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目次
桃色の記憶
2025/08/13
従姉妹の綾ちゃんに、久々に会うことになった。最後に綾ちゃんと会ったのは4年前。10歳だった私は14歳に、13歳だった綾ちゃんは17歳になっている。そう考えると綾ちゃんの存在がやけに遠くに感じけれど、実際に会ってみれば笑顔で迎えてくれた。久しぶりーっとハイテンションで挨拶を交わして、綾ちゃんの部屋に行く。白で統一された、清楚な部屋。4年前とは違う部屋に、心臓が早くなる。前は全体的に桃色の部屋だったのに、今は白なんだね。そう早口で伝えると、綾ちゃんはきょとんと首をかしげたあと、「覚えてないやー。」とおかしそうに笑った。その、鼻の詰まったような笑い方は4年前と変わっていなかった。「あ、そっか。まあ、そうか。4年だもんね。」変な奴だと思われなかったかと心配で、汗をかきながら答えた。
「変わったねー。美憂ちゃん。」不意に言われたその言葉に、えっと驚く。「大人っぽくなった。」私からしてみれば、綾ちゃんの方がずっとずっと大人っぽくなっている。「そうかな、成長かな…。」曖昧な返事をした。綾ちゃんがメイクをしていることに、今気づいた。前は、メイクなんてわかんないと言っていたのに。
私のスマホの振動音が部屋に響いた。「誰から?てかスマホ買ってもらったんだね。」綾ちゃんの言葉に、スマホを取り出しながら頷いた。通知を確認して、友達からだったと伝える。「ふうん。」その声がやけに艶っぽい。数秒の沈黙の後、「飲み物なにがいい?」と綾ちゃんが言った。明るい声だった。「麦茶か、オレンジジュースか、コーヒーか。」「あ、じゃあ、ジュースで。ありがとう。」「了解。」軽やかな足取りで部屋を出ていった綾ちゃんは、しばらくして、おぼんを持って戻ってきた。何をするでもなく正座して待っている私を見てもっと気楽にしなよーと笑った。「どーぞ。オレンジジュースね。」オレンジジュースの入ったコップを受け取る。綾ちゃんはコーヒー。「コーヒー飲めるの?」何気なく聞くと、綾ちゃんは口角をあげた。「もう17歳だからね。」私は小さく笑った後、そっかぁと答えた。コーヒーの香りが部屋に広がっていく。それが、ちょっとだけ息苦しかった。
コーヒーの向こう
2025/08/14
カフェの中、二人席に座って友達がやってくるのを待つ。頼んだコーヒーはまだ半分ほど残っているけれど、飲む気にはなれなかった。あとで飲もうと思いつつ、時間が経てばそれは冷めて、飲む気をさらに失せさせる。といって決して不味いわけではなく、むしろ美味しいのだが、今の私は何も受け付けられなかった。カランコロンと、カフェのドアが開く音が聞こえた。顔を上げる。長い茶髪を揺らし、きょろきょろと店内を見回す背の高い女性。友達の美咲だ。私を見つけ、こちらに向かってきた。「ごめんごめん。遅れちゃった。」私は眉をひそめてみせた。「ごめんて。」そういう美咲は、けれどどこか楽しそうだ。いや、楽しそうというか、ヘラヘラしているというか。
「遅い。何があったの?」一応聞いてみるも、どうせ何もないのだろうと内心ではまともな返事を期待していなかった。多分、寝坊とかそのレベル。だって彼女はいつもそう。本当に反省してほしいというかなんというか、だが反省したらそれはもはや美咲ではない。反省しないのが美咲であり、いやそれって一体どうなんだろう。頭の中で考えている間に、美咲はコーヒーを注文していた。「ちょっと寝過ごしちゃってねー。ごめんごめんー。」やっぱり。これで何回目だ。問い詰めたくなったけれど、その会話で彼女の遅刻癖がなおるわけでもないだろうしと口をつぐむ。先ほどまで飲む気になれなかったコーヒーを口に含んだ。ぬるい液体だった。
「それで何の用?」その質問に、何から話そうかと視線を右上にやりながら答えた。
「私、もうすぐ死ぬんだ。」
美咲は運ばれてきたコーヒーに反射的に視線をやって、そのまま固まった。10秒ほどの沈黙の後、やっと彼女が口を開いた。「まじ?」相変わらずヘラヘラとした表情だったけれど、瞳は細かく揺れていた。「まじまじ。大まじ。」私の冷めたコーヒーと、美咲の良い匂いを醸し出すコーヒーを交互に見つめた。表面に私の顔が写った。無表情で、自分でも少し突っかかりにくそうだと感じる、私の顔。
「もうすぐってどれくらい?」「まあ、あと1週間。」即答された美咲は、困惑顔で「え、え?」と呟いている。「本当は、半年前に宣告されてたんだけどねぇ。」「じゃあなんでその時言ってくれなかったの?」美咲が前のめりになった。ガタッと椅子が動く音が、比較的静かな店内に響いた。
「別に理由はないけど、なんとなく。」
美咲は力が抜けたのか椅子の背もたれにもたれかかって天井を仰いだ。私はぬるい液体と化してしまったそれを飲み干し、美味しそうな美咲のコーヒーを眺めていた。
動かないあいだ
2025/08/14
ベランダの手すりに止まっているカラスがずっと同じ場所から動かない。授業中、私はそのことが気になっていた。弱ってるのかな。大丈夫なのかな。もしかして固まって死んでるのかな。そんなことをぐるぐる考える。国語の先生の声が右耳から左耳へと流れていく。「宮沢、集中しろー。」先生に指摘され、あ、はい、と前を向く。けれども意識はカラスにあって、視線だけで窓の外を見たりしていた。
休み時間、窓を少し開けてカラスの様子を伺ってみた。音をたててもカラスは動かない。「生きてるの?そのカラス。」不意に後ろから言われた。クラスメイトの長谷川さんの声だった。長谷川さんはいつも1人でいる、よくわからない子。「さあ…どう、だろう、でしょうか…。」敬語を使うべきか悩み、変な口調で答えた。「でも、全然動かないから。」続けて、呟くように口にした。ふーんと、長谷川さんはそれだけ言って黙り込んだ。私たちはじっとカラスを見ていた。
もしあのカラスが死んでいても、泣くほど悲しくはない。だって思い入れなんてないカラス、特別惹かれるわけでもないカラス、多分初対面のカラス、初対面じゃなかったとしても私には見分けなんてつかないから。ただ、その時だけ、空虚な気分になるだけだ。夜、眠る頃にはカラスのことなんて忘れてるだろう。
チャイムが鳴った。私は窓を閉め、自分の席に座った。
カラスが、手すりからぽとっと落ちた。6時間目の授業中のことだった。多分、死んだ。私はしばらく、カラスが先程まで止まっていた手すりから目を離せなかった。これが死なのだと、感じた。
「カラス、死んだんだ。」6時間目の後の休み時間、長谷川さんが言った。いや、ただの呟きかも知れなかった。どっちかわからなかったけど、そうだねと返事をした。「カラスって自分の住居で死ぬんじゃなかったっけ。」長谷川さんは地面に落ちているカラスに聞くように、そう口にした。「なんでここで死んだんだろう。」私は返さなかった。無視ではなかった。
「どうするんだろうね。カラスの死体。」
カラスは目を瞑ったまま動かない。カラスに感情があるのかないのか私は知らないし、死んだならきっとないのだろうけど、雑な処理はしてほしくないな。なんとなくそう思った。
生臭い夏
2025/08/14
「ママ、どこにいくの?」
スーツを着たママは返事をしなかった。ただ、ちらっと私に視線をやっただけだった。あの瞳に滲んでいたものは、多分、哀れみだった。
私のママは、私が3歳の頃に家、というかアパートの部屋を出ていった。ママって呼んでるけど、私が2歳になるちょっと前に家に来たから、本当のママではない。パパが突然いなくなって、しばらく私と暮らしていたけど、結局捨てた。今考えれば、耐えきれなくなったんだろうとわかる。自分がお腹を痛めて生んだわけでもない子を世話するのは、精神的にも肉体的にも大変だったはずだ。
でも当時3歳の私に、そんなことが理解できるはずもない。パパもママもいなくなって、アパートの一室で、蒸し暑い8月、暑いけどどうしたら良いのかすら分からなくて、ただ汗を垂れ流すだけ。お水が飲みたくても、身長が足りないせいで蛇口を捻ることすらできない。生臭い部屋で、私は生きるために自分の唾を飲み込んで、汗を舐めた。汗は塩辛かった。涙が出てきた。それも舐めた、やっぱり、塩辛かった。そんなふうにしていてもやがて視界がぼやぼやしてきて、意識も薄くなってきて、死ぬのかもなと思った。
そんな時、急にドアが開いて、年老いた女の人が入ってきた。私を見つけると焦ったように何か言ってたけど、よく分からなかった。
意識が途切れた。
1番に目に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。年老いた女の人がそばに座っていた。私と目が合うと、一瞬驚いた顔をして、すぐにどこかに行った。しばらくすると真っ白な服を着た大人が数人やってきた。
ここは病院だと知った。病院というのもが何か私には分からなかった。「体の悪いところを治す場所」だと教えてもらった。私は熱中症でここに運ばれてきたと言われた。
年老いた女の人は私が住んでいるアパートの大家さんで、大きな荷物を持ってアパートを出て行った私のママの姿を見て違和感を抱き、様子を見にきたらしい。大家さんっていう言葉は知ってる。よくママとパパが言っていた。「大家がまた金取りに来る。」って。だから、大家さんは私たちから大事なものを奪い取る悪い人だと思ってたけど、それはどうやら違うかったみたいだ。
私はそのまま、1週間ほど病院で過ごした。病院のみんなは優しかったし、ご飯もたくさん食べれたし、楽しかった。退院したあと、大家さんと暮らすことになった。大家さんはシワだらけの顔をしていて、ママみたいに綺麗じゃなかったけど、ママよりずっと優しかった。
幼稚園にも通えた。5歳になった時、小学校で使うためのランドセルを買ってもらった。真っ赤なランドセル。今の私には大きかった。
中学生になった。勉強に、部活に、人間関係に。一気に忙しくなって家に帰るのが遅くなった。だからそれに気づくのが遅れた。その日は記録的な猛暑日だった。夜7時でも暑くてたまらなかった。制服が背中に張り付いているのが分かった。早く帰ってお風呂に入ろうと、自然と歩く足が早くなっていた。
やっとアパートについて、ふぅとため息をつきながら部屋のドアを開けた。異様に暑い空気が私を包み込んだ。生臭い匂いが鼻を刺激した。唐突に思い出した、あの日のことを。ママが出て行って、蒸し暑くて、変な匂いがしていた。乱雑に靴を脱いだ。重いカバンを放り投げた。悪い予感がした。
リビングに人が倒れていた。大家さんだった。
声をかけても、返事はなかった。動くことすらなかった。その指先は冷たかった。部屋はこんなに暑いのに。
汗が、私の体中に浮き上がっていた。私の目から塩辛い汗が落ちた。
暑くて、暑くて、暑くて、暑くて。
とにかく暑くてたまらない日のことだった。
とにかくなんかキラキラした話を書こう。
角川つばさ文庫を目指そう。会話文を増やそう。感情描写を多くしよう。
今日は中学生になって初めての1日授業の日。真新しい制服に包まれた私は、胸を高鳴らせながら校門をくぐった。入学式を終えたとはいえ、まだまだこの学校には慣れない。
きょろきょろしながら歩いていたら、誰かにぶつかってしまった。私は慌ててぶつかった相手の方を振り返った。艶やかな黒髪を低い位置でツインテールにしている女の子がいた。身長は私より低い。制服がぶかぶかなので、同じ中1なのかなと思う。
「すみません。」
私を見上げる女の子と目が合った時、女の子はぱっと花の咲いたような笑顔を浮かべた。右頬に小さなえくぼができていた。
「あなた、中1?」
「あ、うん、えっと、あなたも?」
「そうだよ。よかったら友達にならない?あなた、かわいいし。」
どきっとした。恋愛的な意味じゃなくて、かわいいと言われたことに対して、純粋に照れてしまったのだ。
「うん、全然、なろう、あの…。」
どぎまぎしているせいでうまく返事ができなかったけれど、女の子には伝わったようで、にっこり笑ってくれた。
「名前は?あ、あとクラスも教えて!」
女の子は歩きながら言った。綺麗な黒髪が揺れるのを眺めながら、口を開く。
「綾川、ほのか。クラスは、えっと、1年3組です。」
「あ、敬語やめようよ。同い年だし。ていうかクラス一緒!私は桜木香織。よろしくね。」
「うん、よろしく。香織、ちゃん。」
ずっと胸が高鳴っていた。初めての友達だった。
***
「香織、おはよー。」
教室に入ると、香織ちゃんの友達らしき女の子が駆け寄ってきた。私は戸惑った。なんとなく気まずい。
「おはよー、光希。」
「ん。それよりこの人だれ?」
光希と呼ばれた女の子は、私に視線をやって不思議そうな顔をした。名前ではなく『この人』と呼ばれたことに、少しだけ傷つく。初対面だから名前を知っていた方がおかしいけれど。
「友達のほのかちゃんだよぅ。」
「へー。友達?」
「うん、そう。ほのかちゃん、この子は私の友達の光希ね。幼稚園の頃から一緒だから、まあ幼馴染かな?」
光希さんは微妙な顔をしながら数秒間沈黙した。私も多分、彼女と同じ気持ちだ。彼女にとって私はあくまで友達の1人なんだな、という、嫉妬に似た、変な感情。かわいいとか褒められた後だと、さらに堪える。気がする。
とはいえ、香織ちゃんは相変わらずえくぼを作ってニコニコしているし、空気を険悪にさせるわけには行かない。
「光希、さん?よろしく。」
私はそう会釈をした。光希さんも、「よろしくね。」と返事をくれる。
この子のことは、あんまり好きになれなさそうだ。友達の友達は友達、なんて、綺麗事なのかもしれない。知らない感情が私の心を渦巻いていて、そんな自分には慣れていなくて。どうにも拭えない違和感というものが、私に張り付いている気がした。
***
お昼休み、私はお弁当を持って視線をさまよわせていた。香織ちゃんと食べたい。けど、香織ちゃんにとって私は一緒にお弁当を食べるほどの仲ではないかもしれない。それに多分、光希さんもいるだろうし。私がいたら、2人の邪魔になるかもしれない。そんなことを永遠と考えてしまって、自分の席から動くことができなかった。
そんなふうにしていると、
「ほのかちゃーん、ご飯食べよー。中庭で!」
教室のドアのそばに立った香織ちゃんが、自身のお弁当を掲げながら私を呼んだ。気分がぱっと明るくなる。
「う、うん。」
私はお弁当を抱えて香織ちゃんに駆け寄っていく。
「どこにいるのかと思ったよー。光希たちと中庭行ってたら、ほのかちゃんいないことに気づいて。」
屈託のない笑顔で香織ちゃんはそう言う。私も笑いながらごめんと返したけれど、内心では『光希たち』という言葉が気になって仕方がなかった。
光希さん以外にも、香織ちゃんには複数の友達がいるのだろうか。私が入ったら、浮いちゃうかな。邪魔者だとか思われないかな。いない方がいいんじゃないかな。私がいてもいなくても、あんまり関係ないだろうし。必要不可欠とかじゃないだろうし。事実、香織ちゃんたちは中庭に着くまで私がいないことに気づかなかったわけで。
そんなことをぐるぐると考えてしまう自分が嫌だ。こんなだから必要不可欠だと言われる存在になれないんだろう。わかってるけど、わかってるけど。
中庭のベンチには、光希さんの他に2人の女の子が座っていた。「葵とカレンだよ。あ、ちなみに2人は幼馴染ね。えーと、私と光希と仲良くなったのは、小5の時。」葵さんは短髪でボーイッシュ、いかにも快活そうだ。カレンさんはどことなく不思議な雰囲気を漂わせている。
あのメンツの中に私が入ってもいいのだろうか。緊張で胃がキリキリと痛み出した。
けれども実際に話してみると意外と優しくて、もちろんそれはまだ『他人』というレッテルが剥がれていないからだろうが、それでも攻撃的にされるよりはずっとマシだった。
***
それから2週間ほどがたった。学校にも人間関係にも少しずつ慣れてきた。もちろんまだまだ緊張はするけど。光希さんたちと距離を縮められているわけではないし。
休み時間、私、香織ちゃん、光希さんの3人は、香織ちゃんの机の周りでおしゃべりをしていた。
「香織ちゃんはたくさん友達がいるんだね。」
私がつぶやくように言った言葉に、香織ちゃんはえくぼを作った。香織ちゃんの笑顔は可愛い。胸にちくっと、小さな針が刺さったような痛みを感じた。この笑顔を向けているのは、私だけではない。光希さんにも、葵さんにも、カレンさんにも、他の子達にも。こんな子がいたら、みんな好きになっちゃうだろう。惹かれてしまうだろう。
「ほのかちゃん。」
光希さんに名前を呼ばれた。驚いた。私と光希さんが関わることは、あんまりないだろうなと思っていたから。
「どうか、した?」
光希さんの吸い込まれそうな瞳を見つめて聞いた。この瞳が、私はなんだか怖い。光希さんが基本的に無表情だから、というのもあるのかもしれない。
「ほのかちゃんは、香織のこと、好きなんだね。」
えーっ。私の声と香織ちゃんの声が重なった。
「そ、え、そう、そうかなぁ、え、そうかな……。」
汗がだばだば湧いてくる。へへへへ、と変な笑い声を漏らしながら視線を上から下へ、右から左へと動かし続ける。香織ちゃんの顔も光希さんの顔も見れないし、私の顔を見られたくもなかった。顔に熱が集中しているのがわかるから。
「うん、私のことはあんまり好きじゃないみたいだけど。」
「そ…んなこともないよ!!」
香織ちゃんに性格の悪い人だと思われたくなくて、それだけはしっかり否定しておく。実際光希さんのことは好きでも嫌いでもないけど、それを言葉にされると自分自身の器が小さいようでなんとも情けなくなってくる。
「別にいいでしょ。私も、あなたのことはあんまり好きじゃないもん。」
「あ、あぁ、そう…。」
「ちょっと光希ズバズバ言い過ぎ!」
「まぁお互いそこまで好きじゃない関係もそれはそれでいいんじゃない。」
どうやら光希さん的には、決して貶しているわけではないらしい。というか、光希さんならどんな関係性でも「まぁいいんじゃない。」と言いそうだ。
「えーなんか私が1番気まずくない?」
香織ちゃんが冗談ぽく言った。確かに、それはそうである。
***
7月中旬。私は日中は30度を超えるほどの暑さに耐えながら、毎日を過ごしていた。
『今週の土曜日、私と光希とほのかちゃんとで遊ばない?』
香織ちゃんからそんなメッセージが送られてきたのは、水曜日のことだった。予定は特にないので、返事はもちろんOKだ。いいよ、どこにいくの?そう打っている間に、続けてメッセージが送られてきた。
『葵とカレンは塾で行けないらしい。』
そういえば2人は幼馴染だと聞いた。特別仲が良くて同じ塾に通っているとか、そういうのもあり得そうだな。そんなことを想像しながら慣れないフリック入力でなんとか打った文章を送信した。
すぐに既読がついて、返信が来る。
『プールとかどう?』
この暑さにはぴったりの提案だった。
土曜日、私は楽しみすぎて待ち合わせ時間の30分前にプールに着いていた。が、やっぱり早すぎたので、受付の、2台ある自販機のそばでで立って待つことにした。受付を通ったら次は更衣室で、スマホなどもそこで預けるので、今入ってしまったらもう香織ちゃんたちと連絡が取れなくなってしまう。居心地が悪いけれど外は猛烈に暑いので仕方がない。
10分ほど経った時、自動ドアが開いて人が入ってきた。
「あ、ほのかちゃん。早いね。」
入ってきたのは光希さんだった。少し意外だった。まだ待ち合わせ時間まで20分もあるのに。光希さんはなんとなく、待ち合わせ時間ぴったりに来るイメージがあったのだ。偏見以外の何者でもないのだけれど。
「え、光希さんも結構早い…。」
「そうかなー。」
光希さんは私のそばにある自販機の目の前に立って財布を取り出した。何を買うのだろうと思い、改めて自販機の商品を見てみる。ひとつは普通の飲み物が売っている自販機で、もうひとつはアイスを売っている自販機だった。光希さんはアイスを買ったようだ。
自販機の口から取り出されたそれはいちご味。また、意外だと思った。クールな光希さんはチョコミントあたりを好むのかと…これもまた偏見でしかない。ぺりぺりと包装紙が剥がされ、可愛らしい色のアイスが見えた。光希さんの体に入っていくアイスを眺めていると、視線に気づいた光希さんが、アイスを私に傾けた。
「食べたいの?」
「えっ。あ、え、いやいや、申し訳ないから。」
「そう。別に少しくらいならあげても良かったんだけど、まぁいっか。」
割とフェアなんだなと、3つ目の意外なところ。
一度は遠慮したけれど、なんだか光希さんのアイスを見ていると美味しそうで、私も買おうかなと財布を取り出した。自販機の前で何味にしようかと思考する。バニラかチョコか、クッキーアンドクリームも捨てがたい。結局チョコ味にして、光希さんと並んで食べた。香織ちゃんが来るまでの間、会話はほとんどなかったけど、気まずいとは思わなかったのが不思議だ。
***
2学期になった。下駄箱で上靴に履き替え、廊下を歩いた。すれ違った葵さんとカレンさんに挨拶をすると、2人ともニコッと笑って返してくれる。教室に入る。教室の中は話し声で溢れていて、夏休みの非日常感から一気に日常に引き戻されたようだった。
「ほのかちゃん、おはよー!」
「おはよー。」
香織ちゃんと光希ちゃんが挨拶をくれて、駆け寄ってきてくれて、私も自然と笑顔になる。口を開いて、声を出す。
「おはよう。」
日常が始まった。幸せな日常。代わりのない日常。あまりにも尊い、日常。
軽く書けた。
距離のかたち
2025/08/17
なんでも話せる仲と、会話は少ないけれど一緒にいると居心地が良い仲、どちらが理想の友人関係なんだろうか。人間関係に優劣をつけるなんて不毛なことだとわかっているけれど、私は最近、どうもそんな考えが頭にへばりついて離れないのだ。
前を歩く絢香の背中に視線をやる。朝の冷たい空気は透き通っているけれど、その背中はやけに遠くにあるように見えた。
空が青い。鮮やかな青ではない。水色とも違う。少しくすんだ、薄い色。青と水色の中間の色。絢香が、空が綺麗だと言った。彼女は最近、違う。はつらつだったのが、少し落ち着いた雰囲気になった。生きているのだから変化するのは当たり前だが、幼稚園の頃からずっと一緒の幼馴染が、私を置いて変わっていくことということに違和感を覚えるのだ。ずっと同じように成長してきたけど、もう中学生だし、これからは別々ね。突然、そう突き放されたように感じてしまう。
「どうしたの?」数メートル前を歩いていたはずの絢香が、いつの間にか私の顔を覗き込んでいた。不思議そうな顔で私の瞳をまっすぐに見つめてくる。私はどうやら立ち止まって考え込んでしまっていたらしい。「いや、なんでもない。」私がそう答える時には、絢香は再び歩き出していた。
学校について、靴を履き替え、階段をのぼる。絢香が軽やかに歩くたびに、彼女の低い位置で結ばれた髪の毛が揺れる。それを眺めながらガヤガヤと騒がしい教室に入る。空気が少し暖かくなったように感じる。私の席は綾香の後ろだ。「日向さん、おはよー。」絢香が隣の席、つまりは私から見て斜め右の席に座っている、クラスメイトの山口日向に挨拶をする。
山口日向はあまり喋らない小柄な女子生徒である。長い前髪が目を隠しているのもあって表情が読み取れず、私は少し苦手だった。しかし絢香はどうしてかそんな山口日向に構っている。聞けば、所属している部活が同じらしい。単純に席が隣で話す回数が増えたというのもあるだろう。最近はよく2人で帰っていると言うので、絢香の雰囲気が変わったのは山口日向の影響なのかもしれない。
重く、低く、心臓に響くようなチャイムが校舎に響いた。それと同時に担任が教室に入ってきた。
お昼休み、絢香と昼食を食べようと彼女の姿を探したが見つからなかった。最近、こういうことがたまにある。山口日向の席に視線をやった。誰も座っていなかった。
絢香の姿が見えない時はいつも、山口日向もいなくなる。それらが意味することを、私は心のどこかで理解していた。理解したくなかった。
私は自分の席に座り、1人でお弁当を食べた。絢香のいない昼食は静かで、おかずの味がいつもより薄い気がした。
お昼休みが終わる5分ほど前に、絢香と山口日向が帰ってきた。絢香は私を見ると僅かに顔をこわばらせた。「ごめん、今日は他の子と食べるって言おうとしたんだけど、いなかったから。」多分、私がお手洗いに行っている間の話だろう。気まずそうに視線を左下に沈ませる絢香に、私は言った。「別にいいよ。」思ったよりそっけない口調になっていた。
山口日向が私のことを数秒だけ見つめていた。目が合うと、ふいと逸らされた。その表情からはやはり感情が読み取れなかった。
放課後、部活を終えた私は1人で帰路についていた。空が赤い。オレンジ色の夕日がよく映える、濃い赤。綺麗だと思いながら歩いていると、ぎーこ、ぎーこという錆びついた音が聞こえた。顔をあげた。公園が目に入った。誰かがブランコを漕いでいるのだろうとさほど気にしないまま、公園の横を通り過ぎようとした。けれども、そのまま通り過ぎることはできなかった。
ブランコに座っていたのは絢香と山口日向だった。2人の口はつぐまれていたけれど、その雰囲気は堅苦しくなくて、むしろどこか暖かい。絢香が足は地につけたまま、ブランコを軽く揺らした。錆びついた音。山口日向の口がかすかに動いて、絢香が首を縦に動かす。何を話しているのか、ここからは聞こえない。でも、なんだかとても、いいな、と思った。
私は2人には声をかけず、静かにその場を後にした。
その日から、私は絢香と少しだけ距離を置いた。と言っても、登校も昼食も一緒。時々、今日は1人で学校に行きたいとか、別の誰かと昼食を食べたいとか、そういう時はそうするだけだ。
私は絢香以外の友達を作って、絢香とはまた違う距離感、空気感を知った。
なんでも話せる仲と、会話は少ないけれど一緒にいると居心地が良い仲、どちらが理想か。私はようやく、その問いの答えを見つけた気がした。
終わり方のコレジャナイ感。
全体的に説明的すぎる。
テーマは良かった。私がダメだった。
キミヨリ
2025/08/18
「待ってよ!」
屋上のドアを勢いよく開いた。柵を飛び越えた私を見て、那月は一瞬顔をこわばらせた。
「え、待っててよ、動かないでよ…。」
那月はそろりそろりと私の様子を伺いながら近づいてくる。「何がしたいわけ?」思わず口から落ちたその呟きが、那月に届くことはなかった。「何がしたいわけ!」私はもう一度言った。さっきより大きな声で、さっきより怒った顔で、言った。本当に怒っていたわけではなかった。ただ那月を引き下がらせるためにあえて演じた。このことで彼女に嫌われても構わなかった。だってどうせ、私はここから飛び降りて死ぬんだし。そしたらもう、何も関係ないでしょ。
「紗奈に生きてて欲しいわけ!!」那月は泣きながら叫んだ。驚いた。彼女からこんな大声を聞いたことがなかった。大粒の涙を拭き取ることもせずに私を見つめる那月に、何か棘のある言葉を放ってやろうと思ったけど、喉に突っかかって出てこなかった。
私は確実に近づいてくる那月に、わずかな恐怖を抱いた。早い者勝ちだというように飛び降りた。那月の声が聞こえたような気がした、けれどもすぐに風の音でわからなくなった。
私のことを嫌いにならなかったのは、見放さなかったのは、那月だけだった。私にとって那月は特別で、那月にとって私は特別だった。
那月のことは大好きだった。けど、少し重たかった。どうしようもなく。
もういいよね。もう、見放されたんだよね。離れられるんだよね。1人でいられるんだよね。私にとって、それは居心地の良いものだった。
まじでなんていうかもう…。
なんだよこれ!!!!!!!!!!
心臓の重さ
2025/08/19
心臓が重い。
朝、目が覚めた。ベッドから起き上がる時、ゾウのように、しかしゾウほど優雅ではない、のっそりと動いた。部屋を出て、階段を降りると、朝ごはんのトーストの良い匂いが漂ってきた。リビングに入り椅子に座った、お母さんがトーストを出してくれる。食パンを小さく齧り、咀嚼して飲むこんだ。パンが下に落ちていくのがわかった。この感覚は好きだ。
身支度を終え、家を出た。私の制服は真新しく、太陽に当たると美しく輝いているように見えた。教科書が詰め込まれたリュックを背負い、通学路を歩いた。思うように動けないこの感覚は、あまり好きではない。
朝の透き通った空気と、煌めく光。私にはそれが眩しくてたまらなくて、目を閉じていたかった。
学校では、みんな軽やかに歩いている。学生らしい希望に満ちた笑顔で友人たちと会話を交わす。少し前までは私にとってもそれが当たり前だった。けれど、今は前ほど軽やかに動けないし、前ほど純粋な笑顔が出てこない。私自身が勝手に抱いた、自分だけが違うという思いが、私自身を縛り付けている。
「歩、おはよう。」教室に入ると、友人の渚沙がそう言って口角を上げた。小さく跳ねるようにして渚沙が歩くたびに、彼女の短く折られたスカートと、束ねられた黒髪が揺れていた。かわいらしいと思った。私もこんなふうだったら良かったのになとも思った。
心臓が重い。生きづらい。うまく笑えない。
これが大人になるということなのかもしれない。
今日も心臓は重いし、今日も歩きにくい。今日もトーストが胃に落ちていく感覚に居心地の良さを覚え、眩しい光にまぶたを閉じ、友達に羨望の瞳を向ける。
でも、この日々にもだんだんと慣れきた。それはもしかしたら、少しだけ怖いことなのかもしれなかった。私にはまだ、わからないけれど。
笑わなくてもなんとかなる
2025/08/20
私は今、上手く笑えているだろうか。友達は、私の笑顔を自然なものだと捉えてくれるだろうか。
そんな不安を心の片隅に抱きながら、それでも私は笑う。
『サツキは笑顔が似合うよ。』言ってくれたのはお母さんだ。お母さんは、1ヶ月前、死んだ。私が物心ついた時から病気だった。入院と退院を繰り返していた。お母さんは自身が死ぬ直前まで、私が笑顔でいることを望んだ。だから私はそれに応えなくてはならない。辛くても苦しくても、笑っていればなんとかなるよと、そう教えてくれたのはお母さんだった。
「サツキー、こっちだよぅ。」
友達に名前を呼ばれて、私が無意識に立ち止まっていたことに気づいた。休み時間、理科の教科書を抱え教室を移動している。廊下の突き当たりの、理科室の前に立った友達が私に手招きをした。ごめんと笑いながら、駆け足でそちらに向かった。
笑っていないと不安になった。『笑ってる由奈は素敵だね。』私が小学5年生の頃だった。病室で、私の長い髪の毛を編みながら、お母さんはつぶやくように言った。笑っていない自分は素敵じゃないのか、咄嗟にそんな考えが脳裏をよぎったけれど、お母さんは純粋に褒めてくれているだけで、悪気なんてきっとないのだろう。だから私はにっこりと笑って、でしょーと返事をした。
お母さんが死んだ後、ずっと伸ばしていた髪の毛はバッサリ切った。
「放課後、クレープ食べに行こうよ。」お昼休みのことだった。友達が、お弁当の卵焼きをお箸で口に運びながら、そう提案した。私は購買で購入したカレーパンを咀嚼し飲み込んだ後、いいねと口角をあげた。また別の友達も賛同しはしゃいでいた。「青春っぽいじゃん。」嬉しそうにしながら、その友達は空っぽになった自身のお弁当箱を片付けていた。私はなんとなく、その様子をじっと眺めた。
放課後、私たちは制服のままクレープ屋に行った。「サツキは何にする?」友達に聞かれた。「私は普通のイチゴのやつかな。美波と梓は?」「バナナチョコとイチゴで悩んでる。」「私はイチゴチョコかカスタード、どっちがいいかなーって感じ。」真剣にメニュー表を見つめる友達2人に、これはそんなに大事な選択なのかと内心で考えた。
注文したクレープを手に持ちながら、お店の隣のベンチに並んで座った。じりじりと照らしてくる太陽のせいでクリームが溶けてきて、慌てて食べた。やっぱりイチゴにしたら良かっただとか、でもバナナチョコも美味しそうだとか、かき氷もあるんだねとか、そんな会話を私はニコニコしながら聞いていた。私はここにいなくても別にいいのかもしれないと思った。それはなんだか居心地がよくて、私の顔から段々と笑顔が消えていった。マシンガントークをしていた友達たちは、どうしてか少し落ち着いた様子で私をまじまじと見た。「サツキの真顔ってあんまり見た事ないよねー。」見つめられるのはどうも慣れなくて顔を逸らした。友達は逸らさないでよーと笑った。私の話題はそれで終わった。けれども、私の顔にはまた笑顔が滲み始めていた。それはお母さんのための笑顔じゃなくて、きっと、自分のためのものだった。友達の話に相槌を打ちながら、私の心は不思議な充足感に満たされていた。案外、笑わなくてもなんとかなるのかもしれなかった。残り少ないクレープにかぶりついた。
二次創作
そうだ、二次創作を書こう
夜だった。月が出ていて、あたりを柔らかく照らしていた。ロマンチックといえばロマンチックな景色だが、今、私にとってそんなことに意識を向けている暇はなかった。目の前に鬼がいるからだ。鬼の瞳が私を捉えていた。刀を、鬼がいつ襲いかかってきても反応できるように構える。はりつめた空気が数秒続いた後、鬼が牙を剥き鋭い爪を出しながら、飛びかかってきた。私は呼吸を整えた。
「水の呼吸 肆ノ型 打ち潮」
鬼に斬りかかる。私が立ち上がった時には、足元に鬼の頸が転がっていた。ぼろぼろと崩壊していく鬼の体を見て、切れた、と思う。刀をぎゅっと強く握った。大丈夫だと念じる。私は無力ではないのだと。
藤襲山で行われる最終選別。私はその参加者だった。今日で3日目、斬った鬼は3体。決して多くはないけれど、いつ鬼が襲ってきてもおかしくないことが、私の恐怖を駆り立てていた。
「おかえりなさいませ。」
藤襲山に入ってから、7日が経った。入山した時と同じ、黒い髪の毛と白い髪の毛の全く同じ顔をした子たちが迎えてくれた。最終選別を突破したのは私を含めて3人だ。20人以上いたのに、と愕然とする。隊服や階級の説明をされたあと、
「今からは皆さまに鎹鴉を付けさせていただきます。」
白い髪の毛の子がそう言い、パンと手を叩いた。カーッ。鴉の鳴き声と羽の音が聞こえた。1羽の鴉が、私の肩に止まった。「主に連絡用の鴉でございます。」鎹鴉。頭の中で復唱する。
その後、刀を作る鋼を選び、家に帰った。刀が出来上がるのが待ち遠しいとも思ったが、体中が痛くてたまらなくて、それどころではなくなった。
2週間ほどがたった。ひょっとこのお面をつけた刀鍛冶の方がやってきて、日輪刀を受け取った。日輪刀は別名色変わりの刀と呼ばれ、持ち主によって色が変わるらしい。鞘から抜き、刀身を見つめた。ずずず、と色が変化していくのがわかった。「赤黒い?」鮮やかな赤ではないが、漆黒でもない。これは綺麗な色だと刀鍛冶の方が言ったが、私としては水の呼吸を使うのに赤が入った色だったので、なかなか反応がしにくいものである。その時、鎹鴉がカアアと鳴いた。
「立花喜代ォ刀ヲ持テ。最初ノ任務デアル!」刀はもう持っているのだが。
「この村であってるの?」
「ソウダ。コノ村デ数名ノ女性ガ行方不明ニナッテイル。」鎹鴉がまたカァと鳴く。私は刀の鞘の部分を握り、気を引き締めた。鎹鴉はここからは私と離れて行動するようだ。戦闘に巻き込まれては連絡用として機能しなくなるからだろう。緊張で、胃のなかの内容物が込み上げてくるような感覚がした。
村に足を踏み入れた途端、空気が変わった気がした。重たく、嫌な雰囲気だった。言葉にできないようなおかしな匂いも漂っている。生臭いけれど、人の血とは少し違う。どことなく不気味だ。どこかから見られている気がする。眉間にしわを寄せながら歩いていると、不意に背後に気配を感じた。バッと振り返る。私の予想に反して、そこには優しそうな女性が立っていた。女性は戸惑ったような表情を浮かべていた。
「あのぅ、見ない顔ですけれど、こんな村に何のご用でしょうか。」
よかった、人がいたのだと肩の力を抜き、口を開いた。が、開いた口から出てきたのは曖昧なものだった。「ええと、なんと言いますか、警備、みたいな。」何と説明すれば良いのだろうか。鬼殺隊は政府非公認だし。刀を持っているのも一般的に考えればおかしいだろう。
「その、この村で数人の行方不明者が出ていると聞いたので。その調査に来ました。」女性はやはり優しそうな表情をしていた。「あら、そうですか…。」最後に、女性は私の持っている刀をチラリと見やり、どこかへ歩いて行った。
「ねえ、おねえさん。」羽織を後ろからくいと引っ張られた。「え、な、なに?」振り返ると、私よりずっと背の小さい、可愛らしい顔の女の子が立っていた。きっとまだ10歳くらいだ。丸っこい瞳で私を見つめた。
「おねえさん、あのこと、調べてるんでしょ。」「あのこと?」聞き返すと、女の子は声をひそめた。
「行方不明者のこと。あたし、知ってるよ。」驚いた。けれど、知っているのなら聞くしかない。詳しく教えてくれるかなと言うと、女の子は少しだけ口角をあげ、ぐいっと、今度は手を引っ張られた。「こっちでね。」そう言って歩き出した。あまりにも強い力で、おかしいと思った。咄嗟に、女の子の口元に視線をやった。後ろからでも少しだけ見える柔らかそうな頬。口が裂けそうなほど笑っていた。そこには鋭く尖った牙が光に輝いていた。
鬼だった。そう気づいて、心臓がどっと大きく波打った。私は彼女の手を振りほどこうとしたが、力が強くて動かすことができなかった。そのため片手で刀を引き抜いた。女の子は振り返り、目を細めた。
「どうして刀を向けてくるの?」怖いとそれしか頭になかった私は、答えることもできずに適当に刀を振った。まずは手を離してもらわないと、話にならないのだ。私の想定通り、女の子は刀を避け、私の手は解かれた。私は両手で刀を構える。「おねえさん、怖いよぅ。」そう言う女の子の口元は、やはり楽しそうに笑っていた。
「水の呼吸 拾ノ型 生生流転」
斬り込んだ。感触はあったが、頸は切れていない。私は女の子から距離を取るため、屋根の上に乗った。俯瞰的に見る方が状況を把握しやすいと考えたためだ。
「私だけじゃないんだよ、おねえさん。」私に斬られた腕を再生しながら、女の子がけらけら笑った。周りをぐるりと見渡すと、物陰や家の中から人が出てきていた。10人と少し。その中には、先ほどの優しそうな女性もいた。そして全員、女だった。
生臭い匂いがキツくなった気がした。多分、気のせいではない。女性特有の匂い。
それよりもだ。鬼は群れないんじゃなかったのか。どうしてこの村にはこんなに鬼がいるのか。この女の子以外は鬼ではないのだろうか。でも、それなら女の子がとっくに全員喰っているはずだろう。ということはやはり全員鬼なのか、じゃあなぜ共食いをしていない?湧き出てくる疑問と、緊張と、不安と、恐怖。
女性たちは私から視線を離さず、私もまた刀を構えじっとしていた。重い空気のせいで体が鈍っている気がする。
突然、女性たちが一斉に襲いかかってきた。私は反射的に上に飛んだ。空気を深く吸い込み、攻撃をしかけた。「水の呼吸 弐ノ型 水車」女性たちの頭や体の一部があちこちに飛び、血が舞う。しかしまだ頸をはねていないものもいた。続けて技を出す。「水の呼吸 陸ノ型 ねじれ渦」再び、屋根の上に着地した。違和感を抱いた。私は傷ひとつつけられていないのだ。鬼ならば、鋭い爪や牙や、血気術まで持っているだろうに。私が彼女たちの死体を見やった。嫌な予感がして、たまらなかった。
体の崩壊が始まっていなかった。ただ倒れて、血を流しているだけであった。
遠くから見ていた女の子が、可愛らしい笑い声を上げた。「すごいね、おねえさん。でも残念だね。この人たちみんな人間なんだよ。私が操ってただけ。」ああ、と思った。絶望でも、罪悪感でもなかった。ただ、私は人を殺してしまったんだと理解した。同時に、それは許されるものではないということも。そしてそれを故意に行い楽しんでいる女の子は、許してはいけない存在なんだろう。「ねえ、あたし、すごくなーい?」無邪気な笑顔を浮かべる女の子に、私は変な感情を抱いた。それは今この場面で抱くべき感情ではないのかも知れなかった。
「水の呼吸 壱ノ型 水面斬り」
斬りかかるも、女の子は身軽な動きでそれを避けた。「もっと視野を広くした方がいいよ、おねえちゃん。」女の子の言葉にバッと辺りを見回す。いつの間にか先程と同じように、操られているであろう女性たちに囲まれていた。女性たちはゆらゆらと歩き、女の子の前に立ちはだかった。うちのひとりが女の子を抱きかかえる。彼女達の瞳には生気が宿っていなかったけれど、きっと、肉体的に生きている人はいるのだろう。刀を持つ手がぶるりと震えた。さっきは女性たちも鬼だと思い込んでいたから、斬ってしまってもまだ内心で言い訳ができた。でも、今は違う。人間だということも、生きているということもわかっている。
心臓の音がやけに大きく体に響いていた。
彼女たちの瞳は、私に助けを求めているようにも感じた。私を睨んでいるようにも感じた。死なせてくれと乞うているようにも感じた。ただ光のない瞳で私を見つめているだけだった。
「おねえさん、どうしたの?斬らないの?せっかく集めたのに。」女の子は退屈そうに自身の足をぶらぶらと持て余していた。「今、みーんな食べちゃってもいいんだよ。」
「何がしたいの?」乾いた声しか出なかった。私の言葉に女の子は数秒考えたあと答えた。「別に、楽しいんだし、目的とかないよ。」喉がカッと熱くなった。動くことはできなかった。
「はーやーくー斬ってよー。でも、できないかな?おねえさんには。」
女の子が高い声を出した。実に愉快そうな表情だった。それは可愛らしくもなんともない、醜い鬼のものだった。
私は刀を鞘にしまいながら、村を出た。後ろから女の子の笑い声が聞こえてきていたが、それもすぐになくなった。どこから現れたのか、鎹鴉が私の肩に止まった。カァと鳴いた。
私は今日、人を殺した。鬼も殺した。悪いことをした。良いこともした。だけど、悪いことの方が圧倒的に大きかった。私は被害者であり、加害者になった。
なんだか湿っぽい土の上を歩いた。一歩進むたび、体が悲鳴を上げるように痛んだ。それでも進んだ。無意識に、刀の持ち手部分を強く強く握りしめていた。
なんかよーわからんくなった!!!!!!!!
プリンが減っていた朝
2025/08/25
冷蔵庫の中に入れていたプリンが、1個減っていた。昨日は3個あったのが、今は2個しかないのだ。こういう時、ああこの家に住んでいるのは私だけではないんだと思う。
同居人の姿を見かけることはほとんどない。なので、人なのかどうかもわからない。私は昼間は仕事で外にいるし、夜帰ってきても、同居人はどこに隠れているのか見かけることはない。夜中に小さな物音がしたり、冷蔵庫の中身が減っていたり、そういうことで同居人が生きていることを知る。
同居人はいつの間にかうちに住み着いていた。私は少し前に両親が死んで、この無駄に広い家に1人で住むことになった。最初はもしやこの家は曰く付きなのだろうかと恐怖していたが、害のあるものではないとわかった今では怖くもなんともない。あるいは両親の霊が帰ってきたのかもしれない。座敷わらしとかそういう縁起の良いものなのかもしれない。ならば、無理に追い出すのもいけないだろう。それに同居人はどうやら家の掃除をしてくれているらしい。だだっ広い家中の掃除をするのは大変だったので、たいへんありがたい。さらに、同居人はひとり暮らしでの不安や寂しさを和らげてくれる存在でもあった。姿は見えないけど、誰かがいる。悪い奴じゃない、誰か。そう思うとなんだか居心地が良かった。
私は時折、同居人に手料理を振る舞った。といっても、料理を入れたお皿にサランラップをして、ダイニングテーブルの上に置いておくだけだ。よければ食べてくださいとか、そういう内容の手紙をそっとそえておく。いつも翌朝になるとなくなっているので食べているのだろう。お皿洗いまでやってくれるのだ。
私はそんな不思議な同居人との交流とも呼べないような交流を、だんだんと楽しむようになっていった。
休日の夜、私は2人前の焼きそばを作った。私と同居人の分だった。お皿に盛り付け、片方にはサランラップをした。焼きそばを食べながら、小さな紙にペンで文字を綴った。「良ければ食べてください」。いつもと同じように、それを同居人の方のお皿にそえた。
翌朝、やはりお皿は洗われていた。焼きそばの方も食べてくれたのだろう。ダイニングテーブルの上には、私が文字を綴った小さな紙が置かれていた。そばには鉛筆。どうして鉛筆がこんなところにあるのだろうかと、それに近づいた。紙に私以外の文字があった。「ありがとう」と、おそらくそう書かれているのだろう。決して上手くはなくて、がたがたしていて、小さな子供が書いたみたいな字だった。同居人のものだとわかった。私はしばらく、それを眺めていた。
後ろから物音がして、ハッとした。反射的に振り返った。そこには白いなにかがいた。といっても真っ白ではなくて、少し灰色がかっていた。ふわふわ浮いているようにも見えて、大きくて四角くて、似ているものを挙げればぬりかべだろうか。これが同居人なのだと直感した。人ではなかった訳だが。「あ、おはよう。」若干挙動不審になりながらも挨拶を投げた。ぬりかべ的な同居人はぎょっとした…ように見えた、そしてすぅっと消えていった。
それから、同居人はまるで消えたように存在感を消した。物音もなくなったし、私の作った料理もそのまま。
でも、きっとどこかにいる。私はそう信じている。それは希望や願望なんかじゃない、なにか。
瞳
出血大サービス!
2025/08/25
藤井咲子は不思議な子だった。いつもどこか遠くを、キラキラとした瞳で見ていた。クラスメイトは彼女のことを「変わり者」「何考えてんのかわかんない」「ちょっと苦手」だとか評していた。クラスメイトの1人が彼女に話しかけてみたことがあった。話してみれば案外普通の子だったよ、とのことだが、それでも彼女のことを好むような生徒はいなかった。かといって嫌われていたとかいじめられていたとかそういうわけでもなく、ただ誰からも話しかけられずに孤立していた。
転校してきたばかりの私はそんな藤井咲子になんだか魅了された。ある日、勇気を出して彼女に声をかけてみた。おはよう、とまずは挨拶。彼女は可愛らしい笑顔でおはようと返してくれた。私はまた口を開いた。「どこを見てるの?」彼女は黙った。微笑のまま、窓の外に視線を向け、1分ほど経ってから答えた。「みらい。」不思議な答えだった。でもそれが彼女だった。私の鼓動が体に響いていた。好きだと思った。それは、恋愛とか友情とか、そういうものではなかった。尊敬とか、憧れとか、人間としての美しさとか、私にはまだ少し難しい、あんまりわからないようなことを思った。この変な感じってなんなんだろう、とちょっとだけ仲良くなってから聞いたら、彼女は輝く瞳で私を見つめた。それからちょっとだけ微笑んだ。彼女の透き通るような瞳に私の顔が写っていた。それは綺麗だった。たぶんこれが、私の質問に対する、彼女の答え。
誰のための夜
2025/08/25
「おねえさん。」不意に後ろから、服の袖を掴まれた。反射的に振り返ると、背の低い、おそらくまだ10歳ほどの少女が立っていた。
「なに?」子供は苦手だ。視線を迷わせながら聞いた。「なんでもないよ。ただ、ちょっとつらそうな顔してたから。」なんと返事をすれば良いのかわからず、曖昧に笑って頷いた。少女は丸い瞳で私をじっと見つめた。「お母さんはいないの?」だんだん居た堪れなくなってきた。私の質問に、少女は俯いて黙り込んだ。数十秒後、ポツリとつぶやいた。「おかあさんは、私のこと、みてくれないの。」だからなんだと内心で叫んだ。「だから、夜でも、ここにこれる。」少女は暗い公園をぐるりと見回した。今は夜の8時だ。10歳程度の少女を1人で外に出してもいいような時間ではない。ネグレクトとか、その類かな、なんてぼんやり考える。
「ね、そしたらね、おねえさんがいたんだ!」急に声を高くして、少女はぱーっと笑った。花の咲いたような笑顔だった。「そっか。」私はブランコに腰を下ろした。少女も同じようにした。「おねえさん、なんでつらそうな顔してたの?」少女は私の顔を覗き込むようにして、言った。返答に詰まった。こんな少女に話すべき内容ではなかった。でも、どうしてか口を開いていた。「親がね、大学に行けってうるさいの。私は高校卒業したら働きたいんだけど、そんなこと言ったら、やばいし。」言い終わってから、わかんないよね、君には、と付け足した。「ちょっとだけわかった。やばいって何がやばいの?」「別に、フツウに、あばれられたり。」「ふうん。」少女はそれっきり静かになった。その横顔に目をやった。少女とは思えないような、達観した、さみしそうな表情だった。
「どうかした?」なんだか可哀想で、私から話を振った。「なんかねー、うらやましい。」「…なぜ?羨ましがられるようなところ、ないけど。」「だって、だって、おかあさんとかおとうさんと、たくさん話せるんでしょ。私も話したい、たくさん。」あまりにも切実な願いだった。今この少女に必要なのは、私でも、慰めでも、見せかけの優しさでもなかった。愛してくれる、母親と父親。愛してくれる、誰か。
私は衝動的に少女を抱きしめた。少女の体は細くて、髪の毛からは変な匂いがした。ちょっとでも力を込めたらすぐに骨が折れてしまいそうだと思った。けれど、彼女の芯は強くて、あたたかくて、希望があった。薄汚れた服を着ているボサボサの髪の少女は、もはや少女ではないように感じられた。そのことが、どうしようもなくしんどかった。
「おねえさん。どうしたの。」私はいつの間にか泣いていた。生ぬるい液体が頬を伝った。何かを堪えているような声の少女に、もういいんだよと言った。耐えなくていいんだよ。少女は答えなかった。私は少女の体を強く、けれど優しく包み込むように抱きしめ、そして離れた。少女は涙を流していた。しばらく、そのまま2人で静かに泣いていた。
10分ほどして、落ち着いた少女に私は微笑みかけた。
「そろそろ帰ろう。」少女は頷いた。「もうこんな時間に来ちゃだめだよ。」私の言葉に、少女はためらうように口を開いては閉じるという動作を繰り返していたが、やがて小さな声を出した。「また会える?」私は頷いた。
「きっとね。」
少女はまた、ぱーっと花の咲いたような笑顔を浮かべた。強くて凛々しい、まるで椿のような笑顔だった。
消えないしみと
言葉の暴力とかいじめとかが含まれてるけど、そういう行為を推奨している訳では無いので、そこだけ勘違いしないでね、という注意書き。
2025/08/26
うちのクラスでいじめが始まったのは、5月からだ。私は主犯格でもなんでもない、いうならば村人的存在だった。いじめを止めるようなヒーローにはなれない。いじめが良いことだなんて思っていないけれど、どうしようもできなかった。
今日も学校があって、いじめがある。そう考えると胃がムカムカした。真っ赤なランドセルを背負い、家を出た。朝の空気は冷たく、私の頬を容赦なく叩いてくる。10月の中旬、つい先日まで暑かったのに、秋を挟むことなく冬になってしまっているみたい。そんなことを思いながら、学校に向かう。
教室のドアを開けた。ガラガラ。大きな音が鳴るも、それに耳を傾ける生徒はいない。クラスメイトたちはみんな、友人と楽しげに談笑しているからだ。私は教室の真ん中に位置する自身の席に座った。ランドセルから教科書やノートを取り出す。私の周りからは音が溢れ出ていたが、私の空間は、ここにだけなんらかのバリアがあると錯覚してしまうほど静かだった。
私には友人がいない。けれどいじめられているわけではない。私はいじめるに値するほどの人間ではないと思われているのかも知れなかった。まるで空気だ。それは寂しくもあるけれど、なんとなく居心地が良くもあった。
10分ほどすると、チャイムが鳴り響いた。担任が教室に入ってくる。だが、誰1人として席に座ろうとせず、会話を続けていた。担任が「みんな、席についてください。」と言っても、聞こえていないみたいに。この光景に、手足が重くなった。いじめが始まる。今日も。みんなの悪意に満ちた顔と、担任の疲れ果てた声。「座って、みんな。」担任が再度言う。「はー、なんで?」クラスの中心的な生徒である咲口美波が反抗して、他の生徒もヤジをとばした。「偉そうに言うなよ。」だとか、攻撃的な言葉が担任に投げつけられた。「…じゃあ、このまま話します。聞かないで困るのは君たちだからね。」担任は茶色っぽい長い髪の毛を揺らし、教室の中を見回した。私と目が合うと、口を固くつぐんで数秒黙った。その後、自身の手元に視線を落とし、話を始めた。
「まず____。」クラスメイトたちの声に遮られ、よく聞こえなかった。
8時50分から、授業が行われる。
「今日は割り算の勉強をします。」
「そんなん知らねえよ。」「興味ないし、だまれ。」担任は口元を歪めた。それを見て、咲口美波が高い声を出して笑う。
「傷ついてんの?メンタル弱すぎ。きもちわるい。」
担任は泣きそうな顔になった。でも、泣かなかった。黒板の方に体を向けて、チョークを走らせていた。カッカッという荒っぽい音はなんだか私を不安にさせた。「聞かないで困るのは君たちだからね。」担任はさっきと同じことを言った。さっきよりも小さな声だった。
給食の時間になった。この時ばかりはみんなきちんと席に座る。
給食当番がお皿に料理を入れて、クラスメイトの持っているおぼんに置く。咲口美波が、味噌汁をお椀に入れながら取り巻きたちと話していること以外、他のクラスと全く同じだ。
担任がおぼんを持って列の最後に並んだ。普通はクラスメイトの誰かが担任の分の給食を持っていくのだが、みんなそれをやろうとしないので、担任自身がやっているようだった。普段は担任に反抗するクラスメイトたちも、給食の時は無害だった。あえて担任の分のおかずを残さなかったりとか、嫌がらせをしようと思えばいくらでもできるのだが、そんなことをしたら自分たちが食べる時間が減るかも知れない、とか色々と考えているんだろう。平穏になる。
担任がメインのおかずと白米、牛乳をとって、最後に咲口美波から味噌汁を受け取ろうとした時だった。咲口美波が、「あー!」と叫びながら、担任に味噌汁をぶちまけた。咲口美波以外の全員が息を飲み、固まった。熱い味噌汁が全身にかかった担任は、訳のわからない悲鳴をあげながら走って教室を出ていった。
「み…なみ、今のはちょっとやりすぎじゃない…。」取り巻きの1人が言った。咲口美咲は可愛らしい笑顔を浮かべながら答えた。「そうかな?まあ運が良ければ顔に火傷を負ってるかも知れないね。そしたらもう調子乗れないね。うふ。さあ、ご飯食べよう。」咲口美波が給食着を脱ぎかけた時、教室に男の先生が入ってきた。
「どうした!?叫び声が…。」途端に、咲口美波は泣き出しそうな表情を作った。
「私が、先生にお味噌汁かけちゃって…手が滑って。」俯き、鼻を啜る音が教室に響く。「本当にごめんなさい…。」男の先生は少し慌てながら、「あ、いや、そうか、それで、先生はどこに?」と言った。咲口美波は首を横に振った。わかりませんという意味だろう。先生は私たちに、給食を食べていなさいと指示をして教室を出て行った。給食台の手前の、味噌汁の水溜まりはそのままにされていた。
咲口美波は何事もなかったかのように給食着を脱ぎ、自分の席に座って給食を食べ始めた。私たちはしばらくぽかんとしていたが、時間があと25分ほどしかないことに気づくと、急いでお箸に手を伸ばした。
そういえば、咲口美波が担任に反抗するようになった理由はなんだろう。不安で心臓が早鐘を打って、吐き気がした。それでも給食を飲み込みながら、考えた。先ほどの発言から考えると、担任が、自分よりも美しかったから?熱い味噌汁を口に含んだ。
翌日から担任は来なくなって、別の先生が担任になった。咲口美波は実に満足そうだったが、それ以外のクラスメイトたちは浮かない顔をしていた。しかしそれも数週間ほど経つと元に戻ってきた。元担任が今どうしているのか、誰も知らない。知るべきではないのかも知れない。
けど、忘れてはならない。私たちはもれなく全員、罪を犯したんだ。
教室の床には、一箇所だけ、大きなしみがある。今もある。
その子の笑い方
2025/08/27
初めてみた時、綺麗な子だなって思った。艶やかな長い黒髪、黒曜石のようで吸い込まれそうな瞳、華奢だけど芯がありそうな微笑みを浮かべていた。席が隣だったのもあって、私はその子と仲良くなっていった。毎日、一緒に下校して、途中の公園で遊んだ。寄り道はダメだと先生に言われていたけど、どうせ誰もいないし、夜まで公園にいるわけでもない。
今日も2人で下校する。
「最近、はまってるアニメがあるんだー。」私がニコニコしながら言うと、その子は小さく微笑んだ。それがなんだか大人っぽくて、私も大口開けて笑うんじゃなくて小さく笑うようにしよう、と思った。
「どんなアニメ?」その子が聞いた。例えるなら、穏やかな広い湖みたいな声だった。それもまた参考にしたくなった。「バトル系だよ。今、すごいはやってる。クラスの子達も話してたよ。知らない?」私が訊くと、その子は上品に首を傾げ、困ったように眉を八の字にした。
「アニメ、あんまり見れないから。」そっかー。私はアニメが大好きだったので、その子とアニメの話で盛り上がれないことが、残念でならなかった。
公園に着いた。滑り台や、シーソーや、ブランコがある。けれどそのどれもが錆び付いていて、たいして大きい公園でもないので、人は誰もいない。私たちはやはり錆び付いているベンチにランドセルを置いて遊んだ。15分ほどした頃から、その子は自身のキッズケータイをやけに気にするようになった。そろそろ時間なのかな、と最初は思ったが、それならすぐにごめんねー帰るねと言い出せるだろう。それにまだ4時にもなっていないのだ。「どうかした?」私が尋ねると、その子は画面から顔をあげ、口をもごもごとさせた。「あ、いや…。」その子は一瞬画面に視線を落とし、申し訳なさそうに私に言った。
「ごめん、私帰るね。」「えっ。なんで?」「ちょっと親が…。」その子はキッズケータイをポケットにしまい、ランドセルを背負って帰っていった。私は呆気に取られつつ、その子が、お母さんあるいはお父さんのことを「親」と呼んだことに驚いていた。「ママ」「パパ」「お母さん」「お父さん」と呼ぶのが普通ではないだろうか。それが親。その響きは冷たく、その子と家族との間に、距離や壁があるように感じた。
大人びているんじゃなくて、大人びなきゃいけないような理由があるのかも知れない。嫌な何かが心の底から湧いでていた。
弱々しい風が、私の短い髪の毛をすこしだけ揺らした。
次の日、学校に来たその子に、私は訊いた。「昨日、どうして突然帰ったの?」嫌なら、言わなくても良いんだけど。そう付け足すと、その子は「ごめんね。」と答えた。「親が荒れてたから。」俯きがちにその子は続けた。「あんまり詳しいことは言えないんだけどね。」と言いながら、ランドセルを漁りキッズケータイを取り出した。そして、それを操作し私に画面を見せてきた。
「メッセージ画面。お母さんとの。」私は息を呑んだ。その子のお母さんが送ってきたであろう文面に、驚きを隠せなかった。『あああああああああああああああああああああああああああああああああ』…。もはや文章ですらなかった。相手の叫び声が聞こえてきそうになった。目を見開いている私を見て、その子は再び「ごめんね。」と言った。キッズケータイをランドセルにしまう動作は、やっぱり大人のようだった。「いや…。大丈夫だけど…。」この状況で果たしてなんと言葉をかけるべきなのかわからなくて、私とその子の間には、しばらく沈黙が流れた。
その日、その子は早退していた。
放課後、私は久々に1人で下校しながら、その子について思考を巡らせていた。複雑な家庭環境なんだろうなぁと、そこまでは予想がついた。そこからだ。お母さんはどんな状態なのかとか、いろいろ気になるところはあった。が、さすがに根掘り葉掘り聞くわけにもいかないだろう。私が1人もんもんと考えていると、いつの間にか通学路ではない変な道を歩いていた。ボロボロのアパートや小さな家が立ち並んでいた。ここどこだろう、と慌てながら辺りを見渡していた時だった。ボロボロのアパートの部屋から、人が2人出てきた。私はそれをみて、思わずあっと声を上げた。艶やかな長い髪の毛、黒曜石のような瞳。大人っぽい微笑みではなかったけれど、すぐにわかった。その声で相手も私の存在に気付いたようで、驚いた様子で数秒固まった。
「み、美香ちゃん。」その子は女の人を支えていた。お母さんだろう。整えられていないボサボサの髪の毛、よれよれの服。この人があのメッセージを送ってきたのか。その子は女の人を支えながら、ゆっくりと歩いて私の方に来た。「どうしたの?なんでこんなところにいるの?」焦ったような、しかしやはり綺麗な声で、その子は言った。「ちょっと迷っちゃった。」女の人のことが気になったけれど、触れて良いのかわからず、無難な返事をした。女の人から酒の臭いが漂ってきて、思わず一歩、後退る。
「そう、通学路に戻りたいのね?そしたら、ここを真っ直ぐ行って、あの角で右、そしたらすぐに左に曲がって、しばらく歩いたら通学路に出るよ。手が離せないから、案内できないけど…。」その子はいつもとは少し違う、私のみたことのないような表情を浮かべた。「いや、いや、全然、ありがとう。」私がぶんぶん首を横に振ると、その子は大人びた微笑みを浮かべ、「じゃあ、明日、学校で。」女の人を支えながら歩き始めた。少しずつ、少しずつ遠ざかっていくその背中は、なんだかちょっと、寂しげだった。
「…また明日、また明日ね!」私は大きく手を振った。その子は振り返って、口角を上げた。小さくだけれど手を振りかえしてくれた。それは、大人びた笑顔なんかじゃない、疲れと、希望と、それ以外の何かが混ざった、その子だけの笑い方だった。
糸の繋ぎ方
2025/08/28
幼稚園の頃から一緒の、裕という名前の幼馴染がいる。気が強くて、しっかり者の女の子だ。小さい頃は毎日遊んでいた。小学校に上がってクラスが別々になっても、何せ家が隣なので、離れることはなかった。
小学5年生。私は中学受験のため、進学塾に通うようになった。毎日裕の家に通うことは出来なくなったけれど、交流は確かに続いていた。
中学に上がって、会う回数は格段に減った。裕は公立中学、私は私立中学で、家を出る時間も家に帰る時間も全く違うし、勉強たら部活やらそれぞれの人間関係やらで忙しかった。見かけること自体はあるが、長話することは少なかった。その分、時々の長話が新鮮なものになっていった。
中1の、6月頃か。突然、裕の姿を見ることが無くなった。最初は偶然だろう、あるいは風邪でも引いたのかなーなんて思っていたけど、それが1ヶ月近く続くと、偶然でも風邪でもなさそうだと不安になってくる。そんな中、ある日私が家に帰っていると、買い物帰りらしき裕のお母さん、以下おばさん、を見かけた。思い切って話しかけ、裕のことについて訊いてみることにした。
「こんにちは。えっと、最近、裕の姿を見かけないけど、何かあったんですか?」とたんにおばさんは顔を曇らせ、頬に手を当て、困ったような動作をしてみせた。「そう……渚ちゃんだから言うけどね。実はね、裕が引きこもるようになっちゃってね。」えっと声が出た。おばさんは視線を落とした。「私とは話したくないみたいなのよね。」あの裕が、と思う。あの、元気はつらつで気が強くて、みんなを引っ張っていってくれるような裕が?驚きと戸惑いと心配が入り混じったような、変な感情だった。なんと返すべきかわからず俯いて黙り込んでいると、おばさんはポツンと呟いた。
「渚ちゃんと会うことが減ってから、ちょっと変わったからね。寂しかったのかもね…。」「え、そうなんですか。」顔を上げる。意外だった。裕は誰にも依存しないタイプで、誰とでも仲良くなれるタイプで、どこででもうまくやっていけるタイプだよね。そう思い込んでいた。でもそれは私の押し付けだったのかも知れなかった。私はおばさんにぺこりと頭を下げて、家に帰った。
私の部屋の窓からは、裕の部屋の窓が見れる。カーテンを開け、窓から顔を覗かせた。オレンジ色の光が漏れ出ているが、カーテンが閉じているため中は見えない。少しの間それをぼぅっと眺めていると、急に裕の部屋のカーテン、そして窓が開かれた。裕の顔があった。視線が交わると裕は心底驚いたような表情を浮かべ、何も言わぬまますごいスピードで部屋に引っ込んでいった。私は10秒ほど呆然としていたが、雨がポツポツと降り出したことに気づき、窓を閉ざした。内心ではちょっとだけ安心していた。窓を開けるということは、外との関わりを完全に拒否しているわけではないんだね、と。
翌日、学校から帰ってきた私は、自室の窓から顔を突き出した。もしかしたら、昨日と同じように裕が出てくるかも知れない。昨日はすぐに引っ込んでいっちゃった裕も、今日は話してくれるかも知れない、とそこまで考え、どうやって話すのだろうと疑問を抱く。この距離だと声は届くかも知れないが、明らかに近所迷惑だ。かといって紙に文字を書いてそれを見せるのも、今はもう6時、黒い文字がきちんと見えるのか、果たしてよくわからない。携帯でメッセージを送ることはできない。そもそもお互い、携帯を持っていないからだ。うーんと唸っていると、ひとつ、良い案が思い浮かんできた。私はその場から離れ、大急ぎで紙コップと糸を部屋に持ってきて、勉強机に向かってテープでつなげた。糸電話である。糸の長さはこれだと少し短いか?いやちょうどいいか?でもとりあえず長くしておこうか?まあ短いくらいなら長いほうがいいもんな、などと考えながら、一応完成した糸電話を手に、再び窓から外を見る。なんということか、裕がいた。「あっ!」裕は私を見て、信じられないというような反応をしたが、信じられないのはこちらである。今作った糸電話も、作りながら、使うことなく捨てるのかもなぁなんて想像をしていたのだ。
私が糸電話を見せると裕は怪訝な顔をしたが、そんなの関係ねぇので紙コップの片方を投げた。裕がそれをなんとか受け取ったことを確認し、私は自分の方の紙コップを口に当てた。「えーと、こんばんは。聞こえてますか。」今度は裕が口に当てる。「うん。」と、それだけだった。私は次に何を言おうかと焦りつつ、とりあえず口を開いた。「あー、えーと、えーと、今日はなんで出てたの、窓から?」裕はしばらく黙った。ぴくりともしない裕を見て、訊くべきじゃなかったかなと後悔し出した頃、耳に当てていた紙コップから声が聞こえた。「別に、なんか、気分。」そっけないなと思った。裕らしくないなとも思った。でも、裕らしいなんてないんだよなと思い直した。口元が緩むのを感じながら、私は紙コップを口に当てた。
細くて白い首
2025/08/29
変な顔で笑う子だった。息の詰まっているようで、ちょっと苦しそう。楽しいはずなのにまゆは下がってて、口角の上がり方もあんまり自然じゃない。私が「笑い方がへん」と伝えた時、その子は一瞬驚いたあと悲しそうな表情を浮かべた。それで、これは言っちゃダメなことだったんだと理解した。慌てて謝ると、その子は悲しそうなまま、ちょっとだけ微笑んだ。いいよ、とは言わなかった。私はその笑顔を見てると、だんだん不安になった。
その子は良い子だったから、みんなに好かれてた。私もその子のことが好きだった。
その子はよく学校を早退した。理由は誰も知らなかった。でも、みんな勝手に、体が弱いんだろうと解釈していた。普通は、そうだから。私もみんなと同じように考えていた。
その子が早退した次の日に、早退の理由を訊いても、曖昧な言葉しか返ってこなかった。体が弱いなら、素直にそう言えばいいじゃない。みんなそう思っていた。それを口に出す人はいなかった。その子は明らかに、早退のことについて触れてほしくなさそうだった。尋ね続ければその子は傷つくか、怒るだろう。そんなことは誰も望んでいなかった。
蒸し暑い、夏休み中の全校登校日。クラスメイトがどこどこに行ったなんて話で盛り上がっているのを、その子は頷いて聞いているだけだった。私がその子に、どこにいったか尋ねると、その子は視線をさまよわせた。「プールかな。」嘘なのはすぐにわかった。その子はそれから、黙り込んで俯いた。その子の長い髪の毛が重力に従って、流れるように落ちた。細くて白い首が見えた。「そっか。楽しそう。」嘘だと気づいていないような調子で笑って返すと、その子は俯いたままこちらを見て、少し笑った。やっぱりどこか苦しそうで、そんな笑い方でうまく呼吸ができるのかなと思った。だから私は、その子の分までニカッと笑った。それはもしかしたら押し付けだったのかもしれないけど、ちょっとでもその子に届いたらいいなって、ただ、それだけ。
「その子の笑い方」要約バージョンでしぬ
感情の取扱説明書
2025/08/30
学校に行く。靴を履き替える。廊下を歩く。ドアを開ける。教室に入る。挨拶を交わす。「おはよう」って、ただそれだけ。自分の席で授業の準備をしながら、クラスメイトの様子を探る。
「昨日のテレビ見た?アイドルの桜江くん出てたよー。」目を細め、口角をあげ、口を大きく開いているあの子の感情は、喜怒哀楽のうちの楽、楽しさ。
「うん…今朝、うちの犬が死んだの。」目を伏せて眉を下げ、口を歪ませているあれは、悲しさ。
「それで、お姉ちゃんが私のアイス食べちゃったわけ!」目を釣り上げて眉を寄せ、頬を膨らませているあれは怒り。
全部わかる。今日もいつも通り。
静かに授業を受けて、先生に当てられたら答えて、たったそれだけで1日が過ぎていく。誰かに話しかけられたら、授業の時と同じように正解の言葉を返す。けれど話しかけられることはほとんどない。誰とも話さずに学校を終えることも稀ではなかった。
放課後、靴を履き替えようとしたら、靴箱に紙が入っていた。それを読んだ。
「今日の放課後、校舎裏に来てください。」
私はその通りにした。
校舎裏は薄暗かった。人が1人立っていた。私を見て、口をつぐんで顔を赤らめた。この人の今の感情は怒り。私はそう認識した。私がこの人を怒らせてしまったんだろうとも。
「あ、えっと、来てくれたんですか。」怒っているようには見えなかったが、怒っているのだから謝らなければならない。「すみません。」この人は「えっ。」と言った。感情はなんだろう。
「まだ、何も言ってないんですけど、えっ。なんで?」「怒らせてしまったようなので。」「いや、怒ってないですけど!」「そうですか。」この人が怒りの感情ではないというのなら、そうなのだろう。
この人はそれきり黙った。私はこの人の感情がよくわからなくなった。どのような言葉をかけるのが最適なのかもわからなかった。だからこの人のことを観察した。見つめていると、この人は視線をあちこちに動かした。やがて自身の拳を握り締め眉を引き締めた。
「僕、山口大樹です。その、もしよければ!!付き合って、くだ、さい…。」途中までは私の目を見てよく通る声を出していたこの人は、後半から勢いを無くした様子だった。
私はこの人の感情も、この人が言っていることも、うまく理解できなかった。どうしてこの人はこんなに顔を赤くしているのか?怒りではない。じゃあ何か?この人の言った付き合うとは何か?私はこの人の何に付き合ったら良いのか?
「わかりません。」正直に言った。この人は「わかりません!?」と目を見開いた。「あなたは何がしたいんですか、私には処理しきれませんでした。」この人は私の言葉に息を呑み、10秒黙った。そのあと眉尻を少し下げて口を緩めた。これは喜びだろうか。違うような気もした。
「じゃあ、僕が教えます。全部教えます。」「はい、教えてください。」
この人は深く息を吸った。私の目を見た。綺麗な目だと思った。
「僕はあなたのことが好きです。」
「そうですか。私も好きですよ。」嘘ではない。
「多分、その好きとはちょっと違います。」
「そうですか。難しいです。」
この人は目を細めた。私の鼓動が1回だけ狂った。1回だけ。異常ではないと判断した。
「付き合うっていうのは、恋人になるってことです。」
「あなたは私に恋人になって欲しいんですか。」
「はい。」
「なぜ?」
「好きだからです。」
「そうですか。」
私が何も言わないでいると、この人も同じようにした。しばしの沈黙が流れたあと、この人は口をもごもごさせながら下に落とした。
「あの、返事は。付き合ってくれるかっていう。」
「いいですよ。」私が答えると、この人は3回瞬きをして、笑った。これは喜び。よくわかった。
「どうして、付き合ってくれるんですか。」喜びのまま、この人は私に訊いた。私は付き合うことにデメリットがないからだと言おうとした。けれど、口から出てきたのは、全く別の言葉だった。
「全部、教えてくれるからです。」
この人はへへ、と言った。
「僕はあなたのことが好きです。」
「そうですか。私も好きですよ。」本当のことだった。
これを書いた私、天才すぎるだろ
「地球滅亡まで…」
2025/08/31
地球滅亡まで、あと48時間。隕石が急速に近づいてきていた。
人々の反応は、絶望したり大切な誰かと抱き合ったり、路上を裸で走り回ったり、とりあえず発狂してみたりと色々だ。世の中はめちゃくちゃになっているけれど、警察もこんな時まで仕事はしない。まあ、仕方がないことだった。
私は友人の愛佳に会いに行った。呼び出したわけだ。
「よっ。」公園に入ってくる愛佳に片手をあげた。「よぉー。」愛佳も同じように片手をあげる。ブランコに座って、それを足で揺らしながら口を開く。
「信じられる?滅亡だってよ。」「信じられるわけ、ねー。」「そりゃーね。」風が吹いた。強い風だ。何もかも吹き飛ばしちゃいそう。ブランコが、風で揺れた。錆びついた音がした。「今のって、インセキの影響?」愛佳が空を見上げ、私もつられた。どこまでも続く青い空、無言で浮かぶ白い雲、まばゆい太陽…。なにもかもがいつも通りに思えて、でも、空の奥の奥の方で何かが光ったような気もした。
私は空から愛佳に視線を動かした。「あと、2日だってよ。愛佳はどう、怖いですか。」空を見上げたまま、愛佳は小さく笑った。「実感湧かなしなー、別に?」「それなー。」私はブランコを漕いだ。思いっきり漕いだ。最後にこんなふうに漕いだのっていつだっけ。どうでもいいを考えながら、漕ぎ続けた。愛佳はそんな私をみて、眩しそうに目を細めた。ブランコから立ち上がり、滑り台の階段を登った。1番高いところで振り返って私をみた。そのあと、滑り台を滑っていた。私の漕いでいるブランコが、勢いを弱めていく。
地球滅亡まで、あと24時間。人々は少し落ち着いた。
「よぉー。」昨日と同じ調子で、愛佳が片手をあげた。私の家の玄関で。突然訪問してきた愛佳に驚きつつ、部屋に通した。
「どーしたのよ。急に。」私が訊くと、愛佳はオレンジジュースを味わって飲み込んでから、「暇だったからー。」と言った。少し躊躇いつつ、気になってしまった私は、さらに踏み込んだ。
「家族は?一緒に過ごさなくていいわけ?」家族というか、大切な人。人々は大切な人と共に時間を過ごしているのに、愛佳はそうしなくても良いのだろうか。
愛佳は視線をさまよわせ、最終的に床に落とした。愛佳は自身の家族についての話を嫌っていた。彼女の家の家族構成も、家族との関係も、家がどこにあるのか、どんな家なのかも、私は何も知らなかった。訊くことも
なかった。今までは。
「あーんまり。家族って言っても、血、繋がってるだけでしょー。うちの場合は繋がってるかもよくわからないけど。」
しばらく部屋は静かになった。急に大きくなった外からの音で、私たちは同時に立ち上がった。窓を開けた途端、ものすごい風と頭に響くような低音が部屋に入ってきた。うわっとか、ひゃーとか、私は色々言ったけど、自分でもよく聞こえなかった。空を見た。何かがあった。赤いような茶色いような、丸いけどいびつな、何か。
本当はそれが何かすぐに理解できたけど、嘘であって欲しくて、窓を閉めながら愛佳に尋ねた。
「あれ、なに。」頭がくらくらした。愛佳は壁に手をつきながら小さな声で答えた。
「インセキ…じゃない。」私の望んでいない返事だった。
隕石が衝突する。もう、すぐ近くまで来ている。
地球滅亡まで、あと1時間。
愛佳に会った。昨日と同じように突然訪問してきて、しかし私もなんとなくそうだろうなと思っていた。まだ朝だ。本当なら窓の外は明るいはずだけれど、今は暗い。隕石の影のせいなのだろう。
「あー、死ぬのねー、私たち。」カーテンだけ開けて愛佳は笑った。それは引き攣っているわけでも、無理しているわけでもなさそうな、心の底からの笑顔に見えた。「アニメみたい。」私は曖昧に頷いた。愛佳のように割り切ることができなかった。死というものをピリピリ感じて、死にたくないってそう思っていた。
「夏芽は最後、家族と過ごすんだよね?」
「うん。」
「じゃ、あたしと会うような時間なんて、本来はないはずだったんだ。」
そう言うと、愛佳は私を抱きしめた。暖かい体は私よりも小さいはずなのに、私よりもずっと強かった。私も愛佳の背中に手を伸ばし、ぎゅっと力を込めた。10秒ほどそうしたあと、愛佳はパッと私から離れた。「なに、泣いてんの。」愛佳は私を見て、また笑った。私はいつの間にか涙を流していた。頬が生温かかった。それを慌てて拭ったあと、愛佳に訊いた。
「どこいくの、愛佳は?」
「さあ。家以外のどこか。」愛佳は優しい笑顔を浮かべた。見たことのないような笑顔だった。「天国であったら、よぉーって挨拶してね。」私も笑った。笑って、うんって返した。
「またね。」私が歯を見せると、愛佳も同じようにした。「また。」
愛佳が出ていったあとリビングに行くと、家族がいた。おっとりしているお母さんと、全体的にゴツいお父さんと、思春期でニキビ面のお兄ちゃんと、そして、私。家族4人。私たちは視線を交わし合って微笑んだ。
地球滅亡まで、あと3秒。
3、2、1…。
薄情な子
2025/09/01
親友が死んだ。病気だった。葬式やら彼女の遺した遺書を読むやらで忙しかった。1週間ほどして気持ち的にも落ち着いた。読んだ後、ずっと私の勉強机の上に放置していた彼女の遺書を手に取った。どこに保管しておこうか。部屋の中を見回した。引き出しでいいかと手をかけたが、いや、ここはやめようと再び視線を巡らせる。本棚の1番下の段の、本と本の隙間にぎゅっと詰め込んだ。遺書の内容はよく覚えていない。
親友の葬式の時、私のお母さんは泣いていた。家族ぐるみで仲が良かったとはいえ、どうして私ではなくお母さんが泣いているんだろうと思った。私のうるんでるらいない瞳を見て、お母さんは鼻頭を赤くしたまま眉尻を下げた。親友の両親は当然号泣していた。親友が、自身の両親に宛てて書いた遺書を読むと、さらに涙を流していた。私もその時に私に宛てられた彼女の遺書を読んだ。やっぱり涙は出なかった。ああ、そうか、へえ。感想なんてそれくらいだった。知らないおばさんが、薄情ね、あの子、と私をチラチラ見ながら言った。そうか、私は薄情なのか。なんとなくわかっていたことだった。親友だって結局他人なのだった。私に親友の苦しみは理解できないし、苦しいのは嫌だから理解したいなんて思わない。親友は苦しんだ、耐えた、頑張った、でも負けた、親友はもういない。それだけだった。私は受動的だった。それが悪いかなんて知らないし、どうでもいい。悪いことだったとして、私にどうしろというのだろう。どうしようもできないだろう。葬式帰りに、お母さんに訊ねた。「私って薄情なの?」お母さんは少し考えてから口を開いた。「そんなことないよ。」お母さんがなぜそう答えたのか、私は知らない。でもお母さんはいい加減なことを言う人ではない。
本と本の間にしっかり入れたはずの親友の遺書が、はらりと床に落ちた。それを拾い、ちゃんと詰め込もうとした、けれどなんとなく気が変わって、私は封筒から手紙を取り出した。読んだ。そして気がついた。字が、彼女が元気だった頃よりも不安定なことに、ところどころに灰色のシミがあるところに。なるほどねとだけ思った。数分で読み終わり、封筒に戻した。やっぱり遺書は引き出しにしまうことにした。
お姉ちゃん
好古の方のやつ持ってきた
2025/07/12
お姉ちゃんが死んだ。自殺だった。学校の昼休みに友達とご飯を食べていた時、突然柵を飛び越えて落ちたらしい。自殺現場を目撃したお姉ちゃんの友達は、それから2ヶ月が経った今でも時折精神がひどく乱れると聞いた。
お姉ちゃんは進学校に通っていた。勉強も運動も軽くこなしていたようだし、性格に関しても穏やかで感受性豊か、いつも柔らかい笑顔を浮かべていてみんなから好かれていた、顔など街中を歩くと振り向かれるほどで、悩んでいるようには見えなかった。そんな彼女が、なぜ自殺を?周囲の人々は首を傾げていたし、私自身も全く理解ができなかったが、それでも私たちはお姉ちゃんの死を受け入れなくてはならなかった。葬式ではお姉ちゃんのためにたくさんの人が悲しんだ。涙を流していた。私は泣けなかった。お姉ちゃんのことは好きだったが、それ以上に羨ましくて、そして妬ましくて、だから、そんな彼女にも死を選ぶほど苦しいと思うことがあったという事実に、少しだけ、ほんの少しだけ、安心していた。それでもやはりお姉ちゃんがいない日常というのはぽっかりと穴が空いてしまっていたようで、眠る時に布団に入って無意識に彼女のことを考えると、生ぬるい液体が頬をつたった。
しかし2ヶ月ほど経つと気持ちも落ち着いてきて、ずっと入れなかったお姉ちゃんの部屋に足を踏み入れたいと思うようになった。ある日、怖かったけれど勇気を出してお姉ちゃんの部屋のドアを開けた。お姉ちゃんの部屋には勉強机やベッドがそのまま残されていたけれど、まるで魂が抜けたようで、どこか圧迫感があって、息が苦しくなった。壁は真っ白で机にも棚にも傷や汚れ一つなくて、本当にこの部屋を使っていた人間がいるとは信じられないほどだった。お姉ちゃんはものを大切にする人だったんだなと、姉妹だったのにそう気づいたのはその時が初めてだった。お姉ちゃんの勉強机をそっと撫でた。鼻の奥がつんとした。ふと、勉強机の上棚が気になった。彼女の使っていた教科書がそのまま立ててあった。その中に一つ、等身の低い本が混ざっていた。手にとってみて、それが日記だと理解した。ページをめくろうとして、手が止まった。プライバシーの侵害とか、そういうもんだろう、日記を勝手に見るのって。だけど見たい。お姉ちゃんの心の内を知りたい。
頼れるお姉ちゃん。しっかり者のお姉ちゃん。優等生のお姉ちゃん。そんなお姉ちゃんは、私たち周囲の人間が勝手に押し付けた「お姉ちゃん像」だったのだろうか。
お姉ちゃんが死んでからずっと、そんなことを考えていた。それでも当然答えは出なくて、だから、この日記で何かがわかるような気がした。
お姉ちゃんごめん。ごめん。勢いに任せて日記を開いた。形の整った文字がページいっぱいに広がっていて、面食らった。段落というものはまるで存在しないかのような、本当に思ったことをただ綴ったような、そんなものだった。お姉ちゃんの気持ちを全部汲み取りたくて、ひとつも逃したくなくて、喰らいつくように文字を追った。お姉ちゃんの日記にネガティブな言葉はなかった。「今日も楽しかった。お弁当の卵焼きが美味しかった。甘い卵焼き結構好きかも。」とか「クッションに穴が空いてわたが飛び出していたので縫った。糸の色が流石に合わなくて浮いているような気も。世界にひとつだけのものだね。」とか。ああ、お姉ちゃんはここでもお姉ちゃんを演じなくちゃいけないんだと思った。あるいは、お姉ちゃん自身が自分はこうでなくてはいけないと思い込んでいるのかもしれなかった。真相はわからない。本当にこれがお姉ちゃんなのかもしれない。いつの間にか、日記には灰色の水玉模様ができていた。まだ最初の数ページしか読めていなかったけれど、私は日記を閉じ、自分の部屋に持ち帰った。お姉ちゃん、大好き、と心の中でつぶやいた。
「お姉ちゃんの死に対しての安心」
↑よい
わたし天才だわ!!!!!!!!
天才ちゃん
2025/09/03
「ねえ、葵ちゃん。」桜江さんが甘い声で私の名前を呼んだ。「私って、このままでいいのかな?」切実な瞳で彼女は私をじっと見つめた。私は戸惑った。このままで、というひどく曖昧な言葉をどのように受け取るべきか、迷った。10秒ほど考えて、いいと思いますと答えた。「だって、桜江さんはもう十分すごいし。」桜江さんは才色兼備な人間である。成績は不動の学年1位、テニス大会では何度かの優勝、美しい顔に魅惑的な声、モデルのような体型、文句のつけどころがないわけだ。けれども桜江さん自身はこの現状に満足していないというのだろうか。天才はどこまでも天才ということだろうか。桜江さんの横顔に目をやった。儚げなまつ毛、色素の薄い瞳、さくらんぼ色のくちびる。なんだかすごくさびしげに見えた。桜江さんと口に出すと、彼女は顔をこちらに動かし柔らかく微笑んだ。胸がぎゅっと掴まれたような気がした。そのまま握りつぶされるんじゃないかという気もした。「どうかしましたか。」桜江さんの口角がぴくりと引き攣った。沈黙が場を支配した。
数日後、桜江さんは学校に来なかった。
HRが始まって、くらい顔をした担任が教室に入ってきた。教卓に手を置いて、目を伏せたまま言った。
「桜江さんが亡くなりました。」
クラスが一瞬静まり返って、そしてすぐにざわめき始めた。「えっ、うそ?」「なんで?」「そんな。」悲しみと驚きと困惑が混ざったような声があちらこちらから聞こえた。「どうして亡くなったんですか?何かあったんですか?」誰かが訪ねた。先生は答えなかった。詮索はしないようにとも伝えられた。黙祷の後、授業は通常通り行われた。
「桜江さん、自殺だったんだってー。だから先生、伏せたみたい。」
「うそうそ、病気でしょ?なんであんな天才が自殺しなきゃいけないのよ?」
「え、呪い殺されたって聞いたよ、私は。桜江さんの才能に嫉妬したやつが呪ったんだってー!」
「こわーい!」
そんな噂が当然のように学校中を駆け回った。自殺、病気、呪い。
「葵はなんだと思う?」噂話を楽しんでいた友人が、振り返って私に訊いてきた。「さあね。」冷たい声が出た。友人は少し反省したような、少し不満そうな、少し苛立っているような、そんな顔をした。
桜江さんのあの声と、あの言葉と、あの瞳が、どうにも頭から離れなかった。
天才ちゃんは皮肉すぎて可愛い
前後
おぉん…
2025/09/04
好きな人がいた。本当に好きだった。絶対いつか告白してやるーと意気込んでいた。でも結局、告白はしなかった。いつかっていうのが遅すぎた。その人は別の人と付き合い始めた。 数年がたって、高校2年生の時、好きな人と同じクラスになった。同じ学校だったんだと驚いた。席は前後。私が後ろだった。好きな人の苗字は宮根、私の苗字は村上で、確かに前後になりそうだよなとも思った。「よろしくね。」宮根さんは私を振り返って笑った。素敵な笑顔だった。中学の時と、同じ。私も笑った。「うん、よろしく、宮根さん。」私も口角を上げた。宮根さんはあれっという顔をした。 「村上さんだよね。中学の時、同じクラスだった、村上梓さん。」私の心臓がどきんと跳ねた。「覚えててくれたんだ。」宮根さんはいたずらっぽく目を細め、軽快な口調で言った。「好きだったし、忘れるわけない。」反応が遅れた。数秒経って、え、とこぼれた。宮根さんはにっこりと中学の時のそれとは違う綺麗な笑顔を浮かべ、前を向いた。その背中を見ながら私は心臓が異様に波打っているのを感じていた。 言えるわけがなかった。私はまだあなたのことが好きだなんて馬鹿げたことは。だってあなたはもう前を見るだけだから、後ろを振り返らないから。
たまたま偶然奇跡的に席の位置関係とかが最後と結びついたゾ!
死んだ親友
2025/09/03
ある日突然、親友は親友じゃなくなった。
顔も、声も、歩き方も笑い方も、親友と同じ。でも親友じゃない。絶対違う。他の人にはわからないみたいだけど、私にはわかる。だって親友だもん。
夕日が教室を赤く染めている。私と親友に扮した何か以外、誰もいない。私はその何かを睨みつけながら、訊いた。「あなた、誰なの。」『何か』は戸惑った表情を浮かべた。それも親友そっくりで、どうにも気色が悪かった。「何言ってるの?歩実の親友だよ。」違う。お前は親友じゃない。頭が狂ってしまいそうになりながら、胃の内容物が込み上げてくる感覚に耐える。怒りが心の底から湧き上がってきて、今にも爆発してしまいそうになった。「まさか、覚えてないわけないよね。」冗談半分っぽく、『何か』は笑った。親友そっくりの笑い方で。目の前がカッと赤くなった。夕日のせいではなかった。親友を冒涜するなと、そう思いながら、私は怒りに身を任せていた。
気がついたら、目の前には死体があった。肉体は親友のものだった。私が殺してしまったんだと瞬時に理解した。どうやって殺したのかも、すぐにわかった。重い辞書が何冊も入った私のカバン、その角が血に濡れていたから。罪悪感はなかった。中身は親友じゃない『何か』なのだろうから、それを退治できたことは気持ちが良かった。
荒い呼吸を整えながら、そういえばと思考を巡らせる。
こいつ、死ぬ直前に何かを言っていた。てあみだったか。てあみ、手編み?意味がわからない。不意にひらめく。てあみじゃない、てがみだ。てがみ、手紙。私は『何か』のカバンを漁った。白い封筒が入っていた。中から1枚の紙を取り出し、死体の目の前の椅子に座って読んだ。親友そっくりの文字だった。だがそんなことを気に留めている暇はなかった。文字なんかよりも、始まりの言葉に目を奪われてしまったからだ。
『あーちゃん、最近少し様子が変なので心配です。直接いうのは照れ臭いので手紙に書くけど、私はずっとあーちゃんの親友なのでどうか安心してください。悩んでることとかあったらいつでも相談してね!!あーちゃん大好き!!!ではまた。』
あーちゃん。幼稚園の頃の私のあだ名だった。小学校に上がってからめっきり呼ばれなくなった、あだ名。なんでこいつが昔の私のあだ名を知っているの。いやな何かが心の表面を撫でた。考えられるのは、つまり、私は死体に目をやった。目を見開いて、当然だけれど動かない。その瞳から出た一筋の涙が、重力に従って頬を伝っていた。もう、重力に逆らうことのできない、親友。死んだ親友。
何言ってんだこいつ!!!!!!!!!!!🙂↕️🙂↕️🙂↕️🙂↕️🙂↕️🙂↕️
またね、の距離
2025/09/05 またね、の距離
「今、あたし矯正してるんだけど、まじでやめたーい!」
休み時間、あたしは嘆いた。友人たちが笑う。そのうちの1人、美香が身を乗り出した。「私もそろそろしよっかーみたいになってるんだよねーいやだぁー」美香も同じように嘆いた。あたしはその手をガシッと掴む。ああ同士よ。そういうと美香はやだーと声を上げた。またみんながあははと笑った。あたしは口を開いて歯を見せた。歯というか、歯についた器具。「この器具のせいで思いっきり笑えないんだよ、歯医者も月一で行かなきゃでしょー、もう最悪!」「まあ咲子は思いっきり笑ってると思うけどね。てか、歯医者そんな頻度で行きたくないよぅ。え、痛い?」「そりゃ痛いよ!」美香がきゃーっと大袈裟な演技をして、あたしは笑ってしまった。
「うー、やだなー」美香が項垂れてため息をついていると、暗い声が聞こえた。「矯正できるなんて良いじゃん。それに文句垂れるとか、どんな身分なんだよ」嫌味ったらしいネチネチとした口調。声の主はクラスメイトの長谷川さんだ。あんまり話したことはない。無口だし、いつも1人でいるし、孤立してるかんじ。美香や友人たちがやっちゃったという顔をして黙り込んだので、あたしが反論する。「いや、長谷川さんには関係ないし!何がしたいわけ?」長谷川さんは眉を顰めて、さっきよりも大きな声で言った。「恵まれてるのにぐちぐち言ってんのが、きもいんだよっ」クラスが静まり返った。「…はー?自分は恵まれてないとか言いたいわけ?何、ショーニンヨッキュウ?」あたしは思わず席をたった。そのまま長谷川さんの席に行き、彼女の机をバンッと叩く。長谷川さんの肩がはねた。「あんたのことなんかキョーミないし、あんたに向かって言ってたわけじゃないし!ジイシキカジョウすぎ!」「ちょっと咲子、言い過ぎ、やりすぎ、落ち着いて」美香が慌てたようにこちらに駆けてきてあたしの腕を掴んだ。ずるずると引き摺るようにして友人たちの元に戻る。長谷川さんは呆然としている…ように見えた。「咲子、あーゆーのはダメだよ。先生に怒られちゃうから」美香は先生とか親とかに怒られるのを極端に嫌う。「でも長谷川さんだって悪いじゃん」あたしはまだ怒っていた。そもそも最初にふっかけてきたのは長谷川さんの方なのである。あたしは何も悪くないはずだ。美香が口を開いて何かを言いかけたその時、チャイムが鳴り響き、あたしたちはそれぞれ自分の席へ散っていく。
放課後、美香と一緒に帰っていると、長谷川さんの姿を見かけた。橋からぼーっと下を流れる川を眺めていた。あたしがうわーなんて思っていると、美香が急に走り出した。「長谷川さん!」え、ちょっちょっと、急になに!戸惑いながらも美香を追う。長谷川さんは弾かれたように顔をあげ、私たちを見てギョッとした。あたしだってギョッとしている、美香に対してだが。美香は長谷川さんの隣に立って、口を開いた。
「ごめんね」
その言葉にあたしと長谷川さんは驚いた。「謝る必要なんてないでしょ、美香!」あたしが言うと、美香はううんと首を横に振った。それどころか、咲子も謝ってなんて促してくるのだ。意味がわからない。当然、嫌。あたしは悪くないもん。そう言うと、美香は眉尻を下げた。美香がなにを言いたいのか理解ができなくて苛立った。こういう曖昧なのが、1番鬱陶しい。
「ごめん」一瞬、誰の言葉なのかわからなかった。「ごめん」同じ言葉が繰り返された。長谷川さんの口から放たれたものだった。あたしと美香は同時にえっと声を上げた。「2人への謝罪だから、2回」長谷川さんは視線を逸らした。なんだかバツが悪そうに、なんだか恥ずかしそうに。彼女が謝ってくるなんて全く想定していなくて、あたしは言葉に詰まった。しかし美香は嬉しそうに「いいよっ」と答えた。そしてあたしの方を見て、大人びた不敵な笑みで言った。「あとは咲子だけだよ?」あたしはまた、えっと焦った声を出した。なんであたしが謝らないといけないわけ。でもこれって謝らなかったら子供っぽいって思われるよね?それに失望されそうだし。だけど、謝りたくない。あたしは悪くない。…本当に?自問自答を繰り返す。「咲子」美香があたしの名前を呼ぶ。「謝って」どこか圧を感じた。「…ごめん」謝らなかったら、ずっと謝ってって促され続けるんだろうし!心の中で言い訳をする。「これでいいんでしょ!」「さあ、それは長谷川さんが決めることだもん」長谷川さんに視線をやると、彼女もえっと困惑の声。「え、あ、全然、いいよ」安心する私に対して、美香は「だって、よかったね」と弾むような口調で優しく笑った。
「じゃあ私、帰るね」長谷川さんがそう言って歩き出した。少しずつ遠ざかってゆく背中。あたしは美香にぼそっと訊ねた。「あっちって住宅街とかじゃなくない?わかんないけど」美香も声をひそめた。「長谷川さんは、養護施設で暮らしてるらしいからね。こっちにきたばっかの咲子は知らないか」息を呑んだ。養護施設なん馴染みのない言葉。あたしは、今までの長谷川さんの言葉の全ての意味を理解してしまった気がした。
「長谷川さん!!」
精一杯の声量で彼女の名前をよんだ。視界の端で、美香が驚いた表情を浮かべたのがわかった。
こちらを振り返る長谷川さんに大きく手を振った。
「またねー!!」
「あ、ま、また明日ね!!」美香も戸惑いつつ、あたしと同じように手を振る。長谷川さんの片手が上がったのを見て、あたしは頬が緩んでいくのを感じていた。
「てか、美香の謝罪に対して、長谷川さん、いいよって言ってないじゃん」
「あっ」
美香のひじを小突いた。
90点の檻
平手打ち的なシーンあるけどそれを推奨してるわけじゃないし、あんたのことなんて好きじゃないんだから!!!勘違いしないでよね!!!!!
↑ツンデレセリフに繋がるんだなこれが。
2025/09/07
「由美ちゃん。」学校から帰ってきて手を洗っていると、お母さんが笑顔で私の名前を呼んだ。
「どうしたの?お母さん。」
「今日、テスト返ってきたはずよね?」
言われてどきっとする。「う、うん。」テストの結果の話は正直あまり楽しいものではない。特に今回の中間テストは、80点台が2教科もあった。まだ返ってきていない教科もあるので、もしかしたらもっとあるのかもしれない。お母さんが示す合格ラインは90点。90点台の教科だって、91点とか93点とかでギリギリだ。
「何点だったの?」私の予想通りの言葉がお母さんの口から放たれる。私は思わず視線を泳がせた。「国語が、91点。歴史は93点、数学は…87。それだけ。他はまだ返ってきてないよ。」嘘だった。本当は理科が、84点。
「ふぅん。そう。」お母さんの顔から笑顔が消え、無表情になる。心底軽蔑したような瞳が私は怖い。
「…うん。私、部屋に戻るね。」この空気に耐えられなくて、私は部屋に戻ろうと、階段をのぼった。「由美ちゃん。嘘なんか、ついてないわよね。」不意にお母さんの低い声が聞こえてきて、息を呑んだ。心臓がばくんと跳ねた。もしかして、理科のテストが返ってきていることを、お母さんは知っているのか?私は振り返って、笑みを浮かべた。それは多分引き攣った笑み。
「ついてないよ。」
「…そうかしら?ならいいわ。どうせすぐにわかることだしね。」
逃げるように階段を上り切って部屋に入った。80点台があっても叩かれなかった。今日は運が良い。
翌日、私は憂鬱な気持ちで校門をくぐった。今日もテスト返却が行われるだろう。もし80点台…いや70点台の可能性だってあった。特に英語は全く自信がない。その場合、お母さんに失望されてしまう
1限目は英語。予想通りテストが返却された。胃がキリキリと痛むのを感じながら、点数を恐る恐る見る。
73。そう書かれていた。
終わったと思った。こんなんじゃだめだ。お母さん怒るよね。どうしよう。なんでこんな点取っちゃったんだろう。どうしよう。どうしよう。誰かの答案と取り替えてしまいたい。鼻の奥がつーんとした。どうしようどうしようどうしよう。お母さん、お願いだから事故に遭って入院してください。病気でもいい。2週間ほど入院して、テストのことなんて綺麗さっぱり忘れて欲しい。最低なことばかりが頭を巡った。
結局この日返ってきたテストで90点を超えているものは、地理だけだった。97点で学年1位だそうだ。けれどもこんなの当たり前。お母さんにとっては。
放課後、私は家に帰りたくなくて、しばらく教室でぼーっとしていた。
「あれー、戸口。まだいたの。」クラスメイトの足田真奈美が教室のドアを開けて、私を見るなり驚いたように言った。足田は体操服を着ているので、多分、部活が終わって制服に着替えにきたのだろう。
「ちょっとぼーっとしてた。」私の言葉に、足田は首を傾げる。
「いつもすぐ帰るのに。何かあった?」彼女の着替えを見ているのもなんだか気まずくて、窓の外を眺めながら答える。
「テストの点が悪かったから。特に英語。お母さんに怒られるんだよね。」
「ああ、わかる。まああたしはいっつも悪いけど。ちなみに何点だったの?」
少し躊躇いつつ、口を開いた。
「73。」足田はまた、しかしさっきよりも深く首を傾げた。
「全然いいじゃん。平均59だよ。」
「そうだけど…。90は越えなきゃだし。」
「えー。」
足田はそれきり黙った。彼女の方に顔を動かすともう制服に着替え終わっていて、帰り支度をしていた。そしてそれも終わると、私の目を見て言った。
「今日、一緒に帰らない?」
夕焼けは綺麗だと思う。私は好きだ。小石を蹴りながら足田と並んで歩く。足田の家がどこにあるのかは知らないけれど、訊いたら割と近いところにあるらしかった。
「90点以上とらなきゃいけないってまじ?」
なんの前置きもなく、沈黙を破り捨てるように、足田は少し大きな声を出した。
「まあ、うん。お母さんが決めた。」
「89とかだったらどうなるの?」
私は迷った。正直に叩かれることも結構ありますなんて言うのはよくない。なぜならそれは普通ではないからだ。頭の中で言葉を選んで、言う。
「ちょっと怒られるかな。」
足田の横顔をチラリと見る。いつもと変わらない無表情で、感情を読み取りにくい。私の返事が正しかったのか分からずドキドキしてしまう。
「そう。ま、嫌なら嫌って言ってね。あ、テスト破り捨てるとか。」
「何それ…。」わずかに笑う。でもいいかもしれないと思う。
破り捨てると言う言葉は、強かだ。自分の意思を持っているように感じて、私は好き。私だって強かになりたいなとも思う。
「夕焼け、綺麗ー。」足田が空を見上げ、眩しそうに目を細めた。その口元には珍しくしっかりとした笑みが浮かんでいた。「私も、そう思う。」私は細めない。この夕焼けを、少しでも私の体に焼き付けておきたくて。
家のドアを開けた。お母さんの気配はしなくて、なんだか安心した。部屋で73点のテストをどうしようかと悩んだ。お母さんは怖い。叩かれたり怒られたり、失望されたり嫌われたり、そんなのは嫌だ。しかし見せないわけにもいかないのだ。足田はこの73点を褒めてくれたけれど、お母さんにとっては低すぎるのだ。
玄関のドアが開く音がして、急に心臓が早鐘を打ち出した。
「由美、いるのね?」制靴のせいで私が帰ってきていることがバレてしまったのだろうか。誤魔化すことはできない。部屋を出て、お母さんに顔を見せる。
「お、お帰りなさい。」
「ただいま。テストは?」ああやっぱり。「とってくるね。」沈んだ気持ちで部屋に行き、テストを抱えて戻った。お母さんに1枚ずつ渡す。「これ、地理。これは理科。」英語はまだ手に持ったままで、反応を伺う。
お母さんは長いため息をついた。「地理はともかく、理科…ダメダメじゃない。」パンッと言う乾いた音が響いた。一瞬、どこから聞こえてきたものなのか理解ができなかった。それはどうやら、お母さんが私の頬を平手打ちして出たもののようだった。パンッ。また叩かれる。数秒遅れて、じんわりと痛みが広がった。じんじんとか、ズキズキとか、そんな類の鈍い痛みだった。けれど、痛みの奥には確かに、鋭い針が存在していた。
お母さんは怒っても笑っても泣いてもいなかった。なんの感情も読み取れない、だが足田のそれとはまた違う表情を浮かべていた。これも無表情と呼ばれるのだろうが、無表情にしてはやけに重たかった。私は英語のテスト用紙を抱いたまま、涙を流していた。お母さんは手を伸ばして言った。
「それは?何点?英語よね。」
私は答えず、またおとなしく差し出すこともしなかった。代わりに、私の頭ほどの高さまでテスト用紙を持ってきて、破いた。ビリビリと言う音はやけに湿っている気がした。
これでいいんでしょ、お母さん。これでいいんだよね、足田。これでいいんだ、私。大丈夫。大丈夫だ。根拠はなかった。ただ、夕焼けと、足田の言葉と、破り捨てることの強かさが、私にそう思わせてくれた。涙は止まらなかった。きっと、それで良い。
ええな。
「ありがとう」のあとで
いじめの描写あり。暴力なし。いやボールをぶつける描写はあるから暴力あり…?暴力に焦点を当ててるわけではない。
2025/09/13
斎藤メグミはうちのクラスのカースト上位の生徒だった。クラスの中心人物、気が強くまた端正な顔立ちをしており、人をたぶらかすのが上手いタイプの人間である。彼女の親は社長だとか、嘘か本当かよくわからない噂が大量に流れていて、だから彼女がなにをしてもそれに反対するような子はいなかった。
1月、安藤佳奈という女子生徒が転校してきた。ハキハキと喋ってよく笑う、しっかり者だがどこか抜けていて愛嬌がある、誰にでも分け隔てなく接する、そんな彼女はすぐにクラスの人気者になった。だがしかし、それまでクラスの中心人物だった斎藤メグミはそれが面白くなかったようだ。
安藤佳奈へのいじめが始まった。
1月下旬の授業中、前で発表をしていた斎藤メグミが自分の席に戻る時、安藤佳奈のペンケースと教科書を、偶然を装って落とした。なんと地味な嫌がらせなのだろうといっそ呆れつつ、安藤佳奈の隣の席である私はペンを拾うのを手伝う。どうぞと渡すと、安藤佳奈はぱちぱちと瞬きをした。「…ありがとう。」そんなに私が手伝ったことが意外だったのだろうか。心外だ。
同じ日の体育では、ドッジボールが行われた。斎藤メグミは異様なほどに安藤佳奈を狙い、はじめのうちは避けていた彼女も、それが続くと疲れてきたようで、斎藤メグミの投げたボールが思い切り顔に当たった。安藤佳奈はよろけ、床に手をつく。ボトボトと鼻血が落ちていた。体育教師が保健室に行くよう指示をし、「じゃあ付き添いで、えーとあなた、よろしくね。」と私を指名した。単純に近くにいたからだろう。安藤佳奈が鼻を抑えながら立ち上がる。悔しそうに眉を寄せている彼女を見て、強い人だと思いながら、私は彼女と共に保健室まで歩いた。「マジで斎藤メグミってやつムカつくー。」保健室に行く途中で、彼女が苛立ちのこもった声で言う。安藤佳奈は「誰にでも優しくて性格が良くてとにかく性格が良くてもう性格が良い」という印象だったので意外だった。冷静に考えてみれば、あんなことされりゃムカついて当然であるが。保健室で養護の先生に安藤佳奈を受け渡し、私は体育館に戻ろうと踵を返した。「ありがとう。」慌てたように安藤佳奈が私に向かって目を細めた。
2月。バレンタインデーの日、学校中が浮き足立っていた。斎藤メグミがクラス全員にチョコレートを配っているこの光景は去年も見た。彼女は特に、男子に愛想よく笑って渡している。「これ、水戸さんの分。」放り投げるように斎藤メグミに渡され、ありがとうと答えながらチョコレートに目をやる。なかなかに美味しそうなチョコレートと、おまけのように小さなクッキーが入っていた。正直食べたいが、学校で食べることは禁止されている。カバンにしまい、顔を上げると、安藤佳奈のなんとも言えない表情が目に入った。
「どうかしたの。」ボソリと聞けば、彼女はうーんと困ったような呆れたような笑顔を浮かべた。「私だけチョコもらえなかったよ。地味だね〜嫌がらせが。」ほんとに地味だけど、やられたらちゃんと傷つくやつである。うわぁと微妙な反応を返した。その時、思い出す。「これどうぞ。」カバンからチョコレートを取り出し、彼女に渡した。「手作りじゃないけど。」斎藤メグミの様子を伺いながら声をひそめた。もし斎藤メグミがこれを見ていたら、私までいじめられるか、安藤佳奈へのいじめがヒートアップするかの2択になってしまう。両方きつい。「えーっいいの。」安藤佳奈も声をひそめつつ、ぱあっと笑う。なんだか心がむずむずしたが、平静を装ってうんと頷く。「ありがとう。」彼女のお礼を聞くたびに、言いようのない何かを感じる。
3月。終業式の日。卒業式でもなんでもないので、みんなあっさりとしていた。
式が終わった後の、人のほとんどいない教室で、安藤佳奈は私に言った。
「今までありがとう。」違和感を覚えた。「なんで、『今まで』?」もう会うことができないみたいじゃないか。私たちはまだ2年生だ。3年生でも同じクラスになる可能性だってあるわけで、いや、たとえ違うクラスでも交流を続けることはできる。無論、彼女にその気がないのなら別だが。
「うん。私転校するから。」
さらりと告げられ、驚いた。今年の1月にこちらに転校してきたばかりなのに、また転校するんだと。いわゆる転勤族なのだろうか。私が訊くと、彼女は目を伏せた。口角は上がったままだった。
「転勤族ではないよ。頻繁に引越しとか転校とかするわけじゃないし。今年の1月に転校してきたのは、家族の転勤が理由じゃなくて、私が前の学校でいじめられてたから、お母さんとお父さんが気を遣ってくれた。」
反応に迷った。平気そうに言う安藤佳奈は、同情を求めているわけではなさそうに見えた。しかし私は、これをへーそうなんだーで流して良いと思えるほどのメンタルの持ち主でないのだ。「あぁ…そっか…。」結局、視線を泳がせながらそう答えるしかなかった。安藤佳奈はくすりと笑い、私の手を取って、ぎゅっと握った。思わず握り返す。
「ありがとう。ほんとに、ありがとう。」
その言葉に、今まで感じていた言いようのない何かはもうなかった。
「「ありがとう」をテーマに、小説を書こう」って言うリレー小説に参加したくて書いた。
泣き方を知らなかった頃
死の描写あり。
2025/09/14
「2人とも、おいでー。」里美のお姉ちゃんである春ちゃんが私たちのことを呼んだ。私と里美が砂場やらブランコやら滑り台やらで夢中になって遊んでいる間に、日が暮れてしまっていたようだ。私は春ちゃんの方に駆け寄った。里美ももう帰るのーと不満げにしながら立ち上がった。私と里美と春ちゃん、それぞれのお母さんの5人で帰路につく。
「お腹すいた!」私が言うと、お母さんが「今夜はシチューだよ。」と微笑んだ。シチューは私の大好物だった。やったーなんてはしゃいでいると、里美が声を上げた。「いいなーねえうちもシチューがいい。それかハンバーグ!」「だめよー、もう決まってるもの。今夜は野菜炒め。」「えーっ。お姉ちゃんだって野菜炒めは嫌でしょ?」里美が春ちゃんに同意を求めるも、春ちゃんは困ったように首を傾げただけで何も言わなかった。里美がぶーっと頬を膨らませているのを眺めながら、青になった横断歩道に足を踏み出す。里美たちもうちに来たら楽しそうだな、みんなでシチュー食べれるし。そんなことを考えていたから、気が付かなかった。信号無視のトラックがこちらに突進してきていることに。
「さやちゃん!」
春ちゃんの声か、お母さんの声か、里美の声か。誰の声なのかよくわからなかった。でも、さやちゃんって呼ぶってことは春ちゃんかな…。私の思考はやけに冷静だった。トラックが至近距離にあって、それはもう私にぶつかってくるだろう、避けられないだろう。その光景がやけにゆっくりに見えた。その時、何かが私の背中を押して、私は前に飛ぶように倒れた。直後にドンッと言う音が真後ろから聞こえて我に返る。私の体はどこも痛くなかった。生きてる。助かった。誰かが私を救ってくれたのだ。誰が?その人はどこ?ゆっくりと後ろをむいた。トラックの車体が、まず目に入った。次に、鮮やかな赤色。
「お姉ちゃん!!お姉ちゃん!!」
甲高い里美の声が響き渡っていた。
春ちゃんが死んだ。私を庇ったせいで死んだ。
葬式で、里美は私を責めた。「さーやのせいだよ!全部全部さーやが悪いんだよ!だってさーやがいなかったら、お姉ちゃんだって…お姉ちゃんだって…。」里美の両親が必死に宥めていたけれど、里美の本音が変わることはないし、私のせいで春ちゃんが死んだと言う事実も事実としてそこにあり続けるのだ。
「ごめんね。」葬式の後で私は里美にぽつりと告げた。それはきっと、里美にとってはあまりに軽く、あまりに足りない謝罪だっただろうと思う。里美は俯いたまま言った。
「さーやのことなんて嫌いっ…。大嫌い、この世で1番嫌い。さーやのせいだよ!!」
頭も舌も回らないまま、怒りと悲しみに任せて言葉を紡ぐ里美を見て、私まで涙が出てきた。頬をボロボロと伝っているのがわかった。鋭い瞳で顔を上げた里美が、私の涙ではっと目を見開く。眉を歪ませ、下唇を噛む。私は自身の手を、爪が食い込むほど強く握りしめた。痛いとか、そんなのは今、大事じゃなかった。
「さーやが悪いから…全部…さーや…ぁ…。」わーっと、2人で声を上げて泣いた。それは傷の舐め合いじゃなくて、春ちゃんの死を純粋に悼んでいるわけでもなくて、友情を深めるためのものでもなかった。ただの醜い、責任の押し付け合いだったのかも知れなかった。でもそれが、今の私たちには必要だったんだ。
あとがきがき