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目次
箱庭魔法 #1
止まない雨。鳴かない鳥。静かで、儚くて、とても美しい。
ガラスを冷たい雫が伝う。合わさって、溶け合って、最後には諦めたように落ちていく。そんなつまらない光景を幾度となく見つめる。
どうして?
私は『それ』が面白いと思ったから。
「矛盾しているわ。」
ポツ、ポツ、ポツ。窓の外の雨音はやけに煩く耳の奥にこだまする。何処からか言い放たれたその言葉に、窓辺に座っていた少女は静かに振り向いた。それと同時に止められた手の先には、年季の入ったボロボロの本のページがある。
「矛盾、そうだね。確かにそうかもしれないね、《《シェイクスピア》》。でも、こんなくだらないことに面白いという感情を抱けるなんて凄いことでしょ。矛盾という言葉は似合わない気もするな。」
シェイクスピア、と呼ばれた1匹の白猫は、ふぅっとため息をついて窓辺のテーブルに飛び乗った。
「貴方自身が変わっているのよ。リンネ。だから街の子供達に馬鹿にされるの。」
そう言うと、シェイクスピアはつたない足取りで少女リンネの方へ向かう。テーブルの上はやけに汚く、万年筆のインクや何かを書きかけたような紙が乱雑に置いてある。それを避けようとして、シェイクスピアはすぐに諦め、ぐいっと押し付けた。
「ちょっと、あんまり踏まないでよ。次に書く話の内容を考えてたんだから。」
「ここに置いた貴方が悪いわ。…そんなに気になるなら、外へ出て子供たちと遊べばいいのに。」
少女は目をくっと見開いて、もう一度窓を見る。
「…ふぅ。」
ガタ、と音を立てて、リンネは立ち上がった。読みかけの本をテーブルに置き、髪をたくし上げて手でいじる。白い服に白い肌、全身が真っ白な淡い少女だった。
「そろそろお昼かな。買い出しに行ってくるよ。今日は何にしようかな。トマトが安かった気がする。」
そう言って、リンネは側にあったバッグをぐいっと引っ張って取っていった。冷たい裸足が木目のついた床に音を響かせる。辺りは雨が降っているせいか薄暗かったが、窓からどこからか光が差していた。天気雨だろうか。
少女は頭に小さな大理石でできた飾りをつけ、無機質なワンピースに着替えて家を出る。透明な傘、といってもビニール傘じゃない、キラキラした宝石のような傘を差して家の門を押した。
ポツポツという音が聞こえるはずだろう。けれど雨が傘に当たって鳴る音は、ポツ、という音ではなく、パキ、というような、ガラスが当たって割れるような、そんな音だった。
魔法。これは魔法だ。何もかもがキラキラ輝いて、まるで宝石のように。
少女が踏んだ水溜まりも、目に入ると眩しいほど美しく輝く。彼女の動作ひとつひとつが輝いて見える。
「これをください。」
そう言って、リンネはトマトとお金を差し出した。母親に店番を頼まれたのか、小さな少女がひょこっと顔を出す。リンネの手からそれを受け取ると、何も言わずに袋に詰めて、さっとリンネに押し返した。
その態度と仕草に、リンネが思わず見つめていると、少女はやがて小さな声でこう言った。
「キラキラしてて、魔女さんみたい。」
その少女の目はキラキラと輝いていた。その目を見て、ふっとリンネは小さく笑うと、トマトをバッグに詰めて去っていった。
「こんなこともあるんだ。綺麗だね、あの子の目。」
「お母さん、聞いて。今日、魔女さんに会ったの。凄くキラキラしてたの。」
「あの女の子に会ったの?ダメよ、あの子に近づいちゃ…。」
「…どうして?」
「《《館》》の子よ。あの家には魔法使いが住んでいるって…。」
「おかえり。思っていたよりも早かったね。」
箱庭魔法 #2
「おかえり。思っていたよりも早かったね。」
「うん、雨が降っていたからね。館を出てからずっと降っていた。おかげで服が少し濡れてしまったよ。靴も泥だらけ。」
少女はトマトやりんご、その他野菜が詰まった籠を机のそばに置くと、ふわっと白猫の背中を撫でるように触れ、背伸びをする。
「さて、何を作ろうかな。そうだ、ミネストローネにしよう。それがいい。」
大丈夫、君の分は別で作るよ、と小声で言うと、リンネは冷たい足を動かしてキッチンへ向かう。
慣れた手つきで野菜を切り刻み、音を立ててコトコトと鍋を煮込んだ。キッチンは別の部屋にあるので、シェイクスピアからはその様子が見えなかったが、リンネが楽しそうな顔をしていることだけは目に見える。
少女とは長い間、共に暮らしている。森の奥にある大樹が、大きな館の背を軽く越す様子を見ていられるくらい。要は千年ほどだ。
少女の外見はあの日出会った時から何一つ変わっていなかった。白くて長い髪も、身につけるものも、性格も。勿論それはずっと傍にいたシェイクスピアだけが知っていることである。白猫もまた、彼女と共に長い年月を過ごしてきたのである。館の本棚に、今の人間では解読できない「古語」で書かれた本があるのが、その証拠であった。
「最近ね、古語と現代語を混ぜ込んで、少し私なりに独特の《《癖》》を加えた、新しい言語を作ってるんだよね。」
シェイクスピアが机の上の乱雑な紙とその内容を見つめていると、リンネがそう言いながら手に鍋を持って戻ってきた。鍋の中からは、トマトやじゃがいもが調味料と混ざり合った、暖かい香りがする。その後に盆に乗せて運ばれてきたスープから、シェイクスピアが嫌いな玉ねぎの匂いは微塵も感じられなかったためか、白猫は椅子から飛び降りてリンネに駆け寄る。
リンネは持ってきた木の皿にスープを注ぐと、机の上の紙を適当に片付けて置いた。湯気が立つ暖かいスープを口に運ぶ。外は雨が降っているので、その効能はより少女の体の芯に染み渡る。
「うん。上出来だ。」
リンネがくれたミネストローネ風のスープをぺろりと平らげると、シェイクスピアはそこらじゅうに散らばる本や物などお構いなしに駆け出して洗面台へ向かった。
戻ってきた頃に、リンネはいたずらっぽくニコニコ笑って言った。
「利口な猫だな。街の人たちが君をみたらどう思うだろうね。サーカスに売り飛ばされてしまいそう。」
「喋る猫なんて要らないでしょう。不気味がるに決まっている。貴方と同じね、魔女さん?」
少女は顔をほっぺをむっと膨らませる。鍋の中にはまだスープは残っていたが、皿は空っぽになっていた。
「君もそんなことを言うのかい!私をあまり知らない街の人たちが私のことをそう言うのは分かるが、長い間一緒にいた君が…。
いや、ごめん。その通りだよ。私は魔女。みんなそう思っているからね。目を背けていると、肝心な声が聞こえなくなるものだね。」
シェイクスピアは目を閉じて、そこに静かに座った。リンネは数秒そこでじっとしてから、鍋や皿、カトラリーをキッチンへ運んだ。元の半分くらいに減ったスープを大きな椀へ移すと、ラップをビッと引っ張って貼り付け、冷蔵庫に入れる。閉まる音がすると同時に、さっきのことを忘れたような屈託のない笑顔で、シェイクスピアに向かってこう言った。
「雨が止んだよ。どうせなら街に散歩に行かない?」
目は輝いている。
少女と白猫は、雨上がりの静かな街を歩く。