自主企画の小説コンテストに出品した作品達をまとめたものです。
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目次
『教室の外の青』
五月の終わり、カーテンの隙間から差し込む陽光が、机の上の教科書の隅を照らしていた。
机には筆箱、ノート、そして開いたままの英語の教科書。でも、そのページはもう何日も前から変わっていない。
|夏目 蒼《なつめ あお》は、そのページをぼんやりと見つめながら、また今日も学校へ行かなかった自分に、胸の奥がちくりと痛むのを感じていた。
不登校になって三ヶ月目だった。
きっかけは些細なことだった。体育のリレーで転んで、笑われたこと。笑いが止んでも、SNSには動画が出回って、変なあだ名までつけられた。笑った子の名前すら思い出せないのに、その時の笑い声だけが、今日も耳の奥で響いていた。
最初は「ちょっと疲れた」と母に言った。次の日は「お腹が痛い」、その次の日は「眠れなかった」。気づけば学校の制服に袖を通すことすらできなくなった。
「今日は、行けそう?」
母の声がドア越しに聞こえる。毎朝の様に聞かれる言葉。優しさと、少しの不安と、ほんのわずかな焦りがにじむ声。
「ううん、無理……」
自分でも、もう何に対して「無理」と言っているのかわからなかった。ただ、あの教室のドアの前に立つことすら、怖くてたまらなかった。
午後になった、近所の公園まで散歩に出た。家の中にいると、胸の中に黒い霧が溜まっていくようで、時々こうして外に出る。
人のいないベンチに座って、空の見上げた。真っ青な空に、ふわりと白い雲が浮かんでいる。何も言わず、何も求めず、ただそこにある空。
「ねえ、君、もしかして中学生?」
声をかけてきたのは、スケッチブックを持った高校生くらいの女の子だった。
「え……うん」
女の子は蒼の隣に座り、スケッチブックを開いて見せてきた。そこには、この公園の風景が鉛筆で丁寧に描かれていた。
「きれい……」
「ありがと。私も、学校には行ってないんだ」
蒼はその言葉に驚いて、思わず顔を上げた。
「え……どうして?」
「うーん、いろいろ。でも、教室の外にも、ちゃんと世界はあるって気づいたよ」
彼女の笑顔は、無理に強がっているわけでと、どこかを諦めているわけでもなかった。ただ、静かに、自分の場所を見つけた人のような穏やかさだった。
その日から、蒼は毎日のように公園に通った。
女の子――名前は|千尋《ちひろ》といった――は、蒼に絵の描き方を教えてくれたり、好きな音楽の話をしてくれたりした。学校では話せなかったようなことも、千尋には不思議と話せた。
「蒼ちゃん、いつか、また学校に行きたいって思う?」
ある日、千尋がそう尋ねた。
蒼はしばらく黙って考えたあと、うなずいた。
「怖いけど……少しだけ、行ってみたいかも。ちゃんと、『今の私』を知ってもらえる人が、一人でもいたら」
千尋は微笑んだ。
「それなら大丈夫。無理に急がなくていい。蒼ちゃんの歩く速度で、ちゃんと前に進んでるよ」
数日後、蒼は母に言った。
「来週の月曜日、学校行ってみたい」
母は目を見開き、すぐに口を覆って、涙ぐんだ。
「本当に……?無理しないでね。行けるところまでで、いいから」
その日、久しぶりに制服に袖を通した蒼は、鏡の前に立って自分を見つめた。
少しだけ背が伸びた気がする。少しだけ、目に光が戻った気がする。
月曜日の朝、教室の前で深呼吸をした。
手のひらには汗がにじむ。心臓がどくどく鳴っている。でも、蒼はドアノブに手をかけた。
――ガラッ。
教室のざわめきが一瞬止まり、数人の目がこちらを見た。
「……おはよう」
震える声で、でも確かに、そう言った。
誰かが「あっ、夏目だ!」と声を上げた。
「……久しぶり!」
クラスメイトの一人が手を振ってくれた。
蒼は、その一言に救われるような気持ちで、ぎこちなく笑った。
教室の空気は、怖いままだった。けれど、その奥に、少しだけ青い空が見えた気がした。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
この『教室の外の青』は、「不登校」というテーマをもとに、"今、どこかで静かに戦っている誰か"の存在に寄り添いたいという気持ちから生まれた物語です。
教室に入ることができない日々。その扉の前で、何度も自分を責めてしまう気持ち。だけど、そんな「止まっているように見える時間」にも、確かに意味があると、私は信じています。
この物語の主人公・蒼もまた、少しずつ、自分だけの速さで、光の方へ歩き出しました。読んで下さった皆さんの心にも、そんな一歩がそっと届いていたら嬉しいです。
本作は、自主企画の小説コンテスト出品作品として執筆しました。作品としての完成度を目指しながらも、読んでくださる一人一人に、静かに言葉を届けるような作品にしたいと願っています。
「誰かの『今』に、物語が寄り添えますように」
そんな願いを込めて。