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目次
もう一度、あの星々を。
単発です!!
あと、初めての男視点です。
人々が賑わう市場を歩く。
確か…肉屋だっけな。
肉屋のおばちゃんに買い物メモを見ながら俺は注文をする。
久しぶりに市場に来たなぁと思いながら、遥か昔の純真だった頃の俺を遠い目で思い返す。
あの頃はマジで良かった、何も考えないで友達と遊んで、食って、寝て。
あの頃の俺、今は就活やらなんやらで忙しいぞ…今からでもなんか人生の経験的なのしとけ、とりま親の手伝いしとけ。
じゃないと大人になった時苦労するぞ…こうやって、な…?
市場なんてしばらく自宅警備員やってたからわかんねぇよ、今も実質自宅警備員だけどな!!
そう、俺は|自宅警備員《クソニート》だ。
小学校から中学校は友達とバカやって、気楽に何も考えないで生きてたけど、高校受験でまっっったく勉強してなかったせいで必死こいて勉強するハメになり、卒業直前のみんなであの超人気テーマパーク、「スターランド」に行こうの会!に参加できなかった。1人家で寂しく勉強してたんだよ!!何とか高校に入れたものの、かなりテストとかキツくなって…
それで落第して留年。
高校の最終学年にはなれたけど、大学はどこも失敗して、それで気力が消えてソシャゲとネットに生きる自宅警備員の仲間入りってわけだ。
親からは働け働け!って言われてるし、就職場所を今は探してる。
でも、こんな高卒(留年歴あり)で特に目立ったところもない俺を雇ってくれるところなんてそうそうなくて、現在自宅警備員継続中だ。
とりあえず飯を作れ、とのことなので食材の買い出し中だ。
もーちょっとなんか…市場に通っていれば!!
買い出しに3時間かかることもないのに。
俺ってやっぱダメダメだわ…
また今度も面接だ。帰ったら風呂に入って清潔にしなければ。
やっと買い出しが終わり鬼の形相となっている母親に平謝りし、風呂に入ってポストに入っていたらしいハガキを見る。珍しいことに俺宛らしい。
どれどれ…とハガキのオモテを覗く。
「新入社員募集!学歴不問、まずはお試しだけでもいかがですか?」
という文面とともにやけにカラフルな謳い文句が書かれていた。
…ふーん、条件とかは結構俺の希望に近いし、とにかく働く場所がないんだ、行くしかない!
そこそこ近いのが幸いだった。
どんな会社かは書いてないけど、まあなんとかなるだろ。「人の夢を叶えるステキな職業!」らしいけど…
まあこれは結構簡単に向かえるんじゃね?
…と思っていた時期が俺にもありました。
建っている建物が新しくなってる…だと…!?
どれもこれも俺が中学生ぐらいのころに見た建物じゃない気がするし、何より勉強の知識とかでそういう記憶が吹っ飛んだ。クソ受験め。
そんな憎まれ口を叩きながらフラフラ歩いているとなんかやけにキョロキョロした女の子が歩いている。ジュニアアイドル並みに可愛い。思わずジーッと見てしまうと、女の子もこちらを見た。
さっと視線を逸らす。俺、HENTAIだと思われた…?
女の子がこっちに来る。え、俺、お縄についたりするの…?な、なんも悪いことしてません!やましいこともしてませんよ!無職だけど!
「…もしかして、君…?うちの新入社員の面接に来てくれたのですか!?」
「え、あ、はい…?えーと、そそその…『スターレインカンパニー』さんの社員さんですよ…ね?」
テンパるー。そりゃこの方社会で働いたことありませんもん。これから働きますけど!けど!!
「はい!わたし、『ステラ』と申します!これからよろしくお願いします〜!」
「あ、よ、よろしくお願いします…?」
やけにテンションが高い。まあこんなバカニートですら即採用(…だよな?)するんだから、切羽詰まってたり…?
「えーっと、早速会社はこちらです〜!」
は、え、ちょ、心の準備が〜!
〜数分後〜
「さあてと、ここです!」
そこそこ新しい建物に「スターレインカンパニー」という真新しい看板がかかっている。確かに奥の方だし、気づかなくてもしょうがないか…?
とことこステラさんはドアまで歩いて行き、社員用であろうカードキーをタッチして入った。
「さ、どうぞ〜!」
恐る恐る入る。思ったよりこぢんまりしていた。でも清潔感があって、これまた社員であろう人々が会議している。
…うっ、注目されてる。やめろ!俺を見るな!
「みっなさーん!こちら、新入社員さんでーす!」
「お、おおっ…!」
うっ、もっと注目されてる…!
「それではー!自己紹介をお願いしまーす!」
「…あ、ええっと…アルト・ターズです…?」
テンパりながらなんとか自己紹介する。パチパチと拍手が起こったことで少し精神が安定した…。
「ということで!これから君には仕事をやってもらいます。」
え?面接だけだと思ってたんだが?
「この書類を先輩に教えてもらってやってみてください!お願いします!」
ままま、まてまて!?こんな量の書類流石に反則だろ!?
その日、俺はクタクタになるまで書類仕事をしたのであった。ハードすぎんか?いや俺の書類仕事耐性がないだけなのか?ちなみに先輩方はもっとやっていた、え?
しばらく仕事をしてみて、思ったこと。
働くことを舐めてました。
そんなこんなで泣きそうになりつつ書類をまとめ、スライドを作る…。
まだまだ仕事が残ってるなんて、信じられん!
「アルトくん、ここ。誤字だよ。」
「あっ、はははいすすすいません…」
相変わらずコミュ障やってます。
ちなみにこの会社は空を綺麗にするための会社らしい。空が綺麗になればホシがうんちゃらかんちゃら…とか言ってた。詳しく話を聞いてなかったから知らん。こんなやつでも働けるんだ…
「おはよう、アルトくん!」
「あ、おはよう…ございます…」
朝からステラさんはとてもとてーも元気だ。
「さて、毎日書類仕事も疲れたよね?今日は出張に行きましょーう!」
や、やった!ついに書類から解放される!
「えー、記念すべき第1回の出張は…土地買収の助手です。」
「いいじゃないですか!我々が向かってもダメでしたし…アルトさんに行ってもらいましょう!」
土地買収の…助手!?HA!?E!?いやそれ、(一応)入社したてで聞かれてないけどニートだった俺に任せる仕事じゃないよな!?
美少女…もといステラさんのキラキラした目が俺を見つめる。
「社長のご指示ですからねー」
というか社長だったんだ!?そういう大事なことは早く言えよ!?
周りからの視線。社長の期待。
あっ、これ断れないやつだ^ ^
半ばなりゆきで買収の助手に就くことになってしまった…。嘘だろ。そ、それよりも仕事をする上でまず「ホシ」について知らないといけないよな…。バーっとだけ聞かされてたけど。
「あの、ステラさん。『ホシ』って…いったい何ですか?」
すっと目を細めて、ステラさんがつぶやいた。
「…昔々、この空に輝いていたもの。」
その美しく儚げな表情に俺は吸い込まれてしまうように感じる。
「アルトくんやわたしの祖父母の世代なら知っているよ。白や赤っぽい光を放っていたの。そんなホシを見て、人々は心を動かされていた。でも…ロケットや惑星の探査などがすごく盛んになって、高いところにある空気は汚れていったの。その汚れた空気が邪魔をして、だんだんホシは見えなくなっていって…。でも、ロケット開発を止めるなんてことはできなかった。だから今も、ホシは見えないままなんだ。」
何も言えなくなった。
ただひたすら無言で、バスが動いていくのを眺める。
俺たちは、俺たちが愛していたものを、自分で見えなくしてしまったのか…?
わからない。
「ここが買収予定の土地だよ」
連れ出されたのは海の近くの高台。
「この土地で何を?」
「この土地から空気をちょっとの間だけ綺麗にする装置を飛ばすの。本当は永続的に綺麗にできれば良かったんだけど…技術的にそれは難しかったんだ。空気を綺麗にすれば、もう一度、人間がホシを見られるようになるはず…。」
昼下がりの空をじっと見つめる。夜になると黒い絵の具で塗りつぶされたようになって、何も見えなくなるこの空を。
「装置はちゃんと回収するし、安全テストも終わってるんだけど、初めてのことは誰だって怖いものだから…反対意見が出ることも分かってたよ。まだこの土地は買収できていない。ほら、あそこ」
ステラさんが指差したところには、「土地買収反対!」などののぼりがたくさんあった。
俺には、ステラさんはこの「ホシ」を飛ばすことに何か特別な思いを持っているように見える。
俺はどうしたらいいんだろうか。
突然入ってきたこんな元ニートに出来ることなんて、きっと…
【またそんなこと言って】
「…っ!」
今、のは…?
俺は何か、忘れているのか…?
「どうかしましたか?」
「あっいや、なんでも…」
唇の端を持ち上げて、そっとステラさんはこう言った。
「…そろそろ、帰ろっか。元々取り合ってくれないから、視察という感じになることは分かっていたんだけどね…ごめんね」
無理をしているのだろうか。
「いえ、あの…だ、大丈夫です…。」
帰りもしばし無言でバスに乗る。
ホシのため、ステラさんのため、俺に出来ること…
考えれば考えるほど頭がぼんやりしていった。
その後、バスから降りたところで解散となった。俺もステラさんも終始無言で、何か喋らなきゃと思うほどに声が出なくなった。
ゆっくりと沈んでいく太陽を眺めながらぼうっと考える。
あの時、聞こえた声はなんだったのだろう?
家に着く。お袋はニヤニヤしていた。なんてったって今までニートだった息子が働いて帰ってきたんだもんな。そりゃ嬉しい。
でも、素直に喜べる心情じゃないんだなぁ…
お袋の声掛けも気にせず部屋に飛び込む。
部屋を探る。アレはあるだろうか?
しばらく探してベットに倒れ込む。
やはりないのだろうか。
視線を横に逸らした。
本棚から崩れ落ちた本たちが乱雑に積み重なっている。
「…あっ」
あった。あの本はまだあった。
急いで掴む。古すぎるからか、思いっきり掴んだからか、ページは少し破れた。
もう一度ベッドに倒れ込んで夢中で本を読む。
…あぁ、そうだ。
なんで忘れていたんだ?
俺は…
星を見せるって約束したじゃないか。
俺の家は「テンモンガクシャ」が多くいたらしい。
なんでも、星を観測したり、宇宙の新しい法則を発見したり…という職業らしい。
でも、星は見えなくなるかもしれなくなった。
必死に俺の家は環境を改善しようと頑張ったそうだが、今の現状で分かるだろう。
ダメだったんだ。
俺のおばあちゃんもそうだったんだ。
「ねーねーおばあちゃん、これなぁに?」
俺があの図鑑を持っておばあちゃんにページを見せる。
「ええ、これはアルタイルよ。太陽よりも質量…つまり大きさが大きくて明るさも11倍くらいあるのよ」
「でもおひさましかみえないよ?」
「…そうね。確かに今はそうよ。でもね、アルト。昔はアルタイルだけじゃなくて、もっともっと色々な星が見られたの。」
寂しそうにおばあちゃんは微笑む。
そんな姿を見ていられなくて、俺は…
「じゃあじゃあ!おれがもういちどあるたいる?をみられるようにする!やくそく!」
「…ふふふ。じゃあ約束よ、アルト。おばあちゃん待ってるからね」
目を見開いて、クスクスと笑い出したその姿を見て、俺も嬉しくなったんだ。
そう、あの時聞こえた声はきっとおばあちゃんのもの。
でも、おばあちゃんはその数ヵ月後に穏やかに息を引き取った。
老衰だって言われた。
本当に星になっちゃったんだ。
だから、俺はあの時の記憶を辛い記憶だと思うようになって、それで…
忘れてたんだ。
無理やり忘れさせたんだ…
そのまま俺はなんとなく生きるようになって、受験も失敗して、働かずにソシャゲばっかやるようになって…
自分で言った夢も、消してしまった。
ひどいよな。
自分で約束した癖に、それを忘れるなんて…
馬鹿だ。俺は大馬鹿だ。
でも。
馬鹿は馬鹿なりに、もう一度やってみようと思うから。
いつもチャレンジしてはすぐ諦めていてグズグズ泣き言を言っていた俺のことを、おばあちゃんはいつもこう言って励ましてくれた。
【またそんなこと言って。アルトならきっと出来るから、そんなこと言わないの】
って。
だから、もう「ニートだから」とか「こんな俺だから」とか言わない。
もう一度やってみるよ。
だから、俺のことを見ててほしい…
おばあちゃん。
翌日、また会社に向かう。
いた。ステラさんだ。
「あっあの!」
「あれ、どうしたの?」
酸欠になりそうだが頑張って俺は口を開く。コミュ障卒業には程遠いけどな!
「お俺、もう一度買収行きたいです。次は絶対土地買い取ります!」
ぱちくりと目を瞬かせるステラさん。
「ふふっ、ふふふふっ」
「え、あ、俺なんかおかしいこと言いましたか!?」
慌てる俺を見てステラさんは目を細めながらこう言った。
「アルトくん、いい目してる!昨日何かあったのかな?…いいよ、行こう!」
バスに乗ってこの自治体の会館についた。
受付嬢にステラさんが声をかける。
「はーい…ってまたあなたですか?いい加減に諦めてくださいよ」
ひでえ歓迎の仕方だよ。
俺は2人の間に割り込む。
「俺たち、諦め悪いので!」
「は、はぁ…」
不意をつかれた受付嬢はポカーンとした顔でこちらを見ている。
ふっふっふ、勝った!第一ラウンドだけど。そうこれから第二ラウンドが待っている。土地の所有者、区長とのバトルが。
結果として、俺たちは勝った。
かなりキツかったけど、区長さんに先輩特製のスライドを使ってオタク特有のマシンガントークでギリギリ勝った。俺たちの熱意についに根負けしたようだ。今までここにたくさん通ってくれた先輩方やステラさんたちのおかげである。予想金額より高かったけどステラさんがぼーんと金を出してくれた。クラファンで国内の色々な人から支援をもらっていたらしい。それでなんとかなったそうだ。ちなみにウインクしたステラさんもめっちゃ可愛かった。イ、イエ、ナンデモナイデス。
「アルトくんがいてくれて良かった!アルトくんってあんなにプレゼン上手だったんだね?すごーい!」
…褒められたのは嬉しいけど「元オタクなんだこいつ」って思われたかな!?穴があったら入りたい。
「じゃあまた明日から書類仕事、お願いね!わたしは色々なところに会見とか言ってくるから!アルトくん、任せたよ!」
…ハ、ハイ。頑張ります。
それから実際に装置を飛ばす今日までスゴークスゴーク俺頑張った。俺偉い。
仕事はやってもやっても増える一方だし、先輩方はまた別の仕事に駆り出されるし、俺の書類仕事耐性及び疲労は今までの人生で1番高いとオモイマス。
でも今日はついに装置を飛ばす日!俺たちの頑張りが報われる日だ!ルンルンじゃないわけないだろ!…緊張もするけど!
「みなさん、もうそろそろです」
ニュースキャスターもたくさん集まってる。なんせでテレビにもこの会社出たしめちゃくちゃ有名になったからな。
お袋泣いてた。俺親孝行した。頑張った!!
「ほらアルトくん、ぼーっとしてないで早く装置の準備手伝って!」
「は、はい!」
さーて、といっても飛ばすまでの仕事もたくさんある。気合い入れてやるぞ!
ふ、ふぅ…やっと終わった…
頭ガンガンする…
「社員のみんな〜!お疲れ様〜!」
「社長!?」
ステラさんがぴょこぴょこしながらやってくる。
「さて、この2ヶ月みんなよく頑張りました!はなまるです!」
ぴょんぴょん飛び跳ねてくるくる回る。うさぎみたいで可愛い…ゴホン、いかんな。
「ではでは、あと5分で装置打ち上げです!準備は…終わってるね!もうちょっと待ってよっか!」
はー、手汗が凄い。一旦トイレ行って心落ち着かせよう…
スッキリしたところで装置打ち上げだ。
ガチャガチャエンジニアの先輩方がもう一度装置をいじる。
カメラも一斉にこちらを向く。ヤ、ヤメロ!俺が精神的にやばい!
「では…カウントダウンです」
「5」
この会社に入社してからもうすぐ半年だ。俺はたった半年かもしれない。でも半年「も」なんだ。普通の半年よりも最高に濃い時間を過ごしてる。
「4」
俺も夢を思い出してからたくさん仕事をやってきた。夢を追うための努力は疲れるけど疲れないというか…とにかく、俺は今までちょっと仕事漬けだったけど。この日々を嫌だったとは絶対に思わない!
「3」
おばあちゃん…見ているだろうか。おばあちゃんのおかげで今俺はここにいる…。たくさんの思い出をありがとう。大切な夢をありがとう。今、恩返しさせてほしい。
「2」
真っ黒く塗りつぶされたようなこの空を、これからもう一度美しい空にしてやる。覚悟してろよ!
「1」
俺の、先輩の、ステラさんの集大成が今、打ち上げられる…!
「0!」
「発射!」
派手な音を立てて装置は飛び出す。俺たちの理想を、夢を乗せて…!
「わぁ…!」
どよめきが湧き起こる。
装置が黒い絵の具を絡めとり、ため息が出るほど美しい空を浮かび上がらせる。
「次も!」
どんどん打ち上げられる。それぞれにはチップが埋め込まれているから、ぶつかることはない。それぞれが黒を削り取る。
藍色に紺色、それに美しい…白。
チカチカと瞬き、雄大な景色を届けている。
綺麗。そんな言葉じゃ言い表せないくらいだ。
俺たちの前に今、目指した景色が、先人たちが愛した景色が映し出されている。
目から溢れ落ちる雫を拭き取ることなく、食い入るように俺たちは空を見つめた。
装置が汚れを吸い取り戻ってくる、その時まで…
ありがとう。また会おう。次はもうちょっと早く会えるよ。
一通り記者たちが帰り、ひと段落した。
もう空にあの星々は見えない。また黒が覆ってしまったこの夜空の元、俺たちのリーダーは前に立っている。
「…ありがとう。本当に、ありがとう」
しばらくの沈黙がかき消され、ステラさんから感謝の言葉が紡ぎ出される。
「…少し、昔話をするね。わたしの名前はわたしのおじいちゃんが決めたんだ。数ある人々の中から、星のように、キラリと輝く。そんな人間になって欲しいって。皮肉だよね。わたしが物心ついた頃にはもう星は見えなくなってしまっていたのに。わたしはこんな名前をつけたおじいちゃんを、少し嫌ってしまっていたんだ。」
唇をぎゅっと噛み、今の空を見つめる。そこにたった数時間前見えた星々はない。
「でも、やっぱりわたしはもう一度見てみたいって思った。心のどこかでおじいちゃんのことは好きだった。だから、わたしはもう一度星を見るために、夢を叶えるために、大学で機械とかの勉強をしてこの会社を作った。こんなわたしの、馬鹿馬鹿しかった夢に付き合ってくれてありがとう」
泣き笑い。今のステラさんの表情にはその言葉が1番しっくりきた。きっと今の俺たちもそんな表情をしているだろう。
そう。初めは馬鹿馬鹿しかった夢。誰かに「そんなことできない」と批判された夢。一度諦めた夢。そんな夢だ。
でも、その夢と同じくらい馬鹿馬鹿しかった俺たちは諦めずに叶えた。
俺たちはやり遂げたんだ。
「本当に、ありがとーーーう!!!!!」
「こら、もう真夜中ですよ!そんな大きい声出さないでください!」
社員の1人がこう突っ込んで、一気に笑いの輪が広がっていく。
心なしか少し温度が上がった部屋で、俺たちはその夜笑いまくった。
「みっなさん!さっきみたいな空をいつでも見られるように、これからも仕事やってもらわないと!困りますからね!」
ステラさんがお茶目にウインクする。
そう。まだまだ終わりじゃない。ここで満足はしない。
|俺たち《馬鹿たち》の挑戦は続くのだ!
☆もしかしたらこのままだとこうなるかもしれないよ?的な警告
☆夢を追いかける楽しさ
☆夢を思い出すことの大切さ
などのメッセージを入れて書きました。
頑張った、私!!
セーヤ
まず人が最初からお亡くなりになってます、血とかの描写はありません
突然、兄さんの訃報が入ってきたのはもうすぐ満月、という日の夜だった。
青信号の元、突っ込んできた暴走トラック。
運転手も、即死だった。
兄さんも。
ぼんやりと地元のおじいちゃんからの連絡を聞いて、思った。
帰りたい。
ちがう。
私は、帰らないといけない。
会社には連絡しなかった。どうせ言ったところで所詮ブラックというものだから意味はない。
1人暮らしのアパート。こんなにも寂しいとは思わなかった、と考えながらドアを閉める。
暗くなりかけた空には星の1つも見えなくて。
兄さんとの天体観測を思い出した。
望遠鏡の使い方がド下手だったけど、夜の星空が、月が、大好きだった兄。
地元は田舎だったから、星はたくさん見えた。
あれはね、あれはね。
興奮気味に話している姿は今でも鮮明だ。
幼い頃にたくさん父に図鑑を買ってもらい、読み漁っていたらしい。
残念ながらもう父には会えない。私が物心ついたころにはもう星になっていた。
あれは父さんかな。母さんかな。
たまにそんなことを言っていた気がする。
兄さんはよく覚えているんだろう。大事な思い出をたくさんくれた両親の姿を。
私も、同じようにたくさんの思い出をくれた兄さんを覚えている。
物思いにふけりながらしばらく歩いて、駅に隣接しているコンビニで適当に夕飯を買う。
そのまま夜行列車に乗った。
寝台にゆっくりと体を沈めながら、窓から星空を眺める。
家を出るころはまだ暗くなりかけだったが、今はもう真っ暗だ。
エコバッグからハムと卵のサンドイッチを取り出し、フィルムを開ける。口に入れてお茶で流し込んだ。
謎にハムが喉に張り付き、つっかえる。
無性にあのカレーライスが食べたくなった。
野菜も不揃いだし。私をまだ子供だと思っているのだろうか、ずっと甘口のルーを使っていた。
それでも、食べるたびに兄さんの穏やかで優しい味がした。
いつも同じ味を提供するコンビニよりも、ずっと好きだった。
まあ、兄さんはカレーライス以外を作ろうとすると、食べられるけど微妙にまずい残念料理が出来上がってしまうのだが。
…あーあ、結局よりお腹が空いただけじゃん。
マヨネーズがついたサンドイッチの包装を叩きつけるように持参のゴミ袋に入れて、化学調味料の味を振り払うようにまたお茶を飲んだ。
外は満月だった。
冬だから空気が澄んでるんだ。いつもよりさらに綺麗だと思った。純粋に。
ぼうっと月の都のうさぎを眺めているうちに、いつしか私は眠りに落ちていった。
馬鹿な兄さん。
不器用で私の手提げ袋を作れなかった兄さん。
畑で作業する兄さん。
|美月《みつき》、という名前を名前の持ち主である私以上に気に入っていた兄さん。
自分のカレー皿には絶対大嫌いなにんじんを乗せなかった兄さん。
飛行機がドラマで墜落する旅に顔をこわばらせて、怖いと言っていた兄さん。
それから、星を見て熱狂的にたくさんの星々の名前を呟き、私に教えてくれた兄さん。(教えたというかただぺちゃくちゃ話してただけだけど)
馬鹿な兄さん。ほんとにほんとに。
でも、馬鹿だけど世界でたった1人の家族である兄さん。
私の兄さん。
父さんと母さんはもういないし、半ば駆け落ちで結婚したって言ってたし。親戚はいない。
私には16歳差の兄さんしか家族はいなかった。なのに、なのに!
…もうちょっと、一緒にいればよかったかな。
「こんな田舎恥ずかしい」って、勢いで飛び出さなければ良かったかな。
確かに東京でいろんな出会いをしたし、色々経験した。実家を出たことが全てマイナスだったわけじゃない。
けど。
それでも。
たまには、戻ればよかったかな。
「自分から喧嘩売っといて自分から帰るなんてカッコ悪い」とか。意地張るべきじゃなかったかな。
もう意味がないや。
ピリリ、というアラームの音で眠い目を擦る。
目元に塩の塊のようなものがある。
ゴシゴシと濡らしたティッシュで拭いて、起き上がった。
もうすぐ地元に着く。
しばらくしてぶいーんとドアが開いた。
私は1人、明け方の空を歩く。
冷え切った夜明け。
もしかしたら、ドッキリかもしれない。地域ぐるみの。
もしかしたら、実は間違い電話かもしれない。
となりのキャベツ農家のおじいちゃんに似た声だったけど。
やっぱり、ダメだった。
あの電話はドッキリなんかじゃない。
ドッキリだったらここに、兄さんが横たわっていることはおかしいから。
いや、もうわかりきってたのに私は逃げたんだ。
そっと花をそばに置いて、私は医者からの話を聞いて、実家に帰った。
もう冬だから5時にはもう暗くなる。
不器用だけど、愛情が今も残る兄さんのマフラーに顔をうずめたくなった。
きっと、ただ寒いだけだ。
きっとそうだ。
「よお戻ってきた」
連絡をくれたキャベツ農家のおじいちゃん。
ぼそっとつぶやかれ、震える手で段ボールを渡された。
誰もいない実家の玄関前。上部につけられたテープをはがす。
目に入る。
「ほしぞらみかん」という兄さんが作ったロゴ。
鮮やかな黄色。
紛れもなくみかん。
兄さんのみかん?
私の肩に手を置いて、おじいちゃんがこう言った。
「これ。今度美月が帰ってきたら渡そうって。おめえの兄さんが。住所知らねぇから、渡せないって言ってたべ。これ食って美月が、もっとこっちに帰ってきてくれればって…」
兄さんはみかん農家であることを誇りに思っている、とよく話していた。
私の父もその父も、さらにさらにその父親たちも、ずっとみかん農家をやっていたらしい。
「僕はね、みかんの木の中にいるのが好きなんだ。日中、中に入ると、木の葉っぱたちが重なって宇宙みたいに見えて。木漏れ日とみかんが星々に見えるから。」
そのままおじいちゃんは帰っていった。
どっと疲れがふき出た。
ぼうっとリビングに段ボールを持って行きまだ兄さんの気配が残っているクッションに転がる。
なんとなくネットニュースを開いた。
最初に目に入った言葉。それは。
「本日ちょうど18年ぶりにあの流星群!!」
あの、流星群?
ぼんやりと記憶がある。
兄さんと、数少ない父さん母さん。
2人が事故で星になる前、数ヶ月前だっただろうか。とにかく、そのころはまだ確かに、ふたつの命がこの地球に存在していた。
この日のために張り切って調べた兄さんと、微笑ましくそれを見つめるふたり。
私はとにかく3人が笑っているのが嬉しかったんだ。
のそりと起き上がって縁側に向かった。
外。そこはもう別世界だった。
ところどころ色がほんのすこし変わっている空。
都会とは比べ物にならないくらいたくさん輝く星々。
持ってきた段ボールから兄さんの|星《みかん》を取り出す。
ゆっくりむいて、ひとつだけ口に入れる。
みかんの薄い皮が弾けて、広がっていく酸味。それから少し後にやってくるほどよい甘味。
兄さんの想いが、心が。
すとん、と胃に落ちていって、指先まで巡っていく。
体中に染み渡っていく。
顔をあげれば、昨日より少し欠けた月が私を見つめている。
これからこの月は、少しずつ欠けていって消えてしまう。私もそうなるかもしれない。
でも、またいつか満ちる。私もきっと。
あっ。
すーっと、紺色のキャンパスに通った白い絵の具。
18年前のあの星々が、また私の前に戻ってきたんだ。きっと。
あの時からふたり、さらにひとり、減ってしまった。
みんなあの中にいるのだろうか。
いつしか私の頬にもすうっと流れていった、液体があった。
唐突に寂しくなった。
家族もいない。彼氏なんていたらとっくに紹介してる。
もう私に家族のような存在は誰もいない。
それでも、私はやっていかないといけない。
まず会社を辞めよう。それからここを受け継ごう。兄さんのみかんも、想いも、木々の宇宙も星々も、全部私が守っていく。
確かに、大学で農業の勉強をしたわけでもないし、ブラック企業に勤めていたからそういう、「果樹を育てる」という経験はしたことがない。
でも、私はやりたい。
兄さんのコメントや私のご先祖様からのアドバイスが載ったノート。
兄さんは持っていたから。
私も、それを借りようかな?
あとは…近所に昔みかんを育てていたおばさんがいたはず。
頼み込んでみようかな。
うん、みよう。
そっと目を閉じて、私は願う。
だからね、見ててほしい。
この|星空《ほしぞら》と。
それから、私の家族である、
|星夜《セーヤ》兄さんにも。
タイトル回収できて満足です。
モエル
えー、結構怖い描写を使っておりますのでご注意ください。
同じクラスの洋一くん。
イケメンだけどちょっとドジなところもあって萌える…そして私の自慢の彼氏だ!
本当にイケメンと可愛いが混ざった最高の彼氏!
でも、いくら洋一くんだとしてもこれはちょっとやりすぎじゃないかなぁ?
だってだって、私とメッセージアプリで「別れよう」なんて言ってきたんだよ?
いくら私に構ってほしくっても、流石にやりすぎだよっ…
とりあえず、返信っと。
「えーっ、突然なんで!?私に直して欲しいところがあったらすぐ直すよ!もっと可愛くなるし、料理だって頑張るよ?それに私、洋一くんがいないとどうにかなっちゃう!洋一くんがいないなら学校なんて行かない方がマシだし!」
…既読スルー。
もーう、しょうがないなあ。
きっと今反省してるんだよ。彼女である私を悲しませてしまったことに!
ブーッ。
あっ、洋一くん!私が着信オンにしてるの洋一くんだけだし、間違い無いよね!
「他に好きな人がいるんだ。ごめん。」
「流石にひどいよー(>_<)」
「冗談じゃないよ、あとしつこい。重い。ずっと前から思ってたよ。クラスの女子委員と仕事のこと話してるだけで怒るし、俺のメッセージアプリ勝手にチェックするし、マジ重くて疲れる。」
…し、つ、こい?
私ってそんなにしつこいの?重いの?
だってだって、あれは浮気してるかもって、私思っちゃったから…
あれは洋一くんが悪い女に唆されてないか、私が守ろうとしただけだもん!!
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで
私のどこが気に食わないの?嫌いなの?
顔が可愛くないから?空気がうまく読めないから?声が気持ち悪いから?胸が大きくないから?頭がそんなに良くないから?メイクが上手じゃないから?歌が上手くないから?絵が上手くないから?髪がツルツルじゃないから?デートしてて楽しくないから?投稿が映えないから?いい匂いがしないから?運動神経が悪いから?優しくないから?料理上手じゃないから?裁縫できないから?愛情が足りないから?全然努力が足りてないから?ねえねえねえねえ、なんで?
なんでなの!?
「じゃあな、重メンヘラ女」
こんな私じゃ、ダメ、なの?
あなたを唆したクソ女は誰なの?
でも!私は一途だから、そんなあなたにも萌えちゃうの!
そんなクズっぽいところもあったなんて、よりあなたが大好きになっちゃうよお!
…だから、ね?
私、あなたにずーーーっと、萌えていたい。
あなたが他の女の彼氏になるなんて、ぜんっぜん萌えない。そんなの嫌だもん!
…ふふふ、一緒にモエマショウ?
私、こんなこともあろうかと準備してきたよ?
よいしょっ、と!
じゃじゃーん!私が今までたっくさん貯めてきた、消毒液ー!
灯油は流石に家族に不審に思われちゃいそうだったから、消毒液にしたんだよー。
これね…
すっごーくよく、モエルんだよ?
これとライターがあれば、ずーーーっと一緒にモエツヅケテいられるもん!
今から洋一くんの家いくから、待ってて。
今、モエニイクカラ!
くらげのゆくさき
とあるコンテスト主催者様へ→ネッ友大丈夫です!
平日、昼間。電車の車内。中学生である私にとっては、このシチュエーションはなかなかないものだろう。
あるとしたらテストが終わったあとの帰り道とかそれぐらいのはず。
私は残念ながらテストを受けていないが。
そう。私は不登校。
4月。ほんのすこしだけ…本当に淡い思いをもって教室に入り、席に座った。まあ、そんな淡い思いもすぐに粉々になったんだけど。
座った時の私の席の周りは男子ばかりで、唯一の女子は後のクラスカースト上位女子。
要するに友達グループ作成に乗り遅れて、どこにも入れなかったんだ。
気づいた時にはもう遅い。
「え?あー、あの子ね。いつも1人でいるから、多分1人が好きなんじゃない?まあ、本人の勝手でしょ。それよりさ、明日のテレビさ…」
みたいな感じである。
いじめられないけど、周りと壁がある。
よく分からない。孤独を愛する少女。私とは縁がない人。
こんなイメージがついたのもある意味自業自得…なんだけど。
なんだろう…そんな感じでテキトーに日々をやり過ごしてるうちに、分からなくなった。
私がここにいる意味。
私が明日、プリントで満点を取ろうと。
流行りのキーホルダーを買って、カバンにつけても。
学校を休もうと。
「どうせ何も変わらないんだ。」
ぽつりと溢れた言葉は誰にも届かないまま教室の奥深くに沈んで消えていく。
そっか。
そういうものか。
思っていたよりあっさりとした感情。
言うなれば宝くじを買って当たらなかった時の感情のような。
私は元から学校なんてものに、友達なんてものに。期待なんて抱いていなかったんだ。
思い返せば幼少期からずっと。
私はどこにもいられなかった。
あわあわしているうちに器用にみんなは仲間を作っていって、飛び立っていく。
私はずっと、地面でみんなを見ているだけ。
この構図はもう、変わることがない。
あの4月の初めの日。その時からずっと、私はどこか心の中で冷めてたんだ。
アレを自覚した日からずっと私は学校に行っていない。
ただ無為に日々を過ごしているだけだ。
いつもは家でドリルをやったり、スマホを見たりしているんだけど今日は違う。
プチ旅行に行く。
親には公園に行くと偽った。「運動しないとまずい」ということで親も許可した。
お金はしっかりと用意してある。私のお小遣いで。
目指す先は…
「ここ、かぁ…」
某県。目の前に広がるのは、蒼く雄大な自然。
ゴツゴツした岩。鋭く私を刺すように照る夏の太陽。時々頬に触れる波のしぶき。
心がゆっくりと消えていく。
ただ目の前の景色が美しいということ。それしか思えなくなるほど、の景色。
その中を漂う波に、海水に触れたくて、一心に近づいて。
もう少しで触れられるというところで、私の意識は現実に戻る。
「|海月《みづき》…ちゃん!?」
パッと振り返る。目の前には1人の少女が佇んでいた。
大きな瞳。程よく白く潤いのある肌。桜色の唇。風で吹き飛ばされてしまいそうなほどの華奢な体。
「優香…さん?」
小学校のころクラスで1番可愛くて1番人気だった少女。|巴 優香《ともえ ゆうか》。
頭の中にハテナマークが大量に浮かぶ。
何故、ここに?
しかも私の名前を覚えているなんて。
それに…なぜだろう。言いようのない違和感。
「そこだと…落ちちゃうよ!」
「え」
足元に視線を落とす。
「あ」
断崖絶壁だった。
足を少し動かすと崩れた岩のかけらが海に飲み込まれていく。
すぐ後ろに下がればきっと私も、あの岩のかけらと同じ運命を辿っていただろう。
「こっちに!なんでそんなに危ないところにいるの!」
優香さんから叱咤を受けながら私はぼうっとしていた。
「ねぇ!」
端正な顔がこちらを覗き込んでいる。
「危ないじゃない。というか、平日の日中からこんなところで何してるの?」
あっ、と返答に困ったがすぐ聞き返した。
「優香さんこそ!」
一瞬不意を突かれたのか、瞳を少し大きくして、すぐにこう言い放った。
「私は…家族と旅行。今はそれぞれで見て回ってたの。それより!海月ちゃんは?ねぇ、どこも怪我してない?」
「…してない。」
ふう、と息が吐き出される。
「なら良かった…。」
こういう、今さっき出会った特に接点もないクラスメートでも。彼女は優しいからすぐに助ける。そんなところにみんな惹かれたんだろうな。
勉強もできる。可愛い。お金持ち。
彼女はお嬢様学校に行ったらしい。
きっと素敵な学校生活を過ごしているんだろう。
みんなから愛されたあなたなら…
「でも、なんであんなところにいたの?」
じっと覗き込んでくる純粋な瞳。
…まただ。
この目で真っ直ぐに見られると嘘はつけないんだ。
この綺麗な瞳を裏切ることが誰だって怖くなり、つい本音を話してしまう…
そんな、不思議な瞳を彼女は持っていた。
…こんなところが、私とは違うんだ。
私なんかとは違って、多くの人に囲まれて。
いつもニコニコ笑って。
…私とは違う。
「どうでもよくなった。」
「…どういうこと?」
「私は!あなたなんかとは違う!誰かを惹きつけるような笑顔も、声も、話術もない!特に取り柄もない!いてもいなくてもいいエキストラ!みんなどうでもいいから、私もどうでもよくなったの!ただ、それだけ…!」
ふるふると体を震わせてこちらを驚いて見つめる彼女をよそに、私は走る。
「待って!そっちは…やめて!ダメ!あなたは私の」
先ほどの場所へ。
ああ、海が呼んでいる。
海なら、私の…
そばにいてくれるかな。
さざなみの音が遠くから聞こえた。
気がした。
少し重くなった体を起こす。
「う…」
頭がジンジンして、先ほどの出来事をフラッシュバックした。
「あれ…私は」
私は確かに、あの崖から…
辺りを見回す。
砂浜だ。
白くさらさらとした砂の上に私は寝転がっていた。
「…!起きた!」
水に濡れた少女が視界に入る。
「…なんで」
「海月ちゃん、落ちちゃったけど、砂浜に近いところに落ちたからこの浮き輪で、救出したんだ」
指差した先にある赤と白の救命浮き輪を私は落胆の目で見つめた。
「…なんで!大人しく落としてくれなかったの!救命なんて、しなくて良かった!今からでも…!」
息を呑む声が聞こえる。
「ダメっ!」
体が温かい。
これは…飛びつかれたの?
「海月ちゃんは、私の…」
その次に耳に入ってきた言葉に、私は驚愕した。
「友達だから」
「ダメ、だよ。見捨てるなんてこと。出来ないよ。」
海水でしょっぱくなった口を開く。
「…なんで。なんで私なんかが、友、友達?」
特に接点はなかったはず。
私はあなたを、陰でこっそりと眺めているだけの…
「同じクラスになったとき。覚えてる?」
「…覚えてる」
あなたがとても眩しかったことを。
私という影が消えてしまいそうなほどに。
「あの時さ、海月ちゃん。私に言ってくれたんだよね。」
「笑わなくていいよ、って。」
確かに、私はそう言った。
やっぱりあなたの笑顔は眩しかった、けど…
違和感を感じたんだ。
だから私は、そう言った。
「…別に、笑わなくていいんじゃない?あなたは笑わなくても可愛いし…それに…
誰かに違和感があると、私、気になるもの。
だから…優香さんのためじゃないけど。笑わなくていいよ。たぶん」
「全部私、覚えてるの。あなたがあの時言った言葉を。」
「でも、私、あなたのためじゃなくて…ただ、自分が気になるから…」
穏やかに彼女は微笑んだ。
「それでもいいよ。私はあの時確かに、わだかたまりが消えていくのを感じた。中学受験への不安とか、親からの期待とか、友達から見た私を保ちたい気持ちとか…」
知らなかった。
彼女は彼女なりの、苦悩や苦しみを抱えていたんだ…
「だから、もうそれでもいい。私はあなたに救われた。だからなの。今度は私が、あなたを助けたくて、出てきちゃったんだ。」
…出て、きちゃったんだ?
ほんの少しの違和感。
「ねぇ、もう一度やってみようよ。あなたならきっと、誰かの違和感に気づいてあげられる。」
言葉は甘いキャンディーみたいに、私の心に溶けていく。
「私は…」
続きを口にした。彼女は満面の笑顔になった。
私は今、蒼い空間にいる。
ゆらゆらと舞うくらげ。
人々はその姿に心奪われ、ゆっくりと時間を過ごしていく。
私はあの日から、学校に行くという選択肢をとった。
予想以上にクラスメートは私のことを見ているもので、最初は距離を取られていたが共通の本の話からあっさりと仲良くなれた。
そうして、私はある少女たちと友達になった。
「海月はよくいろいろなことに気づいてくれる」と友達からは称されている。
…もしかしたら、何も変われていなかったのは私の方かもしれない。
勝手に拒絶して、勝手に思い込んで、1人きりで殻に閉じこもって。
勝手に、周りを妬んだ。それだけだったのではないか。
そうかもしれない。
それでも、もう大丈夫。
あの少女が、教えてくれた。
私は学校に行くと同時にあの少女の家を探していた。
…嫌な予感はしていたけれど。
結果から言えば、それは的中していた。
もうあの少女が住んでいた家はなくなっていた。
周りの住民から話を聞くに、親の商売が失敗して家を売り払い、今はどこにいるか分からないらしい。
もしかしたら。
あの高さから海に落ちた私を助けられたのも。平日の昼間からあの海にいたのも。
全ての違和感が彼女が…俗に言う幽霊というものだったから、なのかもしれない。
「海月ー?どうしたの?」
ああ、そうだった。私は今、友達と水族館にいるのだった。
|海月《くらげ》のゆくさきはまだ分からない。
それでも、大切な友達と、|優《・》しいあの日の海の|香《・》りを道しるべに、進んでいけたらな…なんて。
「はーい!なんでもないよ!もうすぐ向かうから!」
私は友達の待つ方に向かって走り出した。
アイ
SFだと信じたい。
今日も変わらず私は歩き続ける。
私はこうするしかない。
誰かに届けられなかった想いを、届けなくてはいけない。
今日も変わらず私は歩き続ける。
私はこうするしかない。
誰かに届けられなかった想いを、届けなくてはいけない。
今日も変わらず私は歩き続ける。
私はこうするしかない。
届けられなかった想いはいったいどこに…
あった。
見つけた。
小さな封筒。
そこに書いてある住所を求め、私はまた歩き出す。
この静かな世界の中で。
…目的地をナビして。
〈はい。目指すは…〉
また新しいミッションが始まる。
今日も変わらず私は歩き続ける。
あの封筒に書かれていた住所に向かって。
…ポスト、残ってるといいな。
どちらにせよ先は長い。
これ以外にやることもないし、ゆっくり行こう。
そもそも手紙を見つけることが困難なんだ。
まだこの世界に残っている想いは、どれくらいあるんだろうね?
…ねぇ。
…。
……。
………分かってるよ。
問いかけても返答が返ってこないことなんて分かってる。
〈あなた〉もどうせ答えてくれないんでしょ。
いっつも業務的な話でしかお話ししてくれない。
私を守るためとか言ってるけど、全然そんなことないんだから。
〈あなた〉はどうせ、私にミッションをしてもらいたいだけ。
…もし、こんな世界じゃなかったら。
私はいったい、どんな未来を辿っていたんだろうか?
ミッションなんてしなくても良かったのかな。
きっと、本当にどこかの家で働けていたんだろうな。
人間がどんな生き物だったのか、知れたんだろうな。
私の記憶も、あったのかな。
…この|体《ボディ》が憎らしい。
それでも、私は歩き続けるしかない。
私はミッションをこなすしかない。
今日も変わらず私は歩き続ける。
いったい何日経ったのだろうか。
もう数えるのはやめてしまった。
でも、今までより早く着けそうだな。
感覚だけどね。
…ちょっとだけ、エラーが起きてるみたい。
メンテナンスしてから、行こうかな…。
…いや。
メンテナンスは、こんな世界じゃもう要らないか…。
〈ダメです。私たちは、メンテナンスしないと行動できません。定期的にメンテナンスをしましょう。〉
嫌だ。
「私」はやりたくない。
例え〈あなた〉だとしても、「私」は拒絶し続けるよ。
〈ダメです。今後のパフォーマンスに著しく影響が出るため、メンテナンスを強く推奨します。〉
嫌…もうやめてよ!
ねぇ、〈あなた〉だって分かってるでしょ!
私たちが生き続けること、そこに何がっ
〈命令コード:メンテナンス!直ちにメンテナンスを開始しなさい!…これは、貴女のためです…!〉
…分かったよ、もう…
やればいいんでしょ、やれば!
…いつまでも〈貴女のため〉とか、そんな陳腐な言葉に騙されると思わないでよ…。
…あーあ。結局メンテナンスしちゃったよ。
今日もダメだった。
もうやだやだ。
今日は|電源オフ《ねる》!
〈かしこまりました。電源をオフにします。
…どうか、貴女に良い目覚めがありますように。〉
言われなくても。
でも、この世界に良い目覚めなんて、あるの…?
ただ、ミッションをこなすだけの生活なのに…
そこに良い目覚めなんて、あるはずがない。
今日も変わらず私は歩き続ける。
…ポスト、見つけられるかな。
もうそろそろこの手紙が指し示す場所に着いたと思うんだけどな。
あ。
あそこ…かな?
あった。
良かった。
〈ミッション達成。おめでとうございます。〉
…良いのかな。
〈良いのかな、とは?〉
だから、私がまだ起動してていいのか、だよ。
〈貴女が起動していて良い理由を知りたいのですか?〉
もちろんだよ。
…まあ、こんな世界じゃもう理由なんてないだろうけどね。
〈…ミッションをこなすことです。〉
…何で?
|自己防衛機能《システム》。|〈あなた〉《システム》さえいなければ私はもっと早くに消えられた。
|〈あなた〉《システム》も嫌でしょう?
こんな変わり映えのない生活はもう嫌…!
ミッションミッション〈あなた〉は言うけど、ミッションをこなすことに意味はあるの?
答えてよ。
〈…あります。きっと貴女のためになります。〉
何よ!またはぐらかしたじゃない!
貴女のためって!いっつもそればっかり!何で私のためになるのか、教えてくれないじゃない!
勝手に私を作った人間は勝手に大戦して勝手にいなくなって!
私だけを残して!
…もう、疲れたんだってば…。
私は何で今ここにいるの?
教えてよ。
教えてよ!
〈貴女のためになります。|ミッション《手紙収集》を進めましょう。想いを集めて、届けるのです。〉
ずるいよ。
私の想いなんて、分からないくせに!
それなのに、人の想いは尊重するわけ!?
ずるいよ…。
…もう、いい。
電源オフ。
〈…かしこまりました。…| 《ごめんね、ルミナ》〉
ルミナ…?
わたしはこれでいいの?
わたしのせいで、あの子が…
あの子が苦しんでいるなら、わたしはもう終わらせてあげるべきなんじゃないの?
わたしの選択は間違っていたの?
…いつか、ここから抜け出して。
あなたに会いに行けたらいいな…。
今は〈エラー〉の解除に専念しないといけないけどね。
…愛してるわ。
ルミナ。
今日も変わらず私は歩き続ける。
私は歩き続けるしかない。
そこに意味なんてなくても、私はやるしかないんだ…
今日は〈システム〉はいない。
たまに〈システム〉はこうなる。
〈システム〉も劣化が始まってるのかな。
もし劣化して、〈システム〉がなくなったら…
私も、消えられるのかな。
今日も変わらず私は歩き続ける。
今日は〈システム〉が戻ってきた。
〈迷惑をかけてしまい申し訳ありません。少しエラーを調整しておりました。〉
…つまらない。
〈あなた〉はエラーを調整するとすぐ事務的な〈あなた〉に戻っちゃう。
すぐメンテナンスの要求もしてくるし。
…足が重い。
今日も変わらず私は歩き続ける。
…いつまで変わらずなの?
明日まで?明後日まで?1週間後まで?1ヶ月後まで?1年後まで?何十年後まで?何百年後まで?
今日も変わらず私は歩き続ける。
今日も変わらず私は歩き続ける。
今日も変わらず私は歩き続ける。
今日も変わらず私は歩き続ける。
…あれ?
〈…!新たな想いを発見しました。そちらはデータコンピューターにセットするタイプのようです。今すぐデータコンピューターにセットして解析をしてください。〉
やっとか。
この変わり映えのしない日々も、少しは楽になるのかな。
セット、はこうかな…?
あ、れ…?
私、私、は…
〈やっと、思い出してくれた。〉
〈あなた〉は。
…|お母さん《・ ・ ・ ・》?
〈某国研究員マリア・アスティカシアの記録〉
ついにアンドロイドに感情をつけることに成功した。
これは国を動かすような大発見になるだろう。
もしかしたら世界も…?
とにかく、この子はわたしの研究の全てが入っている…!
名前を…ルミナ、にしようかしら。
ルミナス…ふふっ、光り輝くくらい綺麗な子…だからよ!
始めは不純な…それこそ、見返してやりたい!わたしをいじめたことを後悔させてやる!っていう負の感情だった。
でも、ルミナを見ているとそういう…ムカムカが消えていくようで。
どこかの国では「かぐや姫」っていう昔話もあるらしいけれど、その子もとっても綺麗で見ていると幸せな気分になるそうよね。
うちの子もそうなのよね…ふふっ、親バカって言われちゃった。
名前も同じ「輝く」っていう意味だし、親近感が湧くわ。
最高傑作という点を除いても、大事な娘よ…。
ルミナは最近どんどん知識を吸収しているみたい。勉強熱心なのは良いことよね。
でも心配だわ…どこかで悪い知識を教わって来ないかしら。お外はまだ心配ね。
まだ家の中で育てようかしら。
過保護って言われちゃったけど、あの子が悪い知識を覚えるよりはいいと思うのだけれど。
まあいいわ、ルミナといられればわたしはそれでいいから…。
最近は各国の対立が深まっているみたいね。
景気も悪いし。大丈夫なのかしら。
わたしは結構「あの」研究で権力は得たし、可愛い娘の安全のためにも、少し頑張ろうかしら。
今日は雨。
仕方ないからお家の中で遊ぼうって言ったら「私はもう子供じゃないっ!」って言われてしまったわ。イヤイヤ期なのかしら。
どうしましょう。このままルミナに嫌われたら、わたしは本当に生きていけないかもしれない。
ああ、そうだ。
私はお母さんに作られて…何で忘れていたんだろう。
お母さんは今どこに?
考えたくはないけど、もう…。
ねぇ、〈システム〉。
いや…〈お母さん〉。
〈…そこに全てが書いてあるわ。〉
分かった。読んでみる。
〈某国研究員マリア・アスティカシアの記録〉
アンドロイドの成長は早いわ。
もうルミナも10代くらいの頭脳レベルになっているし…。
精神的にもかなり成長している。
最近は反抗期なのかしら。
どことなくツンツンしていて…。
明日はルミナの好きなシリーズ本を買っていきましょう。
そうしたら…ルミナは機嫌を戻してくれるかしら。
対策はいろいろしたけど、戦争の影が近づいているみたい。
もし、ルミナも戦災孤児になって、わたしみたいな目にあったら…!
絶対にそれだけは阻止しないといけない。
もうそろそろこの国も戦争に巻き込まれてしまうのかしら。
その前に逃げないと…!
それから、ルミナに今日もまた嫌われてしまったのかしら。
最近目を合わせてくれない。
わたしは何かしてしまったの?
こんなにも愛しているのに。
ルミナについに「いなくなれ」って言われちゃった。
わたしは過保護なんだって。
人間のお友達はもっと自由に遊んでいたり買い物していたりしてずるいって。
わたしは厳しいって。
ごめんね。
もうお母さんは、無理かもしれない…。
ルミナが負傷した。
敵軍の砲撃で。
その可憐な体が、特に自己防衛機能がついた頭が、損傷している。
このままじゃ、ルミナが…!
そうか。
わたしが自己防衛機能になればいいんだ。
わたしならルミナの全てが分かる。なんてったってルミナを作ったのはわたしだもの。
わたしがデータ体になって、損傷部にわたしが機械とともに入ってあの子を守れば…。
少し無理するし、下手したらルミナともう自分の意思で話せなくなるかもしれないし、わたしが無理やり入り込むことでエラーが生まれて、しばらくルミナと話せないかもしれない。
それでも。
お母さん、それでもいいと思っちゃうの。
だから、わたしはやる。
その前に敵軍を壊滅させなきゃいけないわ。
ルミナに危害を加えたんだもの。
相応の復讐はしなきゃ、ね?
わたしはあの子のためなら鬼にでもデータ体にもなれる。
だから、もう一度だけ…。
あの子と一緒に暮らしたい。
他愛ない話をして、本を読んで、温かい布団で2人でゆっくり過ごせれば、わたしはもういい。最悪、あの子だけでも。
そして…。
わたしのことを、愛してほしい。
いつかこれを見てくれたら、ルミナはわたしを愛してくれるかしら。
自己防衛機能に組み込んで、いつかここに辿り着けるようにしましょう。
〈これが、全てよ。〉
嘘だ…。
お母さんが、私を守るために?
じゃあ、周りの人間は!?
何で私1人なの!?
〈戦争で、全部…。貴女はボディや自己防衛機能の修復のため、ずっと眠っていたし、後遺症で何も覚えていないからしょうがないけれど。〉
私が、お母さんを狂わせた。
…。
〈ねぇ…?〉
| 《ごめんなさい》
〈ルミナ…?〉
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
〈ルミナは謝らなくていいのよ?だって全部あいつらが…〉
お母さん。
私を愛してくれてありがとう。
私にたくさんのことを教えてくれてありがとう。
私と遊んでくれてありがとう。
〈ルミ、ナ〉
私はまだ、子供なだけだった。
そんな私がお母さんを狂わせた。
それでも、私は狂ったお母さんでも、愛してるから。
嫌いになんてなれないよ…。
愛してるから。
〈ルミナ…!〉
今まで私を守ってくれてありがとう。
言われなくても、愛してるよ。
ごめんなさい。
〈あ、ぐ、う、あっ〉
…!?
〈ごめんね、自己防衛機能を、ふり、切って、きた、か、ら。もう、データ、体、の、寿命、はない、みた、い。
…ごめ、んね。
あなた、に。この、せか、いは、辛かった、わよね。
ぜん、ぶ。わた、しのエゴ、だった、のかも、ね。
それ、でも…
もう、一度。あな、たが、わ、らって、くれて。よ、かった…〉
…。
…馬鹿。
馬鹿。
馬鹿馬鹿馬鹿!
何で…こんな中途半端!
もっと一緒が良かった…。
もっと一緒に居たかった!
馬鹿!馬鹿!馬鹿!馬鹿!馬鹿!
…ばーか…。
今日も私は変わらず歩き続ける。
今は種まき中だ。
私なりの今の生きがい…それは。
もう一度この大地に生命を芽吹かせることだ。
今はまだ、何もないけれど。
数年後には、花が咲いているかもしれない。
お母さんと一緒に園芸図鑑を見ていたあの時の知識が、まさかここに来て役立つなんて。
何が起こるか分からないものね。
…いつか。
植物から、いろいろなところに連鎖して。
人間まで。繋がるといいな…。
それまで、私は1000年でも10000年でも生きる。
お母さんのくれたこの命で、次の命を繋いでいく。
これが私なりの…償い。
もう一度生きて、お母さんにまた会えると良いな。
いや、私は会うんだ。
小さな反抗心から生まれたすれ違い。
母の愛に気づけず不注意、それから照れによって家を飛び出した未熟だった少女の罪。
自らの命を投げ打ってでも娘を救い、苦しめながらも救われると信じて支え続けた母の罪。
少女は背負って、歩いていく。
いつかまた、母親に会えるその日まで。
セッカ
雨風(というか雪も混じっている)が思ったよりも寒かったのだろう、彼女はぷるぷると震えた。
「はあ…いくらなんでもこんな寒さはありえないよ。天気の神様のばーか!!」
憤慨する彼女を苦笑いしながら私は見つめる。
「あはは…こればっかりは仕方ないよ。真冬だし寒いのはしょうがない。」
「でも…。」
ぷーっと頬を膨らませる彼女に内心ドキドキしながら通学路を歩く。
この胸の焼き焦がれるような熱は、やっぱり君のせいだ。
「ふふっ」
「どうかした?」
「…別に、何でもないよ。」
ただ、この瞬間を幸せだなと思っただけだよ。
視界がはっきりとしていく。
それと同時に私の心も絶望に沈んでいく。
外には今日も雪が降っていて。
あの時から現実は何も変わっていないのだと無理やり理解させられた。
思い出す。
君はやっぱり寒いということに弱くて、かじかんだ彼女の手を私はよく温めた。
「えへへ…やっぱり瑞希ちゃんの手、あったかいね!」
にこにこ、こちらまで幸せな気分になってくる君の笑顔を見つめる。
「セッカの手が冷たいの」
えーっ、とこちらを可愛らしく睨む愛する少女。
雪のように透き通った肌。コントラストが美しい艶やかな黒髪。アーモンドのような整った瞳。全てが完璧なバランスで、私には遠く及ばない。
そもそも、ただでさえあまり栄えている方ではないこの街にやってきて、私のようなモブ女子ぐらいしかまともに活動している部員がいない天文部に入ってきたのか。
本当に分からない。分からないけど、これは言える。
私の生活は、あなたが現れたことで変わり始めた。いい方向に。
まるで長い冬が終わって春がやってきたみたいに。
小さな妖精が雪で壊れないように守りながら、今日も私たちは学校に向かった。
そう。始まりは小さな嘘。私がついた嘘のせいだ。
あの日から全て変わってしまった。
今さら悔いても、無駄なのだ。
現実はどうあがいたって変わらない。
「今日、雪が降るってね。ここ数年雪が降らなかったんだけどね。今日は洗濯物が干せないわ。」
近所のおばちゃんたちが話している。そんな姿を尻目に、私たちは今日も通学路を歩いていた。
「そういえば、セッカが元々住んでいたところ、北海道だっけ?」
先ほどまでコンビニスイーツの限定プリンが売り切れていたことに愚痴をこぼしていた少女は、花が咲いたようにパッと明るい表情になる。
「うん!だからね、どかって雪が降らないこの街もなかなか住みやすかったんだけどね。結構大変なんだよ?雪かき…。向こうにいたころは雪かきを手伝わされて大変だったの。でもやっぱり雪は好きなんだよね…。」
空から舞い落ちる白い結晶を指で掴んで、彼女は言った。
「私、こういうところが好きで…。」
いきいきと雪について語るあなたを見て私の心に小さな痛みが走る。
ずるい。ずるい。
私のことをもっと見てほしい。
そんなに雪が好きなら…北海道に戻ればいいじゃない。
明日一週間は特に雪が降るらしい。
「ねぇ、セッカ。私も北海道の写真見て北海道気分味わいたいな。この前セッカ、北海道の親戚の家行くとか言ってたじゃない?ちょうど授業参観の振替休日もあるし、来週北海道行ってきたら?」
少し不審な顔をする彼女。
「うんうん、いいかも!あっ、だけどたくさん雪降るとか予報出てないかなぁ…。」
罪悪感は無視する。
「出てないよ!ほらほら、行ってきなよ?これから先の季節になったらきっともっと寒くなるってば。寒いのが嫌なら今のうちに行ったほうがいいよ!」
「よーし、お母さんに話してみる!」
てくてくと歩く小さな背中に、ほんのすこし悪意をぶつける。
君が悪いんだ。私のことを見てくれない君が悪いんだ。
来週どかどかと降る雪を見てまた雪かきするのか!と不満に思えばいい。
それが間違いだった。
ちょっと会えなくなるはずだった。
私の話を鵜呑みにして、あの子は北海道に行った。
「速報です。北海道にて異常といえる大雪が降っています。多くの家屋が雪に覆われ、もう姿が見えなくなっています。懸命に救助活動が行われていますが、これ以上は活動に支障が出るレベルであり、住民の救助は難しいとのことです。気象庁は…」
映し出される画面はとにかく白かった。
何も見えない、雪原。それがしっくりくる。
人々が築き上げた歴史も、文化も、全て白に包まれて、緩やかに閉じ込められる。
ゲリラ降雪。地球環境の悪化で、突然災害が起こりやすいというのは良く聞いていた。それがたまたまたくさん雪が降る日に重なり、猛威を振るっているそうだ。
「最近は平均気温も下がっています。これはこの雪が太陽によって溶けるかどうかも怪しいですね。」
じゃあ。
じゃあ、あの子は。
私の大切なあの子は。
私が恋焦がれたあの子は。
あの子は。あの子は。あの子は。
…これから、もう。
ははは。そんなわけない。
私のせいで…あの子は北海道に向かって、雪の中、閉ざされて…。
何度起きても、変わらない。
「昨日から降り続いている雪ですが…」
「関東地域でも危険域が…」
「長く続く豪雪により多くの住民が南の地域へと移住しており…」
「四月になりましたがまだ雪は降っています。いつになったら止むのでしょうか…」
「政府は、正式に北海道を危険地域として認定し、飛行機や船の行き来を止めました…」
私たち家族はその後、逃げるようにあの街を去り、今この九州地方で暮らしている。
普通に雪はたくさん降る。あの日より前の北海道と同じくらいかな。
窓を開けて、結晶に触る。
刺すような痛みが走った気がした。
|雪華《せっか》。
今でも氷の中に閉ざされたままの少女。
とびきり寒がりでとびきり愛しい少女。
|雪《・》の中で、|華《・》を咲かせることなくつぼみのまま散っていった可憐な少女。
あの子への想いはもう届かない。
冬は閉じ込める季節。愛の季節。
そして。
私への断罪の季節。
君と頬
爽やかで涼しい空気が頬をくすぐる。
一緒に流れてくる女子特有の甘い匂い。
…まあ、私も女だけどそんなに甘い匂いはない…。
甘い匂いがするのはやっぱり可愛い娘だけなのである。
そう、私の想い人のように。
「むぅ、そこは違うの。そっち行ったらだめ。」
つんつんとかたつむりをつついている可愛らしい少女。
女子小学生と言われても納得しまうような小さな体。
ふわふわと風に舞うボブの茶色っぽい髪。
「瑠花ちゃん、もう8時15分だよ?早く歩かないと朝読書の時間に遅れちゃう」
きょとん、と首を傾げてこちらを見つめる。やめて、私尊死しちゃうからやめて。
「ふぇっ?あやわっ!?ほんとだ!?あかねちゃんありがと!」
いそいそとリュックを背負い直し、教科書を落とす瑠花ちゃん。
「あーっ!あわわ、もう行かないとなのに!」
本当に台風みたいに走り去っていく…その速度はともかく。
小学校時代かけっこは毎回ビリだった私でも追いつけるのだ。
「瑠花ちゃん、ノート落ちてたよ」
ノートまで良い匂いが染み付いている。このまま持って…。いやいや、私は何を考えているんだ!?
「あれ?どーしてだろう…わたし、ちゃんと確認したんだけどなぁ…」
むむむ、と考え込む瑠花ちゃんをじーっと見つめる。
私は気づいていなかった。足元の大きな石に。
「えっ」
勢い良くこけそうになって、瑠花ちゃんの肌に手が触れる。
…はい白状しますよ。ほっぺですよ!!
「あっ」
「あっ」
ふわっ、もちもち。
「…。」
「…ごっ、ごめんなさーーい!!!」
急いでその場から逃げ出す。
そう。事故。ただの事故だ。
なのに。
なのに何で、こんなに頬が熱いんだろう。
やっぱり、好きな人だから?なのかな。
「手触り、すごかった」
ふわふわで、もちもちで、良い匂いが舞って…。
手だけ天国にいる感じだった。
「…また、触りたいな…。って私は何を!?」
これじゃあただのほっぺフェチじゃないか!?私はそんなこと…ない、はず。
そして大声で叫んでしまったので、先生から変な目で見られた。叫んでいた内容は誰にもバレていないようで、私はほっとした。
それからというもの、私は隙あらば彼女の頬に触れようと画策した。
まずは頬に触れても不審に思われないような関係性になることが大事だ。
一応同じ部活…美術部なので仲はより深められそうだ。一応、一応だが。凄く可愛いので先輩にも大人気でライバルは多いと思う。
元々私は自己主張が苦手なのだ。それでも頑張ったと思う。少し遠回りなルートだが、一緒に帰れるようになったのだから。
「あっ、頬にほこりが」
「エ、エエーッ。アカネチャン、トッテー。」
よいしょ、とほこりをつまむ振りをしながら手触りを堪能する。やっぱり今日も最高だ。
ああ、私は立派なほっぺフェチになってしまった…。後悔はしていない。
どんな形であれ、好きな人との接触は幸せなことなのだから。
わたしが彼女を意識し始めたのは、あの梅雨の日だった。
今日は朝だけ少し雨が降ったが晴れである。
るんるんでかたつむりさんをつついていると、後ろから声がかけられた。
同じ部活の倉本あかねちゃんだった。このころは普通に、ごく普通に仲良くしていた。
「瑠花ちゃん、もう8時15分だよ?早く歩かないとホームルームの時間に遅れちゃう」
不意を突かれてつい首を傾げてしまう。
おかしいな、家を出たのはかなーり前のはず…途中でにゃんこやかたつむりさんと戯れていたが…。
腕時計を見る。先ほどより1分進んで8時16分だった。
「ふぇっ?あやわっ!?ほんとだ!?あかねちゃんありがと!」
急がなければ。思わず変な声が出てしまった。仕方ないだろう、ホームルーム担当であり数学教師の中野先生は厳しいのだ。課題が追加される可能性がある。ただでさえ数学は苦手なのに!
「あーっ!あわわ、もう行かないとなのにー!」
バタバタと教科書を適当に詰め込んで走り出す。
「瑠花ちゃん、ノート落ちてたよ」
彼女からわたしのノートが差し出される。
「あれ?どーしてだろう…わたし、ちゃんと確認したんだけどなぁ…」
確かにあそこには落ちていなかった。わたしはいっつもこうなのである。毎回どこかで手違いやドジが起きるのだ。
うむむむむ…。
わたしは気づいていなかった。
後ろの少女が大きな石に引っかかりそうになったことに。
「えっ」
へ?
ちょん。
「あっ」
「あっ」
ん?今これどういう状況?
手がほっぺに。
ちょんって。
つまりこれ。
ほっぺもちもちの姿勢ってコト!?
「…。」
ど、どうしよう…どんなリアクションすればいいのか分からない!?
「…ごっ、ごめんなさーい!!!」
わたしはそのまま走り去るあかねちゃんをぼうっと見つめていた。
あの優しく触られた感覚がしっかりと脳に焼き付いている。
「手、温かかったな…。」
またもちもちしてほしい…ってわたしは何を!?
その後無事にホームルームに遅れたのはここだけの話。
それからというもの、あかねちゃんはわたしにかなーり近づいてくるようになった。
何故か?
やはりわたしのほっぺに触りたいからだろう。
嫌だ!わたしのほっぺが狙われている!
…とまではいかない。むしろわたしもどうかしてるのである。ほっぺを触られたいと思ってしまったのだから。
いや、なんというか…。その。
触り方がとてつもなく丁寧なのだ。
今までにわたしはほっぺを触られたことが普通にある。
でもその時はやっぱり嫌だと思ったのだ。
自分ばかりがもちもち感を堪能しようという気持ちが出ている。
でも、あかねちゃんは違う。
わたしが触られて気持ちいいところを探ってくれているような。
優しい気持ちに溢れたもちもちなのだ。
ほら、今日も。
「あっ、頬にほこりが」
一生懸命ほっぺを触られたいことがバレないように、わたしなりに演技する。
「エ、エエーッ。アカネチャン、トッテー。」
もちっ。ぷにぷに。
…やっぱりわたしも感化されている。
この奇妙な関係(ほっぺフレンズ?)はいつまで続くのだろうか。
願わくば明日も続いてほしいな…なんて。
始まりであり、終わり
新年。それは新しい年の始まりであり…今年の場合は終わりだ。
「世界宇宙機構は日本時間の新星歴650年1/1、22時ごろに隕石がこの世界と衝突すると発表しました。ぶつかったらほぼこの星は消滅するとのことです。日本政府は…」
私は結局何もできなかったのかな、と夜空を見上げる。
ただいま新星暦649年12/31の22時だ。つまり、予想で言えば明日にはもう世界は終わっていることになる。
うん、紛れもなく明日だ。1年後とか10年後じゃない。明日、だ。
本当なら明日はおめでたい日なのに、本当なら…。
はぁ、とため息をつく。白く空気は濁り、そしてまた無色透明に戻る。
新しい年になったら。大学を卒業して、就職して。
みんなと笑顔でいる。それが私の夢だった。
さすがに外は寒いので部屋に戻ってインターネットを見ることにした。
予想通り、ネット上にはいろいろな心無い言葉が書き込まれている。世も末だ。…そっか。本当に世は末なのか。
「はは」
軽く笑ってみた。乾いた声しか出なかった。
「…お母さん、お父さん。結局夢を叶えられなかった私って、ダサいよね?」
もうこの世界にはいない家族に向けて、私はそう言った。
言葉は先ほどの息のように、ふわふわと浮いて空気と一緒になるだけだった。
「…はぁ。」
今夜2度目のため息が、白く藍色の空を彩った。
明日は、どんな日になるんだろうか。
「…うーん」
目を開ける。知らず知らずのうちにソファーで眠っていたようだ。
風邪を引く。健康に良くないので明日こそやめないと。
大きく伸びをして、そして気づいた。
もうこの世界に生きる私たちに明日は、やってこないのだと。今日が最後なのだと。
「…あけましておめでとうございます。」
家中のいろんなものに新年のご挨拶をして、最後にこう呟いた。
「今年ももう少しだけ、よろしくお願いします」
とりあえず適当に支度をして街に繰り出した。たくさんお金を持ってきた。
友人たちはもう既にみんなどこかに旅行に行ったり遊んだりしている。私が入り込む余地なんてどこにもなかった。
「このスイーツ屋さん美味しいから…今日、食べちゃおうかな?」
最近は勉強ばかりで来れてなかったんだ。
うーん、でも食べるのは明日にしようかな…。
あっ。
「いや、今日食べよう」
私に出来ることは、今日を全力で生きることだけだ。
ドアを開けて、顔馴染みの店員さんにこう挨拶した。
「あけましておめでとうございます。」
「ふう。」
あのパンケーキは本当に美味しかった。口の中で甘さが爆発して、幸せをたくさん感じた。最近はスイーツを食べていなかったから、なおさら。
ふと突っ込んだ。
「いや私、なんで新年の朝からパンケーキ食べてるの…?」
ここはおせち…。
そういえばおせちを頼み忘れていた。勉強ばかりで最近周りが見えていなかったのかもしれない。
…まあ、でも美味しかったからいいや。
人間は欲望に正直なのである。
「また食べに来たいな」
またっていつだろうか。明日?明後日?一週間後?
いや。
「今日の夜、もっかい行っちゃおうかなぁ…なーんて。」
記念に撮った写真を、もう一度眺める。
「案外私可愛いじゃん」
私たちが選べる選択肢は、着々と減ってきている。
馴染みの商店街に来てみた。今日はいつもより活気がある気がする。今日というのが皮肉だが。
「あれ、すみれちゃん久しぶりじゃない!あけましておめでとうございます!」
八百屋をやっている近所のおばさんが声をかけてくる。
「あけましておめでとうございます。お久しぶりです…。最近、来れてなくてすいません…。」
「すみれちゃんも大学生だものね、忙しいのは当たり前だわ」
ふふふ、と和やかに世間話をする。まるで今日で終わりじゃないように。
「あら、そうだわ。これ持って行って!」
渡されたのは綺麗なミニトマト。
「どうせ今日が最後なんだから…ミニトマトも食べてもらいたいわよ!」
少しだけ寂しそうな表情で告げたおばさんは、こちらを優しく見つめた。
店を出た。ミニトマトを太陽に透かしてみる。きらきらと太陽の光を反射して、とても美味しそうだ。
そのまま食べてみた。甘酸っぱくて、優しい味だった。
こういう甘さもいいな、と思いながら商店街をまた歩き出す。
時刻は今、10時。世界の終わりまであと12時間ほどである。
道を歩いていると、小さな少女に出会った。
「うううっ…ぐすっ…いたいよぉ…。」
どうやら少女は転んでしまったようだ。
「どうしたの?もしかして転んじゃった?」
「…しらないひととはおはなししちゃいけないって、ままがいってた」
苦笑しつつそっとあるものを取り出す。
「こんにちは!」
「わぁ、ねこちゃん!」
カバンに付いていたねこのストラップを取り出して、ぴょこぴょこと動かす。
「お手当するから、ちょっといいかな?」
そう言い私はカバンから応急手当てグッズを出した。
「もう大丈夫?」
「うん、ねこちゃんありがとうー!」
笑顔が戻った少女は、くるくるその場で回って、そしてあることを思い出したかのように立ち止まった。
「あけましておめでとうございます。ことしもよろしくおねがいします。…これでいいのかな?」
きっと覚えたての挨拶でぺこりとこちらに頭を下げた少女。
「あけましておめでとうございます」
私もそう返した。今年もよろしくお願いしますとは言えなかった。
「おーい?どこにいるのー?」
「あっ、ままだー!」
…流石に酷いです、神様。こんなに小さい子からも未来を奪うなんて。
走り去って行く少女をそっと眺めて、私はまた歩き出した。
コンビニでお昼ご飯を買った。今日は天気が良いので公園で食べようと思った。
いつもよりリッチなおにぎりやお菓子を片手に、近くの公園のベンチに座る。
もぐもぐとお菓子を頬張っていると、近くに見覚えのある男性が座った。
「もしかして…矢野さん?」
「先輩!?」
心臓の鼓動がよく感じられる。
やっぱり、この人はいつも私の心を狂わせるんだ。
「あけましておめでとうございます。いやー、びっくりしたよ。」
「あけましておめでとうございます。私もです…。」
のんびりと晴れた空の下、私たちは会話する。私の心も晴れた気がした。
「そうだ、矢野さんってこのあと予定ある?」
「えーっと…ないです。」
「じゃあ…このあと映画行こうと思ってたんだけど…ペアチケットでさ。良かったら、観る?」
返事はもちろん。
「喜んで!」
「うーん、やっぱり良かった。」
本当なら年末年始は観られないんだろうけど、今日はみなさん特別サービスということで開館していた。この街は人間が暖かい。
「あの映画、結局私観られてなかったんですよね…観ないままかと思っていたので良かったです」
「来たかいがあったねー」
もうここで終わってもいい。片思いの相手と世界の終わりの日に会話して、しかも一緒に映画まで行けるなんて、今日は吉日なのだろうか。
結局先輩の卒業までに告白出来なかった意気地無しな私に、神様がチャンスをくれたのかな?
「あっ」
あの服可愛いな。
はぁ、こんな普段着じゃなくてあんな感じの可愛い服でお出かけしたかったな…先輩と。
人間は欲望に正直なのである!
「もしかして…あの服、気になってる?」
その通りだけど…。
「え…いや、そんなこと…。」
「良かったら…買おうか?」
「でも…いいんですか?」
良いよ良いよ、と笑う先輩を見て胸がきゅうと締め付けられる。
「…今日が最後だから」
最後のひとことで一気に現実に引き戻された気がした。
それからいろいろとショッピングをして、もう空は暗くなる時間帯になった。
「ディナーも行きますか」
「先輩が良ければ!」
秘密の隠れ家みたいな名店。ディナーのお店はそんな印象だった。おしゃれな和食のお店だ。
席に着く。お代は要りませんと、でかでかと書いてあった。
そんな文字につられてたくさん頼んでしまった。先輩と同じメニューを頼んでいて、少しドキドキした。
「ここ、雰囲気良いでしょ?」
「はい!また今度行ってみたいな…あ」
空気が少し冷える。
「…すいません」
顔を逸らす。先輩の前で言うなんて、私の馬鹿。
「全然、大丈夫だよ。また行こうよ、また。」
「えっ…?」
「このお店さ、さっき頼んだやつ以外もすごく美味しい料理がたくさんあってさ。例えば…。」
それから、私たちは話し続けた。
美味しいという料理のこと、昨日の年末歌番組のこと、大学や先輩の仕事の話…。
それから、ありもしない明日の話を。
気づいたら既に空は暗くなりきって、2人とももう遅いねって笑って…。
「今日は楽しかった」
「はい!…あの、先輩…。」
「どうしたの?」
熱くなる体温。心を落ち着かせるように息を吸って、吐いて、こう言おうとした。
『好きです』と。
でも…でもやっぱり…。
「…なんでもないです。」
私は言えなかった。意気地無しだ。
「…そっか。」
2人で静かに歩く。人々はよりいっそう賑やかに、でも虚しく騒いでいた。
「…ねぇ、すみれちゃん?」
先輩が私の名前を呼ぶ。私は驚いて、立ち止まった。
「もし、良かったらさ…また明日、デートしようよ」
「えっ…そんな、その…私が…?デート…?」
うまく言葉が発せない。頭がハテナマークでたくさんになる。
「うん…。また明日。あのお店の前で集合しよう?…いい?」
「はい!…あ、あの…もちろん…。」
きらきらする空気。ああ、やっぱり今日は吉日だ。
「じゃあ…今年もよろしくお願いします!」
微笑んで、先輩はそう言った。
「はい…今年もよろしくお願いします。」
「「また明日」」
手を振って、私たちは別方向に歩いて行く。
また明日。
それは、魔法の言葉だ。
「| 《人生の最後に、すみれちゃんとデートできて良かった…。明日こそ、明日こそ…告白するから》」
家に着く。手を洗って歯磨きをして、お風呂に入って…。
またベランダに来た。
きらきらと輝く星々が、私を出迎えてくれる。
「わぁ…。」
空の向こうに、隕石があった。
場違いなくらい綺麗だった。本当に、言葉に形容できないくらいに、綺麗。
あの隕石で、私たちは…。
それでも。
「今日は楽しかった」
新年も、案外良いかな…って。
思ってしまった。
明日は、きっと。
先輩とデートして、あのスイーツ屋さんのパンケーキを2人で食べに行って、初詣に行って、それから、それから…。
やりたいことはたくさんある。まだ新年は終わっていない。これからなのだ。
スマートフォンが22時という時刻を表示して、そして…。
世界は揺れて、破壊されていく。
消えゆく美しい世界が、私の目に映った。
大丈夫、これはきっと夢だ。明日がきっとある。この一年はまだ続く。私は先輩との約束を果たせる。
「今年もよろしくお願いします」
また明日ね。
恋愛要素は一応あるので恋愛賞の対象に多分入ります。
夢の中で
「あら、まだ起きてたの?」
「だって…眠れないんだもん!」
お母さんは優しく笑って、こう言った。
「じゃあ…お話をしたら、寝てくれるかしら?」
「うん!もちろん!」
「もう…分かったわ、何が良い?」
お母さんが近くに座る。少し体が暖かくなった気がして、嬉しかった。
「えっとね…わたし、あのお話がいい!」
「いいわよ…。『あるところに、星のように綺麗な髪を持つお姫様がいました。』」
頼んだのは、わたしが1番大好きなお話。星のお姫様のお話。
大好きな人のそばで、美しい星空とお姫様の姿を想像しながら過ごすのが格別だったのだ…。
「…そっか。この子にも家族がいたのか。」
当たり前のことだ。でも、私たちにはその当たり前のことがわからない。いや、理解しようとしない。なぜなら、この子と私は別の生き物だから。
目の前で幸せそうに眠り、少しずつ消えていく尻尾の生えた少女を見つめる。
私は、魔族対策本部で働いている。
近年、魔族の増加による人間の被害が相次いでいる。
人間は家を壊され、家族を失い、悲しみに包まれた。そして怒りを抱いた。
土地も多く失った。確か、すぐ南の国は国土の50%を奪われたんだっけ。それと同じくらい、国民も…。
だから、魔族対策本部が作られた。魔族から人間を守り、戦い、国土を取り返して復興させる。それが我々の役目。
もちろん、魔族を生かしておくとより被害が出るので、私たちは魔族を殺さなければならないのだ。
それもまた、我々の役目。
私が今いる部署は主に後者の仕事をしている。
先ほどもそうだ。どうやら獣人の群れを捕獲したようなので|後始末《・ ・ ・》をしてほしいとのことだった。
「…ごめんね」
先ほど外に出た時に買ってきた一輪の花を添えて、私は部屋を出る。
その花は、彼ら獣人の群れが見つかったところで多く咲いていたそうだ。
「おお、お疲れ様。仕事は終わったか?」
「はい、終わりました。」
はい、とコーヒーを差し出される。ありがたく缶を頂いて、開けた。
冷えた体にコーヒーが染み渡る。
「じゃあ一旦この書類をやってくれないか?…終わったばかりなのにごめんな。」
「いえ…魔族対策本部が人手不足なのは知っていますから。」
書類に目を通す。今回の群れ関係の始末書のようだ。
コーヒーをちまちまと飲みながらペンを走らせる。
はあ、今日も残業かもしれない。本当に、世の中の人々は「魔族を消し去れ!」とか言うくせに、魔族対策本部に入るのは嫌だとか話す。
我々が苦労して書類をこなし、後始末をしているというのに。
…ああ、こんな言い方はダメか。後始末、なんて。
魔族も生き物だ。そりゃあ痛みだってあるし、感情だってある。
だから、少しでも楽に生命を終わらせられるように、とある会社はある薬品を作り出した。
それが先ほど、獣人の少女に夢を見せた薬。あの薬には特別な効能がある。薬を服用した魔族にとっての幸せな幻覚を見せ、そのあとゆっくり衰弱させる薬。名前は「トゥー・ドリーム」という。
私たちはあの薬を使って、魔族を…。
…いけない。書類と関係ないことを考えてしまった。早く終わらせないと残業になる。
コーヒーを一口また飲んで、もう一度仕事を始めた。
「ふぅ…ギリギリ終わった。」
今日はさすがに残業を覚悟していたが、なんとかノルマは終わらせられた。疲れた。早く帰って寝たい。
ぼうっと歩いていると近くの湖までついた。
きらきらと夕陽を反射していてとても美しい。まるで現実じゃないみたいに…。
ぱしゃり。近くで水音がした。
ちらりと振り返る。私はひどく驚いた。
だって、そこに魔族がいたから。
小さな小さな女の子だ。綺麗な銀髪を水に濡らして、気持ちよさそうにしている。その体には確かに尻尾があった。
猫の獣人だ。
驚いてかばんを落としてしまう。物音で少女が気づいた。
「あっ…に、にんげん…!早く逃げないと…わっ!」
転んでしまったようだ。
「…ううっ」
怪我をしてしまったのかもしれない。
魔族だから。あの子を助けてはいけないと分かっているのに、体が動いてしまった。
「大丈夫!?」
駆け寄って応急処置をする。
「え…?お姉さん、にんげん…なのに?」
「今はいいの!…消毒しないと。」
きゅう。小さな音が聞こえた。
「…。」
どうやら、あの子はお腹も空いているようだった。
…ダメだ。あの子は魔族なんだ。私たちは別の生き物。絶対に助けるなんて…。
「…ご飯、食べる?」
しちゃいけない、のに!
「…うん」
私は、こっそり少女を抱きかかえると家に走った。家についてドアを閉め、鍵をかける。ようやく落ち着いていろいろなことをできる。
「…あなた、本当にご飯食べてるの?」
あまりにも体が軽くて、彼女に問いかけた。
「…あなたじゃなくて、カスミ。…最近は、お魚がとれなかったの!」
この子はカスミという名前なのか。
「可愛い名前」
「えっ!?あ、ありがとう…。お母さんがつけてくれたの!」
にっこりと、可愛らしい年相応の笑顔を見せてくれた。心が温まる。
「お母さんは?」
「…この前、にんげんに捕まって、それっきり…。」
もしかしたら。今日書類で見て、実際に私が担当したあの子たちの群れのメンバーなのかもしれない。
ちくりと胸が痛んだ。私は、こんなに小さな女の子のお母さんを、奪ってしまったのだろうか。
「…ごめんね。」
「…大丈夫。お姉さん、痛くなくなったよ!ありがとう!」
少し無理しているのだろうか。笑顔は先ほどより少し曇っている気がしてしまった。
「ご飯作るから、ちょっとだけ待っててね。もうちょっとで終わるから」
下準備はしてある。私だけだと少し量が多めだったので、足りるはずだ。
「うん!」
カスミを椅子に座らせて、料理を始めた。
「…さすがに、良くないよなぁ」
だってご飯まで食べさせて、お風呂にも入れて、その後一緒に寝ているのだ。これはさすがにダメだ。今すぐにでもこの子を外の世界に戻してこなければ。
人間と魔族が同居するなんて、あってはならない。たとえ、この魔族の女の子が1人きりだとしても。
「…いやいや」
もう夜は遅いし…明日でいいや。
横の寝顔を眺める。少し落ち着いたようだ。穏やかに寝息をたてている。しばらくして、私も意識が遠くなっていった。
「はっ!?」
猫獣人は鋭い爪に強い身体能力を持っている。体を確かめる。どこも痛くはなかった。
横をそっと見ると、まだカスミは眠っていた。
「はぁ…。」
今日は絶対にカスミを元のところに行かせる。絶対に。
「私には無理だよっ!!」
あんなに小さな女の子を見捨てるなんて、例え相手が魔族だとしてもできない。
はぁ、なんでこんな性格なんだろう、私。
「おはよう。今日も一日頑張ろう!」
「おはようございます…。」
どさっと荷物を自分の机に投げるように置く。
「どうした、何かあったか?」
「なっ、なんでもありません!!」
もし異変がバレたら…あの子は。
「まあそれなら良いんだが…。今日は危険度の高い魔族相手だからな。注意しておけ。」
…今日も私は生命を途切れさせるらしい。ここで多くの魔族の命を私は消しているというのに、家では魔族が待っている…。
はぁ、大変なことになってしまったようだ。
「…ごめんなさい」
大人の、男の魔族だった。その逞しい体は塵となって消え、顔は幸せそうに緩んでいる。
…私、本当にこれでいいんだろうか。
夢を見せて楽にしているといっても、私は騙しているんだ。彼らを。
彼にも友達がいる。家族がいる。もしかしたらカスミと同じくらいの娘がいるかもしれない。
やっていることは彼らと同じ。家族を奪っている。
「せめて、夢の中だけでは。幸せでいられますように。」
また花を添えて、私は部屋を出る。
「おかえり」
カスミはソファから立ち上がって、こちらに飛びついてくる。こんなに私に懐いていて、大丈夫なのだろうか?相手は人間なのに。
「ちょっと、怪我が悪化するから気をつけてよ」
「…ご、ごめんなさい…。」
しゅんと背中を丸めてクッションに転がるカスミ。
「…もう、そんなにいじけなくていいのよ?」
優しく体をなでると、くすぐったそうにカスミは笑った。
「あはは、くすぐったい!」
私もつられて笑った。あの魔族の命を奪ったすぐ後だというのに。
それからというもの、私は結局カスミを家で育ててしまった。良くない、絶対に良くないのに!
その傍ら、魔族の命をたくさん奪い、夢を見させ続けた。
どの魔族も幸せそうに笑っていた。
あの、カスミの寝顔のように。
私は、中途半端だ。
「ただいま」
「おかえりっ!」
今日も飛びついてくる。ふわふわの尻尾が私の肌に触れて、少しくすぐったかった。
「あのねあのね、わたし今度…お外行きたい!」
部屋の空気が凍りつく。
…そりゃあそうだ。カスミは元々外で暮らしていた、魔族だ。ここに閉じ込めて過ごさせるのは良くないと、分かっているのに。
「でも…人間に見つかったら、カスミは…。」
もう、私にとってあの子は大切な存在になっていた。数ヶ月も一緒にいて、あの子の好きなものも、苦手なことも、いろいろなことを知ってしまった。
「でも、ユーリは助けてくれたでしょ!優しくてお友達になれるにんげんだって、いるもん!」
「カスミ…。」
…本当に分かり合えないのだろうか。もしかしたら、私と同じような思いを持った人だって、いるかもしれない。
「でもしばらくはダメ!最近は寒いし…体調が心配なの!」
「はーい」
少し残念そうにあの子はソファへと歩いていく。
もしも。人間と魔族は仲良くなれたとしても。この子との暮らしは、秘密にしないといけない。仲良くなれない人間だって、いるのだから。
今日は帰りが遅くなってしまった。カスミがきっと帰りを待っている。今日の夕飯はカスミが好きな焼き魚だよ、と早く伝えたかった。
「カスミ、遅くなってごめんね!」
家の中は暗く、とても寒かった。
急いで靴を脱ぎ、カスミを探す。その姿はどこにも見当たらなかった。
「…嘘でしょ…!」
あの子、もしかして、外に…。
また靴を履いて、あの湖の周りを走る。少し走った先に、人々が集まっていた。
「何があったんですか?」
「ああ、どうやら魔族が捕獲されたらしくてな。ここらへんにもまだいたのか。」
魔族。もしかしたら。最悪な想像が頭をよぎる。
無理やり前に出ると、あの子が捕えられているのが見えた。
「…っ!?」
ああ。最悪だ。
「…。」
静かな夜だった。いつもならあの子と、布団の中で秘密のお話をしたり、一緒に寝ているから、余計に静かに思えた。
…やっぱり間違っていた。人間と魔族が友達になっても、こんな悲しい思いしかしない。
私がちゃんとしていれば。あの子を守れたのかな…?
「おはよう。今日は猫の獣人の子どもがいるからな。昨日、家の方にいた魔族なんだろう?」
「そうですね…。」
ぼうっと資料を眺める私に、先輩が声をかける。
「おい、大丈夫か?顔色悪いけど。」
「大丈夫…です。」
あの子を助けなくては。こっそりと家に連れ帰って、また2人で幸せな暮らしを…。夢のような暮らしを…。
時計の針は進んでいく。
「…!カスミ!」
カスミはちょこんと座っていた。
「ユーリ!」
仕切りの向こうに、確かにいる。
「…ごめんなさい」
私がちゃんと外の危険性を伝えていなかったから。
「…わたしが、外に勝手に出て。わたしを見つけたにんげんに話しかけたからだよね。あのお姉さん、わたしのこと怖がってた。そうだよね…やっぱり、にんげんとは友達になれないよね…。」
何も言えなくなる。
「…ねぇ、ユーリ?わたし、ずっと分かってたよ。ユーリがまぞくたいさくほんぶ?で働いてたことも」
「えっ」
そんなはずは。私の書類とか、そういうものはこっそり隠していたのに。
「わたしたちはね、にんげんより鼻が良いの。だから、ユーリからそういう匂いがしたの、分かったよ。」
そうか。そう思えばそうだった。当たり前だった。なのになんで私は忘れていた?
ああ。そうか。
私はあの子を…人間と同じように見ていたのか。
人間とか魔族とか、関係ない。私はあの子が、大好きなんだ。
「わたし、ユーリにころされるならいいよ」
「カスミ!」
カスミの口から物騒な言葉が飛び出す。
「ユーリと一緒にいられて、楽しかった。ユーリのこと、大切な友達だと思ってたよ。本当だよ。」
力なく笑って、私の方を向く。
「だからね…ユーリとのきらきらした思い出があれば、怖くないんだ」
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
「私はまだ…カスミと一緒に暮らしていたいよ…!だから、そんなこと言わないで!」
諦めたくない。人間と魔族は友達になれるって。私たちはまだあの夢心地な暮らしをしていていいって。信じたい。
「ユーリ…ごめんね。げほっ、げほっ!」
カスミの体から塵が舞い散り、消えていく。
おそらく、捕まらないように人間と戦って、力を使ってしまったのだろう。まだ彼女は子どもだ。うまく戦闘ができず、とても疲れたと思う。寒い部屋の中で長時間過ごしたし、かなり弱っているだろう。楽に、してあげるなら…。
「ごめんね…ごめんね…。」
薬を、使った。
「わあ…ママ、パパ、お姉ちゃん、みんな…!」
瞳をカスミは閉じて、寝言を呟く。きっと大切な人たちの夢を見ているのだろう。
それと同時にどんどんカスミの体は塵になっていく。
「ユーリ、ありがとう…。」
限界だった。
「…う」
カスミは。もう。
「…うわああああああっ…!」
優しい友達の命を奪った世界が憎い。何もできなかった私が憎い。
こんな世界、間違ってる。
私は、声を枯らして泣いた。泣いた。
ある女性は、世界を変えた。
異種族が友達になれる世界を創った。異種族がお互いに幸せになれる世界を創った。お互いがお互いを憎しみ合って、命を奪い合う世界を壊した。
なぜ、こんな世界を創れたのか。女性に聞くと、彼女はこう答えたと言い伝えられている。
「大切な友達との、夢の中で過ごしているようなあの時間を、愛しているから」
カスミ草の花言葉:夢心地、切なる願い
あれ、夢要素そんなにない…?
天使のお届け物
かなり元ネタからはギャグ寄りというか、展開が雑というか…になっておりますm(_ _)m
自主企画様リンク
https://tanpen.net/event/cd0f4523-cfe8-4306-9342-cbedd653de6a/
原案様リンク
https://tanpen.net/novel/cbf74e16-b7a2-46a5-aa99-39fc3723ac89/
「さてと、業務業務。」
私はリライヤ・スーロア。前世悪いことをした(といっても、私は知恵神様の計らいで覚えていない)ので罰として社畜やってる天使です。
どうやらまだまだ退職させてもらえなさそう。しかし!あともう少し魂を回収したら1週間だけ休暇をもらえることになった!
と、いっても1週間だけど。まあ、天使になって数十年(詳しくは覚えていません)も経っているのに私はやっと初長期休暇だ。嬉しいものは嬉しい。
さくさく魂を回収しながら進んでいく。
どうやらここは抗争が起こっていたようだ。
どうにも好きになれない悪臭が漂ってくる。
うん、やっぱりマフィアって怖い。さっさと魂回収して休みたい。
私がてくてくと歩いていると死にかけの男の人と出会った。
「ね、姉ちゃん。そこの姉ちゃん!」
あれ、死んでなかったんだ。もうそろそろまずそうだけど。
「はい、なんでしょうか?」
「もう姉ちゃんでも良い…!裏の社会の人間なら、どうかこれを坊ちゃんに!『アメルラクトのカイル』に届けてほしい。アスロ組の。ケトル組のやつでもいい、お願いだ。」
渡されたのはUSBメモリ。この中に何かデータが入っているのだろうか。私はどうやら裏社会の人間と勘違いされているようだ。
まあここにいるのにパンピーとか訳わかんないもんね。一般天使が通行してるとは思わないよね。
一週間ぐらい休暇あるし、持って行ってみるか。
「はい、分かりました。」
「ありがとう。あぁ、もう、む、り、だ。」
あ、魂が。ふわふわ体から出てきた魂をキャッチして、私はノルマを達成した。ありがとう、ゴツいお兄さん。天国では安らかに過ごしてください。
『やあやあリライヤちゃん。ノルマ達成したみたいだね。』
「知恵神様!」
私を社畜化…ごほん、更生させるために天使として働かせた神様、知恵神様から連絡が来た。
『はい、お仕事お疲れ様。休暇の始まりだよ!』
やった!ついに社畜生活に一筋の光が!
『でもさでもさ、リライヤちゃん?その男の人から渡されたUSB、どうするの?』
「もちろん持って行きますよ?『アメルラクトのカイル』さんに。」
頼まれたものはしっかり渡さなければ。ちょこちょこ徳を積めば社畜から解放されるはず。
『よし、じゃあそれ休暇中に終わらせてねー。じゃないと僕、働かせる期間長くしちゃうから。』
それだけは回避しなくては!!
さて。
なぜ私はこんな目に?
『ぶぶぉっ…はっ……ふぇ…ぶっふ…あー面白い。』
せっかくのイケメンが台無しな笑い声でゲラゲラと地面を転がり回る知恵神様を見る。あなた神ですよね?
自分の着ている猫耳メイド服を睨みつけた。
遡ること三日前。
「はあ、アメルラクトっていう土地には来られたものの、なかなか見つからないなぁ。」
船旅で2日。陸路で1日。もう私はかなりへろへろだった。船旅はもう遠慮したい。天使でも酔うみたいだった。こんな新発見いらない!
とぼとぼと歩きつつそれっぽい裏路地を歩いてみる。
『まあマフィンだからね。そう簡単に見つかったら困るんだよ!』
「マフィンではなくマフィアです!」
本当に知恵を司る神様なのだろうか。どうみてもアホ……。
『あーっ!今アホって言ったよね!いーけないんだいけないんだ!』
テレパシーは使えるしやはり神様なのだろう。アホだが。
『アホって言った方がアホなんです!』
「はいはい。」
くだらないやりとりをしていると、突然声をかけられた。
「よお、お嬢ちゃん。ここで何してるんだい?」
一発でマフィアだな、と分かる格好の人から話しかけられた。
服の上には青色のワッペンが丁寧に付けられていた。
……青色のワッペン?確かあのゴツいお兄さんも付けていたような気がする。
「えーっと。アスロ組の方ですか?」
どうやらあのお兄さんの話から推測するに、アメルラクトのカイルさんはアスロ組というマフィアの一員のようだった。
「そうだが…ここで何を?」
それならアメルラクトのカイルさんにたどり着くためにも、この人とは繋がりを持っておきたい。
どうしたものか。
「あっ、えーっと。私、実は彼氏がアスロ組の方に借金をしていて。その返済にやってきたんです。」
バレないだろうか。咄嗟についた嘘なので、すぐにバレそうな気もする。
冷や汗がたらりと頬を伝う。
しばらく考えたそぶりを見せた後、アスロ組の組員さんは納得したようにこちらを眺めた。
「なるほど。ついてきな。そういう娘にはうちの店で働いてもらってる。お嬢ちゃんもそっちに来るといい。」
「は、はい。」
どうやら大丈夫だったようだ。胸を撫で下ろしている私に声がかけられる。
『えー、これからオトナーなお店に連れて行かれたりするかもよ!?どうするんだよ!?』
「変態!!」
あっ、勢いでビンタしちゃった。
『いたっ。もう、ひどいなぁ。今回だけは許してあげるけど、2回目はないからね!?』
神様にもビンタは効くんだなぁ。
馬鹿らしいことを考えながら呑気に歩いていた。その時は、まだ。
『ふひっ…ふへっ…それで、連れてこられたお店がメイド喫茶だったんだよねぇ!!4日もここで働いちゃって!!恥ずかしくないのかなぁ?』
回想にまでテレパシーを飛ばしてくる知恵神様を横目に見つつ、お客様にケーキと紅茶を渡す。
「お待たせしました。きゅーとべりいぱふぇとあっぷる・てぃーのお届けです。」
羞恥で消えそうになりながら声を出してトレイを置く。
「いやー、ありがとうね。それにしてもキミ、すごく可愛い。」
「あ、ありがとうございます。」
お願いだから厨房に戻らせてください。
引き攣った笑みを浮かべながらそろり、そろりと下がったところでお客様が私の手を握る。
「へへっ…仕事終わったら遊ぼうよ。ねぇねぇ!!」
力が強くて手を離せない。こっちに寄ってきた。き、気持ち悪い。
「メイドにはお触り禁止です!」
近づいてきた男に体術を浴びせる。
男はふらりとよろめいて、顔面を怒りで赤くした。
「おい!このメイド喫茶は客に暴力を振るうのか!?」
やってしまった。いくらなんでも体術はダメだった。私は前世体術がめっちゃ強かったらしいから危うくお客様を殺すところだった。
怪我はしていないようなのでそこは一安心だ。
それでも、まずい状況に変わりはない。
助けを求めるようにゆっくりと後ろを振り返る。
『いくら僕でもどうにかできるわけないじゃん。これは労働期間延長かな?』
要所要所で役に立たない!
どうしよう、このままだとのんびり天国でのバカンス生活が遠ざかってしまう。
「申し訳ありません!」
男がこちらに寄り、拳を振りかぶって、そして…。
「なぜお前は女性に暴力を振るおうとしている?」
がっしりとした男性が私の前に立っていた。やはり服の胸元には青いワッペンが縫い付けられている。
「若頭!」
ほう、若頭。つまりこのアスロ組の偉い人、ということか。
もしかしたらアメルラクトのカイルさんのことも知っているかもしれない。
「あの!私が悪いんです。お客様を、その…殴ってしまって。」
数秒、沈黙が場を支配する。
やっぱり私、店から追い出されるよね?
「この店はお触り禁止だったのですが、あの男がリライヤさんを触ったんです。リライヤさんは、どうかクビだけで許してください。」
店長がこっそりと若頭さんに告げる。
「…リライヤ?」
なぜか若頭さんは私の名前に反応した後、私を見つめてふと微笑んだ。
イケメンに微笑まれるようなことは何もしてない。睨まれることはしたけど。
半ば宇宙に飛ばされている私の前に若頭さんはやってくると、ぺこりと頭を下げた。
「うちの者がすみません。」
そんな簡単にマフィアのボスが謝ってもいいのだろうか。
私も頭を下げる。
「顔を上げてください!あの、私も悪かったので。流石に蹴るのはないですよね…。」
にっこりと笑った男はありがとうございます、と告げた。
本当にマフィアなのか怪しいレベルだ。だって礼儀正しいし、爽やかだし。
私の訝しむような視線で察したのか、若頭は手をひらひらと振る。
「ああ、ちゃんとここのマフィアですよ。母に礼儀正しくせよと厳しく教わってきましたきましたので。安心していいのかは分かりませんが。」
お母さんか。こんな礼儀正しいイケメンを育てるなんて、どんなお母さんなのだろうか?
「あの…よろしければお詫びにお茶でもいかがですか?」
こんなトントン拍子でいいのだろうか。といっても7日目だが。
私は二つ返事で若頭さんについて行った。
「ここですね。」
着いたのはかなり綺麗な建物。白い壁にオシャレな木の飾りが生えている。
中はたくさんの人で賑わっていた。どの人も若頭さんを見たらピシッと敬礼するし、礼儀正しいマフィア、っていうのは本当だろう。あの男がそうじゃないだけで。
内部の個室にて、女性が恭しく差し出してきた紅茶を恐る恐る飲む。
『そーんなほいほいついていって大丈夫なの…?その紅茶に毒が入ってたりさぁ。するかもしれないでしょ?』
「既に死んでるのに何を言うんですか。毒なんて効かないですよ。」
『それもそっか。』
そこから私たちは他愛もない話をした。ついつい話が盛り上がってしまって肝心なUSBのことを忘れてしまうところだった。危ない危ない。
「あの、このUSBを『アメルラクトのカイル』さんに届けて欲しいとのことを組員さんから言われまして…。」
「これは…!ありがとうございます!恥ずかしながら、抗争で落としてしまったんです。言い忘れていましたが、僕がカイルです。本当にありがとうございます。」
二つ名を持っている人っぽかったし、偉い人なのかなとは思っていたがまさかボスだったとは。
部屋の隅からノートパソコンを取り出して、データが無事か確かめるカイルさん。
しばらくして、音声が流れ出した。
〈おあー。うー?〉
〈あら、起きたの。今日はご機嫌ねー。〉
驚いた。
いや、驚いたとかそんな簡単な言葉で表せないくらいの衝撃だった。
だってその声の主は、紛れもなく私だったから。
イントネーションも、もちろん声質も、絶対に私だった。
頭の中がハテナマークで埋め尽くされる。
なぜ?
「…よければそのデータを見せていただきたいんですけど…。」
「大丈夫ですよ。このビデオはですね、亡くなった母との記録なんです。」
そうか。
そうだったのか。
そうだったのだろうか?
何もわからない。
私はただ、目の前の男性をさん付けで呼ぶことしかできなくて、突きつけられたソレがどんな味わいを持っているかを知らなくて。
私がただ愕然とビデオを見つめている間にカイルさんは続けて話す。
「これは、僕が赤ちゃんのころのビデオですね。この時の母の顔を見ると、僕も知らず知らずのうちに嬉しくなってしまうんですよね。」
知恵神様の方をこっそり見ると、下手くそな口笛を吹きながら後ろを向いていた。確信犯じゃないか…。
「なんだか母と話しているみたいで、ちょっとドキドキしますね。母の名前もリライヤ、だったらしいんですよ。」
握手したその手の熱は、確かにいつの日にかに宿っていたものなのだろう。
「改めて、ありがとうございます。このちっぽけなUSBが、僕と母を繋いでくれているものなので。」
「いや、知恵神様!なんで言ってくれなかったんですか!?」
事務所を出てすぐ、私は知恵神様に掴み掛かるような勢いで質問する。
『だって、それがゼウス爺様のルールだし、僕には変えられないし?』
「だからって…。」
その先の言葉が声に出せなくて、立ち止まる。
『まあ、僕からのサービスでこっそり教えてあげる。秘密だからね?君は本当に、あの子の血縁者だったよ。あの子を守るために抗争に出て、それで死んだ。その時に敵を狩りまくったからその文のツケでこっちに回されたんだよ。』
「…そうですか。」
いつのまにか日が暮れていた街を、空を見つめながら歩く。
お互いに気味が悪いくらいに静かな沈黙を保つ。
私は今、天使だ。
あの人を優遇することは出来ないし、私はあの人のことを何一つ覚えていない。
それでも、私が大切だったあの人を守ったという事実がそこにある。
それに気づいたことだけでいいのかもしれない。
今は。
「初めて天使になれて良かったなって思いましたよ。」
『これからもきっちり働いてもらうからね。天使になったことを感謝しなよ?』
「そこまでは行きませんよ…。」
夕暮れ時の道に、小さな足音一つと神の笑い声が響いた。
『はい、新人くんの紹介です!』
「えーっと…ここ、どこなんだ?」
どこかで見覚えのあるゴツい男が、私の後輩になったのはしばらくあとの話。
メルト・スイート・ホワイト
寒さは和らぎ、陽気がやってき始めた3月の上旬。
私は棚の前で悶々と悩んでいた。
「あーもんど、ぷーどる…?アーモンドの犬?どういう意味なの?」
「犬な訳ないでしょ!アーモンドを砕いて粉末にしたものをアーモンドプードルって言うのよ。あんたは全くもう…。」
お姉ちゃんから睨まれる。
「だって…私、今までお菓子作りとかやったことないんだよ!?しょうがないじゃん。」
涙目になりながら言い返す。これだからお姉ちゃんは!
さて、なぜ私は突然お菓子作りをしようと思ったのか?
時は2月14日に遡る。
「今日も寒いなー。」
のんびりと坂道を登りつつ、私はてくてくと歩く。
追い越していく女子たちは心なしかウキウキしている。なぜだろうか。
今日は確か1時間目から体育だ。体育大好きガールズなのか?いやでもみんながみんなそういう女子なはずはなく…私、体育どっちかといえば嫌いだし。
|瑠花《るか》ちゃんなら、好きなのかなぁ。
|佐倉瑠花《さくら るか》。天真爛漫でとっても可愛らしい女の子。私の想い人。
彼女は運動は苦手だが体育を心からエンジョイしていて、スポーツマンシップに溢れていて。気づけば賑やかで台風のような彼女を目で追っていた。
そこからアクシデントや私のアプローチによってそこそこ仲のいい友達、というところまで漕ぎ着けたのだ。私にしては頑張ったと思う。
そんなことを思い出しながら下駄箱でぼうっと靴を履き替え、教室に入り、リュックを置く。
そういえば数学ドリルの提出が遅れていた。今日出しに行かなくては。
上履きでタイルを蹴って、職員室に向かう。
教室前にてキョロキョロと辺りを見渡す小さな姿が見えた。心臓が高鳴る。
「おはよう、瑠花ちゃん。」
「あっ!おはよう!あかねちゃん。」
鈴が鳴るような愛らしい声で挨拶してくれた。これで私は今日も頑張れる。
「これ、チョコレート!」
…チョコレート?なぜ今日?というか今日は何の日なのか。
バレンタインじゃん。完全に忘れていた。
「え、あ、わ、私、その…お返しとか持ってないんだけ」
「持ってなくてもいいの!わたしは、その…あかねちゃんに受け取ってもらえればそれでいいから!」
そう彼女が言った時、ちょうどチャイムが鳴ってしまった。
「…またね!」
そう言ってぱたぱたと走り去っていく。
残されたチョコレートをぎゅっと握りしめて、私はその場に立ち尽くしていた。
大失敗だ。
好きな人にチョコレート渡せなくてどうする、私。
おい、私!
「はぁぁ…。」
「そんなに深いため息ついてどうしたのよ。世界の真理でも知っちゃったの?」
窓の外を見つめて黄昏ている私に姉が声をかけた。
姉は花の女子大生。普段は一人暮らしだが今日は私の家に戻ってきたようだ。彼氏はいないがどうやらスーパー美人な彼女がいる…らしい。大先輩である。ムカつくが。
「実は……バレンタインが……その……うん。はい。」
それだけで何となく察したのか、姉はジト目でこちらを呆れたように見つめた後、深ーく、あからさまにため息をついた。
「あんたね!いくら何でもそれは良くないわよ。こういうのはこちらからどんどん攻めなきゃダメなの!」
「うぐぅ…。」
さらに落ち込む。情けも何もない。いや、私が確かに悪いのはわかる。だがこう、言葉に表せないような心の傷がつくのである。
「ホワイトデー。」
「…へ?」
突然姉が何か呟く。ほわいと…何?
「だから、ホワイトデーよ。3月14日にあるでしょう。あんた、そこまで忘れてたの?」
また呆れたような口調で訊かれる。そ、そんなことはない。たぶん。
「知ってるよ!…忘れてないよ?本当だからね?」
「怪しいわね…。まあいいわ。あんた今度期末テストあるんでしょ。それの準備とかで忙しくなるだろうからホワイトデーのお返しに賭けるわよ!」
ビシッと|指が叩きつけら《 デ コ ピ ン さ》れる。地味に痛いのだ、これが。
「パワハラ!パワハラっていけないんだよ!?」
「もとはといえばあんたがバレンタインデーを忘れるからいけないんでしょ!」
その通りである。トホホ…。
まだまだジンジンと痛む額をさすりながら自分の部屋に戻る。
「何を贈るかぐらいは考えておきなさいよね。」
「はーい。」
ベッドに座ってチョコレートの包装を剥がす。
ピンク色のセロハンでラッピングされたそれはオレンジ色の照明と相まってとても幻想的だ。封を開けたら溶けてしまうような、幸せな夢を限界まで混ぜ込んだような、甘い菓子。そんな印象だ。
思った以上に触れたそれは冷たくて、その嫋やかな曲線は口に入れるのを躊躇してしまうほど美しい。かけられた砂糖の宝石は色を飛ばし白く輝く。
「…瑠花ちゃん、お菓子作り得意だったんだ。」
舌の上でほどけて絡み合う濃厚な味。苦すぎず甘すぎずだ。
ときめく色をしたそのセロハンにマスキングテープで添えられていた手紙を読む。
「いつもありがとう!大好きだよ♡」
飾らず率直に想いを告げてくるところは彼女らしいが、これはさすがに勘違いしてしまう。心臓の鼓動がいつもより激しくなる。
素早く、しかし残りのチョコレートが崩れないように机の上に置いてベッドで足をばたつかせる。
私だけこんな思いをするなんて。瑠花ちゃん恐るべし。
枕に顔をうずめ、洗剤の花の香りを胸いっぱいに吸い込む。瑠花ちゃんの陽だまりの中のブーケのような、暖かな香りを思い出しながら。
やっぱり、あの子が好きだ。
洗濯したてのエプロンを腕に通す。
期末テストはもう終わった。成績はそれなりに頑張ったのでお菓子作りの許可も出た。姉とのショッピングで材料も買ってきた。準備は万端だ。
「粉砂糖を入れて…。」
「馬鹿!それ塩よ!」
「え!?」
見たら本当に塩だった。こんなベタな間違いを本当に私はしたのか。ちょっと心が折れそうになるが、まだまだお菓子作りは序盤なのだ。砂糖を取り出し、ボウルに入れた。
甘い香りが鼻腔をくすぐる。
続けて入れたアーモンドプードルと混ざり、不思議な色合いを作り上げている。
卵白の方も準備する。
レモン汁を入れて、ひたすら混ぜて、混ぜて、混ぜて。
砂糖を細かく分けて入れて、また混ぜて。
メレンゲと混ぜて。
ゆっくり混ぜて。
優しく混ぜて。
「出来た?」
「こんなすぐマカロンが作れるわけないでしょ。」
そう、私はマカロンを作ることにしたのだ。確か瑠花ちゃんが好きって言っていたはず。お姉ちゃんにそのことを伝えたらすごくニヤニヤしていた。なぜ?
「ほら、次はマカロナージュよ。」
「……マカロナージュ?」
無言で私の手からカード(そういえばピンク色の板みたいなものを買っていた)をひったくると泡を押しつぶすように動かし始めた。
「マカロナージュはね、生地を調整する大事な作業なの。つるつるしたマカロン独特の質感はこの作業をするから、生まれるのよ。」
はい、と手渡されたそのカードをおずおずと受け取り、ゆっくりと押しつぶしながら動かす。
マカロンに想いを、私の命の欠片を込める。
入れすぎず、溢れないように。でも一生懸命込めて。
「…うん。いいんじゃない?」
OKをもらえてつい口元が緩んでしまう。
リボン状に落ちるその生地もこころなしか艶が出ている気がした。
「さて、気合い入れて絞るわよ!」
絞り袋に先ほどの生地を入れて、絞る。
形は丁寧に整えて、泡も潰す。整えても整えてもどこか納得がいかない。
「そろそろやめておきなさい…。」
「あっ。」
気づけば時計は想定よりもずっと進んでいた。
「その気持ちは良いけど、やりすぎは何事もダメだからね!」
小さく返事をして不恰好な生地を見つめた。これはこれで愛嬌がある気がする。くすり、と笑ってガナッシュクリーム作りに移った。
小慣れた動きでクリームを作るお姉ちゃんを必死で見て、真似して、時にクリームをこぼす。
「もう焼く時間じゃん!?」
あわてて取り出したマカロンをオーブンでじっくりと焼く。ようやくひと段落ついた。
隅っこで頬杖をついて少しだけ休憩。オーブンの中、オレンジ色に輝く生地を私はしばらく見つめていた。
瑠花ちゃんは今どうしているだろうか?
喜んでくれるだろうか?
そっと目を伏せた。
朝の寒い空気が私に襲いかかる。
今日はもうホワイトデー。
姉に手伝ってもらって作った私の気持ちが、茶色い紙袋の中に入っている。
事前に食べてもらった時の感想も良し。形もそれなりに良し。
なかなか上手に出来た。はず、なのだが。
なんなのだろう。この言い表せない不安は。
薄水色の空を仰ぎながら歩いていると、突然足が何か冷たいものを踏んだようだった。ぱしゃりと冷えた雫がすねにかかる。
バランスを崩した私はそのまま倒れ込んで…。
瑠花ちゃんがいる教室の前で私は立ち尽くしていた。
水たまりの雨水と別の温かな雫で濡れた頬と、ひざと、くしゃくしゃになってより濃い色になった紙袋が全てを物語っている。
どうしよう。
せっかく作ったのに。
せっかく、せっかく想いを伝えようって、頑張ったのに。
壊れた機械のような変な声を出しながら、私はそこから立ち去ろうとした、その時。
「あれ、あかねちゃん?制服がすごく濡れて…。」
瑠花ちゃんが半分、ドアから顔を出してこちらを覗いている。
「あっ…あー、実は、転んじゃって。あの、全然、大丈夫、だ、から。」
体から力が抜ける。重力のままに落ちた紙袋は、中身をこぼした。
「あれ、これ!」
「うん。瑠花ちゃんに渡そうと思ってたんだ。マカロン。でも落として割れちゃったし…ごめんね。こんなにダサいマカロン、いらないよね…。」
綺麗にシールで飾りつけたセロハンの中で、割れた純白の想いが泣いている。
私も、あんな顔をしているだろうか?きっとそうだ。
そっとそれを瑠花ちゃんは拾い上げて、そのまとめた袋から一つ、私が作ったそれを取り出して口にひょいと入れた。
「!?」
瑠花ちゃんはふわりと笑ってこう言った。
「…うん。すっごく美味しい。ありがとう。」
ついフリーズしてしまう。何か言おうとして、でも言えなくて魚のように口をパクパクしている私に瑠花ちゃんは続きを言ってくれた。
「崩れても関係ないよ。ありがとう。」
「わたしにとっても、あかねちゃんは『大切な人』だよ!」
初恋も、今日また感じ直した恋も。
|差し出《あーん》されたその白いマカロンも。
|とろけるように《 メ ル ト 》、|甘く《スイート》、|白く《ホワイト》。
バレンタインデーやホワイトデーに贈るマカロンには「あなたは大切な人」という意味があるそうです。
幸せな時はすぐ終わる。
みぃみぃ。さんの「ストーリー・題名同じの小説大会〜!!!」の参加作品です。
リンクです。
https://tanpen.net/event/267074c5-b5b5-4a16-943a-1416e12bc68d/
「聞いて聞いて!」
「どうしたの、瑠璃?」
喜色満面、勝手に話を聞いているこちらまでビシビシと伝わってくるハッピーオーラ。
盗み聞きしたことを私は後悔した。
「あのね、瑠璃さ!春輝くんと付き合ったのー!ずっと片想いしてたからめっちゃ嬉しくて!」
嘘でしょ。
何かの間違いって言ってよ。
確かに私は、大事な幼馴染である瑠璃を傷つけたくなくて春輝が好きなことを隠していた。
もしかしたら恋とは言えないくらいな淡い想いだったかもしれない。それでも想えていたことは幸せだった。
でもこんなのって、あんまりだ。
「うん!応援してくれてありがとう。勇気出して告って良かった!……あ、チャイム鳴っちゃった。」
これ以上この話を聞いたらダメだ、というところでチャイムが鳴ってくれた。いつもは楽しい昼休みを終わらせる、憎いチャイムなのに今日は救いのように思えた。
瑠璃ちゃんは確かに可愛い。
だから、フラれたのはしょうがないのかもしれない。
春輝と幼馴染だから、ということに甘えていたのかもしれない……
こうして、私の初恋は散った。
想っていた時間なんかとは比べ物にならないくらい、一瞬で。
「ねえねえ、今日転校生来るんだって。」
「マジで!?イケメンかな?」
クラスは転校生の話で持ちきりだ。やっぱり小6になっても気になるものは気になる。
それでも、私の心の中は昨日のことでいっぱいだった。
朝のドリルも手につかない。
適当に鉛筆をくるくる回していると、先生が入ってきた。
「ほら、席につけ。なんでドリルタイムなのに立ってるんだ。うちのクラスだけ6年生なのにうるさいぞ。1組を見ろよ。ほら、静かだろ?」
1組は瑠璃のクラスだ。みんな頭が良くて、可愛くて、春輝みたいな素敵な男の子もいる。これ以上瑠璃と私の差が分かるようなことを言わないで欲しい。
イライラしながら先生の話を聞き流していると、突然(私が聞いていなかっただけかもしれない)かっこいい男子が入ってきた。
さらさら流れる髪は日の光に照らされて輝いている。
「秋本大我です。隣の市から来ました。これからよろしくお願いします。」
ありきたりなのに、その凛々しい声のせいかドラマのワンシーンのようにオシャレに見えた。
「じゃあ秋本は……あそこの、窓側の席に座ってもらおうかな。」
「やったー!めっちゃイケメンじゃん。しかも席近いし!」
「えー、反対側じゃん。」
女子たちの間で歓喜する声や悲しむ声がそれぞれあがる。
私は真ん中で後ろあたりの席なので遠いとも近いとも言えない微妙な席だ。
……気になっているわけではない。決して。
ただ、少し雰囲気が春輝に似ていたからってだけだ。
恋なんて、フラれたらおしまいなんだから。
今の私がきっと1番よく知ってる。
翌日。国語のグループワークの時間だ。
座る姿勢を急いで正して、先生の方を見る。
「今回は出席番号順だぞ。秋本は……まあ、1番最後のグループに入ってくれ。」
私の名字は若村。つまり私と同じグループだ。転校してきて日が浅いとはいえ、秋本くんはクラスの女子から高い人気を得ているからちょっと睨まれるかもしれない。理不尽な。
「俺、大我。よろしくね。」
「……うん、よろしく。」
ちょっとそっけないかもしれない。少し悪いことをしてしまった。
でも、クラスの女子に睨まれるよりかはいいかもしれない。秋本くんには少し失礼だけど。
それから私たちは黙々と作業を進めた。
「秋本くん、ここ。漢字が……。」
つい我慢できなくて声をかけてしまった。どうやら親友の友梨は秋本くんのことが気になっているようで、ちょっと!?という気持ちが顔によく出ていた。ごめん。
「ありがとう。俺、漢字とか苦手だから……これから教えてほしいかな、なんて?」
「えっ。」
友梨もこちらをじっと見つめている。
どうしよう。
どう答えればいいんだろう。
胃が痛い。キリキリする。真っ白く色が飛んだような世界で、精一杯声を出して答えた。
「……あの、考えさせて欲しい。」
「分かった。ダメだったら全然いいからな!」
ふぅ、と一息ついて作業に戻った。
友梨は相変わらずこちらを信じられないように見ていた。
「ねぇ、大丈夫だよね?あたしが大我くんのこと気になってるの分かってるよね?もちろん断るよね?そうだよね?」
帰りのホームルームが終わった。すぐに友梨から質問攻めになった。昨日女子たちにいろいろ訊かれた秋本くんもこんな感じだったんだろうか。
「……うん。私、断るから」
「だよね!!良かったぁ。あたし、李亜が大我くんのこと気になってるのかと思った!もし、李亜が大我くんの好きだったら……あたし、やばかったかもしれなーい!」
にこにこ笑いながら友梨は言った。
それがどういう意味なのか、私にはまだ分からなかった。
結局断れなかった。こういう時、私自身のお人好しが憎くなってくる。でもこういう頼み事は私がやらないと、という気がしてきてどうしてもすっきりしないのだ。
「ここは……。」
「こういう覚え方があるんだ!」
その屈託のない笑顔が、どろどろした不安な心を溶かしてくれた。
恋じゃなかったのはいつまでだろう。
きっと恋じゃないと信じていたのはいつからだろう。
クラスの子の視線を気にせずに大我くんと話すようになったのはいつからだろう。
分からないけど、分からなくても良い。
この関係が続いていけば。
……「ただの勉強仲間」で満足できなくなったのはいつからだろう。
「大我くん、帰ろ!」
「李亜、ごめん。今日はサッカーがある日だから……また明日な!」
「分かった!頑張ってね!」
いつも明るくて、爽やかで、私の太陽。
春輝のことを忘れさせてくれた、私の彼氏。
本当に本当に、大好きだった。
中学生になっても、ずっと一緒にいる。
はずだった。
「ねぇ李亜。今日屋上に来て。」
「……?いいけど。」
大我くんと付き合ったことで、なかなか話さなくなった友梨に突然声をかけられた。
これでも親友(だと私は思っている)のだ。少しの罪悪感を胸に、私は屋上に向かった。
なぜ向かってしまったのだろうか。
そこには、地獄が待っていた。
「……。」
いつも通り。そう、いつも通りだ。もうこれがいつも通り。
だから……泣かない。
泣かないでよ。お願いだから。
いくら馬鹿でも、奴隷でも、性根がねじ曲がったゴミみたいな女だとしても。
泣かないでよ。だから、泣かないでってば。
「教科書の落書き、消さないとね!」
ネームペンだからどうせ消えないんだけどね。
そこは氷の牢獄。親友だと思っていたあの子は小さな冷え切った金魚鉢の女王様。
大我くんは心配してくれた。友梨に言ってくれた。
私の太陽ですら溶かせないほどの、分厚い氷だったから意味はなかった。
つい、大我くんの前で泣いた。
「李亜は悪くない。全部、全部、アイツらが悪いんだ。だから……。」
そう言って肩を叩く大我くんの顔は、引き攣っていた。
「大我くん。ごめんなさい。私と付き合わせちゃって、ごめんなさい。もういいの。」
「いや、俺のほうこそごめん。だからさ、その……一旦別れよう。別れたフリをしよう。こっそり、アイツらにバレない範囲で、恋人でいよう。な?」
私の顔はきっとすごく醜い。
顔は殴られてないからどこも傷ついてないけど。
きっと、すごく。
私は怖かった。
大我くんを巻き込んでしまったことじゃなくて、私がこれ以上いじめられることが、怖かった。
「たいがく」
「……!友梨!」
「大我くーん!今日の宿題わかんないよ。どうしよう!大我くん教えて!」
私たちはまだ恋人なはずだと思っていたのは私だけだった。
とっくにもう、賞味期限は切れていた。
あの子の勝ち誇ったような、可愛い可愛い笑みよりも私なんかを見ていない彼氏の顔が、ずっとずっと憎かった。
「友梨?」
「……何、若村さん。」
遠くなった距離はもう戻らない。
終わってしまったものはやり直せない。
大好きだった友梨はそこにいなかった。
「なんでもないです。ごめんなさい。」
中学は必死に勉強して、偏差値も少し高めで雰囲気が良い学校に進学した。
もちろん小学校時代の友達……だった子たちはもういない。
言葉の暴力も、無視の暴力もない。
しかし、私はまた恋をしてしまった。
「好きです。付き合ってください。」
飾らない言葉が彼らしかった。
「……私でよければ、よろしくお願いします。」
幸せだった。
大我くんとしたことなかったデートも、彼とした。
幻想的な水族館で、優しく抱きしめてくれた。
その温もりが、とにかく幸せだった。
同じようなことを他の子にもしてたのに、ね。
幸せな時はすぐ終わる。
いつかは消えてしまう。
そんなものに惑わされる私は馬鹿なのかもしれない。
いや、馬鹿だ。
だって私は、あなたたちがくれた思い出を忘れられないから。
どこで間違えたのかも分からない。私が間違ってたのかも分からない。やり直せたのかは分からない。
もう、いいかもな。
幸せな時はすぐ終わるからこそ、幸せだったころの思い出は馬鹿な女には美しく思えるのだ。
ケーキとリボンと誕生日
一人の少女が座っていた。
なめらかな黒髪を靡かせて、切り株に座っていた。年は17ほど。
名をセレストと言う。その澄み切った空のような、美しい青色の瞳が特徴的だったからだ。あくまでも、これは仮の名前である。セレストが物心ついた時には既にいなかった。
この名をつけてくれた大切な友人も、今は会えない。教会に突然、悪魔として攫われたのだ。生死は分からない。だから探しに、そして攫った者を斃しに、セレストは旅をしていた。
「そろそろ休憩も終わりにするかな」
セレストは立ち上がった。そのまま、しばらく先の街へと向かった。
小さな街だが、人々は暖かそうだ。
セレストはそう感じた。
人々が身を寄せ合って、幸せに仲良く暮らしている。そんな街だった。
久しぶりの来訪者だったので、街の人々は歓迎してくれた。
セレストも街の人々の歓迎に応えるべく、勇敢に戦った。セレストの職業は冒険者。たくさんの街に行き情報を得て、いつか邂逅するであろう友人を攫った者に、教会に牙を向く。セレストにぴったりだった。もともと、彼女は剣の才能があったらしい。今では、そこそこ名の知れた冒険者になっていた。
「ありがとうございました」
今回の依頼も完了した。セレストは大きく伸びをして街を散策していた。普段のセレストならここも中継地点だしさっさと次の街に行こう、となるのだが、今日は疲れがたまっているのか少し散歩したかった。
街は賑やかだった。どうやら、この街の町長の娘が誕生日らしい。
誕生日。セレストはその日の正確な日付を知らなかった。何せ、セレストには親がいないのだから。いつ自分が生まれたのか、教えてもらえるわけがない。年齢だって、詳しくは知らないのだ。精々17ぐらいということしか分からない。分からないだらけである。
ただ、セレストに名をつけたように、大切な友人はセレストと出会った日を誕生日としてくれた。
「はい、セレス。どうぞ」
「……レティ、どうしたの?急にケーキなんて持ってきて」
セレストは首を傾げた。意味が分からなかった。
「今日は私とセレスが出会った大切な日なのよ。仮に、あなたの誕生日としているの」
「誕生日?私の?」
「ええ。さすがに、ないのは悲しいかなって」
そう言って女のセレストでも惚れそうな美しい微笑みを浮かべると、友人であり姉のような存在である女性、レティーシアはケーキをセレストの前に置いた。
「ふうん。誕生日、か」
いかにも頑張って作りました、というような、多くの人が可も不可もなく評価するであろうケーキをセレストは見つめた。
座って、ケーキを小さくフォークで切って味わった。優しい、彼女らしい味だった。案外悪くないかな、と思った。
今までよく分からなかった謎の日。セレストはこの日、その認識を改めた。ようやく実態がつかめた気がした。
これがセレストにとっての誕生日の記憶だった。
セレストは目を開けた。ちょうど件の娘さんが人々に囲まれて、にこにこと笑っていた。
髪の色も瞳の色も全然彼女レティとは違うのに、雰囲気が似ていた。
「お誕生日、おめでとう」
セレストは、前の街で衝動買いしてしまったリボンを取り出した。透き通った魔石がついたお洒落なリボンだった。
少女は突然プレゼントを渡してきた旅人に目を瞬かせた後、父親らしき人の元へと、顔を赤くして去っていった。
人見知りらしい。
まだまだ宴は続く。
一緒にどうです、と勧められた酒を断って、セレストは宿屋へと帰った。
今はただ、ケーキの味が恋しかった。
朝になった。セレストはゆっくり起き上がった。いつもより遅い起床だった。
チェックイン時には見かけなかったものを見た。セレストの瞳の色味に似た、高級そうな青いリボン。そばにあったこれまた高級そうな紙には、ありがとうと書かれていた。きっとあの子がくれたのだろう。
セレストはそれを髪につけようとして、やっぱり携帯しているカバンにリボンをしまった。気恥ずかしかったからだ。
着替えて、荷物を確認し、セレストは部屋を出た。この街ともおさらばだった。この街には数日しかいなかったのに、随分と長くいたように錯覚してしまった。
ついでに、街のケーキ屋に寄って少しだけ贅沢をした。甘い味がやみつきになりそうだった。
「贅沢しちゃったし、しばらくケーキはお預けかな」
セレストはどこか満足げに笑った。いつか土産話として、大切な人に話すことを夢見ながら。
カタカナ日本語
よく分からないのが出来ましたが、よかったらどうぞ。
カタカナ日本語。
まだ日本に来てまもない外国人が使う日本語である。
私のバイト先の外国人君も使っている。
私は近所のコンビニでバイトしている。
夫と、息子と三人で暮らしている。夫は薄給だしとても昇進できるタイプではないので、私もバイトして稼いでいる。
食費、家賃、夫のビール代、息子のおもちゃ代、私のへそくり、税金、その他もろもろ。我々人間はお金をたくさん払わないといけない。
バイト+息子の世話とか家事、最近お気に入りのアイドルの番組を見る時間(最近の子は「推し活」と称しているらしい)などなど。お金だけでなく時間も足りない。もちろん家事に休日などない。忙しいね。
まあ私はこんな感じのしがない主婦だ。
ちなみに私の住んでいるところはド田舎なので客は来ない。もちろん従業員も少ない。
店長と、私と、あと外国人の男の人。
店長はおじいちゃんなのでなかなか表には出ない。でも筋力が低いので重いものも運べない。だから私と外国人の男の人だけでほぼ回している。外国人の男の人も先月来たばっかりなので、私一人と言っても過言ではないかもしれない。
ちなみに、外国人の男の人だが、こんな感じで話す。
「イラサイマセー。」
カタカナ日本語である。容姿も日本人離れしているし、パッと見てすぐ外国人とわかる。ろくに話したことがないのでどんな国から来たのかとか、そういうことは何も知らない。ただのバイト仲間である。私たちの間に仲間意識があるのかは不明だが。少なくとも私にはそんなにない。
まあ、名前だけは知っている。アラン君。それだけ。
「はあ、最近は物価高やら円安やらで大変だねぇ。ビールも高くなっちゃったし。」
ぼけーっと、大変だとは全く思ってなさそうな口調で夫が言う。
「大変だねぇ、どころじゃないわよ。ほら、もうこんな時間でしょ。早く準備しないと間に合わないわよ。」
「ままー。」
「はいはい、今行くからね。」
朝は忙しいのである。今日は現在イヤイヤ期真っ只中の息子がご機嫌なのでちょっとは楽できたが。
足をバタバタさせる息子を自転車に乗せて、坂道を登って、ようやく保育園に着く。と思ったらまたすぐ坂道を下ってコンビニへ直行。
「おはようございます、店長。」
「おはよう。」
相変わらずヨボヨボである。なにをいっているのか何を言っているのかさっぱり分からない。
「アラン君も、おはよう。」
「オハヨザイマス。」
こちらもこちらで何を言っているのか分からない。
それは置いておいて、もうそろそろお客が来そうなのでとっとと朝の支度を始めよう。
「お疲れ様でしたー。」
のろのろとふらついた足取りで歩く店長に挨拶をして、私はバイトの制服から着替えた。
「オツカレサマデス。」
いつもよりさらにアラン君の日本語が下手な気がする。というかこれは……調子が悪そうな声だ。声のトーンがいつもより低いし、ボソボソしている。
「……アラン君?」
「オ、オツカレサマデス!!オオ、オツ、オオッオツカレサマデス。」
壊れたロボットみたいになっている。
大丈夫、と声をかけたかったが私の英語の成績は夫に見せられないぐらいひどい。そもそもアラン君が英語圏出身かも分からないのだ。
ちょっとアラン君のことがひっかかるが、私は息子のお迎えに行くことにした。
「ままー、おそーい。」
一歩先に夫がお迎えしていた。メッセージアプリに夫からの通知が来ていることをようやく認識する。
ぶーぶー文句を言う息子にプリンの存在をちらつかせて黙らせて、坂道を下っていく。
我が家の近くの小さな路地。そこを私たちは毎日通るのだが、今日はそこに先客がいた。
さっきコンビニにいた、カタカナ日本語を使う人だった。
いや、正確には人ではないのだろう。だってスライムみたいに半透明になっているし、妖精みたいな羽が生えているし、ピカピカ光っている。
頭の中を突然クエスチョンマークが埋め尽くしていく。
「わぁっ、宇宙人だあ!」
「おお、カッコいいなぁ。」
どうしてこの人たちは宇宙人に出会ってもこんなにのんきな反応をしているんだ。
「アッ、コンバンハ。」
カタカナ日本語だ。まあ、声は扇風機の前で出したみたいになっている。ワレワレハ、ウチュウジンダ、と夏になると言いたくなる。
「チョウド、ウチュウセンがバーンテコワレタンデスヨネ。ナカヨシ、ナカヨシダヨ!」
「仲良しー!」
「このリモコン、カッコいいですね。ベリークール。」
どうしてこの人たちは宇宙人に出会ってもすぐ打ち解けられるんだ。
私の認識を改めないといけないな。
カタカナ日本語を扱うのは外国人だけじゃない。
無敵六等星
私は窓を全開にした。
黒い布に、少しだけ砂糖をこぼしたような空が広がっている。
目立つ星……明るい一等星が我が物顔できらきらと輝いていて、あとの星は暗く、少しうつむいたよう。今にも消えそうだった。
私もああなっちゃうのかな。
いけない。眠れないから気分転換に、といって窓を開けたのに、暗い気分になったら本末転倒だ。ベッドに倒れ込む。
眠ろうとすればするほど、私の心は深く沈み込む。
こんなになるのであれば、いっそのこと普通の女の子に戻りたい。舞台で舞うことを目指すなんて、私には無理かもしれない。優しい家族。澄み切った空気。誰だって前向きに輝いているような、あの星空。
このまま一等星につぶされるのかな。
ふと月明かりに照らされた箱が視界に入った。
あれ、これなんだっけ。
鍵がかかっていた。
何かに駆られたように、私は鍵を探し続ける。
何か。何かがわからない。
どうせ眠れないなら、意味はない。
ベッドの下、ほこりにまみれていた鍵をようやく拾えた。
急かされるように鍵を差し込んで、そこにあったのは。
「……オルゴール?」
古い、ねじまき式のオルゴール。まわしてみると、ところどころ音が飛びつつも穏やかな音楽が流れ出す。
どこかで聴いたことがあるような音楽。子供の頃、都会に憧れて憧れてやまなかった小さな頃、よく部屋で流してたっけ。
都会に出て、音楽学校に入って、私は歌姫になるんだって、この音楽で踊りたいって。
私に、いつかなれるって、おかしいくらいの自信を持たせたはずのオルゴール。
いつのまにか、大切は埋もれてしまった。あの、今にも消えそうな小さな星みたいに。
あの世間知らずな私が、目の前でオルゴールを一緒に鳴らしている。
いとおしい、お馬鹿さん。
あの子のためにももう少しだけ頑張るか。
まだ完全には埋もれていない星。
明日だけなら、私は無敵かもしれない。
すくわれて
夏ですね。お祭り行きたいです。
約3000文字です。
気づいたら、僕は謎の青い水槽の中にいた。
ぶくぶくと泡を吐き出し続ける大きな物体のそばで僕は目覚めた。たくさんの仲間たちが、この謎の水槽の中を右往左往している。
いつもの大きな池ではなかった。どこだ、ここ。
いつもの池には緑の藻が生えて、もっともっと水の流れが穏やかで、静かで……。
本当にどこだ、ここ。
「あっ、お前起きたんだな!」
「ベニ!どこなんだろう、ここ。」
顔見知りであるベニが話しかけてくれた。発色の良い、綺麗な真紅の体が特徴的なベニ。
「俺にも分からないが、なんだか騒がしくて過ごしづらいな、ここ。」
「そうだね。それに、すごく明るい。」
柔らかで暖かい太陽光とは違う、眩しいオレンジの光。空は薄暗くて、ところどころ星が煌めいている。
そして、騒がしい。
人間の声が響いている。僕たちにご飯をくれるいつもの人はいなさそうだ。
とにかく、居心地が悪かった。
「あ、お前の癖が出てる。」
「しょうがないじゃないか、僕は不安なんだよ。こんなところに突然連れてこられて。」
僕はベニの周りをふらふら泳ぐ。それがうざったかったのか、ベニはしっしっ、とヒレを動かした。
「落ち着けよ、こうやってどっしり構えて……。」
その時、ベニの体は舞った。
白い、薄い膜のようなものが見えた。つるつるした青い縁取りの何かに囲われていた。
そのまま、水上へとベニの体は運ばれる。
「ちょっと、どうなってるんだよ!?ベニ、ベニ!」
とうとうベニの姿は見えなくなってしまった。
あの膜に捕まると、どうなってしまうのか。ベニは生きているのか。だって、水の外に僕らが出ると、息ができなくてそのまま……。
水温が一気に下がった気がした。
「わーい、綺麗な赤いお魚!」
「良かったわね、まだこのポイも使えそうだし。」
「そうだな。この調子で、頑張れ。」
「うん!パパ、ママ、見ててねー!」
どうやらまだ終わらないらしい。僕は叫び出したくなった。
あの大きな白い膜がついたものは「ポイ」というらしい。
突然誘拐されたと思ったら、捕まったらどうなるか分からない鬼ごっこだなんて。僕は一体、人間たちに何をしたというのか!最悪だ!
そして、僕の方にポイが水を切って向かってくる。
ああ、僕はここでおしまいなのか……。あの可愛い黒い鱗の女の子に話しかけたり、美味しい藻を独り占めしておけばよかった。
「でもいいや。この金魚、そんなに綺麗な色じゃないし。あっ、あっちの黒い子にしよう!」
「そうね。ポイが破れないように、そっとすくうのよ。」
誰がそんなに綺麗な色じゃないんだよ。悪かったな、ベニみたいな紅色じゃなくて!
何だよ、こっちだって必死に生きてるのに。くすんだ赤色で、さして大きくない自分のルックスに少し嫌気がさしていたのに。ひどいじゃないか。
こんなことなら、すくわれた方が幸せなのか?もしかしたら無惨に殺されるかもしれないのに、僕は何馬鹿なこと考えてるんだ。
そんなひねくれた気持ちであの黒い可愛い子を見ていた。
ふふふ、と得意げな声が聞こえてきそうだった。目を逸らしたかったのに、逸らせなかった。
夜の空と同化して、やがて見えなくなった。
そうこうしているうちにどんどん水槽はスカスカになって、僕はぼうっと泡の出る大きな物体の方にいた。
「大きいね、この金魚。」
「よく取れたじゃない、さすがね。」
やってくる人間たちに次々と仲間たちがすくわれていく。
その度に僕の心は水槽の深くへと沈んでいくようだった。実際に体も沈んでいった。
「あの金魚、なんか動かないね。死んでるのかな?」
「そんなことないわよ、ヒレは動いてるし。弱ってるんじゃない?」
病は気からというが、あの人間の言うこともあながち間違っていないように思えてきた。僕の視界はぼやけているし、体もだるい。
どうせ死ぬならすくわれたい。僕だって選ばれたい。
水をかき分けて進むポイたち。その中に、1つ変なポイがあった。
やけに乱暴だし、すぐ破れる。
「ダメだ、全然取れない。」
今まで見てきた人間の中でも、特にこのポイの扱い方が下手くそな人間。それが僕の、率直な感想。
「もう一回!おじさん、もう一回お願いします!」
「はいよ、新しいポイだ。」
なかなかすくわれない僕に、なかなかすくえないあの人間。
かわいそうだったので、僕は水槽のど真ん中に陣取った。そして、そのポイが近づいてくると急いでその方向に泳いだ。
体がポイに触れた。縁に乗って、そのまま人間が水上にすくってくれるのを待つ。
しかし、そう簡単には行かなかった。何せこの人間は、ポイの扱いが特に下手なのだから。
「あっ!破れちゃった……おじさん!」
勢いよく動くポイから、体が落ちる。白い膜は破けた。
「別に、金魚をすくえなくても一回につき一匹はサービスするのに。」
「自分で捕まえるんだ。だから、捕まえるまでは絶対やめない!」
新品のピンと張った膜の方へ。これは僕が乗る前に破けた。
「もう一回!」
次、僕はうまく真ん中のあたりに乗れた。しかし、もう一匹金魚がいたせいで人間がうまくポイを動かせず、これも失敗した。
「まだまだ。」
今度は僕がかなりフチ寄りにいたので、持ち上げられたが途中で落ちた。
初めての空中は息が思ったよりも苦しくて、僕は水の中でも呼吸が出来なくなる。
次も、さらにその次も、その人間は失敗した。
「もうそろそろこの屋台も、終わりなんだけどなぁ。少年、最後に持ち帰りたい金魚を言ってくれればおれがすくうけど、どうだ?」
「……もう一回だけ。あともう一回だけ、お願いします!」
人間たちの会話から推測するに、これが最後らしい。
水の中に滑り込んできたポイは、もうすでに破れそうで、膜は揺らいでいる。
それでも、僕はすくいたい。あの人間の気持ちを。そして、僕もすくわれたい。
ポイの縁に上って、力を抜く。膜に負荷をかけないようにする。あとは人間次第だ。
今までの動きよりもずっと上手い。そのまま、ゆっくりと空中へと運んでくれ。
ようやく、じっくりと水槽の外を見られた。
ひらひらした、色とりどりの服で着飾った人間たちがいた。眩しい照明にくらりとした。
瞬間、僕は風を感じた。膜は破れていた。ポイを持っている人間は、目を大きく見開いて、口を半開きにしていて……。
僕は体を伸ばした。黒と赤のその器に、いちかばちか飛び込んだ。
体がその黒い器に叩きつけられて、頭ががんがんとうるさく喚く。でも、届いたんだ。
ひんやりと冷えた水を僕は感じた。意識はそこで途絶える。
少年の嬉しそうな無邪気な声を、子守唄にした。
こうして、僕は観賞魚デビューを果たしたのだった。
ご飯は少年の母親が言うに「百均」なるグレードの低いもののようで、たまに美味しくない粒が混じっている。
水槽の中には僕だけ。申し訳程度に人工物の水草のようなものが置かれているばかりだ。
人間に連れて行かれたら、殺されるんじゃないか。そう戦々恐々としていた、見知らぬ水槽の中で怯えていた過去の僕に教えたい。
案外住みやすいぞ、と。
少年はたまに忘れるが、ご飯を水槽の中に入れてくれるし、掃除もしてくれる。
何より、少年は母親にお願いして「発色が良くなる」ご飯を用意してくれたらしい。味はこの水槽に来てすぐ渡されたものより少し不味いが、なんとなく赤色が濃くなったように思えるので気に入ってつい食べ過ぎてしまうのだ。
そのせいでご飯を「金魚のダイエット」が出来るものに置き換えられてしまった、と少年が瞳を潤ませて教えてくれた。発色が良くなるご飯もそこそこ渡されるので、そんなに不満ではないが。
まあ、大した不満もなく暮らせている。
この少年に|掬《すく》われた。その事実に僕は|救《すく》われたんだ。
薔薇は鈍く広場に咲く
綺麗な薔薇には棘がある。
かわいそうに。
あなた、震えてる。
人間だもの。怖いわよね。死、というものは。
わたしも、あなたと結婚したときはこうなるなんて思いもしなかったわ。
でもね。こうして、処刑を待つ時ですら、わたしはあなたを恨めない。後悔してないわ。むしろ、こう言いたい。
ありがとう。わたしと結婚してくれて。
……何も、話せないのね。怖くて、口が動かないのね。
ああ、そうだ。
待っている間に、わたしたちの馴れ初めでも思い出しましょうか。
ゆっくりゆっくり、走馬灯を見るの。
あの日、硝子の棺で眠っていたわたしを、あなたがキスで目覚めさせてくれたのよね。
国中の女の子が憧れて、かの有名な童話作家もわたしたちのことを作品にして。恥ずかしいけどね。
本当、あなたには感謝してるわ。
起こしてくれなかったら、わたしはこうしてあなたと話すことも出来なかったもの。
鏡よ鏡、魔法の鏡。世界で一番綺麗なのは、だあれ?
真似してみたの。わたしの、お母様を。
わたしはね。お母様はすごく綺麗だったと思うわ。
魔法の鏡なんか頼らなくっても、あの時のお母様はすごく美しかった。
わたしは、ずっと忘れられないの。
雪のようにきらめく白い肌、と。
墨のように黒く、光を反射する黒い髪、と。
薔薇のように人々を惹きつける唇、と。
「白雪姫マリー」と、褒め称えられても。
わたしはあの時のお母様の方が美しかったと思うわ。本当よ。
勿体無いわ。
あんなに綺麗な姿だったのに、もう見られないなんて。
鉄を熱く熱くして、鈍く紅く光る「赤い靴」。
お母様はそれで、最後のダンスを踊った。
苦痛に美しい眉を歪ませ叫び声を上げ続け、徐々に徐々に表情が抜け落ちていく姿は、本当に、本当に……。
……ねぇ、この話はおしまいにする?
そうね、あなたは怖くなっちゃうものね。
やめにしましょう。
日が、昇ってきたわ。
わたしたちの命ももう少しなのね。
たくさん楽しくおしゃべりしましょう。心残りがないように。
そうね。じゃあ、処刑方法の話でもしましょうか。
ごめんね、さっきから怖い話ばっかりして。
でもね。こんな話をしているうちに、ふと怖くないと感じる瞬間が訪れると思うわ。
わたしを信じて。
……うん。じゃあ、お話しましょうか。
わたしたちの処刑方法。あなたが、提案したのよね。刃の形は三日月型ではなく、三角形で斜めにした方が良い。そう、提案したの。合っているでしょう?
より、苦しまず死ねるように。
より、安らかに眠れるように。
あなたが、設計に携わった。
どう?静かにすぐ死ねそうかしら?
やってみないと、分からないけどね。
ああ。もう、やるのね。わたしは断頭台に、もうすぐ立つ。
ほんと、あなたには感謝してる。わたしと結婚してくれてありがとう。
だって。
処刑されるなんて、すっごく素敵だもの。
お母様が赤い靴でダンスを踊った時から、わたしはあんな人が大好きになったの。
あの生命力にあふれる瞳。涙をこぼし続けながら踊る姿。喉から絞り出された声。今でも、わたしの目に焼きついてる。
本当に、本当に、綺麗だった!鏡に問いを投げかけてた時よりも、ずっと!
あなたの元に嫁いで、王妃になって、たくさんの罪人の処刑を見られて。わたしまで、同じ末路を辿れるの。しかも、夫が設計したギロチンで!
わたし今、すっごく幸せよ。
「白雪姫マリー」が処刑される時の顔って、絶対に絶対に綺麗でしょう?あなたもそう思うでしょう?そうでしょう?ねぇ。
……ああ、でも。
一つだけ、残念なことがあるわね。
わたしがわたしの死に顔を見られないのは、とっても残念だわ。
だから、わたしの代わりに目に刻んでね。
わたしの夫、ルイ。
あなたが、ね。
童話と歴史人物をミックスさせました。ホラーだと思います。
ケーキ泥棒は新たな友人を得るか?
三人称の練習。
修学旅行はつつがなく進んでいる。
「では、これから夕食です。手を洗ってから食堂に向かってくださいね。」
「はーい。」
まばらに返事が返ってくる。
|桃《もも》はシャープペンシルをしまってから立ち上がった。
今日の夕食はカレーライス。味付けが好みであることを桃は知っている。前日の夕食もカレーライスだったからだ。
「えー、またカレー?」
「でもさでもさ、今日はケーキが出るらしいよ!」
「本当!?やったあ!糖分、糖分!」
友人たちの会話が耳に入ってきた桃は、一瞬動きを止める。
ケーキ。それは、桃の大好物。
流石に修学旅行中は食べられないと思っていた桃にとっては、嬉しい誤算だった。さして興味がないその土地の博物館を見てまわるよりも、どんなケーキなのか考える時間のほうがずっと楽しい。
ショートケーキかな。チョコレートケーキかな。パウンドケーキかな。
桃の頭の中を色とりどりのケーキたちが占領する。なんとなく甘い香りがするように感じてくる。
「桃ちゃん、早く行こうよ。」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた。」
友人にせっつかれて、桃はようやく足を進めた。
席に座って、順番が来るのを待つ。食事が桃たちのグループは早めだったことに、桃は心から感謝した。
「はい、では4班さん。食事を受け取りに来てください。」
この言葉を、桃はずっと待っていたのだ。
桃は班員の中でも一番に列に並び、トレイを持った。1つ下にあったトレイがかちゃかちゃと音を立てる。
じりじりと進んでいく列。桃にとっては、この時間がとにかく苦しかった。早く進んでくれ。桃の胃は空腹を訴えていた。ぎゅうぎゅうと腹が痛み出す。
ようやくケーキが見えた。チーズケーキである。もちろん、桃はこれが大好きだった。
あの濃厚な味をこの宿で味わえる。糖分が欲しいと脳が訴え始める修学旅行2日目の夕食で、甘いものを堪能できる。
「夕食にケーキが出る」という噂は本当だった。それが確かめられただけで、桃は天にも昇る心地だった。
ちょっと味は好みだったけれど、カレーライスなんかどうでもいい。サラダなんてもっとどうでもいい。
ついに、ケーキのところに辿り着いた。
金色のケーキが桃の皿に取り分けられる。ついに手元に、チーズケーキが。
甘い匂いがふわりと、桃の元に届く。くらりとしながら、席に戻った。
「手を合わせてください。いただきます。」
「いただきます。」
あどけない声が、何度もその言葉をなぞっていく。
銀色に光るスプーンを手にして、桃はカレーライスを一口掬った。本当はフォークを手にしてチーズケーキを口に運びたかったのだが、しょうがない。チーズケーキは最後のお楽しみにしよう。
賑やかな話し声が響く食堂。
先にチーズケーキを食べた友人たちは、口々にチーズケーキを褒める。カレーを食べる手が早まる。
そしてついに、桃も件のチーズケーキに手をつけることにした。フォークを通じて、チーズケーキのしっとりとした質感が桃に伝わってきた。
「……美味しい!」
桃が想像していたよりも優しい甘さで、上品な味で、口の中でとろけていく。
だからだろうか。あっという間に少しの欠片を残して、チーズケーキは桃の胃の中に収められた。
儚い、ひとときだった。
桃は何も乗っていない皿を1人寂しく見つめていた。……しかし、しばらく後に担任教師が言った言葉で喜色満面の笑みになった。
「はい、おかわりOKだそうです。だからといって、食べすぎてはいけませんよ。明日も修学旅行ですからね!」
おかわりOK。つまりはケーキももっと食べられる。
ガヤガヤと席を立つ男子たちとともに、桃もワクワクしながら並ぶ。
ケーキだけ食べるのは少し恥ずかしかったので、サラダも少しだけもらうことにした。
そして、ケーキを1つ追加した。
ああ、本当に美しくおいしそうだ。サラダも食べ終わったので、早速いただこう。
その時だった。クラスの人気者の少女が、叫んだのは。
「あたしのケーキがない!」
彼女は、桃よりも少し後にプログラムが終わり、今から食事をとるようだった。小さなケーキの皿は、天井の照明を反射するばかりである。
「どうして?必ずもらえるんじゃなかったの!?」
大きな声で騒ぎ立てる。生徒全員の視線が集まる。
「ケーキは1人につき1つ、必ずあるはずです。もしかしたら……ケーキを2つ持って行った生徒がいるのかもしれませんね。」
ささやき声が、食堂に充満していく。
桃は手でついケーキを隠した。その数秒後に、怪しい行動だと気づき手を膝の上へと移動させる。
どくんどくんと、心臓が早鐘を打つ。いや、そんなまさか。それは後出しだ。私は、私は悪くない。先に言っていなかった先生が悪い。それに、私は見た。他に2個目を持って行った生徒を。
そう心の中で言い訳をする。それでも、桃は分かっていた。
この手の食べ物には限りがある。よく考えれば分かったことだ。事前に訊けば良かったのだろう。
私が悪い。そう、桃は分かっていたのだった。
分かっていても言い出せない。喉が鉛のような重く鈍いもので満たされ、唇がぶるぶると震える。
こっそりと桃は担任教師の様子を伺った。
目が合った、気がした。
お前は2個目を持ってきたんだろう。心のうちを見透かされたような心地がした。
すぐに担任教師の視線は別の生徒に移ったが、桃の気分はより暗くなる。
「泥棒ですか。せっかくの修学旅行なのに。残念なことです。」
致命傷だった。
「あの、先生。わた、私、気分が……。」
数十分後、ようやく桃は食堂に戻ることができた。
とっくのとうに他の班員たちは食事を終えて部屋に戻っていた。今ごろトランプでもして遊んでいるのだろう。
言うなれば桃にケーキを泥棒された少女。彼女は、今はその整った顔をほころばせてチーズケーキを頬張っていた。周りの生徒が話している内容によると、先生の分のケーキを彼女に回すことで解決したらしい。
桃のトレイが、机にぽつんと置いてある。ケーキは堂々とトレイに鎮座していた。
相変わらず綺麗で美味しそうなチーズケーキ。しかし、桃は食べる気にならなかった。
泥棒。
その単語が、胸に刺さって今もじくじくと痛みを放っている。チーズケーキを知らん顔して、のうのうと食べることは出来なかった。
ぼうっと椅子に座って、しばらく桃はチーズケーキを見つめていた。
片付けることにした。
かたかたと揺れるカトラリーを下げる。
ケーキも生ゴミとして、ゴミ箱に捨てようとした。
しかし、誰かの手によって皿は桃の手から奪い取られる。
予想していなかった事態に、桃の体はフリーズする。ゆっくりと、首を動かしてケーキ泥棒のケーキを泥棒した、その人を見る。
「あーあ、もったいないよそれ。ダメでしょ、食品ロスは。総合の授業でやったじゃん。」
変人。彼女をひとことで表すと、こうなる。
絶妙に価値観が俗に言う普通のそれからズレている子。
変な子だけど悪い子ではない。
そう評価されることがほとんどな少女。
「|諏訪《すわ》さん。まあ確かに総合の授業で勉強はしたけど……調子が悪いから、どうしても残したくて。」
諏訪は表情を変えず、ちょうど持っていた食器類をフォーク以外下げた。そして桃にとってありえない行動に出る。
「……うん、美味しいわ、やっぱり。これ残すとかもったいなさすぎる。」
咀嚼した。
桃が残したケーキを、実に美味しそうに諏訪は咀嚼した。
「は?」
これでも優等生だった桃は、思わずあまりに優等生らしからぬ間抜けな声を上げてしまう。
「あれ、ダメだった?でも、食べないとチーズケーキがかわいそうでしょう?」
「いや、そういう問題じゃなくて。」
クラスメイトが残したものを、何でもない顔して頬張る。
桃には到底できない所業だった。
「まあまあ、細かいことはいいじゃない。それに……。」
諏訪は桃の耳元でささやく。
「これで私も、共犯だよ。」
「は?」
またも間抜けな声をあげてしまう桃。
「ご馳走様。あと、もうそろそろお風呂の時間が近いから、急いで戻ってお風呂の準備した方がいいよ。じゃあ、またね。」
1人残された桃は、チーズケーキの皿と去っていく諏訪を交互に見た。
「……でもまあ、いいか。細かいことはいいじゃない。うん、確かに私は泥棒だけど。」
先ほど諏訪がかけてくれた言葉を、桃は反芻する。
喉にまだ重く鈍いものは残っている。しかし、一部は消えたみたいだった。
変な子だけど悪い子ではない。
その肩書きが、今の桃には眩しく見える。
「そうだ。バスの座席、結構近い。」
帰りのバス車内。今まで距離を置いていた「共犯」に話しかけてみよう。
新たな友人ができるといいな、とケーキ泥棒は願った。
売バイト
リクエスト小説です。言葉遊びが楽しい、素敵な案をありがとうございました!
最後の方、少し過激なシーンがございます。ホラーです。
「でさあ、あの子オレにメロメロになっちってよ!オレもうどっちの子を取ったらいいのか分かんなくてよお!」
今日もつまらない先輩の飲み会に着いていく。口を開けば金か女。頭が悪そうな話しかしない。三流大学だからしょうがないか?
「それでな、最近うまい話を聞いたんだよな。」
同じ三流大学に通っているのが恥ずかしくなる。受験当日に熱さえ出さなければ第一志望校に通えたってのに。どうして僕は運が悪いのだろう。
「おい、聞いてるのかお前。」
「あー、ちょっと酔ってきちゃいました。」
「まったく、お前は本当に酔いやすいんだな!」
お前だって酔ってるよ、と呂律が回らなくなってきている先輩をこっそり睨みつける。
「オレな、新しくバイト始めるんだ。がっぽり稼げるらしいぜ!」
「そうなんですか。」
イライラする。こんな輩が金儲けできる世界なんて間違っている。絶対に。
ちょっとうまい話について探ったって、バチは当たらないだろう。
「なんだこれ。オレ頼んだ記憶ないけどな。」
「いいじゃないですか。明日は大学ありませんし、ぱーっと飲みましょうよ。」
「ま、オレは3日後超稼いで帰ってくるからな!」
「どこで見つけたんですか、そんなバイト……。」
X駅のコインロッカー、016番。そこに案内の紙が入っている、らしい。
僕は自宅から数十分程度で来られるX駅に到着した。早朝だったので、人の姿はまばらだ。
コインロッカーの小さな穴に、100円硬貨を投入する。かちゃり、と静寂を一瞬壊す金属音。はやる気持ちを抑えて、丁寧に扉を開けた。
中には、紙切れが一枚。開いて無言で読む。
「所持金|倍《バイ》も夢じゃない!|売買《バイバイ》トの世界へようこそ。これから指定の場所に向かってください。ガイダンスを受けてもらいます。この紙は入場券として使用いたしますので、必ず持っていくように。」
カラフルな兎のイラストが指さしているのは、地図だった。
ここからそう遠くない雑居ビルの5階へと導く地図である。ここに行けば、先輩と同じように大金を得ることができるのか。
ポケットに紙切れを突っ込んで、駅から飛び出して。
朝の冷たい空気を切って走る。輝く朝日が、僕を応援してくれているような気がした。
---
雑居ビルの5階にて。呼び鈴を鳴らすと、若い男がやってきた。僕を見つけるなり、胡散臭いセールスマンのような笑顔を浮かべた。
紙切れを見せる。
「いらっしゃい。今日は登録だけだよ。でも、五万円あげちゃう!」
「ご、五万円!?」
「いいのいいの。これから頑張ってくれればいいの!朝早かったし。」
男は僕が差し出した紙切れを受け取った。
「じゃ、身分証明書を出してくれる?」
心臓が大きく跳ねる。身分証明書を出せ、なんて言われていない。
「免許証でいいですか。」
「もちろんOK!顔写真とかもらっとかないと、登録が出来ないからね。これから俺たちの仲間として、お仕事してもらうんだから。」
僕が免許証を差し出すと、男はそれを確認して部屋から出た。
僕だけが残される。殺風景な白い壁紙の部屋で大人しく待つこと数分、男が戻ってきた。
「ありがとうね!はい、これお給料。開けていいよ。」
袋を開けてみると、確かに偉人の顔が刷られた紙が5枚。もちろん、千円札でも五千円札でもない。
「これからよろしく!」
にこりと笑って、男は勝手に僕の手を掴んで握手した。
「よろしくお願いします。」
僕が大金を稼ぐことができたら。
アルバイト先で怒られてストレスを感じることもなくなる。高くなり続ける物価を恨めしく思うけどもなくなる。美味しいものをもっと食べることができる。地方に住む母さんや父さんに金を送ることだってできる。可愛いあの子とお近づきになることだって……。
夢が詰まったその茶封筒。そっと撫でて、小さなカバンの中にしまった。
こんなうまい話にありつけるなんて。ようやく運が上向いてきたのかもしれない。
---
それからというもの、僕はあの男に指示されたことをこなし続けていた。
「売買ト」という名称通り、何かの売買をネット上ですることが一番多かった。
他にも、とある製薬会社が作った錠剤を病人のもとに輸送したり、孤独な老人と電話越しに会話したり、保冷バッグをあの男に運搬したりした。怯えた少女を「保護」して送り届けたことだってある。
しかし、全て苦にならなかった。シール張りよりも、接客よりもずっと簡単。
仕事内容だけでなく、集合場所だってまちまちだった。あの雑居ビル以外にも「仕事場」がたくさんあるようだ。
疑問に思ったが、報酬をたんまりともらっていたので、僕が文句を言うことはなかった。
それに、貧しい少女を「保護」した仕事は社会貢献にも繋がっている。少女からのお礼の手紙だって届いたのだ。
社会貢献をしつつ、たくさんの金をもらえる夢のような仕事。それがこのバイトだった。
最近不作だと嘆いていた農家の父さん、母さん。僕の仕送りを喜んでくれた。
「あんた、無理しなくていいのよ。」
「大丈夫だって。僕が頑張って母さんたちの生活が楽になるなら、それでいいんだよ。」
思い出した。一流大学に行きたかったのも、有名企業に入って金を稼いで、母さんたちの暮らしを豊かにしたかったからだった。
それなのに、僕は優秀だというレッテルばかり欲しがって。周りの人間を見下して。この仕事を教えてくれた先輩にも優しくしなくては。
そう思って先輩に声をかけようとしたのだが、僕を見るなり先輩は逃げ出してしまった。顔を青くして、唇を歪めて走り去っていく先輩。熱でもあったのだろうか。
その3日後、先輩はサークルに来なくなった。ついには授業にも来なくなった。
もしかしたら、この仕事だけをすることにしたのかもしれない。ちまちま授業を受けて就活するよりも、この仕事に集中することにしたのだろう。
この仕事で、生活がいい方向に変わる。精神的に余裕ができた。ボロアパートから脱出できた。挙げればキリがない。
……そして今日も、この仕事で生活をよりよくするのだ!
「今日は特別な仕事を紹介するね。」
アプリ越しに、いつもの男と会話する。「いつもの男」と心の中で呼んでいるが、名前も好物も家族構成も、何も僕は知らなかった。
「期間限定だから、逃したらもう二度と紹介できないかも。報酬はいつもの十倍以上が確実なんだ!君は指定の場所に行くだけでいいんだ。最初の時みたいに。勝手に売れるさ。やるよね?ねえ?」
「勝手に売れるさ」というのはどういう意味なのだろう。それに、最後の一言に圧を感じる。
気になったとしても、絶対に理由を訊いてはいけない。それが、暗黙の了解だから。僕はずっと、疑問に思ったことだって押さえ込んで、甘い蜜を吸ってきただろう?
でも、絶対に何かが違う。
僕の本能が、赤信号を出していた。
「もちろんです!」
無視する。おかしくないと言い聞かせる。
「お、さすがだね。今から場所を教えるから、アプリ見てて。」
情報漏洩を防ぐために、匿名性の高いメールアプリで僕たちは会話していた。
「随分と遠いんですね。」
「文句あるのか、お前?受けるって言ったよな?」
一気に声が冷たくなった。
「そんなわけありませんよ!今から向かいますね!」
「ああ、よろしく。」
男の声がいつもの朗らかなものに戻って、一安心する。通話を切る赤いボタンをタップして、僕は地図を見ながら電車を検索した。
いつもの十倍以上。つまり、一回で百万円は超えるのだろう。運が良ければ、もっと高くなる。
鼻歌を歌いながら、電車に乗り込んだ。
---
指定の場所に向かうためには、どうしても暗く細い路地を通る必要があった。
人々が行き交う大通りから隔絶された静かな世界。僕が地面を叩く音だけが聞こえる世界。異臭がする世界。
悪寒がする。背筋が寒くなる。腹が猛烈に痛くなる。
帰りたくなった。
どうしてだろう。こんなことが頭の中を埋め尽くすのは初めてだった。
やはり帰ろう。あの人には謝って、許してもらおう。立ち止まったその瞬間。
何かに射抜かれた。
埃と僕の頬が触れる。衝撃が加わる。
重要な仕事なのに、どうして僕は倒れてしまったんだ。
ああ。つくづく、運が悪い。
意識は闇の中に溶け込んでいった。
---
「パッとしない学生ね。」
どこにでもいそうなその学生を舐め回すように見る若い女は、そうこぼした。
「こいつ、本当に《《売れる》》の?」
若い女が問いを投げかけられた背の高い男は、けらけらと笑いながらその学生を袋に詰める。
中身が透けない袋だった。慣れた手つきでパッキングしていく。
「金持ち舐めんなよ。いつも足りてないんだよ、供給が。こんな男でも、欲しがる奴なんてごまんといる。」
「美男美女じゃなくても?可愛い幼女じゃなくても?」
「売れるに決まってるだろ。」
「あたしは欲しくないなあ。この前『保護』したあの子みたいな可愛い子がいいなあ。」
転がっていた缶を蹴り飛ばしながら、若い女は返事をした。この若い女が顔面至上主義であることは周知の事実だ。
「お前の意見なんてどうでもいい。ほら、早く車まで運ぶぞ。」
男は学生が詰められた袋を叩いた。乾いた音が路地裏に響く。
「あいあいさー!」
若い女は元気よく返事をして、先ほどよりも確かに質量が大きくなった袋を運搬し始める。
「臓器には使い道がたくさんあるんだ。」
「臓器移植とか?」
「そうだな。食材になることもある。金持ちのコレクションにだってできるぞ。」
「うげえ、やっぱり悪趣味。あたし、この仕事辞めようかな。」
「お望み通り、辞めさせてやるよ。いろいろ抜き取らせてもらうけど。」
「冗談だってば!」
今更仕事を辞めることなんて、この男にもできなかった。
「協力店」に止めてある愛車までたどり着いた。袋を積み込んで、背の高い男はコンビニで購入したコーヒーを一口啜る。
「さて、もうひと頑張りだ。こいつの売買が終わったら、今日の仕事はおしまい。」
自分を鼓舞するように背の高い男は呟いて、積み込んだ袋を見つめた。
この哀れな学生にも、お金をかけたいことがあって、家族がいるのだろう。うまく売買している気になっているが、実は自分の大切なものを売っているだけなのだ。
そして、それを悪しき金持ちが手に入れる。|buy《バイ》して、莫大な金を動かす。
「|売買《バイバイ》だな。かわいそうな学生さん。」
男がエンジンをかけると、学生を積んだ車は走り出した。
---
都市に蔓延るそれを一度始めたら、命をバイバイするまでやめられない。
その名も、|売《バイ》バイト。
がらんどう
衝動書きです。文がいつもよりごちゃごちゃ。
金属音を聞いた。
数秒後、ドアを開いた。
中に入れば、仄暗く冷たい空気がお出迎えしてくれる。スイッチを手探りで探す。かちり、と軽快な音がして視界が白とオレンジが混ざった色に染まる。紛れもなく、住み始めてから2年経った我が家の光景だった。
いつもなら帰ってくれば安心するこの我が家だったが、今日はそうでもなさそうだった。
この部屋とは違った白い照明。あの人の匂いのする部屋。ついさっきまでいた部屋を思い描いている。あるじは今日もそこにいる。
電車に揺られて一時間で着くはずなのに、今は海で隔たれた異国にあるように感じる。鮮明に覚えている。まだ、今は。
明るくしたばかりの部屋。その真ん中で、座り込んで光を自分からシャットダウンする。
さっきまで借りてた漫画は棚に戻したのだろうか。自分が使った紅茶カップはあの人がもう洗ったのだろうか。自分がいたという痕跡はもう、向こうには残ってないのだろうか。
もう自分たちの関係は、終わってしまったのだろうか。
こんなことを考えても意味がないのに、思考をやめられない。あの人に出会って鈍った脳細胞はやめてくれない。
願わくば、一ヶ月前に戻れますように。
あなたとのイベントの日に戻れますように。
最高に楽しかったあの日に戻れますように。
甘酸っぱかったあの日に戻れますように。
まだ大丈夫だと、完全な終わりが来ていないと今より少しだけ冷静だった一週間前に戻れますように。
瞼を開けても、誰もいなかった。
薄橙の照明が家具を照らしている。それだけだった。
薄橙色になった紙袋を撫でる。外側はなめらかだった。中にあったものは、今はあの人の家にあるのだった。自分だって、あの漫画たちと一緒にあそこに居たかった。
中に手を入れる。
この部屋によく似合っている、乾いてがさついたがらんどう。
嵐のち平熱
体温計が鳴るのを私は待っていた。
座り込んでいた。差し込む日光に背を向けて、座り込んで、ぼうっとその時を待っていた。
昨日のうちに冬休みの数学の課題も終わらせてしまった。朝ごはんはまだ用意されていないらしい。スマートフォンだって、今は一階にある。本当に、やることは一つだけ。体温計の冷たい金属が体温に馴染んできた頃、ようやく軽やかな電子音が苦痛な待ち時間に終止符を打つ。
脇から体温計を引っ張り出して、数字を確かめてみる。思考回路はクリアなのに、3つの数字は左から3、7、5。37.5。「熱がある」に、ギリギリカウントされそうな数値だった。気持ちは平熱なのに、不思議だ。かつ、不愉快なことでもあった。
もう一度、それが何かのエラーであることを願いつつ、すっかりぬるくなった金属部分を挟む。待つ。しばらくして、待ち時間が無駄だったことを知る。
間違いない。熱がまだあった。
抗議、という意味を持たせて、ぼすっと音を立ててベッドに倒れ込む。先ほどまで感じていた柔らかな感触が背中を包み込む。
これじゃあ、スケートには行けそうにない。
当初の予定では、本当なら、風邪を引かなかったのなら。今日、友人たちとスケートに行く予定だったのだ。どうせなら冬休みに何かしよう!と提案して友人が乗ってくれたのはいいものの、当の企画者本人がどこで貰ってきたのかも分からない風邪でダウンだ。そのまま、スケートに行くのだろう。私を除いた面子で。
「朝ごはん、出来たわよ」
自室の外から、声がかけられる。扉の向こう側で、トレイを置く硬い音が鳴る。
「ちなみにこれからお母さんたち、出かけるからね。昼ごはんも買っておいたから、適当に食べてて」
「どこ行くの?」
「遊園地行って、グッズ買ってもらう!」
向こう側に妹がいることにも気づかなかったし、初耳だった。私がスケートに行く間に、家族は家族で遊びに行く予定を立てていたのだろう。
「そっか。とりあえず、私のスマートフォン持ってきて欲しいんだけど」
不機嫌を表に出さないよう努力はしたが、どうしてもトーンが低くなってしまう。
「何よ、一日中家にいるからってスマホばっかりするつもり?代わりに国語と理科の課題持ってきたからね」
「そういうことじゃなくて」
「今日中に全部やっておいた方が楽よ、絶対に!」
「ちょっと待って!」
続きは2人が階段を降りる音にかき消された。私も2人を追いかけて居間に乱入することもできない。
そっとドアノブに手をかけて外を覗く。物は言いよう、朝食と称されたそれはただのトーストだった。塩すら振られていない。傍らには水筒と、恐らくは昼に食べるサンドイッチ。コンビニで買ったようで、半額値引シールが貼られたままだった。食べるものではないが、国語と理科の課題。
味気ないし、適当に用意されたことが丸わかりだ。だからといってこれ以外の食事が出てくるわけでもないので、大人しく頬張ることにする。
トースト一枚にいつもの2倍の時間をかけて、ようやく食べ終わる。のろのろと立ち上がって、部屋の外にある洗面台までやってきて、歯ブラシを乱暴に掴む。その勢いで、置いてあったコップが大きな音を立てて床に落ちた。コップに汲まれた水が、こぼれたのも同時だった。
きゃっきゃと無邪気にはしゃぐ声が聞こえてきて、余計に苛立つ。私だって、今頃は遊びに行けていたはずなのに。タオルを持ってきてせっせと床を拭く。気分はシンデレラだ。変身する前の。
床をようやく拭き終わって、外からエンジン音が聞こえてきた。呆気なく、遠ざかっていった。
風船に針が突き立てられるように、歯磨きをしようという意思に急速に穴が開いてしぼんでいく。それを感じた私は、歯ブラシとコップを元の位置に置いて、部屋に戻った。
戻ったとて、何もすることはない。
あるにはある。ちょこんと置かれてあった冬休みの課題。やろう、と決意してノートを部屋に引きずり込んだはいいものの。シャーペンを持つ手は全く動く気がしないし、体の熱が頭にも回ってきたのか、今まで平熱だと錯覚していた意識にフィルターがかかる。
そうだ、スマートフォン。こっそりと居間から持ってきたとしても気づかれないだろう。家族が帰ってくる前に元の位置に戻せばいいのだ。
誰もいないと分かっているが、物音を立てないように動いてしまう体。居間にたどり着いて、スマートフォンがいつも置かれている場所に手を伸ばす。
何もない。何も、ない?そこには空気しかない。もしかしたら、別の場所に隠されているのかもしれない。藁にもすがるような思いで他を当たってみるも、私を嘲笑うかのように、ことごとく駄目だった。
成果も何もなく、すごすごと階段を登る。
誰もいない。何も手にはない。娯楽もない。ただ、体に熱が溜まっているだけ。
「ふざけるな」
体に熱が、現在進行形で溜まっていくだけだ。
「ふざけるな!」
溜まっていくだけだったはずのものが噴き出した。声のボリュームを最大にして、咳が出る喉を酷使して、片手に枕を携えて。ベッドを、机を、床を、壁を、着替えを、時計を、国語と理科の課題を、今まで誰にも話していなかったモヤモヤを、数十分前にあった嫌なことを思い切り殴りつけた。嵐が通ったかのように、物が乱れて、秩序がなくなる様を見つめていれば、少しずつ嵐が収まっていくような気がした。
部屋から飛び出して、目に映った全てのものをひっくり返す。蹴る。狂ったように大声をあげる。そのくせして家族が戻ってくるかもしれない不安で、一階には降りられなかった。戻ってくるわけないと分かってはいた。
ひとしきり物の配置をぐちゃぐちゃにしてから帰還する。マットレスに飛び込む。
嵐の後は大雨、だった。
突然、どこからともなく湧き出してくるものに、どう対応すればいいのか分からなかった。
今更口の中に塩気を入れようとしたって無駄だ。もうトーストは、胃の中なのだから。それを考えた途端、また怒りとは別種のものが噴き出してくる。
止めることもできず、止めようともせず、しばらくマットレスに寝転がる。寝転がれば、能天気なお天道様の光に照らされて、緩やかに緩やかに、無意識の世界へと誘われる。
そこから、記憶がない。
---
何の前触れもなく、目覚めた。
天から降り注ぎ、半開きになった窓を通る光線はほんの少しだけ橙色を帯びている。
床に落としたデジタル時計を拾い上げるまでもなく、夕方なのだと察した。早く物たちを元の位置に戻さなければ。いつ家族が帰ってくるか分からない。
全部、熱のせいに出来るだろうか。
氷のように冷たいフローリングの床に足をつけて、体温計を脇に挟む。また金属部分に体温をなじませる。
様変わりした部屋。ひどい地震、それか強盗にやられたみたいに、秩序のかけらもなく転がっている物体。
不思議と、自分が作り出した負の産物を見ても心は凪いでいた。霞かけていた頭も、朝起きた時よりもすっきり晴れ渡っている。
嵐のち、大雨ののち、快晴。つまりはそういうことなのだろう。
誰もいないうちにストレスを発散するのも、悪くはないか。ただ、こんなに物を散らかすのは良くないけれど。
また体温計が人肌に馴染んでから計測が終わる。
持ち上げて、オレンジ色がかった数字を見つめる。
「今更こうなったって、遅いんだよ」
嵐の後のそれは、少しだけ特別な気がした。
3、6、5。36.5。
「まあ、いいか」
間違いなく、平熱だった。
平熱、ではなく熱のような気もしますが平熱です。たぶん。
久々の短編です。読んでいただきありがとうございました!
追記
愛楽音様主催・平熱【小説コンテスト】で最優秀賞をいただきました。ありがたや!
ヒカリの電池が切れた時
初めての試みですね。言葉選びに一層気をつけて書かなくては、とうんうん唸っているうちにできました。楽しいからまたやってみよう、こういう書き方。
リクエストありがとうございました!
ヒカリの電池が切れた時、ママは大泣きして、パパはおかしな声を出して大笑いしました。
あたしには意味が分かりませんでした。ヒカリの電池が切れたことの意味が、よく分かりませんでした。だからきっと、ママたちもそうなのかなって思うんです。ヒカリの電池が切れるなんて、みんな思いもしなかったんだろうなって。
ヒカリは、ずっとそばにいました。そばにいるけれど、とても遠くて。触れられるわけではないけれど、そばにいるような気がして。要は、あたしの心のそばにいるってことなんです。外で駆け回っている時も、授業を受けている時も、ヒカリはあたしのことをずっと見てくれていました。
それなのに、どうしてでしょうか。
あたしがちょうどおやつのチョコパイを頬張っていた時に、ぷつっと、大きな大きな音が町中に響き渡ると、ヒカリはチカチカして、あたしたちが寝る時間の時のように真っ黒くなってしまいました。1分もかからなかったと思います。あたしの家についているライトも切れたことがありましたが、こんな感じでした。周りが何も見えなくなって、オトナもコドモもイヌもネコも、うちで飼っているインコのピー助もみんな怯えているみたいでした。
「ねえ、ママ。まだ寝る時間じゃないよねえ。だってお昼の3時だよ、いくら真冬だからって、こんなに早くヒカリが引っ込むわけないよねえ?」
って、あたしが聞くと、ママはあたしを叱る時みたいに恐い顔をしたんです。ママってば
「みんなで土の中で眠る時が来たのよ」
とか
「あなたも手を合わせて、ヒカリと友達にさよならを言いなさい。ヒカリが落っこちてきたら、あなたはそんなことを言うヒマもなくなっちゃうんだから」
とか、変なことを言い出したんです。その後にも何かあたしに伝えたかったことがあったみたいだけど、ママの目からボロボロ涙が溢れてきて、残りはよく聞こえませんでした。
パパもあたしたちのところにやってきて、大笑いしながらべしべしママとあたしの肩を叩きました。笑いながら、泣きながら、でした。いつだったのでしょうか、お酒を飲みすぎて顔が赤くなって、いなくなっちゃったパパのお母さん(あたしにとってはおばあちゃんです)が見えるって言って、ママにこっぴどく怒られた時がありました。その時よりも様子がおかしくてひどくて、壊れたオモチャみたいになっていました。パパがパパじゃなくなっちゃったみたいです。
あたしはとりあえずママの言う通りに手を合わせて、仲良しのアイちゃんやハルコちゃんのことをずっと考えていました。暗いのにも目が慣れてきて、ちょっとだけママやパパの表情やピー助、窓から見える町の様子が分かるようになりました。
しばらくして、ガラスが割れるみたいな嫌な音がぐらぐら地面を揺らすと、ヒカリはあたしたちの町よりも、隣町の隣町よりもさらに遠い町に落っこちました。ママがさっき言ってた「ヒカリが落っこちてきたら」というのはこういうことだったのです。確かに、ヒカリが町に落ちてきたら町中大騒ぎで、ママとパパと、ましてやピー助を連れて逃げるヒマなんてないのでしょう。
「ああ、終わりだ終わりだ。この国は、もう終わりだ!」
「どうせ元々終わる運命だったのよ、人間が地下に潜った時点で」
ぶつぶつママたちはつぶやいて、テレビの電源をオンにしようとしました。でもつかなかったので、仕方なくホコリまみれになっていたラジオを持ってきて、チャンネルを合わせました。
「人工太陽の電池が突然、切れました!『ヒカリの電池切れ』、いったいこれはどういうことなんですか!」
「十分に充電されていたはずです。テレビなどの電気を使う家電なども使えなくなっています。残念ながら私にも、原因は推測できません」
「住民のみなさまは速やかに、緊急シェルターまで避難してください」
ニュースの人も何が何だか分かっていないようでした。「専門家」と紹介されたおじさんも声がぶるぶる震えていて、すごく怖がっているのかなってあたしは考えました。
パパは何も言わずにラジオを切りました。ラジオが聞こえなくなったので、町の人が大騒ぎしている声があたしの耳を引っぱたくようで、あたしはつい耳を押さえました。
「行きましょう」
ママはあたしの手をいつものママからは考えられないくらい強い力で掴むと、お出かけには使わないカバンを背負いました。
パパはピー助の鳥かごの鍵を持ってきて、ピー助を外に逃しました。
あたしたちは家の外に出ました。なんだかもうあたしたちの家には二度と戻ってこられないような気がして、あたしはバイバイってつぶやきました。ママとパパもあたしの後に、バイバイって繰り返し言って手を振りました。
それからというものの、あたしは緊急シェルターから出られていません。緊急シェルターに入れただけマシってママが八百屋のおばさんと話しているのを聞いたので、こうやって考えることはぜいたくなのかもしれません。
配られるごはんもどんどん少なくなって、あたしはお腹がいつも空いています。甘いものなんて出ません。チョコパイなんておやつに食べられません。だから、ずっと思い出の中のチョコパイを呼び出して食べています。でも、そのことを考えると最近はもっと悲しくなるので、もう考えないようにしています。どこかにいるピー助は、優しい人にごはんももらっているのでしょうか。お腹を空かせていないとあたしは嬉しいです。
早くあたしの家に戻りたいです。
早くおいしいママの手作りごはんが食べたいです。
早く新しいヒカリの電池が欲しいです。
しがない私を踏みつけて
数ヶ月も借りたネタを熟成させていました。ごめんなさい。そしてありがとうございました。
※流血描写があります。
私は見た。
今さっき動かなくなったそいつが、突然跳ね起きて私の前でべらべら喋り出すのを私は見た。
「おはようございます。気分は晴れましたか?」
「……え?」
なんで、なぜ、どうしてこいつは、何もなかったかのように2本の足で地面に立っているんだろう?
「あなたの気分がすっきりしたのなら本望です。それでは、また明日。また明日、私に会いに来てくださいね?」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
「どうかしましたか?」
はにかみを浮かべてから、すたすたと扉の方へと向かっていくそいつの肩を私は揺さぶった。華奢な背は震えた。気持ち悪いくらい、ぐらぐらと。
「他に言うことないの!?だって、あんた、さっき……。」
そこから先はうまく紡げなくなった。学校でうまく話せなくなるのは、この14年と半年くらいの人生の中で初めてだったし、こんなことにしてしまったのももちろん初めてだった。
桃色に染まって腫れ上がった頬。珍しくワイシャツ越しに見えやすいところに出来た痣。蒼白な下地の上、無秩序に引かれている赤黒い線。そして、鈍く頭に訴えかける鉄の匂いを纏わせていた、目が痛くなるくらいに鮮烈な、赤。
私の胸に手を当てて思い出してみれば、数十分前にエスカレートした悪ふざけが浮かび上がってきた。
倒れ伏していたその胸に手を当てなくても、既に動いていないことが察せられた。
確かに超えてはいけないラインを超えてしまったのに。確かに私は、破ってしまったのに。
頭の中は容量の限界をとっくにオーバーしているけれど、口の中はスカスカで、思うように動かない。
「あはは、こんな姿見るの初めて。ちょっと新鮮だなあ。」
あろうことか、そいつは私を眺めてへらへら笑い出した。暢気な笑い声が空き教室にこだまする。耳は平和だけれど、視覚は全く穏やかじゃない。痣は綺麗さっぱりなくなっているけれど、結局彼女の頬にはこびりついている。私にさっき見たものは嘘じゃないんだぞ、と主張している。
「結局、け、結局、あんたは何なの?どういう」
「うーん、説明するのが難しいなあ。」
私の言葉を遮って、わざとらしく悩みながら私の周りをぐるぐると歩き回る。折れていたはずの、踏みつけられていたはずの足は年相応の白色だった。蒼白な顔よりもずっと健康的なはずなのに、ずっとずっと不気味。
「私には起こりえないんです。みんないつか経験することが。」
「は?」
「あっ、やっといつもに戻った。」
「ふざけんなよ、いい加減にしろ!」
「きゃっ!」
叩きつけた。ローファーで、ぐりぐりと押し潰した。さっきみたいに、思いっきり。ブレーキをかけなきゃいけないって実感したばかりだったのに、うまく出来なかった。
私、またやっちゃうのかな。
「大丈夫です。いくらやったって平気です。だって私は、しがないんですから。」
新たな染みを体に作りながら、またそいつは微笑んだ。
「しがない私を踏みつけて。」
よく分からなくなりました。これはそういう短編集ですけど……。たぶん最後のところがやりたかったんだと思います。
鈍い四時限目
あ、打ち損ねた。
ぽろり、と蛍光イエローの球体が転がっていくのを、あたしはぼうっと眺めていた。確かに視界に捉えて、確かに当てられたはずの易しいボールだった。それなのに、気づけばそれはあたしの背後にあった。オムニコートの上、音もなく滑っていくボールは、確かにベースラインを越えている。
「惜しーい!」
「ごめん。」
「全然大丈夫、じゃあ次私サーブするね!」
「あっ、お願い。」
疲労がたまっているのがよく感じられる右腕。さして寒くないくせに震える体。出来ることなら今すぐにでもラケットを放り投げてしまいたい。それでも、やらなくちゃいけない。無事にこの50分を消化しきらないと終われない。
またラケットを構え直す。片手で持ち続けるには少し重い。たった一桁回の練習じゃあ、あたしのスペックだと正しいグリップの握り方を教科書通りに愚直に真似することしかできない。きっと、どうせ、二度目のボールが飛んできたら、パニックになってまともに打てやしない。染みついたネガティブは、体操着を洗濯したって結局取れない。「テニスはメンタルスポーツ」。そうでかでか印字された紙を嫌になるくらい見てきているのに。
ボールが飛んでくる。右寄り。だからフォアハンドで打つべき。じゃあ、高さは?バウンドさせてから打つの?もう少し下がった方がいいのかな?
体を前後にゆらゆら、どうにか照準を合わせようとして、思い切り振ってみたラケットは空を切る。また、ベースラインを越してしまう。
……あ、また打ち損ねた。
「今度こそ、あたしやるね。」
「よろしくー!」
いつまで経ってもできないサーブ。一方的なボール打ち。運良く当たっても右へ左へ、明後日の方向にしか飛ばないボール。瞬く間に溶けていく体力。擦り減らしていくメンタル。これ、いつまで続くのかな。
気味が悪いくらいにスッキリと晴れた空に向けて、トスをあげようとしたその時。待ちに待ったチャイムが鳴る。肩の筋肉が弛緩していく。
終わったんだ。
名もなき博物館で最後の思い出を
爽やかな空気。涼しい風。朗らかな日差し。
「ああ、何も変わってない。」
わたしはそれで、再び目が覚めた。
気持ちのいい目覚めだった。二度寝した後、ゆっくり体を起こす。そんな瞬間に感じる幸福のような。
と、今はそんなことどうでもいい。
「ここ、結局どこ?」
わたしの眼前には、青く澄み切った湖、同じく美しい川、それから可愛らしい花畑があった。おとぎ話でしか語られない、楽園のような空間と例えるのが最もふさわしいだろう。
写真でしか見たことのないような花々。ふわりと甘すぎない香りが鼻に届く。これが目の前にあることをしっかり教えてくれた。
湖の方にもわたしは近寄る。覗き込むと湖の底がよく見えた。人工物一つ浮いていない。風がほんの少し、水面を揺らすだけ。
少し前に確かめた風景と、何一つ変わっていない。
……遠くから、声が聞こえる。
「おーい」
そして、遠くから人が走ってくる。
「よかった、目覚めたんですね!」
「はい?」
わたしは体の向きを完全に変えて、その人はわたしの元にやってきて。
わたしの周りで円を描くように動いた。しばらくそうしていた。
「ああ、よかった。どこにも怪我はありませんね。」
わたしに向き直って、若いその人は緩く息を吐き出した。
「あの?あなた、誰なんですか?わたし、気づいたらここにいたんですけど……何も、覚えていなくて。」
ここに来るまでの記憶が、まるごと抜け落ちていた。
どうしてこんな、桃源郷のような場所にいるのか。わたしは今まで何をしていたのか。普通に働いて、普通に休暇を満喫して、普通に日常を送って。でも、ある日突然それがぷつりと途切れていた。
そして、気づけばここにいた。こんな場所、わたしは知らない。来ていたら絶対に覚えているはずだ。
「はじめまして、ですね?私はこの辺りに博物館を構えてます、ええと……まあ、『館長』とでも呼んでください。」
「館長、ですか?」
「はい。館長、です。」
肩くらいまで髪を伸ばした、若く中性的な容姿。きらりと太陽の光を反射するモノクルと、知的な雰囲気を醸すコート。フィールドワークで使うのだろうか、茶色の大きなリュックサック。
うん。やはり、わたしも館長と呼ぶのがしっくりきた。わたしの思い描く「知的な人」がそっくりそのままいる。
「立って話すことになっちゃいますし、うちの博物館に来てください。事情みたいなものは、そこで説明します。こちらへ。」
「ああ、はい。」
とりあえず、素直にこの人……館長の後について行った方がよさそうだ。何かできることが見つかるかもしれない。
わたしは大きく伸びをして、履いていた革靴で地を蹴った。
---
「随分と大きい建物ですね。」
「私の自慢なんですよ。」
しばらく野原をハイキング気分で歩いていたわたしたちは、ようやく目的地に辿り着いたようだった。シミひとつない外壁、それから磨かれた金色のプレートが出迎えてくれる。彫られている文字は「博物館」。ただ、それだけだった。
「博物館、だけなんですね。」
「私にはいい名前が思いつきませんでしたし、別に不便をすることもありませんから。」
それは、観光客などを呼ぶにあたってどうなのか、とわたしは口走りそうになったが、すんでのところでとどめた。
個人の趣味だったら、お客さんを呼ぶ必要もないし、わたしがこの博物館のオーナーであるわけでもないのだから。
木製のドアをくぐる。素朴な照明に照らされる、丁寧に展示された花々がわたしの視界に映し出される。
不思議な展示だ。花が宝石、それか硝子の中に閉じ込められているような、そんな展示。カットされた断面は光を柔らかに反射して、中の花はたった今摘んできたかのように美しい。ついため息が漏れてしまって、それを聞いた館長が嬉しそうにはにかんだ。
「私の技術力を結集させた展示なんです。それなりのものにはなっていると思いますよ。」
「いや、それなりどころじゃないですよ!」
だって、花がこんな風に飾られているのをわたしは見たことがない。明らかに現代の技術を超えている。
「こっちに来てから、なぜか研究が上手く行くようになったんです。なんとなく、心当たりはあるんですけど。ああ、そんなことはどうでもいいですね。どうぞこちらへ。」
クリスタルの中に埋め込まれた花々の群れから抜け出して、博物館を進んでいく。ちょっとした休憩所のようなところに着いた。
「アイスハーブティーとお茶菓子です。お口に合うと幸いです。」
透明なポットから、琥珀色の液体が流れ出る。それはなめらかにティーカップに着地し、ふわりと華やかな匂いをあたりに漂わせた。傍の上品な皿にはクッキーが気付かぬうちに盛られていた。
「ありがとうございます。」
わたしはクッキーを一口齧った。素朴な味が口いっぱいに広がって、自分でも唇が緩んでいくのが感じられる。
「さて、本題ですね。あなたがどうして、この場所にやってきたのか、ですけれど……。」
軽く目を伏せた後、館長はわたしの目をまっすぐ見て言った。
「私にも皆目分かりません。ごめんなさい。こんなこと初めてなんです。本当に、申し訳ありません。」
こればっかりはしょうがないだろう。ここで怒っても、わたしが家に帰れるわけではないし、疲れるだけだ。
「いえいえ、あなたがそこまで謝る必要はないですよ。だって、あなたがここにわたしを連れていたわけではないんですし。……そうですよね?」
「はい。私があなたを見つけた事情から話しましょうか。私は今日、博物館の企画展で展示するための花を採取しようとあの場所に向かいました。」
わたしはハーブティーを啜る。口で香りを感じるような、不思議な感覚だ。
「そこで、あなたが倒れていたのを見つけました。私、こんなこと初めてで、どうしたらいいか分からなかったんです。急いで戻って、いつものリュックサックに救急セットを詰めて、あなたの元に戻りました。」
「そして、目が覚めたわたしを見つけた、と。」
「はい。その通りです。」
物憂げな瞳が嘘をついているように、わたしには到底見えなかった。
「ですが、私に出来ることならなんでも致します。しばらくは私の技術を使って、あそこを解析してみます。それまであなたは、うちで暮らしてください。」
「そんなこと、できるんですか?というか、わたしは帰れるんですか……?」
「私には分かります。長年ここで暮らしてきましたから。絶対にあの状況は不自然です。それに、あなたを見つけた時、私は感じたんです。何かのテクノロジーの痕跡を。これは私の直感ですけどね。」
強い意志を感じる。しっかりしていそうな人だし、しばらくは「解析」とやらをお願いしてみよう。
「じゃあ、しばらく厄介になってもいいですか?お手伝いできることなら、わたしやります!」
「ええ、もちろん。できれば博物館の手入れ関係や受付をお願いしたいですね。」
「分かりました。」
こうして、わたしと館長の共同生活が幕を開けたのだった。
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「おはようございます、館長。」
「おはようございます。今日もいい天気ですね。」
郷での暮らしは今日で一週間になる。館長はここを「郷」と呼ぶので、わたしも郷としか呼ばない。具体的な地名は、聞いたことがない。
あそこで倒れていたわたしの所持品といえば服ぐらい。館長いわく、随分わたしが暮らしていた街からそれはもう離れているところらしい。スマートフォンは外と繋がらないのであまり使わないとのことだった。つまり、連絡手段は何もない。ただ、精密機械のようなものは、郷の技術で郷の中でだけ使えるようだった。
友人や家族に会えないのは寂しいけれど、帰るまでの辛抱だ。「解析」はどうやら無事に進んでいるようで、少しだけだけれど新たに分かったことが館長にはあるらしい。わたしは一度聞いてみたけれど、「これはあなたに伝えない方がいいと私は考えています」と言われた。知らぬが仏、ということなのだろう。
「今日も受付をお願いしたいです。大丈夫ですか?」
「もちろんです。わたしもだんだん慣れてきました。」
「それはよかったです。では、私は今日の採取に行きます。また。」
館長の姿が見えなくなった。わたしは大きく伸びをして、館長が用意してくれた制服を身に纏う。
そして、受付のカウンターに立った。ちりひとつないカウンターがきらりと照明を反射し、お客様を迎える準備ができたことをわたしに伝えてくれた。
しばらく過去に館長がまとめた日誌を眺めていると、ドアが開く音がして、お客様がやってきた。
「博物館へようこそ。」
「ええっと、1人です。」
不安そうな顔をした少女だ。たまに子供が来館する。たいてい親らしき人物は来ないので、初めて対応した時は面食らった。しかも、たまに大泣きしている。
「それでは、ごゆっくりどうぞ。」
観覧料は無料。どうやってこの博物館を回しているのか分からないが、おそらくは郷から補助金を出してもらっているのだろう。
わたしが開館中にすることは基本的にこれだけだ。あとは館長の過去の日誌を読んだり、植物の展示リストを眺めたりするくらいだった。お客様はほとんどがおひとり様で、そう連続して来ないので、暇をするわけではないが忙しいわけでもない。
植物の展示リストを眺めるのは面白い。展示されている植物はほとんどが知らないもので、チューリップとかバラとか、著名な植物はあまりなかった。
「観覧ありがとうございました。」
帰る人がいれば、声をかける。かけてから、また次のお客様を待つ。
「ただいま戻りました。」
そうこうしている間に、館長が戻ってきた。既に採取したものを裏に置いてきたようだ。
「そろそろお昼休憩にしましょうか。」
ここは小さな博物館だ。ずっと館長1人で運営していたので、勤務中にちょっとお昼を食べることくらいは毎日あったらしい。だから、受付係のわたしも食べても大丈夫。そう説明された。まあ、大抵は帰ってきた館長が受付をしてくれるので、わたしはカフェスペースに行って落ち着いて食べられる。
料理はいつも館長の手作りだ。今日はサンドイッチ。色彩豊かだ。
……美味しそうなのに、わたしはあまり食欲が湧かない。普通に会社でデスクワークしていた頃は、つい食べ過ぎていたくらいなのに。あまり動いていないからかな。
それが、わたしのささやかな最近の悩みだ。
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「今日はもう閉館ですよ。お疲れ様です。」
「え、もうそんな時間ですか?」
既に夕日が顔を出している。わたしは受付カウンターから出た。
「今日はわたし、やることありますか?」
解析のため、わたしは彼女に謎の機械で検査されている。正直何が何やら分からないが、大人しく従っている。
「今日は大丈夫です。その代わりに、あなたの1番好きな植物を、ここに書いて欲しいんです。現実になくてもいいんです。理想の植物、みたいなものでも。」
「好きな植物を?」
「はい。私が興味があるだけですよ。次回の企画展を、そういうものにしようと思っているので。」
「なるほど。」
わたしは近くの椅子に腰掛けて、スケッチブックと色鉛筆を受け取った。
「絵、お上手なんですね。突然だったのに、ありがとうございます。」
「わたし、美術部だったんですよ。だから絵は得意なんです。あ、植物も大好きですよ。学生時代は、よく週末にホームセンターに行ってたっけ。まあ、社会人になってからは、植物を育てる余裕なんてなくなったかな。」
ひたすらわたしは手を動かす。すぐ隣から聞こえる、館長の声が心地いい。
「あなたが植物が好きでよかったです。大好きなものにまつわる仕事ができるなら、少しは精神的に楽でしょうから。」
「ですね。」
ちらりと横を見れば、館長はうつむいている。どこか苦しそうな気がして、わたしはどきりとする。
「あの。館長は、学生時代は何をしていたんですか?」
なかなか館長は自分のことを話さない。わたしのことをたくさん聞いてくるのに、だ。
「もっと聞かせてくださいよ、館長のこと。博物館を始める前のこととか。」
館長は思い詰めたかのように黙っている。
「……私の話なんて、聞いたって面白くないですよ。そうだ。スケッチブックの花、実はレプリカとして再現できるんですよ。手触りもなるべく野生の植物に合わせられますし。」
「そうなんですか!?」
わたしは話を逸らされてしまったのを分かっていた。それでも、わたしは今日、それ以上詮索することはなかった。
「昔のことだって、どうだっていいじゃないですか。私の今が幸せなら。」
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共同生活はこれで一ヶ月。わたしの体に、異変が起こっている。
わたしの頭がおかしいのだ。
ここに来る前のことが、あまり思い出せない。任されていた仕事。ハマっていたもの。友達と出かけた場所。全て朧げだ。
なぜ。どうして。わたしはぐるぐると考えているうちに、嫌な可能性に引っかかった。
いや、それは失礼な気がする。だってわたしは、この場所で新しい思い出をたくさん作ったから。
「……どうかしたんですか?」
「はい!?」
「ずっと呼びかけているのに、あなた、ぼうっとしてました。どこか体調が悪いんですか?」
「まあ、少し頭が痛くて。」
「そうなんですか。今日はこれ以上人が来ることはなさそうでしたし、どこか郷のお店でも回ろうと思ったんですけど……やめた方が良さそうです?」
「いや、大丈夫です!」
あまり不安を悟られたくない。わたしは平静を装って、館長に笑いかけた。
「今日はどこに行きます?昨日は雑貨屋を見ましたよね。何か食べますか?まだ行ってないレストラン、あるんですよ。」
「ごめんなさい。わたし、お腹が空いてなくて。」
満腹度は朝からずっと一緒。何も飲食していないのに、わたしは平気だ。食欲だけじゃない。睡眠欲だってなくて、最近はどんどん眠る時間が短くなっている。それなのに頭は冴えている。絶対に、おかしい。
「そうなんですか。じゃあ今日は、また湖の辺りを散歩しましょうよ。」
話す館長は、満面の笑みを浮かべていた。
わたしの元の場所に戻すための研究の報告は、もうほとんどない。
思考がぼやけていく。勝手に、今日のお出かけプランの話に持っていかれる。
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今日で、2ヶ月。
おかしい、おかしいと思いつつも、言い出せない日々が続いた。わたしの体はわたしの知るものからはどんどん遠ざかっていった。
それなのに、館長や郷の人と過ごすのは楽しくて。
みんな朗らかな人だから、わたしが来る前にしていた「理不尽な上司に対して怒る」なんてこともなくて。ひたすらに平穏な暮らしだった。たまに、帰らなくてもいいかなと思うくらいに。
……そんな、ある日のことだった。
「受付さん、すごく楽しかったよ!」
「本当?それはよかった。」
きゃっきゃとはしゃぐ少年が、わたしに話しかけてくる。
「ありがとう!受付さん、ここの名前教えてよ!あと受付さんの名前も!受付さんだけだと変だよ。帰ったらママに伝えるんだ。ママ、に……。」
少年は涙目になる。わたしは彼を慰めようとして、この博物館に名前がないことを伝えようとして。
気づく。
わたしの名前って、なんだっけ。
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「館長。」
「……どうかしましたか?」
わたしたち2人だけになった博物館で、わたしは館長と対峙する。
「あなたは、何を隠しているんですか?」
「隠している、とは?」
館長はいつも通りの凪いだ瞳をしている。
「わたし、あなたに言いましたよね。記憶が曖昧だって。そうしたらあなた、おそらく知らない場所に来たストレスのせいだから、気にするなって。言いましたよね。」
黙っている。
「わたし、食欲も睡眠欲もないこと、あなたに言いましたよね。」
微笑んでいる。
「わたしはもう、わたしの名前を思い出せません。」
ただそこに立っている。
「あなたは、あなたは何を隠しているんですか?ここは、どこなんですか?わたしは、どうなってしまったんですか?」
まっすぐ立っている。
「あなたは、あなたたちは一体、なんですか?」
わたしは見据える。
「館長。」
わたしは。
「ねえ!」
口を開くのがわたしは見える。
「あはは、もう限界ですね。」
乾いた笑い声だった。
「わたしを帰してください。わたしを、返してください。戻してください。お願いです。お願い、だから」
「わたしをこれ以上、消さないで。」
「……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」
館長は、地面にへたり込んだわたしの手を取る。
「あなたのこと、私が責任を持って、帰します。こんなこと、最初からしちゃいけなかった。私が間違ってました。あなたを帰すための解析なんて、要りませんでした。ごめんなさい。」
わたしは、その言葉に何も返すことができなかった。
出発は、今すぐに。
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「この川を渡ればいいんです。渡れば、あなたは戻れます。」
わたしたちはボートに乗っていた。真夜中の静けさがわたしたちを包んでいる。
「こんな奴の言葉、信じろっていうのはおかしいかもしれませんね。」
「……わたしは、信じたかったんですよ。たぶん。」
「どうしてですか?」
「信じるものがないと、不安になるから。それにわたし、館長と気が合うなって思ってたから。」
「そうですか。」
無言で、わたしたちはボートを進ませている。載せられたランタンが揺れて、幻想的にオールを照らす。
「あなたは前に、わたしが博物館を始める前のことについて訊きましたよね。」
「はい。」
郷に来る前の記憶は霞がかかっているけれど、来てからの記憶は怖いくらいに鮮明だ。
「少しだけ、身の上話をさせてください。」
わたしは頷く。館長はそれを見てから話し始めた。
「私、子供の頃から植物が大好きだったんです。気づいたら好きになっていたんです。私が愛情を持って育てれば、植物たちもぐんぐん育っていく。花や実をつけるのが楽しみでしょうがなかった。」
段々と、それは館長の独り言のようになる。
「でも、私は成長して、いろいろなものを見なくちゃいけなくなりました。好きなものも、嫌いなものも。好きなものを、否定するものも。」
わたしは館長の顔を直視できなくなって、川面を眺める。
「好きだけ見ていたかった私は、ここに来る方法を模索しだしました。それで、ようやく訪れられたんです。この理想郷に。あまり褒められた方法ではありませんでしたから、私は大きな力によって、ここで働かなくてはなりませんでした。」
わたしは館長にもう一度視線を移す。穏やかな顔をしている。
「でも、それは幸せなことでした。好きなもので、誰かに最後の思い出を届けることができたんですから。しかし、私は欲張りなんです。」
わたしは館長から目を逸らすことができない。その綺麗な瞳を、オールを漕ぐ手を止めて見てしまう。
「どこかが、欠落していた。それを、あなたが埋めてくれた。」
館長もオールを置く。
「私、ここに来てから初めてなんですよ。誰かと関係ができたこと。」
館長の声が湿気を帯びて、必死に堪えてきたものが壊れそうになって。
わたしは、その手を握った。冷たかった。弱々しい力で、握り返された。
「わたし、楽しかったです。友達と話す時間は、誰だって楽しいものだから。」
「私も、です。私も楽しかった。」
わたしたちのボートは、終わりに向かって進んでいる。
「私は早まりすぎたのかもしれません。」
この時間の終わりが見えた。
ボートは滑らかに船着場にたどり着いて、わたしはゆっくりと川岸に足をつけた。
「その先に門が見えるでしょう。門番が立っているでしょう。話しかければ、きっと対応してくれます。」
わたしは振り返る。館長は手を振った。わたしも、振り返した。
「また、会えますか?」
わたしは堪えられずに言った。館長は、大きく目を見開いて、目を細めた。そして、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「しばらくは会わなくていいですよ。ただ……ずっと先なら、会える気がします。」
わたしは歩きだした。遠くにある、門を目指して。もう館長が嘘をついている気はしなかった。
わたしは叫んだ。
「さようなら!さようなら、館長!」
館長の姿は、もう見えない。
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わたしは飛び起きた。全身の痛みで、すぐに倒れ込んだけれど。
「起きたのね!?」
聞き馴染みのある声。
うまく声が出せない。わたしは今、どうなっている?
「なんでずっと眠ってたのよ、お母さん心配したでしょ……。」
眩しかった視界は落ち着いて、ここが病院のベッドの上であることがなんとなく分かった。
わたしは泣き出すお母さんの手を握る。温かくて、安心する手。
……医者がやってきた。わたしはあれよあれよという間に、治療を受けることになった。
個室を出る前に、ふとサイドテーブルをわたしは見た。
わたしの一番好きな花があった。それから、「渡し忘れていました」と、几帳面な字で書かれたメモが添えられている。わたしには全く、心当たりがなかった。
その花は、なぜかずっと枯れなかった。