東京の片隅にある小さな食堂「しろつめ草」。祖母の死をきっかけに、その店を継ぐことになった料理経験ゼロの主人公・千代田こはるは、戸惑いながらも、店に訪れる常連客の心に向き合い、料理を通じて少しずつ成長していく。
各話では、一つの料理と一人の客に焦点を当て、こはるが「心で作るレシピ」の意味を見つけていく連作形式。やがて、こはる自身の過去や母との確執、祖母が残した"最後のレシピ"の謎へと繋がっていく。
【主な登場人物】
●千代田こはる(27)
元OL。都会の生活に疲れていたところ、祖母の訃報とともに店を引き継ぐ。料理は素人だが、食べることは大好き。明るく素直な性格だが、少しだけ臆病。
●千代田ツヤ(享年75)
こはるの祖母で「しろつめ草」の創業者。地元では伝説の料理人。生前、こはると料理について深く語ることはなかったが、彼女の心にはいつも祖母の味が残っている。
●青山しのぶ(63)
祖母ツヤの時代からの常連。口うるさいが、誰よりもツヤの料理を愛していた。
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目次
🗝️🌙第一話 白ごはんとお味噌汁
東京・下町。朝の空気はまだ春の冷たさを含んでいたが、陽射しは柔らかく、路地の植木鉢に並ぶ菜の花がわずかに揺れている。
千代田こはるは、小さな鍵を手に立ち止まっていた。古びた木の扉。飾り気のない看板。かつて祖母が一人で営んでいた食堂、「しろつめ草」の前である。
鍵を差し込み、ゆっくりと回す。扉がぎいと音を立てて開くと、ふわりと漂ってきたのは、油と味噌と乾物の匂いが混ざった、どこか懐かしい匂いだった。
――何年ぶりだろう。ここに入るの。
そう思いながら、こはるは一歩足を踏み入れた。
店の中は、祖母が亡くなったあの日から、何も変わっていなかった。木製のカウンター、こぢんまりとしたテーブル席が二つ、小さなキッチン。壁には、古びたメニュー札が並んでいる。「焼き魚定食」「かぼちゃの煮物」「豚の生姜焼き」…すべて手書きだ。
亡くなる前、祖母は電話で「そろそろ店を畳もうかと思ってる」とぽつりと言っていた。こはるはその言葉に返す言葉も見つからなかった。都内の広告代理店に勤めて五年、日々の忙しさにかまけて、祖母はろくに会いにも行っていなかった。
訃報が届いたのは、それから数日後のことだった。店の常連客からの電話だった。祖母が突然、心臓の発作で倒れたという。
「おばあちゃん…。」
呟いて、カウンターに手を添える。ひんやりとした木の感触が、思い出を呼び起こす。
小さかった頃、夏休みのたびにこの店に来ては、祖母の作る味噌汁を何杯もおかわりした。湯気の中で笑う祖母の顔が、今もはっきりと思い出せる。
店を継ぐかどうか。迷わなかったと言えば嘘になる。料理経験は、家庭科の授業と、一人暮らしの簡単な自炊程度。だが、会社を辞めたいと思っていたのも本当だった。
「ここで、何かを始めたいんです。」
葬儀のあと、手続きを進める中で、そう伝えたとき、行政の担当者は少し驚いた顔をした。でも、「そういう若い人が増えてますよ」と言って、温かく背中を押してくれた。
そして今日が、その"何か"の始まりの日だった。
――でも、何から始めればいいの?
こはるはキッチンの前に立ち、冷蔵庫を開けた。中はほとんど空だったが、ふと、冷凍室の奥に、白い米袋と、味噌のパックを見つけた。米袋には祖母の文字で「秋田こまち」と書かれている。
――まずは、あれを作ろう。
こはるは静かに決意した。祖母の味噌汁。あの味から始めよう。
炊飯器に米を研いでセットし、出汁用の昆布を水に浸す。祖母がよくしていたように、手の甲で昆布の表面を撫でて、汚れを取る。
そのひとつひとつの動作が、記憶の中の祖母をなぞるようで、どこか安らぐ。
味噌汁の具は、冷蔵庫の野菜室に残っていた大根と油揚げ。それを切りながら、祖母の包丁捌きを思い出す。
「包丁は、音が教えてくれるんだよ。」
祖母の言葉がふと蘇る。トントントン、と、木のまな板に響く音が、こはるの緊張を少しずつほぐしていった。
やがて炊き上がったごはんと、湯気の立つ味噌汁を盆に乗せて、カウンターに座る。時計はまだ午前十時。客が来るには早すぎる。
誰もいない店内で、こはるは初めての「しろつめ草のまかない」を口に運んだ。
「…あ。」
言葉にならなかった。
味は、決して完璧じゃない。出汁が少し薄いし、大根も煮えきってない。でも、それでも…どこか懐かしい味がした。
――祖母の味噌汁には、やっぱ敵わないな。
そう思った瞬間、不意に涙が込み上げてきた。
「ごめんね、おばあちゃん…もっと早く、ここに来ればよかった」
箸を置いて、うつむいたこはるの頬に、ひとしずく、涙が落ちた。
「開いてる?」
突然、店の扉が開いて、声がかかった。
顔を上げると、入り口には一人の中年女性が立っていた。パーマ頭にエプロン姿。手には買い物袋を提げている。
「あ、あの、今日はまだ――」
「いいのいいの、ちょっと様子見に来ただけだから。」
女性はずかずかと中に入り、こはるの作った味噌汁を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「あんた、ツヤさんの孫娘だね?」
「はい…千代田こはると申します。」
「しのぶよ、青山しのぶ。ずっとここの常連だったのよ。」
名乗ると、しのぶはカウンターに座り、盆の上の味噌汁をじっと見つめた。
「味噌汁、作ったの?」
「はい、でも…まだ全然、うまくは…。」
「ふん。じゃ、ちょっともらってもいい?」
「え、あ、はい!」
こはるが慌てて味噌汁をよそうと、しのぶはすっと手を出した。
「その椀でいいのよ。あんたが飲んでたやつで。」
「えっ。」
「ツヤさんの孫の味なら、それが一番正しいんじゃない?」
そう言って、しのぶは湯気の立つ味噌汁を口に運んだ。
…しばしの沈黙。やがて、ふうっと息を吐いて、ぽつりと言った。
「…ツヤさんの味とは違うわね。でも」
しのぶは、ゆっくり笑った。
「悪くない。あんたの味も、嫌いじゃない。」
---
その日から、「しろつめ草」はゆっくりと再び歩き始めた。
白ごはんと味噌汁。たったそれだけの定食が、店の最初のメニューになった。
こはるは、まだ何もわからない。ただ、祖母が残してくれたこの場所で、自分なりの味を探していこうと、そう心に決めた。
"レシピは心でできている"
いつか祖母がぽつりと口にした言葉の意味を、彼女はこれから、料理とともに学んでいく。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
次回は「おにぎりにこめた言葉」。
亡き夫を思い、毎日同じおにぎりを買いにくる老婆。そこに秘められた想いと、こはるが挑む"初めての塩加減"。涙とぬくもりのおにぎり物語。
ぜひ読んでくださると嬉しいです。
🗝️🌙第二話 おにぎりに込めた言葉
春の朝は、どこか水の匂いがする。
こはるはその匂いを吸い込みながらも、軒先の暖簾をそっと揺らした。「しろつめ草」と墨字で書かれた祖母の手作り暖簾。昨日までにはなかったこの布は、隣に住む青山しのぶが持ってきてくれたのだ。
「アンタ、暖簾も出さずに何が店よ。まずは"やってます"の顔をしなさい。」
口は悪いが、ありがたい存在だった。祖母の代からの常連だという彼女は、こはるにとって初めての"味見役"であり、何より店の空気を保ってくれる人でもあった。
こはるは、昨日よりも少しだけ早起きして、炊き立てのごはんを鍋に移した。今日のメニューは、おにぎり。理由は単純だった。
――朝、夢を見た。おばあちゃんが、私におにぎりを握ってくれる夢。
「おにぎりなんて簡単そうで、実は一番難しいんだよ。」
夢の中で祖母はそう言って笑っていた。
その言葉が、なぜだか耳に残っていた。
午前十時半。まだ客の気配はない。暖簾越しに街の音がかすかに聞こえる。通りを行く自転車、犬の鳴き声、近所の豆腐屋のラッパ。
その音を聞きながら、こはるはキッチンの奥で、おにぎりの練習をしていた。具は二種類。梅干しと昆布の佃煮。
米は「秋田こまち」。少し水を減らして炊いたふっくら硬めのご飯に、手のひらでぎゅっと空気を含ませながら握っていく。
――あれ?なんか、いびつ?
こはるは眉をひそめた。おにぎりの形がどうにも不格好だ。まるで石ころのような、無骨な三角。思わずため息が出る。
――おばあちゃん、どつやってあんなに綺麗な形にしてたんだろう。
手を休めたとき、ガラガラと扉が開いた。
「あの…やってますか?」
細く、しかし確かな声。ふと顔を上げると、小柄な老婦人が立っていた。
「はい、どうぞ…!」
こはるが慌ててカウンターへ案内すると、老婦人はおずおずと席に着いた。白髪を丁寧に結い上げ、地味なグレーのコートに身を包んでいるが、その目は若々しく澄んでいた。
「何か、召し上がりますか?」
「できれば…おにぎり、ひとつ。」
「…おにぎり、ですね。梅と昆布、どちらがよろしいですか?」
老婦人は少し黙って、それから小さく口を開いた。
「昆布を、お願いします。できれば…ちょっと塩気が強めの。」
「はい、かしこまりました。」
こはるは緊張しながら、再びごはんに向かう。塩を指先に少し多めにつけて、昆布を中心にのせ、手早く三角にまとめた。形は…やはり不格好。でも、それなりに"おにぎり"には見える。
湯呑みにお茶を注ぎ、おにぎりを皿に乗せて、そっと老婦人の前に出す。
「お待たせしました。」
「ありがとう…。」
老婦人は、おにぎりを手に取った瞬間、目を閉じた。
「…懐かしいわ。」
そして、ひとくち。
噛む音が、空気にすっと溶ける。
「…塩加減、ちょうどいいわね。若い人が握ったにしては、ずいぶんと懐かしい味。」
「ありがとうございます。実は、今日初めて、ちゃんとおにぎり握ったんです。」
「まあ、そうなの?」
老婦人は微笑んだ。だがその目の奥に、どこか哀しみの色がにじんでいるように見えた。
「昔ね、夫が大の昆布好きだったの。あの人、口では何も言わなかったけど、私のおにぎりをいつも最後まで残して、じっくり味わってた。…その食べ方が何だか可愛らしくって。」
「ご主人、いまも…?」
「ええ。もう、十年も前に亡くしたの。毎週日曜日に、ここの近くの図書館に通っててね。その帰り道、必ずどこかのベンチで、私の握ったおにぎりを食べてた。」
こはるは、胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。
おにぎりが、ただのごはんの塊じゃないことを、初めて知ったような気がした。
「…それで、あなたも今朝、図書館の帰りに?」
「ええ。あの人が座っていたベンチの前を、今でもときどき歩くの。するとね、あの人の背中がそこに見える気がして…。それで、おにぎりが食べたくなったの。」
老婦人は、ふうと息を吐いた。
「…不思議ね。初めてのお店なのに、昔食べた味と、そっくりなの。」
「本当ですか?」
「ええ。なんていうのかしら…"丁寧"な味。」
こはるは、まるで誰かに褒められた子どものように、胸がじんとした。
料理の経験も、プロの腕もない。でも――気持ちは込めた。ちゃんと、美味しくなあれ、と願いながら握った。
それが、ちゃんと届いた気がした。
老婦人が帰ったあと、こはるは一人でキッチンに立ち、もう一つのおにぎり――梅を握った。
塩加減は控えめに。祖母がよくやっていたように、梅干しをほんの少し叩いてから入れる。
ひとくちかじると、すっぱさの奥に、炊き立てごはんの甘みが広がった。
「…やっぱり、おにぎりって奥深い。」
思わずこぼれた言葉に、厨房の壁にかけられた祖母の写真が、少しだけ微笑んでいるように見えた。
その日、店のメニュー表には、こう書き加えられた。
"「おにぎり定食(梅・昆布)――各250円」"
シンプルで、でも、きっと誰かの心に残る味。
"レシピは心でできている。"
その言葉が、少しずつ、形になり始めていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次回は「焼き魚と沈黙の父」。
突然現れた無口な男性客。その正体は、こはると長年会っていなかった実の父だった――。焼き魚に込められた、親子のわだかまりと、静かな和解の予感。
次回もご覧いただけると嬉しいです。
🗝️🌙第三話 焼き魚と沈黙の父
火曜日の午後は、どこか時間の流れが緩やかになる。昼を過ぎた「しろつめ草」には、いつものように静かな陽が差し込んでいた。
こはるは、カウンターの奥で魚の下処理をしていた。今日の仕入れで手に入れたのは、立派なサバ。塩焼きにすれば、きっといい香りが立つだろう。魚焼きグリルの前で、そっと身を返しながら、こはるはうっすら笑みを浮かべた。
魚を焼くのは、まだ慣れない。皮がすぐにくっつくし、火加減が難しい。でも、昨日の夜、しのぶから「ツヤさんはね、身が裂けても"香り"だけは逃がさなかったのよ」と言われ、その言葉を頼りに、今朝は思い切って塩を振り、下処理もきっちり行った。
すると、どうだろう。焼き網の上でサバの皮がパリッと音を立て、黄金色の脂がじゅうじゅうと滴っていく。
こはるは、その様子に小さく頷いた。
――よし、今日はうまくいくかもしれない。
そんなときだった。
「…やってますか?」
低く、抑えたような声が、扉の奥から聞こえた。
ふと振り返ると、ひとりの男が立っていた。背は高く、がっしりとした肩幅。薄いグレーの作業着服。顔は…どこか覚えがあるような、でも、思い出せない。
男は一言も発せず、カウンターに近づいてきた。
「い、いらっしゃいませ…どうぞ、お好きなお席に。」
こはるが声をかけても、男は黙って頷くだけだった。
彼はカウンターの端に腰を下ろし、メニュー表をじっと見つめていた。目元に深い皺。無精髭。年の頃は五十代半ば――だろうか。
「ええと…本日の日替わり定食は、焼きサバと、お味噌汁と、小鉢でして。」
そこで、男がようやく口を開いた。
「焼き魚、ひとつ。」
その言い方は、まるで"注文"というより"指示"のようだった。
「か、かしこまりました。」
こはるは慌ててグリルに戻り、魚を丁寧に取り出す。皿に盛り付け、小鉢には切り干し大根、味噌汁にはじゃがいもと玉ねぎ。いつもの、ささやかな献立。
彼の前にそれを並べたとき、男はしばし皿を見つめ、それから黙って箸を取った。
…静かな時間が流れる。
こはるは、その様子を見守りながら、胸の奥にわずかな違和感を感じていた。
――この人、誰かに似ている。いや、もっと言えば…
まさか、と思いながらも、心当たりはひとつしかなかった。
あの、写真の中の…若い頃の父。
こはるがまだ小学生だったころに離婚して以来、一度も会っていない父の面影が、男の表情の端々に浮かんでは消えていた。
「…塩加減は、悪くないな。」
男が、ぽつりと口を開いた。
「あ、ありがとうございます。」
「皮が、もう少しパリッとしてたら、もっと良かった。」
「あ…はい、すみません。」
反射的に謝ったあとで、こはるは自分でも驚いた。叱られたような気持ちになったのは、なぜだろう。言葉の端々に、懐かしさと共に、微かな痛みがあった。
男は無言で食事を続けた。箸の持ち方は不器用だが、丁寧だった。ごはんは残さず、味噌汁も最後まで啜った。
やがて、食べ終えると、ぽん、と箸を置いた。
「…ツヤさんの孫か?」
「え?」
「ここに来た理由。あんたが孫じゃなきゃ、こんなところ、今どき継がない。」
「…はい。千代田こはると申します。」
男は、深く頷いた。それから、立ち上がって、レジの前に立った。
「いくらだ?」
「日替わり定食、六百八十円です。」
男は財布から千円札を差し出した。受け取ってお釣りを渡すとき、彼はふと、こはるを見つめた。
「…悪くない。お前が作ったにしては、十分だった。」
「…?」
男は言葉を残し、ドアの向こうへと去っていった。
その背中を見送りながら、こはるの中で、確信が生まれていた。
――あれは、父だ。
---
夜、帳が降りる頃。青山しのぶが、店にふらりと顔を出した。
「お、今日は魚焼いたんだね。匂いがまだ残ってる。」
「はい。サバの塩焼きです。」
「ふうん。で、昼にちょっと怖い感じの男、来なかった?」
「えっ。」
「あたし、ちらっと見かけたのよ。あの顔…間違いない、あれはアンタのお父さんだわ。」
「やっぱり…。」
しのぶはカウンターに座り、お茶を一口飲んだあと、しみじみと呟いた。
「昔、ツヤさんから聞いたのよ。息子とはうまくいってないけど、料理を通じていつかまた…って。あんたが料理を始めたら、きっとあの人、ふらっと来るんじゃないかって。」
こはるは、しのぶの言葉を聞きながら、昼の男の顔を思い出していた。
無言で食べるその横顔。サバの皮を少しだけ残して、箸を置いたときの表情。あれは、確かに"家族の味"を探していた人の顔だった。
その夜、こはるは、もう一度サバを焼いた。
火加減に注意して、皮目からじっくりと。焼き上がりに、指でそっと皮を押さえてみる。ぱり、と小さな音が返ってきた。
ひとくち食べてみると、香ばしさと塩気が絶妙に広がった。
――もう一度、来てくれるだろうか。
その時は、ちゃんと話せるだろうか。
親子としてではなく、「この味、どうですか?」と、ひとりの料理人として。
窓の外に、春の夜風がそっと吹いていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
次回は『ハンバーグは恋の味』。
若い男女のカップルが初来店。口論を繰り返す二人にこはるが提供するのは、ふっくら柔らかなハンバーグ。愛を繋ぐ"やさしい肉のかたまり"が、ふたりの心を変えていく。
次回もぜひご覧ください。
🗝️🌙第四話 ハンバーグは恋の味
春の陽気がすっかり街を包み込み、空の青さが少しだけ濃くなった昼下がり。
「しろつめ草」の店先には、小さな鉢植えが並べられていた。色とりどりのビオラやマーガレット。通りすがりの客がふと足を止める、そんな優しい風景。
「…あんた、花なんか育てる余裕あったの?」
カウンターの向こうからしのぶが眉をひそめる。
「余裕は、ないんですけど。昨日、お花屋さんが"これ、おばあちゃんがよく買ってたの"って、譲ってくれて…。」
「ふーん。ツヤさんらしいね。花も、人も、無言で育てるタイプだったから。」
そう言って、しのぶは湯呑を手に取る。店内にはやわらかな湯気と、魚の匂いがまだかすかに残っていた。
こはるは、朝から考えていた。
今日は、何を作ろうか――と。
そんなときだった。カララン、とドアのベルが鳴った。
「ねぇ、だから言ったでしょ、こういう店って入るとこ間違えるとさ――」
「うるさいよ、ケンくん。こういうとこ、前から気になってたって言ったじゃん。」
やって来たのは、二十代半ばほどの若い男女のカップル。男はジーンズにパーカー、女は春らしいワンピースにデニムジャケット。だが、二人の間にはどこかピリピリとした空気が漂っていた。
「いらっしゃいませ。カウンターでも、テーブルでもどうぞ。」
「あー、テーブルで…。」
男がぶっきらぼうに答え、女は申し訳なさそうに頭を下げた。
こはるは、その様子を見て、なんとなく注文を聞く前から、決めていた。
「すみません、うち、メニューが手書きなんで…見づらくて。」
「あー…おすすめとか、あるんすか?」
男が面倒くさそうに聞く。
「今日は、手ごねハンバーグがあります。」
「ハンバーグかぁ…。」
「良かったじゃん、ケンくん。好きでしょ?」
「別に、普通…。」
その返事に、女がぴくりと眉を動かす。
「あの、ふたつ、お作りしましょうか?」
「…お願いします。」
女の方が先に答え、男はため息をついた。
こはるは笑顔で厨房へ下がったが、頭の中では――そっと、火加減と心加減を整えていた。
ハンバーグを作るとき、祖母はいつも言っていた。
「肉は、混ぜすぎると怒っちゃう。でも、気持ちがこもらなければ固まらない。」
柔らかすぎず、でも空気をたっぷり含ませる。玉ねぎを炒めて冷まし、パン粉と卵、塩コショウ。何より大事なのは"手のぬくもり"だと、祖母は口癖のように言っていた。
こはるは、ふたりの顔を思い浮かべながら、肉だねを手のひらでぽんぽんと打ち付ける。少しだけ、大きさを変える。彼のは、すこしがっしり。彼女のは、やや小ぶりでふんわりと。
焼き色がついたら、蓋をしてじっくり蒸し焼き。デミグラスソースも、手作りだ。トマトと赤ワイン、すりおろしにんにくを煮詰めて、バターで仕上げる。
やがて、ハンバーグはふっくらと膨らみ、甘く香ばしい匂いが店内を包み込んだ。
「お待たせしました。ハンバーグ定食です。」
運ばれた皿を見て、女の子の顔がぱっと明るくなった。
「わぁ…美味しそう。」
男は黙って箸を取り、ひとくち。女の子も、続いてナイフを入れ、肉汁がこぼれ出す様子に目を丸くした。
「…ん、うまっ。」
男が思わず漏らした言葉に、女の子は目を丸くして彼を見た。
「ケンくん、珍しいじゃん。ちゃんと感想言ってくれるなんて。」
「う、うるせーな…美味しいもんは、美味しいってだけだろ。」
どこか照れたように、顔を背ける。
その様子に、女の子は小さく笑った。
「ねえ、さっきはごめん。ちょっと…言い過ぎたかも。」
「…俺も。なんか、いろいろ焦ってさ。」
こはるは、厨房の奥からこっそり二人のやりとりを聞いていた。
言葉よりも、食べる時間の中に生まれる"空白"が、ふたりの距離をゆっくりと近づけていくのを感じた。
料理が、言葉の代わりになる瞬間。
――おばあちゃん、これって、そういうこと?
食事が終わった頃、彼女の方がレジにやってきた。
「ごちそうさまでした。すっごく美味しかったです。」
「ありがとうございます。よかったら、またどうぞ。」
「…はい、たぶん、また来ます。ね、ケンくん?」
後ろからやって来た彼は、少しだけ照れたように言った。
「ま、ハンバーグ食いたくなったらな。」
その言葉に、こはるは笑って答えた。
「次は、煮込みハンバーグ、作っておきますね。」
---
夜、まかない用に作った小さなハンバーグを口に運びながら、こはるはぼんやりと考えていた。
肉の塊なのに、なぜか人の気持ちを包むもの。それがハンバーグなんだろうか。
あのカップルの背中を見送りながら、こはるは、かつて祖母が言っていた言葉を思い出していた。
「料理は、恋にも似てる。ちょっと焦げるくらいがちょうどいい。」
その言葉に、ふっと笑みがこぼれた。
今日のハンバーグは、きっと"恋の味"。
心を包む、やさしい肉のかたまりだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次回は『かぼちゃの煮物と月の夜』
閉店間際に訪れた上品な老婦人。注文は一品、かぼちゃの煮物。こはるが記憶の中から再現したその味が、ひとりの母親と娘の記憶を静かに呼び覚ます――。
次回もお楽しみに。
🗝️🌙番外編 たまご焼きとささやかな日々
それは、特別な日ではなかった。
ただの、なんでもない平日の、なんでもない朝。
こはるは、早朝のキッチンで卵を割っていた。今日のまかない用――自分のための、たまご焼きだ。
卵を三つ。出汁を少し。塩と、ほんのわずかの砂糖。
火加減を確かめて、小鍋を温める。油を敷いたとき、鍋肌からふつりと湯気が立ち上った。
じゅう、と音を立てて卵液が流し込まれる。一呼吸ごとに、こはるの心が落ち着いていく。
たまご焼きを作るという行為は、なぜだか"自分の現在地"を確かめるようなものだ。
少し慌ただしかった日々、上手くいかない営業、思わず口喧嘩してしまった母との電話。いろいろな時間が、ゆっくり卵に染み込んでいく。
「…焦げないでよね。」
独り言のように呟きながら、こはるは箸で卵をくるくると巻く。
たまご焼きは、誰にとっても"我が家の味"がある。甘い派、しょっぱい派、出汁たっぷり派、焦げ目つき派――正解なんて、きっとない。
でもこはるは、いつも迷っていた。
祖母のたまご焼きは、出汁の香りが効いた、ほんのり甘め。口に入れると、しっとりとほどける優しい味。
――だけど私は、まだあの味を出せたことがない。
巻き終えたたまご焼きを切って、少し味見してみる。ふんわり、少し甘さが足りない。けれど悪くはない。
熱いお茶を淹れて、カウンターに一人で座る。静かな朝の、ささやかな食卓。
そのとき、ガラガラと音を立てて店の戸が開いた。
「おっと…やってるかい?」
現れたのは、新聞配達の帰りらしい年配の男性。スポーツ新聞を小脇に抱え、薄手のジャンパー姿で鼻を赤くしている。
「おはようございます。すみません、まだ開店前で…。」
「いや、構わない。食事じゃなくてね、ちょっと立ち寄っただけなんだ。実はこれ、ツヤさんに頼まれてたんだけど、もう渡せなくなっちまってな。」
そう言って、彼はポケットから小さな包みを差し出した。
「梅干しさ。あの人、俺の手作りが好きでね。"こはるに味見させな"って預かってたんだよ。半年以上前だけどな。」
「…ありがとうございます。」
包みの中には、小さなタッパーに詰められた自家製の梅干しが、きちんと並んでいた。
「このあいだ、あんたが握ったおにぎり。悪くなかったよ。」
にやりと笑って、男は手を振って帰っていった。
一粒の梅干しを、そっとつまんで口に入れてみる。
酸味のなかに、まろやかで深い味がある。祖母が好きだったのも頷ける味だ。
ふと思いついて、こはるは再び卵を取り出す。
今度は、祖母のレシピをまねて、出汁をしっかりきかせる。砂糖は多め。少しの醤油。そして、小さく刻んだ梅干しを中に忍ばせた。
――巻いて、巻いて、巻いて。
そうして出来上がった、少しだけ焦げ目のついたたまご焼き。
切ってみると、ほんのり赤い梅の粒が断面に覗いている。
ひとくち。
「…あ。」
それは、やさしい甘さのあとに、ほのかな酸味が追いかけてくる味。
どこか懐かしくて、でも自分の中から生まれた"新しい味"。
祖母のたまご焼きではない。でも、それでも――
「これが、今の私の味なんだな。」
そう呟くと、外の通りに、小学生の兄弟がランドセルを揺らしながら歩いていくのが見えた。
朝の町の風景。とりたてて、特別じゃない時間。
でも、そんな何気ない日々の中に、料理はそっと寄り添ってくれる。
たまご焼きは、心を巻く料理だ。
あたたくて、やわらかくて、ひとくちで思い出せる――だれかの優しさ。
"レシピは心でできている"
その言葉が、今日のたまご焼きの中で、ふわりと形になっていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回はコノンさんからリクエスト頂きました、"卵焼き"をテーマにお話を執筆しました。
次回は、『かぼちゃの煮物と月の夜』をお届けします。
お楽しみに。
🗝️🌙第五話 かぼちゃの煮物と月の夜
それは、ぽつりとした雨音の夜だった。
梅雨入りにはまだ早いが、春の終わりのこの時期は、空の気まぐれがよくある。
こはるは、いつものように厨房に立っていた。
この数ヶ月で包丁の扱いにも慣れ、今では切り物のリズムに合わせて鼻歌がこぼれるほどだ。
夕方の営業も終え、まかないの仕込みをしていると、玄関の引き戸がカララ、と音を立てて開いた。
「こんばんは…遅くにすまないね。」
そこに立っていたのは、小柄な老婦人だった。
白髪を丁寧にまとめた髪。グレーのショールを羽織り、雨に濡れた傘を小脇に抱えている。
店内にはもう客はおらず、看板も"準備中"にしていた。けれど、その人の佇まいはどこか懐かしく、こはるの心を静かに叩いた。
「こんばんは。もう営業は終わってしまっているんですが…。」
「ああ、知ってるよ。…でも、どうしても、あんたのところの煮物が食べたくてねぇ。」
そう言って、老婦人はやや遠慮がちに笑った。
「ツヤさんの煮物、忘れられなくてさ。…あのかぼちゃの甘さ、あたしの娘が好きだったんだよ。」
こはるの心に、祖母の面影がふっと浮かんだ。
「…少しで良ければ、お作りしますよ。」
「そうかい。ありがたいねぇ。」
---
厨房でこはるは、かぼちゃを切っていた。
かたい皮に包丁を入れるとき、ほんの少し手に力がこもる。
祖母の煮物の味――それは、甘くて、柔らかくて、口の中でほろほろと崩れる優しい味だった。
砂糖と醤油、みりんを少々。祖母が残してくれたメモ帳の端に、かろうじて読める配合があった。
でも、レシピだけではたどり着けない"味"がある。火の入れ加減、煮崩れしない時間、そして、なによりも"気持ち"。
鍋の蓋をして、火を弱める。ふと、店内に目をやると、老婦人は静かに窓の外を見ていた。
空には雲の切れ間から、満月が覗いていた。
「あの子がね、十五のときにね、夜空を見ながら"お母さんの煮物、月みたいな味がする"って言ったんだよ。」
「…月みたい、ですか?」
「あたたかくて、でも少し寂しくて。食べるとね、ほっとして、でも泣きたくなるような味。…あの子は、そんな風に言ってたよ。」
静かな声でそう語る老婦人の目には、すでき涙が滲んでいた。
こはるは鍋の蓋を開け、湯気に包まれた黄金色のかぼちゃをひとつ、箸で持ち上げた。形は崩れていない。匂いもよし。
そして、それを器に丁寧に盛り付ける。
「…ああ、やっぱり。ツヤさんの味が、するよ。」
老婦人は、かぼちゃをひとくち口に入れると、静かに目を閉じた。
「ありがとうね、こはるさん。あの子が亡くなって、もう十年になるけれど…この味を食べると、今も隣にいる気がするんだよ。」
その言葉に、こはるは思わず黙ってしまった。
料理とは、記憶だ。
ある味が、ある匂いが、ある日の景色を引き戻してくれる。
自分が作った料理が、誰かの"時間"を連れ戻すことができるなんて――
そんな奇跡のようなことが、本当にあるのだと、こはるは思った。
「ごちそうさまでした。また来ても、いいかい?」
「はい。いつでも、お待ちしています。」
老婦人が帰ったあとも、こはるはしばらく店内の灯りを消せなかった。
月の光が、かぼちゃの残り香に照らされて、やさしく揺れていた。
---
その夜、こはるは祖母のメモ帳を開いて、ページの端にこう書き添えた。
『かぼちゃの煮物――
甘く、やさしく、でもほんのすこし、さびしく。
月みたいな味にすること。』
その言葉の横に、小さな星印をつけて。
記憶の味は、きっとこれからも、生き続ける。
こはるの料理の中で、誰かの涙の中で――そして、誰かのやさしさの中で。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
次回はリクエストを頂いている"冬の鍋"をテーマにお届けします。
お楽しみに。
🗝️🌙番外編 冬のお鍋とふたりぶんの席
十二月、冬本番の冷たい風が吹き込む季節。
夜になると、商店街を歩く人々は肩をすぼめ、息を白くして足早に家路を急ぐ。
こはるの店「しろつめ草」も、年末に向けて少しずつ忙しくなっていた。
けれどその日、夜の営業は静かだった。
午後八時。客は誰もおらず、テレビの音だけがぽつりぽつりと店内に響いている。
「今日は鍋にしようかな…まかないで。」
独り言を呟きながら、こはるは冷蔵庫を開けた。
白菜、大根、にんじん、ねぎ、豆腐、そして鶏団子。冷蔵庫には少しだけ余っていた鱈もある。
鍋は、余った野菜を一気に使いきれる、冬の救世主。
祖母ツヤが生きていた頃、二人でよく囲んだ食卓を思い出す。
「"鍋はね、誰かと囲むもんなのよ"。…そう言ってたっけ。」
こはるは、静かに鍋の用意を始めた。土鍋に出汁を張り、野菜を丁寧に切り揃えて並べていく。
味付けは、醤油と酒に、少しの柚子胡椒。祖母が好んでいた配合だ。
そして火にかけたその時だった。
――カララッ。
引き戸の音がした。
見ると、扉の向こうに立っていたのは、見慣れた男性の姿。
「こんばんは、まだやってた?」
「岸本さん…いらっしゃい。今日は、閉めようかと思ってたところで。」
フリーカメラマンの岸本蒼一は、肩に雪を被っていた。
どうやら、天気予報どおりに雪が降りだしたらしい。
「そっか。…でも、その鍋、いい匂いがしてる。」
「まかないですよ。一人鍋ですけど。」
「二人鍋にしない?」
あっけらかんとした言い方に、こはるは一瞬、目を丸くした。
「…構いませんけど。ごはん、炊きますね。」
火にかけた土鍋の中で、白菜がふつふつと音を立て、湯気が二人の間をふわりと繋ぐ。
鍋というのは、不思議な料理だ。
作り手がいても、食べる瞬間には"皆で煮る"。その場で味が育ち、共有されていく。
箸を伸ばしながら、岸本がぽつりと言った。
「昔さ、仲間と冬山に撮影に行ったとき、夜は毎晩鍋だったんだよ。気温マイナス十度。外は氷の世界。だけど、鍋だけはあったかくてさ。」
「なんの鍋でした?」
「ありったけの缶詰を入れた闇鍋みたいなやつ。でも、どんなレストランの料理より、ずっと美味しかった。…誰かと一緒に食べるからなんだろうな。」
こはるは微笑んで、鶏団子をよそった。
「祖母も、似たようなこと言ってました。"鍋はひとりで食べると寒くなる。ふたりで食べると、心まであったかくなる"って。」
「ツヤさんらしい言葉だ。」
ふたりで笑い合うその空気もまた、冬の冷たさをどこか遠ざけてくれる。
箸が進み、やがて鍋は空になった。
「ごちそうさまでした。…なんどか、肩の力が抜けたよ。」
「それはよかったです。」
こはるは、空になった土鍋を見つめながら言った。
「鍋って、"大丈夫"って言ってるみたいですよね。野菜も、お肉も、お豆腐も…みんな同じ鍋の中で、ちゃんと煮えて、おいしくなってくれる。」
「そうだな。"お前もちゃんと大丈夫になるよ"って、言ってくれてるみたいだ。」
しばらく沈黙が流れた。けれど、それは決して気まずいものではない。
ふたりぶんの席。ひとつの鍋。
窓の外では、雪が音もなく降り続けている。
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その夜、こはるは祖母のメモ帳の端に、新しいレシピを記した。
『冬のお鍋――
余った野菜で、心も一緒に煮込むこと。
できれば、ひとり分ではなく、ふたり分以上で。
あったかい言葉と、湯気の中で。』
レシピの最後に、小さなハートのマークを添えて。
きっとまた、あの人が寒い夜にやってきたとき、ふたりぶんの鍋を作ろう。
そしてその鍋は、言葉にできない"ぬくもり"を伝えてくれるに違いない。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
リクエストを頂いていた『冬のお鍋』をテーマに執筆しました。書きながらすごくお鍋が食べたくなってきてしまいました…(笑)
次回は本編に戻り『クリームシチューの約束』をお届けします。こはるの店に現れた、幼い男の子と若い母親。寒い雨の日、熱々のクリームシチューが紡ぐ家族の物語です。
その後、リクエストを頂いています、『オムライス』を書きたいと思います。少しお待たせしてしまいますが、お楽しみに。