周りから「お似合い」と言われ、一度も喧嘩をしたことがない新(あらた)と永莉(えり)。
結婚を控え、未来のノートに子供の名前を書き込んでいた二人を、理不尽な事件が引き裂いた。
絶望し、時を止めた新の前に現れたのは、自分自身の「死」という二度目の試練。
病院で出会った少女・陽葵に、叶わなかった「未来」を語り始める新。
「僕たちの名前は、絶望の場所で光になった」
23歳。最期の瞬間に彼が浮かべた、最高の微笑みの理由とは――。
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目次
第1話:止まった時計と、冷めたコーヒー
ワンルームの部屋は、一年前から時が止まったままだ。
窓から差し込む夕日は、埃の舞うフローリングをオレンジ色に染めているが、そこに温かさは感じられない。
「……あ」
|新《あらた》は、コンビニで買ってきた味のしない弁当を口に運び、ふと止まった。
テーブルの上にある、二つのペアマグカップ。一つには、昨夜淹れたまま放置された、表面の膜が張ったコーヒーが入っている。もう一つは、一年前のあの日から、一度も使われることなく伏せられたままだ。
そのカップには、かつて|永莉《えり》が自分の名前の頭文字を一文字、可愛らしいシールで貼っていた。
『ねえ、新くん。これ、いつか新しい家になったら、もっといいやつに買い替えようね』
脳裏に、弾けるような彼女の声が響く。
二十二歳。大学を卒業したばかりの僕たちは、無限に続く未来を信じて疑わなかった。
将来、二人でどんな家に住むか。
子供ができたら、どんな名前にするか。
そんな、形のない幸せな空想だけで、夜が明けるまで笑い合えたのだ。
新は重い身体を引きずるようにして、机の引き出しを開けた。
そこには、一年前から更新されることのない『未来のノート』が眠っている。
ページをめくれば、永莉の丸っこい文字が躍る。
『男の子なら、新くんの「新」をとって……』
『女の子なら、私の「永」をもらって……』
新は震える指で、その文字をなぞった。
二十三歳になった今、本来なら僕たちは結婚式の準備で忙しくしていたはずだった。
けれど、今の僕にあるのは、彼女がいたはずの、ぽっかりと空いた空間だけだ。
「永莉……」
声に出すと、胸の奥が焼けるように痛む。
あの日、通り魔という理不尽な悪意が、僕の「未来」をすべて奪い去った。
僕だけが生き残ってしまった。
彼女が欲しかったはずの「今日」を、僕はただ、死ぬまでの待ち時間のように浪費していた。
ふと、視界が歪んだ。
涙はもう枯れたと思っていたのに、彼女の筆跡を見るだけで、絶望は鮮度を保ったまま僕を襲う。
「もう、いいよね」
新は呟き、窓の外の暮れなずむ空を見つめた。
彼女のいない世界で、新しく刻まれる時間なんて、僕には必要なかった。
明日が来なければいい。そう願いながら、新は冷え切ったコーヒーを流し込んだ。
この時、彼はまだ知らなかった。
止まっていたはずの彼の時計が、もうすぐ残酷な「終わり」に向けて、再び動き出すことを。
🔚
第2話:空を掴む指先
|新《あらた》がその異変に気づいたのは、|永莉《えり》の一周忌を終えて数日後のことだった。
朝、目が覚めると、鉛を飲み込んだように身体が重い。
それはいつもの精神的な絶望感だと思っていた。けれど、洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、新は思わず手を止めた。
頬は痩せこけ、肌は土気色をしている。二十三歳の若者が持つべき生気は、どこにもなかった。
「……別に、どうなってもいいか」
独り言をこぼし、新は歯ブラシを口に加えた。
今の彼にとって、健康管理など無意味な儀式に過ぎない。永莉がいない世界で、自分の身体を労わる理由が見つからなかった。
ふと、視界の端に何かが映った。
棚の奥に置かれたままの、未開封のサプリメント。
『新くん、すぐ夜更かしするんだから。これ飲んで、ちゃんと長生きしてよね』
小言を言いながら、それを無理やり買わせた永莉の、心配そうな、でも愛おしげな瞳を思い出す。
「長生きなんて、したくないよ……」
その瞬間、激しいめまいが新を襲った。
視界がぐにゃりと歪み、足の力が抜ける。
「あ……」
咄嗟に壁を掴もうとした指先は、|空《くう》を切り、新はその場に崩れ落ちた。
冷たいタイルの感触が頬に伝わる。
意識が遠のく中で、新は不思議な安堵感の中にいた。
(このまま、眠るように終われたら。そうしたら、永莉のところへ行けるかな)
どれくらいの時間が経っただろうか。
静まり返った部屋に、スマートフォンのバイブ音が無機質に響き渡った。
液晶画面には『母さん』の文字。
一年前から、何度も無視し続けてきた着信。けれど、今の新には、それを拒絶する力すら残っていなかった。
「……もしもし」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
『新? アンタ、生きてるの? ずっと連絡もしないで……。お父さんも心配して、明日そっちに行くって言ってるわよ』
「いいよ。来なくて……。大丈夫だから」
『声が変よ。ちゃんと食べてるの? 永莉さんが亡くなって辛いのはわかるけど、アンタまで死んじゃったら……』
母の言葉が、耳の奥で棘のように刺さる。
死んじゃったら、何だというのか。
誰が悲しむのか。
そんなことより、自分はただ、永莉に会いたい。
電話を切った後、新は這うようにしてソファにしがみついた。
けれど、胃のあたりから突き上げてくる鋭い痛みが、彼を放してはくれない。
それは、ただの不摂生によるものだとは到底思えない、どす黒い「死」の予感だった。
新は震える手で、永莉との『未来のノート』を引き寄せた。
ノートの隅には、二人が笑いながら描いた、へたくそな「理想の家」の間取り図がある。
大きな窓、日当たりのいいリビング、子供部屋は二つ。
その図面の上に、一滴、涙が落ちて滲んだ。
「痛い、よ……永莉……」
死にたいと思っていたはずなのに。
身体が発する悲鳴は、彼を恐怖へと引きずり込んでいく。
このまま独りきりで、誰に看取られることもなく消えていく。
それは、彼が望んでいた「再会」とは、どこか決定的に違うような気がした。
新は、重い瞼を閉じた。
次に目を開けた時、そこが天国か、それとも冷たい病室の天井か。
彼はまだ、自分の運命が大きく舵を切ったことに気づいていなかった。
🔚
第3話:窓の向こうの、色褪せない春
白く、あまりにも無機質な天井。
鼻をつく消毒液の匂いと、規則的に鳴り続ける電子音。
|新《あらた》が次に目を開けた場所は、死後の世界ではなく、重苦しい空気が漂う病室だった。
「……また、生きちゃったのか」
掠れた声で呟く。傍らには、急報を受けて駆けつけたであろう両親が、疲れ果てた顔で眠っていた。
新は二人を起こさないよう、ゆっくりと視線を窓の外へ向けた。
そこには、新にとって忘れられない景色が広がっていた。
病院の中庭。そこにある古びたベンチの横に、一本の立派な金木犀の木が立っている。
「あそこ……」
二年前。|永莉《えり》が風邪をこじらせて短期間入院したとき、新は毎日そこへ通った。
『新くん! 見て、あそこの花、すごくいい匂いだよ。私、元気になったら新くんとあそこのベンチでお弁当食べたいな』
病衣姿で、少し青白い顔をしながらも、永莉は未来のことだけを語っていた。
あの日、彼女は「今」を懸命に生きようとしていた。
それに比べて、今の自分はどうだ。
死を願うように一年を過ごし、挙げ句の果てに、本当の病魔に身体を蝕まれている。
コンコン、と控えめなノックの音がして、白衣を着た医師が入ってきた。
両親が飛び起きる。新は、逃げるように窓の外の金木犀を見つめ続けた。
「新さん。検査の結果が出ました」
医師の言葉は、酷く静かだった。
告げられたのは、聞き慣れない病名。そして、現代の医学では完治が難しい「不治の病」であるということ。
「今後の治療ですが、まずは延命を第一に考え……」
母の嗚咽が部屋に響く。父が医師に縋り付くように質問を投げかけている。
けれど、新の耳にはそれらの音は届かなかった。
(長くは、生きられない)
その言葉だけが、頭の中でリフレフレインする。
不思議だった。あれほど死にたいと思っていたのに、いざ「終わり」を宣告されると、胸の奥が冷たく震える。
窓の向こう、金木犀の木の下で、一組の若いカップルが笑いながら歩いているのが見えた。
かつての自分たち。
明日があることを一ミリも疑わず、子供の名前を考え、未来の地図を描いていた、あの頃の僕たち。
「……永莉」
新は、点滴の管が繋がった右手を、窓の向こうへ伸ばした。
指先は冷たいガラスに触れるだけで、あの温かな日々を掴むことはできない。
一年前、永莉は「今」を奪われた。
そして今、新は「これから」を失おうとしている。
皮肉にも、命の灯火が消えかかっていることを知ったその時、新の鼻腔に、遠い記憶の中にある金木犀の甘い香りがかすかに漂った気がした。
それは、失われゆく「今」が、どれほど残酷で、そして輝かしいものかを告げる、最初の予兆だった。
🔚
第4話:小さな指先と、未完成の地図
延命治療。その言葉の響きとは裏腹に、|新《あらた》を待っていたのは、吐き気と倦怠感に苛まれる、削り取られるような日常だった。
「……はぁ、はぁ……っ」
トイレの洗面台に縋り付き、胃液を吐き出す。
鏡に映る自分は、幽霊のようだ。一年前、|永莉《えり》が通り魔に遭ったあの日の夜、自分も一緒に死んでいれば、こんな惨めな思いをせずに済んだのに。
ふらつく足取りで廊下へ出た時、パジャマの裾を、誰かが弱々しく引いた。
「ねえ、おにいちゃん。だいじょうぶ?」
足元を見ると、点滴スタンドを相棒のように連れた、小さな女の子が立っていた。
年の頃は五歳か六歳。病気のせいか髪は薄く、帽子を深く被っている。けれど、その瞳だけは、新よりもずっと強く、澄んだ光を宿していた。
「……ああ。大丈夫だ。ごめん、びっくりさせたな」
「おにいちゃん、おなかがいたいの? わたしも、たまにいたくなるよ。でも、がまんしたら、あしたのアニメみれるんだ」
明日のアニメ。
そのあまりにささやかで、切実な「未来」の言葉に、新は言葉を失った。
女の子は、新の手元にある一冊のノートに目を留めた。
新が肌身離さず持っている、永莉との『未来のノート』だ。
「それ、なあに? 絵本?」
「……いや、これは……。ただの、落書きだよ」
「みせて! わたし、絵本だいすきなの」
新は迷ったが、床に座り込みそうになった自分を支えてくれた彼女の、無邪気な願いを断れなかった。
震える手で、ノートを開く。
そこには、永莉と書いた「子供の名前」の候補や、将来行きたいキャンプ場のスケッチが並んでいた。
「わあ……! このおうち、かわいい。ここには、だれが住むの?」
「……僕の、大切な人と。いつか、住もうねって、約束した場所だ」
「じゃあ、このなまえは? 『|新太《あらた》』くん……? おにいちゃんと同じなまえだね!」
それは、もし男の子が生まれたら付けようと、永莉が笑いながら書いた名前だった。
「……ああ。僕の子供に、付けるはずだった名前だよ。でも、もうその子は、生まれてこないんだ」
新の声が、わずかに震える。
すると、女の子は小さな、温かな手で、新の大きな手を包み込んだ。
「……ねえ、おにいちゃん。その子、いないの? でも、なまえがあるなら、ここにいるよ」
彼女は、新の胸のあたりをトントンと叩いた。
「わたしのなまえは、|陽葵《ひまり》。おひさまみたいに笑えるようにって、パパがつけてくれたの。おにいちゃんがそのなまえを呼ぶとき、その子は、おにいちゃんのなかにいるんだよ」
陽葵と名乗った少女は、看護師に呼ばれると「またね!」と元気に手を振って去っていった。
静まり返った廊下で、新は一人、ノートを見つめ直した。
一年前から、自分はこのノートを「失われた未来の墓標」だと思っていた。
けれど、陽葵にとっては、それは「今、ここに生きている証」に見えたのだろうか。
(僕が、その名前を呼ぶとき……)
新は初めて、自分の病室へ戻る足取りを、少しだけ踏みしめた。
永莉が愛した「今」を、自分はただ呪っていた。
けれど、この小さな少女は、いつ終わるかわからない「今」を、明日放送されるアニメのために必死に繋ぎ止めている。
新の止まっていた時間が、微かな音を立てて、一秒だけ進んだ。
🔚
第5話:物語の産声
|陽葵《ひまり》と出会ってから、|新《あらた》の病室には、小さな来客が頻繁に訪れるようになった。
「ねえ、おにいちゃん。きょうも、あの『おなまえのノート』、よんで?」
治療の合間のわずかな時間、陽葵は新のベッドの横にちょこんと座る。
新は、抗がん剤の副作用で震える手で、|永莉《えり》との『未来のノート』を開いた。
「……いいよ。今日は、この公園の話をしようか。ここはね、永莉――僕の恋人が、いつか子供と一緒にピクニックに行きたいって言っていた場所なんだ」
新は、ノートに描かれた拙いスケッチをなぞりながら、言葉を紡いだ。
不思議なことだった。一年前までは、このページを開くたびに胸が締め付けられ、呼吸ができなくなっていたのに、陽葵に聞かせるために口を開くと、思い出の中の永莉が、悲劇のヒロインではなく、ただの「愛らしい一人の女性」として蘇ってくる。
「その公園にはね、大きな滑り台があって、春になると一面がシロツメクサで白くなるんだ。そこで冠を作って、子供にプレゼントするんだって、彼女は笑ってたよ」
「わあ……! わたしも、そのかんむり、ほしい!」
陽葵の瞳がキラキラと輝く。
その時、新の胸に、今まで感じたことのない感情が芽生えた。
(僕たちが叶えられなかった未来は、ただ消えてなくなるだけじゃないのかもしれない)
永莉と話した「子供の名前」、行きたかった場所、教えたかったこと。
それらは、二人がこの世に生きて、誰かを愛した証だ。
それを、今ここに生きている陽葵のような子供たちに語り継ぐことができれば、永莉の想いは、別の形をして「今」を生き続けるのではないか。
その日の夜。新は、病院の売店で新しい原稿用紙とペンを買った。
「……書こう」
新は、ベッドの上で震える指先に力を込めた。
自分に残された時間は、もう長くはない。医師の顔を見れば、それが残酷なほどよくわかる。
新が書き始めたのは、悲しい死の物語ではなかった。
『|新太《あらた》』と『|永美《えみ》』という、かつて自分と永莉が考えた子供の名前を主人公にした、冒険の物語だ。
二人が行きたかったキャンプ場、海、動物園。それらを舞台に、まだ見ぬ我が子たちが元気に駆け回る物語。
一文字書くごとに、全身を倦怠感が襲う。
けれど、ペンを動かしている間だけは、新は病を忘れ、失った絶望を忘れ、永莉と共に「新しい未来」を創造しているような感覚になれた。
「永莉。僕、決めたよ。君との思い出を、この世界に遺していく」
暗い病室で、手元のランプだけが白く原稿用紙を照らしている。
かつて絶望して投げ出したペンを、新は今、自らの命を削るようにして走らせ始めた。
それは、新が初めて「自分の死」ではなく「誰かの今」のために、前を向いた瞬間だった。
🔚
第6話:削り取られる砂時計
|新《あらた》の病室の机には、日に日に原稿用紙が積み重なっていった。
タイトルはまだない。けれど、そこには新と|永莉《えり》が夢見た景色が、色鮮やかな言葉となって息づいていた。
「……っ、う……」
不意に、右手に力が入らなくなる。ペンが指の間から滑り落ち、カランと虚しい音を立てて床を転がった。
新はそれを拾おうとしたが、身体が言うことを聞かない。視界が白く霞み、心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに打ち鳴らされる。
「新さん、無理をしてはいけません」
回診に来た主治医の松本が、床のペンを拾い上げ、サイドテーブルに置いた。その目は、憐れみよりも厳しい現実を物語っていた。
「検査の結果、腫瘍が神経を圧迫し始めています。……新さん、これ以上の執筆は、命を縮めることになります。今日から、痛みを抑えるための鎮静剤の投与量を増やしましょう」
「……それをしたら、僕は眠ってしまうんですよね」
新は、掠れた声で問い返した。
鎮静剤を増やせば、痛みは和らぐ。けれど、意識は混濁し、思考は霧の中に消えていく。それは、物語を書くための「言葉」を失うことを意味していた。
「意識がある時間は、一日のうち数時間も保てなくなるでしょう。ですが、今のあなたの苦痛を考えれば――」
「嫌です」
新は、はっきりと拒絶した。
一年前、永莉を失った時の自分なら、迷わず眠りを選んだだろう。そのまま二度と目が覚めなくてもいいとさえ願ったはずだ。
けれど、今は違う。
「先生……。僕には、どうしても書き上げなきゃいけないものがあるんです。これを書き終えるまでは、僕に『今』をください。……たとえ、どれほど痛くても」
松本医師は、深くため息をつき、静かに部屋を出て行った。
残された静寂の中で、新は自分の左手で、動かなくなった右手を強く握りしめた。
窓の外では、|陽葵《ひまり》が中庭でリハビリをしているのが見える。彼女は、新が書いている物語の続きを、心から楽しみに待っている。
そして何より、この物語を書き進めるほどに、新は永莉を近くに感じていた。
(永莉。君は、こんなに苦しい思いをして、僕を置いていったのか)
通り魔に襲われた瞬間、彼女が何を感じたのか。
恐怖か、痛みか。それとも、僕に会えなくなる悲しみだったのか。
一年前は想像するだけで発狂しそうだったその光景が、今は、同じ「死」の瀬戸際に立つ新にとって、不思議と静かな対話のように感じられた。
「……ごめんね、永莉。僕、君がどれだけ『明日』を欲しがっていたか、全然わかってなかった」
新は震える手で再びペンを握った。
一文字、また一文字。
それは、自分の命という名の砂時計から、砂を一粒ずつ取り出して紙に塗りつけるような作業だった。
夜が更け、病棟が静まり返る中、新は必死に意識を繋ぎ止めていた。
物語の中の『新太』と『永美』は、今、二人が行きたかったあの金木犀の咲く公園にたどり着こうとしている。
「……あと、少し……。あと少しだけ……」
新の目から、一筋の涙がこぼれ、原稿用紙の端を濡らした。
「いつか」なんて来ない。
「今」しかないのだ。
その残酷で美しい真理が、新の指先を、痛みを越えて動かしていた。
🔚
第7話:解かれた糸、結び直す指先
|新《あらた》の病室の壁には、一枚のカレンダーが貼られている。
一年前、|永莉《えり》が亡くなった日から、日付を書き込むことをやめていたその紙に、新は震える手で小さく丸をつけた。
「……今日、だよな」
それは、大学時代の親友や、一年前から避けてきた地元の友人たちに送った、短いメールの返信が届く日だった。
『会いたい。話したいことがあるんだ』
あの日、永莉と喧嘩別れをしてしまった後悔が、今も新の胸を抉っている。「明日言えばいい」という傲慢さが、永遠の別れを作ってしまった。
コンコン、と戸惑うようなノックの音がした。
「……新? 入るぞ」
扉が開くと、そこには三人の友人が立っていた。かつて共に笑い、永莉との結婚を誰よりも祝福してくれた仲間たちだ。
彼らは新の姿を見た瞬間、言葉を失った。
一年前の精悍な面影はなく、痩せこけ、鼻に酸素吸入の管を通した新。彼らの表情には、悲しみと、それ以上に「どう声をかけていいかわからない」という戸惑いが浮かんでいた。
「……悪いな。急に呼び出して」
新が無理に口角を上げると、一人の友人が絞り出すように言った。
「お前……なんで言わなかったんだよ。こんなになるまで……」
「言うのが怖かったんだ。永莉がいなくなった後、僕だけが生きてるのが申し訳なくて……。でも、それももう、やめることにした」
新は、ベッドの横に置かれた原稿用紙の束に目をやった。
「僕はもうすぐ、永莉のところへ行く。……でも、その前に、みんなに伝えておきたかった。あの日、みんなが僕を励まそうとしてくれたこと、本当は嬉しかったんだ。八つ当たりして、ごめん。……ありがとう」
友人たちの目から、堪えていた涙が溢れ出した。
かつてのように肩を叩き合うことはできない。けれど、病室を満たしていた冷たい沈黙は、新の言葉によって、温かな、それでいて切実な「今」へと溶けていった。
「新、お前……」
「いいんだ。僕は今、人生で一番、自分が生きてるって感じてるから」
友人たちが去った後、新は深く息を吐いた。
心が軽くなっていた。誰かに想いを伝えることは、こんなにもエネルギーを使い、そして、こんなにも自分を救ってくれるのか。
その夜、新はペンを走らせた。
物語の中の『新太』と『永美』は、旅の途中で喧嘩をし、そして、すぐに仲直りをする。
「ごめんね」と「ありがとう」を、明日に持ち越さないために。
「永莉。僕、やっと言えたよ」
新の指先は、もう感覚がほとんどなかった。
それでも、彼は書くことをやめない。
大切な人を失うのがいつかわからないなら、今、この瞬間にすべてを込めるしかないのだ。
窓の外では、夜風に揺れる金木犀の枝が、まるで永莉が頷いているかのように、静かに揺れていた。
🔚
第8話:不器用な食卓と、繋がれた命
友人たちが去った後の病室は、ひどく静かだった。その静寂を破るように、重い足取りで入ってきたのは、|新《あらた》の両親だった。
母の手には、小さな保温ジャーが握られている。
「新、少しでも食べられそう? アンタが好きだった、カボチャの煮物……作ってきたわよ」
母は努めて明るく振る舞っていたが、その声は微かに震えていた。
一年前、|永莉《えり》が亡くなってからの新は、両親の差し出す手をすべて振り払ってきた。「放っておいてくれ」「僕の勝手だ」――その言葉が、どれほど二人を傷つけたか。今の新には、それが痛いほどよくわかった。
「……ありがとう、母さん。いただくよ」
新が弱々しく笑うと、母の目から堪えきれない涙が溢れ落ちた。
父は窓際で背を向けたまま、鼻を啜り上げている。
新は一口、煮物を口に運んだ。
味がよくわからないはずなのに、喉を通る温かさが、自分がまだ「生きている」ことを思い出させる。
「父さん、母さん。……ごめんね。一年間、心配ばっかりかけて。……僕、本当は、二人の子供に生まれて、すごく幸せだったよ」
父がゆっくりと振り返った。その顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「新……。そんなこと、言うな。お前は、俺たちの誇りだ。永莉ちゃんのことも、お前の病気のことも……代わってやれなくて、情けない」
「代わらなくていいんだよ。……僕は、永莉に教えてもらったんだ。いつ失うかわからないからこそ、今を大切にしなきゃいけないって。僕は今、こうして二人と話せてる。それが、何よりも嬉しいんだ」
新は、ベッドの脇に置いた原稿用紙の束の横から、一通の手紙を取り出した。
それは、永莉の両親へ宛てたものだった。
「これ、いつか……僕がいなくなったら、永莉のお父さんとお母さんに渡してほしい。彼女が、最後の日までどれほど幸せそうに未来の話をしていたか、僕が書いたんだ。……あの日、喧嘩したまま別れちゃった僕の、最後のお詫びなんだ」
新は、自分の指先を見つめた。
かつて、この指で永莉と繋いだ。この指で、未来を指差した。
その未来は形を変えてしまったけれど、両親と繋ぎ直したこの「今」だけは、誰にも奪わせない。
その夜、新は久しぶりに両親と昔話をした。
自分が生まれた時のこと。初めて歩いた日のこと。
命の終わりを意識したことで、皮肉にも、自分がどれほど多くの愛を注がれて「今」まで繋がれてきたかを知った。
消灯時間が過ぎ、両親が帰った後、新は静かにペンを走らせた。
物語の中の『新太』と『永美』は、ようやく自分たちの目的地を見つける。
そこは、特別な場所ではない。
「大切な人に、ただいまと言える場所」だ。
「……見ててね、永莉。僕、ちゃんと最後まで、僕の『今』を使い切るから」
新の目には、もう涙はなかった。
あるのは、限られた時間の中で何かを遺そうとする、静かで力強い決意だけだった。
🔚
第9話:消えゆく灯火と、繋がれる言葉
病室の空気は、日を追うごとに重さを増していた。
|新《あらた》の身体は、もはや自力で上体を起こすことすら難しくなっている。視界は度々暗転し、ペンを握る右手の感覚は、数日前から完全に消失していた。
「……っ、あ……」
それでも、新は左手で右手を支え、這うような速度で原稿用紙を埋めていた。
物語の中の『|新太《あらた》』と『|永美《えみ》』は、ついに目的地の「光の丘」にたどり着こうとしている。そこは、二人が子供の名前を考えたあの夜に思い描いた、理想の未来の象徴だった。
その時、廊下が慌ただしくなった。
幾人もの足音と、医療機器がぶつかる金属音。そして、聞き覚えのある小さな泣き声。
「|陽葵《ひまり》ちゃん! しっかりして!」
新の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
隣の病室にいたはずの陽葵。あんなに元気に「物語の続きを読んで」と言っていた少女の容体が、急変したのだ。
新は、点滴の管を引きちぎらんばかりの勢いで、ベッドから身を乗り出した。
「陽葵、ちゃん……」
一時間後。嵐のような騒がしさが去った後、松本医師が力ない足取りで新の部屋にやってきた。その表情を見ただけで、新にはすべてがわかった。
「……陽葵ちゃんは、持ち直しました。ですが、予断を許さない状況です。意識が戻るかどうかも……」
「先生。……僕の、この物語を。彼女に、聞かせてあげたいんです」
新は、書きかけの原稿を震える手で差し出した。
「彼女は、この結末を待ってる。……『新太』くんと『永美』ちゃんが、最後に見つける宝物が何か、教えるって約束したんです。……それが、彼女が『明日』を待つ理由なんです」
松本医師は、新の血走った、けれど迷いのない瞳を見つめ、静かに頷いた。
その夜、新は文字通り、命を削って筆を走らせた。
痛み止めの副作用で意識が混濁し、|永莉《えり》の幻影が何度も目の前を横切る。
『新くん、もういいよ。頑張ったよ。こっちにおいで』
幻の永莉が、優しく手を差し伸べる。
けれど、新は首を振った。
「……まだ、ダメだ。永莉。……僕は今、『今』を生きてるんだ。陽葵ちゃんに、この物語を届けるまでは……行けない」
一文字書くたびに、肺が潰れるような痛みが走る。
それでも新は、永莉と語り合ったあの幸せな記憶を、一滴のインクに変えて紙に叩きつけた。
夜明け前。
ついに、最後の一行が書き込まれた。
『――二人が見つけた一番の宝物。それは、遠い未来の約束ではなく、今、隣にいる人の手を握っている、この瞬間だった。』
ペンが、新の手から力なくこぼれ落ちた。
真っ白な原稿用紙の束。それは、新がこの世に生きた証であり、永莉と共に紡いだ、究極の「遺言」だった。
「……陽葵ちゃん。……待っててね」
新の意識は、そこで深い闇へと沈んでいった。
けれど、その口元には、一年前には決して見られなかった、微かな、けれど確かな満足感の笑みが浮かんでいた。
🔚
第10話:繋がれたバトン、残された時間
深い眠りから覚めた|新《あらた》の目に飛び込んできたのは、机に置かれた一冊の手製の本だった。
看護師たちが、新の書き上げた原稿を丁寧にコピーし、表紙をつけてくれたのだ。タイトルは、新が最後に記したもの。
『今、この瞬間の宝物』
「新さん。……|陽葵《ひまり》ちゃん、意識が戻りましたよ」
松本医師の声に、新はゆっくりと顔を向けた。
「……本当、ですか」
「ええ。先ほど、看護師があなたの物語の結末を読み聞かせました。彼女……笑っていましたよ。『新太くんたち、よかったね』って。それで、お腹が空いたからゼリーが食べたい、と」
新の目から、熱いものが溢れた。
自分が生み出した言葉が、誰かの生きる力になった。|永莉《えり》と一緒に夢見た「未来」は、自分の子供という形ではなく、陽葵という小さな命を繋ぎ止める「希望」という形になって実を結んだのだ。
「先生……。僕に、最後のわがままを言わせてください」
新は、窓の外をじっと見つめた。
そこには、一年前からずっと避けてきた、けれど一分一秒たりとも忘れたことのない「あの場所」へと続く道があった。
「……永莉が亡くなった場所へ、行かせてください。……今の僕なら、あの日、彼女が何を伝えたかったのか、わかる気がするんです」
「今のあなたの容体では、外出は命を削ることになります。……病院に戻ってこれない可能性も、ゼロではありません」
「わかっています。……でも、僕は『今』、行かなきゃいけないんです。……明日があるかどうかわからないからこそ、今、彼女に会いに行きたいんです」
松本医師は、長く重い沈黙の後、静かに新のカルテを閉じた。
「……わかりました。明日の午前中、救急車と看護師を同伴させる条件で、外出許可を出しましょう」
その日の午後。新は病院の談話室にある小さな図書コーナーへ、車椅子で向かった。
そこには、新が書いた本が置かれていた。
陽葵だけでなく、他の子供たちや、病に怯える大人たちが、その本を手に取っている。
『いつか失うとわかっていても、今、隣にいる人の手を握ってください。その温もりこそが、私たちが生きた証なのですから』
本のあとがきに記したその言葉を、新は心の中で反芻した。
病室に戻り、新は両親に電話をかけた。
「明日、あそこへ行ってくるよ」
電話の向こうで、母が言葉を詰まらせる。父が「……わかった。俺たちも行く」と短く言った。
新は、静かに目を閉じた。
明日の今頃、自分はどこにいるだろうか。
一年前は、あの日を「すべてが終わった日」だと思っていた。
けれど今は違う。
あの日から始まった、苦しくて、残酷で、けれど誰よりも深く「今」を愛した自分の物語の、それが真の完結へと続く道なのだ。
夜の帳が下りる中、新は永莉の声を聴いた気がした。
『新くん、待ってるね』
新は微笑んだ。その顔に、もう迷いはなかった。
🔚
第11話:名前を呼ぶ場所
救急車のリアドアが開くと、冷たい秋の風が|新《あらた》の頬をなでた。
車椅子に移され、看護師と両親に付き添われて地面に降り立つ。そこは、一年前から僕の時計が止まったままの、何の変哲もない駅前の歩道だった。
「……ここだ」
新の声が震える。
視界に入る街路樹、信号機の音、行き交う人々。一年前、|永莉《えり》が通り魔に襲われ、命を落としたその場所は、驚くほど日常の中に溶け込んでいた。
あの日。
喧嘩をして、背中を向けて歩き出した僕を、彼女はどんな目で見送ったのだろう。
異変に気づき、振り返ったときには、彼女はもう血の海の中に倒れていた。
僕はただ、彼女の名前を叫ぶことしかできなかった。
「新、大丈夫か?」
父が背中に手を置く。新は深く頷き、車椅子の車輪を自分で回した。
アスファルトの上に、小さな花束を置く。
それは、二人が子供の名前に使おうとしていた「|莉《ジャスミン》」を模した、白い可憐な花だった。
「永莉。……会いに来たよ」
新は目を閉じた。
すると、脳裏に一年前の映像ではなく、病室で|陽葵《ひまり》ちゃんが笑っていた顔や、自分の本を読んでいた人々の姿が浮かんだ。
(ああ、そうか……)
新は気づいた。
永莉がこの場所で最後に残したものは、「痛み」や「怨み」ではなかったはずだ。
彼女が最期まで僕に伝えようとしていたのは、きっと「今、あなたと一緒にいられて幸せだった」という、一点の曇りもない愛だった。
「ごめんね、永莉。僕、一年間ずっと、君がいないことを呪って生きてきた。……でも、病気になって、君がどれだけ『今』を大切に思っていたか、やっとわかったんだ」
新は、花束の横に、自分が書き上げた本を一冊置いた。
「僕たちの子どもの名前、本にしたよ。……君が欲しがっていた『明日』は、僕がこの本に込めた。だから……もう、泣かないでいいよね」
その瞬間、風が強く吹き抜け、白い花びらが舞った。
まるで永莉が「ありがとう」と言って、新の髪を撫でたかのように。
新の身体を、激しい発作が襲った。
口から血が溢れ、視界が急激に暗くなる。
「新! しっかりしろ!」
両親の叫び声が遠のいていく。
救急車へ運び込まれる間際、新は最後に空を見上げた。
どんよりとした曇り空の隙間から、一筋の光が差し込んでいた。
(僕は……今を、生きたよ。永莉)
意識が途切れる直前、新の心は、かつてないほどの静寂と安らぎに包まれていた。
🔚
第12話:境界線のワルツ
目を覚ますと、そこは病院のベッドではなかった。
柔らかな陽光が降り注ぐ、あの金木犀の木の下。
「|新《あらた》くん、遅いよ」
聞き慣れた、鈴を転がすような声。
振り返ると、そこには二十二歳のままの|永莉《えり》が立っていた。あの日と同じ、お気に入りの白いワンピースを着て、悪戯っぽく笑っている。
「永莉……? なんで……。僕は、あそこで倒れて……」
「ふふ、そんなに難しい顔をしないで。ここはね、昨日と明日が交ざり合う場所。新くんが一生懸命歩いてきた、ご褒美の場所だよ」
新は自分の身体を見下ろした。
点滴の管も、酸素マスクもない。痩せこけていたはずの腕には力が戻り、呼吸は驚くほど軽い。
新はたまらず永莉を抱きしめようとした。けれど、指先が彼女の身体をすり抜ける。
「まだだよ、新くん。まだ、触れられないの。……だって、新くんの『今』は、まだ終わってないもの」
「どういうこと? 僕はもう、全部伝えたよ。本も書いたし、みんなに感謝も……」
永莉は静かに首を振って、新の背後を指差した。
そこには、現実の病室の光景が、霞んだ鏡のように映し出されていた。
ベッドに横たわる、死を待つばかりの自分。
その傍らで、新が書き上げた本を抱きしめ、必死に涙を堪えている陽葵(ひまり)の姿があった。
そして、病院の談話室で、その本を回し読みし、「明日、もう一度だけ頑張ってみようかな」と呟く見知らぬ誰かの姿も。
「新くん。あなたが遺した言葉が、今、誰かの心の中で動き出してる。……それを見届けるのが、あなたの最後の仕事だよ」
「……永莉……」
「大丈夫。私はどこにも行かないよ。……いつか失うのがわかっているから、今を大切にしようって、新くんは書いたんでしょう? だったら、その『今』を、最後まで愛してあげて」
永莉が優しく微笑み、その姿がゆっくりと光の中に溶けていく。
金木犀の香りが、一気に強まった。
「あ……」
新が目を開けると、視界に飛び込んできたのは、ひどく霞んだ病室の天井だった。
身体を焼き尽くすような痛みが戻ってくる。けれど、不思議と恐怖はなかった。
「……にいちゃん。……おにいちゃん……」
弱々しい声が聞こえる。
視線を落とすと、車椅子に乗った陽葵が、新の骨張った手を握っていた。
新は残されたすべての力を振り絞って、彼女の小さな手を、わずかに握り返した。
(ああ、そうだ。僕は、まだ生きてる)
一分、一秒。
心臓が刻む鼓動が、愛おしくてたまらない。
新は、傍らにいた看護師に、かすれた声で言った。
「……陽葵ちゃんに、……お話を。……物語の、続きを……」
それは、本には書けなかった、新が今この瞬間に感じている「本当の結末」だった。
🔚
第13話:名もなき花に、光を
酸素マスクの奥で、新の呼吸は浅く、途切れがちだった。
視界はもはや、陽葵の小さな輪郭を捉えるのが精一杯だ。けれど、彼女が握ってくれている手の温もりだけは、驚くほど鮮明に伝わっていた。
「……ひまり、ちゃん」
|新《あらた》は、肺の奥から言葉を掻き集めるようにして呼びかけた。
陽葵は、涙で濡れた瞳を大きく見開き、新の顔を覗き込む。
「にいちゃん……。おはなし、おわっちゃったの? 『|新太《あrsた》』くんと『|永美《えみ》』ちゃん、どうなったの?」
「……ううん。おわりじゃ、ないよ。……あのね、二人は……ずっと、旅を続けるんだ。……ひまりちゃんみたいに、明日を信じてる、……みんなの、心のなかでね」
新は、ベッドの横に置かれた、ボロボロになった自分の本を指差した。
その表紙には、新と|永莉《えり》がかつて夢見た、名もなき白い花が描かれている。
「……あのね、陽葵ちゃん。……『新』っていう字はね、……毎日が、新しく始まるって……意味なんだ。……『永』はね、……その一瞬が、永遠に続くくらい、……大切だってことなんだよ」
それは、一年前の自分には決して言えなかった言葉だった。
失うことを恐れて立ち止まっていた自分。けれど、死の淵に立って初めて、新は「新しい一日」が来ることの奇跡を知った。
「……だから、……ひまりちゃん。……もし、いつか、……悲しいことがあっても。……今の、その手の、温かさを……忘れないで。……それが、……生きている、……証なんだから」
陽葵は、小さな拳を握りしめ、力強く頷いた。
「……うん。わたし、わすれないよ。おにいちゃんがくれたおはなし、みんなにも、おしえてあげる」
新の口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
自分が遺した言葉が、陽葵という小さなフィルターを通して、また別の誰かへと繋がっていく。
永莉と相談した「子供の名前」は、血の繋がりを超えて、こうして世界に溶け込んでいくのだ。
不意に、病室のカーテンが風に揺れた。
どこからか、ジャスミンのような、甘く優しい香りが漂ってくる。
(……ああ。……もう、いいんだね。永莉)
新は、ゆっくりと目を閉じた。
意識の端っこで、陽葵が本をめくる音が、心地よいリズムを刻んでいる。
一分。一秒。
今の自分にとって、この静かな時間は、宇宙のすべてよりも重く、尊い。
新は、握られた陽葵の手の感触を、魂に刻み込むようにして味わった。
失うことがわかっているからこそ、この瞬間は、永遠よりも長く、新の心を満たしていた。
🔚
第14話:世界の音、命の響き
ついに、声が出なくなった。
喉の筋肉は強張り、言葉を形にしようとしても、漏れるのはかすれた吐息だけだ。視界も白く濁り、愛用していたペンを握る力も、もはや残されていない。
(……静かだ)
|新《あらた》は、動かなくなった身体の檻の中で、研ぎ澄まされた感覚だけを頼りに「今」を感じていた。
窓の外で揺れる木の葉の擦れる音。遠くで聞こえる救急車のサイレン。看護師がシーツを替えるときの清潔な音。
一年前、絶望の中にいたときには「雑音」でしかなかったそれらすべてが、今は、世界が生きていることを告げる愛おしい音楽のように聞こえた。
コンコン、と控えめなノックの後、大学時代の友人たちが部屋に入ってきた。
彼らは新の枕元に座ると、何も言わずに、新が書き上げたあの本を開いた。
「……今日は、12ページから読むな」
友人の一人が、震える声で読み始める。
それは、新が書いた『新太』と『永美』が、夕暮れ時の海辺で、明日もまた会えることを約束するシーンだった。
「『また明日ね。その一言が、どれほど贅沢な約束か、僕たちは知らなかった――』」
友人の朗読を聴きながら、新はゆっくりと瞬きをした。
自分の内側から溢れ出た言葉が、友人の声を借りて、再び自分の耳へと戻ってくる。
その言葉は、新自身を励ましていた。
(そうだよ。明日があるのは、当たり前じゃない。だから、今こうして君たちの声を聴けていることが、僕にとっての奇跡なんだ)
新の目から、一筋の涙がこぼれ、枕を濡らした。
悲しいのではない。
自分の人生に、こんなにも優しい友人たちがいてくれたこと。
そして、自分もまた、彼らの心に何かを遺せたことへの、深い感謝だった。
面会時間が終わり、友人たちが一人ずつ新の手に触れて帰っていく。
「新、また明日な」
「(……ああ、また明日)」
心の中でそう答える。その「また明日」という言葉が、今の新にとっては、宇宙で一番美しい祈りのように感じられた。
夜、静まり返った病室。
新は、かすかな月明かりを浴びながら、|永莉《えり》のことを想った。
彼女は、あの場所で一人、どんな音を最後に聴いたのだろう。
きっと、僕を呼ぶ自分の声だったのではないか。
(永莉。僕は今、たくさんの優しい音に包まれているよ)
新は、暗闇の中でそっと口角を上げた。
声は出ない。動けない。
けれど、彼の心は、これまでの人生のどの瞬間よりも自由に、豊かに波打っていた。
命の砂時計は、残り少ない。
けれど、最後の一粒が落ちるその瞬間まで、新はこの世界の音を、一滴も漏らさずに聴き続けると決めていた。
🔚
第15話:雨のあとの虹、許しと祈り
病室のドアが、いつになく静かに開いた。
入ってきたのは、一年前のあの日以来、一度も顔を合わせることができなかった二人だった。|永莉《えり》の父と、母。
二人の顔には、愛娘を亡くした深い悲しみの跡が刻まれていた。けれど、新を見つめるその瞳には、かつて彼を責めたときのような鋭さはもうなかった。
「……|新《あらた》くん」
永莉の母が、枕元に歩み寄る。その手には、新が遺したあの本と、一通の手紙が握られていた。
新は声を出せない。ただ、潤んだ瞳で二人を見つめ、細くなった指先をわずかに動かした。
「手紙、読んだわよ。……永莉が、あの日までどれほど幸せだったか。……あなたが、どれほど彼女を大切に想ってくれていたか。……ごめんなさいね、今まで。あなたを責めることでしか、悲しみをやり過ごせなかったの」
永莉の父も、隣で深く頷いた。
「この本も読ませてもらった。……『新太』と『永美』か。いい名前だな。……永莉も、きっと喜んでる。……新くん、君はよく頑張った。……もう、自分を責めなくていいんだよ」
新の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
一年前、彼女を守れなかった自分を、世界中の誰よりも自分が許せなかった。
けれど、彼女をこの世に送り出した二人に「許し」を請われたとき、新の心の中にあった最後の一片の氷が、静かに溶けていくのを感じた。
「(……ありがとうございます。……ありがとうございます)」
心の中で何度も叫ぶ。
新は、残された右手の力を振り絞り、永莉の母の手を握った。
それは、一年前のあの凄惨な事件の場所で、繋ぎ損ねた手の温もりを、ようやく取り戻した瞬間だった。
「……永莉の分まで、私たちがあなたの『今』を見守っているからね」
二人は、新の枕元に、永莉の遺影をそっと置いた。
写真の中の永莉は、二十二歳の、最高に輝いていた笑顔で新を見つめている。
新はその笑顔に応えるように、ゆっくりと瞬きをした。
窓の外では、朝から降っていた雨が上がり、雲の隙間から柔らかな光が差し込んでいた。
憎しみも、後悔も、もうここにはない。
あるのは、同じ人を愛し、同じ痛みを分かち合った者同士の、静かな祈りだけだ。
新は、永莉の遺影と、彼女の両親の顔を交互に見つめた。
自分がこの世を去る前に、どうしても結び直さなければならなかった絆。
それが今、一本の強い糸となって、新の心を「今」というこの場所に、しっかりと繋ぎ止めていた。
🔚
第16話:夕陽に溶ける、最後の「今」
|新《あらた》に残された時間は、もう数えるほどしかなかった。
意識は浅い波のように引いては返し、自分が今、どこの誰なのかさえ分からなくなる瞬間が増えていた。それでも、彼を現世に繋ぎ止めていたのは、窓から差し込む光の移ろいだった。
「新さん。……今日は、いい天気ですよ。屋上に行ってみましょうか」
松本医師の提案に、新はゆっくりと、一度だけ瞬きをして応えた。
鼻に酸素を通し、幾つものモニターに繋がれたまま、新はストレッチャーで病院の屋上へと運ばれた。
扉が開いた瞬間、頬を撫でたのは、秋の終わりの少し冷たく、澄み切った風だった。
「……あ」
新の瞳に、燃えるような夕陽が飛び込んできた。
街全体を黄金色に染め上げ、すべてを等しく優しく包み込む光。一年前、|永莉《えり》と二人で歩いたあの日も、こんな夕陽が街を照らしていた気がする。
「新……。綺麗だな」
傍らで、父が新の手を握る。母は、新の肩まで毛布を掛け直し、震える手でその頭を撫でた。
新は、夕陽を見つめながら思った。
自分の二十三年の人生は、世間から見れば、短くて悲劇的なものかもしれない。最愛の人を失い、自らも若くして病に倒れる。
けれど、今の新に、そんな悲壮感はなかった。
(……僕は、幸せだった)
永莉と出会い、恋をして、共に未来を夢見たこと。
彼女を失った絶望の底で、「今」の尊さに気づけたこと。
陽葵ちゃんに物語を届け、友人や両親と、心からの「ありがとう」を交わせたこと。
これらすべてのピースが揃って、僕の人生というパズルは、今、ようやく完成しようとしている。
「(|新太《あらた》、|永美《えみ》……。いい名前だよな、永莉」)」
心の中で、空にいる彼女に語りかける。
彼らが生きるはずだった未来は、もう来ない。けれど、彼らへの想いを綴ったあの物語は、今、この下の階で陽葵ちゃんや他の誰かの「明日」を支えている。
太陽がゆっくりと、山の端に沈んでいく。
空は赤から紫へ、そして深い紺碧へと溶けていく。
新は、その移ろいの一分一秒を、愛おしく見つめ続けた。
いつ大切な人を失うかわからない。いつ自分が消えるかわからない。
だからこそ、この夕陽を見つめている「今」が、永遠よりも価値があるのだ。
「……あり、がとう」
声にはならなかった。けれど、その想いは、握りしめた両親の手の温もりを通じて、確かに伝わっていた。
新の瞳に映る最後の光が、静かに、けれど力強く、明日を待つ世界へと託されていった。
🔚
第17話:未来への色鉛筆
夕陽を見届けた翌朝、|新《あらた》の意識はさらに遠のき、覚醒している時間は一日のうちで一時間にも満たなくなっていた。
モニターの波形は緩やかになり、死の足音が病室のすぐ外まで来ていることを誰もが察していた。
そんな静寂を破るように、病室のドアが「ガラガラ」と音を立てて開いた。
「おにいちゃん! みて、みて!」
看護師に車椅子を押された|陽葵《ひまり》が、一枚の大きな画用紙を抱えて飛び込んできた。
新は重い瞼をゆっくりと開け、霞む視界を必死に合わせた。
「これ、おはなしのつづき……。わたしがかいたの!」
陽葵が差し出した画用紙には、不器用ながらも色鮮やかなクレヨンで、二人の子供が手を繋いで虹の橋を渡る姿が描かれていた。
男の子と、女の子。
新が物語に託した『|新太《あらた》』と『|永美《えみ》』だ。
新太の手には、新がいつも持っているあのノートが握られ、永美の頭には、|永莉《えり》が大好きだったシロツメクサの冠が載っている。
「あのね、おにいちゃん。新太くんと永美ちゃんは、虹をわたって、お空にいるママに会いに行くんだよ。それでね、『パパはとってもかっこよかったよ』っておしえてあげるの」
新の胸の奥で、何かが熱く震えた。
自分が書いた物語は、ただの「未完の夢」ではなかった。
陽葵という新しい想像力の中で、物語は新の手を離れ、彼ですら思いつかなかった「再会」という希望へ向かって走り出していたのだ。
新は震える左手を動かし、ベッドの脇に置いてあった「一本の色鉛筆」を陽葵に差し出した。
それは、物語を書くために新が最後まで握っていた、短くなった青色の鉛筆だった。
「(……ひまりちゃん。……続きは、君が描いて)」
声にはならない。けれど、その鉛筆を渡す指先には、新の全霊が込められていた。
陽葵はその鉛筆を両手で大切に受け取り、宝物を見るような目で新を見つめた。
「うん! わたし、もっともっといっぱい描くよ。おにいちゃんの物語、終わらせないよ」
陽葵が部屋を去った後、新は穏やかな幸福感に包まれていた。
自分がこの世から消えても、この鉛筆が、この物語が、誰かの「今」を彩り続ける。
永莉と相談したあの名前は、もう「失われた未来」の象徴ではない。
これからの未来を生きる子供たちの、勇気の名前になったのだ。
新は深く、静かな呼吸を一つ吐いた。
窓の外では、季節外れの暖かい風が吹き、金木犀の枯れ葉が舞い上がっている。
準備は、すべて整った。
あとは、最後の一秒を、どれほど深く愛せるか。
新は微笑を湛えたまま、心地よい微睡みの中へと身を委ねた。
🔚
第18話:夢の終わりの、優しい産声
|新《あらた》の意識は、もはや現実の境界線を越えていた。
病室に流れるモニターの規則的な音、すすり泣く声、窓の外を走る車の音……それらすべてが、遠い海の底から聞こえる微かな残響のように思えた。
暗闇の中で、新は歩いていた。
そこは、二十三年前、自分がこの世に生まれたときに見た光景に似ていた。
「新……。よく頑張ったわね」
聞き慣れた声がして振り返ると、そこには母がいた。今の疲れ果てた母ではなく、自分が幼い頃に、転んだ膝を撫でてくれたときの若々しい母の姿だ。
隣には、無愛想だが温かな手で自分の頭を叩く、現役時代の父がいる。
「父さん、母さん……。僕、幸せだったよ」
夢の中で、新ははっきりと声を出すことができた。
一年前、|永莉《えり》を失ったときは、自分の人生を「呪い」だと思った。けれど、死の間際になって振り返れば、そこには両親からもらった数え切れないほどの「今」の積み重ねがあった。
さらに歩みを進めると、光の向こうに一人の女性が立っていた。
永莉だ。
彼女は、|陽葵《ひまり》が描いてくれたあの絵のように、シロツメクサの冠を被って笑っている。
『新くん、お疲れ様。……あのね、最後のお願いがあるの』
「お願い……?」
『私たちが考えた名前……『新太』と『永美』を、最後に一度だけ、呼んでくれる?』
新は深く息を吸い込み、魂のすべてを込めて、その名前を呼んだ。
それは、失われた子供たちの名前ではない。
自分が愛した永莉の「永」と、自分が今日まで生き抜いた新の「新」。
二人の魂が溶け合って生まれた、新しい生命の響きだった。
「……新太。……永美」
その瞬間、世界が眩い光に包まれた。
---
現実の病室。
眠り続ける新の頬を、一筋の涙が伝った
「……新?」
母がその涙に気づき、そっと指で拭う。新の口元には、微かな、本当に微かな笑みが浮かんでいた。
彼は今、夢の中で永莉と手を繋ぎ、自分たちが遺した物語の続きを歩き出していた。
友人たちが語り合う笑い声。
両親が握る手のぬくもり。
陽葵が一生懸命に色鉛筆を動かす音。
---
それらすべてが、新にとっての「救い」であり、この世界へ残す最後の「愛」だった。
---
意識の砂時計は、最後の一粒へと向かっている。
けれど新の心に、もう一滴の後悔も残っていなかった。
🔚
第19話:最後の瞳、黄金の朝
その日の朝、病室は奇妙なほどの静寂に包まれていた。
窓の外では、一年前のあの日と同じような、吸い込まれるほどに青い空が広がっている。
「……新?」
母の震える声が響いた。
一晩中、新の枕元で祈り続けていた両親、そして駆けつけた友人たちが、一斉にベッドを見つめた。
モニターの数値は限界を示し、呼吸はいつ止まってもおかしくない。
けれど、新はゆっくりと、本当にゆっくりと、その重い瞼を持ち上げた。
「……あ……」
新の瞳に、最初に映ったのは、泣きはらした母の顔と、必死に涙を堪える父の姿だった。
そして、その背後には、かつての自分たちのように肩を寄せ合う友人たち。
新の視界は、もはや光の粒のように霞んでいた。
けれど、彼はそこにいる全員の顔を、一人ずつなぞるように見つめた。
言葉は出ない。指一本動かせない。
それでも、新の瞳は雄弁に語っていた。
(……みんな、……ありがとう。……僕は、こんなに愛されて、……幸せだったよ)
友人たちが、堪えきれずに嗚咽を漏らす。
新は彼ら一人ひとりに、かつて共に笑い転げた日々を思い出しながら、穏やかな眼差しを贈った。
---
そして、新の視線は、ベッドの脇に置かれた一冊の本――自分が遺したあの物語へと向けられた。
その横には、|陽葵《ひまり》が描いてくれたあの虹の絵が添えられている。
(永莉。……見てる? ……僕たちの名前は、……ちゃんと、ここに……遺ったよ)
新は、最後の力を振り絞って、両親の手に自分の手を重ねようとした。
感覚はもうほとんどない。けれど、掌から伝わる両親の熱が、彼を最後まで「新」という一人の人間として繋ぎ止めていた。
「新……。いいんだよ、もう。……本当によく頑張った。……お前のことは、一生忘れないからな」
父の言葉に、新は満足そうに一度だけ瞬きをした。
絶望から始まった、一年前のあの日。
「明日」なんて来なければいいと願った、孤独な夜。
けれど、今の新の心にあるのは、そんな暗闇ではない。
---
今日、この瞬間に、自分を愛してくれる人たちが隣にいる。
その奇跡のような「今」を、彼は最後の一滴まで飲み干した。
---
新の瞳から、一筋の涙が、静かに耳元へと流れていった。
それは悲しみの涙ではなく、人生という物語を書き終えた者の、至福の雫だった。
🔚
第20話:ひだまりの約束
|新《あらた》の意識は、すでに体の重みを感じないほど遠のいていた。
視界は真っ白な光に包まれ、周囲の泣き声も、遠い海の鳴動のようにしか聞こえない。
その時、耳元で小さな、鈴を転がすような声がした。
「おにいちゃん……。きこえる?」
|陽葵《ひまり》だった。
彼女は新の枕元に駆け寄り、その骨張った手を、小さな両手で包み込んだ。
新はもう、目を開ける力は残っていない。けれど、陽葵の温もりだけは、暗闇の中に灯る一筋の蝋燭のように、はっきりと感じられた。
「あのね、おにいちゃん……。わたし、きめたよ。……わたしが大きくなったら、おにいちゃんがかいた本を、もっともっとたくさんの人によんでもらうの」
陽葵の声は、涙で震えていた。けれど、その奥には新から受け取った「色鉛筆」の芯のような、強い意志が宿っていた。
「新太くんと永美ちゃんは、お空でママにあえたけど……。地上にのこった人たちは、みんなおにいちゃんの本をよんで、『いま』をだいじにするんだよ。……わたしが、みんなにそうつたえるから。……だから、おにいちゃん、……もう、がんばらなくていいよ」
(……ひまりちゃん……)
新の胸の奥で、最後の一滴の感情が温かく溶け出した。
自分が遺した物語が、陽葵という小さな「未来」の手によって、世界へと解き放たれていく。
一年前、|永莉《えり》を失った場所で、自分は「すべてが終わった」と思っていた。
けれど、違った。
あの日から始まった、苦しくて、残酷で、けれど誰よりも深く「今」を愛した自分の物語は、今、陽葵という希望の種になって、新しい芽を吹こうとしている。
「おにいちゃん……。ありがとう。……だいすきだよ」
陽葵が新の手の甲に、ポタポタと温かい涙を落とした。
新は心の中で、彼女を抱きしめた。
「(ありがとう、陽葵ちゃん。……君に出会えて、よかった。……僕の『今』は、君に預けるね)」
新の指先が、ほんのわずかに動いた。
それは、陽葵への感謝であり、この世界への最後の挨拶だった。
病室の空気は、悲しみを超えた、神聖なまでの静寂に包まれていた。
窓から差し込む陽光が、新の穏やかな寝顔を黄金色に照らし出す。
新の意識は、ゆっくりと、けれど確かな足取りで、あの「境界線」へと向かい始めた。
そこには、一年前からずっと待っていてくれた、大好きな人の笑顔があるはずだった。
🔚
第21話:はじまりの場所、光の交差点
遠くで、誰かが僕の名前を呼んでいる。
けれど、その声はやがて心地よい風の音にかき消され、|新《あらた》の魂は、重い肉体を脱ぎ捨ててふわりと浮き上がった。
気づけば、彼は立っていた。
一年前から、自分の人生を呪いの鎖で繋ぎ止めていた、あの駅前の交差点に。
耳を刺すような悲鳴。アスファルトに広がる鮮血。泣き叫ぶ自分の声。
いつもなら彼を絶望の底へ突き落とすその凄惨な光景が、今は、セピア色の古い映画のように静かに流れている。
「……|永莉《えり》」
新が呟くと、時間の流れがゆっくりと止まった。
崩れ落ちる一年前の自分と、倒れゆく永莉。その二人を包み込むように、空から無数の「|莉《ジャスミン》」の花びらが降ってきた。それは新が病院で書き続けた、あの物語の言葉たちが花に姿を変えたものだった。
新は、倒れている永莉の元へ歩み寄った。
あの日、触れることすら恐ろしかった彼女の体に、今は優しく手を添えることができる。
「ごめんね、永莉。ずっと、君をあの日の中に一人で置いてきてしまった。……でも、もう大丈夫だよ」
新が彼女の頬に触れると、永莉がゆっくりと目を開けた。
苦しそうな表情は消え、そこにあるのは、新が一番大好きだった、陽だまりのような微笑みだった。
『新くん。……ずっと、待ってたよ。……あなたが、自分の「今」を愛してくれるようになるのを』
「……うん。僕、頑張ったよ。……君が欲しがっていた明日を、陽葵ちゃんや、みんなに届けてきた。……だから、僕の人生は、悲劇なんかじゃなかった」
永莉の手が、新の頬を包み込む。その温かさは、病室で陽葵が握ってくれた手の温もりと同じだった。
あの日、この場所で奪われたのは「命」だったけれど、今、この場所で結ばれたのは「永遠」だった。
交差点の信号が、青に変わる。
人々が歩き出し、街が動き出す。一年前は「断絶」を意味したその光景が、今は「未来」へと続く行進に見えた。
「行こう、永莉」
『うん。行こう、新くん』
二人は手を取り合い、光り輝く交差点の向こう側へと歩き出した。
背後では、一年前の自分が、ようやく泣き止んで空を見上げている。
新の魂は、最悪の記憶の場所を、最高の再会の場所へと書き換えた。
現実の病室。
新の心電図の波形が、ゆっくりと、凪いだ海のように平らになっていく。
けれど、彼の周囲に漂う空気は、不思議なほどに穏やかで、満ち足りたものだった。
🔚
第22話:微笑みの遺言
病室の窓から差し込む光は、いつの間にか透き通るような|白金《プラチナ》色に変わっていた。
モニターが刻む電子音の間隔が、一秒、また一秒と、惜しむように長くなっていく。
「新……。新太、……永美。いい名前だ。本当にな」
父が、新の冷たくなり始めた手を、自分の両手で包み込んで温め続けていた。
母は、新の胸元に耳を寄せ、微かになった心音を、一打一打、自分の命に刻みつけるように聴いていた。
新(あらた)の意識は、すでに天高く昇っていた。
けれど、肉体が最後の一息を吐き出す直前、彼はこの世界に残るすべての人々の想いを、全身で受け止めていた。
(……温かいな。……みんな、泣かないで。……僕は、今、……人生で一番、満たされているんだ)
不意に、病室に柔らかな風が吹き抜けた。
窓は閉まっているはずなのに、どこからか、金木犀とジャスミンを混ぜ合わせたような、甘く清らかな香りが漂う。
「……あ……」
母が、息を呑んだ。
新の口元が、わずかに、けれど確かに動いたのだ。
それは、苦しみから逃れるための歪みではなかった。
一年前、|永莉《えり》と二人で将来の夢を語り合い、声が枯れるまで笑い転げていた、あの幸せな夜と全く同じ、眩いばかりの「微笑み」だった。
「……新が、笑ってる……」
友人たちが、|陽葵《ひまり》が、その顔を見て言葉を失った。
その微笑みには、後悔のかけらもなかった。
愛する人を失い、自分も若くして命を落とす。世間が「不運」と呼ぶその人生の最後に、新は自らの意思で「幸福」という名前をつけたのだ。
ピ――――――……。
無機質な音が、静寂の中に響き渡った。
波形は凪いだ海のように平らになり、新の胸の鼓動は止まった。
医師が、静かに時計を止める。
けれど、誰もが声を上げて泣くことを忘れていた。
新の顔に残されたその微笑みが、あまりにも穏やかで、あまりにも美しかったからだ。
「……お疲れ様、新。……よく、生きたな」
父の震える声が、病室に溶けていった。
新は死んだのではない。
「いつ大切な人を失うかわからないから、今を大切にしよう」というその言葉を、自らの命を使い切ることで証明し、永遠という物語の中に旅立ったのだ。
枕元に置かれた一冊の本。
その表紙に描かれた名もなき花が、差し込む光を浴びて、一瞬だけ生きているかのように輝いた
🔚
第23話(最終話):新しい一歩、永遠の莉(まり)
|新《あらた》が旅立ってから、三年の月日が流れた。
駅前の交差点は相変わらずの人混みで、信号が変わるたびに無数の「今」が交差していく。一年前までそこにあった悲劇の影は、今では穏やかな日常の風景に溶け込んでいた。
その交差点から少し歩いた場所にある小さな公園。
そこには、かつて新と永莉が夢見た、シロツメクサの冠が似合う真っ白なベンチが置かれている。
「……できたよ、おにいちゃん」
ベンチに座っていたのは、少し背の伸びた|陽葵《ひまり》だった。
彼女の手には、一冊の真新しい絵本が握られている。表紙には、虹を渡る二人の子供と、それを見守るように微笑む男女の姿。タイトルは、新が遺した言葉そのままだった。
『君を失った世界で、僕は「今」を見つけた』
陽葵は、新から譲り受けたあの短くなった青色の色鉛筆を大切に筆箱に収め、空を見上げた。
病院の図書コーナーから始まったその物語は、今や多くの人々に読み継がれ、大切な人を失った誰かや、今日を投げ出そうとしていた誰かの「杖」になっていた。
新の四十九日に、松本医師が教えてくれた言葉を、陽葵は今でも覚えている。
「新さんはね、最後の一秒まで、自分の命を『誰かの明日』のために使い切ったんだよ」
公園の片隅では、若いカップルが些細なことで言い合いをしていた。
けれど、ふと一人が、ベンチの横に置かれた図書寄贈ボックスの中にある新の本を手に取った。パラパラとページをめくるうちに、二人の険しい表情が和らいでいく。
「……ごめん。明日があるって、勝手に思ってた」
「ううん、私も。……今、ちゃんと伝えなきゃね。大好きだよって」
そんな光景を、風に乗った金木犀の香りが優しく包み込む。
新が遺したものは、形のある遺産ではなかった。
「いつ大切な人を失うかわからないから、今を大切にしよう」という、当たり前で、けれど最も忘れがちな、生きるための「温度」だった。
陽葵は立ち上がり、一歩を踏み出した。
新からもらった「新」という一文字のように、毎日を新しく。
永莉からもらった「永」という一文字のように、この瞬間を永遠のように。
ふと見上げると、青空に二人の姿に似た、仲睦まじい雲が浮かんでいた。
新と永莉。
彼らが夢見た『|新太《あらた》』と『|永美《えみ》』という未来は、今、この世界を生きるすべての人々の「今」の中に、確かに息づいている。
新の物語は、ここで終わる。
けれど、彼が灯した光は、明日を待つ誰かの足元を、これからもずっと照らし続けていくだろう。
--- 完 ---
『明日があるのは当たり前じゃない』。そんな言葉は聞き飽きているかもしれません。でも、もし今日が人生最後の日だとしたら、僕たちは誰に何を伝えるだろう。そんなことを考えながら、新の視点を通して、一瞬一秒の重さを描きたいと思いました。