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目次
自分のストーカーに恋をしてしましました1
🌟あらすじ
主人公・早乙女 葵(さおとめ あおい)は、都内の出版社に勤める29歳の編集者。仕事は充実しているものの、プライベートは平凡で恋愛からは遠ざかっている。そんな彼女には、数ヶ月前から気づいているストーカーの存在があった。
恐怖心と不快感を抱きながらも、葵は次第にそのストーカーの**「監視の視線」の先にある、奇妙な一貫性と異常なほどの気遣い**に気づき始める。
本文
早乙女 葵は、カチリ、と玄関の鍵を二重にかけた後、深呼吸をした。時刻は夜の10時過ぎ。都内にある築30年のマンションの2階、角部屋。オートロックはない。
「今日こそ、何もありませんように」
心の中でそう唱えるのは、もう数ヶ月の習慣になっていた。
葵は都内の出版社で働く29歳。文芸書部門の編集者として、それなりに忙しい日々を送っている。華やかとは言えないが、やりがいのある仕事だ。しかし、彼女の生活には、数ヶ月前から黒い影がまとわりついていた。
ストーカー。
最初は大したことではなかった。帰宅途中の同じ電柱の陰で、いつも同じ黒いパーカーを着た人物が立っている。最初は偶然だと思っていた。だが、それが毎晩、彼女の通勤ルート、休憩で立ち寄るカフェの窓の外、ときには職場の最寄りの駅の改札付近にまで現れるようになると、偶然ではないと確信した。
彼は、彼女に話しかけることも、手紙を送ることも、直接的な危害を加えることも一度もない。ただ、そこにいる。遠くから、彼女を見つめている。
その日もそうだった。
終電を一本逃し、疲れた足取りで駅前のコンビニに入ったとき、ガラス戸に映った自分の背後の景色に、あの黒いシルエットがいた。彼は道路を挟んだ向かい側の植え込みの影に立っている。いつも通り、顔まではよく見えないが、彼女を見ていることは分かった。
(まただ……)
恐怖心と、もう慣れっこになってしまった不快感が胸に広がる。
しかし、そのとき、不意に視界の隅に映ったものが、葵の思考を止めた。
彼女がコンビニを出て、マンションに向かって歩き始めたとき、歩道のマンホールの蓋の近くに小さな段差がある。夜道では見落としやすい、つまずきそうな段差だ。
葵がその段差を避けようと足を上げた、ちょうどその瞬間、彼女の背後、少し離れた場所にいた黒い影が、微かに身じろぎしたのを、反射的に振り返った葵は見てしまった。
それは、まるで彼女が転びそうになったのを、思わず助けようと体が動いた、そんな一瞬の動きに見えた。しかし、彼はすぐに元の影に静止し、何事もなかったかのように立ち尽くしている。
(まさか、ね……)
葵は首を振った。ストーカーだ。気持ち悪い。警戒しなければ。
だが、その夜、帰宅してポストを覗いたとき、いつも通り溜まっているチラシの束に、見慣れないものが混ざっているのを見つけた。
それは、彼女が愛用している少し高価な紅茶のサンプルパックだった。彼女が休憩で立ち寄るカフェで、最近「入荷待ち」だとぼやいていた、あの銘柄だ。
そして、そのパックの下には、彼女が数日前に**「そろそろ交換しないと」と独り言を言っていた、くたびれた傘の修理テープ**が、丁寧に貼られた状態で置かれていた。
手紙はない。メッセージもない。ただ、必要なものだけが、ひっそりと、そこに置かれている。
葵は、手に持った紅茶のサンプルパックと修理テープを交互に見つめた。
これは、誰かの異常なまでの執着が生んだ、奇妙な気遣いだ。
彼女を見つめる視線は、恐怖でしかないはずなのに。
「……私のこと、どこまで見てるのよ」
彼女は震える声で呟いた。その声には、恐怖だけだった。
自分のストーカーに恋をしてしましました2
あらすじ
ストーカーの**「気遣い」に触れ、葵は恐怖だけでなく、異常なほどの好奇心を抱き始める。彼女は、ストーカーが残した痕跡や、日々の監視パターンから、彼の生活リズムや行動範囲**を逆探知し始める。
しかし、ストーカーの監視はさらに巧妙かつプロフェッショナルになっていた。彼は、葵が仕事で直面していた緊急のトラブルまで事前に察知し、決定的なヒントを残す。葵は、このストーカーがただの変質者ではないことを確信する。
本文
第1話で受け取った紅茶と修理テープは、葵の部屋のテーブルの上に乗せられたまま、一晩が過ぎた。
「気持ち悪い、捨てるべきだ」
理性がそう命じる一方で、彼女の手はテープを掴み、傘の破れた部分に貼り付けてしまっていた。テープは粘着力が強く、完璧に雨漏りを防いでくれそうだ。
(完璧に私の生活にフィットするものを、ピンポイントで与えてくる……)
それは、ただの尾行ではない。まるで、彼女の生活というパズルを、誰かが外側から補完しようとしているかのようだ。
翌日、葵は仕事中もストーカーのことが頭から離れなかった。彼はどこで、何をしながら、私を見ているのか?
ふと、彼女はある事実に気づいた。彼はいつも、平日の朝8時から夜10時の間にしか姿を見せない。
「土日は、一度も見ていないわ」
まさか、彼も仕事をしているのだろうか?
彼女は逆探知を始めた。通勤経路の途中にある、いつも彼が立っている定位置。そこから見える景色、そこから彼がアクセスできる場所。
彼女のマンションの近くにあるコインランドリー。彼はいつも、彼女が帰宅する直前に、その裏手の駐車場に立っていることが多かった。
(コインランドリーを使う?いや、彼はいつも黒いパーカーで、清潔感はあるけれど、目立つ荷物はない)
そのコインランドリーの向かいには、小さな私書箱専門のレンタルオフィスがある。彼はいつも、その付近をうろついている。
(私書箱?もしかして、フリーランスか、何か秘密の仕事をしている?)
好奇心が、恐怖を凌駕し始めていた。ストーカーの存在は不快でしかないが、その行動原理を知りたい。
その日の午後、編集部内で緊急事態が発生した。担当している有名作家の原稿データが、誤操作により一部破損してしまったのだ。バックアップは数日前のものしかなく、直近の推敲部分が丸々失われた。締め切りは明後日。
「どうしよう、連絡を取って、もう一度書いてもらうしかないけど、先生は今海外だし……」
上司も同僚も、真っ青になっている。
葵は冷や汗をかきながら、破損したデータの復元を試みていたが、手詰まりだった。
そして、その夜。帰宅した葵が、いつものようにポストを覗くと、また**「贈り物」**があった。
今回は、一通の茶封筒。手紙ではない。中身は、市販のUSBメモリ。
そして、そのメモリに添えられた小さな付箋には、たった一言だけ、手書きの文字で書かれていた。
「Recuva」
葵は一瞬、それが何を意味するのか分からなかった。だが、編集者としての勘が働いた。これは、「復元」を意味するヒントではないか?
彼女は慌てて自分のパソコンにUSBメモリを挿し込んだ。中には、一つのファイルしかなかった。
開くと、それは**「Recuva」という名のデータ復元ソフトウェアのインストールパッケージ**だった。
「嘘……」
驚愕に声が出た。このストーカーは、私の職場で起きたトラブルまで、リアルタイムで把握している。そして、最も適切な解決策を、誰にも知られずに提供してきた。
(どうして?どうやって、この情報を手に入れたの?)
彼女は、すぐにそのソフトウェアを使って、破損した原稿データの復元を試みた。
結果は、完璧だった。失われたはずの推敲部分が、ほとんど無傷で復元されたのだ。
翌朝、葵は編集部でヒーローになった。上司は目を丸くし、「どうやって復元できたんだ?」と尋ねたが、葵は「昨夜、急いでネットで専門のツールを見つけて……」と曖昧にごまかした。
彼女の心臓は高鳴っていた。
彼の行動は、もはや「ストーカー」という一言では片付けられない。これは、完全な情報操作と、異常なまでの献身だ。
彼は、私の**「危機」すらも、私にとっての「チャンス」**に変えようとしている。
仕事が片付き、残業を終えて夜道を歩く葵の足取りは、もはや恐怖に支配されてはいなかった。むしろ、次に彼がどこに、どんな形で現れるのか、期待すらしていた。
曲がり角。いつもの電柱の影。そこに、黒いパーカーのシルエットが静かに立っている。
葵は、初めて彼に向かって、微かな笑みを浮かべた。
「……ありがとう」
声には出さなかったが、口元だけが動いた。彼は、一瞬、動揺したかのように影の中で体を硬直させた。そして、すぐにいつもの静止状態に戻った。
その反応を見た葵は、確信した。
「彼は、私の言葉を、表情を、すべて見ている」
そして、初めて、彼女は自分が彼の**「完璧な監視」**に、恋の兆しのようなものを感じ始めていることに、気づいてしまったのだ。