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目次
トマト味の5秒前
食べたくもないトマト味を無理やり飲みこんで目の前の男を見る。似合わないニット帽を店内でも被った非常識な男は澄ました顔でコーヒーを飲んでいる。
窓の外はバターを溶かしこんだような濃厚な夕日で赤オレンジに染まりきり、泣き喚く人々で溢れかえっている。
今日この日で地球が終わる。
そうマスコミが伝えたのは僅か一週間前のことだった。
男の無精髭を眺めながら私はミートソーススパゲッティを咀嚼する。肩の落ちた白いワイシャツにソースが飛んでも気にしない。私は気にしないし誰も気にしない。皆それどころじゃない。
この喫茶店は今日もいつもと変わらず、年老いたマスターが全てを諦観する優しい目で働いているけれど、今日に限っては他の店員が1人もいない。客も私たちの他にはいない。
私は普段頼むチョコレートパフェを頼まず、敢えていちばん嫌いなミートソーススパゲッティを選んだ。今だって不味くて不味くて吐き出したいくらいだけど、涙を浮かべてでも食べている。人類最後の日に大嫌いなものを食べた女がここにいたというそれだけのことを宇宙の歴史に残したくて、その一心で食べている。
「あと5秒だそうです」
男がぽそんと言った。あとちょっとでお風呂沸きますよ、みたいな言い方だった。その台詞をこの男に言われたことはないけれど。
男はスマホを片手にコーヒーを啜っている。スマホからマスコミの忙しない声が漏れている。どうせ皆死ぬっていうのに最後まで報道に明け暮れる心境は理解し難いな、と思いながら私は男に言った。
「これで終わりですね」
「そうですね」
私はこれが最後と噛み締めながらスパゲッティを飲みこんだ。地球最後のトマト味はやっぱり不味かった。
初恋の味を書き変える
ぐずぐずに熟しきって溶ろ溶ろに甘くなったメロンをスプーンで掬って、口に入れた。液体と個体の狭間のような薄みどりのくだものは、甘くて甘くて甘くて、最奥はかたく苦かった。
もう一度掬って、今度は目の前の男に食べさせる。女のような顔をした男は、素直に口を開けた。
乾いた口の中にスプーンを押し込む。意地悪と愛しさを混ぜてぐつぐつ煮詰めた気持ちがわきあがる。巷ではこれをきゅーとあぐれっしょんというらしい。
僕の世界では、みんながお互いを愛しあって、みんなが凛とした自分を持っている。誰ひとり取り残されず、みんな手を繋いでしあわせになる。そんなばかみたいな、頭のねじがはずれた理想郷。
この世界をたもっているには気違いになるしかなかった。そう思ってきたけど、この男に出会って変わった。
この男は僕より弱い。弱くて甘ったれていてどうしようもない。でもそんな自分を隠しているのだ。嘲りたくてかわいくて愛しくて憎くてたまらなかった。かわいいかわいい憎いかわいい。頭を撫でてその3回に1回くらいはぶん殴りたくなるような気持ち。形の良い君の頭を、救いようなく甘いにおいがして、からっぽの中にあの子への想いだけが詰まった君の頭を。
僕たちはお互いに違う人に恋をしていて、それを応援する気も邪魔する気もないまま、目の前の相手だけを傷つけあう関係をしていた。僕は君を、君は僕を。
きみはぼくのらくえんだよ。そう言ってあげたら、彼はメロンを飲み込めなくなったように笑った。色とりどりの花が彼の顔でむらがり開いて、つぎつぎ枯れていくのを僕は想像した。彼が言う。気持ち悪いな。彼の甘いあまい笑顔で放たれる悪口、およそ彼が思いつくだけの罵詈雑言は、空気に触れるたび虚しく溶けた。あの子への想い以外は何ひとつ本気で考えていない彼の言葉に効力はないし、あの子に愛されぐずぐずになって、あの子とだけしあわせになりたい駄目な彼なんかみじめでしかたないと思うのに、なのに、彼はうつくしかった。どうしようもなくうつくしくて、僕は彼と彼のもちあわせるすべてのものの中で彼の顔だけが鮮明に好きだった。彼のりんかくが僕の心でどれだけぼやけても、彼の豊かな睫毛が、しろいとがった顎が、奇跡みたいな鼻先が、僕を彼に呼び戻した。
メロン味で書き変えよう。彼の好きなあの子のことも、僕の好きなあのひとのことも。いまだけ今だけ、僕は君だけ見ていてあげる。いまだけだよ内緒だよ、僕は君なんか好きじゃない。君も僕なんか好きじゃない。でもきっと君がいなくなったら、僕は泣くだろうな。
煙草と手と髪
焦げた紙の先から白煙がのぼり、反対の端を君が咥えてる。じゅうじゅうと煙草を吸ってる。
白いひめやかな指のさきがほんのりあかるくピンク色に染まって、夕日をやどしたように見える。蜂蜜をとじこめた色の目は白煙を追っていて、ふらふらと頼りなく上をめざす。
しらしらと細い髪が背中を包んで、ふっくらと緩く波打ってる。煙草がじゅうじゅうと音を立てて焦げていく。
冬の公園は遊具が冷えてる。
地面からにょっきり生えた滑り台の天辺で君はすらりと立ってる。赤いマフラーを巻いて、うすい細いコートを羽織って、かしりとしたシューズを履いて、とてもすこやかに見える。すこやか、健康、君は健康そのもの。
脂はたまに食べる程度、酒はたまに飲む程度、煙草だけはよく吸うというのだからじゅうぶん健康だと思われる。
君がいっしゅん煙草から口を離して、ふあと大量に息を吐いた。白いひそやかな粒子がきらきらと宇宙に融けて、白煙がいっしょに肺から吐き出された。
煙草、手、髪、順に目で追っていってそのひとつひとつに感嘆する。君はすばらしい、神様が愛してつくった人間だと思う。でも君は僕を見ない。
今は、それでいい。