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目次
【一】虐げられる日常と文通
十一月も初冬を迎え、帝都でもバケツに薄氷がはる季節が到来した。
朝、四時。
|神屋敷緋雨《かみやしきひさめ》は、靴を履いて家を出る。帝都でもまだまだ新聞を取っている家は少ないため、近隣の家の前にまとめて配達されるので、それを取りに行くためだ。まだ辺りは薄暗い。吐く息は白いが、緋雨は薄い着物姿だ。羽織はボロボロで、何度も縫った跡がある。
すりあわせた手はすり切れている。寒い中でも水仕事は変わらず、手荒れが酷い。爪も痛んでいる。それは長い髪も同じで、まとめている黒い髪に艶はない。これは湯には満足に浸からせてもらえず、この寒い中でもよくてぬるま湯、悪ければ水で体を洗うので、なるべく手早くしなければならないのと、本来の伯爵令嬢のように手入れが出来ないためだ。
痩せ細った手で新聞を取る。
本日の見出しは――『帝都で十二人目の|黒兎病《こくとびょう》を確認』と書かれている。なんでも黒兎病というのは、最近少しずつ出てきた病のようで、詳細は分かっていないのだが、罹患すると次第に意識を喪失して衰弱死する不治の病なのだという。新聞には少なくともそう書かれている。
新聞を手にして家へと戻った緋雨は、それから朝食の準備をすることになった。
元々はそれなりに裕福だった伯爵位を持つ神屋敷家だが、継母と義理の妹の浪費の結果、通いの使用人を一人雇うのが精一杯になってしまい、家事はほぼ全て緋雨に押しつけられている。
本当の母である|奈津子《なつこ》が亡くなったのは、緋雨がまだ十歳の頃だった。父である|晴信《はるのぶ》が再婚したのは翌年で、後添えとなった継母の|多恵《たえ》とその連れ子の|悠奈《ゆうな》が家族となった。悠奈は、十八歳の緋雨の二歳年下の十六歳だ。しかしその父も、再婚してすぐに亡くなり、緋雨は本来であれば十三歳から通う女学院への進学も許されず、その年から使用人同然に働かせられてきた。だがら学がないように見えるが、悠奈に宿題を押しつけられて過ごしてきたので、外国語や数学も多少は出来る。
本日の朝食は、卵焼きと鮭だ。家計は火の車であるが、きちんとした食事を用意しなければ、茶碗ごとご飯をぶつけられることもあるので、緋雨は自分の食べる分も削って食事の用意をしている。それが済んでからは、まずは玄関の掃除をし、冷たい水で手を洗ってから、継母と悠奈を起こすことになった。
「おはようございます、お|継母《かあ》様」
まず多恵を起こす。すると不機嫌そうな顔で目を擦った継母は、溜息をついて起き上がった。
「髪を梳かして頂戴」
「はい、畏まりました」
「それと今日は洋服をお願い」
「分かりました」
大人しく緋雨が従うのは、殴られたくないからだ。この家を追い出されれば、行くところもなければ、生きていく術も持たない。ならば、なるべく波風を立てず、体が痛まない方法をと、模索した結果だ。多恵の指示に従って服を用意した緋雨は、それから続いて悠奈を起こしにいく。すると悠奈は起きていた。
「辛気くさい顔、見せないでよ朝から」
ニヤニヤ笑っている悠奈は、起こしても嫌味をいい、起こさなければ怒るという性格をしている。緋雨がなにをしても気に入らないらしい。
「それになにその髪に爪は。ボロボロでいいざまね」
「……」
帝都で流行の化粧道具を一式揃えている悠奈は、いつも緋雨の身だしなみをけなす。
「少し顔立ちがいいからって調子に乗らないことね」
しかしそばかすがコンプレックスの様子で、悠奈は元の顔立ちが整っている緋雨の容姿が気に入らない様子だ。嫌味が続く間、ずっと頭を下げてやり過ごしていた緋雨は、その後悠奈を朝食の席へと案内した。
勿論二人と同席して食べることは許されない。おかわりなどの支度をするべく、壁際に立っている。
二人が食事を終えた後は、食器を洗う水仕事だ。かじかむ手で、一つ一つ丁寧に洗う。それが終われば掃除、昼食の準備、また掃除や洗濯、そして夕食、悠奈から押しつけられた女学院の宿題の手伝い、黒い兎の刺繍がされた多恵のハンカチのほつれを縫い、そうしたものをこなし、やっと自分の時間が持てたのは、午後の十一時半を回ってからのことだった。
「はぁ……」
《大丈夫?》
すると薄い布団の上に、ふわりとあやかしの毛玉が座った。
「ええ、平気よ」
それまでの無表情を一変させて、柔らかく緋雨は微笑む。
普段無表情でいるのも、それが一番、周囲を怒らせないからだ。
だが、あやかしを相手には、違う。
生まれつき、緋雨はあやかしが視える体質だ。これは神屋敷家の人間には多く、父や、また実の母も視えたのだが、継母と悠奈には視えない。それにあやかしは数が多いわけではないので、視えなくても帝都の多くの人は困らないと考えている様子だ。
《今日も“|焔《ほむら》”からお手紙を預かってるよ》
「まぁ!」
嬉しくなって、さらに緋雨は笑顔になった。白い毛玉の形をしたあやかしが、ポンっと手紙を出現させる。それを受け取り、緋雨は広げた。
『 緋雨 へ
今日は寒かったな。平気だったか?
俺は異国から輸入されたマフラーという品を職場で支給された。
軍は洋装だからな。コートも暖かい。手袋も同じだ。
どれも、緋雨にも買ってやりたい。
』
そんな短い手紙である。お互い、日常について、ポツリポツリとやりとりをしている。
これは、五歳の頃からの日課だ。
もう焔が何処の家の誰だったのかは思い出せないが、幼少期には焔と何度も緋雨は遊んだ。その頃から、焔『様』と呼んでいたから、きっと神屋敷家よりは高貴な家柄の人なのだろうとは思っている。焔もあやかしが視えるので、二人であやかしを交えてたびたび鬼ごっこをしたものである。
緋雨の初恋は、焔だった。だから小さい頃焔に、『大人になったら俺のお嫁さんになってくれ!』と言われた時は本当に嬉しくて、満面の笑みで頷いた。そんな小さな口約束を、当時焔の両親と、緋雨の実の両親はニコニコと眺めていた記憶がある。
小さい頃は、本当に幸せだった。なにより、子供というのは自由だと、緋雨は思う。今のように、自分の意思ではどうにもならない状況では、少なくともなかった。
『
焔様 へ
私は買ってもらわなくても大丈夫。
ただ、それを着た焔様を見てみたいです。
最近本当に寒くて困っているの。
今日も新聞を取りに行ったら、氷がはっていたのよ。
|叶斗《かのと》くんの具合はどう? 寒いから気をつけてね。
』
叶斗というのは、焔の弟だと手紙で緋雨は聞いた。年が離れていて、また八歳なのだが病気なのだという。焔は緋雨と同じく十八歳だ。ただ既に軍人として働いていると聞いていた。所属は、帝国陸軍あやかし対策部隊なのだという。討伐することもたまにはあるが、ほとんどの場合は、あやかしに関する困りごとを解決する仕事が多いそうだ。近年では文明開化の波を受けて、異国から来るあやかしも多いため、その対策などもしているらしい。
「これを届けてくれる?」
《うん、いいよぉ》
と、こうして本日の文のやりとりは終わった。
緋雨はあまり愚痴を書くことはない。ただつい、今日も寒くて困っていると書いてしまった。ただそれ以上に、自分が寒くないかと慮ってくれる焔の優しい手紙が嬉しい。今でも緋雨は、幼い頃の約束のまま、焔のことを一途に想っている。現在がどのような姿をしているかは分からないが、人柄が伝わってくる。それがどうしようもなく胸に響いてくるから、夜こうして一通ずつ、文のやりとりをしていると、明日も頑張れるという気持ちになる。
焔から届いた文を、机の中へとしまう。もう何年も机の抽斗に手紙を隠すように入れているから、膨大な量が溜まっている。それらは時々読み返すこともある、緋雨にとっては大切な宝物だ。きっと継母や悠奈に見つかれば、捨てられてしまうのだろうけれど。それは、実母の衣類などが全て売り払われたのと同じことで、彼女たちにはなんの価値もないものだからだ。
「焔様は、優しいなぁ。本当、癒やされるもの……」
そう呟いてから、緋雨は布団に入る。暖を取るものも何もない寒い半地下の部屋で、この日も凍えながら、緋雨の一日は終わった。
【二】狗堂灯家からの縁談
翌日。
呼び鈴の音がしたので、緋雨は玄関へと向かった。
「はい」
そして外へと出ると、豪奢な馬車が停まっていた。
「|狗堂灯《くどうひ》侯爵家より遣いで参りました。これをご母堂様にお渡し下さい」
「わかりました」
なにやら釣書のようだと判断し、洋間にいる多恵の元へと緋雨は向かった。
「なにかしら? まだ掃除の最中じゃないの?」
「お客様がいらして、これをお継母様にお渡しするようにと申しつかりました」
そう言って緋雨が釣書を渡すと、億劫そうに開いた後、多恵が目を見開いた。
そして喜色を顔に浮かべると、満面の笑みに変わる。肉厚の唇が弧を描いている。
「やった、やったわ! 縁談よ! まさか帝都でも名高い狗堂灯家から、侯爵家から縁談だなんて! きっと女学院で悠奈を見初められたのね! 娘を嫁に欲しいと書いてあるもの! 最高よ!」
多恵の喜びっぷりに、緋雨は立ったままで首を傾げる。侯爵家が爵位が上なのは分かるが、狗堂灯家といえば、あやかし討伐の名門だとして新聞で名前を見たことがあった。そのため縁組みも、力がある者同士で行うと聞いたことがある。悠奈には、力もないが、視る能力もない。即ちそれでもいいというような、一目惚れなどがあったのだろう。
多恵の様子を見るに、悠奈の気持ちは問わず政略結婚はなされるのだろうが、先方には好意がきっとあるはずだ。緋雨はそれに関しては羨ましく思った。自分も焔に恋をしているからだ。好きな相手と結ばれるというのは、とても憧れる。
午後になり、悠奈が帰ってくると、話を聞いて悠奈も飛び上がって喜んだ。
嬉しそうな継母と悠奈は、本日は機嫌がよく、明日訪れるという狗堂灯家の新当主について語っていた。なんでも先代が早くに引退して、息子に侯爵位を譲ったのだという。
「きちんと準備をしておきなさい! お出しするお茶やお茶菓子も奮発して!」
にこにこしながら多恵に命じられて、緋雨は買い物に走った。午後は、翌日の悠奈の衣装を調えて過ごした。
「これから忙しくなるわ。結納の品はどうしようかしら」
多恵がぶつぶつと周囲を見渡し、唯一残っていた緋雨の母の桐箪笥を見る。
「これじゃあねぇ、貧相よねぇ」
そう言って視線はすぐに逸れた。
ほっと緋雨は息を吐く。
こうしてその日は準備に追われ、いつもより遅い時間に部屋に戻った。
《焔からのお手紙だよ》
「ありがとう」
微笑した緋雨は、疲れたなと思いながらも、癒やしを求めて文を開く。
『
緋雨 へ
今日も寒かったな。
なにか温かい飲み物は飲んだか?
俺は緋雨に直接会いたくてたまらない。
明日は誕生日だろう?
約束を覚えているか?
』
それを見て、緋雨は目を見開く。
ゆっくりと瞼を閉じると、幼少時の記憶が甦る。
「緋雨……大人になったら結婚してくれ!」
「大人っていつ?」
「えっと……今俺達は五歳だから、男は十八まで結婚できないから、十三年後だ! 緋雨が十八歳になったら、俺のお嫁さんになってくれ! 必ず迎えに行くから。約束だ」
「……うん」
確かにそんなやりとりをした。自分の誕生日が明日だということを忘れていた緋雨は、焔が覚えていてくれたことが泣きそうなほどに嬉しかった。
『
焔様 へ
勿論、覚えています。
忘れた日がないほどなの。
私もお会いしたいな。
飲み物は、私は家族やお客様にお出しする方が多いの。
焔様も温まってね。
』
きっと、いつか。そんな機会があると信じながら、その短い手紙をこの夜緋雨はあやかしの毛玉に託した。
――こうしてお見合いの朝が訪れた。
いつもより一時間早く、三時に起きた緋雨は、特に玄関を磨き上げ、新聞を取ってからは、窓を磨き、庭の草をむしった。そして朝食の用意をしていると、自発的に起きてきた二人が、あれやこれやと機嫌良く話ながら、朝食を食べた。その後、応接間に二人が控えたので、緋雨は紅茶の用意をする。普段は緑茶なのだが、見栄をはって輸入品を用意した。
お見合い相手の狗堂灯家のご当主は、朝の十時に来るとされていた。
決して失礼がないようにと言われていた緋雨は、今日は早くに呼び出されてきた通いの使用人の|花子《はなこ》と共に、居間に控えている。花子が出迎え、緋雨が紅茶を出すことになっていた。それから緋雨は、応接間に待機して、お茶がなくなったらおかわりを淹れる役目だ。
そうして、朝十時の十分前、呼び鈴の音がした。
これには緋雨も若干緊張した。花子が呼びに行くのを見送り、立ち上がってお茶の準備を始める。お湯が適温になるように調整して、茶葉を蒸らす。
「緋雨さん、ご案内しましたよ」
花子が声をかけた。花子もまた普段は緋雨には辛く当たるが、この日ばかりは緊張した面持ちだった。頷き、お盆を持って緋雨は応接間へと向かう。和服に白い割烹着姿だ。
最初に目に入ったのは、座っていても長身だと分かる、軍服姿の青年だった。
黒い艶やかな髪をしていて、軍帽をかぶっている。手には白い手袋を嵌めている。
切れ長の目は麗しく、非常に端整な顔立ちをしていて、よく通った鼻筋と薄い唇が見える。なにか――既視感があった。あるはずもないのだが。どことなく、記憶の中の焔に似て思えた。
だから思わず見惚れそうになった緋雨が、その思考を振り払い、お茶を出そうとした時だった。
「緋雨」
青年が緋雨の名を呼んだ。驚いて緋雨がそちらを見ると、青年が唇の両端を小さく持ち上げて微笑していた。
「会いに来たぞ」
「えっ……」
お茶を青年の前に置いた状態で、緋雨は硬直した。多恵と悠奈が息を呑んだのも分かる。
「十八歳、おめでとう。約束だ、俺と結婚して欲しい」
「……っ、焔様……?」
「ああ、そうだ。分からなかったか? 俺は一目で分かったが」
「似てるとは思ったけれど……まさか、と……」
そう呟きながらも、はっとして、緋雨は他の二つのカップを継母と悠奈の前に置いた。二人の瞳は、どういうことかと言うように緋雨に向けられている。特に悠奈は厳しく緋雨を睨み付けており、激情に駆られている様子だ。
「緋雨の分のカップがないが」
「そ、その……」
「――手紙の通りだな。最近はお客様にお茶を出すことの方が、自分が飲むより多いと冗談めかして書いていたが」
昨日の手紙のことを思い出し、本当に焔なのだと直感し、緋雨は瞠目する。
思わず冷や汗をかいた。
「緋雨。すぐにでも連れていきたい。持ち物をまとめてくれないか?」
「っ」
「男手がいるなら、使用人を数人馬車に乗せてあるから連れてくる。結納品などは不要だ」
流麗な声音で語った焔を見て、今度こそ緋雨は呆けた。
「待って下さい、どういうことですの!? 私がお相手では!?」
悠奈が声を上げる。すると目を眇めた焔が、悠奈へ向かい氷のような表情を向けた。
「いいや? 俺は緋雨を迎えに来たんだ。きちんと書いただろう、神屋敷家の娘を、と。あなたは戸籍上はそうかもしれないが、神屋敷家の血筋の者ではないと聞いているが」
「っ、だとしても、緋雨――お異母姉様は、|浄癒《じょうゆ》の力は使えないのよ! 視えるとはいうけど」
浄癒の力とは、神屋敷家の血筋に発現することが多い、病気や怪我を治す力だ。非常に稀な力だとされている。これがあり、神屋敷家は伯爵位を賜ったといえる。
「そういう話ではない。俺は、神屋敷緋雨を神屋敷家の娘と呼んだという話だ。父上がしたためたから、娘となっているのがよくないな。第一、力など関係ない。俺は緋雨の優しさが好きなのだからな」
きっぱりとそう断言した時、非常に焔が怖い目をした。射殺すようなその目に、悠奈が凍り付く。両腕で体を抱いて震え始めた。その迫力には、緋雨も呆然とした。自分へと向けられた優しい微笑が嘘のように、悠奈を見る焔の目は冷酷に思えた。
「――緋雨。荷物は?」
「え、ええ……その……焔様から頂いた手紙と、お母様の桐箪笥を持っていきたいと思って……」
「では、箪笥は使用人に任せよう。手紙は――取っておいてくれたのか? 嬉しいな」
再び焔が笑顔に変わった。それに気が抜けた緋雨は、こくこくと頷く。
「俺も取ってあるんだ。では、それも持ってきてくれ。思い出だな、俺達の」
頷いた緋雨は、頬が熱くなってきた。
それから急いで自室へと向かい、鞄に手紙を詰める。そして上階に戻ると、焔の連れてきた使用人らしき二人が、桐箪笥を運んでいた。それを立ち尽くした多恵が呆然と見ている。泣きじゃくりながら悠奈は、走って二階へと消えた。
まだ事態が信じられないでいる緋雨のそばに、そっと焔が立つ。
そして正面から少し屈んで、緋雨の顔を覗き込んだ。
「触れてもいいか?」
「え、ええ」
緋雨が頷くと隣に並んだ焔が、緋雨の肩をそっと抱き寄せた。それから優しく背中を押す。
「行こう、狗堂灯の家に。そこが、これから緋雨が暮らす場所だ」
【三】新しい我が家
狗堂灯侯爵家は、和風邸宅だった。だが、邸宅内には洋間もある。
着いたその足で、焔に案内された部屋が、南向きにある洋間だった。
「ここが緋雨の部屋だ」
「こんなに広いお部屋……」
「気に入らないか?」
「いえ、そういうことではなくて……あの、本当にいいの? 私、その……」
戸惑いながら緋雨は問いかける。
馬車の中では幼少時の思い出の話をして、本当に焔が焔なのだと認識し、幾ばくか緊張が解れていたが、こうして迎え入れられると再び緊張してきた。
するとそっと焔が、緋雨の右手を持ち上げた。そして真剣な顔をして、目を合わせる。
「俺ではダメか?」
「ぎゃ、逆です!」
「改めて言う。緋雨、俺と結婚してほしい」
「っ……はい」
胸が熱くなる。ずっと手紙を通して、初恋をしてから今日に至るまで、恋をしてきた相手にプロポーズをされて、嬉しくないはずがない。控えめな小声を放ち、小さく緋雨が頷くと、再び焔が柔らかく笑った。その優しい笑顔は記憶の中の焔と変わらないが、青年になり男らしさを増した焔の精悍な面持ちと、記憶の中の少年はまだまだ交わらない。
これまでは優しい感情が主だったのだが、今の焔と一緒にいると、胸がドキドキしてしまう。真っ赤になった緋雨の手の甲に、そっと焔が口づけた。ビクリとした緋雨が震えると、焔が苦笑する。
「ずっと、早く迎えに行きたくてたまらなかった。しかし使用人のようにお茶を出していたが、手紙でも時々そう読み取れたが、これまでどのような生活をしてきたんだ? 聞かせてくれないか?」
「……ええと、と、特に話す事は無いの」
虐げられてきた事を知られたら、同情されてしまいそうで怖くて、緋雨は小さく首を振る。すると焔がぎゅっと緋雨の手を握った。
「そうか。では話してくれるのを待つことにする。ところで、たまに毛玉から、緋雨の様子を聞いていたんだ。緋雨は服を持っていないと話していた。持参物にも衣類がほとんど無い様子だが」
「っ、毛玉ったら、そんなことを? その……お恥ずかしいのですが、布を買う蓄えが無くて……着たきり雀だったんです」
「別に恥ずかしがる必要は無い。恥ずべきは、自分達だけ豪遊していた今の身内だろう」
「え?」
「社交界で噂だった。緋雨は病弱で表に出てこないと吹聴していた多恵夫人と悠奈嬢が、つも華美に着飾っていることは。だが俺は手紙で、緋雨は元気だと知っていたから、不思議に思っていたんだ」
焔の目が僅かに冷酷に変わった。緋雨はゾクリとした。だがすぐに、焔は緋雨を見て微苦笑する。
「毛玉がサイズを教えてくれたから、いくつか商人に仕立てさせておいたんだ。気に入るといいんだが」
そう言うと焔が、クローゼットを開けた。中には、和服や洋服が入っていた。
「これは……」
「緋雨に似合うのではないかと思って購入を決めた服だ。といっても、幼い頃の記憶しかなかったから、俺の想像でだけれどな。ただ、今日緋雨をこうして見て、俺は惚れ直したし、きっと似合うと思ったぞ」
煌びやかなものからシックなものまで揃っている大量の衣類に、緋雨は思わず唾液を飲み込む。
「これを、私に?」
「ああ、全てお前のために作らせた。他には装飾具もある。ここにある家具類も俺が揃えたが、これらは後にまた商人を呼んで、好みのものがあれば置き換えてくれて構わない」
「いえそんな……どれも素敵で、私には恐れ多いの!」
「恐れ多い? そんなことはない。狗堂灯の家に、少しずつ慣れてほしい。祝言の日取りに希望はあるか?」
「そ、そんな……私は本当になにも分からないの。女学院も出ていないし、礼儀作法だって……だから私に本当に、侯爵家の夫人が務まるかも分からないし」
「緋雨は爵位と結婚するわけじゃない。俺の奥様になってほしいんだ。だから、礼儀作法が必要ならば今後家庭教師を雇えばいい、それだけだ。女学院は逆に行かないでもらえたのは僥倖だ。あそこは授業参観と称して、嫁探しをする貴族のご婦人が多いからな」
そう言って苦笑してから、焔は緋雨をそっと抱きしめた。
優しく腕を回されて、緋雨は再び真っ赤になってしまう。焔は、優しい。
すると顎に手を添えられて、上を向かせられる。長身の焔は少し屈むと、顔を近づけた。
「口づけをしてもいいか?」
「……はい」
緊張しながら緋雨は瞼を伏せる。長い睫が揺れている。
するとチュッと優しく唇にキスをされた。真っ赤なままで緋雨が目を開くと、実に嬉しそうに目を細めて笑っている緋雨の頬もまた、僅かに朱かった。
それから焔が、腕に力を込めたので、ぎゅっと緋雨は抱きしめられる。緋雨は照れながらも、おずおずと腕を回し返してみた。すると温かな温度が厚い胸板から伝わってきて、心臓の音が早くなる。暫くそうしていてから、お互いまた見つめ合った。
「そうだ、緋雨。家族を紹介したいんだが」
「ええ、ご挨拶しないと」
本当に自分が受け入れられるのか不安に思いながら、緋雨は頷く。
「実は父は西欧に遊学中なんだ。遊学したくて、俺に当主と爵位を譲ったというのが本当のところだ。引退して自由気ままに過ごしたいとして、な。ただ、目的は黒兎病について海外に類似の知見がないか調べることでもある。母はそれに着いていったから、どちらもこの国には不在なんだ。ただ、十八になったら緋雨を迎えに行くと話したら、本当に二人とも喜んでくれた。祝言には間に合うように戻ると話していた」
それを耳にして緋雨は目を丸くした。異国のことは、まだまだ民は知らないので、緋雨もまださっぱり分からない。
「叶斗くんは? 病気は大丈夫なの?」
「ああ、叶斗はこの邸宅にいるよ。紹介したい。ただ、先に話しておく」
「なに?」
「黒兎病なんだ」
「え?」
新聞で見た不治の病のことを思い出し、緋雨は目を見開いた。
「ただ感染する類いの病ではないんだ。恐らくは――……」
そう言うと、焔が口ごもり、暗い目をした。
「……いいや、なんでもない。とにかく移ることはない。怖くなければ、会ってほしい。紹介したいんだ」
「怖くないわ。焔がそういうんだもの。それに、たとえ移るとしても、私はご挨拶したい。だって手紙でもいつも話していた、焔様の大切な家族でしょう?」
焔を落ち着かせたいと思って、抱き合ったままで緋雨は焔の背を撫でた。するとハッとしたように息を呑んでから、柔らかく焔が笑った。
「ああ、そうだな。そうか。では、行こう。連れていく」
こうして二人は、新しい緋雨の部屋を出た。
階段を降りて向かった先は、奥の離れで、渡り廊下で繋がっていた。
「叶斗。俺の婚約者――もうすぐお義姉様になる緋雨を連れてきたぞ」
戸を開けて焔が声をかけると、布団の上で上半身を起こしていた叶斗が緋雨を見た。薄茶色の髪と目をしている。掛け布団の上に置いた手の甲には、黒い兎の模様が出ていた。それを見て、緋雨は目を瞠る。よく似た模様のハンカチを、継母が持っていたことを思い出したからだ。偶然なのだろうかと考えつつ、我に返ってから、緋雨は笑顔を浮かべた。
「はじめまして、緋雨です」
「はじめまして。やっとお兄ちゃんは迎えに行ったんだね! 酷い虐待をされてるって毛玉が行ってたから、毎日行こうとしてた癖に、|賢《けん》がまだ刻ではないとか言うから待ってたっていう緋雨お義姉様を!」
そう言うと、叶斗の足元にいた、ゴールデンレトリバーの見た目をした犬が鳴いた。
「あ、賢だわ!」
幼い頃、焔がいつも連れてきていた犬のあやかしの姿に、緋雨が目を丸くする。
『久しいな、緋雨。いかにも、まだ行かぬようにと申していたのは我だ。というのも“敵”を泳がせるためには、神屋敷家に余計な刺激をせぬ方がよいと思ってのことだ。辛かったであろう、緋雨。堪忍してくれ』
賢の声に、緋雨が狼狽える。すると焔が咳払いをした。
「俺は直接緋雨が話してくれるまで聞かないことにしたんだ。それ以上は言わなくていい」
『ボクがいっぱい話したのに』
毛玉がそこへ現れて、緋雨の肩に乗った。
焔はばつが悪そうな顔をしている。
「……悪いな。俺は緋雨のことが気になりすぎて、様子を聞いていたんだ。なにより悪いのは、もっと早くに迎えに行けなかったことだ」
「ううん。私も焔のことがずっと気になっていたから、聞けると知っていたら聞いていたと思うの。それに、約束の今日、迎えに来てくれただけで十分嬉しいの」
緋雨が本心から嬉しくてそう告げると、隣で焔がはにかむように笑った。
「あのね、緋雨お義姉さん。僕は病気だけど、元気なんだよ? ただ、時々気絶して倒れてしまったりして、この病気はその内、完全に意識を失って、衰弱死しちゃうんだって。でもね? それこそ毎日眠るとき、もう目が覚めなかったらどうしようかって怖いけどさ、お兄ちゃんをはじめ、みんなが心配してくれてるのがよく分かるから、後ろ向きになるのは止めてるんだよ!」
八歳ながら、叶斗は大人びたことを言う。ただそれが、少しだけ緋雨にも分かる気がした。手紙の中で、自分も焔に同情されたくなくて、あまり暗い話題を出さなかったからだ。それに、前向きに生きている方が、人生なんとかなるというのは、実母の口癖でもあったからだ。
「そうなのね。それなら、私も前向きに、叶斗くんが治るのを信じます」
緋雨が頷くと、叶斗が満面の笑みで頷いた。
その後挨拶を終えてから部屋を出て、緋雨は焔に使用人を紹介された。
皆広間に並んでいた。
「家令の|度会《わたらい》、執事の|鍋丘《なべおか》、侍女長の|高遠《たかとお》、それから緋雨専属の侍女の|葉山《はやま》だ。料理人が|御手洗《みたらい》。庭師が|真野《まや》。他に侍女・侍従がいるが、一人一人の紹介はまた後日としよう。何かあれば、気軽に声をかけてくれ」
焔がそう言うと、一同が深々と腰を折った。緊張しながら緋雨はお辞儀を返す。
「さて、昼は食べ逃してしまったし、もう夕食時だ。そろそろ食事にしよう」
こうして緋雨は、焔に促されて、居室へと向かった。
すぐに運ばれてきた料理は、まるで輝くようなお刺身や天ぷらといった和食だった。
満足に食事をしたのなど、何年ぶりか分からない。
つい、涙腺が緩みそうになりながら、緋雨は食べる。しかし胃が小さくなってしまっているのか、半分も食べられず、頭を下げた。
「遺しても構わない、ただ、少し緋雨は細すぎるから、少しずつ食べる量を増やすといいな」
優しく笑った焔にホッとしながら、その後は入浴した。
こんなにも温かいお湯も久しぶりすぎて、また緋雨は涙腺が緩み、こちらでは一人だったものだから素直に泣いた。夜眠る自室のベッドは、初めて眠る洋品だったわけだが、とても柔らかく、気づけばこちらも温かな毛布の感覚に涙しながら、眠りに落ちていた。
【四】浄癒の力
こうして狗堂灯家での生活が始まった。当初は朝四時に起きていた緋雨は、もっと寝ているように言われ、服を着付けるといわれて一人で出来る、お茶を淹れるといわれて一人で出来る、といった結果苦笑された。
「これでは私の仕事、無いじゃ無いですかー!」
緋雨の専属の侍女になった葉山は、緋雨と同じ十八歳だった。その内に、「だったら一緒にお茶をして雑談相手になって?」と緋雨が申し出ると、喜んで一緒にお茶を飲んでくれるようになった。今も、そうして午後三時。二人で羊羹を食べている。
「いいのよ。というより、本当に私はなにもしなくていいのかな?」
「んー、一応使用人に色々申しつけたり、カーテンの色を変更したりするのが、大奥様の仕事でしたね。家の管理ですねぇ」
「大奥様……」
「奥様は――あ、まだご結婚前ですから、緋雨様って呼ばないとでした……でも、もう、緋雨様は奥様のようなものですしね。婚約者と暮らす華族はあんまりいないみたいですけど、祝言の日取りはどうなさるんですか?」
「その……今もまだ、本当に焔様が私でいいのか不安だから、少し待ってもらっているの。一緒に暮らしてみたら、印象が違うっていうのもあるかもしれないし」
「ふぅん。逆もまた然りですしね。旦那様は、緋雨様には優しいけど、軍では氷のように恐ろしいと評判ですし」
羊羹を食べ終えてから、おせんべいに手を伸ばした葉山が言う。
「そうなの?」
「ええ。邪悪なあやかしを討伐する時は、鬼神のごとしって噂ですよ。そういう日は、帰ってきてからもこの屋敷でも怖い顔なさってましたけど――緋雨様が来てからは、なくなりましたね。どんな討伐のあとでも、残業のあとでも、緋雨様を見てるとニコニコされてて、逆にこっちがびっくりですからぁ!」
なんだか緋雨はくすぐったい気持ちになった。
この日焔は、十九時過ぎに帰宅した。
玄関まで出迎えに出ると、ぎゅっと焔が緋雨を抱きしめた。毎日のことなので、この体温にも少し慣れた緋雨は、おずおずと抱きしめ返す。すると顎を持ち上げられて、触れるだけの口づけをされる。最近の焔は、口づけをしていいかと聞かなくなった。
「おかえりなさ、焔様」
「ああ、ただいま。今日は一日どうだった?」
腰に手で触れられて、歩くように促されながら、二人で居室へと向かう。
本日の夕食はすき焼きだった。牛肉は近年食べられるようになった食材だ。異国からの文化の流入だ。
「日中は、葉山さんとお話ししていました」
「毎日話しているな。嫉妬するぞ?」
クスクスと笑った焔の隣に座り、二人ですき焼きを食べた。その後入浴し、自室に戻ると毛玉が現れた。
《焔からお手紙だよ》
「え?」
一緒に暮らしているのになんだろうかと思って受け取ると、こう書かれていた。
『
緋雨 へ
直接言うのが恥ずかしいから手紙にしたためる。
愛している。
』
それを見て、緋雨は真っ赤になった。
『
焔様 へ
私も同じ気持ちです。
』
と、すぐに綴って、緋雨は毛玉に文を託した。するとすぐに毛玉が戻ってきた。
『
緋雨 へ
緋雨から言われたのは初めてだ。今度は直接言ってほしい。
』
そんなやりとりに照れくさくなりながら、幸せな気持ちでこの日緋雨は眠った。
そして翌朝、食事を終えて焔が出かける時、いつもの通り抱きしめられた。
そこで背伸びをして、緋雨は焔の耳元に口を寄せる。
「愛してます」
「!」
すると目を見開いてから、焔が真っ赤になった。露骨に照れた焔は、片手で顔を覆う。それから緋雨の額に口づけをした。
「俺もだ。愛している。では、行ってくる」
二人の日常は、そんな風に愛に溢れている。
――この日も午前中は、緋雨は叶斗のところに顔を出した。これも日課である。
「おはよう、叶斗くん」
「おはよう、緋雨お義姉さん! 見て見て!」
するとお手玉を三つ持っていた叶斗が、くるくると回し始めた。
「まぁ、すごい!」
「でしょう? 昨日初めて三つで出来てから、ずっと出来るようになったんだよ」
「そうなのね」
「次は、四つ、五つ――頑張るんだ!」
「お手玉、私が作ってもいい?」
「え? いいの? 作れるの?」
「ええ」
「わーい、楽しみにしてる!」
そんなやりとりをしていた時だった。不意に叶斗が表情を無くしたと思ったら、ぐらりとその体が傾いた。布団の上に倒れ込んだ叶斗に、緋雨が目を見開く。
「叶斗くん!」
すると後ろに控えていた葉山が、ぐいっと緋雨の腕を引いた。
「黒兎病の症状です。私がお体を横にさせますので、下がって下さい」
「え、ええ……」
頷いた緋雨の前で、手際よく葉山が、枕に叶斗の頭をのせ、掛け布団をかける。
「目が覚めるとよいのですが……」
「っ」
「いつも発作が起こる度に、私たち使用人も、勿論焔様もそう思っているんです。緋雨様も同じなんじゃ?」
「ええ」
緋雨は、叶斗の左手を持ち上げる。その手の甲には、黒い兎の模様がある。
――やはりこれは、継母の多恵が大切にしていたハンカチの模様に酷似していると思った。なんでも実家の紅飛沫家の叔父・|雷我《らいが》に貰った大切な品で、忌々しいものを封じたり、排除したりしてくれる品だと聞いたことがある。
紅飛沫家は、爵位は持たない。ただ、あやかし関連の家柄としては存在感がある。
理由は、呪術を主体に行う家柄で、正道を行く者には疎まれているが、その力は無視出来ないからだと、緋雨は聞いたことがあった。父は、きっと|紅飛沫《べにしぶき》家に生まれたせいで、継母の多恵は差別されてきたのだろうと語っていた。当初は、多恵も悠奈も、緋雨にも優しかった。
……呪術?
と、ふと緋雨は、嫌な予感がした。改めて叶斗の手の甲を見る。
これが、呪術の証左……それこそ、叶斗を排除しようとするような何らかの悪しき力であったのならば、と、そう考えた。
――叶斗くんは、こんなに良い子なのに。
そう胸中で強く思う。狗堂灯家のようなあやかし討伐の力を、公的に認められた秀でた家柄は、過去にも紅飛沫家が依頼されたり独自判断であったりで、呪ってきた歴史があると、継母との婚姻前に父から聞かされたことが、緋雨にはある。だがその時父は、「だからといって差別してはならないんだ」と語っていた。
けれど……父は、例えばであるが、緋雨が将来的にどのように過ごすことになったのかを知らない。父は、優しすぎた。父を信じるべきなのか、自分の直感を信じるべきで、呪いを疑ってかかるべきなのか。ギュッと叶斗の手を握りながら、緋雨は思案した。
その日、夕方になっても叶斗は目を覚まさなかった。
帰宅して事情を聞いた焔は、苦しそうに唇を噛んだ。その表情を見て、もしかしたら自分の勘違いかもしれないが、だとしても伝えるべきだと判断し、緋雨は切り出した。
「焔様、実は、神屋敷の家で、養母が黒兎病の模様と同じハンカチを持っているところを見たことがあるんです」
「! 詳しく話してくれ」
こうして緋雨が語ると、真剣な表情で焔がそれを聞いていた。
「そうか……紅飛沫家か……っ、実はあやかし対策部隊でも、黒兎病は呪術のたぐいではないかと考えているんだ。だが、呪術師を名乗る家柄は多い。力のある呪術師も多数いて、特定が出来なかったんだ。けれど、確かに見たのならば、かなり可能性が高い。いいや、緋雨が見たことを俺は疑わない。ありがとう、話してくれて」
そう言うと、食事の途中だったが、焔が立ち上がった。
「すぐに軍本部に戻って報告をしてくる」
「分かりました、もし間違っていたらすみません。私は、叶斗くんについています」
「間違っていても構わない、貴重な手がかりだ。ああ、宜しく頼む」
こうして焔は急ぎ足で外へと出て行った。
それを見送ってから、緋雨が叶斗の部屋に行くと、片眼鏡をつけた家令の度会が、慌てた顔をした。
「脈が弱くなっております」
「え……」
「私は元々は軍医をしており、この邸宅の主治医も兼ねておるのですが……先ほどからどんどん叶斗様の脈が……心臓が弱っておられる」
「そんな……」
思わず緋雨は、叶斗の、左手を両手でギュッと握った。
「お願い、死なないで! きっと焔様が、原因を突き止めてくれるから」
願うようにそう告げた時、思わず緋雨の眦から涙が一筋流れた。
このように、頼り願うばかりで、何も出来ない自分が苦しい。
もし己に、神屋敷家の血筋に発現する、浄癒の力があったのならば、治せたかもしれない、と、思わず唇を噛む。その時、不意に脳裏に、金色の五芒星に似た紋章が浮かんだ。驚いて瞬きをしていると、叶斗の手を握る自分の両手から、淡い金色の光が漏れ始めた。
「こ、これは! 浄癒の力ではありませぬか!」
「!」
度会の言葉に息を呑んだ時、すうっと叶斗の手から、黒い兎の模様が消え始めた。
そしてそれがすっかり消えた時だった。
「ん、あれ、僕……また気絶したの?」
目を開けた叶斗がそう言った。ボロボロと緋雨が泣く隣で、度会が脈を取る。
「回復しています、おりますよ!」
度会まで泣き始めた。そんな二人の様子に、上半身を起こしながら叶斗が目を瞠る。
「ぼ、僕……そんなに悪かったの?」
「いいえ、お坊ちゃま。治りましたぞ、模様が消えましたのでな」
「!」
渡会の声に、緋雨が握る手を見て、叶斗がまん丸に目を見開いた。
「本当に消えてる……よかった、よかった!」
それからは、三人で泣いた。嬉し泣きだ。そこに駆けつけた葉山から、すぐに邸宅中の使用人にそれは伝わり、狗堂灯邸は歓喜に沸いた。
【五】快癒にて
夜更けになって帰宅した焔も、叶斗の姿を見て涙を滲ませた。
ぎゅっと弟を抱きしめた焔の姿に、緋雨は心底よかったなと感じる。そのまま焔が緋雨を見たので目が合うと、優しい笑顔を向けられた。
「ありがとう、緋雨」
「いいえ。本当によかったです。私もどうして急に使えたのかは分からないのですけれど……叶斗くんが治ってよかった」
「その件なんだが、悪いがこれから、他の十一人の家も回って、力を使って欲しい」
「勿論です」
緋雨が頷くと、焔は叶斗を見た。
「すまないな。叶斗、今日はゆっくり寝るように」
「うん!」
こうして二人で馬車に乗り込んだ。すると隣で焔が話し始めた。
「今、紅飛沫家に家宅捜索が入っているんだ」
「そうなの?」
「ああ。そこの地下で、病に出る模様と同じ黒い兎の模様が刻まれた人型が丁度十二体見つかっていて、一つが壊れていた。その壊れたものは、呪い返しをされた――即ち浄癒の力で病を撥ね除けた叶斗のものだろう」
つらつらとそう語る焔の顔は真剣だ。
「他に、申し訳ないが神屋敷家にも捜索が入った」
「いえ、当然だと思います」
「そこで、多恵夫人が証言した。本来ならば十四歳から十六歳で発現する異能――浄癒の力を封じるために、家にハンカチを置いていたと。勿論、緋雨の力のことだ」
「!」
「そのハンカチから離れて、今、俺の屋敷で過ごしていたから、本来の力が、封じられていた力が発現したんだ」
驚きつつも緋雨は、その結果叶斗を助けられて本当によかったと考えた。
「黒兎病になったのは全て、軍のあやかし対策部隊の家の者だ。特定個人までは呪えなかったせいで、家族に呪術の結果が出たのだろうな」
「そうだったんですね……」
「ただし、捕らえた紅飛沫家の現当主の雷我が、解呪法を吐かない。だから、緋雨の手が必要だ」
「私に出来ることならば」
こうして、二人で他の罹患者達をこの夜治して回った。
幸い生存者は全て目を覚ました。先に亡くなっていた者はどうしようもないが、つなげる命はつないだといえる。
朝方。
まだ月が見える頃に帰宅した二人は、居室でほっと息をつきながら緑茶を飲んだ。
「浄癒の力で助けてくれて、ありがとう。緋雨」
「お礼を言われることではないです。私は出来ることをしただけだから」
「そうか」
微笑した焔に頷き返し、緋雨は緑茶を飲み込む。
「それと、酷なことを言うかも知れないが、多恵夫人と主犯の雷我は拘束されたという一報が入った。今後は悠奈嬢も軍の監視下に置かれることになる」
「……っ」
「ただ、俺はそれでよかったと思っている。何故ならば、彼らは緋雨を虐げてもいたのだから。法が許しても、俺は許す気は無い」
「焔様……」
焔にじっと見つめられた緋雨は、目が潤んでくるのを感じた。もう、どうやら焔があやかし達に聞いたらしく、自分の境遇を知っていたのは理解している。
「賢は未来が見える式神だ。だからこれを予期して、俺にお前を迎えに行くなと話していたらしいが――やはり俺は、行かなかったことを後悔しない日はない。許してくれ」
「いいえ、いいえ! 来て下さいました。それに、それに、みんな助かって、それで……私は、今、幸せです。なにより焔様の隣にいられるのだから」
目を潤ませながら緋雨が告げると、立ち上がった焔が、緋雨の隣に座った。
そして肩を抱き寄せる。
「ああ。生涯、隣にいよう。これからは、俺がお前を守るからな」
その言葉に、小さく緋雨が頷く。するとその頬に触れてから、焔が緋雨の唇に、口づけを落とした。
叶斗の快癒の一報を聞いた一週間後、焔の両親が帰国した。
馬車で帰ってきた二人を、玄関に立ち、焔と叶斗と共に、並んで緋雨は出迎える。
「叶斗!」
母である|美野里《みのり》が、叶斗を抱きしめた。その隣から、二人ごと父の|安都真《あずま》が抱きしめる。二人とも涙を目に滲ませてから、緋雨を見た。
「久しぶりだね、緋雨ちゃん」
最初にそう声をかけたのは安都真だ。
「本当に、美人になって、まぁまぁ昔の面影もあって、まぁまぁ」
続いて美野里がそう言った。
記憶の中にある焔の両親と変わらぬ姿に、懐かしさを覚えながら緋雨は微笑する。
「ご無沙汰しております、緋雨です」
すると焔が緋雨の肩を抱いた。
「プロポーズは済んでる。あとは祝言だけだ」
それを聞くと、安都真が笑う。
「それは早くしなければ。焔? こんなに良い|娘《こ》に逃げられたら大変だぞ? 私も美野里を愛しているが、美野里に逃げられてしまったら泣いてしまう」
「あらまぁ、旦那様? 義父が鬱陶しいからと緋雨さんが逃げてしまったらどうするの? 私は緋雨さんを実の娘のように既に思っているけれど」
美野里もころころと笑った。
「――緋雨。俺の気持ちは固まっている。お前は?」
「私も……いつでも構いません」
緋雨は勇気を出して、答えた。すると焔が満面の笑みに変わった。
冬空の下は寒かったけれど、心が温かい。
緋雨が穏やかな気持ちで両頬を持ち上げると、不意にその頬に焔が口づけた。
「み、みんなの前です……!」
「見せつけないとな」
焔が悪戯っぽく笑う。すると焔の両親と弟がくすくすと笑ったのだった。
【六】祝言
それから二ヶ月が経過した。
――初春。
まだ雪が残り、鶯は鳴いていない。
水色の空に白い月が残っているその日、焔と緋雨は祝言を挙げることとなった。
白無垢姿で座る緋雨は、時折黒紋付の焔を横から見やる。
緋雨のがわには、親族の姿はないが、焔の両親が本当の娘のように可愛がってくれているから寂しさはない。酒盃の中身は水だが、それに口をつけ、粛々と宴が催された。
「夢だったんだ、こうして緋雨と並ぶのが」
「私も、同じなの」
「本当か?」
「ええ。手紙を交換する度に、そうなったらいいなと思っていて――でも、焔様がこんなに格好良くなっちゃっていたのはびっくりしたけれどね」
「俺こそ緋雨があまりにも美しくて緊張したんだぞ?」
そんなやりとりを小声でしながら、二人は見つめ合って微笑し合う。
ここに結ばれた一組の夫婦は、とても幸せそうだった。
その後も二人は幸せで、春になれば手を繋いで、池にかけられた橋を渡って桜を眺め、夏には無花果に手を伸ばしたり紫陽花を愛でたり、秋にはまた橋を渡って紅葉や銀杏の絨毯を歩き、冬には薄氷と雪を愛でた。
もう、氷がはっても、緋雨の心は冷えない。
それは約束通りに焔が手袋やマフラーを贈ってくれたからではなく、隣にいてくれるからだ。焔の体温が、今では緋雨の宝物だ。三年後、二十一歳の年に、二人は子供を作って、二十二歳の年に子宝に恵まれるのだが、それはまだ先のお話だ。二人はずっと、幸せだった。