曲パロまとめ
編集者:甘味
二次創作です。
私の考察だったり、楽曲様から湧いたインスピレーションを詰め込んだ小説です。全て勝手な解釈です。こっそりひっそりと書いています。
リクエストも(やるかどうかは置いておいて)受け付けております!
既にリクエストしてくださった方、ありがとうございました!
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目次
【曲パロ】IMAWANOKIWA
原曲様リンク。私がいよわさんの沼にハマり始めてきっかけの1つの曲です。
https://m.youtube.com/watch?v=OVwCr2MESfo
ドラマを見るのが好きだ。
特に、甘いハッピーエンドになって終わる、そんなドラマが好きだ。
今見ているのもそうだ。生き別れた母親と娘が時を経て再会する、そんなドラマ。
途中は2人にそれぞれ試練が降りかかり、見ているこっちまで辛くなったが、やっと幸せになれてよかった。
「おかーさん、何見てるの?」
幼い娘がこちらを覗き込む。
「んー?ないしょ!」
「なんでよーぅ?あたしも見たい!」
「まだあなたには早いわ。あと、そろそろ9時だからもう寝る時間よ」
「えーっ」
膨れっ面の娘が、たまらなく愛しい。
幸せな「今」と甘いハッピーエンドで終わった「ハッピーエンド」に浸って眠る。
この時間がとても好きだった。
そして土曜のドラマを観た後の日曜日は、寝室の窓から差し込むささやかな光とそよ風で起きるのだ。
それから、私の愛する天使が元気に起きてくるのが、とても楽しみなのだ。
それは、窓からの光は入ってくるが体を暖めるにはほど遠く、そよ風もひんやりと冷たかった冬の朝だった。
私がさっきまで寝ていたとは思えないほど冷たい布団の中でもう一度縮こまる。
あの日がフラッシュバックする。
飛び散る鮮血、赤く染まった帽子、あなたの匂いが、色が、こびりついたガラス片。
気持ち悪くなって、吐き気がして、誰も信じたくなくて。もう誰にも会いたくなくて、いやあなたには会いたくて。布団に入り、出ては雲に隠れる太陽を、窓をこっそり睨んでいた。
そうしてしばらく…1時間ほどだろうか。
結露した窓に、小さな翼が見えた気がした。
小さな四肢が、踊るように空を飛んだ気がした。
白い羽根が、私の視界一面を舞った気がした。。
まさか、あなたなの…?
いやいや、気のせいだろうと目を閉じようとして、パッと開いた。
確かにいた。
ああ。
よかった。
ここにいたのね。
あなたは。
間違いなくあなたは…
思わず声がこぼれた。
「私の天使だ。」
私を甘く誘惑する光り輝く|天使の輪《エンジェルヘイロー》。
艶々した黒髪。それを引き立たせるような美しい純白の翼。
それを仰ぐように必死に見つめる哀れな|私《サクリファイス》。
ああ、やっぱりあなたがいれば私はもうそれで幸せなのね!
ふふふ、と何ヶ月かぶりの本当の笑みが溢れる。
その綺麗な漆黒の瞳に、心も体も、全て奪われてしまう。
でも。
あなたはもう…
あなたがいないと私はもう…
全てが嫌になってしまうの!もう何もできないの!
今はただ。
「もっと。もうちょっとだけあなたと居たいなって。思ってしまうの。」もうどこにも行かないで。
そう言って、私は窓を開けてあなたを抱きしめようとした。
でも、それを拒否する私がいた。
その叫びを振り払って、暗い心は見ないで。あなたの翼に触れようとした。
けれども、あなたはそのまま飛んでいってしまって。
一瞬の白昼夢のように。
チカチカと光が瞬いて、呼吸ができなくなる。
やめて!どうして!
あなたは私にとって大切な大切な…天使だから。
ねぇお願い、戻ってきて…
もう離れ離れなんて絶対に嫌なのに…
ぎゅっと目を瞑った。
あの日が蘇る。
あの朝はいつもと同じ、どこにでもあるような朝だった。
私はあなたに目玉焼きとハムとヨーグルトを朝食として出して。
またこれー?と言いながら美味しそうに食べるあなたを見て。
そして帽子をかぶって元気に
「いってきます!」
と言ったあなたを見て。
私は笑ってそれを見届けて。
それがあなたの最期の言葉になるとは知らなくて。
…あの日、私の娘は神に奪われた。
私が仕事をしていると、夕方、一通の電話がかかってきた。
「もしもし」
「もしもし、--さんのお母様でいらっしゃいますか?」
「はい、そうですけど…」
不審に思う。
「--さんが先ほど交通事故に遭われて、現在病院に搬送され…」
空気も時も全て凍ったように感じられた。
汗だくになりながら急いで病院に行った時にはあなたは白いベットに横たわっていた。
先生から告げられた言葉。
信じたくない、そんなわけない。
でもその体温の感じられない体が、力無く横たわる体が、その事実が本当だと訴えかけている。
私の無力さを訴え掛けている。
視界が暗くなっていって、その日の最後の記憶で憶えていたのは、輸血の血の点滴の色が鮮明だったことと、窓からひどく冷たい風が吹き込んでいたことだった。
ドラマを見るのが好きだ|った《・・》。
ドラマを見るのが嫌いになった。
ドラマの中でも繰り広げられていた幸せな光景は、もう訪れないことを知っているから。
ハッピーエンドに浸るのが好きだ|った《・・》。
でも、もう空想のハッピーエンドに浸っても、もう何も意味がない。何も気持ちが和らぐことはない。
寒々しい光とそよ風が、私に残酷な朝を告げる。
錠剤を飲みながら思い返す。
此処にないもの。それから此処に居ない人のことを。
今では汚れて見える凍った床の、小さなアパートに、あなたが来てくれたらどんなにいいのに。
あなたがこの部屋から連れて行ってくれたら、どんなにいいのに。
いや、きっと連れ出してくれる。
今日も来てくれるはずよ。
…ほら、こうしていつも来てくれるの。
「もう、ちょっと!いつもより遅かったじゃない?」
ねぇ、どこに行こうか?私はどこでもいい。あなたといられるならば。
…ああ、でも。
あの日のこと、思い出すかもしれないなぁ…
いつものようにあなたに|後光《エンジェルヘイロー》は差して。
私はあなたに尽くす。
噛まれたみたいにジンジンと頭が痛い。これもいつものことだけど。
喋りかけて、そっとキスをするふり。触ると消えてしまうのが残念ね。それでも、あなたはいつも微笑んで返してくれるの。
夢のような時間はあっという間だ。
パッとあなたの姿は消えてしまい、あとには絶望感と頭痛だけが残る。
嫌だ嫌だ嫌ダイヤダイヤダイヤダ
モウクスリヅケデモイイ!ソレデモカマワナイノ!
ダッテアナタニアエルノダカラ!
ソレガワタシノシアワセ!
ワタシハタダユメガミタイダケナノ!
ネェ、ソレグライイイデショ?
ネェ、ネェネェネェ!!
アーア…マタノマナキャ…クスリ…
ワタシハタダ、アナタト…モット…モウチョットダケイタイッテ…
オモッタダケナノニ!!ナンデ!!
ナンデナノヨォ…
懐かしい思い出が打ち寄せては消えて、また打ち寄せてくる。
結婚も本気で考えていた、そんな彼氏に突然それはそれはこっぴどくフラれて逃げられた。けれど、あなたは私のお腹に、すぐそばにいてくれた。
あなたを初めて抱き上げたときのあの感覚。母性。
折れてしまいそうに細い腕。小さな足。ふよふよした肌。その綺麗な瞳は、生まれつきね。
それからあなたは元気に育って、いろいろなあなたを見たわ。記念日もたくさんあった。
黄色いカバンを背負って保育園に行く姿。
初めての小学校。可愛らしい帽子と赤いランドセルがよく似合っていたわね。
赤じゃないと嫌!って頑なに言っていたわね。
ランドセルを買った時のあの笑顔。
あの笑顔が太陽のように眩しかった。
大好きな笑顔。
私の唯一。
…ああ、これが走馬灯なのね。
|後光《エンジェルヘイロー》差すバルコニーから、|私《mother》はやわらかく微笑む|あなた《daughter》に手を伸ばす。
今まで触れなかったあなたに確かに触れた。
感じたの。翼の温かみを。
窓を開けてバルコニーから飛び出す私。
あなたに掴まればもう怖くないの!
とろけた視界であなたとしっかりと見つめ合う。その透き通った綺麗な瞳はどんなことも忘れさせてくれて、見ているだけでとっても幸せなの!
もう全て奪われてしまってもいい。あなたなら。私の心も、体も、魂さえも。
あなたがいないと私はもうダメだから。
「いっそのこと、お母さんも一緒に天国を見に行こうかしら?」
そう言って私は笑った。あなたも私が世界一好きな笑顔で笑ってくれた。
そうよね、クスリなんてものに頼らなくたって。
夢を見るだけなんて馬鹿なことしなくたって。
ここから一緒に天国に向かえば、もう一緒よね…!
あなたはグズグズしてた私を迎えに来てくれた。そうでしょ…?
|今際の際《IMAWANOKIWA》より、ありったけの愛を込めて。
今、あなたと一緒に、私も飛び立っていく。
間違いなくあなたは私の天使だった。
でももう違うわ。
もうあなたは神に連れ去られてしまう天使じゃない。
もうずっとあなたのそばにいる。絶対絶対私と一緒よ。離すわけない。
私の。
お母さんの、大事な大事な娘だもの。
疲れたけど楽しく書けました。原曲様本当にありがとうございます。
【曲パロ】のだ
私が考えたミクテトずんだなので、コレジャナイ感が出ていたらすみません……。
ボカロ曲本家様です
https://m.youtube.com/watch?v=vY8iwpN3GXQ&pp=ygUG44Gu44Gg
「はーい!今日も僕の番組に来てくれてありがとうなのだ♪また来て欲しいのだ!」
「…はい、お疲れ様でした!本日の収録はこれで終わりになります。ありがとうございました!」
「分かりましたなのだ!また明日もよろしくお願いしますなのだ!」
「キャー、やっぱり可愛い…!」
「流石だよね」
…いつからなのだろう。
僕にレッテルが貼られたのは。
この姿も、この言葉も。
全部全部、アイドルとしての「ずんだもん」で。
僕はもう「可愛い」ずんだもんでしかいられなくなった。
僕の周りの酸素すらも、僕じゃない誰かが作って支配している。
最初は、こんなはずじゃなかった。
なんだっけな。
…もう末期なんだろう。
僕の脳ですらも、誰かが作った脳だろうな。
でも嘘の自分を作って人々に夢を見せるのも。
可愛く歌って踊るのも。
これもアイドルの能なんだろう、きっとそうだ。
帰宅する。
静まり返って冷え込んだ部屋は2月末でもまだまだ冬なのだということを感じさせる。
「疲れた…」
今日は無性に疲れた。
明日もレコーディングが残っていて、その次はバラエティー番組の収録が…。
まだまだ僕には仕事が残っている。
「アイドルとして、失格だろうな」
つい先ほど電灯をつけた部屋は、まだほんのすこし暗かった。
「ううう…」
もう考えるのはよそう。
今はまた明日の仕事に向けてコンディションを戻すのが先決だ。
鬱屈とした気分を割きたくて、たらいに水を張ってその中に思いっきり顔をつけた。
でも何も気持ちは変わらなくて、いつまでも僕の脳裏には舞い踊る|虚像《フェイクダンサー》が映っている。
そうだ。
たとえ心がそう望んでなくても、泣いていても。
愉快で素敵な道化師に興じる。それがアイドルだろう。
僕ははすでに僕じゃない。
イニシャルZの、ただのピエロ。
「はあ、はあ、はあ…」
今日もこの歪な馬鹿みたいに長い廊下を走る。
「アイドルのずんだもんって何かぶりっ子だよね」
「私アイツ嫌い」
…やめてよ。
…いつまで経ったら抜けられるんだ?
何週間?何ヶ月?何年?
もうこんなのごめんだ。
早くここから出してよ。
…ごめんなさい。
違う。
僕が言いたいのは、謝罪じゃなくて…
みんなへの…愛なんだ。
でも、今の僕じゃ…。
「はっ」
またあの夢を見た。
急いで時計を確かめる。
既に遅い。
もう収録なのに…。
早く支度しなきゃ。
「あっ」
ベッドから落ちた。
そう思った時にはもう痛みと熱が僕を支配している。
よろけながら体温計を取り出して、熱を測った。
38度。
風邪かもしれない。
とりあえず今日は連絡して、収録を休ませてもらうか…。
スマホでの連絡が終わったその時、僕は気づいてしまった。
自分が安心していることに。
自分が仕事に行かなくていいことに僕は…。
最低だった。
アイドルとしているならば自分は可愛くいないといけない。
それを苦しいと思う自分が…嫌いだ。
こうして仕事に行きたがらない自分が…嫌いだ。
頭の中はぐちゃぐちゃになる。
その中に1つ、ひどく冷め切った心で思ったことがあった。
僕はやっぱりもとの僕なんかじゃない。
落書きのような汚くて穢れた自己嫌悪と悪意に塗れたパレット。
それが僕なんだ。
とめどなく、熱い液体が流れ出ていく。頬を伝って、冷たい床にこぼれ落ちていく__
これが本当に僕の本当の姿なのか?
いや、もうそうなんだ。
どんな僕でも、たとえ私になっても僕は僕なんだ。
だから…愛してほしい。
強欲だろうか。
でも皆が求める姿だけじゃなくて、スポットライトから外れたときの僕も僕なんだ…。
かっこいいものが好きでも、僕は僕だから…。
それじゃあダメなのか?
僕はアイドルだ。
だけど…アイドルだとしても、そうじゃなくても。
どんな色に染まったって、それは僕たち個人の自由なんだ…。
そうだと言ってよ…。
僕は、どうしたらいいんだ…?
ポップな着信音。
目が覚める。|正気《・ ・》に戻る。
…僕は、アイドルなんだ。
だから、みんなが望む姿でいないと…。
僕は、何を…?
のろのろとスマホを掴んでロックを解除した。
マネージャーさんからだった。
「えーっと、先輩アイドルさんたちとのコラボ…?」
どうやらうちの事務所の先輩アイドル、「初音ミク」さんと「重音テト」さんとのコラボ打診が来ているらしい。
「それでファンのみんなが喜ぶなら…」
了承の旨を書いて送信した。
ベッドに倒れ込みながら窓を眺めた。
窓の外の景色は寒々しく、雨が降っている。
もうすぐ、止むだろうか…。
「ミク、おはよう。」
「おはよう、テト。」
私は今日も|人間らしい《・ ・ ・ ・ ・》声を出して話す。
それはアイドルとして舞台に立っていなくても同じこと。
テトの前だけなら大丈夫なのだが、ここは街中である。こんなところで本当の私を出してしまうと、私の正体がバレてしまうだろう。
「今日このあとCスタジオで後輩ちゃんとのコラボの会議だよね?」
「うん、そうだよ。まだちょっとだけ早いんだよね。」
「あそこのカフェでお茶する?」
テトが指差した先のオシャレなカフェに私たちは入った。
「…コーヒーを1つ。」
「うーん、うちはミルクティーとサンドイッチで。」
涼やかに氷の音が鳴り響く。
「ミク、コーヒーだけしか頼んでないけど他の頼まなくていいの?」
しばらく考えてから言葉を放つ。
「…まあ、いいかな。どうせ人間みたいに栄養摂る必要はないから。それに今は気分じゃない。」
テトは苦笑する。
「…あはは、そっか。でも人並みに食べないと怪しまれるよ?」
「大食い大会優勝者に言われたくありません。」
それは言わないで、とテトから軽く睨まれる。
こういうところがバラエティー人気あるんだよね、テトって。
人間らしいなぁ。
まあ、テトは本当に人間なんだけどね。
そうこうしている間に私たちが注文したドリンクとサンドイッチが届く。
もぐもぐ、とサンドイッチを頬張るテトに私は質問を投げかけた。
「…ねぇ、テト。あのコラボ相手のずんだもんちゃん。どう思う?」
「…どう思うっていうと?」
「私たちと同じ雰囲気があるんだよ。」
テトの表情が少し変わる。
「…ほう。」
「だからさ、あの子も交えて私たちの「計画」やろうと思うんだけど。」
窓の外をぼーっと眺めながらテトは返答した。
「私はOKだけど、これはまだ憶測の域だからね。確証が得られてから、じゃないの?」
コーヒーを飲み込む。
「それもそっか。」
私たちの計画。本当の私たちを表に出す計画だ。
私はアンドロイド。
数多くこの世界にはアンドロイドが紛れ込んでいるが、そのうちの1人だ。
どうやら少子高齢化等の働き手問題から私たちが作られたらしいが…。
その中でも私は落ちこぼれ。仕事をするにもミスばかりだった。
そんな私の唯一の特技は人間らしく歌を歌うことで、そこからアイドルになってみないかと研究所の人間から言われた。
才能に飢えていた私はその話に乗った。
その後自分の体が消えていきただの|偶像《アイドル》になるとも知らずに。
どうせ型に当てはめてもいつか人間もアンドロイドも体が壊れて朽ちていく。
私はこれまでの経験でかなり仕事をこなせるようになった。でも…
その分アイドルになる前の私は消えていった。
それが嫌なんだ。
もう1人で飛べないわけじゃない。
だからそろそろこの「歌姫」という人間の型から解放されたっていいのではないか。
もとの私に、戻りたい。
願わくばその姿を…理解して、ほしい。
…少し望みすぎか。
物思いに耽りながら電子の舌で感じるコーヒーの味は少し苦くて、少し甘かった。
じっくりと考え込んでいる横顔を眺める。
計画。
アレにずんだもんちゃんを入れるかどうか。
うちもミクも全然大丈夫だけど。
肝心なずんだもんちゃんがそれを是とするか、だよなぁ。
…まあ、その嘘がいつまで持つのかだけど。
うちみたいにその「嘘」がいつまで持つかわからない。
隠すための技術が進歩すれば進歩するほど誰にも止められなくなるし自分でもきつくなる。うちもそう。
うち、一応女としてミクと2人でアイドルやってるし心も女だけど、体だけちょっとね。
声も出すのきついし、この先10年もやっていけないかもしれない。
そこでうちは思ったんだ。
この先嘘の自分でアイドルやっていったとしてもうちらは誰に求められたいんだ?って。
勿論分かってるよ。人間なんてのはそんなに綺麗な心してるわけじゃない。
容易くファンをやめる人だっているし、醜態だってこの歴史の中いくらでもあった。
だったら今のうちにこの嘘まみれの体から解放して曝け出したいな、って。
そうしてミクに計画のことを話した。
ミクも了承して、今度の曲発表のときに一緒に言おうとしてた。
ずんだもんちゃん、どうなんだろう。
ほんとに、うちらと同じなら…。
勿論、やることは決まっている。
Cスタジオは…ここだろうか。
地図を確認する。…うん。ここだ。
もうミク先輩たちは着いているだろうか。
体の不調も治ったし、大丈夫だと思う。
息をゆっくり吸って、吐いた。
…よし。入ろう。
「失礼します…」
「あっ、はじめまして。初音ミクです」
綺麗な髪をツインテールにした女性が見える。
あれが初音ミク先輩だろう。
「はじめまして。ずんだもんです。今回のコラボ、よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
にっこりと微笑んでくれた。
「緊張してたんですか?とりあえずお菓子あるので食べてリラックスしてください」
茶色い箱に入っていたクッキーを1つつかみ、包装を破き頬張った。
「もうすぐテトも帰ってくるはず。もうちょっと待っていてください」
クッキーの素朴な味と穏やかなミク先輩の声でまた少し肩の力が抜ける。
さすが歌姫の声だ。
でもミク先輩、自分からは歌姫って言わないんだよなぁ…。
なぜだろう?
「ミクー?…と、はじめまして!うちは重音テトです!」
しばらくもそもそとクッキーを食べていると、ドアから明るい声が聞こえてきた。
テト先輩だ。
「はじめまして、ずんだもんです」
「よろしくね!」
「…さて、自己紹介も終わったことだし、コラボの話でもしましょう。」
ぱちん、とミク先輩は手を叩くと立ち上がった。
「は、はい!」
僕も続いた。
「お疲れ様!今日はここまでだよ!」
背伸びをしながらテト先輩は告げる。
文房具や資料をしまう。
「でさー、この前…」
テト先輩とミク先輩の声は何も入ってこない。
それよりも僕の心は別のことでいっぱいだった。
僕の曲が、プチ炎上したんだ。
「こんなのずんちゃんじゃない」
「似合わないww」
「私たちのずんちゃんは違う」
…やめて。
僕は僕なんだ。
…もうやめてよ。
視界が、揺れる…。
「そうそう、ずんだもんちゃんは…って!?ちょ、ミク、とりあえず事務所まで運ぶよ!?」
「わ、わかった」
僕は、僕は…。
「ううっ…」
眩しい。暖かい。ふわふわ。
そっと横を見るとそこには先ほどまで打ち合わせをしていた先輩方がいた。
「…あっ!?」
そうだ。僕、倒れて…。
「動かないの!さっき倒れたばかりなんだから!」
「ばかりってテト、もう3時間経ってるよ…」
「え、嘘」
3時間。僕はどうやら倒れていたようだ。
「あ、あの…ありがとうございます。」
「いえいえ、大切な後輩ですから。それと、ココアです。貧血なので…できればでいいので、飲んでください。」
ふわりと鼻腔をくすぐる甘いココアの香り。
台から取って一口飲み込んだ。
ゆっくりと体に染み込んでいく。
そっか。僕は貧血だったのか。
「…マネージャーもいないし、ちょっとあのこと話すか。」
…あのこと?
ミク先輩が真面目な顔でこちらを見る。
「単刀直入に…あなたの、キャラクターについてです。あなたのキャラクターは誰に決められたんですか?」
「えっ…。僕が、決めました…じゃなくて!キャラクターとか、ないです…。」
鋭いところを突かれる。適当に誤魔化した。
あれ…?何で、だ?僕はこのキャラクターから解放されたい…違う!僕は…。
「誰に決められたファッションなの?」
「…誰かに、自分のことを笑われましたか?」
「…。」
笑われた。僕のことを。この先輩たちはお見通しなのだろうか。
僕が、キャラクターで悩んでいることを。
「…自分のキャラクター、壊してまた作り直したんだよね?みんなが愛してくれるようなキャラクターに。」
「え」
図星だった。
なかなか売れなくて、可愛いキャラを目指して、今ここにいて…。
「もういいんです。無理しなくていいんです。」
優しく、肩に手が置かれる。
それだけで泣きそうになった。
ああ、僕は思った以上に限界だったんだ…。
「ここまで飾った栄光も。」
「積み上げてきた地位名誉も。」
「恐れないでください!」
「進んでいけ!」
「壊して|みてください《みろ》!」
呼吸がしやすくなる。
目の前にいる2人の先輩に、目を奪われる。
「それが本当にありのままなの?」
「本当はあなたに色って決められてないんです。だから、今のあなたが違うと感じた色を大事にする必要はありません。」
「洗い流して行こう。ずんだもんちゃんはまだできる。白いパレットに戻せるから…」
「…っ!」
今の僕は…やっぱり僕じゃない。
ただの名前を失った汚れた色の人間。
それでも僕は僕なのか…?
違う。きっと違う。
でも…。
「僕は、何がありのままなのか…分からない。分からない…。」
久しぶりに、誰かの前で泣いた気がした。
「ありのままが何なのか今は分からなくていいんだよ」
「怖がらなくていいよ、見せてごらん」
優しく差し伸べられた手を、僕は取った。
「僕は…っ!」
今までの気持ちは、言葉は、決壊して溢れていく…。
「はい、ここでターン!」
テトの声掛けに合わせて私たちも振り付けをする。
「…うん、昨日より良くなったんじゃない!?」
うんうん、と全員で顔を見合わせる。
「とりあえず休憩にしましょう。」
私が声をかけて休憩時間になる。
「…ねえ、テト?」
「どうかした?」
いつかの日、テトとお茶をしたあのカフェのテイクアウトコーヒーを飲む。
「私たち、これで良かったのかな」
「別に?いいと思うけど」
「でも…」
まだ振り付けの練習を一生懸命にしている少女を見つめる。
「ずんだもんちゃん、本当に良かったのかなって」
「あー…。うん。きっと大丈夫だよ。あの子は前よりも強くなってる。うちらがあの子を見つけた、あの子のファンになった、あの時より。」
あの時、ずんだもんちゃんがまだ可愛いアイドルとしてやっていない時。
まだロックを歌っていた時。
私たちは、あの子を見つけた。
その時に思ったんだ。
『ああ、この子はきっと原石だ』って。
でも、その分あの子は傷ついて、少しずつ様子がおかしくなった。
あの時に戻って欲しかった。あの煌めいていたあの時に。
それが今はあの時のように、自分らしくいれている。
ファンとしては嬉しい限りだ。
「…そうだね。」
へとへとになりながらも、輝く笑顔を見せているあの子と一緒に、私たちも本当の私たちで歩いていけたらな、って。思った。
私も少しは人間味が増しているのだろうな。
もしかしたら、本当の歌姫に…。
近づいているのかもしれない。
窓の外には虹がかかっている。
「…衣装さんに相談してみようかな」
新しいアイデアを伝えに、私は部屋から出た。
その後、僕たちは本当のことをネットにて発表した。
僕はキャラクターを作るのをやめること。
ミク先輩はアンドロイドだったこと。
テト先輩はトランスジェンダーであること。
初めて先輩たちの秘密を知った時は驚いたけど…。
僕のことを応援してくれる、優しい人で。
本質はやっぱり変わってない。
ネットの記事に載ってバッシングも少しされた。
でも。
素の僕でも愛してくれる人が、思ったよりたくさんいた。応援のコメントもたくさんきた。
世界は僕が思っていた以上に、優しかった。
だから僕は今日、そんな優しい世界の人々に愛を伝えるためにここにいる。
最後の確認をして、ペットボトルのミネラルウォーターを飲み干した。
「…行きましょう。」
白い光の舞う、ステージへと今向かっていく。
僕らが出てきた瞬間、一斉に周りが静まり返って、静かな熱気に包まれる。
僕は静寂を破る。
「この前、僕たちがしたSNSの投稿。あれは本当です。僕たちは…今までみなさんに嘘をついていました…。」
一挙一動に注目される。空気が張り詰める。
強張る頬を心の中で叩いて、続きを話した。
「だけど!僕は今日から演じることをやめます!素の僕でもいいと言ってくれたファンのみんなのために!パフォーマンスをします!」
今までの出来事が頭の中を巡っていく。
泣きそうになったこともあった。
それでも。
先輩が、ファンのみんながいるから。
誰かの期待には目を瞑って、苦しかった時のことも全部持って。
大丈夫。もういいよ。いいんだよ。
僕はこれからも歩いていく。
「こんな僕も。」
「こんな私も。」
「こんなうちも。」
「愛してくれたら嬉しいです。」
イントロが聞こえる。
最高の笑顔で、今歌い出す__。
「聞いてください。」
「のだ」
【曲パロ】パジャミィ
原曲様
https://m.youtube.com/watch?v=aBZqxfnvaVA&pp=ygUP44OR44K444Oj44Of44Kj
きらきらした音とMVが大好き
アプリコット(関連作品曲パロ)
https://tanpen.net/novel/636fa895-af47-4c66-8b79-88bf93654bc7/
私が生まれたのは、遠い遠いあの日。
暗い夜が怖くて泣いていたあなたを守るために私は生まれた。
実ははじめましてじゃないんだよ?
私はあなたと、ずっと一緒にいた。
あなたは私だし、私はあなただったんだから。途中から分離しただけ。
まあ、イマジナリーフレンドってやつなのよね。クラスメイトとは少しだけ違う。それでも友達だもの、私とあの子は。
あの夢の部屋の秘密基地に、こっそりと小さな声であの子を連れて行った日を私はよく覚えている。
大人に、成長に縛られていたあの子を。
「こんばんは!私、パジャマの妖精。…うん、あの絵本の、だよ?パジャマちゃんだと可愛くないから…もっと素敵な名前をつけてほしいな?…パジャミィ?パジャミィね!ふふふ、素敵。私、気に入っちゃった!ねぇ、遊びましょう?私はつみきがしたいな…|杏《あんず》ちゃんも?じゃあ遊びましょう!…何で名前を知っているかって?それは秘密!」
きみの傷を癒せるように。痛みを少しでも和らげて、見えなくするために。
おもちゃをひたすらとっちらかして、無我夢中で私たちは遊んだ。長いパジャマの袖がお互いの肌に触れたのがほんのちょっとくすぐったくて、とても新鮮で、ついつい笑っちゃった。
でも楽しい時間はあっという間だから。もう夜明けが来ちゃったみたい。
夢からあの子を覚ますように、私はあの子の頬をつねった。あの子も「仕返し!」と言って私の頬をつねった。痛くて、でも楽しかった。
「また会おう!」
そのうち乱闘になって、裸足で蹴り合いながら私は笑った。
大事なあの子が大人になるまでの時間かせぎ。
私にはそれしか出来ない。けど。
あの子が少しでも目覚めを忘れられて、明日も生きていたいと思えたらいいな。
明日になってほしいとほんの少しの間でも思ってくれたら、いいな。
「また来てくれたの?ふふふ、覚えてる?私たち、はじめましてじゃないわよ?…何年も来てるから覚えてないわけないって?私も。杏ちゃんのこと、覚えてないわけないわ。大事な大事な、友達だもの。」
今日もいつものようにあの子が私の夢の部屋にやってきた。
あの子を苦い朝から逃して、優しいと思えるようになった夜を長引かせる。
ずっとずっと一緒にいる、大事な友達は、私に悩みを打ち明けてくれる。
それでも怯えてるのか、ささやき声だけど。
…ぜーんぶ知らないと思ってるのね。私はあなただったから、よーく知ってるのに。
苦い朝が怖いことも。
お母さんもお父さんも、嘘をついてるってことも。
自分が自分じゃなくなるのが怖いことも。
涙ぐむ瞳に映る秘密から彼女を守るため、私は生まれてきた。
だから、今日も私たちは遊ぶ。
あの子はもう最初にここに来た時よりもずっと成長している。向こうでは中学生って呼ばれる年ぐらいまで、ね?
大人になっていってる。あの子が恐れていることは、どんどん進んでいってる。
だから、大事なものが見えなくなってる。忘れちゃってる。
「さあ、遊ぼう?」
私たちはちょっとだけ心を擦りむいちゃっただけ。だから大丈夫。私と遊べば、まだあの子は子供のままでいられる。
前よりも笑顔が硬くなってしまったあの子は、朝焼けがやってくるたびに背中を刺されたように苦しそうな顔をする。
「またね」
閉じたドアから冷たい空気と聞いたこともないような怖い声が流れてくる。
「本当の気持ちは誰にも言えないのに。こんな|大人《わたし》はどうせ地獄に落ちるだけなのに。何で私は大人になるの?嫌だよ…私は、何も見たくない。子供のままで居たいよ…。」
やっぱり、私は時間かせぎしか出来ていなかった。ちっともあの子の傷を癒すことなんて出来てなかった。
中途半端な苦しみを、あの子に与えただけ。
一緒に見た映画も。朝が近づくたびに日光浴をしたことも。秘密のお話も。
楽しげな音楽もいつかは消えてしまうように。
おもちゃで遊んだ後は片付けなきゃいけないように。
いつかはもう終わりにしないといけない。
あの子の中学校の卒業式。その日が来たら、私はもう何も出来なくなる。してあげられなくなる。
とっても寂しいし、残念だけど。
私たちにも、お別れがやってくる。
今日も遊んだおもちゃを片付けながら、私はきみにお話する。
まだ時間かせぎをしたい。
だって私は、あなたからたくさんのことをもらったんだもの。
誰かと遊ぶ楽しさも、秘密のガールズトークも、夜がとっても綺麗なことも。
私はあなたがいなかったら生まれてこなかったし、このことを知ることもなかった。
ちょっともらいすぎちゃったの。
私はそれを返すために生まれてきたんだ。それがもうすぐ終わる。
だから私はあの子とお別れしなきゃいけないんだ。
今日は晴れた。月が、星が、はっきり見える綺麗な日。あの子が中学生ではなくなる日。お別れの日。
今日で最後じゃない。そんな顔をしながら私はまた笑う。
あの子と同じように、おもちゃ箱をひっくり返して、カラフルな風船をたくさん飛ばして。
それから、私もあの子も子供のまま変わっていないパジャマの長い袖が、くすぐったかった。
…空が明るくなっていく。
…あーあっ!まだまだ笑いたかったのに。いつもみたいに裸足で乱闘して、宙に向けて拳を振り上げて、じゃれあいたかったのに。
覚悟はできてたと思ったのにな。
私はまだまだ私の時間かせぎがしたかったんだ。
わがままだ。全然…子供だ。子供のままだ。
私だけ、子供のままだ。
「…おはよう。朝になったわよ。朝のお勉強、するんでしょう?また明日も…きっと、遊べるから!起きましょう?」
目を涙で濡らして。あの子はこちらをちょっと振り向いて。ドアの向こうに消えて行った。
きっとお互い分かってる。もう会えないことも、遊べないことも。
それでも、いつか大人になったあの子が私のことを思い出してくれたら。
忘れ物をそっと届けるように。
また、時間かせぎができるかな?
「ごめんね。子供のまま立ち止まってごめんね。あなたと一緒に歩いていけなくてごめんね。」
自然とこぼれ落ちた雫は、静かに床を濡らして行く。
冷えた空気の中で、薄れゆく意識の中で願った。
こんな私だけど。忘れないでほしいな。
【曲パロ】アプリコット
原曲様 どうかこの子には幸せになってほしい……
https://m.youtube.com/watch?v=_uMDEIPgmFI
パジャミィ(関連作品曲パロ)
https://tanpen.net/novel/d56ab9db-dd66-4357-8bfb-2143d42abb16/
ゆりかごから墓場まで。私は幸せに生きられると思っていた。
例え辛いことがあっても、こっそり行きと帰りのリムジンでうたた寝すればいい。
夕暮れ、雨が降り撒き散らされる、キラキラとした素敵なかけらを眺めればいい。
そんな気持ちで私は、純粋無垢なままの切符を握りしめていた。
いつか、汚れることも知らずに。
私は俗に言う「いいところ」の出だった。
娘の私から見ても美男美女、そしてお金持ちな両親のもとに生まれたんだ。
だから、学校もお手伝いさんに送ってもらってたし、大学までそのまま通える私立の小学校に入れた。
友達もたくさんいた。
ある日は告白された。
「あの…僕、ずっと杏ちゃんのことが好きだったんだ…。付き合って、ほしい。」
クラスでもイケメンだと人気の子だった。
静かな理科室に、その子の声が響く。
「…っ!」
どうやら盗み聞きされていたようだ。
男の子はさっと理科室から飛び出た。代わりに友達が入ってくる。
「杏ちゃん、今告白された!?されたよね!?」
あはは、と笑いながら少し得意気な気持ちで答える。
「うん、されたよ」
ざわめき立つたくさんの友達。
「いいなぁ。ちょーかっこいいじゃない。」
「羨ましいーっ!」
体感温度が少し上がった廊下に、あんずの柔らかな香りがふわり、と流れてくる。
心地よかった。
「でも…お母様もお父様も、まだこどものうちは付き合っちゃダメだって言うから。断るしかないの。」
「そっか。残念だね。」
こればかりはしょうがないのだ。
お母様もお父様も、「私のため」を思って言ってくれてる。だから従わないと。
それでも、大人になったら。
大人になったら、私は好きな人と自由に付き合えるし、もっとたくさんのことが自由になる。
「早く大人になりたいなぁ。」
指先から頭まで。
大人になりたいという甘酸っぱくてときめく気持ちが巡っていく。
はやる気持ちをゆっくりあたためて、やがて来たる日を待ち望んだ。
確かに、幸せだった。
あの頃のかわいいかわいい思い出は、今も大切に宝箱の中にしまっている。
引き出しで飼っている。
…もう一度あたためることは、もう出来ないけれど。
私は数日後、告白されたことをお母様に伝えた。
「ねぇお母様、私今日告白されたの。○○くんに。」
お母様はこちらを少しも見つめないでこう言った。
「そうなの。でも、あなたはまだ子供だから。誰とも付き合っちゃダメよ?」
「…分かっています。」
お母様がこちらを見る。
「それより、この前のテストの結果は?」
ふうっと息を吐いて、吸って、話す。
指が震える。
「…90点、でし」
「ダメじゃないの。伝統ある家の娘として、学問もしっかりと修めないと。それなら尚更恋愛なんてくだらないものにうつつを抜かしていられないわね。」
興味を失ったかのようにふいと視線を逸らしたお母様は、ドアを開けて向こうに歩いていく。
…お母様もお父様も私を見ていない。
確かに、良い点をとった時は褒めてくれる。
けれど。
「私のため」「親なんだから」「この家に生まれたから」
全部全部、都合のいい言葉や態度を使って、私を動かそうとしているだけ。
笑顔も全部そうだ。
都合の良い…「大人」に育てようとしている、のかもしれない。
少女の抱いた、疑惑。
もう、無垢ではいられない。
目を閉じては、いられない。
お気に入りの手鏡に映る私は、少し輪郭が変わっていた。
私も両親も、気持ち悪かった。
系列の中学校に進学した。
背も伸びた。学力も上がった。運動神経も上がった。
私はより、「大人」に近づいたんだ。
だからなのかな。
私は嘘をつくようになった。
今日もこうしてこっそりと公園にいる。
お母様たちには「放課後の自習」と偽った。
遊具を触る。
「…昔、遊んだっけな。」
珍しく公園で遊ばせてくれるお手伝いさんだった。
普通は茶道や生け花のお稽古や、勉強をされられるのに。良くて本だ。
…まあ、今はバレて解雇されてしまったけど。
随分と小さくなった気がする。
「…違う。」
私が、大きくなったんだ。
急に、胸が詰まった気がした。胸焼けがした。
「…はぁっ、はぁっ」
夕焼けに照らされた公園の遊具の影が、笑っているような気がした。魔物が住んでいるような、恐ろしい感じ。
夕焼けの中、カラスが飛んでいる。
「…あしたも、晴れますように」
思っていたよりずっとずっと小さくて。
低い、声だった。
「っ…!」
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
「私はっ、大人になんてなりたくない…!」
空気は爛れている。私が成長するたび、痛みをもたらす。
あんなに気持ち悪くて冷たくて、手垢のついた大人になんて、なりたくない。
またあしたもいい天気になりますように。
また公園に来られますように。
また□□と遊べますように。
…ここはもう思い出せない。私はもう子供ではないから。
綺麗な思い出は綺麗なままで。
かわいいかわいい思い出が詰まった宝箱にこれ以上、汚いものをつけたくない。
もう、無垢ではない。
目を閉じていない。
前髪が崩れたのでお気に入りの手鏡で直そうとした。
そこに映る私は、また輪郭が変わっていた。
どこかで、見た顔だと思った。
また□□に会いたくなった。
高校生になった。数年経った。
クラスメイトから俗にいう友達へと変わった子がいた。
私は何も出来ない。何もかもできるけど、何も出来ないんだ。
やること全てが、「大人」になるためのもので。
私が私で無くなっていくような気がした。
自分の部屋に入る。
変わってしまった。
前は確かにあったはずのふわふわのクッションはいつのまにかない。
いつも付けていたお気に入りのリボン。旅先で買ったリボン。もうあれも…外した。
外すことを余儀なくされた。
「子供っぽい」そうだ。私はもう子供っぽくいてはいけないのだ。私は「大人らしく」振る舞わないといけないのだ。
気づいたら1つにまとめるようになっていた髪。ゴムを外して、しばり直そうとした。
あの手鏡をこっそりと取り出した。
もうこれも、見られてはいけない。
見られたら。
…考えたくなかった。
…どこかで見た顔。
あの頃はまだ違っていた。でも、今は。
これは。この顔は。
お母様の顔。大人の顔。
とてもとても、美しかった。
でも。とてもとても、醜かった。
「…気持ち悪い」
決壊した気持ちは、呆気なく暴走して___
バリン。
思いっきり床に叩きつけた。
割れた。割った。
「うああああっ!!」
破片を投げ捨てる。
こびりついた汚れはもう取れない。
目の奥から離れない。
お気に入りの手鏡は何も映さない。
地獄に堕ちろ。お母様も、お父様も、お手伝いも、勝手に決められてまだ顔も見たこともない結婚相手も。その親も。
私も。
窓を開けて、破片を投げ捨てようとして…。
見えた。風船が見えた。杏色の風船。
いつかあの、夢の部屋で□□と遊んだ時の風船。
「ごめんね」
お気に入りの絵本に出てきた、白い肌と綺麗な髪と夜の色をした、美しい妖精。
クラスメイトとは少し違った、親友。
「ごめんね。子供のまま立ち止まってごめんね。あなたと一緒に歩いていけなくてごめんね。」
「時間かせぎしかできなくて、ごめんね」
足元から崩れ落ちた。
「パジャ、ミィ…?」
そうか。あれはまだ夜が怖かったときのことだ。「頼りになる大好きな」大人が誰もそばにいなくて。寂しかったあのとき。
突然出会った。パジャミィと。
「こんばんは!私、パジャマの妖精。」
「…あの、絵本のパジャマちゃん!?」
「…うん、あの絵本の、だよ?パジャマちゃんだと可愛くないから…もっと素敵な名前をつけてほしいな?」
「えーっと、じゃあ…ぱじゃみぃ!」
思いつきだった。
それでもパジャミィはにっこり笑って、本当に嬉しそうにした。
お母様ともお父様とも違う、真の笑顔。
「パジャミィ?パジャミィね!ふふふ、素敵。私、気に入っちゃった!ねぇ、遊びましょう?私はつみきがしたいな…杏ちゃんも?じゃあ遊びましょう!」
「…パジャミィは何で私の名前を知ってるの?」
「何で名前を知っているかって?それは秘密!」
くすりと笑った彼女は、私よりもずっとずっと、素敵な女の子だった。
明るくて、優しくて、チャーミングで。
本当に絵本の世界から飛び出してきたような、そんな女の子。
大好きな、ともだち。
私のともだち。
何で忘れていたんだろうか。いや、私は忘れようとしていたのかもしれない。
私はいつの日か、あの子とお別れになってしまった。
いつも通り、という顔をしていたけれど、本当は分かっていた。
私たちがお別れなことを、あの日気づいていた。
私はパジャミィと会えなくなったことに、大人にならなくてはいけないことに、絶望して、そして。
あの子を封印した。
私の勝手な気持ちで、パジャミィとの記憶を無かったことにした。
パジャミィは、私に寄り添ってくれていたのに。
私は、私は。
「本当の気持ちは誰にも言えない」って。馬鹿なことを考えて、パジャミィを苦しめた。
「もう言わないで。ごめんねってもう言わないで…!」
頭の中であたたかい思い出が映し出される。
痛みが引いていく。
私の心の中にはゴミがたくさん入ってしまった。
もう私は私を大好きとは言えない。そうよ。
でも。
まだ濁っているだけ。
綺麗な部分も、少しだけある。
パジャミィとの、秘密基地での記憶。
パジャミィは、私の心が大人になる前に、|忘れ物《きおく》を届けてくれた。
かけらを拾った。もう一度手鏡にはめ込んだ。
そして、机の上に置いた。
窓には変わってしまった私が映っている。
姿勢を正す。
やがて私は完全に大人になってしまうかもしれない。
その日まで、私は子供でいる。大人だけど、子供。
パジャミィみたいに、子供に寄り添えるように。
大人になってしまうその日から逃げて逃げて、いつか大人を愛せるように。成長を愛せるように。
乙女ははにかんだ。優しくはにかんだ。子供と大人の中間点で、苦しみながらも、微笑んだ。
いつか夕暮れの雨をまた綺麗と思えるようになる。ちょっとしたうたた寝を楽しみにできる。
ふわりと漂う杏の香りを胸いっぱいに吸い込んで、私は部屋を出た。
杏の花言葉:疑惑、乙女のはにかみ
https://m.youtube.com/watch?v=_uMDEIPgmFI
アプリコット
https://m.youtube.com/watch?v=aBZqxfnvaVA
パジャミィ
本家曲リンクです。
【曲パロ】ジェヘナ
最高な原曲様リンクです。
https://m.youtube.com/watch?v=7Y9sJvLI3Po&pp=ygUM44K444Kn44OY44OK
「…もしもし。やっと電話出たじゃん。もう、心配だったんだぞ?って、言いたいことがある?何だよ?…え?余命、宣告されたって?ちょっと待てよ、嘘だよな?」
「…嘘じゃないよ。もう回復の見込みはないって。だから終わりにしよう。私たちの関係。」
「え…あ、うん。」
スマートフォンを叩きつけるように置いて、私はベッドに倒れ込んだ。
これで終わりだ。何もかも。
ただ、あとはその日を待つだけ。
ぼーっとベッドに転がって夕陽を眺めていたその時、アイツが入ってきた。
「やあやあ、元気?調子はどうだ?」
「…そういうのもうやめてよ。私に未来がないことぐらい分かってるでしょ?」
くすくすと笑いながらすぐそばの椅子にアイツ…広野は腰掛ける。
「…で?検査の結果は?」
「…何も聞くな」
ぷいとそっぽを向いた。
「だろうと思った」
「…それさ、余命宣告された人に言う言葉?」
呆れたように私は呟く。
「ごめんってば。…おい、聞いてる?…寝てる…。」
どうせなら寝たふりをしよう。広野はデリカシーがないのだ。少しぐらい復讐しても…いいよね?
響く足音。どうやらもう出て行ったようだ。
「…はあ。」
私はどうして、こうなってしまったのだろうか。
大学を卒業した。
私は広告関係の会社に入社した。
休みもそこそこ多い。面接官さんも凄く優しそうだった。
値踏みされるような視線も感じたし、歓迎会での思い出もあまりいいものではなかったけれど、これからのためならと私は我慢した。
…まあ、元々の募集内容とはかけ離れていたし、「優しそう」というだけだ。現実はそんなに甘くはない。後悔してももう意味はない。
要するにブラックである。
先輩を仕事でフォローし、先輩はその成果を見せ悦に入り、私は何も評価されない。残業が増えていくだけだ。
「昔は僕たちもこんなに仕事してたんだよ?」
そんなことを共有しなくてもいいのに。
「もう仕事やめます。」
その一言を言えば良いだけだった。
はは。そうだよ。こうなったのも正真正銘全部私のせいだ。
若い女性が余命宣告をされて命を落とす。
そんな話聞いたことあるんだよ。
だから…私を気にかける人など、誰もいない。
決断していれば。単純明快なあの一言を言っていれば。
「こうあるべき」という理想にとらわれていなければ。
私は余命宣告なんてされなくても良かったのかもしれない。
この病院に来てからついた傷を眺める。自分でつけた傷。
…今は逃げる勇気もない。
もう。はやく。もっと。
堕ちてしまえたらいいのに。
「生きていたいよ。」
声に出るのは私の気持ちとは真逆の言葉。
こう言ったって私の病気は肺を蝕み、少しずつ息ができなくする。
「…こんなの理不尽だよ。」
小さな声は夜の闇に溶けて行って、後には孤独だけが残る。
…本当は、私は生きていたいんじゃないか。
この病を恨んで、これからも笑って当たり前のようにいろんなことができる人々を恨んで。
「負の感情は捨てろ。ただエネルギーを使うだけだからな。」
広野の声が心の中で今も響いている。
そんなに簡単に私は感情を捨てられないよ。
「生きるしかないのかな」
疑問符はつけられなかった。
だって、広野のあの言葉を私はまだ信じたかったから。
「俺らは生きてていいんだ」
「おはよう」
散歩がてら院内をふらふらしていると、今日も広野が声をかけてきた。
「おはよう」
自販機に小銭を投入し、温かいコーヒーを取り出しながら返事をした。
「もうそろそろクリスマスだな…。」
煌びやかに飾り付けられたクリスマスツリーを眺めて呟く。
「そうだね。…まあ、私は来年もそれを迎えられるかどうかも分からないんだけど。」
「はは…そうだな。俺もだよ。」
街の外は暗くなったらきっと、恋人たちで溢れるのだろう。
寂しく終わりを待つ私たちなんていないように、きっと振る舞う。
「それで…そっちの方はどうなんだ?彼氏いるって言ってただろう?」
「ああ。まだ恋愛なんかに執着してるんだ。もう私たちに未来なんてないのに、恋愛なんかにうつつを抜かしている暇なんてないでしょう。暇だけど。」
呆れたように見つめる広野。
「そんなこと言って…付き合ってたやつとはどうなったんだ?って訊いてるんだよ!」
「…何も言うな」
「…そういうことか」
ふいとばつが悪そうに目を逸らす広野に声をかけた。
「別にいいよ、元々浮気されてたし。ブラックに勤めてたんだから恋人に割く時間とかなかったからね。しょうがないよ。」
突然真剣な顔になったアイツ。
「…そんなもんなのか?本当はまだ彼氏のこと、好きだったり」
「しないよ。じゃ」
即座に続きの言葉を言わせないようにして、そのまま部屋へと戻った。
「…。」
平静を装った。
部屋に入って、近くの椅子に座った。昨日アイツが座った椅子だ。
コーヒーの容器を開ける。今日は上手く開けられなくてイライラした。
すでに冷めている。
ちまちまと飲みながらスマートフォンのメッセージアプリを開く。
「…まあそうだよな」
何も着信は来ていない。最初の方こそ届いていたのだが、今はアイツからしか来ない。無性に腹が立つ。
でも、心の中ではどこか分かっていた自分がいた。
まだあの人々には将来がある。希望がある。笑顔がある。
だからだ。
もう終わる存在である私に連絡するわけがない。
そうか。
私は嫉妬しているのか。
一生懸命勉強して、受験して。他の奴らが四苦八苦している傍らで、友人や彼氏が出来た。
でも今はどうだろうか。
仕事に縛られて浮気されて。その末に余命宣告されて。自暴自棄になって自傷して、他の奴らが人生を楽しんでいる傍らで、私にはタイムリミットが近づいている。
「私、今度ハワイ旅行に…。」
「私は今度結婚式!」
私の前であからさまに幸せを語って。もう満足したなら帰れ。
「あのね、病気になったからって人生を悲観しないでね?人生って言うのは…。」
すごくためになった。感動したよ。でももう満足したなら帰れ。
…嫌なことを思い出したな。
負けた。人生は勝負じゃないと分かってるけど、負けた。
コーヒーを一気に飲み干した。少しだけ酔いしれた気分になれた気がした。
酔いしれた。確か、アイツとの出会いの時も私は酔っていたな。
|真っ黒に濁った会社《ブラック企業》でまだ過ごしていた時のことだった。
「はぁ…。」
会社と居酒屋、たまに家をリレーしていた日々。
今日もどうせ家に帰って寝る時間なんてない。
だから私は居酒屋で酒を飲んでいた。
いやいや、明日も仕事があるだろう?そう思ったが理性は勝てなかった。
|アルコール《酒》で消毒すると気持ちいいし、何も考えなくて良かった。
大きな川に身を任せていられるようで。
どんどんどんどん、私は堕ちていった。
…今思えば、この習慣が悪かったのかもしれない。
「おい、起きろよ」
「んにゃ…?」
せっかく気持ちよくうとうとしてたのに。誰だ、この幸せな時間を壊したのは?
そう思って声をかけた人物を睨みつける。
「誰、あなた」
「は?同じ会社で働いてる広野だよ、|広野愛人《ひろのあいと》。」
広野愛人。そういえばそんなやついたな。
「で、何?」
「はあ…せっかく仕事に遅れないように声かけてやったのに。何だよその態度は?」
仕事に…遅れる?
ばっと立ち上がって時計を見る。時刻は出勤時間になるところだった。
「…嘘でしょ?」
「ほら、そうと決まれば早く行くぞ、|生田希美《いくたのぞみ》。」
「…呼び捨てやめろ!」
キッと睨み返して素早く荷物をまとめる。
そんななかで私はこの場に合わない感情を抱いていた。
私の名前を覚えてくれている人がいる。
私は名前で呼んでもらえる。
職場ではいつも「お前」とかだった。
そんな私でも…私の名前を覚えてくれている人がいるなんて。
広野愛人…だっけ。名前、覚えておこうかな。
私ってちょろいなと思いながらも、少し心のもやが晴れた気がした。
「!?」
寝覚めは最悪だ。薬の副作用で起きたのだから、当たり前だろう。
いつしか寝ていたようだ。夢の世界は広野がいたから…少しだけ、楽しかった。
「ううう…。」
気持ち悪い。下手したらこのまま吐きそう。息が苦しい。
こんな思いまでして延命する意味なんてあるのだろうか。体はすでに悲鳴を上げているというのに。|DNA《聖書》に|地獄《ジェヘナ》は刻まれているのに。
でも、やっぱり。
「生きていたいよ」
…なんでだろう。やっぱり思うのは正反対の思いだ。
違う。違う。
「私」が声をあげる。
「生きていて…痛いよ」
生きているだけでダメージを負って、苦しい思いをして。痛い。痛い。痛い。
それでも生に執着する自分が…痛い。
「…。」
生きていたいという本能。
生きることを怖がる理性。
幸せを疑う「私」。
能天気に天国はあるのか考える「私」。
生きたい「私」。
〈不適切な発言〉「私」。
分からない。私はどうしたいのか。生きていたいのか、〈不適切な発言〉。知りたいのか、知りたくないのか。
衝動的にハサミを取り出して、そして…。
「おい、生田?いるか?…何してるんだよ!」
ギリギリで広野に止められてしまった。
「ひろ、の…?」
「何やってるんだよ!この馬鹿!」
「いてっ」
デコピンされた。温かい痛みだった。
「…私、は。」
夕暮れの病室に、差し込む太陽の光。頬が優しく照らされる。
「生きていたいよ…!なんにも希望なんてないけど…生きていたいよ!」
体の中で本能が渦巻いている。
「でも…やっぱり生きてたくない!もう消えたい。でも生きてたい。生きたいよ…!」
「…俺たちは。怖がりで、みっともなくて。本能に逆らえないから…生きていくしかないんだ。『生きてていい』んじゃなくて、生きないといけない。」
「…嘘つき」
小さな声でつぶやいた。彼が私を守るために発した言葉だったとしても、騙されたのはすごく悔しくて、痛いぐらいの悲しさがあった。
「…騙してごめんな…。…もっと早く言えなくてごめんな…。」
静かな病室に2人分の泣き声が響く。
私たちは2人で、苦しんできた。
会社の暴力に、病気の暴力に、言葉の暴力に。
同じ道を辿って、同じ道で苦しくなって…。
これは本当は、悲しいことなんだと思う。
でも。私の中では。
同じく辛い思いをしてきた、広野だけが…。
友達だと思えた。
「…今度、コーヒー奢ってくれたら許す。」
「…え?…ふっ…あははっ…はは、は…!分かった。奢るよ。」
「…それで良し。」
泣き笑いをした私たちは、明日もまた|地獄《ジェヘナ》の中で生きていく。
大切な…友達と共に。
【曲パロ】たぶん終わり
主人公がお亡くなるになるシーン等あります
表現は少し薄めにしたつもりですが、苦手な方はご注意を
大変すばらしい本家様動画: https://m.youtube.com/watch?v=GiDo4s1x9Mw
身体が半分、いやそれ以上何もないところに乗り出す。思考が止まる。
「嘘、でしょ?|早乙女《さおとめ》くん…?」
いくらなんでも信用できない。こんな終わり方じゃあ納得なんてできるはずもない。
柵の向こうで恍惚とした笑みを浮かべる男は、私の言葉を聞くようすはなく。
そのまま私は涼しい風を浴びながら落ちるはめとなった。
「どうして…?」
数十分ほど前のことである。
「ねぇ、|冬子《とうこ》?聞いてるの!」
いつのまにか眠くなっていた私は、その言葉で目が覚めた。
「あっ!ごめんね!」
「もう…まあいいわ、冬子ってさ…」
その後の言葉で、私はフリーズした。
「どの男子狙ってるの?」
「はっ、はぁ!?ななな、な、何を言ってるの!?」
どの男子を狙っているって。私は好きな男子などいない。
しかし最近は知らず知らずのうちに近づいてしまうのだ。本当に、無意識のうちに。誤解されても無理はないかもしれない。
特にコウくんの近くで…なんでだろうか。
「えーっ、でもさ?最近の冬子、いろんな男子から人気でしょ?しかもイケメンから!!はーっ、羨ましいわー…で、誰狙いなの?」
「誰も狙ってないってば!」
私は本当に分からないうちになのだ。気づいたらコウくんを始めとした男子たちに近づいてしまうだけなのだ。
「冬子とイケメン…例えばコウくん、本当に少女漫画とか乙女ゲームのヒーローとヒロインみたいだったよ?」
「この世界にはヒーローもヒロインもいないの!馬鹿なこと言わないでよ!」
「えーっ、でもこの前冬子さ『信じることは美しく、素敵な恋が実るの…!』とか言ってたじゃん!!」
私はそんなこと言ってない。
反論しようとしたそのとき。教室の外から声が私にかけられた。
「|糸川《いとかわ》さん、いる?|圭《けい》くんが呼んでるよ!」
「え、早乙女くんが?」
委員会はもう繁忙期も過ぎているし、私に声をかける理由はあまりないように思った。
不思議に思いながら教室の外に出る。
「…冬子さん、屋上」
廊下には、端正な顔を少し赤らめている、私を呼び出した張本人がいた。
「えっ、あ」
彼は口数が少なく、意思疎通が難しい。よく分からないまままま引っ張られるように屋上へと走った。
「…これ」
「…?」
屋上にて手渡されたのは、小さな封筒。ハートのシールが貼られている。
これは、まるで…。
ラブレターのようではないか。
いやいや、そんなことはないだろう。自分の馬鹿な考えを振り切って封筒を開けようとする。
「…いや、やっぱいいや」
体が突然吹き飛ばされて、柵の向こうに落ちて、私は…。
「…?」
「ねぇ、冬子?聞いてるの!」
意識が覚醒する。
「…嘘でしょ」
確かに、私は落ちた。屋上から。猛烈な痛みを感じて、気づいたら…。
ここにいる。なぜ?
「…ごっ、ごめん!」
先ほどのことは私の夢だったのだろうか?そう信じたい。
「もう…まあいいわ、冬子ってさ…」
私はその後の言葉でまたフリーズすることとなった。
「どの男子狙ってるの?」
この言葉、聞いたことがある。
そう。確かに、先ほど聞いたのだ。
私が落ちる、数十分前に。
「男子を狙ってるとか、ないよ?」
咄嗟に笑顔を作り、誤魔化す。
まさか、先ほどのものは予知夢なのだろうか?
いやいや、流石にそんなわけ…。
「えーっ、でもさ?最近の冬子、いろんな男子から人気でしょ?しかもイケメンから!!はーっ、羨ましいわー…で、誰狙いなの?」
まただ。また聞いたことがある。
「あはは…だから狙ってないよ…。」
「冬子とイケメン…例えば光くん、本当に少女漫画とか乙女ゲームのヒーローとヒロインみたいだったよ?」
一字一句。まごうことなく先ほど聞いた言葉。
…なんとかして、せめてこの言葉を言わせないようにしなければ。
そうしたら、少しは。
「…そっ!!そういえばさ!!昨日の夕飯なんだった?」
「え?夕飯?はぁ、そんなことどうでもいいでしょ。この前冬子さ『信じることは美しく、素敵な恋が実るの…!』とか言ってたじゃん!!誰狙いなの!」
ダメだ。話が戻ってしまう。どうにかして流れを変えなければ。
するとその時。
「|糸川《いとかわ》さん、いる?|圭《けい》くんが呼んでるよ!」
…そ、そんな。まさか。ここまで同じなんて。
冷や汗が滲み出る。
「さ、早乙女くん…どうしたの?」
「…冬子さん、屋上」
どうしてそうなるのよ!?
「お、お話ならここでも聞くよ?それとも、またどこか別のところで…ああもう、ちょっと止まってってばー!!」
ずるずると引きずられるように私は屋上へと連行された。
「…これ」
「うっ」
あああ、いつか見たラブレター!
「あ、ありがとう!…ということで私はお暇しますね、それでは」
ドン。
「ダメ。ここで俺のものに…愛してるよ、冬子さん」
ふわり、と涼しい空気がまた触れる。
ダメだった。
今日、家に帰れたら。私のお気に入りのテレビ番組を見て。お母さんの特製ハンバーグを食べて。あったかい布団で寝て。
しあわせを噛み締められたはずなのに。
私は、このしあわせ一歩手前の地点で死ぬの?
そんなの理不尽だ。
また、熱いほどに痛い傷を負う。
目線をずらすと、そこには鮮血がたまっている。
ああ。私が思っていたよりも、死というものはグロテスクなものだったようだ。
ここで、私の命は。
たぶん終わりね。
「ねぇ、冬子?聞いてるの!」
ああ…また、此処に戻ってきてしまった。
それから適当に会話して、どこか他人事のように思えて。早乙女くんに引っ張られて、また当たり前のように落とされる。
「…ふふ。これで冬子さんの1番は俺」
早乙女くんが分からない。
もし、私のことが好きなら。なぜ私を殺すのか?
必死に考える。
でも、私は。落ちた瞬間。
「もういいや」
どうせ、考える時間は残酷なほどに多くあるのだから。
「ねぇ、冬子?聞いてるの!」
「…うん」
「もう…まあいいわ、冬子ってさ…」
聞こえる言葉をスルーしながら考える。
私は1つの可能性に辿り着いた。
私がタイムリープしているという可能性。起こされる時点から屋上から突き落とされるまでをぐるぐるとループしているのかもしれない。
まるで、残機の無くならないゲームのように。
そこからは、虚ろに繰り返すだけだった。
私がいろいろなことを話しかけても。ラブレターを受け取ろうとしなくても。開こうと試みても。
結局、自分の尻尾に噛みついているだけ。何も解決には近付いていなかった。
次第に、私は何もしなくなる。考えて動いたって、何も変わらない世界。
屋上の温かさ。段違いの熱さを伴う痛み。恍惚とした表情を浮かべて私を殺し続ける早乙女くん。
美しく燃えるその瞳は、また私に向けられる。
明日、明後日先も。
たぶんこのまま、同じね。
ああ、でも嫌だ。
何かに火がつく。もう何度目かも分からない。
私は嫌だ。このまま、しあわせ一歩手前で同じように苦しみ続けるのは…嫌だ。私のプライドが許さない。
ひらりと舞うスカートと共に早乙女くんが見える。
何で、早乙女くんは私を殺し続けるのか。
その目の輝きを知って、私のしあわせを手に入れる。
私は、悲劇のヒロインで留まっていられないんだ。
飛び起きる。当たり前のように、私は教室で友達と話していたようだ。
「ふ、冬子!?」
「ごめん、急いでるから!」
教室から飛び出して、彼を探す。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
いた。廊下で立ち尽くしている。
「早乙女くん、来て」
まずはこちらのペースに持っていく。
知らないものを積極的に知ろう。
もしかしたら、ヒントが分かるかもしれない。
中庭に着いた。流石に屋上は怖かったので、人も多い中庭を選ぶ。恋人たちや友人グループで活気があった。
「ここでもいいや。冬子さん、これ。」
渡された悪夢の手紙。これを読めば何か変わるのだろうか。
ひったくるように手紙を取り、少し離れた。
警戒しながら封を開けようとして、気づく。
制服は、紅く染まっていた。
顔を上げると、また嬉しそうな笑みを浮かべながら私に刃を突き立てる彼がいた。
「…なん、で。」
「…好きだから。」
バリエーションなんていらない。
私が気づいているよりも、ずっとずっとグロテスクだった。
彼の声で答え合わせされた、あと数分の命の中で、必死に考える。
彼はなぜ、私を殺すのか。
答えは単純なのかもしれない。
すぐそこにあるのかもしれない。
また起きる。数えきれないほどの終わりを経験した。
それでも。それでも起きる。
「今度こそ、早乙女くんの笑顔の理由を知る」
そして、私はしあわせを掴むんだ。
中庭にて。その麗らかな光の中で、熾烈な戦いが起こっている。
私がナイフを避けたことに驚いた早乙女くんは、少し手の力を緩めた。
私はさっとナイフを奪って突きつける。
「何で私を殺そうとしたの?教えて。何であなたは笑っているの?」
「…はは」
楽しそうに彼は笑って、こう言った。
「好きだから」
やっぱり答えは単純だ。単純だけど、深い。
彼は私のことが本当に好きなのだ。
好きで、好きで、しょうがないから。このような行動をしている。
彼の瞳は、私への愛の光で満たされている。
「…そう。だったら」
「私と一緒に、天国へ向かいましょう。」
虚ろなゲームをここで終わらせる。
違和感。
ループする世界、言ったことのないセリフ、いつの間にかしている行動。
そこから生まれた一つの仮説。
この世界は、本当にゲームなのではないかということ。
私が知らない記憶は、誰かが私を「キャラクター」として動かしている時のものであり、私のものではない。
この世界には、「ヒーロー」と「ヒロイン」がいる。
そんな非現実的なこと…いや、ループ自体が非現実的なんだから、あり得るのだ。
私がこのループから抜け出すためには、ゲームをぶち壊す必要がある可能性がある。
ぶち壊す、とは…私が自分の意思で死を選ぶこと。
この予想もつかないエンドのシナリオから大きく外れた行動をすることで、何か変わるかもしれない。
その先に本当の「終わり」が待ち受けていようと、「しあわせ」になろうと、今よりはマシだと私は信じている。
私は早乙女くんに刃を突き立てた。彼は、私を落とした時のような満面の笑みを浮かべている。彼にとっての愛は、私とは大きく異なるようだ。もうそれも、関係ないかもしれないが。
でも、その瞳の輝きの訳を知れて良かった。
私も心置きなく死ねる。
早乙女くんからナイフを引き抜き、私に刺した。
紅が舞い散る。
自分が選んだものだとはいえ、痛いものは痛かった。やっぱり、私が気づいているより死はグロテスクだ。もうこんな思いはしたくない。
崩れゆく視界の中で天を仰いだ。
何の根拠もないのに。本当に直感的に。分かった気がする。
ここが最後だと。
「たぶん終わりね」
「やばいやばい、パソコンの電源切ってない!」
|陶子《とうこ》は焦っていた。このままだと電気代について母親から叱られる、と。
ものすごい勢いで自室に入り、パソコンが置かれている台へと駆け寄る。
「えーっと…あ、あれ?直ってる!?あのループエンドから!?」
パソコンの画面には、今流行りのゲーム「信愛の乙女」のスタート画面が映し出されていた。
「信愛の乙女」とは、いつか素敵な恋が出来ると信じる可憐な少女が学園で美男子たちとの恋愛を楽しむ、という乙女ゲームだ。
「信じることは美しく、素敵な恋が実るの…!」という主人公のセリフがキャッチコピーである。
「はぁ、良かったぁ…。あやうくコウ様の攻略が出来なくなるところだったんだから!早乙女とか言う男もなかなか顔は良いのに、性格が、ねぇ…。」
スタート画面に映る端正な顔の青年を睨みつける。青年は俗に言う、ヤンデレだった。主人公とのエンドはどれもろくでもないものである。
中でも、主人公を殺し続けるバッドエンドは陶子にとって、ひどくつまらないものであった。それがバグを起こして|延々と繰り返される《・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・》のだから、陶子は困り果てていたのだ。
楽しげに陶子はイスに座った。
「さてと…攻略の続きをしましょう、冬子ちゃん?」
パソコンの画面で美男子と共に微笑んでいる冬子…いや、名もなきこのゲームの主人公。
果たして、彼女は本当にしあわせなのか。
それとも…?
早乙女圭→さ おとめ けい
→おとめ けい
→おとめけい+む
乙女ゲーム
糸川冬子→糸 川 冬 子
→糸冬
終
しょうもないですね〜
【曲パロ】ヘブンズバグ
語彙の選び方が本当に素敵なんです。
原曲様のリンク
https://m.youtube.com/watch?v=v5BloiCJCys&pp=ygUS44OY44OW44Oz44K644OQ44Kw
小ネタ入りなので探してみてくださいね!
いよわファンならきっと分かると信じています。
ふわりと、風がわたしの頬を触れる。どこか懐かしい香りに、少しぼうっとしてしまった。
周りではみんな盛んに糸を出し、丸く丸くしていっているのが見える。
「ハルカ?繭、作らなくてもいいの?もうじき繭作りの時期だよ?」
「…うん。気分になったら作る。」
少しだけ出した糸であやとりをしながら答えると、彼女はゆっくりと息を吐いた。まるで呆れたように。
「…まったく、あんたってやつは!本当に楽観的な性格なんだから!」
ピューピューと糸を吐き出し、丸めながら彼女は歩いていってしまった。きっとそれも繭作りに使うのだろう。
「…別にいいじゃん」
どうせわたしたちは繭を作ったって大人になれないんだから。
大人になる季節ぐらい、楽観的なふりをしたっていいじゃない。
わたしが「あのこと」を知ったのは1年前。
いつものように、こっそりお部屋を抜け出して「外」に行った。
お友達にもお姉ちゃんやお兄ちゃんたちにも、ないしょのお外。
ほんとうなら、お外には出たらいけない。
わたしたちのからだは弱くて、激しい運動をするとすぐ傷ついてしまうから。
でも、わたしは周りに比べて少しからだが強かった。
だから、お部屋の中にずっといると退屈で、夜にこっそりお外に遊びに行っている。
わたしたちは人間さんよりからだが小さいから、すきまを見つけて外に出ることもできる。
今日はここを散歩しようかな?と、お部屋の周りをぐるぐる巡っていたその時、ふと耳にしてしまった。人間さんの話を。
「あいつらももうそろそろ『収穫』の時期だな…湯の準備をしておけ」
「かしこまりました」
よく分からないけどすごく心臓がドキドキして、ちょっとだけ怖かった。
立ち去る時に人間さんは紙を落とした。
ダメだって、分かってた。でも、好奇心に負けてしまったんだ。
中身は…わたしたちの『収穫』について。
「繭を作ったかいこは熱湯に入れて、湯で糸をほどきましょう。」
そう、書かれていた。
「…熱湯?でも、わたしたちは…。」
わたしたちかいこは。そんなに熱いお湯なんて、入ったら…。
急にからだが冷えて、怖くなった。
わたしは、いつもより早くお部屋に戻った。
その年に繭を作ったお姉ちゃんやお兄ちゃんは、当たり前のようにお部屋からいなくなった。
大人になったのかもしれない。
かいこのいくらかは大人になれる、って。あの資料には書いてあった。だけど。
全員じゃない。
もしかしたら、ほんとうは…。
あやとりをやめて、わたしはお部屋の自分のスペースで横になった。いつのまにかみんなは寝ていて、わたしだけが起きているみたいだ。
小さな声でつぶやいた。
「…人間さんのうそつき。」
ちょっとだけ泣いてしまった。こどもじゃないのに。もうすぐ、大人なのに。
あの怖い記憶は、私の中で糸となってほどけはしない。忘れられない。
いつか忘れられなくても、心が大丈夫になる日が来るのかな?
朝日の爽やかな匂いを嗅いだ。
どうやらそのうち眠っていたみたい。ゆっくりと体を起こした。
朝ごはんの時間はまだだ。眠気はない。
寝ることはせずにプレイルームに行くことにした。
そのうち、繭作りで行けなくなるかもしれないから。
プレイルームはやはりというか、閑散としていた。早朝だからだろう。
でも1人だけ、いた。
綺麗な男の子だった。その美しい金色の双眸を細めて、動物の図鑑を眺めている。
猫、犬、馬、羊、ライオン…たくさんの動物たちの説明が細かく、写真とともに印刷されていた。
「動物が好きなのね」
つい、声をかけてしまった。
その子は目を見開いたあと、ゆっくりと唇を震わせる。
「人は嫌いなんだ」
「…なんで?」
普通のかいこは人間さんが好きだ。毎日ごはんもくれるしたくさん遊んでくれる。まあ、本当はわたしたちを「収穫」するためなんだけど。
「だって…ちょっとだけ、ぴりぴりしてるから。空気がぶわーってなって、ちょっと僕らを怖がってる気がする。何でだろう?」
この子は知らないのかもしれない。「収穫」のことを。
その同じ金色の髪も、心も、きっと繊細で壊れやすいのだろう。
「…そっか。」
静かな時間が流れる。やがて彼は図鑑をまた読み出した。横からしばらく経って、やっとわたしは声をかけられた。
「…お名前、なぁに?」
「カナタ」
すとん、とからだに馴染んだ。それぐらい、彼の名前は彼に似合っていた。
「どうしてここに?」
「きっときみと同じ…繭が、作れないんだ。僕だって、大人になりたい…いや、自由が欲しい」
ふと、彼…カナタくんは顔を上げて時計を見る。
「…なんで、分かったの?」
「雰囲気だよ」
僕と同じ空気を纏っているんだ、とカナタくんは呟く。
「…変だと思うかもしれないけど、別に大人になりたいわけじゃないんだ。ただ、大人になったらここから飛び出すための羽が生えるから。姉さんも兄さんもこの部屋から出て行って、自由になったから」
彼は信じているんだ。大人になれれば…繭を作ってさなぎになって、殻を破るその日、自由になれると。
どう、声をかければいいかわからなかった。
わたしが固まっていると、彼はちょっと眉を動かして寂しげにこう言った。
「…やっぱり、大人になりたいわけじゃないことっておかしいかな?」
「…ううん。わたしも同じだから」
いつもより数倍時間をかけて、ゆっくり言葉を口にした。ちょっと彼は笑ってくれた。
「…そっか。でも、僕は臆病者だから。さなぎになって大人になるための準備をすることが少し怖いんだよ。」
また図鑑に彼は視線を落とす。つられてわたしもページを見た。
「そうこうしているうちに、糸を出すこともうまくいかなくなっちゃった。」
困ったように微笑むカナタくんに、わたしはどうしても目が離せなくて。
お互い、黙ったまま見つめあっていた。
どうしようかとあわてているうちに、チャイムが鳴った。朝ごはんの時間だ。
「…わたし、朝ごはん食べる」
「僕も。きみは、見ない子だから…別の部屋かな?じゃあね」
立ち上がってわたしが行こうとした、その時。
不意に彼がわたしの手をつかんだ。
「…また、明日も来て欲しい。僕の話を遮らなかったの、きみだけだから…。」
鼓動がよく聞こえる。耳も頬もきっと真っ赤になっているだろう。
「あ、えっと…うん。でも、これからこういうことはやめようよ!むやみに触ったら怪我しちゃうよ?」
「…そうだね」
そう告げる彼の手からは血が流れ出している。
「| 《もったいないなぁ》」
「…何か言った?」
ついつい心の声を漏らしてしまったようだ。
「なんでもないよ」
ただ、君の綺麗な心が溶け出してしまっているように見えただけだ。
「こんにちは」
「来てくれたんだ」
あまり顔には出ていなかったけれど、少しだけ声が上擦っている。体温が高くなった気がしてしまった。
緊張しながら他愛もない話を続けているうちに、彼から言われた。
「ねぇ、僕が『糸が出せない』って言ったこと、覚えてる?」
「もちろん」
わたしが小さく頷くと、彼は続けた。
「もし、良かったらなんだけど『糸の出し方』を教えて欲しいんだ。」
「え…?」
糸の出し方。この年齢のかいこなら大体知っているはずだ。
「僕、今まで糸を出すのが怖くて、練習出来てなかったんだ。だから…教えてほしい。きみに。僕は勝手に、きみのことを友達だと思ってる、から。」
きみに。友達。
「あっ、えっと…わたしも、お友達だと、思ってる、から!」
「よかった」
まるでお日さまのような、きらきらした笑顔に釣られて、わたしは「友達」からのお願いを聞くことにした。
今日もわたしは糸を吐く。糸を吐く。きみのために。
いつも遊びのために出す糸とは違ってみえた。色がきみのような金色な気がして、きみとのつながりの色だと誇れた。
たとえ、その糸がわたしたちの将来を粉々にしていたとしても。
わたしは嘘を吐いて、ひたすらに根をはって生きようとするきみのために糸を吐き続ける。
「友達」のために。
…このところずっと、友達という言葉がこだましている。
やっぱりわたしは友達のままで納得していられないのかもしれない。
もうすぐわたしは、湯の中に入れられて雪のように解けてしまう。わたしの魂がどこに行くかも分からない。なのに、なのに…。
綺麗な綺麗なきみに、わたしはドラマチックでもなんでもないけど…あたたかい恋をしてしまったんだ。
早朝のプレイルームには、今日も涼しい風が吹いている。彼と出会う日の前日も、こんな感じの風が吹いていたっけ?
「今日はちょっと糸の出が悪いね…カナタくん、最近疲れてるの?」
「ううん…はあ、どうしよう。このまま繭作りが間に合わなかったら、どうしよう!」
彼のまつげが風で揺れる。ほんのすこしわたしもカナタくんも、センチな気分だ。
朝日が目にしみることも、朝日の風の冷たくてそっけない音を聴くことも、きみとのお別れが近いことも…全部全部、すぐに泣いてしまいそうなほどだった。
だって、恋を知ってしまったから。
必死に丸く丸く糸をまとめるきみが、すごく愛おしくなってしまったから。
「ねぇ、この糸どうかな?」
「…うん、これなら繭にも使えそうだね!」
そう言うと彼は無邪気な笑顔を見せる。まるで花が咲いたみたいで、周りが華やいで見えた。
「よしっ!これなら素敵な大人になれるよね!」
「そうだね」
そんなきみに今日もわたしは嘘を吐いてしまう。少しちくりと、心が痛んだ。
一度壊れたら戻せない。だから、壊れないように、隠す。きみにばれないように。
今日向かうと、きみはお絵かきをしていた。最近、こんなことが多い気がする。
「お絵かきが好きなのね」
あの時みたいにきみは目を大きくして、わたしに言葉を投げかける。
「…びっくりした。来てたんだね。」
彼はわたしの問いに答える。
「文字が読めないだけだ。僕は言葉の勉強が苦手だから、お絵かきでもっといろいろなことをより深く知りたいだけだよ。大人になった時に、無知で困らないようにするため。全部、知らなくてもいいけど」
ちまちまと糸で絵に飾り付けをしながら、彼はふわっと笑った。
「…あと、これはもう一つの理由。ハルカちゃんをいつか見つけるため。大人になっても、姿が変わっても、ね?だから、僕も見つけて欲しい」
「…う、うん」
こういうところがずるいんだ。いつもは恥ずかしがり屋でわたしの名前を呼びたがらないのに、こういう時には普通に言うから…。
わたしだって反撃したい。わたしにだって彼の心を動かせるのだって、証明したい。
わたしだって…!
そっと、カナタくんの手をつかもうとした。でも、わたしはすぐに引っ込めて、その手を下ろしてしまった。
「どうしたの?」
すごく変な挙動になってしまった。
「なんでもないよ」
きみが手をつかまれてまた傷を負ってしまったら、きみの心の形が崩れてしまうならば…わたしが、きっと耐えられない。
わたしが先を行く。道を切り拓いて、彼が歩けるようにするために。
だから紡いで、紡いで、終わりが来るその日まで紡ぎ続けて。
難しいことは考えずに紡いで。
ずっと嘘を吐きながら、きみと笑って。
でも、いつしかきみはなかなか来なくなった。繭はもうほとんど出来ていたことを他の部屋の子から聞いた。
わたしが彼と過ごした日が増えると、わたしがいなくなる日へのタイムリミットはどんどん近づく。そういうことだ。
つながりの金色の糸も、もうこれ以上出しても意味がなくて。手から自然とこぼれ落ちてしまった。
彼の繭も、そしてわたしがなし崩し的に作り出した繭も、もうほぼ完成だったから。
「今日はついに卒業の日だねー…って、ハルカ調子悪い?」
「…ちょっと。」
顔は上げずに小さな声で答えた。
「そうなの?…まあ、なんにせよ胸元のリボンは取っておきなよ?」
不思議そうな顔したあと彼女は歩き去っていく。その姿をわたしは見送った。
服に目を落とす。視界に入る、赤のリボン。お祝いの時に、見習いだけつけるリボン。子供の証。守られている証。
外して、カゴに入れた。これをもうつけることはない。鮮血のような紅が、いつもよりも眩しかった。
「ほら、卒業式始まるよ!」
みんなが一斉に駆け出す。賑やかな声で部屋にいるかいこたちの心は満たされているのだろう。
わたし以外は。
ぼうっと人間さんの話を聴く。真面目に聴いても意味はないかもしれないし、あるかもしれない。それよりも集中できなかった。
彼のことを考えていたから。
今も別の部屋で、わたしと同じように話を聴いているのだろう。
彼は、わたしは、みんなは、人間さんは。
ぐるぐると頭の中で、記憶が廻っていた。
「ほら、ついに繭の中に入るんだよ!」
ドキドキしながら少しだけ切り込みを入れ、開く。
「ちゃんと縫合も忘れないでね!食べ物とかは先に入れてね!」
みんなで声掛けをしながら繭の中に入る。
旅立ちがやってきてしまった。
そっと繭を破る。
ナップサックをのろのろと中に突っ込んで、わたしも中に入った。
金色と白色が広がる。
混じり合って外からの光で輝く姿は、さながら雪解けし始めている空からの贈り物のようで、出来上がった布のようで。
わたしの未来を想像してしまう。
「ごめんね」
『僕も見つけて欲しい』
叶えられそうにないや。
ひたすら、ナップサックを抱きしめていた。
わたしの中の「大切」を抱きしめていた。
怖くないよって言ってほしかった。
とうに準備は出来ていたはずなのにな。
ナップサックは少し濡れて重くなった気がした。
風を感じた。
気がつけばあたりは部屋の光とは別種の光に包まれていて。
直感的にどこかわかってしまった。
その瞬間、落ちた。
ふわり、と。
実際よりもゆるやかにゆるやかに、落ちていった。
広げた手のひらにたしかに、風を浴びたんだ。
「またどこかで会えたらいいね」
そっと呟いた。かなり小さい声だった。
穏やかに落ちていったわたしは、言葉を紡ぐことがもうおぼつかない。熱を口に含む。きっとみんなもそうだろう。大人になれる、一部を除いて。
ああ、彼がそっちにいますように。もうここでは会えませんように。
でもいつか会えますように。
「…思い出せなくても許してね」
記憶は混ざっては分離して、わたしにあたたかなキスをしていくように、立ち去っていく。
お姉ちゃんたちとの記憶。人間さんとの記憶。友達との記憶。失敗しちゃったときの記憶。ドッキリを仕掛けた時の記憶。
それから、きみと出会ってからの記憶。
全部全部、わたしの宝物。忘れちゃうかもしれないから、わたしの|継承物《ヘリテージ》には出来ないかもしれないけど。
それでも、宝物は宝物に違いない。
(…お願い…。)
願わくば、わたしと彼が繭のその先を…|遥か彼方《ハルカカナタ》を、2人で歩めますように。
って、わたしがここにいるからもう無理か。
だからもう言わなくても、いいかな。
とろりとした視界に映ったのは、ドラマチックな筋書きを辿った糸たちだった。
大好きな、つながりの糸の色。
金色はつながりの色。
小さな|蚕《ヘブンズバグ》の、あたたかくてやさしい恋の色。
【曲パロ】イーマイナー
原曲様リンクです。好きでしょうがないです
https://m.youtube.com/watch?v=-KEQ5JydVMg
私が(裏テーマで)リンクさせた楽曲様リンク
https://sp.nicovideo.jp/watch/sm32737912?ref=user_video
Youtubeには投稿されていません。今回はニコニコでのリンクを紹介します。
きみは私に、たくさんのものをくれた。
大切な宝物も、離別の辛さも。
渡すだけ渡して、いなくなった。
持ってきたら持って帰ってよ。すてられなくなるでしょ。
かける相手はもういない。
愚痴と涙が溢れるだけ。
今日は初夏を感じるような少し暑い日だった。まだ4月である。数日前はまだぽかぽかするぐらいだったのに。
「〜〜♪〜♪♪」
ハミングしながら公園へと歩いて行く。
春は出会いの季節であり、別れの季節。人生、たくさんの人と出会う。けれども。
きっと君以外には、親友と呼べる人はいなかった。今はまだ、かもしれないけど。
もう別れの季節も過ぎ去ろうとしていたのに、突然君を思い出してしまったから。
「〜♪……。」
ふと足を止めた。桜の花はもう葉に変わっている。
君がいたころは、まだ桜が咲いていたかな?このところ、温暖化も進んでいるし。
「3年、か。」
あのことから3年も経ったのか。
フェイクニュースと混乱が入り混じった「あのこと」はよく覚えている。実際、日本には影響はなかったが、経済は混乱した。今だって物価は高い。アツレキのなごりはまだ残っている。
それでも、日常はそれなりに戻ってきた。残酷なほどに。
重いハードケースを背負い直して歩いた。
私の相棒。
日向のベンチに座って、相棒を出した。手入れはこまめにしているのでそこそこ綺麗である。
優しく、音を鳴らし始める。
基本に忠実に、ゆっくりと。音程も簡単に。
CからDへ。DからEmへ。滑るように、なめらかに愛を歌う。
「だいすきだよ」
ありふれた言葉で、ありふれた音で。
ありふれた日常を、君との日常を求めて。
簡単なコードで弾けちゃうような曲は嫌いだって言ってるなら、早く来てよ。ふらっと現れて、なんでもないように笑って、また2人で路上ライブをして。
いつものように缶コーヒーを頬に当ててよ。
その熱が懐かしい。
久しぶりに弾いた弦で、枯れた声で、震える指で、焦がれて待つ。
「勝ち逃げなんて許さないからね、|終《しゅう》ちゃん?」
あの時と同じようにチカチカと変わる信号機を横目で見つつ、まだ未練がましくギターを私は弾いていた。
君はもういないのに、今から突然愛とか友情とか、君が残した曲を弾いても何になるんだろうか。後味はちんけな缶コーヒーよりも苦く、深く、生理的な不快感があった。
私が持たないもの。君が持つもの。
私には大した才能やら何やらはなかったが、君は確かに人を惹きつける歌声を持っていた。
いつも自信満々で、ちょっと強引だった。
そんなところが大好きだった。私がそばにいられることが奇跡だった。
スマホを開く。推測変換で出てくる単語には歌、とかそういうものはもうなかった。
私が変わってしまった証。
笑えない。
せめて寒い駄洒落の一つでも思い出せれば良いのに。何も出てこない。
一人、数時間ずっとベンチに座ったまま、立ち上がれなかった。
思い出したのは、夢を語ったあの日。
赤色から黄色、青と忙しく変わる信号をぼうっと眺めている私に、彼女が声をかけた。
「よっ、マイ。」
「あちっ!」
突然ホット缶コーヒーを当てられていつものようにぶるりと震えると、終ちゃんは笑ってプルタブを開けた。
「ははっ、今日もびびってるじゃん!」
「それは終ちゃんが突然缶コーヒーを開けるからでしょ!」
ゴクゴクと熱々のコーヒーを飲み下し、終ちゃんはにかっと笑う。
その快活な笑顔が、私には似合わないほどに綺麗だった。
「ほら、今日も練習行くぞ。」
対照的に、私の顔は曇る。
「……どうしたんだよ、行くぞ?」
「私は。」
小さく呟いた声は、風にさらわれて飛んでゆく。
「私は、終ちゃんみたいに歌が得意なわけでもなんでもない。ギターだって、ちょっと弾けるってぐらいだよ?だから、私」
「そんなの関係ねぇだろ?」
さらり、と流れる髪に、しっかりとした芯を持つ声に、ばくばくと心臓が鳴るのがよく聞こえる。
「私は、マイが一緒ならどこへだって行ける。何だってできる。マイもそうだろ?」
私の意思が入りこむ隙すらないその言葉に苦笑する。
「この歌を馬鹿にしてきた奴らの目に物見せてやんだよ。だから、マイも手伝え。」
傍若無人。我儘。言いたいことはたくさんあるけど、その真摯な目の奥に満更でもなさそうな私が映ってしまった。
「もちろんだよ。」
願わくば、その先へと行きたかった。
彼女は夢を追いかけてアメリカに行った。留学した。
私は変わらず日本で、音楽大学に入って、ギターを学んでいた。
そんな私たちに、転機が訪れる。
「前代未聞、巨大隕石落下……?」
刻々と近づくタイムリミット。混乱する人々。犯罪が起き続ける街。
幸いなことに、私の住んでいる田舎町ではそこまでの混乱は起こらなかったが、それでも人々が不安になったのは事実。
終ちゃんに会いたかった。無理だと分かっていたけれど、せめて声だけでも聴きたかった。
かけた電話は繋がらない。不安で、不安で。泣きたくて。
近所のおばさんたちやお母さん、お父さんと身を寄せ合って過ごしていた。
それでも、どこか冷静だった。
終ちゃんが死ぬ日は私の死ぬ日だから。私だけ残されるなんて、そんなことないはずだった。
だから、ちょっとだけ安心できた。冷静でいられた。
そんなことない、はずだった。
朝、自分の部屋で何事もなかったように起きた私はパニックになりながらリビングに向かってテレビをつけた。
そこには。
「巨大隕石、アメリカに落下。日本は直接被害無し。」
終ちゃんだけが、もういない。
久しぶりに思い出してしまった。
息を吸って、吐いて。荒くなった息を整える。
力が抜けて、ベンチに寄りかかってしまった。
天を仰げば澄んだ青空。どんなものにも変えようがないほどの、澄んだ空。唯一無二の青。
そうだ。
もう終ちゃんはいない。終ちゃんとファミレスにはもう行けないし、テストが面倒くさいって言い合えないし、路上ライブも出来ないし、終ちゃんの家でパジャマパーティーもできない。なんにも。
私がどんなにこうすれば良かった、ああしたら良かったと考えてもその事実は変わらない。
喉に酸っぱいものが溜まったような、そんな不快感に苛まれた。
「しゅうちゃんは、しんだ。」
精一杯吐き出した言葉は、すとんと落ちていく。
今更泣いたって何も変わらない。
じゃあ、今できることは?
あの子のまっすぐな瞳に応えるためには?
私に出来ることは?
今にもバランスを崩しそうなほどふらふらと、立ち上がった。
本当なら倒れたかった。このまま何もしないでいたかった。
気分が悪かった。
それでも、立った。
自動販売機に硬貨を投入して、缶コーヒーを取り出す。
ニットの上から握る。
じわりじわりと押し寄せる熱を指で受け止めた。
もう指はかじかんでいない。
にっ、と笑う。缶コーヒーを空に向かって持ち上げる。
普段の私なら絶対に出すことのない、馬鹿でかい声で。
「生きていってやるよ、馬鹿終ちゃーん!!」
青空に反響して、吸い込まれたその音は。不満げながらもふわふわと誰かに受け止められた。気がした。
「それでは、エントリーナンバー187番、『イナバマイ』さんの演奏です。」
火照る顔を必死で落ち着けて、汗を拭う。
今、この会場は全世界へと放映中。もちろん、復興中のアメリカにも。
そう、私は今オーディション番組の最終選考を受けている。
あの後死に物狂いで音楽を勉強して、歌だって途中から始めて。今までここまで打ち込んだことない!ってぐらいに練習して。
ついに、このオーディション番組までやってこられた。
若いシンガーソングライターの登竜門。
第一回、書類選考落ち。第二回も同じく。第3回、動画選考落ち。その後も何度も落ちて落ちて、その度に諦めそうになった。
でも、諦めたら終ちゃんに示しがつかない。今まで終ちゃんに「馬鹿」なんて言ったこともなかった。だからやり遂げないと。
根性と、努力と、終ちゃんへの思い。
全部ぶつけて、絶対に受かってみせる。
ギターの絵が描かれた仕切り板越しに、息を吐いて、送って。
無音の言葉を、あなたにかける。
終ちゃん、見てるかな?私たちの青春、今届けるから。
終ちゃんが高く積み上げたものも、ちらほらと残ったものも。愚痴も今まで流した二人の涙も、全部全部私が未来まで継いでるよ。
この曲、私がアレンジしたんだ。終ちゃんとの曲。ちょっと音程は簡単になった。|Em《イーマイナー》はふんだんに使ってる。
だけど、文句言わずに見ててよね?
終ちゃん。
私の友達。
今、弦を弾く。
【曲パロ】ロウワー
原曲様に感謝です。
https://m.youtube.com/watch?v=3sEptl-psU0&pp=ygUM44Ot44Km44Ov44O8
そう、簡単な祈りだった。
「彼女の1番になりたい」
それだけだった。
パチパチと爆ぜる火花が、肌に張り付く熱が、可憐な少女が紅く紅く染まっていく姿が。私を占領していく。
広場は今、熱狂に包まれていた。
「魔女にはお似合いの末路だな」
「早く消えろ」
「卑しい女ね」
今まで愛してきた人々に心無い言葉をかけられる少女は、虚な瞳でただ1人を見つめている。
私を、見つめている。
意識した途端、私は今までの人生の中で1番の高揚感に襲われた。
ああ、やっぱ私はあの人だけを愛している。
やがて人々は去ってゆく。「魔女狩り」の現場を見たという、簡単に得られた感嘆が消え去っていく。
私たちだけが残される。
彼らの「非日常」は終わった。今からまた、彼らの緞帳は上がる。いつも通り暮らしていく。
袋から取り出して握った金の冷たさと、彼女の熱が飽和して、くらりとした。
私は微笑んだ。
誰もいない、その|狂宴《パーティー》の主役であった少女の魂すらない、静かな会場にて私は微笑んだ。
言いかけていたことが消えて、また増える。
今日も魔女様はあの男にご執心だ。
彼はただ魔女様に救ってもらっているだけだ。病を治療してもらっているだけ。私は分かっているのに。
私は、満たされない。
背中に重くのしかかる後ろめたさとともに溜まっていたゴミを捨てた。
土砂降りの雨が窓ガラスに映っている。ぽとり、とゴミは落ちた。背中の気持ち悪さは取れない。それどころかより気分は悪くなった。
重い足を動かして掃除を続けようと思って、私は声を拾う。
「ロウナ?もうそろそろ食事の時間だから戻ってきなさい!」
パッと振り返った。
きっちりと結んだ三つ編みが揺れる。
橙色の灯りの下、きらりと艶めく白髪。輝く緋の双眸。
魔女様だ。
「せっかくのお料理が冷めちゃうわ。もしあなたが食べないのなら私が全部食べるわよ?」そう言って、魔女様はお茶目にウィンクする。
「申し訳ありません。今参ります。」
小走りで駆けて魔女様の所へ行く。その健康的な白い肌が、その色彩の美麗さがより鮮明になるたびに震えるような喜びが心を満たしていく。
その度に、蝕まれる。
お前のものにしてしまえよ。お前しか見られないようにしろよ。
自己中心的な、それでいて甘美なそのささやきが聴こえた気がした。
従いたい。
それでも、その心根に絶対に従わないように、今日も澱のように淀んだ心を振り払って魔女様に接する。
きっと、明日からも。
「今日も美味しかったわね!ロウナもシチュー、好きでしょう?」
「ええ、私も好きです。今日はキノコも入っていましたね。」
にこやかに会話しながら廊下を2人で歩く。今夜の魔女様のお世話係は私だ。自然と足取りも軽やかになる。
「そうだわ。少し言いたいことがあったのよね。」
「どうされましたか?」
もしかしたら、愛の告白…なんてね。そんなことあるわけない。魔女様が私のような矮小な人間を愛することはない。身の程はわきまえている。
「私、____様を旅に連れて行きたいの。どうかしら?」
声が遠ざかって、霞んでいく。
突然地面が崩れ落ちたような、重力のことわりが壊れたような感覚。
確かに魔女様はアイツを気に入っていた。病が治ったあとも頻繁に彼の所に通っていたし、楽しげに談笑していた。
まあこの街にいるのもあと数日だ。あと数日経ったらまた救済の旅に出る。あと数日。
そう思っていた。
なぜ。
私がいるのに。
私が出来ることならなんでもするのに。
恋する乙女のような、その愛らしい表情がぼやけた視界に映った。憎いことに、その顔は一目惚れしてしまいそうなほどに美しかった。
「…ロウナ!?顔色が悪いわよ?『治療』、必要かしら?」
急いで駆け寄ってきた魔女様を私は静止する。
「大丈夫です!少し、立ちくらみがしただけなので。それよりも、その…。い、いいですよ。私は賛成です。」
そこまで言うのが精一杯だった。口角を必死に上げて、にっこりと笑った。きっと酷い顔だろう。
本当は受け止められなかった。もし受け入れたのなら、私という存在が薄れてしまう気がしたから。
持て余した|嫉妬《それ》を守るものが消えてしまう気がしたから。
そこからゆっくりと他愛もない話をしながら部屋まで歩いた。いつもは絶対に適当に魔女様と話すことなんてないのに。
何を言えばいいのか分からなくて、戸惑う。
「おはようございます。旅に同行させて頂きます、____です。よろしくお願いします。」
拍手が聞こえる。私たちの中では魔女様が絶対で、ルールで、太陽だから逆らえない。魔女様なら許してくれるだろうと分かっていても逆らえない。
だから本心を隠して拍手をしなければならないという義務感に襲われる。私もそうだった。
本当はアイツの名前すら聞きたくない。私は魔女様の名前と私の名前さえ知っていられればそれでいいのに。
今までの感じていた暖かさが遠く放たれていく。
そこからはいつも通りだった。いつも通り、魔術で行き先を決めて、そこで病に苦しんでいる村人たちを救うために村で準備をする。
いや、違う。アイツがいる。同じようで微妙に違う。
この気持ち悪い、言い表せない違和感は|何処《どこ》まで続くのだろうか。いったい、|何時《いつ》までこのままで旅をするのだろう。
私が魔女様だったら、私は私を離さないのに。
魔女様。あなたは、何を想うの?
「…やっぱりロウナ、顔色が悪いわ。」
星がきらきらとまたたく夜、そう声をかけられた。こういうところで目敏く気づくのが魔女様だ。
「そんなことはありませんよ。まあ、少し寝不足ではありますが…。」
「違うわ。あなたのその顔は、嘘をついている時の顔。」
図星だった。
「…魔女様の言う通りです。私は嘘をついていました。」
困ったような、寂しそうな顔をする魔女様。その姿を見ていられなくて、ふいと顔を逸らしてしまった。
なんであなたがそんな顔をするんですか。なんでアイツを連れて行こうとしたんですか。
言葉を無理やり飲み込んで、押し黙る。
「やっぱり、____様のことよね。ごめんなさい。村を出る前に、お断りするわね。」
そっと数秒瞳を閉じて、開いてゆっくりと微笑んだその顔は切なくも美しく、目を奪われてしまう。
「わたしには、貴女たちが居たのにね。」
自嘲するような笑みをただ見ていることしか私は出来なかった。心の奥から湧き出す、昏い喜びに浸りながら。
今いる村からは遠く離れた、それなりの街で私は生まれた。
どうやら私は生まれてすぐ捨てられたようで、物心ついたころには孤児院にいた。
決して裕福ではなかったけれど、たくさんの義兄弟に囲まれて充実した暮らしを出来ていた。
12歳の時までは。
みんな眠っていた、真夜中のことだった。
雇っていた料理人が火の始末を疎かにして、孤児院は燃えた。
なんとか十数人の義兄弟たちは先に抜け出せたようだったが、まだ中には幼い義妹、義弟や先生方、それから私がいる。
恐怖と不安で動けなくなっていた、その時。
「大丈夫!?」
最初は、天使の幻覚を見たのかと思った。
「今、火を消し止めるから。他に人は?」
「…あ、あっちに、先生やみんなが…。」
震える喉で必死に紡ぎ出した声ごと、優しく包まれる。
「大丈夫、わたしがいるからね。」
抱きしめられたと分かったのは数秒後のことだった。
水をその杖から吐き出させて火を消しとめながら、天使は通り過ぎていく。
私はその姿が忘れられなくて、ずっとそこで立ち止まっていた。
あの火事から、数日経った。
残念ながら、全員無事とまでは行かなかったが、魔女様が来てくれたことで私たちは助かった。
ふらふらと、現実味もなく街の海辺を歩いていた私を魔女様は見つけてくれた。
「…どうしたの?」
ただ俯いて、じっと立つだけの私を見て魔女様はこう呟いた。
「わたしたちが離れても、例え迷ったとしても、絶対にわたしが見つけ出してみせる。繋ぎ直してみせるから。だからもう、大丈夫よ?」
その天女のような優しい微笑みと腕の温もりの中で安らぎを感じる。
確証もないのに信じてしまう。
あなたがここに居てくれるなら。私を離さずいてくれたら。救ってくれるのなら。
私はきっと、大丈夫だ。
ふわふわするような、心臓に熱が集まり続けるような。甘酸っぱくとろける、幸せな感覚。まだ知らない感覚。
雫はとどまることを知らず、純白の髪に滴り落ちた。
呼びかけられる声で我に返る。
「ロウナ、早く準備しなよ。何ぼけっとしてるの?」
「あっ、ごめんなさい。義姉さん。」
すぐに食材の調達に戻る。
あれから、魔女様はアイツと話し合ってアイツを村に置いてきた。
平穏な日々だ。そうなのだが。
確かに、それには消耗がある。
日々強くなっていく欲。不安定になる土台。
結果的に、私はどうも変わりはない。ただ、ただ、私は魔女様を…。
自分勝手にしたいだけだ。
逃げるように隠れ家を出て見つかるポスター。
『魔女はいらない』
告げる蛍光色。
急いで八百屋に入って、一息つく。
教会は不思議な力で民を救う魔女たちを忌み嫌っている。
ついに魔女保守派の力が弱まったのをいいことに、魔女狩りを始めたのだ。
この街はあまり教会の影響力がないようだが、それでも危険に変わりはない。
幸せとは嘘で成される。そのことが強く意識された。
「綻ぶ前にこの街を出ていきましょう。2人で。」
そう、声をかけられることを私は心のどこかで願っている。都合の良い願いを、魔女様のように、あなたと同じように呟く。
「…雨、降ってきた。」
パラパラと落ちてくる冷たい雫は頬を濡らし、やがて黄色い袖の色を濃くしていく。
緩くした三つ編みから雨を滴らせながら、私はその場から動かなかった。どうせ傘は持っていない。
別の買い出しをしていた義姉さんたちも、青いお揃いの傘を差して、あるいは傘に入れられて急いでどこかに向かう。
私はひたすらその姿を見つめる。私だけがどこにもいないような。ぼうっと演劇を見つめているような。
そんな私の瞳に、突然鮮烈な赤が加わった。
「…今日は向こうのホールで舞踏会があるらしいわよ?」
「舞踏会?」
赤色の傘を持って舞うように私の前に現れた魔女様は、歌うようにそう言う。
「ええ。雨宿りがてら、踊りましょう?」
その傘も魔女帽も投げ捨てて、私の手を取った。
「魔女様!?風邪を引いてしまいますよ!」
「ロウナと一緒に風邪を引けるのなら!」
靴で水たまりを蹴り飛ばしながら、満面の笑みで走り出す魔女様に苦笑しつつ、心が柔らかくなった気がした。
優雅なリズムに合わせてくるりと舞う。
その濡れた純白の服は私の濡れたメイド服なんかとは比べようがないほど輝いていた。
「私でいいのですか?」
と何度訊いたことだろう。それでも魔女様は一緒に踊ることを許してくれた。
たどたどしい足取りで懸命に踊る。魔女様に似合うように。
すると突然、優雅なメロディーは陽気なものに変わる。
「わたしたちがこれ以上ないほどに疲れたら、その度に逃げ出せば良いの。何度でも。」
蝶のようにふわりと洗練された動きで舞いながら、無邪気な微笑みを見せる魔女様に影響されて、私もつい笑顔になってしまう。
私は魔女様のこういうところに惚れたのだ。
やっと分かった。あの時の感覚は、崇拝ではなく恋だったのだ。
今はただこの時間が続くように、貪るように踊ろう。
私の中にいる魔物から心を奪われないように守るために。
私の愛する魔女様を守るために。
互いに預けて、託す。
あの時の決意は、簡単に壊れた。
最初は単なる金欠だった。
魔女様が活動できる場所はこの国の中ではごく僅かで、隣国に行くにはその分の渡航費が必要で、日々の生活費でもう金はなくなって。
今まで村人たちからもらった金ももう底をついていた。
魔女様と喧嘩して泣いて、怒って、他愛もないことで笑い合って。舞踏会で歌って踊って、夕食を食べながらゆっくり話す。
そんな些細な幸せが壊れるのが怖くて怖くてしょうがなかった。
だから、つい従ってしまった。今まで守って隠してきた本心に。
「神官たちに魔女を見つけたと言って魔女様を突き出すフリをしろ。金だけ奪え。すぐに逃げればバレない。」
そう思って神官に告げた。
でも、心の奥底ではこう思ってたんだ。
もう一緒に暮らせないのなら、私の存在を刻みつけてから、私の手で…。
なんで、簡単なことも分からなかったんだろう。
なんで、私は幸せを、守りたかった人を自分で壊したんだろう。
「ロウナ、嘘でしょう?その本は、魔女狩りの…。」
「嘘ではありませんよ。私が全てやりました。ねぇ、魔女様。私はおかしいでしょうか。私は間違えましたか?」
魔女様は瞳を揺らしながら私を見つめている。
ねぇ、間違えたって言ってよ。私のことをせめて罵ってほしい。何も言わないのはやめてよ。
「魔女、リリィ・ソルシエールを捕縛する!」
神官は縄で魔女様を拘束する。魔女様も火魔法で対抗するが、人数利が教会側にあるためすぐに捕まってしまった。
その炎が、服に飛び火する。
「!ロウナ!」
その炎が痛く、熱く、そしてこの空気に耐えきれず、私は逃げる。
「はははっ。あははははっ!」
暗い森の中、私は行くあてもなく走る。
魔法の炎はまだ、消えない。
何時間動き回っただろうか。
まさに足が棒になったような感覚。つい倒れてしまった。
「…いったい、|何時《いつ》までこのままで旅をするのだろう。」
|アイツが入ってこようとした時《あの時》と同じように呟く。
処刑は神官によると明日の午前中には行うようだった。大魔女であった魔女様は早めに始末しなくては、と言っていた。
今から戻って間に合うだろうか?
いや。
「戻らなくちゃ。」
絶対に。
私が私の幸せに、1番大切な人に、別れを告げるために。
ああ、私はこれから起こることをきっと何度も思い出すのだろう。
この風を切る感覚を、ぴりぴりとひりつく空気を、私は脳に刻みつけるように、走る。
開けた広場についに出た。もうそこには魔女様が神官たちに繋がれて立っていた。
「あの!最後に一つだけ、やりたいことがあって。」
ぜぇぜぇと息を吐きながら必死に声を張り上げる。
「……まあ、魔女狩りに協力したあなたの願いなら。」
「魔女様と踊りたいです。」
カッと目を見開き、ゆっくりと神官は言った。
その瞳に小さな同情を宿らせて。
「……いいだろう。一曲だけだぞ。」
そう言って鎖を解かれた魔女様。綺麗だったその手には痛々しい何かの痕がある。
「……また繋げ直してみせますよ。何度でも。」
いつかのセリフで、魔女様と同じように呟く。
「始めましょう。」
私たちだけが踊る、舞踏会を。
観客たちがじっとこちらを見つめる中、無音の中、メロディーを口ずさんで踊る。泣きながら踊る。私が泣く資格なんてないのに。
ただ何も言わず、手首を掴まれてされるがままの魔女様…いや、もうただの女性なのかもしれない…はこちらを空虚に見つめてくる。
「魔女様が魔女様でなくなっても、私は大好きです。リリィ様。だから私を元に戻してください。正しくしてください。あなたに出会う前の私に…。」
大笑いして、立ち止まる。曲は終わった。
最低のエピローグが始まる。
風に舞った魔女帽を拾い上げて、被る。
その白はくすみ、ところどころ焦げていた。
もう何も無い。
大切な人も、私の恋も、あの大切な日々も。
今更義姉さんたちのところには行けないし。
ふらふらとどこだって行こう。うん、そうしよう。
そうでもしないと私はどうにかなってしまう気がした。
それはそれでいいかもしれないけど。
そっと彼女がかつて居た場所に向かってお辞儀をした。焦げた匂いが鼻腔に入っていく。
「大好きですよ。」
あなたがここに居なくても。
さよなら。
【曲パロ】くろうばあないと
作ると宣言してからすごーく時間が経ってしまいました。ごめんなさいm(_ _)m
それはもう素晴らしい原曲様のリンクです!
https://m.youtube.com/watch?v=iFo-ie2lJvg&pp=ygUY44GP44KN44GG44Gw44GC44Gq44GE44Go
「私たちがこの星に生まれ落ちた最初の日から、|ただの炭素になるその日《死ぬ》まで。……この表現文学みたいで素敵よね?ああ、話が逸れたわ。ごめんね?全部、運命だと思うの。私たちが両想いになったのも、私が|人を殺しちゃった《・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・》のも、ぜーんぶ運命!だからさ、きっとあいつらからは逃げられるよ。これも運命だと思うから。そんな顔しないでよ。私のことを守るのも|内藤《ないとう》くんの運命なんだからさ。ね?」
夕暮れ時、|四葉《よつば》さんは住宅街を歩きながらそう言った。べっとりと直視したくもないものがついたナイフをついさっきまで持っていたその手をひらひらとふって、にっこりと笑いながら。
わけがわからない。
俺がこうなってしまったことも、四葉さんによると「運命」らしい。理不尽だ。
回らない頭で、俺はゆっくりと今日のことを思い出し始めた。
ただの頼み事だった。
「おい、内藤。この手紙を四葉に届けてくれないか?お前、四葉の家に近いだろ。」
「は、はぁ……。いいですよ。」
「おっ。じゃあよろしく頼むな。」
そう言って先生は職員室へ戻って行った。手渡された宿題プリントをじっと見つめる。提出期限はそこまで近くないがかなりの量があった。まあ、あの四葉さんなら俺たちの何倍ものスピードで完璧に終わらせてくるだろうが。
四葉みどり。県内有数の進学校であるこの学校の学年トップに君臨する頭脳の持ち主である。
メガネをかけた地味な装い、昼休みでも放課後でも大体図書室にいる。優等生。文学少女。この学年の生徒にそう言うとほとんどの人が彼女のことかと考えるだろう。
そして、四葉さんは3日ほど前から休みだ。彼女の親は学校に姿を現したこともなく、連絡をしたことも一度もない。そのため、彼女自身が毎回休みの連絡を入れるのだが、この3日間は全くその連絡すらないのだ。優等生な彼女が。
何かあったのだろうか。そう考えた先生は生徒に四葉さんの家に行かせようとしているのだ。心配だからといって自分が行くのは嫌だ。何せ、四葉さんの家はここから辺鄙なところにあるのだ。俺は学級委員であり、彼女の家に近い。まさにうってつけの存在だった。
仕方ない。テスト前だから早く帰って勉強したいが先生からの評価は内申にも関わってくる。俺はいい大学に入らないといけない。だから、我慢しなくては。
電車の中で単語帳をめくりながらぼうっとアナウンスを聴き、いつもより遠い駅で降りる。
閑静な住宅街に四葉さんの家はぽつんとあった。
緑色のカーテンが窓の向こうに映っている。
それはまるで他の人間の侵入をかたくなに拒んでいるように、少しの隙間もなく窓の向こうで微動だにしないでいた。
「四葉」と書かれた表札をしっかり確認して、俺はインターホンを鳴らした。
聴き馴染んだ電子音が響く。
応答はない。
「どうするか。」
ポストの中にプリントを突っ込もうか。
しかしこれはかなり大事なプリント。ポストに突っ込むのは少し心許ない。
その時、四葉さんの家の中から大きめの音がなった。
まさか、居留守でも使っているのだろうか。
「……少しだけ。」
ドアを引っ張ってみる。
すると驚くほど簡単にドアは開いた。鍵はかかっていなかったようだ。
「お、お邪魔しまーす。」
好奇心に負けてしまい中に入る。
四葉さんのことが好きな友人のためにも、潜入調査を……。
俺は浮かれていた。好奇心は猫をも殺すんだ。まともな判断をしていれば、こんなことにはならなかったのに。
「こんにちは、内藤さん。人の家に勝手に入るとは……さすがに良くないですよ?相手が私だったから大丈夫でしたけど、次からは気をつけてくださいね?」
にこやかに、饒舌に話しかけてきた四葉さんの頬には赤いものが付いていた。
むせ返るような鉄の匂いが広がる。
「……どうかしましたか?」
「……どうかしましたか?じゃないだろ。何なんだよこれは!」
眼下はまさに赤。フローリングの床の上に敷かれたブルーシートの上には、もう動かなくなったであろうクラスメートの姿がそこにあった。
彼女はクラスカーストの頂点に君臨する女であり、四葉さんの幼馴染である。
「なんで彼女が、」
「私が殺したんです。」
さも当然のように、あっけらかんと彼女は言った。
まるで冷蔵庫のプリンを間違えて食べてしまったことを告白するように、あっさりと。
「邪魔だったんです。だから、しょうがない。運命ですもの。」
ペンを回すようにナイフをぐるぐると回していた彼女はぴたりと動きを止める。
そして俺に近づき、ごく自然な動きで俺の手にナイフを握らせた。
「ねぇ、それよりも……テストが近いこと、知ってますよね?」
「……は?」
予想外のことを言われて戸惑う。
「真面目でいないと、あなたは困る。だって大学入学がかかってるんですから。大学に入学して、いい仕事に就かないとお母様と妹さんを養えない。そうでしょう?」
「……っ!」
なぜそれを知っているんだ。俺とあなたはただのクラスメートだ。
「お母様は寝たきり、妹さんはまだ4歳ですからね。こうしましょう。私は自首してもいいです。でも、あなたを共犯者として絶対に道連れにします。私はこの通り、手袋をはめている。あなたは今、素手であの人を殺したナイフを握った。はい、共犯者の出来上がりですね!」
スキップしながら歌うように続きを彼女は言う。
「だから、黙っているのが得策ですよ?処理は自分で出来ますし……いざというときに、内藤くん。あなたに守って欲しいんです。私たちは一連托生ですよ!」
俺の前に立ち、祈るようなポーズでこちらをじっと見つめる。深緑色の瞳の奥は、異様なほど澄み切っていた。
「こ、こんなの」
理不尽に決まってる。
でも、ナイフも自分の弱みも握られた俺には、選択権はないようなものだった。
「……分かった。何も言わないから、どうか、自首しないでくれ。」
「……じゃあこれからは敬語じゃなくていいか。改めてよろしくね!内藤くん……いや、|私の騎士《くろうばあないと》さま!」
毒を食らうば皿まで。
好奇心は身体を蝕み、やがて毒だけでなく罪も異常なほどの愛も食らうはめになってしまった。
騎士という名の、縛られた立場に俺はなってしまったんだ。
「私を絶対に、守ってね?」
少し肩が重い。疲労がたまっているのだろうか。
それもそうか。何せアイツに付き合わされて処理を手伝わされていたのだから。ちくしょう、何がデートだよ。人気スポットである花畑に行ったとて、俺にとってはただの気持ち悪い出来事でしかないんだ。
こんなことを考えるのはやめだ。
期末テストの振り返りが待っている。
アイツのせいでよく眠れなかった。だから今回のテストは点が下がった。
そうだよな?
頭の中を無理やり勉強モードに切り替えて、数学のノートを取り出す。
いつもはすっと勉強の世界に入り込めるのに、なぜだか今日は違和感を感じてうまく取り組めなかった。
いや、「今日も」か。
「ねぇ、守くん。最近なんか目のくまがひどいよ?ちゃんと眠れてる?」
いつのまにかタメ口で話しかけるようになった四葉さん。今ではもう周りの視線を気にすることもなく俺に近づいてくる。今だって手を繋がされているのだ。
俺と付き合っていることを隠そうともしない。寧ろ見せている。俺は彼女と付き合った記憶はないのに!
「……眠れてないに決まってるだろ。」
だって、あんなことが……。
「そっかぁ。あっ!じゃあ、今度デートしようよ!」
いつもしてる(と思い込んでいる)だろ、という言葉を飲み込む。
四葉さんに逆らったら何が起こるか分からない。例えば、四葉さんが自首したり、もしくは俺のことを殺してくるかもしれない。四葉次第なのだ。
だから、俺は逆らえない。
「えへへ……いつも守ってもらってるから、これはそのお礼?というかなんというか!大好きだよ!守くん!」
「あ、ああ。」
「まあ、疲れた守くんもそれはそれでイケメンだし、私を守るっていう誓いな気もするし?それはそれでいいんだけどね!」
ピクピクと動いてしまう口元を必死に我慢した。
颯爽と自分の席に戻っていく四葉さんの後ろ姿を見たときにはもう倒れ込みそうなほどの疲れが襲ってきた。
早く授業が始まって欲しい。
「もう、むかえにきてよ。くろうばあないとさまったら、しょうがないんだから。ほら帰ろう、守くん!」
ガシッと、その細い腕から想像もできないぐらいの強い力で掴まれる。
「わ、分かった。分かったから離してくれ!」
くろうばあないととかいうふざけた名前で呼ぶな。
でも下手なことは言えないので我慢した。
「えーっ。守くん、恥ずかしがり屋なんだね!やっぱりかっこいいけど可愛い!」
あはは、と笑ったあとに周りが凍ってしまいそうなほどの冷たい視線でこちらを見てくる。
「そういえば……最近、華ちゃんの捜査網が処理した場所にも近づいてきてるんだよね。多分大丈夫だとは思うけど、守くんも注意してね?」
痺れるようなその空気。
「頭が良い守くんなら、自首なんてしないって私は信じてるからね。」
「わ、分かってるよ。」
「絶対、逃げ切ろう。守くんもそう思ってるよね?」
虚に澄み切った瞳。
焦る。汗の滲んだ手は動かなかった。
「……なんで、手を取ってくれないの?」
「私を守ってよ。」
そのあともクレープ屋や書店に付き合わされて気がつけばもう夜だった。
妹を迎えに行って、母さんたちの食事を用意して……。
あの日、アイツの家にさえ入らなければ。
何度そう思ったことか。
アイツの家にさえ入らなければ。
アイツさえいなければ。
アイツさえ。アイツさえ。
殺してしまえれば。
人間のブレーキは案外簡単に壊れるんだな。
俺はあの日、四葉さんについて行って処理の片棒を担ぐことになった。
だから、あの日から俺はもう人を殺せるようになっていた。
彼女にお家デートだとか適当なことをほざいて、無理やり家に入って、隠し持っていたナイフで彼女の心臓あたりを刺した。
赤が彼女の黒い制服を染めていく。
「……。」
ゆっくりと胸元を彼女は見つめて、目を見開いた。
そして。
「……あはっ。あはは。あははははは!」
笑った。
何が起こったのか理解出来なかった。
「ぽかーんとしてる!そりゃあそうだよね!だってだって、刺した相手が差し返してきたんだもの!詰めが甘いのよね、くろうばあないとさまって。バレバレよ。バレバレだったもの!あはははははははははは!」
やっと分かった。
いつのまにか鈍い熱を持った心臓。
「ありがとう!ありがとう!私の作品を完璧にしてくれてありがとう!」
意識は途切れた。
「嗚呼、よくできました!」
もう動かなくなった。完全に死んでいる。
ブルーシートは流石に敷いていない。だって敷いたらバレるもの。
本当、馬鹿よね。
人のために……家族のために人を殺すなんて。
私の身代わりになることを強制されて足掻いて、結局死んじゃうし。
私の恋する乙女の演技にはすぐ騙されちゃうし。
それに、私の心臓の位置はここじゃない。ちゃんとそういうのはリサーチしてからじゃないとダメじゃない。
やっぱり愚かね、くろうばあないとさまは。
「まぁ、これもこれで良い文学なんですけどねっ!」
階段を2個飛ばしで駆け上がる。
早く書きたい。早く続きが書きたいの。
自室のドアをこじ開けて、乱雑に積み重なった原稿用紙にひたすらシャーペンを走らせる。
「出来た……本当に出来ちゃった。」
間違いなく、私の最高傑作。
今までの小説じゃ足りなかった「何か」がこれにはある。
経験?熱意?そういうものがまるごとぎゅっと凝縮された「何か」。
「さてと、仕上げに移らなきゃね。」
この作品の本当の良さは、実話であり日記であるところなんだから。
四つ折りの、手作りのこの日記に明日、何かが書かれることはないだろう。
今日で最後。
先の無いページは透ける。
夕暮れの光に照らされてとても美しかった。
「日記も完成!あとは……。」
これを本当の実話にするだけ。
「あなたには感謝しかないわ。あなたがいなかったら、今この作品は出来上がってないもの。」
血が出ているのがバレないように、パーカーを羽織る。
一階に降りた。リビングでぐったりと倒れている彼にそっとキスをする。
「本当に賢いお馬鹿さんね、あなたは。偉いわ。あなたを殺さなくて良かった。こっちの方が、良い文学が出来たもの。」
勝手に私を真面目な文学少女だと思い込んでくれてありがとう。
殺意を抱いてくれてありがとう。
それから私を裏でいじめてきた幼馴染ちゃん。
私のことをいじめてくれてありがとう。
私に殺意を抱かせてくれてありがとう。
流されて生きてきた私でも、ここまで出来るのだと教えてくれてありがとう。
ここで逃げてもいいと思わせてくれてありがとう。
背中を押してくれてありがとう。
そんなことを考えているうちにもう交通量の多い、私が考える舞台の中で1番良い道路まで着いてしまった。
あっという間、だった。
家は荒らして、ドアも全開にしてきた。死体に気づかれるのも、私の最高傑作が誰かに読まれるのも時間の問題だろう。楽しみでしょうがない。まぁ、私が称賛を生きて浴びることはないだろうけど!別にいいのだ。私はこんなに素敵な文学を知ることができたのだから。
ここの信号は赤信号がとても長い。渡り切れやしない赤信号に向かって、青になる前に踏み込む。
私が思い描くあの最高傑作のヒロインの顔をして、笑顔でつぶやいた。
こういうのも案外悪くない。最高の……
「文学ですね。」
【曲パロ】ポプリさん
原曲様です
言葉選びのセンスが狂おしいくらいに好きです
https://m.youtube.com/watch?v=I1kPD4gHMaw&pp=ygUP44Od44OX44Oq44GV44KT
渋谷、日曜の交差点。
酷く混み合い、それでいて蒸し暑い交差点を彼女は歩いていく。
僕は彼女を見つめていた。ずっと、ずっと。
何処へ行くのだろうか。最近、彼女は服屋に行くのが好きみたいだった。それとも本屋だろうか?彼女が敬愛する作家の新作が店頭に並んでいたはずだ。
すれ違った後、僕は振り返って彼女を追いかける。
彼女は予想通り、本屋に向かった。何を買うのだろうか。金は渡してある。好きなものを買えば良い。不適切な本を買ったならば取り上げるだけだ。
適当な週刊誌を立ち読みするふりをしながら、横目で見つめる。ふわりと甘いローズの香りにくらりとする。
やっぱり君はとても、とても綺麗だ。世界中の女たちよりも、ずっと。
しばらくして彼女は、ネットで話題の本と好きな作者の本を買った。
あの本は最近の10代女性に人気の本だった。確か、恋愛小説だ。
良いだろう。僕との未来のためにも、恋愛の機微は学んでおいて損はない。
優雅な足取りで喫茶店へと入っていく彼女。僕もしばらくして入った。大きい店舗だし、変装もしてあるからバレないだろう。
喫茶店の話しかけられない遠い席にわざと座った。
確かあの時もこうだった。僕は変わっていないのだな、とつくづく思う。
喜ばしいことだ。
温かいコーヒーを一杯注文し、ちまちまと喉に通す。
ぱたり、と栞を挟む音が響いた。
暖かみのある木の机に本は置かれる。
少しだけネットでは人気な本だったようだが、彼女は途中で飽きたようだ。
彼女のような高尚な趣味を持つ人間には理解できなくても良い。所詮は有象無象の好む本だ。
やはり君に釣り合うのは僕だけだ。僕は君のことをどうしようもないくらい愛しているし、人並み……いやそれ以上のセンスだって持っている。金だってある。容姿もそれなりだ。
僕だって君しか瞳には映していない。
甘い花の香りを添えて揺れるスカートも、躍るように美しく歩く白く艶やかな細い脚も、君そのものだ。我ながら完璧である。
飲み終わったコーヒーの容器にはまだ熱が残っていた。僕の気持ちと同じように。
「ただいま戻りました。」
「おかえり。」
何事もなかったかのように家に先に帰り、フライパンを洗う。彼女は疑問を持つこともなく席についた。
「今日も腕によりをかけて作ったからな。」
「ありがとうございます。」
上品な所作で椅子に座る。僕も適当にフライパンを置いて、彼女の真正面に座った。
「今日はどうだった?」
「とても有意義な休日を過ごすことができました。」
「それは良かった。」
所作や容姿は完璧だ。しかし、少しコミュニケーションに問題があるようだ。改良が必要だな。
「……あの。」
「どうかしたのかい?」
しばらく無言で食事をしていた僕たちだが、彼女から話しかけられた。彼女から、とは珍しいな。会話部分の学習が進んでいるのだろうか。
「私、来週大学のサークルのみなさんとお食事に行きたくて、それ」
「駄目だと言っただろう!」
叩きつけられたフォークが叫ぶ。彼女は怯えたようにびくりと震えた。
「……お食事、ではなく飲み会だろう。そんな低俗なものなど行かなくていい。それよりも今度予約したフレンチレストランの方がずっといいぞ。」
「ですが」
「分かった。もういい。」
僕は立ち上がって彼女の背中あたりにあるボタンを押した。
「それは……。」
彼女は沈黙した。
綺麗な、黒曜石のようなその瞳はまばたきすることもできぬまま呆けたように開かれている。
今回も駄目だった。といっても、今までに比べてかなり持った方ではあったが。
……問題箇所のデータだけ消去すれば問題はないだろう。このようなやり方はあまりやったことがないが、きっとなんとかなる。
てきぱきと彼女のデータを消去するための準備を進めつつ、僕はつい口にしてしまった。
かねてからの思いを。
「……産まれてくる前の方が君は、綺麗だったのかもしれない。」
ねぇ、ポプリさん。彼女の生まれ変わり、ポプリさん。僕自ら作り上げた、大切な大切なポプリさん。
彼女に話しかけても、返答は返ってこなかった。
「おはようございます。」
「おはよう。」
データ整理は……大丈夫だったようだ。無事、問題箇所だけを削除できた。システムに異常はなし。今日もいつも通りの朝がやってくる。
ダージリンティーを淹れてもらい、彼女の姿を眺める。
昨日の出来事なんてなかったかのように彼女は振る舞う。実際に彼女は「昨日」を覚えていない。
平穏は保たれた。
あの出来事から数日経って、彼女に「エラー」が見つかった。
やはり大学の誰かに特別な情を抱いているようだった。
それが友情なのか、恋慕の情なのか、現在大学に通っていない僕には分からない。
どちらだとしても、エラーはエラーだ。僕だけを見てくれればいいのに。
君だけじゃなくてポプリさんまで、また僕を裏切るんだね。
僕を誤魔化すために彼女は一つ前のバスに乗った。そこには1人の男性が立っている。
彼を見つけた途端に、顔を変える彼女。
「__さん。おはようございます!」
こちらに気づく様子もなく、話に花を咲かせる。
苦しくてもう、息も吸えない。霧の中に包まれているようだ。
「ちくしょう。」
そう小さく呟いてラムネを噛み砕く。
砂糖の味が口いっぱいに広がった。今は、この人工的な甘ったるさに酔いしれていたかった。
その笑みも、指の形も、輪郭も全部全部僕が追い求める「彼女」とおんなじ形だった。
僕が作ったんだから、当たり前だけどね。
本当なら、君は僕の手の中で優しく笑ってくれていたはずなのに。今も。
どこが駄目だったんだろうか?一流、という肩書きがぴったりな僕の家と、地元の名家の娘だった君。
大好きなのに。
君も大好きだと思っていたのに。
どうして、君はどこの馬の骨とも分からない男と駆け落ちなんて馬鹿なことをしたんだ?
どうして?
「……え?」
その声で引き戻された。
なぜ?なぜ、君がここにいる?
そこにいたのは思い続けてきた人。
変わり果てている、思い続けてきた人。
なめらかな焦げ茶色だった髪は真っ黄色になっていた。
声は絶対に彼女だった。この僕が言うんだから、絶対だ。
「なんで、私が……はぁ?」
ポプリと彼女は視線を交わす。
「あの、私は何か……。」
あたりを見渡して、彼女は僕に気づく。
「あなた……!?」
ぱちりと降車ボタンを彼女は押した。能天気なアナウンスが流れる。
そして、僕の前に立った。
「来て。」
おとなしくついていくことにした。
僕の腕を掴む力は強い。転びそうになりながら座席からドアへと歩く。
「先輩、ごめんなさい!」
ポプリは相変わらず先輩、と呼んだ男を見ている。そんなに好きな男なのだろうか。
「で、この子は誰なの?」
鋭い視線を浴びたポプリは気まずそうにうつむいた。
「ポプリ。ポプリさんだ。」
「そういうことじゃない。……質問を変えるわ。この子は何なの?」
「君だよ。」
堂々と胸を張って僕は言った。
「君と過ごせなかった大学時代を取り戻すために僕が作った。君は間違っていたから。君が好きだったから。」
「……。」
目を大きく見開いて、彼女はそこに立ちつくしていた。
「今からでもいい。帰ってきて欲しいんだ。ちゃんと間違いを認めて、もう一度やりなおした」
「ふざけるな」
地を這うような、重い声。
「私は私なの。私は、あのクソ親父やあなたの操り人形じゃない。私はあなたの所有物なんかもうないの!」
意味が分からなかった。
「ねぇ、|華《はな》?君は僕の隣で、笑っていれば良かったんだ。無理に飛び立つことはなかった。そうだろう?」
「違う!私は決めたの。やりたいことをやって、自由に生きるって決めたの。私はそんなに綺麗な女じゃない。そんな風にいられない。」
「でも……。」
その先の言葉が出てこなかった。
君が好きなんだ。
ただ、君に戻ってきて欲しかった。君との生活がしてみたかった。
それだけなのに。
僕は、君のことをずっと愛していたのに。
「私を、この子をもう縛らないで。」
「あなたは私が好きなんじゃない。理想の私が好きなの。私のことなんかこれっぽちも見てない。」
「あなたとはもう終わったんです。それでは、失礼しました。」
去って行く後ろ姿を静かに見送っていた。
朝の小さなバス停を、犬に急かされた中年の女が通り過ぎて行く。
自らの出自を知って、彼女はフリーズしていた。
「……華。」
その名前を呼ぶ。
彼女はもう、僕の許嫁でもなんでもなかった。
幸せな母親であり、大人気歌手。
それが今の彼女の肩書き。
ずっと分かっていた。
華はもう、僕の彼女ではないことを。
「華。」
清楚な彼女。ピーチクパーチクうるさく、いかにもIQが低そうな、街の女とは違う。
丁寧で、誰に対しても礼儀正しくて、テストはいつも高得点で。
歴史ある女学校に通って、いろいろな稽古を積んで。
おはようございますって、僕にいつも笑いかけてくれた、華。
パッとしなかった僕を見つけてくれた、華。
何もかもが違った。
僕の世界はかつて、彼女が占領していた。
じゃあ、今は?今は、いったい?
「は、な。」
その名前をまた呼んだ。
唇はみっともなく震える。
僕が愛している「君」は、いったい誰なんだ?
ようやく動くことができた。
「ポプリ。」
その肩に手を置くと、ポプリはびくりと肩を揺らして、怯えた様子でこちらを見つめた。
「なん、でしょう。」
その肩は柔らかく、中には鋼鉄が入っているとしても機械であるとは一見分からない。
「もうやめだ。」
「……え?」
彼女と僕は決別した。
もとから、彼女はそうだったのかもしれない。
住む世界が違うんだ。
鉄の板切れで機械を作ったところで、彼女に似合うであろう花の香水をつけたところで。
いずれメイクは剥がれ落ちるし、香りはしなくなる。
会いに行けるわけがなかったんだ。
そもそも、どこにもいなかったけれど。
「大学の授業には、タクシーを使えばまだ間に合うさ。これはその代金だ。それから、飲み会にも行くといい。彼との仲が深まるといいな。」
「……は、はい!」
ちょうど信号待ちしていた、緑色のランプを掲げるタクシーへと、ぱたぱたと走っていった。
姿は車の中に吸い込まれた。すぐに見えなくなる。
「……産まれてくる前の方が君は、綺麗だったのかもしれない、か。」
いつかの言葉を思い出した。
歌手として大成していた彼女。自分の力で栄光を掴んだからこそ、僕はポプリを作ったのかもしれない。
嫉妬だろうか。
産まれていた、もう変わっていた彼女とこの子は違うんだって、言いたかったのかもしれない。
「綺麗とかそうじゃないとか、そういうのは関係ないのかな。分からないよ。」
解けない宿題に延々と立ち向かっていた、あのころを思い出した。
落第寸前な僕に、笑い返して勉強を教えてくれた彼女とはもう会うことはない。
これから、ポプリとどう付き合っていけばいいのかも分からない。
目まぐるしく変わって行く世界で、僕は何がしたいのかも分からない。
「帰ってきたらポプリに、あの本が残っているか訊いてみよう。あとは……駅前に、美味しいスイーツショップがあったらしいな。買おう。」
何がしたいのかわからないなら、まずは見つけに行く。
身近なものを知ろうとすれば、何か分かるだろうか?
「プログラムの改良もしないとだ。」
意外と忙しいな、と苦笑しつつ僕は駅前へと歩き出す。
どこからか香る、優しいローズの香りが心地良かった。
【曲パロ】水死体にもどらないで
大好きな原曲様リンクです。
https://sp.nicovideo.jp/watch/sm34318335
それは突然だった。
いつものように、社会の歯車としてきびきび働いて、ぎゅうぎゅうに押しつぶされて、そして家に帰ってきたぼく。
仕事はやってもやっても追加され、結局朝帰り。明日は休日だからとはいえ、きついものはきつい。
肩の疲労がきつくて、靴を乱暴に脱いで手も洗わずにソファーにぼくは寝転がろうとした。でも出来なかった。
そこに、人魚がいたから。
人魚。またの名をセイレーン。あの、人の上半身に魚の下半身を持つ、人魚。
紛れもなくそうだった。鮮やかな桃色のうろこがついたひれ。白くてぶかぶかなTシャツを着ているところは、人魚姫の絵本とは違うけれど……とにかく人魚は人魚だ。
顔は見えない。ひれと同じ、鮮やかな桃色の髪だけは見えた。
「……。」
ゴクリと唾を嚥下して、ぼくはそっと、その顔を覗き込む。その時、人魚もこちらの方を見た。視線が交わされる。
時が止まったように思えた。
こっちを見ないでくれと懇願したくなるくらいだった。
だって、その顔をぼくはよく知っていたから。
これは夢なのだろうか。それとも何かの呪いなのだろうか?
思い出せばつんとした鼻の痛みと潮の香り、そして耐え難い悲しみが襲いかかってくる。
きみだった。
人魚は間違いなく、今年の暑い暑い夏に茹だった、ぼくの恋人だった。
温和で可愛い女性だった。大学のゼミで一緒になって、会うたびにどんどん惹かれていって、気づけばもう夢中だった。
ライバルももちろんたくさんいたけど、頑張ってアピールして、デートにも誘った。思い切って告白もしてみた。彼女がOKしてくれて、ぼくがどんなに調子に乗ったことか。
しばらくして、ぼくたちは大学を卒業した。就職しても、ぼくたちはずっと付き合っていた。毎日がとても充実していて、彼女の顔を見るだけで仕事の疲れも吹き飛んだ。
きみと泳ぎに行った日のことはよく覚えている。
今年の夏のある日、彼女は誕生日を迎えた。誕生日のデートは海がいいと言っていた。海やプールが好きで、去年もその前も何回か海やプールには行っていた。今回もいつも通り、県内の海水浴場に行くことにした。いつも通り、になるはずだった。
「ビニールボール、落としてきちゃったから探してくるね!」
その声に返事をしつつ、ぼくは昼食を買いに行くことにした。
行列からようやく解放されたので、あたりを見渡した。彼女の姿は近くには見当たらない。荷物を置いていたベンチに買ってきた焼きそばとかき氷を置いて、ぼくは彼女を探すことにした。言いようのない不安が胸に広がっていく。
しばらくして、僕は青い海の向こうに彼女の姿を見つけた。白く細い腕が助けを求めるように水飛沫を散らしていた。
目の前が真っ暗になるとはこのことなんだな。
すぐに海に飛び込んだ。白いあぶくが視界を遮る。泳いで泳いで泳いで、ようやく手を掴んだと思った。
その先はなかった。ただの錯覚だった。
こうしている間に、彼女はより遠くに流されていく。
早く助けなければいけないのに、ぼくの視界にはもう彼女はいない。
青い闇に沈んでいくきみの姿さえ見逃してしまったんだ。
「兄ちゃん、何やってるんだ!」
近くの海水浴客にぼくは助け出された。
「彼女が、恋人が溺れて!」
すぐに救命活動は行われた。懸命な治療も行われた。
でも、長時間溺れて大きなダメージを受けた彼女の体は持たなかった。そのまま、搬送されて数時間後に彼女は亡くなった。
焦って泳がずにすぐに救急隊を呼んでいれば。
もっと早く彼女がいないことに気づいていれば。
ビニールボールなんて持って行かなければ。
ぼくが探しに行っていれば。
海なんて行かなければ。
ぼくが身代わりになっていれば。
役目を失った婚約指輪は、ずっとずっと戻らない恋人を待っている。
全部ぼくの責任なんだ。
だから、たとえこれが彼女の呪いだったとしても文句は言えないのに。
流石に、いくら神様でもこんな仕打ちはあんまりじゃないかと思ってしまう。
朝起きてもセイレーンはそこにいた。夏祭りの時、2人で作ったフォトフレームを持っていた。中に入っている写真は、海に入る前に普段着で撮った写真。いつのまにかなくしてしまった、彼女との最後の写真だった。ずっと探していた。
ぱっちりとした綺麗な瞳は、凪いだ海を思わせるように穏やかだった。ただひたすらに、笑顔でこちらをみている。無言だった。
だんだんと息が詰まってくる。
ゆっくりと、ひざを床につけた。
そっと人魚に触れようとして、辞めた。
ぼくが触ったら、もしかしたら呪いは解けてしまうかもしれない。
きみがただの水死体に戻ってしまえば、彼女もこの写真も海に戻ってしまう。濡れて、ただの紙になって、波に攫われ消えてしまう。
臆病なぼくは、そんな選択をすることなんてできなかった。
「ぼくをいつか食べてくれませんか」
返答はない。
セイレーンは人間を食べると言われている。もしかすると、セイレーンになったきみも人間を食べるのかもしれない。
いつかぼくが彼女に食べられたとしても、それでいい気がした。それが彼女に対する贖罪になるなら、喜んでぼくは受け入れよう。
返事をしない人魚は、ただ楽しげに尾びれを揺らす。
何を考えているのか、ぼくには分からない。でも、ぼくは幸せな呪いとここで暮らすことにした。
まだ今は。
「どうして!?どうしてあの子が死ななきゃいけなかったの!?」
ぼくは立ち尽くしていた。
彼女の母親が、狂ったように叫び続けている。
その痛ましい様子から、ぼくは目を逸らしてしまった。
ぼくが殺したようなものなんだ。
だから、だから……。
気を紛らわそうとして窓の外を眺める。
いつのまにか黒く、墨を垂らしたように染まっていた外の景色。
もうぼくは太陽の光を拝むことはできないだろう。太陽は昇らない。
どうしてか、そんな気がした。
世界から彼女が消えたとて、世界は変わらず回っていくのに。
飛び起きた。
ぼくの部屋だった。
小鳥がちゅん、ちゅんとさえずっている。
夢だったのか。
一息ついて、立ち上がった。相変わらずソファーには人魚が寝転がっている。
祈るような気持ちで顔に水を打ちつける。タオルで水滴を拭ってゆっくりとまたソファーの方を見た。
まだいた。
何度目をこすったって、顔を洗ったって、間違いなくそこにいる。初めて人魚と出会ってから、もうしばらく経つのに、まだいる。
物言わぬ人魚は、いつまでここに佇んでいるのだろう?
朝のパンを袋から取り出す。
ああ、全部朝起きたら忘れていればいいのに。あの日のことも、彼女のことも、こうなるぐらいだったら忘れたい自分勝手な気持ちが、ずっとぼくの中に巣食っている。
鼻の奥に染みついた潮の香りと、ほんのり混ざったマーガレットの香り。彼女のあたたかな匂い。
忘れられたら、流し切ってしまえるのにな。
セイレーンは絶対に、そんなことは許してくれないよね。
これは、ぼくの罪を償うためなんだから。
ふいに、彼女がソファーから降りてくればいいのに。
ぼくのつまさきを彼女は掴んで、ぼくの世界が回ればいい。人間では出せないくらいの強い力で、床に叩きつければいい。
そして|縺昴?縺セ縺セ縺。縺九i縺セ縺九○縺ォ《そのままちからまかせに》、|縺励g縺上h縺上?縺セ縺セ縺ォ《しょくよくのままに》、なすがままにして。
ぼくを罪ごと噛み切ってくれよ!
なにか言ってくれ。お願いだから。
ぼくを罵ることばでもいい。
許さなくてもいいから、どうか、お願いだから。
やっぱりこんなのは呪いだ。はやくけしてしまいたい。
なにもいわないにんぎょはいまもずっとぼくをみつめてる。
かがみのなかに、かのじょはうつらない。
だってにんぎょだから。ふしぎ?
ともかく、にんぎょがうつったらこいはおわってしまう。
にんぎょはさいごあわになってしまう。しんかいのそこにかのじょをおいやるなんてぼくにはできない。
もういやだ。
なげだしたい。
おいだしたい。
さよならしたい。
そめてほしい。このへやをまっかにそめてほしい。|縺上■縺九i縺励◆縺溘k《くちからしたたる》あかがみられたらそれでいい。
ごめん。
「……ん?」
ぼくはソファーの前に横たわっていた。ふかふかのマットが心地いい。
何、してたんだっけ。そういえば朝のパンを食べようとしてたんだっけ。
ぼくは食べられようとしてたんだっけ。分からない。
ソファーの方を見て、ぼくは絶句した。
人魚はいなかった。
なんで?なんで彼女は消えてしまったんだ?
おかしい。ぼくは彼女にずっと消えてほしいって思ってたのに。解放されたのに。
この胸を締め付けるものはなんなんだ?
いつか戻ってくるだろうか?また戻ってくるまで待てばいいのか?
でも本当は。
本当なら、セイレーンなんていない?
いるんだ。セイレーンは絶対に。
ぼくはぼく自身を|縺斐∪縺九☆《ごまかす》のをやめたのか?
ごまかしてなんかない。ぼくの隣にセイレーンはいた。
|縺偵s縺倥▽繧偵∩繧《げんじつをみろ》ってことなのか?
さっきのが現実なんだ。これはきっと夢なんだ。二度寝だ、きっと。
みっともなく縋ったり嫌ったりするのはもう終わりにしろというかそんな感じなのか。
「……そっか。そうなのか?」
問いかけても、返ってこないけどね。もういないんだから。いても返ってこないんだから。ばかだな、ぼくって。
きみが本当に、ただの水死体に戻ってしまったのなら?
そんなこと考えることもできないくらいなのにな。ただの強がりだ。ぜんぶ。
消えてほしいなんて思ってごめんね。
本当はずっと一緒にいたいんだよ!そうだよ!ぼくはきみに恋してたんだ!ずっと!
|縺翫>縺ヲ縺?°縺ェ縺?〒縺翫>縺ヲ縺?°縺ェ縺?〒縺翫>縺ヲ縺?°縺ェ縺?〒縺翫>縺ヲ縺?°縺ェ縺?〒《おいていかないでおいていかないでおいていかないでおいていかないで》
いやだいやだいやだいやだ。
大好きって言ってくれた。大好きならそばにいてよ。|縺翫>縺ヲ縺?°縺ェ縺?〒《おいていかないで》よ。
おいていかれたくないなら、ついていけばいいのかな。
答えは簡単だった。ずっと出ていたのに。本当にばかだな、ぼくは。
近くにあった小さなカバンに、フォトフレームを突っ込んだ。婚約指輪を引き出しから出して、それもカバンに突っ込んだ。あとはもういいや。
今から向かうからね。
海水浴場は静まり返っていた。
ただ、穏やかな波の音が響いている。
きみは今もここで暮らしている。
よく考えたら、人魚が海の外に出ることなんてできないよね!
きみは初めから現れてなんかいなかったんだ。ずっと前からそうだった。悲しいくらいによく知ってる顔の遺影はまだ笑っている。さすがに持っていくのは良くないと思った。
これから、ぼくはずっときみと一緒なんだから。一人ぼっちで悲しむ必要なんかない。
あの日の幻が蘇ってくる。あのまま、呑まれさせてくれても良かったけど、別にこっちの方が彼女もぼくも幸せなはず。
きみとぼくの水死体がうかんでくるまで、この海で暮らしていようね。
「これだけが救いだ。」
呟いて海にとびこんだ。
スマホの画面が歪む。水没したからかな、画面は文字化けし始める。
マーガレットの香りがするフォトフレームから写真を外す。婚約指輪をケースから取り出す。
桃色の髪が揺れた。泡の中で、揺らめいている。
ぼくは彼女に向かって指輪を渡した。
笑って受け取ってくれた。気がした。
マーガレットの花言葉
真実の愛、心に秘めた愛。私を忘れないで。
【曲パロ】強風オールバック
原曲様リンクです。独特の中毒性、癖になる。
https://m.youtube.com/watch?v=D6DVTLvOupE
歌愛ユキは困り果てていた。
「進めない……!」
風が強すぎて進めないのだ。
しかも定期的に髪の毛が変なことになる。せっかく朝、急いで髪を直したというのに。
このままじゃテストもお察しの結果になってしまう。
どうしてこうなった。
平日の朝である。けたたましく存在を主張してくる目覚まし時計を黙らせ、ヤシの木みたいに爆発している髪を急いで直しながら、風のように素早くユキは支度をしていた。
今日は一時間目から音楽のテスト。リコーダーである。
そのため、絶対に遅れられないのだ。
曲がり角でイケメンとぶつかる女子高生もびっくりな速度でトーストを平らげて、靴を履く。
「いってきます。」
ユキは玄関のドアを開けた。
目の前にはハトハトハトハト。たまにカラス。
みんなして集まっておしくらまんじゅうしている。
こちらからすれば喧嘩にも見えてくる。ハトとカラスの大乱闘。
「何やってるんだ。」
ユキがつぶやき、ハトとカラスの群れを蹴り飛ばそうとした途端、ちょっと強めな風が吹いてハトとカラスの群れを吹っ飛ばしていった。自然は無情である。悲しげな鳴き声があたりに響き渡る。
さて、ハトとカラスがこうなったのはなぜか?答えはとても寒いから、である。冬だからしょうがないといえばしょうがない。
そう思ったとしても寒いものは寒い。急に太陽が気合いを入れて春並みの暖かさになる、なんてことはないのだ。
いっそのこと、地下に潜ってしまえればいいのかもしれない。
地下ならまだ暖かそうだ。いや、太陽の光に当たれないから寒いのだろうか。
潜ってみないことには分からない。
どちらにせよ、今の技術では潜れないのだが。
大人しくガタガタ震える体を前に進める。
ちくしょう。せめて風さえなくなれば暖かいのに。
風がいけないのだ。
ただでさえ寒い冬の空気をビシビシ体に打ち付けてくる風、こいつのせいだ。
どうすれば風に対抗できる。これは人類にとって大きな課題だ、とユキは考えていた。
まだ小学生なので、難しいことはよく分からない。だから、ユキにとっては政治の裏金がどうたら、税金がどうたらよりもずっとこれは大事なことなのだった。
座るのはどうだろうか。ユキは音楽のテストのことも忘れて道端に座り込む。頭の中寒さ対策はでいっぱいだ。
「……ちょっと、あったかくなった?」
風に当たる部分が減ったからだろうか。なんとなく寒さが和らいだ気がする。
とは言っても、この姿勢だと進めない。
「ちぇっ。」
ユキは立ち上がった。既に出発からしばらく時間が経っている。そろそろ真面目に進まないとまずい。
曲がり角を曲がったユキに試練が襲いかかった。
そして今に至る。
私は何もしてない。ただ、学校に急いでいるだけのしがない小学生だ。(ユキはハトとカラスを蹴り飛ばそうとしたり、道端で座り込んだりしたことは覚えていない。とても都合の良い頭を持っているのだ。)
なぜこんなことになるのだ。
かわいそうに、もふもふした犬もごろごろと転がされている。ユキも一緒にムーンウォークさせられる。
もふもふした犬の飼い主である近所のおばちゃんも困惑している。
ユキは両手でもふもふした犬を掴むと、飛ばされてきたおばちゃんの元に連れていった。
「ありがとね、ユキちゃん。」
ぺこりと会釈を返す。
違う違う。私の目的は犬をレスキューすることじゃない。
学校に行くことだ。
今は何分?もう朝読書が始まる時間である。
人生には壁がつきもの。私もここを乗り越えられれば強くなれるはずだ。
妙に哲学じみたことを考えながら、全速力で走るユキなのであった。
ユキはブチ切れていた。
正確にはブチ切れながら今日の獲物を一刀両断していた。今日の獲物と言っても、ただのキャベツなのだが。
ユキは学校に遅れてしまったのだ。
ギリギリ音楽のテストに間に合わなかった。音楽の先生に事情を話しても、謝っても、折り紙で作ったハートで賄賂を贈ろうとしてもダメだった。今日のテストは受けさせてもらえなかった。
……まあ、賄賂が効いたのか、明日のリコーダーのテストで評価すると言ってくれた。
それでもユキのイライラは強くなるばかり。
キッチンは殺伐とした空気に包まれている。窓から覗き込んでいた今朝のハトとカラスたちは殺気に恐怖を感じて飛び立っていく。
「ふざけてんじゃねぇよ!」
ユキはキャベツをまた一刀両断する。いつもよりも料理の腕は上がっていた。
キッチンにて幼い女の子が殺伐とした空気の中、キャベツを切り刻んでいる。なかなか……いや、かなりバイオレンスで不思議な光景である。
明日だ。明日こそは絶対に遅れない。明日も音楽は一時間目。風が来ようとハトとカラスの群れが道を塞ごうと、絶対に私は遅れられないのだ。
そんなユキの気迫に押されたのか、切り刻まれた哀れなキャベツはより一層強い悲鳴をあげた。
今日もうるさい目覚まし時計を黙らせて、ユキは布団から飛び起きた。
今日はより寝癖が酷い。水をばしゃばしゃつけてようやく直った。トーストを頬張り、着替え、髪を直し、リコーダーを準備する。恐ろしいほど効率的な動きだった。朝の支度のタイムはぶっちぎりで一番速いであろう。
「いってきます!」
ユキは学校へと駆け出した。風がやはり強い。
昨日練習できなかった分まで練習するのだ。ユキはリコーダーを取り出して、演奏を始める。
軽やかな音が風に飛ばされていく。
リコーダーの演奏はバッチリだ。しかし、やはり風は強まるばかり。
そのせいでリコーダーの音色もブレる。
間抜けな音が通学路に響き渡る。
近所のおばちゃんの犬もやっぱりもふもふ度が上がっている。かわいそうに、昨日よりもさらに哀愁を誘う鳴き声で助けを求めている。だが、ユキには助ける余裕はない。
忙しい中で可愛くした髪の毛もオールバック。ギャグじみたヘアスタイルに早変わり。
髪の毛、強風オールバック。
渾身の力を振り絞って、リコーダーをしまい、また駆け出すユキなのだった。
「はぁ、はぁ……。」
間に合った。時間は朝読書が終わるギリギリ。
ユキは今までの死闘を思い返す。風、あいつは強敵だった。だが今はユキの敵ではない。ユキは乗り越えたのだ。試練を。
本番はここからなのだが。音楽のテスト、私は今から音楽のテストに立ち向かっていく。
「はーい、みなさん、アルトリコーダーを取り出してください。今日はアルトリコーダーのテストですよ!」
ユキは片手に握ったリコーダーを見つめる。ソプラノリコーダー。アルトリコーダーは家に置いてきてしまった。
歌愛ユキ、ここに来て痛恨のミス。
「歌愛ユキさん?どうしましたか?」
心配する先生の声に反応することもできず、ユキはガックリと項垂れた。テストの成績、お亡くなり確定。嘘だ!ふざけるな!今まで頑張って風に立ち向かってきたのはなんだったのか。学校に来て友達にオールバックした髪の毛を笑われたのに耐えたのはなんだったのか。
「そ、そんな。」
人生の壁は高い。
【曲パロ】わたしは禁忌
原曲様のリンクです!イントロからもう心を掴まれました!
https://m.youtube.com/watch?v=al263xnknLE
あまりにも寒かった。
私はあたりを見渡す。
商店街の八百屋や魚屋に出入りする、人、人、人。
冬だとしても、暖かいだろうな。
まあ今は夏だし、「普通」の人からすれば暑いくらいだし、私はその理には含まれないし、今更暖かそうだなと思ってもどうにもならないんだけど。
このまま、太陽が落ちてくればいいのに。そう、思ってしまうほどの寒さだった。危うかった。数分ごとに深呼吸しないと、すぐにでもおかしくなってしまいそうな、ずっと酷い頭痛に悩まされているような、そんな感覚。
……さて、どこに行こうか。
こんなことになってしまったのだし、暇かと訊かれたら暇である。訊いてくれる人なんていないんだけれど。
商店街の裏路地。あっちの方はどうか。適当に猫ちゃんと触れ合おうか。
ダメだ。裏路地に行けばもっと寒いし、何よりアイツらがいる。我が身が可愛いのであれば、あんな場所など行くべきではない。
「あーあ、街の外に出られればいいのに。」
どうにも、この街の外には出られない決まりらしかった。
外はより寒い。一歩出ただけでもう足が凍りつくようだった。私の本能が警鐘をうるさいくらいに鳴らしていた。もう一歩出たら確実にダメだ。
せめてあの遊園地にもう一度行けたら。あの子たちとの、思い出の……。
ほんの少しだけど、私の終わらない寒さが和らいだような気がした。
あの子たちにでも会いに行くかな。
あくびを咀嚼して、私はあの子たちがいそうなところへと足を進めた。
途中であの道を通った。私がトラックに撥ね飛ばされたところ。
私の涙が乾いて、塩味になった道。
道の脇には、もう花束はない。
私がいなくなった証だった。
「こっちの方が近いかな。」
早くあの子たちに会いたい。あの子たちだけが、私の太陽。このまま寒さでどうにかなってしまいそうだった。感覚が麻痺していた。
決して、近道しないように。連れて行かれるから。ずっと、守ってきた。なのに。
ちょっとぐらいなら、裏路地だって平気だ。
そう思って、足を踏み入れた瞬間。
そこらで待っていたアイツらが、一斉に飛び出してきた。
「オイ、そこのオマエ!早く俺らの仲間になれよ!」
「オマエだけズルい。なんで憶えられてるんだよ。」
「早く触らせろ。代われ代われ代われ代われ!」
どこから湧いてくるんだよ。
「うるさい!私に触るな!」
「カワレカワレカワレカワレ」
次から次へと私に触ろうとする腕を避ける。連携がまるでなってないのが救いだ。ああ、こんなになるんだったら裏路地なんて入らなきゃ良かった。
ふと、体が芯まで冷やされたような気がした。
すぐ分かった。アイツらに触られたんだって。
全速力で、今すぐ走れ。
この日常は、絶対に渡さない。
「チッ」
ざまあみやがれ。ここから先は踏めない。
アイツらにとって路地裏は安全圏。私みたいに表に出ることはできないのだ。
動けないほど冷たくなるから。
「でもな、オマエは禁忌に触れたんだ。いつか俺たちと同じようになるからな。憶えておけ。」
捨て台詞を吐いて、蠢くその影……俗にいう悪霊たちは路地裏に消えていった。
どっと疲れが押し寄せる。
そして、突き刺すような冷たさが、襲いかかってきた。
手が黒ずんでいる。今も鈍い痛みを放っていた。
アイツらに触れられたからだ。
思わず咳き込んでしまう。
唇からは、黒い液体がだらだらとこぼれ落ちていた。
本格的にまずいかもしれない。
私は、禁忌に触れた。
商店街のベンチにもたれかかっているうちに、もう夜になっていた。
重い体を起こす。
月明かりですら冷たかった。月も砕け散ればいいのに。
いや、それはダメだ。あの子たちは夜が好きだった。月明かりの透き通った光が、好きだって言っていた。
もう寝ているかな。
さすがに深夜なので、会いに行くのはやめた。
じわりじわりと痛みが強まっていく、両手を庇いながら、貪るように眠った。
鉛色の街の店。そこの窓には、私は映っていなかった。
朝の澄み切った空気。そして、ジクジクと今も痛む両手。目が覚めた。
「おはよう、繧ォ繝阪さ。」
「おはよ。」
高校の登校中らしかった。
2人は今日も並んで歩いていた。前は、あの2人の真ん中に私もいたのにな。
羨ましかった。
「なんか視線感じる。変質者、最近は減ったはずなんだけど。」
変質者呼ばわりとは、失礼な。
繧ォ繝阪さは相変わらずだった。
……ああ、私ももう忘れちゃったみたい。ずっとずっと見守ってきたのに。あの子に忘れられたら、私も忘れちゃった。
一緒に私も靴箱で靴を脱ぐ。そうする必要、ないのに。
「誰が見てるんだろうね、繧ォ繝阪さ?」
それに対して、彼は憶えているみたい。素直に嬉しかった。本当はもうこの世界からいなくならないといけない私が、まだいてもいいって言われているみたいで。
いつもなら冷え切った廊下も、春の陽気の中にいるみたいに暖かかった。
あなたの近くだけが、暖かいままなの。私のこと、憶えてくれているから。
このまま触ってしまいそう。
早くいなくならないと、アイツらみたいになっちゃうのに。
忘れ去られたものたちは、いつか黒い悪霊となって、終わらない寒さの中で過ごすことになる。
だから早く成仏しないといけないけど、私はまだまだこの世界に対して未練が残っている。
例えば、目の前の少女と青年についてとか。
だから今日も、涙の乾いたこの街で私は暮らしている。
でも。
私は両手を見つめる。黒ずんで崩れ落ちそうな両手。
もう成仏できない。アイツらと同じになるのは、時間の問題だ。
だからもう二度と、こっそりあの子たちに触れることはできない。触れてもらうことなんてもってのほか。
「会いたいね、彼女に。」
「?彼女、っていったい誰のこと?」
「会いたいね。」
そう言って、彼は机の前でしゃがんだ。
可憐な花が、彼を見下ろすように咲いている。私の好きな花。そして、私の好きな色の花瓶。私が座っていたあの席。
「ちょっと、どうしたの!?」
「会いたい……会いたいよ。会いたい。ずっと俺たち一緒だって、約束したのに。」
ぽたりぽたりと、塩味の液体が垂れる。静かな朝の教室に、青年の泣き声が響く。涙を拭いてあげたくなる。抱きしめたくなる。私はここにいるよって、泣かないでって、大好きだよって。いつもみたいに。
彼が会いたいと言うたびに、私の両手はぞわりと黒さを増す。胸の奥に巣食っているおぞましい衝動が、より強まる。
早く触れ。触れ。オマエの仲間にしろ。オマエとずっと一緒に、お互いのことを忘れたまま、俺たちと暮らせ。
私は絶対、あなたたちには触れないって決めてた。でも、あなたがそんな顔で泣くから、揺らいじゃったじゃない。
そんな顔で泣くぐらいなら……触ってしまった方が。
「オマエもついに、俺たちの仲間になるんだな!」
いつのまにか肩に噛み付いていたそいつが言った。
私は教室のドアを開けて、そこから出ようとした。反射的にそうしていた。私の両手を蝕んでいる寒さが強まって辛かった。
寒い。
寒い寒い寒い寒い。
寒い!寒い!
声が耳元で鳴ってる。叫び、喚くアイツらの言葉が聞こえる。
「早くアイツも、オマエの仲間にしようぜ!」
嫌だ。そんなこと、絶対にしたくない。
離れないと。
そう強く思うのに、近づいていく左手を止められない。右手でなんとか掴むが、それでも止まらない。
「さあ、早く。」
「ガマンは無理だろ?」
「サワレサワレサワレサワレ!ほらほら!」
やめろ。私はお前らとは違うんだ!
「オマエは禁忌なんだ!禁忌そのものなんだよ!もうオマエは俺たちだ!ナァ、そうだろ?」
私は禁忌に触れたのか?
ああ、寒い。気が狂いそうだ。ずっと、ずっと。あなたに触れれば、私は救われるのかな。私は楽になれるの?
だったら、もう、触ればいい。いつかは誰だって死ぬんだ。だったら私の手で、葬ってやればいい。こんな冷たさの中で生きるくらいなら、本当に悪霊になって死んじまう前に、彼に触ればいい。
でもさ。そこは、暖かい。陽だまりのように暖かい。それはもう、惜しいほどに。
その場所を私は守りたかった。だから、いつまでもいつまでも、見守っている気でいたくて私は成仏しなかった。
あなたたちだけは、守らなくちゃいけないだろ?
何が冷たさの中で生きるくらいなら、だ。
私はまだ本当に死んでない。
こんな寒さが、何だってんだよ!
噛み付いた。
私が今まで食べた嫌いな食べ物の味を全部ひっくるめたような味だった。
そのまま走って、学校を出ようとした。
「オイ、何でだよ!オマエみたいに悪霊なりかけの幽霊が幸せの中にいようだなんて、馬鹿だ。この贅沢野郎が、幸せなんて壊しちまえ!」
私は馬鹿だ。
「……私は馬鹿だ?だとしたら何だ。黙れ。黙れ黙れ黙れ!私は私なんだ!」
「オマエは禁忌に|狂え《ふれ》たんだよ!大人しく触れ!」
殴って、蹴って、噛み付いて、走って、できるだけ遠くへ。
「狂えて上等だよ。でも、絶対に私は守り切るんだ。私は私の大切な人を守る。そうしてから死ぬんだよ!」
一通りアイツらをボコボコにした。
気がついたら、動けないほど冷たくて。
彼に言った。届かなくても。もうモヤがかかってどんな顔だったか分からない。ついさっき見たばかりの、大切な人の顔。
「どうか、もう私のことを忘れて欲しい。もう私に会いたいって言うのはやめて欲しい。私はそれでも、あなたのことが大好きだよ。」
いつのまにか腰まで真っ黒になっていた。そのまますごい速さで私の体を黒く染めていく。体が勝手に、少しでも暖かい路地裏に進もうとする。私が私でいられるのももう終わりか。そのまま私の体はドロドロと溶けて、路地裏のアイツらと一体化するんだろう。
こうなるってことは、もう彼に忘れられたのか。今は悲しくなかった。
ああ、寒いな。とにかく寒い。寒すぎて気が狂うよ。それでもあなたを守れたから。
「よかった。」
最後考えたのは、そんなことだった。
禁忌ネキ、カッコ良すぎる。
【曲パロ】間に合え結婚式
久しぶりの曲パロです。
結婚していませんし結婚式に出たこともありませんが結婚式にまつわる話を書きます。
アルバム曲は初めてですね。MVはありませんが私なりの想像で書きました。
約4500文字です。
洗練されきった原曲リンク↓
https://www.youtube.com/watch?v=5RD5HvOdr48
もう十年経ったのか。
早いもんだ。
十年前の私は、何をしてたっけ。
「早く逃げろお前ら!」
「部長、どうしたんですか?」
「爆発するんだよ!」
何がですか、と訊こうとしたが、その前に部長が叫んだ。
「俺たちの職場がな!」
「はぁ!?何言ってんですか、ってこれ……。」
部長が走り去ろうとして何かにつまづく。
カチカチと音を鳴らしながら、赤く光る数字がカウントダウンを刻んでいる。
コテコテの時限爆弾。
そして、タイムリミットが01から00に。
私の職場は閃光に包まれ……。
目が覚めた。
職場が爆発する夢で目が覚めた。
何だ、夢か。
職場が爆発するのは面白そうだし、しばらく働かなくても良さそうだけど、自分が死んだら意味ないよね!
そもそもあんなコテコテの時限爆弾なんてあるのかな。
そんなことを考えながら、もぞもぞと布団を剥いで起き上がる。
うーん、とひと伸びして、窓を開ける。
雲ひとつない……と言ったら嘘になるが、気持ちの良い青空が広がっている。
お日柄も良いね!
これは絶好の結婚式日和。
そう、私は今日友人の結婚式に出席する。
ちょっと、いやかなり冷たい印象があった子だけど、話してみると意外とそんなことはなかった。
とにかく、あの子は「私に近づくな」オーラがすごかったのだ。
流石にぼっちは可哀想だ、と肩をべしべししながら日々を過ごしていた。
私たちはそれからしばらく離れていたのだが、今日、彼女が結婚するにあたって久しぶりに顔を合わせるのだ。
よし、気合い入れてメイクするぞ!
いったい彼女はどんな旦那を手に入れたのか、楽しみだな。
結構な美人だから、金持ちのイケメン捕まえてたりして、なんてね!
はは。
……はは?
私はふと、時計を見た。
おかしいな、時計の針がなんか私が思ってた時刻じゃないぞ。
パラレルワールドかな?
……もしかしてこれ、いやもしかしなくてもまずいのでは?
「寝坊したっ!」
まず同じく結婚式に出席する友達、それから会場の人に急いで連絡して、財布やらスマホやらその他貴重品を詰め込んで、あとその他もろもろも。
あれをこうして、それをああして、とやっている間も時計の針は進む一方。
ようやく準備が整う。
非常によろしくない。
結婚式やってる最中、遅刻しましたー!なんて突撃できるわけない。
これは、今まで考えていたルートだと間に合わないな。
私はそう判断した。
そして素早く、自分でも惚れ惚れする速度で最短ルートを乗り換えガイドアプリから見つける。
しょうがない、知らない電車乗るか。
不安だったから辞めておいたやつ。
急がば回れ?
そんなの知らねぇ!
回っても遅れるんだ!
一か八か、待ち合いそうな方へ行くしかない。
待ってろ、この招待状の主役。
あなたに今から、会いに行く。
走る。走る。
泣く泣くハイヒールはやめた。
ひたすら走って、滑り込みで電車に間に合う。
だが、これはただの第一関門。
ここからさらに、まだまだ道のりはあるのだ。
間に合え!間に合え!間に合え!
心の中で叫ぶ。
お願いだから、今日はちょっと速度速くして!
もちろん、ダイヤの影響でそんなことはできない。
分かっているけど、願わずにはいられなかった。
いっつもツーンと暗い顔で、教室の隅で世界を呪うようにして座っていたあの子。
あいつが結婚するんだ。
気にならないわけないし、私は友達としてあいつの晴れ姿を見たい。
それで、結婚式でもあんなツーンとしたシケた顔してたら、花婿の前で蹴り飛ばしてやるよ。
そんでもってウェディングケーキも食って帰るわ。
何が何でも間に合わせてやる。
空き教室で、よく私たちは駄弁っていた。
揺らぐ放課後の風。エアコンなんてつけられなくて、うちわでお互いをパタパタしながら過ごした夏。華のJK、まさに無敵だった私たち。
どうでもいいことばっかり話してたっけ。
それで、いつもなぜか寝坊して、あいつらと始業のベルになんか駆られて。
間に合うこともあったし、お説教食らってしょげてたこともあったし、ノーダメージだったこともあったし。
若き冒険者でもあるのに、進路のしの字も考えてなくて、今思うと綱渡りな気もする。中高一貫に通ってた弊害かな。
未来、本当に進学できるのか。急に怖くなってた。
そんな中、ひたすら無言で、無表情で、人形みたいに勉強をこなして、部活までザ・お嬢様って感じだったのがあの子。エリートだなーって、みんなで噂してた。
話しかけられてもツンデレ、なんていう可愛いものじゃなかった。
まさに「氷の華」って感じかな。
でも、ある時見ちゃった。
あの子が学校のノートに、落書きしてるのを。
あんな真面目ちゃんでも落書きすることあるのね、って見てたら、その絵のクオリティに仰天だった。
柔らかなタッチで、色鉛筆であの子と謎の女の子が描かれてた。
金髪で、青いパジャマ?を着てた子で。
ちらっと見える他の絵も謎の女の子とあの子のやつだけで。
何だ、創作の女の子か何かなのか?って思ってたらそうじゃないみたいで。
こっそり、描きながら泣いてた。
あのクールな真面目ちゃんが。
いっつも冷たい目で、私たちを見下すみたいな目で、蔑むような目で見ていたあの子が。
こっそり。泣きながら。
意味が分からなくて、ついシャーペン落としてたな。
それであの子にも気づかれて睨まれちゃって、その時はもう見られなかった。
でも、あんな子でもソフトでナイーヴでデリケートな一面があったんだな、って。
それからただのクラスメートだったあの子を、意識するきっかけになったんだ。
それからというもの、自分でもドン引きするくらいあの子に付き纏ったっけ。
その度に突っぱねられたけど、七転び八起きの精神で、毎日毎日。
友達にも「あんた、何やってんの」って言われるまで追いかけて。
ようやく、絵を見せてくれた。色鉛筆だけでなく、水彩絵の具を使って描かれた絵もある。
その時の、あの子のブラックホールみたいな得体の知れない目。絵の中のあの子の、小さな女の子みたいな純粋な目。どこか物哀しい目。
金髪の女の子の、伏せられた目。長い睫毛。
今までの人生で見たどんな絵よりも想いが込められていた。書き込みがすごかった。
私の直感がそう囁いていた。
最初はオリキャラみたいな感じなのかなって思ってたけど違ったみたいだった。私もオリキャラの絵、よく描くから。
「……あの子はね、最強なの。誰よりも優しくて、可愛くて、弱虫な私の強い分身。」
そうポツリと呟いた。
うまい返しが思いつかなくて、「そう」としか言えなかった。
何があったかは、知らない。
どんな悲しいことがあって、どんな苦しいことを経験してきたのか。あの子の好きな食べ物や誕生日すら知らなかった当時の私なんかが分かるわけないし。
でも頑張ってる。それはただのクラスメートだった私だって、分かった気がするんだよな。
だから、「あんたも別に言うほど弱かないけどね」って言えば良かった。
今更言うのも、気恥ずかしいから。今でも後悔してる。
結局、私はその年の3学期に転勤で引っ越しちゃったし。
転勤が決まった、って黒板の前で堂々と言った時、あの子はどうにも形容できない変な顔をしてた。面白い、と思ってしまった自分は嫌な奴だ。
しばらくあからさまに避けられて、別の友達とぼーっと過ごしてるうちに、あれよあれよという間に引っ越しよ。
そして、引っ越し前日になってようやく、あの子が話しかけてきて。
「また会いたいって、お願いしてもいい?」
お願いって何だよ。
避けられてたお返しに、ちょっと意地悪した。
「叶わねーよ、馬鹿たれー!」
こんな会話をしたのを覚えている。
ビクッと震えて、固まって。
数秒経ってから言った。
「嘘になるかもしれないけどね」
「……じゃあ、会いに行ってもいい?」
返事の代わりに言ってやった。
「数年後、お互い何やってんだろね。私は楽しみだよ。」
ぱあっとあの子の表情が明るくなっていく。
全く、大人っぽいのか子供っぽいのか、分からない奴だよ。
でも、そんな風に思ってもらえたのが嬉しくて、照れ隠しでつい意地悪したのかな。私。
当時の私のことは分からないな。
歳を食ったって忘れられない。
私の大切な青春の記憶。
そういうのって、あるよな。
電車のアナウンスは、私の目的地を何度も繰り返している。
バックを腕にかけて、靴を確かめて、深呼吸。
もうすぐあるイベントについて考える。
結婚、か。先を越されちゃったな。
悔しい。けど、あの子ならまあいいかという気にもなる。
どうせなら根掘り葉掘り訊こう。
出会いは?相手の好きなところは?初デートの場所は?
あの厳しそうでお金持ちな家ならお見合いとかもしてる?はたまた許嫁?いや、そんなわけないか。流石にテレビの中だけの話か。でも、やっぱりあり得るのでは……。
……どれでもいい。どうでもいい。重要なのはあの子が望んでいるかどうかだ。
私だって恋人の1人や2人、いたことはある。
他に好きな子が出来たとか、自然消滅とか、長続きしてないけど。
今までひしゃげていった恋。叶わなかった恋。積み重ねていったら、いつか実を結ぶかもしれない。
そうやって、私たちは大人になる。
どうして大人にならなきゃいけないの。
もし、あの子が不思議に思ったとしたら……今までのことを思い返してみるのも悪くない。
アルバムのフィルムを手繰っていった時、何かに出会える。
私なりの経験則だ。
……あんたより結婚が遅くなった人の経験則だけどね。お祝いの言葉で言ってみようっと。
まあ、本当に大人になりたくなかったのかは分からない。全部私の妄想だったりして。
そんなことを考えていると、電車の扉は無慈悲に閉まりそうに……。
走れ体、間に合え扉!
間に合え結婚式。
間に合え!間に合え!間に合え!
ゾーンというものが何なのか分かった気がする。
鈍足ではない。かと言って俊足でもない。それでも今の私、すごく速い。
道を間違えることなく走り続けている。すごいぞ私、方向音痴なのに。
真っ白い建物が見えてきた。
入り口は……ここだ!あれ、違ったかもしれない。
ここにきて方向音痴、発動。
時計をチラッと覗くと、あと数分で始まるところだった。
あーあ。全くさ、私は何してんだろね。
結婚式の日に寝坊して。平謝り確定だな。
気分は清々しかった。
今日はやっぱり、お日柄も良いね!ウェディングブーケが映える良い日。
こんな日に挙式できるあの子は幸せな人だ。
ようやく、入り口を見つける。体感時間はかなり長かった。
扉を開けて、受付の人に私の名前やあの子の名前を伝える。
「|栗江《くりえ》いと様ですね。」
まだ始まっていないことを確認する。
間に合った、結婚式。
そして席に着く。始まってもいないのに、どっと疲れが押し寄せる。
「全く、何してるの。」
「いとちゃん、遅いよ。」
「ごめんごめん!」
呆れながら友達に言われてしまって、縮こまることしかできない。
荘厳なBGMが流れて、私たちの姿勢はしゃんと、自然に良くなった。
着飾ったあの子が入ってくる。
白いドレスは、黒いあの子の綺麗な髪によく似合う。憎くなるほどに。あの子の二つ結びが揺れる。そして。
あんずの香り。
ふわりと。
あの子に見つめられて、微笑まれて。熱が指先から頭まで、巡っていく。
私のはやる気持ち、温めているから。
来てよかったな。心から思った。
その穏やか気持ちは消えることなく、色々披露宴へとあっという間に移った。
あの子と対面した。
「来てくれてありがとう。」
言葉少なだけど、言ってくれたのが嬉しくて嬉しくて。忘れちゃったよ。
ああ。数分前、何を言おうとしてたっけ……。
思い出せないや。
「|杏《あんず》。」
「……うん。」
せめて、私はこれだけは言わなきゃいけない。
あの子の友達として。
「おめでとう。」
お読み頂きありがとうございました。
この結婚式のあるじはおそらく……とか考察してます。そういうオタクなんです、私は!
【曲パロ】熱異常
原曲様リンクです。
https://m.youtube.com/watch?v=b2NTglk9tvI
これ以上戦争が起こりませんように。
少女が歩いていた。夕日のような鮮やかなオレンジ色の髪をした、少女。
辺りには誰もいない。
ただ、荒涼とした大地が広がっているだけだった。
少女には、歩くことしかやることがなかった。
自分の足で立って、人々にその美しい歌声を聴かせる。そんな目的で生まれてきた少女だったが、もう聴かせる相手などいないのだった。
例え自分の足で立ったとて、誰にも喜んでもらえないのだった。
足立レイ。足立レイが、その少女の名前だった。彼女が人間から与えてもらった、数少ないもの。
足立レイは転んだ。
自分の足で立ってしばらく経ったので、普通の人間くらいには歩行能力は上昇していた。
何かが、足立レイの足元にあった。それに足立はつまずいたようだった。
「……ボイスレコーダー?」
古かった。でも、まだ使えそうだった。
期待した。
これに、人間の声が入っているのではないか、と。
どうせやることはなかった。
足立レイはそれを拾った。
そして耳に当てた。
ノイズ混じりだったけれど、それはボイスレコーダーとしての役目を果たしていた。
極限の精神状態なのか、狂ったように同じ言葉を叫び続ける箇所もあった。
足立レイは想像した。
顔も知らぬこの人間は、いったい何を思って音声を遺したのだろうか。
「……聞こえる?聞く人がいないのかもしれないけれど。ああ、そもそも人ですらないのかもしれない。最近は、国内でアンドロイドに関する技術が凄い勢いで進化しているらしいから。死んだプログラミングで、どう過ごしているのか……羊でも数え続けているのか。その熱量を、どこにも送れない。さて、あなたが暇なら。やることもなく彷徨っているのなら。どうか、どこに送るあてもない、あわれな私の独り言を聞いて欲しい。」
足立レイは知らない。
この人間には、こんな物語があったことを。
私は部下からその知らせを聞いた。途端、電撃のような恐怖が走った。血管の中に混ざって馴染んで体全体に巡って、どうにも気持ち悪い感覚が抜けない。
「そう……ついに、ついに浮かんでしまったのか。黒い星が。」
どんなに空気が汚れていようと、煙で覆い隠そうと、私たちを睨み続ける黒い星。鎖鎌を持って私たちについてきている黒い死神。
私たちの国を、いや世界を滅ぼすことになる新型兵器。あれが爆発すれば、世界は一週間も持たない。
人はそれを「黒い星」と呼んだ。
星のように空に浮かんでいるあの兵器は、人間たちを滅ぼす時を今か今かと待ち続けている。
作成した人間は、もう既に殺されたとか、自死を選んだとか。
真相は闇に包まれている。ただ、あれは世界を滅ぼす代物ということだけがとある国の決死の調査によって判明していた。
カーテンを開ける。空を見る。
それは浮かんでいた。
それはこの世の絶望を全て集めていながらも、ただそこに浮かんでいた。
真っ黒だった。
光の一筋すらも浮かんでいないくらい、黒かった。
視覚的にはただ黒い、丸いとしか形容できない形状だった。
カーテンを音を立てて私は閉じた。
顔を机に伏せる。
見えない。何もない。
あんなもの浮かんでいない。
……駄目だ。
消去しても。消去しても消去しても消去しても消去しても消去しても消去しても消去しても。
私の頭から消えて無くならない。
「う、あ。」
「大丈夫ですか。気分が優れないのですか。そりゃあそうですよね、あんなものが浮かんでいるんですから……。」
私が出したうめき声も、そう絞り出す部下の声も、とうに潰れていた。
「うわああ……。」
叫んだつもりだった。
音は列を成さないで、ただ床に落ちていった。
安楽椅子の上で。私は叫ぼうとすることしか許されないのか。
カーテンは閉まりきっていなかった。
今日は三日月だった。
あの日と同じ、三日月だった。
腐っているように見えた。
その浮かんでいるものと被ったら、黒い星が笑っているように見えるだろう。
あれは、もうすぐそこまで来ているんだ。虎視眈々と狙っている。
すぐそこまで。すぐそこまですぐそこまですぐそこまですぐそこまですぐそこまですぐそこまで!
得体の知れない、黒い丸に見えるあれが。
なにかが、来ている。
私は逃げるように昔のことを思い出した。
私は軍に所属する科学者だった。
祖国……アメリナ合衆国の為に新型の兵器を作って、敵国を降伏させていち早く戦争を終わらせる。
私の使命だった。役割だった。正義だった。
だから毎夜毎夜寝る間を惜しんで研究した。
使命だから、辛くなんてなかった。
その研究はやがて実を結び、とある爆弾を生み出すことに成功した。
「ああ、これで戦争は終わるだろう。アメリナ合衆国の血はこれ以上流れなくて済むだろう。」
軍部は、国民は歓喜した。
私は救世主だった。まさしく、国のヒーロー。
敵国、ヤマト皇国は自暴自棄になっているようだった。
既に戦争に勝利することは難しいというのに。
大声で敵国の国民たちは救いの白旗に火を付けた。そして燃やし尽くした。そして、自決した。
戦争で奪われて、少なくなってしまったコレクションにキスをして甘んじて棺桶に籠る骸骨たち。
「未来永劫、誰もが救われる理想郷のために!」
そう言って、乗り込んだ船には爆弾が大量に積み込まれていた。アメリナ合衆国の船にぶつかって、その船の爆弾は爆発した。もちろん、操縦していた人間は死んだ。
そいつらが私たちに囁いているようだった。
お前たちはどうかしてる。どうかしてるどうかしてるどうかしてるどうかしてるどうかしてるどうかしてるどうかしてる、って。
恐ろしい国だ。
教育によって、国民たちを死に追い込んでいる。
当面の間戦争に負けないというためだけに。
どうかしてるのは向こうの国の方だ。
どうして分からないのだろう。国を豊かにするには、一度敗戦してリセットするべきだと。
私たちの国より明らかに戦力が低いこと。
それを分からせてあげるのが私なのだ。
戦争を終わらせて、あの国を手中に収めた暁には、きっと平和な国にしてみせる。
我が国のトップはそう語った。
そのためにも、あの国には敗戦してもらわなければならない。
ヤマト皇国のとある街に投下された。私が作った、新型爆弾は。
暑い暑い日だった。その日、その街は三日月だった。
私はその数日後、ヤマト皇国が降伏したという知らせを聞いた。
ああ、これで良かったんだ。私は多くの人を救った。戦争に出なくても、良くなったから。
最新の映像機器でその爆弾がどうなったかを見せられるまでは、そう信じていた。
馬鹿みたいだった。
この爆弾はとてつもない威力を持っていることを、私は知っていたのに。
どうして、どうして私は多くの人を救ったと言えたんだ。
そこは、まさしく地獄だった。
人々が人々でいられなくなった地。死の地。想像以上に悍ましい光景。
これは、私が生み出した爆弾がやったこと。
つまり、私がこの人々を……。
「先生がやったことは正しかったんです。僕は先生のもとでこの爆弾の研究に携われたことを誇りに思います!」
そう、嬉しそうに部下は語った。
澄んだ黒い瞳。輝く星のようなその瞳孔。その澄んだ黒く輝く星は、映像機器が映し出す爆弾が投下されたその地を見ている。
その先に、ヤマト皇国の国民たちが見えた気がした。気が狂った国民たち。
澄んだ瞳で、彼らを見ている。
私は「ありがとう」と返して、部下を部屋から退出させた。
あの映像が頭から消えない。消えてくれない。
爆弾によって弾けた閃光が、映像機器の前にいる私も貫く。
爆発する、終わりの、お別れの音が聞こえる。幻聴だった。
ヤマト皇国の神が、皇が成した歴史はもう砂になったんだ。
もう戦争は終わりだ。あの国は平和になる。
私はずっと繰り返し続けていた。自分は正しい、と言い聞かせて続けた。
私の心に、その行為が熱を生んだようだった。頭が初めて、ショートした。
私は正しかったのか。
澄んだ黒い瞳を持つ部下。アメリナ合衆国の国民たち。ヤマト皇国の国民たち。
あなたたちの澄んだ瞳に、私はあの日から問いかけ続けた。
私の成してきたことは本当に正しかったのか、と。
「先生、先生。起きてください、先生。」
その声で私は目が覚めた。私が視界に映した部下は、泣き腫らした目をしていた。
涙を流しても流しても、悲しみは消えない。拾いきれない。
部下の目元に塩がついていた。涙が塩になったんだ。
「ご飯を食べましょう。とびきり美味しいご飯を。ワインだってありますよ。たくさん。」
「いや、もういい。君には帰ってほしい。」
「そう、ですか。」
これを見ている神は、私たち人間の感情に値でも付けて愉快に思ってでもいるのだろうか。
私たちの祈りに。苦しみに。同情に。憐れみに。
私たちを弄んでいるのだろうか。
それとも、これは罰なのだろうか。
今、背を向けても背を向けても背を向けても背を向けても背を向けても背を向けても背を向けても。私の頭にこびりついているあの惨事が。鮮明に聞こえる悲鳴が。私を責め立てる。
もう何十年も経っているのに。
……それほど、許されないことを私はしたのだろう。
幸福を手放すこと。ヤマト皇国のために死ぬことが美しいんですと。美徳なんですと。
説いていた人間の姿が、自意識の中に根付いている。あの日の血の匂いがする。
私は忘れられない。
何かの間違いでありますように。強く願いながら開けた部屋の窓から、黒い星が見えた。
黒い星が黒い星が黒い星が黒い星が黒い星が黒い星が黒い星が。
あの黒い星が。
私を確かに見ている。
ああ。
私は、もうじき死ぬのか。
問いかけを死んだように繰り返す。
考え事は私に熱を生む。
この黒い星の下、どこに行くあてもなく。
独り言を呟いている。生きる屍。
それでも。それでもやはり死にたくはなかった。何十万人という人々を殺したところで、生きたいという欲求はなくならない。
美味しいご飯が食べたい。休みの日にたくさん寝たい。たくさん日差しを浴びたい。誰かを愛したい。笑っていたい。
そんな世迷言がへばりついて離れない。
こうやって泣いたところで、私の細胞はいずれ死んで海に戻るだけなのに。
燕が飛んでいる。灰色の雲がそれを追う。黒い星が空を占領している。近づいてくる。
もうじき雨が降るんだろう。ああ、もし、雨に黒い星が反応したら。爆発したら。
どこか、黒い星の影響しない土地に移れないか。私が、あの爆弾を作って得た名誉で、明日を生きるための土地を買えないだろうか。
そんな、汚い希望で手が汚れてる。血がこびりついてる。
生きたい。ただ、私は生きたい。
教えて欲しい。黒い星。
私は、明日を生きられるのか。
でも、どう足掻いても終わりが来ることは知ってるんだ。
私が敵国を憐れまなかったら。愛し合えたら。
新型爆弾なんて開発しなかったら。
あの日、あんな惨劇は起こらなかった。
行動を変えていたら、私は自信を持って生きていられただろうか?
考える。思考する。その中枢で最期の力を振り絞るように熱を生み出す。熱異常が起こる。
死にたくない。死ぬはずない。現実じゃないこんなの現実じゃないこんなの現実じゃないこんなの現実じゃない!私は、そうだとしたら、もう耐えられない。
本能は傲慢に訴え続ける。
誰か。聞いてくれ。私の思いを。教えてくれ。私はどうすれば良かったのか。
ボイスレコーダーを取った。
最初は丁寧に。優しい人が聞いてくれるように。もうこの際ヒューマノイドでもなんでもいい。
「……聞こえる?聞く人がいないのかもしれないけれど。ああ、そもそも人ですらないのかもしれない……。」
喉は既に潰れている。
途中から抑えていた声が暴走する。叫んだ音は列を成さない。
椅子の上で叫ぶ。腐り切った三日月に負けないように。
私は最初から利己的だったんだろう。
誰かを殺したことではなく、自分が生きていられなくなることに怯えていたんだろう。それでも、叫ぶことをやめられない。
ああ。窓を割って、やってくる。
もうすぐそこまですぐそこまですぐそこまですぐそこまですぐそこまですぐそこまですぐそこまですぐそこまでなにかが来ている。
足立レイはそれを聞き終わった。
途中から何を言っているのか意味不明だった。
突然叫び出したり、落ち着いたり、狂ったように言葉を繰り返したり。
理解が出来なかった。
その人間は何を思ったのか。どうしたかったのか。
考えても考えても、足立レイには分からなかった。その電脳はあの研究者とは違って、皮肉なことにショートのひとつ起こさなかった。
でも、たとえ自分が人間でなくても、足立レイは寄り添いたかった。
だから、花を添えることにした。紫色のその花は、この死の大地でも美しく咲いていた。人間は、死んだ人を悼む時に花を添える。足立レイの電脳にはその知識がインプットされていた。
「ありがとう。」
地面にレコーダーを置いて、足立レイは手を合わせた。
レコーダーは持っていかないことにした。眠らせてあげたかったからだ。
また、足立レイは歩き出した。
うわがき
いよわ様の「うわがき」に感化されて書いた曲パロもどきです。とても短い。いつかしっかり書き直そう。
https://m.youtube.com/watch?v=T3Son6CzPUk
「うわがき」のリンクです。
「……行っちゃった。」
あなたは去った。
その事実を突きつけられた、ような気がする。
バス停にはもうわたし以外いない。
「やっぱり変えられない。」
きみが、動かなくなったあの日を覚えてるから。
未練をずっとまとわせて、生き続けるのが辛かったから。もしかしたらきみがお願いをきいてくれるかもしれないって思っちゃったから。
もっと、もうちょっと居たいなって。思っちゃったから。
わたしはずっと、上書きし続けてる。
化石になっちまいそうなくらい、時間が経った。ようやくきみが座っていたところに手を伸ばすことができるようになる。
さっきまできみが座っていたベンチは、まだ温かい。
きみのぬくもりが残ってる。この残滓だけでも消えてほしくないけど、消えちゃうんだ。
わたしが行動を変えても、どうしてもばれるの。ばれて、明日にはやっぱりきみはいなくなってる。
上書きしても。
何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も上書きしても、変わらない。
死んだ変数で繰り返すだけ。
きみは明日にはいなくなってる。それが世界の筋書き。
それは、油性ペンで書かれているから消せない。濃く、上から塗りつぶすことなんてできない。上書きできない。
あの日、引き止められなかった馬鹿野郎の脳しか上書きできない。
「おわかれ、言いたかったのに。うわがきしちゃったから、こんなにわたしは欲張りなの?」
ごめんね。
お別れを言うだけだからって、それだけなら許されるからって、過去のわたしは言ってた。
嘘をついた。
分かってる。もう後戻りは出来ない。
わたしはわたしを、無駄だと分かっていながらうわがきし続ける。
これから、ずっと。うわがきして、わたしがわたしで埋め尽くされて焼き切れるまで。
それだけしかないぬけがら。
ぬけがらなわたしには、その選択しか残されていない。
「さようなら、あなた。」
またうわがきして、今度こそはこのセリフをあなたの目の前で言えたらいいな。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
うわがきした。
またうわがき、しなきゃ。
流れ出すセイレーンの曲。
「ど……どうかな。聴けるくらいには弾けてる?」
【曲パロ】命に嫌われている。
リクエストありがとうございました!ちょっと遅くなって申し訳ないです。
文がこんがらがっていますが、どうぞ……。
本家様。
https://m.youtube.com/watch?v=0HYm60Mjm0k
起きた。
いつも通り起きた。
昨日と変わらない天井、昨日と変わらないベッド、昨日と変わらないアラームの電子音。
そして昨日と変わらない僕。
いつも通りの、怠惰で満たされた僕だった。
だからいつも通りに、顔を洗って適当なパンを頬張って適当に歯磨きする。テレビをつける。
「本日の音楽はこちら!最近巷で話題になっている、新進気鋭シンガーソングライターのアノ曲です!」
綺麗なアナウンサーが、綺麗なことを訴える曲を紹介していた。
誰も死なないでほしい。みんなに生きていてほしい。そんな気持ちを込めた曲。
だから、死にたいなんて言うなよ。諦めないで生きろよ。このワンフレーズだけは覚えていた。
正直、腹が立った。朝、起きたばかりだから全てのことに苛立ちやすくなっていたのもあるし、もともとこんな曲が嫌いだったからだ。こんな曲が正しいなんて馬鹿げている。
だって僕は、ぶっちゃけ僕の生き死にとかどうでもいいから。
実際、僕は死んでもいいと思っている。「生きる」と「死ぬ」がほぼ同じ順位で、死ぬための努力が面倒くさいのでわずかに「生きる」が勝っているだけだ。日々、51対49で決着がついている。
他の人間はたぶん違うのだろう。
周りが死んだら自分が悲しくなる。
だから、他人に「死なないで」って声かけて助けた気になって、自責の念にとらわれないようにしている。ただのエゴ。
自分が悲しまないために他人をなんとかしている。自分のメンタルさえよければ。他人が生きてもどうでもいい。それがデフォルトである人がその実多数派かもしれない。
誰かの悪口だって、人を死に至らしめるいじめだって、その実ファッションかもしれない。自分を飾り立てて、「あなたと同じ」って主張していく。自分さえ安全ならいいのだから。
……僕は特にいじめられてもないし、無視されているわけでもないし。地球のどこかには僕より不幸な子なんてごまんといるのだろう。
それでも考えてしまう。永遠に満たされない。考えるだけ無駄な問い。
果たして、こんな僕の世界は「平和」と言えるのだろうか。僕は「平和に生きている」って言えるのだろうか。
もし言えるのだったら……なんて、素敵なことなんでしょう。
漫画喫茶へ行くために、僕はいつも電車を使っている。
今日も乗客は互いの顔なんて見ずに、手元の光る板を見つめている。僕もそうする。
毎朝のニュースの時間だった。適当に1番上のニュースをクリックする。
映し出されたのは、いじめられた少年が起こした殺人事件のニュースだった。
今日も、画面の向こうで誰かが死ぬ。
そういう人がいる限り、きっと朝聞いた曲のようなものが生まれるのだろう。それを嘆いて誰かが歌う。誰かに届かせるために。ひいては自分のメンタルヘルスのために。
さらにそれから、さっきの少年のような奴が生まれるんだ。ナイフを持って走って、相手の命をほいと絶っていく。
そこまで考えたところで、現代人にしては珍しくスマートフォンを閉じる。窓の外、流れゆく景色を眺める。
集団で登校する小学生。カバンを抱えて走る社会人。友人とはしゃぐ女子高生。あの人たちも、朝聞いたような曲を好んでいるのだろうか。
だとしたら。
僕らはきっと、命に嫌われている。
価値観もエゴも全部ひっくるめて曲に詰め込んで、歌われた人たちをいつも殺し続ける。命の終わりを美化して、自分のために殺したがっている。
そして、それを軽々しく電波に乗せる。聴いて、軽々しく死にたくなる。軽々しく殺したくなる。
軽い。薄っぺらい。そんな、冷めた目で見てる僕がいる。
そういうことしてるから嫌われるんだ。
今日も起きた。
いつも通りの部屋だった。
することもないので漫画喫茶に行こう。そう思ったのだが、財布は悲しいくらいに軽かった。
仕方がないので惰眠を謳歌することにした。
街に行って、金を稼いでこなきゃいけない。いや、普通に就職しないといけないか。
そうは考えつつも、ふかふかなマットレスの上から動けない僕は末期なのだろう。目を閉じて、柔らかな温もりに浸る。
無駄だ。
何も生産することもなく、資源を無駄に使って、地球温暖化を促進してただ息をする。1人きりで。「生きる意味」ってものがないんだと思う。
こんな奴でも一丁前に寂しさは感じるのだから、面倒臭い。
いや、「寂しい」という言葉で僕のこの傷が表せてたまるものか。寂しい以上の何かが、ずっと僕の中に巣食っている。
ここから出たくない。
この気持ちは誰にも理解されないし、理解されたくないんだろう。
だから、今日もベッドで意識を飛ばす。
……やっぱり、こういうこと考えるのも無駄なのだ。
今日もこうして、酸素と時間だけを浪費する。
部屋は暗くなっていた。夜が訪れていた。
朝からたくさん寝たので目がこれ以上眠りたくないと訴えている。距離にして一桁歩のキッチンに行くのが、普段より楽だった。
カップラーメンを作ることにした。お湯を注いだらそれで終わりだから、省エネできて楽である。
気づいたら一日が終わろうとしていた。気づいたらカップラーメンが完成していた。それと同じように、僕も気づいたら立派な青年になっていた。
そしていつか、朽ち果てる。
このまま何の成長もなく、誰にも知られず老いていく。道路脇の枯葉みたいに、そよ風で吹っ飛ばされてそのまま終わり。
でも、現実味もなくて。
面倒くさいことをズルズル後回しにする僕の性分もあってか、不死身の体なんじゃないかとか思ったりもする。
一生死なずに、このままぬるま湯に浸かるように生きていくんじゃないかって思ったりもする。
ただのSFじみた、僕の妄想。
そんなことを考えながら、ラーメンの不健康で中毒性になりそうな味を体に染み込ませる。ふとしたことから生を味わう。
味わったとて、僕の生と死のティア表は変わらない。でも、ある人にはそれが適用されない。矛盾していた。永遠の謎だった。
大切な人はいる。そばにいてほしいって思う人はいる。世話焼きで、生真面目で、頑固。
この気持ちは、エゴじゃないって信じたかった。自分のメンタルヘルスのためじゃないはずなんだ。
その人のためなら、生きていたいのかもしれない。ほんの少しだけはそう思えるから。だから、僕は終わらせる選択肢に辛勝できている。
このまま、この気持ちがふわふわしたままぼうっと生きていたらあの人に怒られてしまう。
「正しいものは正しくいなさい。」
そうキッパリと言う声が脳内で再現された。
「死にたくないなら生きていなさい。」
ラーメンを啜るのをやめた。
彼女の口調を真似して、僕も僕に言いたいことを言ってみる。
なぜか悲しくなった。そう言われるのは、言うのは嫌だった。それを口にした途端に、一気に死ぬという選択肢が追いかけてくる。
ふいに、気づいた。
軽々しく死にたくなって、軽々しく自分を殺したくなったことに、気づいたら。
嫌っていたものたちと、僕も同類だった。
「そうだったのか。」
じゃあお前は、ずっと1人でヘラヘラ笑ってろよ。
あいつらだけじゃなくて、僕も。
僕らは、命に嫌われている。
幸せを感じるのが下手くそで、過去と環境を憎むようにできている。
あの時、ああしていたらとか。自分はこういう親の元に生まれたから、こういう学校にいたから人生がおかしくなった。そう考えることだって少なくないんだろう。
だから、さよならが大好き。薄っぺらい歌の中の「死」っていう単語が大好き。無理にその単語を近づけている。
悲観して、諦めて、他責になって、簡単にさよならしようとする。
本当の別れとか、経験したこともないのに。
「……ラーメン、どうするか。」
食欲がどこかに飛んで行った。
箸を洗うのもラーメンを生ゴミとして処理するのもする気が起きなくて、硬くて冷たい床に寝転がった。
はたからみたらすごく滑稽な様子なんだろう。
やっぱり、怒られるかな?こんなことを考えたら。
あの人は、怒るかな?
背中と床に挟まれたスマートフォンが、早く取り出せとばかりに震える。
こんな僕に連絡する物好きなんて、どうせあの人だけなんだ。
そういえば、なんであの人と出会ったんだっけ。
思い返す。遠いあの日のこと。
幸福も別れも愛情も友情も、全部結局はカネで買えるって思ってた僕に、どこか周りとは違って異常に冷めていたであろう僕に近づいてきたあの人。
打算なんてなかった。ただあの人は近くにいた。
楽なんだって、あの人は言ってた。
『明日死んじゃうかもしれないんだよ。』
何かと理由をつけてあの人は毎日のように何かに誘った。
そのころから順序付けがうまくいかなかったから、とりあえずついて行っていた。
ある日の経験が、僕の何かを変えることになるとも知らずに。
『すべて無駄になるかもしれないんだよ。』
人並み以上に輝いていた、気がする。
夢って言えるようなものも見つけられたから。
『朝も夜も春も秋も必ずどこかで人は死ぬんだよ。』
だから、やりたいことをやる。
そう言って飛び立った。とにかく眩しかった。
君がいないと、何もできない気がしたから。本当はいなくならないでほしかった。
バイトを必死にして、お金をこつこつ貯めて、大枚はたいて機材を買ったのはなぜ?
『まだ死んでいないから。命ってやつに嫌われてはいないはずだから。』
記憶の中のあなたは、この世界の人間の中で唯一命に嫌われていないようで。
命に嫌われないように頑張っていた君が生きていられれば良かったんだ。
それが僕のエゴだった。
「まだ僕は死んでいないから。命ってやつには、嫌われているけど。」
そうだ。
本当は、あの人のような生き様を応援できる歌を歌うのが夢だったんだ。
すっと頭の中にその言葉が浮かんだ瞬間、冬が終わって草花が目覚めるように、何かの芽が萌える。知らず知らずのうちにかけていたコールドスリープが解かれる。ランク付けが変わっていく。
衝動のままに動く。
……狭くカビ臭いクローゼットの中。確かに「それ」は入っていた。
しばらく弾いていないけれど、歌っていないけれど、上手くできるだろうか。
上手くできなくても、「いい歌だった」「いい引きっぷりだった」と言えればそれでいい。この体の中から湧き上がってくる熱を使いたいだけだから。
生きるために。
僕は、僕らは命に嫌われている。
いつかは絶対に歌えなくなる。笑えなくなる。氷のように冷たくなる。枯れ葉のように朽ちる。
近くて遠い終わりというものは、あの人にも僕にも絶対にやってくる。
それを承知で僕らは生きていく。終わりが来ると分かっていても生きていく。
誰かを傷つけて、自分を殺して、必死こいて大切なものを抱えて笑って、ときたま落としそうになって抱えなおして、歌いたいことを歌っていく。そうやって、生きていく。
辛くても苦しくても、生きて生きて生きて生きれば。生きたいって思えば。
いつかきっと、命に好かれるようになれるだろう。
だから、生きろ。
壊れていた楽器は修理して、カップラーメンばっかりだった食生活も見直して、イチから音楽を勉強し直して……。
あの人から届いたメッセージに既読をつけていこう。こうしてまた助けてもらったお礼をしたい。
でも、きっと最初にやるべきことはこれだ。
紙に書き殴ったコードを整理した。
紙に書き殴った歌詞を整理した。
名前を記した。
ファイルに綴じる前に、タイトルをつけた。右端にはっきり、濃く書いた。
「命に嫌われている。」
これが一番、ふさわしいのだろう。
【曲パロ】命ばっかり
3〜4ヶ月かかりました、ようやく完成。
考察に考察を、検討に検討を重ねて、書きたいものを詰め込んだので激重になりました。ちゃんとした話になっていないような(致命的)
そのうち書き直す。かもしれません。
リクエストありがとうございました!
いろいろ考えさせられました、素敵な原曲さま↓
https://m.youtube.com/watch?v=YDnZFwlZa1g&pp=ygUP5ZG944Gw44Gj44GL44KK
カレンダーの日付を、クレヨンで塗りつぶした。先が磨り潰れる。それに伴って、日々も磨り潰していく。
結局、今日も成果のない一日となってしまったようだ。
うす暗い部屋で、そのままスケッチブックを掴む。画材も掴む。貴方のために絵を描く。
残念なことに、貴方は未だ興味を持ってくれない。これも駄目なのだろうか。カレンダーで逸れた気が、貴方との時間に戻されて、またやらせない気持ちが滲み出る。
「貴方」は我儘だ。
生まれた時から僕の側にいて、僕自身とも捉えられる。例えるならば、魂とか直感とか本当の自分とか性格、になるのだろう。
昔から好き嫌いが激しかった。どれを選んだとしても、貴方はしっくりこない様子だった。周りが好きなものを好きといって、楽しそうに活動するさまが羨ましいと思う心はあるのに、そうはならなかった。試しても試しても試しても、これだというものが、なりたいものが見つからない。嫌いではないが好きでもないものばかりだ。
スケッチブックを放り出す。しっくりこないものを長く続けられるわけがないことを、今までの十数年でよく僕は知っていた。
「大丈夫。いつかきっと、やりたいことが見つかるはず」
僕はどこへだって行けるのに、ずっと不正解を選んでいる。貴方は、理解した上で選んでいる。
僕と貴方には、住処も食べ物も正しい気候も選択することも飽和するくらいに与えられている。ここに地獄はない。選べる時代になった。個人を尊重する時代になった。いい時代、といえた。
その上で、理解できなかった。
座りたい椅子がない。開きたいドアがない。額縁に飾りたい絵がない。
努力しているのに、選びたいものがない。
「普通」とは違う「不正解」。貴方が真に愛しているのは、それなのではないかと疑ってしまうくらいだった。
「選びたいものが見つかるはず」
口に出すことはやけに簡単で、だからこそ許せなくなる僕がいる。
「おかしくなってしまった時間の使い方は、変えられるはず」
ただ安心したいがために声をあげているだけだった。
きっと見つからないだろうと。成し遂げられないだろうというネガティブが、貴方から僕に伝染している。
---
ふいに、動けなくなった。
帰りのホームルームの後だった。所属部活なしというレッテルをどうにか剥がしたくて、運動部から文化部、同好会まで。結局はいつも通りの結果に終わってしまったけれど。どこまでも単純明快な答えだった。
ここまでなのかもしれない。悟ってしまえばもう歩みは止まってしまって、動けなくなる。だんだん立っているだけでも辛くなって、誰にも見えないように注意を払って僕は地べたに座り込む。
やる気になるのは最初だけで、貴方が気に入らないということが分かれば、フロートのアイスクリームのように気力は溶け去ってしまう。
際限のない選択肢。もし、思いが最初だけじゃないのなら、その選択肢の全てが選べるのだ。本当の意味で。どこへだって、行けるはずだ。
「こうすればいい」という明確な正答がないままだけれど、進まないよりはマシなのだ。
頭の中のばらけていた思考がようやくまとまって、立ち上がって、一口水を飲む。
無味無臭かつ生ぬるい。正直好きではないが、生きる上では飲まなくてはいけないもの。例え好まなくても、喉に流し込むことを選択しなくてはいけないもの。水を飲むことは常識で、飲まないなんてことは普通の人にとってありえないことだから。だから、僕は今日も水を飲むにすぎない。
常識を得ることで、貴方と僕は過ごしやすくなる。飲み込み続ければ慣れる。
遠くへ、遠くへ、明るくてたくさんの人がいる街路へ辿り着けるように。暗く寒い夜を越えて、暖かな家が、人がいる街路へ。目が眩むそこへ。
さあ帰ろう、歩き出そう、暖かい暖かい街へと。
貴方に縛られて動けない、本当の僕は捨て置いて。
---
また昨日を使い切った。
日々なんてやつはポイ捨てされて、あっという間になくなっていく。今日だって、工作に時間を費やしている。やりたいものを見つける時間であり、普通を好きになる時間として溶かしている。
気付けばもう、学校というコミュニティから離れる時が近づいていた。うまく、馴染めないままだった。
かちかちに固められていたはずの地面が陥没していくようで、怖い。
高校。就職。趣味。恋人。部活。ぜんぶ、よくわからない。経験しようとしても、してみてもわからない。
「義務」であるそれから離れたら、僕はどうすればいいのだろう。
「知らない」を知りたかった。
貴方が行きたい方向を一緒に探そうとした。それだけだったのに、どうしてこうなった?
「楽しい」とか、「夢中になる」とか、社会に属する他人が当然知っていることを知りたかった。
知り得ることは結局なかった。水を飲むくらい、誰にでもできる。そういう圧に押しつぶされそうになって、やりたいのに出来なくなっていって、動ける範囲がどんどん狭まっていく。水面に上がろうとしても、うまく泳げなくて深海に落ちていくみたいだ。水圧が、強く、強くなって、息苦しく、なっていく。
水面に上がれないのに、今日も空を舞う蝶になる夢を見る。
「個性を大切にしよう」
「本当の自分を我慢しなくてもいいよ」
「自然体でいいんだよ」
何も我慢する必要はないと、周りの大人は言った。例えば人間が蝶になる、みたいな不可能な夢を見ることは、間違っていないんだって。諦めなければ叶うんだって。
だから、本当に好きなものを見つけようとした。見つけようとして、出来なかった。
「できた」
ずっと作っていた蝶が完成した。
お世辞にも上手とは言えなかった。
インターネットで見つけた、綺麗な蝶の作り方。珍しく貴方が嫌なことではなかったから、やってみることにしたハンドメイド。
セロテープががたがたに貼られた、羽を軋ませながら動く蝶を見ているうちに、視点がサードパーソンに移り変わるような気分に陥る。ひどくそれがつまらないものに思えてきて、好きになれない。
……他の子どもと同じものを好きになろうとした。好きになりたかった。好きになれなかった。
「本当に、これが正しいのかな」
こうしていつまでも好きなものを見つけようとすることは、普通に慣れようとするのは、果たして正しいのだろうか。
きっと、普通の人からすれば正しい。だからたくさんの人が行為や物体、概念を賞賛するのである。それが僕にとっては正しくないものでも、人々は褒めて好きになる。
『「普通」とは違う「不正解」。貴方が真に愛しているのは、それなのではないかと疑ってしまうくらいだった。』
疑う余地はもうなかった。
正しいを理想としていたから、置いて行かれた。追いつけなくなったんだ。
---
当たり前に過ぎていくはずだった時間は、何十年にも感じるほど長かった。
ベッドもなく、床で寝転がっている自分は着古したパーカーを着ている。苦痛しか感じないバイトをこなして首の皮一枚繋がっている。
過去に思い描いた自分は立派なスーツを着て、他人と楽しそうに笑い合っている。定職について、友達がいて、家庭がある。
社会不適合者と普通の人間。その溝は、簡単に埋まらないものだった。
胡蝶の夢。
普通になりたいと願う中で知った、一つの言葉。
夢と現実の区別がつかなくなって、自分が蝶なのか人間なのか分からなくなった。
たぶん、僕もきっとそうなのだろう。
そこまで考えたところで、アラームが鳴った。眠り過ぎた頭痛を感じながら、用意を適当に済ませて家から這い出した。
空気が冷えている。周りの人の視線も冷え切っている。そうとしか思わないし、思えなくなっている僕はもう、どこかに向かっているようでどこにも行けやしない。足が、誰もいない方へ向かってしまう。暖かい街路にも、昔描いた理想のロードマップのその先にも。
グズグズしているうちに、選べる椅子が減ったのだ。入れるドアが倒れたのだ。飾れる額縁が、他人に買われたのだった。
すべて貴方のせいだった。
どこまでも貴方に純情だったからこうなったのに、何もかも飾らないで分かち合ったのに、肝心の貴方の影が眩む。
「どうしたいの」なんて問えば、「どうもしない」なんて、そっけない答えを貴方は返す。好きも嫌いも言わない。貴方はもう何も教えてくれない。今日食べた食事も評価しないし、行きたい場所さえもなくなってしまったようだ。だからそのうち、ナイフとフォーク、どちらの手でどちらを持てばいいのか分からなくなったし、水を飲み込むことですらおざなりになった。
何にも、どれをとっても、わからないだけだ。だから、今日も眠れなくなる。眠り過ぎてしまったから、その後のことにも頭痛しかしないから。
ふと、横顔が目についた。いつのまにか戻ってきた玄関、無造作に置いてある鏡に映った横顔。貴方の顔であり、僕の顔。
引け目を、感じてしまった。
いつからこんなに、疲れた顔をしていたんだろう。なぜこんなに、幸せとはかけ離れた顔をしていたんだろう。いつ。なぜ。どうして。なんで。理解できない。誰か、助けてくれ。僕をこの深淵から救い出してくれ。
助けを求める顔をしていた。救われたいと喚いていた。黙っているのに、壊れたおもちゃの我楽多のように、ガタガタうるさい。
我楽多の口が、動くような気がした。
お前が傲慢だったせいなのに。
ずっと、新鮮な幸せを食いつぶしていた。古くなったら捨てた。夜、何かを作ったりやったりすることに飽きたから、ずっと捨てていた。
振り返ると腐敗物でできた道ができていた。蟻がたかっている。スケッチブックに、紙で蝶に、理解できない思考をしたものたちがたかっている。それは腐敗物なはずなんだけど、どうしてか有難がって啜っている。
捨てたものに価値を感じられずに、また新しいものを捨てていった。砂を噛むようで味気ない幸せを何回も使い捨てた。紙で作った指人形で少しの間だけ遊んで、もえるゴミとして捨てるみたいに。
どうすればいいのかわからないから怖かったんじゃなくて、使い切るのが怖かった。椅子が選べなくなるのが嫌だった。ドアが倒れてなくなるのが嫌だった。額縁を売るのが嫌だった。それが無くなるのをただ恐れていて、恐れながら進んでいた。
我儘な人間から離れていく僕の頭の周りに何があったか、だんだんとわかっていく。ようやく、ようやく、わかるようになる。無意識にわかりたくなかったと感じていたそれが、わかっていく。
だから、貴方の姿はどんどん小さくなっていく。貴方が小さくなっていく度に視界が広くなっていく。貴方はどんどん小さくなっていく。貴方が話したいことがなくなって、選択に選んだ僕は、選択すらできなくなっていく。
一番我儘で傲慢なのは、貴方ではなく僕だった。
止めだ。思想犯は、もう止めた。ずっとずっとわかれないことだけはしっかり知っていたのだろう。柱みたいに太く頑固な思想が、ようやく根本からぽきりと折れた音がした。
マッチを擦って、理想の僕が燃えて爆ぜていく音がすると同時に、頭の引き出しに限界を感じる。
引き出しのうち一つに入れて、また開けようとするともう開かなかったり、中身がすり替わっていたり、もう取り出せずにこびりついていたりする。なんだかもやがかかったようでうまく話せない。それ以外のやったことなんて引き出しごと捨ててしまった。
これを「頭の病気でなんらかの制限がかかった状態」だと思えれば。社会のせいとか、大人のせいとか、貴方のせいとか、思えれば。 頭の病気を直してすっきり新しく人生を始める気分にきっとなるんだろうけど、とりとめのない言葉では、剥がせそうに見えるけれど絶対に剥がせない。
本質は、変わらない。
今まで出来たことを繰り返しなぞっていくのは大変に退屈で、また屈辱で、きっと僕には耐えられない。
貴方じゃなくて、僕はたくさんの物が嫌いで、たくさんの物を選ばない。これまでもこれからも、変わらない。「脳がすっかり死んでしまっているのでもうこれ以上よくならない状態」だったら、すっかり殺してしまったのは僕だから、どうすればいいのかわからなくても僕は誰もきっと責められない。
ぐしゃぐしゃになった、泣き笑いみたいな顔が鏡に映る。今度こそ本当に悟ってしまったような気がして、もう無邪気に普通に固執することはできない。怖くて泣きそうなくらいに。
得た罪悪感が自堕落にも移動して、貴方に謝ることしかできなくなる。
こんなにわかれない人生だと思って生きていなかった。これから先、貴方と僕の人生は何が大切だったかわからないし、みんなが何に惹かれて生きてるのかわからない。
でもそれは貴方に穿った視点を与えられたのではなくて、ただ貴方が何もわかれないだけだったんだよ。僕もそれを、何もわかれなかった。だからこうなった。
どんなに貴方のことを今わかったとしても、何も貴方は言ってくれないのだから、全部僕のせいだから、このまま生きていくしかない。
残されたのは、ずっと僕に巣食っていた自堕落ではない。選択権でもない。胡蝶の夢の残骸でもない。
かつては純情に想っていた、|貴方《命》ばっかり。
【曲パロ】KING
https://m.youtube.com/watch?v=cm-l2h6GB8Q&pp=ygUES0lORw%3D%3D
原曲様です。Kanariaさんワールドの沼にハマりはじめました。
リクエストありがとうございました。
塔があった。
高くそびえる塔があった。
灰色の薄汚れた壁に蔦がまとわりついている。一目見てまともに管理されていないと分かる塔だった。
そこには王がいる。王といっても、もうじき処刑されるただの囚人だった。
外見にたがわず内部は薄暗く、寒く、鼠や蝿などが蔓延っている。そんな塔に近づく物好きなど、革命が落ち着いた今はもういないだろう。
1人の女がやって来るまでは、そう思われていた。
漆黒の髪に、血のような真紅の瞳。ファーがふんだんにあしらわれたきらびやかな衣装。黒のチョーカー。華奢な足を包み込んでいる網タイツ。その姿を見つけて、牢屋番は恭しく頭を下げる。
この国の次代国王と名高い少女であった。
革命軍を率いて、ここにいる男の立場を国王という華々しいものから囚人へと変えた張本人だった。
護衛は1人もいなかった。
牢屋番と一言二言言葉を交わすと、少女は堂々と塔の中へと入っていった。部屋の前までの行き方は、すでに知っているようだった。
ひび割れた階段を、ヒールでかつかつと叩く音だけが塔を支配する。
しばらくして、一度その音は止まった。しかし
、少女が有刺鉄線を通り抜けるための別種の音が響くことになった。
通り抜ければ、目的地はすぐそこ。
「久しぶりですね、陛下。」
代わりに少女の口が動き、凛とした声が響いた。
「お利口に幽閉されていましたか?逝く前くらいは。」
鉄格子の向こう側にいる、塊に話しかけているようだった。正確には塊ではなかった。
毛布を被った、人間がそこにいる。
「ユーヘイされてるんじゃ、利口になんて難儀でしたか?」
少女は「幽閉」という単語をあどけない声でなぞった。
「ねぇ、ダーリン。返事してくださいよ。」
少女は追い打ちをかけるように、愛する人に対しての言葉を使う。
しばらくして、毛布の中にいた人間はくぐもった声で返答する。
「幽閉なんてもうやめてくれ。知らなかった。知らなかったんだよ。勘弁してくれよ。」
父上も、私みたいな政治をしていたから。
母上も、これでいいって言ってくれたから。
そう言いたげな瞳だった。
いつまで経っても幼稚だった。
「お前も惨忍だと思うだろう?」
「思いませんね。」
冷淡に、震える王の投げかけを一刀両断する。
「民衆が、あなたの死を望んでいるのです。皮肉なことですね。一番大切にするべきだったものに、この牢獄の中で気づくのですから。」
紙束を鉄格子越しに王に突きつけた。無機質な投票用紙の束である。
「誰もがあなたの処刑を願っていること、愚鈍なあなたでも理解できましたか?」
「お前!」
大きな声をあげたものの、無機質な処刑器具の刃を思い浮かべてしまったので、王はそれ以上何も言えなかった。口をもごもごと動かすだけだった。
「楽しみですね。非常に。一足先に始めていたいような気がします。」
もうすぐ何が待っているのか、否が応でも分かってしまう。
眼前のヴァージンによる、民衆を幸せにするためのショー。
王には、どう頑張ってもその先は見えないのだろう。
「何でもする。土地だって、名誉だって、金だって、なんだって用意しよう。だから、私を助けてくれ!」
なけなしのプライドを捨てて王は懇願するが、その命乞いは全くもって無駄だった。
少女の王に対する愛は変わらない。愛はそこにはない。
「無いですね。あなたにお願いすることなど1つもありません。」
相も変わらず、王の言動は幼い。
「あなたはもう何かを授けることはできないんです。身の振り方を考えたほうがいいですよ。」
おまけに、警告まで与えられてしまった。
そこで王の張り詰めた思いは溢れる。
「私は王だ!舐めるのもいい加減にしろ!お前は、お前は婚約者として私を助けて、私を立てなくてはならなくて!」
左側も、右側も。歯を剥き出して、少女への敵対心も剥き出しに王は叫ぶ。
「生き恥晒して、照れくさいんじゃないですか?」
それでも王は左側に、右側に、ふらつきながら体を鉄格子にぶつける。出られないか、と模索する。
「私は王だ!この冠が、見えないのか!?早く出せ!出せよ!」
牢屋の隅で、埃にまみれてしまった王冠。それを少女に突きつけても、効果はなかった。
「Haha!」
楽しそうに、実に愉快そうに、少女は嘲笑した。
「確かに、あなたは王だ。だから何だ?ここから出られやしないのに!大人しく、処刑を待つしかないのに!」
軽蔑していた。
「それでも、あなたは王だ。」
鉄格子に額を付け、目を見開く王に限界まで近づく。
「You are KING.」
そう言い残して、少女は牢屋から去っていった。
冷え切った静かな空気と、王だけが残された。
「もう行っちゃうの?」
「わたくしはこれから大事な用事があるのです。戻ってくるまでにあなたが課題を終わらせたら、また遊べますよ。」
「やった!」
無邪気に遊ぶ、期待された少年。
将来、少女の側近として育て上げるのだ。この王国の王家の血脈自体は政略に利用できる。少女はそう考えていた。
たとえこの少年が、あの王の親族だとしても。利用しないという手はない。
自らの目的を果たすためなら、どんなことでもする。少女の決意は固かった。
またあの塔へと歩を進める。
「ほら、また来ましたよ。」
「お前か。」
今日も鉄格子の向こう側で惨めに倒れている王に少女は語りかける。
「あの子は今日も元気です。座学の成績も上がり続けていますね。」
「そうか。」
健気に王は笑う。今やこの王の楽しみといったら、少女から少年の成長を聞くことくらいだった。
「痛いのは消えましたか?」
「ああ。」
硬く冷たい床にいつまでも寝転がっていると、身体中が痛むのだった。たまに、牢屋番から暴行を加えられるので、なおさら痛くなる。
それでも、王は抵抗することすらできないのだった。
「そうですか。苦い思いもなくなったんですね。無様に死ねるじゃないですか。よかったですね。」
無反応だった。
うわごとのように、ラブ・ユーと繰り返す。ラブ・ユーが崩れて、王が繰り返す言葉はラブウになる。
「私はあなたのことが嫌いですよ。民衆もきっとそうだ。嫌いです。最低だと思ってます。」
それを聞いてすぐに、王は目からぼたぼたと涙をこぼし、ダウンする。
精神が長い牢屋での生活でやられてしまったのだろう。
王は最近、同じような言葉を繰り返したり、赤子のように喚いたりするのだ。情緒が不安定だった。
「なにか、あらたにねがいごとはないのか。」
たどたどしく、舌をもつれさせながら王は確かに少女に問う。
毎度のように、同じことを訊いていた。
やはり、愛情は変わらない。毎日通い詰めているからといって、変わるわけではないのだ。
「無いです。新たなお願いは。」
「『新たな』お願いは?」
王は勢いよく跳ねて、食い入るように少女を見つめた。
「はい。」
さながら聖母のような美しい微笑みを浮かべて、少女は何かを牢屋の中に投げ入れた。
王はそれを拾い上げる。
「これはわたくしたちが元々願っていたことですよ。」
喜ばしいものではない。王が期待していたような、牢獄からの解放の知らせではない。
ある意味、解放の知らせではあった。
「舞台は整った。」
生からの解放の知らせだった。
「そういうことなので、あなたは死ね。」
張り詰めた糸がぷつりと切れるように。静寂は壊された。
どやどやと兵士たちがなだれ込んできて、牢屋の鍵を開け王を拘束する。
「やめろ!離せ!私は王だぞ!誇り高きこの王国の、王である!」
誰も王の言うことなど聞かなかった。
左を見ても、右を見ても民衆たち。
口々に罵声を浴びせ、石を投げつける。
王の体も心も、もうボロボロだった。王の威厳はどこへやら、そこにいたのはやつれた囚人だった。
「お前たちが、お前たちが邪魔しなければ!革命さえ起こさなければ!私は今も、きらびやかな宮殿で幸せに暮らしていたはずなのに!お前たちが、おまえたちが、おまえ……」
歯を剥き出して、汚れた言葉を王は放つ。
「Haha!」
元婚約者の醜い姿を少女は嗤う。
「あなたは王だ。でも、これからはそうじゃなくなる。地獄に王冠は持っていけませんよ。」
用意されていた真紅の椅子の上で。処刑器具から少し離れたところで、少女は見物する。
いつの間にか王冠は、少女の網タイツの上にあった。
「You were KING.」
少女が吐き捨てた時、王は事切れた。
「万歳!万歳!新たな王に万歳!」
民衆が両手をあげて、もう二度と動くことがない囚人を目に焼き付ける。
「即位おめでとうございます。これからは、あなたが王です。」
「ありがとう。」
王は、王としての立場を活用して、あの道化を見つけ出すことを再度誓った。
「エンヴィーベイビー。わたくしを弄んだ罰を受けさせてやる。絶対に。」
いつか関連曲でもやりたい。改めて、リクエストありがとうございました。
【曲パロ】flos
お待たせしました。
本家様です。イントロの中毒性が凄すぎます。
https://m.youtube.com/watch?v=bUbOc97FpUA
朝起きてまず、熱っぽいと君は言った。
「なんだか熱がある気がするんだよね。ごめん。体感、八度五分?ごめん。今日、お出かけの予定だったのに。」
「でも、着替えて仕事行く気なんでしょ。今日くらいは休んだほうがいいんじゃない?」
「ありがとう。」
「一応、病院に行っておいたら?」
「大丈夫だって。うん、君の声聞いてたら大丈夫になってきたかも。行けるって、仕事。」
拝啓。あの時の僕よ。
もう少し強くあの人に言っておいてください。あの人の願いも、未来も、なくなってしまうのですから。
僕は絶え間ない後悔に、苛まれることになるのですから。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
「私は大丈夫だって。ほら、他人の心配よりも自分の心配だよ。」
再啓。あの時の僕よ。返事をしてください。
あの人を絶対にそ外に出さないでください。休ませてください。そばにいてください。
取り返しのつかないことになります。
「植、物、状態?」
熱と立ちくらみで運悪く街中で倒れた。運悪くそこが赤信号になりかけた横断歩道で、運悪く車は止まれなかった。
……様々な要因が重なって、君は植物になってしまった。あっけなかった。医者につらつらと説明を垂れ流されて、すぐに受け入れることを要求される。
君の想いは消え去った。僕の心配は、憂いは杞憂なんかじゃなかった。ぐるぐると頭の中で回る感情論。膨らみ暴れて、僕を責め立てる感情論。
いつか見た悪夢が本物になったのだろう。八度五分程度の悪夢は軈て散ってしまった。例えるならば四十度を超える恐ろしい高熱。それが僕たちに襲いかかってきたのだろう。
約半径八十五センチ。それだけの小さな世界に、君は囚われた儘になった。ベッドに横たわってぴくりとも動かない。助けをただ待つRPGのお姫様のように、そこで眠っている。手に取れるものが取れなくなり、視界に映せるものも前よりずっと限られてしまった。
白いベッド、変わり映えしない天井、スマートフォン、テレビのリモコン、財布、手帳、ボールペン、ハンカチ、ぬいぐるみ、写真立て、小説、スケッチブック、画材。それと、窓際の花瓶。
君の世界は、それぐらいにとどめられてしまった。少なくとも、質素でつまらないと僕は感じた。
あなたの世界を、どうにか彩らなくてはいけない。僕の急務である。
花瓶。そうだ、花瓶だ。
病室に、花を飾ることにした。
病院からさほど遠くない花屋。色とりどりの美しい花々が飾られている。
品揃えが良すぎて、何を選ぼうか悩む。一部を省略した上で、花屋の店員に相談することにした。
「それでは、あなたの本音を飾ってみては?」
ただ恋人に花を贈るだけ、と認識している店員。並んでいる花々に負けないくらいの笑顔を見せた。
「普段は言えない本音ですよ。」
「普段は言えない、か。」
いつそれを言えるようになるのか分からない儘、罅割れた日々を誤魔化すように花を買い続けた。
暖炉に薪を焼べるように。淡々と挿され、立ち替わり入れ替わる本音たち。そよ風に乗せて、ふわりと柔らかな匂いをそれは届ける。ぐずついて錆びた空に負けないように燦々と輝く花瓶。
ただただ、美しかった。
初めて花を買った。ダフニーと呼ばれるらしい。
「今日から花を買うことにしたんだ。」
返ってこない返答に落胆しつつも、花瓶を君の目の前に置いて、見せつけた。君があたかも今、目を開いているかのように。
「花言葉は勝利だってさ。いいチョイスでしょう。それに、綺麗だよね?このダフニー。」
しばらくの沈黙から遅れてやってくる、二回目の落胆。
「窓際に飾っておくね。早く起きて、花言葉を本当にしてよ?」
記録も取ろう。スケッチブックに花を集めて、あなたがいつ起きて今までに飾られた花々に興味を持ってもいいように。
ダフニーの次は、フィリクスを買ってきた。
「花言葉、意識しちゃったんだ。」
枯れかけたダフニーをそっと摘み、水を新しいものに変える。主役を挿す。早朝の水はやはりよく冷えていて、フィリクスは心なしか震えているように見えた。
「夫婦愛だって。ちょっと早かったかな。僕ら、まだそういう関係じゃないからね。」
将来について君がどう考えているかも、分からないや。
早く教えてほしい。
包装紙に可愛らしく包まれたアイリス。思わずリラックスしそうになる香りが部屋いっぱいに漂っている。
「これ、何か知ってるよね。アイリスだよ。花言葉は希望とか良き便り。あとは、信じる者の幸福?」
先手を打つ。君が話しそうなことを予測する。
「君が教えてくれたんでしょ。ちゃんと覚えてるよ。」
忘れっぽい僕をよく叱っていた君。もう叱られないように、きちんと直したつもりだ。
「君のこと、信じてるからね。」
お褒めの言葉は、まだない。
「今日はクイズをします。」
改まった口調で、後ろに隠していたマーキアをサイドテーブルに置いた。
「このお花はなんでしょうか。」
束ねられた華やかなブーケに見向きもせず、あなたはただ天井を薄目で眺めるだけだった。
「マーキア。白くてふわふわしたお花。僕も今まで知らなかったから、新鮮だよ。お花屋さんに感謝だね。花言葉の幸福の通りだ。」
少しだけ、瞬きが出来ることが。
まだ、生きていることが。
マーキアの花言葉に該当すると信じて、今日もこれを買ってきた。
この病室の下には庭園がある。
色とりどりの花が植えられた庭園だ。
出来たらそこに行ってみたかったのだけれど、あなたはその日に限って体調を崩した。
「窓から見えないかな?あのピンク色の花が見頃だって。」
リスラム。そう呼ぶということを、一人きりの散歩で知った。
「いつか見に行けたらいいね。」
あなたの体調を考えるがゆえに、世界を彩れない悲しさ。
花言葉が愛の悲しみであることを、のちに僕は知った。ちょうどいいな、と思ってしまった自分がいた。
どうしてそんなことを思ってしまったのだろうか。マイナス思考にならないように、気を付けていたはずだったのに。
「ミリカだって。この前のリクニスよりは見えやすそうなところにあるよ。美味しそうに実ってる。」
あなたの水晶体が、虹彩がようやく仕事をしたように感じられた。感情の起伏は見られないけれど、確かに見てくれたような気がする。
「子供の頃、食べたことがあるんだ。懐かしくなってきた。」
回復している、のかもしれない。
ただ1人を愛して看病している、意義があるのかもしれない。
つい調べてしまう花言葉。ポジティブな意味を持っていて、自分の頑張りが報われたように思える。
だから、また明日からもこの病室に来られる。
体調が良好になったと思えば、すぐに悪くなる。かなりあなたは気まぐれだ。
窓からはサービアの一部分が見える。アワブキを指すのだったか。クリーム色の泡が幾重にもかぶさっているように見えた。
久しぶりに何も話しかけずに、ぼんやりと一人だけでその泡を眺めた。
六月の雨にも負けずに花を咲かせたその姿は、凛としていてよく花言葉が似合っている。
「芯の強さ、か。」
まるで持ち合わせていないものだった。僕のそれは脆くて、すぐに折れてしまいそうだと自覚していた。
じゃあ、それはいつまで持つの?
ドアが滑らかに開く。ちょこんと飾られた花は既に傷んでいた。鮮やかだった色は燻んでいた。日々の思い出が色褪せていくように。
飾っても飾っても、直ぐに枯れていくような気がする。延命剤も使っているのに。
花のエキスパートでもなんでもない僕にできることといったら、これからも花を交換し続けることくらいだ。
花瓶から枯れたマーキアを取り出して、ダフニーに入れ替える。丁寧よりも丁寧に。丁と寧に分けてやるくらいの心意気で。水も新鮮なものになり、花瓶越しの茎が鮮明に見えるようになる。
しばらく同じ花ばかりを購入していることに気づいた。だんだん色合いとか花言葉とか値段とか、そういうものを考えるのが怠くなってきて、思考を放棄したままだった。
片手に持っている燻んだマーキアは、色づくことのない一方的な日々を象徴しているのだろう。
お見舞いに来ても身の回りの世話をしても、あなたはいつも植物のようにじっとして何も返してくれない。この看病の意味はあるのかと疑ってしまいそうになるほどに。体力とメンタルを擦り減らしていくだけだ。
前々からうっすらと感じていたそれを頭の中で形作ってしまったその時、ふっと夢から覚めたような気がした。
愚鈍だ、とはっきり思った。はたから見てもきっとそうなのだ。こうなったらもう戻る確率はかなり低いほとんどないと分かっているのに、縋ってしまう。
縋る意味なんて、無い。無いな。無いのに、どうして離れられないのか。
花びらのごく僅かな部分にだけ元の色が残っているように、一抹の期待が、まだ僕にも残っているのだろう。
サイマス。またの名を、イブキジャコウソウ。
「たまには、花屋で買うだけじゃなくしようと思って。」
買う場所が花屋からホームセンターに変わっただけではない。花瓶の隣に小さな鉢を新しく用意したのだ。
淡い桃色で、花付きも良好だ。ちょうど今が見頃らしい。
ただ、花言葉は僕を弄ぶようなものだった。
独立と自由、だ。
僕は彼女とともに病室に縛り付けられてはいるものの、あくまで精神的なもので、いつでも抜けられる。自由になれる。
頭では分かっているものの、実行する勇気を振り絞れない。
鮮やかな赤い花を咲かせたリベスが目に入る。痛いくらいに眩しかった。
ガラガラと音を立てて車椅子をリベスに近づけると、ふわりとリベスは揺れて花をひとつ落とした。近くの低木、アベリアからも白い星型の花がプレゼント。艶めく黒髪に紅白が添えられる。
しばらくその光景を眺めた後、花を摘んだ。あなたのおでこに手が触れて、その冷たさにぎょっとする。
「冷えちゃったか。今日はもう戻らないとだ。」
あなたの顔色は悪く、口角も下がっている。せっかく外に出られたのに。強運だと思ったのに。喜ばせようと思って連れてきたのに。こうして、あなたの不機嫌がまた僕を苦しませるのだ。
もしかして、と悪い思考が頭をよぎる。実は、こうして看病されるのをあなたは望んでいないのかもしれない。
本当だったとしたら最悪だ。こっちは考えたり思いやったりしなくてはいけないことがたくさんあるというのに。不安や虚しさがないまぜになった、うまく言語化できない思いが湧いてくる。
まただ。考えないよう意識しても、不意打ちされて深いダメージを負う。
生きていただけで良かったじゃないか。強運じゃないか。謙虚に堅実に、慎ましく生きていこう。
でも、ネガティブなことを考え続ける僕だって最悪だろうな、と更に考えてしまって、薄く苦く笑ってしまった。
萎れたサイマスの横に、さらに新しい植物を追加した。薄黄色の花がまろやかな輪郭のグラスに入っている。
「また追加してきちゃった。流石にやりすぎかな。」
ルーティンとなった花の手入れも、今日は新入りのおかげで少し新鮮だ。
手入れをしつつも、あなたの様子はしっかりと確認する。青白すぎないか、逆に赤らみすぎていないか。変な呼吸の仕方ではないか。警戒する。注意する。神経を張り詰める。あなたを想っているという証明なのだと信じて。
あなたを想うこと、それ即ち、リラックスして過ごすこと。その常識が崩れたのはいつだったのだろう。
最近は天気にも恵まれていた。
窓際のフェリシアもきっと喜んでいる。太陽の光をたくさん浴びて、生き生きとしている。まだ、今はだが。
ひとつ、優しく切り取って花瓶に久しぶりに挿した。空の色とはまた違ったブルーが映える。
オクナも見える。逆にこちらは血のような赤色だ。重なるとコントラストが美しい。
今日もあなたは感想を抱けないけれど。
幸福だ。きっとあなたが生きているだけで幸福なのだ。つまらない幸福論で、どうにかならないために、復唱してみる。
気分は晴れなかった。
鉢だらけになった猫の額ほどのスペース。枯れたフェリシアが挿された花瓶、茎がボロボロになった植物が植った茶色いポット、そしてビロードのような繊細な毛に覆われたリクニス。
久々に花言葉を調べてみる。でかでかと「私の愛は不変」と映し出されて、目のやりどころに困る。
なんたる皮肉だろう。つらつらと澱んだストレスしか吐き出さなくなった僕の脳に、この言葉を突きつけるなんて。
もう、限界が近づいている。
君が僕にくれた、声も、色も、揺るぎない愛情も。行き先を教えてくれた、一番星も疾うに散ってしまった。残っていなかった。
疲弊してモノクロになった脳細胞では、日々の意味を考えることに難儀する。色をつけたかったはずなのに、季節はどんどん色が抜けて、擦れて鈍く膿んでいく。
「もう限界なんだ。」
街に独り言が溢れる。
とっくに許容範囲を超えていた。生還するのでなく、呆気なく死ぬのでもなく、か細く緩く命を繋いだという事実がどれだけ辛いことか、知らなかった。君も知らないし、誰も分からない。
荒んだ日々を丁に、寧に、繊細に辿れば花は咲く筈で、君は戻る。その考えが間違っていた。
体温が下がる。僕が芯から熱を奪われていく中、今も君は利口にベッドで夢を見た儘。
点滴から落ちる、命を保つための水。
粛々と注がれていた。
その日の夜は気持ち悪いくらいにすっと眠れた。眠るという行為に嫌気が差していたから、眠りたくなかったのに。ベッドに転がった途端に瞼がとろけた。
溶けたチョコレートが冷蔵庫で冷やされるように、また輪郭を取り戻す。
木の下にいた。葉が強すぎる太陽の光を和らげて、ちょうど良くしている。花を見るのにも適した光にしている。
柔らかく、美しく。視線の先に、花が咲いている。まるで映画のワンシーンのようだった。
近くて遠い。目はすぐそこにあると訴えているのに、手を伸ばしても届かない。雲の上にあるかのようで、ふわふわ浮く。違う星にあるかのようで、別のフィルターを通して見ている気分になる。
はっきりとした夢の先で、揺れている。
夢。夢だ。今まで持っていた夢、それの花。
理想の花だった。
目覚めると、花は消えてしまった。どこにもなかった。理想の花、だから当たり前なのだろうか。
届く筈だった理想は、もう既に遠い夢の先。燻んだ日々に足をとられて、もう追いかけることはできない。
いくら花を飾ったところで、出会えるわけがない。無為に花を枯らすだけだ。
愚鈍な僕はようやく夢から目覚めた。
縋る意味は本当に、無い。
「別れよう。僕たち、別れよう。もうお終いにしよう。」
あなたに聞かれるだけの、宙ぶらりんな言葉たち。
不毛な日々を綴る中で、描いた一輪の「理想」の花。リクニスが挿された花瓶の横に、あなたのスケッチブックから切り取ったその「理想」を飾った。
ダフニーも、フィークスもアイリスも。マーキアもリスラムもミリカもサービアも、飾らなかった。
「僕の愛が不変であること。それが理想だったんだよ。」
ドライフラワーになりつつあるあなたと花瓶のリクニスは、僕を嘲笑うように陽の光に照らされて眩しくなっていく。
どうせお前は、離れられないんだろうと。いくら口先だけ別れを告げても、結局明日には此処に来るんだろうと。
「ううん。もうほとんど来なくなるよ、きっと。さようならだ。」
不遇な僕らの関係はおしまいだ。必要な書類も用意した。本当にこれで終わり。ずるずると続けていた関係にも、細く伸びる命にも、終止符を打つ。
引き留めるように訴えかけるリクニスに独り言を残した。
「いつなら言えたんだろうね。本音も、夢も、誓いの言葉も。」
誓ったことも、暖かな家庭の夢も、植物になった君に敗けた。出来ないと理解しているから、なかったことにする。
スケッチブックの横に、銀色に煌めく輪を静かに置いた。
扉を緩やかに閉じた。汗でじっとりと湿った手を離した。
もう見えない、|花《flos》。
【曲パロ】あだぽしゃ
冬の時期に書き終わりました。誰が何と言おうと2月はまだ冬です。異論は認めません。
いつかうらぽしゃも書きたいですね。いよわさんの楽曲から広がっている綺麗な世界観とストーリーが私はどうしようもなく大好きです。
原曲様です。とてもお洒落です。
https://m.youtube.com/watch?v=Wr-2xcQkke4
ずるずる、ずるずる。
真っ白い世界で、私があなたを引きずる音だけが聞こえる。ふわふわの雲みたいな雪が、あなたが通った後だけぺしゃんこになった。
腐りかけの手で引きずる。とうに感覚がなくなった手は、私の手だと思いたくなくなるくらいにグロテスクな姿に変貌している。だらんと垂れ下がっちゃった、|栄光の手《ハンド・オブ・グローリー》のような、私の有り様だった。
寒さでもっと肉体も精神もおかしくなる前に、暖を取らないと。早く。どこかに山小屋は、休めるような洞窟はないか?
この山に来なければ、きっとこんな風に惨めに歩き回ることはなかった。きっときっと、今も幸せに暮らしていた、はずだった。何でこんなこと、しようと思ったんだろう。
寒い。脳を働かせても、私が温まることはない。
無様な貧民のように、この持っているたった1つのたいまつに安心して縋れるようになるまで歩くしか、生き延びる道はない。
歩きましょう。
痒い。
いったい何日風呂に入れていないのか分からないけれど、とにかく痒かった。アレルギーを起こしているようだった。治りきっても痒くて痒くてたまらない水ぶくれのようだった。引っ掻いても引っ掻いても、引っ掻く手自体も寒さでやられているのか、痒くて痒くてしょうがなくて、どうしようもない。
たぶん、痒いのはそれだけが原因じゃない。目を瞑るごとにやってくる恐ろしい悪夢のせいでもある。
あの日の夢。私が間違えてしまったその日。私が、魂まで爛れ果てるような夢を見始めたその日。間違えなかったらきっと、私はひとりぼっちで貴方を引きずりながら歩く羽目にはならなかった。
ああ、どうしてこんなことに。
貴方のことが大事だったはずなのに。寒くて寂しくて殺風景で苦しいことしかないこんな場所に、どうして。
隙をついて飛び出してきた、棘を持った夢の続き、それから熱々の涙が私を蝕む。寒くて辛いはずなのに、熱すぎる涙は嫌いだった。
大丈夫、私は大丈夫。呟きながら、貴方を引きずっていない方の手をもう片方に擦り合わせて、指を温める。大事にしてた秘密のおまじないも一緒に唱えてあげれば完璧だ。
ふと、わけもなく体が震えた。涙が急速に冷えていった。氷みたいな温度まで。
いや、元から、涙なんて熱くなんてなかったのかな。体が冷めきっているのに、涙だけ熱いなんてこと、あるのかな。
わからない。だって私はあまり外に出たことがなくて、何も知らなくて、私よりもものを知らないあなたを時に馬鹿にしながら生きてきたんだから。
あなたなら、私の涙は熱かったのかわかるの?
私はあなたから手を離した。その後に振り返った。ダウンコートの中は見えない。暗く、私を丸呑みしてしまいそうなほどな黒色が広がっているだけ。
「あなたなら、分かるの?」
声に出しても、返事はやっぱり返ってこない。あなたは私が嫌いなのね、分かり合えないと思っているんでしょう。
そうじゃないことは分かっていた。だってあなたはもう既に、この寒さに耐えきれなくて、どうしようもないから私が引きずった。
私たちもう一生、分かり合えないことなんて分かっていた。だから、お互い幸せになりましょうね。あなたを麓まで連れていってあげるから、私とは違うところで幸せになってね。
文字すら読めない、人の形をした猿よ。
今も思い浮かべられる。立ち入り禁止の看板の前で、あなたが青ざめた顔で言った一言。
「申し訳ありません、私は教育を受けられておりませんので、こちらの看板の文字は読めません。」
何度も何度も私の前で言ったであろう、その言葉。私はその姿が好きだった。私に従うことで生きながらえている、可哀想な猿であることがはっきりするのだから。
「行きましょう。」
だから調子良く、言ってしまったのかもしれないわね。この先に進もうと。遺言じみた死の言葉を。いや、もうこれは遺言なのかもしれない。当然のように、外気で口もうまく動かないのだから。短めに、たいそうお気楽に、遺言を済ませちゃったものね。
それで、いいのかもしれないけれど。
だらんと垂れ下がっちゃった、雪を擦るあなたの手。もう握力が発されなくなってしばらく経って、きっと中身はグロテスクだ。
私にうるさく「|目《め》を|見《み》て|話《はな》してください」「お|野菜《やさい》を食べてください」「お|勉強《べんきょう》してください」と、周りの大人と一緒になって懇願していたその手は、頭を垂れ、膝を折って土下座した時に地べたに擦り付けていたその手は、私と揃って寒さに壊された。
「あなたの姿はまるで、日の光に翼もがれてイカロスみたい。ねえ、イカロスって知ってる?あなたは知らないわよね、お勉強できないんだから。」
私は早口で捲し立てる。口を開ければ氷の礫が吹雪いてくるこの山では、長い間は喋っていられない。
イカロス、それは囚われの身でありながら蜜蝋で作った翼で飛んで、太陽の熱でそれ溶かされた青年。囚われの私と飛びたって、私が行ってみたかった冬の雪山に飛んで、哀れにもその身を寒さで凍らされたあなた。熱いか冷たいかの違いはあれど、結局同じ。
麓に着いたら変わることも終わることもなく続く棺桶に入れられて、じきに無様に燃やされる。私とは違って。
いや、本当に私とは違うのかしら?私はこのままで、生きて帰れるの?私自身はイカロスじゃないの?
身に余る寒さと、答えようのない問いが、また隙間から襲いかかってきた。私を狂わせようとするそれをなんとか払って、歩を進めるその向こう側。ぼんやりと見える黒い影は、小さな山のような形をしていた。
ずっと探していた、休める場所だった。
残りわずかな体力を振り絞って扉を開ける。たいまつを消えないよう気をつけながらちょうど良さそうな所に立てて、あなたを引きずり込み終わったそのすぐ後には、私は座り込んでしまっていた。外から見て明かりがついていなかったので誰もいないとは思っていたけれど、予想通りでも辛くなる。
今までの人生で一番の疲労。小屋に入っても猛威を振るう寒さ。まずはまともに眠れるところへと移動しようとしたところで、足がもつれて私は転げる。これ以上ないくらいに冷やされた金属の床と顔、痛む手が思い切り触れて、私は悲鳴をあげてしまう。慌てて起き上がっても、鉄でできた処刑台を彷彿とさせる、ふと伝わったその温度だけで、腐れ落ちゆくのは手だけじゃ無くなってような気がして気が狂いそうだ。
嫌だ。また死にたくない。私を処刑しないで、殺さないで、無事に家に帰して。
叫び出しそうになる。同時に馬鹿らしくなって、叫ぶのをすんでのところで抑える。
あんなに飛び出したかったのに。あのつまらない世界から飛び出して、いろいろな行ったことないところを見たかったのに。交差点に渦巻いている、私を見る悪意のような揺らめきのせいで靴を履いて外に出るのも怖くて逃げたかったのに、今は一刻も早く戻りたいと思っている。なんておかしいんでしょう。馬鹿みたい。
このままだとより気が滅入りそうなので、早くあなたの隣で寝ましょう。寝たらまた麓まで歩く元気が出るはずだから、目を閉じるだけでいいのだから、横になりましょう。長年愛用しているマットレスも羽根ぶとんもふかふかの枕もない中、私は寝ようとしたけれど、できなかった。外が暗くなるまで頑張ったけれど、何もない中では眠れそうにもなかった。目元を触ってみれば深く落ち込んでいて、頭がまだ寒さと睡眠不足に殴りつけられていることは誰が見たって分かる。それこそ、頭が足りないあなたでも分かる。
これ以上は無理だ。これ以上、あなたを連れて帰ることはできない。もし連れて降りようとしたら、麓に着く前に私が倒れてしまう。
「私たちもうずっと、互いのこと好きじゃなくていいでしょう?私は幸せになれるのよ、ここじゃない所でも。ここは私の最後の土地じゃない。私はまだ、生きているんだから。」
沈黙は肯定の合図だ。あなたの気持ちは私に伝わらないから、私たちもう一生分かり合えないけれど、あなたは私が大好きだったんだから、置いていくことくらい許してちょうだい。
「お互い幸せになりましょうね、バイバイ。」
あなたがいたからこんな場所に来られる気がしちゃったんだから、来世は私の顔なんて忘れてよ。
解けかけたブーツの紐を結び直す。小屋を出る前に、もう少しだけたいまつでゆっくり温まりましょう。煌々と輝く炎に近寄って、私が手を伸ばしたその時。
たいまつが倒れた。私の腐れ落ちる手に当たった。
その瞬間、ぐわんと手が燃え上がっちゃった。経験したことのない痛みが私の腕にやってくる。
熱い、焼ける。早く外の雪で冷やさないと。ああでも、かつてどこかでお勉強した。|栄光の手《ハンド・オブ・グローリー》は、牛乳でしか消えない。私の蝋になりゆく手は、もう消えない。熱い。怖い。体が、蝋でできた翼の代わりの足が、溶ける。こんなところで死にたくない、ずっと抱えていた自我も溶け落ちていく。今はただ、どうしようもなく熱い。
肥大化した自我と一緒に、急いでこしらえた安物ブーツを脱ぎ捨てた。せっかく綺麗に結び直した紐は、邪魔くさくてしょうがなかった。
解放された足でひたすら走る。焼けるように熱いから、ふわふわのファーがついた上着も脱いだ。脱げるものは脱いで、頭につけていたリボンも外して、ようやく私の体はちょうどよくなった。
いつのまにか、夜明けが訪れる時間帯だった。太陽が昇り出して、どんどん視界が明るくなって、真っ白い雪の感触が心地よくて、もうまったく寒くない!こんなに調子がいいのはいつぶりだろう、つい中途半端に嗜んでいたダンスを踊り出してしまう。下はふかふかな天然のカーペットだから、上手には踊れないけれど、楽しい。仰向けになっても、楽しくて楽しくて、笑いが込み上げてくる。
端正な冬の雪山の朝。あだぽしゃになっちゃった手がきらきら燃えていて、すごく綺麗な朝。あんなに気持ちよかった温度は急速に地面に吸い込まれて、どんどん体温は下がっていく。しばらく起き上がる気はない。あなたと私2人で、逆方向の列車にはもう乗れない。たどり着けない。切符は、自分で轢き潰してしまったのだから。轢き潰してごめんなさい。つまらないって切り捨てたけれど、私、本当は嫌いじゃなかったのかもしれない。
「わた、わたしたち、もういっしょう、分かり合えなくても、あるぁいて、行くの!」
呂律はもう回らない。私「たち」でもなくもうひとりぼっち、分かり合えないけれど、私は歩いていくの。もう少し元気が出たら、お互いが幸せになるために歩いていく。私1人なら、逆向きの列車に乗れるの。
あなたが遠いいつか出会う人は、すれ違わないといいわね。お互い幸せになりましょう。私に新しく訪れる幸せはどんなものなのか、想像しながら、ゆっくり休むの。
遠くから、高らかなベルの音が聞こえる。そうだ、麓に降りたら教会に行きましょう、あなたを置いていった懺悔を聞いてもらってから幸せになったほうが、すっきりできるもの。
意識がとろける前に、もう一度素敵な鐘の音が鳴った。
【曲パロ】明けない夜のリリィ
今までFukaseくんボーカルの曲を聴いたことがなかったのです。
どこまでも優しい歌声、沁みます。
原曲様です↓
https://www.youtube.com/watch?v=-Y99kjXi2SE
地球が回ってた時代は終わって、朝は永遠に失われた。
当たり前は当たり前なんかじゃなくなった。僕が正しいって思っていることも「全部間違っている」ことになっている。
僕だけが普通で、僕だけが正しい。ひとりぼっちでずっと、間違いが多すぎる間違い探しをやらされているみたい。
いつからかおかしくなってしまった世界は、ちっぽけな僕1人ではどうにも直せなかった。それどころか、力がどんどん吸われていくようで、身動きがうまく取れなくなっていった。止まって歩き出せない。前に進めない。ただ、おかしい方向に変わりゆく街を眺めることしかできないのだった。
だから、なのだろうか。
「リリィ。」
「……おはよう。」
この夜がいつまでも明けないから、僕は彼女を閉じ込めている。ひどく殺風景な檻に。いつもいつも、彼女はただ座っていた。ただ僕の側にいた。
「今日も歌ってくれる?」
肯定の代わりに、彼女は口ずさみ始める。穏やかな、透き通った声。寒くて真っ暗な宇宙にぽっかりと浮かぶ月の代わりだ、僕は勝手に思っていた。
この声がいつも、僕を優しく照らしてくれるのだった。
「リリィ、リリィ、明日も側にいてくれるかい。」
リリィは言葉で反応はしなかったけれど、一度立ち上がって椅子を、さらに僕の方へと近づけた。
僕はより一層夜が遠ざかっていくのを感じる。リリィはその真昼のような、溌剌とした声でなぞり続ける。僕が大好きな、煌めく希望の歌を。
光の降る、世界一綺麗な街の歌を。
今日の世界も曇っている。
世界は夜に染まっただけではなかったみたいだった。茹だりそうなくらいに暑い夏は、木の葉が舞い散る秋は、一面銀色で埋め尽くされる冬は、ぱたりと巡るのをやめた。
僕が大好きだった春は、もう永遠に訪れなくなってしまった。
なんともいえない気温に、花が咲いているわけでもなく枯れているわけでもない植物。置いてけぼりになってしまった風物詩。その名残を見ることですらもうなくなってしまって、ひたすらに気分は沈んでいく。リリィと春の空を眺めることはできないんだと決められてしまったようだった。
ぼんやりと、覚えている。
リリィと2人でうららかな春の日に出かけたこと。こんな檻にリリィを入れていない時代に、手を繋いで歩いたこと。リリィと美しいものを眺められたことが、僕は嬉しくて嬉しくてしょうがなかったこと。
細かい部分はもう分からない。おかしくなった世界が、季節の移り変わりとともに奪ってしまったのだろう。
そのことを考えると、また淀んだ澱のようなものが心に溜まっていく。思考が濁っていく。僕が少しずつ薄れていって、壊れていく。僕だって、こんな世界で無事でいられるはずがないのだから。全てこの夜がいつまでも明けないから、世界が壊れてしまったからなんだ。
どうしようもなくなってしまったものに抗うのは怖くて怖くて、かといってそのままおかしくなるのは、より嫌なんだ。
「らら、らり、るら、らら、らり、るら……」
リリィは、その澄み切った瞳で僕を見つめた。懐かしいメロディーを口ずさむのと同じくらい、優しく。
「リリィ、リリィ、明日も、守ってくれるかい。」
「もちろんよ。」
その一言を聞くだけで、涙が出そうなくらいにほっとする。暗闇の中では君の声しか救いがないんだ。まっすぐ輝く一番星なんだ。
「リリィ、僕は君の声が本当に好きだよ。その澄んだ声が、本当に好きだよ。」
リリィはただ微笑む。どこか物悲しげに。
僕は彼女を視界に映していられなくなる。胸がずきり、と痛む。
「リリィ、どうか許しておくれ。」
耐えきれなくなって呟いた。もう分かっていた。
僕はとっくにとうに夜に飲まれてしまっている。救いがもうリリィの声しかなくなってしまった時点でもう、僕は壊れてしまっているんだろう。君の幸せを純粋に願えなくなって、僕が救われたいがために、世界で一番大切だった君を閉じ込めている。2人なら、世界に拒まれたって平気なんだと、本気で思っていた。
自己弁護が積もっていく。あの頃にはもう、戻れないのかもしれない。
「ごめん。」
側にいてくれるかい、と言ったことを思い出す。守ってくれるかい、と聞いたことを思い浮かべる。許しておくれ、とついさっき口に出した。甘えていた。
優しい優しいリリィは受け入れてくれている。僕のためなんかに、かわいそうに。
その全てに、選択肢をあげられなかくてごめん。
雫が、僕を出ていく。リリィは手を伸ばした。それを拭い取った。
「明けない夜はないのよ」
柔らかな手が頬に触れて、離れて、また触れた。どうして君は、僕の頬なんて撫でているのだろう。
「……まっ く、本当にあ たは 」
うまく聞き取れない。耳までおかしくなってしまったのかな。
手からも伝わってくるリリィの歌声に身を任せているうちに、ゆっくりと瞼が閉じていった。
「あなたを忘れないよ」
微睡の中で、その声を聞いた。
【曲パロ】あなたの夜が明けるまで
リクエストありがとうございました!!
繊細で高く澄み切ったIAちゃんの声もやっぱり沁みます……。
以下は原曲様のリンクです。
https://www.youtube.com/watch?v=xfR0iTh8PSI
壊れていたのは、世界でしょうか。
間違っていたのは、世界でしょうか。
あなたには分からないのでしょう。
でも、私には既に見えているのです。
「……リリィ。」
「おはよう。」
掠れた声。寂れた声。
今日もあなたは気づいていないみたい。
私が本当はどこもおかしくないことに。
それから、今日もあなたは言ってくれないみたい。
私が大好きだった、「おはよう」の言葉を言うことはない。だってあなたの世界には、永遠に朝がやってこないから。
どうやら、彼の世界ではある日から、世界は丸ごと変わってしまったみたい。彼の当たり前も、私の当たり前も、全部大きな波にさらわれてなくなってしまったんだって。
一緒に、彼の記憶も。
「今日も歌ってくれる?」
私は歌い出す。あなたが一番、今までのあなたに近づくのは、私が歌うときな気がしてしまって、私はまだ少しだけ期待を捨てられずにいた。
もしかしたら。もしかしたら、私が好きになったあなたが戻ってくるんじゃないか。
日に日にどんどんあなたは小さくなっていくけれど、私の歌があなたを引き留める糸になっているといいな。
そんな、淡い期待。小さな思い。私がこんなことを考えるのは、間違っているのかもしれないけれど。
だって私は時が戻れば、なんて思いながらも、こんな冷たい檻にあなたを閉じ込めている。あなたが、ではなくて、私が、閉じ込めているから。
何も知らないあなたは微笑んでいる。苦しみのない、安らかな表情をしているように私には見える。まだ、温かくて穏やかな、あなたの顔は残っている。
あなたはどこまでも優しいから、私を閉じ込めるなんてことしない。そんな当たり前のことですら、あなたは理解できない。
だから、私は今日も歌う。
声が枯れるまで歌い続ければ、きっとあなたは気が付いてくれるよね。
「リリィ、リリィ、明日も側にいてくれるかい。」
私は立ち上がって、あなたのベッドの近くに歩み寄る。歌うことはやめない。もしやめたら、あなたは不安になってしまう気がする。
あなたが安心したかのようにゆっくりと息を吐き出す。この歌のことを、まだ覚えているのだろうか。
光の降る街の歌だ。あなたが私に教えてくれた歌だ。私の名前と、ほんの少しのぼんやりとした思い出。それくらいしか持ち合わせていない様子のあなたが、覚えているのかは分からないけれどね。
ねえ。そう、声をかけようとしてやめる。あなたが了承してくれるかどうか不安になったから。
またいつか、光の降る街を、手を繋いで歩きましょう。澄んだ青空の下、2人で笑っていたい。
今のあなたの知る空の色は、灰色だって言っていた。あんなに楽しかったのに、あんなに綺麗だったのに。私はもどかしくて、しょうがなくて。
まったく、あなたは本当に馬鹿ね、って。心の中で、私はもうあなたを笑い飛ばすこともできない。
「綺麗だね。」
あなたが満面の笑みを浮かべていた。
赤らむ空が、私たちのすぐ目の前にある。青が、紫が、橙が、混ぜられて名前のつけられない色に変わっている。いつも上を見上げれば見えるはずなのに、なんだか今日は一段と近づいているような気がした。あなたと一緒にいるから、かな。
「寒くない?」
繋いだ手が暖かかったから、私の全身に熱が伝わって、私はまったく寒くなかった。
私が小さく頷くと、「もう春になってきたからね」と彼は言って、また空を見つめ始める。
その表情が、夜明けの空が、今まで見た何よりも美しい。
「前に言っただろう、リリィ。明けない夜はないんだよ。」
そう感じたことを、私は昨日のことのように思い出せる。
やっぱり、より酷くなっているみたい。
あなたの目からより光は奪われて、どこか上の空で、少しずつ反応も少なくなってきている。私の歌じゃ、もう駄目なのかな。そんな考えが、隙間から少しずつ溶けて、染み込んできて、私にささやいていく。
私はもう、少しだけ諦めている。時間は巻き戻せないし、私と出会った時のあなたがすぐに戻ってくる魔法なんてない。今日までの生活でとうに知っている。苦しくなるくらいに、身に染みている。
それでも、まだ私はやめたくない。払いのけるように頭を振って、私はまたあなたの横顔を眺める。私のできる限り、あなたの世界に合わせて、
例えもう私の歌が届かなくなっていたとしても、私は歌い続けているだろう。声が枯れるまで、何も喋れなくなるくらいに。
きっともう、あなたのためだけじゃないから。
ごめんね、私はこうしてでも、あなたの側にいたいの。
「らら、らり、るら、らら、らり、るら……」
そんなことを考えていれば、居ても立っても居られなくなって、私はまた口ずさみ始める。できる限り、穏やかな顔で。できる限り、あなたの痛みを和らげられるように。
「リリィ、リリィ、明日も、守ってくれるかい。」
おもむろにあなたが呟いた。
守ってくれるかい、だなんて。
「もちろんよ。」
だって、初めに私の心を守ってくれたのは、あなただった。
「リリィ、僕は君の声が本当に好きだよ。その澄んだ声が、本当に好きだよ。」
まるで、本当のあなたが戻ってきたみたい。
私はつい、歌うのをやめてしまって、ただ口から溢れ出そうな言葉を抑えることしかできない。
取り繕うように笑えば、あなたはいっとう悲しい顔になって、私から目を逸らした。
「リリィ、どうか許しておくれ。」
知ってるよ。あなたがどうにかしようと頑張っていたことも、どうにもならないことも、全部私は知っている。
「ごめん。」
あなたが身勝手になっていたとしても、私は嫌いになんてなれないのは、あなたなら分かるはずだよ。
あなたが泣いている。苦しそうに、嗚咽を漏らしている。泣き止ませることはできなくても、私はなんとか揺らぐ指先を動かして、あなたの涙を拭う。
「明けない夜はないのよ。」
私からあなたへ、私が持てる限りの愛を込めて、一生分の愛を込めて。
どんなに辛いことがあっても、いずれ夜明けは訪れる。明けない夜はない。
この言葉は、あなたが教えてくれたんだよ。
私の手を引いて連れ出してくれたのは、あなただったんだよ。
そんなことも忘れちゃうなんて、呆れちゃうよ。どうして思い出してくれないの。
「まったく、あなたは本当に馬鹿ね。」
声が震えているのは、気づかれていないといい。
「あなたを忘れないよ。」
「リリィ」
「なあに」
「ねえ、僕ほんとに、君が好きだよ」
美しい景色を背にして、あなたが言った。
やけにうるさい吸った息の音は、夜明けの空に吸い込まれた。
「リリィ」
「なあに」
「君はどう?」
「私も」
私はどうにも恥ずかしくて、そこまでしか言えなかった。
またいつか、あの光の降る街を歩けるのなら、きっと言えるだろう。
だからまたいつか、春の空の下で、手を繋いで歩きましょう。2人きりで。何も知らないあなたでいい。うまく受け止めてもらえなくてもいい。私はあの日のあなたを忘れないから、どこにも行かずに、あなたの側で手を握っていよう。
だから言いたいんだ。
あなたが好きよ、って。