どちらかと言えばお気に入りかなーって言うものを集めた。
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桃色の記憶
2025/08/13
従姉妹の綾ちゃんに、久々に会うことになった。最後に綾ちゃんと会ったのは4年前。10歳だった私は14歳に、13歳だった綾ちゃんは17歳になっている。そう考えると綾ちゃんの存在がやけに遠くに感じけれど、実際に会ってみれば笑顔で迎えてくれた。久しぶりーっとハイテンションで挨拶を交わして、綾ちゃんの部屋に行く。白で統一された、清楚な部屋。4年前とは違う部屋に、心臓が早くなる。前は全体的に桃色の部屋だったのに、今は白なんだね。そう早口で伝えると、綾ちゃんはきょとんと首をかしげたあと、「覚えてないやー。」とおかしそうに笑った。その、鼻の詰まったような笑い方は4年前と変わっていなかった。「あ、そっか。まあ、そうか。4年だもんね。」変な奴だと思われなかったかと心配で、汗をかきながら答えた。
「変わったねー。美憂ちゃん。」不意に言われたその言葉に、えっと驚く。「大人っぽくなった。」私からしてみれば、綾ちゃんの方がずっとずっと大人っぽくなっている。「そうかな、成長かな…。」曖昧な返事をした。綾ちゃんがメイクをしていることに、今気づいた。前は、メイクなんてわかんないと言っていたのに。
私のスマホの振動音が部屋に響いた。「誰から?てかスマホ買ってもらったんだね。」綾ちゃんの言葉に、スマホを取り出しながら頷いた。通知を確認して、友達からだったと伝える。「ふうん。」その声がやけに艶っぽい。数秒の沈黙の後、「飲み物なにがいい?」と綾ちゃんが言った。明るい声だった。「麦茶か、オレンジジュースか、コーヒーか。」「あ、じゃあ、ジュースで。ありがとう。」「了解。」軽やかな足取りで部屋を出ていった綾ちゃんは、しばらくして、おぼんを持って戻ってきた。何をするでもなく正座して待っている私を見てもっと気楽にしなよーと笑った。「どーぞ。オレンジジュースね。」オレンジジュースの入ったコップを受け取る。綾ちゃんはコーヒー。「コーヒー飲めるの?」何気なく聞くと、綾ちゃんは口角をあげた。「もう17歳だからね。」私は小さく笑った後、そっかぁと答えた。コーヒーの香りが部屋に広がっていく。それが、ちょっとだけ息苦しかった。
コーヒーの向こう
2025/08/14
カフェの中、二人席に座って友達がやってくるのを待つ。頼んだコーヒーはまだ半分ほど残っているけれど、飲む気にはなれなかった。あとで飲もうと思いつつ、時間が経てばそれは冷めて、飲む気をさらに失せさせる。といって決して不味いわけではなく、むしろ美味しいのだが、今の私は何も受け付けられなかった。カランコロンと、カフェのドアが開く音が聞こえた。顔を上げる。長い茶髪を揺らし、きょろきょろと店内を見回す背の高い女性。友達の美咲だ。私を見つけ、こちらに向かってきた。「ごめんごめん。遅れちゃった。」私は眉をひそめてみせた。「ごめんて。」そういう美咲は、けれどどこか楽しそうだ。いや、楽しそうというか、ヘラヘラしているというか。
「遅い。何があったの?」一応聞いてみるも、どうせ何もないのだろうと内心ではまともな返事を期待していなかった。多分、寝坊とかそのレベル。だって彼女はいつもそう。本当に反省してほしいというかなんというか、だが反省したらそれはもはや美咲ではない。反省しないのが美咲であり、いやそれって一体どうなんだろう。頭の中で考えている間に、美咲はコーヒーを注文していた。「ちょっと寝過ごしちゃってねー。ごめんごめんー。」やっぱり。これで何回目だ。問い詰めたくなったけれど、その会話で彼女の遅刻癖がなおるわけでもないだろうしと口をつぐむ。先ほどまで飲む気になれなかったコーヒーを口に含んだ。ぬるい液体だった。
「それで何の用?」その質問に、何から話そうかと視線を右上にやりながら答えた。
「私、もうすぐ死ぬんだ。」
美咲は運ばれてきたコーヒーに反射的に視線をやって、そのまま固まった。10秒ほどの沈黙の後、やっと彼女が口を開いた。「まじ?」相変わらずヘラヘラとした表情だったけれど、瞳は細かく揺れていた。「まじまじ。大まじ。」私の冷めたコーヒーと、美咲の良い匂いを醸し出すコーヒーを交互に見つめた。表面に私の顔が写った。無表情で、自分でも少し突っかかりにくそうだと感じる、私の顔。
「もうすぐってどれくらい?」「まあ、あと1週間。」即答された美咲は、困惑顔で「え、え?」と呟いている。「本当は、半年前に宣告されてたんだけどねぇ。」「じゃあなんでその時言ってくれなかったの?」美咲が前のめりになった。ガタッと椅子が動く音が、比較的静かな店内に響いた。
「別に理由はないけど、なんとなく。」
美咲は力が抜けたのか椅子の背もたれにもたれかかって天井を仰いだ。私はぬるい液体と化してしまったそれを飲み干し、美味しそうな美咲のコーヒーを眺めていた。
動かないあいだ
2025/08/14
ベランダの手すりに止まっているカラスがずっと同じ場所から動かない。授業中、私はそのことが気になっていた。弱ってるのかな。大丈夫なのかな。もしかして固まって死んでるのかな。そんなことをぐるぐる考える。国語の先生の声が右耳から左耳へと流れていく。「宮沢、集中しろー。」先生に指摘され、あ、はい、と前を向く。けれども意識はカラスにあって、視線だけで窓の外を見たりしていた。
休み時間、窓を少し開けてカラスの様子を伺ってみた。音をたててもカラスは動かない。「生きてるの?そのカラス。」不意に後ろから言われた。クラスメイトの長谷川さんの声だった。長谷川さんはいつも1人でいる、よくわからない子。「さあ…どう、だろう、でしょうか…。」敬語を使うべきか悩み、変な口調で答えた。「でも、全然動かないから。」続けて、呟くように口にした。ふーんと、長谷川さんはそれだけ言って黙り込んだ。私たちはじっとカラスを見ていた。
もしあのカラスが死んでいても、泣くほど悲しくはない。だって思い入れなんてないカラス、特別惹かれるわけでもないカラス、多分初対面のカラス、初対面じゃなかったとしても私には見分けなんてつかないから。ただ、その時だけ、空虚な気分になるだけだ。夜、眠る頃にはカラスのことなんて忘れてるだろう。
チャイムが鳴った。私は窓を閉め、自分の席に座った。
カラスが、手すりからぽとっと落ちた。6時間目の授業中のことだった。多分、死んだ。私はしばらく、カラスが先程まで止まっていた手すりから目を離せなかった。これが死なのだと、感じた。
「カラス、死んだんだ。」6時間目の後の休み時間、長谷川さんが言った。いや、ただの呟きかも知れなかった。どっちかわからなかったけど、そうだねと返事をした。「カラスって自分の住居で死ぬんじゃなかったっけ。」長谷川さんは地面に落ちているカラスに聞くように、そう口にした。「なんでここで死んだんだろう。」私は返さなかった。無視ではなかった。
「どうするんだろうね。カラスの死体。」
カラスは目を瞑ったまま動かない。カラスに感情があるのかないのか私は知らないし、死んだならきっとないのだろうけど、雑な処理はしてほしくないな。なんとなくそう思った。
距離のかたち
2025/08/17
なんでも話せる仲と、会話は少ないけれど一緒にいると居心地が良い仲、どちらが理想の友人関係なんだろうか。人間関係に優劣をつけるなんて不毛なことだとわかっているけれど、私は最近、どうもそんな考えが頭にへばりついて離れないのだ。
前を歩く絢香の背中に視線をやる。朝の冷たい空気は透き通っているけれど、その背中はやけに遠くにあるように見えた。
空が青い。鮮やかな青ではない。水色とも違う。少しくすんだ、薄い色。青と水色の中間の色。絢香が、空が綺麗だと言った。彼女は最近、違う。はつらつだったのが、少し落ち着いた雰囲気になった。生きているのだから変化するのは当たり前だが、幼稚園の頃からずっと一緒の幼馴染が、私を置いて変わっていくことということに違和感を覚えるのだ。ずっと同じように成長してきたけど、もう中学生だし、これからは別々ね。突然、そう突き放されたように感じてしまう。
「どうしたの?」数メートル前を歩いていたはずの絢香が、いつの間にか私の顔を覗き込んでいた。不思議そうな顔で私の瞳をまっすぐに見つめてくる。私はどうやら立ち止まって考え込んでしまっていたらしい。「いや、なんでもない。」私がそう答える時には、絢香は再び歩き出していた。
学校について、靴を履き替え、階段をのぼる。絢香が軽やかに歩くたびに、彼女の低い位置で結ばれた髪の毛が揺れる。それを眺めながらガヤガヤと騒がしい教室に入る。空気が少し暖かくなったように感じる。私の席は綾香の後ろだ。「日向さん、おはよー。」絢香が隣の席、つまりは私から見て斜め右の席に座っている、クラスメイトの山口日向に挨拶をする。
山口日向はあまり喋らない小柄な女子生徒である。長い前髪が目を隠しているのもあって表情が読み取れず、私は少し苦手だった。しかし絢香はどうしてかそんな山口日向に構っている。聞けば、所属している部活が同じらしい。単純に席が隣で話す回数が増えたというのもあるだろう。最近はよく2人で帰っていると言うので、絢香の雰囲気が変わったのは山口日向の影響なのかもしれない。
重く、低く、心臓に響くようなチャイムが校舎に響いた。それと同時に担任が教室に入ってきた。
お昼休み、絢香と昼食を食べようと彼女の姿を探したが見つからなかった。最近、こういうことがたまにある。山口日向の席に視線をやった。誰も座っていなかった。
絢香の姿が見えない時はいつも、山口日向もいなくなる。それらが意味することを、私は心のどこかで理解していた。理解したくなかった。
私は自分の席に座り、1人でお弁当を食べた。絢香のいない昼食は静かで、おかずの味がいつもより薄い気がした。
お昼休みが終わる5分ほど前に、絢香と山口日向が帰ってきた。絢香は私を見ると僅かに顔をこわばらせた。「ごめん、今日は他の子と食べるって言おうとしたんだけど、いなかったから。」多分、私がお手洗いに行っている間の話だろう。気まずそうに視線を左下に沈ませる絢香に、私は言った。「別にいいよ。」思ったよりそっけない口調になっていた。
山口日向が私のことを数秒だけ見つめていた。目が合うと、ふいと逸らされた。その表情からはやはり感情が読み取れなかった。
放課後、部活を終えた私は1人で帰路についていた。空が赤い。オレンジ色の夕日がよく映える、濃い赤。綺麗だと思いながら歩いていると、ぎーこ、ぎーこという錆びついた音が聞こえた。顔をあげた。公園が目に入った。誰かがブランコを漕いでいるのだろうとさほど気にしないまま、公園の横を通り過ぎようとした。けれども、そのまま通り過ぎることはできなかった。
ブランコに座っていたのは絢香と山口日向だった。2人の口はつぐまれていたけれど、その雰囲気は堅苦しくなくて、むしろどこか暖かい。絢香が足は地につけたまま、ブランコを軽く揺らした。錆びついた音。山口日向の口がかすかに動いて、絢香が首を縦に動かす。何を話しているのか、ここからは聞こえない。でも、なんだかとても、いいな、と思った。
私は2人には声をかけず、静かにその場を後にした。
その日から、私は絢香と少しだけ距離を置いた。と言っても、登校も昼食も一緒。時々、今日は1人で学校に行きたいとか、別の誰かと昼食を食べたいとか、そういう時はそうするだけだ。
私は絢香以外の友達を作って、絢香とはまた違う距離感、空気感を知った。
なんでも話せる仲と、会話は少ないけれど一緒にいると居心地が良い仲、どちらが理想か。私はようやく、その問いの答えを見つけた気がした。
終わり方のコレジャナイ感。
全体的に説明的すぎる。
テーマは良かった。私がダメだった。
心臓の重さ
2025/08/19
心臓が重い。
朝、目が覚めた。ベッドから起き上がる時、ゾウのように、しかしゾウほど優雅ではない、のっそりと動いた。部屋を出て、階段を降りると、朝ごはんのトーストの良い匂いが漂ってきた。リビングに入り椅子に座った、お母さんがトーストを出してくれる。食パンを小さく齧り、咀嚼して飲むこんだ。パンが下に落ちていくのがわかった。この感覚は好きだ。
身支度を終え、家を出た。私の制服は真新しく、太陽に当たると美しく輝いているように見えた。教科書が詰め込まれたリュックを背負い、通学路を歩いた。思うように動けないこの感覚は、あまり好きではない。
朝の透き通った空気と、煌めく光。私にはそれが眩しくてたまらなくて、目を閉じていたかった。
学校では、みんな軽やかに歩いている。学生らしい希望に満ちた笑顔で友人たちと会話を交わす。少し前までは私にとってもそれが当たり前だった。けれど、今は前ほど軽やかに動けないし、前ほど純粋な笑顔が出てこない。私自身が勝手に抱いた、自分だけが違うという思いが、私自身を縛り付けている。
「歩、おはよう。」教室に入ると、友人の渚沙がそう言って口角を上げた。小さく跳ねるようにして渚沙が歩くたびに、彼女の短く折られたスカートと、束ねられた黒髪が揺れていた。かわいらしいと思った。私もこんなふうだったら良かったのになとも思った。
心臓が重い。生きづらい。うまく笑えない。
これが大人になるということなのかもしれない。
今日も心臓は重いし、今日も歩きにくい。今日もトーストが胃に落ちていく感覚に居心地の良さを覚え、眩しい光にまぶたを閉じ、友達に羨望の瞳を向ける。
でも、この日々にもだんだんと慣れきた。それはもしかしたら、少しだけ怖いことなのかもしれなかった。私にはまだ、わからないけれど。
笑わなくてもなんとかなる
2025/08/20
私は今、上手く笑えているだろうか。友達は、私の笑顔を自然なものだと捉えてくれるだろうか。
そんな不安を心の片隅に抱きながら、それでも私は笑う。
『サツキは笑顔が似合うよ。』言ってくれたのはお母さんだ。お母さんは、1ヶ月前、死んだ。私が物心ついた時から病気だった。入院と退院を繰り返していた。お母さんは自身が死ぬ直前まで、私が笑顔でいることを望んだ。だから私はそれに応えなくてはならない。辛くても苦しくても、笑っていればなんとかなるよと、そう教えてくれたのはお母さんだった。
「サツキー、こっちだよぅ。」
友達に名前を呼ばれて、私が無意識に立ち止まっていたことに気づいた。休み時間、理科の教科書を抱え教室を移動している。廊下の突き当たりの、理科室の前に立った友達が私に手招きをした。ごめんと笑いながら、駆け足でそちらに向かった。
笑っていないと不安になった。『笑ってる由奈は素敵だね。』私が小学5年生の頃だった。病室で、私の長い髪の毛を編みながら、お母さんはつぶやくように言った。笑っていない自分は素敵じゃないのか、咄嗟にそんな考えが脳裏をよぎったけれど、お母さんは純粋に褒めてくれているだけで、悪気なんてきっとないのだろう。だから私はにっこりと笑って、でしょーと返事をした。
お母さんが死んだ後、ずっと伸ばしていた髪の毛はバッサリ切った。
「放課後、クレープ食べに行こうよ。」お昼休みのことだった。友達が、お弁当の卵焼きをお箸で口に運びながら、そう提案した。私は購買で購入したカレーパンを咀嚼し飲み込んだ後、いいねと口角をあげた。また別の友達も賛同しはしゃいでいた。「青春っぽいじゃん。」嬉しそうにしながら、その友達は空っぽになった自身のお弁当箱を片付けていた。私はなんとなく、その様子をじっと眺めた。
放課後、私たちは制服のままクレープ屋に行った。「サツキは何にする?」友達に聞かれた。「私は普通のイチゴのやつかな。美波と梓は?」「バナナチョコとイチゴで悩んでる。」「私はイチゴチョコかカスタード、どっちがいいかなーって感じ。」真剣にメニュー表を見つめる友達2人に、これはそんなに大事な選択なのかと内心で考えた。
注文したクレープを手に持ちながら、お店の隣のベンチに並んで座った。じりじりと照らしてくる太陽のせいでクリームが溶けてきて、慌てて食べた。やっぱりイチゴにしたら良かっただとか、でもバナナチョコも美味しそうだとか、かき氷もあるんだねとか、そんな会話を私はニコニコしながら聞いていた。私はここにいなくても別にいいのかもしれないと思った。それはなんだか居心地がよくて、私の顔から段々と笑顔が消えていった。マシンガントークをしていた友達たちは、どうしてか少し落ち着いた様子で私をまじまじと見た。「サツキの真顔ってあんまり見た事ないよねー。」見つめられるのはどうも慣れなくて顔を逸らした。友達は逸らさないでよーと笑った。私の話題はそれで終わった。けれども、私の顔にはまた笑顔が滲み始めていた。それはお母さんのための笑顔じゃなくて、きっと、自分のためのものだった。友達の話に相槌を打ちながら、私の心は不思議な充足感に満たされていた。案外、笑わなくてもなんとかなるのかもしれなかった。残り少ないクレープにかぶりついた。
プリンが減っていた朝
2025/08/25
冷蔵庫の中に入れていたプリンが、1個減っていた。昨日は3個あったのが、今は2個しかないのだ。こういう時、ああこの家に住んでいるのは私だけではないんだと思う。
同居人の姿を見かけることはほとんどない。なので、人なのかどうかもわからない。私は昼間は仕事で外にいるし、夜帰ってきても、同居人はどこに隠れているのか見かけることはない。夜中に小さな物音がしたり、冷蔵庫の中身が減っていたり、そういうことで同居人が生きていることを知る。
同居人はいつの間にかうちに住み着いていた。私は少し前に両親が死んで、この無駄に広い家に1人で住むことになった。最初はもしやこの家は曰く付きなのだろうかと恐怖していたが、害のあるものではないとわかった今では怖くもなんともない。あるいは両親の霊が帰ってきたのかもしれない。座敷わらしとかそういう縁起の良いものなのかもしれない。ならば、無理に追い出すのもいけないだろう。それに同居人はどうやら家の掃除をしてくれているらしい。だだっ広い家中の掃除をするのは大変だったので、たいへんありがたい。さらに、同居人はひとり暮らしでの不安や寂しさを和らげてくれる存在でもあった。姿は見えないけど、誰かがいる。悪い奴じゃない、誰か。そう思うとなんだか居心地が良かった。
私は時折、同居人に手料理を振る舞った。といっても、料理を入れたお皿にサランラップをして、ダイニングテーブルの上に置いておくだけだ。よければ食べてくださいとか、そういう内容の手紙をそっとそえておく。いつも翌朝になるとなくなっているので食べているのだろう。お皿洗いまでやってくれるのだ。
私はそんな不思議な同居人との交流とも呼べないような交流を、だんだんと楽しむようになっていった。
休日の夜、私は2人前の焼きそばを作った。私と同居人の分だった。お皿に盛り付け、片方にはサランラップをした。焼きそばを食べながら、小さな紙にペンで文字を綴った。「良ければ食べてください」。いつもと同じように、それを同居人の方のお皿にそえた。
翌朝、やはりお皿は洗われていた。焼きそばの方も食べてくれたのだろう。ダイニングテーブルの上には、私が文字を綴った小さな紙が置かれていた。そばには鉛筆。どうして鉛筆がこんなところにあるのだろうかと、それに近づいた。紙に私以外の文字があった。「ありがとう」と、おそらくそう書かれているのだろう。決して上手くはなくて、がたがたしていて、小さな子供が書いたみたいな字だった。同居人のものだとわかった。私はしばらく、それを眺めていた。
後ろから物音がして、ハッとした。反射的に振り返った。そこには白いなにかがいた。といっても真っ白ではなくて、少し灰色がかっていた。ふわふわ浮いているようにも見えて、大きくて四角くて、似ているものを挙げればぬりかべだろうか。これが同居人なのだと直感した。人ではなかった訳だが。「あ、おはよう。」若干挙動不審になりながらも挨拶を投げた。ぬりかべ的な同居人はぎょっとした…ように見えた、そしてすぅっと消えていった。
それから、同居人はまるで消えたように存在感を消した。物音もなくなったし、私の作った料理もそのまま。
でも、きっとどこかにいる。私はそう信じている。それは希望や願望なんかじゃない、なにか。
消えないしみと
言葉の暴力とかいじめとかが含まれてるけど、そういう行為を推奨している訳では無いので、そこだけ勘違いしないでね、という注意書き。
2025/08/26
うちのクラスでいじめが始まったのは、5月からだ。私は主犯格でもなんでもない、いうならば村人的存在だった。いじめを止めるようなヒーローにはなれない。いじめが良いことだなんて思っていないけれど、どうしようもできなかった。
今日も学校があって、いじめがある。そう考えると胃がムカムカした。真っ赤なランドセルを背負い、家を出た。朝の空気は冷たく、私の頬を容赦なく叩いてくる。10月の中旬、つい先日まで暑かったのに、秋を挟むことなく冬になってしまっているみたい。そんなことを思いながら、学校に向かう。
教室のドアを開けた。ガラガラ。大きな音が鳴るも、それに耳を傾ける生徒はいない。クラスメイトたちはみんな、友人と楽しげに談笑しているからだ。私は教室の真ん中に位置する自身の席に座った。ランドセルから教科書やノートを取り出す。私の周りからは音が溢れ出ていたが、私の空間は、ここにだけなんらかのバリアがあると錯覚してしまうほど静かだった。
私には友人がいない。けれどいじめられているわけではない。私はいじめるに値するほどの人間ではないと思われているのかも知れなかった。まるで空気だ。それは寂しくもあるけれど、なんとなく居心地が良くもあった。
10分ほどすると、チャイムが鳴り響いた。担任が教室に入ってくる。だが、誰1人として席に座ろうとせず、会話を続けていた。担任が「みんな、席についてください。」と言っても、聞こえていないみたいに。この光景に、手足が重くなった。いじめが始まる。今日も。みんなの悪意に満ちた顔と、担任の疲れ果てた声。「座って、みんな。」担任が再度言う。「はー、なんで?」クラスの中心的な生徒である咲口美波が反抗して、他の生徒もヤジをとばした。「偉そうに言うなよ。」だとか、攻撃的な言葉が担任に投げつけられた。「…じゃあ、このまま話します。聞かないで困るのは君たちだからね。」担任は茶色っぽい長い髪の毛を揺らし、教室の中を見回した。私と目が合うと、口を固くつぐんで数秒黙った。その後、自身の手元に視線を落とし、話を始めた。
「まず____。」クラスメイトたちの声に遮られ、よく聞こえなかった。
8時50分から、授業が行われる。
「今日は割り算の勉強をします。」
「そんなん知らねえよ。」「興味ないし、だまれ。」担任は口元を歪めた。それを見て、咲口美波が高い声を出して笑う。
「傷ついてんの?メンタル弱すぎ。きもちわるい。」
担任は泣きそうな顔になった。でも、泣かなかった。黒板の方に体を向けて、チョークを走らせていた。カッカッという荒っぽい音はなんだか私を不安にさせた。「聞かないで困るのは君たちだからね。」担任はさっきと同じことを言った。さっきよりも小さな声だった。
給食の時間になった。この時ばかりはみんなきちんと席に座る。
給食当番がお皿に料理を入れて、クラスメイトの持っているおぼんに置く。咲口美波が、味噌汁をお椀に入れながら取り巻きたちと話していること以外、他のクラスと全く同じだ。
担任がおぼんを持って列の最後に並んだ。普通はクラスメイトの誰かが担任の分の給食を持っていくのだが、みんなそれをやろうとしないので、担任自身がやっているようだった。普段は担任に反抗するクラスメイトたちも、給食の時は無害だった。あえて担任の分のおかずを残さなかったりとか、嫌がらせをしようと思えばいくらでもできるのだが、そんなことをしたら自分たちが食べる時間が減るかも知れない、とか色々と考えているんだろう。平穏になる。
担任がメインのおかずと白米、牛乳をとって、最後に咲口美波から味噌汁を受け取ろうとした時だった。咲口美波が、「あー!」と叫びながら、担任に味噌汁をぶちまけた。咲口美波以外の全員が息を飲み、固まった。熱い味噌汁が全身にかかった担任は、訳のわからない悲鳴をあげながら走って教室を出ていった。
「み…なみ、今のはちょっとやりすぎじゃない…。」取り巻きの1人が言った。咲口美咲は可愛らしい笑顔を浮かべながら答えた。「そうかな?まあ運が良ければ顔に火傷を負ってるかも知れないね。そしたらもう調子乗れないね。うふ。さあ、ご飯食べよう。」咲口美波が給食着を脱ぎかけた時、教室に男の先生が入ってきた。
「どうした!?叫び声が…。」途端に、咲口美波は泣き出しそうな表情を作った。
「私が、先生にお味噌汁かけちゃって…手が滑って。」俯き、鼻を啜る音が教室に響く。「本当にごめんなさい…。」男の先生は少し慌てながら、「あ、いや、そうか、それで、先生はどこに?」と言った。咲口美波は首を横に振った。わかりませんという意味だろう。先生は私たちに、給食を食べていなさいと指示をして教室を出て行った。給食台の手前の、味噌汁の水溜まりはそのままにされていた。
咲口美波は何事もなかったかのように給食着を脱ぎ、自分の席に座って給食を食べ始めた。私たちはしばらくぽかんとしていたが、時間があと25分ほどしかないことに気づくと、急いでお箸に手を伸ばした。
そういえば、咲口美波が担任に反抗するようになった理由はなんだろう。不安で心臓が早鐘を打って、吐き気がした。それでも給食を飲み込みながら、考えた。先ほどの発言から考えると、担任が、自分よりも美しかったから?熱い味噌汁を口に含んだ。
翌日から担任は来なくなって、別の先生が担任になった。咲口美波は実に満足そうだったが、それ以外のクラスメイトたちは浮かない顔をしていた。しかしそれも数週間ほど経つと元に戻ってきた。元担任が今どうしているのか、誰も知らない。知るべきではないのかも知れない。
けど、忘れてはならない。私たちはもれなく全員、罪を犯したんだ。
教室の床には、一箇所だけ、大きなしみがある。今もある。