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目次
あの日の傘を。
︎
コツ、コツ、コツ
まただ。
また聞こえる。
彷徨き回る足音。
気味が悪い。
無視すればいい。
なのに頭から離れない。
小さな違和感が、俺の好奇心を掻き立てる。
--- 「あの日の傘を。」 ---
静寂の中、紙をめくる音だけが聞こえる。
俺はこの時間が好きだ。
小さな窓からはたくさんの星が見える。
虫の音や葉が擦れる音が聞こえるのも良い。
黄色がかった蛍光灯。
古びた木の机。
俺は村の小さな図書館で深夜、バイトをしている。
仕事内容が簡単だったというのもあるが、単純に俺は本が好きだ。
深夜だからほとんど人も来ない。
そもそも深夜までやってる図書館なんて珍しいだろう。
だから一人だ。
本も読めるしお金も貰える。
こんな最高のバイトがあるだろうか……
そう思っていた。
そう、昨日までは。
--- *** ---
いつも通りだった。
はずなのに。
--- コツ、コツ、コツ ---
誰もいないはずの図書館から足音が聞こえる。
お客さんかなと最初は思った。
だが、見に行っても誰もいない。
気味が悪い。
忘れてしまおう。
--- コツ、コツ、コツ ---
考えるな。
--- コツ、コツ、コツ ---
やめてくれ。
さーっとカーテンが靡く。
それが一瞬人の影に見えて心臓の鼓動が早まる。
気づいた時には俺は逃げていた。
得体のしれない足音。
不気味すぎだろ。
幽霊なんて信じるタチじゃねえからこんなバイトやってるのに、俺、まさかビビってんのかよ。
いや、ないない。
幽霊とか、いねえし。
だって、産まれてこの方、みたことねえし。
…まだ16年しか経ってないが。
この日は一旦、忘れることにした。
だが、忘れようとして忘れることができるなら苦労なんてしないだろう。
あの床を歩く音が耳から離れない。
考えてるだけでまたあの音が聞こえてくるようだ。
気にしない。気にしない。
そう思いながら今日は家に帰った。
--- *** ---
次の日も、その次の日も、あの足音は聞こえた。
そして、俺はあることに気づいた。
足音は毎日同じ時間帯に聞こえるということ。
その足音は、ある場所で止まること。
そして、その止まる場所の棚の本の一つが、ほんの少しずれていること。
不気味すぎる。
でも、調べずには居られない。
こういうホラーみたいなやつって一度見ると止まらないんだ。
結果を知れば怖くないってことが分かるんじゃないかって。
……それで結局怖かったっていうことがほとんどだが。
次の日、意を決して足音が止まる棚の前に足音が聞こえる時間に立ってみることにした。
足音が聞こえる時間帯は十二時ぐらい。
十分前からそこに立ってみた。
心臓が張り裂けそうだ。
でも試さずには居られない。
きっと、なにかが分かるはずだ。
--- コツ、コツ、コツ ---
きた。
来てしまった。
--- コツ、コツ、コツ ---
実際足音が聞こえると怖くてもう動けなかった。
足音がだんだんこっちへ近づくのを感じる。
こんなことしなければよかった。
そう思った時。
足音がぴたりと止んだ。
背筋に冷たい汗がつたる
--- バタン!!! ---
「わああああああああああああ!!!!!!」
咄嗟に恐怖で目を瞑ってしゃがみ込んだ。
マジでなに、さっきの音。
目開けれねえよ、怖すぎて。
ただこのまま目を瞑って過ごすわけにはいかない。
そっと目を開けた。
目の前には表紙が薄く汚れた本が落ちていた。
ああ、なんだ、本が落ちただけか。
そう、落ちただけ。
別に本が落ちることなんてよくある。
いや、1人でに本が動く訳ない。
なんで……
いや、いやいやいや、幽霊とかいる訳ないだろ。
普通に考えてみろよ。
いるわけない。そんな……。
じゃあ幽霊とやらがいなきゃこの状況はどうやって説明するんだ。
頭が著しく回転する。
心臓が信じられないほど強く脈打つ。
--- ペラ… ---
「………え」
その落ちた本があるページを開いた。
勝手に。
「いやいやいややめてくれよ……」
怖いのに、目が離せない。
忘れたいのに、もっと知りたい。
俺はそのページを凝視する。
なぜか色褪せた便箋が挟まっていた。
それは暗闇の中でこちらを覗いていた。
触っては行けない、頭はそう言っている。
でもこの好奇心は抑えられない。
なぜか、懐かしい感じがした。
便箋を開き、文字を見る。
ユウへ。
おい少年!!私のこと覚えてる??生きててよかった。ほんとに。昔ここの深夜バイトをしてたハルだよ。
小学生だったのに今では16歳??デカくなったなーチビだったのに笑笑
そんなことはどうでもよくってさ、伝えたいことがあるんだ。
お前、もう二度と諦めんなよ。自分がやりたいことやれ。
お前は前とは違うんだ。味方がいるよ。
それだけ。私はお前のこと見てるからな。残念ながらお前から私は見えんけどな!!笑笑
この手紙が、雨夜ユウに届くと良いな。
「俺……のこと??」
俺の名前は雨夜ユウだが、ハルという知り合いはいなかったはずだ。
でもこの所々文字が滲んでいるこの手紙には、たしかに夜雨ユウと書いてあった。
なぜか、懐かしい。
分からない。
なんで……
謎が多すぎる。
俺はこの手紙の主であり、おそらく足音の主である“ハル”が一体誰なのか、調べることにした。
--- *** ---
次の日もまたバイトに来た俺は、職員名簿からハルを探すことにした。
この分厚くて所々破れてしまっているファイルの何処かに、ハルがいる。
一ページ目から開くとそこにはズラーっと職員の名前が並んでいた。
「全部見てたら日が暮れるどころか、1年経っちまうぞこれ……」
有りえんほどの職員の名前。
どうやらこの図書館は随分長くからやっているらしい。
なにかいい方法は………
そうだ。
この手紙には、俺と小学生の時に会っていたと書いてある。
俺が小学生だった頃は十年前だから、十年前の職員が書いてあるページを開いた。
この職員名簿は、何年か親切に書いてあって良かった。
「ハル…ハル…ハル………」
ペラペラと本をめくっていく。
ひとつの名前に目が留まる。
それは黒く塗りつぶされていた。
「なんて書いてあったんだー……??」
雑に塗りつぶされているため、後ろが少し見える
よく見ると塗りつぶされている名前は、ハルだということに気がついた。
なんで塗りつぶされてるんだ……?
ハルの苗字までは読むことができなかった。
でも、職員情報欄は幸いなことに塗りつぶされていなかった。
●● ハル
性別:女
生年月日:2002/7/1
雇入れ年月日:2018/5/4
退職:2019/10/6
退職理由:死去
死亡……?
何があったんだ……?
退職した日がハルが死んだ日として考えていいだろう。
2002年に生まれたんだから死んだ時にはまだ17歳だ。
だいぶ若いな……
何があったんだろうか。
俺はハルの死因をくわしく調べるため、当時の新聞を見た。
事件や事故なら載っているかもしれない。
棚に整理されてあったため、これを探すのにさほど時間はかからなかった。
2019/10/6の新聞を開く。
新聞のある文が目に入った。
“朝日乃商店街にて、朝霧 ハル(17)が殺害されるという事件が起こった。
犯人は、雨夜 望(43)で特定の人物を狙った計画的な殺人と見て、警察は捜索を進めている。
また、雨夜 望(43)の息子、雨夜 ユウ(6)は行方不明になっており、殺害したとみて捜索を進めている。”
「……え」
文字が歪む。
歪んでいるのは自分が泣いているせいだった。
俺の記憶の中の父さんはこんな事しないはずなのに。
…………あれ。
父さんは………俺は…
幼少期の記憶がうまく思い出せない。
「なんで…」
うまく整理できない気持ちを無理やり押し込んで、今日は家に帰った。
--- *** ---
今日もまた小さな図書館へ来た。
“また、雨夜 望(43)の息子、雨夜 ユウ(6)は行方不明になっており、殺害したとみて捜索を進めている”か……。
俺は全然生きてるし、行方不明になっていない。
はず。
なぜか思い出せない。
何があったんだ……
足音、ハルの死、俺の行方不明、父親がしたこと。
不穏だ。
謎が解けないまま、時が過ぎていった。
「やべ、バイトの時間じゃん。忘れてた」
急いで家から飛び出す。
雨が降っていた。
夜だということもあり、周りがよく見えない。
急いで飛び出したから傘を忘れた。
体が冷えていく。
もう靴下がびしょ濡れだ。
--- ザーーーーーーー。 ---
強い雨音。
なにか……何かあった気がする。
こんな雨の強い夜に。
大切なことが、あった気がする。
--- **ドク、ドク** ---
--- “「うわあああああん」” ---
--- “さむいよ………さむいよ。” ---
--- 体がいたいよ、だれか、だれか助けてよ。” ---
--- “ここはどこなの。ねえ、だれか…………” ---
--- “もう、しんでもいいや……” ---
--- “「大丈夫かそこのガキ!!」” ---
--- “きゅうに雨がやんだ。と思ったけど、おねーさんが傘をさしてくれたみたいだ” ---
--- “「……おねーさん、ここ、どこ……?」” ---
--- “そう聞くおねーさんはぼくをぎゅーっとした。” ---
--- “「………だいじょーぶ。私がいるからな。」” ---
--- “くらい夜だったのに、あかるくなった。そんな気がした” ---
思い出した。
俺を救ってくれたのはハルだ。
父から虐待を受け、逃げた俺は、あの日、ハルに助けられたんだ。
その事を知った父は、俺を見つけ出し、殺そうとした。
そしてそれをハルが庇って、俺は生き延びた。
「なんで…………」
なんで死ぬのはハルなんだよ。
ハルはなんもしてねえだろ。
俺を殺せよ。殺してくれ。
--- ザーーーーー。 ---
強く雨が打ちつける。
気づくと俺は、図書館まで走っていた。
あの足音をもう一度聞きたかった。
ハルとまた、会いたかった。
急いで図書館のドアを開ける。
ほんのり明るくて、外に比べたらあたたかく感じた。
「ハル…………俺もう逃げないよ。」
「思い出したんだ。あの足音はあのときのおねーさんなんだろ。」
返事はない。
返ってくるのは寂しい静寂だけ。
自分の鼓動だけが嫌と言うほど響く。
でも、次の瞬間、感じた。
誰かが俺の後ろに______。
そっと、誰かが俺の肩に触れた。
あったかかった。
あの日、俺に傘をさしてくれた手。
抱きしめてくれたときの温かさ。
ふと本棚をみる
そこには新しく、綺麗な封筒があった。
真っ白でどこか神聖な雰囲気さえある。
そっと開けてみる。
ユウ、ありがとうな。
見守ってるからな、また会おうね。
すぐじゃなくていいけどね笑笑
おじーちゃんになったら、また一緒に本を読もう。
そこには力強いハルの字があった。
所々滲んでいた。
泣きながら書くハルの姿が想像できた。
思わず笑ってしまう。
「ありがとう。俺、頑張るよ。」
力強く、そう言った。
「頑張れよ、ユウ!!」
誰かがそう、答えた気がした。
青い折り鶴
青い折り鶴は贈る人の想いが、大切な人の心に届くとされているそうです。
ある都市伝説には、願いを叶えるバケモノの噂があった。
それを知る者はごくわずかで、ほとんどの人間は気づくことなく、生まれて、笑って、死んでいく。
けれど、ごく稀に。
どうしようもない絶望の淵で、誰にも届かない祈りを叫ぶ者がいる。
そしてその声は、“それ”に届く。
夜の雨に紛れて現れるのは、黒い布をまとったバケモノ。
性別も年齢も、姿も曖昧で、黒い布のせいで顔は見えないがその裂けた口は見える。
それは、おぞましいほど楽しそうに笑っていた。
そして、願いを叶える代償に一番大事なものを差し出さなければならない。
雨の降る夜、また、ある少年が願いを叶えようとしていた。
--- 「青い折り鶴」 ---
雨の降る路地裏に1人の少年が立ち尽くしていた。
俺だ。
水たまりに映る俺は憔悴しきった顔をしていた。
弟が入院した。
そんで、もうすぐ死ぬ。
もうすぐってのは、1ヶ月くらいの猶予がある訳ではなく、俺がこんなことをしている今も、死んでしまう可能性が十分すぎるほどあると言うことだ。
そんなのはもちろん嫌だ。
どんな事があっても弟だけは絶対に守ると決めたから。
かといって何もしないのは死を待つと同然だ。
そこで俺は、都市伝説に頼ることにした。
雨の深夜2時、この路地裏で鏡にうつる自分に願いを言うと、それが叶うらしい。
ただの噂だ。本当な訳ない。
でも、頼るしかなかった。
今は猫の手も借りたいんだ。
……バケモノの手だが。
手元の腕時計は深夜2時になろうとしている
そして俺の手には母さんから盗んだ小さな鏡。
準備は整っている。
やるしかねえ。
生ぬるい風が頬をかすった。
雨音が遠のいていく気がする。
鏡に写った俺に向かって願いを言った。
「弟を守ってくれ__。」
返事はない。
そりゃそうだ。
噂はただの噂でしかないし、都市伝説は伝説でしかない。
と思っていがその瞬間、後ろに気配を感じた。
肩に何かが触る。
耳の近くでささやく声。
それは、悪魔の声だった。
「それが、キミ、時雨 アオの願いだね………?」
俺の名前を呼ぶ声がした方を向くと、そこに立っていたのはバケモノだった。
ぼろぼろの黒い布を身にまとい、頭まで覆われているため顔は見えないが、口だけはこちらを覗いていた。
裂けるように横に広がった赤黒い笑み。
それが、震えるほど楽しそうに俺を見ていた。
いつの間にか見える景色は雨の降る路地裏ではなかった。
どこまでも暗くて、どこまでも続いていた。
もう雨の音なんて聞こえなかった。
「叶えて……くれるのか…?」
バケモノに向かって聞いた。
「もちろんだよ」
「でも___、」
バケモノの笑みが深くなる。
「願いをかなえる代償に、キミの“一番大切なモノ”を貰うよ」
「一番大切なもの………?」
弟の命と引き換えにできるほど大切なモノって、あるのか……?
「怖いのか??でも……叶えたいんだよね???」
愉しそうだ。人が怖がっているのをみて愉しそうにしている。
その笑みはバケモノそのものだった。
「あぁ、何でも持ってけ。」
「フフ、キミなら言ってくれると思ったよ。……さあ、ボクの手を握って__。」
バケモノが手を差し伸べた。
細くて角ばっていて、爪が長い。
握ってはいけない気がする。
そう、頭が言っている。
でも、俺はその手を握ってしまった。
それに触れた瞬間、世界が歪んだ。
何かが消えた気がする。
まあ、いい。
弟が生きてるなら、俺はそれでいい。
「_契約、成立だね。」
その言葉の直後、俺はあの路地裏へ戻っていた。
雨が強く打ちつける。
手に持っていた鏡が割れていた。
それぞれの破片に俺が写っている。
その背後に、不気味に笑うバケモノが見えた気がした。
***
「アオおにいちゃん!!みてみて!!」
小さな手がぐいとシャツの袖を引っ張った。
手には赤い、折り鶴が握られていた。
折り鶴というには少し不格好だが、5歳の作った折り鶴なら、これは素晴らしい出来だろう
「すごいね、これ、レンが作ったの??」
「うん!!!あやせんせーがおしえてくれたの!!……でもね、ちょっとぐしゃってなっちゃった…」
「んーん、すごく綺麗だよ。上手だね。」
そういってしゃがみ、小さな頭を撫でた。
するとレンはにかっと笑ってくれた。
10歳違いの歳の差。
熱を出して泣いた夜も、遠足の朝に眠れなかった夜も。
父さんと母さんがいなくなって、ふたりだけになってしまったあの日から、僕は心に決めていた。
この笑顔を守るためなら何だってする、そう思えた。
「これ!!アオおにーちゃんにあげる!!」
差し出された手には青い折り鶴が乗っていた。
「いいの?」
「うん!!アオおにーちゃんのために折ったの!!この赤い鶴はぼくの!!」
小さな鶴だった。
端のほうがしっかり折りきれていない。
でも、そんなのなんだって良い。
この手のひらにある折り鶴は世界にたったひとつしかない、弟の優しさだから。
「ありがとう。」
頭をくしゃっと撫でた。
***
雨は、もう止んでいた。
空気は湿っていて、生ぬるくて、いつもよりやけに静かだった。
昨夜の雨の香りがする。
今朝、病院から弟が起きたという連絡が来た。
素直に喜べなかった。
払った代償だって何か分からないし、それに全然現実味がなかった。
夢を見ているみたいだった。
もしかしたら昨晩の契約だって、夢だったかもしれない。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
心臓の鼓動がうるさい。
駅まで走る間も、電車の中も、ずっと胸が苦しかった。
もし助かってなかったら。
もし嘘だったら。
もし全部、俺が見た夢だったら。
でも、
もしほんとに治ってたら。
もう一度レンの笑顔が見られるなら。
あの、くしゃくしゃな青い折り鶴を渡してくれたあの手が、もう一度動くなら。
何度だって、バケモノに魂を売ってやる。
病院の白い廊下を駆け抜ける。
足音が反響するたびに、俺の不安が揺れた。
--- カツン、カツン。 ---
俺の靴音だけが、まるで誰かの足音のように背後から追いかけてくる。
バケモノの気配すら感じる。
でも構うもんか。
今は、ただ、
「おにいちゃん」って、またあいつの口から聞けたらそれでいい。
そう思いながら、病室の前で立ち止まった。
ドアの向こうから、誰かの笑い声が聞こえた。
弟の、声だ。
聞き間違えるわけがない。
何度望んだだろう。
あの声をもう一度聞けるなら俺は__。
俺は、震える手でドアノブに手をかけ、勢いよく開けた。
--- バン!! ---
そこには小さな体が、ベットの上で座っていた。
酸素チューブも点滴も付いていない。
あんなに苦しそうな顔をしていた弟が笑っていた。
話していた。
動いていた。
__生きていた。
「レン!!!!」
そう叫んで小さな体を抱きしめた。
「良かった……生きてたんだね…良かった…」
きょとんとした顔がこちらを見ていた。
「……えっと、おにいさん、どちら様ですか??」
「え……?」
理解ができない。
俺の知ってる声で、俺の知ってる笑顔で、俺のことを知らないと言った。
ありえない。
そんな、また、あの笑顔を見れたのに。
“願いをかなえる代償に、キミの“一番大切なモノ”を貰うよ”
そうか、これが代償なのか…。
赤い鶴がベットの隣の机にぽつんと置いてあった。
あの日くれた青い鶴は今、手に持っている。
まだ、この鶴はあの日のまま残っているのに。
レンは、あの日みたいに俺をおにーちゃんとは呼んでくれない。
この思い出も、忘れてしまったのかな
その日は家に帰った。
何も、考えたくなかった。
青い鶴は置いていった。
あの赤い鶴の隣で、青い鶴は寂しそうに赤い鶴の方を向いていた。
でも、赤い鶴は、青い鶴の方を向いていなかった。
看護師さんからはお兄さんの記憶だけ、忘れてしまったみたいです、と伝えられた。
どうやら本当に忘れてしまったらしい。
次の日の朝、またレンに会いに行くことにした。
色々と気持ちの整理がついた。
ドアノブに手をかける。
今、会っても傷つくだけかもしれない。
でもまた、話したいから。
そっとドアを開けた。
朝日に照らされているレンは青い鶴を見ていた。
じっと見るその目には、涙が浮かんでいた。
レンに向かって歩くと、レンがこちらを向いた。
涙を袖で一生懸命拭って、あの人同じ、笑顔を見せてくれた。
「あ、昨日のおにいさん……、すみません、なんか、懐かしい気がして」
青い鶴を手にとって懐かしそうに眺めていた。
「俺のこと覚えてる……?」
「…それは…ごめんなさい、思い出せなくて…」
「どこかで会った気がするんですけど…」
俺はただ、頷くことしかできなかった。
何かを口にすれば、せき止めていた涙が、あふれる気がした。
それからも俺はレンに会いに行った。
ほんの数分だけの会話。
レンがあの頃と同じように、俺のことをおにーちゃんとは呼んでくれない。
でも、会いに行くたびに少し嬉しそうな顔をする。
幼くて、明るい、切ない笑顔。
今日も俺はその笑顔を見るため、病院へ向かった。
レンは青い鶴を折っていた。
綺麗だった。
くしゃくしゃの折り鶴じゃない。
綺麗な青い折り鶴。
「これ、おにいさんにあげます」
--- 「これ!!アオおにーちゃんにあげる!!」」 ---
差し出されたいつの間にか大きくなった手。
そこには端まで綺麗に折れた青い折り鶴が乗っていた。
完璧におられたその姿に、なぜか涙が滲んだ。
きっと、思い出してくれたわけではない。
もう、思い出せないだろう。
それでも心の何処かにあるなら。
「………いいの?」
「はい!!おにいさんのためにおったんですよ!!」
--- “「うん!!アオおにーちゃんのために折ったの!!」” ---
「…………ありがとう。」
そう言って頭をくしゃっと撫でた。
ベットの隣の机に置かれたくしゃくしゃの赤い折り鶴と綺麗な青い折り鶴は、向き合って、少し楽しそうだった。
紬いだ線路で
気がつくとそこには瑠璃色の海が広がっていた。地平線までずっと続いていた。膝下までの浅い海で、足元をみると目を見張るほど透明だった。自分が立っている場所が浅いので、後ろは陸か、と思って後ろを向くと、後ろにもずっと浅い海が広がっていた。空と海しかなかった。誰もいないし、何もない。すごく心地よかった。深呼吸をして暫く目を瞑った。目を開け、見渡すと、右側の方に線路があった。地平線までずーっと続く線路。不思議に思って水飛沫をあげながら線路まで走っていった。水の中に埋まっている線路。でも錆びたりはしていなかった。どうやらここは現実ではないらしい、とぼんやり思った。恐怖はなかった。暫く線路の横を歩いていた。どれだけ歩いても地平線の向こうには何も見えない。ずっと海の中を歩いているとだんだん足が冷たくなってきた。何処かに休憩できる場所はないかなとか思っていると、後ろから何かの音が聞こえた。小さい音。それがだんだん大きくなってようやく電車がこちらへ向かってくる音だということに気がついた。電車は静かな水面を荒らしながらこちらへ向かってくる。その電車は私の前でゆっくりと止まった。黄色く塗装された電車。誰も乗っていなかった。運転手もいなかった。私はその電車の一番前の席へ座った。暫くそこで座っていると、急に動き始めた。1時間くらい乗っていただろうか。時間を計る方法はないため完全に予想だが、長い時間電車に揺られていた気もするし、一瞬だった気もする。窓の外の景色はずっと変わらなかった。電車が揺れる音だけが、辺りに響いていた。ふと、前を見ると線路の上に少女が立っていた。本来は白くて綺麗なワンピースなのだろうが、今はそれが泥で汚れていた。足も血だらけ泥だらけで、髪も濡れていて、大きな声で泣いていた。異様だった。綺麗な海、空の中でその少女だけが薄く汚れていた。このままだと電車で轢いてしまう。急いで運転席のような物があるところへ向かった。赤い丸がついたレバーのようなものを思いっきり引く。これがブレーキという確証は持てなかったが、なんとなく、そんな気がした。金属音を響かせて電車は少女の前でぴたりと止まった。水面がだんだん静かになっていく。左側のドアから電車を降りて少女のところへ向かった。少女は泣いていた。6歳くらいだと思う。薄く汚れてはいたが、端麗な顔立ちをしていて、どこか脳裏に残る顔だった。身長にしては大人っぽい顔だが、その涙には隠しきれない幼さのようなものを感じた。どこがで、見たことがある気がする。どうしたの、と少女に聞く。
「あのね、」
少女は言いかけて唇を噛んだ。風もないのに水面がざわりと揺れた。
「あのね、紬ね、おとうさんから叩かれちゃってね、それで……」
そこまで言って言葉が途切れた。涙がぼろぼろと零れ落ちる。
「それでね……」
一生懸命喋ろうとする少女に私は、大丈夫、わかるよと声をかけた。涙を汚れた腕で懸命に拭っている。
「紬ちゃん、いま何歳?」
「…6さい」
「そっか」
まっすぐな目だと思った。少女の目にうつるのは父への怒りや絶望ではなかった。生きたい、もっと知りたい、と希望に満ちた目だった。私とは違う。
一緒なのに、違う。
「おねえさん、紬、これからどうすれば良いのかな」
これから、という言葉がなぜか深く心に刺さる。この子は今のわたしよりつらい事があっても生きようと、必死に足掻いている。
「大丈夫だよ、紬ちゃん。」
薄く汚れた体をぎゅっと抱きしめた。細くて、弱々しい。でも、私より強かった。この子は、私だ。過去の私。父から虐待を受けていた頃の私。
「生きててくれて、ありがとう。」
少女の目が大きく開く。少女は薄く汚れたワンピースを小さな手でぎゅっと掴んだ。
「紬っていらない子なのかな」
「紬ちゃんがいるから今の私がいる。紬ちゃんと会えたから、これからの私がいる。」
「ありがとう、紬ちゃん。」
抱きしめる手を強くすると、私の背中のシャツをぎゅっと握られた。私は、今まですべてから逃げていた。全部全部中途半端に終わらせて、結局何も残らなかった。私は、何もできない。味方は誰もいない。もう、死んでもいい。そう思っていた。でも、この少女は__。
「おねえさん、ありがとう。紬、がんばるね!!」
「こちらこそありがとう。一緒に頑張ろうね」
海に落ちていた貝殻を拾う。水が輝きながら滴る。ちょうど2つある。小さい頃、これを持っていた気がする。どこで拾ったのか、思い出せずにいた。どうやら未来の私が渡してくれていたようだ。
「これあげるよ。つらくなったら、思い出して。」
少女は貝殻を見て柔らかく笑った。
「ありがとう、おねえさん!!…またね!」
気がつくと、ベットの上で朝日を浴びていた。手には濡れた貝殻が握られていた。朝日が眩しくて目を細めると周りが滲んではじめて、泣いているということに気がついた。夢だったんだ。とぼんやり思った。でも、手には貝殻が握られている。ここはあの美しい世界ではなかった。でも、いつもと違う、そんな気がした。
終わらない雨夜を。
湿った空気を纏った夜道を歩いていた。気持ち程度の街灯のお陰で少しだけ明るいが、その大半は深い影が落ちていた。普通なら怖い夜道だが、友達と歩けばさほど怖くはない。
「このコロッケうま!?」
とコロッケをほうばりながら加瀬は言った。
「ボクにもちょうだいよーーー」頬をふくらませながら右隣から雨夜くんが加瀬の手に掴まれているコロッケに手を伸ばす。渡さねえよと言いながらも一口あげている加瀬はすごく優しいと思う。
「朝霧もいるか??これ。」
そう言ってふわふわと湯気がたっているコロッケを差し出される。じゃあ貰おうかなと一口食べると、すごく美味しくて自然と笑みがこぼれた。
「これ、おいしい!!」
「だろーー?」
そこから暫く三人で歩いていた。ぽつ、ぽつと道路に水滴が落ちる。水滴が頬をかすめる。
「雨かァ、早く帰ろうぜ」
加瀬は歩く足を速めながらそういった。
そうだね、と返事して加瀬に置いていかれないように足を速めた。2人分の足音が響いた。2人分……?
「ん?あれ、雨夜の奴、どこいった??」そう加瀬が言った瞬間、背中に激痛が走った。耐えきれず膝をつく。意識の遠くの方で加瀬の叫び声が聞こえた。背中の方を手で触る。生ぬるい液体が手に纏わりついた。ついた液体を見ると赤黒くドロっとしていた。つんと鼻を突く鉄の匂い。
叫ぼうと思っても声が出なかった。のどを触ると誰かの手が僕の首を絞めている事が分かった。ふと、前を見るとにやりと笑った雨夜くんがいた。以前までの雨夜くんとは、なにかが違った。そこで、僕の意識は途絶えた。
「このコロッケうま!!?」
加瀬の声が聞こえた。
「ボクにもちょうだいよーーー」
雨夜くんの声。気がつくとまた、夜道を歩いていた。
「朝霧もいるか?これ。」
加瀬がぼくの顔を覗き込む。このやりとりは……。
「え、あ、じゃあもらおうかな?」
ぎこちない笑顔だったと自分でも思う。それに加瀬も気がついたのが心配した表情を浮かべて大丈夫かと小声で話しかけてくれた。大丈夫だよと返すのが精一杯だった。これは、また過去にきているのか、と頭にいろんな考えが浮かぶ。気がつくと、雨が降り出していた。思い出した。このあとに、雨夜が僕のことを背中から何かで刺したんだ。
「雨かァ、はやく帰ろうぜ。」呑気にそう言う加瀬が少し羨ましかった。心臓の鼓動がはやくなる。
「ん?あれ、雨夜どこいった??」
このタイミングだ!!!バッと後ろを振り向くと今度は腹に激痛が走った。ぬるぬると生ぬるい液体が止め処なく出ていく。抑えようと手を腹に当てたが纏わりつく血の感触が気持ち悪くて手を離す。前を向くと雨夜くんがにやりと不敵な笑みを浮かべた。ドロドロと血が道路に広がっていく。これ、全部僕の血なのか。耐えきれず膝をついた。
「加瀬、逃げろ…」
そう言ったその瞬間、加瀬の叫び声が聞こえた。叫び声の方向を向くと、加瀬も雨夜くんに刺されていた。
「どうして………」そう言ったその瞬間、僕の意識はまた途絶えた。この悪夢のような現実は、まだ終わらなかった。
「このコロッケうま!!?」
また、繰り返しか。この悪夢からは逃れられないのか。
「ボクにもちょうだいよーーー」
なんで雨夜はこんなことしたんだ。この時までは普通だったじゃないか。
「───?─霧?朝霧!!!!」
「え、ああごめん、どうした??」
加瀬は怒ったような、心配しているような表情を浮かべていた。
「おまえ、大丈夫か??なんかあったか?」
「そうだよ朝霧くん、どうかしたのーーーー?」
加瀬と雨夜くんがこちらを覗き込んだ。
なんでもないよ、と返した。
このループから抜け出す方法を、見つけなければならない。
「加瀬!!ちょっと来て。」
まず思いついた方法を試してみることにした。
逃げるぞ、と小声で言った。一瞬顔をしかめたが、案外すんなりと了承してくれた。走り出したその瞬間、後ろから声が聞こえた。雨夜くんの声だ。
「ふたりともー、どこいくのー?」
「あー、えっと、競争!!雨夜くん、よーいどんって言ってくれる?」
下手な嘘だなあと自分でも思う。でも、これしか思いつかなかった。
「ふ〜ん。珍しいねェ。いいよ。いくよーー、よーいどん!!!」
2人で一斉に走り出した。
後ろの方で、また置いてかれる……と、そう聞こえたような気がした。気の所為だろうか。
どのくらい走っただろうか。気がつくと知らない公園に来ていた。ベンチに座って荒い呼吸を整えた。ぽつぽつと雨が振り始めた。
「で、なんで雨夜から逃げたの??」
加瀬が言った。
「それは………」
説明しようとした瞬間、後ろに猛烈な気配を感じた。
「ねェ〜〜、なんで逃げるの??加瀬くん、朝霧くん??」
バクンと心臓が脈打つ。ぴたりと首に何かが触れた。雨夜の手だった。何故か異様に冷たく感じた。纏わりつくその手が離れない。だんだん首を掴む手の力が強くなっていく。加瀬は衝撃のこの状況を見て目を見開いたまま止まっていた。怖くて雨夜の表情を見れなかった。
「どうしてこんな……。」
首を絞められていてうまく発することができなかったが、聞こえただろうか。またループするんだろうから聞いておいて損はない。何か理由があるのかもしれない。そうだ、雨夜はこんなことしない。誰かに操られてるんだ。絶対そうだ。
「だって〜〜キミたちボクを一人にするんだもん。また、ボクを置いていくんだもん。」
そう言う雨夜の声が、少し震えているような気がした。
置いていかないでよという声が夜に溶けた。また、意識が途絶えた。
何回繰り返しただろうか。どんなに遠くに逃げても、警察に通報しても、何をしても、このループから抜け出すことはできなかった。どこかの場面で僕の行動が間違っていることは確かだが、それが何か分からなかった。なんで雨夜は僕達を殺そうとするんだ。もう、やけくそになっていた。
「このコロッケうま!!?」
聞き飽きたセリフ。
道路沿いにある植木鉢を持った。ザラザラと土がこぼれ落ちる。しっかりとした植木鉢の重みを確かめて、僕は薄く笑った。
「ん?まって、朝霧??おまえ、なにしてる!!!」
重い植木鉢を持ち上げて雨夜に振りかざした。
「どうせまた、ループするんでしょ。」
吐き捨てるように、そう言った。
ゴンッと、鈍い音が響いた。雨夜は道路に倒れて血の海をつくっていた。
加瀬はその場に呆然と立ち尽くしていた。何びっくりしてんだよ。こんなことしてもまたどうせ繰り返しだろ。
住宅街の方から女性の悲鳴が聞こえた。警察呼べ!!という男性の声も聞こえた。頬に水滴が落ちる。また雨が振り始めた。だんだんと雨音は強くなっていく。そこではじめてナニカがおかしい事に気がついた。
「あれ…ループしない………」
なんで、だってこんなの。ずっとループしてたのになんで今終わるんだ。この行動が一番正しかったのか。僕が雨夜を殺す事が正しかったのか。大事な友達を失うことが一番正しかったのか。
サイレンの音が響く。鼻の奥を刺激する鉄の匂い。手に残っている雨夜くんを殴った感触。ぐったりと道路に倒れた雨夜くん。何も言えずに呆然としている加瀬。
倒れた雨夜くんの顔を見て僕の胸に広がるのは安堵ではなく、焼け付くような後悔だった。
「なんで…笑ってるんだよ…」
雨夜くんは笑っていた。昔3人で遊んでいたあの時みたいに。
──置いていかないで。
耳の奥にあの声が響く。震えたあの声。その声は殺意や憎しみじゃなくて締め付けるような孤独だった。僕と加瀬は幼なじみだった。幼稚園の頃から仲良しで、雨夜くんとは小5のときに出会った。その違いが、雨夜くんを一人にしてしまっていたのかもしれない。孤独ほど怖いものはない。その孤独が続けば、世界に自分の味方は一人もいないとさえ思ってしまう。ましてや、目の前で自分を置いて仲良くする友達を見たら、決していい気分にはならないだろう。
「ごめん…雨夜……ごめん……」
声が震えて、視界が滲む。だけどもう、返事は返ってこなかった。夜の冷たい風が赤い道路をなぞっていく。暗闇の中、僕と加瀬は雨夜の手をそっと繋いだ。加瀬も僕も、ぼろぼろと泣いていた。雨夜の口角が少し上がった、そんな気がした。
クリスマスの魔法を、貴方に
窓の外にゆっくり落ちる雪を眺めていた。夕焼けの綺麗な茜色を移しながらひらひら落ちていく。昨日の夜から振り続けていたからだろう。辺り一面雪景色だった。クリスマスに雪が降るのは特別感がある。だが、ただ特別感があるだけで、うれしい訳では無い。隣に誰かがいればよかったけど。
こんなに孤独なクリスマスは、これで2回目だ。
「おとーさーーん!!こっち!」
窓の外から白色のニット帽をかぶった少女が父親らしき人に話しかける。中学生くらいの少女だろうか。わたしと同じくらいだと思う。隣には女性も立って笑いかけていた。きっと母親だろう。何とも言えない気持ちを抑えながら、幸せそうな家族をずっと眺めていた。虚しくなるだけなのに。
わたしの家は、片親だった。お父さんが男手ひとつでわたしを育ててくれた。なぜお母さんがいないのかはよく知らない。別に知りたいと思ったことはないし、なんとなく気まずいので聞いたことなかった。それにわたしは、お父さんがいるだけでとても幸せだった。
「りんかは、幸せに生きるんだよ」
これは、お父さんの口癖だった。わたしはこの言葉が嫌いだった。まるでお父さんは幸せじゃないみたいで、いつもこの言葉を言われるとお父さんは幸せじゃないのと聞き返した。お父さんは何も言わずに出来損ないの笑顔を浮かべていた。それは幸せじゃないよと言われるよりも、深く心に突き刺さった。
窓の外の家族が笑い合いながら手を繋ぎ、夕焼けに向かって帰っていった。きっと帰ったら温かい料理をつくって、おいしいケーキを食べるんだろうな、なんて想像した。
目を瞑る。湯気を立てているチキンを差し出す手が見える。お父さんだ。周りにはグラスが2つ。わたしとお父さんはサンタ帽をかぶっていた。壁には飾りまであり、小さなクリスマスツリーも置いてある。全てがキラキラして見えた。
なんて、もうできるはずないのに。
テーブルに置いてあるのはおにぎり一つと冷凍食品の唐揚げだけ。他の家族は、なにを食べているのだろうか。
「……いただきます。」
私の声だけが小さい部屋に響いた。
ベッドに潜り込んだ頃にはもう11時を過ぎていた。勉強や洗濯、皿洗いをしていたら大体いつもこのくらいの時間になる。寝転びながら窓の外を見る。変わらず雪が振り続けていた。明日は雪かきしないといけないかな。隣の家の電気はまだついていた。楽しそうな声が聞こえる。周りはクリスマスに染まっているのに、雪かきのことを考えているわたしは馬鹿みたいだと思う。小さい頃はあんなにも満たされた気持ちでクリスマスを待っていたのに。サンタなんて私の家には来ないと分かっている今、なにもクリスマスイブに特別なものなんてなかった。もう、なにもない。
この前、父が死んだ。交通事故だったそうだ。トラックと軽自動車の衝突なんだから、小さな軽自動車が勝てるはずもない。即死だったと、顔を強張らせながら警官がわたしに告げた。それが本当か嘘かは、警官の灰色の顔を見ればすぐに分かることだった。後悔を残したまま死んでしまった。小さなことでけんかをしてしまったままだ。ちょうど、今から1年前、クリスマスイブだった。
「お父さんは幸せじゃなかったの!?幸せだよって言ってくれるだけでいいのに。それだけでわたし、嬉しいのに。やっぱりお父さん、何も分かってない。おかあさんもいないし、わたしのこと分かってくれる人なんて誰もいないんだ。」
そう言い放った時には遅かった。お父さんは子供のように目を丸くして固まっていた。その後小さくごめんねと呟いていた。わたしは聞こえていないふりをした。
「もう出ていって!!!お父さんの顔なんて、見たくない。」
お父さんは一度私の顔をみたが、それから俯いて申し訳なさそうに出ていった。わたしのお父さんは、その日からずっと帰ってこなかった。
それからはお父さんのお姉さんに引き取られた。わたしへの扱いは良いと言えるものではなかった。当たり前だと思う。お姉さんはお姉さんで人生があるし、父親を失くした少女にどう接すればよいのか分からないのだろう。わたしをこの家に残してどこかへ行っている。月に一度、お金を置きに戻ってくるだけ。もう諦めていた。そういうものなのだと。
外から微かに歌声が聞こえた。近所の教会からだろうか。美しい歌声がするすると胸の中へはいってくる。その声がわたしを普通のクリスマスイブへと連れて行ってくれる。そんな気がした。目頭が熱くなる。止めようと思えば思うほど溢れてくる。ぽたぽたと枕に水滴を落としていく。
お願いします、サンタさん。またわたしに夢を見させてください。
「お父さんに、会わせて。」
絞り出すように出たその声は自分でもびっくりするほど弱々しいものだった。たった一瞬でいいから、クリスマスの魔法が欲しかった。泣きつかれたわたしは、そのまま目を瞑った。
どこからか、鈴の音が聞こえる。ここは、何処だろうか。夢とも現実とも言えない妙な感じがする。夢でも見ているのだろうか。目の前には光が広がっている。わたしは、光の方へ足を進めた。
コトッと懐かしい音が聞こえる。お皿をテーブルに置く音。周りにはクリスマスの飾りと小さな小さなツリー。目の前で椅子を引き、座る音が聞こえる。
「りんかは、幸せに生きてね」
耳に入ってきたその声は信じ難いものだった。低音で響く声。聞き間違えるはずがないだろう。ずっと願っていた。また、その声が聞こえるように。
前を向くとそこには、お父さんがいた。心臓が跳ね上がる。
「お父さん……」
「なんだ。」
まだたくさん話したいことあったんだよ。ずっと、待っていたんだよ。
「お父さんは、幸せじゃなかった…?」
お父さんは困ったように眉を下げ、少し笑う。沈黙。
「答えてよ。」
夢でもいいから。ただクリスマスが見せた魔法でいいから。答えを、教えて。
「幸せだったよ。りんかといっしょに過ごせて、本当によかった。」俯いたまま、そう言った。目を合わせることができなくなる。俯いたまま何の意味もなく机をじっと見た。
「お父さん、ごめんね。わたしお父さんのこと、大好きだったのに、あんなこと言って。ホントは違うの。ほんとは…」
詰まって、言葉が出なかった。涙がぽろぽろと落ちる。お父さんは席を立ち、そっとわたしを抱きしめた。お父さんの顔をみることはできなかった。肩に水滴が落ちる。そこで初めて、お父さんも泣いているということに気がついた。懐かしい。温かい。
「俺のほうこそ、ごめん。りんかのこと、分かってなかったのかもしれない。帰ってこれなくてごめんね。ほんとはクリスマスケーキ、買ってたんだけどね」
「うん、うん」
涙で声が震える。
「途中でトラックに轢かれたんだ。クリスマスケーキ、食べたかったよね。ごめんな、こんな父親で。」
言葉が出てこなかった。ずっとふたりで泣いていた。
その後、2人でチキンとケーキを食べた。他愛のない話をして笑い合った。この前の夏休みの話や、最近食べたもの、好きなケーキの味、昨日したこと、全部全部話した。お父さんは笑いながら聞いてくれた。2人でいっぱい泣いていっぱい笑った。今までの空白を取り戻すように。
瞼の裏が眩しい。鳥の鳴き声が聞こえる。ハッとなって飛び起きるとそこにはいつもの光景が広がっていた。静かな寝室。誰もいない部屋。冷たいベッド。わたしは、スリッパをはいて、リビングへ移動した。
テーブルにジャムを塗っただけの食パンを置く。
「いただきます。」手を合わせた瞬間、わたしは信じられない物を見た。
懐かしい小さな小さなクリスマスツリーが部屋の端に置いてあった。そのそばには四角い箱も。履いたスリッパを脱ぎ捨てて駆け寄る。床が冷たいなんてことは全く気にしていなかった。
そっとツリーに触れる。本物だ。四角く白い箱を慎重に開けた。甘い香りが漂う。そこには、ショートケーキが入っていた。心臓の鼓動が早まる。お父さんが生きていた時には、ショートケーキが好きだなんて言ったことはなかった。お父さんがチョコレートケーキが好きなのでなんとなくそれに合わせていたからだ。ショートケーキが好きと伝えたのは、昨日見た夢だけ。じっとケーキを見つめる。そこに、ケーキを渡すお父さんも手が、見えた気がした。涙が溢れ出る。これは、悲しいだけの涙ではなかった。もう、お父さんはいない。それは変わらないけど、
「大好きだよ、お父さん。」
返事は、帰ってこなかった。
さよならの一杯
僕が死ぬまで後3日。正確に言えば、世界が終わるまで後3日だ。死と薄暗い影が、もうそこまで迫っていた。
--- さよならの一杯 ---
「速報です。謎の巨大隕石が発見されてから約1週間が経ちました。研究所が調査を進めたところ、3日後には衝突するとの調査結果が出ました。」
アナウンサーが手元の資料を見ながらそう伝える。
「中継です。現場の宮田さん。」一瞬のタイムラグの後、画面は違う景色を映し出した。灰色の冷たい影が落ちていて、人の気配は全く見当たらなかった。
「はい……こちら新潟県山間部です。ここは世界で一番隕石が大きく見える場所です。見上げると、信じられないほど大きな隕石があります…。今にも落ちてきそうな圧迫感ですね…。」
「そうですね…。今各地で犯罪、殺人、自殺が多発しており、警察は対応に追われ」
テレビは真っ黒な画面に切り替わった。こんなニュースなど見ても無駄だ。今テレビやネットニュースはこの話題で持ちきりだ。どうせ隕石について議論したって、返ってくるのは絶望だけ。今更どうにかできるはずもない。僕はソファーから立ち、ドアの先のキッチンへ向かった。
最近は客が少なかった。昨日から客は1人もいない。無理もない。世界の終わりが近づいているというのにいつも通りを守るなんて馬鹿はここにしかいないと思う。僕はいつも通り綺麗に真っ白のコーヒーカップを磨いていた。どれだけそうしていただろうか。流石に手が疲れてきた頃、ドアのベルが鳴った。ありえないはずの来客だった。
「いらっしゃいませ。」
「はるくん!!!」
扉をものすごい勢いで開けたその客は、食い気味で誰かの名前を呼んだ。肩で息をしながら立っているその人は、髪は白色で耳らへんで無造作に切ってあり目は吸い込まれそうな瑠璃色をしていた。裸足で服も髪も乱れていた。
「失礼ですがお客様、今この喫茶店にはあなたと僕しかいませんよ」
「もーー知ってる!!ボクはキミに会いにきたの!!はるくんってのはキミのこと!」
頬を膨らませながらその少年は言った。
「僕の名前ははるかです。そして僕をはるくんと呼ぶ人はいません。」
「相変わらず冷たいな。ボクのこと、分かんない?」
少年は急に近寄ってきてカウンター越しに背伸びし、僕の胸ら辺に手を当てながらそう言った。
「わかりません。どなたですか。」
見下ろしながら言い放つ。
「はるくん、飼い猫の名前は」
試すような笑顔を浮かべながらにやにやとこちらをみてくる。少年はカウンター席に勝手に座った。
「ハクです。死にましたけど。」
するとさっきまで笑顔だった少年は急に真顔になった。見透かすような目。不気味に感じる声。
「うん。それボクね。」
そんな事あるわけがないだろう。似ているところなんて髪を目の色しかないし、そもそも猫が人間になるなんて御伽話でしかない。ハクは死んだ。それ以上でも以下でもないし、死んだことに対する救いなんてないと思う。でももしほんとにハクなら……
「信じてないでしょ…?」
眉尻を下げて顔を覗き込まれる。
「ボクに質問して良いよ。」
「ハクのすきな食べ物は」
「煮干し」
「好きなことは」
「寝ること」
「お気に入りだったおもちゃは」
「サメのぬいぐるみ」
「……僕がいつも話しかけていた言葉は」
「うーーん難しいなー、でも毎日おはようとおやすみは言ってくれてたよね」
これは、まぐれなのだろうか。
「どう、信じてくれた?」
「ここまで合ってたら疑える筈がないじゃないですか。」
「ふふ、良かった。あ、ミルク頂戴」
「ちゃんとお金払って下さいね。」
「薄情な。ボクお金無いよ」
ハクは両手をぱーっと広げて困った顔をする。仕方ない奴だ。
「お願い、どーしてもミルク飲みたくて」
上目遣いでそう言うこの猫に僕は大きくため息をついた。自然と口角が緩むのを感じる。全然変わってなくて、良かった。
「仕方ないですね。今回だけですよ」
「やったー!!!!はるくんすきだよ!!」
僕はわざと顔を顰めた。
「やめてその表情で語るやつ。キモって思ってんのバレバレでちょっとボク傷つくから。」
湯気を立てているミルクを差し出した。隣にはコーヒーも置く。
ハクはミルクをじっと見ながら顔を顰める。
「ねえこの薄い膜?イヤなんだけど。」
ハクはミルクに張った薄い膜をツンツンしながらそう言った。
「子供みたいなこと言わないでください。」そう言いながら銀色のスプーンを取り出して膜を取り除いた。
「ボク一応キミより年上なんだけどね!!もう!!」
そう言いながらハクがカウンターの上に登ってミルクを飲み始める。
「カウンターの上乗らないでください。汚れるでしょ。」
「ケチ。なんか前もよくそうやって怒られてたよね、ボク。あとはるくんって昔から潔癖だよねえ。」
ため息をつきながらボソボソ文句を言っているハクを抱えてカウンターから降ろす。
「なんか、猫みたいですね」
「一応猫だからね、性格ははるくんのほうが猫っぽいと思うけど。」
「どういうことですか。」
「不器用な優しさとか人との距離感とか、なんか猫っぽい」
僕は聞いてないふりをしてコーヒーカップを磨き始めた
「ねえ??ため息ついてばっかじゃない?ボク説明したんだけど聞いてた???」
いつの間にか青空は夕焼け色に染まっていた。残り少ないコーヒーはもう冷めていた。ミルクが入っていたはずのカップはもう既に空だった。
「今日はいっぱい話せて楽しかったね!!明日も来るからね!」
「来なくて大丈夫です」
目を瞑りながらそう言った。
「あ、ひどい。まあ残された時間はボクもはるくんも少ないから、有意義に過ごしてね」
そう言いながら振り向き、光が差し込むドアに手をかけて外へ行ってしまった。夕焼けの中、一人で歩くハクの背中は少し寂しそうに見えた。
***
視界は赤色に染まっていた。メラメラと炎が揺れている。今迄嗅いだことの無いような焦げ臭い匂い。息を吸う度に、肺が空気を拒んでいるような気がした。おかあさん、おとうさん、と何度も何度も呼んだが、返事はなかった。人の悲鳴や泣き声が聞こえる。目の前で家が崩れ落ちた。しばらくそこから悲鳴が聞こえていたが、それはやがて小さくなっていった。僕はその場に呆然と立ち尽くすことしかできなかった。寒いわけないのに手が震える。熱い熱い炎が、迫ってくる。
「おい!!向こうに猫が取り残されてるぞ!!鳴き声が聞こえる!!」
にゃー。
僕はその弱々しい鳴き声を聞いた瞬間、走り出していた。走っている途中でいろんな事を考えた。もしかしたら猫はいないかもしれない。もう死んじゃってるかも。僕も助ける途中で死んじゃうかもしれない。いろいろ考えたけれど、走る足は止まらなかった。
燃え盛る家をしばらく探すと案外早く見つけることができた。煤で汚れてはいるが、もともときれいな白居毛並みだったことがよくわかった。小さな白い猫は小刻みに震えていた。僕とおんなじだ。僕はその猫の手を取ってしっかりとにぎった。
「大丈夫。安心してね。僕がいるからね。」
綺麗な瑠璃色の目が僕を真っ直ぐに見た。
***
世界滅亡まであと2日。喫茶店の外から見ると、明らかに隕石が近づいていた。朝だというのに、隕石のおかげで少し辺りには暗い影が落ちていた。
カラン、とドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。」
僕は、白色のコーヒーカップに目を落としながらそう言った。今日もまたコーヒーカップを磨いていた。
「おはようはるくーん!僕の為に店を空けててくれてたのかニャ??」
「おはようございます」
ハクはにやにやしながらこちらへ近づいてくる。
「向こうのお席へどうぞ。」
「え、遠くない??遠ざけてるよね?傷つくよ?」
「はい。」
僕はあたたかいミルクを入れながら言った。ハクはひどいなあとか呟きながら僕の目の前のカウンター席に腰を掛けた。頬杖をつきながら何処かを見つめていた。何かを考えているようだった。
「ホットミルクです。どうぞ。」
既に薄い膜は取り除いておいた。ミルクが少し付いた銀色のスプーンがキッチンに転がっている。
「あ、うん。ありがと」
ハクはホットミルクの方を見なかった。そのまま何処かを見つめていた。基本にこにこしていて能天気だからか、真剣な顔は余計に冷たく見えた。
「冷めますよ」
「あ、あぁ。え、ミルク用意してくれてたの!?分かってるねーーはるくん。僕のこと好きなのかニャ?なーんちゃって…あ、はるくんっていつも飲んでるそれ、なに?」
明らかに様子がおかしかった。べらべらと喋っているが心は何処か別のことを考えているようだった。
「ブラックコーヒーです。苦いですよ。」
「こーひーかあ!!じゃあ、最後の日はいっしょに飲もうね」
「…はい。」
暫くの間、沈黙が流れた。ハクはずっと上の空だった。
「ねぇ、はるくんは逃げないの?」
最初に隕石が衝突するのは日本だ。人々は少しでも生きるためにブラジルへと移動しているらしい。そんな事をしたって無駄だろう。
「逃げませんよ。どうせ助からない」
「助かるよ。」
瑠璃色の瞳が真っ直ぐと僕を見つめた。僕はなんとなく目を逸らす。
「ブラジルの、とある場所に行けば、助かる。」
「じゃあ君だけ逃げたらいいじゃないですか」
コーヒーカップを磨きながらそう言う。
「まあ、ボクは助からないからサ」
もう一度目を合わせると、ハクは笑っていた。
「なんで」
「ボクは神様に3日の猶予を与えてもらったんだ。キミを助けるために。こんなこと言ってもキミは信じないよね、こういうの」
「じゃあ一緒に死にましょうよ。」
ハクは目を見開いた。綺麗な瞳が揺れる。
「駄目だよ」そう言いながらハクが小さく呟く。
「ボクははるくんを助けに来たんだよ。死んでほしくない。」
はあ、と僕はため息をついた。コーヒーカップをキッチンに置く。
「僕はハクと一緒にいたいです。死ぬとしても。ハクを一人にさせる気は無いよ。」
ハクの瞳から大粒の雫がこぼれ落ちる。それは、もう止まる気配は無かった。
「何泣いてるんですか」
冷たく言い放った。
「泣いてない。」
「泣いてます」
「泣いてないって」
「泣いてますって。」
大きくため息をつく。
「ねえ、はるくん」ハルが一緒懸命涙を拭いながら言った。
「なんですか。」
「ボクを助けてくれて、ありがとう。ボク、あの火事のとき凄く怖かったんだよ。」
もうとっくに冷めてしまったミルクのカップを手で包みながらそう言った。
「震えてましたもんね。」
僕はコーヒーを一口啜る。
「よく覚えてるね、はずかしいんだけど。」
「知りません。てかいい加減泣き止んだらどうですか。」
「はあ!!薄情だね!!慰めてくれてもいいんだよ!?」
ハクはそう言いながら伏せた。伏せながら泣いて震えているハクが、あの時のハクに見えた。赤い炎の中の白い猫を思い出す。僕は思わず頭を撫でた。
「あったかい」
泣きながら満足気にわらっていた。僕も自然と口角が緩んでしまう。
「ハク、僕に会いに来てくれてありがとう。」
「そんな事言われたら余計泣くでしょ!!ばか!はるくんのばーか!!!!」そう言いながらハクはカウンターにのぼり始める。そこで座ってミルクを飲み始めた。
「だから。カウンターの上のぼらないでくださいって」
「ケチ。バカ。アホ。」
「ほんとに何処でそんな言葉覚えたんですか。」
抱えて降ろしながらそう言う。
「はるくんよく言ってたじゃん。」
「…言ってない」
「言ってた」
「言ってない」
「言ってた!!」
窓の外はもう既に暗くなっていた。淹れたコーヒーも既に空だった。
世界滅亡の朝。隕石はもう信じられないほど近づいていた。今にも落ちてきそうだった。大きな大きな岩は太陽の光を遮り、冷たい影を落としていた。
外でなんとなく隕石を見つめていると曲がり角から少年が近づいてきた。白い髪。瑠璃色の目。乱れた服。
「はるくん!」
「おはようございます。」
僕はそう言いながら店のドアを開け、ハクを中に入れた。ハクは当たり前のようにカウンター席に座った。
「ブラックコーヒー。2人分ね。」
「かしこまりました。」
僕は既に淹れてあったコーヒーをハクの前に差し出した。白い湯気がもくもくと出ている。
後ろを振り向いてシュガーを取ろうとした瞬間右手に当たって白いティーカップが落ちてしまった。ティーカップは音を立ててパリンと割れてしまった。
「はるくん大丈夫?ケガない?火傷とかしてない?」
「大丈夫です、空だったので。」
そう言いながら余っていた紙袋のなかにガラスの破片を入れた。ハクはずっと窓の外を見ていた。片付け終え、2人で一緒にコーヒーを飲んだ。きっと、これが最後の一杯だ。
「苦くないですか」
「苦い、けど嫌いじゃない」
ハクのコーヒーカップを握る手が震えていた。きっと、寒くて震えている訳では無いだろう。
何処かで地響きがして、微かに窓ガラスが揺れた。
「もうこれで最後かあ」
「そうですね。」
コーヒーカップを握り目を瞑りながらそう答える。
「はるくん、一緒に居てくれてありがとう」
ハクの声が涙で震えていた。涙が頬を伝ってもハクの笑顔が壊れなかった。視界が滲む。テーブルに雫が落ち、そこで初めて僕が泣いていることに気がついた。怖くなかったはずなのに。
「もーー泣かないでよ」
「ハクも泣いてるくせに。」
ハクはコーヒーカップを握る僕の手をそっと包んだ。火事のときの感覚が蘇ってくる。
「大丈夫、安心してね。ボクがいるよ」
そう言ってハクは僕に笑いかけた。
--- “大丈夫、安心してね。僕がいるからね” ---
懐かしい言葉だ。窓の外が白く光った。凄い音を立てはじめる。僕はカウンターを飛び越え、ハクを抱きしめた。カウンターが汚れるなんてことはもう気にしていなかった。
「いやだよ、行かないで」
「大丈夫。ボクはここにいるよ」
2つのコーヒーカップがカタカタと揺れる。電球も揺れていた。振動でコーヒーが少し飛び散った。
「また、コーヒー飲もうね。今度は笑って飲もう」
「うん……うん。」自分でもびっくりするほど弱々しい声でそう答える。ハクの身体がだんだん薄くなっていく。
「大好きだよハク」
「ボクもだよ」
ハクの服だけが残った。ぎゅっと抱きしめる。だんだん振動が大きくなり、気温が急に高くなった。そっと目を瞑る。もう手の震えは収まっていた。
最初からさよならが決まっていたとしても、この一杯は温かかった。