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目次
ひだまりの向こう ①、②
①雨の降る朝だった。
窓を流れる雨粒が、ゆっくりと下へ落ちていく。
小学二年生の**西谷陽乃(にしたに ひなの)**は、その雨粒をぼんやり眺めていた。
部屋のカーテンは半分だけ閉じられている。
ベッドの上にはお気に入りのうさぎのぬいぐるみ。
机の横にはランドセル。
そのランドセルは、一年以上使われていなかった。
陽乃は不登校だった。
学校へ行けなくなって、もう一年と少し。
最初は風邪だった。
次はお腹が痛いと言った。
その次は「今日はやめる」。
そしていつの間にか学校そのものが怖くなってしまった。
陽乃には自閉症の特性があった。
大きな音が苦手だった。
人がたくさんいる場所も苦手だった。
予定が変わることも苦手だった。
教室は苦手なものばかりが集まる場所だった。
チャイム。
椅子を引く音。
誰かの笑い声。
給食当番の声。
廊下を走る足音。
みんなには普通のことでも、陽乃には頭の中へ一気に飛び込んでくる。
まるで何十個もスピーカーが耳のすぐ横で鳴っているみたいだった。
コンコン。
部屋のドアがノックされた。
「陽乃、ご飯できたよ。」
お母さんだった。
優しくて温かい声。
だけど陽乃は返事ができない。
返事をしなきゃ。
そう思うのに声が出ない。
「後ででもいいからね。」
お母さんの足音が遠ざかっていく。
陽乃はぬいぐるみを抱きしめた。
(ごめんなさい)
心の中で何度も謝る。
お母さんは悪くない。
むしろいつも優しい。
だけど優しければ優しいほど、自分が情けなくなった。
しばらくして玄関の音が聞こえた。
中学一年生の兄。
**西谷蒼斗(にしたに あおと)**だった。
蒼斗も出かける前に陽乃の部屋へ来る。
それが毎朝の日課だった。
コンコン。
「陽乃。」
いつもの声。
優しい声。
陽乃は何も言わない。
「今日、雨やばいな。」
沈黙。
「部活なくなりそう。」
少しだけ間が空く。
「帰ったらゲームする?」
陽乃の指がぴくりと動く。
でも返事はしない。
蒼斗は笑った。
「返事しなくてもいいよ。」
その一言に、陽乃は少しだけ安心した。
蒼斗は無理に話させたりしない。
無理に外へ連れ出そうともしない。
ただそばにいてくれる。
「じゃあ行ってくる。」
足音が遠ざかる。
玄関のドアが閉まる。
家の中が静かになった。
陽乃は天井を見上げる。
ふと、一年前の出来事が頭によみがえった。
教室だった。
国語の授業。
先生に音読を当てられた。
陽乃は立ち上がった。
でも声が出なかった。
緊張していた。
みんなが見ている気がした。
すると後ろで誰かが笑った。
本当に自分のことだったのかは分からない。
たまたま別の話で笑ったのかもしれない。
だけど陽乃には、
「自分が笑われた」
そう感じてしまった。
胸が苦しくなった。
息が吸えなくなった。
涙があふれた。
教室中の視線が自分に向いている気がした。
怖かった。
とても怖かった。
その日から学校は安心できる場所ではなくなった。
昼になった。
陽乃は少しだけカーテンを開けた。
外では同じくらいの年齢の子どもたちが帰っている。
楽しそうな声が聞こえる。
友達同士で笑っている。
それを見ていると胸が痛くなった。
本当は行きたい。
本当は友達もほしい。
本当はみんなと遊びたい。
でも行けない。
怖いから。
怖いのに行けない自分が嫌だった。
嫌だからまた怖くなる。
その繰り返しだった。
夕方になった。
「ただいまー!」
蒼斗の声が聞こえる。
家の中が少し明るくなる。
陽乃はその声が好きだった。
安心するから。
しばらくしてまたノック。
「陽乃。」
沈黙。
「ゲーム。」
短い一言。
陽乃の口元が少しだけ緩む。
蒼斗らしい。
余計なことを言わない。
「……する。」
久しぶりに声が出た。
ドアの向こうで蒼斗が笑う。
「おー、じゃあ準備するわ。」
その日の夜。
二人は部屋でゲームをした。
ゲームの間、たくさん話したわけではなかった。
それでも楽しかった。
久しぶりに少し笑えた。
ほんの少しだけ。
それだけなのに、陽乃には大きな出来事だった。
夜になり、布団に入る。
リビングからはお母さんと蒼斗の話し声が小さく聞こえる。
「陽乃、今日はどうだった?」
「ちょっとしゃべった。」
「本当に?」
お母さんのうれしそうな声が聞こえた。
陽乃の胸がぎゅっとなる。
心配ばかりかけている。
迷惑ばかりかけている。
そう思うと涙が出てきた。
だけど今日は少し違った。
蒼斗の言葉が頭に残っていた。
「返事しなくてもいいよ。」
その言葉は不思議だった。
学校へ行けとも、
頑張れとも言わなかった。
ただ今の陽乃をそのまま認めてくれた。
窓の外ではまだ雨が降っていた。
雨音が静かに部屋へ響く。
陽乃は目を閉じた。
未来はまだ見えない。
学校も怖い。
明日も部屋から出られないかもしれない。
それでも、
ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ。
暗いトンネルの先に、小さな光があるような気がした。
それはまだ、とても小さな光だった。
だけど確かにそこにあった。
そして陽乃は知らなかった。
この先、自分の人生を変えるたくさんの出来事が待っていることを。
お母さんと。
蒼斗と。
そして新しい出会いとともに。
長い物語が、静かに始まろうとしていた。
---
②朝。
陽乃が目を覚ますと、部屋の中はまだ薄暗かった。
カーテンのすき間から少しだけ朝の光が入り込んでいる。
時計を見る。
七時四十分。
学校へ行っていたころなら、もう家を出る準備をしている時間だった。
だけど今の陽乃には関係ない。
そう思うと少しだけ胸が痛くなった。
布団の中で丸くなる。
すると部屋の外から朝食のにおいがしてきた。
焼いたパンの香ばしいにおい。
目玉焼きのにおい。
お腹は空いている。
けれどリビングへ行く勇気はなかった。
誰も怒らない。
お母さんも蒼斗も優しい。
それなのに足が動かない。
自分でも理由は分からなかった。
コンコン。
ドアが静かに鳴った。
「陽乃。」
蒼斗だった。
陽乃はぬいぐるみを抱きしめたまま黙っている。
「今日の朝飯、目玉焼きだぞ。」
返事はない。
「しかも俺が作った。」
少しだけ気になる。
蒼斗は料理ができるけれど、時々失敗もする。
前に砂糖と塩を間違えたこともあった。
陽乃は思わず小さく笑ってしまった。
その瞬間。
ドアの向こうから声がした。
「今笑っただろ。」
陽乃は慌てて口を押さえる。
「聞こえてた。」
「……聞こえてない。」
「絶対聞こえてた。」
蒼斗は楽しそうだった。
そのやり取りだけで、少しだけ気持ちが軽くなる。
「じゃあ行ってくる。」
「……いってらっしゃい。」
小さな声だった。
でも確かに口から出た。
少しの沈黙の後。
ドアの向こうで蒼斗が驚いたように言う。
「おお。」
陽乃は恥ずかしくなって布団をかぶった。
足音が遠ざかっていく。
そして玄関のドアが閉まった。
静かな朝が始まる。
昼頃。
陽乃は机に向かって絵を描いていた。
動物の絵だった。
うさぎ。
猫。
犬。
どれも優しい表情をしている。
絵を描いている時間だけは、嫌なことを忘れられた。
学校のことも。
将来のことも。
全部。
その時だった。
机の引き出しから、一枚の紙が落ちた。
去年の図工の作品展でもらった賞状だった。
「きれいな色使いですね」
先生が書いてくれた言葉が残っていた。
陽乃はじっと見つめる。
学校が嫌だったわけじゃない。
むしろ好きだった。
図工も好きだった。
本を読むのも好きだった。
友達と話すのも本当は好きだった。
でも怖くなってしまった。
ただそれだけだった。
いつの間にか涙がこぼれた。
ぽたり。
ぽたり。
賞状に落ちていく。
「なんで行けないんだろう……」
誰もいない部屋でつぶやいた。
夕方になる。
お母さんが仕事から帰ってきた。
「ただいま。」
いつも少し疲れた声。
無理をしているのが分かる。
陽乃はドアの向こうでその声を聞いていた。
お母さんは毎日頑張っている。
朝から夜まで働いている。
自分のせいで心配もかけている。
そう思うと苦しかった。
しばらくして蒼斗も帰ってきた。
「ただいまー!」
いつも通り元気な声。
陽乃は少し安心する。
すると十分後。
部屋のドアがノックされた。
コンコン。
「陽乃。」
蒼斗だった。
「これ。」
ドアの下から何かが差し込まれる。
画用紙だった。
陽乃は拾い上げる。
そこには、ものすごく下手な犬の絵が描かれていた。
足は三本しかない。
顔も曲がっている。
犬なのか何なのか分からない。
陽乃は思わず吹き出した。
「へた。」
ドアの向こうで蒼斗が笑う。
「わざとだから。」
「うそ。」
「ちょっと本気だった。」
陽乃は久しぶりに大きく笑った。
笑ったのはいつ以来だろう。
思い出せないくらいだった。
「陽乃の方がうまいよ。」
蒼斗が言う。
「俺、本当にそう思う。」
陽乃は画用紙を見つめた。
学校へ行けなくても。
人と話せなくても。
自分にもできることがあるのかもしれない。
そんな気持ちが少しだけ生まれた。
夜。
布団に入った後も、陽乃はその絵を眺めていた。
とても下手な犬。
だけど捨てる気にはなれなかった。
お兄ちゃんが描いてくれたからだ。
暗い部屋の中。
陽乃は小さくつぶやく。
「ありがとう。」
蒼斗には聞こえない。
でも心の中は少しだけ温かかった。
学校へ行けるようになったわけじゃない。
不安がなくなったわけでもない。
明日も部屋から出られないかもしれない。
それでも。
一年前とは違った。
陽乃は一人じゃなかった。
お母さんがいて、
蒼斗がいる。
二人とも、陽乃が前へ進むのを急がせたりしない。
ただ隣で待っていてくれる。
その優しさが、今の陽乃には何よりも大切だった。
そしてその夜。
陽乃は久しぶりに少しだけ穏やかな気持ちで眠りについた。
だけどまだ、この家族にはたくさんの悩みが待っている。
長いトンネルの出口は、まだ見えていなかった。