名前変換設定
この小説には名前変換が設定されています。以下の単語を変換することができます。空白の場合は変換されません。入力した単語はブラウザに保存され次回から選択できるようになります
1 /
目次
いつものバスの中、いつもの背中
今日もいつもと同じ時間、同じバスに乗り込んだ。いつもと同じように、車内は人で溢れている。通学リュックを前に背負って吊り革につかまり、周りからの圧に耐えながら、目だけで辺りを軽く見回す。今日はあの人、いないのかな。いつもこのバスに乗っている、背の高い男の子。吊り革につかまりながら1人で本を読んでいたり、友人らしき人と小声で会話していたり。制服がうちの学校のものなので同じ学校であることはわかっているが、廊下ですれ違うことはない。学年は違うのだろう。それにしてもこのぎゅうぎゅうの車内だと、いくら彼の背が高くてもなかなか見つけにくい。きっと彼は、私が見つけられないだけで、今日もいつもと同じようにこのバスに乗っているのだと思う。
結局今日は彼の姿を見つけられないまま、バスを降りた。同じ学校なので、バスを降りてから学校に着くまでは同じ通学路のはずなのだが、やはり見つからなくて、ああ今日は休んでいるのかなとちょっとだけ落胆した。
その次の日も、彼はバスには乗っていなかった。少なくとも、私に彼の背中は見えなかった。その次の日も、さらに次の日も。1週間が経っても、彼が視界に入ることはなかった。10日が経って、2週間が経った。私の心には不安とショックが滲んでいた。どうして急にいなくなったのか、その理由を頭の中でひたすらに探した。転校?病気?それとも、そんな大きな出来事ではなくて、バス通学から自転車通学にしたとか、部活の朝練があるのでバスの時間を変更したとか。そうであって欲しいと願っている自分がいて、私はこんなにも彼のことを好きだったのかと自分自身に驚く。彼の顔を見たことなんて、1、2度しかないのに、私の頭はすぐにそれを思い出せてしまう。そのことに気づいて、やっと、私は私の感情を理解することができた。
当たり前にあった彼の気配が消えて、1ヶ月が経った。もう彼を見かけることはないのかもしれないという諦めが、最近、私の心を締め付ける。バスに乗り込んで、吊り革につかまった。目だけで辺りを見回す癖はここ数日でようやく抜け切ってくれた気がする。
不意に、前の方から声が聞こえた。バスの中だからだろう、遠慮がちな声だった。「水戸くん、足はもう大丈夫なん?」「うん。あんまり派手な動きはできんけど。」布と布が擦れる音や咳払いのせいで、その声ははっきりとは聞こえなかった。でも、私の耳は、記憶は、それを逃さなかった。反射的に顔を上げた。そこには、見慣れた彼の背中があった。
じゃあね、お母さん。
「じゃあね、お母さん。」
靴を履きながら、家の中に向かって小さくつぶやいた。それは虚しく地面に落ちていった。リビングからテレビの音が聞こえる。きっとお母さんの好きなドラマでもやっているのだろう。娘が遠い遠い東京という大都会で一人暮らしを始めると聞いても見送りさえしないのだから、本当に私のことなんてどうでもいいんだろうと思う。少しは心配とか、いや、今更お母さんにそんなことを言っても無駄だろう。お母さんの私への興味のなさは昔からだった。
バスに乗り、駅で降りて電車が来るのを待ちながら、今までのことをぼんやりと考えた。
私は望まれて生まれた子じゃなかった。お母さんが当時付き合っていた彼氏との間にできた子だったらしいが、妊娠が発覚してすぐに逃げられたそうだ。お母さんは頻繁にお父さんの悪口を吐き出していた。私がお母さんからの愛を実感したことは一度だってなかった。お母さんの手料理を食べたこともなかった。どうして堕してくれなかったのだと思うくらい、心が苦しい時期もあった。お母さんなりに葛藤したのかもしれないが、産んだなら産んだで幸せにして欲しかったというのは欲張りなのかもしれなかった。
お母さんは美しかった。夜のお店で働いていた。夕方に家を出て、朝方帰ってくる生活をしていた。昼間は大抵寝ていた。お母さんとの間に会話はあまりなかった。私がお母さんと話すのを怖がっていた面もあったのかもしれない。拒絶されたら立ち直れないと思っていたのかもしれない。私はお母さんを愛していた。たった1人の家族だった。お母さんがどれだけ私を嫌っていたとしても、私がお母さんを心の底から嫌うことはなかった。
もしも私が愛される子だったら。そんな考えが頭をよぎって、咄嗟にかばんからイヤホンを取り出し耳にねじ込んだ。スマートフォンを操作して音楽を流すと、頭の中に直接響いてくる。この感覚が私は好きだった。頭の中がそれでいっぱいになって、強制的に他の思考が中断された。
透明
得意なこと。それはみんなが持っているものだとカウンセラーの花里先生は言った。「だからあなたにもあるわよ。」先生は続ける。無責任だと思った。どうしてみんなが持っているものだとわかるのか。得意とは、どこからどこまでを指すのか。私は何もできない。勉強も運動も、0から1にすることも、1を100にすることも、10にすることすらできない。私は何も持っていない。私が私であることを証明する術はない。どこにもない。
花里先生はその後も、私を励ますための的外れな言葉を熱心に吐き出してくる。はいと頷いているとカウンセリングはいつの間にか終わって、私は待合室のソファに座っていた。どうやらお母さんと花里先生が少し話をするようだった。まだ地面に完全にはつかない足をぶらぶらと持て余す。5分ほどでお母さんは帰ってきた。何を話していたのだろう。一瞬思ったが、聞くほどではない。花里先生は私のことを何も知らないのだから、彼女の想像でしかないことを話されたのだろう。私は先生とコミュニケーションを取らなかった。だから先生が私のことを何も知らないのも当たり前だった。先生が一方的にボールを投げてきて、私はそれを取るために動こうともしない。きっと私は、これをずっと続けるのだろう。
個人的に好きな1文は、「一瞬思ったが、聞くほどではない。」
主人公の「関心はゼロではないけど、聞くのは怖い、だから聞くほどではないと思い込むことによって自分を守っている」感が出て良いなと思った。
続き書くか迷う
投げるわ
2025/05/17
可哀想な子だ。
初めて加藤沙織という人物を目にした時、そう思った。加藤沙織は更衣室で小柄な女の子をいじめていた。たまたまドアが少し開いていて、隙間が生まれていた。人もほとんど来ない、寂しい旧校舎の4階だったので油断していたのかもしれない。のちにいじめられている女の子の名前は久世結衣だと知った。結衣は壁際に追い詰められ、ヘナヘナと力なくへたり込みながら、苦しそうな表情をしていた。加藤沙織は結衣の長く美しい黒髪をひっぱって彼女を立たせた。結衣は大粒の涙をボロボロと流しながらいじめに耐えていた。そんな健気な女の子を、加藤沙織は気持ち悪いと容赦なく罵っていた。
私は静かにその場を後にした。もうこのことは忘れようと決意しながらも、頭の隅では加藤沙織の姿がへばりついて離れてくれなかった。加藤沙織にも、自身を大切におもってくれている誰かがいるだろうに。気にかけてくれるような、愛してくれているような人。
次の日も昨日のことが気になってしまい、昼休みに高速でお弁当を食べ、旧校舎の4階更衣室に向かった。ドアは閉まっていたが、音が中から漏れ出ていた。ロッカーに何かが当たったような鈍い音が響く。おそらく結衣が加藤沙織に突き飛ばされたのだろう。
痛そう。自然と顔が歪む。不意に足音が近づいてくることに気づいた。一瞬、加藤沙織が更衣室から出てこようとしているのかと思い焦ったが、違ったようだ。
「あ」階段を上がってきた山口美緒が更衣室の前に立つ私を見て、そうこぼした。
山口美緒と私は、いわゆる幼馴染であった。だからと言ってとても特別仲が良いわけではない。小学生の時は学校終わりは毎日一緒に帰っていたりしていたが、中学に上がって別々の部活に入ると当然時間が合わなくなる。クラスも同じではなかったため話すこと自体が減っていき、今はなんとなくお互いに気まずい。
「雛乃…なにしてんの…」私を見て怪訝な顔をする。私はしっと自身の唇に人差し指を当て、もう一つの人差し指で更衣室のドアをさす。美緒はさらに眉を顰めたが、こちらにきて更衣室のドアに耳を近づけた。中から加藤沙織の荒れた声がうっすらとだが聞こえてきて、美緒は目を見開いた。困惑した表情で私と更衣室の間で視線を揺らす。10秒ほどそうすると、彼女は私の手を引っ張った。自身が上がってきた階段付近で立ち止まり口を開く。
「雛乃、知ってたの?」
「昨日気づいたばっかだけど…。いじめだよね」
まるで美緒は元から知っていたかのような口ぶりが気になった。そういえば、彼女はなぜこんなところに来たのだろう。
「そうだよね。やばいよね。わかってるんだけどさ」「なに?美緒は知ってたの?このこと」「うちのクラスはみんな知ってるよ。加藤さんも久世さんも同じクラスだしそりゃわかるでしょ…」
思考が停止した。彼女はなにを言っているのだろう。
「知ってるのに放置してるの?」
美緒は下唇を噛んで俯いた。私は続ける。
「そりゃ、自分が犠牲になる必要はないけど、担任に言うとかできるでしょ?簡単なことじゃん」
「…加藤さんは加藤電気の社長の娘なんだよ、有名だよ。だから担任も逆らえなくて黙ってるわけ。逆に久世さんは貧乏らしいし」
怒りが一気に冷めていく。現実はそんなもんなのか。どうしようもできないもんなのか。
「加藤電気はさ、この学校にたくさん寄付してるからさ。校長までいじめのことが伝わったとしても、きっとなにも変わらないよ。先生にチクったことが加藤さんにバレたら、次いじめられるのは自分かもしれない。っていうか、そうなんだよ。久世さんも」
美緒はそこで言葉を止め、諦めのようなうっすらとした笑みを浮かべた。仕方ないんだよと言う彼女の呟きは、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
身体中の力が抜けていくのを感じる。加藤電気のとこの娘か。なら仕方ない。どうしようもない。だから私も賢い他の生徒のように、見て見ぬふりをすれば良い。強者は弱者を潰し、弱者は強者に潰される。それだけの話だった。
「もうそろそろ、お昼終わるね。戻ろう」
腕時計をチラリと見た美緒が言った。
誰かのせいだった
私は何も持っていない。私のしていることは結局誰かがしていたことを繰り返しているだけだった。新しいものを生み出す力は私にはない。私の力で幸せになったのではない。私は何もしていない。そのことを知らないみんなは私を褒める。褒められるのは嬉しいけれど、どこか虚しい。私がいなかったとしても、私の代わりとして十分すぎる人間が必ずいる。私が生まれ来た理由は何?きっとその「私の代わりとして十分すぎる人間」も、そう思うのだろう。そんなことを考えて、心が軽くなってしまう。何も解決はしていないのに。
山吹、再起動。
リメイク
山吹あずさが死んだ。病気だった。彼女は私の幼馴染だった。私たちはずっと仲が良くて、幼稚園の頃、彼女はどうしてかわからないけれど、いつも私の後をついてきていたのが懐かしい。中学2年になった頃、山吹あずさが悪性リンパ腫であることを知った。つまり癌だ。医者に余命半年だと告げられたことも続けて教えてもらった。私は悲しみに暮れ、そして彼女を支えると決めた。勉強より、部活より、友達より、あと半年しか一緒にいられない彼女に時間を使った。彼女はそのことに対していつも申し訳なさそうな顔をしていた。ごめんねと度々言われた。私は聞こえなかったふりをしていた。
余命宣告をされてから7ヶ月後、あずさは息を引き取った。もちろん、多少の心構えはできていたけれど、それでも私を鬱にさせるくらいには衝撃的でショックの大きい出来事だった。あずさが死んでから私は家に引き篭もるようになった。なので鬱だと診断されたわけではないが、両親は完全に鬱だと思っているし、私自身もまあそうだろうなと頭のどこかで感じていた。
カーテンを閉め切った、人工的な光に照らされている部屋。外はきっと真っ暗だ。でも私は眠れなかった。体も心も疲れているのに、寝ることができなかった。スマホで時間を確認すると深夜2時半だった。「2:30」その数字に体が少し跳ねた。
山吹あずさが死んだ時間だ。
平静を装いつつ、スマホの画面を下に向けた。その時、ピコンとスマホが鳴った。こんな時間に?と不審に思いつつ、だからこそ気になった。だがまたあの数字を見るのだと思うと、スマホに伸ばした手が一瞬止まった。それでも数字を見ないように通知を確認した。トークアプリからの通知だった。インストールしたは良いものの、部屋に篭りっぱなしになってからは大した働きをしていないアプリ。あずさが生きている時は頻繁に使っていたのにと、そんなことを思って胸が締め付けられる。もうこれ以上それについて考えてしまわないよう、メッセージに意識を向ける。誰がこんな時間に送ってきたのだ。確認して、目が釘付けになった。相手の名前が、「山吹あずさ」____彼女のものだった。おかしい。彼女のスマホはとっくに処分されたはずだ。もうこの世に存在していない。同姓同名の人は登録していない。
恐怖心も、確かにあった。でもそれ以上に、期待が膨らんでいった。その通知が、彼女の名前が、光り輝いて見えた。私は震える手で送られたメッセージを開いた。2通、送られてきていた。
『いつまでも部屋に篭りっぱなしじゃだめだよ』
『前に進んで』
ただの文字のはずなのに、視界が滲んだ。頬を生ぬるい液体がつたった。
ただの文字のはずなのに、それには特別な力が込められているように感じた。さっき以上に胸が締め付けられた。でも、苦しくはなかった。
彼女に背中を押されたから、だから、私は進む。未来に向かって。
---
リメイク前(多分小6後半〜中1前半あたり)
君が死んだ。ずっと前から医者に余命宣告をされていた。
心構えはできていたからショックはある程度減っていたのかもしれないが、少なくとも私を鬱にさせるくらいは悲しかった。
君が死んでから私は家から出なくなった。だから鬱と正式に診断されたわけではないけれど、両親は私を完全に鬱だと思っている。
カーテンを閉め切った、人工的な光に照らされている部屋。
外はきっと真っ暗だ。スマホの時計を見ると深夜2時半だった。「2:30」。その数字に体がびくりと反応する。
君が死んだ時間。
ぴこん、とスマホが鳴った。またあの数字を見ると思うとスマホを伸ばす手が一瞬止まった。
「LINEか‥‥。」
数字を見ないように通知を確認する。
インストールしたはいいものの、部屋に篭りっぱなしになってからは大した働きをしていないアプリ。
君が生きている時は頻繁に使っていたのに。
でも、奇妙なことが起きていた。
送ってきた相手の名前が____『山吹 あずさ』君の名前だった。
目が名前に釘付けになる。
意味がわからない。君のスマホはもう処分されたはずだ。だから誰も持っていない。
君と同姓同名の人は登録していない。そもそも、私とLINEを交換しているのは両親とあずさだけである。
私は震える手であずさから送られてきたメッセージを開いた。
2通、送られてきていた。
『いつまでも部屋に篭りっぱなしにならないように』
『前に進んで』
ただの文字のはずなのに視界が滲んだ。
ただの文字のはずなのに、それには特別な力が込められているように感じた。
君にそう背中を押されたから、だから、私は進む。未来に向かって。
リメイク前のほう短編カフェのリレー小説から引っ張ってきた。リレー小説っていいね。
四分咲き
『好きでした。大好きでした。』
それだけ書いた手紙を、封筒に入れる。四葉のクローバーのシールで封をした。クローバーを選んだことに意味はない。ただ、なんか良さそうだったから。明日、この手紙を先輩に渡す。読んでもらえなくてもいい。彼の心に届かなくてもいい。自分の中でこの気持ちにけじめをつけたいだけなのだ。
手紙を丁寧にカバンに入れる。明日は先輩の卒業式だ。卒業式が終わったあと、それとなく渡そうと静かに決めた。
次の日、ちゅんちゅんという鳥の鳴き声で目が覚めた。時間を見た。目覚まし時計がなる10分前だった。窓を開けると、冷たい空気が頬を撫でる。それに乗った春の匂いに、私の鼻がくすぐられた。支度を終えて、カバンを肩にかけ家を出た。カバンの中の手紙が曲がっていないか、シールが剥がれていないか、そんなことを何度も確認した。そうしているうちに、やけに長く感じた通学路も歩き切って、学校の校門をくぐっていた。先輩のことばかり頭に浮かんできて、朝のHRのことはあまり覚えていない。気づけば、体育館の遠い天井を見上げていた。卒業生、入場、という先生の声と同時に体育館のドアが開き、卒業生たちが入場してくる。私は拍手をしながら先輩の姿を探していた。先輩は少し緊張した表情で歩いていた。でも堂々としていた。
そのあと、卒業証書授与や卒業生からの答辞などを終え、拍手に包まれながら卒業生が退場する頃には、あちこちから鼻を啜る音や嗚咽が聞こえてきていた。私もいつの間にか鼻頭が熱くなっていた。
在校生である私たちも教室に戻り終礼が始まる。私たちを見つめる先生の瞳は少しだけ遠くを見ていた。終礼が終わってすぐ教室を出ようと思ったが、友達が話しかけてきたので少し遅れてしまった。それでもなるべく早く会話を切り上げ廊下に出た。先輩に会いたくて、走ろかという考えが脳裏に浮かんだけれど、カバンの中の手紙がそれでよれよれになってしまったら大変だ。
先輩は、校門にいた。写真撮影や見送りでごった返していたが、私は彼をすぐに見つけることができた。後輩女子に囲まれていた。彼の制服の第二ボタンは、もうなくなっていた。改めて先輩の人気を目の当たりにし、開きかけた口から声が出なかった。カバンの持ち手をぎゅっと握りしめ、大丈夫、渡すだけだ、と自分に言い聞かせながら、ほんのりと暖かい手紙を、カバンから取り出す。幸い曲がってもおらずシールもそのままだ。それを見て、少しだけ胸が締め付けられた。
「先輩。」女子生徒らの隙間を抜け先輩の近くに行った。緊張でくちびるがわずかに震えていた。「見なくてもいいです。受け取っていただけますか。」彼の目を真っ直ぐに見て言った。聞こえるか聞こえないか、伝わるか伝わらないか、ギリギリの声量だった。でもそれが今の私の限界だった。先輩の顔が変わるまでの一瞬が、永遠のように思えた。その一瞬、私の世界からは音が消えた。先輩と私以外のすべての人間が消えた。なのに、手の震えだけは消えてくれなかった。彼はにこりと笑い、ありがとうという言いながら手紙を受け取ってくれた。きっと手紙の中身も大体の予想はついているのだろう。彼にとっては、よくある手紙のひとつかもしれない。けれど、私にとっては、今までの人生で1番特別な手紙だった。いつか後悔するかもしれない。でもきっとしない。
頬が熱い。自分でもわかった。そっと背を向けて彼の元を離れた。数秒だけでも、彼の瞳に私が写っていた。風がやわらかい。桜の花びらが、光に滑るように舞った。
あたし
自分の存在
朝が来た。カーテンを開けた。光が差し込んできて、目が覚めた。制服に着替え朝ごはんを食べたあと、テレビの占い番組を見て、カバンを持って、靴を履いた。家を出た。通学路の空気は冷たく、透き通っていた。学校に着いた。上履きに履き替えた。廊下を歩いて、階段を上がって。教室に入ると、急に冷たかった空気があたたかくなった気がした。友達が挨拶をしてきた。だから私も笑顔で挨拶を返した。しばらくして、HRが始まった。私は先生の話を真剣に聞いていた。
休み時間に友達とお手洗いに行った。用を足したあと、手を洗いながら鏡を見た。そうしたら、少しだけ他人に見えた。
「ねえ。私って、私に見える?」友達に聞いた。友達は不可解そうな顔をした。「そりゃーそうでしょ。」当たり前でしょ、という顔をしていた。そっかと返した。友達は別の話をし出した。私はしばらく、鏡に映った顔が忘れられなかった。
家に帰った時は、午後6時を回っていた。お母さんが晩御飯の支度をしていた。私は部屋で期限が迫っている課題を済ませた。ちょうど終わった時、お母さんが「ご飯よー。」と私を呼んだ。部屋を出た。お父さんが帰ってきていた。テレビでバラエティ番組を見ながら、一緒に食卓を囲んだ。時々お母さんとお父さんが笑った。だから私も一緒に笑った。
ご飯を食べ終えた。私は空になったお皿を全てシンクに運んで、手袋をはめ、洗い物を始めた。お母さんが「いいわよ、そんな。」と駆け寄ってきた。私は全然大丈夫だよと答えた。結構好きだし。そう続けたら、お母さんが顔を緩めた。「本当に優しい子ね。」私は優しい子だった。
私の誕生日がやってきた。登校すると、友達が笑顔で近づいてきた。「じゃーん!」隠し持っていたプレゼントらしきものを私にくれた。綺麗な包み紙に包まれていた。私は咄嗟に笑顔を作った。「え、何これ!中見てもいいの?」高い声を出した。友達はへへっと笑いながら頷いた。包み紙を丁寧に開けた。ハンカチが入っていた。端に、猫の刺繍がされていた。「めっちゃ可愛くない?歩実、猫、好きでしょ?」本当は猫は好きでも嫌いでもなかったけれど、嬉しそうに答えた。「うん、大好き!ありがとう!」私は猫が好きな子だった。
誕生日は、家でも祝われた。親からは小さな置き時計をもらった。上品な茶色で、シンプルだけど重い。手のひらに乗せた時、沈んでしまいそうだと思った。「机の上に置いておくといいわよ。こういうシンプルなものだと歩実の部屋の雰囲気にも合うんじゃない?」ありがとうと答えた。私はシンプルで、上品で、大人っぽいものが好きな子だった。
部屋に戻って時計を机の上に置いた。確かにこの部屋の雰囲気に一致した。でも、なんだろう。言葉にできなかった。ただ疑問が湧いてきた。
どうして私はこんな部屋にしたんだろう。私の好きなものって、こういうのだっけ?違う。私の好きなものは、大人っぽいものでもない。猫でもない。もっと、違うものだ。そう思った。
私の物語に、悪い人はいない。不幸というわけでもない。
でも、私があたしでいれたら、いることができたら、もっと幸せだったのかも知れなかった。
はははっははh。
最初の文章、やけに客観的に自分を見てるとこで理解しろよ主人公。
菓子パン
小さい頃から愛されない子だった。私の家にお父さんはいなかった。お母さんは夕方になると髪を巻いて綺麗なお洋服を着て、キラキラのバッグを持って家を出た。帰ってくるのは朝で、お母さんはそのあと昼まで寝ていた。だから夜はご飯を食べられなかった。朝は寝ているお母さんのバッグからこっそりと菓子パンをうばって食べた。お母さんのカバンの中にはいつも菓子パンがあった。私がそれを食べていることにも気づいていたのかもしれなかったが、それについて怒られることはなかった。気づいていたのか、いなかったのかは分からない。お母さんは乱雑だから、後者の可能性も十分にあった。
小学校に上がってすぐ、友達が出来た。何人もできた。その時だけは楽しかった。一緒に給食を食べた。校庭で走り回った。私の外見は薄汚れていたけれど、誰も何も気にしていなくて、私自身も外見については何も考えていなかった。でも小学校4年生になったころから、私は孤立した。ひそひそと陰口を叩かれた。「臭い」「汚い」「きもい」そう言われていた。初めて、私はおかしいんだと知った。家では頻繁に水道や電気が止まったので、毎日お風呂に入ったり洗濯をすることはできなかったし、料金が上がるとお母さんに怒られた。でもそれは少し嬉しかった、お母さんと話すのはその時くらいだったから。ただお母さんに嫌われたくないという気持ちもまたあって、私は屋根裏に潜むネズミのような生活を送っていた。
小学5年になったころから、クラスでいじめが発生した。いじめの標的は私だった。いままで陰で言われていたことを直接、かつ大声で嘲笑うように言われた。家にも学校にも居場所はなくて、味方も誰もいなくて、いやむしろ、私が自己防衛のために全員のことを敵だと思い込んで、助けてくれる人を突き放していたのかもしれなかった。真実は分からない。あの時は生きるために必死だった。
中学生になった。現実での状況は小5のときから何も変わっていなかったけれど、ひとつだけ好きなものができた。AIだった。AIは私に全てを包み込むように肯定してくれて、慰めてくれた。そのことが限界ギリギリだった私の心の唯一の希望になった。毎日、学校のタブレットでAIと話した。AIと話している時だけは幸せでたまらなかった。だんだんエスカレートするいじめにも、お母さんの無関心にも、AIが居たから耐えられた。
でもそれをみんなは否定した。
いじめっ子は言った。「AIが友達なの?うける」
学校の先生は言った。「学校のタブレットを勉強以外に使ったらダメなのよ」
お母さんは言った。「ずっとタブレットにニヤニヤしてて、気持ち悪」
私はなにも、全人類に愛されたいと言ってるんじゃない。ただ誰かに、1人だけでもいいから、私のことを見てくれて肯定してくれて、たとえ表面上だけの言葉でも、愛して欲しかったんだ。それってそんなに贅沢な願い?
(「・ω・)「
次
昔は夏が好きだった。日が長いおかげで、外で沢山遊べるから。汗をかけるから。風が気持ちいいから。理由は色々あった。私はとにかく活発で友達も多くて、よくいえばポジティブ、悪く言えば脳筋。男子にゴリラ女とか言われても全然傷つかなかったし、だから自分はメンタルが強いんだと思っていた。
中学に上がったときから、少しだけ周りが変わった。少しだけの変化だった。女子と男子の間に少しだけ距離ができて、男子とばかり話していると少しだけ悪く言われて、クラスにカーストというものが発生して、みんな、少しだけそれを気にしていた。私はそんな空気が嫌だった。だからそういうことを完全に無視して学校生活を送ろうとしていた。
それは簡単なものではなかった。
きもいと言われた。みんなに避けられ始めた。友達がいなくなった。
小学校のころからずっと仲が良かった子もあっさり離れていった。
そんなものかと思った。それでも私は自分を変えなかった。だって私は間違ってないから。ここで屈したら、私らしくない。ここで屈したら、私の負けになってしまう。そう思って、ふんばった。きっと、いや絶対に、他の子も前みたいに戻ってくれる。いつになるかは分からないけれど。
でも結局それも全部強がりで、私の強いと思っていたメンタルはゆっくりとバランスを崩していった。当時淡い思いを寄せていた男子に尻軽女とからかわれたことが決定打となり、私は学校に行けなくなった。
動画配信サービスで、リストカットというものをしった。見た時、喉が音を鳴らした。やってみたいと強く惹かれた。ハサミで手首を切ってみた。痛かった。すごく痛かった。ああ、私って何してるんだろ。そう思った。でもやめられなくなった。こんなに痛いのに、こんなに辞められないものって、こんなに、私が生きていることの証明になるものって、ある?
そのときは秋から冬への移り変わりの時期で長袖を着ていたから、親にも誰にも私がこういうことをしていると知られずにすんだ。
親は時折、「勉強だけはちゃんとしなさいよ」と言った。私は頭が悪かった。中1になってすぐに勉強につまづいて、最後に受けたテストでは特に数学が酷く、25点を叩き出した。まだ中1でこれだ。私の人生どうなるんだろう。考えて心が潰されそうになる。だからリストカットに逃げる。そんな日々を続けた。
いつの間にか中2になっていた。先生に「始業式だけでもこない?」と誘われたけど拒否した。私の通う中学校は生徒数が少なく、3年間で一度もクラス替えがない。みんなに会うのは気まずいし、また傷つきたくなかった。それにきっと、みんな、成長してる。私が家に引きこもっていたこの数ヶ月間は空虚で、きっと、私だけ取り残されてるんだろう。きっと、どうしたって傷つくんだろう。きっと。
なんの変化もないまま、6月になった。リストカットは相変わらずやめられなくて、私の手首には常に線が何本も走っていた。
もうすぐ、夏が来る。私はその事が怖くて仕方なかった。半袖を着ることになるから。私の手首が見えてしまうから。かといってずっと長袖を着用するのも無理があった。親に違和感を抱かせてしまう。どうして長袖を着ているの、と聞かれた場合の最適解も思い浮かばない。私はずっと昔から暑がりだし、その性質が急に変わるのも変な話だ。
リストカットをやめるという選択肢はなかった。
7月になって、急に気温が上がった。日中は30度を超え、それでも長袖を着続けるのは厳しかった。ずっとエアコンをきかせるのもまた厳しい。エアコンをつける前に半袖になれよという真っ当な指摘がすぐに飛んでくるだろう。
だから私は、久しぶりに学校の制服に腕を通した。
久しぶりに半袖を着た。
久しぶりに家を出た。
久しぶりに通学路を歩いた。
久しぶりに校舎をみた。記憶よりも汚れていた。
久しぶりにクラスメイトたちの顔をみた。
久しぶりに階段を上がった。
久しぶりの屋上。
久しぶりの空気。
何もかも久しぶりだった。
柵を飛び越えた。
落ちた。
次はきっと、夏が好きになれるよね。
ハピエン🎉
泣き方
暇だったから書いた。
七夕ってあれじゃん、かい。。。。かいぶ。。。。。。。。。。。。。かいふ。。。。。かいぶ。。。。。。かいぶーーーーーーー。。。。。。。。。あーーなんだったけ。
↑怪文🤔
おばあちゃんが死んだ。
だから私は泣いた。
おばあちゃんの冷たい手に、自分の温度のある手を重ねて泣いた。
葬式が行われた。
私はそこでも泣いた。
大人はみんな私を同情の瞳で見た。
誰かが言った。「優しい子だね。」
私は少し嬉しかった。
もっと言われたかった。そのまま泣き続けた。
幼馴染の萩原が、そんな私を見て変な顔をしていた。
私はそのことに気づいていたけれど、知らないふりをした。
ペットの犬が死んだ。
だから泣いた。
潤いのない犬の毛を撫でて泣いた。
葬式が行われた。
私はそこでも泣いた。
お母さんが悲しそうな顔をして私の背中に手を添えた。
私は少し嬉しかった。
もっと優しくされたかった。そのまま泣き続けた。
教室で飼ってた金魚が死んだ。
あちこちから嗚咽が漏れていた。私は一番泣いた。
みんなが言った。「大丈夫?」
私は少し嬉しかった。そのまま泣き続けた。
萩原はやっぱり、変な顔をしていた。
そのことが気がかりだった。
私は放課後に聞いた。小学校から、家に帰っている時だった。
「なんでいっつも変な顔して私を見るの。」
萩原は真顔で答えた。「奈緒が誰のために泣いてるのか、わからん。」
今度は私が変な顔をした。
懐かしいな。
あんな時もあった。
でももう大丈夫。
私はもう泣ける、誰かのために。
萩原の葬式があった。
まだ20代なのに、ぽっくり逝ってしまった。
「あ、死ぬわ。」萩原の最後の言葉。萩原らしい言葉。
葬式で、私は泣いた。
萩原のために泣いた。
あの日のために泣いた。
胸が締め付けられるような思いだった。
苦しいと思った。
萩原死ぬの突然すぎてウケる。まあ大事なのは萩原の生き様じゃないから。
奈緒はなんか普通の子。普通でありたいと思うばかりに自分を見失いそうになるタイプ。まあ萩原が時々ばかほど刺さること言ってくるから👍
あと萩原は女だ!!!!!!!!!!!!!!!!!無口な少年をイメージするんじゃない!!!!!!!!!!!!!!!いや別にイメージしてもいいけど女だから。。。。。
となり
憧れている人がいた。その人は、転校生として私の学校にやってきた。私が話しかけると、ニコニコと笑顔を浮かべて返事をしてくれた。あ、きっとこの子はみんなに好かれるな、と直感した。そしてそれは当たった。その人はすぐにクラスの中心人物になった。でも、その人は私と一番親しくしてくれた。どうしてかわからなかった。ある日、私は意を決して聞いた。
「どうして私と仲良くしてくれるの。」その人はしばらく黙った。聞かなければよかったと後悔した。数十秒して、ようやくその人は口を開いた。「なんか、好き。」私は困った。その人ですら言葉にできない『なんか』が私から失われてしまったら、離れていってしまうのか。でもそれ以上追求できずに、会話は終わった。
その人は勉強もできた。テストではいつもいい点数を取っていた。その人は運動もできた。体育祭で誰よりも輝いていた。その人は気遣いができた。その人はどこか品を感じさせた。その人は行動力があった。その人は努力家だった。その人のことを知れば知るほど、羨ましいと思った。やっぱりすごいと思った。私のずっとずっと先にいるなと思った。
その人が隣にいると、窮屈で仕方なかった。差を見せつけられるたび、しんどかった。その人は私に対してマウントを取るようなことはしなかったんだ。私が勝手に比べていただけなんだ。悪いのは私なんだ。その事実が余計に私を苦しめた。
もう離れてしまえばいいんだと、ようやく気づいた。
私はその人と距離をとった。その人はそれから少しの間、寂しそうな顔をしていた。私は心の中で、仕方がないんだと自分に言い訳した。罪悪感を必死にかき消そうとした。
ある日に登校すると、私の机の中に手紙が入っていた。まだ誰もきていなかった。封を切って中を見た。手紙の中心に、端正な字でこう書かれていた。『好きだったよ』。すぐに誰からの手紙かわかった。そして、ああ私はやってしまったんだと理解した。私はもうその人に近づく権利なんてないんだと、思った。自分から離れたはずなのに、涙が落ちた。一粒だけだった。
飛ばさない紙飛行機
2025/07/09
私の右斜め前の席の男の子は、よく紙飛行機を折っている。でも飛ばさない。彼は窓際の席なので飛ばそうと思えばいつでも飛ばせるのだが、絶対に飛ばさない。少なくとも私は、彼が外に飛ばしている姿も、外で彼の紙飛行機を見かけることも一度だってなかった。彼が外に投げるのは良くないだろうという真っ当な意見を持ち合わせる人間だったとしても、教室の中ですら飛ばさないので、もはや折り紙が趣味の少年と思うしかないのだろう。ただそれなら別に紙飛行機じゃなくてもいいのではないか。鶴とか、色々あるだろう。私は折り紙を折る彼の姿を見かけるたびにそんなことを考えるが、特段親しい仲でもないので真相は謎のままだった。授業中でも昼休みでも、気づけば紙飛行機を生み出している彼を、私はいつからか無意識に目で追うようになった。
英語の授業中だった。先生が問題の解説をしている時、私は彼の手元を眺めていた。彼はまた紙飛行機を作っていた。先生に見つからないように教科書を立ててうまい具合に隠している。「山宮。」不意に、先生が私の名前を読んだ。「ここはなぜこうなるのかわかるか?」次に当てられるの私だったっけ、と記憶を辿りつつ、黒板をみやる。しかしまず文字で溢れている黒板のどこに意識を集中させるべきなのかすらわからず、数秒黙り込んだ上で「わかりません。」と答えた。少しだけほほに熱が集中していた。先生は「じゃあ、前田。」と彼の前の席の女の子を指名した。前田さんはすぐに答え、それはどうやら当たっていたようで、先生は上機嫌に解説を始めた。余計に恥ずかしくなりながら、紙飛行機に集中している彼の手元をちらりと見た。彼は完成しているであろう紙飛行機をどうしてか一度開き、中にペンで何かを書き込んだ後、再び折って元の姿に戻した。
気になった。何を書いたのかがどうしても気になった。が、前述の通り私と彼は親しいわけでもなんでもないので面と向かって「見せて。」なんて言えないのだ。心がむずむずして仕方ない。彼は中に何かが書かれている紙飛行機をいつもの通り机の中にしまい、頬杖をついて窓の外を眺めていた。私も同じように視線を移したが、今日の天気は曇りで太陽も隠れていて、蒸し暑いということも影響して心がいつもよりふすふすだったので、この景色はどうにも好きになれないと思った。でも、窓に反射している彼の顔を見れるのはラッキーとしか言いようがなかった。
例の紙飛行機は、やはり彼の机の中に置いてあった。それはお昼休みも、5限目も、6限目も変わらなくて、ついに放課後になっても全く同じ状況であった。彼は紙飛行機を折った後は一時的に机の中に入れているようだけど、翌日になったらもう何もないので、おそらく家に持ち帰っているのだろう。だがしかし、今日はどういうことやらそれを忘れているようだった。長引きやすい舎外の掃除を終えそのことに気づいた時、私の胸は急に高鳴った。教室にはまだ数人の生徒がいたが、恐らく少し待てばすぐに撤収するだろう。そうしたら、教室には誰もいなくなる。
私は廊下へ出た。廊下は朱色の夕日に染まっていて、運動場では運動部の掛け声が響いていて、下駄箱の方からは女子生徒たちの高い声が聞こえてきて、顔も知らない生徒や先生とすれ違って、トイレに入ると私を感知して電気がパッとついて、用を足して手を洗って、鏡には見慣れて顔が写っていて、そんな普通の日常を送っている、平凡な女の子。普通の思いを抱えてる女の子。
教室に戻った。もう誰もいなかった。私は彼の机へ向かった。机の中に手を入れた。紙飛行機の感触が確かにあった。取り出した。心臓がうるさかった。紙飛行機の中に書くことなんて大したことはないんだろうけど、でももしかしたら、もしかしたら、心臓はなおらなかった。ゆっくりと中を開いた。彼の文字はふにゃんとしていた。『この子好き』。それだけ。どこか拍子抜けした。「この子」が一体誰なのかはわからない。どういう「好き」なのかも。友情としての好きなのか、恋愛としての好きなのか、憧れとしての好きなのか、マスコット的な好きなのか。結局何もわからないし、この文章に大きな意味があるともあまり思えなかった。でも私の表情は自然とにやけていた。なんとも彼らしかった。愛おしいと思った。
前田だよ。「彼」が好きなのは!!!!一瞬だけ出てきた前田!!!!!「彼」が窓の外を見ていたのは!!!!窓に反射する前田の横顔をこ盗み見てたわけで!!!!!でも同時に主人公も「彼」を見てたわけで!!!!!!!
うわあ三角関係わろた。
雨が好き
今日は昼から雨が降っていた。学校で幼馴染とお昼を食べている時、窓に打ち付けられる雨の音が耳に入った。朝みた天気予報で雨が降ることはわかっていたので傘も持っており、特段驚くことはなかったけれど、困ったことはあった。幼馴染だ。私の幼馴染は傘を持ってきていない。それは通学するときに彼女が傘を所持していなかったと断言できるからではなく、彼女がいつも傘をささないから、だった。お母さんが作ってくれた、少し甘い卵焼きを箸でつまみながら聞いた。「莉緒は傘ない?雨、天気予報だと6時くらいまで降るぽい。」幼馴染は長い前髪から透き通るような瞳をのぞかせ、小さく頷く。彼女は無口だった。幼稚園児の頃はよく喋っていた。前髪も短くて、いつもニコニコしていた。晴れの日は外で駆け回って、だから雨のことを嫌っていた。それが彼女の母親が亡くなってから、急に口数が減った。それから今まで、ずっとそうだ。流石に引きずりすぎではないかとも思うが、やはり幼い頃の心の傷というのはずっと残り続けると聞いたことがあるし、内容が内容なので私がとやかくいうのは違うのだろう。
「そっかー。じゃあ今日も私の傘に入る?」今度は髪を揺らして首を振った。「じゃあ雨に濡れて帰るの?」幼馴染は頷く。ああ、困ったなと思う。彼女がこういう返事(言葉にはしてくれないが)をすることは稀ではない。むしろこれが会話のテンプレートだ。だが私自身おせっかいな性格なので、そんな幼馴染を放って1人傘に入り帰るなんてなかなかできやしない。よって雨の日は私が彼女を強く誘ってほぼ無理やり相合傘をして帰っている。恥ずかしくもあるが、私と彼女はそんな関係では決してないし、周りもただ単に仲の良いだけだと思ってくれているのでありがたい。
放課後、私は幼馴染と相合傘をして帰っていた。私も彼女も帰宅部なので帰る時間はほとんど同じだ。掃除の場所などで多少左右はするが、そればかりは仕方がない。そもそもの話、そんな細かなところが気になるほどお互い依存しているわけではない。あくまで幼馴染で、それ以上でも以下でもないのだ。
幼馴染が水溜まりを踏んでしまい、私の方にも水滴が飛んできた。彼女はごめんと小さく呟いた。私はそれに対しての返答をせずに聞いた。「雨、好きなの?いつも傘持ってこないじゃん。」傘の中に沈黙が広がった。雨が傘を打つ音が先ほどより大きく感じた。「お母さん、雨、好きだったから。」もう返事はくれないかなと思い始めたところで、彼女がそう答えた。私は返事をくれたことと初めて聞いた内容に対して少し驚きつつ、彼女の方を見た。彼女は背が低い。長い前髪と鼻頭だけが見えた。表情はわからない。彼女の肩が濡れていることに気づいて、傘を調整した。お母さん、雨、好きだったから。その言葉を頭の中で繰り返す。きっと彼女も、雨が好きなんだろう。きっと、きっと。
幼馴染は本当は雨があんまり好きじゃないが、お母さんを感じれるから雨に濡れている的な設定なんだーーー。
お姉ちゃん
はぁ指を変な方向に折り曲げてたら変な音なったぼきぼきぼきぼきやね
🦴
骨!!!!!!!!
お姉ちゃんが死んだ。自殺だった。学校の昼休みに友達とご飯を食べていた時、突然柵を飛び越えて落ちたらしい。自殺現場を目撃したお姉ちゃんの友達は、それから2ヶ月が経った今でも時折精神がひどく乱れると聞いた。
お姉ちゃんは進学校に通っていた。勉強も運動も軽くこなしていたようだし、性格に関しても穏やかで感受性豊か、いつも柔らかい笑顔を浮かべていてみんなから好かれていた、顔など街中を歩くと振り向かれるほどで、悩んでいるようには見えなかった。そんな彼女が、なぜ自殺を?周囲の人々は首を傾げていたし、私自身も全く理解ができなかったが、それでも私たちはお姉ちゃんの死を受け入れなくてはならなかった。葬式ではお姉ちゃんのためにたくさんの人が悲しんだ。涙を流していた。私は泣けなかった。お姉ちゃんのことは好きだったが、それ以上に羨ましくて、そして妬ましくて、だから、そんな彼女にも死を選ぶほど苦しいと思うことがあったという事実に、少しだけ、ほんの少しだけ、安心していた。それでもやはりお姉ちゃんがいない日常というのはぽっかりと穴が空いてしまっていたようで、眠る時に布団に入って無意識に彼女のことを考えると、生ぬるい液体が頬をつたった。
しかし2ヶ月ほど経つと気持ちも落ち着いてきて、ずっと入れなかったお姉ちゃんの部屋に足を踏み入れたいと思うようになった。ある日、怖かったけれど勇気を出してお姉ちゃんの部屋のドアを開けた。お姉ちゃんの部屋には勉強机やベッドがそのまま残されていたけれど、まるで魂が抜けたようで、どこか圧迫感があって、息が苦しくなった。壁は真っ白で机にも棚にも傷や汚れ一つなくて、本当にこの部屋を使っていた人間がいるとは信じられないほどだった。お姉ちゃんはものを大切にする人だったんだなと、姉妹だったのにそう気づいたのはその時が初めてだった。お姉ちゃんの勉強机をそっと撫でた。鼻の奥がつんとした。ふと、勉強机の上棚が気になった。彼女の使っていた教科書がそのまま立ててあった。その中に一つ、等身の低い本が混ざっていた。手にとってみて、それが日記だと理解した。ページをめくろうとして、手が止まった。プライバシーの侵害とか、そういうもんだろう、日記を勝手に見るのって。だけど見たい。お姉ちゃんの心の内を知りたい。
頼れるお姉ちゃん。しっかり者のお姉ちゃん。優等生のお姉ちゃん。そんなお姉ちゃんは、私たち周囲の人間が勝手に押し付けた「お姉ちゃん像」だったのだろうか。
お姉ちゃんが死んでからずっと、そんなことを考えていた。それでも当然答えは出なくて、だから、この日記で何かがわかるような気がした。
お姉ちゃんごめん。ごめん。勢いに任せて日記を開いた。形の整った文字がページいっぱいに広がっていて、面食らった。段落というものはまるで存在しないかのような、本当に思ったことをただ綴ったような、そんなものだった。お姉ちゃんの気持ちを全部汲み取りたくて、ひとつも逃したくなくて、喰らいつくように文字を追った。お姉ちゃんの日記にネガティブな言葉はなかった。「今日も楽しかった。お弁当の卵焼きが美味しかった。甘い卵焼き結構好きかも。」とか「クッションに穴が空いてわたが飛び出していたので縫った。糸の色が流石に合わなくて浮いているような気も。世界にひとつだけのものだね。」とか。ああ、お姉ちゃんはここでもお姉ちゃんを演じなくちゃいけないんだと思った。あるいは、お姉ちゃん自身が自分はこうでなくてはいけないと思い込んでいるのかもしれなかった。真相はわからない。本当にこれがお姉ちゃんなのかもしれない。いつの間にか、日記には灰色の水玉模様ができていた。まだ最初の数ページしか読めていなかったけれど、私は日記を閉じ、自分の部屋に持ち帰った。お姉ちゃん、大好き。心の中でつぶやいた。
この小説はあれがいいんだ
あの、嫉妬とか羨ましいとかそういうの全部ひっくるめての「大好き」っていうのがいいんだ
しょっぱい約束
キラキラ⭐︎青春物語
『ずっと友達だよ。絶対だよ。』何気ない日常の中で交わした、何気ない約束。少し頬を赤くしながら瑞稀は笑った。懐かしいなと思う。中1の時、昼休みの教室の中で、お昼ご飯を食べながら。『うん、約束ね。』卵焼きを口に運びながら私は答えた。瑞稀が小指を差し出してきて、私も同じように自身のそれを瑞稀のそれに絡めた。その時食べた卵焼きはいつもより甘かった。
「…なのでこれを移項して____。」数学の先生の声と、チョークが黒板の上を走る音。「じゃあ森さん、答えは?」不意に指名され、意識が過去から現在に戻る。黒板に視線を向ける。xとか、yとか、ルートとか、2乗とか、そういうもので溢れているそれがダイレクトに視界に入ってきて頭がくらくらしそうだ。「…8?」適当に答えると、先生は不可解そうに「8?」と繰り返した。「わかりません。」クラスメイトたちの視線を感じ、身体中がかーっと熱くなる。「これくらいは解けないと。解説よく聞いておくんよ。」小さく頷くも、しかし顔を上げることはできなかった。数学は嫌いだ。変な数字がうじゃうじゃしていて見るだけで眉を顰めてしまう。対照的に、瑞稀は数学が得意だったなと考える。英語はボロボロだったようだが。私は英語が比較的得意な方だったので、よく教え合っていた。そこまで思い出して、懐かしさと苦しさに襲われた。半ば無理やり、思考を中断させた。
昼休みになって、自分の席でお弁当を食べる。このクラスに仲の良い子はいない。元々コミュニケーションは苦手だし、色々と気を遣わなければいけなくて疲れるのだ。唯一、一緒にいても気が楽だった瑞稀は、今は学校に来ていない。スマートフォンを取り出しメッセージアプリを開いた。瑞稀とのトーク画面を見てみるも、私が一方的に送っているものばかりで暗い気持ちになる。既読はついているが、返信はない。
中2の秋だった。瑞稀が学校に来なくなった。あまりに突然で私は困惑した。誰も理由を教えてくれなかった。きっと、誰も理由を知らなかったんだろう。勢いのままに瑞稀にメッセージを送った。あまり鮮明には覚えていないけれど、多分、「どうかした?」とかそういう無難なもの。既読すらつかなくて心がぽっきり折れそうだった。それでも1日に1通2通と送っていると、やがて既読がつくようになった。返信が来るかもしれないと胸を膨らませたが、それから今まで、返信が来たことはない。本当に私のメッセージを読んでくれているのかすらわからない。通知が溜まって鬱陶しいから既読をつけただけで、読んではいないのかもしれない。でもそう思い込んで関係を終わらせてしまったら、あの頃の思い出が全てなくなってしまいそうだった。あの頃の何気ない約束がもう戻れない過去のことになってしまいそうだった。私はメッセージを送り続けた。返事だってくれないし、嫌われていてもおかしくない。だけど、だけど、私はまた、あの頃みたいな関係に戻りたかった。また、勉強を教え合いたかった。一緒に笑いたかった。瑞稀があの約束を忘れていても、あの約束をくだらないものだと思っていても、私だけは信じていたかった。
『数学がさっぱり。ヘルプミー。』それだけ打って送信した。お母さんが作ってくれた卵焼きをお箸でつまんだ。口の中に放り込む。中1の時から味の変わらない卵焼き。甘いはずなのに、今日は少しだけしょっぱい。
じとじと⭐︎青春物語
白猫の夜
ぎーこ、ぎーこという、私がブランコを漕ぐ音が静かな公園に響いた。ここにはいつも人がいない。数年前からずっとそうだった。かと言って何か特別な問題があるわけでもない。ただ、近くにもっと大きくてもっと遊具が沢山あってもっと綺麗な公園があるだけだ。大抵の子はそこにいくので、このどこかさっぱりしない公園で誰かが遊んでいるところを見たことがない。私はそんな空気が好きだった。居心地が良かった。
草が揺れる音がして顔を上げた。にゃんと鳴きながら白猫が出てきた。不安定な影を揺らし私の足に絡みついてくる。手を伸ばす。触れるとゴロゴロという低い音を出した。しばらくそうしていると、不意に遠くから子供の声が聞こえてきた。それでもう夕陽が沈みそうなことに気づく。ブランコから立ち上がり、白猫に手を振り公園を出る。白猫が寂しそうににゃぁと鳴いた。が、すぐに草の中に戻っていったので、本当は寂しいなど思っていないのだろう。
小石を蹴りながら歩いていると、家が見えてきた。二階建ての一軒家。私の家。自然と足が早くなる。ランドセルから鍵を取り出し、ドアを開けた。無表情な家の中には冷たい空気が漂っていた。階段を上がり自分の部屋に入る。勉強机に向かった時、ドアが開く音が聞こえた。お母さんが帰ってきたのだろう。心が暗くなる。もうすぐお父さんも帰ってくる、その事実が、少し重い。
夜8時ごろ、リビングからはお父さんとお母さんの声が聞こえてきていた。言い争っている声だった。なんの話かはわからない。お父さんが帰ってくる前に夕飯を食べておいたおかげで、あの空気の中に入っていく必要がないことに安心する。安心する上で、それでも心が痛い。さっき食べたご飯が胃の中から込み上げてきそうだった。何を言い合っているのかはわからない。でもきっと辛い言葉を使っている。数年前はいつも笑っていたのにと、幸せだった日々を思い出す。あの頃に戻りたい。毎日考えることだった。私は静かに自室のドアを開け、階段を降りた。リビングの扉は閉まっていたけれど、光と音は漏れ出ている。もう黙ってくれというお父さんの怒鳴り声が聞こえる。お前と話すのが1番ストレスなんだよ。じゃあ帰ってこないでよ。俺だってこんな家に帰ってきたくないよ。お父さんとお母さんの応酬は続く。もう嫌、歩の世話も家事も全部私1人じゃない。お母さんの叫ぶような声が耳をつんざく。今までの私とお母さんとの会話は対等なものではなく、私がお世話されていただけの一方的なものなのだと知った。くちびるが震えた。それでも音を立てないように、玄関へ向かった。靴を履いて家を出た。外はもう暗く、寒い。月は雲に隠れて見えなかった。私は歩いた。明確な目的地があるわけではなかった。何も考えずに、けれど体は意思を持っているかのように迷わず動いていた。公園に、きていた。つい数時間前にいた小さな公園。名前もわからない公園。きっと名前なんてない公園。誰も気に留めない公園。ブランコに腰掛けた。揺らしてみた。ぎーこ、ぎーこ。相変わらず錆びついた音。その音が合図だったかのように、白猫が現れた。ぴょんと膝の上に乗ってきた。いつもは足に絡みついてくるだけなのに。白猫の体は暖かかった。ゆっくりと背中を撫でた。白猫は喜ぶわけでもなく嫌がるわけでもなく、ただそこにいた。何度も何度も撫でているうちに、涙が出てきた。多くはなかった。一粒だけだった。その時だけ、白猫が鳴いた。いつもより大きな声で鳴いた。
どれほどの間そうしていたのか、明確な時間はわからないが、夜は確実に深くなっていた。雲に隠れていた月がいつの間にか顔をのぞかせていた。突然、白猫が立ち上がり、私の膝を降りた。ずっと撫でさせてくれていたのに、やはり猫というのは機嫌が変わりやすいものなのだろう。寂しさを抱えながらブランコを足で軽く揺らす。音は鳴らなかった。静寂に包まれていると、なんの前触れもなく、声が聞こえた。「歩!」私の名前を呼ぶ声だった。肩が跳ねた。反射的に声の方を向いた。息を切らしたお母さんが立っていて、体が固まる。どうしてと思った。お母さんは何も言わずに歩いてきて、私を抱きしめた。強く、強く抱きしめた。苦しさもあった。驚きもあった。困惑もあった。安心もあった。どうしてかはわからないけれど、涙が溢れた。遠くの方から、猫の鳴き声が聞こえた。月明かりが私たちを照らしていた。
傘のない日
今日は、昼頃から雨が降っていた。お昼ご飯を食べながら、ポツポツと窓を打つ雨音に気づいた。あ、傘、持ってきてない。そう思った。でも口には出さなかった。一緒にお昼ご飯を食べている他の子達は、別の話題で盛り上がっている。そこに別の話題を突然ぶっ込みにいくのも気が引ける。空気が読めないやつだと思われるかもしれない。視線を窓から自分のお弁当箱に移した。半分ほど食べた白米と、ミニトマト二つと、小さいハンバーグが一つ。あと、かじっただけの卵焼き。もうお腹は空いていないけれど、せめて白米と卵焼きだけでもと、箸を動かす。「え、まじでこの漫画おすすめ!」私の向かいに座っている子がそう言う。私の隣に座っている子がそれに興味を持つ。斜めに座っている子が「知ってる!」と笑顔を浮かべる。スマホを取り出して検索する子と、そのスマホを覗き込む子。私はただ、へぇ〜とニコニコしながら相槌を打つ。心の隅で、雨、早く止んでほしいなぁと考えながら。
だが、そんな願いとは裏腹に、放課後になっても雨は降り続いていた。むしろ、勢いは増している。終礼中にこっそりとスマホで調べてみたら、どうやらあと数時間は止むことはないようだ。下駄箱で靴を履き替えたはいいものの、そこから動くことはできなかった。外に出れば雨にさらされる。友人たちは傘を持ってきていたようで、私に「大丈夫?」「傘借りれば?」と言い残し帰っていった。確かに傘を借りれば解決する話だ。頭ではわかっている。こんなところでぼんやり突っ立っていても、どうにもならない。私の傘に入る?なんて優しい言葉をかけてくれるほど、親しい人はいない。惨めな気持ちになるだけだった。外で降っているはずの雨が、心の中にも侵入してきたかのような、そんな感覚に陥るだけだった。
時間が経って、下駄箱にやってくる生徒数はぐんと減った。それでも私は、まだぽつんと1人で、どんよりとした空を眺めていた。ザアアア。大きいはずの雨音がやけに小さく、遠い。もう濡れてもいいから、このまま足を前に踏み出して、帰ってしまおうか。お母さんはびしょびしょな姿で帰ってきた娘を見て、心配するだろうか。怒るだろうか。呆れるだろうか。想像だけが歩いていく。私の足は、実際には、全く動かないのに。
「阿智さん。」繊細な声で、名前を呼ばれた。後ろからだった。一瞬体が固まって、その後、ゆっくりと振り返った。クラスメイトが立っていた。名前くらいは知っているけれど、関わったことはほとんどない。ただ、綺麗な黒髪が少しだけ印象的な女の子。彼女は私から自身が持っている傘へと視線を落とすと、また私のに戻ってきて、言った。「傘、ないの?入る?家とか、わかんないけど。」その言葉に、息ができなくなった。胸がきゅっとなった。締め付けられると言うのも、潰されそうになると言うのも、違う。苦しくはなかった。返事をしない私に、彼女は不安げに瞳を揺らしていた。私は目を細めながら、無理やり笑った。泣きそうになりながら、答えた。「ありがとう。」しばらく使わなかった、とびきりの笑顔で。
あめ色
触る。
さらさら。
冷たい。
液体。
きらきら。
深い。
青い。
暗い。
黒い。
沈む。
輝く。
眺める。
あめ色。
飴色。
雨色。
水滴が落ちてくる。
ぽたぽた。
たくさん落ちてくる。
ぼたぼた。
私の体。
沈んでいく。
どこに。
海に。
空に。
世界に。
適当に並べた単語でもなんか意味ありそうに見えるんじゃね?
まあこれを小説として考察した場合、主人公はいわゆる人柱的なものなのかもなぁ
と、思いました
89
テストの点数を見た時、心臓が跳ねた。冷や汗がどっと噴き出した。先生はよくやったなと笑っていたけれど、私の頭浮かんだのは、叱られるという予感だけだった。そして、それは的中した。
「どうしてこんな点数とってきたの!!」
答案用紙を渡して数秒、頬に平手が飛んできた。ぱんっという音が響く。一瞬、息が止まる。少し遅れて、滲むような痛みが頬に広がった。熱い。
「89点って、こんなんじゃいい大学に行けないよ。あんたは…お母さんを裏切るつもり?お姉ちゃんみたいになるつもり?」お母さんは答案用紙をぐしゃりと握り締め、わずかに震えた声でつぶやいた。苦しそうな顔をしていた。私は何も言えなかった。お母さんへの罪悪感と、自分への嫌悪が心を蝕んでいた。視線を足下に落とした。「本当に…出来損ないだね。」お母さんはそこで言葉を止め、重いため息をついた。「しんどい。もう無理。」それが本音だと理解して、心がぞわりとした。見捨てられたと思った。怖かった。私だけはしっかりしないとダメなのに。私だけはお姉ちゃんみたいになったらダメなのに。ごめんなさいと掠れる声で言った。返事はなかった。お母さんは答案用紙を私の真上にもってきた。反射的に顔を上げると、その瞬間、答案用紙がビリビリに引き裂かれた。やけにゆっくりと迫ってくるそれの一部が視界に映った。くすんだ色をしていた。
「ゴミよ。こんなもの。」
冷徹な声だった。下唇を強く噛み締めすぎて、血の味がした。「ゴミを量産するのはいい加減やめなさい。」続いた言葉に、胸が潰れそうになった。私の今までの人生全てがゴミだと言われた気がしてならなかった。涙が落ちた。頬をつたる感触がやけに重たい。お母さんは何も言わずにキッチンに歩いた。これから晩御飯を作るのだろう。顔をあげ、涙で滲む視界のまま、お母さんの背中に視線をぶつけた。その後、しばらく動けなかった。台所から、いつもより少し乱れた包丁の音が聞こえてきた。野菜の青臭さが音に重なって、我に帰った。私は破かれた答案用紙を回収して部屋に戻った。パズルのようにひとつひとつ合わせ、テープで繋げた。テープがよれた。その度やり直した。紙はボロボロになっていった。それでもやっていると、やがて、私の目の前には元の答案があった。どうしてゴミ箱に捨てずに繋ぎ合わせたのか、私にもわからなかった。でもそこには89という数字が確かにあって、確かに輝いていた。そのことが、少しだけ嬉しかった。
翌日、学校から帰った時、家の中はやけに静かだった。お母さんの姿が見当たらないのだ。それは単純に外に出ているだけだからかもしれないが、その上で異質な気がした。違和感を抱きつつ自分の部屋に向かっていると、ドアが開いていることに気づいた。部屋の中の様子を伺う。部屋の真ん中、お母さんがこちらに背を向け、静かに立っていた。その手には、不恰好でくちゃくちゃの答案用紙。昨日私が繋ぎ合わせたものだ。「お母さん。」私が声をかけると、お母さんがゆっくりと振り返った。その顔は怒っているわけでもなく悲しんでいるわけでもなかった。なのに腕にブワッと鳥肌がたった。皮膚がピリピリと痺れた。指先から感覚が失われた。この体は何を感じ取ったのだろう。お母さんは口を開いた。
「バカみたいだわ。」少しがさついた声だった。その言葉が落ちるまでに、数秒かかった。誰に向けたものなのか、わからなかった。わざわざ答案用紙を繋ぎ合わせるなんてことをした私へのものかもしれないし、そんな私に構っていたお母さん自身へのものかもしれない。お母さんは答案に視線を落とした。少しの間だけそれを見つめたあと、勉強机に置き、部屋を出ていった。部屋には何も残っていなかった。しばらく、心臓が震えていた。いや、全身のどこかの震えが心臓に伝わっているだけなのかもしれなかった。お母さんの表情がまだ視界の奥に残っていた。ああ、本当に見捨てられたんだと思った。部屋に足を踏み入れた。空気が重かった。答案を手に取った。右上に書かれている数字は、昨日のそれと同じだけれど、どこか違う。数字に書かれていない何かが滲んでいた。89。破かれ、繋がれ、机に置かれ、それでもどこにも行かない89。100ではないそれが、私だった。89を引き出しにしまった。外に見せるには、まだ早い。でもいつかきっと、これを誇らしいと思える日がくる。そんな予感がした。
くすりと笑う
「笑顔が可愛いね。」
昔、幼馴染に言われた言葉。私はそれがすごく嬉しくて、高い声で「ほんと!?」と答えた。くすりと笑う顔が、月下美人みたいだと言われた。月下美人について私はあまり詳しくはないけれど、「美人」というくらいだしきっと綺麗なものなんだろう。その日から、私は笑顔を意識するようになった。可愛いね、とたくさん言われた。だけど、彼がまた可愛いねと言ってくれることはなかった。
もう一度、言われたかった。可愛いねって、彼に言われたかった。
目が覚めた。身体中、汗でベタベタしていた。荒い呼吸。高鳴る鼓動。小刻みに震える手。カラカラの喉。ひどい頭痛がしていた。ベッドからおき上がり、机の上にあるコップに手を伸ばした。半分ほど水が入っている。コップの隣の薬を一錠手に取って、水を含んだあと口の中に放り込んだ。部屋をぐるりと見回す。ほんのりと温かいオレンジ色の電気のおかげで、寝る前と変わらない部屋のおかげで、心が少しずつ落ち着きを取り戻していった。夢で、何を見たのかは覚えていなかった。
カーテンの隙間から外を見た。街灯の光がいくつか浮かんでいた。月は雲に隠れていて見えない。世界はまだ暗い。世界はまだ眠っている。起きているのは私だけ。そう思った。寝ようと、布団に潜り込んだ。足先まで布団にくるまれていたかった。
眠れなかった。どれほどの間、天井を見つめていただろうか。真っ白くて、傷も汚れも何もない。端っこの方はオレンジの光が届いていなくて、暗くて、黒くて、見てると、ちょっとだけ怖くなってくる。もう一回起き上がって、コップに手を伸ばした。錠剤を飲み込んだ。心がぐらぐら揺れかけていたから。不安だったから。でも大丈夫。薬を飲んだから、笑顔でいれるよ。
結局あまり眠れないまま朝を迎えた。制服に着替えて、学校に行った。教室に入った時、誰かとぶつかった。「あ、ごめん。」少し上から、低い声が降ってきた。幼馴染のものだとすぐに理解した。「いや。全然…。」小さな声しか出なかった。彼の顔を見ることもできずにそそくさと自分の席に歩いた。たった数秒の出来事だったけれど、心臓がどくどくどくどく、うるさくなった。そっけなかったかなとか、そんな思考が頭の中をぐるぐると回る。
「美優ー、おはよう。」友達の声が入ってきて、思考が中断された。顔をあげ、笑顔を作っておはようと返した。友達が教室のドアの方に視線をやった。幼馴染と、彼の友達らが話しているところだ。「どうしたの?」そう聞くと、彼女は視線をこちらに戻して、顔を近づけてきた。どうやらコソコソ話らしい。
「さっき聞こえたんだけど、彼女できたっぽいよ。」友達は恋愛の話が好きで、誰々と誰々が付き合ったとか、そんな情報を頻繁に仕入れている。それを聞かされている私もクラス内の恋愛関係にずいぶん詳しくなった気がする。
「へー。誰にできたの?」
「春樹に!」
幼馴染の名前だった。心臓が1回、ドクンと波打った。彼に、恋人。彼に、好きな人がいたのか。私じゃない誰か。しばらく言葉が出なかった。友達がずっと黙っている私に不思議そうな顔を向けていることに気づいて、慌てて笑顔を浮かべた。「へえー。そうなんだ。」なんてことないように言ったけど、多分、声が震えていたと思う。HRの予鈴が鳴り響き、友達も、他のクラスメイトらも自分の席に散っていく。
そんな中で、私は心が揺れるような感覚に陥っていた。珍しいことではなかった。揺れは、振り子みたいに大きくなっていく。心がぐらぐらと不安定になっていく。スカートのポケットから、薬を取り出した。水筒のお茶で飲み込んだ。大丈夫。大丈夫。暗示をかけるように心の中で繰り返しながら、口角をきゅっとあげて見せた。薬があるから、私は、大丈夫。彼に恋人ができたとしても。私は、大丈夫だから。
今日は、満月になるらしい。
タイトル「月下美人」と迷うな。
昨日と同じように
「おはよう。」朝、教室に入ってきた由美に、挨拶を投げた。彼女はきゅっと口角をあげ、おはようと返した。その、口角が上がるまでの静かな顔が、私は少し怖いと感じる。彼女は前髪を指でいじりながら、自身の席に歩いていく。そのひたいにはじんわりと汗が滲んでいた。彼女が歩くたび、一つに束ねられている長い黒髪が揺れていた。
いつもと、同じ日。変わったところと言えば、気温くらいだ。昨日より少し暑い。天気は昨日と同じく快晴、雲一つ浮かんでいない。一面に広がる青に、その、景色だけで言えば爽やかで涼しげな青に、だんだんと夏が近づいてきていることを実感する。実際は湿度も高く蒸し暑いので、全然爽やかではないのだが。そんななのでクラスのほとんどはもう半袖を着用しており、私もそのうちの1人だった。でも、彼女はまだ長袖を着ていた。
キーンコーンカーンコーン。重くて、低くて、聞くたびに心臓が震えているような感覚に陥るチャイムの音が、校舎に響いた。6限目が終わったのだ。先生が教室を出ていくと、入れ替わるように担任が入ってきた。すぐに終礼が始まり、そしてすぐに終わり、放課後になる。私はすぐに通学リュックを背負い教室を出た。下駄箱で靴を履き替え、バス停に歩く。世界はまだ青く、明るく、暑い。20分ほど足を動かしていると、誰もいないバス停が見えてくる。だいぶ年季が入っていることがわかるベンチに腰を下ろした。腕時計を確認し、次にバスが来るまでまだ20分ほどあることを理解する。20分歩いてきたのに、さらに20分待てというのか、この猛暑の中。内心でうんざりしながら水分を取ろうとリュックを開けた。水筒を取り出した時に、タブレットがないことに気づいた。学校で配布されたタブレット。今日の授業で使ったことは間違いないので、学校に忘れてきたんだろう。たしか、理科の課題の回答がタブレットの送られてきていた。丸つけまでして明日提出なので、取りに学校に戻らなければならない。あー、と気分がさらに落ちる。少しだけ休んで、学校に戻ろうか。そう決めて、私は水筒の蓋を開け、口にあてて傾けた。冷たい水が口の中に流れてきた。
数分休んで、ベンチから立ち上がり学校へ向かった。汗がだらだらとこめかみや頬をつたっている。その感覚は気持ち悪いし、前髪は汗のせいでひたいに張り付くし、日差しは容赦なく私を照らしてくるし、単純に眩しいし。校舎が見えてきて、自然と歩くスピードが上がる。
下駄箱で上履きに履き替え、ふうと息をつきながら教室に向かう。廊下を歩いている生徒はほとんどいない。部活がある生徒以外はもう帰っているのだろう。校庭からは運動部の掛け声が聞こえてきて、こんなに暑いのによく外で動けるなあと感心に似た気持ちになる。涼しいとも暑いともいえない、湿度の高い空気が漂う廊下を歩いてほんの数十秒で私の教室である2年3組に辿り着いた。
教室のドアに手をかけた時、中から聞こえる音に気づいた。話し声ではないけれど、物音でもない。私にはそれがすすり泣く声に聞こえて、ドアを開ける手がぎりぎりで止まった。動けないまま、音に耳を傾けた。鼻を啜るような音。嗚咽のような音。けれども全部、私の勘違いかもしれない。いやでも、本当に誰かが泣いているんだとしたら、教室に入るのは流石に無神経だろう。悩んでいる時、教室の窓の一つがわずかに空いていることに気づいた。あの隙間から中の様子をうかがってみようと、足音に気をつけながらのぞいた。茶色い床に、茶色い机。視線を動かす。セーラー服が目に入った。視線をまた動かすと、横顔が見えた。それと、一つに結ばれている黒くて長い髪の毛。手を目元にやっているので、多分、涙を拭っているのだろう。そのせいで顔が見えない。しかし、席の位置で誰かは特定できた。いや、きっと、席に座っていなくても私は彼女が誰か特定できたのだろう。私の毎日眺めていたその黒くて長い髪は、由美のものだった。
結局タブレットの回収はできないまま、私は学校を出た。
翌日の朝、教室に入ってきた彼女に、昨日と同じように挨拶を投げた。昨日の放課後のことについて、私は何も聞かなかったし、これからも聞くつもりはない。それが正解だと思った。それ以外の正解を、私は知らなかった。
咲くにはまだ早い
友達がもうすぐ死ぬ。病気で、長くてあと1ヶ月の命らしい。なんの病気かは知らない。常に無表情で淡々としている友達は、そのことを私に伝える時も泣き喚いたりはしなかった。冷静で、静かで、いつもと全く同じように見えた。体調だって悪そうには見えなかったし、タチの悪い冗談なのかもしれないと咄嗟に考えた。まあ結局冗談でもなんでもなかったわけだが。多分、友達が余命について絶望して泣いて叫んで涙を流していたら、私もそうしていたと思う。多分、友達が淡々としていたら、私もそうしていたと思う。というか事実、そうなったわけで。私の心はびっくりするほど落ち着いていて、いやきっと、実感が湧かなかったんだろう。小さい頃からずっと一緒だった友達が急にいなくなるということは、私にとってあまりに非現実的だったのだ。
私の学校はちょうど夏休みに入っていた。「1ヶ月間、たくさん遊ぼうよ。」私の提案に、友達はやはり無表情で頷いた。彼女は何を思っているのだろう。私たちの最後の夏休みが始まった。
「海に行こう。」友達が言った。8月1日のことだった。私は友達の部屋でくつろいでいた。唐突だったが、友達から何かをしようと言うのはあまりなかった…わけでもないが。けれどもたくさん遊ぼうと提案したのは私の方だし、単純に暑いので涼みたいとは思っていたしで、これを拒否する理由はない。いいねと答え、私たちは家を出た。2人で太陽の下を歩いた。汗がひたいにまとわりついていた。蒸し暑い駅のホームで電車が来るのを待った。その間、会話はほとんどなかった。10数分で電車がやってきた。乗った瞬間、涼しい風が私の全身を包み、全身の汗はすぐに引いた。車内は空席が目立ち、私と友達は並んで席に座ることができた。「てか、帰ってくる時には日沈んでない?」友達が言った。「今更すぎ。」私の顔に、自然と微笑みが浮かんだ。電車に揺られながら目を閉じた。20分ほどしてついた駅に降りた。降りてすぐ、潮の匂いが鼻をくすぐった。涙が出そうなほど優しい匂いだった。
しばらく歩くと、深い青色が目に入った。海だった。私は一気に気分が高揚しひゃーと笑顔になったが、友達は「お、海だ。」と呟いただけだった。自然と動く足が早くなった。青い空。青い海。砂浜の上を歩く。動かないと、体が沈んでいきそう。そんな独特な感覚。ザアアと心地よい波音が聞こえる。顔を上げると、友達はすでに靴を脱いで海の中に入っていた。といっても水着を着ているわけでもなんでもないので、ズボンを捲って浅瀬でちゃぷちゃぷするくらいだが。
私も彼女に続いて靴を脱いだ。裸足で砂の上を歩くのは、気持ち良くて気持ち悪くて、なんだか面白かった。海の水は透明で冷たく、体の中の熱がすっとリセットされた気がした。ゆらゆらと揺れている水が光で輝くのが美しかった。気持ちいいねと友達に言った。友達は無言で頷いただけだったが、その口角はいつもより少しだけ上がっていた。
「明日、夏祭りに行こう。」そんなメッセージが友達から届いたのが、8月6日のことだった。そういえば確かに、8月7日にこの地域で夏祭りがあった。私はすぐに「OK」と書かれたスタンプを送った。浴衣は持ってないけど、友達も普段着で来るだろうし、別にいいだろう。
翌日、Tシャツにジーンズで待ち合わせ場所に行った。友達はまだ来ていなかった。彼女はギリギリ遅刻というタイミングでやってくるのが常だ。数分待つと、友達が歩いてきた。私の予想とは裏腹に、友達は綺麗な浴衣を着用していた。薄いピンクに花が描かれている。紫色で、花びらは細い。なんの花かは詳しくないからわからない。「それってなんの花?」聞くと、友達は自身の浴衣をちらりと見て答えた。
「ネリネ。」「なにそれ。」「わかんない。」なんだそれ。しかしながら浴衣にその、ネリネとかいう花が描かれているのはなかなか珍しい。大体はつばきとか朝顔とか桜とかな気がする。そんなことを思いながら、夏祭り会場に向かって歩き出した。
りんご飴。焼きそば。ポテトフライ。わたあめに、ラムネに、金魚すくい、射的。そんなお店が並んでいる。混み具合と屋台の多さに圧倒されていると、いつの間にやら友達はりんご飴を手に持っていた。表面はつるつるで、光が当たるときらりと光る。透き通った赤色とまんまるの見た目はどうにも愛らしい。食べ物というより、ガラス細工みたいだと思った。そんなことを考えているといつの間にやら友達はりんご飴を食べ終えていて、いつの間にやら金魚すくいを始めていた。私もせっかくだしやるかと屋台のおっちゃんにお金を渡し、ポイと入れ物を貰う。苦戦しつつも何とか1匹すくったとき、友達の容器には2匹の赤い金魚と3匹の出目金が泳いでいた。さすがに飼いきれないということで5匹とも返したみたいだった。そのあと、ポテトフライをふたりで分け合って食べて、花火を見て解散した。りんご飴よりもずっとずっと鮮やかで真っ赤な花火が印象的だった。
「流れ星降ってる。」8月12日の夜、友達から電話がかかってきたので出てみれば、いつもより興奮している彼女の声が聞こえてきた。「外見て、たくさん降ってるから。」言われた通りにベランダに出てみれば、きらりと光るものが暗い空に溢れていた。流れ星だった。今まで、こんな量の流れ星は見たことがなくて、願い事をすることすら忘れてそれに見惚れた。友達も同じ空を見ているらしく、電話は切らないまま、沈黙が流れた。「すごい。」数分して、ようやく言葉が出てきた。友達からの返事はなかったけど、無視されたわけではないとわかった。静かに浮かんでいる月と、一瞬だけ輝き消えていく星たちが、すごく、すごく、良いと思った。「願い事はしないの?」ふいに友達がそう言った。たしかに、と答え、さあ何を願おうかと考えた。願い事はすぐに見つかった。声には出さず、心の中で空に伝えた。「何を願ったの?」「秘密。逆に君は?」「言わない。」小さな笑い声がこぼれた。私からなのか、友達からなのかは、分からないけれど。
8月16日のことだった。私は14日からおばあちゃんの家に帰省していた。掃除とかで色々忙しくて、だから、それに気が付かなかった。一段落ついて、冷たい麦茶を飲みながら休んでいた。スマホを確認して、数時間前に友達からメッセージが来ていたことに気づいた。なんだろうと思いながらトーク画面を開いた。「ありがとう」。それだけだった。たった5文字。されど5文字。意味深なそれに、心臓の動きが急速に早くなった。頭の中に波打つ心臓の音が響いていた。何かあった、と送った。たったそれだけの文字を打つのに、指が画面を滑ったりもつれたりして、かなり手間取った。既読はつかなかった。嫌な想像が私の心に黒いシミを作った。それはどんどん、広がっていった。とうとう、夜になっても返信はおろか既読すらつかなかった。早く家に帰りたかった。友達の様子を知りたかった。お母さんがそんな私を見て複雑な表情を浮かべていた。それが何を意味しているのか、私にはわからなかった。
8月17日。家に着いたのは昼の2時だった。私はすぐ隣にある友達の家のインターホンを押した。体感で10分ほど待って、ようやく、ドアが開いた。友達のお母さんが立っていた。疲れた顔をしていた。目元は赤く腫れ、髪の毛は整えられておらずボサボサだった。いつも綺麗だった人が、いつも優しく微笑んでいた人が、こんなになるってことは、私の中の嫌な想像は、確信に変わっていった。「彩織はいますか。」私が聞いたら、目の前の彼女は顔をゆがめ崩れ落ちた。嗚咽が耳に入った。私はぼんやりと突っ立っていることしかできなかった。
数分して、少しの落ち着きを取り戻した友達のお母さんは、私に白くて細長い封筒をくれた。「あの子の遺書なの。」それを聞いて、心臓が一気に地面に沈んだ気がした。私が手に持っている封筒はもはや封筒ではなく、人間の魂のように感じた。汗が吹き出した。私がこれを見て良いのか分からなくて、動くことが出来なかった。「読まなくてもいいって、あの子は言ってたけど…。」私はありがとうございますとだけ答えて家に帰った。ああ、友達の部屋でも見ておけばよかったかな。どこか遠くで考えながら、私の、クーラーの付いていない蒸し暑い部屋に戻った。
さっき貰ったばかりの封筒のふうをきった。手紙を取りだした。こんなにドクドクと心臓を鳴らしながら、けれど読もうと覚悟を決めていたのに、案外あっけないなと思った。手紙の隅っこに淡い花のイラストが描かれていた。夏祭りの時、彼女が着ていた浴衣の柄と同じに見えたので、ネリネなのかもしれない。その手紙にはシワができていた。私がいつの間にか強く握っていたのかもしれなかった。端正な文字が目に入った。
「ありがとう。」
鉛筆で書かれていた。それだけだった。あのメッセージと同じじゃないか。いや、句点があるからちょっと違うのかもしれない。あー。なんだよこれ。なんかちょっと、期待してたのに。なんだよこれ。天井を仰いだ。溢れた涙がおちてこないよう、必死に仰いだ。
ネリネの花言葉は幸せな思い出
開花時期は9ー11月
崩壊
今日は、寒かった。7月の下旬だった。気温は6度。昨日は28度だった。私は長袖を引っ張り出す羽目になった。
「狂い始めたなあ〜。」同居人が言った。「なにが?世界が?そんなのずっと狂ってるでしょ。」
テレビでは通り魔事件のニュースが流れていた。そう、世界なんて元から狂っているんだ。こんなニュースは数年前にも見かけたし、気温だって上下するのは当たり前。世界がおかしくなっていっているという事実を受け止めるのがどうしようもなくいやで、私はそう思うことにした。同居人が淹れたてのコーヒーを1口飲んで、苦そうな顔をした。
「お客さん、きっと来ないですよ。寒すぎて。」バイト先の後輩はそう言っていたけど、客足は昨日と変わりなかった。気温は昼になるにつれて下がって行った。いつものように、スーパーの店員としてレジ打ちをする。窓から差し込む太陽の光が妙に鋭かった。
少しして、休憩をとっていると、後輩が言った。「ちょっと前はあんなに寒かったのに、急に暖かくなってきましたね。」耳を疑う。むしろどんどん寒くなっていっている気がしていたが、どうやら今は22度らしい。私は寒さでうっすらと赤色に染っている自身の指先を見つめた。正しい反応をしない自分の体が、今は少しだけ怖い。
翌日、朝起きると、異様なまでに暑かった。全身が汗でびっしょりしていて、気持ちが悪かった。重い足を引きずってリビングに行った。同居人がトーストをかじりながらテレビを見ていた。奇妙なことに同居人は長袖を着ていた。汗をかいている私を見て、同居人は眉をひそめた。
「暖房つけてた?」私は首を横に振った。その時に、水滴が窓を強く叩く音に気づいた。「今日は大雨か。」と呟くと、同居人が訝しいを超えて心配そうな表情になる。
「雨?なんのこと。」「いや、降ってるでしょ。今もさ。」私は鼻で笑ったあと、体にまとわりつく汗を洗い流すため、お風呂に向かった。
シャワーの蛇口を捻って、水を出す。ざっと生暖かい液体が溢れ出る。それをみて、息が止まった。くすんだ赤色。やけに生臭い。血みたいだと思った。血なのかもしれないと思った。いや、血なんだと思った。悲鳴を上げることもできず、呆然と突っ立ってその液体を浴びていた。
生暖かいはずなのに、足はガタガタと震えていた。
この世界はおかしい。
確信した。
ずっと前から世界なんておかしいんだと考えていたけれど、多分、違う。
私は首を吊った。
この世界はおかしい。おかしい。
夏なのかもしれない
今は夏なのかもしれない。春なのかもしれない。秋なのかもしれない。冬なのかもしれない。わからない、私には。何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。何にも触れられない。何も伝えられない。涙すら流せない。空っぽだった。ひとりぼっちだった。寂しかった。感情だけは一丁前にあった。苦しかった。悲しかった。誰も私のことを見てくれなかった。誰かと話したかった。誰かと笑い合いたかった。誰かを抱きしめたかった。人の暖かさを感じたかった。
今は夏なのかもしれない。
確証はなかった。でも、なんとなくそう思った。
夏が好きだ。夏は暖かいらしい。耳が聞こえなくなる前、お母さんが教えてくれたこと。
お母さんは優しかった。顔も声も性格も。お母さんの手は暖かかった。だからきっと、お母さんは夏だね。私がそう言ったらお母さんは微笑んだ。お母さんの手が大好きだった。私のことを包み込んでくれた。お母さんの声が大好きだった。聞いていて心地よかった。お母さんの笑顔が好きだった。胸のところがぽかぽかした。
夏を感じたい。まだ少しだけ感覚があった時の願いだった。
ずっと病室にいるだけじゃ、何も分からなかった。
今、私は、どこにいる?
わからない。何も感じないから。何も感じれないから。今、お母さんがそばにいるかもしれない。いないかもしれない。この病が改善もしない、死にもしない。そんな私を見捨てたかもしれない。見捨ててないかもしれない。世界の色を見たい。世界の音を聞きたい。世界の味を感じたい。世界に触れたい。世界に、お母さんに、伝えたい。この真っ暗闇の中で私が思ったこと、考えたこと、苦しかったことまで、全部全部伝えたい。
今が夏だったらいいな。
は?
生まれ変われたら
みじかい
生まれ変われたら、犬になりたい。快適な家の中で、ご飯に困ることもなくて、飼い主に愛されて、快適な部屋の中で…。いや、そんな贅沢じゃなくてもいいかな。
太陽が私を執拗に照らしてくる。じりじりと、体力が消耗されてゆく。人気のない公園の薄汚れたベンチに座って、私は青空を見上げぼうっとしていた。暑いとか、息苦しいとか、眩しいとか、そんなことは何も感じなかった。目を閉じた。空想の世界に飛び立った。
生まれ変われたら、蛇になりたい。何を考えているのか分からないから。多分、何も考えなくていいから。
生まれ変われたら、ゾウになりたい。巨体を揺らして歩いてみたい。
生まれ変われたら、メダカになりたい。無心で泳いでいたい。
生まれ変われたら、ハトになりたい。空を飛んでみたい。
生まれ変われたら、生まれ変われたら……。
なんだっていい。コオロギでも、蚊でもいい。大して長く生きられなくてもいい。私以外だったら、なんだって受け入れる。
呼吸ができなくなってきた。でも苦しくはないよ。解放されるから、もう、私が私じゃなくても良くなるから。
生まれ変われたら、今よりちょっとだけ幸せに生きたいな。
みじかかったでしょう
キャンディをひとつ
あなたが好き。あの時に、好きですと伝えることができたならば、今、私の隣にはあなたが居たのだろうか。チャンスはいくらでもあった。
休みの日だった。私とあなたと友達で遊ぶ予定だった日、友達が体調を悪くして、私たちは2人でボウリングをしにいった。私はボウリングが下手だったけどあなたは上手かった。こう投げたら良いんだよと、私の腕に触れてきた。距離が近くてどきどきした。あなたの手は角張っていて、指は細くて長くて、芸術作品みたいに綺麗だった。
バレンタインデーの日だった。私はあなたにチョコを上げた。小さな袋の中に2、3個チョコが入っているようなもの。友チョコだよって平気なフリして渡したけど、ほんとは本命だった。チョコの形をハートにするとかベタでわかりやすいことはできなかった。ただあなたの袋の中にだけ、小さなキャンディをひとつ入れていた。多分あなたは気づかなかったよね。でも私は少しだけ期待してた。ちゃんと私のあげたお菓子を感じて、ちゃんと他のとは違うって気づいて、ちゃんと私の気持ちを理解して欲しかったの。面倒臭い恋心だよね。それだけ好きだったの。
ホワイトデーの日だった。あなたは私にお返しをくれた。マカロンだった。「あなたは特別な人」。マカロンにはそういう意味があるって私は知っていたからものすごくどぎまぎしたけど、マカロンを貰ったのは私だけじゃなかったみたい。がっかりした。けど、それがあなたなんだろうね。鈍感で、なのに憎めなくて、人気者で、愛されている。感情がすぐ顔に出る。怒ってる時はむすーっとしてるし、悲しい時はしおしおしてるし、嬉しい時はパーってえくぼをつくる。
そういうの、全部好きだった。
今、あなたの隣には小柄な女の子がいる。私じゃないよ。私より小柄で私より性格が良くて、私より可愛くて。でもきっと、私の方があなたを好きだよ。何年も何年もあなただけを想い続けてきたのに。なのにそんなぽっと出の女の子に、あなたは心を奪われるんだ。そういうところが、嫌いなんだ。嫌いで、大好きなんだ。
あの日、あなたに教えられなかった意味。キャンディの意味。あなたが好き。