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目次
又旅浪漫
俺の名前はキヨシ、ネコである。
記憶はまだない
現在は生後12ヶ月くらいだろうか
そう聞くと赤ん坊のようだが
ニンゲン換算すると15から20歳
というところだろう。
そよ風が吹いている。心地良く。
庭先の木々が朝焼けに照らされながら
さらさらと葉を揺らしている
日光は強いが、あのうるさい虫は
もう鳴いていない
半年ほど前、左目を失い流れ着いた先が
この"ヒト"の家だったらしい。
その日以前の事は全く思い出せない。
「ごきげんよう」
庭の地面に寝そべっていると
|煌々《こうこう》とした|菩薩《ぼさつ》のような何かが現れた
こちらに歩いてくる
「誰だ」
尻尾をピンと立てた菩薩は立ち止まる。
「寝ぼけてるの?あなたの顔、
逆光でよく見えないわ。」
ネコは視力が悪いのである。
「その声と薄茶の面積、ヒロシか。」
こいつはメスなのにヒロシと名付けられた
何とも可哀想なメスネコだ。
顔と毛並みはそこそこ良い方だろう。
「掻き回していいかな。私にはミーちゃん
っていうキュートな名前があるんだから」
口は良くないようだ
「俺たち野良なんだから
名前なんていくらでも...それより
朝からどうした。まだ朝だぞ。」
"ヒト"がくれた飯を食った俺は
太陽が完全に昇るまで仕事は休みなのだ。
「あなたこそどうしたの?朝なのにそんな
難しい顔で、固い地面に寝そべって。」
「なんでもないさ。ついでにお前の飯もない。」
「はいはい。ミーちゃん専用のごはん、
もりもり食べに行っちゃうもんね。」
尻尾をピンと立てた菩薩ネコは
登場とは打って変わって
逆光でドス黒く歪んでさえ見える
肛門を見せつけ去って行った。
さっきよりほんの少しだけ、
太陽が地面から離れている。
ネコの会話とは、所詮こんなものである。
又旅浪漫
ニンゲン界も大して変わらず
きっと似たような感じだろう。
|妬み《ねた》、|嫉み《そね》、|僻み《ひが》、
ふとした日常会話の中で
ちらり、じわり、どろり、
他者に掻き立てられた欲望が滲み出る
まあ、ネコである自身がニンゲン界と
比較したところで何の意味も無いが...。
「お魚だよー」
"ヒト"の声だ。
ネコ界と同様ニンゲン界にも様々な
ニンゲンがそれはもう沢山いるのだろうが、
ここにいるニンゲン達は
"ヒト"
と呼ぶようにしている。
細かい事はよく分からないが、
そちらの方が何故かしっくりくるのだ。
「何匹にしようかなあ」
そして恐らくこれはネコ語で
ニボシをあげると言っている。
ネコ界の通貨である"ニボシ"を
無償で提供してやるというのだから驚きだ。
きっと俺の事を雇っているつもりなのだ。
暇な時、鼠取りや害虫駆除くらいなら
この家を守ってやってもいいのかもしれない。
ちなみに俺、というよりネコ界は皆
このニボシを稼ぐ為に日々仕事をこなしている。
ニンゲン界も、きっと似たようなものだろう。
又旅浪漫
朝飯を済ませた俺は
いつものように今日の仕事をこなしていく
お出かけ前のニボシも貰えた
出先の仕入れはこれで済ませるとしよう。
完全に太陽が昇り始め、気温も上がってきた
お昼の町内チャイムまでもう少し時間がある。
まずは太陽の方角にある
大きな山へ向かうことにする。
そこにある崖の洞窟に"仕事の道具"があるのだ。
秋なんて程遠く感じてしまうほど
ニンゲンが作ったドーロは熱く揺らめいていた。
肉球が熱い。ネコは暑がりなのだ。
それに我々の肉球はデリケート、
こんなアチアチでイガイガの地面は
背中を掻く以外に使い道などない。
そんなニンゲンの謎の産物を横目に
上手いこと林や民家の陰を渡り歩く
しばらく歩くと山の麓が見えてくる。
「ひぃ、この熱気は敵わんな。
洞窟の道具は大丈夫だろうか?」
先ほど庭から眺めた時よりも大きいが
歩いてみるとそれほど遠くもない山に着いた。
「一旦木陰で休憩するとしよう」
山に入る前に
|麓《ふもと》にある草むらを鼻で掻き分け進むと
すぐに小綺麗な水源が目に入る。
ここで水分補給と休憩を済ませる
山の水分が喉を通り、腹に到達
体温がすぅっと下がって行くのが分かる。
目の前にはモンシロチョウが飛んでいる
もう子孫は残した後だろうか。
この後はどこに行くのだろうか。
そんな事をぼけっと考えながら
周りの気配に神経を研ぎ澄ませる
特に何の問題も起きていないが
これは入山前の儀式とでもいうべきか、
やっておかなければ後々面倒なのである。
ネコは他の生き物との無駄な遭遇は
どうも避ける傾向にあり、
どのネコも一人が楽だと思っている。
一人、いや一匹か、
いやいやそもそも単位など
ニンゲンが作った物でどちらか
悩んでも仕方のないことだ。
「入るか。」
いつもと変わらない様子を確認し
岩肌の陰にある|獣道《けものみち》から山へ入った。
本当に涼しくなるのか...
去年の記憶がない俺は
比較対象がないにも関わらず
いらぬ心配をしている。
又旅浪漫
"「ネコの侵入を確認。警戒せよ。」"
森はいい。ニンゲンが乗った
|鉄箱《てつばこ》が走り抜けることも無く、
宴のオヤジが酒で騒ぐ事も無い。
"「全員持ち場にて待機、警戒を怠るな」"
|樹冠《じゅかん》からこぼれ落ちた日光は
森の中でも地面の生き物を平等に照らす。
植物が吐き出したばかりの空気は
この上なく、とても澄んでいる。
辺りの緑と茶を存分に眺め、深呼吸した。
"「動いたぞ」"
まあ、うるさい鳥は居るのだが...。
「セミよりうるさいなお前は。」
「セミとは失礼な。
おや、片目のキヨシさん」
「お前達のことは食べない約束だろう
居心地も悪いし誤報だと伝えてくれ」
頭上で騒めく鳥達の視線から
早く解放されたかった俺は
前足でトントン、と地面を指した
「まさかオケラか」
鳥がパタパタと降りてくる。
カサカサと土を掘り起こしている。
「ほら、ちゃんといるだろう」
「凄いぞ...プリプリだ。
ドーロで干からびたやつとは違う。」
鳥は嬉しそうだ。
"「先ほどネコと思われたものは
アナグマで間違いなし。よって問題なし。」"
"「誤報、誤報。誤報で間違いなし。」"
鳥はまたパタパタと羽を動かし
樹冠の切れ目に消えて行った。
いつもの静かな森に戻った。
又旅浪漫
ネコは地面の中が見えずとも
大体どの辺にモグラがいるのか
手に取るように分かるものだが、
あいつら鳥にはそれが出来ないらしい。
多分ニンゲンにも出来ないだろう
いや、分からない。
ニンゲンは凄く頭が良いからである。
以前ヒトに披露してもらったのだが
右手で握ったはずのニボシが
なんと左手から出てくるのである。
あれには驚いた
きっと凄く頭が良くないと
出来ない遊びなのだろう。
頭が良くなれば、ネコにも出来るだろうか。
「今日は早めに着いたな」
セミみたいな鳥の誤報が効いたのか
休憩を挟んだ割に早く到着した。
ここは先ほどの獣道から逸れて
少し進んだところにある
マタタビ畑だ。
又旅浪漫
森の中、樹冠にぽっかり穴が空き、
そこから差し込む日光の形に合わせ
"それ"はワサワサと茂っている。
「こんなに好条件な群生地は珍しい」
そう、このワサワサと茂るマタタビこそ
日々俺がニボシを稼ぐ術となるのだ。
ニンゲン界と同じ"仕事"である。
開花期と同時に葉の先端を白く染め、
花が散る頃今度は可愛らしい実をつける。
気持ち良さそうな日光に照らされ
葉は左右にさらさらとなびき、
果実はぽよんぽよんと上下に揺れている。
今は花こそ咲いていないが
美しい葉と果実はいつ見ても惚れ惚れする。
空気は澄んでいて、明るさも申し分ない
土壌環境も良く春の霜もおりない。
おまけに水も食料もあり
身を隠すのにも持ってこいときた。
こんな空間が、幸福が、
永遠の物にならないかと考えてしまう程だ。
「あっ」
ついつい見惚れてしまい我に返る
今日はこちらの"栽培"が目的ではない。
この群生地を囲うように存在する岩肌の崖、
クジラぐらいの長さはあるだろうか。
丁度クジラの腹のあたりに洞窟がある
それぞれの高さに
いち、に、さん、と飛び出た岩を
ネコの全脚力を使って登って行く。
又旅浪漫
腰を屈め距離を測る
とんっ
一段目でそこそこの高さだ。
更に腰を屈め、尻をふりふりする
ととんっ
2段目となるとネコでも躊躇う高さだ
次は三段目だが、ここはいつも緊張する。
着地と同時に助走をつけなければ
洞窟へは飛び移れないのだ。
普段より入念に肉球を確認し、全身を屈める。
尻を激しくふり
耳は最大限背中の方を向いている
音が消える。
岩を蹴り、宙を舞い、
たたんっ、と乾いた着地の音が耳に入る。
「いける」
確信するとまた音が消え
ざざざっと肉球が地面を捉えた。
又旅浪漫
一体誰が何のために掘った穴なのだろう。
奥は薄暗いが、行き止まりである事が
入り口から見ても分かるほどの奥行きだ。
この洞窟の"地面以外の面"は全て
枝ごと乾燥中のマタタビが刺してある。
完全に乾燥し仕上がったマタタビを
届けるまでが今日の仕事というわけだ。
「いかん、笹袋も在庫が少ないな。」
帰りにリスの道具屋に寄る用事が増えた。
♪〜〜〜♪〜〜〜
馬鹿ほど大きな昼の町内チャイムが鳴る。
全く、ニンゲンの耳は
マダニで埋まってしまっているのでは、と
心配になる大きさなのである。
「昼飯はトカゲで簡単に済ませよう」
樹冠の隙間から覗く太陽はほぼ真上にある
。