『暗いけど最後には救われる話を書いて欲しいです。』というリクエストをいただいたので長編を書いてみました。遅れてすみません。
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目次
灯-第一章-
プロローグ:音のない朝
夫を失ってから、陽菜は時間というものをうまく掴めなくなっていた。
時計は進んでいる。カレンダーも毎日変わっていく。
でも、自分の中だけが止まっている。世界のリズムから外れてしまったようだった。
冷蔵庫の中には、使いかけの調味料と、腐ったままの野菜がある。
テレビのリモコンには埃が積もっている。
陽菜自身も、まるでこの部屋の一部になってしまったように、息をひそめて生きていた。
夫・彰人がこの世を去ったのは、1年前の冬の夜だった。
あの日も今日のように、音のない朝だった。
第一章:開かれたフォルダ
冬の朝は静かだった。暖房も入れずにいると、足元からしんしんと冷えが登ってくる。
陽菜はようやく起き上がり、ぼんやりとした頭でスマホを手に取った。
バッテリーは残りわずか。通知はゼロ。
メールもLINEも、もう何日も誰からも来ていない。
それなのに、なぜかスマホを開いてしまうのが習慣になっていた。
ホーム画面を見ているうちに、ふと写真フォルダに指が滑った。
「アルバム」の中に、一つだけ見慣れないロック付きのフォルダがあった。
“For H.”
それが目に入った瞬間、陽菜の胸に小さな波紋が広がった。
彰人のスマホは事故の後、警察から返却されたが、しばらく触れずにいた。
今持っているスマホも、そのデータを移したままだった。
開くためにはパスワードが必要だった。
「誕生日……だめか」
「結婚記念日……違う」
幾つか試しては失敗し、心が折れそうになったとき、彼の声が頭に浮かんだ。
——「人生でいちばん大事なのは“ひかり”だよ。暗闇に灯る、小さなやつな。」
「……hikari?」
正解だった。
ロックが解け、画面には動画ファイルがずらりと並んだ。
タイトルには日付と、短いメッセージ。
「2023.01.03_カレーうまかった」
「2023.03.11_ごめん、今日の俺最低」
「2023.07.18_お前が泣いた日」
「2023.11.05_これが最後になるかも」
陽菜の指が震えた。
動画を再生すると、そこには確かに彰人がいた。
笑って、照れて、時に泣きそうな顔をして。
「……お前がこれを見てるってことは、俺はもういないんだよな。ごめん、やっぱつらいな、こういうの。」
陽菜は、画面の中の彰人に手を伸ばした。
触れられるわけもない。
けれど、その温度は確かに、心の奥に伝わってきた。
そして、陽菜の中で何かが少しだけ動いた。
1年ぶりに、世界が「色」を取り戻そうとしていた。
リクエストをいただきました!せっかくなので、長編でお届けします!
灯-第二章-〜遺されたメッセージ〜
第二章:遺されたメッセージ
その日、陽菜は動画を一本ずつ、ゆっくりと再生していった。
彰人の言葉、しぐさ、何気ない日常のひとコマが、映像の中に詰まっていた。
どの動画も短い。1分足らずのものも多い。
けれど、不思議なほど「生きている彼」が、そこにはいた。
「2023.03.11_ごめん、今日の俺最低」
「……陽菜に言い返した。疲れてたし、言葉が荒れた。でも、帰ってきたら部屋に料理が用意されててさ。
あいつ、本当に優しい。俺は、ああいう時にもっとちゃんと謝れる男にならなきゃダメなんだよな。」
「2023.06.02_記憶の整理」
「最近、昔のアルバムを見返してる。大学のときの陽菜、笑いすぎて変な顔してるけど、俺はあの顔が一番好きなんだよな。」
「2023.11.05_これが最後になるかも」
この動画だけは、再生するのに勇気がいった。
表示されたサムネイルには、ベッドに座る彰人が、少しやつれた顔で映っていた。
陽菜は深く息を吸い、再生ボタンを押した。
「……どうやら、来週、出張先でのスケジュールがかなりキツい。雪も降るらしいし、あんまり乗り気じゃないんだ。」
「これが最後になるかもしれないって、大げさかもしれないけど……
今、俺の中に、どうしても伝えておきたいことがある。」
カメラに顔を向けた彰人の表情は、どこか決意に満ちていた。
「陽菜。
お前は、俺が見たこの世界で、一番の“ひかり”だった。」
「俺はずっと不器用で、お前に甘えてばかりだった。
それでもお前が笑って、怒って、泣いて、そばにいてくれたから、俺は毎日を歩けた。」
「これを見てるお前が、どうしてるかはわからない。
でも、もし今、お前がもう歩けなくなってるなら……
俺の声が、少しでもお前を前に進ませる力になったら、って思ってる。」
彼は、少し間を置いて、カメラ越しに目を細めた。
「どうか、生きてくれ。
この世界には、まだお前が知らない“あたたかさ”がある。」
動画は、そこで終わった。
陽菜の頬を涙が伝った。
涙は止まらなかった。けれど、その涙はこれまでのものと違った。
冷たく乾いていく涙ではなく、
胸の奥に残る、わずかな温もりが混ざった涙だった。
彰人は、未来の自分のためにこのメッセージを残してくれていた。
彼の「死」は終わりじゃなかった。
そこには確かに、「生きることを願う声」があった。
その夜、陽菜は眠れなかった。けれど、それでも思った。
——明日、あのカーテンを開けよう。
——少しだけ、外を歩いてみよう。
もう一度、世界に触れてみようと。
灯-第三章-〜知らなかった顔〜
第3章:知らなかった顔
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
陽菜は、久しぶりに自分からそれを見ようとした。
部屋の中にはまだ静寂があったが、昨日とは少し違っていた。
心のどこかに、確かな“ぬくもり”が残っていた。
彰人の声。言葉。まなざし。
それらが、陽菜の内側で小さな炎のように灯っていた。
「……外に出てみよう。」
陽菜はマフラーを巻き、少し厚手のコートを着て玄関を開けた。
冷たい空気が頬を打つ。だけど、それは悪い感触ではなかった。
小さな駅前の商店街。
変わらない景色のはずなのに、どこか新しく見えた。
歩いていると、古びた喫茶店の前で、ふと足が止まった。
「ここ……彰人と最初に来た場所……。」
その店は、何年も前から変わらない佇まいでそこにあった。
ガラス越しに中を覗くと、先客が一人。
どこか見覚えのある横顔だった。
中に入ると、カラン、と小さなベルが鳴った。
「いらっしゃいませ……あれ?」
声の主が顔を上げ、目が合った。
少し驚いた表情。陽菜もまた、声を失った。
「……陽菜さん? えっ、本当に?」
「……あなた、もしかして……」
「はい、彰人の大学時代の友人です。
中野悠(なかの ゆう)って言います。」
その名前に、遠い記憶が蘇った。
彰人が何度か口にしていた親友の一人だ。
「ここで会うなんて偶然ですね……。よかったら、少しだけ話しませんか?」
■喫茶店の片隅で
陽菜はコーヒーを頼み、悠と向かい合った。
彼はどこか気遣うように、優しい目をしていた。
「彰人が亡くなってから、ずっと連絡できずにいました。
……どう言葉をかければいいのか、分からなくて。」
陽菜は小さく首を振った。
「私も、誰とも会えなかったんです。
でも、最近になって、ようやく……少しずつですけど、歩けそうな気がして。」
「それを聞いて、嬉しいです。」
少しの沈黙のあと、悠が切り出した。
「実は……僕、彰人から手紙を預かってたんです。」
陽菜の手が止まった。
「彼が亡くなる少し前、突然連絡があって。
『もし俺に何かあったら、これを陽菜に渡してくれ』って。」
悠は、鞄から封筒を一通取り出した。
それは、黄ばんだクリーム色の封筒だった。裏には、彰人の筆跡があった。
『陽菜へ −灯が消えそうなときに読んで』
陽菜は指でそっとなぞった。
鼓動が速くなった。手が震えるのを抑えながら、封を切った。
■彰人からの手紙
陽菜へ
この手紙が届く頃、俺はもうこの世にはいないんだろうな。
まずは、ごめんな。こんな形でしか想いを残せなかったこと。
陽菜は、強いようで、繊細だ。
自分より他人のことを優先して、痛みを溜め込んでしまう。
そんなお前の人生に、少しでも光を灯せたなら、俺は幸せだった。
けれど、お前にはこの先、俺の知らない未来がある。
新しい出会いもあるだろう。新しい感情も。
俺は、そのすべてを祝福したい。
どうか、自分を責めないで。
お前の幸せは、俺の願いだった。
忘れないで。
お前は、ちゃんと、生きていい。
——彰人
陽菜は、テーブルに手紙を置いたまま、そっと目を閉じた。
涙が、静かに頬を伝った。
けれど、その涙は「喪失」の涙ではなかった。
それは、誰かの言葉が心に届いた瞬間の、再生の涙だった。
悠は黙って、陽菜の前にハンカチを差し出した。
「……ありがとう。来てくれて。」
「僕も、あいつに背中を押されたのかもしれません。」
陽菜は、手紙を胸に抱きしめながら、思った。
まだ知らない彰人が、世界には残っている。
そして、知らなかった“自分自身”にも、きっと出会える。
灯-第四章-〜もう一つの顔〜
第4章:もう一つの顔
手紙を読んだ翌朝、陽菜はこれまでになく早く目を覚ました。
心に残った彰人の言葉が、何度も何度も胸の奥で繰り返されていた。
——「お前は、ちゃんと、生きていい。」
それは、赦しだった。
誰よりも大切だった人からの、最も優しい言葉だった。
陽菜は、朝日を背にして、小さな決心をした。
「彰人が見ていた世界を、もう一度見てみたい。」
■小さな手がかり
数日後、陽菜は彰人の書斎を久しぶりに整理していた。
本棚の奥、資料が詰まった箱の下から、ひとつのノートを見つけた。
“プロジェクトHIKARI”
それが表紙に書かれていた。
「……これ、なに?」
中を開くと、ボランティア活動に関するメモや日程、計画案がびっしりと手書きされていた。
それは児童養護施設の子どもたちに向けた「創作教室」を企画する計画だった。
“外の世界を知らない子どもたちに、「自分にも物語がある」って伝えたい。”
“誰かが彼らの『ひかり』になることはできる。けど、それより、自分自身で灯せるように——”
陽菜の手が止まった。
彼は、自分に何も言わず、こんな夢を抱えていた。
仕事の合間を縫って、こんなにも綿密な計画を立てていた。
彼の死後、このプロジェクトは宙に浮いたままだった。
「……これ、完成させたい。」
自然に、そう思えた。
彼の言葉が、自分の中で何かを押し出していた。
「生きること」は、もう一度誰かと“つながること”でもあるのだと。
■再会と決意
その日の午後、陽菜は再び悠に連絡を取った。
喫茶店で合流し、ノートを見せると、彼は目を丸くした。
「……まさか、こんなものを残してたなんて。」
「これ、実現できないかな……。私、やってみたい。」
悠は少し驚いた表情を見せたが、すぐにうなずいた。
「彰人が君と出会ってから、人が変わったんだよ。
誰かのために生きようって、そんな強さが見えてた。
その続きを、君が歩くなら、俺も手伝いたい。」
陽菜の胸に、確かなものが灯った。
これは“喪失を乗り越える物語”ではなく、“誰かの夢を引き継ぐ物語”になる。
そして、彼女自身が自分の道を見つけていく——そんな新しい章の始まりだった。
■次なる一歩
プロジェクトの資料をまとめ、施設への連絡を始めた。
最初は戸惑いもあったが、悠が間に入ってくれたことで話は少しずつ前に進み始めた。
陽菜の中で、「生きる」という感覚がゆっくりと確かな形になっていった。
夜。
書斎の机に残された彰人の写真に向かって、そっと話しかける。
「あなたが見たかった景色、私がちゃんと見るからね。」
その瞬間、窓の外で雪が静かに降り始めた。
けれど不思議と、冷たさは感じなかった。
むしろ、心の奥が、ほんのりと温かくなっていた。
灯-第五章-〜ちいさな声〜
第5章:ちいさな声
陽菜は、初めて訪れる児童養護施設「みずいろの家」の前で、深呼吸をした。
古びたレンガの壁に囲まれたその建物は、どこか懐かしい匂いがした。
悠が紹介してくれた施設長・間宮(まみや)は、50代半ばの女性で、柔らかな笑みを浮かべていた。
「彰人くんが来てくれていたのは、もう1年半ほど前ですね。
最初は“怪しい若い男”って思ったのよ。子どもたちには警戒心も強くてね。」
陽菜は苦笑した。
彰人らしい、無計画で真っ直ぐな行動だ。
「でもね、彼、子どもたちの名前を一人ひとり覚えてたのよ。誰よりも早く。」
案内されたホールには、小さな椅子と、折り紙で飾られた壁。
絵本が並ぶ棚。そのどれもが手作りのあたたかさに満ちていた。
「彼のプロジェクトの続きを、ぜひあなたにお願いしたいと思っています。」
間宮の言葉に、陽菜は小さくうなずいた。
■出会い:少年「レン」
創作教室の第一日目。
陽菜は緊張しながらも、準備した絵本と画材をテーブルに並べた。
子どもたちがぞろぞろと入ってくる。好奇心いっぱいの目。
中には興味なさそうにふてくされている子もいる。
そんな中、ひときわ静かに、部屋の隅に座る少年がいた。
他の子と話さず、じっと床を見つめている。
「彼は、蓮(れん)くん。小学5年生。
ここに来てまだ半年です。」
と、間宮が小声で教えてくれた。
陽菜は、そっと彼のそばにしゃがんだ。
「こんにちは。蓮くん、絵は好き?」
彼は何も答えなかった。だが、陽菜の手元にあった色鉛筆をちらりと見た。
「好きな色、ある?」
沈黙。……そして、かすかな声。
「……黒。」
「そっか。黒も、すごく大事な色だよね。影を描くとき、なくちゃ困る。」
蓮の指が、わずかに動いた。
陽菜は、それだけで十分だと思った。
■彼が遺したもの
教室の後、蓮が帰ったあとに、間宮が一枚の紙を渡してきた。
「これ、彼が持っていたんです。施設に来た時、荷物の中に入ってました。」
そこには、色あせたスケッチブックの1ページ。
描かれていたのは、やや稚拙だが、優しい目をした男の人の横顔。
「……彰人?」
「きっと、そうでしょうね。蓮くん、彰人くんに懐いてたんです。
でも突然来なくなって、ずっと何も話さなくなってしまった。」
陽菜はページをなぞった。
自分だけではない。
この子もまた、同じ“喪失”を抱えていたのだ。
——彰人は、生きていた。
彼の存在は、確かに誰かの心に今も残っている。
そして陽菜は、ようやく本当の意味で気づいた。
自分が受け取った“灯”を、今度は誰かに渡す番なんだと。
■再び歩き出す
その日の帰り道、雪がちらついていた。
陽菜は蓮の描いた絵をそっと鞄に入れながら、空を見上げた。
雲の向こうに、淡い光がにじんでいた。
「蓮くん。明日も、来てくれるかな。」
その言葉は、誰にともなく口をついた。
でもきっと、空の上の彼にも届いている気がした。
灯-第六章-〜光の種〜
第6章:光の種
陽菜が「みずいろの家」に通うようになって、三週間が経った。
毎週土曜日の創作教室には、最初は数人しか来なかったが、次第に子どもたちが集まるようになっていた。
絵を描く子、粘土をいじる子、おしゃべりだけして帰る子——それぞれが、それぞれのやり方で「表現」と向き合っていた。
その中心に、いつも黙って座っている蓮の姿があった。
■蓮の変化
蓮は多くを語らない少年だった。
教室でもほとんど他の子と話さず、陽菜にも目を合わせようとはしなかった。
けれど、毎回必ず来た。
それだけで、陽菜には充分だった。
ある日、陽菜が絵本を読み聞かせしていたときのこと。
「“この世界には、見えないけれど、誰かの中に生き続ける光がある”……そう、物語は言います。」
その言葉を聞いた瞬間、蓮がふと顔を上げた。
ほんの一瞬だけ、目が合った。
その目の奥に、小さな波が立ったように見えた。
教室が終わったあと、蓮が陽菜の元へと歩み寄ってきた。
「……前に、あの人が言ってた。
“物語を描けば、心の中が整理できる”って。」
「……“あの人”って?」
「……彰人先生。」
陽菜は、胸の奥にあたたかい何かが流れ込んでくるのを感じた。
蓮は、小さく手帳を差し出した。
その中には、彼が描いた物語の断片があった。
登場人物は「ぼく」と「ひかりの人」。
ひかりの人は、暗闇の中でいつも微笑んでいて、でもある日突然、姿を消す。
それでも「ぼく」は、ひかりの人が残した種を拾って、大事に育てようとする。
陽菜はページをそっと閉じた。
「……蓮くん、それ、すごくすてきな物語だよ。」
蓮は少し照れたように俯いたが、小さな声で言った。
「……描きたい続きが、まだある。」
「じゃあ、一緒に描いていこうね。」
■ 彰人の夢の“続き”
その夜、陽菜は再び彰人のノートを読み返していた。
最初はプロジェクトの記録にしか見えなかったそのノート。
でも、ページの隅に、こんな走り書きを見つけた。
「子どもたちが自分の物語を描けるようになる日まで。
俺が灯すんじゃなくて、彼ら自身が火を起こせるように。」
その言葉に、陽菜はハッとした。
——自分が灯すのではない。
——渡すのは、火ではなく「火のつけ方」。
彼の真意は、「与えること」ではなく、「信じて任せること」だったのだ。
陽菜は蓮と子どもたちに、それを伝えていきたいと強く思った。
■ 光が見えるとき
次の創作教室、蓮が描いた続きを見せてくれた。
そこには、成長した「ぼく」が、自分の手で新しい灯をともす場面が描かれていた。
その火は、かつての「ひかりの人」と同じ形をしていた。
だけど、それは確かに「ぼく自身の火」だった。
陽菜は、涙が出そうになるのをぐっとこらえた。
「……蓮くん、それは、あなたの“物語”だね。」
蓮は、初めてしっかりと陽菜の目を見て、小さくうなずいた。
■ 夜の手紙
その晩、陽菜は久しぶりに彰人宛ての手紙を書いた。
声にはできない想いを、言葉に託して。
彰人へ
あなたの“ひかり”は、今、私の中にあります。
でも、私が持ち続けるものじゃないって、ようやく気づきました。
あなたが信じていた子どもたちも、
あなたが信じてくれた私も、
ちゃんと歩き始めています。
ありがとう。
そして——私、ちゃんと、生きていくよ。
灯-第七章-〜消えかけた灯〜
第7章:消えかけた灯
春の兆しが街に届き始めていた。
陽菜は、施設での創作教室を月2回の定期活動へと広げ、ついに「プロジェクトHIKARI」を正式に立ち上げる準備に入った。
悠の紹介で地元の小さなNPO法人にも協力してもらい、子どもたちの作品展を開く計画が進んでいた。
蓮の描く物語を中心に、数人の子どもが参加する絵本形式の冊子も作ることになった。
——彰人が見たかった“未来”。
それが少しずつ、形になってきていた。
■突然の打診
そんな中、施設長の間宮から呼び出しを受けた。
「陽菜さん、お話があります。」
応接室には、もう一人の男性がいた。
スーツ姿で、どこか事務的な空気をまとった男。彼の名は、神谷(かみや)。施設を監査・運営する市の委託職員だった。
「活動そのものには一定の評価があります。子どもたちも楽しみにしている。
しかし——」
神谷は言った。
「あなた個人が主導する形の継続は、難しいかもしれません。」
陽菜は一瞬、言葉を失った。
「……それは、なぜですか?」
「正式なNPO資格がない、運営体制が曖昧、記録や管理が手作業。
何より、“個人的な死者への想い”を基盤にしていることが、公的には不安定要素と見なされる可能性がある、との意見が出ています。」
間宮が口を挟んだ。
「現場を知らない言葉よ。
この子たちに必要なのは、形式ではなく“心”でしょう?」
だが、神谷は静かに返した。
「心では活動は守れません。支援は、継続できる形でなければならないのです。」
■陽菜の葛藤
その夜、陽菜はひとり、空っぽの教室に座っていた。
あたたかな未来が手に届きかけていたのに、突然その灯が風に消されそうになっていた。
蓮が残したスケッチブックを開く。
そこには、成長した「ぼく」が、小さな子どもに火を手渡している絵が描かれていた。
「……これは、私の役目でもあるはずなのに。」
心が揺れた。
——形式がなければ、守れないものもある。
——でも、形式に従えば、失われる“想い”もある。
彰人が大切にしていたのは、どちらだったのだろうか。
■ 悠の言葉
その夜、悠にすべてを打ち明けた。
彼は静かに話を聞いたあと、カップに注いだコーヒーを陽菜に差し出しながら言った。
「陽菜。君がこの活動を始めた理由って、なんだった?」
「……彰人の夢を、形にしたかったから。」
「それだけ?」
陽菜はしばらく黙った。
そして、小さく口を開いた。
「……気づいたの。
あの子たちに“物語を描くこと”を教えてるようで、
本当は私自身が——物語を描き直したかったんだって。」
悠は、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、それを守るために、変える部分があってもいいんじゃない?
形式だって、道具のひとつだよ。
“想い”を失わなければ、やり方を変えてもいい。」
その言葉が、深く心に染み渡った。
彰人もきっと、そう言ってくれる気がした。
■ひとつの決断
陽菜は翌日、市役所を訪れた。
そして、神谷の前で深く頭を下げた。
「プロジェクトを、正式な団体として申請します。
きちんとした書類を整え、体制をつくり直します。
でも、“物語を描く場所”としての本質だけは、どうか守らせてください。」
神谷は少し驚いたように目を見開いた。
「……わかりました。再審査に入れます。」
その瞬間、陽菜の中で何かが静かに燃え上がった。
彰人の夢は、
陽菜の意思として、
今、確かに「自分の足で立とうとしている」。
灯-第八章-〜灯の見える場所〜
第8章:灯の見える場所
団体名は「灯(ともり)プロジェクト」と名付けられた。
彰人の残した“ひかり”と、蓮が描いた物語の“火”——それらをつなぐ意味を込めて、陽菜自身が選んだ名前だった。
悠が事務局を手伝い、施設側とも調整を進めながら、陽菜は代表として奔走した。
活動記録の作成、助成金の申請、協力者探し——わからないことだらけだったが、不思議と怖くはなかった。
もう、ひとりではなかったからだ。
■子どもたちの準備
3月末、「灯プロジェクト」最初のイベント——**『わたしの物語展』**の開催が決定した。
場所は地元の図書館の小ホール。
子どもたちが自分の手で描いた絵、言葉、そして物語を展示する。
プロジェクトが目指していた「自分のストーリーを見つける場」だった。
準備が始まると、子どもたちはそれぞれのやり方で作品に向き合った。
「うちの猫を主人公にする!」「好きな色だけで描いてみる!」
——そして蓮もまた、静かに、自分の物語の続きを描いていた。
■蓮の告白
ある日、陽菜が蓮の原稿を覗くと、そこに描かれていたのは――
「ひかりの人が、いなくなったあとも、ぼくは歩いた。
途中で、いろんな大人に出会った。
でも、本当に火をくれたのは、“ひとりの女の人”だった。」
「……これ、私のこと?」
蓮は、言いにくそうに、でもどこか安心したように頷いた。
「彰人先生がいなくなったとき、世界が全部まっくらになった。
あのとき、怒ったり泣いたりできたらよかったのに……できなくて。」
「……うん。」
「でも、陽菜さんが来てくれて……それでもう一度、“物語”が描けると思った。
火がついた、って感じ。」
陽菜は、何も言えなかった。
言葉よりも、涙が先に頬を伝った。
失った人と、出会えた人。
その両方が、蓮の中に生きていた。
■静かな手紙
展覧会の直前、蓮が陽菜に一枚の紙を差し出した。
「……彰人先生に、手紙を書いた。」
「読む?」
蓮は首を振った。
「まだ、出せない。でも、描いたんだ。気持ち。」
陽菜は、その紙をそっと受け取った。
封は閉じられていた。開く気にはなれなかった。
「……じゃあ、会場のどこかに置こうか。誰にも読まれない場所に。」
蓮は、少しだけ微笑んだ。
■物語展、開幕
春の光が差し込む日曜日、
『わたしの物語展』は静かに始まった。
小さなスペースに並ぶ、子どもたちの絵や文章。
ぎこちない線、綴りの間違い、余白の多いページ——けれど、それはどれも“生きてきた証”だった。
蓮の物語は、会場の奥に飾られた。
大人たちが立ち止まり、読んで、時に静かに目を閉じた。
彼の名前は伏せられていた。
でも、見た人の心には、確かに届いていた。
■そして、未来へ
イベント終了後、陽菜は会場の片隅で、彰人の写真をポケットから取り出した。
小さな額に入れたその写真を、展示の片隅にそっと立てた。
「あなたの見たかった“灯”が、今ここにあります。」
すると、蓮が後ろからやってきて、封筒を持って言った。
「……今なら、読んでもいい気がする。」
陽菜は受け取った封筒をそっと開いた。
そこには、まっすぐな字で、こう書かれていた。
彰人先生へ
いなくなっても、いなくなったって思ってなかった。
だけど、火がついたとき、「ありがとう」って言いたくなった。
今は、ちょっとだけ、さびしくない。
だから、また描くよ。
ぼくの話。
いつか、それを誰かに渡せるように。
陽菜は微笑んだ。
それは、確かに未来に向かう言葉だった。
灯-最終章-〜灯し続けるもの〜
最終章:灯し続けるもの
春が過ぎ、夏の風が街を通り抜ける頃。
「灯プロジェクト」は、地域の図書館や学校、さらには他の児童施設からも声がかかるようになった。
子どもたちが描いた物語は、ページを離れて人の心に届き、
まるで静かな焚き火のように、広がりながら、周囲を少しずつあたためていた。
陽菜は忙しくなった日々の中で、ふと、自分の手帳にこう書き記していた。
“わたしは、誰かのために灯をともし、
やがてその灯を、そっと手渡す役割なのだと思う。”
■蓮の旅立ち
夏休み前、蓮が陽菜の元へ来て、小さな包みを差し出した。
「これ、陽菜さんに。」
開けると、そこには一冊の手製の絵本が入っていた。
タイトルは——『ぼくが火をともしつづける理由』
描かれていたのは、
「ひかりの人」が去ったあとも歩き続け、
やがて“誰かに火を渡す人”になる少年の物語だった。
「……すごいね、蓮くん。ここまで描けるなんて。」
「うん。……そろそろ、ここを出ることになったんだ。」
「……そう。」
蓮は小学6年生になっていた。
長くはなかったが濃密な時間を、陽菜とともに過ごした。
「新しい場所でも描きたい。
まだ全部終わってないから。」
「大丈夫。あなたの中に、もう“火のつけ方”はあるもの。」
蓮は静かに頷き、いつものように言葉少なく教室を出て行った。
でもその背中には、もう“迷い”の色はなかった。
■陽菜の物語
蓮を見送ったあと、陽菜はひとり、かつて彰人と暮らしていた部屋に立った。
長らく閉めていた引き出しの中から、古い日記を取り出す。
それは彼が亡くなる数ヶ月前まで綴っていた、断片的な言葉の集まりだった。
“陽菜は、自分のことを弱いって思ってる。
でも本当は、人の痛みに敏感すぎるだけだ。
その痛みを物語にできたら、きっと誰かを救う側になれる。”
陽菜は日記を抱えたまま、しばらくその場に座っていた。
涙は出なかった。ただ、深く、心が満たされていった。
「私の物語は……まだ、続いていいんだよね。」
そして彼女は、その夜、初めて自分の物語を書き始めた。
“愛する人を失い、でもその灯を受け継いだ女の話”を。
■数年後
「灯プロジェクト」は、地域に根付いた文化支援団体として成長していた。
創作教室は定期開催となり、出版した子どもたちの絵本が本屋に並ぶことも増えた。
そして陽菜は、自身の経験を綴ったエッセイ集を出版した。
タイトルは——『あなたが残してくれた火』
中には、蓮の手紙の一節や、彰人のノートから抜き出した言葉も添えられていた。
イベントの読み聞かせでは、
今では中学生になった蓮が、弟の手を引いて参加していた。
■エピローグ:夜の光
夜。
陽菜は、ひとりベランダで空を見上げていた。
かつて彰人と語った星の話。
未来なんて信じられなかった、あの頃。
でも今、ようやく信じられるようになった。
「あなたの“死”で終わったんじゃない。
私は、あなたの“生き方”を生き続けてる。」
そして静かに、胸の奥で小さくつぶやいた。
「わたしは、ちゃんと、生きてるよ。」
風がやさしく吹いた。
夜の空に、ひとつだけ光る星があった。
その光は、弱くとも確かに、そこに“灯って”いた。
──完──
灯完結です!リクエストありがとうございました!
灯-後日譚-〜陽菜のその後〜
おまけみたいなものです!
後日譚:陽菜のその後
■十年後の春
桜が咲く並木道を、陽菜は静かに歩いていた。
35歳になった彼女は、今も「灯プロジェクト」の代表を務めている。
かつての児童施設「みずいろの家」だけでなく、複数の地域と連携した「物語を描く教室」は全国へと広がっていた。
主催する物語フェスティバルには、かつて蓮のように支援を受けた若者たちがスタッフとして参加していた。
彼らの多くは、陽菜の手を離れ、それぞれの人生を歩んでいた。
■出版された“あの本”
陽菜が30歳のときに出版したエッセイ集『あなたが残してくれた火』は、小さな火のように読者の心を灯していった。
「人は、誰かの死をきっかけに、自分の“生き方”を選び直すことがある」
というメッセージに、多くの共感の声が寄せられた。
反響を受けて、数年後には映像化の話も持ち上がったが、陽菜はそっと断った。
「これは、私の私だけの物語だから。」
ただ、全国の教育現場や福祉施設で副読本として読まれるようになり、いつの間にか**“灯を渡す人”という言葉**が、小さな文化のように広がっていった。
■人とのつながり
悠とは、今でも変わらぬ距離感を保ったまま仕事を続けている。
ふたりは恋愛感情を越えて、人生の一部を共有する“同士”のような存在だった。
「家族にはならなかったけど、戦友にはなったね」と笑いながら話す関係だ。
一方で陽菜は、ある時期から、里親としての選択を考えるようになった。
血縁ではない子と人生を共有するという決断。
それは、彰人との日々、蓮との時間を経て、自然に湧き上がった想いだった。
数年の準備を経て、陽菜は10歳の少女・麻央(まお)を迎える。
無表情だった麻央が、初めて絵筆を手にした日、陽菜は思った。
——また、火が灯った、と。
■陽菜自身の「灯」
年月が経つにつれ、陽菜の表情は柔らかくなっていた。
かつては誰かの“死”に囚われていた彼女は、今では“生きている人たち”に目を向けている。
時に失敗し、迷いながらも、
「誰かの中の物語を信じる」という仕事に、自分のすべてを注いでいた。
そして夜。
麻央が眠ったあと、机の前に座った陽菜は、今もときどき新しい物語を書いている。
題名はまだない。
登場人物も決まっていない。
でも、ページの最初にはこう記されていた。
“これは、誰かの灯を受け取った一人の女が、
今、誰かに火を渡すまでの話。”
■そして、未来へ
「火は消えるものじゃない。
引き継がれるものだ。」
彰人がかつて口にした言葉が、陽菜の中ではもう信念になっていた。
彼の死は“終わり”ではなく、
陽菜の人生を“始め直す”ための扉だったのだと、今なら言える。
そして今日もまた、
彼女は誰かの心にそっと語りかける。
「——描いてごらん。あなたの物語を。」
◇ 完 ◇