甘いマスクは、イチゴジャムがお好き
編集者:ビス@R18/R18G
【R18G】人間の顔面にはり付いて、その者に成り代わる〝マスク〟という存在を、見つけて排除するのが仕事の特殊捜査局の、梓藤冬親の日常です。※サクサク人が死にます。ブロマンスよりです。
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目次
【一】開けっぱなしの遮光カーテン
遮光カーテンの合間から、朝の日射しが入ってくる。
片側を開けたまま眠ってしまった、昨夜の自分を呪う。
今日は折角の非番だというのに、結局はいつもとほぼ変わらない時間に目を覚ました。|梓藤冬親《しどうふゆちか》は上半身を起こし、不機嫌さを露わに眉間に皺を刻む。
艶やかな金色の髪と、青色の形のいい目をしている梓藤は、警備部特殊捜査局第一係の主任をしている。現在二十七歳。大学卒業後に警察学校で学び、すぐに特殊捜査局へと配属された。移動は一度もした事がない。だが周囲が次々と殉死していくため、自動的に昇進していく。
ベッドから降りて、上に着ていた白いTシャツを脱ぎ捨てた梓藤は、百七十二センチのそれなりに筋肉のある体で、一度背を反らして天井を見上げてから、キッチンへと向かった。冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、キャップを捻る。すると冷ややかな水が、喉を癒やしてくれた。
それから鏡の前へと向かい、手に水を掬って顔を洗い眠気を覚ます。
彼はふと鏡の中の自分を一瞥した。
梓藤は整った顔立ちをしている。少し彫りが深めだ。だが別段ハーフやクォーターというわけでもないし、かといって髪を染めていたり、カラーコンタクトを身につけているわけでもない。昔から梓藤の家には、時折この色彩の者が、科学的な法則を無視するかのように生まれてくる。だから梓藤の周囲の人間は、彼の出生時、特に誰も驚くことはなかったらしい。梓藤は近くのカゴに手を伸ばし、真新しいYシャツの袋を開封して着替えた。
支給されているスマートフォンが着信音を響かせたのは、丁度その時だった。
電話の主が同僚の|斑目廣瀬《まだらめひろせ》だと確認してから、梓藤は電話に出る。
「もしもし」
『おはよう、冬親。起きてた?』
「おう。なんだよ、こんなに朝早く。事件か?」
『うん、そうだね。今、君の家の玄関の前まで来てるけど、入っていい?』
「ああ」
頷いた梓藤は、実は非常に寝穢い。寝過ごす事が度々あり、斑目に念のため合鍵を預けている。梓藤はリビングへ向かい、ティーサーバーの下にカップを置き、珈琲を用意する。玄関から斑目が入ってくる気配を感じる。珈琲を二つ淹れ終わり、リビングのソファへと向かった時、斑目もその場に顔を出した。
「ありがとう、冬親」
梓藤を下の名前で呼ぶ人間は、今ではほとんどいない。カップを斑目の前に置き、対面するソファに腰を下ろしつつ、梓藤は親友を見据えた。
いつも穏やかに微笑している斑目は、梓藤の片腕で副主任をしている。少し色素の薄い茶色の髪をしていて、それが柔らかそうに見える。瞳の色も同色だ。
「それで?」
「うん。珍しく捕縛に成功したマスクが、警察車両から脱走したんだって。最悪な事に胴体に被弾しているから、恐らく肉体的が完全に死亡していて、顔からマスクが分離できる状態になっているみたいだよ」
「そうか。これだから生け捕りにしようなんていうのは、無理があると俺は思うんだ」
「まぁまぁ。実際に何度かは、成功例もあるしね。それで、ここから近い西区画の住宅街に逃げ込んだみたいだから、本部に待機していた僕と、非番だけど一番近所にいた冬親とで、マスクを探しをして欲しいって。勿論、もう次は排除対象だから、生け捕る必要はないよ」
斑目の声に頷きながら、ゆっくりと梓藤は珈琲を飲み込む。
「折角の休みだって言うのに、俺も運が悪いな。で? 廣瀬、何か手がかりは?」
「路地の防犯カメラの映像だと、その頃通りかかっていたのは、小学生の女児以外はいなかったみたいだよ。最近にしては比較的珍しい、古き良き赤いランドセルを背負っていたんだってね」
下の名前で相手を呼ぶのは、梓藤も同じだ。それだけ斑目の事を梓藤は信頼しているし、職場の同僚の範囲を超えて、よき友人だと考えている。なにより斑目の微笑を見ていると、どことなく落ち着いた気持ちにさせられるので、梓藤は居心地がよいと感じていた。
「とりあえず、その小学生の身元を確認して、家にでも行ってみるか?」
「もう、住所も氏名も特定済みだよ」
「さすがだな」
「車で来てるから、冬親の準備ができ次第行こうか」
「おう。上着を取ってくる」
こうして二人は、マスクを探し排除するために、梓藤のマンションを後にした。
【二】マスク
本日は講義が終わってすぐ、|高雅伊月《こうがいつき》は大学から真っ直ぐに帰宅した。
今日は母が同級会なので、歳の離れた小学生の妹を見ていてほしいと頼まれたからだ。父は単身赴任中である。両親が再婚してから生まれた異母妹の|百合《ゆり》は、まだ小学二年生だ。高雅は大学四年生で、次の春に卒業であるから、十四歳も離れている。
「ただいま」
小学校からは既に帰宅している時間であったし、玄関には靴があったので、高雅はそう声をかけた。いつもは綺麗にそろえて脱いである靴が、本日は投げ捨てられたようになっていたため、母がいなくて気が抜けているのだろうと苦笑しながら、高雅は妹の靴の位置を正す。
キッチンの方から、ピチャピチャと音がするのでそちらへと向かう事に決め、高雅は家の中へと入った。
「百合?」
しかし声をかけてみるが、返事がない。疑問に思って首を傾げつつキッチンの中に入ると、テーブルの上で無心に手を動かし、何かを食べている妹の後ろ姿が目に入った。ランドセルを背負ったまま立っている。
「なにを食べてるんだ?」
ピチャピチャという水音は、間断なく響いてくる。
その時、百合がゆっくりと振り返った。高雅は目を疑う。口の周囲がべっとりと赤く染まっていて、テーブルにはイチゴジャムの空き瓶が見える。母が自作して、いくつかのイチゴジャムの瓶が、この家にはあったのだが、それらを全て食べ尽くしたかのようだった。小さな両手も、イチゴジャムで真っ赤に汚れている。
「な、何をして……」
怪訝に思って、高雅は眉を顰めた。すると天真爛漫なごくごくいつも通りの笑顔を浮かべた百合が、ゆっくりと高雅の方へ歩いてきた。両手を前に伸ばしており、歩く度に絨毯の上へと、イチゴジャムが落ちていく。
「百合……?」
「お兄ちゃんだ。お兄ちゃぁん、お兄ちゃん!」
「あ、ああ。一体どうし――……!」
不意に百合が絨毯を蹴り、飛びかかってきた。高雅は咄嗟に右腕で、顔の前を庇う。
すると百合が、大きく口を開けた。
イチゴジャムでベトベトの口を大きく開けている。唾液が線を引いている。
「おいしそう」
楽しそうな声が響いた直後、高雅のTシャツから出ていた左の肩口に百合が噛みついた。
容赦なく百合の歯が、皮膚を突き破ろうとしている。
咄嗟に両手で押し返そうとした、その時だった。
銃声が谺した。
目の前で、百合の頭部が飛び散る。横から側頭部に衝撃が加わったようで、百合の体は左手の壁に激突し、直後落下した。そちらを咄嗟に見た高雅は、陥没した頭部から吹き出ている血と、飛び散った脳を構成していたものが床に落ちているのを見た。飛んでくる血が、高雅の頬に触れる。床を見れば、溢れている鮮血が、先程まで妹の手からポタポタと垂れていたイチゴジャムと、混じり合っているようだった。鮮烈なイチゴの匂いを、この時高雅は急に意識した。右手で左肩を押さえながら、状況を理解した途端、胃から酸味のある唾液がせり上がってきた。直後高雅は下を向き、吐瀉物をまき散らす。現実感が薄れていく。ただただ分かるのは、気持ちが悪いという、その事だけだ。
「大丈夫ですか? いいえ、大丈夫ではありませんよね。僕は警備部特殊捜査局第一係の斑目と申します。あちらは梓藤。僕達が来たからには、もう、大丈夫です」
そこへ柔和な声が響いた。吐ききったところだった高雅は、口元を手の甲で拭ってから、ゆっくりと顔を上げる。見れば茶色い髪と瞳をした青年がいて、優しげな顔に苦笑を浮かべていた。黒いスーツ姿で、ネクタイの色も黒だ。屈んで、高雅を見ている。
「間一髪でしたね……妹さんの事は、本当に残念です」
「あ……一体……何が……? 妹は、死――っ」
言いかけて、再び高雅は嘔吐した。その背中を、斑目が摩る。
「妹の百合さんは、帰宅途中にマスクに襲われて、体を乗っ取られていたんです。マスクはイチゴジャムと、人間の血肉を好みます。ですので、排除しなければ……君が食べられていました。守る事ができて、良かったです」
斑目の声に、思わず涙ぐみながら、高雅は何度か頷いた。
この世界に、マスクという存在がいるというのは、高雅も聞いた事があった。
時折ニュースでも、マスクの被害は取り上げられる。だが、イチゴジャムが好物だのといった詳細までは知らなかった。
「廣瀬、ちんたら話してる場合じゃないだろ。その被害者は喰われかけてたんだから、早く救急車に乗せた方がいい。見た感じ、傷も結構深そうだしな」
「ええ。既に救急車は呼んであります。到着を待ちましょう、冬親」
「本当にさすがだよな、廣瀬の手際のよさは」
梓藤は手に黒光りしている銃を持っていた。その銃把を握ったままで、銃口と高雅を交互に見ている。妹の頭部――いいや、正確には、妹だったモノの命を奪ったマスクの頭部を、銃撃し破壊したのが梓藤だと、高雅は漸く理解した。そして震える声を放つ。
「……妹を、助ける道は無かったんですか?」
すると梓藤と斑目が顔を見合わせ、どちらともなく頷いた。
そしてゆっくりと斑目が語りかける。
「ええ、残念ながらありません。顔面にマスクが接着した段階で、人間は体の全てをマスクに奪われます。そのマスクを唯一排除する術は、この排除銃で頭部を撃ち、操作されている脳を破壊する事のみです。既に脳死状態にさせられているのですが、それをマスクは特殊な力で維持・操作し、体を乗っ取ります。そうした機序がある上、マスクは人肉を好むようになるので、人間を害する存在です。要するに、人の見た目をした害獣になるという表現が近しいでしょう。高雅さんのように、親しい妹さんがマスクになった場合は、助ける方策を考えたくなるのは、十分理解出来ます。さながら僕達が、妹さんを殺害したようにすら、感じておられるかもしれない。ですが、それは違います。我々は、市民を守るために、マスクを追跡し排除している警察官ですので」
穏やかな斑目の声に、高雅は少しずつ平静を取り戻していく。いつしか妹の体から吹き出ていた血が止まっていた。既に己の頬を濡らしてはいない。ちらりと遺体を見る。既に顔は完全に破壊されているため、首から下の体だけの状態だ。絨毯の上の血だまりに横たわっている。
それからすぐ救急車のサイレンの音が近づいてきた。
高雅は二人に見送られて救急車へと乗り、近隣の病院へと搬送された。
【三】一年半後の第一係
日々マスクへの対応をこなしていると、月日の経過はあっという間だ。
真面目にノートパソコンへと向き合っていた梓藤のデスクに、その時プラスティックのカップが置かれた。顔を上げれば、微笑している斑目の姿がある。
「少し休憩したら?」
「ああ、それもそうだな」
主任業というのは、なにもマスクを退治するだけではなく、何かと書類作業のような雑事も多い。集中すると没頭してしまうタイプの梓藤は、いつもこのように適度に休憩を促してくれる斑目に感謝をしている。
梓藤の隣の空いていた椅子を引き、己の分のカフェラテを口に運びながら、斑目は梓藤を見る。
「そういえば、今日じゃなかった? 新人が配属されるの」
「あっ……そうだった。完全に忘れていた……出迎えないとな」
億劫そうに大きく溜息をついた梓藤を見て、斑目が微笑を深める。
梓藤はどちらかというと実戦向きだ。それを斑目はよく知っている。
寧ろ己の方が書類仕事には適性があると感じているが、主任にしか閲覧権限が無い資料の数も多いので、手伝いたくても手伝えない。だから自分に出来る事として、働き者の梓藤に休息を促そうと、いつも考えている。斑目は梓藤のことを、誰よりも分かっている自信があった。それだけ付き合いが長いからだ。
警察学校を出る前からの付き合いで、大学時代の同期でもある。性格が似ているわけではないのだが、斑目もまた梓藤同様、相手の傍がなんとなく居心地がよいと感じている。腐れ縁というものなのかもしれないし、親友と名付けてもいいだろう。班目は梓藤と同じ気持ちを抱いていた。
「なんだ? 新人が来んのか?」
そこへ聞こえていたらしく、この第一係で最も古株の|坂崎孝介《さかざきこうすけ》が声をかけた。坂崎は三十六歳。たたき上げだからなのか理由は不明だが、不思議な事に昇進しない。だが、梓藤や斑目よりもずっと前から、この第一係に所属しているベテランの警察官だ。
二人が揃って視線を向けると、長身の坂崎が黒い短髪を揺らして立ち上がり、口角を持ち合げてニッと笑った。少し意地悪く見える笑顔だが、心根は優しく、器が大きい――ようで、小さくもある。身内に甘い典型的な人物で、敵には容赦ないという事を、二人は知っている。黒い目は切れ長だ。
「そうなんだ、坂崎さん。でも、なんの用意もしてない」
「じゃあ俺が迎えに行ってきてやるかい?」
「いいんですか? お願いします!」
梓藤が勢いよく頭を下げる。すると両頬を持ち上げて、坂崎が頷いた。それから坂崎が時計を見る。もうすぐ午前十時を指すところだ。
「何時に来るんだ?」
「十時です」
「そりゃぁ急がねぇとな。行ってくる」
梓藤の言葉を頷きながら聞き、坂崎は本部を出て行った。入れ違いに、少しネクタイを緩めている青年が入ってくる。緑に近い茶色に髪を染めていて、後ろで緩く結っている。右目の下に泣きぼくろがあり、少したれ目だ。薄い唇で弧を描いた彼に、梓藤が声をかける。
「遅刻だぞ、静間」
それを聞くと、|静間青唯《しずまあおい》が目を伏せて苦笑した。
「昨日は帰りが遅かったんだから、許してよ」
「そういう場合は、きちんと連絡をして休んで欲しいと言ってるだろう」
「ごめんって、冬親ちゃん」
「その呼び方は止めろ、俺はこれでもお前の上司だぞ……」
「えー? いいじゃん。俺の方が年上だしー?」
どこか間延びした楽しそうな声の静間に対し、疲れたように梓藤が肩を落とす。
それを眺めながら斑目は、いつも通りの日常だなと考えつつ、穏やかに笑っていた。
現在の警備部特殊捜査局第一係は、この四名で構成されている。だが本来は、五人で編成されるため、欠員が出ている状態だった。前任者は、半年前に殉死した。|永沼香織《ながぬまかおり》という女性で、彼女も熟練の捜査官だったのだが、マスクに対してはキャリアなどなんの役にも立たないため、彼女は今、墓地に眠っている。第一係には、日常的に死の香りが溢れている。
このようにして今日も本格的に、各々の仕事が始まった。
【四】配属された新人
今日から警備部特殊捜査局第一係に配属されることになっている高雅は、一階ロビーの受付前のソファで、緊張した面持ちで座っていた。待ち合わせの午前十時まで、あと三分ほどだ。円形のソファの中央には、背の高い観葉植物がある。
妹の死から、一年半。
高雅は大学卒業間際に進路を変更し、警察官になることに決めた。そして警察学校を卒業してすぐ、第一係でどうしても働きたいと公言し、今回見事その夢が叶った形である。
今も鮮烈に、妹の死――あの日飛び散った紅の記憶が、脳裏に焼き付いている。
同じくらい、拳銃にしては少し大きい排除銃の引き金を引いた梓藤や、自分に優しく声をかけて落ち着かせてくれた斑目のことも、記憶している。
妹を直接的に殺害したのはマスクだ。
だから、マスクに復讐を果たしたい。妹のような被害をもう生みたくはない。正直そんな想いがある。
「お前さんが、第一係の新人かい?」
その時テノールの声音がした。言葉自体は笑みを含んでいて明るい。
そちらを見ると、少しくたびれた黒スーツの上に、駱駝色のゆったりとした外套を纏っている、短髪の青年が立っていた。自分より、ずっと年嵩だと分かる。大人らしい男といった風貌だ。
「は、はい! 本日より配属になりました、高雅伊月です! 宜しくお願い致します!」
「威勢がいいじゃねぇか。俺は嫌いじゃないな。俺は坂崎。宜しく」
坂崎がそう言って大きな手を差し出す。高雅は、おずおずとその手を握り返して握手をした。それを終えると、坂崎が一度首だけでエレベーターへと振り返ってから、改めて高雅を見た。
「第一係の本部は四階にある。ワンフロアが第一係の管轄化だが、あそこのエレベーターで上がって、エレベーターホールを抜けてすぐの右側の広い部屋が本部で、通常勤務はそこだ。さ、行くか」
そう言うと、口角を持ち上げてニッと笑ってから坂崎が歩きはじめた。
慌てて高雅もついていく。
「しかしお前さんは、随分と若いな。今年で警官になって何年目だ?」
「し、新卒で、初めての配属先がここです!」
「へぇ。そりゃまた珍しいな。よっぽど実力があるのか。期待してるぞ」
「あ……いえ、そういうわけではないんですが……」
高雅が困りながら笑うと、それを一瞥しつつ、エレベーターのパネルを操作しながら、坂崎が喉で笑う。
「ま、実践を積めば、自然と実力はつく。あんまり気負うなよ」
その後到着したエレベーターで、二人は四階へと向かった。
長身の坂崎の背中を見ながら、高雅は緊張した面持ちで歩く。すぐに坂崎が立ち止まった。
「ほれ、ここだ」
「ここが……」
夢にまで見た第一係かと、高雅は唾液を嚥下しながら、開け放たれている扉の向こうを覗く。するとノートパソコンを操作している梓藤と、その隣でタブレットを見ている斑目が視界に入った。他には髪を結っている青年が、椅子の背に深々と体を預けて、欠伸をしている。
「連れてきたぞ、高雅だ」
よく通る声で坂崎が言うと、一同の視線が集まった。
「悪いな、坂崎さん」
梓藤が声をかけると、唇の両端を持ち上げてから中へと入った坂崎が、空いている席の前で立ち止まる。
「高雅。ここが空いてるから、梓藤主任に挨拶をしてから、ここを使うといい。俺の隣だ。なにかあったら――まぁ俺より、逆隣が斑目副主任の席だから、斑目に聞け。基本的にここでは、斑目が新人への教育係って事になってるからな」
そう言って笑ってから、坂崎が椅子を引いた。何度も頷いてから、告げられた通りに、高雅は梓藤と斑目が並んで座っている場所まで進む。高雅がそこに立ったのは、丁度斑目がタブレットの画面を消した時だった。
「今日から配属されました、高雅伊月です。宜しくご指導をお願い致します」
緊張しつつも高雅が述べると、椅子に座ったままで顔を向けた梓藤が、暫しの間高雅を見据えた後、首を振った。
「悪いが、多忙で指導をしている余裕がないんだ。坂崎さんはああ言うが、斑目も基礎的な部分しか教える暇は無いと考えてくれ。実戦で覚えろ」
「は、はい!」
冷ややかで気怠そうな梓藤の表情と声に、焦りつつ大きく高雅が頷く。
すると隣で柔らかく笑っている斑目が、吐息に笑みを載せた。
「基礎的な事――例えば、排除銃の扱い方だったり、分かっているマスクの特性であったり、色々と僕が教えるけど、僕は梓藤ほど仕事があるわけじゃないから、なんでも聞いて。ただ、この第一係は実戦……マスクの排除や追跡で外に出る事が実際に多いから、その合間になるのは本当なんだけどね」
斑目の優しい声を耳にしていたら、高雅の肩から漸く力が抜けた。
そこでつい、聞きたい事を、ぽろりと尋ねてしまう。
「あの……以前、お二人に助けて頂いた事があります。その節は、ありがとうございました。ええと……覚えておられます、か?」
本当は、もう少し親しくなってから聞きたかったのだが、最初に会った時と変わらない斑目の笑顔を見ていたら、口から言葉が零れた。
恐る恐る高雅が尋ねると、ゆっくりと梓藤が瞬きをしてから顔を背ける。
「あのな、高雅。いちいち自分が撃ち殺したマスクを記憶するような優しい同情心や、感傷的になる人間らしい心は、この第一係には相応しくない」
冷たい声音が、本部の室内に響く。高雅は小さく息を呑み、眉根を下げる。
「僕は覚えているよ。妹さんの件は、本当に残念だったね……」
苦笑交じりの声を出し、心配そうな様子で斑目が言った。ハッとして、高雅が斑目を見る。するとどこか苦しそうな色を瞳に浮かべながらも、口元にだけ微笑を浮かべている斑目の顔が視界に入った。その言葉に、高雅の胸が震える。
「あっ……ありがとうございます!」
「ううん。これから、一緒に頑張ろうね? 妹さんの無念を晴らすためにも」
斑目の言葉に、高雅は思わず涙ぐむ。気づかれないようにと天井を仰いで、なんとか涙を乾かした。その時、梓藤が言った。
「第一係のルールは一つだ」
「は、はい」
緊張しながら、高雅が顔を向ける。
「死ぬな。それだけだ」
梓藤はきっぱりそう言うと、斑目を見た。
「よし、そろそろ廣瀬も自分の席に戻れ。高雅、お前も座れ」
「行こう、高雅くん」
「はい!」
こうして二人で、席へと向かいながら、覚えていてもらえたことが嬉しくて、高雅は口元を綻ばせる。斑目が教育係だと聞いて、心底嬉しく感じていた。
【五】マスクとは
その後席に戻ってから、高雅の横に斑目が椅子を近づけた。
そしてマウスを操作し、【マスク】と命名されているフォルダを開く。
するといくつかのPDF資料があり、その内の一つを斑目が表示させた。
「まずはざっくりとだけど、マスクについての説明をしたいと思うんだ。どうかな?」
「宜しくお願いします、斑目さん」
高雅が大きく頷くと、優しい顔の斑目が画面に視線を向けた。高雅もその視線を追いかける。一枚のPDFには画像がある。
そこには、床にぺたりと落ちている人間の顔にそっくりの、しかし平ベったいお面のようなものが写し出されていた。上空から撮影した様子だ。瞼と鼻と唇の部分には凹凸があり、頬や額の形も人間とうり二つであるが、顔の部分しか存在せず、色も鈍色だ。
「これは分離している状態のマスク。なんでもこの状態だと、甘い香りがするらしいよ。その理由は不明なんだけどね」
「はい……」
高雅が頷いた時、画面にもう一枚の画像が表示された。
「次にこれが、人間の顔に接着している状態だよ。マスクの表面の顔は、元の持ち主と同じように変化するんだ。だから外見からは判別が困難なんだ」
「なるほど……どうやって判別するんですか?」
高雅が問いかけると、長めに瞬きをしてから、斑目が少しだけ苦笑した。
「多くのマスクは、接着した途端に、その宿主の脳を最初に支配し人間としては殺して、そこに特殊操作を加える。ただの脳死した人間とは違うようになる。そうして体を支配し、自由自在に動かす事が出来るし、記憶の一部も残る。だけど、ね? ここからが判別方法だよ」
「はい」
「異様にイチゴジャムを好むようになって、人肉や血を欲して襲いかかるようになるんだ。それ以外の行動はほぼしない。この二つあるいは片方の異常行動を認めた場合、マスクである可能性が非常に高い。仮にカニバリズムが趣味の人間であった場合でも、僕達は警察官だし、現行犯で対応しても問題は無いから――見つけ次第、暫定的にであってもマスクとおぼしきものを見つけたら、必ず捜査時に携帯する排除銃または排除刀で、頭部を破壊する必要がある。マスクは頭部を破壊されると、宿主の人間の体と共に死亡する。脳になんらかの操作をしているから、その脳が完全に破壊されマスクの表面も壊れると、絶命するみたいだよ。少なくとも、現場ではそうしているかな」
つらつらと語る斑目は、遠くを見ているような目をしている。
「ただ頭部を破壊しないと、胴体や四肢のみを破壊した場合だと、顔から分離して、一枚目の画像のマスクの通りに、地面を這い、次の宿主になる人間を見つけるために移動を始める」
高雅は頷きながら、その話を聞いていた。
「でもねこの他に、高等知能を持つマスクの存在も確認されているんだよ。それらの個体が最も危険なんだ」
「高等知能……?」
「うん。高等知能を持つマスクは、一般的なマスクとは異なり、完全に元の体の記憶を読み取れるみたいなんだ。それにマスクになっても、本来は人間の体だから、人間と同じ食事も可能で、そういったマスクは人間に擬態し紛れ込むために、人前では外食をしたり、家庭料理を食べたり、なんでも可能なんだよ。一般的なマスクと違って、欲望の制御が出来るとされている――とはいえ、根本的には、人の血肉とイチゴジャムを好むのは変わらないんだ」
そのように人間の社会に紛れ込んでいるマスクもいるのかと考えて、高雅の表情が強ばる。怖気が彼の背筋を駆け上がっていく。
「そ、その……異常行動をしない、高等知能を持つマスクは、どうやって判別するんですか?」
「一つだけ方法があって、それが排除銃と排除刀なんだ。両方内部に、PK及びESPなどのPSYと呼ばれる力を模倣した新しい科学技術が用いられていて、銃であれば銃口を、刀であれば鋒を、頭部に直接的に接触させると、脳波からマスクか否かを判別して、マスクの場合は電子音が響くように作られているんだ」
「PK?」
「元々は人間の中の一部が持っていた、サイコキネシスや念力、テレパシーといった力を指すんだけど、それを人工的に再現したものだよ。まぁ、簡単に言えば、物質に作用する超能力とかね」
高雅はこの世界に超能力といったものが存在するとは知らず、だが斑目がこの状況でからかうとも思えず、高雅は神妙な顔で頷いた。
「至近距離で頭部に接触させないと、マスクはね脳波を偽装するんだ。だから必ず接触させる必要がある……ん、だけど、怪しければ黒として、射殺して構わない」
「えっ……?」
「さっき、冬親――梓藤主任も言ったよね? ルールは一つ、『生きること』。だから身に危険を感じたら、躊躇いなく倒した方がいいよ。正当防衛にあたるからね」
斑目の瞳が少しだけ悲しそうになり、微笑していた表情も曇った。
口では厳しいことを言うが、実際には辛いのではないかと、高雅は推測する。それにこれらは、高雅が生き残るために必要だからと、新人教育の一環で強く述べているだけのある種の脅しであり、実際の現場はもっと楽なのではないか。そう高雅は考える。
「他にも、マスクが接着しそうになっている段階の一般人や――大罪人としてマスク同様絶対的な排除対象とされているのが、マスクを庇ったり、匿おうとしたり、協力しようとした人間だよ。彼らの事は、撃ち殺さなければならない。人間に対しても、排除銃は普通に効果を発するから」
「えっ……? 普通の市民もですか?」
高雅は驚愕して、恐る恐る質問した。
「うん。マスクに与みした段階で、もうその者達は一般市民ではなく、死刑囚と同刑の犯罪者なんだ。そう定められている。一度でも与みした事が分かったら、必ずその場で射殺しなければならないんだよ」
片手で口元を覆い、青くなりつつ高雅が小刻みに頷く。
すると、不意に斑目が、当初のように柔らかな微笑を浮かべた。
「少し、休憩にしようか」
「は、はい」
今教わったことを少し整理したいという思いもあり、高雅は頷く。
自分の席の前へと椅子を戻した斑目は抽斗を開けて、様々な味のチョコレートが入ったアソートの袋を取り出した。そして右手を袋に入れて、色々な種類のチョコレートを手に取ると、高雅のデスクの上に置く。
「どれも美味しいんだよ。僕のお気に入り」
柔らかな声音で言われた時、その中にストロベリー味を見つけて、高雅は思わず手に取り、それを斑目の方へと押し返す。
「ん? どうかしたの?」
「俺、ストロベリー味ダメなんです。ジャムとかも無理で」
「あ、そうだったんだ、ごめんね」
「いえ……お気遣い、ありがとうございます」
そう答えてから、他の味のチョコレートを、高雅はご馳走になった。
――何故、ストロベリー味がダメかといえば、イチゴと聞いたり、イチゴのマークを見たりすると……どうしてもジャムを貪り喰っていた、妹の姿を思い出すからだ。あの事件以降、高雅は一度もイチゴを食していない。あと一歩、救出に来てもらうのが遅かったならば、妹の口の紅は、ジャムではなく己の血液で染まった色だったはずだ。高雅は時折、自分が喰われる悪夢さえ見るほどだ。
その時、本部に電子音が鳴り響いた。
そちらに視線を向けると、梓藤が受話器を持ち上げたところだった。レトロな電話だなと、漠然と高雅は考える。
「はい、警備部特殊捜査局第一係梓藤」
高雅が見守っていると、眉間に皺を寄せた梓藤が、嫌そうな顔で電話に耳を傾けていた。それからデスクの上にあった紙に何かをメモし、いくつか返答してから通話を切った。
「とある学校に、マスクがいる可能性が高い。校舎と学園の敷地の広さを考えると、人出が多い方がいいから、今回は四人で行く。二人一組で、俺と廣瀬――斑目副主任、もう一班は、坂崎さんと高雅。連絡係として本部待機は、今回は静間、頼んだぞ」
名前を呼ばれ、高雅は緊張して背筋を伸ばした。
周囲では、それぞれが返事をし、質問を投げかけたりしている。
高雅も返事だけは行った。
このようにして、配属初日に、高雅の初捜査が始まったのである。
【六】ホットサンドと助手席の嘘
被害が確認されている、マスクがいる可能性が非常に高いその学校は、高岳学園高等部だった。中高一貫制かつ全寮制の、今となっては珍しい男子校で、高等部からは必ず寮に入らなければならないそうだ。大学で学ぶ事柄まで範囲としている進学校で、名前だけは梓藤も耳にした事があった。全国的にも有名で、偏差値の高い大学進学率も目を瞠るものがあるようだ。
運転席に乗り込んだ梓藤は、ハンドルに手を添えながら、助手席に乗り込んだ斑目を一瞥する。斑目がシートベルトを締め、膝の上にタブレット端末を置いたのを眺めてから、前を向いて、梓藤は車を発進させた。
スマートフォンを繋いだナビの案内の元、高速道路を使い順調に進んでいく。
そして少し休憩にとパーキングエリアに入ってから、お互いに食事を購入して車に戻った。梓藤はホットサンドを片手に、斑目を見る。
「廣瀬」
「なに?」
「よく覚えていたな」
高雅と斑目のやりとりを思い出しながら、梓藤はホットサンドを口に含む。そして梓藤が咀嚼してると、幕の内弁当を食べていた斑目が、四角く黄色い玉子を割り箸で口に運んでいた手を止め、吐息に笑みを載せた。
「僕が覚えてるわけがないじゃないか。タブレットで経歴を確認しただけだよ」
なんでもないこと、当然のことであるように、斑目は笑っている。
いつも通りの穏やかな微笑が、崩れることはない。
「……お前ってそういうところ、あるよな。要領がいいというか、腹黒いというか」
呆れた思いで、梓藤はホットサンドを食べていく。シャキシャキのレタスと、ベーコンやソーセージの味が、たまらなく美味しく思えた。空腹は最高のスパイスと言うが、それは間違いないと実感する。
「人間関係は円滑に進めた方がいいからね。冬親は、本当は覚えてたんじゃないの?」
「当たり前だろう。マスクは人に接着したら、元の人間の顔になるんだぞ? 自分が撃ち殺した相手の顔を忘れられるほど、俺は図太くないんだ」
追憶に耽るような眼差しで、正面を見ながら梓藤が答える。
すると優しい声で、斑目が声を放つ。
「優しいよね、冬親は。それなら高雅くんにも、そう言ってあげればよかったのに。僕なんてすぐ忘れちゃうから」
「仕事中に、無駄なお喋りをする気はないんだ」
「僕以外には、本当に冷たく見える態度をするよね。高雅くんだって配属されたばかりで緊張してるだろうし、ご飯でもご馳走してあげたら?」
そんなやりとりをしながら食事を終え、再び車を走らせる。
その後三十分ほどで、目的の学園の校舎が見える場所まで進んだ。
学園の駐車場を目指してそのまま走り、梓藤は車を無事に停車させた。隣には、坂崎達が乗る車が見える。彼らの方が先に出発していたから到着が早かったようだ。あちらの車内には、既に二人の姿がない。
「さて、行くか」
「うん、そうだね」
こうして一つの事件の捜査が、幕を開けた。
【七】事情聴取とラーメン
坂崎と共に校長室へと案内されて、高雅は入室した。
現在理事長は海外出張中とのことで、この学園に常駐している校長に話を聞くことになったところだ。教職員も寮に入っているらしい。
高雅が校長室で出された緑茶に手を伸ばした時に、扉が開いて梓藤と斑目が顔を出した。慌てて高雅は手を引く。すると坂崎がくすりと笑ったため、高雅はなんとなく気恥ずかしかった。
「いやぁ、どうも……本日は宜しくお願い致します」
校長はそう述べて、梓藤と斑目の事もソファに促す。二人が座すと、校長が窓際に立っている教員を一瞥した後、改めて四人を見た。そこで最初に、斑目が口を開いた。
「こちらこそ、宜しくお願い致します。確か、被害者のご遺体は体育倉庫で発見されたそうですね?」
「ええ。体育で使ったボール類を運んだ生徒が発見しました。いやぁ大騒ぎになりまして……それに……実は……」
話し始めた校長が口ごもる。汗をかいており、彼はハンカチを取り出して、こめかみを拭う。
「お伝えしていなかったのですが……最近、失踪してしまう生徒が増えているのです。元々全寮制に耐えられず外部に出ていく生徒はいたのですが、それにしても、最近の数は異常で……行方不明になったと表現する方が正しいのかもしれません。あの遺体を見たかぎり、校内に化け物――マスクがいるのだと思いますが、人肉を食べるのでしょう? もしかしたら……他の生徒達も……」
おろおろしながら述べた校長の言葉に対し、素早く視線を交わして梓藤と斑目が頷き合ったのを、高雅は見た。なにか、視線だけで意思疎通が可能な事柄があるのだろうかと考える。よく見れば、二人のネクタイピンは同じものにも見える。相当二人は親しい様子だ。
「その可能性もありますね。発見した生徒や、被害者の友人、他にも行方不明者と関わりがあった生徒に話を聞きたいのですが、構いませんか?」
安心させるような穏やかな声で、班目が述べる。すると大きく何度も頷いた校長が、再び窓際の教員を見た。
「被害者の生徒の担任で、|吹屋肇《ふきやはじめ》先生です。今回、案内などをすることになっています」
校長がそう説明すると、深々と吹屋が頭を下げた。丸い鼻をしていて、若干つり目の、背の低い教師だ。とても痩身でもある。どことなく顔色も悪い。尤も自分のクラスの生徒が殺害されたとなれば、平静を保っているのは難しいかもしれないと、高雅は痛ましく感じた。己も妹の死を、暫くの間受け入れることが出来なかったからだ。
その時校長の声に頷くと、梓藤が唇を開いた。
「坂崎さん達の班は、体育倉庫の確認の後、吹屋先生と聞き取り調査をしてくれ。俺と斑目は、校内に不審な気配やマスクらしき行動をしていた者がいないか捜査する」
梓藤の指示に、坂崎と斑目が頷いたので、慌てて高雅も首を縦に動かす。
「ほら、行くぞ」
隣に座っていた坂崎が、ポンポンと高雅の肩を叩き、明るい表情を浮かべてから立ち上がる。そして吹屋の前に立つと、軽く会釈した。
「ご案内を、宜しくお願いします」
「あ、はい……」
陰鬱な声を放ち、小さく吹屋が頷いた。そして彼は扉を見て歩きはじめたので、坂崎と高雅はその後に従う。
校長室を出てから、階段を降りていき、職員玄関から外へと出た二人は、吹屋の案内で、近接している体育館の脇にある、小さな体育倉庫の中へと入った。既に遺体は、地元の警察の者が回収している。マットには、まだそのまま酷い血痕がどす黒く広がって残っていた。
「ここか」
坂崎はそう口にすると、しゃがんでマットを見据える。明るかった表情が、真剣なものに変化した。眼光が鋭い。それから口元に骨張った掌をあてがうと、小さく首を傾げてから、思案するような顔になった。
「これは、高等知能をもったマスクの可能性が高い。厄介だな」
「どうして分かるんですか?」
「血の広がり方だよ。かなり綺麗に血を飲み干したらしい。そうでなければ、この量しか残らないのは奇妙だし、血痕の形も人体の形だ。飲み残しの垂れ方なんだ。綺麗に飲むには、口だけではなく、それなりに鋭利な刃物類が使われた場合が多いんだが、そのようなことは高等知能を持つマスクにしか出来ない。つまりこの学園の人間に紛れて、その者のフリをしている――今のところ、周囲にもそれが露見していないマスクがいるということだ」
静かな声で坂崎が説明したのだが、高雅にはあまりよく分からなかった。
なので学園に、高等知能を持つマスクが紛れ込んでいるという点だけを意識する。
「早く梓藤主任達に伝えないと!」
「いいや、あいつらは最初からその可能性を考えて、校内をまわることにしたと俺は考えている」
「何故ですか?」
「行方不明の話から推測したんだろう。失踪に見せかけるような知恵を使うマスクは、高等知能のマスクだけだからな」
なるほどと、高雅が納得した時、吹屋が咳払いをした。坂崎と高雅が揃ってそちらを向く。すると青い顔をしている吹屋が、両腕で体を抱き震えていた。
「こ、この学園は、俗に言うマンモス校で、多くの生徒と教職員がいます……そんな、その中に紛れられたら……どうやって皆さんは、捜査を……?」
小さな声を必死に放っている様子の吹屋を、高雅が見据えた時、隣で坂崎が明るい声を発した。
「そのためには、まずは事情聴取が肝要だ。次は、生徒達の話を伺いたいので、案内をお願いします」
高雅はそれを聞きながら、坂崎を一瞥する、坂崎は口元に笑みを湛え、安心させるように吹屋を見ていた。心強く、大きな存在に思える。なんとなくだが、坂崎がいれば、事件はすぐに解決するような気がして、高雅は安堵してしまった。
こうして三人で体育倉庫を出てから、事情聴取用に学園が用意した小会議室に、坂崎と高雅は入り、吹屋は生徒を呼びにいった。パイプ椅子に座った二人は雑談をしながら、どちらともなく戸の方角を見ていた。
最初に吹屋が連れてきたのは、長身の男子生徒だった。
「どうぞ、座ってくれ」
快活な笑顔を浮かべ、坂崎が机を挟んで正面にある椅子に、男子生徒を促した。着席した生徒は、困惑したように、坂崎と高雅を見る。
事情聴取は、それからすぐに始まった。主に坂崎が問いかけ、高雅はボイスレコーダーで証言を記録しつつ、卓上のメモには手書きで気になる事柄を記していく。
被害者と同じサッカー部だという男子生徒は、被害者が普段はどんな性格だったのかや、交友関係などを、質問に応じて答えてくれた。特に奇異な点は無いようだと考えつつ、高雅は見守る。
「じゃあ、これでとりあえず、聴取は終わりだ。ありがとうな」
明るい声で坂崎が述べた時、ハッとしたように息を呑み、男子生徒が口を開く。
「あの!」
「なんだい?」」
坂崎が首を傾げる前で、男子生徒が続ける。
「最近、新しい都市伝説が学園で広まってて……俺、それが関係あるんじゃないかと思って……」
「どんな都市伝説なんだ?」
直接的に坂崎が問いかけると、男子生徒が語り始めた。
「なんか、夜になると、廊下を人の形をしたお面みたいなものが這うらしくて……それを見ると、数日後に死んじゃうって言う噂で……俺、見たって奴を何人か知ってたり、聞いたりしてて……そいつら、みんな失踪してるんです。もしかしたら、この噂、本当なのかなって」
怯えるように述べた男子生徒の言葉に、坂崎も高雅も目を見開く。どう考えても、マスクが単体で廊下を移動していた場面しか浮かばない。その後の失踪者も、残念ながら、食べられた可能性が高い。またマスクが接着しているモノは、生徒に紛れているはずなので、姿を消すような事態にはならず、そのままの生活を送っていると考えられる。
「教えてくれてありがとうな。とっても有益な情報だ」
坂崎のその言葉を聞くと、少し前のめりで話していた生徒が、安堵したように椅子に座り直した。
「必ず俺達がマスクを排除する。本当に助かった。もう帰って構わない」
力強い声で坂崎が言うと、男子生徒が立ち上がって頷き、頭を下げてから教室を出て行った。
「どう思う?」
生徒が去ってから坂崎に問いかけられて、高雅は腕を組んだ。
「高等知能のマスクで確定だと思います」
「俺もそう想う」
大きく坂崎が頷いた。
その後は、吹屋が連れてきた生徒に対し一人ずつ、最初の聴取と類似している質問を投げかけたのだが、目立った収穫は特になかった。
事情聴取が終わってから、坂崎が梓藤にスマートフォンで連絡を取る。そして高雅達がいる小会議室で合流することになった。十分ほど経過してから、梓藤と斑目が姿を現す。
「そっちに収穫はあったか?」
坂崎が問いかけると、二人が首を振る。それに頷いてから坂崎は、都市伝説について語った。すると二人が目を丸くした。
「夜に出現すると言うことは、今夜から泊まり込みで捜索すれば、捕まえられるかもしれないな」
梓藤の声に、斑目と坂崎が同意したので、慌てて高雅もそれに倣う。
「梓藤、俺は残りたい」
「ああ、坂崎さん。頼む。もう一人は――」
高雅は自分が残るのだろうと思っていた。だが、梓藤は斑目を見た。
「廣瀬、頼めるか?」
「うん、いいよ」
朗らかな声で、斑目が答える。それに頷き返してから、梓藤が高雅へと視線を向けた。
仏頂面に思える顔だ。
「高雅、最寄りのシティホテルをとってある。俺達は、そこに泊まる。そして明日は、俺達がこちらに泊まる」
「は、はい!」
勢いよく高雅が返事をすると、梓藤が小さく頷いた。
こうして梓藤と高雅はホテルへと向かうことになり、職員玄関を抜けて、駐車場まで歩いた。その間、どちらも口を開かなかったので、無言がもたらす硬い空気が流れ、高雅は非常に緊張してしまった。
「高雅」
やっと梓藤が口を開いたのは、車が見えてきた時のことだった。
「ホテルに行く前に食事に行くぞ」
「えっ、あ、はい!」
断れる空気ではなかったのでそう返答しつつ、まだまだ気まずい空気が続くらしいと判断し、高雅は内心で溜息をつく。本当は、断りたかった。コンビニで十分だった。
それから高雅は助手席に乗る。
――梓藤が斑目に、高雅を食事に誘ってやれと助言されたから、このように提案したことは勿論知らない。
暫く車が進み、大通りに出ると飲食店が並んでいた。
「何が食いたい?」
「あ、あー……あ! あそこにラーメン屋があります。俺、今日はラーメンが食べたい気分です! 俺、大好きなんですよ!」
本当はそこまで食べたいわけではない。だが会話を続けるために、無理矢理好物ということにしてしまった。梓藤を見ると無表情で頷き、ラーメン屋へと向かう。
その後店内に入ると、カウンター席に案内され、高雅は梓藤と並んで座った。
メニューを見れば、美味しそうな豚骨ラーメンが載っていた。
「俺はこれにします!」
「おう。じゃあ俺も同じのでいい」
非常に投げやりに聞こえる上司の声に、引きつった笑みを浮かべながら、高雅は注文をした。二十分ほど経過してから、二人の前にラーメンが置かれた。大きめのチャーシューに目を惹かれた高雅は、唾液が口内で溢れそうだと実感した。
梓藤に対する気まずさを一旦忘れることにし、高雅はラーメンを味わう。
そして集中して口に運び食べ終わった時に、やっと梓藤のことを思い出して顔を向けた。自分より食べる速度が遅い様子で、まだラーメンが残っている。
丁度その時、スマートフォンが震える音がした。高雅のものではないから、それは梓藤のものだろう。ぼんやりと、高雅はそんな風に考えていた。
【八】地下へと続く階段
「これで、設置は完了だね」
独りごちた斑目は、エアコンから振り返り、席につく。そしてパソコンを挟んで向かいに座っている坂崎を見た。
「しかしお前さんらは、やっぱりすごいな」
目が合うと、坂崎が笑った。
実は日中、班目は梓藤と一緒に周りながら、二人で各地に隠しカメラを設置していたのである。人が多い職員室にはそれが出来なかったので、待機場所を職員室にして欲しいと繰り返し、こうして現在、教員の椅子に堂々と座る権利を得た。職員室には、今し方エアコンに設置した。
その時、坂崎のスマートフォンが音を立てた。
仕事用ではなく、プライベートの端末を手にした坂崎は、眉間に皺を刻むとすぐに応答する。
「……っ、そうか」
坂崎の声がいつもより低くなる。すると坂崎は、通話をミュートにするような仕草をし、斑目を見据えた。それから立ち上がりつつ小声を放つ。
「悪い、家内が急変したらしくて、息子から連絡がきたんだ。少し、廊下で話してきてもいいか? すぐに戻る」
「ええ、勿論です」
即答した斑目は心配そうな瞳になり、戸口へと足早に向かう坂崎を見送った。
「快癒するといいんだけどね……」
一人になった室内で、斑目は思わず呟いてから、軽く頭を振った。
坂崎の奥方が心臓の病を抱えていること、もう移植以外に手はなく、死期が近いことは、斑目も知っていた。見舞いにも行ったことがある。なお坂崎には一人息子がいて、坂崎透という名だったはずだと、斑目は思い出した。まだ十二歳だそうだが、母の看病を主に担っているらしい。
それから少しすると、職員室の戸が開いた。坂崎が戻ってきたのだろうかと視線を向けると、そこには吹屋の姿があった。
「吹屋先生? どうかなさったんですか?」
「その……今日は、当直で見回りをしていたんですが……地下に続く階段から、物音がするんです」
その言葉に、一瞬斑目はいつもの上辺の微笑を崩しかけたが、平静を装い口元を綻ばせる。
「それは不思議ですね。地下には何があるんですか?」
「主に江戸時代の斧や鎌などを壁や床に並べてあります。文化的に、非常に価値のある農具もあります。社会科系の科目で観察するための品です……誰もいないはずで、普段は音なんてしなくて……私、とても怖いんです。確認してもらえませんか? 今日宿直なので、なにかが出たらどうしようかと思って……」
顔色が悪い吹屋の切実そうな声に、斑目は思案する。
考えてみると、梓藤とまわった際は、地下も確認していない。というよりは、地下があることを知らなかった。地下にも隠しカメラはつけるべきであるし、不審な音がするとして、それがマスクの仕業であれば、排除するために確認する必要がある。
「……」
斑目は戸口を見る。坂崎はまだ戻ってこない。本来、二人一組で行動するのが義務だとはいえ、入院中の奥方の状態が悪化した様子の坂崎を、今すぐ呼び戻すのは躊躇われる。
「分かりました。地下の方へと案内して下さい」
「は、はい! ありがとうございます」
ほっとしたように、吹屋が頷いた。
こうして二人で廊下へと出る。上方へと続く階段の方角から、坂崎の微かな声が響いてくる。だが吹屋は廊下の逆側の階段へと進んでいく。斑目はその後に従った。
二人で階段を降りていき、地下へと通じるという扉の前に立つ。
関係者以外立ち入り禁止と書かれている。
吹屋がそれを鍵で開けると、地下へと続く階段が現れた。
「ここを下ればいいんですね?」
「は、はい」
斑目が耳を澄ましてみると、確かに水音のようなものが聞こえた。
なにかあるのは間違いないが、漏水などの可能性も検討する。
「僕が見てくるので、吹屋先生は職員室へと戻って下さい。もう一名の捜査官が来たら、僕が地下へと向かったことを伝えて頂けますか?」
「はい」
大きく吹屋が頷いたので、微笑を返してから、斑目は階段を降り始めた。
注意して下りながら、斑目は珍しく微笑を消した。それは一人だからである。誰かがいる場合は、常に微笑を浮かべることを心がけているが、別段一人の時はそうする必要は無い。時々梓藤の前でも、斑目は透き通るような目をして、無機質な表情を見せることがあるのだが、それはそれだけ付き合いが長く、心を開いているからだ。
進んでいく内に、斑目は息を詰めた。
最初はごく微かに、だが進むにつれて非常に強く、血の香りと腐臭が、斑目の呼吸を苦しくさせる。鼻から口元までを右手で覆いつつ、斑目は眉を顰めて、階段の中程まで進んだ。すると水音もまた大きくなり――グチャリと聞こえるように変化した。時にはビチャビチャと響いてくることもある。斑目からすると、品のない食事方法をする人間が立てる音のように思えた。クチャクチャ食べる人々が出す音に、類似している。
真剣な表情に変わった斑目は、ゆっくりと瞬きをしながら思案した。
――引き返すべきか、このまま進むべきか。
階下になんらかの存在がいるのは、もう間違いないだろう。恐らくは、マスクだと推測する。
「どうしよう……」
斑目は口の中だけで、そう呟いた。
ふと、梓藤の事が頭を過る。
――もし冬親だったらどうするだろうか?
そう考えた斑目は、進むことに決めた。梓藤の心は、誰よりも理解しているつもりである。大切な、たった一人の親友だ。
スーツの懐から、しまっていた排除銃を取り出し、斑目は銃把を握る。
念のために、防衛及び攻撃が可能な武器を手にした形だ。
こうして気配を消し、足音を立てずに斑目は、暗い階段を降りていく。
すると一番下の終着点らしき部屋から、灯りが漏れていた。斑目は、階段の下から二段目で立ち止まり、角からそっと首を向ける。
「なっ」
思わず声を出してしまい、慌てて斑目は口を覆う。
そこには、制服を着た生徒が一人横たわり、周囲には膝をついているやはり制服姿のものが、六名――いいや、六体いた。横たわっている一人に、周囲の六体が手を伸ばし、血を啜ったり、肋骨を折って舐めたり、なにより肉を喰らっていた。
マスクだ。
「美味いぃぃ」
「あぁ美味いいい」
「腐ってるけどまぁぁウまいぃ」
六名の内の誰かが、呂律の回っていない声を出している。これらの六体には、高等知能は無いようだと、斑目は判断した。だが非常に危険な存在に間違いはない。
「……」
一度坂崎を呼びに戻るべきかと、斑目は考える。
――そうするべきだ。
すぐに結論づけて、前を向いたまま、後方へと階段を後退るようにした時、階段の上階から足音がすることに気がついた。斑目は振り返る。暗がりで、まだ顔は見えないが、誰かが走り降りてくる音がする。
増援だ。
恐らく坂崎は、職員室に戻って、吹屋から伝言を聞いたのだろう。そう確信し、斑目は肩の力を抜く。そして安堵しながら、再びマスク達を観察することにした。坂崎が来た時に、より詳細な情報を届けたい。
早く降りてきて欲しいと感じながら、斑目は気配を押し殺すようにしながら息をする。
そして、後ろで立ち止まった気配がしたので、振り返った。
【九】マスクの集中力
「――はい、梓藤です」
仕事用スマートフォンの画面に表示されている坂崎の名前を見て、梓藤はすぐに電話に出た。
『梓藤。斑目がいなくなったんだ』
「なんだって?」
『俺が少し席を外した時に、待機場所の職員室を出たようだ』
「坂崎さんは今、何処にいるんだ?」
『職員室に戻った』
「そこを動かないで待機してくれ。俺と高雅も今行く」
『分かった』
通話を切った梓藤は、険しい表情で高雅を見る。
「学園に戻るぞ」
「え?」
「斑目の姿が無いらしい。マスク関連かもしれない」
斑目は引き際を心得ているように見えて、その実行動派でもあると、梓藤は知っている。嫌な予感と胸騒ぎに襲われながら席を立ち、困惑している様子の高雅を促して、梓藤は会計を済ませ、駐車場まで足早に向かう。
「あ、あの! 俺、自分の分は出します!」
「そんな場合じゃない」
ピシャリと言い切り、梓藤は運転席に乗り込んだ。慌てて高雅が助手席に座り、シートベルトを締めたのを確認してから、梓藤は車を発進させる。片手でハンドルに触れ、先程よりも早い速度で車を走らせる。
「えっと……そんなに緊急事態なんですか……?」
「――二人一組での行動は規則だ。それを破っただけでも、探す理由になる。ただ……それよりもマスクと遭遇した可能性を俺は危惧している」
梓藤はそう言うと、赤信号で停車した時、ポケットからプライベート用のスマートフォンを取り出して、高雅に渡した。
「え? これは?」
「俺と斑目は、お互いに何かあった時に備えて、プライベート用のスマートフォンに、GPSによる位置特定アプリを入れていたんだ。起動して、斑目の居場所を確認してくれ」
それを耳にした高雅が、慌てた様子でスマートフォンを操作する。
特にパスワードなども無い。
「本当に、親しいんですね、お二人。位置まで分かっちゃうなんて……」
「無駄話をするな。位置は特定できたか?」
「は、はい! 学園の地下みたいです」
その言葉に、梓藤は眉を顰めた。勿論梓藤も地下があるとは、知らなかったからだ。そのため、隠しカメラも存在しないと知っている。あるいは、斑目は地下に監視カメラを設置しに行った可能性もある。職員室には学校の見取り図もあったはずだ。
そう考えながら、梓藤は学園の駐車場に車を停めた。
そして早足で、職員室を目指す。梓藤には、高雅が必死についてくるのが分かった。
電気がついていて明るい職員室の、開いていた戸から中に入ると、椅子に座っていた坂崎が立ち上がった。こちらは険しい表情だ。
「悪いな、俺が席を外したばっかりに」
「それは後で報告書に記載してくれ。斑目の位置を特定した。地下にいる。急ごう」
梓藤の声に、坂崎が真剣な顔で排除銃を取り出す。
同じように梓藤も銃を用意し銃把を握る隣で、慌てた様子の高雅もそうするのが、梓藤には見えた。
こうして排除銃を手に、三人で階段を降り階下へと向かう。地下へと続く扉は、開け放たれていた。
「ここを進んだのか。坂崎さん、高雅。俺が先に降りる。その後ろから降りて、バックアップを頼む。もしも階下でマスクを目視したら、俺は頭部を撃つ。銃声が聞こえたら、すぐに降りて、二人も多数のマスクがいた場合には頭部の破壊を。よし、行くぞ」
そのように決め、まず梓藤が先に降りることになった。
すぐに血や腐肉が混ざり合った死臭を嗅ぎ取り、腐ったナニカがそこにあると梓藤は理解した。人間以外の血肉の可能性も捨てきれないが、ピチャピチャと手で掬うような音が響いてくるため、マスクで間違いないと、梓藤の直感が訴える。
階段の最後の段に立った時、梓藤はチラりと、明かりが見える方角見た。
そして眉間に皺を刻み、息を呑む。
中央にある乱れたスーツ姿の、骨格的に男らしき遺体は、胸から臍の部分までが開腹されている。そこに手を突っ込んで、臓物や肉喰べ、血を啜っているマスクが六体いた。男の遺体には頭部が無い。既に食べきられたのかもしれない。
これは絶対に排除しなければならない。そう考えて、一番下の床を踏んだ時、梓藤の左足が、何か丸く硬いものが触れた。梓藤は何気なく視線を向け、目を見開いた。そこにあるのは、人間の頭部だった。
――誰の頭部か?
その顔は、どこからどう見ても親友の顔だった。
瞼を開けたまま、頭部だけになっている斑目の姿。
唖然とした梓藤は震えながら、屈んで頭部を持ち上げる。後頭部には、脳を吸われたらしく、一部が陥没した傷がある。首は、何か鋭利なもので……と、考えていると、血濡れの斧が床に落ちていた。
全身に怖気が走り、梓藤は震えを必死に堪える。
一度きつく目を伏せた後、開いたままだった斑目の両瞼を閉じ、床に優しく置いた。そして中央で食べられている、首の無い遺体を見る。そばに血塗れのネクタイが落ちており、そこにはおそろいで身につけていたネクタイピンが見えた。二人で旅行に行った時に、記念に買った品だ。あれはまだ新人の頃で、数日の休暇が許されていた頃だ。
ピチャピチャと、音が響いてくる。
「新鮮な肉」
「美味い」
「新鮮な肉」
「美味い」
「美味い」
「美味い」
目を眇めながら、梓藤は六体のマスクが、斑目の体を食べているのだと理解する。
まだ、梓藤の存在に気づいた様子はない。食べることに夢中のようだ。
マスクの特性だ。食べる時は非常に集中する。
――廣瀬は、マスクあるいはその関係者に命と尊厳を奪われた。
――だが、今は感傷に浸っている場合ではない。それが廣瀬への、報いにもなるはずだ。
そう念じ銃把を握りしめ、梓藤は一体目に狙いを定める。一番近くで肋骨を手にしているマスクだ。すぐに排除銃の引き金を引く。すると特殊な弾丸が、一体目の額に命中し、マスクの頭が砕け散った。
そこへ足音が響いてくる。次第に大きくなり、坂崎と高雅が姿を現した。
「大丈夫か!? 銃声が聞こえたから、予定通り降りてき――子供か、今回のマスクは」
坂崎が制服姿のマスクを見渡している。
それとほぼ同時に、梓藤は二体目の頭部を破壊した。
横に立ち、坂崎も別のマスクの頭部を破壊する。
するとすぐにマスクは沈黙し、残った体だけが床に倒れた。
「すみません……見てることしか出来なかった」
高雅の声に、坂崎が振り返る。
「最初はそんなもんだ」
そう伝えてから、坂崎は梓藤を見た。
「それで? 斑目は何処にいるんだ?」
「そこだ」
梓藤が先程頭部を置いた場所を指さす。
すると坂崎と高雅が目を見開いてから、ほぼ同時に青ざめた。
「殉職だ。斑目の家族は海外にいるから、恐らく来訪できない。俺達で葬儀をあげることになるだろう」
感情が一切窺えない無表情で、梓藤が言う。そこには悲しみなど見えず、ただ事務的な処理をしているだけに見える。少なくとも高雅にはそう見えた。
「親友だったのに、そんな……悲しくないんですか?」
「高雅。止めておけ」
すると坂崎が、高雅の腕を引いた。
それを聞いて、立ち止まった梓藤は、俯く。
「斑目は、規則を守れなかっただけだ」
「二人一組じゃなかったからってそんな――」
「違う。第一係の唯一の規則だ。初日に教えただろ」
梓藤はそう言うと、階段を上り始める。
その内心では、本当は様々なことを考えていて、一段上る度に涙がこみ上げてきていた。暗い階段は涙を隠してくれるから、とても優しい。声を出さずに泣きながら、梓藤は階段を上っていく。
――どうして一人で……。
――馬鹿、なんで……先に逝くんだよ。
そんな事を考えながら、一番上の一階の床を踏んだ時には、もう嗚咽が堪えられなくなり、梓藤はトイレの個室に入って、暫し泣いた。その後トイレットペーパーで、涙の後を拭ってから、それを捨てて水を流す。
個室から出て、鏡を見る。そして無表情の、平静な姿を装う。
――大丈夫、出来るはずだ、厳しい上司の顔を維持し主任としての仕事を。
そう考えながら、梓藤は職員室に行き、二人と合流した。
その日は、三人で一度、帰路につくことになった。
斑目の遺体は、翌日回収班が運ぶと決まっている。殉職時などには、この回収班を頼ることが、圧倒的に多い。飛び散った血肉などの処理もあるからだ。
梓藤が運転する車の後部座席に、二人が乗り込む。
車を発進させながら、梓藤は今度は苦笑した。
また、一つの命が失われた、と。
そう思うと、死が身近なものに感じられる。梓藤にも、いつ死んでも構わないという覚悟がある。斑目は、死を覚悟した瞬間が少し早かっただけなのだと、梓藤は己に言い聞かせながら、車を走らせる。
次第に車体は学び舎から遠くなり、闇に紛れてその姿は見えなくなった。
【十】熱血漢
――あの事件から、二週間が経過した。
海外に在住している斑目の両親の意向で、斑目も洗礼を受けているからと、洋風の墓を希望された。墓石に刻まれている斑目廣瀬という名前に視線を落とし、梓藤は近くのフラワーショップで購入した白百合の花束を、静かに置く。
「廣瀬、安らかに眠れ……というには、無理がある最期だったな」
苦笑しながら梓藤が述べる。
死者となっても、斑目の前であれば、自然な表情でいる事が、赦される気がしていた。
それから梓藤は、スーツのポケットに手を入れる。そしてネクタイピンを取り出した。現在己が身につけている品と、全く同じものだ。回収班が遺品として持ってきたこのネクタイピンを、梓藤は少しだけ無理を言って手に入れた。本来であれば、遺品は回収班で管理されるのだが、同一のネクタイピンを所持している梓藤を見て、親しさを知っていた回収班の人間が、梓藤に渡してくれたのである。
「……俺はお前のことを、生涯忘れない」
悲愴が宿る青い瞳で述べた梓藤は、己のネクタイピンと、斑目のネクタイピンをその場で変えた。今後は、斑目のネクタイピンを用いるつもりだ。自分がそれまで身につけていた品は、ポケットにしまう。
それから梓藤は、無理に笑って見せた。
「俺はお前の分も生きて、マスクを必ず倒す。倒し続ける。だから、天国で見守っていてくれ。な?」
明るい声を心がけてそう述べた梓藤は、冷たい秋の風に金色の髪を嬲られた。
その後踵を返して、梓藤は墓地を後にする。
既にその顔には、笑みも悲しみも存在しなかった。
墓地の駐車場に停めておいた黒い覆面パトカーに乗り込み、梓藤は本部へと向かう。本日は非番であるが、片付けたい仕事が山ほどある。斑目が欠けたのは、雑務の上でも、マスクを排除する上でも、非常に痛手だ。斑目は、優秀な捜査官だったのだから、当然だ。そう梓藤は考えている。
エレベーターホールを抜けて本部に入ると、坂崎と静間、そして高雅の視線が、静間に向いた。特に何を言うでもなく、梓藤は自分の席につく。すると、高雅が歩みよってきた。
「あの、梓藤主任」
「なんだ?」
「……以前、その……斑目さんが殺害された日、俺は酷いことを言ってしまい、ずっと謝罪したかったんです」
高雅の声に彼を見据え、いつもと同じ怜悧さを感じさせる瞳で、梓藤は首を振った。
「別に何を言われようと気になどしない。俺は適切な判断を合理的にするべきだと感じただけだ。それが俺の義務だからな。それに対する批判など、俺にとっては気にもならない」
きっぱりと梓藤は告げる。
だが実際には、梓藤は高雅の言葉を、今も脳裏で反芻している。
――親友だったのに、悲しくないんですか?
悲しくないはずがない。人生で初めて、本音で話すことが出来た、たった一人の大切な親友の死なのだから。けれどそれを周囲に見せて、感傷に浸っていては、この第一係の志気も下がる。第一係を維持することこそが、梓藤の仕事である。同時に、常に第一係のことを考えてい斑目へのはなむけにもなると感じている。
「そうですか。でも、謝らせて下さい」
「それで高雅、お前の気が楽になるのなら、好きにしろ。ただしそれが、利己的な、自分の心を楽にするだけの謝罪だと言うことは心に刻め。謝罪を求めていない俺に謝るというのは、自分勝手な感情の押しつけだ」
敢えて冷たい言葉で、梓藤は述べた。すると頷いてから、高雅が頭を下げる。
「確かに自分のためかもしれません。でも、梓藤主任を傷つけた気がする。だから、謝ります。申し訳ありませんでした」
素直な高雅の声ない、半眼になった梓藤は呆れたような顔で頷いた。
「別に傷ついてなどいないが、謝罪は一応受け取る。これでいいか?」
「はい! ありがとうございます!」
威勢よく、明るい声音で、大きく高雅が頷く。それから彼は言葉を続けた。
「絶対に、斑目さんの敵を取りましょうね! 敵に、復讐してやる! 俺が、この手で、今度は絶対に役に立ちます!」
その威勢がよい声を聞き、梓藤は溜息をつく。
「復讐を動機にしていたら、この部署では務まらない」
「え?」
「高雅、お前は少し感情的すぎる。俺達の仕事は、冷静にマスクを排除することだ。その相手が、斑目を殺めたマスクであるうが、違うマスクであろうが、俺達は倒すだけだ。それを心に刻んでおくように」
梓藤が諭すと、目を丸くしてから、高雅が顔を背けた。
「それでも俺は絶対に、斑目さんを殺したマスクを許さない。絶対に見つけて、そして倒してやります! これは、俺の決意です!」
信念が覗える、高雅の熱がこもった声に、梓藤は言葉を探したが見つからなかった。
高雅はまさしく、熱血漢としか表しがたい。
【十一】歪んだ悦楽
本日も、吹屋は宿直だ。宿直室に入り、鍵をかける。そして窓の前へと立ち、寮の光を見た。多数の生徒や教職員が、校舎の向かいの寮にいる。
「ああ、食べ放題で最高だ。次はどれを食べようか」
そう言うと、紫色の薄い唇の両端を持ち上げて、楽しそうに吹屋が笑った。
「それにしても、先日の捜査官の脳漿はとても美味だったなぁ。久しぶりに人の体から直接飲んだわけだけれど、やはり新鮮なものは違うねぇ。もう少し、この学園で食事をしても露見しないだろうし、私は高等知能を持つマスクなのだし、処理も完璧にこなせるからねぇ」
ニヤニヤと笑ってから、窓の前で踵を返し、吹屋は室内を見渡す。
そこには、普通のマスクとなった生徒が三名いて、皆イチゴジャムを貪っている。
続いて逆側の寝台の上を、吹屋が見る。
そこには、今宵マスク達に食べさせ上げようと連れてきた生徒を、拘束している。口には布を噛ませ、両手両脚は縄でぐるぐる巻きにしている。呻くように声を漏らしながら体を跳ねさせている少年に対し、小馬鹿にするように、吹屋は笑った。
「さぁ、食事の時間だ。ジャムはまた明日にしよう」
吹屋の言葉に三名のマスクが従い、ベッドへと近づいていく。今宵餌になる少年が震え始め、目を剥いている。
それを眺めながら、吹屋は斑目の最期を思い出していた。
階段を降りていき、吹屋は斧で斑目の頭部を跳ねたのである。そして愛用している鉄製のストローを用いて、美味しい食事を楽しんだのだ。首を刎ねる直前に、振り返った斑目の凍りついた顔が、とても滑稽だった。斧を構えた時は絶叫し、ずっと悲鳴を上げていた。そんな斑目を哄笑しながら、吹屋は屠ったのである。飲食物である人間は、多くの場合悲鳴を上げる。その声を聞くのが、吹屋の密やかな楽しみでもあった。
「さて、私もご馳走になろうかな」
にこやかな表情を浮かべ、吹屋が寝台へと歩みよる。そして彼は、ポケットから医療用のメスを取り出すと、迷いなく振り下ろした。
【十二】熱い信念
高雅は椅子に深々と背を預け、この日は書類仕事をしていた。
それが一段落したところで、ティーサーバーで珈琲を飲もうと、立ち上がる。
そしてプラスティックのカップに珈琲を注いだ。
本日は曇天で、白い雲を見ていると、どことなく気分が落ち込む。
なお現在、梓藤は他の部署との合同会議の最中で、坂崎は非番だ。だから静間と高雅の二人で本部にいる。カップを傾けながら、何気なく高雅が静間を見た。静間が口を開いたのは、その時だった。
「見つけたよ」
険しい顔をして、静間が言った。
「何をですか?」
「不審者。高等知能を持つマスクか、その支援者、即ち死刑囚と同等の罰が決定している犯罪者の可能性が高い相手だよ」
「えっ!」
「冬親ちゃんと廣瀬ちゃんが仕掛けてた、隠しカメラの映像を解析して、見つけたんだ。これを見て」
歩みよった高雅が後ろから覗くと、静間がある映像を拡大し、鮮明になるよう処理をした。そこには地下に続く扉を開く男が映っていた。その上、一度出てきてから、斧を持って、再び中へと入っていく姿が捉えられている。
「すぐに学園の教職員の写真と照合しないとね」
「待って下さい、この人……俺と坂崎さんを案内してくれた、吹屋先生です」
「何、顔見知りだったの?」
「……そ、そうなります。でも、マスクだなんて全く気がつきませんでした」
「まぁ、高等知能を持つマスクは擬態が得意だし、見分けるためには排除銃か排除刀を突きつけないかぎり、判別は難しいからね。それにあちらも、捜査官を監視したくて、案内役を買って出た可能性もある。マスクを舐めてはいけないんだよ。一般的なマスクと違って、本当に高等知能があるマスクは厄介なんだよ」
静間の声に、大きく高雅は頷いた。そして力強い声を放つ。
「すぐに急行します!」
「ダメに決まってるでしょ」
すると間髪いれずに、静間がそう告げた。
「ど、どうしてですか!? 斑目さんを惨殺した犯人が分かったんですよ!?」
「単独行動は危険極まりないよ。それこそ廣瀬ちゃんの二の舞になるかもしれないじゃん」
その声に、高雅は反論を持たず、息を呑む。
「とりあえず、冬親ちゃんの会議が終わるまで待とう。それと、坂崎さんを呼びだせるようなら、あちらにも頼まないとね」
冷静な声の静間は、困ったように笑っている。その表情を見据えて、高雅は頷いた。
「分かりました……」
「うん」
「……ちょっとトイレに行ってきます」
「そう」
頷き静間が見送る。高雅は本部を出るとその足で、トイレではなく本部がある建物のエントランスへと向かった。そして受付で、車の鍵を借りる。その後外はへと出て、今にも雨が降り出しそうな雲をチラリと見てから、第一係の者が使っていい覆面パトカーに乗り込んだ。先程受け取った鍵でエンジンをかける。
「いてもたってもいられねぇよ、こんなの。梓藤さんはああ言ったけど、必ず俺が倒して、斑目さんの敵を取ってやる!」
そう決意し、高雅は車を走らせた。
次第に、雨が降り始めた。まるでその雨は、車を追いかけてくるような、そんな雨脚だだった。学園に到着した高雅は、車から降りる。そして真っ直ぐに職員室へと向かった。そして扉を開けて見渡すが、そこには吹屋の姿が無い。
「確か、マスクの調査で前にいらっしゃった捜査官の方ですよね?」
すると歩みよってきた、壮年の教員が声をかけてきた。
「はい。吹屋先生にお会いしたいんです」
「今、丁度授業中ですので……そうだ、授業が終わったら、以前もお通しした小会議室に行くように伝えますので、どうぞそちらでお待ち下さい」
教員の声と配慮に、高雅は会釈を返してから、足早に職員室を出た。
そして階段を駆け上り、小会議室に入る。この部屋は扉が一つだから、都合がいいと考えながら、戸の左の壁際に立つ。そして排除銃を取り出して、深呼吸をした。まずは、吹屋が本当にマスクなのかを確認する必要がある。尤も、人間だとしても手引きしたのが確定すれば、排除対象とは理解しているのだが。
高雅が待っていると、時計が四時を少しまわった時、戸が開いた。
その瞬間を逃さず、高雅は吹屋のこめかみに、ピタリと銃口をあてがう。
すると、電子音が、ピーピーピーと三度鳴ってから、合成音声が響き渡った。
『現在の対象の脳波は、マスクです。繰り返します、マスクです。すぐに排除すべきです』
女性的な機械の声に、高雅は思わず口走った。
「やっぱりお前が……」
怒りが沸いてくる。あの映像に映っていた斧で、首を刎ねたに違いないと考えると、憤怒がこみ上げてきて全身を覆い、わなわなと震えてしまう。
だが、そのように思考をしていたのが悪かった。気づくと高雅は足払いをされており、息を呑んで体勢を立て直した時には、吹屋に距離を取られていた。吹屋は、高雅が立つ位置とは、戸を挟んで逆側の壁際まで後退している。
しかしこの距離ならば、銃撃できる。
高雅は吹屋の青白い顔を視界に捉え、睨めつける。
頭の中に、優しく接してくれた斑目の事が甦る。なにより、自分のことを、妹のことを覚えていてくれた、本当に心が温かい人だった。そう考えると、妹の記憶も脳裏を過る。マスクは、妹を殺めた敵でもある。この手で絶対に吹屋を屠り、復讐を果たしてやると、高雅は決意しながら、銃口を吹屋へと向けた。
高雅は引き金に指をかけ、吹屋の頭部に狙いを定める。
今、排除できるのは、自分だけだ。初めての任務となった地下での騒動では、ただ立っていることしかでいなかったが、今は違う。心の中に、熱い信念がある。
「これがお前の最期だ!」
強く叫びながら、高雅は排除銃の引き金を引いた。
直後その場に、銃声が響き渡る。
高雅にはその光景が、スローモーションのように見えた。金色の弾丸が飛んでいく。
【十三】甘いマスク
そしてその弾丸は――外れた。
高雅は目を見開いて硬直する。高雅が放った弾丸は、吹屋の首を掠め、もう一発は心臓付近に当たっており、その二カ所からじわりじわりと血が垂れていく。
その瞬間、部屋中に甘い香りが溢れかえった。
すると高雅の全身が、まるで石像になったかのように動かなくなった。手を持ち上げることも出来ず、高雅は困惑する。どんどん甘い香りが強くなっていく。その発生源は、吹屋の顔だった。即ち、高等知能を持つマスクだ。
「ああ、この体はもうダメだけれど、目の前に新鮮な体があって助かるねぇ」
その声に、高雅は恐れおののいた。
いつか斑目は理由が不明だと言っていたが、この甘い香りは、マスクが人間を硬直させるために用いるのだと推測可能だ。なにせ現在体感している。びっしりと高雅は汗をかいた。全身の毛が逆立っている。
「さて、移動するとしようか」
吹屋の顔が、静かに剥がれ始めた。下には、皮膚をまるで焼かれたかのような、瞼と唇が癒着し、肌は爛れている顔があった。あれが、元々の吹屋の顔の残骸に違いない。
そこから分離したマスクは、次第に青緑色になりながら、平べったい顔の形になり、吹屋の首を伝い、肩を伝い、腕を伝い、足を伝い、靴を伝い、最後には床に降りた。そして白い床の上を、ゆっくりと顔を上にして進んでくる。まるで平べったいお面が移動しているかのようだ。
「う、うぁ……あ」
声帯は自由になるようで、高雅は怯えて声を上げた。
マスクが、自分の靴の上に乗っている。それから脹ら脛を伝い、膝の上を通り、太股まで到達した。どんどん甘い匂いが強くなっていく。脇腹を、マスクが這い上がってくる。感触は冷ややかだ。それが腕を通り、ついに肩にのった。その後首の表面を通り抜けてから、いよいよ高雅の顔に迫る。
そして高雅の顎に、マスクの額の部分が触れた。そのままマスクはねっとりと動きながら、高雅の顔を覆った。すると高雅の口の中に、マスクが放った液体が入ってきた。それは、とても甘い。マスク自体が、甘いようだ。甘いマスクは鼻に接着し、それから高雅の眼窩にも液体を放った。だがその液体は、まるで意思を持つかのように、眼球の周囲を通り抜け、頭の中へと入っていく。液体に覆われた眼球が、ピクピクと動いたのは、視神経にマスクの放つ液体が触れたからだろう。液体は、高雅の脳を目指しているようだった。高雅は涙を流すことさえ許されず、ただ心中で泣き叫ぶ。頭の中に、何かが入ってきたのがすぐに分かった。まるで意思を持っているかのような液体に、脳の一部を掴まれ、弄られている感覚がする。直後、高雅は意識を取り落とした。
――そして、高雅伊月という人間としての人格は喪失した。もう二度と、彼は戻ることが出来ない。何せ、命を落としているのだから。脳を戯れに弄くられて、意思ある液体で満たされたりしたら、誰だって死んでしまう。実を言えば、マスクにとってそれは愉快なことでもある。
「中々よい体だねえ」
甘い香りが消失した時、高雅の唇が――いいや、高雅の顔面に張り付き、高雅の命を奪い、その体の統制権を得た、高等知能を持つマスクの唇が言葉を放った。高雅の顔になったマスクは、両頬を持ち上げて笑いながら、右手を見て握ったり閉じたりしている。
それから瞬きをしたマスクは、床に落ちている先程までの宿主の体へと歩みよった。
「頭を潰して偽装しないとねぇ。さも、この体が勝利したかのように見せかけなければ、擬態が面倒になる。今から私は、第一係の捜査員なのだからねぇ。ああ、口調も変えないとな。少し乱暴な声を出していたらしい」
高雅の記憶を読み取りながら、マスクは倒れている吹屋の頭部に排除銃をあて、完全に頭部を撃ち抜いた。血と脳漿が飛び散る中で、満足そうな目をして、高雅は遺体を見おろす。
「高雅!!」
するとその時、焦ったような声を上げ、梓藤が戸から駆け込んできた。
「大丈夫か? ん……その遺体は……」
「俺、やれました。吹屋の頭を完全に吹き飛ばしました!!」
マスクは擬態し、満面の笑みを浮かべる。その姿は、どこからどう見ても本物だ。目の前では、梓藤が目に見えて安堵した顔をしている。
「……これからは、単独行動は控えるように。今回は、運が良かっただけだ」
「お、俺の実力ですよ!」
「それも少しは……あるな。認める」
梓藤はそう言って苦笑すると、ポンとマスクの肩を叩いた。
「お疲れ。帰るぞ。このあとお前には、山のように報告書を出してもらうから、覚悟するように」
「えっ」
「当然だろう、単独行動中に何があったのか、吹屋を撃った理由だとか。山ほど訊かないとならないぞ」
「それは勿論、排除銃がアナウンスしたからですよ!」
「そうか」
早足で歩く梓藤を、慌てて高雅の顔をしたマスクが追いかける。
そうしながらマスクは、脳裏で梓藤を嘲笑っていた。マスクを排除する特殊捜査局の中に、マスクがいるとは考えもしないのだろう。今日からは、高等知能を持つマスクの友人達にも捜査情報を流すことが可能だ。内側に入り込めば、敵である梓藤達を観察することは易い。
その後駐車場へと出て、二人はそれぞれの車に乗った。
雨はもう止んでいる。
高速道路を抜けてから、マスクはコンビニに立ち寄ることに決めた。駐車して、中へと入る。そしてまっすぐにパンが売られているコーナーへと向かい、イチゴジャムが入っている、四角いサンドイッチを三つほど購入した。本当はイチゴのスイーツも欲しかったのだが、残念なことに手持ちが無かった。
それから本部へ戻ると先に到着していた梓藤が改めて言った。
「メールで報告書について送っておいた」
マスクは億劫だと思いつつ、擬態には必要だと考えて、しぶしぶ頷くことに決める。
「はい」
これは間食しながらでないと、やる気が途中で消えそうだと判断したマスクは、三つのイチゴサンドを、デスクの脇に並べた。
「俺はこの後も会議だ、報告書を今日中にまとめておけ」
厳しい声でそう告げて、梓藤が一歩踏み出す。そしてマスクの真横で不意に立ち止まった。
「どうかしましたか?」
「いいや、なんでもない」
梓藤はそう述べると、早足で本部を出て行った。
その姿にマスクは、本部の人間の誰一人として、マスクだと気づかないなんて笑ってしまうと思いながら、二人いる人間の観察をした。高雅の記憶に寄れば、一人は静間。もう一人は、非番だったが呼び出された様子の坂崎という人間だと理解する。
高雅はそれ以上の事は、あまり深く知らないようだった。
つまり役に立たない記憶も多いのだろうと考えつつ、マスクは報告書の山に取りかかる。
【十四】第一係の唯一の規則
有能を自負するマスクは、寧ろ元の高雅よりも早く処理をしていったが、静間と坂崎が帰っても、まだ報告書の作成は終わらなかった。時間がどんどん過ぎていく。時々溜息をつきながら、マスクはサンドイッチを囓った。一つは残して家で食べようかと考える。
すると会議を終えた様子で梓藤が入ってきた。
「調子はどうだ?」
梓藤が自分の真後ろで立ち止まったのが分かる。パソコンを覗きこもうとしているのだろうと、マスクは考えた。
「あと十分の一程度なので、一応今夜中には終わるかなって」
高雅らしく、マスクは苦笑するような声を放つ。そして画面を見ながら、マウスで現在作成したファイルの一覧を表示した。
「こんな感じです。見て下さい!」
今度は努めて明るい声を発し、マスクが振り返ろうとした時のことだった。
ひんやりとした感触を、後頭部に感じた。
ピーピーピーと電子音が鳴り響く。
『現在の対象の脳波は、マスクです。繰り返します、マスクです。すぐに排除すべきです』
気づかれたことに、マスクは狼狽えた。
「やっぱりな」
梓藤の呆れたような声が続く。
「ど、どうして……」
「イチゴ味のチョコすら食えない高雅が、買うわけがないだろ、イチゴ味のサンドイッチなんて」
「!」
「ああ、マスクはイチゴジャムがお好きだったな」
呆れた声が、ずっと続いている。マスクは反論を持たなかった。こんな些細な事で、露見するとは思ってもみなかった。
「全く、高等知能が聞いて呆れる」
「なっ、俺は――」
バン、と。発砲音がした。梓藤が反論を聞かずに、排除銃を放ったのである。
高雅だった体に接着していたマスクは、頭部を破壊されたため、沈黙した。それは即ち、死である。頽れた高雅の体を、いいや既にマスクだった遺体を、梓藤は抱き留めると、血飛沫を全身に浴びながら、ゆっくりと床に寝かせた。
「死ぬなって言ったのにな」
梓藤の声が、淡々と響いて、本部の宙へと静かに溶けていった。
【十五】人員の補充
秋が訪れた。窓の外には色づいた楓や銀杏が見える。もう少しすれば黄色い葉が歩道を埋め尽くすだろう。楓は景観のために人工的に育てられたものだが、銀杏の方は古くからそこにある大樹だという。
その木々の葉がまだ秋の気配に染まる直前、即ち二週間ほど前に、警備部特殊捜査局第一係には、人員の補充があった。二名が欠けた第一係ではあるが、警備部は全体的に、現在人手不足とのことで、今回は一名のみの補充だった。
梓藤は、新人の|西園寺色《さいおんじしき》を何気なく眺めた。
日本人の髪の色は、完全なる黒ではないという説もあるのだが、西園寺の場合は鴉の濡れ羽色と評するのが相応しい、艶やかな漆黒だ。そこに、こちらも梓藤同様遺伝の法則を無視したかのような、赤茶色の瞳をしており、目の形は切れ長だ。よく通った鼻筋をしており唇は薄い。非常に長身で、彼がこの第一係では一番背が高い人間となった。引き締まった体躯をしているようで、スーツの上からでもそれは見て取ることが出来る。率直に言えば、整った顔立ちの男前だ。尤も梓藤を含め、同性の美醜にこだわる人間は、この第一係には存在しない。
現在椅子に腰を下ろし、大型のパソコンのモニターへと視線を向けている西園寺は、自衛隊から警察に出向中、その実力から警備部にぜひ残って欲しいと懇願され、今ここにいる実力派のエリートだ。
「色ちゃん、お菓子食べない?」
静間がごくいつも通りに声をかける。明るく気さくな態度で、西園寺が配属されてから、なにかと構っている。恐らくは西園寺が早くなれるようにと言う配慮だ。
「勤務中は、食べないことにしているので」
至極真面目な回答を、西園寺が返す。
「硬い、硬い! ちょっとくらいの息抜きは、逆に大切なんだよ? あんまり根を詰めると、倒れちゃうからね」
静間の声に、チラリと西園寺が顔を向ける。そしてチョコレートが棒形のクッキーにかかった品が差し出されているのを見て、大きく吐息してから、銀の袋から一本取って口へと運んだ。西園寺は非常に従順で、先輩の言葉は絶対的に守るようだった。
ポキリと音がし、端正な唇がお菓子を食む。
「美味しいでしょ?」
「……はい」
表情筋が動く様子もなく、西園寺は無表情を貫いたままで頷いた。
西園寺は実力も確かだ。着任早々の任務では、梓藤と坂崎が西園寺を伴ったのだが、迷う様子もなく、排除銃を駆使して、それこそ梓藤と坂崎よりも多くのマスクを無言で倒していた。その際も、表情が変わることはなかった。
もう二人一組での行動も可能だろうと、梓藤は判断している。
現在では人手が足りず、これまで待機係であることの多かった静間もまた現場に出ているため、二班を作れる。現在の本部待機と電話応対は、専用のAIを内蔵したドローン頼りだ。
そんなことを考えながら、梓藤は現在本部に待機している。
するとマスクの出現を告げる第一報が入った。新人だからと率先して電話を取ろうとした西園寺を諫め、詳細を聞きたいから主任である己が取ると伝えたのは、彼が配属されてすぐのことだ。
こうして本日も、マスク退治に赴くこととなった。今日は坂崎は非番なので、三人で外へと赴くこととなった。
【十六】構成物
マスクの退治を終え、昼食にすることになった。
西園寺がコンビニに三人分買いに行くというので、それに任せて梓藤と静間は公園に残っている。四阿のベンチに座して、それぞれ滑り台やブランコといった遊具で遊んでいる子供達を、どちらともなく眺める。砂場には、城を造っている小学生くらいの男子がいた。
「ねぇ、冬親ちゃん」
「そう呼ぶなと何度も言ってるだろう」
「廣瀬ちゃんのことを思い出すから?」
「違う、関係ない」
そう梓藤が断言すると、静間が苦笑した。そして愛用している排除刀へと、何気なく視線を落とす。梓藤はそんな静間にチラリと視線を向けた。泣きぼくろを一瞥する。
静間は二年前に配属されてきたのだが、すぐに第一係に適合し順応した。時々遅刻をしてくる癖があるが、仕事には熱心だ。見た目が嘘のように、的確に仕事をこなしている。
「伊月ちゃんはまだ配属されたばっかりだったから、正直俺は、亡くなってもそんなにダメージは受けなかったけど、廣瀬ちゃんは別じゃない? 俺はショックすぎる。時々思い出して、ああ……もういないんだなぁって思うほどだよ」
すると梓藤が、追憶に耽るような、透き通るような瞳をした。
「人間は誰だっていつかは死ぬ」
「だからといって、遺された人間がすぐにそれを受け入れられるわけじゃないじゃん。冬親ちゃん。本当に顔色が酷いよ。寝てないんじゃないの? 上の階の医務室に行った方がいいんじゃない?」
「俺は平気だ」
梓藤がきっぱりと断言した時、公園の入り口から、西園寺が戻ってくるのが見えた。
すると静間が口を噤む。その後両頬を持ち上げて、口元を綻ばせた。
「おかえり、色ちゃん」
静間がそう声をかけると、頷きながらパンや弁当を、西園寺が四阿に中央のテーブルに置いた。それを見ながら、梓藤は、確かに胸が痛むことは事実で、静間の言葉は正しいと考える。
笑顔を浮かべ西園寺に話を振り、先程の会話など無かったかのように振るまう静間の態度が、梓藤には心地よかった。
その日、梓藤は直帰した。
そしてエントラスの灰色の扉と鍵を閉めた瞬間、その場に頽れた。
平気だと、いくら職場の人間の前では取り繕っても、一人になればもう駄目だった。
左手の指を口元に当て、右手では零れ落ちてくる涙を拭う。
思い出すのは、当然斑目の事だ。
未だ梓藤の中では生きているといえる。斑目の存在を、過去の思い出にする事など、決して出来ない。梓藤の中で、斑目の姿が風化することなどあり得ない。なのにどうして、今、自分は独りで泣いているのか、訳が分からない。今度は両手で顔を覆う。温水が両手の指を濡らしていく。
「なんで死んだよ。本当にバカな奴だな」
そう言って梓藤は唇の両端を持ち上げて、嘲笑しようとした。だが失敗し、泣きながら、歪な表情でなんとか笑うだけに変わった。
そうして、梓藤は泣きじゃくった。嗚咽がひっきりなしに響き渡る。
息が出来ないほどだった。
梓藤はその後なんとか立ちあがり、靴を脱いでフラフラとリビング行く。そして座りながら、斑目がいつも淹れてくれた珈琲を思い出した。勝手知ったる様子で、笑顔を向けて。脳裏をその光景が過る。しかし左を見ても、右を見ても、アイランドキッチンの向こうにも、正面にも、後ろ側にも、斑目の姿はない。当然だ、あの暗がりで、斧で切られて頭部だけになったのだから。首から緩慢に流れていた血に己の掌が濡れた事を思い出す。そうだ、斑目は頭部だけになったのだ。だから、何処にもいるはずがない。探すだけ無駄なはずなのに、それでも涙で歪んだ表情で、斑目の気配を探さずにはいられない。死んだという現実を受け止めきれない。脳裏には確かに頭部が過るというのに。
斑目の存在は、自分を構築する一部だったらしい。それも、大切な構成物だ。己は斑目の存在に依存していたと痛感する。
「斑目。お前のせいで眠れなくなっただろ。お前の夢ばっかり見てるんだぞ」
梓藤は泣きながら笑った。
この夜も、梓藤は飛び起きた。笑っている斑目が、目の前で首を刎ねられる悪夢、胴体を喰われていく光景。斑目は、どんなに恐怖を感じ、辛かったのだろうか。夢の中でそう思った時、斧を持った斑目が笑って夢の中では無事な肢体で立ち上がる。そして梓藤が大好きだった柔和な笑顔で斧を持ち上げると、それを笑顔のまま自分に向かって振り下ろし――……そこで梓藤は飛び起きた。全身にはびっしりと汗をかいていた、呼吸が荒い。掛け布団を握りしめ、暫しの間、梓藤は自分が殺されかけた悪夢に震えていた。時計を一瞥すれば、十分程度しか眠っていなかったが、寝直す気分では無かった。
朝になり、夜が明けてから、梓藤は朝食にとトーストを作った。
それを噛んでみるが味がせず、あまりにも眠くて、それが邪魔をし食欲が出ない。
朦朧とした思考のまま、黒いネクタイを締め、ネクタイピンを一瞥する。これだけは、いつも共に在る斑目の残り香だ。
「確かに重傷だな。静間の言う通り、俺は医務室に行くべきだろう」
苦笑しながらも、とっくに限界だった自分のことをよく分かっている梓藤は、適切な判断を下した。仕事に行く前と、仕事中だけは、表情を保ち、思考を雑務やマスクに集中させることが可能だ。現在職務は、斑目についての感情を一時的に抑えてくれるから、非常に優しいものと変わっていた。
【十七】嫌な予定の増加
翌日、梓藤は素直に、静間に言われた通り医務室へと向かった。
そこには専任の医師が常駐している。この形態は比較的珍しく、テスト的なものだという。パンフレットによると、マスク対策をしている場合、物理的にも心的にも、被害を受ける可能性が高いため、このように医務室が設置されたらしい。梓藤は待合室でそのパンフレットを読みながら、事件の現場にいない医師に、一体どんな物理的対応が出来るのだろうかと考えた。マスクと戦う事になれば、この建物に戻る前に死ぬか、無傷で生き残る事が、圧倒的に多い。
「梓藤さん、どうぞ」
その時、看護師に声をかけられたので、梓藤は立ち上がり、診察室へと入った。
看護師は中に着いてこなかったので、そこで梓藤は、正面に座るレトロな白衣姿の青年と二人きりになった。
「どうぞ」
椅子に促されたので、会釈をして腰を下ろす。顔を上げた青年は、細いフレームの眼鏡をかけていた。名札には、榎本千景と書かれている。
「今日は、どうされましたか?」
榎本の手元に、先程書いたばかりの問診票がある事を見て取り、梓藤は辟易した。
「そこに書いただろう、眠れないと」
「問診票は、あくまでも問診票だからね」
「……それだけだ」
「いつからですか?」
榎本の言葉に、溜息を零してから、梓藤は腕を組んだ。
「……一ヵ月と少し前だ」
「なるほど。原因に心当たりは?」
斑目の件以外には、思い当たらない。だがそれを口に出すことが躊躇われた。根掘り葉掘り事件について聞かれたりしたら、耐えられる自信が無い。
「無い」
「本当に?」
「ああ。だから睡眠薬でも出してくれ」
「三分診療を希望するって事かな?」
「そうだ」
「残念ながら、特に精神面に問題がある患者の初診には、僕は時間を割くたちでね」
無表情で淡々と述べた榎本は、電子カルテの表示されているパソコンから、漸く梓藤に向き直る。そして真っ直ぐに梓藤を見た。
「一ヵ月と少し前というと、斑目警視正が亡くなった頃だね」
「っ」
その名を耳にし、あからさまに梓藤は息を呑んだ。嫌な冷や汗が、こみ上げてくる。なお斑目が警視正なのは、殉職して二つ階級が進んだからではなく、マスクに関わる特殊捜査局の人間は、皆元々階級が上がりやすいからにほかならない。坂崎は例外だ。
「顔色が変わったね」
「何故、廣瀬の名前を知っているんだ?」
「この狭い警備部の建物のなかで、逆にどうして知らないと思ったのかお聞かせ願いたいけどね、僕としては」
「……そうだな。葬儀も派手に行われたんだから、噂にもなっていたんだろうな」
「そうだね。噂といったものには興味が無い僕の耳にすら入ったよ」
嘘を述べずに、榎本がはっきりと答えた。それが少しだけ信用できそうな人間だと判断する材料となった。普段であれば、また違った見方をしたかもしれないが、この時の梓藤には、そう感じられた。
「他にいくつか確認しても構わないかな?」
「ああ、好きにしてくれ」
「悪夢を見ることは? あるいは、白昼夢を」
まさに悩んでいる事を言葉にされて、梓藤は息を詰める。
「どっち?」
「悪夢だ」
「そう。どんな夢? 斑目警視正に関連がある夢?」
「そうだ」
素直に梓藤が頷くと、その後も榎本は質問を続けた。梓藤は頷くこともあれば、首を振ることもあった。ただそのいずれの際にも、このような質問で、一体何が分かるのだろうかと、苛立ちを隠せなかった。
「まだ質問があるのか?」
「もう、終わりだよ。結論からいって梓藤警視正は、現在心的外傷後ストレス障害、俗にいうPTSDの状態にある。急性といえる時期は超過しているからね」
「薬で治るのか?」
「治療法は、薬物両方と認知行動療法となるね。特に暴露療法だ」
「いつ治るんだ?」
「まぁ半年程度で症状が消失する例は多いけど、いつとは言えない。君の治療に臨む態度も関係があるし、周囲の人間の理解も回復への大切な要因となる」
淡々と無表情のままで続けた榎本に対し、片目だけを半眼にして、腕を組んだままで梓藤が問う。
「不眠は?」
「悪夢との関わりもあるけど、それが一番困っているのかな?」
「そうだ。仕事に支障が出かねない」
「なるほど、それは問題だね。今日は抗うつ剤と眠剤を処方するけど、特に前者はきちんと飲まないと効果が出ない。朝夕で出すからきちんと飲んでね。眠剤は、寝る前。ただし、眠れないからといって、二錠・三錠と飲むのは絶対に禁止だ。それこそ眠気が残って、翌日の勤務に支障が出るよ」
電子カルテに何事か打ち込みながら、榎本が言う。梓藤はしぶしぶといった調子で頷いた。
「多忙で暫くは来られないだろうから、薬は、多めに出してくれ」
「断るよ。大量服薬されて死なれでもしたら困るからね」
「なっ、誰が――」
「君、が。他に誰がいるの? 大体、忙しいとは言うけど、ここのワンフロア下が君のオフィスなんだから、昼休みにでも顔を出してくれたらいい」
「マスクの対策中に昼休みなんてない」
「じゃあ僕が届けるよ、その場合。電話くらい出来るでしょ? ほら、これが僕の名刺」
投げるように渡されたので、思わず梓藤が受け取る。それから目を据わらせた。
「配達係もやっているのか? 医者とは随分と暇な職業なんだな」
「そうだねぇ、なにせマスクによる負傷者なんて、原則亡くなるし、マスクによる心的外傷が酷い場合は、とっくに退職してこの医務室には来る機会もない。主な診察対象は、風邪と建物内での不慮の怪我かな。まぁ医師の僕は、暇な方がいいでしょう? 怪我人や病人ばかりではないのだから」
嫌味のつもりだったが、それも躱され、梓藤は顔を背けて嘆息した。
「いいね? 電話か、薬だけでも取りに来るか。僕としては、来週も診察をするべきだと考えている。検討して下さい」
こうして梓藤の日常に、嫌な予定が一つ増えた。
【十八】廃倉庫
受診してから五日後。
梓藤は目の下にクマを作りながら、上半身を起こしていた。
初日に眠れず三錠、二日目も三錠、三日目は残っていた一錠を飲んだ。三日目から眠りが浅くなり、昨日は何も飲まずに寝た結果、また悪夢を見て十分程度で飛び起き、そのまま五日目の朝を迎えた。
「処方量を間違ってたんだろうな、あのヤブ」
溜息をついた梓藤は、仕事へ向かう準備をしながら、一錠も飲んでいない抗うつ剤のPTPシートを一瞥する。
「俺は鬱じゃないからこんなものはいらない。いちいち鬱になってたら、できない仕事をしてるって、分からないのか? あいつは。部署を知っているくせに」
苛立ちを募らせながら、梓藤は本部へと向かった。
すると他の三名が来ていた。自分の席へと向かい、やはり昨夜眠れなかった事は、体に支障をきたしていると考える。薬で無理に眠る以前は、ずっと睡魔に襲われていたせいで、逆に職場に来ると過度に集中し、眠気など覚えなかった。だが三日ほど眠れたのが逆に悪くて、本日は眠くてたまらない。つくづく榎本はヤブ医者だなと、梓藤は考えていた。
そこへ電話で第一報が入った。
「なっ、爆弾? マスクが爆弾を作ったというのか? 処理班は?」
港の廃倉庫で爆発物が見つかったらしく、処理班が現場に急行したところ、そこにいたマスクの手に掛かり、全滅したという報せだった。そのため、マスクの排除を優先し、その後爆発物の処理をする――という、上層部からの決定が通達された。
電話を切ってから、梓藤は腕を組む。
実を言えば、梓藤には、爆発物へ対応する知識があった。特殊捜査局に配属される前、同じ警備部の機動隊にいた際に、研修を受けたからである。また元々の大学での専攻が、爆発物関係だったからだ。
梓藤は静間と坂崎を交互に見た。爆発物に関する知識があるとは到底思えない。
マスクの排除をすればいいとはいうが、その最中に爆発しないとも、爆発した結果、
そこで火災が起きるのかも有毒ガスが発生するのかもわからない状況で突入するというのは、要するにマスクさえ排除すれば、自分達は爆死しても問題ないと言われているようなものだ。しかしながら上層部の判断を無下にする事も出来ない。となれば、マスクを排除しつつ、爆弾も処理するべきだ。あるいは眠くて思考がまわっていなかったのかもしれいない。普段なら苛立ちも感じて、上層部に反発しただろう。
「西園寺」
選択肢として、可能性があるのは一人きりだった。もし西園寺に技術が無ければ、他の部署の応援を、必ずこちらでその者を護衛するとして、約束を取り付けるつもりだった。始めからそうすればよかったのかもしれないが、マスクの排除をしながらの護衛が面倒だと、この時の梓藤は考えていた。
「はい」
「爆発物の処理経験はあるか?」
「はい」
すると即座に無感情の声で、返事をされた。あまりにもあっさり頷かれたものだから、梓藤は拍子抜けした。
「自衛隊にいた際に、対策訓練を受けました。解体も、その後の中身への対応も学びました」
「そうか。実際の対処の経験は?」
通常、こちらは無いはずの質問なのだが、気づくと梓藤は訊いていた。
「警察に出向したばかりの頃に、テロ事件の対応で、二度ほど経験があります」
抑揚のない声音で静かに答えた西園寺は、顔色一つ変えない。
「そうか。じゃあ、俺と静間。西園寺と坂崎さんで、二班で現地へと向かう。現在、並んでいる廃倉庫二カ所のそれぞれに、爆発物がしかけられており、その中にマスクがいるそうだ。処理班は全滅したそうだ。他の部署から応援を呼ぶ時間が惜しい、というよりは、護衛をしながら戦える相手なのか、判断がつかない。よって、俺と西園寺はマスクを倒しつつ爆発物の解体、静間と坂崎さんは俺と西園寺が対応に取りかかった段階で、残っているマスクの排除を頼む。もしマスクの数がこちらの予想外に多いか、爆発までの時間が極端に短い場合は、各自の判断で離脱してくれ」
離脱した場合は、上層部の顔も一応保った状態になるだろうと、梓藤は判断した。
そもそもめったに口を出してこない上層部からの直接の通達だ。
これはなにかあるのかもしれないと、漠然と梓藤は考える。そもそも何故そこに爆弾があると判明したのかすら、教えられていない状況だ。しかし、話を聞くのはあとでも構わない。押し問答をしている余裕はない。
「急行する」
こうして二人一組に分かれて、それぞれが位置情報を送られてきたタブレット端末を手にし、廃倉庫まで向かった。
「右を俺と静間、左は頼んだぞ」
すると西園寺が頷いた。
「はい」
坂崎は笑みを浮かべて西園寺と梓藤を交互に見た。
「ませとけって……西園寺に」
二人の無事を祈りつつ、梓藤は静間を一瞥する。
「行くぞ」
「はーい」
こうして梓藤と静間は、右側の廃倉庫の前に立ち、開閉用のレバーを操作した。
ギシギシと軋む音を立てて、灰色のシャッターが上へと上がっていく。
すると、ねちゃねちゃと音がした。
正面には、無数の遺体が散乱している。ヘルメットと服装から、処理班の者達だと、梓藤は判断した。既にここにある遺体は喰い尽くされた後のようで、左足が千切れ、右腕が人体としてはあり得ない角度に捻れ、腹部からは臓物がコンクリートの上にまき散らされている。そんな状態で、血だまりの中にいる人間の遺体で溢れていた。誰にも息はないが、あったとしても最早助からないだろう。梓藤は血だまりの一つを踏み、遺体の脇を進んで歩く。静間もそれは同様で、彼はいつものどこか気さくで軽い眼差しではなく、怜悧で真剣な目をしている。
暫く二人を誘導するように遺体が続いていき、木材が築いている角の向こうを、梓藤が確認する。そして息を呑んだ。さきほどのねちゃねちゃとした音は、今まさに人体を喰べている最中のマスクから発せられていたものらしい。一つの遺体に群がるのが最低五体、遺体は山のようにあり、そのそれぞれに五体……あるいはそれ以上のマスクが群がっている。目算で遺体が三十体、マスクは二百体近くいる。
「なんだ……この量は」
「いたの?」
「ああ」
「念のため聞くけど、生存者は?」
「全滅したという一報を受けたとおり、目視した限りでは見当たらない。奇跡的に何処かに隠れて逃れたのでもなければ、皆落命している」
梓藤の言葉に、角から顔を出し、静間が目を眇めた。
「短時間で、この量を喰い殺すのは、いくらマスクでも無理だよ。食べ始めてからも、相当時間がかかっているように思えるし」
静間の指摘はもっともで、少し首を傾げてから、梓藤はシャッターへと振り返った。
「静間、あれを見ろ」
「ん?」
シャッターには、血が飛び散っている。ベタベタと、手の形をした血の跡も、無数についている。
「恐らくここにいる者達は、この倉庫に閉じ込められて、マスクの餌食になったんだ」
「閉じ込める? どうして?」
「一つは、大量のマスクを外界に出さないため。もう一つは……あるいは高等知能を持つマスクが紛れていて閉じ込めたのかもしれないな。仮に前者だったとしても、上層部は後者だと宣言するだろうし、実際に後者なのかもしれないが」
梓藤の冷静な言葉に、納得したように静間は頷いた。
「どうする?」
「まずは爆発物の残り時間を確認する。少なくともシャッター前の通路と、遺体が山のようにある突き当たりの通路にはない。戻って他の二カ所の通路を確認する」
「うん、分かった」
こうして二人は引き返した。それから曲がった先には、血痕はあるものの遺体は無かった。続いて、左側を角から覗く。
「あった」
梓藤の声に、静間もそちらを見る。するとその通路にも遺体はなく、そこには上階へと続くエレベーターと、そこから少し手前の位置に黒い爆発物があり、赤い電気が明滅していて、いくつかのコードが出ていた。二人は視線を交わしてから、そちらに歩みよる。
――三十分十五秒。十四秒。十三秒。
「少しは余裕があるな」
目に見えて梓藤が安心した顔をした。
「解体出来そう?」
「ああ。この形態ならやれる」
「了解。じゃあこっちは周囲のマスクを警戒する。遺体に群がっているから来ないとは思うけどね」
マスクは、本能に忠実だ。食事を疎かにするようなことはない。
こうして梓藤が解体を始めた。
額に汗を浮かべながら、手際よく持参したペンチでコードを切っていく。
それが二十分ほど続いた時の事だった。
不意に、エレベーターの扉が開いた。中からは、明るい光が漏れてくる。
訝しく思って、静間がそちらを見て、眉間に皺を刻む。
「あれは……」
すると梓藤もまたそちらを一瞥した。それを見て、静間が慌てたように声を出す。
「見てくるよ。爆弾の方に専念してて」
「ああ」
頷いて梓藤が作業を再開した。非常に集中している様子だ。
それを確認しつつ、静間は念のため、排除刀を引き抜いて右手に持ち、エレベーターへと向かう。するとそこには、処理班の制服とヘルメット姿の者がいた。
「助けてくれぇ、マスクだ。マスクが!」
その叫びに、咄嗟に息を呑んでから静間が駆け寄る。すると助けを求めるように、中から両腕を出している、まだ年若い青年が見えた。
「――大丈夫です。警察の者です」
座り込んでしまった青年が、ガクガクと震えているので、屈んで静間が手をさしだす。すると、両手でガシリと静間の手を掴んだ青年が立ち上がると同時に、勢いよくエレベーターの扉が閉まった。
「っ」
左腕を挟まれた静間は、あまりの痛みに悲鳴を飲み込む。左腕の関節手前から挟まれており、閉じようとするエレベーターの力で血が流れはじめた。その間も、エレベーターの中へと引っ張り込むように、処理班の服を着た――マスクが笑っている。
「ああ、美味しそうだ。やっぱり生が一番美味い」
そう言うとこれ見よがしに、中にいたマスクがべろりと静間の親指の付け根を舐めた。静間の全身に怖気が走る。
「簡単に騙されるんだから、人間は本当に頭が悪いなぁ」
「善意で助けようとした人間は、善意を持たないマスクよりは高等だと思うけど?」
「どうだろうなぁ。僕達みんなの手にかかれば、どうってことないね。第一係も」
「――みんな?」
「そう、みんな」
「第一係を知ってるの?」
「知ってるよぉ。僕達の敵だもの。僕達を殺す愚かな集団で、殺しても殺してもゴキブリのように出てくる」
「それは誰に聞いたの?」
「さぁねぇ?」
「爆弾処理班の人の事は、いつから喰べてるの?」
「昨日だよ。昨日、もしご馳走をくれなきゃ、襲うって君達の上層部に連絡したんだ。それぞれのご家族を人質にとって。ご馳走をくれたから、解放してあげたよ。あれ? 僕達にも善意があるみたいだぁ」
聞き出せるかぎりのことを聞こうと静間は努力した。その間も、ずっと腕の痛みに耐えていた。ただ無駄話をしている間は、このような高等知能のマスクは食事より喋ることを優先する場合があるので、一応、そのおかげで左手がまだ食べられていないともいえる。
その間、静間は何度か梓藤を見た。梓藤が狼狽えたように駆け寄ってこようとしたので、首を振って制する。今は、爆弾の処理の方が先決だと暗に伝えた結果、梓藤もその通りにした。あと何分なのだろうかと、そちらにも焦りながら静間が再び視線を向けたその時――ビリっと音がした。そして梓藤が倒れ、影から出てきた者が、手にしていたスタンガンで再びとどめを刺すように梓藤の体に電流を流す。
――普段の梓藤であったならば、近づいてくる敵に気づかない事など無かっただろう。けれど寝ていなかったせいで、意識が曖昧になりかける中、必死に爆弾処理に集中していた結果、背後の気配に気づくことが出来なかったようだ。
【十九】爆弾
梓藤が倒れたのを目視した瞬間、最初に静間が思ったのは――あの梓藤が? という感想だった。そのくらい、梓藤が背後の気配に気がつかないなどという事態は想定外だった。静間が配属されてから、梓藤が隙を突かれた姿を見たのは、これが初めてだ。痛みをも一瞬忘れるほどで、目を見開いて凝視してしまう。
するとスタンガンを手にしたこちらも処理班の服の男が、ニタニタと笑ってから、完全に意識を喪失している梓藤の脇にしゃがんだ。
「私はグルメ家でね。いつもナイフとフォークを使うんだ」
しゃがんでいる男の手には、ナイフと呼ぶには少々無理がある刺身包丁が握られている。フォークは普通の品のようで、銀色に輝いている。呆気に取られて静間は見ていた。刺身包丁が意識のない梓藤のうなじにゆっくりとあてがわれる。この時まではまだ、梓藤が相手を罠に嵌めるために、気絶したフリの可能性を検討していた。
だが、梓藤の首の皮が一枚切れたようで、血がタラタラと流れたのを見た瞬間、その望みは捨てた。そしてエレベーターへと振り返る。こちらでは、相変わらずエレベーターの扉が自分の左腕を挟んでねじ切ろうとしており、その向こうにはマスクがいる。
静間は決意して、排除刀を抜いた。
「ん? 僕とやる気かなぁ? 往生際が悪いなぁ」
「まさか」
そう言って唇の両端を一度持ち上げてから、静間は排除刀で、エレベーターに挟まれていない部分から、己の腕を切り落とした。血が吹き出る。当然痛みもある。ただ断面は綺麗であるから、腕さえあれば接合可能かもしれなかったが――エレベーターが閉まり、腕はマスクの手にある。そうでなくとも、あのままだったら、遅いか早いかの問題で、左手は食べられていたのだから構わないではないかと必死で念じ、脂汗が浮いてくる中で、静間は、刀に巻き付けてあった紐を解いて、左腕の二の腕をきつく締めた。
刺身包丁を手にしているマスクは、まだ事態には全く気づいていない。高等知能のマスクであっても、一度食事を始めれば、そちらに集中するからだ。静間は、排除銃も携帯していたので、迷わずそれを右手で持ち、そのマスクの頭部を撃ち抜いた。飛び散った体液や骨、頭蓋骨の中身がびしょびしょと梓藤を濡らした。
慌てて静間が駆け寄ると、爆弾の解除にはまだ成功していなかった様子で、あと三分と表示されていた。静間は考える。この位置から入り口までであれば、一人であれば離脱可能だ。では、意識のない梓藤を連れていく場合は、どうなる? しかも現在、己は左腕が無く、痛みも出血も酷い。目もかすんでいる。
「……そんなのは決まっているけどさ」
溜息をついてから、静間は無理に梓藤を抱き起こして、半分程度は抱えるように腕を肩にかけて、時折引き摺りながら、シャッターの方角を目指した。あと一分くらいだろうか? それとも三十秒? 腕時計は左腕と共にエレベーターの向こうだ。爆発する恐怖に怯えながら進み、シャッターの光を確認した。助かる、と、そう思った瞬間――ピーっと音がした。一瞬だけ硬直した静間は、爆発音が響いた瞬間、反射的にシャッターから外へと出た。そして横に逸れた時、シャッターから黒煙と炎が吹き出し、見上げれば倉庫の上も爆煙が突き破ったようで、めらめらと燃えさかっていた。
「……た、助かった……」
間一髪という言葉が、今以上に相応しい局面を、静間は知らない。
ダラダラと汗をかきながら、その場に梓藤の体を下ろし、首を見てみると、絆創膏を貼っておけば治りそうな傷が見え、肩から力が抜けた。
「静間!」
そこへ声がかかり、見れば坂崎と西園寺が駆け寄ってくるところだった。
「なにがあった!?」
坂崎が問いかけている脇で、西園寺が救急隊に連絡をしている。
西園寺を一瞥してから、再び静間に向き直り坂崎がまた口を開く。
「お前その腕どうしたんだよ!? それに梓藤は、これは?」
「話すと長くなるんで……あとで。とりあえず俺、病院で痛み止めを死ぬほど大量に浴びたいくらい、今腕が痛くて……」
「あ、ああ。それはそうだろうな……」
それからすぐに、西園寺が呼んだ救急隊が着た。
万が一に備えて、近くに待機していたらしい。
「坂崎さん達の方はどうだったんですか?」
救急車の中で静間が聞くと、坂崎が苦笑した。
梓藤の付き添いには西園寺が、静間の付き添いは坂崎が担当することになった。
「こっちは西園寺が爆弾を解体したんだ」
「さすが……え? マスクが大量にいませんでした?」
「それがな、俺もそう気が長い方ではないが、西園寺もそうらしくて、二人で全滅させたぞ? いやあ、爆弾は解除していたとはいえ、倒しても倒してもわいてくるから、どうしようかと……ま、殺ったが」
「高等知能のマスクはいなかったんですか?」
「ん? 俺達の方にはいなかったと思うが、いたとしても、片っ端から撃ち殺していたから分からん」
当然だというように笑っている坂崎を見て、静間は次からは坂崎か西園寺と班を組みたいと心から願った。
――次があれば、だが。
【二十】過去の亡霊
冬が訪れ、師走特有の空気に世間は浮き足立って久しい。
既に年始も終わり、七草がゆの時期も過ぎた。
「いやぁ、本当死ぬかと思っちゃったよ」
片腕になった静間が復帰したのは、一昨日の事だ。端的に言えば自分のせいでそうなったのだと、梓藤は考えている。だが、生きている。それを実感した時、少し肩から力が抜けた。自分もまた、静間がいなければこの命は無かったわけだが、その点において梓藤は、腕を切り落とすという冷静な判断をした静間の評価を上方修正し、よしとした。
その日から、だろうか。
病院で首の後ろにガーゼを貼られて、帰宅を許された、爆発事件の翌日。
睡眠薬はとうに手元に無いというのに、ぐっすりと眠る事が出来た。悪夢を見なかった。以降、一度も悪夢を見ることはなく、かつてと同じように、夢を覚えてすらいない、すっきりとした朝を迎えている。その話を、一度それこそ、薬の宅配に訪れた榎本に伝えたところ、白衣のポケットに両手を突っ込んだ彼は、退屈そうな目をした。
「そう。じゃあもう薬は不要だね。治ったという報告は歓迎だよ。ただ、また何か困ったら来るといい。ガーゼの取りかえは自分で出来そうだけれど」
梓藤は頷きつつ、呆れた。声まで退屈そうであったからだ。
そうして梓藤は悪夢から逃れ、トラウマも克服した。己の死と向き合った事で、既に死者である斑目の事が割り切れたのではないかと、梓藤は考えている。死者を慮って生活しても、なにも生まれないと、もうよく理解している。今、自分がするべき事は、生きている者を見据え、同時に自分自身がきちんと生きていく事なのだと考えた。
「無駄口を叩いている暇があったら仕事をしろ」
「厳しいなぁ」
静間が苦笑した。今後、静間はこの本部に待機し、主に情報管理を専門に担当する事となった。元々その分野が得意でもあったし、片腕がなくとも、音声入力や瞳による視線操作、なにより右手で、静間は器用に仕事をこなしている。
「だけどさ、俺と冬親ちゃんを襲った二体、さも仲間がいる口調だったから、あの二体が仮に爆発事故で燃え尽きたとしても、まだ残党がいる可能性が高いよねぇ」
「ああ、そうだな。そちらに関しては、二つの方向から調べている」
「え? 誰が?」
「西園寺に任せてある」
「かなりこき使ってるね、色ちゃんの事。で? 二つの方向って?」
静間が首を傾げると、自分の席で梓藤が腕を組んだ。
「一つは、西園寺が解体した爆弾を運び出していて、そこに手がかりがないかの調査だ」
「なるほど、それはとっても参考になりそう」
「ああ。もう一つは、処理班の人間をご馳走として差し出した上層部の人間の尋問――というと言葉が悪いな。まぁ、だが、そういったものだ。彼らの家族には目撃者までいるわけだしな」
梓藤の瞳に鋭い色が宿り、唇の両端では弧を描いている。
「あれ? 上層部には珍しく従うんじゃなかったの?」
「眠くてどうかしていたらしい」
「へ、へぇ……」
そんなやりとりをしながら椅子から立ち上がり、梓藤は静間の隣に立った。
「どーしたの?」
不思議そうな顔をした静間を見て、瞳を揺らしてから、ゆっくりと瞬きをした後、ぽつりと梓藤が言う。
「ありがとう」
「え? 何に対するお礼?」
「俺を連れ出してくれたことだ」
「あー」
「まだ伝えていなかったからな」
「遅いよ。もう気にしてなかったのに」
静間がそう言って笑ったので、続いて梓藤が呆れたような顔をした。
「ただ、腕を切り落とした判断は、俺でもそうしただろうが、お前は決定的にミスをした」
「へ?」
「次に同じ事が発生したら、俺の事はおいて行くべきだ。生存率が高い方を選べという話ではなく、情報を持ち帰る事を優先しろという話だ」
それを聞くと目を丸くしてから、静間が顔を背ける。
「お礼の意味……なくない?」
「言いたいことは以上だ」
きっぱりとそう告げ、無表情で梓藤が席へと戻っていく。暫しの間そちらを見てから、小さく頷き、静間はパソコンのモニターへと視線を戻した。その口元には微笑が浮かんでいる。梓藤の感謝は、きちんと伝わっている様子だ。
それから、ふと気づいて、静間は改めて梓藤を見た。
「あれ? 今日はネクタイピンが違うね」
「そうだな」
「前のってさ、廣瀬くんとおそろいだったよね?」
「それが?」
「いや、それがって事はないでしょう?」
「もう不要になったから、捨てた」
「えっ!?」
「だから無駄口を叩くなと言っているだろう」
そう言いきると、梓藤は口を閉じ、仕事を開始した。こうなれば、なにも聞かせてくれないという事を、静間は知っている。本当に、いつも通りの梓藤が戻ってきた――というのも変だが、いち時の不安定な様相が一切見えなくなった。あの時の方がまだ、人間らしくて心配もしたが、今は心配は不要だとしか感じない。
――悪夢、過去の亡霊からは、もう逃れると誓っている。
そんな梓藤の心までは、静間にも分からなかった。
それは今、静間が左腕の幻肢痛に悩んでいることを梓藤もまた知らないのと、同じ事なのかもしれない。
結局他者は他者の全てを分かるのは無理だという結果の片鱗が、そこには見えたといえるだろう。
【二十一】特定作業
「特定が終了しました」
その日、ここのところ外部で特定作業に当たっていた西園寺が、書類を抱えて本部に戻ってきた。既に外には、色づいた梅の花が見える季節となっている。
「よくやった。それで?」
自分の席から梓藤が問いかける。椅子を回転させて、静間も向き直った。
坂崎もまた、身を乗り出すようにして、入ってきた西園寺を見据えている。
「ある部品会社の製品で、爆発物の全てが構成されていました。また、その内部の爆薬の合成も、その部品会社の子会社が行っている仕事で手に入る材料ばかりでした。少なくとも、あの爆発物を製造したのはこの会社で間違いありません」
西園寺はそう述べたあと、続いて持参した紙資料に視線をおとす。
「次に拷も……聞き取り調査の結果ですが」
「拷問の結果、なんだ?」
「はい、主任。訪れたマスクは、皆同じ作業服を纏っていたと、それぞれの証言から判明しました。作業服の左腕にある模様は、生存者全員の目撃情報と一致します。その模様を調べた結果、先程の爆弾を製造した部品会社の紋章と同一だと判明しました。即ち、少なくともその部品会社の作業着を身につけていた二名のマスクが犯人です。勿論、その会社に罪を着せるために、高等知能のマスクがあえて、作業着を身につけ、爆弾の部品を絞った可能性もありますが、その場合であっても、作業着の入手経路を考えると、部品の購入よりもさらに、紛失物などの観点から追いかけやすくなると想定できます」
それを頷きながら聞いていた梓藤は、それから腕を組んだ。
「静間、今すぐ西園寺の資料から、くだんの部品会社の内部の防犯カメラを確認してくれ」
「はーい」
こうして静間が作業に取りかかった時だった。
気の抜けるようなスマートフォンの着信音が響き渡った。仕事用のスマートフォンの設定音ではない。梓藤と西園寺が音をした方向を見ると、慌てたようにプライベート用のスマートフォンを取り出した坂崎が見えた。静間は正面を向いて作業に集中している。彼は焦ったように、困ったように、梓藤に視線を向ける。その間も、着信音は鳴り響いている。
「坂崎さん、どうかしたのか? それは私用の電話だろう?」
「あっ……その、実は――」
坂崎が言いかけた時、静間がモニターを見たままで声を上げた。
「これ、見て! エレベーターの中にいたマスクと同じ顔なんだけども? 確定だよ、これは!」
「なに?」
梓藤がそちらへ顔を向け、歩みよって画面を覗きこむ。西園寺は、二人の様子と、何か言いかけた坂崎の様子を、交互に見る。すると坂崎が、笑みを消してスマートフォンの電源を落とした。
それが終わった時、梓藤も画面で顔をたたき込んだ様子で、改めて坂崎に振り返った。
「それで、実は?」
「なんでもねぇよ。ちょっとした、間違い電話みたいなもんだ」
笑顔で坂崎が断言する。先程の真剣な表情を見ていた西園寺は小さく首を傾げたが、元々追求する性格ではない。それは梓藤も同様で、仮に見ていたとしても、梓藤も追求しなかっただろう。
「そうか。では、坂崎さんと俺と西園寺で、至急部品会社に向かう。静間はここでバックアップを頼む」
梓藤の指示に、全員が頷いた。
車で急行すると、その内に早咲きの桜も見え始めた。まだ蕾のものもあれば、一部は花開いているものもある。それらの合間の坂道を下っていくと、広く開けた場所に、年季の入った赤茶けたビルが一つ建っていた。
駐車場に車を停車させた梓藤が先に降り、後部座席の坂崎と助手席に乗っていた西園寺もすぐに外へと出た。中へと入ると受付があって、無視して横切ろうとすると声をかけられる。
「どちら様ですか? 本日は来客の予定はありませんが……」
「警察の者だ。社長にお話を伺いたい」
「えっ……か、確認して参ります……」
梓藤が紐で繋がれた警察手帳を見せると、あからさまに動揺した受付の人間が、中へと戻っていった。警察手帳をしまいながら、きちんと排除銃がある事を確認しつつ、梓藤は待っていた。西園寺はエレベーターの横のフロア案内のパネルを見ている。坂崎は両手を薄手のコートに入れて、周囲を見渡していた。
「ど、どうぞ! 社長室は最上階です。社長がお待ちです」
「助かります」
笑うでもなく梓藤が言う。その後ろで、苦笑しながら坂崎が会釈をしてみせると、受付の者は、目に見えてホッとした顔になった。西園寺が手際よくエレベーターを一階に呼んでいたため、すぐに一同は、社長室へと向かう事が出来た。
閉まったエレベーターの中で、コートから手を出した坂崎が白い手袋を両手に嵌める。それを一瞥し、梓藤が尋ねる。
「どう思う? 受付の態度」
「まぁ、マスクだろうな」
「坂崎さん、根拠はあるのか?」
「警察官に動揺してみせる演技があからさますぎて下手だったから、となるな」
「どういった点で?」
「視線の動き、体の震えを始めとした動揺、歩き方、それらに一切恐怖は見えなかった。声もわざとらしい。本当に警察の人間が来て動揺しているとしたら、ああいった態度にはならないだろう、まさに口だけ。第一、アポがあるのかも聞かない、礼状の有無も聞かない。その他にも奇っ怪な点だらけだったと俺は感じたが、梓藤は違うのか?」
いつもの通りの快活な笑みを浮かべたままで、坂崎が楽しそうに述べた。
すると梓藤は、思案するように瞳を揺らした。
「動揺以外、分からなかった。さすがだな」
「おいおい、おだてても何も出ねぇからな?」
喉で坂崎が笑う。それに珍しく口元を綻ばせてから、梓藤はすぐに表情を引き締めた。そして西園寺を見る。
「お前はいくつ分かった?」
「ゼロです。俺は完全に、人間が知らないまま、受付を続けているのだとばかり」
「正直で結構だ。これから、坂崎さんに教わるといい」
梓藤の声に、西園寺が頷くと、再び坂崎が困ったように笑った。
「いやいや、俺みたいなおっさんが、優秀な西園寺くんに教えられる事はゼロだ。な? 西園寺」
「いえ、ご指導よろしくお願いします」
「プレッシャーが凄いな、それは……困ったなぁ」
坂崎の本当に困っているかは怪しい朗らかな声音が響き終わったところで、エレベーターが最上階へと到着した。
【二十二】紙片
エレベーターの扉が開くと、正面に豪奢な飴色の扉があった。
その扉にも、西園寺が調査してきた紋章が描かれている。それを確認し、三人は視線を交わした。コートのポケットに手を入れている坂崎は、その中の排除銃に触れている。他の二人は、黒いスーツに排除銃を隠し持っている事を悟られないようにしている。排除銃は、銃把を握ると、銃口の周囲が開いてサイズが大きくなるのだが、普段はスーツにしまっておける大きさだ。その他にも各々が得意とする武器を、いくつも隠し持っている。
「行くぞ」
梓藤が宣言すると、二人が頷いた。そして梓藤がノックをする。その音が響き終わると中から返答があった。
『お入りください』
それを耳にし、梓藤が扉を押し開く。中へと梓藤が入ったので、後ろを二名が続く。
「どうぞ、そちらの応接セットのソファにおかけください」
社長が震える声でそう語る。三人は頷くと、腰を下ろした。
そのテーブルの上には、パンフレットがあった。何気ない風に坂崎が手に取る。そして双眸を鋭くした。
――タスケテクダサイ。
という紙片が挟まっていたからだ。隣に座っている梓藤に、それを見せる。すると梓藤が頷いて、それから改めて切り出した。
「本日は、急な来訪にもかかわらず、誠に有難うございます」
「い、いえ……」
社長の唇は肉厚で、紫色に染まり、震えている。ガクガクと歯が鳴る音もする。
「社員の名簿を見せて頂けますか?」
「え、ええ。勿論です」
頷いた社長に向かい、声をかけた梓藤が立ち上がる。坂崎は、同じく立ち上がった西園寺に紙片を渡した。西園寺が息を詰め、社長と坂崎を交互に素早く見たが、すぐに彼はまた無表情に戻った。優秀だなと、坂崎は考えた。
「こちらの彼は?」
梓藤は、静間が高等知能のマスクだと証言した青年を、写真の中から見つけ、静かに問いかける。
「あ、ああ……彼は、営業部の……」
社長が名を告げ終わった時、頷いた坂崎が、ポケットから排除銃を取り出し、社長の頭を撃ち抜いた。横で、珍しく目を見開き、西園寺が硬直した。
「どうかしたのか?」
坂崎が笑顔で西園寺を見る。
「……彼は、人間だったのでは……? 彼もマスクだったんですか? 先程の紙は偽装で……」
ぽつりと西園寺が言う。すると排除銃をしまいながら、坂崎が首を振った。
「いいや、こいつは人間だったと思うぞ」
「えっ、で、では、何故……?」
「ん? マスクに手を貸したり、マスクを庇ったりした場合は、死刑囚と同等で、極刑と決まっているからだ。仮にその理由が恐怖からだったとしても、マスクをマスクだと知りながら雇用していた時点で、この社長は排除対象なんだよ。記憶力、何処に置いてきたんだ? 基本だ」
坂崎が一瞬だけ暗い瞳をしたものだから、西園寺の背筋がゾクリとした。
だがそれは見せず、すぐに西園寺は気を取り直す。
「失念しておりました、申し訳ございません。以後、気をつけます」
「まっ、分かれば良いんだ、そう気を張り詰めることもないんじゃないかい? な?」
いつも通りの表情に戻った坂崎が、それから梓藤を見た。
「営業部に行くか? まずは」
「そうだな。確定的にマスクがいるわけだからな。わかる者から排除しよう」
梓藤が頷いたので、二人もまた従うことにした。
再びエレベーターへと乗り込み、三人は営業部がある五階で降りた。するとエレベーターホールに入った段階で、いやに甘い匂いがした。正面の廊下を行くと非常階段、後方はエレベーター、そんな配置を誰ともなく確認した後、その廊下の中央にある、営業部という看板と、開け放たれた扉を、三人がほぼ同時に見た。
「この匂いは、マスクの分離臭とは異なるな」
坂崎の声に、梓藤が頷く。
「俺もそう思います。ただ俺は分離したマスクには二度しか遭遇した経験が無い」
「二度あって、生きて帰ったんだから、誇っていいだろ」
口角を持ち上げて、ニッと坂崎が笑う。
「だが、それなら、これはなんの匂いだ?」
梓藤の声に、ぽつりと西園寺が言う。
「イチゴジャム……」
梓藤と坂崎の視線が、西園寺に集まる。
「今朝、食べました」
「……お、おう。マスク退治をしていて、イチゴジャムがお好きとは、珍しいな。あれだろ、昔はお前みたいなのを甘いマスクって言ったんだろ? イケメンの事? か? いつまでも独り身でパンなんか囓ってないで、嫁さんを貰え」
坂崎の声に、梓藤が呆れたように目を据わらせる。
「それはセクハラなんじゃないのか? まぁご自分はご結婚なさっているから、そう思われるのかもしれませんが」
「まぁな。俺の家内はよくできてるよ。本当に気立てもいい」
「坂崎さん。今から突入しようと言う時に、無駄な惚気はご遠慮願えますか? そういうの、確か死亡フラグというんじゃなかったでしたっけ? 昔の言葉で」
「ああ、まさに俺の世代の言葉だ。もう私語なのか?」
きょとんとした坂崎に対し、梓藤は頭痛がしてきたので、もう無視を決め込むことした。当初は西園寺を無駄話から救出する意図だったのだが、坂崎には伝わらなかったようだ。
「行くぞ、全員銃を携帯しろ、今からだ」
気を取り直した様子の梓藤の指示に、二人は頷いて従う。
そして先頭を梓藤が進み、その間を西園寺、しんがりを坂崎が務めた。
気配を押し殺して三人は進む。そして扉からチラリと梓藤が内部を窺う。すると不審そうな顔をした。それから梓藤は、扉の向こうの壁に素早く移動し、中を見るように西園寺へと促す。
中では、白いテーブルの上に規則正しく並んでいる大きな容器から、左右の手で交互に掬うようにしながら、イチゴジャムを貪っている者達がいた。ベトベトと口の周囲が赤く染まっている。西園寺は、漠然と思った。
「? マスクの昼休憩に配られているのでしょうか? お弁当のような」
唇だけをそう動かした西園寺だったが、梓藤は完全に読み取った。
「お前までそこでボケ散らかすのか?」
だが、梓藤の唇を、西園寺は全く見ていなかった。
そこで坂崎が、西園寺の横から中を一瞥し、片眉だけを顰める。そしてポケットから
仕事用のスマートフォンを取り出して、メッセージアプリに文字を打ち込む。
『あれは、高等知能のマスクが、一般的なマスクを飼っている状態でよく見られる。生命維持のためにジャムを与え、人肉や血を求める飢餓感だけは残し、ターゲットが訪れたら、一斉に襲いかからせるという手法だ。つまりこれは罠だ。中の全てのマスクは次に俺達を喰べようとする。ジャムがな無くなり次第。エレベーターはなにやらこの階で停まった音がするし、俺から見える非常階段の扉の外には人影があり、ドアがギシギシ言ってるが?』
つらつらと読んでいた二人は、エレベーターと非常階段を確認し、慌てて銃を構え直す。中から一斉にマスク達が立ち上がり、三人のもとへ出て来ようとするタイミングも同じだった。
「もう黙って静かに気配を消しててもなんの意味もなさねぇな」
堂々と坂崎が述べる。
「この量で三方向から挟み撃ちは、さすがに厳しいな。とりあえず、部屋の中に入って扉を閉めて、中の殲滅から始めるか?」
坂崎が提案すると、西園寺が声を出した。
「俺は外に残って、外の殲滅を」
「――そうか。死に急ぐなよ?」
少し思案した様子だったが、坂崎は頷いた。その時には、既に梓藤は室内にいた。同様に中へと坂崎が滑り込んだ直後、梓藤が鍵を閉める。そこへ梓藤の背後からマスクが襲いかかろうとしたのを、坂崎が撃ち抜いた。後方の白い壁に、マスクは衝撃で激突し、陥没した頭部をさらに打ち付けてから、床へと沈む。その時には、既に梓藤も発砲を始めていた。
最早どの個体の血であり、脳漿であり、肉片であり、眼球なのか。
そんな事は混じり合って分からない。
分かる事は一つだけで、二人で的確に、マスク達の頭部を破壊しているという事だけだ。時には噛みつかれそうになったり、実際に腕を噛まれたりしたが、特に噛まれても遺体のみで問題は無い。喰いちぎられなければ、という話だが。
――破裂音がしたのは、その時だった。
二人が一瞬動きを止める。そして扉へと振り返る。すると窓に叩きつけられている、マスクの丁度鼻から下くらいの後頭部だったものが見えた。それは、明らかに排除銃による銃撃では起きえない破裂状態にあった。まさしく、顔の半分から上の頭部が完全に破裂した状態だ。綺麗にナイフで切り落としたといわれても、不思議では無いような断面である。
「……」
坂崎は一瞬不思議に思ったが、別段外が片付いているのならば何を用いても問題は無いと判断し、自分の仕事に戻った。梓藤は、一応そんな坂崎に向かい、補足する。
「西園寺は、PKが使えるんだ」
「ほう、そりゃぁまた。どうりでPKの模倣で動いてるようなもんの排除銃より威力が強いわけだ。ただそれにしても、範囲が広いな。一撃で外が、全滅したぞ? 素晴らしい」
坂崎はそう言いつつも、どうでもよさそうだった。
「しかし静間の腕を持っていったという奴はいないみたいだな」
坂崎はそう言いながら、残り二体となったマスクの両方の頭部を撃ち抜いた。
そうして落ち着いたので、梓藤が鍵を開ける。
すると血だまりと肉片の山を革靴で踏みながら、西園寺が入ってきた。
「どうする? 梓藤、検証は第二係に頼むとして、高等知能のあるマスクをここで逃したとなると、厄介だぞ?」
「坂崎さんはどう思うんですか?」
「そりゃ、主任のお前に任せる」
「主任の俺が意見を求めているって事だ」
「詭弁だな」
苦笑してから、坂崎が頭上を見上げる。そして排気口めがけて、排除銃ではなく、普通の拳銃を撃った。
「うっぐぁあ」
すると奇声が響いた直後、排気口から、平べったいものが落下してきた。
甘い匂いが漂っている。それが落下し絨毯の上に落ちた直後、排気口からはたらりたらりと血が零れてきた。
「やっぱりな。こういうお遊びが、高等知能のマスクは好きなんだ。自分が仕掛けたものは、自分の目で見たいらしい」
甘い匂いがした瞬間、息を呑んだ西園寺が凍りついた顔をした。
「あー、体が動かなくなっただろ? 直接吸い込むと、人体はそうなるんだ」
「えっ……どうして、坂崎さんと主任は、動けるんですか……?」
「俺はワクチンを打ってる。研究所でマスクの香りへの対抗実験をいくつもしていて、その中で生み出された一つだ。そういえば、梓藤、お前は?」
坂崎が、近づいてくるマスクの顔を、ダンっと革靴で踏みつける。そして今度は排除銃を構えると、踏み潰したマスクから一度靴を退け、その顔面を撃ち抜いた。
「俺は動けないぞ?」
「は? じゃあ、二度もどうやって逃げたんだよ?」
「運が良かったんだ」
「へぇ。まぁ三度目もあればいいな。ただ俺は運任せではなく、早急にワクチンを接種することを勧めるが」
「ああ。ワクチンの存在を知らなかった」
「最後にボケ散らかしたのは、結局梓藤だったな」
坂崎が声を上げて笑い始めたので、梓藤はいたたまれなくなった。
西園寺は、自分もワクチンを打とうと決意する。
「さて、最後の高等知能マスクを退治して、帰るか。梓藤をスタンガンで気絶させた個体」
坂崎の声に、梓藤が大きく頷く。西園寺だけが首を傾げた。
「そちらは、何処にいるのか分かるんですか?」
「受付にいただろ」
「あ……」
「そう何体も高等知能マスクは、本来はいない。一係は、対処する機会が多いから、体感では麻痺するだろうが、全体の中での比重はかなり低い」
「……な、なるほど」
こうして三人は、堂々とエレベーターで一階まで降りた。
そして受付のカウンター、扉の向こうにいた高等知能マスク及び、何も知らなかったのだろうが、一緒に働いていたという罪で、人間も全て撃ち殺した。梓藤と坂崎は慣れているようだったが、殺人はさすがに初めてだった西園寺は、終わって外に出た時、自分の手が震えていることに気がついて、目を見開き唖然とした。
するとポンと坂崎が、西園寺の肩を叩く。
「誰だって最初は怖いもんだ。それに、人が人を殺してはいけないという信念は、俺は正しいと思ってる。だが――これも仕事だとして割り切るか、それが出来ないのならば、より多くの市民を助けるために必要なことだと考えればいい。まぁ、すぐに慣れるさ」
そう言って坂崎が両頬を持ち上げて笑った。
おずおずと西園寺が冷や汗をかいたまま頷いていると、坂崎が梓藤に声をかける。
「悪い、俺はこのまま直帰してもいいか? 来る前に調べた位置情報で、すぐそこに駅があるのを見つけてる」
「ああ、構わない。坂崎さん、さすがった。坂崎さんがいなかったら、死んでいた」
「かもな。いいや、案外、三度目の幸運があったのかもな。じゃあな」
最後に口角を持ち上げて笑うと、春の兆しが見える土手へと上がり、坂崎が歩いて行った。それを西園寺が見送っていると、先に車の横に立った梓藤が声をかける。
「置いて行くぞ」
「今行きます」
慌てて西園寺がそちらに向かう。それからふと、疑問を抱いて、乗り込む前に、梓藤に尋ねた。
「主任はどうして、【力】を使わないんですか?」
それを聞くと、梓藤がいつもの通りの無表情に戻った。
そして冷たい声を放つ。
「余計な詮索は死期を早めると覚えておけ」
「……はい」
こうして二人は車に乗り、本部へと帰還した。
【二十三】混乱
梓藤達と別れた後、坂崎は急いで妻が入院する病院へと向かっていた。
電車が奇妙なほど遅く感じ、降りてから駅で拾ったタクシーの速度はさらに緩慢に思えた。両手を組み、額にあて、キツく瞼を閉じる。
朝――先程のビルに出立前、本部にいた際にかかってきたプライベート用のスマートフォンへの着信。それは、病院からのものだった。危篤の時にのみ、かけてもらう事になっていた電話だ。着信音でもそれを理解したし、画面に表示された登録名でも病院からだと分かった。あの音が鳴る事がないようにと願い、同時に鳴ればすぐに分かるようにと、敢えて気の抜けた音を設定したのは二年前、それは妻自身が行った事だ。笑いながら、まだまだ大丈夫だと妻はいい、そうだなと坂崎も笑顔を返した。その時から、既にチクりと胸は痛んでいたのだが。
その年、昇進の話と主任になってほしいという打診があった。だが、看病を理由に、どちらも坂崎は断った。そうなれば、ただでさえめったに見舞いに行けないというのに、ほとんど会う事ができなくなるだろうと判断したからだ。実際梓藤を見ていると多忙極まりないので、その件に後悔はない。だが、だからといって日々の任務が減るわけではない。今だってそうだ。
ずっと妻の事を考え、すぐにでも病院へ行きたいと願う思考を、無理矢理心の内側に押し込めて封をし、マスクの処理に当たった。おかしなもので、無関係な他人をいくら殺せても、大切な家族の死は到底受け入れられそうにも無かった。
何度か移動中に、特にタクシーに乗っている現在、病院に電話をかけ直そうかと思案している。だが、落とした電源を入れる勇気が出ない。
これまで付き添いは、まだ中学生の透が一人で行っていた。今も、病院にいるのだろう。
――朝、病院に駆けつけなかった理由が、一つだけある。
内心でそれは言い訳かもしれないと思いつつも、唯一坂崎が見つけ出した理由だ。
妻の両親は、マスクに殺害され、全身を喰らわれたのである。
だから妻はいつも坂崎に、仕事を頑張って欲しいと、みんなを守って欲しいと、そして悲しい被害が少しでも減るように頑張ってと、何度も繰り返し言葉にしていた。本当に、よく出来た嫁だ。気立てが良いというのは、まさにこういうところだ……自分が、死の淵にいるというのに、他者の幸せを祈り、旦那に仕事に行けというような。ただそれが、逆に残酷でもある。
ただそのため、危篤だと悟っても、目の前に任務があったから、妻はきっと駆けつけるよりも自分が任務を全うした方が喜ぶと考えて、マスク退治へと向かった次第だ。
――いいや、ただ単純に、妻が今際の際だと受け入れたくなくて、病院へいく勇気が出なかったのかもしれない。
自分では、もう何が自分の考えで、本心なのか、混乱してしまい坂崎には分からない。
「無事で……」
無事でいてくれることはあるのだろうかと、何度も考えている。朝の時点で危篤だったので、病院につくのが夜の七時をまわる今、希望を持つべきではないと、坂崎の理性が何度も叫んだ。だが、感情は生きていて欲しいと喚く。
こうして坂崎が病院につき、病室へと向かうと、ベッドはからだった。総合受付で尋ねれば、『ああ、お悔やみ申し上げます』という簡素な言葉が響き、いよいよ顔が強ばった。その後案内されたのは霊安室で、ゆっくりと戸を開けると、中には息子の姿があった。そして、白い布を顔にかけられている女性の体が一つ。体躯だけでも妻だと分かる。
「透……」
坂崎が声をかけると、顔を上げた透が、両目をつり上げて、坂崎を睨めつけた。泣きはらしたように充血している透の瞳に息を呑んだ時には、透に両手で胸ぐらを掴まれていた。背伸びをしている透は、まだ二次性徴を完全には終えていない。
「どうして来なかったんだよ!!」
泣きながら、透が怒鳴った。するとボロボロと透の眼窩から、透明な雫が零れ始める。しかしその表情は、憤怒で歪んでいる。
「どうして……どうしてだよ!! 最後まで、母さんは、待ってたのに」
「っ」
「もうすぐ来てくれるって、そう言いながら死んだんだぞ!!」
それを聞くと、坂崎も泣きたくなった。だが、息子の前でそれは出来ないと考える。自分よりきっと、透の方が辛いはずだと、必死に涙を堪える。
「もうお前の事なんか、父親だとは思わない。この人でなし!!」
そう言うと透は、坂崎を突き飛ばし、霊安室から走り去った。
残された坂崎は、一度大きく深呼吸をしてから、妻の顔に被せられている、白い布を摘まんで、それを捲った。そこには、軽く死に化粧が施されている妻の顔があった。
じっくりとその表情を見て、坂崎は俯いた。
――本当に仕事を優先すべきだったのだろうか?
――本当に妻はそれを望んでいたのだろうか?
ゆっくりと妻の顔へ手を向け、坂崎は遺体の頬に触れる。冷たく硬い。
「待たせて悪かったな……」
ぽつりとそう言葉を零し、坂崎は苦笑した。その瞳は潤んでいて、今だけは、透が出て行ってくれてよかったと、坂崎は思った。眦が涙で濡れたのは、それからすぐの事だった。
【二十四】休暇の取得
翌日は、よく晴れていた。
本部に向かった坂崎は、荷物を置いてから、その足で梓藤の元へと向かった。
「梓藤、明後日有休を取ってもいいか?」
「ん? ああ、それは定められた権利だから、待機という形になるにしろ、書類さえだしてもらえれば――……ただ、珍しいな、坂崎さん」
梓藤は坂崎に視線を向けると、小さく首を傾げた。理由は簡単で、ここに配属されてから、過去に一度も、坂崎が休暇願を出した姿を見たことが無かったからだ。
「書類に記載欄があるから、問題ないと考えて聞くけど、何かあったのか?」
すると苦笑した坂崎が小さく頷いた。
「妻の葬儀なんだ」
さすがに梓藤も息を呑み、表情を強ばらせた。静間が驚いて向き直り、西園寺も唖然として視線を向けている。寧ろこの場で、苦笑とはいえ笑っているのは、坂崎本人だけだった。
「そう暗くならないでくれ、長くないのは分かってたんだ。俺は平気だ」
坂崎の奇妙なほどに明るい声に、そんなはずがないと感じた静間は見ていられなくなり、顔を背ける。笑顔が逆に痛々しく思えた。梓藤は、こういう時にかける言葉を見いだせず、ただじっと坂崎を見ている事しかできない。すると、小さく西園寺が頭を下げた。
「お悔やみ申し上げます」
その声を聞いて、やっと梓藤も適切な言葉を思い出した。
「本当に残念です。お悔やみ申し上げます。あっ……と、坂崎さん、花輪などの手配は――」
「不要だよ。ひっそりとした家族葬だからな。地味にする。目立つのは逆に止めてくれ」
「そ、そうだ! 雪洞贈ります。今日中にでも! あと電報も!」
静間の声に、小さく坂崎が吹き出した。
「それは俺が、喪中の人間に送ると喜ばれるセットとしてお前に教えてやったものだよな?」
「はい! 邪魔にならず、仏壇を華やかにし! 葬儀で司会が読むものが少ない際に――」
「だからいらねぇよ。大丈夫だから」
クスクスと坂崎が笑っている。静間も無理に笑おうとしたのだが、その表情は引きつった。それから坂崎は深く吐息すると、両頬を持ち上げる。
「さ、今日は葬儀じゃない、暗くなるなよ。時間を取らせて悪かったな。仕事、仕事!」
パンパンと坂崎が手を叩いたので、それぞれが己のパソコンに向き直った。
それでもこの日はチラチラと、三人は坂崎を見てしまった。恐らく坂崎はそれに気づいていたのだろうが、誰とも視線を合わせず、昼食時にはふらりと出かけ、コンビニの弁当を持って戻ってきては、また仕事をしていた。
夕暮れになり、定時をまわった時、梓藤が声をかけた。
「早めに帰った方がいいんじゃないのか?」
すると坂崎が漸く顔を上げて首を振った。
「休みを取る間の分の仕事を片付けてるだけだ」
「……そうか。だが、休みの日は働かなくていいんだから、そんな仕事は存在しないはずだ」
「おいおい梓藤。それ、毎日言ってくれないか? この時間に」
「た、確かに残業は多いな」
「おう」
坂崎が冗談めかして笑う。それ以上は何もかける言葉が思いつかず、梓藤は自分の席へと戻った。
――そして、その次の日。
帰り際、やはり坂崎が残ろうとしていた時だった。
「あの」
西園寺が珍しく自発的に、坂崎へと声をかけた。梓藤と静間がそれとなくそちらを見る。
「ん?」
「これ……香典です」
「あ……気を遣ってくれなくてよかったのに」
苦笑した坂崎が、素直にそれを受け取る。すると西園寺が改めて頭を下げた。
坂崎と西園寺が二人で話し始めたのを見つつ、静間がパソコンで梓藤にメッセージを送る。
『思いつかなかったよ! どうしよう!?』
『俺もだ……そのような考えが無かった……』
二人がそうやりとりしていた時、西園寺がよく通る声で言った。
「俺達三人分ですので」
珍しく大きな声だった。そんな場合では無いのだが、梓藤と静間は肩から力が抜けた。西園寺の気遣いに救われた思いだった。
「悪いな、本当に。気を遣わせて」
「いえ……」
「梓藤ー! 静間ー! 用意しろとは言わないが、そこで見え見えのやりとりをして西園寺を困らせるくらいなら堂々としてろ」
全て気づいている様子の、坂崎の呆れたような笑みを含んだ声音に、ビクリとしてから、梓藤と静間は引きつった笑顔を返した。西園寺は失敗したという顔をしていた。
【二十五】千円札三枚
火葬場の煙突から、煙が空へと溶けていく。それを見上げていると、鴉が横切っていった。まだ肌寒いが、この周辺の桜も少しずつ春の兆しを見せ始めている。火葬場に使い土手には、蕗の薹が生えていた。きっと、無数の遺骨の栄養素を蓄えているのだろうなと考えて、それは墓地にある杉の木の方がより顕著かと思い直す。
白い布で覆われた骨箱を手に、坂崎と透は墓地へと向かった。
先を行く高級車から降りた住職が、案内をしてくれる。この墓地は坂崎家の墓で、現在は坂崎の両親が眠っている。二人はともに、坂崎同様警察官で、マスク対応をしていて、マスクに殺された。
坂崎は思う。
恐らく高等知能を有するマスクには、復讐心があると。理由は、母が何十体ものマスクを一気に殲滅する作戦に成功した時、その日父と幼かった当時の坂崎を、マスクが誘拐した事があったからだ。その際は、坂崎の父が単独で誘拐犯を制圧し、事なきを得たが、こういった事例には事欠かない。
納骨を済ませてからは、タクシーを拾って二人で帰宅した。妻が亡くなって以後、一度も透は、坂崎とは口をきかない。坂崎がいくら話しかけても、無視を決め込んでいる。
――無視されて、当然のことをしたのだろう。
坂崎はそう考える。やはり仕事を優先するべきではなかったのだろうと思い悩み、だが妻の声を思い出せば、やはり仕事を優先するしかなかったと考えさせられる。
家でタクシーが停まると、家の中に入る事もせず、透は走るように歩き去ってしまった。
溜息をついてから一人で玄関の鍵を開けて中へと入った坂崎は、冷蔵庫を開ける。昨日、一昨日と、いくつか坂崎自身の手で食料を購入しており、料理には困らない。
坂崎は、両親が警察官でなかったならば、自分は料理人になっていたと確信している。子供の頃から、料理がずっと好きだったからだ。だが、両親が敷いたレールから逸れる決断は出来なかった。
そんなものだと、坂崎は思う。坂崎の世代の多くの公務員は、両親がそうであったからという理由で就職先を決めていたからだ。勿論違う者も多かっただろうが、少なくとも坂崎の周囲はそうだった。
ただ坂崎は、透には絶対に警察官にだけはなってほしくない。マスク退治のような危険な仕事にだけは、就いてほしくない。
この日坂崎は、かにクリームコロッケを作った。
「まぁ、上出来だな」
揚げたてを透に食べさせてやりたいと思って暫く待っていたが、透が帰ってきたのは九時過ぎで、補導されるぞと怒ろうかとも思ったが葬儀の夜という事もあり、坂崎は何も言わなかった。ダイニングキッチンの前を素通りして、透は部屋へと入っていく。
「……」
仕方が無いので一人で揚げて、いつでも食べられるよう、テーブルの上にラップをかけて、レンジで何分温めれば良いかというメモを置く。
考えてみると、料理を透に食べさせたいと思う事は過去に何度もあったのに、実行しようとしたのは、今日が初めてだった。有給だってそうだ。もっと休んで、妻に会いに行けばよかった。後悔は、後からしか出来ないものだが、悔恨の念はそれでも消えない。
溜息をついてからシャワーを浴び、早く眠りについて、翌日は早く起きた。
透の朝食を用意するためだ。
これまでは、三食宅配を頼んでいた。そちらならば食べるかもしれないので、それも解約はしない。また昼の分も届くが、いつもコンビニで買えるように、昼食代も置いていた。それも続けるつもりだが、今となってはたった二人の家族であるし、透にとって母の喪失の傷はきっと深いだろうから支えてやりたくて、坂崎は少しでもできる事をしようと考え、その結果の料理だ。
そうしてこの朝は、輝くような朝食を作ったのだが、顔を出した透は、無言でテーブルの上の千円札三枚を手に取ると、家から出て行った。
「まぁ、いきなり父親面されても、ってところか? 仕方ないだろうな」
苦笑して一人頷き、坂崎も本部へと向かった。
こうして始まった父子二人の生活。坂崎は、可能なかぎり早く帰るようになった。誰もそれを咎めなかった。それに――もう、働く動機だった妻がいないのだから、働く理由も無くなってしまった。妻がいなくなってまで、妻の言葉を守れるほど、己は強くないと坂崎は考えている。
「……っ、透」
だがいくら早く帰宅し夕食を作ろうとも、視線すら合わせずに、透は自室がある二階へと、階段を上っていく。なのでテーブルの上に料理を置いても、夜中に適当に冷蔵庫を漁って食べているようで、決して坂崎が作ったものには手をつけない。それは朝も同じだ。昼食代だけ無言で持っていくだけだ。では、それを置かなければ? ある日そう考えて、坂崎は実行した。すると軽蔑するように坂崎を見てから、透はなにもせずに学校へと行った。だから翌日からは、再び千円札を三枚置くようになった。息子にひもじい思いをさせたくない一心からだ。
そして仕事へ行き、終わってからは早く帰宅し、毎日毎日、遅く帰ってくる透を待つ。八時頃の帰宅が多いが、時には十時で、本当に補導されてもおかしくない時間帯に帰る事も多い。今日もそうだ。
「……そんなに、俺といるのが嫌なのか……だったら、俺が仕事を増やして家を空ければ、逆に家に……」
坂崎はそう考えて、せめてその点について透と話がしたいと思って、部屋に行ってみたが、冷たい眼差しを向けられた後、無言で扉を閉められ、鍵をかけられた。
最早、接し方が分からないなどの問題ではない。
嫌われているのだと、明確に理解せざるを得なかった。
【二十六】ゴミ箱
「よぉ、おはよう」
坂崎の声に、既に本部にいた梓藤が頷く。
「おはようございます」
「今日みたいな雨だと、やる気が出ないな」
世間話をしながら、坂崎が座る。坂崎は、いつも通りだ。定時を過ぎてすぐに帰るようになったが、仕事量はきちんとこなしているし、問題はない。それが主任としての判断であり、同僚の一人としては、まだ家族を亡くして一ヵ月しか経過していない上、子供もいるのだから大変だろうという考えもある。
だが見ているかぎり、坂崎には悲壮感などまるでない。
亡くなった直後も無かったが、死を事前に覚悟していると、このように受け止められるのだろうかと、梓藤は時折疑問にもなる。眠そうにも見えない。食欲もどちらかといえばありそうだ。いつか自分は弱って医務室を紹介されたが、弱い所が全く見えない坂崎に勧めるのも躊躇われる。
「坂崎さん」
「ん?」
「その……これは主任として聞く。無理はしていないか?」
「は? 無理? 何に関してだ?」
「蒸し返すようで悪いが、奥さんのこと……」
「ああ」
梓藤が平静を装って聞くと、坂崎が笑顔で大きく頷いた。
「悪いな、気を遣わせて。だが、本当に平気なんだよ、分かるかい?」
「分からない」
「俺には息子がいるからな。家内の分も、これから愛してやらないとならないからな。落ち込んでる暇なんてねぇんだよ」
快活な笑顔で坂崎が述べたので、そういうものなのかと梓藤は頷いた。
本部にいる時、このように坂崎はいつも明るく、以前の通りで何も変わらず、頼りになる大人だった。
――だが。
帰宅して夕食を作る時、坂崎の瞳は日に日に暗さを増し、表情が無くなっていく。
作っても、作っても、作っても――どうせそれらは、ダストボックスに生ゴミとして放り投げることになると、そう理解して作る料理は、空しさの象徴だ。それでも用意をするのは、もしかしたらいつか食べてくれるかもしれないと期待しているからだ。
本日は少し早く、七時過ぎに透が帰ってきた。
慌てて坂崎は、明るい表情を取り繕う。
「透、今日はハンバーグを作ったんだ、良かったら――」
だが虫螻を見るような顔をした後、無言で透は階段を上っていき、すぐに扉が閉まる音が響いた。笑顔のままでダイニングキッチンへと戻る。それは、万が一透が顔を出した時に備えてだ。けれどそんな事は過去に一度もない。坂崎は一人になってから、笑顔を消す。
頬杖をついて一人で座っていると、すぐに用意した食事が冷め始めた。
暫くそれを眺めたまま、ぼんやりと座っていた坂崎は、脳裏では妻の事を考えていた。もっと何か、できる事は無かったのか、と。
その後冷めた食事を、温め直す気も起きないまま一人で食べた坂崎は、もう一人分をゴミ箱に捨てた。
翌日、ゴミを出してから本部に行った坂崎は、いつもの通り笑顔で仕事を開始した。この日は、三体ほど屠った。人間は、二人。妻を亡くして苦しいのに、他人ならば、なんとも思わなかった。
さてこの日、帰宅した坂崎は、いつもの通り二人分の食事を、諦観しながら作っていた。
するとまだ調理中だというのに、早い時間に透が帰ってきた。驚いて振り返ったのは、玄関の開閉音がしたからではない。
「ただいま」
ダイニングキッチンに顔を出した透が、自発的にそう述べたからだ。その声音は明るい。咄嗟のこと過ぎて、坂崎は虚を突かれた。今朝までとは態度が一変している。
「ああ、おかえり」
それでも笑顔を必死で浮かべ、首を傾げつつもまな板へ視線を戻しながら伝えた。
「今日は鯖の味噌煮を作るんだ。透も一緒に――……」
言いかけて、坂崎は唾液を嚥下した。いきなり一緒に食べようと話したら、図々しいと思われて、折角の会話の、仲直りの緒がなくなってしまう気がして怖い。
「うん、食べたい。俺、父さんの料理って、考えてみると食べたこと無かったなぁって」
「……あ、ああ。悪い、こえrまでは仕事で忙しくて……い、いや、これは言い訳だな」
「ううん。お仕事が忙しかったのは分かってるつもりだから。母さんがいつも言ってた」
「そう、か……」
頷きつつ、内心では首を傾げ、坂崎は宣言通り鯖の味噌煮を作った。
そして信じられない思いで透の前に置き、自分の分もテーブルに置いて席につくと、それまでそこに座って雑談に興じながら待っていた透が、箸を持って満面の笑みを浮かべた。
「いただきます。うん、美味しい!」
その言葉に目を丸くした坂崎は、息を呑んでから天井を見上げた。完全に涙腺が潤んでしまったのだが、それに気づかれたくなくて、涙を乾かす事に躍起になる。その後も透は、あれやこれやと感想を述べながら、他に用意してあったひじきやサラダも全て食べおえると、自分の部屋へと戻っていった。
皿洗いをしながら、坂崎は今度こそ泣いた。嬉し泣きだ。
努力が向かわれたのだと、想いが伝わったのだと、そう感じたら胸が満ちあふれてたまらなくなった。やはり親子の絆が、確かにあったのだと確信した。
以後、毎日透は、坂崎の作る料理を喜んで食べ、また必要時以外も雑談にダイニングキッチンへ来てさえくれるようになった。ただたまに、やはり帰宅が遅い日はある。それが心配ではあったが、当初のどうなる事かと不安だった父子生活が、次第に順調に軌道に乗りはじめたと思い、心から坂崎は、喜んでいた。
【二十七】見間違い
「よーし、お疲れ」
坂崎が今日も定時で帰ろうとした時だった。梓藤が顔を上げる。
「あ、坂崎さん」
「ん? どーした?」
「最近、坂崎さんの家の方で、マスクだとはまだ断定出来ないんだけど、殺人事件が続いてる。遺体の損壊が激しくて、一部の肉片や臓器が無いのが、喰べられたからなのか、殺人犯の仕業なのかは分からないが、マスクだった場合、至急家から対応に出てもらう事になる」
「ああ、分かった。マスクの方がまだマシだな。殺人犯となると――……」
自分達もそうだ、と、以前ならブラックジョークを放っただろう。
だが、霊安室で聞いた『人でなし』という言葉が脳裏を反芻し、声が喉で閊えた。
もう今は本当に、透には、含むところはないのだろうか? いつか梓藤が声をかけてくれたが、自分こそ透の気持ちに寄り添うべきなのでは無いのかと、坂崎は瞬時に考えた。
「坂崎さん?」
「あ、いや。帰りに買うもん思い出してた」
「幸せそうでなによりです」
こうして梓藤をはじめ、他二名にも見送られ、坂崎は本部を出た。
そして帰路につくと、丁度玄関から出てきた透が見えた。
「……」
今日は恐らく、家を空けるのだろう。だが、と、ふと思う。定期的にいなくなるが、果たして何処へ行っているのか。危ない連中と付き合いがあったら、止めなければならない。いいや、そういった普通の人間ならまだしも、今日はマスクか殺人犯がいるかもしれないと聞いた直後だ。万が一被害に遭ったら危険だ。そう考えた坂崎は、無意識に尾行を開始していた。
そして少し歩くと透が角を曲がった。気配を押し殺して、透が消えた先へと顔を出し、坂崎は目を見開き、慌てて右手で口元を覆った。そうしなければ、悲鳴を上げそうだった。見ているものの理解を、全身が拒んでいる。
続く裏路地には、倒れ込んでいる人間の姿があった。
どうやら、もう事切れているようだ。それは、ナイフを手に、壁に背を預けている男が見えたからでもあったが、それ以上に、ぐちゃりぬちゃりと音を立てて、右手を押し込んで、胸から手に取った肉片を、貪るように口へと運んでいる透が見えたからに他ならない。
硬直してから、一歩、二歩と、後ずさり、その後は全力で坂崎は家まで走った。
そして鍵をかけた時、全身を震えが襲い、歯がガチガチと鳴っている事に気がついた。何体も、人間が食されている姿は見てきたし、貪っているマスクも見てきた。だが己の息子が血肉を啜っている光景など、勿論見た事はない。
――そうだ、マスクだ。
アレは、マスク以外ではあり得ない。横にいた男が協力者なのか、高等知能を持つ別のマスクなのかは分からないが、少なくとも透の姿をしていた存在は、マスクだ。
靴を脱いで家に入った坂崎は、着たままのコートのポケットに排除銃があるのを確認し、白い手袋を両手に嵌める。殺るならば、帰宅して扉を開けた瞬間が望ましい。
そう考えて、ダイニングキッチンの柱に、ピタリと背を預け、天井を見上げる。
いつから、成り代わっていたのだろう?
その疑問は、すぐに消失した。態度が急変した日時は明確だ。自分の料理を、美味しいと言って食べてくれたあの日。高等知能を有するマスクは、人間の食事もとる上、それだけではなく、記憶を完全に読み取り、擬態に有利な環境を作り出す。それには、今の状態の方が、都合良く適応できたと言うことなのだろう。
――マスクと息子の区別さえつかなかった。
――これでは、嫌われて当然だ。
そう考えた坂崎は、息子を殺害したとおぼしきマスクの帰りを待った。すると二時間ほどして、玄関の鍵がまわる音がした。今、だ、と。坂崎の理性が叫んだ。だが――。
「ただいま、父さん」
その声を聞いた瞬間、坂崎は両手で銃を握ったまま、硬直した。声を聞いたら、決意が揺らいだ。
息子の声なのだから、当然だったのかもしれない。理性ではそれがマスクの声だと理解しているのに、愛おしい息子の声に、撃つなと感情が言う。
――だが、あれがマスクでないのはありえない。排除対象だ。
――でももし、見間違いだったら?
「……っ」
――きっと、見間違いなんじゃないのか?
それは優しくも残酷で、楽な選択肢を与えてくれる言葉だった。
「おかえり」
コートへと銃をしまい、笑顔で坂崎は振り返った。
見間違えなどあるはずもなかったが、坂崎は、その可能性を捨てられなかった。
その日は、慌てて夕食の準備をした。
だが本日ばかりは、坂崎も眠れず、万が一に備えてずっと排除銃を握っていた。
しかし翌朝朝食を作って待っていると、美味しそうに食べて、普通に通学していく姿を目にし、やはり見間違いだったようにも思えてきた。
こうして、坂崎は本部へと向かう。
すると梓藤が、溜息をついた。
「また殺人なのかマスクなのか、怪しい遺体だ。喉をナイフで切り裂かれているから、それは人間の仕業なんだろうとは思う。マスクの偽装で無ければな」
そこから梓藤が状況を語り始めた。坂崎は昨日目撃した光景を、意図的に忘れた。
【二十八】思い出
その日の帰り道、無表情でスーパーに立ち寄った坂崎は、イチゴジャムとブルーベリージャムとマーマレードジャムとバターを購入した。他には食パンを。
どこか青ざめた様子で帰宅した坂崎は、他のおかずを用意してから、透の帰りを待った。
「ただいま」
「おう、おかえり」
にこやかに出迎えつつ、いつも以上に明るくなってはいないか、不自然ではないか、と、坂崎は考える。もしイチゴジャムを選んだならば――やはりどう頑張って忘却しようとしても、昨日しっかりと見た上に、状況証拠もあるどころか、この存在は自分の息子を殺めた怪物だと思い直し、射殺するつもりだった。
「今日はパンなんだ? 俺ブルーベリーがいい」
しかし拍子抜けするほどあっさりと、ブルーベリーが選ばれた。思わず呻きそうになったが、それを堪え、坂崎は深呼吸をした。やはり、思い違いだったのか? だとすれば、息子を手にかけるところだった。ドクンドクンと心臓が煩い。それでもなんとか平静を装い、その日は二人でパンを食べた。
――それらしき片鱗を見せたら、殺害すればいいだろう。
坂崎はそう考えた。気づかなかったとしても家に置いておいたら、自分自身も排除対象だが、それは別段構わなかった。妻も息子もいなくなったのだとしたら、特に未練もない。だが、息子は今目の前にいるかもしれない。
坂崎はなんとか己を納得させようと、躍起になった。
そうして、三日、五日、一週間、次第に時が流れ、既に初夏が訪れていた。
「あのね、父さん。小さい頃、母さんと三人で、テーマパークに行ったでしょ?」
「ああ、よく覚え……」
果たして覚えているのか、マスクが記憶を読んでいるのか。
最近では、坂崎は考えることがある。いつか、マスクが復讐する存在なのではないかと考察した記憶を。もしかしたら、透は復讐で殺され、マスクに成り代わられてしまったのかもしれない。
「それで、あの時買ったオルゴール! 掃除をしていたら部屋から出てきたんだよ」
「っ」
坂崎は硬直した。それが事実ならば、それは本物の透が持っていた品だという事だ。もし目の前の存在が本物であっても、そうでなくても、それは変わらない。そのオルゴールは、何も欲しがらなかった透が唯一欲して、坂崎が買い与えたものだ。後にも先にもその一度しか、遊びに連れて行ったことはないし、何かを買ってやったこともない。
「……」
それを聞いたら、ふと心が軽くなった。駄目な父親の自覚はある。けれど、駄目なりに、してやった事もあったのだなと、そう考えると泣きそうになった。
「どうかしたの? 父さん」
「いいや、懐かしいと思ってな」
「僕がついてるから。いっぱい思い出は、これからも作れるよ。僕は父さんが大好きだよ」
明るく優しいその声音が響いた瞬間、坂崎の最後の理性がブツンと途切れた。
それまではどこかで、透を殺したマスクだと、確かにそう考えていたはずなのに。
――今の息子が、優しくて辛い。たとえ本物が、殺されたのだと分かっていても。
こうして相手がマスクだと確信した状態での、同居開始が始まった。やはり見なかったフリは出来ない。確かに見た。だが、だからなんだ? ここでこうして、優しく笑って生きている、息子の顔をして、息子の記憶を持つ、息子と同じ声の……マスクだ。結局は、人間の遺体に取り憑き、脳を操作して動かしているだけにすぎない、顔だけの存在。でも……それは上辺を剥がしてしまわなければ、息子と同じだ。
そう考えながら、この日坂崎は里芋の皮を剥いていた。考えごとをしていたのが悪かったのだろう。グサリと、親指の付け根を包丁で切った。
「っく」
痛みに呻いて、右手で患部を押さえる。
「父さん!」
すると透の驚いた声がした。反射的にそちらを見て、坂崎は後悔した。透の瞳には、ギラギラとした、頻繁にマスクが見せる光が宿っていた。食事を欲している時の瞳だ。取り落とした包丁の位置を確認すれば、床だ。手を伸ばして武器にするには遠い。銃はコートの中、そこの椅子に掛かっているが、この位置からでは手が届かない。思わず坂崎は後退る。どんなに目の前の透がマスクであってもいいと自分に念じようとも、本能的な恐怖と、捜査官としての経験が、自分を守る武器を探させる。一歩、二歩と、坂崎は後退る。目の前からは逆に、一歩、二歩と、透の姿をしたマスクが近寄ってくる。
その瞬間、透が床を蹴った。
そして坂崎が患部を押さえていた右手首を片手できつく握り引き剥がすと、左手の口で血が滴る傷口に齧りついた。血を舐め取られ、吸われ、傷口を舌でねっとりと舐められる。軽く歯が立てられている。いつ噛みちぎられてもおかしくはない。またマスクは、一度血を舐めれば、さらに欲する、一度肉を噛めば、すぐに次を欲するという習性がある。このままでは、自分は喰い殺される。
坂崎がそう確信した時だった。
ハッとしたように、透が口を離した。
「あっ、えっと……」
それから透が、不意に苦笑した。その姿を見て、信じがたい気持ちで坂崎は思案する。
「きゅ、急にごめんね?」
「あ、ああ……でもな、透。傷口は舐めれば治るというのは、デマだ」
「――えー? そうなの? 信じてたよ、今さっきまで」
誤魔化すには無理がある坂崎の言葉を、笑顔でマスクが受け入れた。
白々しい事この上なかった。
「あ、父さん。僕ちょっとこの後、友達に忘れ物を届ける約束をしているから、少しだけ、出かけてくるよ」
透の顔で笑ったマスクの目が、またギラリと光った。恐らく、先程の血の量では足りずに食事に行くのだろうと、坂崎はそう思ったが止めなかった。きっと、自分をこの場で殺さないのは、それだけ擬態がしやすいからだろう。学校生活は、紛れるにはうってつけだ。
――本来、誰かが代わりに喰い殺される事を、坂崎は望んだりしない。
だが、今は違った。
自分と透の顔をしたマスクの平穏な生活が維持できるのならば、他の事柄などどうでもよく思えた。
翌日の夜坂崎は、ミネストローネを作っていた。
そして完成後に、包丁をじっと見てから、左手の薬指の尖端に傷をつける。血が、ぽたりと鍋の中に落ちていく。それをかき混ぜてから、坂崎は指に絆創膏を貼った。本日の付け合わせは、イチゴジャムをふんだんに使ったケーキだ。
「すっごく美味しいね!」
食事時、透が言った。
「これ気に入っちゃった。明日も食べたい。ミネストローネ! ねぇ、作ってよ」
「ああ、いいぞ」
「だけどねぇ、これ、何か入れた?」
「……ちょっと、一風変わった輸入調味料を見つけてな」
「へぇ」
透の視線が絆創膏に向いたものだから、ゾクリとして坂崎は手をテーブルの下におろす。
「あ、デザートもすごく美味しい。俺、デザートは毎日これが良いなぁ」
そういうと透が、今度はじっと坂崎の目を見て、柔らかく笑った。
――ああ、あちらも、気づいてる。
坂崎にはそれがよく分かった。坂崎が気づいている事に、透もまた気がついたのだ。そう、もうマスクではなく、この者こそが透であり、坂崎は、透の喜ぶことならば、全てしたいと考えていた。
以後、デザートとスープが毎日同じになった。
そんなる日だった。
「ねぇねぇ、父さん? 前に言ってた輸入品の調味料、もう少し多めにしたらどうかな? その方がコクが出て美味しいと思うんだよね」
笑顔でそれを聞き、頷いた翌日から、坂崎が鍋に垂らす血の量は増えた。そして増加の一途を辿っていった。坂崎は、幸せだった。美味しそうにミネストローネを飲む透を見ている事が。その血を飲んだ後、ふらりといつも透は消えるようになったが、何処へ行くのかと咎めるようなことは、一度もしなかった。
【二十九】斬新な光景
「坂崎さん、その手、どうしたんだ?」
「――ん?」
唐突に梓藤に問いかけられ、顔が強ばりかけた坂崎は、知らんぷりで首を傾げる。
「絆創膏だらけじゃないか……ガーゼと包帯もしてるし……」
「ああ、これか」
やっと気づいたという顔で、坂崎は苦笑した。
「ほら、家内が亡くなってから、料理に必死なんだよ。これまでの人生で料理なんて一度もした事が無かったからな。いやぁ初体験で傷だらけだ。ただ、少しずつ上達してるんだぞ?」
「へぇ。得意料理は?」
静間が尋ねると、坂崎が瞬時に答える。
「ミネストローネだ。昨日も作ったんだ。息子のリクエストで!」
すると西園寺が派手に首を捻った。
「どうかしたの?」
静間が声をかけると、西園寺が困ったように坂崎を一瞥する。
「ミネストローネって、包丁……使いますか?」
その素朴すぎる疑問に、しかしながら坂崎は心臓が凍り付いたような思いをした。
「そ、の、他の料理に使ったんだ」
「え? ミネストローネという事は、イタリアンですよね? パスタとかでは? 包丁……? ああ、ミートソースですか」
納得したように西園寺が一人で頷いてくれたため、心底安堵して坂崎は話を合わせる。
「そうなんだよ、必死で作ってたら、親指をグサっていっちゃって」
「は?」
すると今度は梓藤が怪訝そうな声を出した。
「俺の記憶力はいい方だぞ? 坂崎さんは、少なくとも五日前から親指にその目立つ包帯をしていたと思うぞ? 上から付け根まで」
「あ……いやぁ、水仕事の最中だけ外してたら、また同じところをだなぁ……」
「それはない。その包帯は、昨日と同じものだ。昨日俺が渡した朱肉がついたままだ」
梓藤の声に、坂崎は声を失う。
「え? なになに、坂崎さんに事件の予感?」
静間の朗らかな声に、少しだけその場の空気が和む。
――第一報が入ったのは、その時の事だった。全員が仕事をする顔に変わる。受話器を取ったのは梓藤だ。
「分かった、急行する」
そう言って受話器を置いた梓藤が、真っ先に坂崎を見た。
「やはり坂崎さんの家のそばで発生している連続殺人は、マスクが絡んでいた。人間の協力者が見つかって、そちらが今、逮捕された。一般の警察官が捕まえたそうがだ、すぐに移送されてくる。対応は二係がするそうだ。問題は、マスクの方だ。一緒にはいなかったらしい」
それを聞いて、坂崎は青ざめた。
チラリと本部の壁の丸時計を見る。今の時間帯は、透は学校に行っているはずだ。そう必死で自分の胸を落ち着かせるのだが、嫌な予感がする。同じ場所に高等知能を持つマスクはそれほどいないというのは、以前西園寺にも伝えたことがある。それも理由の一つであったし、人間らしき共犯者がいた点、それからあまりにも高頻度で外に食事に行く事実……全てを合わせて考えれば、嫌な予感がしない方が無理だ。
「分かった。行く」
「ああ。坂崎さんがいてくれれば、地の利はこちらにあるかもしれない。西園寺も念のため来てくれ。相手は相当数を喰い殺しているからな」
「はい」
と、こうして三人で現場に向かうこととなった。正確には、人間の共犯者が捕まった付近を捜索する事になった。その間中ずっと坂崎の胸には、『相当数』という言葉がのしかかっていた。自分が見過ごしたばかりに、果たして何人が餌とされたのだろう。だがそうしなければ、今頃己はとっくに喰われていて、今のように幸せな生活を享受してはいられなかったはずだ。今ほど、誰かの幸福には、誰かの犠牲がつきものだという言葉を、実感したことがない。
「この辺りだな」
梓藤が車を停めたので、西園寺と坂崎がそれぞれ降りた。
透がいない事を祈りながら、酷い動悸に襲われつつ、坂崎は歩く。
左手を西園寺が歩き、右手を梓藤が歩いてくる。
中央の一歩先を、道に詳しい坂崎が進んでいく。そして、いないようにと願いながら、角を曲がった時の事だった。そこには、小腸をくわえている透が立っていたのである。坂崎は立ち尽くす。誤魔化しようが無い光景だったからだ。現に、直後左右から息を呑む気配がした。その時だった。
「父さん……?」
口から残飯を投げ捨てるように、不要物を手で地面に放り投げて、透が言った。
「坂崎さん? どういう事だ?」
「――ミネストローネではなく、血をリクエストされていたと判断して構いませんか?」
険しい梓藤の声のあと、事態を悟ったように西園寺が平坦な声でいった。
西園寺の排除銃は、ぴたりと透を捉えている。
「違う! 俺が自発的に――」
「聞き捨てならないな、坂崎さん。それは、自発的に協力していたと言うことか?」
「……っ、とにかく、透は悪くない」
梓藤の追求に対し、必死で坂崎が首を振る。すると西園寺が無感情の声で告げる。
「あれは貴方のご子息ではなく、マスクです」
「西園寺の言う通りだ。坂崎さん、分かっていると思うが、マスクを庇う人間もまた排除対象だ」
梓藤の排除銃の銃口は、ぴたりと坂崎の側頭部に当たっている。
「父さん……怖い……助けて……」
そこに、泣きそうな声が響き渡った。
迷わず西園寺が撃とうと構える。
坂崎が地に崩れ落ち、膝をついて号泣しはじめたのはその時だ。梓藤が銃口を当て直す。
「頼む、見逃してくれ、息子の記憶を持ってるんだ、息子の顔をしてるんだ、息子だ、息子と何が違うっていうんだ」
しかしその震える声に、振り返る事すらせず、西園寺は構えた通りに引き金を引いた。
砕け散った透の顔――を、したマスクの頭部に、坂崎が目を見開き、脳に手を伸ばそうとした瞬間、こちらも迷う事なく、梓藤が引き金を引いた。銃声が谺し、坂崎の頭部が吹き飛ぶ。破壊された頭部がちぎれそうになりながら、坂崎の体が傾く。梓藤はそれを抱き留めた。すると血飛沫が、どんどん梓藤の顔を濡らした。
「西園寺、よく撃てたな」
「……ありがとうございます」
そう答えた西園寺は、それは自分のセリフだと感じた。もし自分が坂崎に銃口を向ける側だったならば、撃てない自信があった。そのような自信は不要なのだが、マスクを撃つ方でよかったと思ってしまう。
「っ、遺体の処理……は……その……」
普段であれば、放置して、回収班か第二係に任せる。
だが梓藤は、坂崎の頭部が無くなった体を抱き留めたままだ。頭部を破壊したのも、梓藤であるが。西園寺が言葉を探す。その時梓藤が言った。
「いつも通り。ただし俺は、ここに残って遺体の回収に立ち会う」
「そうですか」
「ああ」
「俺も残りましょうか?」
「いいや、西園寺は先に本部に戻って、静間に報告をしてくれ」
「なにをどのように報告すればいいでしょうか?」
「自分で考えろ、いつもはそうするだろう?」
梓藤の言葉に、西園寺が腕を組む。
「……涙を、濡れている頬を、飛び散る鮮血で隠す主任という斬新な光景について原稿用紙で百枚くらいにまとめてもいいですか?」
「もうちょっとマシな慰め方は無いのか?」
「冗談は苦手なんです。では、俺の判断で書かせて頂けるのであれば、息子の姿に情がわいたため、意図せず共犯者となってしまった坂崎警視を銃殺した、と、書いてよいでしょうか?」
「駄目に決まってるだろうが。『坂崎警視は、マスクを意図的に匿っていた、死刑囚と同等の最悪の犯罪者だから、射殺した』と書けばいい」
「ではそのように静間さんに報告し、静間さんのご判断を仰ぎます」
「それで頼む」
こうして西園寺が、車の方向へと歩き出したのを、首だけで振り返り梓藤は暫しの間見送っていた。その間にも、どんどん抱きかかえている坂崎の体は冷たくなっていった。
「斬新で悪かったな……なぁ? 坂崎さん? 坂崎さんなら、もうちょっとはマシな冗談が言えたと俺は思います」
そう呟きつつ、鮮血の勢いがなくなり、次第にそれが消失しても、ずっと梓藤の眼窩からは、涙が筋を作って零れ落ちていたのだった。
【三十】梓藤家
坂崎の葬儀は、行われなかった。
ひっとりと火葬場に運び込まれた後、今は無縁仏として処理されているそうだ。
場所は梓藤も聞いていない。聞く必要性を感じなかったからだ。どうせ、墓参りには行かない。既に班目の墓にも、梓藤は長らく足を運んでいない。前を見て進むことにした以上、死者への祈りは不要だと考えている。
会議を終えた梓藤が本部に戻ると、西園寺が不在だった。時計を見上げ、昼食に出たのだろうと考える。その時、椅子を動かして、静間が梓藤を見た。その表情には笑顔が浮かんでいる。泣きぼくろを何気なく見た後、梓藤が尋ねた。
「飯は?」
「ああ、色ちゃんが俺の分も買ってきてくれるって」
「なるほど」
梓藤が頷いた時、天井を見上げて、不意に静間が呟いた。
「……三人になっちゃったね。しかも俺は戦力にならないしさー。だから実質、冬親ちゃんと色ちゃんの二人だけだし」
その言葉に、梓藤は小さく頷いた。
「第二係から応援に人手を借りるか、人員の補充を急いでもらうしかないな」
「俺が役に立ったらなぁ」
「静間は今、出来ることをしてくれている」
「その通り! もっと俺の事褒めてー!」
そこへ西園寺が帰ってきたので、梓藤もまた自分の席についた。
そしてその日は、珍し定時で席を立つ。
「今日は少し所用があるから、先に出る。お前らも適度にな」
そう言って足早に、梓藤は本部を出た。暫く歩いて行き、途中でタクシーを拾う。住所を告げて、その後は座席に深々と背中を預けていた。向かう先は、実家だ。
実家の梓藤家は、その筋――PKやESPといった異能と呼ばれる力を輩出する家柄として古来より有名な存在だ。マスクがこの世界に出現する前から、それらの超能力を用いていた記録があり、超心理学的な観点で超感覚的知覚などが命名されるずっと前から、『心を視る』『心を読む』として、特にESP能力に秀でた者が多かったようだ。
梓藤本人も、ESPの力が生まれつき強かった。
だからこそ逆に、力を封じた。梓藤の場合は、心で考えている事柄が、音として聞こえる。心を読まれないように統制訓練を受けた者が相手ならばさすがに読み取る事は困難だが、ただ路を歩くだけで、数多の雑音に悩まされ、未就学児の頃までは、無音の自室に引きこもって過ごしていた。しかしそれでは義務教育が受けられないという事で、封印する指輪を与えられた。暫くはそれを頼りに生活していたのだが、成長する度に力は強くなり、指輪はすぐに割れて壊れるようになった。落ち着かない日々の再来だった。
結果として、梓藤家は、一時的に梓藤の能力を封じるという選択肢をとった。
他者の悪意を聞き続けて生きていては、心を病むか、すぐに命を絶つのは明白だった。過去にそういった例は多く、耳を切り落とす者も珍しくはなかった。見える者であれば、眼球を潰したり、抉り出した者もいる。梓藤の家族は、それを望まなかった。梓藤は、愛されて育った。
――その指輪である。今、封印を解き、再び指輪をつける生活に戻ったならば、と、梓藤は考え、実家に顔を出す事に決めた次第だ。もしももっと早くそうしていれば、少なくとも坂崎の異変にはすぐに気づけたはずだという考えもある。いつか、西園寺に言われた【力】だ。
「おかえり、冬親」
家に入ると、祖父が立っていた。紋付き袴姿の祖父は、柔和に笑う。将棋が趣味だ。
己とは著しく色彩が異なる。梓藤家の場合、ESP能力が強いと、遺伝の法則を無視したような色彩で生まれてくる事が多い。その筆頭が、梓藤のような金髪碧眼だ。
「封印を解除したいんだってね」
祖父が歩きはじめたので、その後をゆっくりと梓藤が続く。
「可能か?」
「可能だよ、勿論。元々冬親が持っているものだからねぇ。ただ、再封印が難しいんだ。指輪で制御できなかった場合、また雑音まみれの毎日になる。それでも構わないの?」
「指輪が壊れたら、また作り直せる、そうだよな?」
「そうだね。どころか、私は万が一に備えて、全サイズの指輪のストックを最低二十ずつは用意して持っているよ? 可愛い冬親の事だからね」
「……用意しすぎでは?」
「そうかなぁ?」
どこまで本気なのか分からない祖父が、奥の座敷に入った。
何気なく続いた梓藤は、反射的に耳を押さえる。非常に高い耳鳴りが、三半規管を埋め尽くし、そしてすぐに消えた。
「これで、解けたはずだよ。床に解除紋を刻んでおいたから。さぁ、指輪はどのサイズがいいかなぁ?」
飄々とした祖父の声が響き、その後音が鳴り止んだため、長く息を吐いてから、梓藤は指輪のサイズを選び、ストックも貰った。
「一応、技術も進歩しているから、昔の品よりは強力だとは言え、君の力も増しているだろうから、気をつけてねぇ」
「ああ。ありがとう、お祖父様」
こうして無事に目的を果たし、梓藤はその足で実家を出た。
少し指輪を外して歩いてみる事にする。
すると歩道を行き交う人々の心の声が聞こえはじめた。能力が戻ったことに一安心しつつ、良い感情も悪い感情もそれ以外の感情も、雑多に声として響いてくる状態を、妙な話、梓藤は懐かしく思った。そして昔は恐ろしくてたまらなかった人の悪意に対しては、現在は特別無感動になっていると気づいてしまった。日々、人間の血肉を食べる者の相手をしていると、多少の悪口など可愛く思えてしまうらしい。
それから指輪を嵌め直し、帰りは電車でマンションへと戻った。
少しだけ、小雨がパラついていた。
【三十一】声
翌日――実を言えば、梓藤は珍しく本部に行くのが億劫だった。
身内を疑いたくはないが、潔白を確認しておく必要がある。坂崎の例があるからだ。そのため、到着してから、二人がいるのを見て取り、指輪を外すタイミングを探った。同時に、自分が指輪を日常的にしていて不自然ではないかと考え、二人の指を見てみれば、静間は右手の人差し指と薬指にいくつか嵌めていて、意外なことに西園寺も左手の薬指に指輪を嵌めていた。これならば、己が嵌めていてもおかしくはないだろと、梓藤は判断する。
そしてその後、それとなく指輪を取って、スーツの右ポケットに入れる。
「……」
『……』
西園寺は、完全に無音だった。ESP対応について考えても、思考統制訓練を受けているのだろうと、即座に判断できた。これでは、何を考えているのかは全く分からないが、少なくとも雑音になることもない。そう考えた直後、梓藤は眉間に皺を刻んだ。思わず双眸を伏せる。平静を装い、必死に自分の席についた。
「おはよー、冬親ちゃん」
『痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い無理きつい、幻肢痛ってこんなに痛いの、痛い痛い痛い痛い痛い、本当無理だ、無理すぎる。もうこの痛みから解放されるならなんでもいい痛い痛い痛い痛い痛い痛い死にたい』
梓藤の胸の中で、嫌な動悸が始まる。目を開けて、チラリと静間を見た。
「ああ、おはよう」
「どうかしたの? 難しい顔してるけど」
『痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い』
断末魔のような響き、ひたすら繰り返される言葉。
梓藤はダラダラと冷や汗をかく。
「え? 風邪? 本当に顔色が真っ青だけど?」
『痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い死にたい。自殺したい。もう今日する。痛い』
それを耳にし、ハッとして、思わず立ち上がり梓藤は静間に駆け寄った。
「静間、思い直せ」
「へ? なにを」
『痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。こんなに痛い時に、話しかけられても頭に入ってこないんだけどー? 痛い痛い痛い痛い痛い』
まさか能力について公言するわけにも行かず、元々知っているらしい西園寺に関しては後ほど知った経緯を聞くにしろ……どうすればいいのかが分からない。だが、自殺は止めたい。
「静間、少し休んだ方がいい」
「はい?」
『なにそれ、人が痛みに耐えて、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い、こうして座ってるって言うのに痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いやっぱり、片腕の俺じゃぁ足手まといってこと? 分かるよ、ああ、分かるよー? ああ、痛い痛い痛い痛い痛い』
そうではないと、どのように伝えればいいのだろうかと、梓藤は焦った。
――その時の事である。
電話が鳴り響いた。顔を背けてから、梓藤が受話器を取る。
「政治家……議員だと……? ああ、分かった。急行する」
そう告げて、梓藤は受話器を置いた。
概要は、次の選挙で、政権交代をするのではないかと囁かれている最大野党が開いたパーティーにおいて、惨殺死体が見つかったのだという。肉を喰いやぶられていたとの話だった。梓藤は指輪を嵌め直す。
「西園寺、行くぞ。静間、お前は――……その……」
「うん? バックアップするけど?」
「……そうだな。宜しく頼む」
梓藤は気持ちを切り替えて、頷き、急いで本部を出た。西園寺も追いかけてくる。
こうして二人で、パトカーに乗り込んだ。
サイレンを鳴らして進み、目的の会場にすぐに到着する。
「西園寺」
「はい」
「中に入ったら、俺が全員の心を読んで、その場にマスクがいるか否かを確認する。いた場合指示を出すから、お前が射殺してくれ」
「分かりました」
「――聞かないのか?」
「なにをです?」
「【力】について」
「余計な詮索は死期を早めるのでは? 俺はまだ死にたくありません」
「では俺が先に尋ねるが、何故俺の力について知っていたんだ?」
「祖父から『梓藤』という名を聞いた事があったので」
「祖父?」
「ええ、祖父です。行かないんですか?」
「ああ、そうだな。雑談をしている場合ではないな」
結局、祖父という情報だけでは、心が読めない西園寺が相手では、何も分からなかった。
二人で車を降り、会場に入ると、そこには総勢二百名程度の人間がいた。
唾液を嚥下してから、梓藤が指輪を外す。すると生々しい悪意や、おしつけの善意、そういったものが主体となったネガティブな感情と、その逆にポジティブな感情が、声となって、一気に梓藤を襲った。目をきつく伏せ、それらを判別し、梓藤は首を振る。
「この中にはいない」
「ですが車内で見たタブレットの情報だと、誰も外に出ていないと。この人数ですし、漏れはあるかもしれませんが……――残りは、それこそ国会議員が六名、この野党の党首や幹部が、会場の横の貴賓室へと集められているだけです」
「行くぞ」
「はい」
二人は真っ直ぐにそちらへと向かった。そして梓藤がノックをし、扉を開ける。先に入った梓藤に続いて、西園寺も中に足を踏み入れた。
そこで西園寺は、一人ずつ紹介を始めた給仕の言葉を、頷きながら聞く。
その横で、梓藤は耳を疑っていた。
『やはりこの国は、我々選ばれしマスクが統べるべきだ』
『その通り。特に高等な知能を持つ我々が国を導くべきだ』
『そのためにも、力をつけなければ。今夜は、新鮮な人の肉を用意してある』
『そういえば、外の騒ぎはなんだったんだ? 生の遺体があるのなら、よい酒の肴になっただろうに』
『ところで、今給仕が相手をしている二名の刑事は? 美味そうじゃないか』
『確かに生きがいいな。どちらから喰べる?』
梓藤は青ざめながら、息を呑んだ。
「どうでした? 梓藤さん」
小声で西園寺が囁くように尋ねる。近い距離にある西園寺の顔を素早く一瞥し、ぽつりと梓藤が呟く。
「そこにいる六人は、全員マスクだ。給仕もそれを承知している」
「なっ」
するといつもは動揺など見せない西園寺が、珍しくぎょっとした顔に変わった。
「信じられないのは分かる。でも、信じてくれ……信じてもらう方法は思いつかないが……」
焦燥感に駆られるように、梓藤が続けた。西園寺が疑うのも無理がないと思ったからだ。なにせここにいる全員が、メディアへの露出頻度も高い政治家達だからだ。冤罪で殺害したとなれば、国を傾ける事にもなりかねない。
だが梓藤が言い終わる前に、一番近くに座っていた議員の頭が弾け飛んだ。排除銃を構えて、二体目の頭を撃ちながら、西園寺が頷く。
「梓藤さんの仰る通りだと、判断します。信じます」
そのまま不意をつかれて呆然としていた全員を、呆気なくあっさりと西園寺は撃ち殺した。ソファや窓を、弾け飛んだ血肉が染めている。
そこへ駆けつけてくる足音がして、二人が振り返ると、警備員が多数訪れたところだった。説明が面倒だなと、梓藤が考えた時、不意に警備員の人波が、左右に割れた。
「っ」
西園寺が隣で息を呑んだ時、梓藤も正面から現れた人物を見て、硬直した。
そこには、時の総理大臣の姿があったからである。
「申し訳ない、この会場で陰惨な事件が起きたと耳にし、思わず立ち寄ってしまったんだ。貴方達は、特殊捜査局の方々かな?」
「――はい、梓藤冬親警視正です」
慌てて梓藤は警察手帳を見せた。その後で、西園寺が倣う。
一瞥してそちらを確認しつつ、ダラダラと梓藤は汗をかいた。なにも、西園寺の対応が心配だったからではない。
「お会いできて光栄だ、梓藤警視正、西園寺警視」
『これで次の選挙も安泰だ。邪魔者は全て消えたようだ。さもマスクども食べられたような遺体をこちらで用意し通報した甲斐があったというものだ。あの忌々しい六人がマスクだというのは推測だったが、運は私に味方したようだな』
驚愕するしかない梓藤だったが、総理大臣が協力者でない事や、本日まで知らなかった事も分かる思考であり、排除対象ではない。
「それでは、俺達はこれで。行くぞ、西園寺」
「はい」
足早に会場を歩きながら指輪を嵌め直した梓藤は、入り口を出たところで、西園寺に聞かれた。
「どうかしましたか?」
「いいや……」
総理大臣については、耳に入れないことに決める。
それこそ、知れば死期が早まる内容なのだから。
このようにして、二人はパトカーに乗り込み、本部へと帰還した。
【三十二】画期的な教育方法
人員が漸く補充されたのは、次の秋が深まった頃だった。
「初めまして、嶋井弘庸です。宜しくお願い致します」
「同じく宜しくお願いします。宝田迅です」
嶋井の方は、警察庁長官の次男だ。くれぐれもよろしく頼むと言われたが、梓藤はきちんと危険な部署であるため、命が保証できない点を伝えた。電話越しに、長官は焦ったような様子だったが、気にせず梓藤は通話を切った記憶が鮮明にある。
宝田の方は、嶋井の付き人らしい。だが付き人というのが、どういう職務なのかを、いまいち梓藤は把握できずにいた。
いずれにせよ、二人の心の内側を確認したいと考えている。折角得てきた力である以上、使わないのは損だ。ただ……この場で指輪を外せば、何も聞こえない西園寺とは別に、ひたすら呪詛のような言葉を繰り返している静間の内心も聞くことになる。痛みと憎悪と自殺願望が、日に日に強くなっているのが分かる。それに触れていると、全く身知らぬ他人ならば兎も角、静間というそれなりに親しい相手――しかも、痛みなどの理由が全て、己にある事から、梓藤は胸が痛む。あの時、きちんと周囲を確認していれば、とも、考えてはみたが、それは今だから言える事に過ぎない。当時に戻っても、出来なかっただろう。
「主任の梓藤だ。よろしく」
梓藤は指輪を外す事にし、静間の声を頭から振り払い、まずは嶋井を見据えた。
『すぐに主任の座から蹴落としてみせます。僕こそがエリート中のエリートなのですから、主任になるのが相応しい。お父様も間違いなくお喜びになります。僕こそがナンバー1。過去に、一度も挫折も屈辱も味わったことがない、天才の僕にかかれば、マスクなんてひとたまりもないはずです』
凄い自信家だなと、梓藤は感じたが、別段主任の座にこだわりがないため、今明け渡しても特に問題は感じなかった。それこそ警察庁長官に人事をお願いすればよかったのではないかと漠然と考えた。ひとまずそこまで注意深く観察する内心ではないとすぐに結論づけ、続いて宝田を見る。
『またおもりかよ。怠い。帰りたい。こいつなんなんだよ。小さい頃から俺に宿題をやらせ、大人になった今は、尻拭いをさせ……頭大丈夫なのか?』
宝田は優しげな瞳を嶋井に向けているが、内心は百八十度違い、罵詈雑言の嵐だった。
ただ、宿題という部分から、宝田が回想した内容を読み取ったかぎり、剣道も柔道も有段者であるし、警察学校での射撃の成績も完璧だった。これならば、宝田は上手くすれば、よい戦力になるだろうと、心の中で梓藤は記憶した。
「こちらは西園寺、そちらは静間だ」
『俺の方が名前を後に呼ばれたのは、役に立たないって意味だよね』
「静間は主に、大切な情報の扱いを担当してくれている。俺と西園寺は、ありきたりなマスク退治だ」
梓藤なりに気を遣って話した。同時に慌てて指輪を嵌めた。
チラリと西園寺を見れば、一歩前に出てお辞儀をしている。
「西園寺色です。よろしくお願いします」
淡々とした無感情の声が響く。素直に嶋井と宝田も頭を下げている。
次に静間を見た瞬間、嶋井は腕に釘付けになり硬直し、宝田は無表情になった。そして先に宝田が頭を下げた。
「宝田です、よろしくお願い致します。こちらは嶋井です。少々あがり症なもので、代わりにご挨拶させて頂きました。どうぞ俺達をよろしくお願いします」
見事に取り繕った宝田を見て、付き人とは所謂フォロー係のようなものなのだろうかと、梓藤は考察する。
「――嶋井くん、言っていいよ? 俺の腕が気になるんでしょー?」
すると静間が微笑して、嶋井を見た。
恐怖に駆られた様子で、何度も嶋井が頷く。完全に震え上がっている。
「可愛いなぁ。腕の一本で生還できたら、とってもマシな方なんだよ。嶋井くんも足の一つや二つは、覚悟しておいたら?」
静間の声に、その場で嶋井が目眩を起こして倒れた。慌てた様子で宝田が支える。
梓藤は咳払いをした。
「静間、新人に今の冗談はきついだろう。これから同僚になる以上、相応の敬意を持って接してくれ。俺はそう期待している」
「はーい」
「よし。とりあえず今後は、この五名で任務をまわすことになる。宜しく頼む」
最後に梓藤がそう締めくくり、新人達の挨拶は終了した。
それから嶋井をソファに寝かせて、梓藤は西園寺に、宝田への新人教育を任せることにした。最早、西園寺を新人扱いする段階にはない。実力面でもそうだが、この後の補充を考えても、先生役が出来る人材が多いに越したことはない。特に自分は片付けなければならない書類が山のようにある。また静間は既に嶋井とは相性が悪そうだ。教育にも相性はある。西園寺の場合は、幸い背中を見ればある程度学べる坂崎がいた。高雅の頃は、班目がいた。最早、高雅に関しては梓藤の中で、そういえばいたなという扱いになりさがっていたが、その顔だけは、梓藤ははっきりと思い出せる。自分が手にかけたからだ。忘れるわけがない。
そんな事を考えていると、嶋井が目を覚ました。
西園寺が丁度宝田を、用意した席に案内しているところだった。すると西園寺が、珍しく自発的に口を開いた。
「梓藤主任、二人とも教育は俺が担当しようと思うのですが、構いませんか?」
「ああ、俺も頼もうと思っていたんだ。なにかと一緒の方が、教えやすいだろうしな」
冷静な声で、梓藤は答えた。すると気を取り直した様子で、意気揚々と嶋井が西園寺達の方へと歩き出した。それを一瞥し、梓藤は自分の仕事を開始する。時折、静間の横顔を窺ったが、心の声さえ聞こえなければ、ごくいつも通りだ。少なくとも、そう見える。
第一報が入ったのは、それから三十分後の事だった。
「行くぞ西園寺。他は全員待機」
梓藤の声に、嶋井が勢いよく立ち上がった。椅子が床に倒れた。
「僕も行きます! 寧ろ僕が行かないで、どうするんですか!」
「……嶋井……今日着任したばかりでは、まだ排除銃の打ち方も……」
梓藤は嫌気が差しつつ、そう告げた。普段であれば、そのまま冷酷な声で斬り捨てた自信がある。しかし口ごもった。西園寺が頷いたからである。指導者は、現在西園寺だ。その意向は無視はできない。西園寺を信じて任せたのは、自分なのだから。
「……宝田も行くのか?」
「ええ! 僕が行く場所には、必ず宝田を伴いますので!」
答えたのは嶋井だが、梓藤が話しかけていたのは、西園寺である。西園寺は淡々と頷いた。何を考えているのかあまりよく分からず、だが西園寺が単に見殺しにして貴重な人でを減らすほど愚かにはどうしても思えなかったため、悩み抜いたあげく――まあ、死んだらそこまでであるし、すぐに急行する必要があったので、梓藤は頷いて返した。
こうして、静間が一人で待機をし、四人は覆面パトカーで現地へと急行した。
車内では、ひたすら西園寺が排除銃のレクチャーをしていたので、事件の詳細の共有をしている暇は無かった。
到着したのは、公園の片隅にある公衆トイレである。
女子トイレだ。
なんでも、トイレに行った誰一人として、帰ってこないのだという。
「どうせ下らない都市伝説なのでは? ほら、トイレの花子さんとやらが、僕の曾お祖父様の時代に流行したのだとか」
嶋井の声に、梓藤は腕を組んで西園寺を見た。
「お前はどう思う?」
「嶋井の知識は古いですね。昨今、都市伝説をモティーフにした作品が爆発的にヒットし、今の若い子供達は、誰でもトイレの花子さんを知っています」
「うっ」
嶋井が呻いた。それからキッと西園寺を睨めつける。
「僕はもういい大人です! 子供の流行など存じません! 寧ろ何故そのような事を西園寺さんはご存じなのですか?」
「妹がいてな」
「あ、はい……」
嶋井は言い返せないようだった。だが梓藤は、二人の掛け合いを期待して、西園寺に声をかけたわけではない。
「西園寺、改めて聞くが、どう思う?」
「宝田の見解を聞きたいです」
「……続けろ」
梓藤がしぶしぶといった調子で頷くと、宝田が腕を組んだ。
「失踪だけでは、本部に電話はきませんよね? なにか目撃情報とか、死体が見つかったとか」
「遺体と呼ぶように」
梓藤が訂正すると、宝田が半眼になった。そしてぼそっと呟いた。
「どっちでもいいだろ……」
「聞こえているからな」
眉間に皺を寄せて梓藤が疲れたような息を吐いた時、西園寺はトイレへと視線を向けた。
「惜しいな。あの完璧な壁の中をどうやって目撃し、そこで喰べているマスクから逃れるんだ? それにマスクは基本的に、邪魔をされなければ、骨以外全て食す。誰も帰ってこないと言うことは、ご遺体はトイレの中で喰べつくされている可能性が高いと思うが、そのご遺体をどうやって見つけるんだ?」
西園寺の言葉に、宝田が目を瞠った。宝田は西園寺を見て、なにか感動したような顔をしている。どこに感動するポイントがあったのか、梓藤には分からなかった。
「罠って事ですか?」
宝田が導出した結論に対して頷くと、西園寺が梓藤を見た。
「正解を教えて頂けますか? 梓藤主任」
いつもは『梓藤さん』と、最近は呼んでいるのだが、新人の前では違うようだ。敬ってくれているらしい。
「罠の可能性が高いと通報を受けている。最寄りの交番に、トイレにマスクがいると通報があったそうで、交番から警備部に連絡があったんだ。そして第一係に連絡がまわってきた段階で、既に罠だろうと忠告を受けていた」
梓藤の声に、宝田が笑顔になった。正解したのが嬉しい様子だ。梓藤は呆れて告げる。
「喜んでいる場合か……」
「あ、すいません」
「すみません」
「だからどっちでもいいだろ」
「おい」
宝田は、あからさまに梓藤を軽く見ている。だが先程のやりとりで、西園寺の方は株が上がったらしい。
「僕を置いて、話を進めないで頂きたい! ようするに罠という事は――突撃して全部倒せば、無意味になると言うことですね!」
梓藤は胃が痛くなった気がした。その実力が、嶋井には欠落している。無根拠な自信しか無い。
本当に連れてきてよかったのだろうかと思案しながら西園寺を見る。
すると西園寺は大きく頷いていた。
「俺もそう思う。突撃あるのみだ」
理知的な声で西園寺が断言したものだから、いよいよ梓藤は咽せそうになった。それを嶋井が見とがめる。
「なんです? 情けありませんね! 主任なのでしょう? 率先して行ったらどうですか? まぁ今日のところは、僕が対処してあげます」
満面の笑みを浮かべた嶋井が、車内で西園寺が少し教えただけの銃を意気揚々と持ち、歩き出した。西園寺は動かない。
「おい……あいつ一人で行く気だぞ?」
「そのようですね」
「死ぬだろ?」
「そうなりますね」
「西園寺! お前は何を考えてるんだよ!」
思わず梓藤が走り出した。西園寺はそちらの方角を眺めている。そして、そのまま尋ねた。
「宝田。お前はどうするんだ?」
「あー……じゃあ、ちょっと、見学してきます。梓藤主任の手腕を」
「そうか。早くしないと終わるぞ」
「それは、あの二人が死ぬという意味では無いですよね?」
「どうだろうな?」
西園寺は無表情で、その声音からも真意が分からない。戸惑った宝田だったが、嶋井を見捨てるわけにはいかないようで、溜息をついてから走り出した。その姿を眺めてからゆっくりと西園寺が歩きはじめる。
梓藤はその西園寺の到着の遅さに苛立っていた。
女子トイレの個室の中では、成人女性が、三体のマスクに貪り喰われいる。
最悪な事が一つあるとすれば、その女性がまだ生きている事だ。
号泣しながら、今も喰べられている最中だ。梓藤は、マスクを撃ちたいのだが、そうすると位置的に、被害者女性の頭も貫通するというか木っ端微塵にするほかない。普段であれば、即三体と女性を射殺する。特に女性は最初に楽にしてやる。それが優しさだと梓藤は考えている。あそこまで喰われていたら、どうせ助からない以上、少しでも痛みと恐怖を緩和してやりたいという思いからだ。
だが今回は、西園寺がわざわざ二人を連れてきた上、突撃させようとした。倒してしまっていいのかという不安もある。何か考えがあるのかもしれない。
未だ嘗て本物のマスクを、教育に使ったことはない。西園寺のように実地で学ぶ者は珍しくないが、今回のようなケースは、梓藤も知らなかった。
梓藤は、チラチラと後方を見る。
そこにはマスクを見た瞬間に、絶叫して尻餅をつき泣いている、もらしてしまったせいで、スーツの下がぐちゃぐちゃの嶋井がいる。まずこの嶋井の位置も悪い。この状態で梓藤が殲滅したら、嶋井の心の傷は、計り知れないだろう。
「あっ、主任……まだ終わってませんか? え? 終わりなのってマスクの方っすよね?」
「急に来て何を言ってるんだ。宝田。どうでもいいが、嶋井を運んでくれないか?」
「あ、いえ、俺は主任の見学に来たので」
「見学? 俺の何を見るんだ?」
「西園寺さんは、『早くしないと終わるぞ』って」
西園寺の言葉をそのまま口にした宝田を見て、もう排除していいようだと、梓藤は判断した。なにより泣き叫んでいる被害者が哀れだ。相当な苦痛のはずだ。
「では、まずこういう状況に置いてやる事を一つだけ説明する」
「はい!」
「お前、返事がきちんと出来たんだな?」
「……っ、はい」
「まずは、被害者女性をだな」
「救出するんですね? でも、この状況でどうや――……っ」
宝田が言い終わる前に、梓藤は被害者女性ごと、一体目のマスクを撃ち抜いた。
「救出不可能な状況の場合、楽にしてやるんだ。最重要事項だ」
「……はい」
宝田の声が目に見えて沈み、怯えが含まれた。だが梓藤は、あとは構わず、トイレに向かって姿勢を正し、二発撃って、二体を倒した。
「早い……それに、的確に頭部を……」
「何を言ってるんだ? 俺が早いように見えるのであれば、お前が遅いんだ。的確に射撃をするのは、当然だ。なんのために訓練をするんだ? 的に当ててるだろう、普通」
呆れかえって梓藤が述べると、宝田が身震いしてから、ぎこちなく笑った。
「しょ、精進します、梓藤主任」
なにやら、態度が変化した。先程変化した、西園寺に対する態度に近い。
しかし実を言えばそこまで態度を気にしていたわけではなく、単に己が新人の頃に知らなくて恥をかいた言い方をレクチャーしていただけの梓藤は首を傾げつつ、続いて問題の嶋井を見る。見事なほどに泣きじゃくっていて、鼻水をすすっている。
「嶋井」
「……っ、っ……」
「お前は勇敢だった。悲鳴が聞こえてきたトイレのドアを、迷いなく開けた。それに被害者を助けると意気込んでいたからな。またお前がドアという突破口を開いてくれたから、俺は楽に撃てた。そうでなければ、ドアごと吹き飛ばしていたと思う。ただな? 単独行動は、仲間の死にも繋がりかねないから、絶対にしては駄目だ。これはルールだ。今後、今日は四人で来たが、二人一組で動いてもらう機会が増える。その際に、片方がルールを破れば、もう片方が死ぬ可能性が上がる。だから、被害者を助けたいという気持ちがあったのなら、同僚も死んで欲しくないという気持ちもあるだろう。その感情に忠実に、以後は単独行動を控えるように」
淡々と梓藤が伝えた。感情的に怒鳴って威圧してもよかったのだが、素直に嶋井の褒められる部分は褒めることにした。褒める場所を探すのには、それほど苦労はしなかった。実際、単独行動でさえなければ、嶋井の判断は必ずしも間違ってはいない。
「お疲れ様です」
そこへ西園寺がやっと到着した。梓藤は目を据わらせた。
「遅い。どこで何をやっていたんだ?」
「ああ、このトイレの周囲を囲んでいたマスクの排除です。やはり、罠だったようですね」
「あー……それは俺が後でやっておこうと思ったのに。折角こっちで実地が出来るだろうと……」
梓藤が疲れた声を出すと、西園寺が首を捻った。
「実地? ですか?」
「違うのか? マスクを練習台にした、画期的な教育法じゃないのか?」
「俺の意図は、嶋井と宝田が、主任を馬鹿にしていたので、連れてきて強さを一度見せておこうと思っただけです。マスクに関しては……あ、嶋井のその状態は……ん……その、俺もそこまで鬼畜ではないので、さすがにマスクを教育には……まだ早いような……」
西園寺の声が小さくなっていった。梓藤は腕を組む。
「俺の強さなんか見せなくていいというか、今後嫌でも俺の戦い方は見る事になるんだから――……つまり今日こいつらを連れてきたのは無駄だったって事か? ん?」
梓藤は、西園寺に対しては圧を込めて、激怒した目をし、口元だけで無理に笑いながら強い口調で述べた。西園寺は、真っ直ぐに梓藤を見ている。悪びれた様子はない。自分の判断が間違っていると思っている気配は微塵も無い。
「無駄じゃありません!」
すると宝田が声を上げた。
「俺、主任の強さと、西園寺さんの冷静な判断と、マスクの凶悪さや、人間の無力さを知り、本当に勉強になりました」
きっぱりと宝田が言った。その純粋な言葉に、梓藤は呆気にとられて宝田を見る。
「ぼ、僕も来よかったです! マスクは恐ろしかったですが……次からは単独行動はしません!」
嶋井も叫ぶようにそう言った。涙声のままではあったが。
「……そうか。とりあえず、本部へ戻るぞ。帰ったら、西園寺は始末書を提出しろ」
「初めて始末書を書くのですが、テンプレートはどこにありますか?」
「自分で探せ!」
と、一同は、本部へと帰った。こうしてこの日、新たな捜査官二名が、加わった。
【三十三】鍵
それから二週間が経過した。
あれ以後、嶋井と宝田が真面目に取り組むようになり、西園寺の教え方も上手いので、二人は知識をつけていったし、射撃訓練もなんとか嶋井の方も様になってきた。そんな新人二名は、本日は非番である。教えている姿を見ると、西園寺はその方向にまで才覚があったのかと驚かされる。
そこへ一報が入った。
「動物園……? しかもライオンがいる? 三頭? どういう状況なんだ?」
電話の主の最初の説明では、梓藤は状況がくみ取れなかった。だが落ち着けるようにして話を聞くと、動物園にマスクが出たという話が本題だった。ただ本日その動物園は、幸いにも臨時休園しているという。ただその理由は、ライオンが三頭ほど檻から逃げて出してしまったから、急遽休園としたらしい。
「――という事だ、西園寺。俺達は、マスクだけではなく、ライオンにも喰われないように気をつけながら、園内を探し、マスクを退治する。特にライオンは退治する必要が無いと言うよりは、範囲外だ。勿論襲ってきたら倒す。倒して構わない。なお飼育員の男性がマスクに喰われた状態だったために、ライオンの檻も開いたそうだ。どうでもいい情報だな」
つらつらと語ってから、コートを片手で手に取りつつ、梓藤が歩きはじめた。
すぐに西園寺も追いかける。
二人で、車に乗り、動物園を目指す。本日の運転は、西園寺だ。最近、西園寺が運転を買って出ることが増えてきた。頬杖をつきながら、梓藤は窓の外を見る。その時、不意に西園寺が言った。
「梓藤さん」
「ん?」
「最後に動物園に行ったのはいつですか?」
「遠足だな、小学生の時」
「そうですか」
西園寺は頷くと沈黙した。何気なく会話をした後梓藤は、西園寺が雑談や日常会話を己に対し、必要なく振ってきた事が、過去あっただろうかと考えて、思わず西園寺の横顔をまじまじと見る。
「どうかしましたか?」
すると西園寺が気づいた様子で、チラリと梓藤に視線を向けた。
「あ、いや……お前はいつなんだ?」
「俺は去年、姉と弟妹を連れてきました」
「ふぅん。お前って何人兄弟?」
雑談が続いたので、何気なく梓藤は尋ねた。
「姉と弟と妹二人です。ただ実家には、姉の旦那がいるので、実の兄もいるようなものですね」
「へぇ。帰りづらくはないのか?」
「何故ですか?」
「姉の旦那がいたら。お前長男なんだろ? 家の跡継ぎというか」
「あー、俺の家は、そういうの気にしないんで。梓藤さんのところは気にするんですか?」
「おう。俺にも兄がいて、兄が跡取りなんだけどな、苦労してるみたいだ」
「大変ですね。ただ少し意外です」
「なにが?」
「梓藤さんは、長男っぽかったから」
「どういうイメージだ、それは? 俺だって、お前は一番上か一人っ子だと思ってたけどな」
「それこそどういうイメージですか?」
そんな雑談をしている内に、動物園に到着した。雑談は続いたが、西園寺はにこりともしなかった。笑った顔は、いまだに一度も梓藤は見た事がない。己も滅多に笑わない方だと思っていたが、西園寺はその上を行く鉄壁の無表情だ。果たして、彼は一体どんな時に笑うのだろうかと考えてしまう。
「ここか」
梓藤は警察手帳を見せてから、動物園の中へと入る。西園寺がその後に続く。
様々な檻がある。
歩きながら、つい物珍しくなったので、今度個人的に来ようと梓藤は内心で考えていた。しかし表情は真面目であるよう取り繕い、険しい顔で、周囲を見渡している。動物を見ているようには、見えない眼差しだ。
「そんなに楽しいんですか?」
しかし一瞬で西園寺に見破られて、思わず梓藤は咳き込んだ。
「なっ、何を根拠に……な、なんだって?」
「プライベートの時間にお願いします」
「お前も言うようになってきたな。だんだん可愛げが消えてきたぞ?」
二人がそうやりとりした時、茂みが揺れた。反射的に二人が顔を向けると、のそりとライオン……らしきものが表れたので、二人は目を疑い、視線を交わしてから、それぞれ排除銃を構えつつ、また顔を見合わせた。
「志藤さん、あれは……なんですか?」
「分からない」
「ええと……マスクは倒し、ライオンは倒さない……んでしたよね?」
「一応な……」
「俺には、ライオンの顔に、人型のマスクの顔が接着しているように見えるんですが?」
「安心しろ、俺にも同じ物が見える」
二人はそれぞれ自分の現実認識を疑っていた。
マスクは、人間から人間へと移動する存在だ。そして顔を取り替えながら、人間の血肉を食べていく。倒しても倒してもわいてくる理由は、まだ分かっていない。ただ生殖活動をしている様子はない。人間に擬態して、その上で、不自然で無いように性行為をした事例はあるが、率先してマスク同士が子を成すようなことはない。だからどのように増えるのかは不明だ。不明な事は非常に多い。
「ライオンの顔に接着したら、ライオンの顔になるわけではないんですね」
冷静な西園寺の声に、梓藤が頷く。その時、流麗な声が響いてきた。
「ここにいるマスクは、私一人です」
ライオンの口から発せられた人語に、梓藤は眉を顰めながら、改めて銃口を向け、逆に西園寺は、銃を下ろして、排除刀を取り出した。
「他の二体のライオンには、接着しているマスクがいないという意味か?」
梓藤が尋ねると、ライオンが首を振った。
「いいえ、この動物園全体に、マスクは私のみです」
「それを信じる根拠が無いな。そもそも、マスクは動物も操れるのか?」
「操るというのは、正確ではありません。共生しているだけです。また、マスクは基本的に群れを作るという習性があります。その群れ同士で問題が起きないように、マスク同士は本能的に、別のマスクの存在を感知できるのです」
「随分とお喋りで口が軽いマスクだな。俺はペラペラ喋る者は、信用できないと考えている。それを俺と西園寺に話すことで、何かお前にメリットがあるのか?」
「マスクも一枚岩ではなく、またライオンとだけでもなく、人間との共存を望むものも多いのです。イチゴジャムや輸血用血液で生きながらえているマスクの数もとても多いのが実情です。飼育員の方から肉を頂いたのは、彼が心臓発作で亡くなった後です」
「結局食べてるだろうが。第一それは高等知能のマスクの中の一部の話だろう?」
「いいえ。言葉を失ったままのマスクの中にも、時折います」
「信じられない。仮に時折いたとしても、判別できない。全て倒すだけだ。それが規則だ」
きっぱりとそう述べて、梓藤が引き金に触れる。
「梓藤さん」
「あ? まさかお前、今の話を信じるのか?」
梓藤が前を向いたまま、呆れと苛立ちが混じった声を放つ。
「いえ、動物に接着している例は、こちらで視覚的に確認した事例は、これが初だと思いますので、捕縛して研究施設に移送した方がいいのではないかと」
それを聞いて、梓藤は戸惑った。
確かに、西園寺の提案は的確で正しい。だが、こういう戯れ言や甘い言葉を吐いて惑わせるようなマスクは、ここで排除しておくべきだと、経験が叫ぶ。
暫しの間、梓藤は沈黙していた。
「梓藤さん」
すると西園寺に強く名を呼ばれた。意外と押しが強いよなと、言いたくなったが口を閉ざし、梓藤は銃を下ろした。
「好きにしろ。回収班や捕縛班への手配は自分でやれよ。俺は先に帰る。車も誰かに乗せてもらえ」
こうして梓藤が歩きはじめた。すると少しして西園寺が口を開いた。
「梓藤さん」
「あ?」
お礼でも言われるのだろうかと考えながら、梓藤が首だけで振り返る。
「鍵」
「っ」
冷静に言われて、今日は西園寺が運転していたのだったと思い出し、無駄に悔しくなりなった。踵を返して鍵を受け取った梓藤は、どっと疲れた気がしたのだった。
【三十四】目が合う
この日、梓藤は医務室へと顔を出した。人生で二度目だ。
あの榎本という医師は、もう己のことなど覚えていないだろうと思いつつ、受付をしてソファに座って待っていた。すると名を呼ばれたので、診察室へと入る。
「随分とお久しぶりですね、梓藤さん。また誰か亡くなったの?」
「ああ、日常的に誰かは死んでいる。今回は俺の相談ではなくて、診てほしい人間がいて、相談に来たんだ」
「ふぅん。それなら予約を自分で取るのじゃなく、連れてきてくれたらいいのに」
「それが難しいんだ」
「何故?」
「……ちょっとな」
「まぁいつか君に言われた通りでね、僕も暇だから、聞くくらいは出来るよ。サボれるし。うん。雑談を診察に数えれば、サボりたい放題だけど。ただ雑談には一応ね、療法としての名前もあるんだけどね」
榎本はそう述べると立ち上がり、窓際のオブジェかと思っていたコーヒーサーバーから飲み物を淹れ、カップを二つ持って戻ってきた。片方を、梓藤に渡す。
「それで?」
「実は……自殺願望がある奴がいて」
「どの程度の?」
「程度?」
「たとえば、仕事で過失を犯してもう死んでしまいたい程度から、実行しかかってるレベルまで様々あるんじゃないかな」
「分からない。口にすら出さないんだ、死にたい、と」
「? じゃあどうして梓藤さんは、その相手が自殺願望があると思ったの? 聞いたわけでも見たわけでもないのなら」
「そ、その……日記を読んでしまって」
梓藤は咄嗟に嘘を捻り出した。すると榎本が、カップを傾ける。
「じゃあそういう事とし、梓藤さんの言葉が正しいとして話を進めるなら、まずは自殺を阻止することが必要だから、入院措置となる。この部屋で君に何かを伝えたとしても、阻止は難しいからね。物理的に何も出来ない。これが一番重篤な場合かな」
榎本の淡々とした声を聞きながら、梓藤はカップの中身を覗きこむ。
「それが出来ない場合は?」
「そうだねぇ、つきっきりで見ているとか?」
「それも出来ない」
「誰かに見ていてもらうとか?」
「たとえば?」
「それこそ専門の病院。あー、それが出来ないんだっけ? そうだなぁ……ちなみに、なんで死にたいの? 理由があるの?」
「……痛いらしい」
「なにが?」
「……幻肢痛と言っていた」
「へぇ、静間警視が?」
「特定するの、止めろよ本当」
小声で梓藤がぼやくように言うと、無表情のままで榎本が腕を組む。
「難しい。それこそ僕には無理。だけど、その症状があるなら、既に専門家に診てもらってると思うよ。こちらで口出しする事じゃない」
「……そうか」
やはり榎本は嘘はつかないようだと判断しつつも、ふと、本当にそうなのかと考えて、それとなく梓藤は指輪を外した。
『まぁ、マスクの捜査は過酷なんだろうな。僕もマスクの研究所にいた時の記憶はトラウマものだしね。マスク分離実験で、死刑囚にマスクを人為的に接着させて、脳の構造や身体構造の変化を調べるために、上から順にのこぎりやメスで開いていって……時には脳や臓器を弄ったもんなぁ。人工的に管理されたその状況下でも厳しいものがあったのに、毎日外で本物のマスクと殺りあってたら、幻肢痛なんかなくても、一般人なら死にたくもなるね。僕だったら、絶対にお断りだ。閑職といわれて薬の配達係までやる方が絶対にいい。ここに配置換えになった時、僕は泣いて喜んだもんなぁ』
そう考えながら、榎本は一つ一つの光景を脳裏に思い浮かべていた。そのせいで、追体験してしまったかのごとく、被験者の悲鳴まで耳に声として聞こえてきた梓藤は、研究所の残忍さを理解し、青ざめた。以前、生存者がいたら殺してやれと伝えたが、そうしてやる事がいかに優しいのかを思い知らされる。最早、マスクがどうのという問題ではなく、生命に対する冒涜といえる行為の数々が研究所では行われていると知ってしまった。
「梓藤さん?」
「っ」
「どうかした? すごい汗だけど」
「……あ、ちょっと目眩が」
「そこにベッドがあるけど? ビタミン剤でも打ってあげようか?」
「いや、いい。今日は帰る」
「そう。じゃあ今日の診察はこれで終わりにしよう」
梓藤は頷き、カップを返してから、診察室を出た。榎本にもこういった事情があったのかと驚きつつ、その反面で、何も事情が無い人間の方が少ないかとも考える。
「それにしても、研究関連の施設には、近づかない方がいいな。あのライオン無事だといいな……」
思わず呟いてから眉間に皺を寄せて、梓藤は目を伏せる。
撃ち殺そうとしていた対象の無事を祈った自分が許せなかった。ここのところ、少し自分がたるんでいる気がする。
「もっと気を引き締めないと」
――そうでなければ、また何かを失うかもしれないのだから。
一人頷きながら、梓藤は本部へと戻った。
すると静間の姿が無かった。
「静間は?」
今は、昼休みが終わった後の勤務時間だ。静間が戻っていないというのは珍しい。西園寺は先程宝田を連れて、剣道の稽古に行くと話していたので問題ない。梓藤本人も、今日は遅れると皆に伝えてあった。というのは、昼に榎本と打ち合わせをして、可能なら帰り際に静間を診てもらおうと前もって考えていたからだ。
結果として梓藤は、残っている嶋井に問いかけたわけだが、嶋井は不思議そうに梓藤を見た。
「静間さんなら、用事があるから少し外すって。梓藤さんには伝えてあると仰ってましたが?」
「いや、聞いていないが……メッセージか?」
仕事用のスマートフォンを取り出し、確認してみたが、特に何も連絡は着ていなかった。首を傾げた梓藤は、それから何気なく正面の窓を見た。理由があるとすれば、それがたまたま正面にあったからとしかいえない。ただの偶然だ。
「あ」
だが、落下して、窓の前を通り過ぎていったものを見た瞬間、梓藤は間抜けな声を出した。バチリと慣れ親しんだ泣きぼくろがある目と、視線が確かにあった。そこで初めて、梓藤は今落下していった物体が、人間だと気がついた。
気づいた直後に、ぐしゃりと潰れる音と、なにかが折れるような音が、微かにだが聞こえた気がした。あるいはそれは、気のせいだったのかもしれない。慌てて梓藤は窓際に歩みより、窓ガラスを開けた。そして下を見れば、そこにはひしゃげた体があって、本来の人間の構造とは著しく違う形に曲がった二つの脚と、一つの腕が、じわじわとアスファルトを染めていく血で濡れている。静間だった。思わず頭上を見上げる。フェンスの一部が無い。そう気づいた瞬間、窓枠にのせていた両手の指がガクガクと震えだした。すぐにその震えは、全身に感染した。
「梓藤主任? 一体どうし――」
「すぐに救急車を手配してくれ。屋上から、落下した様子だ」
「え!? 自殺ですか!? 大変だ!!」
「……真偽が分かるまで、そういった言葉は控えるように」
「は、はい!」
ダイヤルを押しながら頷いた嶋井が、救急車を手配した。梓藤が再び窓の下を覗けば、事態に気づいた他の人々も、そちらに集まり始めていた。梓藤は唇を噛んでから、嶋井に言った。
「俺も少し確認に行く。ここで待機を頼む」
「か、確認……?」
「――ああ。知った顔の相手かもしれない。その……なにせ、狭い警備部だからな」
いつか榎本に言われた台詞を、自然と口から放って誤魔化し、梓藤は一階の外を目指して走った。立ち止まったのは、誰かの声が響いてきた時だ。
「あーあ。こりゃ助からねぇというより死んでるな。首の骨が折れてる。確かこの腕、一係の静間だろ?」
同意する声が方々で上がっていた。
鬱屈とした気持ちで梓藤が進むと、気づいた周囲が道を空ける。
梓藤もまた、もう死んでいるという感想は正しいと思った。
だとするならば――静間が最後に見たものは、あるいは先程目が合ったのだから、自分なのかもしれない、と、そう考えた梓藤は足下が崩れ落ちそうになった。
「梓藤さん」
そこへ声が掛かる。反射的に顔を向けると、西園寺が立っていた。
「一度、中へ戻りましょう」
「……このままにしておくわけには」
梓藤がそう言った時、隣を通り過ぎる白衣が見えた。
「このままにしておいていいよ。しておいた方がいいよ。鑑識が調べるだろうし、その前に僕が死亡の確認もするし」
「榎本……」
「ここまで緊急性が高いとは思っていなかった。僕にも責任がある。とりあえず、一係の本部に戻ったほうがいい。その方が、君の居場所も分かるから、誰にとっても都合がいい」
冷静な榎本の声を聞きながらも、梓藤が立ち尽くしていると、西園寺がその腕を引いた。
「ここにいては、邪魔になります」
西園寺の声に小さく頷き、梓藤はその場を後にした。
【三十五】肖像画
静間の自殺から、二週間が経った。
また、冬が来た。
既にこの一係に来てから、何度目の季節の巡りなのかを、梓藤は思い出せなくなりつつある。瞬きをする間に、外の景色など変わってしまう。だというのに、どの季節にも、必ず思い出が良くも悪くも付随するから、たちが悪い。
窓の前を歩きながら、梓藤は溜息をついた。最初は、何度か窓を見てしまったのだが、静間が落ちてくることは、当然二度と無かった。
「……悪夢にもならないしな」
そう呟いた梓藤は内心で、忘れたはずの班目と静間の死を無意識に比較したことに気がついた。あちらはPTSDで、こちらの場合はなんともない? それだけ経験を経て強くなったのだと言えばその可能性もあるが、どうにも嫌な感覚になり、自分を嘲笑しそうになる。不思議と坂崎と比較することはない。坂崎の比較対象は、高雅だ。
「自分が手にかけたか否か、の違いか? それをいうなら、間接的に静間を死に追いやったのも俺なんだけどな」
考えてみたが、よく分からなかった。
「ただ、比較する段階で、俺の中でとっくに死んでるんだな」
ぽつりと梓藤は声を零した。既に班目は梓藤の中で死者だ。そしてそれは静間も同じだ。亡くなってからの期間の長短でしかない。だから、比較も出来てしまうのだろう。
「俺が死んだ場合は、誰と比較されるんだろうな。いいや、そもそも誰が俺を比較しようとするんだ?」
何気なく浮かんだ下らない考えに吹き出しかけてから、梓藤は本部へと戻った。
本日は、西園寺が非番だ。
だが、室内にいるはずの嶋井と宝田の姿がない。首を傾げて二度部屋を見渡すと、己のデスクの上に、付箋が見えた。貼り付けた覚えがないものだ。
歩みよって視線を落とす。
『――美術館にマスクが出現したそうです。今から高田と二人で殲滅に行きます。汚名返上してみせます。嶋井』
その文面を見て、硬直しながら梓藤は青ざめた。確かに最近、あの二人は力をつけた。西園寺と三人、あるいは梓藤と三人で、という場合の戦い方も教えてある。だがまだ二名だけでは、行かせた事がない。
「……そもそも普段は、こんなにゆったりと新人教育はしないか。もう、突き放して様子を……いや……」
梓藤は眉間に皺を刻んで、思考を回転させる。
「どんなマスクが何体出たのか、これじゃあ分からなくて、判断材料にはならない。帰ってきたら、一から伝言の残し方を教えなければならないな。状況が分からない以上、万が一に備えて、応援として駆けつけるべきだ」
梓藤はそう言葉にし、自分が助けに行く理由を作った。
西園寺には、階段を駆け下りながら、電話をかける。非番だが、関係無いと思った。なにせ、二人が死ぬかもしれない状況下なのだから。
「出ろよ、さっさと」
だが、暫くコールした後、不在のアナウンスに切り替わる。苛立ちながら外へと出た梓藤は、いつか坂崎に対し、休みの日は休めと己は伝えたのだったなと思い出した。
「……」
しかし非常事態だ。悩みあぐねいた末、緊急連絡用の西園寺のプライベート用スマートフォンの番号を呼び出す。そして通話ボタンをタップすると、二コール目で繋がった。
『はい』
「……美術館に、マスクが出たそうで、嶋井と宝田が二人で向かったそうだ。俺は今から現地に行く」
『どこの美術館ですか?』
「ええと――」
梓藤が簡単な位置情報を伝えると、西園寺が言った。
『直接現地に向かいます』
「分かった。入り口前で合流を」
『はい』
「くれぐれも――」
『単独行動は控えて下さい』
「――俺が言おうとした台詞だ」
頬を引きつらせて梓藤は言いきり、通話を切った。
そして車に乗り込むと、美術館を目指した。こういう時の赤信号は、非常に停止時間が長く感じるといつも思っているが、今回も例に漏れずそうだった。
そう遠くない距離であるにも関わらず、長時間の運転をしたような心地になりながら、美術館専用の駐車場に車を停める。そして鍵を閉めて玄関前へと向かうと、初めて見る私服姿の西園寺がそこにいた。
「西園寺、お前……」
「はい」
「その格好で戦うのか?」
「寧ろスーツより役に立つと思うんですが」
「どの辺りが?」
「収納スペースが十五個ついています」
「へぇ。そのちゃらちゃらした洒落たコートは、凄いんだな」
収納スペースの数で負けたスーツ姿の梓藤は、ポケットの中の排除銃を確認する。
「武器はあるのか?」
「勿論です。俺は排除銃と排除刀は、風呂以外はほぼ常に携帯しています」
「なるほど。念のため聞いてやるが、ポケットのあと十三個には何が?」
「応急処置用の品や、ランプや磁石になる品に――」
「悪い、聞かなければよかったな。そうだな、確かに役に立ちそうだな、キャンプとかに。行くぞ」
「はい」
西園寺が頷いたので、正面から梓藤は中へと入った。続いて西園寺が中へと入った時には、梓藤は既に最初の被害者の喰い残された足を見つけていた。
「梓藤さん」
「なんだ?」
「ここに入場者名簿があります。今日は元々鑑賞にきた人間が少なかったようで、中にいたと想定できる人数は、九名です。美術館のスタッフを含めてです」
「なるほど。そこに、嶋井と宝田……」
呟いてから、梓藤は振り返る。
「入り口側のドアには血痕一つない。少なくとも、現状的には手と口が血まみれのマスクが、この出入り口を使った様子は無いな」
西園寺がそれを聞いて頷く。
「進むぞ。遺体の数を確認しつつ」
「はい」
二人とも排除銃を構えながら、ちらりちらりと大理石の床の上に落ちている喰い残しの数々を脳裏で立体パズルのように組み合わせていき、人数を確認していく。
「こちら、腕と足が五つ無いが、六名を確認。西園寺は?」
「丁度今、五名を確認しました」
「まて、合計九名じゃ――……っ」
思わず梓藤は呻いた。そして西園寺が見ていた側を見渡す。
するとごく近い場所に嶋井の首が落ちていた。左目が床の上にあり、視神経でかろうじて顔と繋がっている。肩口から噛みちぎられている。一瞬だけ班目の頭部を思い出したが、理由は、あちらの断面は斧という人工物で斬られていたので、こちらと違い綺麗だったという単純な確認のためだった。
「……宝田の一部はどこに?」
「大分前です」
「……そうか」
表情一つ変えず、声音もいつも通り淡々としたままで、西園寺は続ける。
「あとは、この先に残っているとすると、マスクのみですね」
「そうだな。出入り口を使用していないとなれば、他に排気口や通気口といった何か、それらを用いた可能性は、逃亡経路の一つとして検討するべきだが、まずは奥の確認だな」
「はい」
こうして二人は、等間隔で銀色の甲冑が並んでいる区画へと進んだ。
一本道だ。少し進むと、すぐに壁になり、突き当たりとなった。
その壁一面に、巨大な油絵が掛かっている。その絵の左右には、甲冑の他に、燭台もある。焔が揺らめいている。
「この絵はなんだ?」
「なんだとは?」
「美術知識が欠落している俺にも分かりやすく教えて欲しいんだが、この絵、どこかで見た事がある気がするんだ」
「ええ、俺も同じ心境です。ただ俺は、どこで見たのか分かっています」
「どこで見たんだ?」
「今も目の前にいます。どこからどう見ても、この油絵は梓藤さんにしか見えません。逆に、美術家の知り合いに乏しい俺に教えて欲しいんですが、これは一体誰がいつ何を元に描いてここにどういった経路で展示を?」
「俺が知りたい。何故俺の肖像画がここにあるんだ?」
気分が悪くなる。純粋に不気味だからだ。西園寺はといえば、顎に手を添え腕を組んでいる。
「まぁ一つとしては、陽動を狙った、ですか……? つまり高等知能を有するマスクがいて、この美術館自体が罠だった、など」
「それは俺が狙いだと思うか?」
「どうでしょう。梓藤さんの肖像画をいきなり見つけたら、半数は驚くと思いますし、半数はマスクとの内通を疑うと思います」
「お前はどちらだ?」
「驚いたと言うことにしておいて下さい」
「いいや、そこは内通を疑ってしかるべきだ」
自分で言いつつ、西園寺に疑われていると言われていたら、少しショックだったような気がしていた。今となっては、もう第一係は、自分達二人だけだ。その二人が仲間割れをしていたら、話にならないだろうと感じてしまったからかもしれない。
「しかし、マスクはどこに……?」
思考を切り替えて呟いた梓藤は、油絵の事は一時取り置き、すぐそばの燭台の前に立った。横の甲冑も巨大だ。槍を持っている。それから上部を見上げ、排気口も通気口も無さそうだなと考える。
――ガシャン。
音がしたのは、そんな時のことだった。
音の発生源が分からず、梓藤が周囲を見回そうとした瞬間、梓藤の両肩が後ろにあった壁にぶつかった。直後、梓藤は己の顔の左右に西園寺の両腕がある事、その向こうで銀色の甲冑の兜が外れた事を理解した。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
狼狽えながら頷いた梓藤は、視線を落とし、西園寺の腹部を貫通している槍を目視した。
「なっ」
「甲冑の中……盲点でしたね」
「どうして庇った? 庇う暇があれば、撃ち殺せ!」
梓藤は叫びながら、血で西園寺の腹部が染まっていくのを見る。
梓藤はそれから再び、西園寺の顔へと視線を向ける。すると――そこには微苦笑が浮かんでいた。梓藤が初めて見る笑顔だ。満面の笑みではないし、苦笑交じりではあるが、呆気にとられて、梓藤は目を見開く。
――なんでこんな時にかぎって、笑うんだよ、と。
梓藤は怒鳴りつけたくなった。あるいは泣きたくなっていたのかもしれない。
「西園寺!」
そのまま西園寺の体が傾いたので、梓藤は抱き留めた。そのままゆっくりと床に横たえると、丁度槍を引き抜こうとしていたマスクの頭部を撃ち抜いた。
これを皮切りに、美術館内部にあった甲冑の全てから、マスクが姿を現した。
マスク達は甲冑を着たまま、梓藤を囲もうとしていたが、それは叶わない。
梓藤が片っ端から銃撃し、マスクの頭部を破壊しているせいだ。排除銃の前では甲冑は無力だ。すぐに白い大理石の床は、赤やピンクで染まっていく。飛び散った肉片を踏めば、床と共に靴が滑りそうになる。しかし西園寺の事を考えると、抑制が効かないほどで、とっくに頭部が砕け散っているマスクを周到に撃ち続けたりしてしまう。
そうして立っている者が自分だけになったと梓藤は認識し、西園寺のところへ戻る事にした。このような形で喪うとは思っておらず、まだ動揺の方が強い。
何故みんな、自分を置いていってしまうのか。死んでしまうのか。
もう嫌だと、胸が苦しくなりながら、一度俯いた後、梓藤は顔を上げる。
これでは、助けてくれた西園寺に示しがつかないと思ったからだ。
そう考えて、顔を上げた時だった。
「ええ、はい、そこです。その美術館に、救急車を一台お願いします。ええ、はい。意識レベルは今のところ清明です」
「西園寺!?」
スマートフォンを耳にあてながら、梓藤に気づいた西園寺が、左手の人差し指を立てて唇に触れさせた。黙っていろということだと判断し、嬉しくてたまらないはずなのだが、なにか複雑な心境で、これが夢では無いのか疑いながら、梓藤は西園寺が通話を終えるまでの間見守った。そして無事に通話を終えたの確認し、思わず叫んだ。
「お前、何してんだよ?」
「救急車の手配を――お疲れ様です、梓藤さん。全滅させるまで、早かったですね」
「あ、ああ。お前、そもそも怪我は……? 槍はどうした?」
「幸い槍を引き抜かれない状態だったので、前後の長い部分を排除刀で切って、体内に残したままで止血しています。応急処置セットを沢山収納していたのが役に立ちました」
「そ、そうか。やはり確かに、ポケットは必要だな。それにしても本当に、よ、よかった……――というより、紛らわしいんだよ! お前は! 死んだかと思っただろ!」
「いや、まだ、今のところ生きているという段階なので。槍、入ったままですし」
「縁起の悪いことを言うな」
それからどっと疲れて、梓藤はその場に座り込んだ。
喪失したと感じた時の悲しさや絶望が、綺麗に消え去った。ただ同時に、二度とあのような想いはしたくないと考える。
「西園寺」
「はい」
「二度と俺を庇うな」
「……」
「返事」
「お断りします」
「は?」
「一係には、そんな規則はありませんので」
「なに?」
「『死ぬな』――これを守ればいいんですよね?」
当然だというように無表情で述べた西園寺の声に、虚を突かれた梓藤は目を見開いてから、思わず破顔し大きく頷いた。
「ああ、そうだな」
【三十六】将棋友達
一ヵ月後、冬本番が訪れた。凍てつく寒さのその日、梓藤は西園寺のお見舞いにきた。本部にいても、排除に出ていても、いずれにせよ誰かが、連絡が来た時は対応する必要があるため、現在は梓藤のスマートフォンに全てを転送する設定にしてある。AIドローンより便利だ。
「もっと早くこうしていればよかったな」
「俺はそうは思いません。仕事中毒に拍車がかかってます」
病室できっぱりと西園寺が述べた。梓藤は苦笑を返しておいた。
それから、気を取り直して言う。
「そう思うなら、さっさと退院して仕事に復帰しろ」
「そうですね。実は今日の午後退院なんですよね」
「――は? 聞いてないぞ?」
「今朝決まったので」
「だとして、お前は俺が来た段階では、退院すると分かっていたんだろう?」
「はい」
「追い返せよ?」
「何故です?」
「退院の準備とか、あるだろ?」
「いえ、特に。全て病院が用意したレンタル品を買い取るというサービスを利用したので、持ち帰りませんし、私物も無いです」
淡々と感情の窺えない声が返ってきたものだから、梓藤が目を据わらせる。
「ご家族の方が来たりするんじゃないのか?」
「ええ。祖父が来てくれます」
「だったら、俺は先に帰る。邪魔をし――……やっぱりいてもいいか?」
「ご自由に」
西園寺が頷いたのを見て、梓藤は以前聞いた言葉を思い出した。
――梓藤家の名前を、祖父から聞いた。
確かに西園寺はそう述べていた。
「ところで、お祖父様は、どのような方なんだ?」
「とても厳格で怒ると鬼のように怖い……」
そこで西園寺が言葉を止めて梓藤を見た。脳裏に恐ろしい老人の姿が思い浮かんだため、梓藤はがらでもなく冷や汗をかく。
「……俺の父親の父親です。血縁関係があるのか疑問なほどに、温厚です」
「おい。今の父親の説明はいらなかったと俺は思うが?」
[俺にPKの技術や、その他の異能関連の全てを教えてくれた師匠でもあります]
「なるほど」
「はい」
西園寺が頷いた時、コンコンとノックの音が響き、ゆっくりとドアが開いた。
「少し早く来すぎてしまったのだが、来客中なら出直そう」
「ああ、こちらは俺の仕事の上司で、梓藤冬親さんです。お祖父ちゃんに会いたかったそうなので」
「ん? 梓藤? 梓藤幹尚くんのご家族かい?」
入ってきたのは、非常に若々しく、西園寺の父と聞いても信じてしまいそうな人物だった。西園寺によく似た顔立ちをしているが、髪の色は白髪だ。銀髪の見えそうになるから不思議である。
「はい。梓藤幹尚は俺の祖父です。改めまして、梓藤冬親と申します。この度は、俺のせいでお孫さんに重傷を――」
梓藤が頭を下げると、正面で西園寺の祖父が硬直した。
「重傷? 最初から意識は清明で、内蔵も幸い傷がついておらず、槍のレプリカの棒を取り除いて、手術は終了し、術後も安定していると聞いていたのだが、違ったのかい? 私を心配させないように偽りを?」
「いや、お祖父ちゃんの言う通りです」
「なんだ、びっくりした。老人をあまりからかわないように」
ホッとした顔をしてから、西園寺の祖父が言う。
「私と君の祖父は、将棋友達なんだ」
「そうなんですか」
そう聞きつつ、確かに祖父は将棋が趣味だったなと、梓藤は想起する。
「幹尚の奴は、いつもいつも勝つために私の心を読もうとするんだ。最初は読まれて負けてばかりだったが、今ではありとあらゆる幹尚への防衛策を構築し、一切私は心を読ませなくなった。その結果、どうだ? 私の全勝。さすがは、私だ」
なるほど、と、梓藤は納得した。
「その全技術を色には教えてある」
そうだったのかと、気が抜けた思いで梓藤は頷いた。
「それだけではない、死が多い部署と耳にし、心配してお悔やみの言葉辞典や、香典についても教えてある」
「大変助かっております。いつも西園寺くんには助けられております」
「それはなによりですね」
梓藤の即答を見る西園寺の眼差しは、とても複雑そうだった。
その後退院の時間が来て、会計などを済ませた。
梓藤は、西園寺とエントランスまで一緒にいく事に決めた。西園寺の祖父は既に外に車をまわしにいった。
歩きながら梓藤は問う。
「なにか食いたいものはあるか?」
「病院食以外なら、ある程度なんでもいけます」
「まずかったのか?」
「黙秘します」
西園寺はそう述べてから、改めて唸った。
「やっぱり、手料理が食べたいですね」
「手料理?」
「はい。じっくり五時間かけて煮込んだ――」
「待ってくれ。なんだそれは?」
「ああ、俺の得意料理です」
「は?」
「やっぱり手料理は最高です」
「……念のため聞くが、それはお前自身がお前の手でお前のために作るという意味の手料理か?」
「はい」
当然のように西園寺が頷いたので、折角だから復帰祝いにご飯でも――と、いつか班目にも食事をして親睦を深める術を上司なら使えと言われたので、それを思い出しながらおごるつもりだった梓藤は、拍子抜けした。
「……あー、いつも家でそういうのを作ってるのか?」
「まさか。母さんと姉さんが、時短料理しか作らないので、俺の鍋は邪魔だと言われて作らせてすらもらえません。たまに完成すると、全員が俺の分が無くなるほど食べるというのに」
「そ、そういう事なら、俺の家のキッチンを貸してやろうか?」
「はい」
あんまりにも素直に西園寺が頷いたので、戸惑いつつ梓藤もまた頷き返した。
こうして、西園寺は退院した。
【三十七】手紙
『
梓藤冬親 様
最初に始まる言葉を、色々考えたのですが、思いついた言葉は一つだけでした。
苦しんで死ね。
ただの死ねではありません。どうぞ限界まで苦しみぬいて、死んで下さい。
ありとあらゆる痛みを浴びて、気がおかしくなりそうな死因であることを祈ります。
嘘です。
正直、腕を失って考えました。痛みとは、こんなにも苦しかったのかと。それも幻覚なので、鎮痛剤が効きません。恐らく、そう遠くない未来に、俺は死んでいると思います。
ただ、一つだけ、お伝えしたことがあります。
俺は、梓藤主任を助けた事を後悔していません。
それは本当です。
これから先痛みが悪化したら、この気持ちが変わってしまうかもしれないのが、とても怖いので、ここに記します。
なおこの肖像画は、我ながらよく描けた作品です。少々サイズが大きいですが、よかったら飾って下さい。無理な場合に備えて、現時点では懇意にしている美術館の壁に飾っておいてもらう事にしています。美術館とはいいますが、個人のものなので、融通してくれました。ちなみに、他の人々の肖像画もあります。気が向いたら、それも取りに来て下さい。それらはもう少し、サイズが小さいです。まぁそんな感じなので、冬親ちゃんはこれからも頑張ってね。
静間青唯
』
手紙を読み終えた梓藤は、ソファに深々と背を預けた。
この手紙は、あの美術館を調べにいった第二係の者が発見し、届けてくれたものだ。肖像画は、まだ調査中なのでここにはないが、その内引き取ろうと、梓藤は考えている。
天井を見上げたまま、何気なく梓藤が呟く。
「なんで俺は死なないんだろうな」
「それは答えが明白ですね」
すぐに声がかかった。梓藤が顔を上げると、約束通り料理を作りに来た西園寺が、休憩に来たようで、カップを二つ手に持っていた。一つを、西園寺が梓藤の前に置く。使い方は、この家に来た十分後には、教えていた。理由は、調理時間が長いため、自分で淹れたいと乞われたからだ。
「明白?」
カップを受け取り、梓藤が首を傾げる。
「倒し続けるためです」
「なにを?」
「マスク以外の何を逆に倒すんですか?」
当然のことだというように、西園寺が述べている。
それを聞いていたら、梓藤の肩から力が抜けた。
「そうだな。その通りだ。そのために、俺は生きる」
「はい」
西園寺が頷いたので、これが生きる理由でいいのだと、梓藤は考えることにした。
それからふと、今西園寺が座っている場所には、嘗て班目が座っていたのだったなと思い出す。珈琲を淹れてくれた点まで、同じと言えば同じだ。
違うところは、西園寺には、ネクタイピンと墓が無い事くらいだろうか。
尤も墓は家の先祖代々の墓などがありそうだが。
あくまでもまだ、生きているという意味だ。
「おい」
「はい」
「ネクタイピンを買いに行くぞ」
班目と自分のおそろいの二つは、実を言えば捨てておらず、クローゼットの中の箱に放り込んでいる。あれは親友との大切な思い出の品なのだから、やはり捨てることはできない。
「どうしてですか?」
「復帰祝いだ」
「時計が良いです」
「時計?」
「新モデルが出たんですが、高くて買えなくて」
「お前って結構即物的だったんだな」
その後は二人で、西園寺が作った料理を味わった。確かにこれは、手料理が好きになるという気持ちが理解出来るくらい美味だと梓藤は思った。無表情で食べている西園寺をチラリと見て、このような才能があったのかと、心底驚いた。静間に絵画の才があったのも知らなかったが――ただ、過去にミネストローネの作り方に疑問を抱いていた理由はよく分かる。
「さて、出かけるか」
「待って下さい、皿洗いが――」
「帰ってきてからでいい」
「俺は駅から自宅に帰りますので、ここで鍋を持ち帰らないとならなくて、そのためにはなんとしても今……」
「おいて行けばいいだろう。洗うくらいは俺にもできる」
「え? いいんですか?」
「ああ。代わりに、また作ってくれ」
「喜んで。俺も作りがいがあります」
こうして、二人で出かける事になった。
先に西園寺がエントランスへと向かう。
梓藤は明日の自分のために、遮光カーテンを閉める事にした。出かけに閉めたのならば、もう片側だけ閉め忘れるような事態は発生しないだろう。すると室内が一気に暗くなった。
だが代わりに、西園寺が開けた扉から、陽光が差し込んできている。
梓藤は迷いなくそちらへと足を踏み出した。
こうして梓藤は、扉を出て、新しい今日も、未来へと進んでいく。
―― 本編・完 ――