【シリーズ名】浅草灯火奇譚(あさくさとうかきたん)
「――三百五十四足す、六百七十二は」
最強の大隊長・新門紅丸と、彼をノールックで完封する幼馴染の消防官・冬灯灯(アカリ)のお話。
算術クイズで始まる朝、紺炉の名前を借りた不器用な嘘、そして浅草中を巻き込む伝説の逆ギレ告白まで。
破壊と構築、二人の「零(ゼロ)」から始まる全20話完結。
※先代大隊長・火鉢さんとの捏造過去エピソードを含みます。
続きを読む
閲覧設定
名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
第一話:夜明けの算術と、空駆ける下駄
「――おい。三百五十四足す、六百七十二は」
まだ意識が微睡の淵を彷徨っているというのに、無情な数字の羅列が頭上から降ってくる。
冬灯 灯(ふゆともし アカリ)は、布団の中で「むにゃ……」と眉を寄せ、芋虫のように丸まった。
「……せん、に……じゅうろく……。正解、寝かせて、紅……」
「寝るんじゃねぇ。さっさと起きねぇと、朝飯のうどん、紺炉が『食べる』って言ってたぞ」
その声の主――第7特殊消防隊大隊長、新門 紅丸は、呆れたように灯の襟首を掴み上げた。
「……うそつき。紺炉さんは、そんなこと言わないもん……」
「チッ。いいから立て。ほら、襟が曲がってんぞ」
紅丸は舌打ちしながらも、手慣れた手つきで灯の防火服を整え始めた。
彼女が着ているのは、第7の男物で最小サイズの防火服だ。腕まくりをしてもまだ少し大きい。
紅丸は大きな手で彼女のベルトをぐいと締め直し、最後に襟元を叩いて整える。
幼い頃から続く、第7の日常。一等消防官としての威厳など、紅丸の前では霧散してしまう。
「……紅、苦しい」
「しゃっきりしねぇお前が悪い。今日は……そうだな、買い出しついでに『20分コース』だ」
その言葉に、灯の目がカッと見開かれた。
「20分!? 上等じゃない、今日は絶対に逃げ切ってやるんだから! ついでに魚政さんのところで干物、買ってきちゃうからね!」
言うが早いか、灯は寝起きのダルさを「脱力」で消し去り、窓から屋根へと跳ねた。
カラン、と下駄の音が一つ。
次の瞬間には、彼女の姿は浅草の屋根伝いに消えていた。着地音すらさせないその身軽さは、第7の中でも随一だ。
「……ったく、逃げ足だけは一丁前だ」
紅丸は口角をわずかに上げると、纏の代わりに指先を鳴らし灯を追う。
浅草の街を舞台にした、最強の男と「完封」を誇る女の鬼ごっこ。
その様子を、大隊本部の縁側で眺めていた相模屋 紺炉は、茶をすすりながら深くため息をついた。
「……『紺炉が食う』なんて一言も言ってねぇんだがなぁ、若」
🔚
第二話:最強の盾、あるいは浅草の姉貴分
「――逃がさねぇっつってんだろ、アカリッ!」
浅草の町を紅蓮の炎が切り裂く。
第7大隊長、新門 紅丸の放った一撃が、逃走中の灯の背中に迫った。だが、灯は振り返りもせず、空中に指先で円を描く。
「焔絵――『|墨衣《すみごろも》』」
黒い炎が膜のように広がり、紅丸の熱線を無造作に弾き飛ばした。
そのまま灯はくるりと空中で一回転し、魚政の店先にふわりと着地する。
「はい、干物二枚お買い上げ! 紅、今のはちょっと危なかったんじゃない?」
「……チッ、ノールックで防ぐんじゃねぇよ」
肩を並べて歩く二人の前に、唖然とした表情の集団が立ち尽くしていた。
青い発光ラインが特徴的な防火服――第8特殊消防隊の一行だ。
「……え、今、新門大隊長の攻撃を完全に防ぎましたよね?」
森羅日下部が、信じられないものを見る目で灯を凝視する。
第8の中隊長、火縄も眼鏡の奥で目を細めた。
「新門大隊長の攻撃を、あんなに軽々と……。彼女も第7の隊長格なのか?」
「あ? ああ、こいつは灯だ」
紅丸が面倒そうに紹介する。
「一等消防官だが、実力だけは小隊長クラス。……まぁ、中身はただの世話焼きおかんだ」
「おかんだなんて失礼ね! 初めまして、第8の皆さん。私は冬灯 灯。紅の幼馴染兼、お目付け役よ」
灯がにこりと笑うと、浅草の町人たちが次々と声をかけてくる。
「よっ、灯の姉貴! 今日も若と喧嘩か?」
「姉さん、こっちの火種もちょっと見てくれよ!」
「はいはい、後で行くから待っててね!」
甲斐甲斐しく応える灯の姿は、戦闘中の凛とした空気とは打って変わり、まさに「頼れる姉貴分」そのものだった。
「……アーサー、あの人……」
森羅がアーサーに声をかけアーサーが珍しく真剣な顔で呟く。
「あの『壁』……騎士王の俺でも、一筋縄ではいかぬほどの重圧を感じるぞ」
その時、灯が紅丸の襟元に手を伸ばした。
「紅、またベルトが緩んでる。大隊長なんだから、シャキッとしなさいよ」
「……うるせぇ。紺炉さんが、お前に任せるって言ってたんだよ」
また始まった、と紺炉が遠くで肩をすくめる。
第8の面々は、最強の男を子供のように扱う「浅草の灯火」の存在感に、ただただ圧倒されるばかりだった。
🔚
第三話:銀の時計と、鉄拳の記憶
第8の面々を見送った後、ふとした拍子に灯の指が、防火服の内側に隠した銀の懐中時計に触れた。
冷たい金属の感触が、十数年前の熱い記憶を呼び起こす。
「……また、その古臭ぇ時計いじってんのか」
隣を歩く紅丸が、横目で灯の手元を捉えた。
「いいじゃない。これ、お父さんの形見なんだから」
「わかってるよ。……お前がそれを握りしめて、迷子になってた時のこともな」
5歳の頃。
灯籠の灯りだけを頼りに、泣きじゃくる紅丸を迎えに行ったあの日。
灯の手には、止まったままのこの懐中時計があった。
「――お前ら、いい加減にせぇ!!」
回想の中に、地を揺らすような怒号が響く。
先代大隊長・新門火鉢だ。
若き日の紅丸と灯は、浅草のど真ん中で大喧嘩を繰り広げ、屋台を三つほど叩き壊した。その直後、二人の頭には特大の拳骨が落ちた。
「破壊しか能がねぇバカ丸! 逃げ回るだけのチョコマカ女! 浅草を壊してんのは焔ビトじゃなくてお前らだ、表へ出ろッ!」
そのまま正座させられること三時間。足の痺れが限界を超えた頃、火鉢は灯の懐中時計を指差して言った。
『灯。その時計はな、時間を刻むもんじゃねぇ。お前が“今、ここに居る”ってことを刻むもんだ。紅が暴走しそうになったら、その時計の針みたいに、お前が引き戻してやれ。……わかったな』
その言葉が、今の灯の「ノールックガード」の原点だ。
紅丸の隣で、彼を繋ぎ止める鎖になる。それが灯の選んだ生き方だった。
「……何しんみりしてんだ。腹減ったろ」
紅丸の声で現実に引き戻される。
「火鉢の親父にどやされた後は、決まってただろ。……行くぞ」
二人が向かったのは、馴染みのうどん屋だ。
カウンターに並んで座り、紅丸は無造作に自分の丼から、灯の大好物である「甘いお揚げ」を彼女の皿へ放り投げた。
「……はい、仲直り」
「謝りなさいよ、一言くらい。……でも、ありがと。いただきます」
紅丸は「チッ」と顔を背けたが、その耳たぶがわずかに赤い。
二人の間には、言葉にできない「粋」な仲直りの儀式が、今も変わらず息づいていた。
🔚
第四話:浅草の火花、夜空を彩る墨衣
「――たまやっ! |鍵屋《かぎや》っ!」
浅草の夜空に、威勢の良い掛け声が響き渡る。
今日は浅草の年中行事、大祭の日だ。東京皇国の他の街とは違い、ここ第7の管轄区では、聖陽教会の祈りよりも江戸っ子の心意気が優先される。
「アカリ、準備はいいか」
紅丸が纏を肩に担ぎ、屋根の上から問いかける。
「いつでもいけるわよ、紅。……今日のために、新作を用意したんだから」
アカリは懐から銀の懐中時計を取り出し、カチリ、と蓋を開けた。
止まったままの針を見つめ、深く呼気を吐き出す。その息は、空気に触れた瞬間に淡い極彩色の炎へと変わった。
「焔絵――『|浅草万華鏡《あさくさまんげきょう》』」
アカリが空を指先でなぞる。
墨で描いたような漆黒の線が夜空を割り、そこから雪、月、花を模した炎が次々と溢れ出した。
それは破壊の炎ではない。人々の心を灯し、夜を照らすための「光」だ。
「……すげぇ。本物の花火より綺麗だ」
地上で見上げる子供たちが歓声を上げる。
アカリは屋根の上で、舞うように指を動かし続けた。集中する彼女の横顔は、いつもの「世話焼きおかん」の面影はなく、神聖なシスターのようにも見えた。
「――っ」
不意に、紅丸の手がアカリの肩を抱き寄せた。
強引な力に驚き、アカリの集中が途切れる。
「……なに、紅? 邪魔しないでよ、今いいところなのに」
「……男どもが、お前ばっかり見てるのが癪なんだよ」
紅丸は顔を背けたまま、低い声で吐き捨てた。
アカリの美しい演舞に、町中の男たちが(そして第8の森羅たちまでもが)見惚れているのが、どうにも気に入らないらしい。
「え、それって……嫉妬?」
「……うるせぇ。算術出すぞ」
「ここで!? 出さないでよ!」
アカリの顔が、空の炎よりも赤く染まる。
紅丸の「本気の優しさ」は、アカリにとって最大の弱点だ。ノールックガードも、こればかりは防げない。
「……若も、素直になればいいものを」
下で酒を酌み交わしていた紺炉が、呆れたように空を見上げた。
「『紺炉が、アカリを誰にも渡すなって言ってた』とでも言えばいいのになぁ」
祭りの夜、二人の距離は、あと数センチがどうしても縮まらないまま。
だが、アカリの描く焔の花は、いつまでも浅草の夜空に美しく咲き誇っていた。
🔚
第五話:優しい嘘と、苦いうどん
祭りの喧騒が去った翌朝。第7大隊本部の空気は、いつもより少しだけ沈んでいた。
相模屋 紺炉の「|発火限界《アトラバースト》」による灰病の症状が、今朝は少し重いらしい。
「アカリ。紺炉さんが、今日は『うどんが食いてぇ』ってよ」
朝の算術もそこそこに、紅丸がぶっきらぼうに言った。
その目は泳いでおり、手に持った買い物袋を、まるで押し付けるように灯に渡してくる。
「……そ。じゃあ、私が作ってくるわね」
灯はすべてを察して、笑わずに受け取った。
紅丸がこうして「紺炉の名前を出す」時は、決まって彼自身が心配でたまらない時か、あるいは、灯に何かを頼みたい時の照れ隠しなのだ。
「紺炉さん、具合はどう?」
奥の部屋に入ると、紺炉が壁にもたれて苦笑いしていた。
「……悪いな、アカリ。若がまた、俺の名前を勝手に使ったんだろ?」
「ふふ、バレバレよ。『紺炉さんがうどん食べたいって言ってる』って。紅本人が、一番心配そうな顔してるのにね」
灯は火を起こし、焔絵の能力で繊細に火力を調整しながら、紺炉のために胃に優しいうどんを煮込む。
破壊の炎を出す紅丸にはできない、灯だけの「守るための炎」の使い方だ。
「……あいつ、素直じゃねぇからな。自分じゃ何も言えねぇクセに、お前のことだけは、一丁前に過保護ときた」
「知ってる。……昔から、あの子はそうだから」
灯は、懐中時計の蓋をカチリと開けた。
止まった針は、あの日、紅丸と手を繋いで帰った時のまま。
「若を頼むぞ、アカリ。俺の代わりに、あいつの隣で笑ってやってくれ」
「……当たり前でしょ。一等消防官として、全力で完封してあげるわよ」
部屋の外では、紅丸が聞き耳を立てているのが気配でわかった。
「……紺炉さんが、早く食えって言ってるぞ!」
壁の向こうから聞こえる紅丸の怒鳴り声。その声が少しだけ震えているのを、灯は見逃さない。
「はいはい、今行くわよ。……まったく、不器用なんだから」
二人のつく「紺炉のせい」という嘘は、優しくて、少しだけ苦い。
けれどその嘘があるからこそ、三人の絆は、浅草の街と同じように強く結ばれていた。
🔚
第六話:路地裏の白き影、揺らぐ灯火
浅草の夜は、朱塗りの門と提灯の明かりで、どこか異界との境目が曖昧になる。
灯は一人、夜回りの帰りに「魚政」から預かった干物を手に、細い路地を抜けていた。
カラン、カラン。
下駄の音が、湿った夜気の中に吸い込まれていく。
(……変ね。さっきから、誰かに見られているような)
灯は足を止め、無意識に懐の銀の懐中時計を握りしめた。
「脱力」の天才である彼女の肌が、微かな殺気を捉える。それは紅丸の荒々しくも温かい炎とは真逆の、氷のように冷たく、無機質な拒絶の気配だった。
「――そこに居るのは、誰?」
灯が指先を宙に向ける。呼気と共に吐き出された極細の炎の線が、暗がりの空間を「切り取る」ように描き出した。
焔絵――『|額装《がくそう》(がくそう)』。
パリン、と空間が割れるような音と共に、闇の中から浮かび上がったのは、雪のように白い装束を纏った者たちだった。
「……第7特殊消防隊、一等消防官。破壊の王の側に仕える、構築の巫女か」
白装束の一人が、感情の欠落した声で呟く。
彼らの背後には、不自然なほど静かに燃える「焔ビト」の影があった。
「伝導者一派……! 浅草で、勝手な真似はさせないわよ」
灯が構える。だが、白装束の男は嘲笑うように首を傾げた。
「お前のその『描く』力……我らの救済を形にするために、相応しい器かもしれないな」
「――アカリッ!!」
頭上から轟音と共に紅蓮の炎が降り注ぐ。
屋根を蹴立てて現れたのは、逆立った髪を怒りで震わせた紅丸だった。
「若……!」
「下がってろ、アカリ! ……テメェら、俺の女……じゃねぇ、俺の隊員に気安く触れてんじゃねぇぞ!」
紅丸の一撃が路地を焼き尽くすが、白装束たちは陽炎のように姿を消した。
静まり返った路地裏で、紅丸は荒い息をつきながら、灯の肩を痛いくらいに掴んだ。
「怪我はねぇか。算術は。……九百八十一引く、二百七十四は……っ!」
「……ななひゃく、なな、じゅう……。紅、落ち着いて。私なら大丈夫よ」
灯は震える紅丸の手を、そっと包み込んだ。
最強の男が、自分を失うことをこれほどまでに恐れている。その事実に胸が締め付けられる。
浅草の平穏に、ひびが入り始めていた。
白装束たちが残した「器」という言葉が、灯の心に冷たい澱のように沈んでいく。
🔚
第七話:灰の筆跡、解析される深淵
「――実体化のプロセスが、あまりに美しすぎる。不気味なほどにね」
ひょろりとした体躯に、食えない笑みを浮かべた男。第8特殊消防隊の科学捜査官、ヴィクトル・リヒトが、浅草の詰め所に居座っていた。
その手元には、昨夜アカリが白装束を追い払った際に残した、燃えカスの「黒い炎」のサンプルがある。
「勝手に人の能力を分析しないで。リヒトさん」
灯(アカリ)は、紅丸の背後に隠れるようにして彼を睨んだ。
「お前、こいつに余計なこと教えるんじゃねぇぞ。灰島の犬だ」
紅丸が低く唸るが、リヒトはどこ吹く風で眼鏡を押し上げる。
「新門大隊長、そんなに警戒しないでください。……ただね、冬灯一等消防官。君の能力『焔絵』……これは、厳密には第三世代の範疇を超えている可能性がある」
リヒトの言葉に、部屋の空気が凍りついた。
第三世代は「自らの炎を操る」もの。だが、アカリの能力は「無から有を、概念を具現化する」ものに近い。
「君の『描く』という行為は、アドラのイメージを直接この世界に固定している……いわば、この世界を上書きする筆だ。白装束たちが君を『器』と呼んだのは、その筆をアドラの意志で動かしたいからだろうね」
リヒトの解析は容赦ない。アカリが持つ銀の懐中時計が、そのイメージを固定するための「座標」になっていることまで見抜いていた。
「……アドラだろうが何だろうが、アカリは俺の隊員だ。勝手な理屈で連れて行こうとするなら、灰島ごと焼き尽くすぞ」
紅丸の手からパチパチと火花が散る。その過保護さは、今や「上司」の域を完全に超えていた。
リヒトが去った後、紅丸はアカリの腕を強く引き寄せ、自分の視界の真ん中に彼女を置いた。
「おい、アカリ。……九百三十二足す、七百五十八は」
「……せん、ろっぴゃく、きゅうじゅう。……紅、手が震えてるわよ」
算術で彼女の「正気」を確かめずにはいられないほど、紅丸は焦っていた。
アカリの能力が、彼女自身をどこか遠くへ連れ去ってしまうのではないかという、得体の知れない恐怖。
「……離さないからな。お前がどこかへ描き消えねぇように、俺がずっと見てる」
紅丸の瞳には、アカリへの独占欲と、それを上回るほどの深い「怖れ」が宿っていた。
浅草の灯火が、世界の理に巻き込まれようとしていた。
🔚
第八話:帰ろ、紅。――灯籠が繋いだ掌
リヒトが去った後の静まり返った大隊本部。紅丸は、灯の手首を掴んだまま、遠い目をして呟いた。
「……お前は昔から、勝手にどっか行っちまいそうな空気を出してやがった」
「そんなことないわよ。私はずっと、浅草にいるじゃない」
灯の言葉に、紅丸は鼻で笑い、そっと視線を逸らした。
その記憶の先にあるのは、まだ二人が「新門」の名も「冬灯」の姓も持たなかった、泥だらけの幼少期だ。
――十数年前。浅草の路地裏。
両親を「焔ビト」で失い、天涯孤独となった紅丸は、絶望のあまり能力を暴発させ、暗い蔵の中に閉じこもっていた。
周囲の大人は「バケモノ」と呼び、誰も近づこうとしない。闇の中で、紅丸は世界から消えてしまいたいと願っていた。
そこへ、カラン、カランと不器用な下駄の音が近づいてきた。
『……そこに居るんでしょ、紅』
震える声。蔵の隙間から差し込んだのは、小さな灯籠の淡い光だった。
5歳の灯が、大人たちの制止を振り切り、止まったままの銀の懐中時計を握りしめてやってきたのだ。
『こわくないよ。私が、道を照らしてあげるから』
灯は、蔵の重い扉を必死に叩いた。
その手は煤で汚れ、爪からは血が滲んでいた。それでも彼女は、自分の能力の芽生えである小さな火を灯籠に灯し続け、暗闇を拒絶した。
『帰ろ、紅。……浅草の、みんなのところに』
扉が開いた瞬間、紅丸が見たのは、涙をボロボロと流しながら、それでも「大丈夫だ」と言わんばかりに笑う灯の顔だった。
あの日、紅丸は初めて他人の温もりを知った。
そして灯は、あの日から「紅丸を闇に返さないための光」になると決めたのだ。
「……あの時、お前が迎えに来なけりゃ、俺は今頃白装束にでもなってたかもな」
紅丸が自嘲気味に笑う。
「……馬鹿ね。紅は、そんなに弱くないわよ」
灯は、掴まれていた手を逆に握り返した。
華奢で、一般女性並みの筋肉量しかない彼女の手。けれどその握力は、最強の大隊長をこの世界に繋ぎ止めるには、十分すぎるほど強かった。
「……九百八十一引く、三百五十七は」
「……ろっぴゃく、にじゅう、よん。正解。……さ、晩ごはんの支度しなきゃ」
過去から現在へ。
二人の絆は、あの日灯した灯籠の火のように、消えることなく浅草の夜を照らし続けていた。
🔚
第九話:冬のともしび、浅草を包む墨の檻
「――焔(ほむら)が、街のあちこちで同時に……!?」
第7大隊本部の望楼から、灯は絶句した。
浅草の至る所で、不自然な青い火柱が上がっている。それは通常の「焔ビト」の発生ではなく、伝導者一派による人為的な「地獄の再現」だった。
「若! 紺炉さんの容態が……ッ! 避難誘導が追いつきやせん!」
隊員たちの悲鳴に近い報告が飛び交う。紅丸は纏を握りしめ、かつてないほどの殺気を放っていた。
「……アカリ。お前に、浅草を任せていいか」
紅丸の問いは、もはや一等消防官へ向けるものではなかった。対等な、いや、自分以上にこの街を愛する「相棒」への信頼だった。
「……あったりまえじゃない。紅、あんたは元凶を叩き潰してきなさい。……ノールックで、あんたの背中も守ってあげるから」
灯は屋根の頂点に立ち、銀の懐中時計を高く掲げた。
蓋が跳ね上がり、止まった針が月明かりを反射する。
「――焔絵奥義:『冬のともしび』!!」
灯の呼気から溢れ出した極細の炎の線が、幾千、幾万の筆跡となって浅草の夜空を埋め尽くした。
それは冷たく、鋭い炎。
描き出された巨大な「絵」が街をドーム状に覆い、外部からの干渉を遮断する。同時に、街中に散った焔の糸が、暴れる「焔ビト」たちの四肢を絡め取り、動きを完全に封じ込めた。
「な……街一つを、完全にコントロール下においたというのか……!?」
遠くで見守るリヒトが、データ端末を叩きながら驚愕の声を漏らす。
だが、その代償は小さくない。
「……っ、く……」
灯の華奢な体から、凄まじい量の熱気が奪われていく。指先が凍りついたように白くなり、視界がちかちかと点滅する。
広範囲を「構築」し続けることは、彼女の精神を限界まで削り取る行為だった。
「――ガタガタ震えてんじゃねぇ、アカリ。……九百九十九引く、六百六十六は」
背後に、爆炎を纏った紅丸が降り立つ。
彼はアカリの肩を抱き寄せ、自らの熱を分け与えるように強く、強く抱きしめた。
「……さんびゃく、さんじゅう、さん。……紅、遅い……。もう、ちょっと限界……」
「よくやった。後は俺が、全部消し炭にしてやる。……一ミリも動くんじゃねぇぞ」
紅丸の瞳が、日輪と月輪の輝きを増す。
街を守る「盾」となった灯の腕の中で、最強の「矛」が解き放たれようとしていた。
🔚
第十話:壊れた懐中時計、最強の失墜
「――若、危ねぇ!!」
紺炉の叫びが響く。だが、浅草を丸ごと覆う『冬のともしび』の維持に全神経を注いでいたアカリには、その「死角」から迫る影に気づくのが一瞬遅れた。
白装束の暗殺者が放った、真空を切り裂く一撃。
それはアカリの背後、彼女が最も信頼し、守られていると信じていた場所から放たれた。
「……っ!? 焔絵――」
反射的に防御壁を描こうとしたアカリの指先。しかし、限界を超えた負荷に悲鳴を上げた身体は、思うように動かない。
(間に合わない――!)
「――ガタガタ抜かしてんじゃ、ねぇよ」
直後、視界が赤に染まった。
鈍い衝撃音と共に、アカリの目の前に広がったのは、自分を庇うように立ち塞がった紅丸の広い背中。
そして、その脇腹を深く貫いた、冷たい鋼の輝きだった。
「……あ……紅……?」
「……九百……八十、一……引く……」
紅丸は吐血しながらも、いつものルーチンを口にしようとする。だが、その言葉は最後まで続かなかった。最強の男の膝が、浅草の屋根の上でゆっくりと折れる。
カラン、と。
アカリのウエストから、銀の懐中時計が滑り落ちた。
父の形見。二人の時間を繋いでいたはずの時計は、衝撃で風防が割れ、止まっていた針がさらに無残に歪む。
「紅!! 紅、目を開けて!!」
アカリは術を解き、倒れ込む紅丸を抱きとめた。
ノールックガードの天才。4歳から紅丸の動きを脊髄反射で防いできた、世界で唯一の存在。
その自分が、最も守るべき瞬間に、彼に血を流させた。
「……ごめん……なさい……紅……ッ!」
アカリの絶叫が、火の海の浅草に響き渡る。
紅丸を貫いた暗殺者は、闇に消える間際、冷酷に告げた。
「器を守る盾は壊れた。次は、お前を回収する」
「……鎮魂するか、鎮魂されるか……選べ」
灯の瞳から、光が消えた。
震えていた指先が、冷徹なまでの静寂を取り戻す。
紅丸の返り血で汚れた頬を拭いもせず、彼女は立ち上がった。
その背中からは、今まで見たこともないような、どす黒く、そして神々しいまでの殺気が溢れ出していた。
🔚
第十一話:氷の殺気、あるいは鎮魂の宣告
紅丸の鮮血が、アカリの頬を熱く濡らした。
ドクン、ドクンと心臓の音が耳元でうるさい。視界が真っ赤に染まり、思考が急速に「冷却」されていく。
「……若……!? 灯、離れろッ!」
駆け寄ろうとした紺炉が、その場に縫い付けられたように足を止めた。
アカリから放たれたのは、熱を奪うほどの圧倒的な殺気。
それはもはや「守るための炎」ではない。全てを等しく無に帰す、絶望の圧力だった。
「……器を守る盾は壊れた、と言ったわね」
アカリがゆっくりと立ち上がる。
手から滑り落ちた銀の懐中時計は、文字盤が割れ、針が無惨に折れ曲がっている。二人の「時間」を止めた敵を、彼女は氷のような瞳で射抜いた。
「……鎮魂するか、鎮魂されるか。……選びなさい」
その声は、地獄の底から響くように低く、冷たい。
あのアドラバーストの使い手である紅丸でさえ、かつて一度だけ彼女が本気で怒った際、その背中に戦慄を覚えたという伝説の「ガチギレ」だ。
「ハッ、女一人に何ができ――」
白装束の暗殺者が失笑を漏らす。だが、その言葉は最後まで続かなかった。
焔絵(ほむらえ):『冬のともしび・|氷獄《ひょうごく》』
アカリが指先を振るった瞬間、周囲の熱が一点に、猛烈な勢いで収束した。
炎が「熱」ではなく「冷気」として具現化する。白装束の足元から這い上がった極細の炎の鎖が、一瞬で彼の四肢を縛り上げ、その皮膚を凍りつかせた。
「が、あぁっ……!? 熱い、いや、冷た……っ!?」
「私の大事なものを壊しておいて、タダで済むと思ってるの?」
アカリはノールックで、倒れている紅丸の急所を炎の膜で保護しながら、一歩、また一歩と敵へ歩み寄る。
その足取りは「脱力」を極め、音一つしない。まさに、獲物を狩る死神のそれだった。
「……ひ、ひぃっ……!」
「答えなさい。……鎮魂、してくれるわよね?」
アカリが空中に描いた巨大な「焔の針」が、暗殺者の眉間に突きつけられる。
だが、その時。
「……おい……アカリ……。九百……二、十一……引く……」
背後から、掠れた、けれど聞き慣れた声が響いた。
紅丸が、血を吐きながらもアカリの防火服の裾を、震える手で掴んでいた。
「……ろっぴゃく、……よんじゅう、……なな……」
アカリの殺気が、嘘のように霧散した。
彼女は崩れ落ちるように紅丸の元へ駆け寄り、その傷口を必死に押さえた。
「紅……! 紅、生きてるのね……!?」
「……うるせぇ……。お前がそんな、……おっかねぇ顔してちゃ……浅草の、おかんが……務まらねぇだろ……」
紅丸は薄く笑い、そのまま意識を失った。
アカリは泣きながら、彼を壊さないように強く抱きしめた。
浅草の長い夜が、ようやく明けようとしていた。
🔚
第十二話:嘘とうどんと、震える指先
紅丸が意識を取り戻したのは、激闘から三日が過ぎた頃だった。
脇腹の傷は深く、本来なら寝たきりのはずだが……そこは「最強」の男。目覚めるなり、彼はよろつく足取りで大隊本部の台所へ向かった。
「……おい。アカリ、起きろ」
いつもの低い声。けれど、わずかにかすれている。
机に突っ伏して眠っていた灯が、跳ねるように顔を上げた。
「紅! ダメじゃない、寝てなきゃ! 傷が開いたらどうするの!」
「……うるせぇ。算術だ。九百五十一、引く、四百八十二は」
「……よんひゃく、ろくじゅう、きゅう! そんなことより、あんたこそ顔色が真っ白よ!」
灯が詰め寄るが、紅丸は視線を逸らし、手に持っていた湯気の立つ器をドン、と机に置いた。
中には、少し伸びかけた、不格好な太さのうどんが入っている。
「……紺炉がな。お前がろくに食ってねぇのを心配して、『うどん買ってきてやってくれ』って、うるせぇんだよ」
「……え?」
灯は、開いた口が塞がらなかった。
紺炉さんは今、隣の部屋でスヤスヤと寝息を立てている。そもそも、この不揃いな麺の太さ……。
「これ、紅が打ったの?」
「……チッ。紺炉さんが、打てって言ったんだよ」
嘘だ。紺炉さんはそんな無茶振りはしない。
紅丸の指先を見れば、慣れない包丁を使ったのか、小さな絆創膏がいくつか貼られている。
最強の破壊者が、自分のために、震える指で粉を捏ね、麺を切ったのだ。
「……ふふっ。あはは! 変な形!」
「笑うな! だったら食うな!」
「食べるわよ! 紺炉さんの頼みなんだから、残すわけにいかないもんね」
灯は、割り箸を割ってうどんを口に運んだ。
味は少し濃くて、麺は驚くほどコシが強い。けれど、喉を通るたびに、冷え切っていた胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
「……美味しい。世界で一番、美味しいわ」
「……ふん。紺炉さんに伝えといてやるよ」
紅丸は、灯が食べる様子をじっと見守っていた。
彼の手が、迷うように空中で止まり、やがて乱暴に灯の頭を撫でた。
「……九百九十九、引く、……ゼロは」
「……きゅうひゃく、きゅうじゅう、きゅう。……もう、算術はいいから」
灯は紅丸の腕にしがみつき、彼の胸に顔を埋めた。
壊れた銀の懐中時計は、まだ直っていない。けれど、二人の時間は、この不格好なうどんのように、力強く再び動き始めていた。
🔚
第十三話:浅草燃ゆ、あるいは導きの灯
紅丸の作った不器用なうどんの温もりが、まだ胃の腑に残っていた。
けれど、浅草の空を割ったのは、あの日以上の不吉な咆哮だった。
「――来たか。シツコイ野郎どもだ」
大隊本部の屋根の上。脇腹の包帯も生々しいまま、紅丸が日輪と月輪の瞳を鋭く光らせる。
地平線の彼方から押し寄せるのは、白装束の軍勢と、かつてない数で統率された「焔ビト」の群れ。
「アカリ。……行けるか」
「当たり前でしょ。あんたの背中、誰が守ると思ってるの?」
灯(アカリ)は、ウエストのポーチから、あの銀の懐中時計を取り出した。
風防は割れ、文字盤も歪んでいる。けれど、紅丸がこっそり磨いたのか、銀の表面は月光を弾いて鈍く輝いていた。
「――第7特殊消防隊、総員、戦闘準備だッ!!」
紅丸の号令が浅草の街に響き渡る。
火柱が上がり、悲鳴が混じる。伝導者一派の狙いは明確だ。街を焼き尽くし、アドラの「器」として灯を、そして「破壊の王」として紅丸を、絶望の淵へ引きずり込むこと。
「逃げろッ! 若と灯の姉貴を信じて、今は逃げろ!」
隊員たちが必死に避難誘導を行うが、敵の包囲網はあまりに早い。
浅草の入り口が焔の壁で塞がれ、逃げ場を失った人々がパニックに陥る。
「……紅。ここは私に任せて。あんたはあいつらの親玉を、木っ端微塵にしてきなさい」
灯が前に出る。
彼女の華奢な体から、陽炎のような熱気が立ち上った。
指先を筆にし、空中に巨大な門を描き出す。
「……九百九十九、引く、九百九十八は」
紅丸が、戦場へ飛び出す直前、彼女の背中に問いかけた。
「……い、ち…………行って、紅!」
「死ぬんじゃねぇぞ、アカリ。……算術、まだ残ってっからな」
紅丸が爆炎と共に空へ舞い上がる。
一人残された灯は、押し寄せる絶望の軍勢を前に、深く、深く、冷たい息を吸い込んだ。
「――焔絵:『浅草奇譚・百鬼夜行』」
呼気から溢れ出した煙が、即興の墨絵となって実体化していく。
それは、浅草の街を守るために生まれた、焔の獅子、焔の兵たちの咆哮。
「……灯火の導きを、見せてあげるわ」
灯の指先が、戦場の闇を極彩色に塗り替えていく。
二人の、そして浅草の運命を賭けた最終決戦が、今、始まった。
🔚
第十四話:灯火の導き、あるいは百鬼夜行
「――逃げろ! 止まるな、光の差す方へ走れッ!」
紺炉の怒号が響く中、浅草の街路は白装束が放った「焔ビト」の群れに埋め尽くされようとしていた。逃げ遅れた町人たちが、炎の壁に追い詰められ絶望に顔を歪める。
「……私のシマで、勝手な真似はさせないって言ったでしょ」
屋根の上に立つ灯の瞳に、冷徹なまでの集中力が宿る。彼女は懐から取り出した銀の懐中時計を高く掲げ、その蓋を弾いた。
「焔絵:『浅草奇譚・百鬼夜行』!!」
アカリが大きく吸い込んだ呼気を吐き出すと、それは濃密な「焔の煙」となり、瞬く間に街を覆い尽くした。
煙の中から形を成したのは、墨色に縁取られた鮮やかな炎の軍勢。
吠える獅子、槍を構えた足軽、そして巨大な角を持つ鬼たち――。アカリの想像力が、浅草の伝承を実体化させていく。
「な……これ、全部一人の人間が操っているのか!?」
追い縋ろうとした白装束たちが、焔の獅子に噛み砕かれ、路地裏へと弾き飛ばされる。
「全員、私の獅子に付いてきて! 道は私が作る!」
アカリの指先が、複雑な軌跡を描きながら空を舞う。
それはまさに、絶望的な戦場を安全な避難路へと塗り替える「灯火の導き」。
一対多の乱戦において、彼女の構築能力は「最強」の紅丸にすらできない、広域制圧と救助を同時に成し遂げていた。
だが、アカリの華奢な体は、限界に近い悲鳴を上げている。
一般女性並みの筋肉量しかない彼女にとって、これほど巨大なイメージを具現化し続けるのは、命を削るに等しい暴挙だ。
「……はぁ、……っ、く……」
膝が震え、視界が白む。その瞬間、背後から猛烈な熱風が吹き抜けた。
「――上出来だ、アカリ。九百七十二、引く、五百四十八は」
爆炎を纏い、敵の本陣を焼き尽くしてきた紅丸が、アカリの腰を片腕で抱き寄せた。
「……よん、ひゃく、にじゅう、よん……。……遅い、わよ……紅……」
「悪かったな。……後は、俺が纏で空を掃除してやる。お前は俺の側で、しっかりその目を開けてろ」
アカリの描いた『百鬼夜行』の軍勢が、紅丸の放った紅蓮の炎を吸収し、さらに巨大な「火の鳥」へと姿を変える。
破壊と構築。
正反対の二人の能力が、浅草の夜空で一つに混ざり合った。
「……一匹も、残さねぇ。……アカリ、しっかり掴まってろよ」
紅丸の腕の中で、アカリは折れそうな指を再び動かし、彼を守るための「最強の盾」を描き始めた。
🔚
第十五話:共鳴、あるいは最強の二人
「――アカリ、合わせろッ!」
紅丸の怒号が、爆炎の渦巻く浅草の空を震わせた。
脇腹の傷を強引に火で焼き、止血しただけの無茶な体。それでも新門 紅丸の放つ熱量は、夜空を昼間のように白く焼き飛ばす。
「言われなくても分かってるわよ、この馬鹿!!」
灯(アカリ)は屋根の端に立ち、折れそうなほど震える指先を必死に振るった。
限界を超えて練り上げた『焔絵』の墨線が、紅丸の放った紅蓮の炎と空中で絡み合う。
本来、破壊の炎と構築の絵は相容れない。
だが、四歳から互いの動きを脊髄反射で読み合ってきた二人にとって、相手の炎の揺らぎは自分の鼓動よりも馴染み深いものだった。
「焔絵奥義――『浅草万華鏡・纏』!!」
アカリが描いた巨大な「盾」の幾何学模様が、紅丸の炎を吸い込み、結晶化していく。
それは、浅草の街を丸ごと包み込む、美しくも禍々しい「炎の番傘」となった。
白装束たちが放つ無数の火矢が、その傘に触れた瞬間に極彩色の火花となって散っていく。
一点の隙もない。
破壊の王が暴れるための、完璧な「舞台」が整った。
「……九百……九十一、足す……」
紅丸が、跳躍の瞬間に呟く。
「……なな、じゅう…………きゅう……っ! せん、ろっ、ぴゃく……じゅう!」
アカリが声を枯らして答えを叩きつける。
「正解だ。……一匹も残さねぇ。全部、消し炭になれッ!!」
紅丸の拳が、傘の中心から爆発的に突き出された。
アカリの構築した「鏡」が紅丸の熱を増幅し、放射状に解き放たれる。
それは浅草を汚そうとした軍勢を一瞬で呑み込み、夜空に巨大な「日輪」と「月輪」を焼き付けた。
「――っ、はあぁっ、……っ!」
術を解いた瞬間、アカリの膝が崩れた。
視界が急激に暗くなる。熱を使い果たした身体が、冬の夜気のように冷え切っていく。
落ちる、と思った瞬間。
鉄の匂いと、焦げた匂い。そして、誰よりも信頼している「熱」が、彼女の体を乱暴に抱き止めた。
「……動くな。算術は……、もういい」
耳元で聞こえる紅丸の声も、酷く震えていた。
二人の、魂を削り合うような共闘が、今、ようやく終わりを告げた。
🔚
第十六話:灰の降る街、静寂の中で
浅草の夜空を埋め尽くしていた極彩色の炎は消え、後には雪のような白い灰がしんしんと降り積もっていた。
先ほどまでの怒号と爆音は嘘のように消え去り、聞こえるのはパチパチと木材が爆ぜる音と、隣り合う二人の荒い呼吸音だけだ。
「……はぁ、……っ、く……」
灯は、紅丸の胸板に顔を埋めたまま動けずにいた。全身の熱を使い果たし、指一本動かす気力も残っていない。ただ、自分を抱きしめる紅丸の腕の強さと、服越しに伝わる彼の心臓の鼓動だけが、生きている実感を繋ぎ止めていた。
「……九百引く九十九…」
「……はっ……ぴゃく…いち…………よ、紅」
アカリの声は掠れ、震えていた。
紅丸もまた、傷口から流れる血を止められぬまま、アカリの華奢な肩を壊れ物を扱うように抱きしめている。普段の傲岸不遜な彼からは想像もつかないほど、その手は微かに震えていた。
「……あいつら、引いたのか?」
「……ええ。私の獅子が、最後の一人まで追い出したわ」
アカリが視線を上げると、すぐ間近に紅丸の顔があった。煤で汚れ、血に濡れているが、その瞳はいつになく穏やかで、そしてひどく脆い光を宿している。
「……アカリ」
「なに?」
「……悪かった。お前に、あんな無理させちまって」
最強の男が漏らした、一瞬の弱音。
アカリは目を見開いた。いつも「算術」や「紺炉の嘘」で本音を煙に巻く彼が、初めて真っ直ぐに自分を労わったのだ。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
「――おーおー、若。アカリ。生きてるようで何よりだ」
瓦礫をどかしながら歩み寄ってきたのは、紺炉だ。その後ろには、安堵の表情を浮かべた浅草の住人たちがゾロゾロと続いている。
「紺炉さん……!」
「若、アカリ。……大したもんだ。二人で浅草を救った英雄だな。……で、いつまでそうやって抱き合ってるつもりだ?見ろ、町中の連中がニヤニヤしながら見てるぞ」
紺炉の指摘に、二人は弾かれたように離れた。
アカリは顔を真っ赤にして立ち上がり、紅丸は慌てて視線を逸らして、いつもの「盾」を構える。
「……ち、げぇよ! 紺炉がな、アカリが倒れそうだから支えとけって……目で合図したんだよ!」
「一ミリもしてねぇぞ」
紺炉の即答が夜空に響く。
「俺は若に『アカリを安全なところへ運べ』とは言ったが、そんなに密着して抱きしめろとは言ってねぇな」
「…………っ!!」
紅丸の顔が、脇腹の返り血よりも赤く染まる。
周囲の町人たちから「よっ、若!」「お熱いねぇ!」と野次が飛び始め、アカリの心の中で、何かが限界の音を立てていた。
🔚
第十七話:伝説の逆ギレ告白
「……一ミリもしてねぇぞ」
紺炉の無情なツッコミが、夜の浅草に響き渡った。
静まり返る野次馬たち。紅丸は真っ赤な顔で固まり、パクパクと口を動かすが、言葉が出てこない。
「あ、……いや、それは、紺炉が……」
「だから! 紺炉さんはそんなこと言ってないって、今本人が言ったでしょ!!」
アカリの中で、何かが「ブチン」とはじけた。
戦いの疲労も、体の痛みも、すべてが怒りの燃料に変わる。アカリは一歩、紅丸に詰め寄った。
「紅のバカ! あんた、いっつもそう! 私が体調悪い時もうどん買ってくる時も、ベルト締め直す時だって、全部『紺炉さんのせい』にして……!!」
「お、おいアカリ、落ち着け。みんな見てるだろ……」
「見ててもいいわよ! いい? 私が一番怒ってるのはね、あんたが自分の言葉で何一つ言わないことよ!!」
アカリは、父の形見である銀の懐中時計を震える手で握りしめ、紅丸の鼻先に突きつけた。
「算術ばっかり出して、私の正気を確かめるフリして、自分の動揺を隠して……。あんたは、自分の気持ちを算数でしか測れないの!? 『紺炉が言ったから優しくした』? そんな嘘、もう聞き飽きたわよ!!」
「アカリ……」
「私はね、あんたが、新門紅丸自身がどう思ってるかを聞きたいの! ……でも、もういいわ。あんたが言わないなら、私が言ってやる!!」
アカリは大きく息を吸い込んだ。その拍子に、肺に残っていた煙が少し混じり、彼女の周囲に淡い極彩色の炎がパッと燃え上がる。
浅草の住人たちが、固唾を飲んで見守る。
「私はね! あんたが算術クイズ出さなきゃ起きられないくらい、あんたに甘やかされるのが好きなの! 不器用な看病うどんが世界で一番美味しいと思ってるの! ……紺炉さんが何を言おうが、関係ないわよ!!」
アカリの目から、大粒の涙が溢れた。それは悲しみではなく、あまりに真っ直ぐな怒りと情熱の雫だった。
「あんたのことが、好きなの! ずっと、ずっと前から、あんたのことが大好きなのよ、この分からず屋!!」
――シーン、と。
浅草から音が消えた。
紅丸は、まるで時が止まったかのように目を見開いたまま、立ち尽くしている。日輪と月輪の瞳が、かつてないほど激しく揺れていた。
「…………え?」
「『え?』じゃないわよ! ……あーあ、言っちゃった。浅草中のみんなの前で言っちゃったわよ!!」
アカリは叫び終えると、急に恥ずかしさが押し寄せ、真っ赤な顔をして紅丸を突き飛ばした。
「聞いたか……? 灯の姉貴が、若に……」
「聞いたぞ……! 『大好き』って、はっきり言ったぞ!!」
一拍置いて、浅草中に地鳴りのような歓声が上がった。
「若、完敗だな!」「灯の姉貴、最高だぜ!!」
紅丸は、顔から火が出るのではないかというほど赤くなり、情けない声を漏らした。
「……テメェ、……アカリ……っ。……九百……九十九、引く……」
「算術はもう禁止!!」
最強の男が、一等消防官の逆ギレによって、完全にノックアウトされた瞬間だった。
🔚
第十八話:最強の逃亡、あるいは愛の追走劇
「……は、……ぁぁああああ!?」
浅草のど真ん中、しんみりした空気を一瞬で消し飛ばす紅丸の叫びが響いた。
最強の男の顔は、かつて浴びたどんな爆炎よりも真っ赤に染まっている。彼はまるで火傷でもしたかのようにアカリから飛び退くと、震える指を彼女に突きつけた。
「テ、テメェ……何言って……ッ、みんなの前で……ッ!」
「言わなきゃ分かんないでしょ! あー、スッキリした! さあ、答えなさいよ紅!」
アカリが仁王立ちで詰め寄ると、紅丸の頭からはプシュッと湯気が出そうなほどの動揺が溢れ出した。日輪と月輪の瞳を泳がせ、彼は情けなくも後ずさりをする。
「……ま、待て。……九百、九十九、引く……九百……っ」
「算術は禁止って言ったでしょ!!」
「――っ、二十分だ!!」
「はあ!?」
「二十分、逃げ切ったら答えてやる!」
ドォォォン!! という爆発音と共に、紅丸は屋根の上へと飛び上がった。それは焔ビトとの戦いでも見せたことがないほどの、必死すぎる跳躍だった。
「あ!こら、待ちたなさーーい!!」
アカリも即座に反応し、下駄の音を鳴らして屋根を蹴る。
いつもは紅丸が「鬼」だった。だが、今この瞬間の鬼は、間違いなく涙目で顔を真っ赤にして追いかけるアカリの方だ。
「逃げるな若ぁ!!」「灯の姉貴、いけーー!!」
浅草の住人たちが一斉に屋根を見上げ、野次馬の嵐が巻き起こる。
紅丸は「チッ、チクショウ!」と毒づきながら、浅草の入り組んだ路地や民家の隙間を、まさに「鬼の形相」で逃げ回った。いつもは余裕でアカリを捕まえていたはずの男が、今やアカリの「脱力」を駆使した追撃に本気で冷や汗を流している。
「焔絵――『墨縄』!!」
アカリが空中に描いた黒い炎の縄が、紅丸の足を狙う。
「おわっ!? ……危ねぇだろ!」
「あんたが逃げるからでしょ! ほら、止まりなさいよ!」
紅丸は路地裏の洗濯物の陰に隠れたり、魚政の店の生簀の裏にしゃがみ込んだりと、最強の大隊長とは思えない情けない隠れ方を繰り返す。だが、アカリには「ノールック」で彼の居場所が分かっていた。
「見ぃーつけた!!」
「げぇっ!? ……テメェ、なんでここが……」
「四歳からあんたの動きを脊髄反射で追ってんのよ! 浅草のどこにいたって、あんたの熱でバレバレなの!」
ついに二十分の期限が迫る。
紅丸は浅草寺の屋根の頂上で追い詰められ、背水の陣となった。
「……おい、アカリ。……もういいだろ、勘弁しろ……」
「ダメ。逃げ切ったとしても、答えは聞くわよ」
肩で息をしながら、アカリは真っ直ぐに彼を見つめた。
紅丸は観念したように肩を落とし、顔を背けながら、誰にも聞こえないような小声で呟いた。
「…………だったら、もうちょっと静かな場所へ行かせろ。……紺炉も、町内会の連中も……みんな見てやがんだろ」
それは、最強の男による敗北宣言であり――二人きりになりたいという、初めての「自分の言葉」だった。
🔚
第十九話:算術のいらない夜
浅草寺の五重塔を見下ろす、人影のない高い屋根の上。
先ほどまでの街を挙げた大騒ぎが嘘のように、冬の夜気は冷たく、そして澄んでいた。
「……ハァ、ハァ……。もう、逃げないわよね、紅」
アカリは膝をつき、肩で息をしながら紅丸を睨みつけた。
紅丸は瓦の上に胡坐をかき、顔を背けて後頭部をガリガリと掻きむしっている。日輪と月輪の瞳は、どこか遠くの夜空を彷徨ったままだ。
「…………ちっ。逃げるったって、どこまで追ってくんだよテメェは」
「あんたが私の|視界《なか》にいる限り、どこまでだって追っていくわよ。四歳の頃から、ずっとそうだったでしょ」
アカリが隣に腰を下ろすと、紅丸の体がビクリと跳ねた。
二人の間には、拳一つ分の隙間。いつもなら紅丸が強引に肩を抱き寄せたり、ベルトを締め直したりしてくる距離だが、今はそのわずかな隙間が、果てしなく遠く感じられる。
「……答え。……聞かせてよ」
アカリの声から、怒りが消えた。
代わりに溢れ出したのは、壊れそうなほど繊細な、一人の女性としての祈り。
紅丸は長い沈黙の後、ようやく重い口を開いた。
「……九百、九十九、引く……」
「紅!!」
「……算術じゃねぇよ。……最後まで聞け」
紅丸は、アカリの方を向かずに手を伸ばした。
彼の大きな掌が、アカリのウエストにぶら下がっていた銀の懐中時計に触れる。歪み、針が折れ、もう二度と時を刻むことのないはずの、父の形見。
「……九百九十九、引く、九百九十九は……『零』だ」
紅丸は、その時計を愛おしそうに指でなぞった。
「……俺は、ずっと怖かったんだ。……俺は壊すことしかできねぇ。お前の時計も、お前の未来も、俺の隣にいたら全部ぶち壊しちまうんじゃねぇかってな」
初めて聞く、最強の男の本音。
彼が「紺炉」の名を借りていたのは、自分という「破壊の化身」が、アカリという「灯火」を焼き尽くさないための、彼なりの臆病な境界線だったのだ。
「……でもよ、今日分かった。……お前は俺に壊されるようなタマじゃねぇ。俺の一撃を完封して、俺の背中を守って、……俺を追い詰めやがる」
紅丸が、ゆっくりと顔を向けた。
そこには、算術のクイズを出す時の意地悪な顔でも、大隊長としての峻厳な顔でもない――一人の男としての、ひどく不器用で、けれど真っ直ぐな瞳があった。
「……紺炉が言ったからじゃねぇ。……俺が、お前を離したくねぇんだ。……アカリ」
紅丸の手が、アカリの頬を包み込んだ。
熱い。焔ビトの炎よりも、ずっと熱くて優しい「体温」。
「……時計は、俺が直してやる。……止まった時間は、今日から二人で……ゼロから動かせばいいだろ」
「…………っ、ばか……。遅すぎるわよ、紅……っ!」
アカリは堪えきれず、紅丸の胸に飛び込んだ。
紅丸は今度は逃げなかった。折れそうなほど華奢な彼女を、折れないように、けれど二度と離さないという強い意志を込めて、力いっぱい抱きしめ返した。
夜の浅草に、カチリ、と。
止まっていたはずの二人の時間が、再び鼓動を始めた音がした。
🔚
第二十話:灯火は消えず、朝は巡る
「――おい。五百二十一、足す、四百七十八は」
聞き慣れた低い声。けれど、今朝のその声には、以前のような刺々しさは微塵もなかった。
冬灯 灯は、布団の中で「むにゃ……」と身悶えし、ゆっくりと目を開ける。
「……きゅうひゃく、……きゅうじゅう、きゅう……。……あと五分……」
「寝るんじゃねぇ。さっさと起きねぇと、朝飯のうどん……紺炉に食わせるぞ」
いつもの台詞。けれど、アカリはふふ、と喉を鳴らして笑った。
上体を起こすと、目の前には、少しだけ決まり悪そうに視線を逸らしている新門 紅丸がいた。
「……うそつき。さっき紺炉さん、縁側で茶柱立ってるの見つけて喜んでたもん。うどんなんて狙ってないわよ」
「……チッ。余計なもん見てんじゃねぇよ」
紅丸はぶっきらぼうに吐き捨てながらも、自然な動作でアカリの肩を引き寄せた。
指先が、彼女の防火服の襟元を整える。その手に迷いはない。
アカリは、ウエストのポーチから銀の懐中時計を取り出した。昨日、紅丸が一晩かけて歪みを直し、新しいガラスを嵌めてくれた形見だ。
カチリ、カチリ。
止まっていたはずの秒針が、力強く時を刻んでいる。
「……ちゃんと、動いてるわね。紅」
「……当たり前だ。……九百九十九、足す……一は」
「……『千』。……ねぇ、紅。私、やっぱり小隊長への昇進、断ってきたわよ」
紅丸の手が止まった。
「……なんでだよ。お前の実力なら、とっくになれるだろ」
「決まってるじゃない。……小隊長になったら、あんたの隣でこうして算術クイズに答えたり、ベルトを締め直してもらったりできなくなるでしょ? 私は、あんたの一等消防官でいたいのよ」
アカリがいたずらっぽく笑うと、紅丸は顔を真っ赤にして、彼女の頭を乱暴に撫で回した。
「……勝手にしろ。……テメェが俺の側にいねぇと、浅草が壊れちまうからな」
それは、紅丸なりの「愛してる」の代わり。
二人が連れ立って詰め所を出ると、そこにはすでに紺炉と、浅草の威勢の良い連中が待ち構えていた。
「よっ! 若、アカリ! 今朝の算術はどうだったんだ?」
「うるせぇ、ジジイども! 仕事しろ!!」
紅丸が叫び、アカリがそれを笑ってなだめる。
二人の「逆追いかけっこ」の噂は、すでに第8の森羅たちの耳にも届き、浅草の新しい名物となっていた。
「……アカリ、行くぞ。……今日は『無限コース』だ」
「受けて立つわよ! 一生、あんたの背中を完封してあげるんだから!」
カラン、と下駄の音が響く。
二人の影が、朝日に照らされた浅草の屋根の上を跳ねていく。
街を護る最強の破壊者と、彼を繋ぎ止める暖かな灯火。
その光は、これからも消えることなく、浅草の未来を照らし続けていくのだ。
完