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目次
第1話:さよなら、愛した傲慢な神様
神界の月は、残酷なほどに美しい銀色をしていた。
王族の神の息子、カルミアの宮殿。その寝室には、甘く気怠い香香と、一人の男の傲慢な吐息が満ちている。
「……シレネ。またそんな顔をしているのか」
月光を浴びて輝く白髪をかき上げ、カルミアが面倒そうに口を開いた。雪のような肌に、整いすぎた顔立ち。彼は「絶世」の名にふさわしい美男子だが、その瞳に宿るのは、婚約者であるシレネへの敬意ではなく、退屈な色だった。
彼の首元には、昨晩まで別の天女と戯れていたであろう紅い痕が、隠しもせずに残っている。
「浮気は神の嗜みだと言っただろう。私の愛を独占しようなど、王族の娘としてあまりに度狭いとは思わないか?」
カルミアは、シレネが自分を愛してやまないことを知っている。どんなに裏切っても、健気に後ろを付いてくる「物言わぬ可愛い人形」だと信じ切っているのだ。
しかし、今日のシレネは違った。
153センチの華奢な体を、パステルピンクの|袍《パオ》に包んだ彼女は、震える手で一つの「小瓶」を握りしめていた。
「……カルミア様。最後に、私のお淹れしたお茶を飲んでくださいますか?」
シレネの声は、風に舞う花びらのように儚い。
カルミアは鼻で笑い、彼女の手にあるカップを奪い取った。
「ふん、健気なことだ。これさえ飲めば、また昨日のように笑うのだな?」
彼は疑いもしなかった。
その茶の中に、神界の禁忌とされる『銀色の薬』――飲ませた相手の記憶を消し去る忘却の毒が混ざっていることなど。
カルミアは喉を鳴らして、一気にそれを飲み干した。
「……っ、なんだ、この味は。銀の味がする……」
カップが床に落ち、高い音を立てて砕け散る。
カルミアの意識が濁り、膝が崩れた。彼は狼狽し、床に這いつくばりながら、初めて自分を見下ろすシレネの瞳を見た。
そこに、かつての熱烈な愛はなかった。
あるのは、凍てつくような淡紅色の静寂。
「シレネ……お前、私に何を……」
「愛を『再定義』するために必要な、空白の時間です」
シレネは跪くカルミアの頬を、そっと、そして冷ややかに撫でた。
「あなたは私を無視し、心を殺し続けた。だから、次はあなたが『私という存在を忘れる』絶望を味わいなさい。次に私を思い出した時、あなたは私の足元に跪くことさえ許されない地獄にいるでしょう」
「待て……行くな、シレネ! 私を……一週間に……っ」
カルミアの言葉は続かなかった。薬の力が彼の脳から「シレネ」という名前と、彼女との愛憎の記憶を強制的に剥ぎ取っていく。
意識を失う寸前、彼が見たのは、窓から飛び立つシレネの背中だった。
彼女は振り返ることなく、生まれ育った実家の王宮へと翼を広げる。
カルミアが次に目覚める時、彼は「シレネを知らない男」になっている。
そしてシレネが戻る時、彼女は「尽くす女」ではなく、彼を支配する「女王」として君臨するのだ。
神界に、静かな夜が訪れる。
これから二ヶ月続く、嵐の前の静けさが始まった。
🔚