夏の終わりの夕暮れは、どうしてこんなにも胸をざわつかせるのだろう。
蝉の声が遠ざかり、空は朱色から藍色へと染まりゆく。まるで、何か大事なものが手のひらからこぼれ落ちていくような——そんな気がして、僕は自転車をこぐ足を止めた。
風間 陽翔(かざま はると)、高校三年生。
文化祭の準備も終わりが見え始めた、八月の終わり。教室には、夏休み特有の気の抜けた空気と、どこか焦りを含んだざわめきが漂っていた。
「なあ、風間。文化祭、実行委員のリーダー任されてんだろ? ちゃんと飯、食ってんのか?」
隣の席の友達——小宮隼人が、いつものようにからかうように声をかけてきた。
「ああ、まあな。なんとかなってる」
気のない返事をしながらも、陽翔の視線は教室の隅にいる一人の女子生徒に向かっていた。
彼女の名前は橘 澪(たちばな みお)。
去年、転校してきた彼女は、どこか浮いていた。だけどその孤独を、誰よりも静かに抱えているような強さがあった。
そして陽翔は、知らず知らずのうちに、彼女に惹かれていた。
「ねえ、風間くん。今日、放課後……少しだけ、時間ある?」
その日、澪にそう声をかけられたのは、夏が本格的に終わる一日前だった——。
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目次
夏に現れたきみへ1
第一章「八月、教室の片隅で」
夏の終わりの風は、いつもどこか寂しい匂いがする。
教室の窓から差し込む光は、日に日に柔らかくなって、風間陽翔(かざま はると)の心にも影を落としていた。
高校三年、八月末。文化祭の準備で騒がしい教室の中、陽翔は一人、少し離れた机に座る少女を見つめていた。
橘 澪(たちばな みお)。
転校生として現れたのは去年の冬。声を張り上げるタイプではなく、どこか浮いていた。でも、それは孤独じゃなかった。むしろ、澪の静けさは、どこかで陽翔の胸を掴んで離さなかった。
「ねえ、風間くん。今日、放課後……少しだけ、時間ある?」
不意に聞こえたその声に、陽翔はわずかに肩を揺らした。振り返ると、教室の騒がしさの向こうで、彼女が微笑んでいた。
「……うん。あるよ。」
こうして、彼の“最後の夏”は、静かに動き出した——。
調子に乗って長編書きました。私はバカです!おかしいなぁー?明日はテストが控えてるのになぁああ????
夏に現れたきみへ2
第二章「秘密基地の夕暮れ」
夕焼けが落ちていく空の下、陽翔は澪に連れられて、学校の裏手にある林道を歩いていた。
誰も来ないような草むらを抜け、くぐるようにして辿り着いたその場所は、まるで時間から取り残されたような、不思議な静けさに包まれていた。
「ここ……誰にも言ってないんだ。風間くんになら、教えてもいいって思った」
秘密基地、と彼女は言った。
廃れた物置小屋と、そこから見える西の空。ひとけはないけれど、そこだけが色づいている。
陽翔は目を細めて、空を見上げた。
澪の横顔が、夕日を浴びて金色に染まっている。
澪はぽつりとつぶやいた。
「風間くんって、いつも誰かのこと、ちゃんと見てるよね。自分のことより、周りのことを気にしてるっていうか……」
陽翔は少し驚いて、でも笑ってみせた。
それは、“優しい人”の仮面だったのかもしれない。
本当は、自分なんかが誰かの幸せに触れていいのか、わからなかったから。
「俺さ……昔、親が事故で死んだんだ」
「俺の代わりに。……庇ったんだよね。俺がぼんやり道に出て、それで……」
風が一度、二人の間を吹き抜ける。
それでも、澪は何も言わずに、静かに彼の隣に腰を下ろした。
そして一言、こう言った。
「……私も、誰かの代わりに生きてる気がしてたよ」
沈黙が、二人の過去を包み込んでいく。
でもその沈黙は、なぜか、あたたかかった。
夏に現れたきみへ3
第3章「明日を知らない恋」
夕焼けの秘密基地の帰り道。
澪は、ずっと何かを言いたそうな目をしていた。
「風間くん、ねぇ、今って……幸せ?」
陽翔は少し驚いて立ち止まった。
「え? うん、まあ……そりゃ、こんなに夕日きれいで、澪といられるなら」
少し照れながら笑うと、澪は不意に彼の袖を掴んだ。
「……じゃあさ、これからも、私と“きれいなもの”をたくさん見に行ってくれる?」
陽翔の心が、ふっと熱くなる。
その声が、彼の胸の奥をまっすぐ撃ち抜いた。
「それって……告白、みたいなやつ?」
「うん……そう、だよ。私、風間くんのことが好き」
「全部忘れちゃってもいいってくらい、好き」
陽翔は一瞬、何かにひっかかるような違和感を感じた。
でもそれよりも先に、胸にこみ上げてきたものがあった。
「俺も、澪が好きだよ」
空が朱から紺へと染まりはじめた頃、
ふたりの影が静かに重なった。
——誰もいない道の真ん中で。
夏に現れたきみへ4
第4章「夏を焼きつけるように」
陽翔と澪が付き合い始めてから、教室の空気はほんの少し、柔らかくなった気がした。
文化祭の準備でざわつく日々。段ボールの山に囲まれながらも、澪は笑っていた。
少しずつ、陽翔の前でだけ見せる表情が増えてきた。
「……ねぇ風間くん。花火、見に行こうよ」
「最後の夏、いっしょに焼きつけよう」
陽翔はその言葉に、少しだけ引っかかりを覚えた。
“最後”という言い方が、どこか切なく響いたから。
花火大会の夜。澪は浴衣を着てやってきた。
金魚みたいな色の柄が、彼女に似合っていた。
陽翔の手を、そっと取る澪。
その小さな手が、かすかに震えていたことに気づいたのは、打ち上がる花火の音が鳴り止んだあとだった。
「……ねぇ、陽翔くん」
「もし、私のこと、全部忘れちゃっても……嫌いにならないでいてくれる?」
不自然なその言葉に、陽翔は冗談だと思って笑った。
でも澪の目は、どこか遠くを見ていた。
「嫌いになるわけないじゃん」
「俺の夏は、澪でできてるんだから」
そのとき澪は、ほんの一瞬、目を伏せて笑った。
そして翌日——
澪は“陽翔”という名前を、1度だけ言い間違えた。
夏に現れたきみへ5
第5章「空白のメモリー」
文化祭当日。
教室の一角に飾られた写真展示のパネルに、澪はじっと目を向けていた。
陽翔がふと呼びかける。
「澪。これ、昨日ふたりで撮ったやつ、もう貼られてるよ」
でも——澪は、ほんの数秒、その写真を見ても反応しなかった。
「……それ、わたしたち?」
その声に、陽翔は心臓を握り潰されたような痛みを覚えた。
その日、澪は舞台の出番を間違え、台詞を飛ばし、クラスの中で少し浮いていた。
誰も気づいていない。でも、陽翔だけは違った。
「最近、変なんだ。……“陽翔くん”って、言ってくれなくなった」
「“あなた”とか、“きみ”とか……名前を呼ばれることが減った気がする」
放課後。校舎裏で澪を呼び止めた陽翔は、堪えきれず問いかけた。
「澪……。俺のこと、ちゃんと……覚えてる?」
沈黙。
澪は、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……陽翔くんって、優しいね」
「……ごめんね、こんな私で」
涙が、澪の目の奥からにじみ出ていた。
「“忘れていく病気”なんだ、私」
「最初に消えるのは、“愛した人”のことなんだって……」
風が吹いて、夏の終わりを知らせていた。
夏に現れたきみへ6
病院の待合室。陽翔は、澪の母親に呼び止められていた。
「この子のことで、話しておきたいことがあるの。……澪の記憶の病気について」
医師から告げられた病名は、神経性の進行性記憶障害。
特定の感情や人物の記憶から優先的に失われていく、極めて稀な症例だった。
「愛情を抱いた記憶ほど、早く消えていくんですって」
陽翔は、息ができなくなるほどの苦しさに襲われた。
“好き”と言ったその日から、彼女の記憶はもう薄れていたのかもしれない。
夜の校舎、誰もいない教室で。
澪は窓の外をぼんやりと見ていた。
「風間くん……だっけ?」
その言葉に、陽翔は拳を握りしめながら、でも、声を震わせず言った。
「俺の名前は陽翔。風間陽翔」
「お前が“もう一度好きになる”って信じてる。……だから、何度だって名乗るよ」
澪は一瞬だけ目を伏せたあと、泣きながら笑った。
「……それ、ずるいね。……また、好きになっちゃうじゃん」
陽翔は澪の手を取り、もう一度言った。
「澪、好きだよ。たとえ“今日の私”に忘れられても、俺は、全部覚えてるから」
その言葉だけは、澪の胸にそっと届いていた。
その日から澪は、陽翔の名前を何度もノートに書くようになった。
“陽翔くんが私を好きだと言ってくれた”と。
——たとえ明日、それを忘れても。
夏に現れたきみへ7
第7章「きみのいない夏を」
八月最後の日。空は深い青に染まり、雲ひとつない。
澪は病室のベッドで静かに眠っていた。
陽翔は澪のそばで、彼女のノートを開いていた。
そこには、震える文字で何度も書かれていた。
「風間陽翔くん、好き。忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない」
何ページにもわたって、彼女の「好き」が綴られていた。
陽翔はそっと、その手を握った。
「俺はずっといるよ、澪。お前が全部忘れても、俺が全部覚えてる」
澪はうっすらと目を開け、微笑んだ。
「……陽翔、くん……」
それが、彼女が最後に呼んだ名前だった。
数日後。夏の終わりと共に、澪は静かに旅立った。
教室の机に置かれていた一冊のノートには、最後のページにこう書かれていた。
「陽翔くん。ありがとう。この夏は、ちゃんと、恋をしていました」
「私の中の記憶が消えても、この空の色に、あなたが重なって見えるなら、それでいいの」
陽翔は澪のいない日々を、澪がいたように生きていた。
秘密基地にもひとりで行った。あの日と同じ夕焼けが、空を染めていた。
「澪、今でもお前の声が聞こえる気がするよ」
彼は空を見上げながら、そっと目を閉じた。
最終章
最終章「青の記憶」(エピローグ)
白衣の胸ポケットに小さなペンを差しながら、陽翔は窓の外を見ていた。
夕焼けは、あの夏と同じ色をしていた。
彼は今、医師になっていた。
記憶を失った人、苦しむ人、見えない痛みを抱える人に寄り添う、そんな存在に。
ある日、研修医の一人に尋ねられる。
「風間先生。どうして医者を目指したんですか?」
陽翔は少し笑って、静かに語りはじめた。
「昔、大切な人がいました。彼女は記憶をなくしていく病気で……」
「“愛した人のこと”から、順番に忘れていく病気だったんです」
若い医師は言葉を失っていた。
陽翔は続ける。
「でもね、それでも彼女は、俺の名前を、何度もノートに書いてくれていたんです」
「覚えていようと、最後まで、あらがってくれた」
一瞬、陽翔の表情が遠くを見るように和らぐ。
「だから、俺は思ったんです。
“誰かの記憶の中に生き続けるような人間になりたい”って」
陽翔はその夜、病院の屋上にいた。
夕焼けに染まる空の下、ふと、あの秘密基地を思い出していた。
——そして、心の中で澪の声が、ふいに重なる。
「今でも、なぜあの時、関係のない人に秘密の場所を教えたのか。それはわからない。
けれど、きっと、あの時の俺は察していたんだろうなぁ…“忘れてしまう”って…。」
陽翔は空を見上げ、そっと目を閉じた。
青のように静かで、夏のように熱かった、あの季節を抱きしめるように。
「フゥ…さぁて、仕事に戻りますか(笑)」