙ってろよ一匹狼。
「コンプラっていう言葉知ってんのか、ああ? スマホはプライバシーの塊なんだ。それをコソコソと細工して。
こんなのスタッフがやったに決まってる。何が『廊下を歩いていたところで』だ。こんな子供だましやったところで数字は上がっても〝視聴者〟は気づかないとで思っててんのか」
「ちょ、ハイランドさん……そこまでに」
MCの方が制止の声を上げるも、黙れ、の強い目つきで黙ってしまう。ひるむなよ。行けよおっさん、芸歴長いんだろ。舞台裏なんだしコンプラなんか気にせず殴ってやれよ。
しつけのなっていない、芸歴短男の威勢は強い。
「言っておくけどな、俺は|お金儲けのため《・・・・・・・》にこの番組に出たわけじゃない。そこの、マネージャーの口先で仕方なく、だ。こんな子供だましをされちゃ、俺のブランドとしてのイメージダウンに繋がっちまう。
なあ、小島。こんな案件断っちまえって、前に言ってなかったか?」
カメラの群れに隠れるようにして、背の小さな女性が代わりにぺこぺこと頭を下げている。あれが傲慢な狼の手綱を握るマネージャー、小島さんのようだ。ちゃんと手綱を握れていない感じが伝わってくる。
「誰だ、誰がやった? 手挙げろ。自己申告してくれたら腹パン一発で許してやるから」
「す、すみません! うちの者が――」
「邪魔するな! マネージャー風情が、よ!」
「きゃっ」
ハイランドが身体を押したようで、体格差のあるマネージャーは短い悲鳴を出して床に転がった。
ざっと、スタジオの空気に緊迫感が走った。のだが、当のハイランドは床のそれを|一瞥《いちべつ》しただけ。再び吠える。
「おい、さっさと出てこい。さっきの奴だろうが聞いてやるよ、誰がやった?」
ハイランドの鋭い目つきはスタッフ陣を見やる。誰もが口を閉ざしている。そりゃそうだわ。
さっきまでうきうきとヤラセをやっていたときとは違い、沈黙にならざるを得ない、といった隷属的協調性を発揮している。
まったく、黙ってればただのイケメンで済んだというのに。口を開けばなんだ、口から腐敗臭がするほど性格がブサイクじゃないか。
あまりにも品がない。女も大切にしないし、なにがコンプラなのだろう。
これでは真夜中に放たれたケモノ、毛のつやだけがいい銀色の狼だ。たった一つの明かりである月夜に、傲然と吠える一匹狼の独壇場。場を収められるのは猟銃一発で仕留めてくれる凄腕か、生贄か。生贄役のウサギは何匹いるだろう、一匹で山野に帰ってくれるだろうか。
スタジオを眺めてみる。見たところ、主犯格である「ヤラセの達人」の姿が見当たらない。いつからいないのか不明だが、逃げたことはたしかだ。ウサギのように逃げ足が速い、流石だ。
とはいえ、この状況、どうするんだろう。これでは「ヤラセの達人」の勝ち逃げだ。ぼくとしてはこのままでもいいんだけど、それが二十分も三十分も剣呑な空気を垂れ流されてしまうと、これ、なんの時間?――と思ってしまう。人間っていつもこんな身のすり減る時間を過ごしているの?
はやく出る杭は打たれないのかな、と思ったとき。
何処からか、鶴のひと声のような、空間を切り裂く者が現れる。
「人形に殺されますよ、あなた」
かなり物騒な物言いに、一瞬だけ時が止まったかのように面食らったようだが、
「あ?」と、ハイランドだけは銀色の髪を振り回し、その者を見つけようとした。
「だから、このままだと殺されると忠告しているんです」
その声はひな壇前方から聞こえてくる。聞いたことがない声音だ。ゆらりと白い湯気が立ち上るようでもある。
その白さはまるで先ほどの話に出てきた神主そのものの出で立ちだった。収録中、ゲストの中で唯一ひと言も話さなかった人物だ。
神職に仕える象徴のような、汚れ一つない白装束に、袖口の長いだぼっとしたタイプの衣服。下は紫色の袴に足袋を履いている。よく見ると袴の表面にはうっすら文様が描かれていて、目を凝らしてみないと紫色で隠れて見えない。
歳はMCとほぼ同年齢か、若干老けて見え、長年神に仕えていますよ感――強キャラ感がみえみえである。
「ああ、なんだ。群馬の神主さんか。あんたもこいつらと〝グル〟だってのか?」
神主は壇から降り、世間知らずの若者に近づいてゆく。諭すような穏やかさを保ちながら。
「仮に先ほどの消灯騒ぎや動画のものは捏造だったとしましょう。捏造、つまり人間の仕業だったと。それでもあの人形が偽物か否かは、断定できないと思いますが」
「何がいいたい」
神主は首尾よくいった。「断言しましょう。少なくとも、あの人形は本物。偽物であろうが力は〝本物〟のように感じられます」
「はっ! 言うね。俺はその人形に呪い殺されるっていうのかい」
とうとう若者と対面した神主は余裕ありげに首肯する。
「ええ。その通り。そちらの人形〝じゃらくだに〟様にね」
「なわけが。そんなこと世迷い言、あるわけない! 逆に俺を『殺してみろ』っての!」
ため息の声が聞こえる。えらく露骨だ。
「収録中、うたた寝でもしていましたか。先ほど|匝瑳《そうさ》さんがこう言っていたではありませんか。五百年前、相手を思い通りに呪い殺すことができる人形がある――と。その話、私は興味深く拝聴しましたよ」
「あんなの、作り話だろ」
うん。それにはぼくも同意するよ。
「そんなのありえねぇ」
「たしかに。そのような見方もできます。五百年前ですからね。事実無根。大昔のことなので確証はない。それが嘘か本当か、断定すらもできない」
「なら嘘、作り話じゃねえか」
「そうひと言で片付けて良いものか、と私は思うのですがね」
「ちょ、ちょっと|神宮寺《じんぐうじ》さん……」
MCの方が仲裁に入る。
神宮寺というのが、あの神主さんの名前らしい。神宮寺……やはり、どう見ても強キャラ感が否めない。
「神宮寺さん、そこまでで――」
MCの取り計らいに際して、手のひらを見せる。もう少しだけ、という合図。その所作でさえMC以上の大物であることがうかがい知れる。
「たしかあなたはハイランドさん、と言いましたか。噂はかねがね、遠方遥かからでもあなたの活躍は届いてますよ。何やらアパレルブランドで大成功を収めたとかで、直近の納税金額は五千万円だったと……」
そう神宮寺は前置きをすると、いくつかの質問をした。好きな食べ物から嫌いな食べ物、兄弟や両親、祖父祖母について尋ねてきた。
ハイランドも最初は吠えてばかりで無視していたが、神宮寺は軽くいなして別の質問を平然と投げかけてくる。すると何故か口が動いてしまって答えてしまっている。神宮寺が年齢を聞くと「なるほど、本厄ですか……」と不敵な笑みを浮かべた。
最後に最近お祓いをしたかどうかを尋ね、予想通りの返答を聞くと、意味深に一度頷き、
「最後に、あなた……、〝呪いの人形〟は信じていますか?」と聞いた。当然のようにこう返ってくる。
「ねえよ。そんな精神患者の妄想癖みたいな趣味は」
「そうですか、なら、忠告しておきましょう。『あなたは今夜中に死にます。すでにあの人形〝じゃらくだに〟さまに呪われていますから』」
今すぐにでもお祓いをした方がいい、幸い祭具は楽屋にある。この場でどうですか、ただし、あの人形に殺されたくなければ、の話ですがね。
神宮寺のそういった目線がぼくに突き刺さった。それが彼の逆鱗に触れたようだ。……嫌な予感しかしない。
「――んだよ!」
ハイランドはぼくに向かって歩き出した。ずかずかと、床に足を突き刺しながら攻撃的な態度がありありと見える。すでに彼以外の人間たちは模型のごとく全くといっていいほど身体が固まっているので、一直線にぼくのところに来られてしまった。
予感は的中した。ぼくに向かって腕を伸ばし、ガラスコップを取る時のような音が鳴った。
――いて! ちょっと、痛いんですけど……。
手のひらの感触が痛いほど感じられる。右手の人差し指の根本がちょうどぼくの顔に当たった。
「こんなもんの!」
そして、ひっつかむ感じでぎゅっと握られてしまう。こうなるとぼくは何もできない。あわわ。そんなに手の高さを上げないで……
「どこが!」
ぼくはバック宙の最中なのか、アクロバット飛行なのか一瞬分からなくなってしまった。
視界は明かりが点滅したり、色が右往左往したりする。ぼくには経験したことのない力の圧力――遠心力的な要素――は初めてだった。ただ、この混乱の空の旅はほんの数秒で終わりを告げるはずである。今から掴んだ手のひらを広げて、空中に投げだされる。そうなったらぼくはどうなるだろう? 何ら抵抗できずに、放物線を描きながらあちらに飛んでいくさまを想起してしまった。
かなたには草木などという自然物でできたクッションは見当たらず、ただ痛そうな硬い壁があるのみで、桐でできた硬い身体もさすがに耐えるのには無理があるだろう。人間たちだって、こんな汚れた人形一体のために、命を懸けてくれることなんてない。そんなことをしてくれるのは……
「が!」
背中に風圧を感じる。
風圧、風……彼。
ぼくのことを助けてくれるのは、彼くらいしかいないかな……
そんなことを考えているとしんみりしてしまう。時間が経つのがちょっとだけ遅くなった……ような気がした。
走馬灯的な何か。彼との会話。
「――!」
風の化身である彼とぼくとの会話が再生される。
――ほら、神様って予言できるから。
――今から二か月以内に、君は燃やされることになる。
それを言われたのは大体一か月前。だから、ぼくの寿命は一か月残っているはずだ。なのに、このままだとその通りにならなくなってしまう。
たしかに予防線は張っていたな。だって二か月『|以内《・・》』だもんな。嘘は言ってない。それ以外は外してるけど。
彼は神様なんじゃないのか? ……いや、人間側には神様だと「思われている」側だったか。
やばいよ、やばいよ。どうするよこれ。ぼくって最後、燃やされるんじゃなかったの? これだと墜死だよ。
「――」
ぼくは、ぎゅっと恐怖を映す目を閉じようとした。
できなかった。ああ、そういえば人形だから、目は閉じられないんだっけ。あれ?
……その場で『高度』下がってね?
「……があ」
腑抜けた声がすぐ近くから聞こえてくる。
ぼくは耳の横、富士山でいうところの八合目あたりにいて、あとは山頂までいってそのままの勢いで「いざ宇宙へ行くぞ!」――的な握りこぶしにとらわれていた。が、その勢いが死んで、五合目、四合目と下がっていった。とうとう富士山麓どころかその下の地表にまで落ちていき、もはや海上すれすれを飛んでるだろ、になる。
海面という床に不時着しそうになった直前、握られていた手から解放された。そのまま床に着地できるほどにゆっくりと、だらりと降下してくれた。とりあえず着地に失敗したふりをして――まともに動けないけど踏ん張ることぐらいはできるんだよ?――、ころころと床面を転がることにした。この場合、きれいに着地するより寝っ転がった方が「自然」でしょ。
回転スピードはそうでもないので、横倒れの景色がコマ送りに見える。真っ暗の床面と崩れ落ちる男の姿が交互に映しだされる。
それは、老朽化してなおも燦然と輝く銀色の高層ビルが、役目を終えて根元から爆破解体されるかのように。下からすとんと高度を下げて地面に消えていくように。なんとも面白みに富む|雅《みやび》な光景だった。服が銀色だから、なおさらそう見えるんだよな。
「が、がああああ……」
ぼくが何かにぶつかって静止する頃には、ハイランドとかいう口先だけの男は無様に倒れてしまった。横になってもがいている。両手を持ち上げて、首元をかきむしるようにして。口からは白い泡がぶくぶくと零れ落ち、首から分離したように身体はひどく|痙攣《けいれん》する。
「……が……。…………」
これが絶命ってやつか。ずいぶんと長い「があ」だなぁ。というか、さっきからこの人「が」しか言ってないなぁ、なんでだろう……と思っていたんだけど、ぼくの気のせいじゃなかったみたいだね。
と、思える人はぼくくらいしかいないと思っていたんだけど、もう一人いた。
その人物は、空気を読んで横に転がりカメラの三脚あたりで止まっていた|人形《ぼく》を拾い上げていた。先ほどとは違ってやさしい持ち方をしてくれる。ぼくを見つけ、拾い上げられるほど気持ちに余裕のある人物だ。まるで「こうなることを知っていた」かのような落ち着いた所作だ。
持ち上げられ、近くのテーブルの上に着地する。場所は発泡スチロールでできた箱の隣に置いてくれた。視界が固定されたのでひと安心だ。ここからならスタジオが一望できる。
目の前は騒然となっている。さっきまで大団円を迎え無事終わらせることができたのに。誰かが茶々を入れるからこうなったのだ。
その誰かに寄り添うように近づいて、女性が身体をゆすっている。コウ、コウ!――と叫んでいる。先ほどの小柄な女マネージャーらしい。その横で、首を振っている者もいる。ダメだ、死んでる、と呟いた。
「〝――〟様にすべての感謝を」
ぼくとともにそれらを眺める隣の人物――神宮寺は『|ぼくにしか聞こえない声《・・・・・・・・・・・》』でそう呟いてから、スタジオに一礼した。ひと呼吸おいたのち、頭をあげて踵を返す。
|綽綽《しゃくしゃく》たる余裕を見せながら廊下に出ていった。紫の袴姿からみえる履物が一歩踏み出すごとに床との摩擦音が大きく聞こえ、大昔にタイムスリップしたかのように。
……いやいや。
感謝される筋合いなんてない。
ぼくは何もしてないんだから。
15 呪
第15話です。
隣の村が地獄なのは、あの人形の仕業なのだ。
諸相はその人形を壊そうと決意した。しかし、その人形はこの村のご神体なので、常に父親が目を光らせている。
どうすればいいだろう。諸相の立場からすると今も隣村はひでりに苦しみ、存亡の機に瀕していると思っている。数日の猶予さえ、いや、一刻の猶予さえないように思えてならない。
自分が動かなければならない。早く、早く……。妬ましい思いで寺の離れを見つめ、好機を窺った。
雨が降ってから三日後のこと。父親は村の様子を見てくる、と諸相に言った。
父親は神主であるが故、この村の長も兼任している。何が気がかりなのか分からなかったが、諸相にとって、これはまたとないチャンスだと感じた。
父親が寺から去ったあと、諸相は動いた。
自分以外誰もいない境内を自由に歩き回ることができた。いつもならサボることすら億劫なほど陰気な場所だったが、何のお咎めもないまま自由自在に歩くことができる。今なら何でもできそうな感じがした。
あれほど近づいてはならないといわれていた離れに難なく着いて、がらりと戸を開ける。目的の箱の前に立った。
不用心なことに、鍵は開いているようだ。両扉の取っ手を軽くつまみ、中を|検《あらた》める。だが、肝心の人形はいなかった。
あのクソジジィ、肌身離さず持っていきやがったか……。空っぽの箱を見て、負け犬の遠吠えを吐きたくなった。砂金のように細やかな|一縷《いちる》の望みを手にし、だが、指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていった。せっかく手に入れたと思っていたチャンスは、父からすればてのひらの上だったらしい。
所詮、若坊主の企みに過ぎぬ……。遠くから撃ち落とされた鷹が無様に地面を這うように、次の機会に持ち越しかと離れの戸に触れた時だった。
かたかた……かたかた……
何処からか音がする。
振り向いて様子をうかがってみると、部屋の奥からのようだ。離れには自分以外に誰もいない。何の音だ?
奥へ歩みを進める……と、ある物を発見した。離れの奥にある、神棚の上に、あの日の人形が立っていたことを。
人形は満足に踊れない様子だった。頭に狐面を乗っけ、前方に足を運んだままで止まっている。着物の色は全体的に黄色が多めだろう。朱、緑、黄色など色とりどりの色彩を放つ着物姿を披露して、片手には黄金の扇が握られている。扇は開かれて、こちら側に柄を見せている。
前に盗み見たあの人形だと頭の中で結びついた。そして今すぐにでも壊さなくてはならないと考えた。しかし、頭はこのように思っていても、身体がまったく動こうとしない。眼球ですらも。あの人形に釘付けだった。
少し妥協して、ネジを回して舞を見てみようかと考えを改めた。どうせ壊すのだ。なら、舞を見ないで壊すのと、見てから壊すのと、結果は何ら変わらない。
諸相は先ほどとは裏腹な感情を抱いたまま、人形に手を付けた。ネジをひと捻、ひと捻と回して立たせてみた。すぐに人形は動き出す。
まるで舞妓のごとく、しなやかな動き方だった。
人形のあの顔つきを見なければ、小人が|艷《あで》やかな舞を披露している。観客は自分だけ。今この瞬間だけはこの人形の演目を独占している。
やがて動きが鈍くなり、終演に近づこうとしてしまうと動きがぎこちなくなってしまう。美しい人形と言えど、所詮はからくり人形。いずれ止まってしまう。
その兆候が見えると、たちまち子供のように人形を持ち上げ、急いでネジを回した。新たな原動力を得ると途端に元気になり、再び美しい舞の続きを踊る。舞踊が披露される間、離れはおろか、寺内の時間さえ止めるようだった。
そうして時間すら操る美しい舞を何回も見ていると、諸相の脳内に「この人形を破壊する」という使命感のあった考えは擦り減っていった。
諸相もまた、父親と同じように念仏を唱えたくなった、とまではいかないが、人形の魅力に取り憑かれつつあったのだろう。
けれど、それでも。
それでも、だった。
この人形を壊さなくては、隣の村は……という思いは捨てきれなかった。
できれば人形を壊したくなかった。だが、それでも壊さなければならない。そうしなければ隣の村が、だが壊せば舞がもう……
――そうだ。
何を思ったのやら、まだ舞の途中であった人形を持ち上げ、背中についていたネジを引き抜いてしまった。引き抜いたことで人形とネジは完全に分離した。
そして、未だ動き続けている人形を、元々あったご神体の箱のなかに収め、観音扉の戸を閉じた。
これでいい、と彼は思った。ネジを回さなくては踊れない、それがからくり人形の宿命。
今も古めかしい箱のなかから、微かだが小さな音が聞こえてきている。
かたかた……かたかた……と。
人形はネジを取られたことに気付いていないかのように、あの箱のなかで無観客の舞を披露していることだろう。
諸相は離れから立ち去った。心は達成感で包まれていた。
今は舞が踊れるだろうがじきに人形は動きを止めることになる。からくり人形なのだから、駆動する部品を取られればやがて止まる。数分間しか持たない。
あとで父親が気づき、詰められることになるだろうが自分には知らぬ存ぜぬで通すつもりだ。
あの人形の舞が、もう二度と踊らなければ、本来降らすべき隣の村の雨雲は人形に取られずに済む。それでこの村が雨に嫌われようとも、それでいい。
隣の村に、待ちに待った恵みの雨が降ってくれるなら、村一つなんてどうだっていいのだ――と思ってしまった。
---
――してねって、……ったのに。
その晩、諸相の寝床に誰かの声が降ってきた。誰かが枕元に立っている。薄く目を開けた。視界の世界は、薄らぼんやりとしていた。
左側に、おだやかな|金色色《こんじきいろ》がにじんでいる。間近で光っているような、太陽がのぞき込んで顔を照らしているような、あるいは、太陽のように輝く鳥――|金鵄《きんし》が美しき羽を収めて立ち姿を見せているような。
「大事にしてねって言ったのに」
その色からそのような声がした。
何だ? 鳥がしゃべっているのか?
まだ焦点のあっていない目をこすろうとした。しかし、毛布にしまい込んだ手は微動として動かなかった。
まるで身体中に泥を塗ったくったように、数日分の疲弊を毛布の上からかぶせられたかのように。手足は毛布の中で|磔《はりつけ》の刑に処されていた。なぜ、こんなにも手が動かないのだろう。金縛りか?
ぼやけた金色に釘付けになっていると、徐々に視界は回復していって|輪郭《りんかく》がはっきりしていく。鳥の毛皮ではなかった、金色の毛ではなく、金色の着物だった。美しい着物を着ていた者は、小さな子供のようだった。顔は狐面をかぶっていて口元以外見えない。
その口が動く。
「あなたの愚行は、信心深い父親に免じて水に流してあげる。でも、そんなに平等な雨が欲しいのなら……」
声は高く、断言するような澄んだ声をだし、着物の裾を翻した。ばさりと盛大に厚い布の音を出す。
すると、どうしたことだろう。諸相と彼女との距離が離れていく。体重を受け止めていたはずの布団の柔らかさはなくなり、重力に赴くままに、下へ。
下へ、下へ。
上の彼女が穴の底を見下すようにした。狐面を、首を傾げた。全身に風の塊を感じる。一瞬クッションのように錯覚する。だから実感した。
自分は落ちていっている、と。背中側から死への凍てつく冷気の流れを強く感じた。
見下ろす彼女、彼女を含む自分の寝床が小さくなっていき、虚空に飲み込まれると完全なる闇が訪れる。
諸相は、自分は、それよりも前から大声を上げて、黒よりも暗い奈落の底に落ちていったのだ。
★
そういった絶望の淵から叫ぶ声とともに、諸相は一気に悪夢から醒めた。全身がびっしょりと濡れている。汗の量は尋常ではなかった。
身体を起こすと窓から雨の音がする。空は暗く、地平線に至るまで薄い墨のような色をした曇天が覆いつくしている。
恵みの雨だ。
ようやく、この村周辺の『特別な雨』ではなく、隣村にまで延びる『奇跡の雨』が訪れたのだ。諸相は自然の来訪に歓喜のまなざしを向けた。窓の外を見て安堵した。雨は一夜中降り続けた。
しかし、一日が過ぎ、二日も降り続けていると、諸相はどうしてか胸騒ぎを覚えるようになる。どしゃぶりのように降り続けるこの雨は、止む気配がなかった。降り始めてから三日が過ぎようとしていた。夜通しの降雨。雨脚は弱まるどころか強まっていく。
遠出をしていた父親が寺に帰ってきた。寺に戻るや、さっそく諸相に近づいていった。
「おまえ……」
と低い声を発し、何の躊躇もなく諸相を足で蹴った。長雨による廊下の雨漏りがあったために、諸相は雑巾がけをしていた。しゃがんで水をふき取っていた諸相の脇腹に、一発痛いものを喰らう。
理由のない暴力に脇腹を抑えせき込む。そこに、父親はいった。
「なんという事をしてくれたんだ!」
怒髪天を突くといった形相をしていた。そして「バカ息子め!」となじった。
諸相は何のことなのか分からなかった。なぜ父親はこんなにも怒っているのか。父親は続けた。
「おまえ離れに行っただろう。どこへやった、人形をどこへやったのだ」
何のことだ、俺は何も。そう弁明するも相手はでくの坊にでもなったかのように何度も同じことをした。
手や足をつかって痛めつけた。殴っては倒れ、|頽《くずお》れた息子の胸ぐらをつかみ、持ち上げ、また同じことを尋ねる。隠した人形を出せ。早く!
諸相もまたでくの坊になるや、父親は何度もぶん殴った。腹、頭、顔面。口のなかがひどいことになっている。金属でも舐めたようなひどい変な味がした。
「ああ……、お怒りだ」
そうして暴力の波が一時的に収まり、薄闇の空に向かって父親は呟く。何度もひどい目に遭わせることで少し冷静になった様子だ。
「このままでは、〝アマガミ〟様が……」
アマガミというのは、雨神、雨の神のことを指していると思われる。今、天上を震わせて大いなる恵みの雨を支配している神。土着信仰の一種。
未だ勢力は弱まるどころかますます強くなっている。神の怒りが静まる気配はない。
「あの人形をどこへやった、お前以外にやる人間なんていない」
もう一度諸相に詰め寄る神主。神おろしのような顔だった。貴様がやったことはお見通しである、と決めつけている。
たしかに鬼の居ぬ間に洗濯、とまではいかないが、父親のいない日を狙って離れに近づき、人形を壊そうとはした。
しかし、壊すといってもゼンマイを引っこ抜いただけであり、ちゃんと人形は元の棚に戻している。こんな暴挙に屈し、責められる謂れなんてない。
「お前のあさましい考えなんてお見通しだ。どうせ隣村の様子に見かね、ご神体に近づいたのだろう。あわよくば壊そうとした。
ご神体の入った錠が壊れていた。おまえが壊して人形を持ち去ったのだな?」
「いえ、鍵を開けたのは自分ではありません。もともとあの箱は開いていたのです」
神主は不気味な笑みを浮かべる。
どうやらその言葉を待っていたようだった。
「さっき私は『ご神体の入った錠』といっただけだ。なのにお前は箱だといった。
『ご神体の入っているのが箱の中』とは私はお前に一言も話していない。それ以前もだ。なのにお前は知っている……やはり離れに近づいたのだな」
勘当だ、出ていけ。
諸相は荷物もまともに整えられないままに門の外に追い出された。
すぐさま重い門が閉じられる。がこん、と低く大きな音でも、その大半は強い雨音に吸い込まれた。
外はひどい有り様だった。
雨の支配下にあった。道は緩やかな傾斜があり、坂がある。ここはちょっとした丘の上で、普段ならここから下を見るとちょっとした集落があって、盆地のようになっている。だが、今はどうだろう、下の景色は村はなく〝湖〟になっている。
湖……、いや、色合い的には「急流のある沼地」が説明的に適切だろうか。
何にしても家々は沈没していたのだ。広場も畑も。林も川も、集落ともども一様にして泥水に丸のみにされている。
バケツどころか周囲が圧倒的な降水量で闊歩している。幾百にも分けられた液体の刃が上から下へ突き刺さり、家々を軒並み沈ませている。小舟のように浮かぶ木片は倒木だろうか、木造家の残骸だろうか。どちらにしたって村人はひとかけらもいない。
何だこれは、と再確認させられた。
諸相は丘の上から集落だったものを見下ろした。そこに集落の断片すらもない。土砂で汚れた水を眺めるしかなかった。
これが、人形の怒り……? 人形を壊した、罰だというのか。違う、自分じゃない。これは、自分がやったことは、ただ背中のネジを……
責任転嫁をして重責を軽くしようとするも、諸相のいるところにも、自然の暴虐が乗り上げてくる。集落という盆地のくぼみに収まりきれなかった水面が水流となって、今にも溢れようとしている。
盆地の縁に当たる部分が諸相のいるところだ。足首から下の地面は急流に侵されつつある。村と村との境界である川が決壊したかは不明だが、この水を見ると想像に難くない。
立っていられないほど流れはきつい。身体が持っていかれそうになる。
――そこに。
諸相の目の前に、一枚の小さな葉が通り過ぎようとしていた。明鏡止水だった。
それは周囲に比べ、あまりにも遅かった。時間の流れが遅く感じられた。
汚らわしい濁流ほどよく映えた。
葉はみずみずしいほどに新緑で、雨粒越しに見てもその葉脈はくっきり見えるほどに澄んでいる。
それは小さな波紋すら生まない、静寂を司る湖面に浮かぶハスの葉のようであり。
小さな葉の上に乗っている。
踊っている。『何か』が踊っている。
雨粒は、葉の、『何か』を避けているようだった。
器用に乗りこなす一寸法師のようでもあった。
この豪雨のなか、まったく濡れていない着物姿。
先日見たあの夢のような、金色の|滲《にじ》む着物姿。
薄緑に染まる狭い舞台を目いっぱいに使って、足で葉を蹴って、ぴょんと飛んでは浮かんで――あのときの舞を繰り返し踊る。あのときと違うのは、|ネジ《・・》をいちいち回さなくて済んだこと。
終演のない――この舞は、時間を停めるはずなのに。手に持った黄金の扇子が閉じたり開いたりすると、一層雨は強くなる。
背中にあったネジという束縛から抜け出して、狐面をかぶる『彼女』は自由の身になっていた。面が欠け、むき出しになった笑みの口角をくっと曲げて、隙間からあるはずのない|白い歯《・・・》をのぞかせていた。
固まった身体のまま、人形を見据えた。
小さな彼女は、諸相の存在に気付いた。すると舞の途中で中断し、諸相に向けてかわいらしく頭を下げ一礼する。それから、真っ赤な唇を一瞬扇子で隠し、着物の袖口な交代したのち――雲に隠れし太陽めがけて扇を天に掲げた。
黄金の扇子は、分厚い曇天に大いなる切れ目を入れる。雲間から伸びる光は一目散に黄金の扇へ。浴びて一層、受け止めてひと際、輝く手元。
静止画の立ち姿から、ばさりと素早い動きに。
いつの間にかに止んだ雨が、再び勢いを取り戻す。
それは、天におわす雨の神――〝アマガミ〟様が一層|慶《よろこ》んだ証拠のようだった。
そうしてこの地方は、「しゃらく谷」となったとされている。「しゃらく」から「しゃらく谷」へ……
すなわち、沼地のごとく湖となって、凄絶なる水の重みで土地が沈降していったのである。
そして、諸相が見たといわれるその人形こそ、「しゃらく谷」を作った張本人であるアマガミの巫女。
〝じゃらくだに〟さまだと伝えられている――。
……
16 騒
第16話です。
あの後警察が来て、スタジオはてんやわんやの大騒ぎとなった。
外から赤い非常ベルのような音を立ててぞろぞろと入ってくる。現場保存だから、とスタジオで身を凍らせたゲストやスタッフたちが廊下へ退散させられた。ぼくはというと、そのままポケーとして立っていた。
ぼくは人形。テーブルの上にぽつんと立っているだけの薄汚い人形。だから、人として扱われなかった。ぼくとしてもこのままでもいいのだが、ほんのちょっとだけ居心地が悪くなる。
近くにさっきまで生きていた人の死体がいるとなると、余計にどこかに行きたくなった。
でもこのままでもいいかな、となかば投げやりな気分に浸っていると、誰かの手によっておどろおどろしい発泡スチロール箱にしまわれ扉を閉められた。そのまま揺られ廊下辺りで声がして、一気にせわしない喧騒がどこかに消えてゆく。そして無造作に置かれた。
ここがどこなのか分からなかったがとりあえず血なまぐさい現場からさがることができたらしい。多分事情聴取のときに「これは小道具です」的な感じで誰かが説明したようだ。
多分ここは小道具などがある倉庫だ。ほんの三時間前までここでスタンバっていた、ここ直近の記憶ではなじみのある場所になる。
それから周囲の状況が分からず二週間くらいが経過した。
それまでぼくの存在が忘れられたかのように偽物の祠のなかに幽閉されていたたわけだが、ここを出入りする人の気配をうかがうに、あれから良くないことが連続殺人のように起きていたらしい。
簡単に言えば、ハイランドの不審死を皮切りにしてあの番組にかかわった者たちが次々と災難が降りかかっているとのこと。あくまで倉庫に出入りする人たちから盗み聞きした眉唾物ばかりで信ぴょう性はあまりないのだが。
まずはあの狼男に怯えて暴言の一つも出てこなかったMCのおっさん。彼の過去に発覚した不祥事のことがリークされた。内容的に歴の浅い芸能人に上から物を言う言葉の暴力をふるっていたらしい、という軽いもので、これだけなら「へぇ、そうなんだぁ」ですんだことなのだが、この次をきっかけに〝呪い〟が始まったと認識を強めていく。
心霊番組の関係者が次々と餌食になっていく。とあるADスタッフの不審死だった。ノイローゼによる自殺だと噂は流れていたが、遺書もないし自殺をする前日までその兆候が全くなかったのだという。
それからハイランドが手掛けていた企業関連から、政治とカネでおなじみの数千万にも及ぶ大量献金が発覚して、ハイランドの経営する会社の経営休止を匂わせていたところ、ハイランドのマネージャー兼秘書の小島紗耶――スタジオでぺこぺこと謝っていた小柄の女のことだろう――が、自宅のタワーマンションから飛び降り自殺を図ってしまった。
それはニュースで大いににぎわいを見せていた。なんと自殺間際までライブ配信、いわゆる「自殺配信」をしていたというのだ。自室から廊下に出て屋上へ。タワーマンション特有の、良好な眺望を撮しながら、懺悔の言葉を口にし――。
彼女が身を投げたあと、たまたま同じマンションの住民が下を通っていたためすぐに救急搬送されたものの、意識不明だったがのちに死亡が確認された。自宅には「耕一郎があのようになったのは、マネージャーである私がすべて悪いのです」という不気味な置手紙があったのだという。もちろん警察の見解によれば自殺だろうとのこと。
豪遊で有名な社長と女秘書ということで、たびたび夜の関係があるのではないかとネットでは噂されており、ある週刊誌では都内某駅近くのホテルに二人で入り込むところを撮られていた。そして死ぬ間際には「あの人がいない世界なんて」と口にしていたようだ。
ハイランドを皮切りにして相次ぐ不審死や不慮の事故。その大半が自殺か飛び降り。それ以外は原因不明の不審死ばかりで、あの番組にかかわる者たちにしか起こっていない。あの番組、そう。ぼくが出演したあの収録のことである。それがゲスト陣、スタッフ陣を中心にして湧き起こっている。もはやとどまることを知らない。
残っているのは少数のみだった。つまり、今倉庫で出入りしているスタッフたちだけだと倉庫に出入りする人たちは口々に呟いていた。
立て続けも立て続け。二日前にまたもその呪いの犠牲者が増えてしまったようだ。話の内容からすると「ヤラセの達人」らしい。「ヤラセの達人」まで餌食になってしまったのか……。逃げ足の速いウサギでも、なんか勝手に死んだ一匹狼くんには軽く逃げ切れるのに〝呪い〟からは逃れられなかった模様。
なぁ、どうするよ。今度は俺なんじゃないかって思ってるんだけど。そんなこと言わないでくれないか。いやになっちゃうよなぁ。俺の上司だってそうだよ、薬の量が増えて。夜逃げ当然でここから去るのも時間の問題だよなぁ。どうするよ、ただえさえ不景気で人手不足なのに。このままじゃ倒産しちまうよ、と口々に言い合う。
それもこれも原因は何なのか。十中八九、倉庫の隅の方にある「おどろおどろしい箱」に目線をくれているだろうその者は、溜息をつくようにもいった。
「こんなにも〝あの人形〟に呪われたってのに、あれオクラにならなかったの今でも信じられないんだけど」
オクラとは緑のあれのことかと一瞬思ったのだけれど、イントネーションから察するに「お蔵入り」のことを指していると思った。嘘だろとぼくも思った。お蔵入りにならなかったということは放送されたことになる。そんなことあるのかと。
だって、いけ好かない人間失格の最後の代表作だとはいえ、収録中に呪い殺された――結局誰に殺されたのかわからないのでまことに遺憾だが〝ぼくに呪い〟殺されたことにしよう――んだぞ。それを編集してとはいえ公開するとか、正気か?
どうやら上層部たちは、奇怪千万な不審死に興味を持ち、これは本物の呪いの人形であると太鼓判を押したらしい。
今までテレビはネット離れで低迷する視聴率を取り戻そうと躍起になっている。広告主の機嫌が悪いとかどうたらこうたらと悩んでいたのだが、その光明がこれであると思ったようだ。本物の呪いの人形であると押せば、視聴率間違いなしだ。――と思い、有言実行してしまった。
お蔵入りにせずディレクターカットという形で世の中に公開した結果、評判は上々とのこと。視聴率は十パーセント後半を叩きだして、稀に見る高視聴率が取れてご満悦だという顔をしたのだとか。
でも、さすがは上層部たち。呪いとかいう幾何学的なものに屈することなく立ち向かうとは……|懲りない《たくましい》な。
そういうことで縦社会であるテレビ業界は、上からの指示で第二弾を画策中とのことだといった。
要するに「本物の呪いの人形」であるぼくをもう一度使って番組をこしらえるよう通告した様子だ。たとえ犠牲者が出ようとも『少数』だ、呪い殺されようがこちらとしては痛くもかゆくもないと思っている。
近々第二弾の撮影を計画しており、案が通過したらすぐに撮影地に赴く予定でいると憮然につぶやいた。
下々の民であるスタッフ陣は、今もその呪いの支配下にあるというのに上からの指示に唯々諾々と従って、戦々恐々と倉庫を出入りしている。断れないのはそういった人間のサガなのだろうが、それでも準備をしなければならないと覚悟してのことなのだろう。
撮影場所は群馬らしかった。
群馬か。
群馬のことを思っていると、ぴんという効果音が頭の中で鳴る。
スタジオにて、ひと際異彩を放ったいわくつきの神主、『神宮寺』の出身地ではないかと思い至った。
17 車
第17話です。
「なあ、どう思うよ」
群馬へ向かう高速道路。高ぶるエンジン音が車内で響き渡るなか、誰かが疑問を口にした。
「どうって、どれのことを言ってますか」
「ハイランドのことだよ。それ以外に何があるってんだ」
車内には運転手と助手席に一人。そして後部座席には「おどろおどろしい箱」、つまりぼくだ。ぼくが箱のなかに載せられている。ぼくはしゃべれないので、実質二人旅みたいなものだ。
「神宮寺さんいわく、〝人形に呪い殺されただけ〟だといっていましたが」
「それ信じてんのかお前」
「で、でも。それ以外に何があるって言うんです? 警察は事故か自殺のどちらかだって」
「あれほどの啖呵切って、自殺とは思えねぇ。事故っていうのも、状況がおかしい。何の事故があって死んだっていうんだ?
直前、神宮寺に質問攻めにあって、それで死んだんだぞ」
「その後に人形を掴んだじゃないですか。その途端に、ですよ……」
「『人形を掴んだから死んだ』って言いたいのか? まさか……、そんなわけあるか。違和感がありまくりだ。あんな偶然あるもんか、人形を掴んだとたんに死ぬなんて」
「上島さんはなんだと思うんですか」
助手席側から考えるような唸り声を出した。臭いからタバコを吸っているらしい。
「殺されたんだよ、誰かに」
「でも警察は……」
「警察警察って、お前はうるさいんだよ。おとなしく運転してろ」
上ずった声をあげ、ハンドルを握りなおす音がした。
「警察にだってわからないことだってあるんだよ。ハイランドの死因は不慮の事故ってことで死因は公表されなかったが、首をかしむしって死んだんだ。毒を盛られたってことだと思うんだよ。だれかに毒を盛られたんだ」
「だれかって誰に」
「そんなの俺にわかるかよ」
沈黙が車内に宿った。今度は若い人が疑問を口にする。「神宮寺って何者なんでしょうね」
「あん?」
「あの神主さんのことです。これからぼくたちが向かう」
「ああ「しゃらく谷」の神主さまか」
「しゃらく谷?」
今では見なくなってきているオイルライターの音に次いで、深呼吸のような紫煙が一回。そしてぶっきらぼうに話してくれる。
群馬県のとある地方、「しゃらく谷」と呼ばれる場所がある。その地は、雨の神の使いでありながら人ならざる者である、とある人形の支配下にあった。ひとたび舞を披露すればたちまち恵みの雨が降り、しかし踊らなければ雨は降らない。たかだか人形の舞一つで人々を飼い殺していた。
そんな矢先、当時の支配者でもあり、今は無くなりしご神体『からくり人形のしゃらく様』は、祀られていた寺の坊主によって傷つけられるという事態が起きた。当然ご神体は怒り、その主である雨の神も怒り、制裁として七日七晩の大雨とそれに起因する大洪水が起きた。
雨の神による終わりなき水の暴虐が繰り広げられ、その地は水の重さによりへこみ「谷」となった。
しゃらくがしゃらく|谷《・》となった地はその後圧政から解放され、人間たちを主流とした生活を営むことになる。
だが支配者だったとはいえ神の使い。支配者がいなくなったため徐々に土地はやせ細り、追い打ちとして近代化による過疎化の波をもろに受けてしまう。
再び恩恵にあずかろうと苦心惨憺して、再び『しゃらく様』にすがりつこうとするも、すでにご神体は紛失し、残っているのは空っぽの箱しかなかった。
神に見放された集落。切り詰める生活水準もむなしく、没落貴族のような限界値に差し掛かっていた。
そんな困窮極まった頃、ある者が人形を集めるようになった。坊主の怒りで|遁走《とんそう》したと思われる、日本のどこかにいるご神体を集める――という名目で、各地から人形を集め、人形供養が盛んに行われるようになった。
それを始めたのが、スタジオに出演した『神宮寺』だという。
「そこに行って、〝この人形〟の持つ強烈な邪気を祓うのが今回撮影する目的ですよね」
「ああ、だがな。おそらくだが『|神宮寺《やつ》』は別のことを考えてる。あの日収録スタジオに来た時点で「あわよくば」なのか「もしかして」なのかは判らんが、裏の意図が見え透いてる」
「え? どういうことですか」
運転手を務める若い人は訝しめの声を出した。彼が言いたいのは、多分こんなところじゃないだろうか。
ほんの二か月前。ぼくのいた、祠付近にて洪水が発生したことがあった。その洪水騒ぎがあったのち、ぼくは人間たちに見つかって、つれていかれてしまったわけだけど、その時は単にいわくありげな人形が欲しかったからだと思っていた。ぼくじゃなくても、小汚い人形であればどれでもよかった。でも、実際はそう単純な話ではなかったのかもしれない。
あの洪水は尋常ではなかった。古びた祠のすれすれまで降った大量の雨水と河川の氾濫まで引き起こした空前絶後の大洪水。その原因が、群馬から逃げたからくり人形……「しゃらく」様が引き起こしたとしたら? その人形が「ぼく」に当たるとしたら?
と考えているのだろう。又はそうに違いないとまで神宮寺は決めつけている。
あの日、人が死んだスタジオにて。ぼくにしか聞こえない音量でこう呟いている。
〝しゃらく〟様にすべての感謝を。――と。
〝じゃらくだに〟は〝しゃらく〟様がなまったもの、収録内にてそう説明されていた。
『神宮寺』を呼んだスタッフ陣もそのようなことを考えてゲストブッキングしたのだと思う。
番組企画書の第二段では『神宮寺』は一枚噛んでいることだろう。計画の段階で、この人形の処分に悩まされているところに聖なる手を差し出した。私が引き受けましょう、と提案したはずだ。人形供養という聖なる救いの手を。
そういうわけで、ぼくたちは『神宮寺』の住まう地、群馬に出向いている、ということになる。
「なるほど、そういうことですか。でも、水の重さ……、降水量で土地の形が変わるって、ぼくには信じられませんけど」
「……ふん、グランドキャニオンは長い年月もの間、水の侵食で生み出されたものだなんて言ってるバカを思い出したな。それと同じだろうな理屈としては。
歴史も伝承もそんなもんだろ。この人形の何がいいんだかね」
「でも、二人しかいませんけど、ぼくらは大丈夫でしょうか」
ジジ……と、たばこを握り消す音がかすかに聞こえる。「何の話だ」
「無事に、生きて帰れるんでしょうか」
「群馬からか? んなもん、知らん。昔は秘境の地グンマーと呼ばれていたしな。山奥には未だ原始人でもいるかもしれねぇな」
ジェネレーションギャップで通用しなかった。
「そんな……不吉なこと言わないでくださいよ」
「ははは! 冗談だよ、冗談。だが、どうやら俺らは強運の持ち主だからな。なんてったって、あの日の嵐から舞い戻れたんだから」
それを聞いて、ぼくはなんだかこの二人の声色がどこか耳なじみがあると思ったら、そういうことなのかと思った。
だから、ぼくの「撮影担当兼送迎係」として選ばれたのだ。貧乏くじを引かされた感じだ。
「ま、何とかなるんじゃねえの。少なくとも――」
後ろを振り返る気配とともに目線を感じる。
「|そいつ《・・・》の、ご機嫌次第だろうけどな」
18 転
第18話です。
それから先、車内は沈黙の世界になった。ぼくを含め、何かを思案し覚悟を決めかねている。
ぼくも「偽物でできた箱」のなかで考えていた。主に、彼のことについて考えていた。
ぼくが来てから次々に人が死んでいく。
ぼくが発端だ。確実に、ぼくが来てからおかしくなっている。
いや、正確にはぼくはあの祠から一歩も動いてないので、人間たちが近寄ってきて、拉致された結果だからぼくのせいではないんだけど。
因果応報。人間側、つまり加害者側が被害を被っているだけに過ぎないのだけれど……気分が悪い。
これでは〝悪神〟だ。
ぼくの存在は〝悪神〟そのもの。
何もしていないにもかかわらず、ちょっと声をかけられて、ほいほいとついていって未開の地に居座っただけでこれだ。
人間に対して危害しかもたらしていない。
だから、彼のことについて考えていた。今のぼくと同様、昔から〝悪神〟だった君のことを。
人間たちを襲う不審死と事故、〝呪い〟云々。
それらのほとんどは原因不明である。何の因果によって引き起こされたのか分からない。
そう、仮定する。原因が分からない。
そう仮定すると、とある物が思いつく。
そう――
彼と別れる寸前で、彼が言った、〝風のいたずら〟というワードだ。
〝風のいたずら〟――結局、ここまで時間が経ってしまったけど、一体何の効果が働いているのか皆目見当がつかない。
けれど推測くらいならできる。それは風のいたずら的に起こるもの。気まぐれで、かまいたち的に、強風のごとく吹き付けるもの。人々に近づいただけで素肌を切り裂き、傷つける。そして傷口が化膿していくことで周囲の細胞を破壊していき、流行り病のような絶望を巻き散らかしていく。
見境なんてない。常時発動……パッシブスキル的にこれは発動し、人々の寿命を吹き飛ばしていく。それが使命なのだと、そんな感じに思っている。
だから、番組スタッフたちが今も苦しめられているのは、ぼくのこの〝|風のいたずら《スキル》〟によるものなのだろうと考えた。
ぼくが去れば、人間たちは苦しまなくなる。このスキルの標的は、十中八九、ぼくの近くにいる者たち。
だから、ぼくはなすがままこの車に乗った。乗せられた、のほうが言葉としては正しいけど、抵抗することも出来たにはできたのだと思う。
でも、その方がいい。たとえ、この車の行き先があの者の、人身御供を生業とする仏閣だとしても。この身を焼かれて地獄に向かおうとも、これ以上無関係な人たちを苦しめたくないから。
でも――それで済んだらいいんだけど。
ぼくが遠ざかれば、すむ……話なんだろうか、と思う。
それだけなのだろうか。それが原因なら、何と単純で、怪奇に満ちて、ある種すっきりしたスマートな回答だと思う。問題ごとは、そんな単純じゃない、ぼくとのキョリ、スキル云々の話ではない……気がする。
例えば――、ぼくについて。
例えば――、ぼくの前世について。
例えば――、ぼくの過去について。
例えば――、祠にたどり着く前のぼくについて。
挙げればきりがない。だけど、それらが裏で密接に結びついているんじゃないかって自分なりに思う。そして、ぼくがそれらを忘れているから、こんなことが起きているんじゃないか、とも。
それに――彼が言った言葉。
それは、古びた祠を避けて、嵐が舞い降りた夜。
――アハハ、そりゃ笑いたくもなるよ。なんだアイツラ、また新たな呼び名を作ったの?
――じゃらくだに? アハハっ、何それ。誰のことを言ってんの?
――ほんとにさー、勘弁してくれって。前の呼び名を忘れたからってコロコロ変えちゃって。
〝じゃらくだに様〟は、人間たちが作った架空の神様。現実には存在しない。でも、『そこ』じゃない。
――なんだアイツラ、『また新たな呼び名を作った』の?
――『|前の呼び名《・・・・・》』を忘れたからって。
あの言葉の真意はどういう意味なのだろう。〝じゃらくだに様〟は存在しない。それは人間たちが作った架空の神だから。でも、『新たな呼び名』って?
そして、彼がいうそれは、何と呼ばれていたんだろう?
順当に行けば〝しゃらく様〟ってことになるんだけど、多分違う。だって、〝じゃらくだに様〟は存在しないから。
〝じゃらくだに様〟は存在しないのだから、その前の〝しゃらく様〟だって存在しない。〝しゃらく様〟というのも、人間たちが作ったんだ。仮に存在したとしよう、それでも〝しゃらく様〟も〝じゃらくだに様〟も人間たちが勝手に呼び始めた名称だ。
彼が言ったのは、『また新たな呼び名を作った』だ。『呼び名を変えた』んでも『新たな神を作った』んでもない。『新たな呼び名を作った』んだ。
考えてみると彼の言い回しに納得する。人間たちが作った神は、所詮空想上なのだから、存在しないものは存在しない。存在しないけれども、その呼び名は時間によって変わることはある。時間によって存在の形状が変わることなんてない。だって存在しないものはいつまで経っても存在しないのだから。
だから、ぼくが思っているのは、人間たちが勝手に呼んでいるものじゃなく、人間たちが勝手に作った空想上の神でもなく、人々が忘れ去られた神について考えている。
すなわち人間側はかつて崇めていたのだけれど忘れてしまって、正真正銘の神様のみが知っている……少なくとも〝彼〟が知る神がいるってことなんじゃないか――という仮説。
でも、その神様は、人間たちが忘れるほどに時が経っていて、その神の呼び名でさえ、今の人間たちは全然覚えていない。
彼は今の人間たちを嫌っている。それは簡単に忘れるからだと言っていた。ここに、祠があることすら、なぜ祠が建てられたのかすら忘れてしまうから。
昔の人間たちは『自然を畏怖したから』彼ら神様を崇めるようになった。それが、今は『自然を忘れたから』彼ら神様の呼び名を作ってそれを崇めようとしている。
その過程によって、人間たちにとって存在しないとされている神――『忘れさられた神』が、〝彼〟目線では存在しているということ。そして、その『忘れさられた神』というのが――
祠にたどり着く前のぼくって、いったいどこにいたんだろう……
急にブレーキ音がして車体が揺れた。
箱が傾いて、思わず中のぼくも前のめりになりそうになった。
「着いたな、さっさと終わらせるぞ」
威勢の良い返事をするようにエンジンが切られ、横開きのドアが勢いよく開かれた。
19 儀
第19話です。
19話から21話まで、文章が長く(5000文字以上)なります。注意してください。
到着したところは群馬県内でも最奥、地元の人たちでさえ知っているものは少ないと見た。
近くには|吾妻峡《あがつまきょう》と呼ばれる、見応え十分な景勝地があるというが、それよりも険しくて厳しい地形をしているようだった。
谷底にある急流で、せり出した岩肌はごつごつと削られている。それだけ水のチカラが強い証拠だ。それによって大量に発生したと思われる水蒸気が白い煙となって立ち昇り、遠くにあるはずの空を消し飛ばそうとしている。始終もやがかった霧が、梢の上にかぶさって濃緑色であるはずの木々をけぶらせている。
温度は冬のように冷め、鳥の鳴き声が見当たらない。自然がぼくたちを見下ろしている。人里以外の人間を拒んでいるかのように凍てついた眼光……
もちろん、初めてここに着いたときのぼくは、あの「おどろおどろしい箱」に入ったまま境内のなかに入ったので、こんな景色は見ていない。このときの荘厳なる自然の声は、もう少しあとになってから見たものだ。
自然の|睥睨《へいげい》のなかを、すばやく通り過ぎようとする。江戸時代の運搬方法である|駕籠《かご》さながら、えっちらほっちらと運ばれる。
……ところで、これ。二人で持つほど重くないはずなんだけどな。発泡スチロール製だし、中に入ってるのもぼくだけで、空っぽのようなものなのに。なんで二人がかりで持つんだろう。結構揺れるから、一人で持ってくれないかなって思ってる。
でも、この中に入って座って運ばれていたらしい宮仕えの人たちは、こういった揺れを感じていたりしていたのかな。
そういう考えなくてもいい歴史の妄想にふけりつつ、箱入り娘と同じくらいの待遇を受けてぼくは待っていた。大音量のせせらぎの音が下がってくるや、足元から砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。どうやらここが境内らしい。
すると箱の外から、ようこそいらっしゃいました、とくぐもった女性の声が聞こえた。女性の案内に従い、|駕籠《かご》は斜め上の方角に進む。時折重そうですね、持ちましょうか?――という気遣いの声が、スタッフチームを悩ませる。全力の遠慮をしている。
そりゃそうだわ。だってこれ、|外側《がわ》だけ立派なだけなんだし。指一本でも触ることのできない見えないバリアを巡らせて進むしかない。
砂利の音が消え、しばらくすると箱が降ろされた。着いたようだ、とぼくは思っていると、南京錠が外される音が鳴っている。隙間ができ、そこから久しぶりの光が内部に入光した。
「こちらが、その……」
二人のうち若いほうが代表する。これが噂の、人形です……おずおずとした紹介の仕方。初めて見る顔が二・三人いた。白拍子の神聖さのある服装を纏いし若人たち。どれも女性だった。
あ、はじめまして。白い服を着た女性だから、巫女さん、で、いいのかな。結局ここって寺なのか神社なのか分からないんだけど。
とりあえず、目線だけで……やあ。
あれ、反応してくれない?
だめだよ、そんなんじゃ。恥ずかしがり屋であるはずのぼくが、やあ、と言ってるんだから、そちらも「やあ」で返さないと。初対面の会話で印象の七割が決まってしまうんだからね。
何も返さないでじっと凝視してくるのって、無礼なやつだなって思っちゃうでしょ?
その時のぼくには、なぜ巫女さんたちがまったく反応しなかったのか、その理由が分からなかったけど、あとから察するにぼくの内面にあるものを感じ取ってしまったのだろうと思う。
番組スタッフからの事前にうかがった話や噂の是非。噂というのは短期間でこれまで何人もの人たちを〝呪い殺した〟という実績だ。いわくつきの人形。日本人形然とした、元の色も分からないほど、うす汚れたひな人形。のっぺりとした顔つき。定番のど真ん中を通ってきたような見た目、その大きさ。その汚さ。
また出演者であり、ここの主、すなわち住職でもある『神宮寺』から事前に訓示めいた内容を聞いていたのだろう。好奇心は猫を殺す、あまり見てはならないと言われたかもしれない。それでも好奇心には上限がない。
もちろんそれなりの覚悟をして確認しに来ているはずだ。その上で見た実物。でも……それに勝る『何か』。
名状しがたい『何か』が目の前には憑いている。先に目線を外してはいけない、と脳内に考えが迸る。人形から目線を外すことなんてないのに。それでも外してくれる、人形から先に舞台上を去らなければ、目線を外してくれなければ、自分の身に危機が迫ることになってしまう。
閉じるのを放念したように、口と目は見開かれたまま、刻々と時が過ぎる。あれは、神職に就く者としての〝絶句〟そのものだったのだ。
その日は面通しをしただけで終了し、次の日から儀式に入った。儀式は一週間かけて行われた。詳しい内容は……大体省いてもいいだろう。
結論から申し上げますと、効果はまったくなかったわけだ。
ぼくとしてはいったい何をやっているのか、見当もつかない。伽藍のような、立派な建物のなかでぼくは台の上に置かれ、目の前を見据える形をとらされる。
大体人間の一歩くらいの距離しか離れてない。右に左にとうろつく者はあの『神宮寺』だからいたって真面目な儀式なのだろう。先にギザギザした白い紙切れがいくつも付いた長い木の棒をしゃんしゃんと振り回して、神宮寺はぶつぶつと呟いている。それが三日間続いた。
あのな、言っていいか? そのギザギザした白い紙切れ、上下に振り回したときにそれがいくらかぼくに当たってるんだぞ。それが何度もだ。数週間前に死んだ男――名前なんて言ったっけ? 忘れちゃったな――のように、容赦なく鷲掴みされて投げられるほうがよっぽどましだ。というかその棒でいっそ叩いてくれよ。そのほうが気持ちよく倒れることができるから。
でも、そうじゃない。問題なのはギザギザした白い紙切れだ。紙切れは紙切れなんだ。軽いから衝撃はないので当たった所で転ぶことができないし、仮に当たってもなんだか柔らかいもので身体全体をなでなでされている感じがしてくすぐったい。なんだかバカにされてる気がする。
これで三日間立ったままでいろだって? 誰が考えたんだこんな嫌がらせ、人形の立場にでも一回なってみたらどうだ。
でも後半に比べたらそうでもないかもしれない。
後半の三日間は前半とは打って変わって屋外だ。
あれはいきなりだった。よく入口などにある手水所にぼくを連れていって、そのままどぼんと沈めてくれた。
とても、水が冷たかった。これほんとに液体なの?――と疑問を抱いてしまうくらい、冷たかった。なんで氷になってないんだこの水、と悪罵を吐き捨てたくなった。
沈めるだけじゃなく、ひしゃくで布の繊維にまで染みわたるくらいの入念さ。ああ、たしかに汚かったよ。悪かったって。そう何度も水中で謝ったのに、そんなに冷えた水ですすがなくたっていいと思わない? きみたちだってこの水の温度で、身を清めてるわけじゃないんだろ?
そんな巫女さんたちによる水責めから三日、ここに来てから六日が経ったある日の夕方のことだった。
もう一日が終わりそうなほど低い場所からのオレンジ色を帯びた光線を浴びて、ただ立っているだけの時間。
先ほどまで冷たい手水所でじゃぶじゃぶされた後なので、衣服には雫が滴っている。ひたひたのおひたしのようになっている。この時間は、ほうれん草のおひたしを乾かしてほうれん草にするためだけに設けられている。
ただでさえ霧が深いこの境内で、夕方近いことをある。降り注ぐべき光量は霧の屈折率によってどうしても少なくなってしまう。他に頼れるのは風くらい。それも湿った空気を運んでくれる。乾くわけがないんだよ。ほんと、いつまで待てばいいんだろう……寒いよ。
「それでなんですがね、あの人形のことでご相談が……」
遠くからこんな会話が聞こえてくる。会話の主導権は神宮寺にあるようだ。
内容から見出すに、ぼくについての相談事だ。
相談事は道中で彼らが予想していたものと大して裏切らない。
儀式として設けられた期間は七日間。紙切れシャンシャンが三日、ずぶ濡れ水責めが三日、正味あと一日残っている。今までの儀式はいわば前座のようなもので、最後に残ったものこそ、人形供養……〝炎で焼かれる〟という行為そのものである。
だが、神宮寺としてはぼくをご神体として引き取りたいと思っている。本心としてはあまり燃やしたくはない。
しかし、スタッフ側はたとえ同胞のほとんどが〝呪い殺された〟呪いの人形である。それに番組の「撮れ高」を考えれば、人形供養の炎で焼かれるさまはぜひとも取りたいと考えるはず。
そこで神宮寺が提案したのは、新たに「身代わり人形」をたてるということだった。
「考えてみてください、人形がすり変わるだけだと。直前まででいいのです。あの人形の出番はそこまでで充分。そこから先はスタントマンがとってかわるようにすればいい。あなた方が撮りたいと思える最高の光景は変わりませんから、カメラに収めることができるでしょう」
神宮寺の提案を聞き始めたころは拒否と不本意さの混じった表情を見せていたが、神宮寺が事前に「上」に話を通したのだろう、二人の上司に電話で相談するとすんなり承諾の意を捧げた。「大丈夫だとのことです」
「心遣い感謝します」
神宮寺は深い礼をした。
「…… 一つだけ聞いてもいいですか。どうしてそんなにあの人形に固執するんです?」
頭を下げたまま深く黙っている。何も返さないのが答えである、と言っているように。ゆっくり、神宮寺が頭を上げる際に質問者は続ける。
「あなたは今までテレビなどのメディア出演は断ってきたと窺っています。俺の上司からも、今まで打診してきたのに応じるどころかけんもほろろだったと。だが今回は違った。わざわざスタジオにまでお越ししてきて、出演なされた。その端緒は……」
目が一瞬ぼくの方にきて、戻した。
「神宮寺さん、言っておきますけどね。もうこりごりなんですよ。我々に対して、あれが再び〝災厄〟をまき散らすのは、もう勘弁なんですよ」
「そう思うでしょうね。私がいくら言葉を積み重ねたとしても、理解できないだろうと思いますよ」
スタッフ側は渋々といった感じを出していたものの、夜も近かったこともあって境内から足早に去っていく。
ただ今回に限ってみれば、何かを持っていた。ここに来るとき、ぼくが入っていたであろう発泡スチロール製の空っぽの箱。それを持って去ったということは、今夜、いや「今夜から」この寺でお泊りだということを告げていた。
神宮寺が寄ってくる。夜の風で凍えきっていたぼくを丁重に持ち上げて、砂利を踏みしめていく。
しばらくすると道は砂利の参道から小さな飛び石になっていく。足音はじゃりじゃりからこつこつと。境内から徐々に奥へ。深い霧で覆い隠された森が迫ってきて、霧の粒子でできた自然の舌にのせられ、飲み込まれるように中に入った。
森の中で二人きりになる。
「じゃらくだに、|情痒《あがゆ》いじゃねぇ? あだけんたごどばしてまねごどばもうないがもじれぬげもど」
とうとう頭がぶっ壊れたのかと思ったら、独り言だった。
「私が小さいころ、呪文のように唱えられた一節です。世間でいうところでいえば家訓、いえ遺訓でしょうか。
先祖が遺した遺訓。現代風に直すとこうなります。『あの日に戻してください、しゃらく様。私が間違っていました。どうか、どうか、私はあなた様に謝りたいのです』。誰が言ったのか。いくら歴史上をさかのぼっても、この地方ではあの人しか出てきません」
神宮寺の言葉によって、霧がさらに深まっていく気がした。フクロウやミミズクの声さえも聞こえない。あるのは、か弱い夜の風により木の葉同士、霧の粒子同士がこすれあった不気味なざわめきだけ。
まだ続く。「世間知らずだったのです。父親に守られ寺に籠りきりで大海を知らない井戸の中にいた。蛙だったので、あのような愚行をやってのけた。
隣の村に井戸があったことを知らず、こちら側には井戸がなかった。雨が降ることはありましたが、まともに貯水することができず、困っていたのはこちら側だったのです。
だから父親は定期的に隣の村へ足を運んで、水を分けてもらうことで村の存続を図っていたのですよ。たしかに隣の村は雨があまり降らなかった。ですが大きな井戸があり、そこから地下水をくみ上げることができた。地下水脈は村一つどころか隣村にも賄えることができるほどに強靭だった。飢餓状態だと思い込んでいたのは彼一人だけ。
おそらく、寺の窓から遠くを見ていたので勘違いしたのでしょう。遠くの畑の土を見た。土が乾いている、だから飢えているに違いない――そう見当違いなことを思い、父親の外出中を狙い離れに行った。そして、天罰が下った。離れは流されてしまって、唯一……この箱だけが残った」
ザッ、と足袋の足が止まった。目の前に、霧にむせぶ祠のような箱があった。それ以外に物はない。
祠と呼ぶには簡素なつくりをしている。灯篭のような台の上に神棚のような箱があって、障子みたいな格子扉がついている。これではあのオンボロな所しか残っていないあの『ビル群に取り残された祠』のほうが幾分マシとさえ思える。しかし、近づいてみると……
神宮寺は一礼してその箱に近づく。格子戸を開けた。鍵はついていない。数字錠さえない。箱の中は小さな紫色の座布団が一枚あって、そこにぼくを座らせた。意外にもふかふかだった。ひんやりだったけど。
そして一度離れ、一礼してから再び近づき、扉を閉めた。閉められても箱の中は真っ暗ということでもなく、格子戸ということもあり隙間はある。そこから霧の空から注ぐ月のひかりで建物のなかを照らしてくれている。
月光に内装がきらりと反応する。黄色く光っている。黄色、いや、これは金色だった。
金箔が贅沢に貼られ、床から天井、そして格子戸の裏に至るまで余すことなく使われているらしい。外の雨ざらし感の強い外装よりずいぶんと格式高い造り。
なるほど……、ここがぼくの家か。新居な感じがしてとても良いね!
「――っ――」
月夜の只中に立つ神宮寺は、それまで深い礼をしていた様子だった。
そのとき、何を言っていたのか、ぼくにはよく分からなかった。神宮寺は踵を返し、飛び石を渡って霧の中へ去っていった。
20 炎
第20話です。これを入れてあと4話で終わります。
神宮寺が去ると、ここにはぼくだけしかいなくなった。
まだ数分しか経過していないが一つだけ言えることがある。ここ、何か分からないけどどこか懐かしい感じがする。少なくとも突貫工事感のある、あのめちゃくちゃ軽い|駕籠《かご》よりか、心地がいい。
今夜は満月だった。いい夢を見ることができそうだ。霧と月夜と冷たい空気、そんな雰囲気が好きになれた。
格子戸から白が可視化される。霧の世界が見える。周囲に蔓延る霧は祠を守るように、また、大蛇が寝そべるように始終地面を這って動いている。霧の奥には大自然の色と香りがあるが、どちらもうっすらとであり、圧倒的な量の白い水彩絵の具に塗りつぶされてほとんど見えない。
ここはどこなのだろう、と疑問に思ってしまうくらいだ。神宮寺につれられてきたので山奥なのは確かだが、それにしたって周囲からは何も聞こえない。自然が寝静まっているから無音なんだと思う。唯一動いているのは音を出さない無機質感。絹のように柔らかい白い霧のみ。
雪化粧ならぬ霧化粧が広がっていた。
しとしとと降り積もる、雪のような白さではなく、若干透き通る感じの。それからもふもふと目にやさしく入ってくる印象を抱き、目いっぱい月のひかりを吸収したかのごとく、その霧は薄黄色に染められている。
その霧が……、徐々に、徐々に。地面に降り積もり、かさを増し……祠の台まで至り、目の前の、格子戸の隙間から流れてくる。中に入った微量の霧は、祠の床面を撫で、波紋を生じ、紫の座布団を覆い隠そうとしてくる。霧に隠れて床が見えず、ほんのちょっとだけ紫が見える。筋斗雲の上に乗っているかのよう。
これがこの祠の「様式美」なのかなと感じた。
ぼくはもこもことした薄黄色の流入から、ふと彼のことを思い出す。実体を持たぬ彼のことを。けれど、この霧の演出は彼の力ではない。登場するとき、実体を持たない彼は、このような霧を辺りに撒いてからしゃべり始める。
でも、違う。今は全くの無風で、風切り音は感じない。暴力的な意味合いは感じ取れない。穢れもない、何も、何も感じない。彼は、ここにはいない。
霧は、壁面をつたって天井にまで達した。壁面の金箔でさらに黄色く、金色色を発す。
金色の霧がぼくを覆い、とうとう視界は金色に染められる。その色は、どうしたことか、月が雲によって翳りをみせるように、照度が下がって暗くなっていった。
そうなってくると普段まったく眠らないはずのぼくの意識は霧によって喰われ、視界を奪われる。そこに怖さはなかった。
穢れは感じず、神聖さだけがそこにあった。人間でいうところの眠りにつく。目を閉じるように……
金の霧は生命に隷属性を強制させた。あの言葉が浮揚してきていた。
――二か月以内に、君は燃やされることになる……。
そう、ここがぼくの……|終《つい》の棲家。
祠の中は、あっというまに夜霧で塗りつぶされる。
そして、本物の夜が舞い降りた。
……
からめとられた手足。
……
沼のなか。
安心、快適、安らぎの混在する空間。
…………。
………………。
…………。
………………。
心地の良い水のプール。
冷たくない。熱すぎるわけでもない。心地の良い適温。それから……重たくもない。
まとわりついてくる水は海のなかであり、湖のなかであり。けれど。
けれど、水とは感じない。空気に触れあっているかのような。
というより、触れ合っていないかのような。
この感覚は、そう……霧……
ぼくは今、霧に包まれていて……
…………。
………………。
…………。
………………。
霧の中はとても清い。
声もなく、邪魔するものは一切ない。
ただただ闇がそこに居座っていた。
じっと見ている。気配がする。
……の……よ。
……おわす……かみよ。
わが……れり。
…………たまえ。
……?
気のせいだろうか。
霧がこちらに話しかけている。
しゃべり声? 人間の、しゃべり声かな。
悲壮な声。悲しんでいる声。
これは……?
……はるか彼方……の神よ…………
……を統べる……の神よ…………
我が……に……来たれり…………
……らに、祝福を……まえ……
霧は、神さまを呼ぼうとしているの?
ともだちなのかな、でも、何の神さまなんだろう。
それは粒子をわさわさとこすり、霧を動かしている。真っ暗闇から色が付く。
明瞭に、聞こえるようになってきた。
……豊穣と、……をもたらし……の神よ……
……赦し給え……我らを……赦し給え……
違う、|神様《ともだち》を呼ぼうとしているんじゃない。これは。祈りの言葉なんだ。
災害に揉まれ、自然の暴虐に、理不尽に、家族や身内を失くし……昔の人が最後の拠り所として、祈りを捧げ……
「はるか彼方におわす、焔の神よ……」
「地を統べる、風の神よ……」
「我がもとに来たれり」
「我らに、祝福を与えたまえ……」
なんだか、こわい。
「この地に豊穣と、水害をもたらし雨の神よ」
「赦し給え」
「名前なき邪悪な心を持つ、愚かな人ならざる者を」
「清めたまえ」
「魂を」
「救いたまえ」
「今ここに、焔と風が混ざりし精霊を」
「精霊を……」
「寄こし給え」
「精霊を寄こし給え」
「焔の精よ」
「こちらに来られ給え……」
「闇を払い給え」
……おきて。
「――ん」
……起きて。
誰かの声がする。ぽふぽふと、肩に手を当てられた。なに、何だろう。ぼくを、誰かが呼んでいる……
「……うん?」
目を薄っすら開けた。最初に翠の龍が立ち昇っていくのが見えた。
★
立派な木の|梁《はり》が横に通されている。これは、天井?
「ほら、起きて」
ぼんやりとする視界に、何かが映った。見覚えのある姿。白拍子の衣服に、折り曲げられた膝。赤い袴。
巫女のような服装。その顔には、狐のお面が付けられて……。狐の、お面?
しゃがんでのぞき込まれている?
女性はぼくの目が開けられたことに気付くと、お面に手を付ける。片手はお面を支え、もう一方は頭の後ろに。面が取り払われた。
三日月のように、ゆっくり顔の一部分が見えてくる。切れ長の目に鼻筋の通ったきれいな女性。散りゆく桜の花びらのように儚げで美しい。薄桜色の口元を動かし、やさしげな笑みをつくる。
「大丈夫? ずいぶんと長いお昼寝だったみたいだけど」
ぼくの口は勝手に開いた。
「今、何時?」
「もうすぐ昼になってしまうくらい」
「うーん、それなら今日は休みにしようよ。眠い……」
「もう、そんなこと言わないで。ほら」
ぬくぬくとしたおふとんに潜り込もうとしたぼく。狐面の人はぼくの背中に手を差し入れ、上体を起こそうする。
強制的に、とはいえやさしく身体が折り曲げられたことで視界は横に広がった。
「ほら起き上がれた。さあ、今日も、舞の練習をしましょうね」
「うーん」
だいぶ戻ってきたけれど、それでも頭がぼんやりとしている。周囲の言葉、音、色が素早く通過している。……今の目では情報をキャッチできない。
「ふわあ」
だから自然な流れであくびをし、頭の血の巡りを良くしようとした。天井に腕を伸ばす。全身が凝り固まっていたみたいだ。ぼきりぼきりと、盛大な骨が鳴る。
「――ん?」
ぼくはどうしてか疑問を持った。手を見る、指先を見る。一つずつ動作確認するように、握ったり開いたりした。
あれ、動く。指同士は接着剤で固まってないし、ちゃんと爪もある。
「あれ?」
腕、肘をあげてみた。ちゃんとした関節がある。木のボールで回っているとかじゃなく。皮膚がある、ぎゅっと握れば表面はこわばってしわができる。つまむとやわらかい肉があるし、下には骨のような硬いものもある。
「……? どうしたの?」
心配そうな声を掛けられる。首をねじって――ちゃんと首も回る――、顔を突き合わせるようにして、
「ぼく、人形だったんじゃなかったっけ?」
「あら、まあ」
狐面の女性はちょっと驚いたようなことをいい、扇子で口元を隠した。
「ねぼすけさんね。私たちは人間よ。ほら、ぐにょーん」
「ふわ。い、いひゃい」
「ね?」
ぼくの頬をつまみ、ちょっと引っ張られた。意外と痛かった。そうか、ぼくは人間だったのか。あれは夢。夢だったから、人形だと思ってしまったのか……
「さあ、今宵も〝あめちゃん〟を呼ぶ練習をしましょうね」
ぼくは、うん、と元気よく返事をした。立ち上がって下を見ると、いつの間にか布団はなくなっていた。
社殿にはぼくと目の前の女性、狐面の巫女しかいない。この人が要するにぼくに舞を教えている人、指導者みたいな人だと思い出した。……思い出したというのもなんか変な話だなあ。
偉いというわけではなくて、舞を踊るのが一番うまいってだけなんだけど、よくぼくの世話役を買ってくれている。
「扇子は持ってる?」
「あ、ええと……」
ちょっと言葉を濁すぼく。
舞に扇子は重要な道具だ。でも、今は手元にない。
「あら。もしかして、失くしちゃったの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
舞の練習は毎日三、四時間ほどみっちりと練習する。ただぼくからすると舞より別のことをする方が好きだったりする。だから、ほんの出来心が芽生えちゃっただけなのだ。
「ええと……」
目線が女性側から左に逃げる。ええと、どこにやったっけ、と――
「あ」
「あ」
それはむき出しになっていた。社殿の外、地面に突き刺さった木の棒が見える。
囲炉裏に突き刺したつくね棒をあぶっているように、それは堂々としていた。
「あわわ……」
急いでそれを取ろうと走る。もちろん隠すためだ。
けれど、それを狐みたいな俊敏性を発揮して先回りする。彼女の手に収まった。
「ふふふ、キャッチ」
「あー!」
「これ、どうしたの?」
聞かれてぼくはあわあわした。
閉じた扇子を串に見立て、だんごを三つ突き刺したそれを見て。
彼女は振った。だんごの形が崩れ、数日間で一番の出来だったはずのだんごが地面に落ちる。ああ、ぼくの泥だんごたちが……
「だめでしょ、物を粗末に扱っちゃ」
「うー」
扇子は舞を彩るための必需品。扇子が無くなれば、練習しなくてもよくなる。そんなことを思っていたのに……
「だって……」
「だってではありませんよ」
「うう……ごめんなさい」
「まったくもう。これじゃあもう、使えませんね」
美しく光る扇子は、見るも無残な姿になっている。泥だらけだ。彼女は開こうと躍起になっていたが諦めてしまっている。開こうにも開けない。泥水で固着してしまっているのだ。
泥水に沈めれば開くことはできない。扇子から薄汚れた短い木の棒に大変身。隅々まで泥水を浸からせた甲斐があるもんだ、とその時は自画自賛していたけれども、その12時間後に後悔の念が押し寄せている。
「こら。この扇子は国宝品レベルですからね。ご主人様に叱られちゃいますよ?」
「でも、洗えばまた使えるもん」
ぼくは主張した。世話役の彼女はちょっと顰め面になる。
「……もうすぐ『お世継ぎ様』も元服を迎えるんですから、こういうことはもうしないようにしましょうね」
「うう……、はーい」
怒られてしまった。しょんぼり顔を見せると、彼女の怒り顔が少し回復した。
「じゃあ、わたくしのを使いましょうか」
「え、練習するの?」
「ええ。だって、〝洗えば〟使えますものね?」
「……むー」
笑みを浮かべながら私物である扇子を渡してきて、しぶしぶぼくは受け取った。彼女が重要な舞の時、いつも使っている扇子だ。金の鳥があしらわれ、鳥の羽根が抜け落ち浮遊するように、全体に金箔が散りばめられている。扇子を閉じれば金の延べ棒みたくなる。中骨からは神々しい光沢が垣間見えた。
渡した後、彼女はそっと距離を置き、見守るようなやさしげな目つきをする。
うう、練習を、やるしかないのか……
ぼくは社殿の中心でぎこちない舞を披露した。ステップを踏んで、ぴょんと飛ぶ……が、長めの裾に足が引っかかり、こけそうになったりする。
見せ場がある場面では、扇子を開いたり閉じたりするものの、開くのに手間取ることもある。いつも子供用の扇子を使っているからしょうがないけど、さっきの一件があるせいかバツが悪い。
それでも彼女は怒ることもなく、逆に笑みを浮かべて手拍子をしてリズムをとってくれている。
ぼくは踊っている最中、社殿の装飾に目を走らせていた。社殿は境内のなかで一番大きな建物だ。床面は細い木の板が張られ、五十畳は余裕である。
天井はとても高く、立派な梁といくつもの龍の絵が描かれている。大樹のような松の木が壁面を伝って天井まで延び、その間隙を縫うように翠の龍が空中を飛んでいるかのようだ。口を大きく開け、霧の息吹を吐き出しいくつもの白い雲を作っている。
そして社殿の奥、一段高い場所。普段は神棚や祭事のときに演舞を披露する場所だが。そこにひときわ大きな調度品がどすんと置かれている。やや蛇腹おりして置かれた、金色の屏風だ。
この扇に描かれているものと同じ、金色の鳥……|金鵄《きんし》が一面に出されている。太くてしっかりとした枝にかぎ爪のような趾でぎっちり固定している。右目を手前側に向けた横顔は凛々しさしかない。
黒いくちばしには赤い木の実をくわえている。「くこのみ」というらしい……なんか、色々見ていると疲れてきちゃったな。
「あの、いったん休憩でも――」
「止まったら最初からですよ?」
はい、頑張ります。
強制的に舞を再開された。頭に外した狐の眼がぼくを見ている。狐につままれた感じ。
彼女の手拍子によって舞のリズムをつくり、ぼくはさながら操り人形のようだ。うう……つらい。これ、踊りがうまい人でも全部踊るのに20分以上かかるんだよ……?
踊っている最中、外側からこんな声が聞こえてくる。
「はるか彼方におわす、焔の神よ……地を統べる、風の神よ……。我がもとに来たれり」
低く、威厳のある男の人の声。お父上様の声だ。もうすぐぼくの元服、大人になる日が近づいている。
古くから身代わり人形を賜る儀式がある。その時捧げる口上のセリフを練習しているのだと思う。
古来より続く伝統的な儀式――人形供養は、聖なる炎で焼く必要がある。普通の薪で点ける火ではなく、炎を降ろす……焔の神を降ろしてから点けるため、そこには神様の意思が宿ると言われている。
その際に使われる人形だが、身代わり人形は二種類ある。一つはぼくの部屋に飾ってある男の子の人形、そしてもう一つは倉庫に保管された、もう一つの人形。儀式用に使われるらしい。
人形にも性別があって、男の子と女の子がある。ぼくの場合男なので、男の子の人形はいつも持ちあるき、女の子の人形は儀式用に回される。儀式用、つまり人形供養の炎によって焼べられることになる。
つまり、元服の際に「仮にぼくが女として生まれてきた可能性をつぶすために」女の子の身代わり人形を焼き供養する。
しかも保管用の箱から取り出さないままそうするので、いったいどのようなものなのか解らないまま、人形とお別れすることになる。実は箱の中身はからっぽで、人形なんて入ってない。焔の神を降ろすわけだしそんな無礼なこと御父上様はしないだろうけど、もうそれでいいんじゃないかとひそかに思っている。
踊っていると身体が熱くなってきた。
全行程の三分の一くらいしか進んでいないのに、どうしてこんなに熱いんだろう。
今着ている服は簡素で薄い布袴だ。とはいえ、長時間踊っていると汗が噴き出してくる。
でも、今日はそれが原因ではないような気がした。まるで、ぼく自身が燃えているような……
――二か月以内に、君は燃やされることになる……。
いてて……頭のなかで何かが産まれた。
蠢いて、反芻する……
「あ、小雨が……」
外では雨が降ってきたようだ。お父上は師弟の言葉に静かに返答する。
「儀式に支障はない。火を……」
「は、はい」
そうしてぎこちない舞なので時間がとてもかかり、ようやく一巡した頃には始めてから二時間くらいになっていた。疲れてしまってぺとんと床に座る。「ふー」
「よくできました」
彼女が寄ってきて、ぼくにねぎらいの声をかけてくれる。「いい舞でしたよ」
「……よく言うよ」
「ふふふ、そんなことありませんでしたよ?」
全然だな、というのがぼくの自己評価。やっぱり昨日、泥だんごを作ってる暇なんてなかったのかなぁ。
反省反省。
「篝火を、こちらに……」
外の境内では篝火から子種が手渡されていた。お父上様の目の前には箱が置かれており、その下から差し入れ、あぶるような形だ。
小雨決行。もやもやと、炎の上部が箱の底をなめる……。
「あ、あつい」
もう限界で、手に持っていた扇子を振ってあおぐ。
「たしかに、ちょっと熱いですねぇ。どうしてかしら……あら?」
彼女の目は何かを発見したようで、ぼくたちのいる中央付近から壁の方へ行った。
「なるほど、原因はこれですか」
「何……」
「こっちに来れる?」
ぼくは気力を振り絞って壁に向かう。もう床は鉄板のように熱く感じられて、立っていられない位だ。床材の隙間から灰色っぽい何かが立ち上っている。煙のような細長いもの。
それでも彼女は平然として立っている。「ほら」
彼女のもつ、ぼくが丹精込めて作った木の棒で場所を指した。
「火?」
「ね」
「火を、放たれた、の?」
みたいね、と息を吐いた。「これが巷で話題の焼き討ちというものかしら」
「えんりゃくじの?」
ぼくの言葉に頷かれた。どうやら誰かが社殿の下に火を放ったようだ。社殿は高床式なので、ぼくのいるところの下には空洞がある。そこに火を放ったのだろう。
「誰が、そんなことを」
「うーん。誰でしょうねぇ、信心深くない方なのは確かなのでしょうけれど」
「そんな……」
「まったく、この社殿は貴重なものなのですよ」
彼女はかかんだ。床面を炙る、めらめらと昇る炎に棒状の泥色の棒を近づけた。
「それを、こんなか弱い炎で」
泥で塗り固められた扇子の先はあぶられ、火が乗り移る。ろうそくを持っているような感じになっていた。
「ねぇ……、ぼくたちも、えんりゃくじみたいになっちゃうのかな?」
彼女は数秒の間だけ黙っていて、
「『|大事にしてねって言ったのに《・・・・・・・・・・・・・》』」
彼女はぼそりと言った。炎熱のなかにいるのに、声は凍りつくように冷たい。え、とぼくは聞き返す。
すると続けていった。今度は打って変わってゆるく。薄桜色の口角をあげて、
「――って、ご先祖様はいうのかしらね」
立ち上がってそっぽを向いていた。彼女は遠くの方に目を飛ばしていた。
床材の隙間から発生する、灰色の煙は霧状に変化してしまってもうもうと室内に籠っている。それによって金屏風は高温の煙に焼かれ、金鵄は泣いているようだった。
「〝あめちゃん〟でも呼びましょうか」
「……〝あめちゃん〟?」
「ええ」
唇に人差し指を持ってくる。「困った時の、神頼み」
彼女はこんな状況でも余裕を保っている。どう見ても緊急事態なのに……
「ふふふ、こんな炎、|ちょっと《・・・・》本気の〝あめちゃん〟にかかればこんな炎、お茶の子さいさいなのですよー。
わたくしの舞、見ててくださいね。わたくし以上の舞のお手本はいませんから。ね、『お世継ぎ様』」
かわいげにウィンクをして狐面をぼくに預けた。
背を向ける。ぼくを残して中央に赴いた。悠然とした歩み。炎や煙をものともしない仕草。
中央につくと一旦身体は静止をし、動き出した。舞を紡いでいく。無音の舞が繰り広げられる。本来そこにはポン、ポン、と小鼓の合いの手がつくのだが。
ぼくは見惚れてしまっていた。彼女の周りから、幻聴の小鼓が聞こえてくるようで。
いつの間にか、彼女が持っていた木の棒は燃え尽き、ぱさりと開く音がする。
金屏風は激しく燃えていた。蛇腹の欠片が床に落ち、数秒後には跡形もなく崩れ去る。形あるものいつか崩れる。それは無くなるという意味ではない。
凛とした金鵄が金屏風からそちらに|転生し《うつっ》ていた。舞を踊る彼女の手には、輝きを取り戻した、黄金の扇を振り払っていた。
22 夢
第22話です。
元は、単なる『おまじない』だったんだ。
昔、一人の幼い女の子が山で迷子になってしまったことがあった。
今のように人間社会として発展してなかったころでね。自然のほうが多く、都会なんてない。すべての土地が田舎であり、自然災害におびえ、一つの村を形成するように複数の家族が一つ屋根の下で暮らしていた。
だから女の子は外に出たかったのだろう。外に出て、いろいろな遊びをしたい年頃だった。でも大人たちの目からすると、村の外というのは危険がいっぱいだし、その日はもうじき嵐の前触れのような暗雲が見えていた。今日から数日間は、天候を司しり神が来訪する、だから家にいるように。大人たちは納得したが、幼い彼女はそれが堪え切れられなかったんだ。
彼女は誰にも言わず村を出て山に行き、そして迷子になってしまった。
てっぺんにあったはずの太陽は傾き、遠くの山に隠れようとして、夜になった。闇が広がるようになってさらには雨脚が強くなり、瞬く間に雲海から海だけがが落ちた勢いになった。
幼かった彼女は帰り道が分からなくなった。激しい雨に途方に暮れてしまった。普段こっそり行き来するこの道は、日が照っている時間帯なら迷うことなんてない。ほとんど一本道だから大丈夫なのだ。そう思っていたのに、空が暗くなるにつれ、雨の勢いが強くなるにつれ、ぐしょぐしょの地面になっていくにつれ、弱気になっていく。どうしよう……、助けを求めても誰も届かない山のふもと。泣き顔は濡れていた。
そんな時、声がした。足元の地面から。
一部分がホタルのように光っていた。彼女はしゃがんでみた。
地面と顔が一気に接近すると、それは何か小舟のような、葉っぱの上に乗せられていると気づいた。それから雨音にまぎれて声がする。とても小さく、呼びかけられる。
「どうしたんだい?」
分厚い雨雲による夜の下。光はそう女の子に尋ねた。
彼女は道に迷ってしまったことを伝えた。すると光は「そうか、じゃあ途中まで一緒だ。ついていってあげよう」
といって、光はくるくると弧を描き、彼女の胸の中に移動してしまった。
「こっちだよ」
彼女は突然のことに戸惑っていたが、胸の中から声がする。あたたかくてどこか懐かしい、勇気が湧いてきた。
胸から光が出ている。直進する光の|道標《みちしるべ》、穏やかな声の案内。彼女はそれを踏まえてどしゃぶりの山道を進んだ。
霧の孤軍だったけど、不思議と怖さは全く感じなかった。道中、川や滝、時折|樹洞《じゅどう》とよばれる、木の|幹《みき》に空いた穴を通ったりもした。幹のなかは、トンネルのように長かった。
「どうだ、知らなかっただろう。こっちのほうが近いんだ」
そう会話をしながら先に進む。
そうして雨が弱まっていくと視界の霧が晴れていき、なじみの村が見えてきた。ありがとう、と彼女は自分の胸を見ていった。
「こちらこそ。楽しかったよ」
胸から光は出ていって、空中で左右に揺れた。それがさよならの意味を示していると分かり、彼女も手を振って応えた。
光は山奥に消えていく。方角は、先ほど彼女と通ったところだった。
彼女は村に戻り、心配していた両親に目いっぱい抱きしめられた後、ぐっすり眠った。目が覚めた後、胸に何か違和感があり、ぺラリと肌着をめくった。すると、そこにはちょっとしたケロイドを起こしたように赤くなっていた。
天候が回復した後、彼女は何度も山に登った。執念深く探したけれど、光はおろか滝も川も、潜ったはずの樹洞も見当たらなかった。光は彼女に胸の印を残し、山奥に消えていってしまった……
★
「――つまり」
ぼくは長ったらしい話にメスを入れた。
「『|風のいたずら《あれ》』に効果はないと?」
ぼくは聞き返した。声に、にやりとした感じがする。
≪ないね。ただの『帰れるおまじない』だから≫
「自分以外のものに攻撃性などは一切ない。危害を加えたり、説明のできない事象、いわゆる〝呪い〟のようなものが発生したり、死亡事故が起きたり、なんてこともない――と?」
≪うん。そう思ってくれて構わないよ、『君の期待に応えられずごめんね』≫
「……だろうと思ったよ」
空からの転落というサプライズ。要するに『ひどい目』にあった翌日。彼は霧とともにのこのこやってきた。
やあ。どうだい機嫌は。ふーむ、なるほど? いっこうにしゃべらないってことは、どうやら「ご機嫌ナナメ」のようだね、と相変わらずのんきな口調で話しかけてくる。
「……ひどい目に遭ったんだぞ」
彼と再会し、霧を待たせた最初のひと言目がそれだけだった。
白い鳥居の上にぼくは座っていた。ブランコのようにぷらぷらと足を揺らす。ふくれっ面を見せながら、後ろに――倒壊して無残な姿になった残骸に目をやりながら。
木片がギザギザに折れた断面がいくつもみえる。丘のようにこんもりと、かつて祠を支えていた石の台の上に積みあがっている。形のない、壊れた世界の一部。無事なのはぼくだけ。
空から落ちてきた祠と、地上にあった祠。それらが板挟みに激突しあい、つぶれ、クッションになって助かったというわけだ。台は、石でできているため無事で、白い鳥居も何とか持ちこたえている。ただ、本来立派に構えているはずのものがみごとに消え去ってしまっている。オンボロの祠はどこへやらだ。墜落してきたものと混ざり、木の|瓦礫《がれき》と化している。
≪まあいいじゃないか。『ストライカー』だったろう?≫
「ほんと、|ひどい目《・・・・》に遭ったんだからな」
相手は笑っている。
≪悪かったって。まあ当分の間はやめとくよ、『とびきりのサプライズ』ってやつは≫
一生辞めてくれと言った。
その後、ぼくは昨夜――というとあれだけど、夜明け前から見れば『夜』といえるだろう――に約束した通り、彼を質問攻めすることにした。思わせぶりな感じで付けていってくれたあれ――風のいたずらについて聞くと、
≪元は、単なる『おまじない』だったんだ≫
といって、昔話を始めた。それを途中で切って、今に至る。
「つまり君はこう言いたいわけだな。ぼくが経験した出来事は、たまたま起きたと」
≪うん≫
「因果は関係なく、たまたま巻き込まれただけだと。人がたくさん死んだのも、特に意味はない」
彼は当然とばかりに言った。
≪そうなるね。まったくもう、巻き込まれてイヤになっただろう?≫
「それで」
先を促すぼくの心境は、何とも言えない複雑さを抱えていた。
「それで、ぼくが納得できるとでも?」
≪できれば≫
時間をかけて彼はいった。≪……できれば、それが一番丸く収まるね≫
「納得できないよ」
食い下がった。「どうしてぼくは燃やされそうになるんだ。あいつはこう言ってた、燃やしたくはない、身代わり人形を立てるからって。でも、そうじゃない。どうしてなんだ。いや、その前だってそう。どうしてぼくは連れてかれたんだ。この場所から、あいつらの都合でこの場所から離れて、で、燃やすって。そして……」
≪「にんげん」だったからだよ≫
「人間、だから?」
≪そう、それがにんげんの本質だから≫
彼はひっそりと呟いた。
≪俺、言ったよね。「そんな神は|いない《・・・》」って。俺に言わせればね、そこから動いてないんだよ≫
「……何が?」
≪ストーリーが、だよ≫
彼の口ぶりに賛同し、霧がざわめきだした。やや高低差のある、山のなかで忘れられ、やわらかな滝の音のように。辺りに見えない水しぶきを散らしていく。彼の語り口はそれだった。
≪……人間は他の生物より脳が発達している。だから考えることができる。本能的にではなく、ちゃんと先を見据えて努力の方向性を取捨選択しながら今を目撃することができる。けれど、そのデメリットとして「考えすぎる」というのがあるのさ。ストーリーは常に動き続けていると思っているだろう。一日過ごせば一日分だけ動き、一分単位で物語は進む。でも、それは時間的概念によるものであってそうじゃないんだよ。
ふと、物語は止まることがあるのさ。今まで止まっていて、あの日、君がいた祠に火を放ったときに再び動き出した。あれが突飛な出来事だと考えてしまうのは、止まった時に考えすぎているから。人間の頃にいくらでも経験したはずさ。寝て起きて寝て起きて……驚きながら、困惑しながら起きるなんてことそうそうないだろ? そんなことが起きるのは、夢のなかであれこれ考えてたときだけさ≫
水流のように止まることなく続く。
≪というより、どうして彼らは壮大な物語を作ろうとするんだろうね。壮大で精工で、肌ざわりの良い。まるでいつでも着たくなる普段着のように身近なストーリーを……。
あれはね、自分たちのために嘘をつくんだ。言い方を変えれば、信じたいから。自分に都合の良いものを、自己洗脳を施したいから壮大な嘘をつくんだ。
架空のこととはいえ、骨組みで収まらずにリアリスティックな設定をつくり、人物像を形取り、肉付けしていく。そして、思考の海にぽいっと、浮かべてみるんだ。精巧なものほど沈没せずに浮かぶだろう。進水式は済んだ、じゃあこれは、この船は、存在するんだ――と思いたくなるんだよ。嘘に嘘をどれだけ積もうが、嘘は嘘だというのに≫
「……所詮絵にかいた餅だと言いたいのか?」
≪折れないねー、君。じゃあ、こうしよう。君は夢を見たんだ≫
夢?、とぼくは返した。彼が言った。特殊な夢を見たのだ、と。
≪実は夢には二つ種類があってね。いつも見る普通の夢とは違う、特殊な夢がある。明晰夢って言葉、ご存じ? 脳が作る幻覚に惑わされたか、はたまた惑わされ『過ぎた』のか……。
拉致られたとはいえ、君も人間社会に行ったからか、結構毒されて帰ってきたみたいだね。そんなのないって事前に言ったにもかかわらず。
人間社会っていうのも、根底には嘘でできているようなものだろう? 彼らは嘘をつくのがうまくなり過ぎたんだ。同族にウソをついて成り立っているみたいな感じだよ? それで金を稼いで、元々ないはずの生きる意味とやらを見出そうと頑張っている。
その中で君は特殊な夢を見た。人間が作り、人間が見るために生まれ、さまよう。ふらふらと、ここのように、霧に囲まれた道をさまよっている。すると大きな大樹にぶつかった。樹にぶつかって、クラっと頭から意識が飛ばされて、思い、|炎に焼かれて《痛みで》我に返った。一瞬の出来事だったはずなのに、夢を見たばかりに長く感じてしまった……それだけの話さ≫
「考えたんだぞ」
勝手に口が回っているのが分かった。
「ぼくは考えたんだ。もしかして、ぼくの過去が、〝前世〟が関係があるんじゃないかって。それで、みんなが苦しめられて、それでって。……ちょっとだけ、そう考えたりもした」
彼からは何も返答はない。それがほんのりと、日光で温められた露のようにやさしかった。
「――まあ、君がそうだと言うんなら、ぼくはそう飲み込むことにするよ」
≪ああ、そうするのがいいね。過ぎちゃったものはもう戻れないから≫
ぼくは鳥居から飛び降り、台の上に着地する。後ろの残骸に近づき、破片を持って引きずり、台の上から降ろしていく。
≪手伝ってやろうか、一瞬だぜ≫
「いいよ。自分でやる」
ぼくは一つ目を台の上から落とし、続けざまにもう一つを引っ張った。少し大きめだったようで、驚いた声を出し、ペタンと地面に尻もちをついた。瓦礫が崩れる音がして、山のすそ野が薄く、長く、広がった。
≪ゆっくりでいいんだよ≫
それらの行為に向かって、静かな声が聞こえた。
≪たっぷりと時間はある。それこそ夢のなかにいるように≫
「……ああ。そうだな」
ぼくは心の中で反芻してから、「だって|ぼくら《・・・》は、人間じゃないもんな」
23 祈 (エピローグ)
『今は昔、~』のエピローグです。
≪しかし、結果的だとはいえ、動けるようになってよかったね≫
霧は空をひどくけぶらせているようだが、遠雷が聞こえてきた。霧で隠されている雲の色は徐々に黒くなっていっているに違いない。
「まあね。理由はぼくにもよくわかんないんだけどさ。たぶん、高温であぶられたから身体が柔らかくなったんだろうって思ってるよ」
≪微動だにできないよりかはいいよね。ずっと立ちっぱなしも疲れるもんだろう?≫
「どうだろう。あの頃は疲れとか感じなかったし」
それに〝儀式〟とやらの際、入念な水責めも関与しているんじゃないかと思われる。服を着たまま洗濯されたようなものだ。薄汚れた着物は、色を取り戻して明るさを手にしている。節に詰まった細かい泥の粒子が水で流され、火にあぶられたことで柔軟性を手に入れた……と、ぼく自身を納得させている。
「でも……」
ぼくは瓦礫撤去作業中だ。落ちないよう、足元に注意しながら残骸たちに目を配る。
「これ、故郷を失ったようなもんだよね。祠は大破するし」
≪いやぁ。我ながら名案だと思ったもので≫
彼の声は、自画自賛の匂いがする。≪君のサプライズのためなら、祠の一つや二つ、犠牲にするのは容易い≫
「勝手に壊していいものなの、これ。もし今帰ってきたら、どうするつもり。『守り神』だってこれはさすがに文句の一つや二つ言うと思うけど」
≪気にしないでしょ、別に。『形あるものいつか壊れる』は、あいつの口癖みたいなものだから≫
「そんなもんかな」ぼくは気のない素振りで背中を見せる。「あ、でも、ぼくの場合、もう一つあるのか」
≪……もう一つ?≫
そんなのあったけ?――みたいなトーン。
「真偽はどうあれ、昨日訪れたところもぼくの故郷みたいなもんでしょ。ここみたいに霧深い山奥でさ、今はもう壊れてないけど、祠があったし」
≪ああ、あそこ。もうないと思うけどね≫
「あそこはとてもよかった。ここみたいに雰囲気が良くてね。障子じゃなくて格子戸っていうのかな、四角い隙間から月ひかりで黄色くなった霧が祠の中に入り込んできて……ん?」
しゃべっている途中に聞き返す。「今なんて?」
≪あれ、俺なんか変なこと言ったっけ。ああ、|もうない《・・・・》って言ったかも≫
「……そんな危ない状況だったか? っていうか、山火事があったっていっても、まだ半日も|経過し《たっ》てないだろうし」
≪言っておくけど火で壊滅はないよ。まあ発端はそれだろうけどね≫
つい首を傾げてしまった。「どういう意味?」
≪えーっと、ちょっと待ってね……お、ちょうどいいね。号外が出てるみたいだ≫
突然辺りの風の勢いが強くなり、途端に弱くなる。
ひらりと空からペーパーが降ってくる。主の失った空飛ぶ絨毯、のらりくらりと霧の隙間を通り、高度を下げてくる。
≪これを読めばわかるよ≫
「号外……何の?」
≪読めばわかるよ≫
彼は理由を話してくれない。何を聞いたところではぐらかしの言葉を返してくる。いいからいいから、読んでみって。
見出しを読む。えーっと、なになに? 栃木県A村、突如として湖ができる。半径十数キロのクレーター、水深不明……。
「クレーター?」
≪ああ≫と彼。
「クレーターって、あの?」
≪うん≫
「夜に浮かぶ、月の?」
霧のなか、彼は説明する。
≪君を助けたあと、あの地では雨が降ってね。自然鎮火したらしいよ。その後も雨は降り続いて、それで湖ができたみたいだね≫
「……地割れでも起こったっていうのか」
≪地割れ? ああ、大地の化身のことか。違うよ、これは彼女の仕業さ≫
「その、『彼女』って誰だ?」
ぼくは素直に尋ねた。ため息っぽいものが霧から吐かれた。
≪合点が言ってない様子だね。というより未だ彼女が誰のことを指しているのかもよくわかってない……≫
「当たり前だよ。ぼくはその彼女と面識がないんだから」
≪それだよ、それ。彼女、まだ来てなくて良かったね、君、命拾いしてるよ。俺は人間たちには無知を知ってほしいと思ってるけど、このような無知は求めてないんだよね≫
「なんだ?何の話だ? 彼女に会ってるのか?」
≪ああそうだよ。それに会話もしてるはずさ≫
身に覚えがない――という顔をしていると客観的に思う。
≪彼女は忘却されるのが嫌いでね。それでよく来るんだよ、ここに。数日ごとに、あるいは毎日のように。俺のように二週間とか、一ヶ月とか間をあけたことなんてない。俺たちがこうして話すよりも前から、彼女は君のところに来て、会話をする時間を取るのさ。彼女が言うにはね、君はこう言ったみたいだよ。
『ぼくを助けてくれたら、君のこと大好きってことになるから。』って≫
そのセリフには聞きなじみがあった。どこで聞いた? いや、「こう言った」と彼が言ったから、ぼくが言ったことになるのか。
ぼくは思い出す作業をする。どこだ? どこでそんなことを言ったんだ。
「……あ」
思い当たってしまった。人間たちがここに来る前の場面。人間たちがぼくを探しに来た出来事、要因――。
嫌な予感を尋ねた。
「もしかして彼女、雨だったりする?」
≪……以外に何があるんだい?≫
ぼくは慌てて反論をする。
「いや、確かに言ったよ、あの時。でも返事は返ってこなかったし、反応だって……」
≪彼女は口下手だからね。それでも聞く耳立てるくらいの耳はあるさ。彼女は、雨音の範囲内ならどこにでも聞くことができる。俺よりベテランだぞ。なんてったって『太古の神』なんだから≫
声が詰まる。たしかに、あの後、すぐさま雨の勢いは弱まり、すぐさま|止《や》んで雨雲はどこかに流れ去っていった。その時のぼくはただ神頼みをしただけだった。
「だったら……」
ぼくは号外の紙に穴でもくりぬくかのように指を突き立てながら、
「だったら、これは。クレーターができたってのはどう説明をつけるんだ。彼女は雨の神。雨を司ってるんじゃなかったのか。大地が歪むほどの雨を降らせたとでも言いたいのか?」
≪『雨降って地固まる』なんていう言葉があるけれど、それは雨が止んだら、という必要条件が満たされないといけない。実際降り続けば地面は固まらずに緩み、崩れる。
彼女はまさにそれをやったんだろうね。君が炎であぶられたことがよほど頭に来たらしいね。俺によって空に飛ばされたあと、あの地には間断のない雨を降らせ続けた。地盤沈下を目論み、永劫輪廻のような雨を。
で、一日足らずで十数キロもの範囲の土地は水の重さで沈下して、クッキリと後を残すようなクレーターを作った。残ったのは〝円形の湖〟。ただそれだけの話さ≫
「それだけの話って。なぜ、そこまでして……」
ぼくはどこか心が浮ついた気分になった。
人々の行動で因果が起き、神の怒りを買って雨が降り続けて、湖になる。これじゃあまるで、『あの昔話』と同じ流れじゃないか、と。
頬杖でもついていそうな感じで彼は答える。
≪それが俺にもよくわからなくてね。女の執念か、ある種の「嫉妬」なんじゃあないかって。そういうわけで、彼女を再び怒らせてしまったので、結果、あの地は水に浸かってしまったということさ。
そうそう、君はものすごく壮大な力を使ったと思っているようだけど、俺らにとってみれば相当手加減したと思っているよ。卵の殻にひびを入れるのは|簡単《・・》だろう? 彼女、かなり手加減したはずだ。仮にほんのちょっとでも本気を出せば、この世界はもう一度〝ノアの箱舟〟を作らなくてはいけなくなる。世界の7割が海で出来ているっていうけど、それが本当の10割、全面が水で満たされて、それでも雨は降り続けて。まさに〝水の星〟になってもさして俺は驚かないね≫
ぼくは唖然となってしまった。
≪おっと。噂をすれば、か≫
霧がさあっと薄くなっていく。周りを回遊していた霧が抜け、空が見える。もう昼になっていた。
裂け目のような空とビル群の境界部分に、霧とは違う白っぽいものがあった。晴天に浮かぶ白い雲……ではないな。徐々に黒みを帯びてきている。暗雲。彼女の来訪のお告げ……
≪来たみたいだよ。なんか来るの遅いなぁと思ってたんだけどさ。どうやら雷とタッグを組んだようだ。人間が作った神話ではなんて言うんだっけ? トール? 黄色い閃光でもってひと槍突きに来たみたいだ。まあ〝誰〟とはいわないけどさ≫
「お、おい! なんでぼくが狙われるんだよ!」
≪なんでって、知らないよそんなの。しかし――≫
他人事のようにつづける。
≪『ぼくを助けてくれたら、君のこと大好きってことになる。』うーん、さすがだよ。こんな言葉俺には吐けないな。怖いもの知らずで若干のことには動じない、芯の強い女だから、こんなことが言えるのかね≫
「いや、だから中身は男だって……」
≪ああ、そういえばそうだったね。……となると、さらに構図は整うことになるね≫
「構図?」
≪|ぼく《君》と彼女、男と女だろ。つまり『横取りの構図』だな。君が連れ去られた遠因、あの洪水を起こしたのは彼女だよ。彼女は君に会いたがっていたが、いつまでもいることはできない。一年を通してみても、その十分の一程度しか近づくことはできない。ほんのちょっとだけ長くいたかった。ただ、それだけなんだよ。でも人間たちからすれば洪水が起き、彼女は見えない。だから、君が引き起こしたと思ってしまった。いわば彼女の「いすぎちゃった」というミスを君が横取りし、命を懸けて払拭しようとしたのさ。こりゃ同じ神様として、惚れないわけにはいかないね≫
そんなつもりはないと今すぐにでも弁明したいが、おそらくそれでは済まなそうな雷鳴が轟いた。
≪前に君のことを「中身はつまらない」って言ったけど謝るよ。「君、案外中身も面白い」ようで。
さてさて。俺は邪魔者のようだから、これにてずらかるとするかねぇ≫
「おい! 逃げる気かよ!」
≪当たり前。こうなると彼女おっかなくてさ≫
明らかに逃げようとしている。永劫螺旋の終わらない風切り音が途切れ途切れになって、単なる無害な風になって。霧はすっかり晴れてしまっている。
「お、おい! ちょっと待てよ。お前がいなきゃ、ぼくは何にもできないんだぞ」
≪だから良いんじゃないか≫
彼は思わせぶりなことを言った。
≪さあ、これが君の初仕事だ。ちゃんと彼女のご機嫌を取ること。ま、嫌なら逃げればいいじゃないか。ね、現代の〝じゃらくだに〟さま≫
最後にパチンッと指を鳴らしたみたいだった。最後の抵抗とばかりに一気に強くなって、瓦礫の残骸と鳥居にかかった号外の紙を吹き飛ばす。ふわりふわりと一枚の紙が飛ばされていって、余韻のみが残った。
風の余韻。本当に消えたようだ。
「ったく。マジで言ってんのかよこれ」
周囲は緑に包まれていた。二か月前の洪水によって泥だらけだった地面は息を吹き返したように苔が生え、つるが延び、光が差し込んでいる。綿毛が飛んでいる。タンポポか、ケセランパセランか。それらが自由に境内を飛び、謳歌している。
ここに――。怒ったような唸り声。雷の轟き。これから雨が降る。
ここに残されたのはぼくだけ。あの日と同じ、ぼくだけ。
「手加減してくれよ、今回は|神頼み《・・・》できないんだからな……」
ぼくはやるせない思いを払底したいがために、今しがた降り始めた雨雲を見上げた。
夜の霧のような薄闇。その反対側には、朝日に消えようとしつつある満月が、憐れむような目つきでぼくを見下ろしていた。(了)
23話(エピローグ)までと、長い間お付き合いいただきありがとうございました。あなたがお読みくださったから、この小説は無事完結を迎えることができたのだと思います。
これにて『今は昔、~』は終了となりますが、実は「本当のエピローグ」と呼ばれるものがあります。次話の公開をお待ちください。
※上がりました。
21 空
第21話です。
「――」
揺れる色。照度の色素が落ちた淡い色合い。夢気分より現実味を帯びる気配と湿り気。
「ん、……ん?」
目を覚ました。いつの間にかぼくは横になっていたようだった。
ああ、ここは祠のなかか。ということは夢か。ぼくは夢を見ていたことになる。しかし、いやにリアルな感じだ。追体験でもしていたかのよう。ぼくは身体を起こし……
「――あれ?」
からだを起こし……あれ?
いやにすんなりだ。ぼくの目線はちょうどお腹まわりに向けられている。クの字に折り曲げられたぼくの身体。通常時は立ち姿しか見せず、たとえなんかの拍子で倒れたとしてもころころと転がるだけしかできない人形。
人形では、絶対に不可能な形、カーブ、曲線、痛み。
手を動かしてみた。グーパーグーパーと。躊躇なく動く。
間近で観察してみる。皮膚……ではないな、人形のうっすらとした木の模様が顔をのぞかせる。でも、折り曲げられる節がある。関節がある。こんな指先のところに節なんてあったか今まで。
そうやって身体を動かし、人間のチュートリアルみたいな感じをしていた。外はずいぶん激しい音が鳴ってるな、とふと思った。雷と風。霧以外の久しぶりの要素。そこまで時が経ってないにもかかわらず、懐かしく感じる音たち。こんなに明瞭に聞こえたっけと自分の耳を疑う。
一番強く響き合うのは風だった。力強い風の音。強い風が『|建物全体《ここ》』をあおり、悲鳴をあげる。飛行機がどでかい雲に突っ込んだかのような白で満ちた視界と揺れている木の機体。
床の隙間からいくつもの白い筋が見えた。下から上へ、可視化された流入経路。凄まじい勢いの空気の煙が発生している。風にたなびくような弱いものではなく、風そのものの力を感じる煙だった。やや渦を巻いて、みしみしと、部屋の内装をはがそうとしている。
屋根が、木材が、床が。建物の叫び声が、低く呻いている。
やあ。
その煙から、何かが聞こえた気がした。軽く声をかけられた感じ。懐かしい文字の響き。でも、幻聴かもしれない。遠くで雷鳴が轟いて、それで邪魔されて。
明確な情報が欲しくて、ぼくは行動を開始した。
立て膝をついてその場に立って、横に長い窓のような隙間に駆け寄ってみる。床はなんか欠陥住宅のようにひどく傾いており、不安定だった。ちょっと足元が狂ってもつれそうになるも、なんとか古い窓辺にたどり着く。今さらだけど、もはやこの足は自分のもののように動く。
隙間から外を見た。轟然ととどろく。霧のなか、いや、雲のなかにいるようだった。傾いた祠に従って、外の景色も傾いている。斜め上から斜め下に流れゆく夜の曇天。高く耳をつらぬくキーンという風鳴が、まぶしく感じられる。
月あかりなどなく、分厚い雲の筒の内部にぼくはいる。勢いの良いロケットスタート。理由なんてないジェットコースターに乗せられ、霧のトンネルを通過している最中……。霧の筒は途切れを見せないままいつまでも祠の周りをまとわりついていて、自らはがれようとする努力を見失っている。
≪おやおや。どうして黙っているのかしら。やあって言ってるんだよ。やあって≫
しびれを切らしたように『彼』が言った。素直な気持ちを吐露する。「今は君と話しているどころじゃないよ」
それから尋ねた。「どこなんだ、ここは」
≪……ふーん?≫
状況がよく分からないぼくと、のんきに会話する彼との対比。
≪なーんか冷たい反応だね。待ちくたびれただろう? 数か月ぶりの再会なんだから。俺とのお約束事くらいやる元気はさすがにあるだろう。俺が ≪やあ≫ といったら、君も「やあ」で返さないと≫
「らちが明かないか。いったん外に出て様子を――」
≪ああ、それは止めといたほうがいいと思うよ≫
「うるさいな。黙って――」
彼の忠告を無視してぼくは格子戸をあけた。
骨組みのような、穴だらけの戸を開けただけだというのに、そこには透明な障壁があり、それが解除されたかのように一気に入り込む空気の塊を受けた。そして……
「うわっ」
バランスを崩して足が下に降りる。階段の一歩目のような姿勢。
長い一歩目。着地するはずの足場がいつまで経っても無い。
……片足がずり落ちる。身体が傾き、角度がエグくなり、そのまま落ちて、奈落へと落ちていく。
回転してしまって祠の土台が頭の上に見える。どんどんと離れていこうとしているとき、
≪ほら、言わんこっちゃない≫
空気の塊がまとわりついた。くんと、ロープが伸びて持ち上げられる気配がする。
≪ここは空だからね≫
「空って、あのそら……わっ」
徐々に引き上げられてぽいっと。中に投げ捨てられた。いてっ。
元通りに収まったけど、身体が壁に激突した。ぞんざいなことをしてくれる。頭に衝撃が走ったぞ。というか、ぼくの身体ってこんなに重かったのか? 木って重たいんだな……
≪……ああ。そろそろかな≫
「何がそろそろ」
≪『百聞は一見に如かず』。つらつらとしゃべるより見た方がずっと早い。抜けるよ〝雲〟から≫
瞬間、軽い音が聞こえた。徐々に分厚い霧の層が薄くなってきて、暗い色合いから明かるげになった。雲中から雲上に場面チェンジした。
神様のような、満月がぼくたちを見下ろしていた。眼下の世界を、宇宙から見守っている。何だ何だ、何が起こった?――と疑問の目を地表に流している。それに釣られたようにぼくも見下ろす。そこには何があったかというと……諸悪の根源があった。
なにやら黒いものがあった。尾の長い、黒いケモノ。
今しがた通り抜けた分厚い積乱雲が、ケモノの威嚇から逃げるように去る。雲の影で隠れていた夜の森が見えた。焔に侵されつつある面積の一部がさらに見え、明瞭になっていく。
どす黒い煙の束が立ち上っている。山火事のように。
どこから来たのか。そしてどこで燃えているのか。どうしてなのか。
それらの疑問は夜霧に隠れ、確認することも目視することも叶わないが、炎が居座っていることだけは現実だった。
≪燃やされそうになってたんだよ≫
冷静な声にぼくは振り返った。「燃やされそうに……?」
≪おやおや。前に言ったろう?
『二か月以内に、君は燃やされることになる』と。予言は成就され、先ほどそれが起こっただけのこと≫
「……どういうことだ」
ぼくにはありえない事実だった。燃やした? そんなこと、あるわけがない。だって、
「だって神宮寺は……」
≪『じんぐうじ』? じんぐうじ……ああ、なるほど≫
タービンを回すように回転が速い彼。合点が言ったように、呟くように続けて、
≪いたよ。火をつけた後、颯爽と降りる、|白装束の姿《・・・・・》が≫
「そいつだ。でも、言ってたんだ、|神宮寺《あいつ》は、ぼくが欲しくて、別の人形を、身代わり人形を立てて……」
そう前日に言っていた。儀式を行いたくはない。建前ではない本音。
なのに、燃やした。どうしてだ。
昨日は燃やしたくないはずだったのに、一夜経ってその真逆のことをした。カメレオンのように態度が|翻《ひるがえ》っている。思考が急変している。「どうして」という言葉で頭が混乱した。
混乱すればするほどぼくを襲ったという炎から遠ざかっていく。眼下の世界は自然から平地へ。人間の過疎地から密集の発展地へと。
それでもケモノのような黒い尾は、高い空にたなびいていた。東の空が明るくなって、陽が起き出しているから煙はよく見えた。
≪――『|風のいたずら《あれ》』は関係ないよ≫
ぼくの態度を見て、彼が声の釘を刺してくる。≪一応、言っとくとね。あれにそういう|効果《の》ないから、考えすぎないように≫
「じゃあ何だってんだ、あれは……」
≪聞きたい? ああ、いやだなぁ『ネタバラシ』ってのは。何というか、釈明会見みたいな感じがしてイヤなんだよねー≫
ぼくはじっとりとした目で訴える。このままはぐらかされたままでいられたら居心地が悪いから。
彼は見えないが、どこにいるかなんてお見通しだ。僕には見えないだろうって油断して、目の前にいるに決まってる。
絶えず鳴り響く成層圏の風。沈黙の風に折れたのは、
≪あー、わかったわかった。いくらでも話してやるって≫
「……。君ならそう言ってくれると思ったよ」
≪いやー、そんな目をされるとちょっと|躊躇《ためら》っちゃうなー。まあいっか≫
「……ためらう? まあいっか?」
彼の変な言い回しに疑問の針が刺さった。
≪ほら君、サプライズはイヤっていってたでしょ?≫
なんか嫌な予感がした。下を見た。黒ゴマのように小さい街並み……
「まさか」
≪そのまさかだよ。だって、あんな隙間を通るなんて俺はまだしも『俺ら』には無理だろう?
明日会おうか、まあ『君が生きてたらの話なんだけど』≫
じゃ、〝着地〟は頑張ってね。ほいっと。
それが彼との別れの言葉になった。
一気に土台にあった浮力が無くなっていく。スピードはお亡くなりになり、ガクンと急停車して、それで……真っ逆さまに下へ。
下へ、下へ、奈落の底に向かっていく。一回転、二回転と、ゆったりとした回り方。地球が自ら回るように、ぼくらも真似して回った。
「お、おまえーーー!」
遠心力で振り落とされることはないだろうけど、叫ばずにはいられない。
どうしよ、どうしよ。
さっきまで「どうして」ばかり考えていたのに、今は「どうしよ」が頭の中にいる。のたうち回って叫び散らかしている。
下は急速に近づいている。ぼくらは回転している。
霧のような小さな集合が成長して、ゴマ粒くらいに。ますます豆粒くらいに大きくなって。それから目視できるくらいになると、亀裂のような溝が見えた。
黒い亀裂、ビル群の隙間。――そこに。
そこにすっぽりと入っていく。コンマ何秒の世界。覚悟の両目をぎゅっとつぶった。
お読みくださりありがとうございました。
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24 舞 (本当のエピローグ)
『今は昔、~』の24話。
本当のエピローグです。
この話をあなたが読んでいるということは、暦の季節は春になっているということを意味すると思う。
あの後どうなったかって?
そうだな。とりあえず……、ぼくは無事だということは伝えたい。
あの雨が降り始めたとき、一時はどうなるかと思った。一気に降水の水深は増していき、数か月前の洪水を彷彿とさせる避難喚起のサイレンも鳴り始めた。
何もできなかった。『彼女』がなぜ怒っているのか、ぼくには見当もつかなかった。ぼくにあったのは……着物を着た人形という姿だけ。
前回の場合はそこでぼくが祈って、止んでくれたのだが、今回ばかりは祈りでは済まなそうな感じがしていた。
まだ止まなかった。降り続いている。水位は増していき、石の土台から鳥居のほうへ上がった。鳥居の、|額《がく》のついている部分にまで達し、すべてを覆いつくそうとしていた。
どうすればいいんだろう……ぼくは途方に暮れていた。
ふとぼくの手元を見た。持っているのはこの泥にまみれた木の棒のみ。こんなのでどう太刀打ちすればいいのやら。というか、なんで今まで肌身離さず持っていたのだろう。こんなの捨ててやる!
ぼくはその棒を手放そうとした。そのとき。
……あ。
そこでぼくはリンクした。とある場面が不死鳥のごとく現れる。警告文が頭のなかで流れ続ける。違和感のあるノイズが耳元で囁かれる。
現実から暗転して、モノクロの映像がちらつく。篝火のクローズアップ。影で動く人々の喧騒。燃え盛る社殿。炎。幼い男の子。その子に面を預け、一人歩くうら若き女性。
そして、モノクロであっても鮮明に動く『彼女』の踊り……
木の棒を目前まで迫る湖に差し入れる。雨に打たれる湖面。雨音で形作られた空気で、おぼろげな会話が蘇る。
――だめでしょ。物を粗末に扱っちゃ。
大量の雨。僕には見えないけれど、春の兆しを多分に含んでいる。手を水の中へ。バシャバシャと棒を水洗いした。
冷たくない。あたたかい……攻撃的でない。
ぼくはこの雨と向き合わなかった。どうしてだろうと思った。それは、よく分からない。霞のように、霧のように。輪郭のない自身の忘れられた記憶のなかにあるようだった。
夢のように、そのときいった、魔法の言葉。
でも、洗えばまた使えるもん。って。
湖のなかで変化があった。今まで硬かった茶色いだけの棒の表面。木の皮が刃物で削られるように、中身が露わになっていく。白いと思った。同時にぐにゃりと柔らかくなった。長く水に浸かったからだろう。横へ、横へと広がっていく。
蛇腹の折り目が見えてきた。別の色が見えてきた。黄色。辺りに散らばる美しき文様。
慎重に開いていた手つきに加速度が加わる。完全に本来の柔軟性を取り戻し、最後は一気に開いた。トビウオのように水中から飛び出す。水滴をまき散らし、ぱさり、と開いた。〝扇〟になった。
広げた横幅なんて二センチも満たない。それが細密な模様を描き出している。黄色い鳥が凛として、咲く花の如く中に留まっていた。
扇を天に掲げると、雨はすぐに止んだ。どこからか光が直線上に差し込んだ。扇に当たり、一気に乾かした。黄色がますます光って、神々しくなり、それが戻って天へ。
雨雲は流れず、その場で、空で、瓦解していく。消失していく。空は明るさを取り戻した。
『彼女』が|慶《よろこ》んだ。その事実にぼくは達成感とともに、ふーっと尻もちをついた。
★
雨が止んだのは良かった。でも、ぼくのなかで不可解なのはこのすぐ後のことだった。
雨が止んだことで、空は明るさを取り戻したが地面はというとひどい有り様になっていた。
湖。
湖を滝壺に見立て、出現した期間限定の滝たち。水の束が上から下へと滴っている。いくつもの滝が生まれている。
ビル群の屋上にも、ここと同じ規模の〝湖〟があるのだ。その湖を水源に、ちょろちょろと水が流れ出ている。この場所をいっそう幻想的な庭とさせている。
その不可解な出来事は、ぼくがせっかく祠の残骸たちを土台から落としてきれいにしたというのに、水かさが増したことで元の場所にまで上がってきたことにモヤモヤっとした気持ちを抱えていたとき。
なんだよ、せっかくきれいにしたのに、戻ってこないでよと先ほどまでの苦労が水の泡だと思っていたところ、後ろの方でどぼん、という大げさな音を聞いた。
正体は木組みの祠である。
祠が、上から落ちてきたのである。したたる滝に従って。
いや、そんなことある?
そしてどんぶらこ、どんぶらこ、と元々祠があった石の土台に進んでいく。
鳥居に引っ掛かった。このまま水が引けば、これが『新たな祠』になるだろう位置に留まった。
……いやいや、そんなことある?
どこから来たんだ、この祠。
鳥居から新たな祠に飛び移る。戸を開けて中の様子を見てみた。何もない……な。内装も普通だ。
鳥居に戻り、座って考えてみた。どうせ、多分、十中八九『彼』の仕業だろう。こういうサプライズを企てるの、好きそうだし。
今度『彼』が来たら、この祠について聞いてみよう。どこから盗んできたんだこれ、と。
それまでこの悶々とした気分と同居するのはちょっとあれだけど。
そういえばいつ来るんだろう。次は何日後に来ると、告げていたのだが。まあ、そのうち来るだろう。
でも……やっぱり。納得がいかないので空をにらんだ。
「これ……もしかして〝ノアの箱舟〟とかけてんの?」
★
少し水位が下がって、鳥居の土台と祠の載った石の台のつなぎ目が見えるまでになった。そういうわけで『新たな祠』は無事代替わりし、地に足を付けて立派な姿を取り戻している。いいね、木材も腐ってなさそうだし。新居って感じがする。いいね!
あとは『彼』がサプライズの再来とかいって、ぼくごと空に打ち上げたり、なんかの拍子に人が来て、火を付けられたりしなければの話なのだけど。
今、簡潔に振り返ってもめちゃくちゃだな。こんなことがほんの数日前にあったなんて、今のぼくでも飲み込められない。
でも、身体が動くようになったことは大きな利点だと思える。自由を手に入れたことで行動範囲が広がった。やはり微動だにできないというのは退屈だったなと動きながら思う。
期待感でいっぱいだ。今は洪水となっていて外に出て行くのは無理だろうけど、目の前の湖となったこの場所を散策するのは気分がいい。
目の前は相変わらずの湖と化している。けれど、前の洪水とは違うのは水の色だ。
数か月前のものは真っ黒だった。それに比べて今は透明だ。これなら顔につけてもいいし、泳いでもいい。そう思えるほどに水は澄んでいる。でも、ぼくはそれをしないで済んでいる。水面に浮かぶものがあるからだ。
かつてあった祠の残骸たち。大小あわせて30は浮かんでいるだろう。それらがある種、浮き橋の橋桁の役割をしているため、飛び石の要領でぴょんぴょんと乗り継いでいくことができる。
少し大きな浮島……木片にて足を止めて、湖の底を見た。今だけしか見れない光景が底面にあった。
今までくすんだ石畳は水流で洗われ、白さを取り戻している。苔むした地面もまた、海藻がぼくのステップで揺らめく水の波紋で、やさしく揺らめいているように見える。それらが差し込まれた陽の光にさらされ、湖の中で白い塗料を溶かしているかのようだ。
幻想的な美しさを醸し出している。幻想的な庭にふさわしい、おとぎ話に出てきそうな湖。ここから何かが出てきてもおかしくなかった。
ぼくはそれにつられて、つい前のめりになってしまった。あ、やばい。この浮島、元は腐った祠の木片だったんだ。腐っているということを忘れ、どっしり身体を預けていた。そしてぼくは重い。桐でできた人形……。
それで浮島は真っ二つになってしまい、ぼくは湖に投げ出された。浮くかどうか、一抹の不安が産生されたがちゃんと浮いた。良かった……ぎこちない初めての泳ぎをして別の浮島に登ろうとしたとき、すぐ近くにあるものを見つけた。
これは……。
水の表面に手を伸ばした。
★
昼に見せた幻想的な庭も、夜になるといつもと同じ景色になる。
ここに光は届かない。届くのは微量の月あかりと星あかりのみ。今夜は新月なようで月は見えず、同時に星も見えない。
真っ黒に塗りつぶされたら何も見えない。
だから――誰にも見られない。
見つけたのは、白いお面である。上側に細長い、赤く塗られた耳があり、口元は手前側に出っ張っている。目は吊り上がり、瞳の部分に穴が開いている。
狐のお面である。口元の一部は欠けているものの、大したものではない。なぜならお面の大きさは大体2㎝かそこらだから。
湖の上でこれを見つけたとき、思わず顔に|嵌《は》めてみた。ぼくにぴったりだった。
これは偶然だろうか。いや、違うと思う。だって、と手元の扇を見てみた。これも、あれも、それも。それも、とは、言うまでもない。
夜と呼ばれる暗闇のなか。ぼくは踊った。
あの時見た、霧にむせぶ夜のなかで見た夢はぼくには関係がないのかもしれない。
『彼』が言うように、壮大な物語にしたいだけかもしれない。
あの時見た夢の内容を信じたいから。だから、自分に都合の良いものを形作っては目の前の湖の上に浮かべ、幻想から現実へと具体化をさせたいからかもしれない。
でも、それでもぼくは。『彼』とは違い、前世は人間だったから。ぼくは、踊らなければならない。練習しなければならない。
夜の帳の色は闇一色だった。だからこすれあう着物の音も、小さな扇の開閉音も、慣れないステップを踏むぼくの一人稽古の風景も、すべて飲み込んでくれる。
かたかた……かたかた……。
偽物の箱でスタンバっていたとき、スピーカーから聞き流していた話の一部が思い起こされる。話に出てきた人形は、箱から出て人知れず踊っていたのだという。その人形も、『夢のなかの彼女』も、このように一人で練習していたのだろう。
そのとき、あちらの方角から人工的な光が差し込まれた。灯台が海を照らすように上下左右に揺れて、|踊り《ぼく》を捉える。とっさに扇で顔を隠した
「ひっ!」
という叫び声がビルとビルとの隙間から聞こえた。逃げていく。あの荒々しい足音じゃ多分もう来ないだろう。
ぼくは扇を少し動かして、欠けた面からのぞかせる自分の口元を隠す……どうしたら上手く『舞を魅せる』ことができるのだろう。
そうした思いを胸に抱きながら、暗闇のなか、何も起こっていないように練習を再開することにしたのだった。(了)
これでエピローグは終わりとなります。最後まで見ていただきありがとうございました。
数日後にこの小説の『後日談(設定集的談話)』が予定されています。
また、この小説にてファンレターを募集しています。ぐっと来た場面、台詞などありましたら是非この機会にひと言でも大丈夫ですので送ってください! よろしくお願いします。
25 もう一人の登場人物 (後日談)
設定集的な側面もあり。
前半は秘密の会合。後半から伝承を振り返りつつ、どうして〇〇〇があのようなことをしたのか、その核心に迫ります。
『風』はいつでも吹いている。ここでは無風でも、別の離れた場所では吹いている。風が無くなることはあり得ない。それはこの星が自転を覚えたころから不変になっている。
だから『風』は神様である。
――と人間たちから見られている。
たしかにそのような見方もできる。風自身、いつから存在しているのか覚えていない。長い間、風が吹いていたからか、意識を持ってしまったのはいつからなのだろう。風は自問する。この星が自転するようになった頃か、あるいは海が渇いて一部が露出した、いわゆる『陸』が出来上がった頃だろうか。
どちらにしても人間たちがこの星を埋め尽くすどころか生まれる以前の話になってしまう。それでも風にとって、神様だと思われたくなかった。だって、この世界に神様なんていないと思っているから。
人間たちが神だと思っている〝神様〟側は、自分たちは神様だと思ったことはない。神と呼ばれる次元は別に存在するだろうが、この世界にはそういった存在はいない。
だから、人と神との間に格差が生じる。……そう風は結論付けている。
★
≪やあ≫
とある日。彼はやってきた。まるで行きつけの喫茶店を見つけた感じの気安さで、呼びかける。
目の前には祠があった。その周りにはちょっとした空間。ここにはそれだけしかない。
少し前までここは湖になっていた。彼の知り合いがキレて、この地帯に雨を降らせたのだ。
またかよ、と思ったのだけれども、その原因を作ったのは彼自身だろうとは思っている。
この祠にはとある人形が住んでいる。その人形は意志を持っていて、自分としゃべることができる。あまりないタイプの不思議な人形だった。
その人形くんが燃やされそうになることを知ったため、彼の|旧《ふる》い友人である『彼女』に知らせることにした。
雨を司りし彼女は、案の定、地を震わせる勢いで怒った。それを見て、素直にやべぇなと思った。
このままだと一部が『陥没』するだろう。
水の重みで土地が陥没すれば地の底が見えるようになり、そこからめくりあがった溶岩口から火山灰のごとく地底より空高く打ち上げられ、放物線を描き、冷やされて固まった隕石群が陸地に降り注ぐことになる。
だから、一足先に人形を救いあげることにした。これは単独行動である。わざわざ知らせておいて、勝手に助けたのだから、彼女からすれば彼に〝邪魔された〟ことになる。
まあ、〝人形くん〟には、彼女を怒らせたのは君のせいだからね、と言っておいた。彼女の興奮状態からなだめる方法は数千年経っても確立されていないが、多分何とかしてくれるだろう。どうしてか彼女は人形にぞっこんだったから。
そういうわけで、彼は祠の前に現れるまで時間を要した。無論、彼女から逃げおおせたから、こちらに来ることができている。
いやー、彼女単体ならまだしも、雷は喰らいたくないからなー。痛いんだよあれ。実体がないのに、どうして貫通してくるんだろうね。これが『太古の神』たる所以か。
地球何周もかけて逃げ回ってきたので、休みたくなった。だからここに来た。いい感じの|窄《すぼ》まりに腰を下ろしたくなる。彼女はいないようだ。
風を読んだ。……なるほど、北九州にいるらしい。まあ大丈夫だろう。
しかし、あれから一か月ほどが経過している。いつもなら祠の前からひょっこりと、または鳥居の上に座ってむすっとした顔を見せるのだが、タイミングが悪かったようだ。
≪……いないのか≫
彼は落胆した。そのまま帰ろうとした。
そういえば群馬に寄らなくてはいけない。群馬には別の友達……〝炎の化身〟がいる。彼にドンマイっと労いの言葉をかけてやろう。住処が湖の底に沈んでしまってさぞかししょんぼりしていることだろう。
そう霧の濃さを薄くしようとしたとき。
「やあ」
と声が返ってきた。彼にとっては不意を突かれた感じだった。
「どうしたんだい。『やあと私が言ったら、君もやあと返す』。これが私とのルールだろう?」
彼は霧を広げた。彼には目がないが、霧がある。霧と触れるものはすべて、感知する。
その声の主は隠れていなかった。祠の前にちょこんと座っていたのだ。
声の主は、黒猫だった。ノラネコだろうとは彼には思えなかった。
≪ああ……、ようやく戻ってきたみたいだね≫
黒猫は前足で頬を掻いた。「まあね。私もここまでかかるとは思わなかったがね。どうやら『転生』の仕方をミスってしまったようで」
≪そうかい≫
「寂しかったろう?」
猫は聞き、彼は答える。≪……なわけ≫
猫は、にゃあとひと鳴きしてから、地面に猫の目を這わせる。
「ああ、まったく祠を粉々にしてしまって……。《《私》》の祠なんだぞ?」
≪別にいいじゃないか。腐ってて、もう持たないだろうと思ったんで、つい≫
「『つい』って、そういう問題じゃないだろ」
≪どういう問題?≫
「言わなきゃわからんようだな?」
それから彼と『猫に転生した存在』は楽しげに語りあった。積もる話はいくらでもあった。思い出す必要もないほど鮮明に浮かび上がる。それと同じだった。
軽く話すだけで半日があっという間に過ぎた。そんな最中、出てきたのはあの人形のことだった。
≪最初は君が転生した姿だと思ってたんだよ≫
猫は彼が話すことを聞いていた。
≪祠の前の鳥居の下に立っていてね。前に来た時にはいなかったから、ああ、そういうことかと思ってしまった。けれどそれはただの勘違いだったみたいだ。こんなか弱い子猫になって現れてくるだなんて、想像できない≫
「子猫で悪かったな」
≪でも似合うよ≫
猫は苦笑した。
「似合うも何も、ねぇ」
≪似合う似合う。いつも酒瓶を口にひっかけてる、赤い顔した〝天狗〟よりは、今のほうが似合うよ≫
「ふうん。まあ、誉め言葉として受け取っておこう」
しばしの沈黙。
積もる話はいくらでもあるのだが、手軽に引き出せる共通の話題としてあの人形について語るのがちょうどよかった。
「君は嘘をついているな」
彼は少し面食らった。
≪何の話?≫
「あの人形のことさ。彼女、いや彼と言った方がいいのかね。少し前に燃やされそうになったといっただろう? その時のセリフが少々気になってね」
彼は確認した。≪へえ、気づかなかったな。その時いただなんて≫
「とぼけなくていいんだよ。|人形《かれ》に〝風のいたずら〟を付けたのは、私に聞かせるためだろう?」
彼は笑った。≪そんなことないさ。ついさっき、君が猫になっていたことを知ったんだから≫
「ならどうして今日来た? 人形が今日いないことくらい、君にはわかるだろうに」
≪そこまでの力はないけどね。……まあ、そういうことでいいよ≫
先に促す。≪で、どういうこと? 俺が嘘をついているって≫
猫は話した。
「『神様は嘘をつかない』というだろう? でも、神様は嘘つきなのさ」
★
「『神は嘘をつかない』。これは神は正直者という意味ではなく、二つの意味がある。一つ目は『聞かれていないことは教えない』。嘘はつかない代わりに聞かれなければ本当のことは言わないという意味。
そしてもう一つ。『神が言ったことはすべて現実になる』。だからほかの神々は君のように話さないでいる。最低限のことしか話さなかったり、不用意な言葉を発さないように無口に徹したり、あるいは「神が言ったこと」なので自分が言ったことだとは言えないからと理由を拵えて、自らの力を人の領域までランクダウンさせたりしてしまう」
≪長々と言って。何を言いたいんだい≫
「くくく」
猫は面白そうに喉を鳴らした。
「あの時人形にこう言ったようだね。『火をつけた後、颯爽と降りる、白装束の姿』を見たと」
≪神宮寺、だったかな。ああ、そうだよ。もう一度言おうか。祠に火をつけたのは『神宮寺』だよ。これが、嘘だと君は言いたいのかい?≫
「ああ、その通り。この文にウソはない。けれど君は嘘をついている。君はこのうちの前者だと分類されると思う。『聞かれていないことは教えない』」
≪そういうことならぜひとも聞かせてほしいね≫
「――ふ、君だって心の中では気になってるのだろう?」
猫は続けた。
「『どうして神宮寺は祠を燃やすことにしたのか?』」
★
「でも、そういう君だって分かっていないんだろう? |人形《彼》に思わせぶりな態度をとってさ。未熟な神だというのに、すべてを分かった気でいる。
『どうして神宮寺は祠を燃やすことにしたか。』この言葉に嘘はない。けれど、本当のことは言っていないね? 君は」
彼は実体がない分、有利のはずだった。けれど、『|猫に転生した存在《目の前の神》』からすれば、すべてがお見通しなのだろう。
≪教えてくれるんだね、この様子だと≫
「ある程度は。……とはいえ、予め断っておくんだけどね」
猫は祠の台から降り、霧に近づいていく。
「前提を確認させてほしい。
神のみが知り、人間は分からない。それはよくある。現に人間はどんなにあがいても100年かそこらしか生きられない。神はその期間を優に超える時間を過ごしてきている。しかしゆえに逆もあるということを。
今回のように、人間のみが知り、分かり、行ったこと。それらの根本的な行動理由が神には分からないことがある。疑問を持つことがある。しかし、それを神は知ることもできる」
≪分からない、ということを知ることができる……だろう≫
「ああ、その通り」
猫は話し始めた……
「軽く時系列を遡ってみようか。君と話していた頃、人形が連れ去られる前のことはあまり関係がないから置いておこう。出番がなくてすまんね。肝心なのは連れ去られた後のこと。『スタジオ』と呼ばれる所と、『じゃらくだにの伝説』、そして『霧にむせぶ群馬と人形供養』、『神宮寺という存在』。この四点だ。まあ『スタジオ』のことは……」
少し見る。
「なにかきな臭さがあったのは事実だろう。現に『殺人事件』が起きたことだし。はっきり言ってこの辺りのことはよく分からない。だからあとでさわりだけ触れるだけにして、今は置いておこうと思う。
さて、どこから話をつけようか。なにせ人間社会とは複雑すぎて手に取るのは気が引けるのだが」
≪いいよ、気にしないで。好きなだけ話したらいい≫
「なら、お言葉に甘えて。『じゃらくだにの伝説』からいこうか。『風のいたずら』によって、当然|君《・》も知っていることだしね」
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※ ここからさき、設定集的文章になります。
途中まで作者が降臨し、地の文が手抜きになります。
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・『じゃらくだにの伝説』
結論から言えば、大事なのは|諸相《しょそう》という坊主が出てきた辺りからです。そこからガラリと物語の雰囲気が変わります。前半はご神体は人形であるという説明的なものです。
登場人物は主に二人で、諸相という坊主とその親の神主(諸相の父親)がいます。あとは人ではありませんが寺のご神体「人形のしゃらく様」です。
諸相は寺から盆地の集落と隣の村を見下ろし、隣の村のほうが干ばつにあえいでいると誤解しました。
実際は父親が何度か外に出て、隣の村にある地下水を分けてくれと頼んでいるようで、実際に困っていたのは自分たちの村の方だったのです。だから父親は離れにあるご神体「人形のしゃらく様」に念仏を唱え、雨を降らせるように願っていたのです。
……それを息子の諸相に見られていたとは気づかずに。
そのため諸相は、なお勘違いをし、隣の村に雨が降らないのは人形のせいだと思い、人形を壊そうとしました。
結果、天罰が下り隣の村ともども雨に流されてしまいます。ご神体「人形のしゃらく様」は自由の身となり、行方が分からなくなりました。
『じゃらくだに』とは、ご神体である「しゃらく様」からきており、そのまま地名にもなっている「しゃらく地方」が、天罰により雨の重さにより沈降していってできた「しゃらく谷」がなまって『じゃらくだに』となっています。
一応言っておきますが、『じゃらくだにの伝説』はすべてAcrossの創作・一から生み出されたフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ないことをここに付言しておきます。
※作者的補足
「じゃらくだに」の由来は、広島県にある「|八木《やぎ》 |蛇落地悪谷《じゃらくじ あしだに》」から来ています。
https://ameblo.jp/dewisukarno/entry-11915531683.html
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・『霧にむせぶ群馬と人形供養』
ご神体「人形のしゃらく様」がお怒りになったことで、寺は流され、離れもなくなりました。残ったのはご神体があったとされる空箱だけ。諸相はこれを悔やみ、すべての財産を使って箱を祠へと改造しました。天井から格子戸の裏に至るまで、すべてに金箔が張られている。その内装の豪華さが諸相の|忸怩《じくじ》たる思いが如実に表れています。
諸相が没し、現代へと時は進みます。ある人物が人形供養を始めることになりますが、その人物こそ物語で出てきた『神宮寺』となります。『神宮寺』は諸相が生涯にわたり遺したとされる書物を漁り、「人形のしゃらく様」が日本のどこかにあるのではないかと思い至ります。そして人形供養をすることで、過去の汚れた清算を図り、そのまま行方知れずとなった「人形のしゃらく様」が手に入るかもしれないと思うようになります。
人形供養とは、要らなくなった人形を各地から募集し、それを供養することになるのですが、『神宮寺』は自分だけの力だけでは「しゃらく様」には会えないと悟り、今まで番組出演を拒んでいたテレビ局へと足を運ぶことにしました。『神宮寺』は40年もの間人形供養をし続けて、どんな呪いの人形でも供養することができるとされる伝説の人物と化していました。
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・『スタジオ』
テレビ局では昨今のテレビ離れにより視聴率が芳しくありませんでした。スポンサー企業も今はいてくれるが、コンプラ、コンプラと過激なことはできないし、どうすればいいのか考えていました。そんな時、『神宮寺』がテレビに出たいと考えていることが伝わります。上層部は歓喜に荒れ、連日連夜ビールで祝勝会をするほどになります。しかし、OKを出したはいいものの、肝心の心霊ものは視聴者には刺さりません。特定の視聴者には刺さりますが、数字が撮れるかと言えば微妙なところ。
手足のように使うスタッフたちには、呪いの人形にふさわしいものを探し出してこいとは言いましたが、それで若者の心がつかめるのかといえば、これも微妙な所。
というわけで、若者にも人気な「ハイランド」をゲストブッキングすることにしました。しかし、彼は平気で大金を使う代わりに横柄な態度をとるということで、テレビ業界のみならず芸能界のつまはじき者として半ば干していたわけでした。ハイランド側はというと、すでに後退の一途をたどっていた自分にこんな番組にオファーが来るなんてプライドが許さなかったのです。しかし、上層部からハイランドのマネージャーに多額のギャラを振り込まれると知り、ハイランドは出てきました。
「言っておくけどな、俺は|お金儲けのため《・・・・・・・》にこの番組に出たわけじゃない。そこの、マネージャーの口先で仕方なく、だ」
というセリフは、現状回復の手段として取ってしまった心の裏返しの言葉となります。
さて、ハイランドをゲストブッキングしたのと同様に、『神宮寺』にも出演条件として交換条件がありました。それが
・呪いの人形を差し出す代わりに「ハイランド」を殺す手伝いをしてほしい
というものでした。殺す動機については省略します。ハイランドに多額のギャラって、それってどこからのお金なんでしょうね、ハイランドを干すと決めたのは一体誰なんでしょうね。その金がある種の『手切れ金である』と思っていただければと思います。
『神宮寺』は「人形のしゃらく様」を手に入れられるのであれば別に些末なことであると考え快諾。作者にもよく分からない技法で殺してしまいます(ミステリー小説じゃないのですみません…)。
こうして『神宮寺』は人を殺す手伝いをしたということで「人形のしゃらく様」と思われる人形を手に入れ、改心した諸相の代に贅の限りを尽くしたような金箔の祠に戻したのですが……
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・『神宮寺』という存在
以上のことを踏まえて、『神宮寺』について考えてみます。
傍から見ると今の『神宮寺』は「人形のしゃらく様」のためなら血を汚してもよいと考えているようにしか思えませんが、事実諸相が遺した書物を読んで、その遺志を継ぎたいと考えているのも事実です。人形供養を始めたのはその書物を読んだことがきっかけでした。それで神社・寺が繁栄し、参拝客が現れるようになった。群馬の山奥です。普通来る場所ではありません。これは『神宮寺』の功績にほかなりません。
ある時『神宮寺』はテレビに出ると言ってきました。そしてカメラを連れて、撮影をした。人が変わったかのようだ。
人形も連れ帰った。これがご神体であるとする。今までご神体は無かったが、今戻ってきたのだ。そう『神宮寺』は言ったのだと巫女たちに厳命しました。しかし、その事実を巫女と一緒に聞いた、今までまったく|知らなかった者《・・・・・・・》からすれば、どのように思うでしょうか。
まるで諸相が父親のことを誤解していたように。
身近にいながら、近くでいながら『神宮寺』のことを見て育ったものが、祠に近づき、火を放ったとしたら?
そして同じく、その者に天罰が下ったとしたら?
「呪」にて、このようなセリフがあったと思います。
「あなたの愚行は、信心深い父親に免じて水に流してあげる。でも、そんなに平等な雨が欲しいのなら……」
これは、誰に向けての言葉でしたか?
★
「つまり私が思うに、『神宮寺の息子』が火を点けたのではないかと思うのだよ」
猫は長台詞を言いきり、顔を洗うようにこすった。霧が目の中に入ったように目元をこする。
「だから君も見間違えた。そもそも君は神宮寺を見ていないからね。姿は分かるだろう。服装も分かる。でも顔の細部までは分からない。それを逆手にとって、人形に言ったのさ『神宮寺が火を放った』のだと」
猫は身体の伸びをして、それから去ろうとしていく。「さてそろそろお暇するとしようかね、今の私は『飼い猫』なもので。また会おうか」
≪……ああ、そういうことにしておこうか≫
それで秘密の会合は解散となった。
霧は晴れていき、霧散していく。風の音すらも聞こえない|満目蕭条《まんもくしょうじょう》たる祠の雰囲気が立ち戻っていく。
静かになりゆく祠の前で、かつての人間が昔話をし始めた。これは霧の残渣が魅せる幻想。
朗読する。今は昔、祠と参道在りけり……
――。
末尾になりますが、追っていただいた方々、本当にありがとうございました。
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