眠れない夜にお勧めしたい小説たちです。
深夜の静寂の中、読んでみてください。
続きを読む
閲覧設定
名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
眠れない夜は珈琲を飲もう
ごろん。ベッドの上で寝返りを打つ。豆球がついた仄暗い部屋の中で壁時計を確認する。午前1時2分。毛布に入ってからかれこれ2時間は経った。
限界だ、とベッドを下りる。すると、どうやら僕のぬくもりが消えたことに気づいたらしい。一緒に寝ていた黒猫が目を開けた。ゴロゴロ…と僕を呼ぶように鳴いている。
「ごめん、また戻ってくるから」
笑いながら頭を撫でてやると、満足したように毛布に潜り込んだ。
---
リビングに下りて、電気をつける。台所に入って、戸棚からコーヒーサーバーとドリッパーを取り出した。
眠れない夜に最近始めたのが珈琲を淹れること。僕は普段からガンガン珈琲を飲むので耐性がつき、眠れなくなるなんてことはない。珈琲を淹れる。その響きが何となく大人っぽくお洒落で、やってみたら意外と楽しかった。勿論初心者なのでいきなりプロのような難しいことはしない。しかし、おいしく淹れる方法なども調べて試行錯誤している。
ペーパーフィルターを一枚取り、互い違いに折る。ドリッパーにセット。それから計量スプーンできっかり3杯分の粉を入れる。そしてドリッパーの側部を軽くたたき、粉の表面を平らにした。このひと手間で珈琲がぐんと美味しくなる。と勝手に思っている。
沸騰が収まったお湯を粉が湿る程度に注ぐ。そして数十秒蒸らし、粉の中心めがけてお湯を注いだ。ドリッパーを外し、カップに珈琲を注ぐ。洗い物は水に浸けておいて明日の朝に洗うのだ。
良い香りが立ち上る珈琲を、リビングのテーブルに運ぶ。ソファに座って、読みかけの文庫本を開いた。本を読みながら自分で淹れた珈琲を飲む。至福のひと時だ。
「|透馬《とうま》、また眠れないの」
「平気だよ、心配しないで」
リビングのドアから顔を覗かせたのは、同棲中の恋人だ。僕が夜中、こうやって珈琲を淹れていると、どうしてか気づいて下りてくるのだ。
不安げな顔をしていた七奈だったが、僕の手元を見てぱっと表情を変えた。
「え、その本って」
「あぁ、気づいた?七奈が欲しがってた本。きちんと七奈のぶんは別にあるから安心して」
「え、え、|榛名宜《はるなぎ》レフ先生の新作………!!」
七奈は読書家だ。有名な文豪の小説はもちろん、気になった作家はとりあえず一冊読むことにしているらしい。その中でも七奈のお気に入りの作家さんは榛名宜レフ。恋愛から推理系まで何でも書ける器用な作家さんらしい。
「ねぇ、隣で読んでいい?」
「もちろん、そういわれると思って珈琲も淹れておきました」
僕は立ち上がって台所へ向かう。七奈の分のカップを手に取り、リビングへ運ぶ。どーぞ、と七奈の前に珈琲を置くと七奈は陽だまりのような笑みを浮かべた。
「おいしそう!珈琲を飲みながら本を読めるなんて幸せ…!」
「分かる。この時間が過ごせるなら別に不眠症でもいいかなって思うわ」
「それは透馬の体調が心配だから駄目」
七奈が心地の良い笑い声を立てる。それはとても優しくて、可愛らしい笑い声だった。
君は珈琲を飲みながら本を読む時間が幸せだといった。
でも、僕が最高に幸せだと思っているのは珈琲を飲みながら本を読む時間ではない。
君と一緒にいられる時間だ。
この声が聞けるなら、別に不眠症でもいいかなって。
そう思ってるのは、内緒。
「おやすみ、」
『ひなぁ』
「どしたの、|未海《みみ》」
『まだ起きてる?』
「返事したじゃんw」
私は携帯から聞こえる、眠そうな声に苦笑した。未海も確かに、と言って笑う。一人きりの部屋に二人分の笑い声が咲いた。
私と未海は同じ高校に通うクラスメートだ。お互い一人暮らしということもあって、毎晩寝落ち通話をしている。と言っても二人とも不眠症なので結局明け方まで話している。今だってもう午前4時だ。きっと5時までこうしているのだろうな、と比奈は思った。
『ねぇ…比奈…』
「なぁに」
『昨日ね、親に言ったの……バイセクシュアルのこと』
未海は|両性愛者《バイセクシュアル》だ。バイセクシュアルとは男性と女性の両性に対して恋愛感情を抱き、性的に惹かれる性的指向のことを指す。
友達になり暫くした頃、未海はこのことを教えてくれた。親が同性との恋愛を認めてくれなかったから一人暮らしを始めたことも。
『そしたらね、烈火みたいに怒っちゃってさ。もう家帰ってくるな、だって』
「……それは」
『もうさ、笑っちゃうよね。なんで娘がバイセクシュアルだったら家に帰っちゃいけないのかな。意味不明じゃん。理不尽じゃん』
そう言って未海は笑った。笑いながら、声は涙で震えていた。喉の奥で、悲しみと怒りと失望が揺らいでいた。そういう声だった。
「大丈夫だよ、未海は悪くないよ。」
私がそっと呟くと、未海は耐えきれなくなったのか小さな声で啜り泣きを始めた。しかし段々と声が大きくなり、やがてうわああんと子供のように鳴き始めた。
自分から進んで家を出たとはいえ、やはり家族だ。自分の気持ちを、感情を認めてほしいという思いはあっただろう。だからこそ本当は隠したい事実を話した。しかし実際は、認められるどころか家の敷居をまたぐことさえ出来なくなった。その悲しみは私では測りようもなかった。
私は未海の頭を撫でられない。ぎゅっと抱きしめてあげることもできない。ただ電話越しに、未海が落ち着くのを待った。出来るだけ寄り添えるように、電話を耳に近づけていた。
『私…一生こうなのかなぁ、皆から変って言われて、避けられるのかなぁ』
「そんなことない。皆いなくなっても、私だけはいるから。絶対、傍にいる。」
『……有難う……比奈……』
暫く涙声が続いていたが、そのうち泣きつかれたのか寝息が聞こえてきた。
きっと未海は今まで大変だったのだろう。周囲から嫌悪の目で見られ、ある者は上っ面だけの軽い同情さえ見せる。家族にさえ自分の気持ちを分かってもらえず、誰にも自分の本音を話せなくなる。
そういう気持ちは、よく分かる。
私も《《同じだから》》。
きっと未海はこれからも苦難の連続だろう。死にたいと思うことが何度もあるだろう。それでも、今電話越しに聞こえる未海の寝息はとても穏やかだった。
せめて、今だけでも安らかな時間を。
「おやすみ、未海」
ただ、優しい言葉が欲しい
深夜24時。開け放した窓から冷たい空気が入り込んでくる。一人きりの乱雑な部屋で、ただ画面をスクロールする。投げ捨てられたセーラー服に窓から入ってきた葉が付いた。静寂に包まれた夜であっても、ネットは賑やかだ。SNSはコンビニと同じく24時間大繁盛。
『久しぶりにお絵描き配信しまーす
ぜひ来てください✨』
『ララリスの、コインが、尽きる、課金するしかない泣』
『マジで頭痛い』
次から次へと流れてくる人の日常、非日常。全部見ていたら頭がパンクするんじゃないかと思うぐらい多い投稿。そんな中、少しくらいこんな投稿が混じっていても誰も気にしない。
『死にたい、誰か助けて』
優しい言葉が欲しくて投稿したのだろう一言。
その1行だけの投稿はすぐに別の誰かの投稿にかき消されて消える。投稿者の垢名を見た。××@病み垢。なるほどなと思う。自分の薄汚い、暗い部分だけを見せるアカウント。光が照らされたところでは出せない自分を出すアカウント。
私も持っている。というか、私にとってはSNSそのものが素の自分を出せる場所だ。死にたい。そんな投稿はもう何万とした気がする。毎日コメントチェックして、DM確認して。私を助ける意思がある人がいるかどうか、探している。
死にたいなんてセンシティブな投稿に、どう反応を返せばいいのか困る人は多いと思う。しかしこれに関しては、私は明確な答えを持っていた。
『お願い、死なないで』
この言葉。
これを送ったら私の何を知って死にたい意思を否定するんだとか。いろいろ言われるかもしれないけど、私はこれで嬉しかった。
何故なら私はただ生きていることを認めてほしいだけだから。
たった4文字。画面の中に封じ込められたその1行に|縋《すが》って私は息をしている。
何もしていなくとも存在が否定されているように感じるのは、多分、私の|精神《メンタル》が弱すぎるせいだ。誰かの舌打ち、蔑むような笑い声。何回聞いても慣れないひそめた声。
社会じゃきっとよくある話なんだろう。実際そう言われたし、そう思う。でもそういう痛みが最近重みを増して心を占領している。胸が痛いってこういうことなんだろうか。ずきずきというよりは、ずっしり。重たさと暗さを強めながら日に日に大きくなっている。
そしてそれに伴うように、空っぽな死にたいの投稿も増えた。誰かに否定されたように感じた、その分だけ肯定してもらえないと私の精神が持たない。
そんな、気持ちの悪い体になってしまった。
でも中身のない投稿の分だけ中身のないコメントが増えていく。認めてほしい。その思いで死にたいを投稿すれば、批判的なコメントが募っていった。
『病みアピ多すぎwww』
『誰かに構ってほしいんだよね~うんうん、分かる分かる』
『死ぬ気もないくせに死にたいとか笑えるw』
考えてみれば当たり前だった。実際死ぬ気はない。死ぬのが怖いから。構ってほしい。認めてほしい。全部言う通りだから正論が返ってくるのは当然だった。
なのにそれが辛かった。私を認めてくれるはずだったSNSで、誰も私を認めてくれなくなったように感じた。お願い、死なないで。初めて死にたいを投稿にした日。そう反応してくれたあの人はもうどこにもいない。私が生きていることを望む人はいない。
初めて本気で死にたいと思った。
開けっ放しの窓から眼下の夜景を見た。32階から見る暗闇は綺麗だ。街の明かりが空に浮かび上がり幻想的に映っている。
この暗闇に飛び込んでしまえれば楽になれることは知っている。なのに一歩踏み込む気が出なくてだらだらと生きている。
ただ、優しい言葉が欲しい。
身勝手な独り言は美しい星空に吸い込まれた。
僕は爆弾
--- 僕はこのクラスの爆弾だ ---
暖かい日差しが入り込む、窓際の席。思わず眠たくなってしまいそうな穏やかな午後。爆弾である僕は、今日もひっそりと休み時間を過ごしていた。
突然だけど、もし君の学校に、突然爆弾が現れたら君はどう過ごす?
避ける。
逃げる。
周りの人間に注意を促す。
いろいろありそうだ。選択肢は多い。しかし、それらすべてはが爆弾の存在を否定するものだ。
そしてこの教室にとって、僕がそういう存在だった。
僕が歩けば皆がさっと避ける。まるで自分に向かって爆弾が転がってきたような、恐怖の表情を浮かべながら。
僕が誰かに手を伸ばせば、爆弾が爆発したかのようにビクッとする。
怖いもの見たさか知らないが、僕のことをいじめて遊ぶ者もいる。
僕は孤独だった。皆に避けられ、煙たがられ、いじめられ。何が原因で、どうしてこうなってしまったのかわからない。昔は確かに人間のはずだった。話してくれるクラスメートがいたし、遊んでくれる友達もいた。なのにいつからか、僕は爆弾になってしまった。
意志を持たない無機物として扱われる苦しみ。それはとてつもなく膨大な恐怖だ。僕の意見に耳を傾けてくれる人間はいないし、僕の声も表情の一つも彼らには伝わっていない。もうやめてくれ。そんな言葉は届かない。だって僕は、人間じゃないから。彼らとの意思疎通が不可能だから。僕が爆弾から脱却しない限りこの関係は終わらない。
明日も、明後日も。この学校生活が続く限り、永久に。
僕は時々、ふとこんな想像をする。
もし僕がこの教室でいきなり爆発したらどうなるのだろうと。
今までそんな素振りも見せなかったのに、急に爆発すれば皆驚いて声も出せなくなるだろう。間違いなくその光景を間近で見た者の精神には大きな影響を与えるはずだ。床に伸びる血液。光を反射しなくなった瞳。
その瞬間、僕は爆弾ではなく《《一人の人間に返り咲くのだ》》。
---
冷たく黙す無機物としてしか扱われてこなかった。ずっと僕は、このクラスでただの爆弾として過ごしてきた。
でも、もうやめだ。僕は人間だ、生き物だ。
その叫び声をようやく上げることができた。胸のつかえがほっと取れた。
銀色にてらてら光るナイフを取り出す。僕を見たクラスメートに驚愕の色が広がった。ナイフに反射した僕の顔は、とても輝かしかった。
人間として僕を扱わなかった|無機物《クズ》どもに最大の憎しみをこめて。
今、命を投下する。
神様、一生に一度のお願い
「お前、何願うの」
「言ったら叶わないんだって」
「秘密主義な奴」
初詣でもないけど、友達と一緒に神社に来ました。
僕と友人は神社巡りが趣味でよく一緒に出掛ける。僕は神社が好きなんて古臭いと思って人前じゃなかなか言えなかったけど、友人は真逆で自己紹介で堂々と言ってしまうような性格の持ち主だった。古風でかっこいいじゃん、なんてさらりと言えるのが良いなと思った。
友人が五百円を投げ入れる。金持ちめ、とからかうと富豪だからな、と悪ノリしてきた。
「五百円かかっても叶ってほしいことなの」
「なにそれ」
「好きな子とキッスしたいの」
「うわ」
僕の引いた視線を受けても友人は全くひるまない。それどころかはは、と軽く笑い飛ばした。明るい色のシャツがふわりと風にはためいた。
「いいじゃん、青春で。青い春ってやつ」
「今おんなじこと二回言ったよね」
チャリーン、と賽銭箱の底で硬貨の音がする。こちらを向いてお前はいくらよ、みたいな顔をしてきた。にやにやと口の端を緩める友人を横目に、僕は財布から一万円札を取り出した。
「おぉ、これはまた強気な」
「お盆の臨時収入だから」
「富豪じゃん」
僕はお札が飛んでいかないように、賽銭箱の隙間近くで手を離した。するり。ひらひらと落ちていくかと思ったお札は案外素直に箱の底に沈んでいった。ちゃりんとも、紙がこすれる音もしない。こんなのが、硬貨より価値が高いなんてね。
ガラガラと盛大な音を立てて鐘を鳴らし、友人と足並みを揃える。二礼。そこにいらっしゃる神様への敬意と感謝をこめて。二拍手。強く強く、ただ願いだけを心の中で念じる。神様に届くように。
強く、ただひたすらに強く。
強く。
強く。
「…おい」
「………………に」
「は?ちょ、後ろに人いるから。」
顔を上げる。そして深く一礼をし、足早に立ち去って行った。
「聞こえてたか?そりゃ一万円分きちんと願いたい気持ちはわかるけどよ」
「そうだとも、じゃないと損だろ」
「まーな。…んで?何願ったの」
「だから言ったら叶わないんだって」
「あそ、じゃあ聞かないでおいてやるよ」
あーあ、キッスできるかな~。なんて能天気なことを言っている友人は、相変わらず何を考えているか分からない。本当にキッスのことを考えているようにも見えるし、僕の考えていることなんてお見通しという表情にも見える。
だから聞いてみた。
「ねぇ、僕が今何願ったか予想つくの」
友人は不意を突かれて、足をぴたりと止めた。まさかそんなこと聞かれると思ってなかった、といった表情で口を半開きにする。そこから漏れたあー、という声は何とも間抜けだった。
暫く黙っていた友人は目を下に向けるとようやく話した。
「…どうだろな。お前が自分から言わないと分かんないけど、お前が言いだしそうにないってことだけは分かる」
「…へー」
この返答は。
「一番返しづらいからやめてよ」
「いやいや、最初こっちが困ったわ。なに言えばいいんだよ、みたいな」
「今そんな感じだから」
何だよ、と再び笑いあう。きらきらと眩しく太陽が輝いていた。それはまるで煌く未来を示唆しているようだけど。
お天道様、僕の心。分かっていらっしゃいますか。
分かっているのなら、曇ってください。
そう思うけど太陽は眩しい光を振りまくだけ。
一万円入れたんだけどな。そう、苦笑する。
どうか、此の世にない神よ。
一生に一度のお願いです。
僕を、死なせてください。
一番にしてくれないくせに、一番を望むなんて。
君は可愛い人。
「あ、そーいえばね、昨日道の端で三毛猫を見つけてね」
そんな些細なことを凄く嬉しそうに話す。
君の笑顔が、僕は好き。
楽しそうで、泡がはじけたように軽やかで、傍にいるとこちらまで微笑んでしまいそうな。君が笑っていると僕まで幸せな気持ちになって心に余裕が生まれる。周りの人にも優しく出来る。
僕が優しい人でいれるのは、君がいるから。
君は優しい人。
「最初は野良猫かなって思ったんだけど、その子首輪ついてるし、迷子っぽくて」
名前も知らない猫のために、三十分もかけて交番まで歩いたんだね。
君の優しさが、僕は好き。
君は何も猫が好きとか可愛いとか、そんな一時の感情で動くわけじゃない。人にも犬にも、そこらへんを這いつくばる虫にも分け隔てなく接する。困っている人がいたら放っておけない。慈愛に満ちた君。
そんな君が、僕は好き。
君は鈍い人。
「預けてずっと待ってたんだけど、駄目で。帰らないといけないから交番を出たらね、|莉奈《りな》ちゃんと会ったの」
君が莉奈ちゃんの話をする時、僕が顔をしかめてること。気づいてないのかな。
君の鈍さが、僕は嫌い。
君はいつもそうだよね。人の気も知らないで他の友達の話を平気でする。それも、凄く嬉しそうに。僕と一緒にいるのは楽しくないの?だからそうやって僕の前で僕じゃない名前を出すの?鈍いという漢字は純粋の純。
僕は、純粋さが嫌い。
君は無自覚な人。
「その子、莉奈ちゃんのご近所さんの猫だったの。それで、莉奈ちゃんが持って帰ってくれてね。朝に『猫返せたよ!マジでありがと!!』ってLINE来て。普通私の方が感謝しなきゃいけないのに、莉奈ちゃんてばほんとに優しくて」
あーあ、もう。最近そればっかり。
君の無自覚さが、僕は大嫌い。
莉奈ちゃん莉奈ちゃんって。口を開けばそう言う。僕は束縛主義ではないけど、こうも他人の名前を出されると流石に腹立たしい。僕といるのがそんなに嫌なのか。そう毒づいてしまいたい。感情をそのまま口にできれば、どれほど楽か。でもそれは出来ない。どんなに苛立っても、君に嫌われるのだけは避けたい。君のことが嫌いだと思う時もあるけど、やっぱり好きだから。
でも僕は君の無自覚さは大嫌い。
---
横断歩道に差し掛かる。僕と君はいつもここで別れる。信号が赤から青に変わったら、この思い悩む時間も終わりだ。夕焼けに照らされた緑色が、最近は嬉しくもある。
信号を待つ間、君はぽつりと言った。
「誰かの一番になりたいなぁ」
僕は耳を疑った。
「他の誰もいらなくて、私だけを望む人。私がいたらそれだけでいいよって人」
そうして君は、何かを誤魔化すように笑った。
「そんな人いないんだけどね」
信号が赤から青に変わる。君は顔を上げた。横断歩道に向かって一歩進む。新品のローファーが西日に照らされて鋭く光った。
「ごめんね、こんな話。じゃあまた明日ね」
曖昧に手を振って前へと歩き出した。僕はその場に立ちすくんでいた。君の声が頭の中をリフレインしていた。
--- 誰かの一番になりたいなぁ ---
僕は心の中で叫んでいた。
そんなこと、思ってもないくせに!!
君は傲慢だ、傲慢だ、傲慢だ、傲慢だ傲慢だ。
君の言う誰かは誰かじゃない。
もう、心に決めている人がいるのに。思い浮かべている人がいるのに。
“誰か”なんて言葉で誤魔化して、僕を騙して、またそうやって欺くんだろう。
もう、疲れた。
「一番なんて…っ」
僕を一番にする気もないなら、僕の前でそれを言うな。
君を一番にしている僕が、報われてくれないじゃないか。