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目次
1話 オープニング
嗅覚に頼ってばかりいると、見落とすものがあるかもしれない。
そう考えてからのケイトの瞳孔は開きっぱなしだ。
目が乾く。ときどき立ち止まっては、まばたきをくり返す。涙がにじみ出てきた。
小型ライトを持っていないほうの手で雑に涙をぬぐい、ケイトはまた歩く。
ここはもう、ケイトが知っている場所ではない。ふだんは生徒が入れないところに、きっと侵入してしまっている。
それはつまり、隠し場所にはうってつけだ。
ケイトの歩みは止まらない。
「……」
無だったケイトの心に、ふと、疑問がわく。
──いま、何時だ?
歩みを止める時間が惜しいが、確認はしておきたい。窓の外を見るだけでは限界がある。
いったん立ち止まる。しまいっぱなしだったスマホを手に取る。画面をつける。
一時十五分。まだ余裕はある。けれど、タイムリミットは確実に近づいている。
ユニーク魔法で増やしたケイトたちからの合図はまだ来ない。先に見つけるのはオリジナルのケイトか、分身体のケイトたちか。
望みを叶えられるのなら、どちらでもいい。
ケイトはスマホをしまう。
また歩く。
しんと静まっている廊下を。空いている部屋の中を。隠し扉があるかもしれない角を。ひたすらに。
無心で、ひたすらに、くまなく探し続ける。
一時三十分。エースはまだ見つからない。
2話 デュースの告白
「実は、僕たち……お付き合い、してるんだ」
「いや、もうみんな気づいてるわ」
ポテトをつまんでいたエースの返答に、デュースは驚く。
まったく予想していなかったデュースとは反対に、「そうだろうな」とジャックは冷静だった。
重ねて驚いたデュースは、見開かれた目のまま、真横を見る。
「な!? ジャックは知ってたのか!? こいつらに気づかれてたことを!」
「だって二人とも、距離が近かったからね」
代わりに答えたのは、口に入れていたハンバーガーを飲み込んだエペルだ。
「ほら、いまだってジャッククン、デュースクンのすぐ隣にいる」
デュースは慌てながら言う。
「これは、僕たちが付き合ってることを、お前たちに明かすために」
「うん。今日だけじゃないよね。だから、気づくなと言われるほうが難しい……かな」
「そーそー。ベタベタくっついちゃってさあ。オレらだって最初はただの部活のノリかなーって思ったぜ? それか罰ゲーム」
エースに想いを疑われたジャックは吠える。
「罰じゃねえよ!」
「本気にすんな! いまは思ってねえよ! はーっ、これだから一途すぎるやつは。もっと余裕を持ったほうがいいんじゃねーの?」
呆れたようにエースは言い放った。広げた紙ナプキンの上でポテトの容器をひっくり返して、底に溜まっていたポテトをすべて出した。
短いものばかり残ったポテトの群れに、先に手を突っ込んだのはジャックだった。
真正面から堂々と奪われたエースはジャックをにらむ。
「あっ、テメー!」
「ふん。お前こそ、余裕を持って周りを見ろ」
小競り合いを始めそうな雰囲気の中。
「付き合っていることに気づかれていたことをすでに知っていた、ということは」
割り込んだのはセベクの声だ。
あと一口というところまで小さくなったハンバーガーを片手でつまみながら、セベクは続けて言う。
「いわゆる、その……」
しかし、声はすぐに途絶えた。
しびれを切らしたジャックは急かす。
「なんだ。はっきり言え」
「ぐ……! その、だな……!」
「セベク、体調が悪いのか? 顔が赤いぞ」
「デュースクンは黙ってて」
セベクが何を言いたいのか、エースは察してしまった。
見守ること、数秒。セベクは意を決する。
「いわゆる『牽制』というやつか!?」
「声がでけぇ!!」
ジャックは耳を伏せながら叫んだ。
「もう、二人とも。大声を出さないで」
静観していたオルトは注意しながら、二人にジュースを差し出した。遠回しに、黙って、と言っている。
「ここは、お店の中なんだからね。迷惑行為、ダメ、絶対」
──そうだ。ここは、いつも集まっていた、あの場所じゃない。
──誰でも入れる、ただの飲食店だ。
顔がわずかに固まったエースに、友人たちは気づかない。他の客たちに注がれる視線に目を向けて、気まずそうに頭を下げていた。
いち早く気を取り直したエペルは、視線を友人たちに戻す。残り一口のハンバーガーをパクリと食べたセベクに問いかける。
「ええと、ケンセイって、あの牽制、だよね。勝手なことをさせないって意味の」
差し出されたジュースを飲もうとしていたセベクが、ぎくりと止まる。声量を落として、しかし顔はまだほんのり赤らめたまま「そうだ」と答えた。
「僕もシルバーも、他の従者たちも、よくやっていることだ。若様のそばに常に付き従い、危険人物を近づけさせない」
「ああ、だから『牽制』」
「え? どういうことだ?」
理解したエペルたちをよそに、デュースだけがまだ理解していない。
オルトが答える。
「ジャック・ハウルさんは、デュース・スペードさんにずっとくっついて、危険な人を近づけさせないようにしている、ということだよ」
「んん……?」
「つーまーりー」
エースはからかいの表情を貼り付けながら、デュースに言う。
「ジャックはお前がめちゃくちゃ好きだから、誰にも取られないように、ずーっと、一緒に、いるんだよ」
ポカンと口を開けるデュース。首からつむじに向かって、じわじわと赤くなっていく。
いつのまにか、ジャックの顔も赤い。
うぶな二人を見て、逆にセベクは照れから抜け出したようだ。顔色が元に戻っている。
「僕はどうかしていたようだ。若様への敬愛を、お前たちの恋愛と同一視していたとは」
つまり、マレウスを敬う自分の心を、ただの恋愛と同じ扱いをしてしまったことに、恥じていただけなのだと言いたいようだ。
エースは小さな怒りを覚える。
友人同士の恋愛を感じて、純粋に照れていたことを、よほど認めたくないらしい。
セベクをつつきたくなった。
「いや、お前はただ単に、よその恋愛にあてられただけだろ」
セベクは反論する。
「違う!! 若様と関係ないことに心を乱されるなど、ましてや、て、照れるなど、ありえん!!」
「ああ、悪い悪い。ピュアピュアセベクくんには刺激が強すぎたかなー?」
「貴様あ!! そこになおれ!!」
「えー? どう『なおれ』って? オレもうイスに座ってんだけど? まさか地べたに座れ、なんて言わねえよなあ? 店ん中でそんなことしたら、すげー迷惑だってわかんねえの?」
「わ、わかるに決まってるだろう!?」
見かねたエペルが仲裁する。
「セベククン、あきらめようよ。エースクンに口げんかで勝てるわけない、かな」
「しかしだな……!」
なおも言い募ろうとするセベクから目を離したエペルは、セベクを止めてもらおうと、残りの三人を見る。
「デュースクンたちも、セベククンたちを……」
止めて、と言いかけた口は、それ以上動かなかった。
デュースが目を輝かせながら、ジャックの手を取っているところを、見てしまったからだ。
「すまなかった、ジャック! お前の真心に気づけなくて!」
「いや、それは、別に」
「僕もお前が大好きだ! 危険なことがあったら言ってくれ! 必ず守る! これからも一緒にいよう!」
「わかった。わかったから……!」
一方的な口げんかを続けているコンビと、一方的な告白を続けているカップル。
エペルは遠い目をする。
「こいつらめんどぐせ」
そして二組の声量は大きかった。
「規定値を超える音量を確認。ただちに退店することを推奨します」
オルトの警告を受けた五人。そのうちの四人の声がピタリと止まる。
ようやく過ちに気づけたようだ。
顔をしかめている客たちの視線をまばらに受けながら、五人は急いで残りをたいらげていく。
もともと残りが少なかったおかげで、食べきるのに十秒もかからなかった。だが一人ずつ会計を済ませていたせいで、トータルでは遅い退店となった。
近くの広場に移動する一同。オルトはエペルを除く四人をしかる。
「もう! 騒いだらダメって言ったのに!」
「だって、なあ……」
エースは続きを言いかけて、やめた。
この先を言いたくなくなったからだ。
なのにデュースが続きを言う。
「オンボロ寮にいたときのクセで、つい声が出てしまうんだ」
オンボロ寮は閉鎖されていて、もう誰も入れない。集まれない。
家主たちがいないからだ。
全員、口をつぐむ。
──こうなるから、言いたくなかったのに。
重くなった空気を払うかのように、エースは明るい声を出す。
「やめやめ、しめっぽいのは! こんなんじゃあ、あいつらに笑われちまうぞ!」
エペルは苦しそうに、けれど笑う。
「そう、かな。……うん。そうだね」
ジャックとオルトとセベクが続く。
「あいつら、いい性格してるからな。笑うどころか、煽ってきそうだ」
「うん! きっと元気でやってるよ!」
「特にあの人間! あちらの世界でも、若様の素晴らしさを伝えているに違いない!!」
「それはない」
エースはつい突っ込んだ。
暗い顔をしていたデュースは、前向きな友人たちの姿を見て、次第に明るくなっていく。
「監督生とグリムがいなくなっても、僕たちの絆は消えない、ということだな!」
くさいセリフだなと、エースは思う。
そして、そうであってほしいとも思う。
監督生は異世界に帰っていった。
相棒を失ったグリムはどこかに旅立っていった。
エースたちは変わらず学園に在籍している。
まるで最初から監督生とグリムがいなかったかのように、世界は回り続けている。
それでも、彼らがいた事実は消えていない。確かにエースたちの中に根付いている。
デュースがジャックに近寄る。ジャックは当然、受け入れる。
やわらかい笑顔で、二人は見つめ合っている。
監督生とグリムを思い出しているのだろう。そして、自分たちが同じ地に存在していることに、感謝しているのだろう。
エースの心の孤独に気づかずに。
──お前らはいいよな。そばにいられて。
──オレはもう、監督生に会えないのに。
──どうしてオレは、監督生に恋をしてしまったんだ。
デュースとジャックの距離が近いのは、ただの部活のノリで、罰ゲームであってほしかった。付き合っていることに、気づきたくなかった。
嫉妬で、おかしくなってしまいそうだ。
それでもエースは二人を祝福する。
もう叶わない自分の恋心を、ひた隠しにしながら。
3話 エースが見た夢
デュースとジャックの交際が明かされた日の夜。エースは夢を見た。
監督生がまだオンボロ寮にいた頃。
エースが監督生に恋をした日を、再現したものだった。
---
あれは休日の朝だった。オンボロ寮に遊びに行き、談話室の扉を開いた、あの光景。
朝日が差す窓に背を向けて、監督生は筆を持ちながらキャンバスに向かい、絵を描いていた。
音を立てて扉を開けたのに、監督生はエースを見ない。気づいていないのか、無視をしているのか。エースには判断がつかない。
エースは監督生に近づき、絵を覗く。
ピンク色が占めている絵は、色だけを見れば、フラミンゴ当番が着る服を思い出させる。けれど、りんかくは服の形をしていない。花弁のように見えた。
エースは問いかける。
──なあ。なに描いてんだ?
監督生は描きかけの絵からエースへ視線をうつして、答える。
──桜だよ。僕の故郷の花なんだ。
エースの予想通り、絵の正体は花弁だった。
監督生はイスから立つ。パレットと筆をしまい、イスの座面に置く。絵画用の分厚いエプロンのヒモに手をかけている。監督生自身の手で、エプロンが剥がされていく。
そこでようやくエースは、監督生が着けていたエプロンの異様さに気がついた。
剥がされたエプロンには、生地のほつれも傷みも見当たらない。だからまだ新品のはずだ。
なのにもう、ピンク色の絵の具の汚れが無数にあった。
他の色の汚れは、一つも無い。
ピンク色の花の絵を描くためだけにしか使われていないエプロンを、監督生は着ていたのだ。
監督生は、いったいどれほど、一色だけの絵を描いていったのか。
故郷の花のかけらをひたすら描くほどの、狂気じみた郷愁に駆られているのか。
故郷も家族も、この世界にあるエースには想像できない。
イスの座面に置いていた筆とパレットを、監督生は再び持つ。たたんだエプロンの上に乗せる。背後の窓際へ歩いて、壁に寄せられたテーブルの上に、道具一式を置いている。
何となくエースは監督生を観察していた。
だから、まともに見てしまった。
白い朝日でりんかくを縁取られる、監督生の顔。
異世界を一途に想う、憂いをふくんだ表情。
伏せられた瞳は、窓越しの日光を浴びて、輝いている。
監督生が窓際から離れるまでの、一瞬。瞳がエースに向けられた。
きらめく瞳の奥は、真っ黒だった。
監督生は困ったように笑う。
──待たせたかな?
あの黒い瞳は、いつもの優しさをはらんだ黒に戻っていた。
エースはハッとして、答える。
──いいや、ぜんぜん待ってねえよ。
いつもなら、からかいの言葉の一つはかけていたのに、頭が働かなかった。
監督生は談話室から出ていった。来客用の飲み物を用意するために。
一人、残されたエースは、胸をおさえる。
心臓がうるさい。体が熱い。花への狂愛をはらんだ黒が、目に焼きついて離れない。
──これは、恋だ。
──だってずっと、あの一瞬を忘れられない。
直感は正しかった。
あの日以来、エースは監督生に心を奪われたままだ。
泣いて嫌がるエースたちを置いて、異世界に帰っていっても、監督生はエースの心を奪ったままだ。
エースは願う。
心も、監督生も、返してほしいと。
願いは叶えられなかった。
──だからオレはこんなにも、苦しくて悲しいのに。
──なんでデュースは、平気でいるんだ?
── 監督生が帰るとき、オレたちと一緒に泣いてたよな?
──ジャックとの恋を叶えたからか?
──だから、監督生がいなくなっても、笑えているのか?
デュースに向けているようで、実際はエース自身に向けている問いかけは、もう無意味だ。
デュースの口から、交際を明かされてしまったせいで、見ないふりは、もうできないから。
---
「……だからいまさら、こんなクソな夢を見たってのか?」
夢から覚めたエースは起き抜けに、掛け布団の中でうらみごとをつぶやいた。
けれど本当にデュースをうらむつもりは無い。
むしろ祝福したいのだ。ともに困難を乗り越えてきた、大事な友人の幸せを、嫉妬で汚したくない。
二度寝をするにはびみょうな時間。エースはそっとベッドから出る。デュースのベッドを見る。朝練に行っているのか、ベッドは空だった。
他のルームメイトがまだ寝ているのをいいことに、エースは無意識につめていた息を大げさに吐く。
のそのそと身じたくを整えて、部屋から出る。廊下を歩く。洗面室に入り、広い共用洗面台の前に着く。
顔を洗っても、頭がスッキリしない。どことなく、のどの奥がムズムズする。
「風邪か? でも寒気はしねえし……」
鏡を見ても、顔色はさほど悪くない。はっきりしない体調不良。でも授業に出なくてもいい理由にはなる。ここで顔にスートを描かずに部屋に戻っても、ズル休みにはならないはずだ。
なのにエースは洗面台の前に突っ立ったままだ。
しばらくぼんやりしていると、やがてリドルがやってきた。
「おはよう。今朝は早いんだね」
エースはリドルを見る。寮長室には簡易洗面台があるおかげか、彼の化粧はすでに済んでいた。
「あー……おはよーございます」
「まだ眠いようだね。あとの寮生の邪魔にならないよう、早く顔を洗って、化粧を済ませるべきだ」
「もう顔は洗いました」
「なら化粧をおしよ」
「はーい」
ようやく化粧道具を取り出したエースを確認してから、リドルは洗面室から出ていこうとする。
部屋の出入り口をくぐる前に、リドルは言う。
「朝練に遅れた寮生がいたのかと思ったけど、そうではないようだね」
「デュースなら、もう行ったみたいですよ」
リドルの足が止まった。振り返り、エースを見る。ほほ笑みながら、言う。
「デュースに限った話ではないだろう。本当に君たちは仲がよろしいんだね」
かけられた言葉が、いまは重い。
「そこまでじゃありませんって」
「強がりはおよしよ」
そう言い残し、今度こそリドルは出ていった。
一見すると元気なエースの様子を、リドルに認知されてしまった。いま休むと、ズル休みだと思われかねない。
自主休講をあきらめたエースは化粧を始める。慣れた作業だ。仕上げのスートを描くまでにかかった時間は数分程度。
仕上がった顔を見る。いつものエースそのものだ。
何も考えずに作業に没頭していたおかげで、のどの違和感はだいぶ薄れている。このまま無くなってしまえばいい。
「うし、行くか」
教室に行くにはまだ早いが、たまには一番乗りを目指す。担任のクルーウェルからの評価が上がるかもしれない。
エースは洗面室から出ていった。
4話 発症
誰もいない教室。
ひまつぶしにスマホを触っているうちに、人が増えていく。
どんどん席が埋まっていく。エースが座っている席の隣は空けられたままだ。
あと五分で授業が始まる。空けられた席に、デュースが座ってきた。
「おはよう、エース」
「お……はよ」
デュースの顔を見た瞬間、忘れていた違和感が、よみがえってくる。
「どうしたんだ? のどが詰まったのか?」
デュースの言う通り、本当にのどが詰まったような気がした。
思わずエースはのどを触る。
「なんか、変な感じがする」
「大丈夫なのか?」
「おう」
答えてから、いっそ体調不良をいいわけにして、席を立てばよかったと後悔する。
本当は具合が悪いのだと訂正しても、いまさらだ。余計に気をつかわれそうで、嫌になる。とりあえず「気のせいだったわ」と続けた。
「ならいいが……」
そう言ったデュースは、納得がいっていない様子だった。
会話もそこそこに、授業が始まった。
のどの違和感を消したいエース。クルーウェルの声を聞いて、授業に専念する。けれど違和感は増すばかり。
監督生の夢を見て、デュースと顔を合わせてから、どうにもおかしい。
──オレはそこまでデュースに嫉妬してんのかよ。
隣にデュースがいる限り、不調は続くのだとエースは気づいた。
とうとう寒気がしだした。遅れて頭痛もやってくる。聴覚もおかしい。クルーウェルの声が遠い。
呼吸も荒くなっていく。黒板を見るために上げていた顔は、いつのまにか下がっていて、机を凝視していた。
「おい。どうしたんだ」
ついにデュースに気づかれた。
返事をしようにも、出てくるのは息だけだった。
ペンを持つ手が震えはじめる。誰が見ても、りっぱな体調不良者だ。
教壇にいるクルーウェルに向かって、デュースは「先生!」と手を挙げた。
呼ばれたクルーウェルはデュースを見る。
「どうした、スペード」
「エースの様子がおかしいです。保健室に連れていっていいですか?」
返事を待つ間も惜しいようで、デュースはエースの腕をつかんだ。もしクルーウェルが止めても、連れていく気満々だ。
その気遣いが、いまはエースを拒絶させる。つかまれた腕を引き、弱々しく反抗して、顔を上げる。
特に定めるつもりがなかった目線の先には、クルーウェルがいた。
教壇の前から動かないまま、デュースに何かを言っている彼は、いつものコートを羽織っている。
白黒のそれは、監督生を思い出させた。
白い朝日を浴びて輝き、けれど奥はドス黒い、あの瞳が……。
「ぐ……っ」
デュースに腕をつかまれたまま、エースは吐いた。
クラスメイトの突然の嘔吐に、クラス中がどよめく。
さらに予想外のことが起こった。
吐かれた物は、悪臭を放つ汚物ではなかった。
黒い、花弁だった。
エースが真っ黒な花弁を、次々と吐いている。
それを間近で見てしまったデュースの動揺は大きい。
「なんだ、これ……」
デュースがおそるおそる、花弁に触れようとした、瞬間。
「触るな!!」
クルーウェルの怒号が教室中にビリビリと響いた。
デュースの手が止まる。クルーウェルはエースのもとへ駆け寄りながら、未だどよめく周囲に向かって叫ぶ。
「トラッポラから離れろ、仔犬ども! その花に絶対に触れるな!」
着いた途端、クルーウェルはデュースを引き剥がす。続いてエースを抱き寄せる。魔法の障壁で、すべての花弁を小さく囲う。
障壁のドームの中に閉じ込められた花弁は、同じく中に放たれた火の魔法で、ちりも残らず焼き消えた。
すっかり離れた生徒たちを確認してから、クルーウェルは改めてエースをイスに座らせる。スマホを出して、養護教諭に連絡を取っている。
もうろうとした意識の中にいるエースは、教室の様子が見えていない。
自身の口から吐かれた花弁の色と、形が、目に焼きついたままだ。
──あれは、桜だ。
──監督生が愛していた、あの花だ。
ピンク色のはずなのに、黒色だった花は、エースが恋した監督生そのもののようだった。
予備動作もなく、エースは再び花弁を吐く。
クルーウェルは通話をしながら、花弁を焼き消していく。
クラスメイトたちはヒソヒソとささやきながら、エースを遠まきに眺めている。
デュースは何もできず、立ち尽くすのみ。
のどをひきつらせながらも、エースの心に思い浮かぶのは、監督生の最後の姿。
エースたちとの別れを惜しみながらも、異世界に帰れる喜びが隠しきれていない、監督生の笑顔だった。
5話 ケイトは行動する
花吐き病とは、花を吐く病気である。
片想いをしている者に発症し、衰弱死するまで花を吐き続ける。
治す方法は二つ。
一つ目は、片想いの対象者と両想いになること。
二つ目は、片想いをしている他者に花を触れさせ、感染させること。
どちらかが成功した瞬間に、発症者は白銀の百合を吐き、完治する。
薬を使えば、感染を抑えたり、病の進行を遅らせたりすることは可能だが、完治させる薬はまだ開発されていない。
治さない限り、致死率は百パーセントの恐ろしい病気である。
ケイトがスマホで調べ、信ぴょう性の高い話を抜粋しただけだと、この程度だった。他は、主観まみれのうわさ話のみ。読み返す価値はない。
情報をまとめた文章は、あらかじめスマホのメモアプリに打っておいた。その画面をタブレットに向けながら、ケイトは問いかける。
「イデアくんはどう思う?」
教室の中。放課後になった瞬間、隣の席を陣取っていたケイトにタブレットをわしづかまれて、イデアは逃げられない。おとなしく答える。
「どうも何も……拙者の専門外ですので」
「じゃあこの情報はウソじゃないって調べられる?」
「いや、調べるまでもないですわ。二次創作では使ってはいけないガイドラインがほぼ全作品に定められているほど、この病気は、こちらの界隈では危険なことで有名なものですぞ。情報は正しい」
「専門外じゃなかったの」
「医者ではありませんので、これ以上は知らない。もういい?」
「待って」
ここで離したら、後悔してしまう。
かかげていたスマホをポケットに入れる。タブレットを両手でつかみ直し、真剣な眼差しをそそぐ。
「うちの寮生が花吐き病にかかったのは知ってるよね?」
「まあ……学園中がその話題で持ちきりだったし」
一年生が授業中に突然、難病を発症させた話だ。
目撃していた生徒たちは、めったにない瞬間を、良くも悪くも、誰かに共有したくてたまらなかった。エースがどこかの病院に隔離されて、もう感染の危険はないと教師たちから言われているのに、目撃者たちの口は止まらなかった。
発症から、ケイトたちの耳に届いた時間は、たったの一時間弱。
そこから三週間は経った。新しいもの好きの生徒たちの興奮は、だいぶ冷めている。いまはもう、ときどき話題に出る程度だ。
反対に、ケイトたちの熱は決して冷めない。
三週間、ケイトはエースに会える方法をずっと探していた。だがケイトは探偵ではないので、当然、エースの顔すら見ていない。
──イデアくんを利用しよう。
ケイトは最終手段に出たのだ。
ここでイデアを逃がしてはならない。
「オルトちゃんって、エースちゃんと仲良しだよね」
「……」
「エースちゃんが死んじゃったら、オルトちゃんも悲しむと思うんだ」
「何が言いたいの」
「……ごめん。オルトちゃんを人質扱いして」
沈黙。やぶったのはイデアだった。
「別にいい。もしオルトが死んじゃうかもってなったら、僕も手段なんて選ばないし。お互い様」
「……あのね、本当はオルトちゃんとか関係なくて、ただオレが、イデアくんにお願いしたい」
言葉を区切ったケイトは、周りを見る。クラスメイトは全員、いなくなっていた。
改めて、タブレットを見る。額が画面にくっつきそうなところまで、タブレットを引き寄せる。
息をのむイデアの声が聞こえた。
ケイトは願う。
「エースちゃんを助けたい。力をかして」
イデアはあわてたような声で答える。
「い、いいよ。エース氏はオルトの大事な友達ですからな。拙者も大事にしますぞ」
了承をもらったケイトはタブレットを離す。脱力して、そばの机にもたれかかる。
「よかっ……たあ〜〜! 断られたら、どうしようかと……!」
「ええ……そんなシリアスにならんでもろて」
「あはは。けーくんらしくなかったね」
「いいんじゃないの、別に」
タブレットは浮遊を再開する。教室の出入り口に向かって、移動を始める。
「じゃ、行こうか」
6話 ケイトは対話する
起きあがったケイトはタブレットについていき、問いかける。
「どこに行くの?」
「誰もいないところ。作戦会議は第三者がいないところでやるもんでしょ」
ケイトは歩きながら、足がもつれない程度に、またあたりをぐるりと見回す。がらんとした教室内には、ケイトたち以外、誰もいない。
「ここじゃダメなの?」
「この近くの監視カメラを確認したら、聞き耳を立ててるやつがいたから、ここはダメ」
「僕のことだな」
「うわあ!」
ちょうど教室を出たケイトは、いきなり声をかけられて、驚く。声の主を見る。
マレウスだった。
「マレウスくん? どうしてここに」
「廊下を歩いていたら、覚えのある声が聞こえてきてな。そのまま内容も聞いたところだ」
イデアはため息をつく。
「ふつうに白状してて草。少しは反省してもろて」
「盗み聞きを詫びよう。ダイヤモンド。シュラウド」
「出ましたわ、謎の上から目線」
「ていうか、盗み聞きの自覚、あったんだね〜」
ごまかすように、ケイトは笑った。
だがマレウスはごまかされない。とうとつに切り出す。
「花吐き病のことだが」
息をのむケイトとイデア。構わずマレウスは続ける。
「感染源を知っているか?」
「感染源」
おうむ返しをしたケイトはキョトンとしている。
ケイトに代わり、イデアがはっきりと答える。
「明らかにはされておりませんな」
「ヒトの間ではそうだろう。だが、妖精は知っている」
「あっ」
妖精、というキーワードを出されて、ケイトは思い出した。
確証のないうわさ話だと切り捨てた情報の中に、あったものだ。
「妖精の呪い!」
マレウスはうなずく。
「そうだ。正確には呪いではなく、祝福だが」
イデアは嫌悪感を隠さずに言う。
「人が死ぬのが、祝福? 妖精は残酷なのがセオリーとはいえ、あんまりではござらんか?」
「ヒトすべてが対象ではない。妖精にも好みがある。恋のために死ねる者に、よくかけられる祝福だ」
「エース氏が、恋のために死ねると?」
「どうやらトラッポラは利己主義に見せかけて、根は利他主義のようだ。むしろそうでなくては、仲間たちのためだけに、あそこまで動けないはずだ」
「まあ、それは拙者も存じておりますが」
「そして妖精は、利己主義な恋ではなく、利他主義な恋を好む。叶えさせたいから、命をかけさせる」
「一方的すぎ。理解不能」
イデアは吐き捨てた。
ケイトもそう思っていた。タチの悪いうわさだと嫌悪して、だからその情報をイデアに見せなかったのだ。
こうしてマレウスに言われるまで忘れてしまうほどに、記憶のすみに追いやっていた、残酷で一方的な感染源の情報。
だが妖精族の頂点に立つ予定のマレウスが太鼓判を押した話だ。信ぴょう性は限りなく高い。
一人で納得するケイトは、すっかり無言になっていた。また代わりにイデアが口を開く。
「つまりエース氏は、どこかでその祝福とやらを妖精にかけられたってことだよね。それさ、どの妖精がやったかわかりませんかね? そいつに祝福をやめさせてもらえませんかね?」
マレウスは首を振る。
「無駄だ。トラッポラにかけられた祝福の魔力を追おうにも、無数にいる妖精の似たような魔力の、たった一つを特定するなど、いくら僕でも不可能だ」
イデアがつかみかけた解決の糸口は、あっけなく切られた。
二人の会話をじっと聞いていたケイトは、あわててマレウスに問いかける。
「じゃあさ、エースちゃんの魔力は探れないかな? そしたらエースちゃんに会えるよね!?」
「……会ってどうする?」
「治す!!」
「ほう……」
感心したようにマレウスは相づちを打った。けれど冷たい目をしている。
「つまりお前は、妖精の祝福など、自分の手にかかればいくらでも解けると。ごうまんなものだな。おろか者には、この僕が告げてやろう。お前は絶対に、トラッポラにかけられた祝福を解けない」
「え……そんなつもりじゃ……」
どうやらマレウスを怒らせたらしい。窓の外の雲がかげっていく。
タブレットがマレウスの前にずいと出る。
「そんで、マレウス氏は何が言いたかったので? 盗み聞きしたあげく、拙者たちをあきらめさせるために、わざわざこんな無駄話を?」
「無駄ではない」
マレウスはタブレット越しのイデアではなく、ケイトを見ている。
「プラスにマイナスをぶつければ、ゼロになる。同様に、利他主義な恋には、利己主義な恋をぶつければいい」
ケイトの顔が凍りつく。
「ダイヤモンドに任せれば、すべてうまくいくだろう」
イデアは疑問を口にする。
「はあ? 解けないとか言っておきながら、すべてうまくいくとか、意味不明なんですが?」
マレウスは愉快そうに目を細めながら、タブレットに視線を向ける。
「ふふ。さて、シュラウドに意味を説いたところで、僕に何の利があると?」
「や、もういいです」
「そうか」
マレウスは消えた。転移魔法だ。かげっていた雲は晴れていた。
とたんに静まる廊下。口火を切ったのはイデアだ。
「ケイト氏。マレウス氏が変なのは、いつものことですぞ。気に病む必要はないかと……」
ケイトは返事をしない。黙ったまま、うつむいている。
どうしたものかとイデアは頭を悩ませる。心の中でうなること、数秒。
ケイトの顔がガバリと、勢いよく上がった。
イデアが驚く間もなく、ケイトは自身の頬を、両手で挟むように、バチンと張った。
「よしっ!!」
ケイトは決意したのだ。
「作戦会議しよう! イデアくん!」
勢いにのまれるまま、イデアは「はいっ」と答えた。
ケイトは続けて言う。
「誰もいないところに案内してくれるんだよね。行こう」
「わ、わかった」
タブレットが移動を始める。ケイトはあとについていく。
7話 作戦会議・1
着いた場所は、せまい資料室だった。施錠された扉は、イデアが難なく解錠した。
ややほこりっぽくて、人の気配はまったくない。ないしょ話にはうってつけだ。
荷物が乗っていない机の上に、ケイトは行儀悪く腰かける。浮遊を続けているタブレットに向かって、言う。
「作戦なんだけどさ、実はもうイデアくんにやってもらうことは決まってるんだよね」
「ほほう。ノープランではないと」
「うん。イデアくんにしか、できないこと」
「情報収集ですかな。エース氏が入院している病院でしたら、秒で特定できますわ」
イデアはさっそく専門の機関に検索をかけようとする。だがケイトに止められる。
「いやいや。そんなことしなくていいよ」
イデアの手が止まる。
「は? じゃあ拙者は何をすれば……」
「学園内を探ってほしい」
「はあ。そのくらいなら、それこそ秒で探れますが、何を探れと。てか、なんのために」
「探るのはエースちゃん。理由は、エースちゃんに会うため」
この言葉だけで、イデアはピンときてしまった。
ありえないとは思いつつも、口は止まらない。
「まさか、エース氏は……この学園のどこかに、閉じ込められていると!?」
ケイトはうなずく。イデアは悲鳴をあげる。
「入院してるのでは!?」
「病院にいようと学園にいようと、どうせ死ぬ。だったら好きな子がいた場所に、最期までいたいらしいよ」
「ということは、エース氏の恋のお相手は、学園の関係者……。いやいや! そもそもそれ、どこ情報!? 拙者ですら知りませんでしたが!?」
「そりゃそうだよ。これ、トップシークレットだからね」
「トップシークレット!?」
「うん。生徒でこれ知ってるの、オレとリドルくんだけじゃないかな。あ、いまイデアくんもシークレット仲間になったね」
「ちょっと待って。情報が渋滞してきた」
イデアは深く息をはく。吸い込んで、問いかける。
「詳しく聞いても?」
了承したケイトは詳細を話していく。
---
花吐き病にかかったエースが、どこかの病院に隔離された。
そう聞かされて、すぐにケイトは見舞いの要求をした。だが担任の教師に止められた。
片想いでも、両想いでも、恋すらしていなくても、等しく全生徒がエースに会うことを許されなかった。誤申告で、感染される恐れがある。
だから会わせられないと言われても、ケイトはあきらめなかった。ケイトに限らず、リドルやトレイに、エースと親しい一年生たちもだ。
彼らはエースの捜索を独自におこなっていった。しかし空振りの連続。
周りを意気消沈させないように、ケイトは常に明るく振る舞っていたが、ただ疲れるだけだった。
捜索を開始してから五日後の夜。
思わぬ方向から、ケイトに進展が訪れた。
──手をかしてほしい。ケイトのユニーク魔法が必要なんだ。
ケイトの自室に入ってきたリドルに、そう願われた。
──いいけど、なんで?
ケイトは理由を聞いた。
リドルはケイトの目をしっかりと見て、答える。
──昨日、ボクはエースに会った。
そう告白されたときの衝撃を、ケイトはいまも忘れられない。
8話 作戦会議・2
「クルーウェル先生に頼まれたんだって。エースちゃんの片想いの相手を聞いてほしいから、エースちゃんのもとに連れていきたいってさ。エースちゃんの居場所を誰にも言わない条件つきだったけど、もちろんリドルくんは飛びついた」
「それで、病院に連れていかれるかと思いきや、学園から出なかったと」
「うん。先生が職員室で、実はエースちゃんは学園内にいるって、明かされたんだって」
「それはリドル氏も、たいそう喜んだのでは?」
自分だけでも、いつでも見舞いに行けると言われたようなものだ。
リドルの喜びは、ケイトの喜び。なのにケイトの顔は暗い。
「だけど、そううまくはいかなかったんだ」
---
クルーウェルに連れられて、職員室からスタートした、エースにつながる道。当然、リドルは道を覚えようとした。
なのに、覚えられなかったらしい。
ケイトは問いかける。
──リドルくんなら、一発で覚えられるじゃん。どうして……。
リドルは理由を話した。
右に曲がり、左に曲がり、坂を上り、階段を下り、校舎を出て、また別の校舎に入り、右へ、左へ、上へ、下へ……。
ねじ曲げられた空間は、リドルの認識をでたらめにさせた。
気がつけば、エースが閉じ込められている部屋の扉の前に立っていた。道中、どう移動していたか、まったく思い出せなかった。
──最初は認識阻害魔法をかけられたのだと思ったよ。でも魔力は感じられなかった。アレは何だったんだ。いまもわからない……。
顔をやや伏せて、指を額に当てるリドル。数秒後。指を下ろして、顔を上げる。
──でも、これだけはわかった。先生方は、徹底してボクたちを自由に、エースに会わせたくないのだとね。
そうリドルは結論づけた。
---
黙って聞き続けていたイデアは言う。
「ま、そうでしょうな。エース氏を治すためには、まず恋の相手を知らないといけない。でもエース氏は非協力的。だったら生徒の、それもふだんから親しくしてる寮長なら、白状すると思ったと。だとしても、そうそう会わせられないよね。下手したらリドル氏が感染するかもですからな」
「たぶん先生も迷ったと思うよ。優等生として信用できるリドルくんだけ会わせて、さらに自分も相席することで、手を打ったって感じ」
暗い表情から一転して、ケイトはおどける。
「そんな心配、しなくていいのにね! 片想い中の子しか感染しないなら、恋人がいるリドルくんには無意味だし!」
「はっ?」
リドルには恋人がいる。またもや驚きの新情報だ。
イデアはリドルの恋人の正体を聞こうとして、やめた。リドルの好みなど、どうでもいい。
なのでケイトが笑いながら「お相手が誰か、気になる?」と問いかけてきても、イデアは「全然」と答えられた。ケイトのくちびるがつまらなさそうに尖る。
巻き起こりそうな嵐を回避できたとイデアは安心する。心に余裕ができたおかげか、ふと気づく。
「エース氏が実は学園内にいるというトップシークレットを、教師に口止めされてたリドル氏が、どうしてケイト氏にバラしたので? 優等生が形無しですぞ」
一言余計だったので、とりあえずケイトは尖らせたくちびるを引っ込めて、タブレットを軽くにらんだ。悲鳴が聞こえたような気がした。
話が進まないので、ケイトはさっさと答える。
「オレのユニーク魔法めあてだよ」
---
道中を覚えられなくても、リドルはエースに会えた。
発症から四日。スートの化粧をしていない顔は青白く、少しやせたように見える。そこまではまだ予想内の姿。
予想外だったのは、いまにも身投げをするのではないか、と思えるほどの、はかなさをともなっていたことだ。部屋に窓はなかったため、本当に身投げなどできないが。
嘔吐に次ぐ嘔吐は、身だけではなく、心もひどく弱らせる。そう頭では理解していたつもりだったが、見通しは甘かった。
リドルの動揺を見透かしたのか、エースはリドルに心を開かない。結果、リドルはエースの想い人の正体を聞き出せなかった。
説得もむなしく、リドルは何の成果も得られず、帰っていく。お払い箱となったリドルを、クルーウェルはもう連れていかなかった。
エースにつながる道は、一方的に閉ざされた。
その道を、リドルはこじ開けたい。
形だけでも説得はできたのだ。あとは自主的に通い続けて、想い人の正体を聞き出せれば、あわよくば病気を治せるかもしれない。
しかし一人では限界がある。仲間に助けを求めたいが、教師との約束をやぶって、複数人に声をかけるわけにはいかない。優等生を義務付けられたリドルには難題だった。
リドルは悩んだ。約束をやぶるか、無視して助けを求めるか。悩みに悩み抜いて……一人にだけ声をかけよう、と自身を許した。
すると再び壁にぶち当たった。
リドル一人から、誰かを入れて二人になったところで、どう事態が進展するのか。人海戦術と呼ぶには、まだまだ人手が足りない。
──だったらその一人が、複数人になればよろしい。
リドルらしい、力技である。
秘密の共有者に選ばれたのはケイトだった。
---
ケイトは首をすくめる。
「その力技は失敗したけどね」
9話 作戦会議・3
誰もいない夜の学園。一人のリドルと、複数人のケイト。十分な人数で道をしらみつぶしに探しても、徒労に終わった。
ケイトの人数を増やせば増やすほど、魔力の消費は激しく、長時間の捜索は見込めない。しかもリドルは道の特徴を何ひとつ覚えていなかった。整合性をとりつつ道をしぼっていくやり方をのぞめない以上、効率は悪い。無駄に時間を費やす一方だった。
だがリドルはあきらめなかった。人海戦術を続けていても、これ以上の進展は見込めないだろうと、ケイトと解散したあとも、リドルは一人で捜索を続けている。
もちろんケイトもあきらめていない。手持ちぶさたになったときも、常に意識を捜索に向けていたおかげか、ある日、ケイトは急にポンとひらめいた。
道探しのコツをネットで調べようと、スマホを触っていたときだった。
目の前にあるのは、自身の手の中に収まっている、小型の機械。
---
「リドルくんが道を覚えられなかったの、最初は魔法をかけられたんだと思ったみたいなんだよね。でもそれは違ってた。ならさ……」
「あ。理解しましたわ」
イデアはケイトの言葉をさえぎった。
続けてイデアは早口で言う。
「魔法じゃなければ、機械で邪魔されたんじゃないかってことね。おけ把握。だから拙者が一枚噛んでるのではないかと」
ケイトは驚いた。わたわたと、あせりながら誤解を解く。
「違うよ! イデアくんを疑ってなんかない!」
「ええ……でもさっきのって、そういうことでは?」
「話は最後まで聞いて!」
ケイトの剣幕に、イデアは反射で「ごめん」と謝った。
ケイトは息をはいてから、続きを言う。
「えーと、リドルくんが道を覚えてないのは、機械のせいだって予想したのは合ってるよ。で、その機械を設置したのは、イデアくん以外の誰かなんじゃないかと思ってる」
「ちょっと待って。いま調べていい?」
「いいよ。むしろお願い」
浮遊していたタブレットが、ケイトが座っている机の横のスペースに着地する。沈黙して、数秒後。
「お待たせ」
タブレットが浮遊を再開した。ケイトの真正面に移動する。
「前の寮長が残してった防犯システムだね。人の脳波に干渉して、認識を狂わせるタイプ。リドル氏はこれにやられたみたい」
ケイトは引く。
「え、大丈夫なの、それ」
「試運転して、数値的に問題がなかったやつだから、おそらくは。でも脳に関わってるから、絶対に安全とは言いきれないよ」
ケイトは大声をあげて、あせる。
「やばいじゃん! リドルくん、まだ道探ししてるのに! あれからどんくらい経ってる!? 二週間経ってる! なんなら超えてる!」
「まあ拙者はリドル氏がどうなろうと、どうでもいいですが」
「けーくんがよくないの!」
「そんなに興奮せんでもろて。危険だとも言ってないんで」
「う……それなら……」
「ま、こーいうのって、受けるのは一度きりなのが前提なんで、少なくとも短期間に何度も受けていいやつじゃないのは確定的に明らか」
「危険じゃん! 絶対に危険なやつじゃん! あー! だから先生、一度しかリドルくんを連れてかなかったんだ!」
ケイトは大げさに頭をかかえる。うつむき、うめくように言う。
「これはマジで、一日でも早く、エースちゃんに会わなくちゃ」
「あの、ずっと聞きたかったことがあるんだけど」
ケイトはのろのろと顔を上げて、「……なに?」と答えた。
イデアは続きを言う。
「マレウス氏がすでに聞いてたことだけど、僕からも聞かせて。ケイト氏はエース氏に会って、何がしたいの?」
「エースちゃんを治す」
「はあ」
マレウスに問いかけられたときと、まったく同じ回答だった。
マレウスが相手だったから大きく出てしまったのだと思っていたが、関係なかったようだ。
気が抜けたまま、イデアは忠告する。
「ヒーロー気取りはやめなよ。ロクなことにならないから」
「オレはヒーローになんてなれないよ」
頭をかかえていた両手を、ケイトはひざの上に乗せる。取り乱していた様子は、もう見当たらない。
「治ると断言したのはさすがに言い過ぎちゃったけどさ、リドルくんよりは勝算はありそうなんだよね。説得ならけーくんのほうが上手いもん」
「説得が成功して、エース氏の想い人の正体が聞けて、その先は? プランがおありで?」
ケイトは指折り確認を始める。
「まず、けーくんがその子に……『その子』っていうのは、エースちゃんの想い人のことね。その子とお話します。次に、その子にエースちゃんのプレゼンをします。エースちゃんはとっても良い子なので、その子はエースちゃんを悪く思いません。最後に、勢いに乗らせます。あとはアドリブでなんとかなるっしょ!」
「それはもうほぼノープランでは? 陽キャこわ……」
ケイトは笑いながら首をかしげる。
「そうかな? これが一番いいと思うんだけど」
「……まあ、それが一番、人道的ではありますな」
ケイトは机に座りながら、身を乗り出す。
「イデアくんもそう思うよね! 賛成してくれるよね!?」
「あっはい」
「でもこの計画って、そもそもエースちゃんに会わないと、始まらないよねえ!?」
ケイトは勢いよく、タブレットを両手でガッとわしづかむ。イデアは「ひいっ」と悲鳴をあげた。
ケイトの熱い眼差しが、タブレットの画面から離れない。
「そこでイデアくんの出番ってわけ!」
長い前座が、やっと終わった。
ケイトはイデアに本題を切り出す。
「イデアくん! エースちゃんにつながる道をめちゃくちゃにしてる機械を探して、止めて! オレがエースちゃんに、会うために!!」
10話 作戦開始
イデアは監視カメラで廊下を確認する。誰もいない。ケイトに退室をうながす。
タブレットを持ったまま、ケイトは資料室を出た。
ケイトの手から離れたタブレットが、扉を施錠する。
「はい。これで我々がここで密会した証拠はなくなりました」
「ここ、電子ロックだったんだね」
「ん」
限られた人物しか入れない空間。セキュリティを一任されているイデアなら入りたい放題だし、入室のログも操作し放題だ。
タブレットの画面がケイトに向く。
「じゃ、今夜の零時、あの場所で」
防犯システムが作動している区域の校舎内のことだ。場所はすでにケイトに知らせてある。
「あそこだよね。わかった」
ケイトは真剣な表情でうなずく。
タブレットはケイトに背面を見せて、去っていった。イグニハイド寮に帰るために。
ケイトもいったん、ハーツラビュル寮に帰った。
二人そろって夕飯を食べ損ねたが、駄菓子で腹をふくらませられるイデアは問題ないだろう。
ケイトも空腹など、まったく気にならなかった。むしろ緊張で胃が縮こまっていた。
あと数時間で、作戦決行だ。
---
資料室でケイトとイデアが意見をすり合わせ、考えた作戦は以下の通り。
作戦開始の零時前に、ケイト一人で、校舎内で待機する。
零時ちょうどに、イデアが学園内すべての電気とネットワークを遮断。すると電化製品も通信も、前寮長が残した防犯システムも完全停止される。
機械の邪魔が入らないうちに、ケイトのユニーク魔法で人海戦術。とにかく、しらみつぶしに、エースが閉じ込められている部屋を探す。
そして部屋を見つけ、扉を開いてエースに会えば、作戦成功だ。
---
確実性のない、だいたんで地道な作戦。
もっと時間をかければ、もっと成功率の高い別の作戦を立てられるのに、ケイトは良しとしなかった。
エースにかけられた祝福と、機械に侵されているであろうリドルの脳。時間が経つほど悪化する一方のはずだ。二人の身の危険を考えて、作戦はとにかく早く、それこそ今夜中におこないたかったのだ。
隠密行動をとるケイトはともかく、電気とネットワークの遮断については、イデアのしわざだとバレてしまうはず。せめて大々的にはバレないように、学園内すべてではなく、防犯システムのみをこっそり無力化させればいいと、ケイトは提案した。
しかしイデアは却下する。
──前寮長のだけいじくったら、それこそエース氏めあてだって、クルーウェルにすぐバレるよ。今日の宿直、あいつだし。ケイト氏、捕まるね。エース氏に会えないまま。
ハッとするケイト。イデアは続けて言う。
──こういうときは、むしろ学園ごとやったほうが、ケイト氏には都合がいい。
大々的に学園中を遮断して、すぐにバレる者は、宿直のクルーウェルと、夜ふかし中の生徒たち。そしてバレる対象物は、学園内の『すべて』だ。対象物が多すぎて、防犯システムのためだけだとは気づかれない。木を隠すなら森の中である。
クルーウェルが教師たちを起こして援軍を得ようとするだろうが、それでも大勢の生徒は眠ったまま。少数のヘイトをイデアが買っている間は、誰もケイトの不在など気にしない。もちろん、エースのことも。
あとが怖くなるが、大々的にバレたほうが、捜索しやすくなるのだ。
──電線がトラブったから〜とか、害悪ハッカーと戦ってるから〜とか、ソシャゲのガチャの結果が悪いからリセットしたくて〜とか、とにかくいいわけしまくるし、時間稼ぎは任せてクレメンス。でも時間が経てば経つほどヘイトの数は増えてくし、拙者の立場がめっちゃ悪くなるから、夜明けまでが限界だと思って。
イデアはケイトに、そう忠告した。
夜明けまでの時間稼ぎも引き受けてくれたイデアに、ケイトは深く感謝した。
11話 作戦決行・1
二十三時五十五分。決行時間の五分前だ。
ケイトはすでに校舎内に潜入していた。あたりは暗いが、窓の外のすぐそばにある街灯のおかげで、わずかな光はあった。
充電たっぷりのスマホ。電源は入れてあるが、あと五分で、通話もネットも使えなくなる。
防犯システムが作動している区域の校舎内にいるせいで、頭がぼんやりとしている。なのに心臓はやけにうるさい。
心臓をバクバクと鳴らしながら、あと四分になったとき。
マナーモード中のスマホが震えた。
ケイトの肩が大きく跳ねる。思わぬ邪魔が入り、いらだつ。
「なんだよ、こんなときに……!」
急いで画面を確認する。
イデアからの着信だった。
何か不備が起こったのだろうか。いらだちが一瞬で消えた。代わりに湧いてくる不安のまま、通話ボタンをタップする。
「もしもし?」
「もしもし。僕だけど。着いてるよね?」
「うん。こっちはちゃんと着いてるよ。どうしたの? 何かあった?」
「や……こっちが確認、したかっただけ。いちおう、いちおうね、ケイト氏、監視カメラに写ってるんだけど、その、本人の口から聞いとこうかなって」
「なあんだ……」
ケイトはこわばっていた肩の力を抜いた。
緊張がほどけていく。
あちらに何もなくてよかった安心もある。だがイデアの声を聞いただけでも、きっと心強くいられた。
まるで彼が、そばにいてくれているようで……。
「ケイト氏? 急に黙って、どうしたでござる? ……緊張してる? 陽キャも緊張って概念があるんですなあ。新発見ですぞ」
「イデアくん」
「えっなになに? ちょっと待って! バカにしたつもりはないで候!」
「ありがとうね」
「……どうしたの、いきなり」
「協力してくれたことのお礼、言ってなかったから」
「いいってば、このくらい」
「それでも、言いたかったんだよ。だって……だって、イデアくん、損してるもん」
「損て」
「オルトちゃんの大事な友達のためとはいえ、こんなこと」
「あー。これからヘイトを買いまくること? このまま部屋に立てこもるし、対面しなきゃ平気っすわ。ネットの掲示板に行ってみ? 煽り煽られは日常茶飯事ですし、ここの言い争いなんて微粒子レベルでかわいいもんですしおすし。つーかぶっちゃけ、もう慣れましたわ」
「慣れてるからって、されていいことにはならないよ」
「はあ」
「ごめんね、イデアくん」
「……」
「君を利用して、ごめん……」
作戦開始まで、あと一分を切った。
あと一分で、監視カメラ越しのケイトの姿が、イデアに届かなくなる。スマホ越しのイデアの声が、ケイトに届かなくなる。二人のつながりは、夜明けまで切れる。
最後のあがきみたいな、イデアの声。
「そんなに言うなら、あとでお礼、してよ」
「なに? なんでも言って。オレにできることなら、なんでもする」
「じゃあ……ひとつだけ」
イデアの言葉に、ケイトは黙る。
なのにイデアも黙る。
沈黙が、ひどく長い。
最後の一分がケイトには惜しいのに、イデアはもったいぶって、なかなか続きを言わない。
まるで、何もかも終わったあとでも、変わらずケイトに会えるのだと信じているように。
あと十秒。ついにイデアは願う。
「全部、終わったら……僕の部屋で、僕といっしょに、ゲーム、してください」
ぶつり。
あたりが完全な暗闇におおわれる。
通話とともに、窓の外の街灯も消えたようだ。
防犯システムも作動できなくなったようだ。正常に働き始めた脳は、ぼやけていた頭をスッキリさせる。
作戦開始だ。
ケイトはスマホをしまう。ペンを取り出して、ユニーク魔法を唱える。
複数人に増えたケイトたちに、オリジナルのケイトは電池式の小型のライトを全員に持たせた。
魔力節約のため、光魔法は使わないほうがいいとイデアが提案して、オルトが持ってきてくれた物だ。
オリジナルをふくむケイトたちは、嗅覚を獣人並みに上げる魔法を、いっせいに自身にかける。エースが吐き続けているであろう花の匂いを嗅ぎ当てるためだ。
ケイトたちは言葉もなく、散り散りになり、手分けしてエースの捜索を始める。
花の匂いを逃がさないよう、探す。
探す。
探す。
無心で、ひたすらに、くまなく探し続ける。
……やがて一人のケイトから反応があった。それはオリジナルのケイトに届いた。
花の匂いがひときわ濃い扉を見つけたのだ。
オリジナルのケイトは、分身体のケイトのもとへ急ぐ。近づくにつれて、花の匂いが濃くなってくる。
数分後。難なく着いた。分身体のケイトが待機している。
オリジナルのケイトは扉の前に立つ。匂いの元はこの扉の向こう側にあるのだと確信する。あまりにも、匂いが濃すぎるのだ。
むせそうになったので、オリジナルのケイトは嗅覚上昇の魔法を解く。ずいぶん息がしやすくなった。
改めて、扉を見る。
──この先に、エースちゃんがいる。
これでケイトたちの役割は果たされた。
オリジナルのケイトは、改めてユニーク魔法を唱える。また生み出す魔法ではない。数分後にケイトたちが消える自動魔法だ。
遠隔で魔法を唱えられたケイトたちは、あらかじめ指定されていた校舎裏に向かって、いっせいに移動を始めた。自分たちが消える前にライトを一箇所に集めておいて、あとでオルトに回収してもらうためだ。
こうして、この場にいるのは、ケイト一人。
──やっと、エースちゃんに会えるんだ。
おそるおそる、ケイトは扉に向かって、声をかける。
「……エースちゃん?」
返事はなかった。
ケイトは小刻みに震えている手を上げて、扉をノックする。
コンコン。
12話 作戦決行・2
サイドテーブルの上に置かれている白い器。中に溜まっている黒い花は半日ほど放置されて、匂いが充満している。苦しい室内。窓もなく、まるで独房である。
さすがに鉄格子ではない、ふつうの扉。その扉から音がした気がして、エースは目を覚ました。
真っ暗だ。天井の電気が消えている。消した覚えはない。クルーウェルが消していったか、停電か……。
いまだけだろうが、幸いにも吐き気はおさまっている。しかし、のどと頭の痛みは引いていない。全身はずっと気だるい。
また音が聞こえた。
エースはベッドに横たわったまま、ズキズキと痛む頭を動かして、音がした方向に顔を向ける。
数秒後。ノックの音がした。
エースの予想通り、誰かが訪ねてきたようだ。
返事をしようとして、エースは違和感に気づく。
ここに来るのは、学園から呼ばれた医者と、担任のクルーウェルだけだ。まれに他の者もクルーウェルに呼ばれて来るが、基本的にはこの二人だけ。
彼らはノックをして、エースの返事を待たずに入室する。なのに扉の向こう側にいる者は、扉を開こうとしない。
医者とクルーウェル以外の者は無断で入れないように、扉には施錠魔法がかけられている。命に関わる難病をうつしてしまわないために、魔法はとても強力なものだ。解錠対象者に登録されていない生体は、エースの許可なしでは、決して入れない。
またノックしている。
つまり入れないのだ。間違いなく彼らではない。
このまま放置すれば、何度もノックされそうだ。
「……誰だ?」
とりあえず正体を聞いた。
やや間を置いて、扉の向こう側から一言。
「けーくんだよ」
ケイトの声だった。
突然のケイトの来訪に、エースはさほど驚かなかった。
クルーウェルに連れられたリドルが訪ねてきたときから予想していたことだ。リドルに近しい者が、いつか独断で訪ねてくるのではないかと。
ケイトはそばにいてほしい人だ。けれど、招き入れてはならない。
「帰ってください」
扉の向こう側で、息をのむ音。
「なぜ……?」
「寮長はともかく、ケイト先輩はうつるからっすよ。あんたも片想い中なんだろ」
「……うん」
「ほらな。だから……」
「片想い仲間だから、ホントは気づいてたんだ。エースちゃんが好きになった子」
一転して黙るエースに、ケイトは続けて言う。
「監督生ちゃんでしょ?」
問いかけているようで、実際は確信している声色だった。
ケイトは続ける。
「オレがエースちゃんの片想い相手に気づいちゃったのと同じで、エースちゃんもオレの片想い相手のこと、気づいてるよね」
その通りだ。
「イデア先輩ですよね」
ケイトは明るい声で「当たり!」と認めた。
そして声を落とす。
「言えない気持ち、わかるよ。相手はもういないんだもの。言ったって、周りを困らせるだけだし、何よりまだ求めてる自分が嫌になる。絶対に手に入らないことを突きつけられてさ、嫌で、嫌で、しょうがなくなって……もういっそ、このまま死んじゃえばいいんだって……」
本音を言い当てられたエースは黙ったまま、ケイトの言葉に聞き入っている。
途切れていたケイトの声が再開する。
「オレ、イデアくんが好き。でも結ばれちゃダメなんだ。だってオレたち、立場が違いすぎるもん。目の前にいるのに、交わるのを許されなくて、だからってあきらめられなくて、でも決定的な『何か』もなくて、悲しくて、つらくて、こんな恋なんかしなければ、とか考えて……ときどき、死にたくなる」
また訪れた沈黙の中、エースはケイトに心を開きかけていた。
病気にかかってから、この瞬間まで、エースの理解者はいなかった。皆、口をそろえて、想い人を教えるよう、迫ってばかりだったのだ。命がかかっているのだから当然の対応なのだが、寄りそってくれない者ばかりの環境は、エースを意固地にさせていた。
またケイトの声が聞こえる。
「好きな人と結ばれないなんて、オレたち、いっしょだね」
かたくななエースの心が、いま、ほどかれようとしている。
「オレ、監督生が好き」
「……うん」
「アイツがオレのこと、ぜんぜん想ってなくても」
「うん」
「もう二度と会えなくても! 好きなんです……!」
正式に白状したエースは、いまにも泣きそうだ。
「先輩……オレ……どうしたらいいのかな……」
「まずはみんなに明かそうよ。監督生ちゃんに恋してるってさ。そんで、みんなでいっしょに考えていこう。知恵を出し合っていけば、もしかしたら新しい治療法が見つかるかもよ」
「そんなの、無理じゃん。医者でも無理だったのにさあ!」
「そうかもしれない。なら、そのときは……ずっとそばにいる。最期のときを、看取らせてほしい」
ついにエースの瞳から、涙が一粒、こぼれていった。
あとはもう流れるがままだ。
掛け布団ごと胸元を強く握り、すすり泣く。目尻から次々とこぼれていく涙で、枕が濡れていく。
涙声で、エースは願う。
「オレを……ひとりにしないで……」
「……ひとりになんて、させない」
最後の、ノックの音がする。
「扉を開けてほしい。お前に会いたい」
ついにエースは覚悟を決めた。
節々が痛む体を、ベッドから無理やり起こす。揺らぎそうになる頭を止めて、深い呼吸をくり返す。涙を乱暴にぬぐう。掛け布団をめくり、裸足のまま、両足を床につけた。
あたりは変わらず真っ暗で、何も見えない。けれどテーブルとベッドのみの部屋だ。障害物にぶつからずに、扉の前に行けるはずだ。
全身に力を込めて、立ち上がる。
あとは歩くだけなのに、うまくできない。
手足が冷たい。めまいもしてくる。
「先輩」
それでもエースは歩みを止めない。
自分で扉を開けて、ケイトを迎えたかった。
「いま、開けに行きます」
ふだんの歩幅なら五歩しかない距離を、一分以上の時間をかけて、ようやくエースは扉の前に着いた。
手さぐりでドアノブを握る。エースの生体情報に反応した施錠魔法が、一時的に解かれた。
内開きの扉を、エースは引く。
ケイトを迎えるために。
扉の隙間から光があわく差し込む。もう少し開けば、手が伸びてきた。
大きな手が、細くなったエースの腕をつかむ。
黒い手袋におおわれたそれは、どう見てもケイトではない。
「え」
エースが驚いている間に、ケイトではない侵入者が扉に手をかけ、大きく開けた。勢いで倒れそうになったエースを引っぱり、長い両腕で抱きしめる。
侵入者の胸に顔を埋められたエースの視界には、侵入者の制服のベストがあった。
ディアソムニア寮の、緑色。
痛む体を忘れて、エースは顔を上げた。ケイトを偽った、侵入者の顔を見るために。
「……招かれよう。トラッポラ」
侵入者の正体は、ケイトの声をした、マレウスだった。
13話 ずっと、会いたかった
驚いているエースを見下ろしながら、マレウスは真顔で「おっと。声を戻さねば」とケイトの声で言った。ミスマッチな声は、ますますエースを混乱させた。
マレウスのそばで浮いていた魔法の光球は、ひとりでに部屋のすみへ移動して、落ち着いた。
真っ暗だった室内が、あわく照らされる。
「トラッポラ……。ずっと、会いたかった」
声を戻したマレウスは、片腕だけエースから離した。もう片方の腕と、ギラギラと輝く両目はエースを離さないまま、後ろ手でドアノブを触る。扉を閉める。扉の内側にかけられていた施錠魔法が、マレウスにかき換えられる。
これで扉の施錠の主導権は、マレウスに渡された。
逃げられなくなったエースを、マレウスは横に抱き上げる。
「ひっ」
遅くも身の危険を感じたエースは懸命にもがく。だが力の差は歴然。ベッドに逆戻りされた。
ベッドのふちに腰かけたマレウスのひざの上に、エースは乗せられる。離れようとしても、マレウスの両腕にからめ取られてしまう。
マレウスは真顔のまま注意する。
「おとなしくしろ。落としはしないが、万が一があるだろう」
だまして侵入してきたどころか、拘束もしてきたマレウスに、エースは怒る。
「なん、なんだ、あんたっ」
「話がある」
「オレにはない!」
「おとなしくしないのなら、単刀直入に言ってやろう」
エースは後頭部を、マレウスの片手に丸ごとつかまれる。頭皮に触れられて、頭痛が増す。
固定されたエースの額に、マレウスの額がくっついた。
このままあごの角度を変えればキスしてしまいそうな、近すぎる距離。エースは下手に動けなくなった。
ぶつかる視線の中、マレウスは言う。
「お前の恋は叶わない」
再確認させられて、エースの心は傷つく。けれど悟られないよう、エースは気丈に振る舞う。
「そんなの、知ってんだよ……!」
「他に治る方法はまだある。……感染させればいい」
片想いをしている他者に花を触れさせ、感染させれば、治る。
このくらいなら、マレウスに言われずとも知っている。一度だけ、問診のついでに医者に言われたことだ。そして、絶対にやってはいけないことでもあると、釘を刺されている。
エースはあえぎながら言う。
「誰かに、押しつけろ、って……? そりゃ、オレ、このままじゃ、死ぬ、けど……んなこと、したら、やべえ、だろ」
「では、死ぬしかなくなる」
「わかってん、だよ!」
息が荒くなっていくにつれて、吐き気がよみがえってくる。
のど元までせり上がり、エースは無意識にマレウスの胸元を押した。顔は離れた。けれど首から下はまだマレウスから離れない。
全力で拒まれたマレウスは、それでもエースに寄りそい続ける。嫌がるエースを後ろから抱えながら、前かがみになり、エースごと顔を床に向けた。
エースはもう吐きそうだ。器を寄せたいのに、器はエースの手の範囲内にない。このままでは床に直接ぶちまけてしまう。
マレウスに失態をさらしたくなくて、エースは我慢する。いずれは来てしまう時を、先延ばしにするために。
エースのあがきを、マレウスは見逃さない。マレウスの指が、エースののどを、すりすりとさする。
嘔吐をうながされ、エースは耐えられない。床に向かって吐いた。
黒い花弁が唾液とともに落ちていく。マレウスの指はしつこく、エースののどをさすり続ける。次から次へと、花があふれて止まらない。バクバクと鳴っているエースの心臓は、背後にくっついているマレウスにきっと伝わっている。
流れ作業のような地獄の時間が過ぎていく。
あらかた吐き終わり、エースは完全に脱力した。うつろな目で、黒い花まみれになった床を見つめている。背後にいるマレウスも、エースの肩越しに花を見つめている。
「落ち着いたか?」
答える気力もなく、エースは無視した。
構わずマレウスは続ける。
「このままでは、お前は死ぬ。生きたいとは思わないのか」
「……」
「恋が叶うか、感染させるか。その二つしか方法はないと、ヒトの間では言われているが……」
鼓膜に息を吹き込むように、マレウスはエースの耳元でささやく。
「朗報だ。抜け道がある。それをやれば、お前は生きられる」
エースの目が、ほんの少しだけ輝いた。
うつむいていた頭を動かして、すぐ近くにあるマレウスの目を見る。
もったいぶらずに、マレウスはすぐに明かす。
「心変わりすればいい。お前を想っている者を、お前が好きになれば、両想いになれる」
言われてみれば、確かにそうだ。理屈は通っている。しかし、誰がエースを想っているのか、そもそも存在しているのか、エースは知らない。
まさかマレウスは、エースを想う者を知っているとでもいうのか。
だとしても、エースは知る気がなかった。
「……こんなに、なるほど、あいつが……好きなのに……他の、誰かを、好きになんて……なれねえ……すよ……」
監督生を思い出すエース。おさまっていた吐き気が、またよみがえる。
ごぽり。
少量の新しい花が、エースの口内にとどまっている。
もうあと数秒で、これが洪水のように出てきてしまう。
エースが口内にある花を床に吐き出そうとする、寸前。
「僕を好きになれ。トラッポラ」
マレウスに口づけられた。
14話 感染
「んぐっ!?」
驚きのあまり、エースの目が限界まで開いた。
くちびるを割り開かされ、長い舌が入ってくる。口内をまんべんなく暴かれていく。
「う、うう!」
また後頭部をつかまれて、くちびるが離れない。マレウスの胸元を手で強く押しても、もう離れてはくれなかった。
抵抗している間に体をずらされて、正面に強く抱き込まれた。
「んうぅう……!」
胸と胸が合わさる。エースの熱い体温と、マレウスの冷たい体温が、服越しに混ざっていく。二人の心臓の音はちっとも合っていなくて、調和がとれていない。
マレウスの服を引っ張っても、びくともしなかった。
──もう、ダメだ。
エースは抵抗をあきらめた。目を閉じる。両腕がぱたりと落ちる。マレウスに全身を預ける。
「う……うー……」
大粒の涙をこぼすと、わき腹をさすられ、あやされた。やさしい腕とは反対に、長い舌はエースの舌に巻きつき、激しくしごいていく。
どくどく。心臓の音。
ぐちゃぐちゃ。口内を暴かれる音。
すりすり。わき腹を指でなでられる音。
あらゆる音がエースを犯していく中、エースは監督生を忘れていた。
不調が治っていく。マレウスに向けていた嫌悪感が、頭痛や吐き気とともに失われていく。
時間の流れがすっかりわからなくなった頃に、くちびるは解放された。離れる間際に、ちゅう、とくちびるを甘く吸われた。
閉じていた目を開ける。まばたきを何度もくり返して、溜まっていた涙を落としていく。明瞭になってきた視界。真っ先にうつったものは、口から覗くマレウスの舌先だった。
すっかり見慣れた黒い花弁が、二股の舌先にくっついている。
マレウスはそれを舌先に乗せたまま、口内にしまった。エースに見せつけるように、ゆっくりと。
マレウスはゴクリと、花弁を飲み込んだ。
「……あ!」
エースは思わず声をあげた。
──片想いをしている他者が、発症者が吐いた花に触れると感染する。
──皮膚どころか、粘膜で触れられた。
──もしマレウス先輩が、誰かに片想いしていたら……。
おさまっていた吐き気が急によみがえる。マレウスの腕の中で、エースは吐いた。
二人の間に落ちていった花弁は、黒い桜ではなかった。
白銀の百合だった。
──発症者が白銀の百合を吐いた瞬間に、発症者は完治する。
白銀の花弁を一回吐いたきり、吐き気がピタリと止まった。
──これで、治ったんだ。
──助かった。
──死ななくて済んだ。
と、喜べたのは一瞬だった。
──マレウス先輩が感染したから、治ったんだ。
──ということは、今度はマレウス先輩が……。
ぼたぼたぼた。
白銀の百合の花弁の次に落ちてきたのは、赤い桜の花弁だった。
ハートのスートのように真っ赤な花弁は、マレウスの口から吐き出されている。
数回、吐いただけで、花はいったんおさまった。
したたらせていた自身の唾液をていねいにぬぐったマレウスは、苦しそうに、エースに笑いかける。
「治したぞ……」
エースはあせる。
「あんた、何してんだ! 早く治さねえと……! 誰だ!? 誰が好きなんですか!?」
怒鳴ってから、エースは痛感した。クルーウェルやリドルたちも、こんな気持ちでいたのかと。大事な人を死なせたくないあまり、想い人を聞き出したがるのは当然だったのだと。そんな彼らを、拒んでしまったのだと。
エースは悔いてしまう。しかし後悔しているひまはない。とにかくマレウスの想い人を聞き出そうと必死だった。
つかみかかる勢いのエースの両手を、逆にマレウスがそれぞれつかんだ。
そのままマレウスは、エースをベッドに押し倒す。前触れもなくベッドに沈められたエースは「うっ」とうめいた。
二人の間にあった白銀と赤の花弁は、マレウスの魔法で、床に弾き飛ばされる。邪魔だと言わんばかりに。
エースの顔の真横のシーツに、エースの両手をグッとぬい付けたマレウスが、一言。
「お前だ」
とうとつだった。
何を言われたのか、エースは理解できない。
「オレが……なに……?」
「僕はトラッポラが好きだ」
とうとつな告白だった。
エースは言葉もなく、混乱におちいる。
マレウスは苦しそうに続ける。
「僕を治したいのなら、僕を好きになれ。……好きに、ならないと……この僕を、見殺しにして、しまうぞ……。……はは。茨の谷の、国民、たちが……黙って、いない、な……?」
またマレウスは花を吐く。エースの胸が、赤い花弁で色づいていく。大量の花に触れているのに、エースは正常だ。完治した者は、もう花吐き病にはかからないらしい。
花を浴びながら、エースはいまの状況を把握していく。
マレウスはわざと感染されたのだ。
エースを脅して、手に入れるために。
──こいつ、自分の命をかけやがった!
青ざめたエースは悲鳴のような声を出す。
「狂ってる……!」
「この恋が叶うのなら……いくらでも狂おう」
口内に残っていた花弁も吐き出し終えたマレウスは、エースの額にくちびるを寄せる。汗で濡れた生え際のラインを、さりさりと舐めていく。
求愛を受けながら、エースは絶望していた。
──こんなの、受け入れるしかないじゃん。
マレウスの恋心を跳ね除けられない理由は、茨の谷が怖いからではない。
エースにとって、マレウスは大事な人だ。良い意味で監督生に関わっていたからだ。
マレウスは監督生に『ツノ太郎』と呼ばれるほど、監督生に良く思われていた。エースとは別次元の仲の良さだった。
つまり監督生の、大事な人の一人でもある。
だから彼を死なせてはならない。
──オレの恋心を死なせてでも。
額を舐めていたマレウスの顔が横に下りていく。エースの耳介をくちびるでやわく挟み、声を吹き込む。
「疲れただろう。眠るといい」
鼓膜に直接、魔法をささやかれるエース。子守唄のような魔法は、エースの意識を徐々に沈めさせていく。
「や……だ……」
絶望とともに、エースは夢の世界に旅立った。
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マレウスはエースの両手を解放する。眠っているエースはもう抵抗せずに、無防備な姿をさらしていた。
改めてエースの格好を見下ろす。ルームウェアは、汗や花で汚れきっていた。
マレウスはエースの服を脱がせていく。下着も、すべて。
15話 作戦決行・3
監督生。異世界のヒトの子。
大事な友人だった。
別れは悲しかった。
だが永遠の別れの前に、彼は大きなものをマレウスに残してくれた。
──この『黒き異分子』って、僕のことだったりして。
彼はそう言っていた。
意味がわかれば、あとは芋づる式だった。
──ヒトの子よ、感謝するぞ。
──何気ない言葉だっただろうが、あの言葉がなければ、僕は『お告げ』を理解できないままだった。
──だから。
「本当に……感謝しているんだ」
マレウスの頬に、ひと筋の涙がつたっていく。したたり落ちた涙は、ちょうど口づけていたエースの腹に当たり、へそのくぼみに溜まった。
雑念が入ってしまった。いまはエースをかわいがりたい。
しばらくマレウスは監督生を忘れて、エースの裸体に痕をつけていく。
どのくらいの時が経ったのか、あやふやになってきた頃。
一つの気配が近づいてきていることに、マレウスは気づいた。
それは扉の向こう側で止まった。
マレウスは注意を払う。やがて気配は二つに増えて、すぐに一つに減った。
扉の向こう側にいる気配は離れない。
「……エースちゃん?」
聞こえてきたのはケイトの声だった。
マレウスはすぐに返事をせずに、様子を見る。
やや間を置いて、コンコン、とノック音が聞こえた。
どうやら帰らないようだ。
ならばマレウスがやることは一つだけ。
マレウスはエースから離れないまま、施錠の魔法を解く。
「入室を許そう。ダイヤモンド」
16話 ケイトの望み
招かれても、ケイトはすぐに扉を開かなかった。マレウスの部屋と間違えたのだと思ったからだ。
だがここはディアソムニア寮ではなく、校舎だ。深夜に生徒がいる場所ではない。
ノックをした直後の姿勢のまま、ケイトは扉越しに問いかける。
「あの……マレウスくん……だよね?」
「ああ」
「なんでここにいるの? もう夜、ていうか深夜だけど」
「トラッポラに会うためだ。いまは僕の目の前にいる」
大きくあげそうになった声をこらえて、ケイトは小声で言う。
「やっぱり、そこにエースちゃんが……」
「いる」
「……先、越されちゃった」
「そうだ。お前は遅かった。……いや、当然だな。急ぐ僕に追いつくなど、お前には不可能なのだから」
やけに意味深な言い方だ。
嫌な予感がしたケイトは、続けて言う。
「エースちゃん、さっきから返事してくれないけど、寝ちゃってるのかな」
「僕が眠らせた」
「へー……子守唄でもうたってあげたの」
「ふふ……いずれはそれで寝入ってほしいものだ」
これ以上の腹の探り合いは無駄だと、ケイトは判断した。本題に入る。
「エースちゃんに何をした?」
「お前が望んでいたことをした」
ケイトはドアノブをつかみ、勢いよく押した。
花の匂いがひどく濃い。
うすぼんやりとした室内。強い光がなくても見えた光景に、ケイトは目を見開く。
「……は?」
掛け布団と服一式が跳ね除けられたベッドの上にいるのは、エースとマレウス。あお向けに眠っているエースの上に、マレウスがまたがっている。エースを見つめながら、エースの髪をかき分けるように撫でている。
エースは全裸なのに、マレウスは服を着込んだまま。どう見ても後輩の危機だ。だというのにケイトの目を惹いたのは、床に散らばる無数の花弁だった。
持っていたままの小型ライトが、床の花弁に向く。唾液でてらてらと輝く花弁が、ケイトの目を離さない。
扉がひとりでに閉まる音をよそに、ケイトはふらふらと近寄る。だがすぐに見えない壁に弾かれた。マレウスが張った魔法の障壁だ。
体勢をくずすほどではなかったものの、握力を瞬時に弱らせるほどの勢いはあった。
小型ライトがケイトの手から抜けて、ガシャンと落ちる。筒状のそれは転がっていき、テーブルの下に隠れた。
勢いを削がれたケイトは、ようやく部屋の全体に注意を向けた。
ベッドの下の床には赤と黒の花弁の海。平たい海の中に、白銀の花弁が小舟のようにポツンとある。ベッドの上にはエースとマレウス。エースの周囲には赤い花弁が、エースの裸体には赤い痕が、無数に散らばっている。
まるで事後のような様相だった。
自ら近寄っていたのも忘れて、ケイトは後ずさる。マレウスはケイトに視線をうつして、おかしそうに言う。
「僕を忘れさせないために、証を刻んでいるだけだ。つながってはいない。いまは……な」
いずれはつながると言っているようなものだ。
ケイトはまったく安心できない。警告する。
「強姦未遂も立派な犯罪だよ」
「……犯罪?」
不思議そうにマレウスはおうむ返しをした。ケイトがうなずけば、すぐに声を殺して笑う。
「犯罪。そうか。人間はこれを犯罪と言うのか」
「トーゼンじゃん」
「ならばお前も犯罪者だな」
ケイトはこわばる。
マレウスは冷たく笑ったまま、エースの上から退いた。除けていた掛け布団を魔法で浮かせ、隠すようにエースにかぶせた。
マレウスはベッドのふちに腰かける。床の花弁を踏む。棒立ちになっているケイトを見上げて、語り始める。
「お前には世話になったからな。説明を受ける義務をやろう」
「……」
「去年の占星術の授業で、僕は当時のクラスメイトに告げられた」
「……」
「恋を叶えるお告げだ。ダイヤモンドのクラスはなかったか?」
ケイトは思い出した。
二年生の頃に行われた、恋を叶える占星術。めったにない出会いのチャンスをつかめそうな気配に、当時のケイトのクラスメイトたちは食いついた。真剣に授業に取り組んでいた彼らの様子がおもしろかったし、ふだんは不真面目な彼らを真剣にさせたベテラン教師の手腕に感心したし、何よりケイトも楽しんだ。よく覚えている。なので去年の、恋の占星術の授業はそちらもあったのかと問いかけられれば、とまどいつつも「……あった」と答えられた。
ケイトがちゃんと質問に答えたからか、マレウスは満足気に続ける。
「お告げの内容は抽象的でほとんど理解できなかったが、まったく困らなかった。当時の僕は恋とは無縁だったし、告げてきたクラスメイト──実践パートナーがミスをした可能性もあったからな。……だが、トラッポラと出会ってからは、あのお告げを無視できなくなった」
「えっ」
黙って聞いていたケイトは反応した。気づいたままに言う。
「エースちゃんのこと……好きに……?」
「なった」
「おお……」
ほんの少しだけ、ケイトはときめいた。周囲の状況を思い出して、ときめきはすぐに霧散した。
口を挟まれても気にせずに、マレウスは続ける。
「いまはお告げの内容を理解している。恋を叶えるため、僕はお告げの通りに行動した。おかげで、こうしてトラッポラを……」
突然、マレウスは前かがみになった。
マレウスの口から、赤い花弁が吐き出されていく。床を彩る赤の面積がまた増える。
花を吐く祝福に、すっかり敏感になっていたケイトが叫ぶ。
「感染したの!?」
少し吐いただけで落ち着いたマレウスは「ああ……」とやや力なく答えた。
吐き出し終えたばかりの花弁を見てから、マレウスは言う。
「言ったはずだ。『お前が望んでいたことをした』と」
ケイトがこの部屋に突撃するきっかけになった言葉を、いまさらケイトは実感する。本当に、マレウスは感染したのだ。
ケイトは頭をかきむしる。少し髪型がくずれた。
「どんなお告げをもらったら、こんなことしようって思えるんだよ。いや、それより、なんでこの部屋がわかって……聞くまでもないか。マレウスくんなら、好きな子の魔力くらい探れるだろうし。ああ……だとしてもさ、放課後で会ったとき、なんで言ってくれなかったんだよ。そしたら……」
「そしたら便乗して、感染するのは僕じゃなくて……? それこそ、お前の望み通りになるだろう」
図星を突かれたケイトはこれ以上、抗議できなかった。
反対に、マレウスは続けて言う。
「勘違いしているようだから訂正するが、最初からトラッポラの魔力を探れたわけではない。なぜか僕は機械と相性が悪いようで、機械に邪魔されて、探れなかったんだ」
ケイトはハッとする。
「それは……イデアくんが……」
「シュラウドに機械を止めてくれと、お前が願ったおかげで、僕もトラッポラのもとに行けた」
──オレが動いたから、マレウスくんも動けるようになってしまったんだ!
マレウスはケイトが校舎内を捜索している間に、エースと接触していたようだ。
そして狙い通り、感染できた。
「ダイヤモンドよ。お前は僕の期待通りの働きをしてくれた。お前に任せたおかげで、すべてうまくいったぞ」
ケイトは低い声で言う。
「オレを利用したんだ」
「……そうなるな」
マレウスは眠っているエースを見る。
「僕はずっとトラッポラを見ていた。そしてお前もだ。『太陽』のダイヤモンド」
マレウスの視線がケイトにうつる。
「お前のマネができるほど、お前も見ていた」
「オレも……?」
「ああ。片想い仲間で、共犯者だからな」
ついにマレウスは、ケイトにとどめを刺す。
「僕が先にここにいなければ、お前はトラッポラの花に触れて、感染したのをいいことに、シュラウドに付け込んでいたはずだ」
完璧に言い当てられて、今度こそケイトは全身の血の気が引いた。
目の前にいるのは、目的を果たした男の姿。
ケイトがなろうとしていた姿。
---
エースが花吐き病にかかった。
──両想いになれば、治る病気?
最初は純粋に心配して、どんな病気なのか調べた。
──これ、使えそう。
エースに会えない時が経つにつれて、欲が出てしまった。
──イデアくんを利用しよう。
あくまでも最終手段なのだと言い聞かせれば、もう止まらなかった。
──リドルくんに確認してもらったんだから、ネットに載ってた病気の情報は合ってるはず。
──これをスマホのメモに打って、イデアくんに見せて、印象づけさせて。
──そして、エースちゃんに会って。
──事故を装って、花に触って、病気をうつしてもらって。
──イデアくんを脅すんだ!
──オレを好きにならないと、オレを見殺しにしちゃうよって!!
17話 罪と罪悪感
「オレ……なんてことを……!」
マレウスと同類だ。利己主義な恋をした、犯罪者だ。
自覚した罪悪感に押しつぶされて、ケイトはくずおれた。ひざをついてしまうと、もう立ち上がれない。
目の前が真っ暗になりそうで、けれど現実はうすぼんやりと、床が見えている。視界の端にうつっている無数の花弁が、いまは恐ろしい。
身を震わせていると、「ダイヤモンド」とマレウスのかたい声が降ってきた。
おとなしくケイトは続きを聞く。
「正直に答えてくれ。トラッポラの想い人の正体は?」
その問いかけに、ケイトはマレウスの足元を見ながら即答する。
「監督生ちゃん」
答えた瞬間、張りつめていたマレウスの空気がやわらいだ。
「さすが、僕が認めた共犯者だ。もし当たっていなかったら、今夜の記憶を消すところだったぞ」
マレウスは立ち上がる。マレウスとケイトを隔てていた障壁を解く。四つん這いになっているケイトに近づき、ひざまずいた。
ケイトの肩に手を置いて、マレウスは言う。
「共犯関係はここで終わりだ。今夜の出来事をどう使うかは、ダイヤモンドに任せよう。武運を祈る」
突然、あたりが真っ暗になった。肩に置かれていた手の感触も消えている。
ケイトは顔を上げて、ひざ立ちになる。急いでスマホを起動して、ライトをつける。
マレウスがいない。エースがいたベッドも消えている。そもそも部屋が変わっている。
限られた光の中で、周囲を観察する。
少し冷静になれば、すっかり見慣れた空間だと気づけた。
ここはケイトの自室だ。
マレウスが消えたのではなく、ケイトが転移魔法をかけられたのだ。
──エースちゃん、置いてっちゃった。
それでよかったのかもしれない。ケイトはヒーローではないのだから。
ぺたんと床に座ったケイトはスマホの画面を見る。バッテリーはまだ満タンに近い。通話アプリを起動して、イデアの番号にかける。……つながらない。赤いボタンをタップして、通話画面を閉じた。
スマホの時刻はちょうど四時。念のために壁かけ時計も確認すると、同じ時刻だった。
窓がある部屋なのに暗いのだから当然だが、まだ夜明けではない。イデアにとっては、まだ作戦実行中だ。
おそらくいまも、長時間の停電とネットワーク遮断を起こした罪で、たくさんのヘイトを向けられている。
ケイトのわがままに応えたせいで。
「伝えないと……」
作戦はもう終わったのだと。
無事にエースに会えたのだと。
作戦は成功したのだと。
エースはマレウスが治したのだと。
そして、自分が企んでいた、本当の望みを。
今夜の出来事を黙ったままでは、きっとケイトは罪悪感で、イデアのそばにいられなくなる。
マレウスはエースのそばにいられるのに、自分は彼のそばにいられないなど、不公平だ。……否。ケイトが抱える恋は、他人と比べるものではない。自分からあきらめた恋心を抱えたまま、生きていたくないだけだ。
「イデアくんに伝えないと……!」
これからもイデアと会うためにも、罪の告白をしなくてはならない!
ケイトは勢いよく立ち上がる。自室を出て、寮生の光魔法ですでに照らされていた廊下を走る。鏡舎の先の、イグニハイド寮をめざして。
行っても無駄かもしれない。イグニハイド寮の門は、たぶん被害者たちがいるから開けられないだろう。
それでもケイトは走った。
すべてはイデアに会うために。
いっしょにゲームをしよう、というイデアとの約束を、近い未来で果たすために。
18話 イデアはどこへ・1
鏡舎までは走り続けるつもりでいたが、止める人物が現れた。
「ケイト! 待て!」
寮生共有のキッチンから出てきたばかりのトレイだった。
ケイトは無視しようとしたが、あせっている様子だったので、しぶしぶと止まった。顔をややしかめながら言う。
「なんだよ。急いでるんだけど」
「冷蔵庫が全部止まった! このままじゃ中の食材が全部ダメになる! お前も冷却魔法で保たせてくれ!」
そう言いきったトレイはケイトの腕をつかみ、キッチン内に連れて行こうとする。
停電で最も恐ろしいのは、冷蔵庫の中身である。それは理解できるのだが、ケイトにも外せない用事がある。
ケイトは抵抗する。
「ちょっと待って! オレ、行きたいとこがあって……!」
だがトレイの力はケイトよりずっと強い。ケイトはあえなく連行されていった。
ひんぱんに茶会を開くハーツラビュル寮には、大型冷蔵庫が複数ある。それら全ての前には、すでに起きていた生徒が陣取っていた。全員、冷蔵庫の扉を開いて、中に魔法を送っていた。
リドルの姿はない。
ケイトはトレイに問いかける。
「リドルくんは?」
一つの冷蔵庫の前に移動したトレイは振り返り、答える。
「こんなところ、あいつに見られたら、絶対に怒るだろ。どうせ朝起きられたらバレるが、長引かせたいんだよ」
女王の怒りは苛烈なのだ。ケイトも身に染みている。怒りを先送りにしたがるのは、トランプ兵なら当然だ。
機械に侵されているであろうリドルの様子をついでに見ておきたかったが、起きていないのなら仕方がない。
冷蔵庫に魔法を送っているトレイは、まだ魔法の詠唱すらしないケイトに向かって、催促する。
「お前、そろそろ仕事してくれ。デュースだってこの停電騒ぎをなんとかしようと、一人でイグニハイド寮まで行ってるんだぞ」
そのイグニハイド寮に、ケイトも行きたいのだ。
ここで振り切るよりも、同意のもとで行ったほうが、めんどうにならなさそうだ。そう判断したケイトは提案する。
「けーくんもそっち行ってくるよ。こんな深夜に一年生の子が一人っきりで出かけてるなんて、心配じゃない?」
「それは、そうだが」
もうすぐ朝になるし、まったく知らない場所ではないのだから、ケイトも行かなくていいだろう。その判断をトレイにさせる前に、ケイトは素早く口を挟む。
「もう人数的に冷蔵庫は大丈夫っぽいじゃん! 人員はかたよらせず、まんべんなくが鉄則だよ!」
トレイは並んだ冷蔵庫を見やり、決断する。
「わかったよ。行ってこい」
「了解!」
これで心置きなくイグニハイド寮に行ける。
遅れた分を取り戻そうと、ケイトはキッチンから走って出ていった。
19話 イデアはどこへ・2
道中は誰かが残していった光魔法のおかげで、深夜にも関わらず、明るかった。ケイトはスマホのライトを付けずに、目的地に到着できた。
ケイトの予想通り、イグニハイド寮の門は封鎖されていた。いらだちながらスマホを何度も見ている生徒たちが、ちらほらといる。中には自寮生もいた。ネット中毒には気をつけよう、とケイトはこっそり自戒の念を込めた。
どこかに裏口はないかと、門前の周辺をウロウロしていたら、なじみ深い一年生たちを見つけた。
デュース、ジャック、エペルだ。
情報収集のために、ケイトは三人に近づく。
「やほやほー」
ケイトに気づいたデュースが「ダイヤモンド先輩、こんばんは!」と、続けてジャックとエペルも口をそろえて「こんばんは」とあいさつした。
ケイトも「こんばんはー」とあいさつを返してから、改めて三人を見る。
「一人で行っちゃったデュースちゃんの様子を見に来たんだけど……みんなもここに来てたんだね」
デュースとジャックとエペルが順番に答える。
「はい。オルトが心配で来ました」
「いま充電できねえのに、あいつのバッテリーが切れてたらヤベェんで」
「僕たち、別にわざわざ集まったわけじゃないんですけど……みんな考えることは同じみたいで……」
ケイトは笑う。
「みんなオルトちゃんが好きなんだねえ」
三人は照れくさそうにしている。
そう。三人だけだ。
あと一人、足りない。
「セベクちゃんは?」
ケイトに問いかけられた三人のうち、エペルが答える。
「セベククンはマレウスサンを探してるみたいで……」
「あの人もいなくなるなんて、どうしたんだろうな」
そう続いたジャックの言葉に、ケイトはこっそり冷や汗をかく。マレウスはいま、エースを犯している最中だ。マレウスをかばう気はないが、エースの沽券に関わっている。絶対に言えない。
あと、聞き逃せない言葉があった。
ジャックが言った『あの人もいなくなる』とは。
「マレウスくん『も』いなくなった。ってことは、もしかしてイデアくんも行方不明中?」
ケイトの問いかけに、デュースは答える。
「はい。イグニハイドの寮生が寮長室をこじ開けたそうですが、そこはもぬけの空だったらしいです」
ケイトは驚く。作戦開始からずっと自室に閉じこもっていると思っていたのに。
「どこに逃げたんだか」
ジャックが忌々しげに言ったとおり、おそらくイデアは逃げたのだ。その判断は正しい。こうして自室を突破されたのだから。
ケイトは思わず「やば……」とつぶやいた。
停電だろうとネットワーク遮断があろうと、変わらず最強レベルのセキュリティが施されているであろうイグニハイドの寮長室の扉まで突破されている。
ケイトが予想していた以上に、周囲は熱心に、イデアを追いつめようとしている。
---
主犯だと疑われたうえに、自室を追い出されたようなものだ。主犯なのは本当だが、作戦がなければそもそもやらなかったことだ。
イデアにとってはただ分が悪いだけの、夜明けまでというタイムリミットなど──ケイトとの約束など、もうやぶってしまえばいい。
なのに停電とネットワーク遮断はまだ続いている。作戦はまだ遂行し続けてくれている。
──イデアくん。どうして、ここまでしてくれるの?
イデアはどこに逃げたのだろう。作戦は成功したのだと、早く伝えたい。なのにイデアの行方はわからない。
どうすればイデアに会えるのか。ケイトは思考に沈んでいく。
---
急に神妙な面持ちで黙り込んだケイトを、三人は見る。
「ケイトサン?」
「あー……うん……」
エペルに呼ばれても、ケイトは生返事しかしない。
デュースはケイトを心配し始める。逆にエペルはいぶかしみ、さらに呼びかける。
「ケイトサン! なにボーッとしてるんですか!」
「あっ、えーと」
こうも声をはられると、さすがに無視はできない。ケイトは白状する。
「実はけーくん、昨日の放課後にオルトちゃんにバッタリ会ったんだよね」
ウソは言っていない。作戦に必要な小型ライトをオルトが用意して、ケイトに持ってきてくれたのだから、会っている。
ジャックがケイトに近づく。ケイトに嫌がられない範囲内で、すん、と鼻を鳴らす。
「……確かにオイルの匂いがするな」
「……ハグしたからね!」
これもウソではない。作戦成功を願って、オルトはケイトにハグをプレゼントしてくれた。
その際に、オルトに自慢されたのを覚えている。
──兄さんね、僕に新しい潤滑オイルをさしてくれたんだ! 動きやすくって最高だよ!
そのオイルの匂いが、ハグしたときに服についたらしい。
ケイトは思わずつぶやく。
「オルトちゃん、元気そうだったけど、いまも大丈夫かな……」
「ケイトサンもオルトクンを心配してくれてるんですね」
ジャックの証言もあり、エペルは納得したようだ。いまはケイトに笑顔を見せている。
ケイトは心の中でホッとした。怪しまれながらだと、イデアを探しづらくなる。
今度はデュースがケイトに声をかける。
「オルトならシュラウド先輩を見捨てません! きっと一緒に逃げて、シュラウド先輩をサポートしてます!」
「それだと共犯になるじゃねーか」
ジャックが口を挟んだ。ぶっきらぼうな言い方だったが、耳は心配そうにしおれている。オルトがこの騒動に関わっているかもしれないことに、思うことがあるのだろう。「イデアサンもいるなら、バッテリーが切れる心配はない、かな」とエペルがフォローしても、ケイトの良心はチクチクと痛んだままだ。
20話 イデアはどこへ・3
もう三人から得られる情報はないだろう。そろそろここから離れようかとケイトが判断しかけた時。
ジャックがピンと耳を立てた。ぐるりと首を動かして、ある一点を見つめている。
ケイトたちにとっては突然の行動だった。つられてジャックが見ている方向に目をやる。
門と鏡舎をつなぐ大階段があった。門前にいるケイトたちからだと、大階段の最上部しか見えない。
デュースが問いかける。
「どうしたんだ? ジャック」
「さっきまで俺たちの近くにいたフロイド先輩が、急に走って階段を下りていった」
エペルとデュースが首をかしげる。顔を見合わせて、交互に言う。
「一人で、ここに?」
「リーチ先輩もシュラウド先輩に会いに来たのか?」
「……そうかも。主犯を叩けばこの騒ぎも解決するし。あの先輩なら、困ったときも力づくでやる、かな」
「あの人にも『困る』って感情があるんだな……」
「それにしちゃ困ってる様子じゃなかったがな」
そう言ったのは、実際に見たであろうジャックだった。
新情報の予感がしたケイトは「どんな様子だったの?」と問いかけた。
ジャックは不思議そうに答える。
「怒ってました。なんか、『よくも金魚ちゃん──』続きは聞き取れなかったんですけど、そう言ってて……なんでそこでリドル先輩が出てきたのかわからねえ」
金魚ちゃん、という単語が聞こえて、ケイトはジャックを凝視する。
「それ……ホント?」
ジャックはジロリとケイトを見る。
「ウソついてどうするんすか」
とっさにケイトはへらりと笑って「ごめんごめん」と謝った。けれど内心は動揺していた。
---
イデアが起こした騒動と、リドルの名を言ったフロイド。その二つが結びつくことなど、簡単に想像できる。
脳を機械に侵されて苦しんでいるリドルを、おそらくフロイドが気づいた。機械といえばイデアだ。イデアをどうにかすれば、リドルが治る。そう判断したら、とにかくイデアを探すはずだ。
恋人を害されたことに、怒りながら。
そして探している最中に、急に駆け出した。ということは、明確な目標が見つかったからだ。
その目標物が、イデアだったとしたら……。
---
最悪な結末を思い描いたケイトは走り出そうとして、理性で止めた。ここで急に走り出したら怪しまれる。
なのでケイトは笑顔で三人に手を振る。
「デュースちゃんたちの様子も見れたし、先に帰ってるよ。じゃあね!」
ウソだ。ケイトはまだハーツラビュル寮には帰らない。
三人の返事をまばらに聞いて、ケイトは歩いてその場を離れる。三人の視界から外れた途端、笑顔を引っ込める。やっと走れる!
ケイトは大階段を駆け下りていく。その最中に、嗅覚上昇の魔法を自身にかける。ジャックの言葉を信じるのなら、大階段に付いた最新の匂いが、フロイドの匂いだ。
大階段を下りきったあとも、付いたばかりの匂いは途切れない。それは鏡舎ではなく、霧がただよっている湖周辺まで続いている。
ケイトは霧の中を突っ込んでいく。最初からひどく霧が濃い。暗闇も相まって、視界がほとんどきかない。濃霧のせいで、匂いはもううすまり始めている。匂いを逃がさないために、走るのをやめた。駆け出しそうになる足を必死に止めて、匂いに集中して、小走りで追っていく。
---
やがて霧がうすい場所に出られた。夜明けが近いのか、周囲は明るくなってきている。
すっかりイグニハイド寮から離れた、静かな場所。波風が立っていない湖のすぐそばにある、霧で囲まれた空間の中央に、フロイドはいた。
彼の周辺の岩場は濡れていて、てかてかしている。霧の水分にしては色が濃い。フロイドがマジカルペンを持っているから、水魔法を使ったのだろう。
そして、フロイドがにらみつけているのは。
「イデアくん!!」
うずくまっているオルトに覆いかぶさっている、生身のイデアだった。
21話 疑わしきは追え・1
イグニハイド寮前にある、鏡舎に続く鏡の前。エペルは顔をくちゃくちゃにしかめていた。
「帰りたぐね……」
エペルはヴィルに無断で、深夜に抜け出したのだ。しかもほぼ徹夜なので、外出というよりは外泊だ。
無断外泊に加えて、美の敵である夜ふかしの罪。遅かれ早かれ、叱責は必ずやってくる。ならば早く済ませたほうがいい。なのにエペルの足は動かない。
「帰りたぐねぇ……」
意味のないつぶやきをもう一度繰り返して、棒立ちになってしまうほどに、エペルは帰寮をしぶっていた。
デュースはエペルの気持ちがよくわかる。心の底から同意する。
「怖いよな……帰りたくないよな……わかるぞ」
寮長の怒りは、寮生の恐怖。例外のジャックだけが、エペルの背中を押す。
「あとは俺らに任せて、とりあえずお前は帰っとけ。正直に話しとけば、ヴィル先輩だってめちゃくちゃに叱ったりしねえよ」
エペルが立ち尽くすこと、数秒。
「……うん」
ついにエペルは決意した。
デュースとジャックに体を向けて、言う。
「うだうだしてゴメン。僕、帰るよ。また学園で、ね」
「ああ! またな!」
「いちおう仮眠はとっとけよ。一時間だけでも効果はあるからな」
「うん。おやすみ。デュースクン、ジャッククン」
エペルは鏡の中に入っていった。
残された二人は鏡の前から離れていく。
大階段の前に戻った。周囲に誰もいないことを確認してから、ジャックはデュースに言う。
「これからのことだが」
「ああ」
「ケイト先輩のあとを追うぞ」
デュースはキョトンとする。問いかける。
「ダイヤモンド先輩ならうちの寮に帰ったが。うちに来るのか?」
「違え。……あー」
言いにくそうに、ジャックは続ける。
「あの人、なんか……きな臭えんだよ」
デュースはジャックをにらみ、吠える。
「先輩がオルトをさらったって言いてえのか!?」
「それがわかんねえから、あとを追うって言ってんだ!」
あっけなく勢いを削がれたデュースは「どういうことだ?」と素直に問いかけた。
ジャックは答える。
「あの人、いっつもマジカメやってんだろ。明らかにネットから離れられねえ人だ」
「そうだな。いつもスマホを触ってるぞ」
「そんな人が、元凶のイグニハイド寮に来てなかった」
「さっき来てただろ」
「……すぐにここに来た俺たちとずっと会ってなかったから、すぐには来てないだろ」
「ああ! 確かに」
「じゃあ、俺たちと会うまで、どこにいた?」
「それは、うちの寮に……あ」
──そういえば、ダイヤモンド先輩は、どこにいたんだ?
改めてデュースは停電とネットワーク遮断が起こった時を思い出す。
---
その時、デュースは寝ていた。いきなりルームメイトに揺すり起こされた。
いわく、ネットがつながらない。ベッドサイドライトが点かない。いつもは誰にも迷惑をかけないタイプの夜ふかし常習者だったが、さすがに今回は寮全体に被害が出ていそうだったため、起こしたそうだ。
他の部屋の夜ふかし常習者たちの手もあって、情報はまたたく間に寮全体に共有されていった。つまり、ほぼ全員、起こされたのだ。
そこにケイトはいただろうか。
「うちの寮には……いなかった……」
だからトレイは常に忙しそうだった。
それを見かねたから、デュースはトレイの許可をもらい、単身でイグニハイド寮に向かったのだ。もちろん、オルトが心配なのもあった。
イグニハイド寮に着いて、デュースはすぐに大階段を上がった。その先でジャックとエペルに会った。門は閉じていた。イデアに会えなかったから、三人でオルトを探した。鏡の前には常に誰かが見張っているから、イグニハイド寮からは脱出できないはず。なので三人もイグニハイド寮に留まり、寮の周辺を探した。途中でセベクにも会ったが、『若様がどこに行かれたか知らないか!?』と叫んできて、知らないと伝えれば、あとは一言か二言ほど言葉を交わして、別れた。気を取り直して、そのあとも寮の周辺を、行ける範囲まで探していった。気分転換にふたたび大階段を上がって門前に戻れば、イデアは寮長室にいないことが発覚していた。
その間、デュースたちは一度も、ケイトを見かけてすらいない。
---
「どこに……いたんだ?」
思わずデュースはつぶやいた。
ジャックは言う。
「いまは、あの先にいる」
ジャックの視線の先を、デュースも見る。
寮の周辺の中でも、ひときわ濃い霧が立ち込めている。教師や先輩たちの許可もなく入るのは危険だと判断して、オルトを探しているときでも入らなかったところだ。
ジャックはうなる。
「ケイト先輩の匂いが、あの先に続いてんだ。あっちの鏡じゃなくてな。先に帰るってのはウソだったんだよ」
「そんな……じゃあ、先輩がオルトを……」
「まだ決まってねえし、これだけで犯人扱いなんざ、あんまりだ。だから……確かめてえんだよ!」
ジャックはユニーク魔法をとなえる。巨大な白狼の姿に変わる。デュースの横で四本足をたたむ。
「乗れ! お前も行くだろ!」
問いかけではなく、確信だった。
ジャックのつがいは、信頼している先輩に裏切られたかもしれないショックを、いつまでも引きずる男ではないのだ。
ジャックの期待通り、デュースは力強くうなずいた。
オルトの安否を心配しつつも、二人は心のどこかでずっと、今回の騒動を楽観的に見ていた。きっとエペルもだ。
ただのイデアのやらかしだろうと。全寮を巻き込んだ割には、どうせ大したことない理由だろうと。不甲斐ない兄に、オルトは仕方なく巻き込まれてあげただけだろうと。
けれど、無関係だと思われていたケイトも関わっているかもしれないのなら、話は変わってくる。
抜け目のないケイト相手だと、事態がどう転ぶか未知数なのだ。良い意味でも、悪い意味でも。
もし悪い意味なら、目も当てられない事態になる恐れがあった。
二人の心は同じだ。
この濃霧の先を進むと決めた。教師や先輩たちの許可など、いらない。
オルトの無事を、早くこの目で確認したい。
「超特急で頼む!!」
デュースはジャックの背中に乗る。ふわふわした長毛を遠慮なく両手でわしづかむ。
背中に伝わるぬくもりに向かって、ジャックは立ち上がりながら忠告する。
「振り落とされんなよ!」
「当然だ! こちとらマジホイで鍛えられてんだ!」
「よし、行くぞ!」
ジャックはデュースを乗せて、駆け出した。
22話 疑わしきは追え・2
白狼の姿になれば、嗅覚の性能は、いつもの獣人の姿よりも格段に上がる。濃霧の中をほぼ全速力で走りながらでも、ケイトの匂いを的確に追えた。
走りに特化した四本足は、人が走るよりもはるかに早い時間で、ジャックが異変を感じ取れる位置まで移動できた。
まだまだ深い霧の中。ケイトの姿は見えていない。なのにジャックはデュースを振り落とさない程度に、ゆるやかに止まった。
ジャックに乗ったまま、デュースは問いかける。
「どうしたんだ?」
ジャックは鼻をすんすんと鳴らしてから、答える。
「匂いが混ざってきた。これは……オルトのオイルか?」
「マジか!?」
「さっきケイト先輩から嗅いだばかりのオイルと同じやつだ。オルトとハグした時についたって話が本当なら、オルトのだ。しかも新しい」
「じゃあオルトはこの近くにいるんだな!」
「そうなんだが……匂いの数が多い」
「多い?」
「ケイト先輩と、オルトと、イデア先輩の三つだと自然なんだが……四つ、あるんだよ」
「四つも」
「ケイト先輩とオルトので、二つだ。つまり、あと二つある。状況的に一つはイデア先輩のだと思うが……もう一つは誰のだ?」
「ジャックにもわからないのか」
「……どこかで嗅いだことがあっても、全部覚えてるわけじゃねえからな」
ややふてくされたようなジャックの声色。
デュースは毛をつかんでいた手を離す。
「そう落ち込むな! お前はよくやってるぞ!」
元気づけさせようと笑顔で、ジャックの背中で腹ばいになり、ジャックの頭を両手でわしわしとなでた。
恋人というよりは犬扱いだ。ジャックは低くうなる。
「おい、やめろ……あ?」
ジャックはまた鼻を鳴らす。耳を立てて、くりくりと動かしながら、言う。
「水の匂いもしてきた」
デュースはジャックをなでていた手を止めて、腹ばいのまま言う。
「湖ならすぐそこにあるからな」
「いや、湖からじゃねえ。これは……」
せわしなく動いていたジャックの耳が、ある方向に向いた。
「あっちからイデア先輩の声が──」
した、とジャックが言い切る前に。
突風が二人を襲った。
熱を帯びた風は、ジャックの体をわずかによろけさせた。ジャックより遥かに軽いデュースの体は、あっけなく吹き飛ばされた。
「デュース!!」
ジャックは瞬発力を発揮する。デュースが地面にぶつかる前に、大きな口でデュースをくわえた。
デュースを囲うように巨体を丸めて、まだ続く突風からかばう。
ジャックにくわえられながら、デュースは叫ぶ。
「ジャック!! 俺をかばうな! こんなのフェアじゃねえ!」
口が不自由なジャックは何も言い返せない。ぐっと黙って、こらえている。
ジャックの体のりんかくから漏れ入っている風が、だんだん弱まってきているのを、デュースは感じる。
「おい! そろそろ離せ! もう大丈夫だろ!」
ジャックもそう判断して、そっとデュースを解放する。先ほどのデュースの文句に反論する。
「『かばうな』だあ!? うるせえ! つがいを守って何が悪い!」
「俺だって守りたかった!」
「適材適所ってもんがあんだろが! てめえの体じゃあ耐えられねえ! ぶっ飛ばされて、しまいだ!」
「ぐ……っ!」
言い負かされたデュースは、歯を食いしばる。どこにも振るえない拳を、ただほどいた。
「ありがとう……。感謝は、してる」
「……」
「でも! 受け身はとってたからな!」
「わかってるよ……」
デュースは強い。自分の身は自分で守れることくらい、ジャックもわかっている。だが、理屈ではないのだ。つがいを守りたいと思う気持ちは。
デュースはそこがいまいち理解できていない。いまも警戒しながらとはいえ、ジャックの体のかげから出ようとしている。
しかしジャックも過保護ではない。初出のとき以上の突風はもうないだろうと判断すれば、デュースの自由にさせる。
いまも風が吹いている方向を、デュースとジャックは見る。
いったい何が起こったのか。
「……」
「……」
風が熱かったから、炎があがったという予想はしていた。
けれど、美醜の程度までは予想できていなかった。
二人の目が、しばし釘付けになる。
風で霧が晴らされた、その先にあったものに。
それは夜明けの太陽だった。
23話 夜明けの太陽
ケイトに気づいたフロイドが、ケイトを見やる。無表情で、瞳孔はずいぶんと開いている。
「……あ? ハナダイくんじゃん。なんでこんなとこにいんの?」
「それは……」
ケイトの脳内を占めているのは、フロイドの問いかけにどう答えるかよりも、イデアとオルトの安否だった。
改めて二人の容態を遠目で確認する。
気を失っているのだろう。イデアはオルトに覆いかぶさった姿勢のまま、動かない。オルトもまったく動かずにいる。スリープモードに入っているだけだと思いたい。
顔を伏せているイデアもオルトも、二人の周囲の地面も濡れていない。水魔法を浴びていないようだ。代わりにそこ以外の一帯はびしょ濡れで、水の匂いに酔いそうだった。
やっとケイトは自身にかけていた嗅覚上昇の魔法を思い出す。ペンを握り、魔法を解いて、濃い匂いから脱出した。
何も答えないどころか、勝手に魔法を解除しだしたケイトを、フロイドは気に食わなかったようだ。
イデアとオルトに向けていた体をケイトに向けて、フロイドは低い声で問いつめる。
「なあ、何してんの? オレのこと、無視してる?」
「してない……」
「じゃあ答えろ。なんで、ここに、いんの?」
考えるひまはなかった。ケイトは思うままに言う。
「イデアくんとオルトちゃんを助けに来た」
「……ふーん」
適当な返事なのに、フロイドは青筋を立てた真顔のままだ。
イデアとオルトから離れていくフロイド。とりあえず二人がすぐ害される恐れはなくなったらしい。
代わりに近づかれたのはケイトだった。フロイドのターゲットが変わったのだ。
「助けに来たってことはさあ……オレの邪魔をするってことだよなあ……?」
フロイドはペンを構える。ふくれた魔力が、生み出した水に込められていく。圧縮された水は、人間の鼻でも感じとれるほどの匂いを放っている。強力な水圧で、ケイトを攻撃するつもりだ。
──まずいな。
ケイトもとりあえずペンを構えたが、スマートな対処法が思いつかない。
水魔法がケイトに向かって放たれた。
まずは防壁をはろうと、詠唱を始めた瞬間だった。
イデアがハッと顔を上げた。
強い怒りが込められたフロイドの魔力を感じ取って、目を覚ましたのだろう。
水魔法がケイトに迫る中。起きたばかりのイデアの目と、ケイトの目が合う。
スローモーションのように、イデアの口が開かれる。
「ケイト!!」
タブレット越しではない、生身の声。
攻撃を受けたらそのまま怪我をしてしまう、生身の姿。
もしここで自分がやられたら、この攻撃が、今度はイデアに向けられてしまう。
その思考に至ったケイトは。
なりふり構っていられなかった。
防御魔法から、瞬時に攻撃魔法に切り替える。
フロイドを攻撃するためではない。
圧倒的な実力差を見せつけるためだ。
ケイトたちを中心に囲うように、爆炎が巻き起こった。
膨大な熱に触れただけで、フロイドの水魔法はすべて一瞬で蒸発した。残された水蒸気も、熱を帯びた突風に巻き込まれていった。
イデアたちを吹き飛ばさないように、彼らがいる中央部の風は抑えたが、爆炎の外周はきっと悲惨なことになっている。ケイトには関係ない。
そう。ケイトは周囲の状況など、まったく気にしていなかった。
すべてはイデアを害させないため。
恋しい者しか考えていない、利己主義な暴君。
風で髪が激しくなびいているケイトの背後を彩る爆炎は、スマートさのかけらもない、苛烈なもの。
女王の怒りが苛烈ならば。
前女王の怒りも苛烈なのだ。
そしてイデアとフロイドは見た。
澄んだオレンジ色の──まるで夜明けの太陽のような色の光が、あたりを支配している様を。
たったいま、この一帯の夜が明けた。
「夜明けの太陽光を確認。再起動します」
オルトの声がした。
イデアにかばわれていたオルトが、ふわりと浮く。目を閉じたままイデアから離れて、空に向かって両手を広げた。
手のひらの関節部の隙間から蒼い光が漏れて、空に昇っていく。もやのような光は収束を始め、ビー玉サイズの光球になり、バシュン、と高速で放たれた。
光球が目指した先は、イグニハイド寮。寮の外壁をすり抜けて、寮内に残していたメインシステムにぶつかった。
光球を受けて、駆動を再開するメインシステム。電気が、ネットワークが、復旧していく。
夜間モードにしていなかったフロイドのスマホが、通知を受けて震える。
フロイドは「あ」とだけ言って、スマホを取り出す。画面を見て、つぶやく。
「つながった」
ペンをしまうフロイドからは、もう敵意が感じられなかった。
ケイトはオルトを見つめたまま、炎魔法を解除する。ペンをしまう。風に巻き上げられた髪は、すっかりボサボサになっていた。
地面に着地したオルトの目が開かれる。イデアを見る。
「おはよう、兄さん! 電気とネットワークはつなげたよ!」
イデアはあたふたと言う。
「あ、ありがと、オルト。でも、えーと」
「兄さん?」
「実はまだ、夜明けじゃなくて……」
ざり、と音がした。
イデアとオルトは音がしたほうを見る。
ケイトだった。
爆炎ですっかり乾いた地面の上を、ケイトは、ざり、ざり、と歩いている。二人に近づいていく。
ケイトの目の前にオルトは移動する。
「おはよう、ケイト・ダイヤモンドさん! 作戦はどうなったの?」
ケイトがオルトを見ながら何かを言う前に、イデアは二人の間に割り込む。
ケイトの目がイデアに向けられる。イデアはケイトと目が合わせられない。目をそらしながら、あわあわと手をあげて、早口で弁明していく。
「ケイト氏。あの、これは、拙者の余計な気づかいと言いますか、ほんとはオルトに内蔵された時計だけでもよかったんだけど、もしかしたら、もしかしたら壊れる可能性もなきにしもあらずで、そしたらタイムリミットが来ても電気もネットも復旧させられないし、いや、部屋に閉じこもってればオルトに遠隔操作してもらわなくてもいいし、そもそも部屋に予備バッテリーがあるんだから、内蔵バッテリー節約のためにオルトをスリープさせなくていいんだけど、やっぱいつかは部屋から脱出しなくちゃで、メインシステムは部屋にがっつり固定してて持ち運びなんてできないし、でも拙者たちはそこから離れなくちゃいけないし、まあ離れるのは想定内ですし、ちゃんと対策もしてましてな、拙者たちが離れてもオルトがいなくちゃメインシステムは動かせないようにしたし、スリープ中のオルトを軽く運べるように反重力物質で浮かせるようにしたし、拙者の体臭もオルトの関節の潤滑オイルも作戦前にあらかじめ変えといて、すでに拙者たちの匂いを知ってる獣人や人魚相手でも匂いで追えないようにしましたし、そのうえ光学迷彩マントで姿も消して寮から脱出なんてお茶の子さいさいでしたわ、まあゴーストみたいに通り抜けられるわけではないんで、鏡をくぐったら波紋で一発でバレるから鏡舎には行けなかったわけでして、それでも霧の中で隠れてやり過ごせば、オルトの内蔵時計だけで再起動はできますし、そう思って安心して待ってたら、なんかヤクザがやってきたし、めちゃくちゃ怒ってたし、もう拙者、オルトを抱えてバリアをはるので精一杯で、こ、怖くて、いつのまにか気絶しちゃってて、でもあのままやり過ごせてたら、けっきょく時計だけでオルトは起きられたんだし……や、やっぱり、余計だったよね。時計が壊れてもいいように、夜明けの強い光を浴びるだけでも、オルトが起きて、電気とネットを復旧させられるように、なんて」
「イデアくん」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい夜明けまでという約束をやぶってごめんなさい」
「イデアくん」
「は……はい……」
とうとう観念したイデアは、おそるおそるケイトと目を合わせる。
ケイトは怒っていなかった。
ただ、イデアを見つめている。
「イデアくん」
「……ケイト氏?」
「イデアくん。イデアくん。イデアくん……!」
ケイトはイデアの話を聞いていなかった。
何も耳に入らず、ただひたすらに、イデアの存在を感じていた。
「作戦……成功したよ……」
「え……」
「エースちゃんに……会えたよ……!」
「……本当に、会えたんだ。エース氏に……」
意識のないエースに会えただけなのに。
花吐き病を治したのはマレウスなのに。
まだ罪の告白はしていないのに。
まだ許されたわけではないのに。
またイデアの声を聞けて。
またイデアに会えて。
「よかった」
こうして、やわらかく笑って、作戦成功をいっしょに喜んでくれただけで。
やっとケイトは、心の底から安心できた。
「うわあああああああああああん!!」
ケイトは大声をあげて、泣いた。
涙とともにあふれる恋しさのままに、イデアに抱きついた。
イデアの肩に顔を埋めて泣き続けるケイト。イデアはどうしたらいいのかわからない。わからないけれど、とにかく泣き止ませたかった。
弁明の際に中途半端にあげていた腕で、おそるおそる、ケイトを抱きしめる。
二つのやわらかい影が重なる。霧はすっかり晴れていた。あらわになった湖面から、オレンジ色の光が覗こうとしている。
現実の夜も明けそうだ。
24話 一件落着
オルトは自分たちに近づいてくる存在に気づいた。
白狼の姿で駆けているジャックと、ジャックの背中に乗っているデュースだ。
「オルト!」
「オルトー!」
「ジャック・ハウルさん! デュース・スペードさん!」
オルトはケイトとイデアを置いて、二人に向かって飛ぶ。
中間地点で、三人は合流した。
ジャックはオルトに問いかける。
「何があったんだ!?」
オルトはにこりと笑いながら白状する。
「ごめんね! 停電とネットワーク遮断を起こしたのは僕たちなんだ!」
ジャックから降りたデュースは確認する。
「えーと、それはオルトと、シュラウド先輩と……?」
「ケイト・ダイヤモンドさん!」
「マジか……!」
ケイトも今回の騒動の共犯者だったことをオルトに明かされて、デュースはショックを受けた。
これだけで動揺されてしまったオルトは、さらに明かそうか迷う。ケイトはエースに会うために、今回の騒動を起こしたことを。
高速で迷った結果、オルトからは明かさないことにした。騒動を起こした責任を取る際に、ケイト自ら、明かしてくれるだろう。
まだケイトのことで動揺したままのデュースは、勢いで問いかける。
「じゃあ、さらわれてないってことでいいのか!?」
オルトは問い返す。
「さらわれた? 誰が、誰に?」
「オルトが、ダイヤモンド先輩に」
「ええ!? 違うよ! ケイト・ダイヤモンドさんはそんなことしないよ!」
オルトはあわてて首を振った。その全力の否定を、ジャックは素直にうなずけない。
あの突風を放ってきた炎は、魔力の出どころを見るに、間違いなくケイトが起こしたものだ。
ケイトはそれを、ジャックたちに食らわせた。ケイトにとってはかわいい後輩のはずの、ジャックたちに。
目的のためなら周りを害しても構わないと考えなければ、できないことだ。たとえ無意識だったとしても。
やはりケイトは危険な先輩だ。オルト誘拐の疑いが晴れても、気を許せない。
「……はあ」
それでもジャックは、ケイトの魔法の巻きぞえを、つがいのデュースに食らわせたことに文句を言わない。
サバナクロー寮は弱肉強食がモットー。よその戦闘の巻きぞえ程度で、文句を言うほうがおかしい。むしろそれでつがいを守れないほうが悪いのだ。
一方デュースは、突風に吹き飛ばされたことは覚えていても、ケイトに害されたという発想には至らなかった。
「ダイヤモンド先輩もこの騒動を起こしてたのは、少しショックだが、僕たちは……オルトが無事だったんなら、もうそれでいいんだ。エペルたちも、そう思ってくれるはずだ」
そのデュースの言葉に、ジャックはうなずく。遠くにいるケイトとイデアを見る。
二人は抱きしめ合ったままだ。ケイトがすすり泣きながらイデアに何かを言っているようだが、小声なので、ジャックにも聞き取れない。イデアが何度もうなずいているから、受け入れられない話ではないのだろう。
「俺たちに被害がなきゃ、あの人たちはあの人たちで、勝手にやってくれって感じだな」
ジャックはもう遠くの二人に興味がない。ユニーク魔法を解いて、獣人の姿に戻った。
反対に、デュースは遠くの二人に興味津々だった。顔を赤らめて、気まずそうに言う。
「知らなかったな。まさかダイヤモンド先輩とシュラウド先輩が、つ、付き合って、いたなんて」
ジャックとオルトは反論する。
「はあ? くっついてるだけでか? 飛躍しすぎじゃねえのか」
「兄さんとケイト・ダイヤモンドさんは付き合ってないよ!」
「え!? あんなに長くハグしてるのに!?」
異常だと言わんばかりのデュースに、ジャックは呆れる。
「だから、それだけじゃあ、付き合ってるなんて──」
まだ言っている途中のジャックに、デュースは爆弾を落とす。
「ジャックが僕にいっぱいハグしてくるのは、付き合ってるからだろ?」
「……」
「あと、よく舐めてくるのも──」
「やめろ!!」
二人きりならともかく、いまはオルトがいるのだ。赤裸々に語られてはたまらない。
オルトがフォローする。
「大丈夫だよ! ヒューマノイドとして、そういう知識はインプットされてるから!」
「それはそれでいたたまれねえよ……!」
無邪気なオルトも見ていられなくなり、たまらずジャックは顔を背ける。
その視線の先に偶然あった光景に、ジャックは羞恥を忘れて、目を瞬かせる。
ひとけがない場所のはずなのに、人が走っていた。ジャックたちから離れていく後ろ姿は、髪型を見るに、おそらくフロイドだ。足取りがやけに軽い。機嫌が良いらしい。
ジャックはハッとする。
──あの匂い……あいつのだったか!
ケイトのあとを追っている最中。四つあった匂いのうちの一つの正体は、フロイドだったようだ。
あらぬ方に目をやったかと思えば、また突然顔をしかめだしたジャックの奇行に、デュースとオルトは不思議がる。
25話 フロイドの動機
朝。いつもより遅い時間に、リドルは目を覚ました。
ベッドの中にいるリドルの上で、何かがもそもそと動いている。慣れたリドルはそれが何なのかをすぐに察した。
たぶんフロイドだ。
「ばあ」
リドルのすぐ正面で、掛け布団の中から顔を出したのは、やはりフロイドだった。フロイドでなければ燃やしている。
ほぼ毎朝、フロイドはこうしてベッドの中に潜り込んで、リドルを起こしにくる。すっかり目覚まし時計の代わりになったフロイドに、リドルは寝ぼけまなこであいさつをする。
「おはよう」
「おはよ〜」
機嫌よくあいさつをしたフロイドは、顔を伏せて、リドルの胸に甘えた。
リドルは小さく笑いながら、いつものように、形だけしかる。
「こら。また忍び込んできたのかい」
「んふふ。窓の鍵、開けといてるくせに」
「閉めてやってもいいんだよ」
「いいよ〜。そんときゃ何度でも窓、叩いちゃうから」
「およし」
くすくすと笑い合う。リドルの首にリップ音を鳴らしてから、フロイドは言う。
「ハナダイくんとケンカしちゃった」
リドルはパチクリとまばたきをする。すぐ近くにあるフロイドの目を見る。
「それはまた……命知らずなことをしたね」
「丸焼きにされるかと思った〜。あは」
「どうしてケンカしたんだい。答えによっては……おわかりだね?」
リドルから少し不穏な空気がただよう。まだベッドの中でリドルに甘えたいフロイドは、機嫌を悪くさせないよう、すぐに答える。
「金魚ちゃんとお話し中だったのに、電話、切れちゃったじゃん」
零時直前に、スマホで通話していたときの事だ。
リドルは疑問のままに言う。
「……あれは君から切ったんじゃなかったのかい」
「金魚ちゃんからかけてくれたんだよ? オレから切るわけない」
恥ずかしいことを言われた気がするが、リドルは突っかからない。
フロイドは続けて言う。
「いきなりつながらなくなるなんてさあ、ホタルイカ先輩のしわざに決まってんじゃん」
「そうとは限らないけれど」
「限るし。ここいらのネットって、ホタルイカ先輩が仕切ってんでしょ? 障害が起こったって、あの先輩ならすぐ直せるはずなのにさあ……待っても待っても直らないってことは、もう、あいつが犯人だよねえ」
短絡的な思考に、リドルは呆れる。続きを催促する。
「……それで、実際はどうだったんだい」
「犯人っぽかったから、シメた。その途中でハナダイくんがやってきてさ、『助けに来た』なんて言うからさあ……」
「なるほど、わかったよ。逆にシメ返されたわけだ」
リドルは得意げに言った。
フロイドは不思議そうに言う。
「つーかさあ、金魚ちゃん、全然苦しくなさそうじゃね? 電話してきたときは死にそうだったのに」
「あれは……」
リドルは思い出す。深夜に、突然目を覚ましてしまったときだ。
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脳がガンガン揺さぶられているかのような気持ち悪さが、急にリドルを襲った。
何の前触れもなく起こった頭痛。一人ではどうにもできず、とにかく助けを求めようと、枕元にあったスマホを手探りで取った。
誰に助けてもらおうか。
痛む頭で思い描いたのは、一番頼りになるはずの副寮長のトレイではなく、恋人のフロイドの姿だった。
効率など考えられず、リドルはフロイドに電話をかけた。
深夜にも関わらず、フロイドは出てくれた。
助けてほしいと言いたくても、口から出てくるのは、ぜいぜいとあえぐ息づかいだけ。
異常を感じ取ったフロイドのあせったような声が聞こえて、ようやくリドルは言葉を出す。
──このまま、声を聞かせてくれ。
リドルが求めたのは、物理的な介助ではなく、フロイドの声だった。
電話越しのフロイドの声を聞くだけで、気持ち悪さが激減したのだ。
フロイドの声は、リドルに安心を与えてくれる。乱れていた脳を癒してくれる。
あらかった息づかいが、すうっとおさまった。
──電話の君の声、いつもと違う気がして、好きだな。
最後にそう言えば、通話が切れた。
フロイドから切るなんて珍しいと思いつつも、リドルは特に気にしなかった。健康体に戻ったまま寝て、いまに至る。
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それら一連の出来事と自身の想いを、リドルはフロイドに打ち明けた。
フロイドは顔を赤らめて、トロンとした目で言う。
「オレの声聞くだけで治っちゃったなんて、すげえ告白じゃ〜〜ん。あーあ。ホタルイカ先輩なんてシメに行かないで、すぐ金魚ちゃんに会いに行けばよかった」
あの電話で治っていたのだとしたら、イデア探しはとんでもなく無駄足だった。
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零時を数十分ほど過ぎた頃だった。
ネットワークを復旧させるために、フロイドはイデアを探そうとした。
フロイドは全校生徒の匂いを覚えている。だから改めて嗅ぎ直さなくても、イデアと、イデアのそばにいるであろうオルトの匂いをたどれるはずだった。だが匂いを変えられているのか、時間をかけて探しても、彼らの匂いはまったくしなかった。
他の手がかりも見つからなければ、他人頼みだ。何か情報が得られるかもしれないと、門前に戻ったときだった。
大きな収穫があった。
昨日の放課後に、オルトはケイトとハグをしていたという情報が、当人のケイトから聞こえてきたのだ。
オルトが自身についたケイトの匂いを消していなければ、ケイトの匂いを思い出して、それを追うだけで、オルトのもとにたどり着ける。
オルトに会えれば、イデアにも会えて、シメられる。
──よくも金魚ちゃんからの電話を切りやがったな。
フロイドの行動は早かった。急いで大階段を下りて、オルトについたであろうケイトの匂いを追った。ちなみにここで駆けたときの足音をジャックに聞かれていたのを、フロイドは知らない。
結果、ネットワークは復旧された。
直後に届いたアズールからの連絡などどうでもよくなり、フロイドはリドルの目覚ましのためにハーツラビュル寮に向かい、いまに至る。
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夜通しイデアを探していたため、ほぼ徹夜のフロイドは、リドルに甘えたまま眠ろうとする。
リドルは少しだけ強い口調で、フロイドをしかる。
「こらっ。ボクの目の前で二度寝とは、度胸がおありだね」
「んん〜〜……。だってぜんぜん寝てないんだもん。だいたい金魚ちゃんが深夜に起こさなかったら、オレだってちゃんと寝てたよお?」
「うっ。……それは、確かに」
フロイドはくすくすと笑う。
「冗談だよ。金魚ちゃんが苦しんでるときに連絡されないなんて、そっちのほうがずっとやだ」
「……ボクもだよ」
リドルはフロイドを抱きしめる。フロイドの額に口づけて、小声で言う。
「ボクも、君が一人で夜ふかしするなんて嫌だ。今回はボクが原因だったけど……これからは眠れないことがあったら、ボクが寝かしつけてあげるよ。電話でね」
フロイドはときめく。リドルの胸の中で、きゅうきゅう、と人魚特有の甘え鳴きをする。
だが甘い時間は、フロイドがリドルに背中をバシンと叩かれたことで、終わりをむかえた。
目を白黒させているフロイドに向かって、リドルは言う。
「ほら、起きるんだよ! 授業に遅れてしまう!」
「ええーーっ!? やだやだ今日はサボるぅ! 金魚ちゃんは知らないかもだけど、けっこう大騒ぎだったんだよ!? どーせ授業やってる場合じゃないってえ!」
「学園側から正式な発表がなければ、ちゃんと登校するべきだ! 自主休講など許さないよ!」
わめくフロイドを、リドルは容赦なくベッドから蹴落とした。
26話 片想いと片想い
ケイトたちが起こした騒動から一週間後。
夜のディアソムニア寮内。防音魔法が施された、うす暗い寮長室のベッドの中。エースとマレウスは全裸でもつれあっていた。
二人は互いの裸体を舐めたり、吸ったり、甘く噛んだりと、きわどいところまで痕をつけ合っている。
服では隠せない首から上は、痕がつかない程度に、軽く吸うか舐める程度に落ち着いている。けれどくちびる同士がくっつくときは、その限りではない。
向かい合わせで座ったまま、あらい息でむさぼり合う。エースの舌はマレウスの口内に入れない。入ろうとしても、マレウスの長すぎる舌が邪魔をする。エースの口内を我が物顔で荒らしていく。負けじとエースの舌もマレウスの舌にからみつき、唾液をこすりつけていく。
「んぅ、んん……」
「……っ、はあ……ああ」
少しだけ開いたくちびるの隙間から、マレウスが吐息混じりの声を出す。それを合図に、二人のくちびるが離れた。
マレウスの舌が、ずるり、とエースの口から抜けていく。エースが軽くむせている最中、マレウスはエースの背中をさする。片手間に、ベッドサイドに用意していた銀製の器を引き寄せた。
エースの背中からマレウスの手が離れる。続けてエース自身からも身を離したマレウスは、器の真上で赤い花弁を吐いていく。
青ざめた顔色で眉をしかめつつも目を開けて、器の中に落ちていく花弁を見続けるマレウス。エースも花弁を見ながらマレウスに寄りそい、マレウスの背中をさすっていく。
マレウスを想おうとするだけではダメらしい。病はエースにだまされてくれない。
エースはまだ、マレウスに恋していない。
27話 セベクは知っている・1
校舎内の図書室とは別に、各寮にも、専用の書物庫が備わっている。『書物庫』と仰々しい名称が付けられているが、要は生徒たちが持ち込んだ本が置かれているだけの部屋だ。
生徒の気質によって所属寮が選ばれるので、寮によって書物の傾向が変わっている。というわけではない。男子高校生がほぼ無断で置いていった本の傾向は、人生においてためにならないものが大半を占めている。それを知らなかった頃のセベクは、興味本位で手に取った、下品なタイプの本を軽く読んでしまった。それ以来、セベクにとっては入る価値もない部屋である。
高尚を掲げるディアソムニア寮にふさわしくない部屋なのだから、早くつぶして、もっと有意義な部屋を新たに作ればいいのに。と以前のセベクはそう考えていた。
いまはその考えを訂正してもいい。
──エースのような生徒の気を紛らわせるためにも、必要なのかもしれんな。
その書物庫にエースが入ろうとしなければ、訂正しようとも思わなかった。
マレウスが不在で、なおかつセベクが寮内にいられる間のみ、セベクはこうしてエースの護衛をしている。よってセベクも、二度と入らないつもりでいた書物庫に、足を踏み入れることになった。
まずはセベクが書物庫に入り、瞬時に室内を見渡す。誰もいない。気配もしない。高尚な生徒たちの大半は、この部屋には入り浸らないのだろう。人の目に疲れているエースには、おそらく都合がいい。
異変はなかったので、セベクはエースを室内に入れる。入ったことを確認してから、扉を閉めた。
二人しかいない室内をキョロキョロと見ながら進んでいくエースを、セベクは追う。エースに問いかける。
「何が読みたいんだ?」
エースは歩きながら答える。
「んー……なんか恋愛もんとかがいいな」
「……意外だ。そんなものを読むのか」
「けっこういろいろ読むぜ。さすがに恋愛もんはそこまで読まねえけど、んなこと言ってらんないだろ。早くマレウス先輩のこと、好きになんないとだし」
「そんなものに頼らずとも、僕がいくらでも若様の素晴らしさを語ってやるぞ!」
「いらねー」
「なんだと貴様!!」
第三者がいないので、大声が出し放題である。
ケラケラと笑っているエースは、ずいぶんと元気になった。ルームウェア一択だった服も、いまはハーツラビュル寮の寮服をしっかり着ており、ハートのメイクもバッチリだ。ディアソムニア寮内では浮いている格好だが、この赤と白のほうがエースらしくて自然だ。
いまもディアソムニア寮内で軟禁されているとは思えないほどに、自然なエースの姿。
エースがここまで復帰できるのに、一週間以上はかかった。その間のエースと学園の様子を、セベクは知っている。……さすがにマレウスと寝ているときの様子までは知らないが。