閲覧設定
名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
一
それは東京のどこかにある工場。人々からは単に「工場U」と呼ばれている。
何の変哲もないごく普通の工場に見えるが、そこで何が行われているかは、そこで働いている者以外誰も知らない。
一人の青年が工場Uの中を歩いていた。
彼の名は三片郁衣という。金と家族が好きなごく普通の男で、工場Uの作業員だ。
工場Uで働く者たちは、職種によって四つに分類される。作業員、清掃員、業者、そして幹部である。
作業員は、工場の中で一番人数が多くありふれていて、しかし一番残酷な仕事を行う。
彼らの仕事は人間の解体である。上からの指示に従って、手脚を切り取ったり臓器を取り出したりする。彼らの仕事はそこまでである。使用した道具や部屋の清掃、解体した人間の処理は行わない。
作業員は冷徹な人間や経済的に余裕がなく追い詰められている人間が多い。ある程度の利己主義と口の固さがなければ務まらない仕事である。
郁衣もその一人だった。彼はそこまで冷徹という訳でも経済的な余裕がないという訳でもなかったが、高給につられてこの仕事に勤めていた。犯罪を犯している自覚はあったが、根の呑気さから深くは考えていない。
郁衣は鼻歌を歌いながら長い廊下を歩き続けた。上からの命令がない限り、工場の中に入れば何をしていてもいいのだ。
郁衣が壁の染みに気をとられていると、誰かとぶつかった。
「おっと。すいません、よそ見してて」
「こちらこそすいません、ごめんなさい」
やけに謝る人だな、と思いながら、ぶつかったその人の顔を見る。赤銅色の髪に桃色の瞳。灰色の作業着から黒いタートルネックが覗いている。落ち着いた雰囲気だが、顔にはまだあどけなさが残っている。歳の頃は十四、五だろうか。少年と呼べる容姿だった。
作業着の胸元に青い横線が引かれている。どうやら彼は清掃員らしい。
工場Uには作業着があり、胸元の横線の色で職種が分かるようになっているのだが、着用は義務化されておらず、大半の者が私服だった。
「君、作業員?」
「はい」
少年は緊張しているのか端的に答えた。あまり人付き合いが得意ではないのかもしれないと思いつつ、職場での友好関係は保つべきだと考えた郁衣は、少し彼と会話することにした。
「俺、三片郁衣っていうんだけど。君は?」
「あ、えっと、加賀沢晴臣…です」
少年…加賀沢晴臣は、おずおずと無表情で答える。これは壁作るタイプかな、と郁衣は勝手に思った。
「清掃員の人にはいつも助かってるよ。ほんと、俺たち作業員じゃああんなに綺麗にできないもん」
「いえ…すいません。俺、もう行かないと」
「ああ、ごめんごめん」
頭を下げて晴臣は去っていった。
「…ちょっと気難しい子かな?」
晴臣の背中を見送りながら、郁衣は頭を掻いてそう呟いた。
晴臣たち清掃員の仕事は、作業員の使用した道具や部屋の片付けや清掃である。彼らの中には元作業員だった者もいる。家政婦としても通じる技能を持った者たちばかりだが、それでもここに勤めているのは、彼らの大半が過去に暗い経験をしており、表の世界で生きるのが難しいからという理由も大きいだろう。
「ま、ここに勤めてる時点で普通の奴じゃないだろうしな」
郁衣が再度呟いたとき。
「やぁ、アヤくん?」
誰かに肩を叩かれた。
二
「やぁ、アヤくん?」
肩に手が置かれている。郁衣は首を少し傾けて声の主を見た。誰かは声をかけられた時点で分かっていたのだが。
癖毛の黒髪に一筋の赤いメッシュ。片頰には絆創膏が貼られ、特徴的な二つ並んだほくろと凶暴なまでに開けた耳のピアスが目を引くその人は。
「なんすか、蓮黒先輩」
先輩の作業員である蓮黒だった。
彼は謎が多い。明るくフレンドリーでありながら、自分の情報を一切見せず、飄々として掴みどころがないのだ。蓮黒というのが本名なのかすら分からないし、年齢も性別も教えてくれなかった。「秘密主義」なのだと言っていつもはぐらかすのだ。
「いやぁ、郁衣くんがボーッと突っ立ってサボっているようだったからねぇ。ダイジョーブ?」
「人を見送ってただけっすよ」
「人ぉ?」
蓮黒は郁衣の肩に、黒い手袋に包まれた手を乗せた。ファッションとしての手袋であろう、指の先が露出している。それおしゃれっすねと郁衣が言うと、蓮黒はふふと笑って応じた。
「ありがと。それで、誰を見送ってたの?」
「あの人…ってもういないか。えっと、清掃員の加賀沢くんっす」
「ああ、オミくんか」
「オミくん?知り合いなんすか」
「うん。この前話した。あの子、無愛想だけど可愛いよねぇ」
「はぁ…」
相変わらずこの人はよく分からない。その思考さえも読まれていそうで、郁衣は首を振った。
「…あの。そこどいてくれません?」
「ん?」
蓮黒が顔を上げた。郁衣も声のした方を見る。
そこには一人の女性が立っていた。
「やぁ、千夏ちゃんじゃないか」
「お疲れ様っす」
「いいからどいて下さい」
「…さーせん」
やっぱ怖ぇな、と思いながら、郁衣は立っていた場所を退いた。蓮黒も肩に手を乗せたまま移動する。女性は郁衣たちを一瞥すると、灰色の長髪を靡かせて通りすぎた。醒めたような青い瞳に自然と背筋が伸びる。
何となく二人で彼女を見送った。作業着に包まれた細い身体が硬く強張って遠ざかる。生活の苦労に揉まれた身体だと郁衣はいつも思っていた。
彼女は名を磯谷千夏という。冷酷な性格で、敬語ながら人を煽るので、後輩に少し怖がられている。食うや食わずの深刻な貧困を抱えており、金稼ぎのために工場Uで働いているらしい。そんな訳だから、以前郁衣がうっかり口を滑らせて「結構金に困って入社する人多いっすよね」と言ったときには「貴方に本当の貧困が分かるんですか?」と散々なじられた。
「…アヤくん、千夏ちゃんのこと怖い?」
「いやまぁ…大声では言えないっすけど。先輩はどうなんっすか」
「自分は全然平気」
「まあ先輩ならそうっすよね」
『三片郁衣。仕事だ。305室へ向かえ』
ふいに放送が入り、二人の会話に割り込んだ。
「あ、俺仕事みたいっす。じゃあ」
「うん、またね〜」
手を振る蓮黒に軽く頭を下げ、郁衣は指定された305室へと歩き出した。
三
指示室に一人の男が座っていた。
街中を歩けば誰もが振り返るような、容姿の秀麗な青年である。長めの白髪を涼しげに分けて黒のスーツを着こなし、黒々とした深い瞳で監視カメラの映像を眺めている。
彼は幹部の九井侑。真面目な性格の上、歳が同じ相手に対しては明るく無邪気な一面もあり、多方面から人望が厚い。
幹部は工場Uにおいて五人存在している。彼らは工場を統括し、従業員に命令を下す。存在自体が秘匿されており、従業員たちは誰一人として幹部の情報を知らず、顔さえ分からない。
侑はそんな謎めいた五人のうちの一人なのだ。
監視カメラには、305室に向かう郁衣が映っている。工場の中には無数に監視カメラが隠されていて、常に従業員の動きが幹部に伝わっている。そしてその監視カメラの映像が集まるのがここ、幹部しか入ることのできない指示室なのである。
カメラ越しに郁衣を見つめる瞳が微かに曇る。既に彼は郁衣に意識を向けてはいなかった。
その目はどこか遠くの、他人に見えない過去を見ている。
彼の瞳の中を小さな子供が通りすぎる。それは彼の弟だ。彼が過去に残した深い後悔。今でも彼の心を抉り、傷つけ続ける苦い思い出。
喉が喘鳴のような音を立てはじめる。侑は首を振って耐えた。やめよう。今は仕事中だ。彼は心の中で呟き、再び監視カメラを睨んだ。
四
「今日は随分と数が多いですね」
数刻前まで人間だった肉塊を段ボール箱に詰めながら、一人の青年が呟いた。
モスグリーンのシャツにクロスタイというシックな格好の上に白衣を羽織っている。髪は輝くような銀髪で、瞳は綺麗な青緑色だ。
彼は透灯怪銘、業者である。業者は作業員が解体した身体の一部や臓器を、クライアントの要望に合わせて袋詰めし、出荷する。クライアントと接することもあり、工場内で唯一副業が認められている彼らは、言うなれば工場の顔だ。
怪銘は表の世界では外科医をしている。彼に治せないものはないという天才的な医師なのだ。しかし彼の心はその名声だけでは留まらなかった。偶然見つけた闇サイトで違法な取り引きを目にし、自分も人知れず違法に臓器を売りたくなったのだった。勿論そんな自分を周りに見せる訳にはいかないので、秘密を知った人間はいつでも始末できるようにと医療器具を持ち歩いている。
「ふふ…僕の天職かもしれませんね、この仕事…」
怪銘は整った顔でにっこりと微笑む。そんな彼に背後から近づく者がいた。
「怪銘さんご機嫌ですね」
「わっ、霧ノ瀬さん。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
怪銘に声をかけたのは、同じく業者の霧ノ瀬結だった。長い前髪の下から二重のくっきりした瞳が覗いている。ほっそりした身体と色を吸い込むような黒髪が、彼女の静かな雰囲気を際立たせていた。
結は表の世界では図書館の司書をしている。いつも微笑んでいて怒らず、誰に対しても優しいが、どこか感情を忘れたようなところがあった。
「この仕事、そんなに好きなんですか?」
「そうですねぇ。僕は楽しいですよ。まあ工場以外の人間には、こんな一面知られたくないですけど。僕の本性知った人は全員始末しますよ。そりゃあね。秘密が世間に知れ渡れば、生活出来なくなるんで」
怪銘はこともなげにそう言った。結は華奢な首を傾げる。
「まぁ…貴方ほど有名な外科医となると、リスクも大きいですよね」
「霧ノ瀬さんは図書館の司書でしょう?どうしてこの仕事を?」
「この仕事を始めた理由ですか…退屈凌ぎというところでしょうか」
「成る程」
怪銘は楽しそうに微笑んで、段ボール箱の蓋を閉じた。結も手近にあった段ボール箱を引き寄せ、作業を始める。
暫く続いた沈黙を破ったのは、快活な女性の声だった。
「遅れましたー!お疲れ様でーす」
「西園寺さん」「お疲れ様です」
二人が顔を上げて挨拶する。やってきたのは彼らの同僚、西園寺柚色だった。
ベリーショートの黒髪にフード付きのパーカーを羽織り、ジーンズを模した半ズボンと黒タイツというラフな出で立ちの女性だ。
柚色は「ちょっとあっちの仕事が長引いてさ」と言いながら鞄を置いた。彼女は副業として殺し屋をしていた。犯罪組織の一員の、プロの殺し屋である。職業上、時間のゆとりや貯蓄などの観点から、闇社会の人間でもできる仕事を探していたところ、工場Uを見つけたそうだ。冷静だが情があり、後輩たちにもよく頼られる存在だった。
「柚色さんって確か殺し屋をなさっているんですよね。どんなことをするんですか?」
柔らかく微笑んだまま結が尋ねた。柚色はにっと笑って答える。
「基本殺しメインだけど、情報収集とかスパイみたいなこともするよ。意外と楽しいもんだ」
柚色は言いながらも慣れた手つきで臓器を掴み、袋に入れていく。怪銘も結も表情ひとつ変えず、臓器を袋に詰め、段ボール箱に入れ、テープを貼る。ひたすら繰り返す。
業者は工場の中でも、他と比べて独立した機関である。故に、郁衣たちのフロアとは、若干雰囲気の差があった。おぞましいことをしているにも関わらず、彼らはどこか和やかで、時間が緩やかに流れている。
談笑しながら、彼らは仕事を進めていった。
五
ここは幹部以下の人間は立ち入り禁止となっている、通称幹部棟。幹部棟には指示室や事務室の他に、幹部たちの自室がある。
その部屋のひとつの中で、青年がコーヒーを飲んでいた。
青年の名は葉黒凪ざくろ。深緑の髪に海のような色の目、首に下げた黄色いヘッドホンが特徴的な男である。オーバーサイズのトレーナーは、その名に冠する通り柘榴のような赤だ。
ざくろはコーヒーを飲み終えると立ち上がった。服の裏に潜ませている短剣が、微かな音を立てる。
ざくろは元殺し屋だった。始末した人間の後処理に困っていたところ、工場Uを知り、今は殺し屋は辞めている。幹部にも副業は認められていないのだ。
「さぁてと。暇だし侑あたりに絡みにいこうかなぁ」
小さく呟いてざくろは部屋を出た。さっき指示室に向かう侑を見かけたので、その近くに行けば会えるだろう。
侑は真面目だが、立場や歳の近い相手に対してはフレンドリーなので、ざくろも気に入っている相手だった。
幹部は情報を秘匿されているので、従業員たちの棟に行くことができない。だからざくろたちの人間関係は幹部五人の中で止まっていた。
ざくろはそれが少し不満である。彼は殺しの対象以外には優しく人好きな性格なのだ。
廊下を歩いていくと、やはり侑がいた。スーツに包まれた背に向かって声をかける。
「おーい、侑!」
「…ざくろか。どうした?」
振り向いてざくろの姿を認めた侑はにっこりと微笑んだ。ざくろは侑の肩に手を回し、彼の手元にある書類を覗きこむ。
「何それ。なんの書類?」
「…あまり大きい声では言えないんだが…従業員の失踪だそうだ」
「失踪ぉ?」
ざくろは眉を顰めて呟いた。侑も険しい顔で言う。
「ああ。こんなことは初めてだろ?まだ幹部以下の人間には知らされていないが、それでも失踪した奴の同僚たちはどうしたって気づくから、話が広まるのも時間の問題だ」
「下手に尾鰭のついた噂が流れても困るしなぁ。そいつ、職種は?」
「作業員だ。人間関係や仕事上の問題があったというような報告もないし、至って普通だった。
それにおかしいのが、俺たちにも未だ失踪の理由が不明だという点なんだ。この程度のこと、すぐに調べ上げられるはずなのに。まるでベールがかかっているように、真相にたどり着けない」
有能な侑が言うのだから、事態は深刻なのだろう。そう思うのと同時に、ざくろはこの生真面目な同僚がまた気を張り詰めていることにも気づいていた。戯けたように言ってみる。
「しっかし、人間ってほんと面白いよなぁ。バカバカしくてさぁ。
せっかく高給な会社に勤められてるってのに、自分から逃げ出すなんてよぉ。俺はそんなことしないぜ?ここが好きだからよぉ。積極的に皆と呑みに行くし」
「まだ逃げ出したと決まった訳ではないがな。それよりお前は呑みたいだけだろう」
言いながらも侑の表情は幾分か柔らかくなっていた。ざくろは侑の肩を軽く叩き、
「俺も調べてみる。あんま無理すんなよぉ」
と囁いた。
「ああ、ありがとう」
侑も微笑み、自分を追い越して歩いていくざくろの背中を見送った。
六
(作業員の謎の失踪ねぇ…)
廊下を歩きながらざくろは考えこんでいた。
侑の言うとおり、今までここから失踪者が出たことはなかった。それに工場の統括人である幹部にすら詳しい情報が掴めないとなると。
(何かあるってのは、ほぼ確実だろうな)
「やぁ。調子はどうだい、ざくろくん」
「ぅおっ…なんだ、響韵かぁ」
いつの間にか廊下の曲がり角から、手を後ろに組んだ一人の男が、ざくろの方を覗いてにっこりと笑っていた。
彼は城崎響韵。すらりとした身体に襟付きシャツを纏い、キャラメル色のコートを羽織っている。このコートは亡くなった恋人のものだという話だ。首と手首には包帯が巻かれていて目を引く。マイペースで自由奔放な性格だが、正真正銘幹部の一人である。
「君が考え事だなんて珍しいね?何かあったのかい?」
「…お前、失踪の件聞いてないのかぁ?」
「ああ、聞いているよ。何の問題もなかった作業員の突然の失踪、だろ?」
「ああ…」
まるで先程の侑との会話を聞いていたかのような答えに、ざくろは曖昧に頷いた。響韵は基本フレンドリーだが、どこか底の知れないところがある。相手の人となりを把握するのが得意なざくろから見ても、響韵という男は掴みどころがなかった。
「これから俺も調べてみようと思ってるけどよぉ、お前の方で何か分かってることとかあったら共有してくれよなぁ」
「そうだねぇ」
響韵は少し考えるように口をつぐむと、声量を少し落として言った。
「これは俺の仮説なんだが…
工場Uには、幹部の更に上の人間がいると思っている」
「何だと?」
ざくろは思わず響韵の顔を凝視した。彼が冗談を言っていると思ったのだ。そこには幾らかそうであってほしいという希望も含まれていた。しかし響韵はどこまでも真剣な顔で続ける。
「今回の件、俺たちに情報が掴めないというところが鍵だと思うのだよ。君や侑くんも当然考えていることだと思うけれど、最高組織の幹部にも事態の全容が分からないなんておかしいじゃないか。俺も独自に調べはしたのだがね、何者かが情報統制を行っているように感じたんだ。あと一歩というところで、掴めない」
「情報統制って…誰がそんなことを?」
「そこまでは分からない。しかし工場Uが、俺たちも知らない大きな何かを隠していることは、ほぼ事実であると思う」
ざくろは唖然として立ち尽くしていた。幹部も知らない何かがある?俄かには信じられない話だったが、この不可解な現象に対して辻褄は合うような気がした。
「…とにかく、俺も調べてみるから。お前も調べ続けてくれよぉ?」
胸にきざした嫌な思いを振り払うように、ざくろはつとめて明るくそう言った。
「もちろん」
響韵は微笑んで頷き、歩いていった。ざくろも急ぎ足で自室へと向かった。
七
今回特にグロ
作業室で磯谷千夏が手袋を嵌めていた。今から仕事をするところなのだ。
目の前には硬直した男の死体がある。しかし千夏は表情一つ変えない。
彼女は死体の横に座り、床に置かれたメモを見た。
「腕2本 胃 大腸」これが今日のクライアントの希望箇所だ。改めて、人の一部が欲しいなんていかれてると千夏は思う。
彼女は完全な金稼ぎのためにこの職についている。特にやめたいと思ったこともない。いや、本音を言うなら、労働なんてする必要がなければしたくない。だから金さえあれば喜んでここをやめるだろう。金さえあれば。千夏にとってその言葉は簡単に発せるものではなかった。
解体器具を手に取り、死体に押し当てる。
(どうして私が)
この瞬間、千夏はいつも思う。
(どうして私が、こんなことをしなくちゃならないんだろう)
死体がゆっくりと切れていく。既に死後何日も経っているであろう死体から血は噴き出さない。
(一生懸命やってきたのに。何で普通に生きられないんだろう。何で私はこんなことをしなくちゃ生きていけないの?)
器具を握る手に力がこもる。
(どうして、どうして私だけ)
普段理性で押し殺している怒りが顔を出す。
誰かに、自分より弱い誰かにぶつけなくては収まらない怒り。腹の中で静かに沸騰し続けてきた憎しみ。
千夏は無我夢中で死体を切り刻んだ。
我に返ると、目の前にぐちゃぐちゃの肉塊が転がっている。千夏は床に座り込んで芒然としていた。
ふいに、静かにノックがされ、ドアが開く。
入ってきたのは加賀沢晴臣だった。
「…誰」
顔を上げずに千夏は聞く。晴臣は室内に漂う異臭に僅かに顔を顰めながら答えた。
「あ、えっと、加賀沢晴臣…です。お片付けに来ました」
「…そう」
清掃員が来たのだから、早く退室しなければいけないことは千夏にも分かっている。それでも圧倒的な心身の疲労から立ち上がれなかった。
いつまでも動かない千夏に苛立ち、晴臣が少し強い声を出した。
「あの。邪魔、です。どいてください」
「…はぁ?」
千夏は鋭く晴臣を睨みあげた。晴臣は肩を震わすが、黙って千夏を睨め返す。
硬質な沈黙が落ちた。
先に動いたのは千夏だった。大きくため息をついて立ち上がり、大股で部屋を出ていく。すれ違いざま、晴臣の耳元に囁いた。
「清掃するしか取り柄がない癖に、随分な態度ですね」
千夏の冷酷な言葉に、晴臣の背筋が強張る。
何か言い返そうと振り返るが、既に千夏は部屋を出て廊下に過ぎ去っていた。晴臣は怒りを抑えるように息を吐いて、清掃に取り掛かった。
八
工場Uの廊下は長く、どこで果てるとも知れない。考えてみれば、この廊下を歩きつめて行き止まりにたどり着いたことがなかったと郁衣は思う。
今回行くように命を受けた305室も廊下の中途にある。微かに残念に思いながら郁衣は部屋に入った。
作業をしながら、郁衣はいつも考え事をしている。家族のこと、金のこと、自分のこと。
切り取った臓器の赤い断面を見て、今度妹に赤いワンピースを買ってやろうと決める。妹がこの前、新しいワンピースが欲しいとねだっていたのを思い出したのだ。
(お前の欲しいもんは、兄ちゃんが全部買ってやるからな。待ってろよ)
妹の顔を思い浮かべながら、郁衣は作業を進める。今回の依頼は中々指示が多かったが、ことのほかすぐに終わった。
それを見はからったように清掃員が入ってきた。
「お、梦来ちゃんじゃん」
「やぁやぁ」
今回の清掃員は柳井梦来だった。ざっくり切った白髪に瓶覗色の瞳をした少女で、耳元には十字架をかたどったピアスが揺れる。口元にほくろがあり、鎖骨が出る服を着ているせいか、ほのかな艶も漂う。
彼女は郁衣の知り合いで、それもそのはず、梦来は元作業員なのだ。
作業員から清掃員に転向する者は一定数いる。その理由は様々だが、梦来の場合は作業員の仕事に飽きたからだった。
「前から気になってたんだけどさ、梦来ちゃんってアルビノなの?目は青だけど、カラコン入れてるとか?」
「あ、何かすまん、アルビノじゃないのよ。染めてるだけで。目はカラコンじゃないよ。元から」
「まじ?いや綺麗な白髪だったからつい。最近の染髪技術って凄ぇのな」
「そうだねぇ」
梦来はこだわりのない笑顔で朗らかに笑った。郁衣も思わず笑顔になる。
彼女の人懐っこさと明るい性格が人を惹きつけ、心を開かせるのだ。
「じゃ、ここ掃除させてもらうよ。ふわぁ、ねム…」
欠伸をしながらも掃除を始めた梦来を横目に、「頼むぜ」と言って郁衣は外に出た。
九
ここは工場Uの休憩室。
休憩室には幹部以下の従業員が自由に出入りしていいことになっている。
白茶けた長椅子に座って、一人の女性がため息をついていた。
「お腹すいた…」
薄い腹を撫でながら呟いている。
彼女は作業員で、名を刻鐘寧夏という。さらさらと自由に流れる黒髪に翡翠の瞳、ノースリーブの黒いタートルネックという出で立ちで、肌の白い涼しげな女性だ。
寧夏がぼんやりしていると、二人の従業員が入ってきた。梦来と晴臣だ。
「お、やっほー」
「あれ、寧夏ちゃんじゃん」
「お、お知り合いですか?」
手を振りあう女性二人に、晴臣が少したじろぐ。梦来がこっくりと頷いた。
「作業員の刻鐘寧夏ちゃん。前清掃に行ったときに知り合ってさ。
寧夏ちゃん、この子加賀沢晴臣くんね」
「ふぅん、じゃあハルくんね」
「はぁ…」
初対面とは思えない気安さで話しかけてくる寧夏に若干気後れしつつも、そうしたニックネームで呼ばれることが晴臣には嬉しかった。
「ていうかさぁ、あんたたち何か食べるもの持ってない?私お昼食べ損ねちゃってさ」
「あー、今の時間じゃあもう食堂閉まっちゃってるもんねぇ」
梦来が首を傾けて言う。工場Uは社食制で、正午から二時まで食堂が開いている。しかし、三時半を過ぎた今ではとっくに片付けが終わってしまっているだろう。
「…あー、ごめん、鞄の中にお菓子入れてたんだけど、今は持ってないわ」
「えー」
ポケットを漁った梦来が首を振った。寧夏は残念そうな声をあげる。その様子を見ていた晴臣は、ポケットを少し探り、小袋を取り出した。
「…食べますか?おいしいですよ」
「えっ、ハルくんいいの?」
寧夏がぱっと顔を上げる。晴臣はかすかに微笑んで頷き、小袋を差し出した。
晴臣が取り出した小袋は、市販のグミだった。小袋一杯に桃の絵が大きく描かれている。
「えー、ありがと!」
「いえ…」
寧夏が縁を破ってグミを取り出す。桃の良い香りが休憩室に漂った。
「なんかファンシーな匂い」
「ね。仕事はあんなにグロいのに。
てか寧夏って、何で作業員になったの?」
「そうね。まぁ、この仕事面白そうだったし。スラム街居たから死体とか慣れてるし」
「えっ…」
晴臣が驚きの声を上げる。寧夏はその反応を見てくすくす笑った。
「冗談よ。ブラックジョークってやつ」
寧夏は愉快そうに口角を上げ、グミの最後の一つを口に放りこんで立ち上がった。
「じゃ、ハルくんグミありがとね。私そろそろ行くわ」
ひらりと休憩室を出ていく寧夏を横目に、梦来は仕事の疲れを取るように伸びをし、晴臣はカップに給湯器の茶を注いだ。
残酷な仕事をしているといえども、休憩室には普通の会社と変わらぬゆるやかな時間が流れる。清掃員二人は暫く休憩室で骨を休めていた。