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目次
虚心の住処
大学の中庭には、春になると決まって石楠花が咲いた。
白い花弁は厚く、触れると生き物の皮膚のような弾力があった。
僕はその花を、講義と講義の合間に眺めるのが好きだった。
何かを考えているふりをするには、ちょうどよかった。
僕にはふたつつの側面がある。
前者は、ゼミで真面目に発言し、レポートの締切を守る學徒の顔。
後者は、曖昧な笑顔で人の期待をかわし、肝心なところでは責任を引き受けない顔だ。
後者のほうが、らくだった。
彼女は同じ学部の後輩で、いつもノートを丁寧に取る癖のある人は、
僕を誠実だと思っていたらしい。
相談に乗り、夜遅くまでメッセージを返し、未来の話をする。
そのどれもが、嘘ではなかった。でも、真実ではなかった。
「先輩は、ちゃんと悩む人ですよね」
そう言われたとき、胸の奥で何かが小さく笑った。
ある晩、図書館の閉館を知らせる音楽が流れる中で、僕は不意に思った。
「これは誰の人生だろう」と。彼女の期待か、僕の怠惰か。
答えが出る前に、僕は「忙しくなるから」と言って距離を置いた。
理由としては、十分だった。
その夜、夢を見た。講義室の最後列に、黒い外套を着た人物が座っている。
顔は見えない。ただ、こちらを見ているのが分かった。
「楽な方を選んだね」
低い声がした。責める調子ではなかった。それが、何よりも恐ろしかった。
翌朝、中庭の石楠花は昨日と同じように咲いていた。
何も変わらない。変わったのは、僕だけだ。
彼女からの連絡は来なくなり、代わりに胸の奥に、説明のつかない静けさが住みついた。
不誠実は、大きな罪の形をして現れない。
ただ、選ばなかった方の人生として、後からそっと現れる。
その影に名前を与えるなら、人はそれを「悪魔」と呼ぶのだろう。
今日も僕は中庭を通り過ぎる。
普段とは違い、石楠花を見ないようにしながら。
或る間
余がその町に滞在せしは、暦にして三月に満たざりき。
海に近き低地にあり、昼なお薄暗く、朝夕の別も曖昧なる処なり。
人は多く語らず、語るときも声を潜め、
己が言葉に責任を負はぬやうな面持ちをしてゐたり。
余は官の命により医書を調べ、暇を見ては市中を歩きたり。
ある夕刻、石畳の小路にて、一人の男とすれ違ひしが、その瞬間、妙なる感覚に捉へられたり。
人と交錯する際、通常は互ひの存在を確かめる一瞬の抵抗を覚ゆるものなれど、
その男にはそれがなかりき。
影を踏んだか、霧を抜けたか、判断のつかぬまま、余は思はず振り返れり。
男は立ち止まり、こちらを見たり。
年の頃は三十前後、衣は質素、腰には古びた鞘を帯びゐたり。
目のみ不思議に澄み、静かなる水底のやうな深さを宿せり。
「先生、何か」
然れど、古き書を読むが如き調子あり。
「いや、人違ひかと思ひて」
男は小さく首を振り、
「人は、違ふと思ふときほど、近づきてゐるものです」
それきり、男は去りぬ。余はその言葉を、その夜、幾度も反芻せり。
翌日より、町に奇妙なる噂立ち始めたり。
夜盗が捕らはれずして姿を消したり、賭場の争ひが血を見ずに終はりたり、
剣を抜いた者が、何故か己が刃を納めて帰りたり。
いづれも理由は語られず、ただ「そうなった」とのみ人は言へり。
三日目の夜、余は再び彼に会ひたり。
河岸の倉庫跡にて、月も出でず、霧の濃き刻なり。
彼は一人、何もなき空を相手に、静かに足を運び、身を翻し、鞘を払ひてゐたり。
その動き、舞の如くなれど、刃の気配は明らかに人を制するものなり。
「見られましたか」
いつの間にか、声を掛けられたり。
「修練か」
「必要なことです」
彼は剣を納め、余の方を向けり。
「先生は、物語を信じますか」
余は一瞬、答へに迷ひたり。
「信じるとは、事実と認むることか。それとも、意味を認めることか」
彼は僅かに笑ひ、
「先生は既に、半ばこちらに足を踏み入れてゐる」
そして、語り始めたり。
世には流れあり、人はそれに沿ひて生きる。
善も悪も、勝ちも負けも、予め形を与へられ、人はその中で役を振られる。
然れど、時にその流れは濁り、筋は歪む。
その歪みが人を不幸にする時、誰かが内より手を入れねばならぬ。
「外から正す者は多い。されど、内に入り、触れ、直す者は少ない」
「君は、その役を担ふのか」
「役といふ言葉は、近いが違ふ。余はただ、書かれた行の間にゐるだけです」
その言葉を聞きしとき、余は奇妙なる寒気を覚えたり。
彼は己を英雄とも裁定者とも言はず、ただ「間にゐる」と言へり。
その立ち位置こそ、最も孤独なるものにあらずや。
「では、君自身は誰に読まれる」
彼はしばし沈黙し、霧の向かうを見たり。
「それを知れば、消える」
その夜を最後に、彼は姿を現さざりき。
町は再び平穏を装ひ、人々は噂を忘れ、日々を生きたり。
余のみが、あの霧の夜の手応へを忘れ得ずにゐる。
今、余はこれを書し、机に向かふ。
筆を進めるほどに、一つの疑念深まる。
彼が言ひし「間」とは、果たして彼だけのものなりしか。
書く者と、書かるる者、その境に立つ存在は、常に読者の背後にも忍び寄る。
もし頁の行間に、微かな気配を覚えたなら、それは彼か、あるいは――
今まさにこれを記す余自身かも知れぬ。
一時間三千円
虐殺の映像を見た翌日だった。
駅前の雑居ビルの五階に、「悩み相談」とだけ書かれた紙が貼ってあった。
フォントは明朝体で、少し傾いている。
誰が貼ったのか分からないところが、かえって信用できる気がした。
夜更け、眠れずに指先で画面を滑らせているうちに、偶然流れてきた動画だった。
砂埃の立つ街路、人の叫び声、銃声、編集はなく字幕もなかった。
誰が誰を殺しているのかも分からない。
ただ、人が倒れ、動かなくなる。それを、僕は最後まで見た。
画面を閉じても、胸は高鳴らなかったし、吐き気も、涙もない。
コーヒーを淹れ、シャワーを浴び、いつも通り歯を磨いた。
その一連の動作が、ひどく滑らかに続いたことが、後になって気になった。
何も感じなかった、というより、感じたという実感がなかった。
相談室の中は、思ったより狭かった。
机と椅子が一脚ずつ。窓はなく、壁は薄い灰色だった。
机の中央に、青い石が置かれている。光を吸い込むような色だった。
「ブルーダイヤモンドです」
向かいに座る男が言った。年齢はよく分からない。
声に癖がなく、こちらの言葉を待つのが上手な人だった。
僕は、昨夜のことを話した。
虐殺の映像を見たこと。
何も感じなかったこと。
それを異常だと思ったこと。
言葉にすると、出来事は急に小さくなった。
男は、途中で相槌を打つこともなく聞いていた。
「あなたは、その映像を見て、何を考えましたか」
少し考えてから、答えた。
「これは、本当に起きていることなのか、と」
「遠いからですよ」
「遠いから、かもしれません」
男は机の上のブルーダイヤモンドに指先で触れた。石は動かなかった。
「この石は、多くの人の手を渡ってきました。そのたびに、奪われ、争われ、死がありました。人はそれを|呪い《災い》と呼びました」
「|この石《ブルーダイヤモンド》が、人を殺したわけではないじゃないですか。」
「ええ。けれど、人は責任の置き場所を必要とする物です。」
僕は、石から目を離せなかった。深い青の中に、何かが沈んでいるように見えた。
「虐殺も、似ています。あまりに大きく、誰の責任か分からない。だから、人は数字にします。距離を取る。あなたが何も感じなかったのは、その距離が働いたからです」
「それは、逃げではないですか」
男は少し考えてから、首を横に振った。
「逃げる余地がないほど近づいた人は、壊れます。人は、一度に一人分の死しか抱えられない」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で、何かが静かに整った気がした。
安心ではない。ただ、納得に近い感覚だった。
「もし、この石を砕けば、一つの虐殺が止まるとしたら」
男が言った。
「あなたは、砕きますか」
「砕きます」
即答だった。理由は説明できなかった。
相談はそれで終わった。料金を払い、部屋を出る。廊下の蛍光灯が、少し眩しかった。
外に出ると、夕方の街はいつも通りだった。人は歩き、話し、笑っている。
どこかで、今日も人が殺されているのだろう。
それでも、きっと、この街も世間は動き続く。
ポケットに手を入れる。何も入っていない。
それでも、昨日より少しだけ、胸の重さが減っている気がした。
不感症は、冷酷さとよく似ている。
けれど同じではない。感じないのではなく、感じきれないのだと、僕は思う。
次に虐殺のニュースを見たとき、すべてを理解しようとはしない。
ただ、名前のない誰か一人を思い浮かべる。それだけでいい。それが一番楽だから。
ブルーダイヤモンドは、きっと今もあの机の引き出しにある。
石は変わらない。変わるのは、それを見る人間だけだ。
そして僕は、悩み相談の看板を振り返らず、駅へ向かって歩いた。
【探しています】
彼女が行方不明になったのは、春でも冬でもない、中途半端な季節だった。
ニュースになるほどのことではなく、学内の掲示板に紙が一枚貼られただけだ。
名前、学籍番号、最後に確認された場所。
どれも、彼女を知っている者にしか意味を持たない情報だった。
彼女は詩を書いていた。
同じ学部の後輩で、授業の後に研究棟の階段に座り込み、
ノートに何かを書きつけている姿を何度か見かけた。話したことは、ほとんどない。
ただ、一度だけ、コピー機の前で紙を落とした彼女に、それを拾って渡した。
そのとき、ノートの端に短い詩が書かれているのが見えた。
「一途であることは、刃物に似ている」
それだけの一行だった。
意味は分からなかったが、なぜか覚えていた。
行方不明になったあと、彼女の部屋からいくつかの詩が見つかったと噂で聞いた。
大学が管理しているアパートで、家具も少なく、生活感に乏しい部屋だったらしい。
詩はノートにまとめられていたわけではなく、紙片や、封筒の裏や、レシートの余白に書かれていたという。
一途、という言葉が、何度も出てきた。
誰かを想っていたのか、何かを信じていたのか。
それとも、ただ一つの言葉に固執していたのか。
読む者によって解釈が変わる、そういう詩だったらしい。
彼女と親しかったという学生が、ぽつりとこう言った。
「一途すぎる人でした」
それが褒め言葉なのか、警告なのか、分からなかった。
数日後、彼女の詩を集めたコピーが、研究室の机に置かれていた。
誰が用意したのかは知らない。タイトルも著者名もない。
僕はそれを、講義の合間に読むことになった。
そこに、あの一行があった。
「一途であることは、刃物に相手に向けているのと一緒だ」
「刺せば、相手を守ることも、壊すこともできる」
続きがあることを、初めて知った。
詩は、全体として静かだった。
激情も、絶望も、あからさまには書かれていない。
ただ、同じ対象を見続ける視線の疲労が、行間に溜まっていた。
逃げ道を自分で塞いでいくような、慎重さ。
読み終えたとき、僕は奇妙な感覚を覚えた。
彼女がいなくなった理由が、分かった気がしたのだ。
しかし、理解ではない。納得に近い錯覚だった。
一途であることは、美徳として語られる。
けれど、向きを失った一途さは、戻る場所を持たない。
彼女の詩は、そのことを丁寧に書き続けていた。
掲示板の紙は、いつの間にか剥がされていた。
見つかったのか、捜索が打ち切られたのか、誰も説明しなかった。
大学は、そういう場所だ。人が来て、人が消えても、年度は更新される。
僕は、彼女の詩のコピーを引き出しにしまった。
読み返すことは、もうしないと思った。けれど、捨てることもできなかった。
行方不明とは、不在の状態ではない。所在が分からない、という持続だ。
彼女は今も、どこかで詩を書いているかもしれないし、もう書いていないかもしれない。
そのどちらも、僕には同じ重さだった。
一途であることを、僕は選ばなかった。選ばなかったから、ここにいる。
彼女が選び続けたものが、どこへ行き着いたのかは分からない。
ただ、研究棟の階段を通るたびに、ノートに書かれた一行を思い出す。
刃物は、置いておくだけでも危険だ。
それでも人は、必要だと思うと、手に取ってしまう。
彼女はずっと行方不明。
そして僕はいまも、その事実を、|他人事《詩》のようにしか扱えないままだ。
春と雨
春もたけなわとなったある日、我が家に新しい家政婦が来た。
名を千代という。十八歳にも満たぬ若き少女であるが、目鼻立ち端正にして、
物静かな佇まいには何処かしら落ち着きを感じさせるものがあった。
母は喜び、父も「無用の騒ぎをせぬ者であらう」と評したが、
私には、その静かな振る舞いの裡に、ある種の謎めいた空気が漂っているように思われた。
千代は朝早くに起き、台所を整え、掃除に勤しむ。
だが、ただの勤勉さだけではない、何か内面の思索が顔に現れる瞬間がある。
例えば窓際に立ち、庭の花々を見遣る時の細い眉の動き、
あるいは箒を握る手にかすかに力の抜けた緊張を見て取る時などである。
私はその様子をひそかに見守りつつ、心の奥に微かな動揺を覚えるのであった。
ある日の午後、庭の梅の枝にひらひらと蝶が舞い降りた。
私は何気なく窓際に立ち、千代がその光景をじっと見詰めるのを目にした。
その時、彼女と私との間に言葉にせぬ交感のようなものが生まれた。
互いに視線を交わし、瞬間、胸の奥で何かが触れ合うのを感じる。
世間では花の咲く季節ごとに、流行の話題や風俗の移ろひが語られるものだが、
私には千代の仕草、千代の瞳の中にこそ、
世間の流行よりもはるかに確かな趣があると感ずるのだった。
我が家では、春の花見の支度が始まった。
隣家の令嬢が最新の洋服を纏って現れるなど、さまざまな流行が話題になった。
しかし、私はどうにも、そうした世間のざわめきに興味を覚えず、
ただ千代の手元や、窓辺で小鳥を見遣る姿に目を奪われていた。
両想ひというものは、必ずしも言葉で示されるものではない。
互いの呼吸の微妙な合致、心の裡に忍び寄る淡い情動こそが、
それを形作るのだと、私は知っていた。
ある晩、父が古い友人を招いた席で、千代が料理の配膳に回った時のこと。
私は、彼女がそっと微笑み、わずかに頷くのを見た。
その一瞬のやり取りが、私の心の中に長く残った。
世間の人々は、流行を追ひ、言葉を交わし、見た目の変化に心を動かす。
しかし、心の奥底で互いを思い合う気持ちは、誰も見えぬものだ。
千代も、私も、そして誰も語らぬこの感情は、
春の光の中でひそやかに育まれていた。
両想ひというものは、かくも静かに、しかし確かに存在するのか、
と改めて思ったのである。
数日後、雨が長く降り続いた。庭の花々はしおれ、風情も一変してしまった。
だが千代は黙々と働き、部屋の中に落ち着きをもたらした。
その働きぶりを見て、私はふと、人は互いに言葉を尽くさずとも、
ただそばにいるだけで心が通じるのだと実感した。
流行の服や言葉に心を奪われることなく、静かに互いを思うことこそ、
何より尊いとさえ思われた。
ある夕暮れ、私は窓際に座り、千代の影を壁に映して見た。
彼女もまた、私に気づいたのか、そっと視線を返す。
その瞬間、胸の奥で何かが震えた。
両想ひとは、世間の目には映らぬ、しかし確かに存在するもの。
流行の華やぎも、噂話も、すべては無用に思えるほどに、
静かな心の交感は強く、そして美しい。
私は心中で誓った。
いかなる流行にも惑わされず、いかなる外界の声にも耳を傾けず、
ただ千代と互いに見詰め合うこの日々を、大切に守ろう、と。
その思いは、言葉で語るよりも深く、静かに、しかし確かに、
私の心の奥底で燃えていたのである。
そして春は過ぎ、夏の足音が聞こえ始める頃、
千代と私は互いに微笑みを交わすだけの日々を重ねた。誰も知らぬ両想ひ。
しかし、それは世間の流行や時の移ろひに揺らぐことのない、
揺るぎなき感情であった。
千代の存在は、私にとって流行よりも価値あるもの、言葉よりも確かなもの、
そして日々の営みの中に息づく小さな幸福の象徴であった。
時の幻神
秋分を過ぎ、空気のやわらぎが町の隅々にまで行き渡った頃のことである。
私の通う旧制中学では年度の終わりに近いある日、
簡素な武術試合が催されるのが常であった。
名目は修養、実態は若者同士の力比べである。
剣道、柔道、果ては西洋由来の拳闘まで、雑多な格闘技が同じ土俵に並べられ、
観る者の好奇心を煽った。
私は元来、そうした荒々しい場を好まぬ性分であった。
血の気の多い同級生たちが拳を握り、声を荒げる様子を、
どこか遠い世界の出来事のように眺めていたのである。
その日も、校庭の片隅でぼんやりと枯れ木を見上げていた私の耳に、
低く、しかし異様に静かなざわめきが届いた。
人の声が、潮の引くように一斉に引いてゆく感覚。
私は自然と視線を向けた。
そこに立っていたのは、一人の少年であった。
名を、神原という。
年齢は我々と大差ないはずなのに、立ち姿だけが妙に古びて見える。
背筋は伸び、視線は伏せられ、
まるで自分の内側とだけ向き合っているかのようであった。
対峙する相手が踏み込んだ瞬間、
私の中で、時間の流れが狂った。
否、狂ったのではない。
伸びたのである。
拳が振るわれる。
衣擦れの音が、引き延ばされた糸のように耳に届く。
砂埃が舞い上がり、陽光を受けて宙に止まる。
時の流れが遅れたように沈み込んだ。
その只中で、神原だけが、静かに動いた。
最小限の身じろぎ。
しかし次の瞬間、相手は地に伏し、何が起きたのか理解できぬ顔で天を仰いでいた。
ざわめきが、遅れて戻ってくる。
誰かが息を呑み、誰かが名を呼ぶ。
だが神原は、勝利を誇るでもなく、敗者を見下ろすでもなく、
ただ一礼し、元の位置へと下がった。
私は、その姿に、言いようのない感覚を覚えた。
畏怖、と言えば近い。
だが恐怖ではない。むしろ、懐かしさに似た感情であった。
後日、私は偶然、神原と図書室で隣り合った。
彼は武術書ではなく、古い神話集を読んでいた。
黄ばんだ紙面に記された、現人神の文字が、私の目を引いた。
「信じているのかい、そういうものを」
思わず口にすると、彼は静かに頁を閉じ、微かに笑った。
「信じるというより、人がそう呼ばざるを得なかった存在が、確かにあったのだと思うだけだ」
その声は低く、しかし不思議と澄んでいた。
格闘技の場で見せたあの動きと同じく、余分なものが削ぎ落とされている。
彼は続けた。
「人は、極限の瞬間に、時間を越える。その時、力は個人のものではなくなる。昔の人は、それを神と呼んだ」
私は返す言葉を持たなかった。
だが、あの校庭で感じた時間の歪みが、
彼の言葉と静かに重なり合うのを覚えた。
それ以来、私は神原を意識するようになった。
彼が歩くと、周囲の空気がわずかに澄む。
彼が立ち止まると、音が一拍遅れる。
まるで世界が、彼の呼吸に合わせて調整されているかのようであった。
春が深まり、桜が散り始める頃、
再び試合の日が訪れた。
神原は決勝に立ち、観衆の期待と畏れを一身に集めていた。
その瞬間、またも時間が伸びた。
拳と拳が交わる刹那、
私は確信した。
彼は特別なのではない。
ただ、人が忘れてしまった感覚
時間と身体と心が完全に重なる地点を、
今も失わずにいるだけなのだ。
勝敗が決し、拍手が起こる。
だが神原は、静かに空を見上げていた。
そこには、神を演じる驕りも、
人を超えた自負もない。
現人神とは、
人の姿をした神ではなく、
人であることを、極限まで引き受けた者のことなのかもしれない。
春風が、校庭を抜けてゆく。
花びらが舞い、時間は再び元の速さに戻る。
しかし私の胸の奥には、
あの引き延ばされた一瞬が、今も確かに残っている。
それは流行の言葉でも、英雄譚でもない。
ただ静かに、人が人であることの深さを示す、
忘れがたい記憶として。
欠陥人間
大学のゼミ室は、昼過ぎなのに蛍光灯がついていた。
窓はあるが、カーテンは閉められている。
誰かが「眩しい」と言ったかららしい。
「君の態度は、反社会的だよ」
教授は、穏やかな声でそう言った。
怒っているわけではなかった。
事実を確認するような口調だった。
何に対して反社会的なのか、具体的な説明はなかった。
発言が少ないこと。
議論に積極的に参加しないこと。
飲み会に来ないこと。
それらをまとめて、反社会的と呼ぶらしかった。
「自覚はある?」
僕は、少し考えてから首を横に振った。
あるとも、ないとも言えなかった。
ゼミの帰り、同期の一人に声をかけられた。
彼は、いわゆる陽キャだった。
声が大きく、動きが多く、誰とでも距離を詰めるのが上手い。
「気にすんなよ。あの先生、ノリ重視だからさ」
彼は笑いながら言った。
その笑顔に、悪意はなかった。
「お前さ、もっと前出たほうがいいって。黙ってると、何考えてるか分かんないじゃん」
それは、何度も聞いた言葉だった。
分かってもらう努力をしないのは、怠慢なのだろうか。
僕は、社会性という言葉の輪郭を、うまく掴めずにいた。
昼食は一人で学食を出た。
人の多い場所にいると、思考が散らばる。
トレーを返す音、笑い声、椅子の軋み。
外に出ると、少し風が強かった。
スマートフォンを取り出し、無意識にニュースを開く。
特集記事の見出しに、「織田信長」という名前があった。
歴史ドラマの再放送が始まるらしい。
信長は、反社会的だったのだろうか。
少なくとも、当時の常識からは逸脱していたはずだ。
仏を焼き、権威を壊し、古い秩序を笑った。
それでも彼は、カリスマと呼ばれる。
破壊は、成功すると革新になる。
もし、信長が失敗していたら。
ただの危険人物として記録されたかもしれない。
その境界は、結果でしか測れない。
夜、サークルの飲み会があった。
断る理由を考えるのが面倒で、参加した。
居酒屋の個室は、熱気で満ちていた。
陽キャの彼が、中心にいた。
話題を振り、場を回し、全員を笑わせている。
その姿は、少し信長に似ていると思った。
常識を気にせず、思ったことを言い、
周囲を巻き込み、空気を作る。
「お前、静かだな。つまんない?」
冗談めかして言われた。
周りが一瞬、こちらを見る。
「聞くほうが好きなんだ」
そう答えると、彼は「あー、なるほど」と言って、すぐ話題を変えた。
救われた気がした。
同時に、逃げた気もした。
帰り道、駅まで一緒に歩く。
酔いが回っているのか、彼はやけに饒舌だった。
「信長ってさ、絶対陽キャだよな」
急に、そんなことを言い出した。
僕は、少し笑った。
「陰キャだったら、途中で殺されてるよな」
彼はそう言って、また笑った。
その笑いに、悪意はなかった。
ただ、世界の見方が違うだけだった。
家に帰り、シャワーを浴びる。
湯気の中で、教授の言葉を思い出す。
反社会的。
それは、社会からはみ出すことだ。
けれど、社会そのものが、いつも正しいわけではない。
信長は、社会を壊した。
陽キャは、社会を回す。
そして僕は、そのどちらにもなれない。
それは欠陥なのか。
それとも、役割なのか。
答えは出なかった。
ただ、無理に前へ出る必要はないと、今は思っている。
社会は、一枚岩ではない。
声の大きい者だけで、成り立っているわけでもない。
布団に入り、目を閉じる。
明日も、きっと同じように静かに過ごすだろう。
それを反社会的と呼ぶ人がいてもいい。
信長の時代にも、
記録に残らなかった無数の人間がいたはずだ。
彼らは、革命を起こさなかった。
ただ、生き延びた。
それだけで、十分だったのかもしれない。
三文役者
地方都市の駅前、ロータリーを囲むようにタクシーが並んでいる。
夜はまだ浅く、店の灯りも人の声も残っていた。
それなのに、僕の足取りはひどく遅かった。
父が倒れたのは、三日前だ。
脳梗塞だと医者は言った。命に別状はないが、右半身に麻痺が残るらしい。
その説明を聞いたとき、僕は安堵した。
そして、その安堵を恥じた。
病室で父は眠っていた。
白いシーツの中で、呼吸だけが規則正しく続いている。
僕は椅子に座り、何をすればいいか分からず、ただ時計を見ていた。
「親孝行は、できるうちにしなさい」
母が、看護師のいない隙を見て小さく言った。
その言葉は、昔から何度も聞かされてきた。
いつも同じ調子で、同じ重さで。
だから僕は、いつも曖昧にうなずいてきた。
できるうち、という言葉の意味を、本当は考えたことがなかった。
父は、僕に多くを語らない人だった。
高校を出てすぐ働き、特別な成功も失敗もない人生。
少なくとも、僕にはそう見えていた。
病室を出たあと、母と近くの喫茶店に入った。
古い店で、砂糖入れの蓋が少し欠けている。
「お父さんね、若い頃は俳優になりたかったのよ」
母は、コーヒーをかき混ぜながら言った。
その声は、思ったより軽かった。
「オーディションも受けたって」
「本当?」
僕は、思わず聞き返した。
父の顔と、俳優という言葉が、どうしても結びつかなかった。
「落ちてばかりだったけどね。でも、最後の一回は、かなりいいところまでいったらしいわ」
それは、母にとっても初めて聞く話だったらしい。
父は、家族にも話していなかった。
「それで?」
「それで、あなたが生まれた」
母は、少し笑った。
「夢を諦めて、現実を選んだ。よくある話よ。シンデレラストーリーの反対ね」
僕は、その言葉にうまく返事ができなかった。
成功しなかった人生は、物語にならないのだろうか。
語られなかっただけで、そこにも確かに時間は流れていたはずだ。
帰り道、タクシーに乗った。
運転手は無口で、ラジオだけが流れている。
僕は後部座席に深く座り、シートベルトを締めた。
カチリ、という音。
それは、子どもの頃から変わらない。
父は、シートベルトにうるさい人だった。
短い距離でも必ず締めろと言った。
面倒だと思いながら、僕は従っていた。
「事故は、予告なしに来るからな」
その口癖を、ふと思い出した。
タクシーは交差点で一度急ブレーキを踏んだ。
前の車が、無理に割り込んできたらしい。
身体が前に持っていかれ、シートベルトが胸を抑えた。
痛みはなかった。
ただ、確かに、守られた感触があった。
もし、締めていなかったら。
そんな仮定が、自然に浮かんだ。
成功した人生と、そうでない人生。
守られた身体と、放り出された身体。
その違いは、結果としてしか語られない。
家に着くと、留守番電話が光っていた。
病院からだった。
父が目を覚ましたという。
翌日、再び病室を訪ねると、父は目を開けていた。
言葉はまだはっきりしないが、僕の顔を見ると、少しだけ口角を上げた。
「……帰り、気をつけろ」
かすれた声だった。
それだけだった。
僕はうなずき、何か言おうとして、結局何も言えなかった。
ありがとうも、ごめんも、出てこなかった。
親孝行とは、何をすることなのだろう。
一緒に過ごす時間か。
感謝を言葉にすることか。
それとも、ただ、生き延びることか。
帰り道、駅へ向かって歩きながら考えた。
シンデレラストーリーは、魔法で人生が変わる話だ。
けれど、現実の人生は、変わらないまま続いていく部分の方が圧倒的に多い。
父の人生も、僕の人生も、きっとそうだ。
大きな拍手も、劇的な転換もない。
ただ、日々の中で、ベルトを締め、仕事をし、誰かを守ろうとする。
それは物語になりにくい。
けれど、無意味ではない。
改札を抜ける前、僕はスマートフォンを取り出し、母にメッセージを送った。
「明日も行くよ」と、それだけ。
親孝行には、名前がないのかもしれない。
気づいたときには、もう遅いことも多い。
それでも、シートベルトを締めるように、
できることを、黙ってやるしかないのだと、僕は思った。
駅のホームで電車を待ちながら、父の若い頃の顔を想像した。
夢を見て、落ちて、別の道を歩いた男の姿を。
それは、誰にも語られなかったシンデレラストーリーだ。
ガラスの靴は残らない。
けれど、確かに、そこにあった人生だ。
電車が来る。
僕は一歩前に出て、線の内側で立った。