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目次
一
春になると、大学近くの古い公園には決まって桜が咲いた。
観光地でもないから、人は少ない。
考えごとをしているふりをするには、ちょうどよかった。
私はいつも、そこを通って帰った。
スマホを見ながら、他の人にめせない顔で。
私には、裏表のある生き方があった。
表は、ちゃんと講義に出て、愛想よく笑い、期待を裏切らない人間。
裏は、深く踏み込まれる前に距離を取って、曖昧なまま関係を終わらせる人間。
裏の姿のほうが、ずっと安全だった。
菊田杢太郎と出会ったのは、夜だった。
バイト先のバーで、閉店間際。
カウンターの端で、彼は一人、ウイスキーを飲んでいた。
スーツは少しくたびれていて、でも雑じゃない。
笑うと軽そうなのに、目だけが妙に冷静だった。
「終電、もうないだろ」
初対面なのに、そう言われた。
「顔に書いてある」
彼はよく話した。
仕事のこと、過去のこと、真実かどうか分からないこと。
私は聞いた。
相槌を打って、笑って、深入りしない距離を保ちながら。
それは、いつものやり方だった。
「君さ」
三回目に会った夜、彼は言った。
「人に好かれるの、上手いよね」
褒め言葉の形をしていた。
でも、胸の奥が少しだけ冷えた。
「そうですか?」
「うん。でもね」
グラスを回しながら、彼は続けた。
「君は、素を出してないだろ」
それから、関係は曖昧に続いた。
夜に会って、朝には別れる。
未来の話はしない。
名前を呼ばれるのも、どこか他人事だった。
私は、それでいいと思っていた。
ある夜、彼の部屋で、何気なく聞いた。
「私たちって、何なんですか」
沈黙が落ちた。
彼は煙草を消して、私を見た。
初めて、逃げ道を塞ぐみたいな目だった。
「知らないほうが、いい」
その夜、夢を見た。
暗い講義室の最後列に、彼が座っている。
こちらを見て、笑っている。
「楽な方、選んだんだな」
低い声。
責めるでもなく、許すでもなく。
「だが、」
彼は立ち上がり、こちらに歩いてくる。
「俺の前では、通用しない」
翌朝、私は「忙しくなるから」と言って、距離を置いた。
理由としては、十分だったかもしれない。
彼は何も言わなかった。
追いかけてもこなかった。
それが、何よりも正しい終わり方だと思った。
それから数週間後、共通の知人から聞いた。
彼が、ある事件に関わっていたこと。
詳しい話は、誰も知らないこと。
ニュースにはならなかった。
だからこそ、現実だった。
夜、あの公園を通りながら、私は立ち止まった。
桜は散り始めていて、足元が白かった。
逃げ遅れた花びらみたいに。
胸の奥に、静かな重みがあった。
あのとき、逃げなかったら。
そんな仮定は、どこにも行き場がない。
不誠実は、大きな裏切りとしては現れない。
ただ、「選ばなかった覚悟」として、後から人生に触れてくる。
その形が、あの男だった。
名前を呼ばれなかった恋。
それでも、確かに、人生を少し壊した恋心。
今日も私は、公園を通り過ぎる。
彼のことを思い出さないように
もし、どこかで彼に会ってしまったら。
そのときこそ、もう
楽な方は、選べない気がしている。
一
最初から、分かってた。
ああいう奴は、必ず身を眩ます。
ちゃんと優しくて、ちゃんと曖昧で、ちゃんと自分を守る。
でも、声をかけたくなった。
バーのカウンターで、終電を失った顔。
あれは、偶然じゃない。
逃げ遅れたふりをして、誰かに見つけられるのを待ってる顔だ。
「終電、もうないだろ」
当たった。
だいたい、そういうもんだ。
彼女は、俺を疑わなかった。
いや、正確には「疑う必要がない距離」に自分を置くのが上手かったんだ。
踏み込まないし、期待もしない。でも、冷たくもしない。
それがちばん厄介だとわかっていた。
俺は、咄嗟に嘘を混ぜた。
仕事の話も、過去の話も、全部は見せなかった。
いや、見せれなかった。
それは彼女のためじゃない。
俺自身が、そうしないと生きられなかっただけだ。
それでも、彼女は聞いた。黙って、逃げ道を残したまま。
三回目の夜、言ってみた。
「人に好かれるの、上手いよね」
気づいてほしかった。
それが武器だってことも、刃だってことも。
彼女は笑った。
その笑顔で、何人かの人生を静かに遠ざけてきたことを、たぶん自覚しないまま。
俺は、少しずつ踏み込んだ。
夜を増やして、距離を詰めて、名前を呼んだ。
呼び返されるたびに、胸の奥が妙に静かになった。
ああ、これは。俺が、逃げられなくなってしまう。
「私たちって、何なんですか」
あの質問が来たとき、終わったと思った。
答えられる言葉は、ひとつしかなかった。
でも、それを言ったら、彼女は壊れる。
壊れた人間は、戻ってこない。
俺は、それを知っている。
「知らないほうが、いい」
最低の逃げ方だ。
それでも、あのときは、それしか選べなかった。
数日後、彼女は距離を置いた。
理由は、完璧だった。
忙しい。今は無理。余裕がない。
「ほらな」そう思った。
負け犬の遠吠えでしかない。
でもそれでいい、とも思った。
俺のほうは、順調に破滅していった。
仕事の線が切れ、過去が追いつき、名前のない事件が起きた。
ニュースにならない程度の、現実的なもの。
彼女は、たぶん噂を聞いただろう。
それでも、連絡は来なかった。
正しい。
賢い。
彼女らしい選択だ。
夜、夢を見た。
俺の部屋の隅で、彼女がこちらを見ている。
あの逃げ道を残す目で。
「遊びだったんですね」
そう言われる。
声は、責めていない。
その言葉の重みが、更に俺を苦しめた。
俺は、彼女に何も与えなかった。
約束も、未来も、名前も。
それでも、彼女は俺の人生に触れた。
触れて、逃げた。
それが、いちばん正しい形だった。
不誠実は、大きな悪として裁かれない。
ただ、「選ばれなかった可能性」として、心の隅に残る。
彼女は今も、あの公園を通っているのだろう。
俺を忘れるために
俺はもう、戻れない場所から、それを想像する。
あのとき、もし逃げなかったら
そんな仮定は、罪よりも重たいものだ。
二
菊田目線
あいつが、着信を受けた来たとき、正直驚いた。
消したはずの番号。
なのに、声を聞いた瞬間、胸がざわついた。
「久しぶりですね」
一言で、全部が戻った。
距離を置いた数年なんて、まるで嘘みたいに、あの頃の色を取り戻した。
まだ、終わりじゃないんだ。
無意識にそう思ってしまった。
俺は、もう安全じゃなかった。
仕事も、立場も、全部、なくなった。
あいつを巻き込むつもりはなかったけど、
知らないうちに巻き込まれていた。
「会えない?」
俺の言った一言に、理由なんて必要なかった。
会わずに済ませることは、もうできなかった。
再会したあいつを見て、正直、胸が痛んだ。
逃げ腰のくせに、あいつはまだ俺に期待している。
それを壊すことが、怖くて、同時に嬉しかった。
「俺は、もう戻れない」
言った瞬間、あいつの目が微かに震えたのが見えた。
でも、後退りをしようとする素振りは見せなかった。
その勇気を見せるなら、俺はその分だけ、踏み込む。
夜。
いつもどおり、会った。
笑うでも、冗談を言うでもなく、ただ向き合った。
違うのは、逃げ道が消えていたこと。
俺も、彼女も、もう「将来」を語る余裕はない。
「一緒にいたら、ダメになる」
あいつが言ったことは、正しい。
でも俺は笑った。
「もうなってるだろ」
俺は、いや、俺達そう思っていた。
すでに、二人とも壊れかけているのだから。
破滅は派手ではなかった。
だが、確実に近づいている。
昼の世界から、静かに切り離されていく。
それでも、俺はあいつを離さない。
俺自身も、離れられない。
ある夜、あいつが聞いた。
「後悔してます?」
少し考えた。
考えるふりをした。
本当は、後悔なんてない。
それを残したくもなかった。
「後悔できる余裕を、残したくなかった」
これが、愛だとでも言うのか。
少なくとも、俺にとっては、そうだった。
最後の夜、俺たちは逃げなかった。
逃げる理由も、逃げ先も、
もう残っていなかった。
世界は、変わらず動いていた。
だけど俺たちは、止まったままだ。
これが、俺の選んだ破滅だ。
あいつを抱きしめながら、体を重ね合いながら俺は思った。
不誠実な俺たちが、誠実になろうとして、
結局、どこにも行けなくなった。
後悔も、救いも、もう、必要ない。
二
再会は、夜だった。
連絡先は消したはずなのに、知らない番号からの着信。
出なければよかった。
でも、出てしまった。
「……久しぶりだな」
声を聞いた瞬間、「終りなんだ」と思った。
彼は、もう安全な場所にいなかった。
仕事も、立場も、全部、崩れていた。
「会えない?」
その一言に、理由はいらなかった。
再会した彼は、以前より正直だった。
笑わないし、誤魔化しもしない。
「俺は、もう戻れない」
そう言って、私を見た。
逃げ道を塞ぐ目だった。
でも、引き返すように言う目じゃなかった。
私たちは、あの頃と同じことをした。
夜に会って、朝には別れる。
お互いに募った欲を発散し体を重ねる。
違ったのは、もう“二人の関係”すら、
約束にならなかったこと。
「一緒にいたら、ダメになる」
私が言うと、彼は笑った。
「もうなってるだろ」
正しかった。
でも、認めたくなかった。
破滅は、派手じゃなかった。
少しずつ、選択肢が減る。
関係が切れる。
昼の世界から、静かに追い出される。
それでも、彼は離さなかった。
私も、離れなかった。
ある夜、私は聞いた。
「後悔してます?」
彼は、少し考えてから言った。
「後悔できる余地を、残したくないんだ」
それが、最上級の愛の言葉だった。
最後の夜、
私たちは逃げなかった。
逃げる理由も、逃げる先も、
もう持っていなかった。
不誠実な人間同士が、
誠実になろうとした結果。
それは、救いじゃなかった。
でも、嘘でもなかった。
翌朝、
世界は何事もなかったように動いていた。
動いていないのは、
私たちだけだった。
それでいい、と
初めて思った。
これは、
誰の人生でもない。
選び続けた、
私たちの破滅だ。