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目次
第1話:泥濘(でいねい)の中の邂逅
空の色は、まるですり潰された鉛のようだった。
午後四時、下校時刻を過ぎた街を、暴力的なまでの豪雨が叩きつけている。
十四歳の|野平愛菜《ヒラノ アイナ》は、逃げていた。
何を、と問われれば、それは背後に残してきた「家」という名の檻であり、鼓膜を震わせる「怒鳴り声」という名の怪物だ。
「……っ、はぁ、はぁ……」
薄い制服のブラウスは、すでに肌に張り付いて重い。
茶色の瞳は恐怖に揺れ、泥の跳ねた足首は冷たさに痺れている。
逃げ込んだのは、家から少し離れた古い神社の境内だった。
「……っ、う……」
拝殿の軒下に蹲り、愛菜は細い肩を震わせる。
激しい雨音が、叔父が机を叩く音に聞こえて、そのたびに体がビクッとはねる。耳を塞いでも、血の巡る音がドクドクと不快に鳴り響き、孤独を強調させた。
(帰らなきゃ。でも、帰りたくない。どこにも、私の居場所なんて……)
そう絶望に目を閉じた、その時だった。
「――おい! お前、大丈夫かよ!?」
雨音を力強く切り裂いて、弾けるような声が降ってきた。
顔を上げると、そこには鮮烈な「赤」があった。
燃えるような赤髪を、水滴も厭わず逆立てた少年。
彼の手には、半分閉じかけた傘が握られていた。
「ずぶ濡れじゃねーか。いつからそこにいたんだよ?」
少年の名は、|秋葉真蓮《アキバ マレン》。
彼から放たれる熱量は、雨の冷気に支配されたこの場所で、唯一そこだけが発光している太陽のようだった。
「……あ……」
愛菜は声を出すことができなかった。
他人――それも、こんなにも「光」を纏った存在が怖い。
震えながら後退りしようとする彼女を、真蓮の真っ直ぐな視線が捉える。
「いいから、これ飲め。死ぬほど寒いだろ」
真蓮は近くの自販機に駆け寄ると、温かいココアを買って戻ってきた。
彼はそれを、愛菜の冷え切った手に強引に握らせる。
「……っ、あつい……」
「だろ? 人間の体は、冷やすためにできてねーんだよ」
真蓮はガハハと豪快に笑い、自分の上着を脱いで愛菜の肩にかけた。
柔軟剤の、陽だまりのような匂い。
愛菜の瞳から、こらえていたものが一気に溢れ出した。
「……なんで……」
「ん?」
「なんで、優しく……するの……?」
蚊の鳴くような声。
真蓮は少しだけ驚いたように目を見開いた後、至極当然といった風に鼻を鳴らした。
「理由なんているかよ? 俺は、困ってるやつがいたら放っておけねーんだ。……それに」
真蓮は、照れ隠しのように頭を掻き、そっぽを向く。
「……お前、泣きそうな顔して笑うんだな。それ、ほっとけねーだろ」
愛菜の手の中で、ココアが静かに熱を伝えてくる。
彼女の人生で初めて、誰かが「雨」から自分を守ってくれた瞬間だった。
まだ、運命の歯車が回り始めたばかりの、小さな、けれど確かな鳴動。
二人の『あめいろ・エコー』は、この泥濘の中から始まった。
🔚
第2話:赤い髪の太陽
翌朝、雨は上がっていたが、愛菜の心には湿った冷たさがこびりついたままだった。
昨夜、あの後。真蓮の制服を返し、叔父の機嫌を伺いながら泥のように眠った。
(……昨日のこと、夢だったのかな)
教室の隅、自分の席で教科書を見つめる。
野平愛菜という存在は、この学校でも空気のようなものだ。おとなしく、口数が少なく、誰とも交わらない。
そうやって息を潜めていれば、誰にも傷つけられないと信じていた。
――ガラッ!!
静かな教室に、場違いなほど威勢のいい音が響く。
「おっはよーございまーす! 今日も最高の天気じゃん!」
赤い髪が、朝の光を反射して輝く。
秋葉真蓮だ。彼は教室に入った瞬間、クラスの温度を数度上げるような、圧倒的な「陽」のオーラを振りまいた。
「おい真蓮、朝からうるせーよ!」
「あはは、悪ぃ悪ぃ。あ、そうだ!」
友人との軽口を切り上げ、真蓮の視線が教室の端——愛菜へと向いた。
愛菜は慌てて目を逸らし、心臓が跳ねるのを感じる。
(こっちに来ないで。目立たせないで……)
そんな祈りも虚しく、真蓮は迷いのない足取りで彼女の席までやってきた。
「よっ! 風邪、ひいてねーか?」
クラス中の視線が突き刺さる。
愛菜は肩を縮め、消え入りそうな声で「……大丈夫」とだけ返した。
「そっか、良かった! 昨日のココア、美味かったろ? 俺さ、あの自販機であれが一番の推しなんだわ」
屈託のない笑顔。真蓮には、学校での「ヒエラルキー」や「浮いている存在」なんて関係ないらしい。
ただ「昨日助けた女の子」がそこにいるから、話しかける。そのあまりのシンプルさに、愛菜の胸の奥がチリりと疼いた。
「……あの、昨日は、ありがとう」
勇気を振り絞って口にした言葉。
すると、真蓮は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして、昨日よりもずっと柔らかく、内緒話をするように身を乗り出した。
「お前、ちゃんと喋るとすげー良い声してんのな。……もっと聴かせてよ、愛菜」
「っ……!」
名前を呼ばれた。
叔父に怒鳴られる時に呼ばれる忌まわしい符牒ではなく、宝石を見つけた子供のような、純粋な響き。
愛菜の白い頬が、初めてわずかに赤らむ。
それを見て、今度は真蓮の方が「あ……」と声を漏らし、急に顔を真っ赤にして固まった。
「……っ、じゃあな! また昼休み!」
逃げるように自分の席へ戻る真蓮。
友人たちから「真蓮、お前顔真っ赤だぞ!」「うっせ! 暑いだけだ!」という野次が飛んでいる。
愛菜は、机の下で自分の手をそっと握りしめた。
昨日のココアの熱が、まだ指先に残っているような気がした
🔚